独破戦線
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第三帝国を中心にWWⅡを読み倒します
ヴィトゲンシュタイン
2018-05-28T15:02:09+09:00
ja
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マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より
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ど~も。ヴィトゲンシュタインです。エーリヒ・フォン・マンシュタイン著の「マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より」を読破しました。この1年半の間にマンシュタイン本が2冊も出版されるという異常事態。ひとつは上下巻の伝記である「ヒトラーの元帥 マンシュタイン」、もう一冊が1ヶ月ほど前に出た560ページの回想録です。マンシュタインの回想録といえば「失われた勝利」がよく知られていますが、あちらは1939年のポーランド戦から、すなわち第2次大戦に特化した回想録であり、こちらはそれ以前、生い立ち~第2次大戦前まで・・というわけですね。陸軍参謀本部でNo.2となり、また同僚らから「傲慢な性格」といった評価もあるなど、特に平時の参謀本部の様子、有名軍人らの軋轢が赤裸々に・・、なんてのをついつい期待してしまいます。「序章」は生い立ちから。1887年11月24日、エドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将の第10子、 その後妻ヘレーネの第5子として生まれ、子供のいなかった母の妹ヘートヴィヒが嫁いでいるマンシュタイン家に引き渡され、その養父母のもとで愛情に包まれて育ちます。父から受けた影響なども振り返りながら、自らの性格を自己分析。曰く「私のなかに潜む反抗精神のおかげで、のちの人生においても、私がまったく扱いやすい部下とされるようなことは、まずなくなってしまったのである。少なくとも私を良く知らない相手からは、しばしば冷淡で辛辣な男だと思われたようだ」そして父が贈ってくれたマンシュタイン家の歴史を書いた本の表紙には「あくまで忠実に」・・これは、私のモットーとなった・・と。いや~、いきなり意味深ですねぇ。陸軍幼年学校時代の回想では、ベルリンの宮殿でドイツ皇帝臨席の祝典の様子が、嬉々として語られます。宮廷での「侍童勤務」がそれで、侍童衣装は裾が太股のなかほどまで届く緋色の長上着で銀の組紐と肩章で飾られ、レースの飾りを胸と袖、白カシミアの半ズボンにつけ、白い絹の長靴下、黒の留め金付きの短靴、特別の自慢だった優美な帯剣、ダチョウの白い羽飾りの付いた平らな帽子で装束は完成。本書にも写真が掲載されていますが、まぁ可愛らしい。。陸軍幼年学校の彼らは、お客の中でも特に軍の高官に関心を寄せます。例えば、陸軍内で高い名声を博していた老伯爵ヘーゼラー元帥に、大参謀本部の総長シュリーフェン元帥・・といった具合。皇太子の結婚式にも召集された侍童マンシュタイン。..
回想録
ヴィトゲンシュタイン
2018-05-28T15:02:09+09:00
エーリヒ・フォン・マンシュタイン著の「マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より」を読破しました。
この1年半の間にマンシュタイン本が2冊も出版されるという異常事態。
ひとつは上下巻の伝記である「ヒトラーの元帥 マンシュタイン」、
もう一冊が1ヶ月ほど前に出た560ページの回想録です。
マンシュタインの回想録といえば「失われた勝利」がよく知られていますが、
あちらは1939年のポーランド戦から、すなわち第2次大戦に特化した回想録であり、
こちらはそれ以前、生い立ち~第2次大戦前まで・・というわけですね。
陸軍参謀本部でNo.2となり、また同僚らから「傲慢な性格」といった評価もあるなど、
特に平時の参謀本部の様子、有名軍人らの軋轢が赤裸々に・・、
なんてのをついつい期待してしまいます。
「序章」は生い立ちから。
1887年11月24日、エドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将の第10子、
その後妻ヘレーネの第5子として生まれ、子供のいなかった母の妹ヘートヴィヒが
嫁いでいるマンシュタイン家に引き渡され、その養父母のもとで愛情に包まれて育ちます。
父から受けた影響なども振り返りながら、自らの性格を自己分析。
曰く「私のなかに潜む反抗精神のおかげで、のちの人生においても、
私がまったく扱いやすい部下とされるようなことは、まずなくなってしまったのである。
少なくとも私を良く知らない相手からは、しばしば冷淡で辛辣な男だと思われたようだ」
そして父が贈ってくれたマンシュタイン家の歴史を書いた本の表紙には
「あくまで忠実に」・・これは、私のモットーとなった・・と。
いや~、いきなり意味深ですねぇ。
陸軍幼年学校時代の回想では、ベルリンの宮殿でドイツ皇帝臨席の祝典の様子が、
嬉々として語られます。
宮廷での「侍童勤務」がそれで、侍童衣装は裾が太股のなかほどまで届く緋色の長上着で
銀の組紐と肩章で飾られ、レースの飾りを胸と袖、白カシミアの半ズボンにつけ、
白い絹の長靴下、黒の留め金付きの短靴、特別の自慢だった優美な帯剣、
ダチョウの白い羽飾りの付いた平らな帽子で装束は完成。
本書にも写真が掲載されていますが、まぁ可愛らしい。。
陸軍幼年学校の彼らは、お客の中でも特に軍の高官に関心を寄せます。
例えば、陸軍内で高い名声を博していた老伯爵ヘーゼラー元帥に、
大参謀本部の総長シュリーフェン元帥・・といった具合。
皇太子の結婚式にも召集された侍童マンシュタイン。
前日に6頭立ての馬車でにぎにぎしくベルリンに迎えられた皇太子妃に
何千ものベルリンっ子たちが魅力的な外見の若い花嫁に喝采を送ったそうですが、
この人は以前、なにかで調べましたねぇ。ちょっと男前な感じで。。
日本人として興味深かったのはこんな部分です。
「ほとんどすべての諸侯が代理人を結婚式に派遣しており、
日本の天皇も皇子を一人送り込んでいた。あいにくなことに彼は序列に従って、
食卓でロシアの大公と向かい合う席に着かなければならなかった。
当時、ロシアと日本はまだ戦争になってなかったが、大きな花かごが置かれ、
二人の対手が互いに見えないようにされた」
この結婚式は1905年6月6日、あれ? ひょっとして日露戦争の真っ最中??
