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英国王女を救え [戦争小説]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

スチュアート・ホワイト著の「英国王女を救え」を読破しました。

1989年発刊で475ページの本書は、なんらかの拍子に偶然見つけてしまった小説です。
舞台はフランスが降伏し、今まさに「バトル・オブ・ブリテン」が始まろうという
1940年夏の英国とドイツであり、「SS-GB」のようなパラレルワールドではありません。
そこでSSのハイドリヒが考えついた作戦は、「英国王のスピーチ」こと
ジョージ6世の2人の娘を誘拐し、英国を屈服させようというものです。
この娘の1人はもちろん今のエリザベス女王ですね。
いくら小説でも首尾よく作戦完了なんて、あまりにも現実味がありませんから、
英首相チャーチルの誘拐をテーマとした「鷲は舞い降りた」くらいの力量がないと
「トンデモ小説」に分類されてしまう恐れがあります。。

英国王女を救え.jpg

1940年5月、ダンケルクに追い詰められた英国大陸派遣軍の様子から始まります。
6人の偵察隊の前に「降伏したい」と姿を現すドイツ軍将校がひとり。
第2装甲師団に所属するハンス・カイラー大佐です。
林のなかに死んだ部下がいる・・と何人かをそちらに向かわせたスキに、
見張りの一等兵をあっさりと殺し、武器を奪って残りの5人も片づけてしまいます。
実は彼はSD(SS保安部)のスパイであり、本名はウーヴェ・アイルダース。
殺した中尉の軍服を奪い、海上からの脱出を待つ数万人の英軍兵に紛れ込んで
英国本土上陸を果たすのでした。

dunkirk-ww2.jpg

上官であるSDの親玉、ラインハルト・ハイドリヒが立てた計画は、
数週間前にベルギーのエーベン・エメール要塞を攻略した実績のある、
クルト・シュトゥーデント将軍降下猟兵グライダーによって
14歳のエリザベスと10歳のマーガレットという2人の王女を誘拐し、
何も知らないヒトラーの前に「戦利品」としてプレゼントして取り入り、
英国が講和に応じた暁には、威張りくさっているルドルフ・ヘスの代わりに
総統代理の地位を奪取しようというものです。

Fallschirmjager.jpg

国王の誘拐は英国民にとって打撃があまりにも強すぎるし、
チャーチルを誘拐したところで、伝統ある議会はすぐに後任の首相を任命する・・、
2人のリトル・プリンセスがドイツからラジオで講和を訴え、
父親のジョージ6世の代わりに、兄のウィンザー公を再び王位につけて
友好的な新政府をつくろうというところまで考えているハイドリヒ。

Heydrich.jpg

ウィンザー公の友人であり、ドイツ側へ協力をしているブラッキントン侯爵と接触する
オランダ船員に変装した27歳のアイルダース。
彼の任務は、大嫌いな英国人で貴族でホモであるブラッキントン侯から
リトル・プリンセスの居場所に関する情報などを引き出すことで、
13歳から数年間、ロンドンの孤児院で過ごし、英語は堪能ですが、
英国人に対して異常なまでの嫌悪感を持っているのでした。

princess_elizabeth_margaret.jpg

その時ドイツでは、SDのライバルである国防軍防諜部(アプヴェーア)のカナリス提督
このハイドリヒの作戦を嗅ぎつけます。
ケチで有名な夫人のリナ・ハイドリヒに対するジョークを交えながら、
いつか総統が引退したら、ハイドリヒが後継者になるということを憂慮・・。
早速、この件をヒトラーにチクリに向かうのでした。

lina heydrich.jpg

こうして必要以上に英国の敵意を煽りたくないと考えていたヒトラーに呼び出され、
口から泡を飛ばして喚き散らす総統の姿に縮み上がるハイドリヒ。。
「お前が送り込んだスパイを呼び戻すんだ。ただちにだ!」

Anger hitler.jpg

作戦中止、緊急帰国の連絡を受けたアイルダースは憤慨します。
旧友であるハイドリヒのガッツはどこへ行ったんだ? と、
もはやグライダーも、王女を連れ去る戦闘機も来ないことを悟った彼は、
王女を暗殺し、憎き英国人を悲観に暮れさせてやろうと決断します。
ブラッキントンからバッキンガム宮殿の平面図を奪い、メイドにも手をかけ、
逃亡するアイルダース。

この想定外の事態にヒトラーとチャーチルの電話会談が実現します。
「SSの脱走者でドイツ人らしくない狂気に陥ったその男は、王女の暗殺を企てている」。
不撓不屈の通訳官シュミットが話を繰り返します。
そしてアプヴェーアのウルリッヒ・フォン・デア・オステン大佐を派遣して
捜査協力を提案するのでした。。

paul schmidt hitler.jpg

ウルリッヒ・フォン・デア・オステンと共に捜査を行うのは
スコットランドヤード(ロンドン警視庁)のハリー・ジョーンズ警視です。
しかし彼はつい先日、ノルウェー戦で一人息子をナルヴィクで失ったばかり。。
ドイツ人対する憎しみでいっぱいのジョーンズは
「いまいましいゲシュタポ野郎」と組むという命令に気絶寸前です。
「警視、私は防諜部の人間で、ゲシュタポじゃありませんよ」と
否定するウルリッヒにジョーンズは肩をすくめます。
「失礼・・、それじゃ、ナチと言おう」。

王女が滞在している場所はウィンザー城。
要塞であり、この城にいる限りはリトル・プリンセスたちは安全です。
しかし各国大使たちを招いたバッキンガム宮殿でのレセプションには
彼女たちも出席することをドモリの父王は決定します。

Windsor Castle.jpg

一方、パブでティリーという名の女性をナンパすることに成功した美男のアイルダース。
まんまと彼女の部屋へと転がり込み、警察の追及の手から逃れます。
最近、ポール・ニューマンの「ハスラー」を久しぶりに観たばかりなので、
なんか同じようなシーンだな~と思ったり。。

The_Hustler.jpg

しかし新聞に手配写真が掲載されると、彼に惚れて面倒を見てくれたティリーも
邪魔者として殺されます。
この殺人鬼のアイルダースはサディストでもあり、嫁さんにも暴力を振るい、
片目と脊髄を損傷させ、車椅子生活にさせたうえ、離婚。
その嫁さんを以前から愛し、介護していたのはウルリッヒであり、
彼にとってアルダースを殺すことは個人的な復讐でもあるのです。

