ナチスの知識人部隊 [SS/ゲシュタポ]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
クリスティアン・アングラオ著の「ナチスの知識人部隊」を読破しました。
今年の1月に出たばかりの本書。
534ページという素晴らしいボリュームですが、定価3360円。。。
しか~し、早くもヤフオクで半額で落とせました。
アインザッツグルッペンの「SD」を主題にした小説、「慈しみの女神たち」を独破中だったので、
早く読みたい衝動に駆られつつも、その後しばらくガマンしていました。
同じようなタイトルの「ナチ親衛隊知識人の肖像」という本も読んでいますが、
あちらがハイドリヒやオーレンドルフ、ジックスら、5人に絞っていたのに対して、
本書は「約80名の若者たちを詳細に分析した戦慄の研究」だということです。
本書で言う「知識人」の定義は「大学修了者」のことで、また、それらは
第1次大戦後に大学で学んだ若者たち、1900年から1910年生まれが中心です。
そんな彼らに共通する最初の「トラウマ」とは、当然、少年期の戦争の体験であり、
ドイツ国民の半数が、近親者と死別するという経験をし、
戦時中の食糧難にも苦しめられたとするところから本書は始まります。
この第1部「ドイツの若者たち」では、
ハイドリヒの右腕でRSHA(国家保安本部)の副長官だったヴェルナー・ベストの伝記も抜粋して、
彼が11歳の時に父親が戦死し、気力を失った母親と弟に対する責任を負い、
15歳にして不安、仕事、責任を抱えた暗い青春を送ったことも紹介します。
第2部「ナチズムへの加入 -ある政治参加」では、
ナチ党がドイツ国内で躍進し、1933年に政権を奪取するまでの期間に
大学で法科などを学び、国粋主義の学生サークル活動にも参加していた
「戦う愛国者学生たち」に目を付けるナチ党。
後にSDの国内部門を任されたヘルマン・ベーレンズは党の法律顧問となり、
同じくSDで「ドイツ国民の生活問題」の責任者となったラインハルト・ヘーンに、
そのヘーンに誘われたアルフレート・ジックスなどが登場してきます。
ハイドリヒが設立したSD(SS保安部)ですが、この機関はナチ党の組織のひとつである
「親衛隊(SS)」のなかの情報部という、当初はとても小さいものです。
SSに詳しい方ならご存知の通り、SS隊員は必ずしもナチ党員である必要はありません。
本書では大学出の彼らがSDに入った経緯を分析し、
当時はナチ党への入党希望者が大きく増えたことから入党を制限し、
その一方で法律の知識のある若者がエリートとして、
SDへと直接リクルートされていたことが良くわかります。
要はSDへ入ることに比べ、SS隊員になったり、ナチ党員になったりすることは
形式程度で大したことではないという感じですね。
また、ヴェルナー・ベストの意向によって、国家試験後にゲシュタポの地方支部の
トップに採用された若い法律家たちも、一部はSD入りしたという話も紹介されますが、
この「ナチスの知識人部隊」への道は、イデオロギーの証明が重要な要素です。
しかし例外も存在します。その男の名はオットー・オーレンドルフ・・。
彼は1925年、18歳で入党という古参党員であり、大学で法学も学びながらも、
集合住宅の監視をするといった「班指導者」(大管区指導者(ガウライター)等の一番下の階級)も
務めていた経歴も持つ、生粋のナチ党闘士です。
やがてSDがRSHA(国家保安本部)として警察業務などと統合されると、
すでにハイドリヒから不興を買っていたベスト、
敵研究の提唱者ジックス、そしてシェレンベルクの三つ巴の論争と対立が・・。