天皇の皇子となると、大正天皇のことかも知れませんね。
期待していた第一次世界大戦についてはわずか2ページ弱。
続く「結婚」には7ページを割いているわけですが、
まぁ「序言」でも小さな歯車の役割を果たしたに過ぎない・・と書いてますし。
こうして81ページから第1部「ライヒスヴェーア」が始まります。
ライヒスヴェーアとは、ワイマール共和国軍というか、
「ゼークトの10万人軍隊」と言った方が馴染みがありますね。
「カップ一揆」に触れながら、第5歩兵連隊の中隊長としての部隊勤務、
そして参謀将校には慣例となっている、その2年間の中隊長勤務を終えて、
参謀部、当時は「指揮官幕僚将校」と呼ばれていた部署に配置され、
その後、1929年9月、ヴェーファー中佐の後任として、「T1・第1課長」に。
「T1」とは部隊局第1部のことで、参謀本部作戦部に相当するそうで、
ヴェーファー中佐とは、初代空軍参謀総長の、あのヴェーファーでした。
所属している若い参謀将校にはホイジンガーやカムフーバー。
T1部長で直属の上官はヘルマン・ガイヤー大佐。
曰く「ガイヤーはカミソリのような理解力の持ち主だった」
さらに1つ上の上官が部隊局長のアダム将軍で、事実上の陸軍参謀総長です。
バイエルン出身者が参謀本部のトップに召されるのは初めてのことで、
コッチコチのプロイセン軍人マンシュタインとの相性が心配になるものの、
「アダム将軍はいつも格別に親切で、全幅の信頼を寄せてくれたのである。
私も、彼を特別に尊敬していた」
1931年、海外旅行に出かけることになったマンシュタイン。
行先はアダム将軍を招待したソ連であり、その随行者に選ばれます。
赤軍はできる限り多くのことを見せようと努め、陸軍大学校の講義をはじめ、
空軍大学校、近代的施設を備えた付属研究所も見学。
続いて、キエフとハリコフへ豪華な客車の旅。
巨大なトラクター工場は近代的で、すべて米国の機械を設置され、
格別に興味深かったと回想します。
そ~か。ハリコフはこのときに下見済みだったのか・・。
モスクワでは国防相ヴォロシーロフの客人となって、
クレムリン内にある彼の住居へ。部屋数も少なく質素な印象です。
この旅行中に知り合った軍司令官たちにはブジョンヌイもいます。
軍人らしく、ぶっきらぼうで豪傑。別れの宴では隣の席に。。
しかし「その他の軍指揮官たちのなかで、今なお存命なのは・・」とあるように
赤軍参謀総長のエゴロフや、「なんとも興味深い人物」というトハチェフスキーなど、
数年後にはほとんどが「粛清」されてしまうのです。
そのトハチェフスキーについては
「聡明で無遠慮でありながら、うちとけない男であると感じられた。
技術的協力には熱心だったけれども、フランスの方に共感を寄せていた」
当然、「レーニン廟」詣では必須であり、レニングラードに寄って
エルミタージュ美術館見学も楽しみます。
翌年にもソ連再訪し、ロストフ、バクーからトビリシまで。
とある駅では、憧れていた楽園を見つけられずに失望した
ドイツの共産主義者との出会いも。。
う~む、マンシュタインがこんなにソ連通だったなんて知りませんでした。
「バルバロッサ」でレニングラード奪取を目指したマンシュタインに
そこを防衛するヴォロシーロフ・・なんて図式もありましたしねぇ。
ブラウ作戦の下見から帰国後、コルベルクの第4歩兵連隊猟兵大隊長を継承。
率直で正直、親切な人柄の上官として全員の尊敬を受けるのは
連隊長のシュトラウス大佐です。
時を同じくして「ヒトラー内閣」が誕生。本書も250ページからナチナチしてきました。
コルベルクで経験した「大政治集会」ではフォン・シーラッハが演説し、彼の指導の下に
全ての青少年を結集すべしと大柄な態度で訴え、大いに尊敬されていたトロータ提督の
青少年団体をけなしたことで、若い軍人たちの感情を害します。
別の集会には「プロイセン州首相」のゲーリングが登場するということで、
ベルリンから1個儀仗中隊を配置せよとのおかしな命令が・・。
儀仗中隊を出すのは国家元首の訪問に際してのことで、州首相は対象外。
そこで式典の際には儀仗中隊をゲーリングではなく、第4歩兵連隊長に
表敬報告させる意趣返しをし、連隊長は儀仗中隊を閲兵。
ライヒスヴェーアはナチ党の警護隊ではないことを示すのでした。
将来、参謀本部の要職に配置するため、ベルリンの軍管区司令部の参謀長などを
経験しておくべし・・と陸軍統帥部長官(陸軍最高司令官)ハマーシュタインから