やがてベルンハルト作戦の偽札を持たされていたアイルダースは偽札所持で逮捕。
護送車から逃亡し、ウルリッヒたちの追跡もかわします。
ドイツ軍将校と英国人警視の関係も、時間が経つごとに信頼感が芽生え、
着任したばかりの南米の若い大使に変装して、バッキンガム宮殿に向かい、
国王、王妃に続き、エリザベス王女も「おはよう、大使閣下」。
そしてお辞儀をして、その小さい手を握る殺人鬼アイルダース・・。

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と、まあ、いろいろな要素があった本書ですが、個人的にはまあまあでした。
興味深かったのは、首尾よくアイルダースを捕えた後のウルリッヒの運命を
ジョーンズと語り合うところですね。
ロンドン中をこれだけ敵の防諜部員に見せておいて、そのままドイツに帰すのか??
ウルリッヒは、最後にはジョーンズが自分を殺すのかも・・と思っていますし、
良くても戦争が終わるまで刑務所送りか、マン島へ島流しです。

チャーチルから直々に警視総監にも命令できる権限が書かれた書類を受け取り、
言うことを聞かない相手に見せる・・というのは、
鷲は舞い降りた」であったヒムラーの・・というのを思い出しましたが、
重要人物の暗殺を阻止するという展開は、「鷲は舞い降りた」というよりも、
ドゴール暗殺を目論むフォーサイスの「ジャッカルの日」に近いですかね。
それでも逃げるまでの緻密な計画を立てていたプロのジャッカルに対して、
本書の暗殺者は単なるサディストなので、そのあたりが・・。

The Day of the Jackal.jpg

しかし時代と舞台を移して、北○○の工作員が日本へ潜入し、
愛○さまとか、○○宮の佳○さまを誘拐するなんてストーリーは、
日本の出版業界では許されないんでしょうね。

戦争小説ということではちょっと話はそれますが、
このBlogの読者さんで、度々、コメントしていただくリントさんが、
「弾道」という小説を発表されました。
昨年、原稿?? を読ませていただきましたが、面白かったですねぇ。
小説『弾道』の全て」というBlogも開設されました。
ソ連赤軍の若い女性狙撃手と、グロース・ドイチュランドの凄腕狙撃手との戦いと
運命を描いたもので、実在した伝説のスナイパー、シモ・ヘイヘ
リュドミラ・パヴリチェンコも登場。
amazonの電子書籍、Kindle版でダウンロードが可能となっております。
100円と格安ですから、興味のある方は是非ど~ぞ!









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ハリコフ攻防戦 -1942年5月死の瀬戸際で達成された勝利- [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マクシム・コロミーエツ著の「ハリコフ攻防戦」を読破しました。

今回が6冊目の「独ソ戦車戦シリーズ」ですが、
相変わらず順番はメチャクチャで、シリーズとしては第3巻目になります。
ハリコフ戦というのは第4次まで続いた攻防戦であり、
以前に紹介した「ハリコフの戦い 戦場写真集」は第3次攻防戦。
本書は第2次攻防戦をソ連側から描いた2003年、135ページの一冊です。

ハリコフ攻防戦.jpg

第1章は「ソ連軍のハリコフ奪回作戦の準備と実施」です。
ソ連南西方面軍のティモシェンコ元帥による発案で、
冬以降、停滞している戦線に攻勢をかけ、ハルコフを奪還しようとするものですが、
敵であるドイツ軍も、カフカスとヴォルガを目指す夏季攻勢のための
環境創出を目的とした作戦「フレデリクス1」を準備中・・。

General Timoshenko visiting the front_1942.jpg

共に64万名程度の将兵と1000両の戦車、1000機の航空機、1万門以上の砲を揃えますが、
前年の夏と秋の戦いで壊滅的損害を受けていたソ連側は
充分な訓練も受けていない新兵たちによる、新設された師団が中心。
そのような方面軍の戦車旅団単位で保有戦車台数も表を使って細かく紹介し、
BT快速戦車、T-60、T-26T-34KV-1以外にも
レンドリースによるマチルダ、ヴァレンタインM3「リー(グラント)」戦車も多く含まれています。

the infantry tank Matilda II.jpg

ドイツ軍はハリコフ地区に集結していた第3、および第23装甲師団が
「ブライト集団」として一緒に行動した・・など、文章で解説。
いきなり「ブライト集団」と書かれても何のこっちゃ・・? ですが、
第3装甲師団長のヘルマン・ブライト将軍のことのようですね。
またソ連側には南方面軍も参加していて、ココは集中して読まないと後が辛くなります。。

the second battle of Kharkov in 1942.jpg

写真はさすがにソ連軍中心ですが、鹵獲したBMWサイドカー「R12」に乗る
戦車偵察兵が良いですね。
ヘッドライトは割れているものの、サイドカーの前面には「ヒトラーに死を」の文字が・・。

こうしてパウルス将軍の第6軍とクライスト装甲集団に対し、
5月12日、ソ連軍が攻勢を開始します。
まったくややこしくて大変なのは、この攻勢をかける「南西方面軍」は、
正面55㎞の前線で攻撃する「北部突撃集団」と
35㎞の前線で攻撃する「南部突撃集団」とに分かれるんですね。
「北部突撃集団」だけでも狙撃兵師団14個、戦車旅団8個など、
これらの部隊が軍、軍団として、バイラークとか、クピエヴァーハとか、
ヴァルヴァーロフカといった聞いたこともない場所で戦いますので、
いくら戦況図が度々、出てくるにしても「南西方面の北部」なんて方角も含め、
よっぽど好きじゃないと耐えられません。。

Ewald von Kleist.jpg

「南部突撃集団」の攻勢でも、ソ連「第6軍」が出てきたり、もう嫌がらせのようですね。
救いなのは参謀総長ハルダーの日記が出てきて
フォン・ボック(南方軍集団司令官)がクライストの戦線から3~4個師団を外し、
ハリコフ南方の突破口を封鎖するために使用するよう提案してきた」など、
ドイツ側の話も忘れたころに出てくるところです。

そのフォン・ボックのメモも何回か使われていて
「第8軍団のところがいくつか突破され、その左翼でハンガリー人たちが後退した。
極めて悪い事態だ」。
しかし第2章は「ドイツ軍の反撃と包囲戦」。
5月17日から28日までのドイツ軍の大逆襲です。