本書では人物だけでなく、SDの組織面にも光を当てています。
ただ、写真やSD、RSHAの組織図などが1枚もないので、
頭のなかを整理したり、なにかで確認しながらでないと、混乱して
人物を間違えたりしてしまいました。
1938年のオーストリア併合では、「敵研究」のジックスによって「特別手配者リスト」が作成され、
エーリヒ・エーアリンガーのアインザッツコマンド(出動部隊)をジックスがベルリンで指揮します。
そしてチェコへの進駐では規模も大きくなり「保安警察とSDのアインザッツグルッペ」として
最初の1週間で1600名を逮捕・・。
こうしてちょうど200ページから第3部「ナチズムと暴力」へ・・。
1939年7月、SD局員、SSの知識人らに警察学校への出頭命令が出され、
そこには武装SSとゲシュタポ、刑事警察(クリポ)の職員たちから成る部隊が集結しています。
軍事訓練を受け、ポーランドの風俗や習慣を学んで、
ついに「オスト・アインザッツ(東部出動」)と呼ばれる任務へと出発・・。
実はポーランド戦におけるアインザッツグルッペンの行動についてはあまり書かれていません。
その分、1941年からの「下等民族の暮らす征服すべき処女地」は大変なものです。
このバルバロッサ作戦における国防軍の態度について、第6軍司令官ライヒェナウの
過激なフレーズが掲載されたものもありますが、
本書では同様なフレーズ・・「敵を憐れむことなく事に当たり、とりわけ、
ボリシェヴィキの擁護者に対しては、絶対に容赦してはならない」と訓示するのは、
第4装甲集団司令官のヘプナー将軍です。
ほとんどの兵士に配られた「敵を知っているか」というチラシは面白かったですね。
「背後から狙撃するために死者や負傷者がそのように装っていると考えなければならない」とか、
「両手を挙げて進んでくる相手も背後から攻撃するための策略であることも多い」、
「見つけたものは一切、食べてはならず、検査していない水を飲んではならない」、
「一般人の落下傘降下員は兵士ではなく、義勇兵であり、そのような者は殺さなければならない」
しかし、これらが強迫観念となり、やがて極度の暴力的行動を生み出すこととなったとしています。
また、ハイドリヒが通達したアインザッツグルッペンの行動時の留意事項・・、
例えば「帝国に敵対するあらゆる人物の逮捕」などという、かなり曖昧で、
隊長たちの幅広い解釈が可能な司令も・・。
そして「処刑」の対象者も「すべての政治家、党の関係者、それらの役職に就いているユダヤ人。
ただし、占領地の経済再建のために支障がない程度に留めること」。
シュターレッカーSS少将が率いるアインザッツグルッペA。隷下のアインザッツコマンド3隊長、
イエーガーSS大佐は、労働ユダヤ人の家族を射殺できなかったことで、市当局や国防軍と
激しい論争になったことを述べ、最後には「男の労働ユダヤ人の断種を直ちに始め、
それでも妊娠したユダヤ女は殺すべきである」と語ります。
このアインザッツグルッペAには、マルティン・ザントベルガーが指揮するゾンダーコマンド1aと
エーリヒ・エーアリンガーのゾンダーコマンド1bもあるわけですが、
おおむねゾンダーコマンド(特別部隊)が対パルチザン戦を引き受け、
アインザッツコマンド3がバルト諸国のユダヤ人のジェノサイドを行ったということですが、
その他のアインザッツグルッペB~Dを見ても、そのような決まりごとはなく、
その活動と構成は体系的に見てもかなり自由(司令官の好み??)であったようです。
これら4つのアインザッツグルッペの活動の様子は、「普通の人びと」や「慈しみの女神たち」に