言われていたとおり、1934年2月、第3軍管区参謀長に就任したマンシュタイン。
同時に軍管区司令官だったフォン・フリッチュ男爵はハマーシュタインの後任となり、
フリッチュの後任の軍管区司令官になったのはプロイセン貴族のヴィッツレーベンです。
「2人の協力関係は意見の相違もなく、ナチ党、特にそのいかがわしい代表者に対しては
彼はあからさまな嫌悪を以て接したのである」
あ~、「ワルキューレ」参加組ですからねぇ。。
また、助手の作戦参謀には伯爵フォン・シュポネック大佐がいたそうな。。
クリミア戦での独断退却→マンシュタイン激怒→死刑宣告の彼ですね。
軍管区参謀長として、ナチ党諸機関との協力が必要とされるものの、
ブランデンブルク州を支配していたのは、州長官兼大管区指導者クーベ。
公式には自分は国防軍と結びついていると強調しつつも、本当のところは
国防軍の宿敵であり、特に将校に対して反感を抱いていたクーベ。。
「その不品行ゆえに、ヒトラーも罷免せざるを得なかったが、理解しがたいことに
戦争中にクーベを呼び戻し、」と、パルチザンに爆殺される最期までボロカスに紹介。
マンシュタインにも、ハイドリヒにも嫌われたまさに最悪の人物のひとりですな。
このあたりから俄然、盛上ってまいりましたので抜粋しましょう。
「格別にまずかったのは、当軍管区には、突撃隊(SA)の高位の幹部も配置されている
ことだった。ベルリンにおいて突撃隊の頂点にいる男、カール・エルンストのことだ。
威張り散らすばかりの若造で、早くに厳しいしつけを受けていれば、ひょっとしたら
彼も何ものかになれたかも知れない。彼は、自分の地位は、軍団長に相当するものと
思い込んでいたようだ。エルンストの登場の仕方は、傲慢、不当な要求、
前代未聞の浪費といった点で際立っていた」と、ゲーリングも出席した
カイザーホーフでの結婚式にまで触れられています。
「シュレージェンで突撃隊のトップにいたのは、悪名高いエドムント・ハイネスだった。
犯罪者的性格がはっきりとみられた人物だ。ブレスラウの司令官ラーベナウ将軍は、
これ以上、突撃隊の不法行為に反対するなら殺すとハイネスに脅されたことがあった」
そしてここから軍vs突撃隊、6月30日に起こった「長いナイフの夜」事件までを
軍管区参謀長マンシュタイン自身の経験をもとに振り返ります。
「時を経るごとに、SA最高指導部が、少なくとも軍を支配下に置こうと企図していることが
いっそう明確になってきた。彼らはクリューガー上級集団指導者のもとに
教育訓練幕僚部を新設したのだ。軍管区司令部に寄せられる、SAが秘密裏に
武器を調達しているとの情報は週を重ねるごとに増していく。
レームが「国民軍」編成を求め、そのなかにライヒスヴェーアを吸収しようとしている
こともわかってきた。しかし国防相ブロムベルク将軍にとっては、我々の警告は
お気に召さぬものであった。ブロムベルクは完全にヒトラーに魅了されており、
私とヴィッツレーベンは反動だとみなしていたのである」
「いずれにせよ、ヒトラーですら、彼のナチ党警衛隊と軍の緊張が拡大していくのを
看過することはできなかった。ゆえに調停を試みようと、軍、SA並びにSSの
高級指揮官を国防省に招集し、演説を行ったのだ。
直接ヒトラーを目撃し、その演説をじかに聴いたのは、このときが初めてであった。
ヒトラーは、国防軍こそが、国民中「唯一の武器の担い手」であるし、
これからも同様であると、明確に強調した。SAとヒトラーユーゲントは
政治教育と兵役適格者の育成という仕事が割り当てられる。
だが、ヒトラーの説明に対して、SAやSSの一部指導者が示した態度から
我々軍人は、相手はこの協定を守らないだろうと結論付けたのみであった」
「6月末、ベルリンでは緊張が進み、頂点に達そうとしていた。
SAがクーアフュルステン通りの軍管区司令部の向かい側にある家を押さえ
夜陰に乗じて、そこに機関銃を持ち込んだことが確認されたのである。
我々は執務所の衛兵を増強した。各部隊もまた、兵営が奇襲攻撃されるような
事態に備え、守備を固めておくべしとの指示を受領した。
軍管区司令部ではなく、グロース=リヒターフェルデに居住していた私は
6月30日直前の数夜においては、今夜にでもSAが自分を拉致しようと
するのではないかと覚悟していたのである」
このようにして「長いナイフの夜」が発生し、シュライヒャーとブレドウ両将軍まで