Hitler_and_von_bock.jpg

予備も繰り出してソ連軍の攻撃に耐えたドイツ軍は、再編成を終え、
1時間半の準備砲撃に続き、歩兵と戦車がシュトゥーカなど400機の航空機の支援を受けて
5月17日の朝から攻撃に移ります。
主攻撃の矛先となって前進したのは、フーベ将軍率いる第16装甲師団。
ソ連第9軍の参謀長も負傷し、ドイツ空軍の活躍によって通信も切断。
ばらばらの防御戦闘、予備部隊投入の命令も受領されず、
軍司令官も統帥能力を失います。
ソ連寄りの本書ですが、読んでいてもドイツ軍の攻撃はまさに「電撃戦」の戦法ですね。

Hans_Valentin_Hube_in_Panzer_III.jpg

フォン・ボックも日記で満足げ。
「クライスト集団の攻勢は非常にうまく進行している。
ハルダーが西に転ずるべきだと言ったとき、そのような進路変更は不可能だと反論した」。
いや~、やっぱりハルダーは参謀総長であっても、元帥相手では分が悪いようですね。

ブライトの第3、および第23装甲師団も戦車140両で包囲戦に登場。
5月22日にはソ連軍部隊の包囲を完了するのでした。

Hermann Breith.jpg

途中には「塗装とマーキング」のカラーイラストが4ページ。
ドイツ側はⅡ号Ⅲ号戦車、ソ連側はBT快速戦車にT-60戦車、
それから米国製M3「リー」に英国製マチルダ。もちろんT-34とKV-1戦車も登場し、
裏表紙にはそのT-34とKV-1戦車が描かれています。
下のKV-1の砲塔には「ザ・ロージヌ」、「祖国のために」という定番の文句です。

ハリコフ攻防戦2.jpg

5月26日には、上記の戦車による「ソ連混成戦車軍団」が
包囲線の外環を突破すべく攻撃に出ます。
イメージ的には「逆スターリングラード」ですね。
包囲陣内の部隊も夜間に個別に突破し、第5親衛戦車旅団が先導した
22000名のうち、夢が叶ったのは5000名のみ。
5月30日までに包囲陣から生還できたのは27000名。

soviet POW's.jpeg

ソ連側の資料でさえ、包囲されたのは20万名にも及び、
この作戦期間中の損害は将兵26万名、戦車652両という大惨事です。
包囲陣で戦死した将軍も書かれているだけで10名。
その他、政治委員や多数の司令官も失ったそうです。

一方のドイツ側の資料では、24万名の捕虜、1249両の戦車を破壊、または鹵獲。
ドイツ兵の損害は2万名としています。
戦闘が終わったばかりの地区を訪れたクライスト将軍は、
「見渡す限り、人馬の死体で埋め尽くされている。
あまりにギッシリと埋まっているため、乗用車が通過できる場所を見つけるのに苦労した」。

Ein Stoßtrupp bereitet sich vor. Charkow im Mai 1942..jpg

もちろんこの結果を知らされたスターリンは怒り心頭です。
「わずか3週間ばかりの間で、南西方面軍はその軽率さのおかげで
半ば勝ちえていた作戦に敗れたのみか、
20個師団も敵にくれてやったとは・・、これは大惨事だ」。

Stalin.jpg

「おわりに」では、ソ連軍部隊の失敗の原因を簡単に分析し、
戦車を旅団単位に分散して、狙撃部隊に分配するという挙に出て
ドイツ軍防衛第1線の突破で戦車兵力を「使い果たしてしまった」。

実は副題の「1942年5月死の瀬戸際で達成された勝利」って
独ソどっちのセリフなのか・・? と思いながら読んでいましたが、
これは将来に対して懐疑的な見方をするドイツ人が出てくる中で、
「勝利は死の瀬戸際にて達成された」と戦闘後の報告書に書いた
第3装甲軍団司令官のフォン・マッケンゼンのセリフでした。

Max von Weichs, Adolf Hitler, Friedrich Paulus, Eberhard von Mackensen and General Field Marshal Fedor von Bock. June 1942.jpg

まぁ、ボリュームはそれほどない本書ですが、ちょっと苦労しましたね。。
ソ連側の記述が細かいし、後半になっても包囲されているハズのソ連軍が
まるで「勝っている」かのような印象すら持ちました。
と、文句を言いつつも、このシリーズはとりあえず、
「モスクワ防衛戦―「赤い首都」郊外におけるドイツ電撃戦の挫折」
「ドン河の戦い―スターリングラードへの血路はいかにして開かれたか?」
「重突撃砲フェルディナント―ソ連軍を震撼させたポルシェ博士のモンスター兵器」
「東部戦線のティーガー―ロストフ、そしてクルスクへ」
「ベルリン大攻防戦: ソ連軍最精鋭がベルリンへ突入」
のあと5冊は読んでみるつもりです。
あぁ、「クルスク航空戦」も気になりますね。。















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ヒトラーと退廃芸術 -「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

関 楠生 著の「ヒトラーと退廃芸術」を読破しました。

去年の8月にウィリアム・L.シャイラー著の「第三帝国の興亡〈2〉」を読んだ際、
面白かった話のひとつとして、「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」を書いていました。
その時以来、本書が気になっていたわけですが、
まぁ、ドイツ人芸術家をたいして知っているわけでもなく、
果たして独破できるのか・・と心配でしたが、
1992年発刊で253ページの本書に、とりあえずチャレンジしてみました。

ヒトラーと退廃芸術.jpg

「私は生来の芸術家だ」と、度々語ってきたヒトラー。
1907年、18歳の時にウィーン美術学校の入学試験落ち、その評は、
「知力貧弱、デッサンは文句なく、画家への不適正」という酷評です。
そんな屈辱を味わってきた彼ですが、1933年に政権を奪取すると、
第1次大戦中に描いた7枚の水彩画が編集されて、ホフマンによって出版され、
ミュンヘン美術学校の教授はおべっかいっぱいの賛辞を述べます。
「総統が画家としても、芸術家の才能に恵まれていることの証左であり、
当時のウィーンの美術学校を恥じ入らせる」。

hitler-gallery.jpg

しかし総統の絵の質を見抜いていた宣伝大臣ゲッベルスは、
これらを公に展覧することを思いとどまらせ、同意見のボルマンと共に
ヒトラーがかつて描いた300点もの絵を多額の金を使って買い集めて保管するのでした。
本書では白黒ながら、写真や絵画が所々に出てきます。
キャプションもしっかりと書かれていて、
この ↓ 水彩画は複数意見があるものの、ミュンヘンの「アルター・ホーフ」としています。