勝るとも劣らないほど詳しく、生々しく、3万人を虐殺した有名な「バービ・ヤール」から、
ユダヤ人の女子供に対するものまで・・。
また、銃殺隊員が故郷の妻や両親に送った手紙と共に紹介されます。
殺害方法も、もともと定められたものがあるわけではなく、
その場でその部隊が思いつくままに考案します。
穴の淵に後ろ向きに立たせて、またはひざまずかせて、あるいは、穴の中にうつぶせに・・。
離れた所から数人で一斉に撃つのもあれば、首筋に一発・・。
アインザッツコマンド5では自動小銃による処刑を行いますが、生存者や怪我人があまりに多く、
結局、穴の中で息の根を止めなければならなくなり、「狙い撃ち」方式に戻ることに・・。
そして、そのような虐殺とは別の公開処刑。ミンスクでは二人の女性が見せしめの絞首刑に。。
その理由は子供殺して、遺体を解体し、肉片を町の市場で売った罪です・・。
女子供も無差別に銃殺するのは良いけど、人肉食べるなんて野蛮なことししちゃダメよ・・
ってことのようです。もちろん支配民族目線ですが。。
また銃殺隊が陥ったトラウマにも言及します。
「血だらけの山積みの死体の中にまだ動くものがあり、その絡み合った死体の山から
いきなり人が立ち上がって、片腕を上げるのです・・」。
このような心理的負担を軽減するため、軍隊式の一斉射撃を実施し、
将校の命令で撃った後は回れ右をして10歩後退・・。
コレで自分が殺した人間を見ずに済むのでした。
さらに発明されたガス・トラックも、その汚物にまみれた凄惨な数10体の死体を
引き出すことが、あまりにも心理的負担が大きく中止・・。
休みなく続く虐殺・・。2ヵ月程度で現場から解放されたジックスのような隊長もいれば、
ハイドリヒに志願してアインザッツコマンド9の隊長となったアルベルト・フィルベルトは、
神経障害と重いうつ病によって4ヵ月でベルリンへ・・。
その後は2年近くRSHAの組織図から姿を消し、1943年末になってようやく配属されたのは
汚職撲滅担当の警察部局という下級ポスト・・。
「戦う知識人」が出世への道であるこの世界で、「弱さの告白」をすることは
要職へ就くことを禁じられたのと同じことなのです。
1944年、敗北を意識した「戦う知識人」たちは様々な行動に出ます。
ゲリラ部隊である「人狼部隊」が検討されると、RSHAⅥ局の学校が破壊活動の学校へと変わり、
あのスコルツェニーがトップに就任。
爆発物の取り扱いや尋問、ゲリラ戦のカリキュラムの作成を指揮したのはザントベルガーです。
また、オーレンドルフは1945年、デーニッツ新政府を訪れ、シュペーアの補佐官に・・。
そして戦後・・。
ハイドリヒと衝突して1940年にRSHAから離れ、デンマークで死刑判決を受けるも
恩赦で釈放されたベストは、元ゲシュタポ局員の裁判での弁護の調整に当たります。
「絶対服従」の論拠を盾にし、「最終的解決」については何も知らなかったと証言するようにと・・。
一方、アインザッツグルッペDの司令官として1年間に行った数万人にも及ぶ殺害行為を
自らの責任と認め、死刑執行されたオーレンドルフ。
しかし、何人かの隊長たちとは違い、彼が自ら手を下した事実は確認されていない・・
ということですが、本書では彼だけは最初から最後まで特殊なケースとして
描かれている気がしました。
後半の約100ページが原注なので、本文は436ページです。
もともと博士論文がベースになっていることから、ちょっと専門的で
スラスラと理解できるものではないですが、充分読みごたえがありました。
個人的には個々の「戦う知識人」たちよりも、アインザッツグルッペンとは何か・・?