殺害された軍と、その和解までの経緯が語られ、「そもそも・・」とまとめます。
「あのころ犯された決定的な誤りは、レームのような男を大臣に任命することに
内閣が賛成したことなのである。レームが同性愛の性交に耽っていることは、
そこかしこで噂されていた。法に従うならば監獄にいなければいけないような男が
入閣するということは、ほとんど想像を絶することと思われた。
ヒトラーが、もっと早くにレームと決別していれば、6月30日に実行された
血まみれの法律毀損は避けられたかもしれない」
確かに水木しげるの「劇画ヒットラー」でも、
「お前はSAを野放ししすぎやしないか。苦情が絶えないじゃないか。
それとホモもやめてくれ。
いやしくも一国の大臣がホモなんて話、聞いたこともない」と
ヒトラーがレームに苦言を呈してましたからね。
この殺されたシュライヒャーについて、10数ページ割いているのは興味深く、
人々は、陰謀家、権力を奪わんとした野心家、倒閣運動家、灰色の枢機卿
だと見たがっているものの、ワイマール共和国の安定のために尽くしたことも
忘れられており、ライヒスヴェーアを安定させ、それによって国家権力を
安定させようと、彼が努力したことについての判断も歪められているとします。
「シュライヒャー隷下で働いたことは一度もない」のに、マンシュタインのこの擁護は
ちょっと意外な感じがしました。
また、マンシュタインが最も尊敬する軍人は1935年から参謀総長となった
ルートヴィヒ・ベックです。
「彼は徹頭徹尾遠慮深く、ゆえに、ことの裏側に常に隠れていた。
が、かかる特性には、その性格の誠実さと同じく、偉大なる作戦能力、
何ものにも左右されない明快な判断力、決して放棄されることのない義務観念、
多面的な教養が寄り添っていた。とにかく彼には、その偉大なる先達である
伯爵モルトケ元帥を彷彿とさせるものがあったのだ。
かのモルトケ元帥のおかげでドイツ参謀本部は世界的な名声を得たのだったが
実際、ベックを除けば、敢えてモルトケと比較できるような軍人には
私もお目にかかったことがない。
人間としてのベックは私が出会ったなかでも、最も貴族的なあり方をしていた。
それが仇となって、ヒトラーのごとき野蛮な輩に屈したのも無理はないことだと思われる」
大絶賛ですが、平時の参謀総長なんであまり知られてないんですよね。
映画「ワルキューレ」のテレンス・スタンプといったら思い出す人がいるかも。。
かつては陸戦の指揮に責任を負うカイザーの諮問役は参謀総長だけであり、
第1次大戦において、ヴィルヘルム2世の陸軍に対する統帥権行使は
名目的なものでしかなく、戦争指導は参謀総長に委ねられていたとした上で、
1930年代の陸軍参謀本部再生にあっては、まったく異なる事情に支配されます。
陸軍参謀総長はもはや、「最高司令官たる将帥」の相談役ではなく、単に
陸軍総司令官の相談役に過ぎず、それも彼が分担する領域に関してのみ。
さらに深刻なのは陸軍参謀総長が国家元首に直接働きかけるのは
不可能であり、国家元首と陸軍総司令部の間に、国防軍全体の最高司令官である
国防大臣が入ることによって、かつて「軍事の相談役筆頭」という地位から、
陸海空軍それぞれの総司令官の「補佐役相当」という三等職に転落・・。
「装甲兵科の創設」は、思わず苦笑いしながら読んでしまいました。
当時、作戦部長・参謀次長だったマンシュタイン曰く
「陸軍拡張計画と禁じられていた兵器の導入に関して最優先とされたのは
装甲兵科の創設だった。まさにドイツ装甲兵科の創設者と呼ばれるグデーリアンは
彼の回想録で本件を詳述している。グデーリアンのタフさと戦闘的な気質がなければ
ドイツ陸軍が装甲兵科を保持することはなかった。戦争初期の数年間に
彼が挙げた戦果の大部分も、そうした性格に拠っているのだ。
しかしながら、装甲兵科の問題における陸軍参謀本部の活動は、
躊躇いがちなものだったとするグデーリアンの記述には賛成しかねる」
「あらゆる革新者同様、グデーリアンが強い抵抗と闘わなければならなかったことは
間違いない。軍隊というのは、昔から保守的なものなのだ。
年長の将軍たちの多くが革命的なアイディアに対して、懐疑どころか、
拒絶を以て対応したこともはっきりしている。けれども、陸軍参謀本部が
装甲兵科の意義を認識しようとしなかったとか、グデーリアンに同調しようとせず、