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そんな偉大な芸術家が独裁者になってしまったドイツ。
早速、ゲッベルスの音頭により、「非ドイツ的著作物の焚刑」が華々しく行われ、
プロイセン芸術院のボスであり、ドイツ印象派の巨匠でもあるマックス・リーバーマンも
ユダヤ人の出自により、名誉総裁の称号を返上するなど不幸のなかで死んでいきます。

Nazi book burnings.jpg

また、このようなゲッベルスに対抗する別の勢力が存在。
それは芸術観を異にしたうえに文化面でも、「ナチ党の精神的、世界観的な訓練と
教育の監督」を総統から依頼されているライバル、ローゼンベルクです。
しばしば激しく口論した2人ですが、最終的には総統がローゼンベルクの肩を持つのです。

本書では彼の芸術観を紹介するために、著作「二十世紀の神話」の翻訳版から抜粋。
1ページほどゴッホやゴーギャン、ピカソの名も挙げながら、
「混血児芸術はその不具者の私生児、即ち、精神的梅毒症と画工としての
発育不全との間に生まれたものを、精神の表現として・・うんぬん」
コリャ、やっぱり読むのはムリですね。。

Goebbels Rosenberg.jpg

首都ベルリンのガウライター(大管区指導者)でもあるゲッベルスは1935年、
ナチ党の本拠地ミュンヘンで「ベルリン美術展」を開催します。
実は非公式ながらも近代美術に共感を抱いていたゲッベルスは、
最近、攻撃された芸術家の作品も選抜しますが、
ミュンヘンのガウライターであるアドルフ・ワーグナーが突然介入してきて
気に入らない作品を取り外してしまいます。
書物と違って美術品はそれを見る人によってとらえ方が違いますから、
まだこの時点ではナチにとって何が良くて、何が悪いのか、統一されていないんですね。

adolf-wagner.jpg

やがて”表現主義”は純ユダヤの発明であると公式に言明され、
それらの「退廃芸術」がドレスデンを皮切りに各地を巡回。
ナチ党員たる者は必ずこの展覧会を見に行くように・・と、お達しも出され、
全国にある美術館幹部の首のすげ替えも相次ぎます。

そんななかで、ナチ党の求める芸術家も、これ幸いとのし上がってきます。
純粋な北方人種の淡いブロンドの男女の半身像を多く描いたヴォルフガンク・ヴィルリヒは
アーリア人思想のヒムラーに認められ、兵士らの絵葉書を書くことに・・。

wolfgang-willrich-1940_ss-oberscharfuhrer Ludwig Kepplinger.jpg

また彼は名高い美術館の壁面から、長年に憎み続けてきた作品を取り外す使命にも燃え、
この退廃芸術品狩りで5000点の絵画に、12000枚のデッサンと版画を押収するのでした。

こうして1937年7月、ミュンヘンに新たに完成した神殿のような姿の「ドイツ芸術の家」で
ナチス芸術を謳った「大ドイツ芸術展」が開かれることになります。

Haus der Deutschen Kunst-muenchen.jpg

全国造形美術院総裁アドルフ・ツィーグラーが審査委員を組織しますが、
ヒトラーが「世界で最も優れた肉体画家だ」と語る、姪のゲリの肖像も描いた古参党員です。
しかし彼の描く女性は表情に乏しく、全体としてまったく生気に欠け、
"あの部分"だけを精巧に描いたことから、「ドイツ恥毛の巨匠」、「全国恥毛画家」と
あだ名されていた人物だそうです。

ziegler.jpg

審査委員のひとりにはコンラート・ホンメルという画家もおり、
彼は1927年からヒンデンブルク大統領を始めとして、シュライヒャーパーペン
ゲーリングシャハト、そしてヒトラーらお歴々の肖像画を描いてきた人物です。
こんなのは ↓ 有名ですね。

Der Führer im Kampfgelände _ Conrad Hommel.jpg

彼の手にかかれば、ヒムラーもこんな ↓ 英雄風・・。

Conrad Hommel _himmler.jpg

そんな審査員たちのお眼鏡に適った芸術作品ですが、ゲッベルス、トロースト夫人
審査結果を見たヒトラーは「芸術家による審査委員会でやればこんなものだ」と激怒します。
「こんなガラクタを展観するくらいなら、一年延期した方がいい」。
「ドイツ恥毛の巨匠」、ツィーグラーは蝶ネクタイで、「どうですか!」と自信満々なものの、
ゲッベルスは内心「やっちまった・・」と思いつつも、「総統、そうっすね~!」という表情です。。

Hitler, Goebbels, and Adolf Ziegler, Gerdy Troost.jpg

紆余曲折の末、7月18日にいよいよ3ヵ月に渡る「大ドイツ芸術展」の開会式。
並々ならぬ力を入れていたヒトラーは、1時間にも及ぶ長広舌をふるいます。
「キュービズム、ダダイズム、未来派、印象主義等々は、我々ドイツ国民と何の関係もない!」
では、ナチスの求める芸術は・・・? というと、
「美しいものを好ましく・・描く使命を有し、真実に忠実な描写を心がけるべきだ」。
ということで、大地や農民を描いたものが多く、
女性の裸体は「愛と欲望のナチズム」にあった「農村のヴィーナス」も出てきました。

Arno Breker bei der Arbeit an Prometheus, Fotografie, ca. 1935.jpg

そして筋肉隆々の巨大彫刻もナチ党のお気に入りで、巨大建造物には欠かせません。
本書で紹介されるアルノ・ブレーカーという彫刻家を調べていたら、
2011年の「パリとヒトラーと私 - ナチスの彫刻家の回想」 に辿り着きました。
あ~、この有名な写真でヒトラー、シュペーアと一緒に写っている人なんですね。
そういうことなら、コレも読まなければ・・。