ということがある程度、確認することが出来ました。
当初は情報部らしいSDの任務として、占領地の敵対者を特定し、
ゲシュタポによって逮捕するといった、ユダヤ人を絶滅することが目的ではなく、
ドイツ国内での任務と変わらなかったアインザッツコマンドが、ソ連侵攻となると、
その規模が大きくなり、イデオロギー的な命令と、戦争に対パルチザン戦、
バルト諸国と白ロシアにウクライナの民族性、A~Dの司令官やコマンド隊長の各々の考え方、
未知の劣等民族への扱いも含めて、徐々に行為がエスカレートし、
後に「アインザッツグルッペ = 絶滅部隊」と呼ばれるようになった・・。
裁判では全体的に、ユダヤ人処刑命令をすでに死んだハイドリヒに押し付けていますが、
やっぱり、もしハイドリヒが暗殺されなかったら、これ以上、何が起こっていたのか・・。
恐ろしすぎて想像が付きませんが、ふと、思ってしまいました。
このようにアインザッツグルッペンという部隊ですら、一括りにすることはできず、
彼らが数万から数十万人を虐殺したことには変わりありませんが、
それを実行するに当たっては様々な要因と部隊ごとの「個性」が存在していたことが、
理解できたつもりです。
原題は「信じることと皆殺しにすること、戦う機関SSの知識人たち」というもので、
著者アングラオは、いま最も期待されるフランスの若手研究家だそうです。
2010年に発表された本書の前著である、
「黒い狩人たち -ディルレヴァンガー旅団-」も、ぜひ翻訳して欲しいところです。
クリスティアン・アングラオ著の「ナチスの知識人部隊」を読破しました。
今年の1月に出たばかりの本書。
534ページという素晴らしいボリュームですが、定価3360円。。。
しか~し、早くもヤフオクで半額で落とせました。
アインザッツグルッペンの「SD」を主題にした小説、「慈しみの女神たち」を独破中だったので、
早く読みたい衝動に駆られつつも、その後しばらくガマンしていました。
同じようなタイトルの「ナチ親衛隊知識人の肖像」という本も読んでいますが、
あちらがハイドリヒやオーレンドルフ、ジックスら、5人に絞っていたのに対して、
本書は「約80名の若者たちを詳細に分析した戦慄の研究」だということです。
本書で言う「知識人」の定義は「大学修了者」のことで、また、それらは
第1次大戦後に大学で学んだ若者たち、1900年から1910年生まれが中心です。
そんな彼らに共通する最初の「トラウマ」とは、当然、少年期の戦争の体験であり、
ドイツ国民の半数が、近親者と死別するという経験をし、
戦時中の食糧難にも苦しめられたとするところから本書は始まります。
この第1部「ドイツの若者たち」では、
ハイドリヒの右腕でRSHA(国家保安本部)の副長官だったヴェルナー・ベストの伝記も抜粋して、
彼が11歳の時に父親が戦死し、気力を失った母親と弟に対する責任を負い、
15歳にして不安、仕事、責任を抱えた暗い青春を送ったことも紹介します。
第2部「ナチズムへの加入 -ある政治参加」では、
ナチ党がドイツ国内で躍進し、1933年に政権を奪取するまでの期間に
大学で法科などを学び、国粋主義の学生サークル活動にも参加していた
「戦う愛国者学生たち」に目を付けるナチ党。
後にSDの国内部門を任されたヘルマン・ベーレンズは党の法律顧問となり、
同じくSDで「ドイツ国民の生活問題」の責任者となったラインハルト・ヘーンに、
そのヘーンに誘われたアルフレート・ジックスなどが登場してきます。
ハイドリヒが設立したSD(SS保安部)ですが、この機関はナチ党の組織のひとつである
「親衛隊(SS)」のなかの情報部という、当初はとても小さいものです。
SSに詳しい方ならご存知の通り、SS隊員は必ずしもナチ党員である必要はありません。
本書では大学出の彼らがSDに入った経緯を分析し、
当時はナチ党への入党希望者が大きく増えたことから入党を制限し、
その一方で法律の知識のある若者がエリートとして、
SDへと直接リクルートされていたことが良くわかります。
要はSDへ入ることに比べ、SS隊員になったり、ナチ党員になったりすることは