この兵科が陣地戦を克服する手段になるとも思わなかったというようなことは、
絶対にない。両者の見解の相違は、むしろ本質的なところにあった。
彼の立場からすればわからないでもないが、グデーリアンが、ただ装甲兵科のこと
のみを注視していたのに対し、陸軍参謀本部は、陸軍全体のことに
目配りしていなければならなかったのである」
戦車の運用は、装甲兵科によって集中的に行われることになるわけですが、
歩兵師団にとっても「機動性のある砲」が欲しいとマンシュタインが考えたのが
「突撃砲兵」です。
参謀総長ベックでさえ「ふむ、マンシュタインよ。今度ばかりは君も的を外したな!」
と、当初は賛同を得られません。なにしろベックだけでなく、総司令官、
陸軍局長、兵器局長ら上層部は全員が砲兵出身であり、装甲兵科の者たちは
突撃砲兵を「ただ望ましくない競争相手」としか見ず、対戦車砲兵も
自分たちの専門の任務に他の者がもっと良い何かを得るなど許すハズもなし。
まぁ、そんな経緯からマンシュタインもグデーリアンの気持ちが良くわかるんですね。
そうか、陸軍大学校の同期生だったっけ。。
1936年、ナポリ周辺で実施されたイタリア軍の演習の客になったマンシュタイン。
軍事的な面以外にも、特に彼のムッソリーニ評が印象的でした。
「現在の私は、ムッソリーニはいつでも人間的であったと言いたい。
ムッソリーニは、ヒトラーのような意志と知性だけの人というわけではなかった。
同様に彼がその「使命」についての思索だけに囚われていなかったことも確かである。
彼の目的は、その国民を以て、新たなローマ帝国を打ち立てることだった。
だがムッソリーニが祖国の運命と自らを同一視することは、ほとんどなかった。
ヒトラーが次第にそうした方向に傾いていったのとは、違うやりようだったのだ」
陸海空3軍の差異についても言及します。
陸軍は数世紀に渡る伝統に一番深く根ざしているのは確か。
海軍も一定程度同様ながらも、カイザーの海軍。
空軍はナチ体制の産物であり、トップにはヒトラーに続く党人ゲーリングが。。
そしてヒトラーが不機嫌そうに言った言葉を紹介します。
「私はプロイセンの陸軍、カイザーの海軍、ナチスの空軍を持っている」
この3軍を統括する国防相ブロムベルクは、空軍総司令官ゲーリングの
上官になるわけですが、他方、両者は大臣として同格というヤヤコシさ。
さらに新設のOKWにどこまで統合指揮権を渡すか・・というプライドを賭けた問題が。
マンシュタインは当然、海空軍の指揮権もOKHが握るべきだと提案。
この提案にヨードル大佐は「何とも頭が痛いのは、OKHに居を構えているのは
最強の人物だということですよ。もし、フリッチュ、ベック、そして貴官がOKWにいたら
まったく別のことを考えるでしょう」
こうしてブロムベルク=フリッチュ事件へと進み、
フリッチュの後任にはブラウヒッチュが、さらに大規模な人事異動により、
マンシュタインも次長の座を解任され、第18師団長に任命されます。
マンシュタインの後任はハルダー、ベックも怒りをあらわにします。
将来の参謀総長候補と目され、ベックの後任にと噂された、
参謀将校にとって最も栄光のある望みは潰えたマンシュタイン。
このあたり「ドイツ参謀本部」では、ベック参謀総長と、彼が後継者と目していた
マンシュタインのコンビがブラウヒッチュ総司令官にとって決して魅力のあるものではなく
この強力にして自信に満ちたプロイセン人を追い出すのに反対する理由はなかった・・
とし、軍管区司令官当時のブラウヒッチュが参謀本部から派遣されたマンシュタインの
高飛車な態度に腹を立て、その恨みが尾を引いていた・・とも。
本書では具体的な話はなく、ブラウヒッチュとも協力していると感じました。
ひょっとしたらマンシュタインが、その恨みに気づいていなかっただけかも。。
最後はチェコ問題で戦争の危機。ベック抗議の辞任、ハルダーによる反乱計画と
「ミュンヘン協定」によってその計画もフイになるところまで。
非常に幅広い回想録で、ひとつひとつのエピソードも緻密に感じました。
どの時代のエピソードに興味を感じるかは人それぞれだと思いますが、
能無しの上官に、役立たずの部下の実名を挙げては毒づく・・ということもなく、
個人的には「ソ連ツアー」と「突撃隊バトル」を楽しく読みました。
また、後半どうしても考えてしまったのは、
「もし」ハルダーに変わることなく参謀総長になっていたら・・?