Speer, Hitler, Arno Breker  in Paris.jpg

「大ドイツ芸術展」から一日遅れて始まったのが「退廃芸術展」です。
「ドイツ芸術の家」からそれほど離れていない、石膏模型の収容場所だった建物・・。
3日前にはヒトラーも下見に訪れ、10分ほどで退場。
ゲッベルス曰く、「これまで見たうちで最もひどいもの。まったくの狂気だ」。
ヒトラーの目も完全に死んでいますね。。

degenerate art hitler_Goebbels.jpg

そして「青少年には見せられない、いかがわしい代物」ということで、
18歳以下は入場禁止。それが逆にセンセーションを呼び、
「大ドイツ芸術展」の一日の入場者数6000人に対して、多い時には4万人が押し寄せます。
4ヵ月で200万人を動員する大ヒットにゲッベルスも大満足で、
著者はシャイラーの「ゲッベルスが腹を立てて閉鎖した」のは間違いだと指摘します。

degenerate art.jpg

どんな最悪の退廃芸術だったのかというと、シャガール作「ラビ」、ディクス作「傷痍軍人」。
ルードルフ・ベリングの作品は、「大ドイツ芸術展」にも有名なヘビー級ボクサー、
マックス・シュメリングのブロンズが出ていたことで、問い合わせが相次いだために撤去。
また、数点あった「叫び」でお馴染みのムンクの作品も、
ノルウェー公使館から異議を唱えられて、やっぱり撤去・・。

Otto Dix, Kriegskrüppel 1920.jpg

パンフレットの表紙に使われたのはオットー・フロイントリヒの「新しい人間」で、
彼は1943年に南フランスで逮捕され、ポーランドの収容所で死亡・・。

Die Entartete Kunst Ausstellung.jpg

会期を終えた「退廃芸術展」はベルリン、ハンブルク、ウィーン、フランクフルトと
1941年まで各都市を巡回し、大盛況。
そしてここにもう一人の偉大な美術品蒐集家が登場。ご存じ、ゲーリングです。
退廃芸術作品の中から、カリンハル用に国際的に評価の高いものを選ばせて、
ゴッホとムンクを各4点、セザンヌ1点を手に入れるのでした。

Göring vor einer Skulptur in der Ausstellung Entartete Kunst in Dresden..jpg

さらに国外追放にするため、もちろん外貨獲得の意味も込めてオークションが開かれます。
そのなかにはマチスとピカソが各4点、シャガール、ゴーギャン、ゴッホなど豪華125点。
ピカソは「ソレル一家」、「二人のアルルカン」、「女の胸像」、「アブサンを飲む女」。
ゴッホは「自画像」です。

Degenerate-Auction_Vincent van Gogh 1939..jpg

最後は戦後に3回開かれた「退廃芸術展」の様子。
名誉委員会のメンバーは、当時、退廃芸術家の烙印を押されたオットー・ディクスらです。
そして1974年には再現した「大ドイツ芸術展」が・・。
もちろんナチス時代の芸術を鑑賞することに賛否両論、ボイコットも起こり、
芸術作品の立場は逆転するのでした。

1991年にドイツと米国で「退廃芸術:ナチス・ドイツにおけるアバンギャルドの運命展」が開かれ
1995年には日本でも縮小した形の 『芸術の危機 - ヒトラーと≪退廃芸術≫展』が
開催されていたようです。
このパンフレット、446ページもあって、ちょっと読んでみたいですね。

芸術の危機.jpg

最初にビビッていたのがウソのように、一日で独破してしまいました。
著者はドイツの芸術に詳しいだけでなく、ナチス・ドイツについても良く知っています。
ミュンヘン大管区指導者ワグナー、科学・教育・文化相のベルンハルト・ルストなど、
シブい人物が登場する度に調べたり、
知らない画家や、その絵画もWebでカラー写真を探しながら楽しみました。
最後に著者の経歴を見てみたら、あの「ヒトラー・ジョーク」の方でした!

1930年代にはナチスによる弾圧、戦後はその逆が起こるという、
ナチ時代に評価を得たからダメっていうのもおかしな話で、
例えば、ヒトラーと同じような巨大建築志向をもっていたら、ダメなのかと思いますね。
美術、芸術、建築物に対する趣味は千差万別ですから、
どういう形であれ、それを押し付けるのは良くありませんが、
余計にゲルマニア計画なんかを詳しく知りたくなってしまいました。





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空軍元帥ゲーリング -第三帝国第二の男- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロジャー・マンベル著の「空軍元帥ゲーリング」を読破しました。

いままで読んできたいわゆるナチ本でも、「ダメ国家元帥」とか、「デブの帝国元帥」などと、
散々に言われてきたゲーリングの第二次世界大戦ブックスです。
ゲーリング本としては過去に「ゲーリング -第三帝国の演出者-」と
ゲーリング言行録 -ナチ空軍元帥おおいに語る-」を読みましたが、
著者は同じ第二次世界大戦ブックスの「ゲシュタポ -恐怖の秘密警察とナチ親衛隊-」の方で
アレはかなり内容が良かったですから、本書も期待できます。

空軍元帥ゲーリング.jpg

1893年1月生まれのヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング。
カッコ書きで明治26年と書かれているところが第二次世界大戦ブックスです。
父はハイチ駐在の総領事という家庭ですが、その父が引退し、
まだ若い母は友人の金持ち独身男の愛人となって、
ベルデンシュタインのお城でヘルマン少年は成長。
12歳でカールスルーエの士官学校に入り、軍事訓練大学に進学。
19歳の時に第112プリンツ・ヴィルヘルム連隊に勤務することになります。

young Göring.jpg

2年後には第1次大戦が始まり、国境近いアルザスで戦いますが、
親友のブルーノ・レルツァー少尉が飛行訓練学校に転属すると、彼も後を追いかけることに。
は~、後のレルツァー将軍とはこんな付き合いでしたか・・。
そして1918年にはプール・ル・メリット章を受章するエース・パイロットとなり、
戦死した"レッド・バロン"・リヒトホーフェン飛行隊の指揮官に任命されるのでした。

Bruno Loerzer _ Hermann Göering.jpg

そういえば、去年WOWOWで放送された映画、「レッド・バロン」をようやく観ました。
複葉機の空中戦もCGで迫力あるものに仕上がっていましたし、
リヒトホーフェンを演じたマティアス・シュヴァイクホファーくんも良かったですね。
後半にはウーデットも登場し、従弟のヴォルフラムも初戦でドキドキ・・。
リヒトホーフェンが撃墜され、英軍によって埋葬されるシーンも欲しかったですが、
エンド・クレジットでヴォルフラムについて、「第1次大戦を生き延びた」とだけで、
その後の「コンドル軍団」、電撃戦の要として、ナチス空軍の元帥にまでなったことが
紹介されていないところが、イヤラシイ・・とも思いました。