形式程度で大したことではないという感じですね。
また、ヴェルナー・ベストの意向によって、国家試験後にゲシュタポの地方支部の
トップに採用された若い法律家たちも、一部はSD入りしたという話も紹介されますが、
この「ナチスの知識人部隊」への道は、イデオロギーの証明が重要な要素です。
しかし例外も存在します。その男の名はオットー・オーレンドルフ・・。
彼は1925年、18歳で入党という古参党員であり、大学で法学も学びながらも、
集合住宅の監視をするといった「班指導者」(大管区指導者(ガウライター)等の一番下の階級)も
務めていた経歴も持つ、生粋のナチ党闘士です。
やがてSDがRSHA(国家保安本部)として警察業務などと統合されると、
すでにハイドリヒから不興を買っていたベスト、
敵研究の提唱者ジックス、そしてシェレンベルクの三つ巴の論争と対立が・・。
本書では人物だけでなく、SDの組織面にも光を当てています。
ただ、写真やSD、RSHAの組織図などが1枚もないので、
頭のなかを整理したり、なにかで確認しながらでないと、混乱して
人物を間違えたりしてしまいました。
1938年のオーストリア併合では、「敵研究」のジックスによって「特別手配者リスト」が作成され、
エーリヒ・エーアリンガーのアインザッツコマンド(出動部隊)をジックスがベルリンで指揮します。
そしてチェコへの進駐では規模も大きくなり「保安警察とSDのアインザッツグルッペ」として
最初の1週間で1600名を逮捕・・。
こうしてちょうど200ページから第3部「ナチズムと暴力」へ・・。
1939年7月、SD局員、SSの知識人らに警察学校への出頭命令が出され、
そこには武装SSとゲシュタポ、刑事警察(クリポ)の職員たちから成る部隊が集結しています。
軍事訓練を受け、ポーランドの風俗や習慣を学んで、
ついに「オスト・アインザッツ(東部出動」)と呼ばれる任務へと出発・・。
実はポーランド戦におけるアインザッツグルッペンの行動についてはあまり書かれていません。
その分、1941年からの「下等民族の暮らす征服すべき処女地」は大変なものです。
このバルバロッサ作戦における国防軍の態度について、第6軍司令官ライヒェナウの
過激なフレーズが掲載されたものもありますが、
本書では同様なフレーズ・・「敵を憐れむことなく事に当たり、とりわけ、
ボリシェヴィキの擁護者に対しては、絶対に容赦してはならない」と訓示するのは、
第4装甲集団司令官のヘプナー将軍です。
ほとんどの兵士に配られた「敵を知っているか」というチラシは面白かったですね。
「背後から狙撃するために死者や負傷者がそのように装っていると考えなければならない」とか、
「両手を挙げて進んでくる相手も背後から攻撃するための策略であることも多い」、
「見つけたものは一切、食べてはならず、検査していない水を飲んではならない」、
「一般人の落下傘降下員は兵士ではなく、義勇兵であり、そのような者は殺さなければならない」
しかし、これらが強迫観念となり、やがて極度の暴力的行動を生み出すこととなったとしています。
また、ハイドリヒが通達したアインザッツグルッペンの行動時の留意事項・・、
例えば「帝国に敵対するあらゆる人物の逮捕」などという、かなり曖昧で、
隊長たちの幅広い解釈が可能な司令も・・。
そして「処刑」の対象者も「すべての政治家、党の関係者、それらの役職に就いているユダヤ人。
ただし、占領地の経済再建のために支障がない程度に留めること」。
シュターレッカーSS少将が率いるアインザッツグルッペA。隷下のアインザッツコマンド3隊長、
イエーガーSS大佐は、労働ユダヤ人の家族を射殺できなかったことで、市当局や国防軍と
激しい論争になったことを述べ、最後には「男の労働ユダヤ人の断種を直ちに始め、
それでも妊娠したユダヤ女は殺すべきである」と語ります。
このアインザッツグルッペAには、マルティン・ザントベルガーが指揮するゾンダーコマンド1aと
エーリヒ・エーアリンガーのゾンダーコマンド1bもあるわけですが、