ヒトラー排除を目論む尊敬するベックに従ったのか?
参謀総長として全く同じ「マンシュタイン・プラン」が立てられたのか?
あるいは「超」マンシュタイン・プランになったのか?
「バルバロッサ作戦」はもっと戦略目標が明確になったのか?
など、多少はその結果が違った気がします。
でもハルダーよりは早く罷免されそうですな・・。
「最高の戦術家」は参謀であるべきなのか、前線の司令官であるべきなのか
そんな答えのないことまで悶々と考えを巡らせてしまう一冊でした。
それにしても1958年の本が、60年を経て翻訳出版されるのは素晴らしいことです。
今後も第2次大戦を経験した軍人の回顧録がバンバン出ることを希望します。
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ヒトラーの絞首人ハイドリヒ
https://ona.blog.ss-blog.jp/2018-05-13
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。ロベルト・ゲルヴァルト著の「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」を読破しました。前回、ホト爺の回顧録を読み終えて、この2年の間にグデーリアンやロンメル、マンシュタインの本が出版され、次はナニを・・と書きましたが、独破戦線の休止期間中には第三帝国の軍人だけではなく、ナチス幹部らに関する本も何冊か出ていました。例えばローゼンベルクだったり、フライスラーだったり・・。ですがココは1年半前に出版された、524ページに及ぶハイドリヒ伝を選んでみました。まず巻頭には20枚ほどの写真が・・。ヒムラー、ゲーリング、カール・ヘルマン・フランクらとの有名な写真から、パパ・ハイドリヒ、姉マリアとの可愛らしさ溢れる2ショットなどです。そして第1章は「プラハに死す」。おっと、主役がいきなり暗殺されてしまうとは。。この章は20頁に簡潔に書かれており、以前に「暁の七人-ハイドリッヒの暗殺-」や「HHhH -プラハ、1942年-」など、いろいろ紹介してるので割愛します。そういえば、『ハイドリヒを撃て 「ナチの野獣」暗殺作戦』、まだ観てないですよねぇ。第2章は「若きラインハルト」で、父ブルーノの生い立ちから、音楽学校を創設し、かなりの財力と社会的地位をもった家庭に生まれたラインハルト。家長として家業を継ぐべく、幼少期からピアノにバイオリンのレッスンを始めます。しかし1922年、第1次大戦後のインフレ、音楽学校経営の悪化・・という事実の前に海軍士官の道を歩むことを決意するのでした。。1930年には美しい19歳の金髪女性リナ・フォン・オステンとの運命的な出会い。恋の虜となったラインハルトは早速、リナに手紙を書きます。「ぼくの最愛の最愛のリナ! ぼくはきみに知ってほしかった。ぼくがきみのことばかり考えてるってことを。ああ、どんなに深く愛していることか、きみを、きみを!」書いてる方が恥ずかしいのでコレくらいにしますが、この当時、リナは確信的なナチ党支持者でバリバリの反ユダヤ主義者、兄のハンスは3年の党歴を持ち、突撃隊(SA)のメンバーなのでした。そしてコレまた運命的なベルリンの「女性問題」が発覚します。本書でも「このベルリンの女性の身元について確実に言えることは、彼女の父親が海軍上層部に密接なコネクションを持っていたに違いないということぐらいである」とハッキリしませんね。ラインハルトの裏切りによって「神経症」になってしまった娘の..
SS/ゲシュタポ
ヴィトゲンシュタイン
2018-05-13T12:05:11+09:00
ロベルト・ゲルヴァルト著の「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」を読破しました。
前回、ホト爺の回顧録を読み終えて、この2年の間にグデーリアンやロンメル、
マンシュタインの本が出版され、次はナニを・・と書きましたが、
独破戦線の休止期間中には第三帝国の軍人だけではなく、
ナチス幹部らに関する本も何冊か出ていました。
例えばローゼンベルクだったり、フライスラーだったり・・。
ですがココは1年半前に出版された、524ページに及ぶハイドリヒ伝を選んでみました。
まず巻頭には20枚ほどの写真が・・。
ヒムラー、ゲーリング、カール・ヘルマン・フランクらとの有名な写真から、
パパ・ハイドリヒ、姉マリアとの可愛らしさ溢れる2ショットなどです。
そして第1章は「プラハに死す」。
おっと、主役がいきなり暗殺されてしまうとは。。
この章は20頁に簡潔に書かれており、以前に「暁の七人-ハイドリッヒの暗殺-」や
「HHhH -プラハ、1942年-」など、いろいろ紹介してるので割愛します。
そういえば、『ハイドリヒを撃て 「ナチの野獣」暗殺作戦』、まだ観てないですよねぇ。
第2章は「若きラインハルト」で、父ブルーノの生い立ちから、音楽学校を創設し、
かなりの財力と社会的地位をもった家庭に生まれたラインハルト。
家長として家業を継ぐべく、幼少期からピアノにバイオリンのレッスンを始めます。
しかし1922年、第1次大戦後のインフレ、音楽学校経営の悪化・・という事実の前に
海軍士官の道を歩むことを決意するのでした。。
1930年には美しい19歳の金髪女性リナ・フォン・オステンとの運命的な出会い。
恋の虜となったラインハルトは早速、リナに手紙を書きます。
「ぼくの最愛の最愛のリナ!