DER ROTE BARON.jpg

戦後はスウェーデンで最初の奥さんとなる、カリンと出会い、
1922年に初めてヒトラーの演説を聞くことに・・。
ゲーリングの経歴を気に入ったヒトラーが29歳の彼に任せたのは、
ドイツ陸軍飛行隊の将兵の代わりに、
失業者の群れである初期のSA(突撃隊)の訓練です。
しかし36歳の「党参謀長」であるエルンスト・レームは自分の方が上と考え、
ヒトラーはそのレームを押さえるためにゲーリングを必要とし、
ゲーリングを押さえるためにレームを操る・・という、得意技をすでに駆使しています。

Röhm Goering Hitler.jpg

ビアホール一揆で太腿の付け根に銃弾を受けたゲーリング。
逮捕を逃れながらも国外で治療を受け、やがてモルヒネ中毒に・・。
1931年には選挙戦に明け暮れるなか、
ヒトラーは愛する姪であるゲリを失って打ちひしがれ、
ゲーリングもまた最愛の妻カリンを失うという非常事態・・。
そんな彼らは1933年に政権を奪うまで、がむしゃらに選挙で戦い続けるのでした。

Goering delivers a speech ibn Weimar.jpg

プロイセン州の内相となって「ゲシュタポ」を創設する部分を書かれていますが、
本書では「国会議長」としてのゲーリングの役割が良く書かれていました。
しかしヒトラーの独裁が始まれば議会が開かれることはもうありません。
女優のエミー・ゾンネマンと愛し合うことになりますが、
「再婚してもカリンを裏切ることにはならない」と説得されて、
ようやく1935年にエミーとの結婚を決意し、カリンとの思い出のために
大きな別荘、カリンハルを建てるのです。

Göring and his wife Emmy showing off pet lion cub to Benito.jpg

贅沢三昧を始めたゲーリング。
ゲシュタポはヒムラーに譲って、ドイツ空軍の創設に乗り出します。
派手で飽きっぽい性格からして、ゲシュタポのような陰険な仕事には向かず・・
という話も良く聞きますが、確かにそう思いますね。

himmler göring.jpg

狩猟嫌いのヒトラーから、森林、および狩猟長官にも任命されます。
総統とは違って狩猟大好きゲーリングですが、著者は彼の狩猟法の改正は
大変優れたもので、彼のやった仕事の中で唯一の恒久的なものであり、
この狩猟法の条項は今日もなお、効力を持っているとしています。
それらは生きたまま皮をはいだり、肉をとったり、残酷な罠の禁止・・。
ゲーリングは鳥獣に対するフェアプレイと、保護や繁殖にも注意を払います。

Hunting Goering.jpg

カリンハルの写真も多い本書。
贈り物の高価な芸術作品に溢れ、2階の部屋には大きな鉄道模型が・・。
ほほぉ、ゲーリングも"テッチャン"だったんですね。。
カリンハルはショルフハイデという広大な領地にあるそうですが、
ここの広さは横浜市ほどもあるという、ハンターの楽園です。
自分を偉大な行政官と自負する彼ですが、公式には総統に次ぐNo.2ではありません。
もともとはナチ党の「副党首」という立場だったルドルフ・ヘスが、
ヒトラーが国家元首の総統になると、自動的に「副総統」ということになっていたのです。

Hermann Goering with his Märklin model railway at Carinhall. The other fellow could well be Franz von Papen.jpg

戦時経済立て直しの4ヶ年計画の責任者となり、「大砲かバターか」の問題に直面すると、
彼は演説で「バターが我々のためにしてくれたことは、太らせただけだ!」と喚き、
己の突き出た腹を叩いて聴衆を笑わせる国民の人気者ヘルマン・・・。

「戦争か平和か」という1938年になっても愛妻や、
6月に生まれた愛娘のエッダと過ごすことが楽しみであり、
平和的手段によってドイツの地位が向上できるならば、楽で贅沢な生活が維持できる・・
と考えているのです。

Hermann Emmy Edda Göring.jpg

オーストリア併合ではザイス=インクヴァルトとの緊迫した電話でのやりとりが詳細で
楽しめましたし、英国に盗聴させようとしたロンドンにいるリッベントロップとの
長い電話も印象的でした。
そして英仏との外交にも積極的なゲーリングですが、
外務大臣となったリッベントロップとのライバル争いと、ヒトラーの独断政治の前に
徐々にその存在感は薄くなり、ポーランド侵攻が始まってしまいます。

Ribbentrop Hitler Goering,Berlin, Germany, August 1939.jpg

そのポーランド戦ではゲーリングの空軍は急降下爆撃機の活躍もあって完勝したものの、
ダンケルクバトル・オブ・ブリテンから、英国本土上陸作戦と失敗続き・・。
英国征服がすっかり自分だけに任されきって、誰もバックアップしてくれない・・。
孤立していることを悟った彼は前線から引っ込んで、ガーランドに任せるのです。。

Poland, September 1939, Goering with airforce officers at the front..jpg

翌年に独ソ戦が始まると、英国へと飛んで行った副総統ヘスに代わり、
めでたく副題のとおりの「第三帝国第二の男」となった国家元帥。
「ユダヤ人問題の全面的解決」をヒムラーの第一の子分であるハイドリヒに引き継ぎ、
手詰まりとなったドイツ空軍も盟友ウーデット、参謀総長イェショネクが相次いで自殺。
ケルンは大爆撃に遭いマルタ島の征服も失敗、ロンメルへの補給にも失敗。
ゲーリングは自分への批判は一切無視し、ドイツの戦時経済と、
空軍への利益になるモノ、そして個人的な道楽・・のあいだを彷徨います。。

Wonderful Porcelain Plaque Depicting Hermann Göring in Uniform.jpg

スターリングラード包囲に対する空中からの補給を約束しても
1943年1月という第6軍が崩壊して死に直面しているその時、
ベルリンで恒例の誕生パーティを開き、美術品などの贈り物が続々と届きます。
レンブラントにルーベンス、ゴヤなどの名作絵画コレクション。
本書ではシュペーアシェレンベルクが語るゲーリングの話もあり、
ヒムラーに言わせれば、「闇市の帝王」ということです。

Goering, three-quarter length, in Slavic attire.jpg

1945年4月、死を覚悟しているヒトラーに電報を打ち、それがライバルであるボルマンによって
「裏切りである」と認定され、罷免されたうえ、SSに逮捕されたゲーリング。
5月6日には新大統領となったデーニッツにメッセージを送ります。
「あなたがヨードルを交渉のためにアイゼンハワーの元へ派遣すると聞いております。
わたしも元帥対元帥としてアイゼンハワーと正式に接触することが、
わが国民の利益にとって重要であると考えます。
わたし固有の雰囲気を添えることで、成功することを請け負います」。