おおむねゾンダーコマンド(特別部隊)が対パルチザン戦を引き受け、
アインザッツコマンド3がバルト諸国のユダヤ人のジェノサイドを行ったということですが、
その他のアインザッツグルッペB~Dを見ても、そのような決まりごとはなく、
その活動と構成は体系的に見てもかなり自由(司令官の好み??)であったようです。
これら4つのアインザッツグルッペの活動の様子は、「普通の人びと」や「慈しみの女神たち」に
勝るとも劣らないほど詳しく、生々しく、3万人を虐殺した有名な「バービ・ヤール」から、
ユダヤ人の女子供に対するものまで・・。
また、銃殺隊員が故郷の妻や両親に送った手紙と共に紹介されます。
殺害方法も、もともと定められたものがあるわけではなく、
その場でその部隊が思いつくままに考案します。
穴の淵に後ろ向きに立たせて、またはひざまずかせて、あるいは、穴の中にうつぶせに・・。
離れた所から数人で一斉に撃つのもあれば、首筋に一発・・。
アインザッツコマンド5では自動小銃による処刑を行いますが、生存者や怪我人があまりに多く、
結局、穴の中で息の根を止めなければならなくなり、「狙い撃ち」方式に戻ることに・・。
そして、そのような虐殺とは別の公開処刑。ミンスクでは二人の女性が見せしめの絞首刑に。。
その理由は子供殺して、遺体を解体し、肉片を町の市場で売った罪です・・。
女子供も無差別に銃殺するのは良いけど、人肉食べるなんて野蛮なことししちゃダメよ・・
ってことのようです。もちろん支配民族目線ですが。。
また銃殺隊が陥ったトラウマにも言及します。
「血だらけの山積みの死体の中にまだ動くものがあり、その絡み合った死体の山から
いきなり人が立ち上がって、片腕を上げるのです・・」。
このような心理的負担を軽減するため、軍隊式の一斉射撃を実施し、
将校の命令で撃った後は回れ右をして10歩後退・・。
コレで自分が殺した人間を見ずに済むのでした。
さらに発明されたガス・トラックも、その汚物にまみれた凄惨な数10体の死体を
引き出すことが、あまりにも心理的負担が大きく中止・・。
休みなく続く虐殺・・。2ヵ月程度で現場から解放されたジックスのような隊長もいれば、
ハイドリヒに志願してアインザッツコマンド9の隊長となったアルベルト・フィルベルトは、
神経障害と重いうつ病によって4ヵ月でベルリンへ・・。
その後は2年近くRSHAの組織図から姿を消し、1943年末になってようやく配属されたのは
汚職撲滅担当の警察部局という下級ポスト・・。
「戦う知識人」が出世への道であるこの世界で、「弱さの告白」をすることは
要職へ就くことを禁じられたのと同じことなのです。
1944年、敗北を意識した「戦う知識人」たちは様々な行動に出ます。
ゲリラ部隊である「人狼部隊」が検討されると、RSHAⅥ局の学校が破壊活動の学校へと変わり、
あのスコルツェニーがトップに就任。
爆発物の取り扱いや尋問、ゲリラ戦のカリキュラムの作成を指揮したのはザントベルガーです。
また、オーレンドルフは1945年、デーニッツ新政府を訪れ、シュペーアの補佐官に・・。
そして戦後・・。
ハイドリヒと衝突して1940年にRSHAから離れ、デンマークで死刑判決を受けるも
恩赦で釈放されたベストは、元ゲシュタポ局員の裁判での弁護の調整に当たります。
「絶対服従」の論拠を盾にし、「最終的解決」については何も知らなかったと証言するようにと・・。
一方、アインザッツグルッペDの司令官として1年間に行った数万人にも及ぶ殺害行為を
自らの責任と認め、死刑執行されたオーレンドルフ。
しかし、何人かの隊長たちとは違い、彼が自ら手を下した事実は確認されていない・・
ということですが、本書では彼だけは最初から最後まで特殊なケースとして
描かれている気がしました。
後半の約100ページが原注なので、本文は436ページです。
もともと博士論文がベースになっていることから、ちょっと専門的で
スラスラと理解できるものではないですが、充分読みごたえがありました。
個人的には個々の「戦う知識人」たちよりも、アインザッツグルッペンとは何か・・?