ぼくはきみに知ってほしかった。ぼくがきみのことばかり考えてるってことを。
ああ、どんなに深く愛していることか、きみを、きみを!」
書いてる方が恥ずかしいのでコレくらいにしますが、
この当時、リナは確信的なナチ党支持者でバリバリの反ユダヤ主義者、
兄のハンスは3年の党歴を持ち、突撃隊(SA)のメンバーなのでした。
そしてコレまた運命的なベルリンの「女性問題」が発覚します。
本書でも「このベルリンの女性の身元について確実に言えることは、
彼女の父親が海軍上層部に密接なコネクションを持っていたに違いないと
いうことぐらいである」とハッキリしませんね。
ラインハルトの裏切りによって「神経症」になってしまった娘の父親は、
海軍総司令官のレーダーに訴状を提出したことで、軍事名誉法廷で
事情説明を求められたハイドリヒ。
「婚約不履行」は士官の即刻罷免に繋がるほど重大な違法行為ではないものの、
「相手女性が性的関係をリードしたのだ」と主張し、結婚の約束も否認。
自分には何の落ち度もないかのような口ぶりが、3人の海軍軍人の神経を逆なでし、
最終的にはレーダー提督の裁きによって「直ちに罷免」。。
桧山 良昭 著の「ナチス突撃隊」には、
1931年にヨットに乗りたくて入党したSA船舶隊長、ハイドリヒ・・
という記述があってビックリしましたが、本書でもそのような経緯はなく、
とりあえずSSのヒムラーと面談し、無事、舎弟となったハイドリヒ。
ハンブルクのSSで勤務する新人ハイドリヒは、暴れ加減では経験豊富で、
後に盟友となるシュトレッケンバッハに出会い、
共産党などの演説会場への「殴り込み部隊」のリーダーとして急速に悪名を獲得。
ハンブルクの共産党員からは「金髪の野獣」と呼ばれるように・・。
確かにこの章タイトルは「ハイドリヒ誕生」でした。。
ヒムラーが「美しいカップル」と呼んだ、新婚のハイドリヒ夫妻は
ミュンヘン郊外に小さな家を借ります。
そんな新生活も若奥さんのリナにとっては新しい環境の中で孤独の日々。
旦那は新設の「SD」の職務に忙殺されて、家にいる時間はごくわずか。
オマケに旦那の上司ヒムラーの奥さん、マルガレーテとちょいちょい顔を合わせるも
「陳腐な、ユーモアのない女性」と評して、好きになれず・・。
1934年春までにドイツの州のほとんどの政治警察組織を管理下に置いた
ヒムラー&ハイドリヒのコンビですが、最も重要なプロイセン州のゲシュタポも
仕切っているゲーリングをだまくらかしてなんとか掌握。
ハイドリヒはバイエルンの政治警察からハインリヒ・ミュラー、ヨーゼフ・マイジンガー
といった信頼する部下を呼び寄せます。
こうしてレームとSAの粛清、「長いナイフの夜」へ。
勝利と成功を証明したSSがより強力になることをよく思わない勢力も存在します。
内相のフリックはドイツ警察に対する自分の権威がヒムラーとハイドリヒによって
切り崩されていることに苛立ち、レーム事件で数名の将軍が殺害された軍部も同様。
他方、陸軍保守派をイデオロギー的に信用し難いと考えるヒムラー&ハイドリヒ。
もちろん軍の情報部門アプヴェーアのカナリスとの駆け引きも始まってきます。
また奥さんリナの戦いは1937年になっても続いています。
それは頻繁にハイドリヒ家を訪れるヒムラー夫妻。
マルガレーテはSS全国指導者の妻としての風を吹かせてリナに説教し、
「リナと離婚するようハイドリヒに言ってほしい」と旦那に迫るほど。。ひぃぃ、コワイ!