Goring_on_what_appears_to_be_a_subsequent_day,_sitting_down_with_U_S__forces.jpg

結局、このようなメッセージはゲーリング嫌いのデーニッツに無視され、米軍の捕虜となり、
ニュルンベルク裁判へと続き、ここでもジャクソン検事との応酬が詳細です。
そして最後には1967年に明らかにされた刑務所長のアンドラス大佐に宛てた
ゲーリングの遺書を掲載し、彼が毒薬のカプセルを如何に隠し持っていたか・・。

goering  hess  ribbentrop_nuremberg.jpg

ふーむ。。かなり出来の良いゲーリング伝でしたねぇ。
珍しい写真も多かったのも「第二次世界大戦ブックス」らしいですが、
この223ページというボリュームながら、生い立ちから、その死の様子まで
余すことなく、公平に書かれていました。
コレは最初にも書きましたが、やっぱり著者が良いんでしょうね。。
モズレーの「ゲーリング -第三帝国の演出者-」の方がボリュームもありますが、
ややレア本で古書価格も高くなっていますから、ゲーリングに興味のある方は、
古書価格もお手頃の本書をまず読んでみることをオススメします。









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ベルリン特電 [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

江尻 進 著の「ベルリン特電」を読破しました。

もう3年も前の「ベルリン終戦日記 -ある女性の記録-」の時にオススメいただいた本書は、
第二次大戦下ベルリン最後の日 -ある外交官の記録-」、「最後の特派員」と続く、
日本人の体験したナチス・ドイツの興亡モノです。
1995年、310ページのハードカバーで、著者は当時の同盟通信社のベルリン支局長。
日本版ウィリアム・シャイラーってトコでしょうか。

ベルリン特電.jpg

1939年2月、突然ベルリン支局長として単身赴任の内命を受けた著者。
2日間の短い新婚旅行から戻ってきた翌日のこと。
著者は1908年生まれですから、30歳になったところ、新婦はまだ20歳です。
親からは「お前のやったことは詐欺だ」と烈火のごとく怒られる始末ですが、
当人も寝耳に水であり、英語には多少自信はあるものの、ドイツ語はダメ。。

郵船の欧州航路は月2回、残っていた乗船切符は「特別1等室」のみ。
月給100円の時代に、船賃1千円也。それでも急き立てられた結果、
若奥さんも連れて、神戸から筥崎丸で豪華客船の旅を満喫することになるのでした。

筥崎丸.jpg

マルセイユまで43日、そして井上パリ特派員が推薦してくれた大衆的な可愛いホテルは
手洗い、風呂が別室の共用になっていて、小さな寝室を見た若奥さんは、
「これが花の都パリのホテルですか」と涙声・・。
ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京に次ぐ人口420万の大都会、
ベルリンまでの列車の旅も珍道中のような展開で、こういうのは好きですねぇ。
ちなみに著者は「同盟通信社」の支局長ですが、この通信社は1936年に設立され、
戦後は「共同通信」と「時事通信」に分かれた、日本最大の通信社です。

東方での軍事的紛争が近くに起こるのでは・・という雰囲気に、
ベルリンから早速、ポーランド行の列車に乗り込みます。
食堂車で相席となったポーランド人弁護士の見通しは、
「ポーランド軍は特に騎兵が強力なので、ドイツ軍は撃破される」。
さらに「騎兵は逆にドイツ領に突入するかも・・」と自信満々です。。

armia polska 1939.jpg

始まったベルリンでの生活はドイツ語教室通いに、住居探し。
4、5軒の候補住居の下見と交渉に向かうのは、地図と和独小辞典を抱えた新妻・・。
慣れぬ外国で単身交渉に当たる行動力には、新米特派員も太刀打ちできません。

そんな着任2ヵ月後には「独ソ不可侵条約」が発表されます。
ソ連情報にも精通したエストニアの新聞記者から入手した情報には、
ポーランド分割に関する"秘密協定"も存在し、この重大情報を日本に打電。
すると翌朝、ドイツ外務省情報部日本課長から呼び出しを受け、
「総統は、こんな極秘事項を打電した特派員は国外追放にしろ、と激怒している」。

German-Soviet Nonaggression Pact.jpg

本書でも説明していますが、ナチ党としてはオットー・ディートリッヒを長とする、
党宣伝部の組織を持ち、記者を集めて重要政策の演説したりとする一方で、
ゲッベルスの宣伝省が、内外のプレスに対して実務的な宣伝工作を行っています。
さらにリッベントロップの外務省も絡んでくる・・という相変わらずのややこしさですね。

Otto Dietrich.jpg

翌月には、ドイツ軍のポーランド侵攻、反対側からソ連・・と分割作戦が開始。
著者は「真実の報道なのに、あのような圧力を加えるとはけしからん」と抗議するも、
「日本の代表通信社が報道すると、真実として信用されるので困るのだ」と
訳のわからない説明に終わるのでした。

Berlin, Germany, December 1939, A press conference at the Ministry of Propaganda​..jpg

そしてワルシャワでの戦勝パレードに従軍記者として参加することになった著者。
飛行場で外国人記者たちひとりひとりに話しかけるヒトラーの姿があります。
こうして著者の番、握手をしたもののドイツ語の挨拶がとっさに出てこない大ピンチ・・。
眼と眼は睨み合ったまま、ジーッと手を握ったまま放してくれません。。

hitler ju-52.jpg

またソ・フィン戦線への従軍の招待を受け、カレリア地方の第一線の塹壕まで行ってみると、
200m先の塹壕から無防備のソ連兵士が身を乗り出して、手を振っています。
ソ連軍はフィンランド軍の強さに懲りて、ジッと守りに徹しているという、一見平和な風景。
ちょっとばかりシモ・ヘイヘがソ連兵を殺し過ぎたのかもしれませんね。

talvisota.jpg

翌1940年、始まった欧州動乱によって若妻を日本へと送り返し、
ドイツ軍の西への集結ぶりなどから、「ドイツ軍の西部攻撃切迫」を打電します。
するとまたもや「総統が、不当な予測記事だ、として怒っている」と厳重注意が・・。

しかし、「不当な予測記事」は的中し、ベルギー降伏前に第3回目の従軍旅行に招かれます。
米国人3人に、ハンガリー、ソ連、スペイン、フィンランドからの記者という多国籍軍。
オランダのロッテルダムは爆撃によって激しい破壊の跡が見られますが、
アムステルダムでは、「これが欧州の戦争なのか」と首をかしげるほど、お店も開いています。