ということがある程度、確認することが出来ました。
当初は情報部らしいSDの任務として、占領地の敵対者を特定し、
ゲシュタポによって逮捕するといった、ユダヤ人を絶滅することが目的ではなく、
ドイツ国内での任務と変わらなかったアインザッツコマンドが、ソ連侵攻となると、
その規模が大きくなり、イデオロギー的な命令と、戦争に対パルチザン戦、
バルト諸国と白ロシアにウクライナの民族性、A~Dの司令官やコマンド隊長の各々の考え方、
未知の劣等民族への扱いも含めて、徐々に行為がエスカレートし、
後に「アインザッツグルッペ = 絶滅部隊」と呼ばれるようになった・・。
裁判では全体的に、ユダヤ人処刑命令をすでに死んだハイドリヒに押し付けていますが、
やっぱり、もしハイドリヒが暗殺されなかったら、これ以上、何が起こっていたのか・・。
恐ろしすぎて想像が付きませんが、ふと、思ってしまいました。
このようにアインザッツグルッペンという部隊ですら、一括りにすることはできず、
彼らが数万から数十万人を虐殺したことには変わりありませんが、
それを実行するに当たっては様々な要因と部隊ごとの「個性」が存在していたことが、
理解できたつもりです。
原題は「信じることと皆殺しにすること、戦う機関SSの知識人たち」というもので、
著者アングラオは、いま最も期待されるフランスの若手研究家だそうです。
2010年に発表された本書の前著である、
「黒い狩人たち -ディルレヴァンガー旅団-」も、ぜひ翻訳して欲しいところです。
本が気になったので記事を読ませていただきました。確か著者がフランス系の研究者だかで、あまり注目していませんでした。改めて考えると近年まれに見る現場に焦点を当てた研究のようですね。
ちなみに、ドイツ語の研究ではヘルベルト氏のヴェルナー・ベストの伝記研究と、それを受けてのヴィルト氏の国家保安本部(RSHA)の世代研究が出ています。おそらくは、この本もその延長にあるのではないかと思います。聞いた話では両方とも恐ろしく分厚い本だそうで。できれば早くそちらの方も翻訳されてほしいものです。
Ulrich Herbert,『ベストBest』1996年
Michael Wildt,『束縛なき世代Generation des Unbedingten』2002年
by NO NAME (2012-12-27 23:32)
ど~も。情報ありがとうございます。
ご紹介いただいた本をちょっと調べてみると、確かに700ページに900ページと分厚い本ですねぇ。
抄訳でも良いから翻訳してほしいですが、ちょうどディルレヴァンガーが出てくる「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」を読んだところなので、本書の著者の「黒い狩人たち -ディルレヴァンガー旅団-」もやっぱり気になります。。
by ヴィトゲンシュタイン (2012-12-28 10:03)
紹介ならありますよ。私などこちらしか読めませんからね。原書のどの部分がピックアップされているかはわかりませんが。
ウルリッヒ・ヘルベルト「ホロコースト研究の歴史と現在」永岑三千輝訳『横浜市立大学論叢 社会科学系列』第53巻1号,横浜市立大学学術研究会,2002年1月,127~164頁.
ミヒャエル・ヴィルト「束縛なき世代,国家保安本部(RSHA)のリーダー軍団」最上直紀訳『Quadranteクァドランテ[四分儀]――地域・文化・位置のための総合雑誌』第7巻,東京外国語大学,2005年,161~185頁.
エリート以外にも目を向けるなら、日本語の研究で最近前評判の高い本が出版されています。ゴールドハーゲン論争以降の歴史研究がどう進んだかにも関心があれば読んでみてください。専門書なので値は張りますが、図書館に注文かければほぼ独占できると思いますよ。
小野寺拓也『野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」――第二次世界大戦末期におけるイデオロギーと「主体性」』〈山川歴史モノグラフ26〉山川出版社,2012年.
by NO NAME (2013-03-24 23:26)
詳しい紹介ありがとうございました。
「野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」」、すでに図書館に予約済みで、近いうちに読めると思います。楽しみですね。
by ヴィトゲンシュタイン (2013-03-25 08:24)
アインザッツぐるんぺんは3千人しかいなかったのにどうやって50万以上のユダヤ人を56したのだろう(笑)
by お名前(必須) (2023-09-28 17:56)