Amsterdam 1940.jpg

ダンケルク、カレー、そしてパリへと辿り着き、シャンゼリゼ通りでのドイツ軍の行進
コンコルド広場で解散したドイツ軍将兵は、フランス人女性と腕を組み、嬉々として散歩。
著者はそのような光景を見て思います。
「これが西欧での、昨日までの敵味方の姿である」。

Paris 1940's.jpg

1941年には、クーデターを起こしたユーゴへの軍事侵攻、そしてギリシャ戦が始まり、
急遽バルカン従軍記者団が組織されて、唯一の日本人記者として参加します。
このような前線での話は予想以上に面白いですねぇ。

中盤からは独ソ戦を巡る、日本も含めた駆け引きの様子がメインになります。
シベリア鉄道を経て、1941年3月にベルリンに到着した松岡外相。
ウンター・デン・リンデンの大通りから総統官邸まで日独国旗が色鮮やかに飾り、
大々的に歓迎されますが、ベルリン市民からはこんな多くの国旗を並べ立てるのは
配給制のいま、「繊維の無駄遣いである・・」という陰口も聞かれます。
個人的な話で恐縮ですが、初めて「シベリア鉄道」っていうのを知ったのは、
大瀧 詠一の「さらばシベリア鉄道」ですね。。名曲です。

doumei01.jpg

親独の大島大使と意見の食い違う松岡外相。
公邸ロビーで大臣を待ち受けていた著者は、「独ソ開戦は必至ですよ」と問いかけるも、
「君たちまで、そんな馬鹿げたことを信じているのか」と吐き捨てます。
そしてベルリンからモスクワに向かい、スターリンとモロトフと会談をして、
「日ソ中立条約」を調印。
日本をドイツから引き離し、背後のシベリアの安全を図ろうとしたのは明らかである
と、日本の政治家の無能ぶりに対しては、なかなか辛辣です。

doumei04.jpg

バルバロッサ作戦の初期にも唯一の日本人記者として従軍する著者。
本書ではポーランド戦から始まって、この独ソ戦までの戦局も、並行して丁寧に書かれています。
翌1942年の夏にも再び、独ソ戦に従軍。今度はセヴァストポリ攻撃の報道です。
巨大列車砲ドーラにも触れられますが、ドイツ軍の最後の攻撃では
「第2次大戦では少ない例のひとつとなったが、毒ガスを使った殲滅作戦に出た」として、
サリンではなかったか」と推測しています。

ふ~ん。。これは聞いたことがないなぁ。ホントだとするとマンシュタインが悪者にされますね。。
ただ、第1次大戦で使われた毒ガス兵器が野蛮だと考えられて使われず、
火炎放射器はOKっていうのも、なんだかなぁ・・と思うんですね。あれもヒドイ。。

Crimea-Romanian mountain troops attack Soviet bunker.jpg

スターリングラードクルスク、そしてアフリカ戦線の戦局も紹介しながら、
「舞台裏の攻防」として、東京のゾルゲ事件についてもかなり書かれています。
要は、著者が日本に送った独ソ開戦を巡る情報が、間接的にゾルゲへ、
そしてモスクワに送られた・・ということですね。

1943年3月、ヒトラー、リッベントロップ、大島大使の3者会談で、
突然ヒトラーがデーニッツらとの打ち合わせもなく、U-ボート2隻を寄贈すると言い出します。
野村中将はこの第1号である、U-511で帰国することとなり、
名艦長の37歳のシュネーウィンド中尉・・と書かれていますが、26歳かな??

Fritz Schneewind u511.jpg

いずれにせよ、途中で商船を魚雷で撃沈しながら、無事に呉に辿り着き、
「呂-500」という日本の潜水艦になったというこの話は面白く、
「潜艦U-511号の運命―秘録・日独伊協同作戦 」という本が出ているそうです。
コレ古すぎるんで、どこかで再刊してくれませんかねぇ。

U-511_1943.jpg

1944年にはフランス出張で大西洋の防衛線を一巡します。
ブンカーの陰で日向ぼっこで居眠りしているドイツ兵の姿を眺め、
ベルリンに帰着後、「当分、連合軍の上陸作戦はない模様」と打電すると、
報道用ではないこの情報が、日本の占領各地にも大きく報道されます。
そしてその翌日、ノルマンディ上陸作戦が・・。

Atlantikwall,_Soldat.jpg

1945年4月になると支局のあるベルリンも爆撃によって大混乱です。
街中には人影が消え、15歳前後のヒトラー・ユーゲントの少年が、
パンツァーファウストで警戒に当たっているのが見かけられるだけ・・。
そんな首都からの脱出を決意した著者に宣伝省から、
「南ドイツに政府の一部が移動し、南政府が組織される。
同盟国の代表が移転先へ同行されることを期待する」ということで、
一応、4連発の高射機関砲を装備した、貧弱な特別編成の列車に乗り込みます。

hitlerjugend  Panzerfaust.jpg

最終的には大島大使ら大勢の日本人とも合流し、ドイツの敗北、
東京大空襲、原爆投下、日本の敗戦をチロル山中から
米国送りとなった船のなかで聞き、12月に帰国を果たすのでした。

RIBBENTROP_OSHIMA.jpg

いや~、面白かった。。
新婚の著者が悪戦苦闘しながら、ナチスの戦争の真っ只中で頑張る姿は
思わず応援したくなりますし、妻のいる日本への帰国を要望するも、
戦局悪化のためそっちで踏ん張れと言われ、その仕事の重要性に誇りを持ったり、
特に外務省の秘密クラブを電話で予約する際、「徳川家康です」とか、
トイレのないJu-52でおしっこがしたくなって、仕方なく買ったばかりのボルサリーノに・・
と、人間らしい笑えるエピソードも当時の私信や写真も掲載しながら豊富です。

Borsalino.jpg

また、ソ連や米国の記者仲間も戦局の推移とともにベルリンから去っていくわけですが、
コレも決して彼ら同士には憎しみの感情はありません。
そういえばユダヤ人弾圧の様子は目にしていたものの、
アウシュヴィッツその他での集団虐殺が行われていたという話は全く耳に入らず
戦後に初めて聞かされたそうです。
やっぱり都会では目立つことはやってなかったんでしょうねぇ。

日本人体験の本としては、もう一冊「ベルリン戦争」があるので、
コレも楽しみですね。







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