オーストリア併合では、ウィーンに一番乗りした人々の中にヒムラー&ハイドリヒがおり、
一斉逮捕の第一波の指揮と、オーストリア警察の「浄化」に取り組む様子が詳しく。
このあたりは今まで読んだ記憶がなく、興味深かったですね。
続くズデーテンラント問題では、両国政府が全面動員を開始するなか、
ハイドリヒは「アインザッツグルッペン」2個の結成を承認。
次のポーランド戦では、ドイツ軍の侵攻3時間前に書かれたリナ宛ての遺言書が
1ページに渡って掲載されており、コレはかなり印象に残ります。
3回読み直しちゃいました。
第6章「大量殺戮の実験」は、ポーランド戦での「アインザッツグルッペン」の様子が。
ハイドリヒが視察した部隊はシュトレッケンバッハとウード・フォン・ヴォイルシュ。
抵抗分子には最大限の過酷な手段によって対処すべきだと繰り返し、
ユダヤ人については徹底的に弾圧し、独ソ境界線を越えて東方への逃亡を仕向けるよう
命令するハイドリヒと、そんな任務にうってつけの男であるヴォイルシュ。
数日間で500人のユダヤ人の命を奪い、シナゴークで焼殺、農村部で銃殺と努力を倍加。
西プロイセンではヒムラーの個人副官ルドルフ・フォン・アルフェンスレーベン指揮のもと
4000人以上のポーランド人を殺害して、特別の悪名を獲得するのでした。
翌年の「西部戦線」はハイドリヒにとっては敗北の日々。
なぜならポーランド戦でアインザッツグルッペンが過度の暴力を振るったことで
陸軍がSSの参加を拒否。まぁ、武装SSとは別の・・という意味でしょうね。
そんなわけでノルウェー戦線で一時的にドイツ空軍に参加する許可をヒムラーに求めます。
1935年からスポーツパイロットとしての訓練を受けており、ポーランド上空で
射撃手として空戦デビューを果たしていたハイドリヒ。
表向きはどこかの部隊の空軍大尉ということで、4週間、「戦闘機中隊77」に所属して
退却するノルウェー軍を空から襲撃し、同僚士官と酒を酌み交わし、トランプに興じたり。
「自分は元気です」とヒムラーに報告すると、
「終始、君のことを考えている。元気でいて欲しい。
もう一度、君の健勝と無事を祈る!
できることなら毎日便りをしてもらいたい」
と、直ちに返信を送るヒムラー。変な想像はイケませんぜ。。
さらに「バトル・オブ・ブリテン」の航空作戦にもハイドリヒは参加するつもりであり、
英国を征服した際には、アインザッツグルッペンの責任者にはジックスを任命。
ゲシュタポ用のハンドブックを作成しているのはシェレンベルクです。
「GB特別捜査リスト」として挙げているのはチャーチルやイーデンといった政治家の他に
H・G・ウェルズの名前まで・・。
もはや「SS-GB」の世界の一歩手前といった感じですね。
翌1941年は再び、ハイドリヒと彼の「アインザッツグルッペン」の出番がやって来ます。
陸軍補給局長エドゥアルド・ヴァーグナーと交渉し、SSと国防軍の協力で合意します。
ネーベ、ラッシュ、オーレンドルフが率いる各部隊に、
シュターレッカーのA部隊の17人の指導的将校のうち11人は法律家であり、
9人は博士号取得者で、古参党員も多く、ハイドリヒのSDで昇進してきた
40歳未満の高学歴者が中心。彼らは無慈悲さと実践主義を体現したのです。
6月11日、ヒムラーはヴェーヴェルスブルク城にSSの大物たちを招集します。
ハイドリヒにダリューゲ、ヴォルフ、そして占領下ソ連領を管理するために任命された
SS・警察高級指導者のプリュッツマン、バッハ=ツェレウスキ、イェッケルン。
席上、「東ヨーロッパ住民が3000万人は死ぬだろう」と述べるヒムラー。
いや~、スゴイ面子の会議だ。「ヴァンゼー会議」より興味があります。
バルバロッサが始まり、前線後方でパルチザン活動が勢いを増し始めると
国防軍も虐殺行為に対して寛容になったばかりか、自身も喜んで参加するように。
ハイドリヒがアインザッツグルッペンの視察に訪れれば、上司にイイトコ見せようと
いつもより多く殺してしまうのも理解できます。。
そんなころ、ハイドリヒに衝撃的な決定が・・。
対ソ連終結のあかつきには、占領地域は「東部占領地域大臣」ローゼンベルクの
全面的統括下の文民機関によって統治されるというヒトラーの決定です。
SSは新占領地域の治安維持業務に限定されたことで、ハイドリヒはさしずめ
ローゼンベルクとSSの連絡将校というショボイ立場に。。
ローゼンベルクの新占領地域はいくつかの管区に分けられ、各々に特別委員が任命。
その特別委員を絶対的ライバルと見るハイドリヒ・・。
オストラント帝国管区のヒンリヒ・ローゼ、
ウクライナ帝国管区は肥満漢エーリヒ・コッホ、
白ルテニアの行政委員となったヴィルヘルム・クーベは虚栄心が強く腐敗した男で、
1935年にハイドリヒが彼の身辺を捜査した結果、横領で有罪となり、
一時、党の全役職を剥奪されたことでハイドリヒに恨みを抱いている男。
ただナチ党歴が古いというだけで東方での重要な地位に任命されている連中に、
ハイドリヒは嫌悪感を覚えるのでした。
今度はヒムラーに内緒で、Bf109に乗り込んだハイドリヒ。
この機はウーデットから、夜間の空襲中にベルリンを通行する特別の警察許可を
与えるのと引き換えに借りていたようですが、辿り着いた部隊はまたも「戦闘機中隊77」。
コレは翻訳の問題か、おそらく第77戦闘航空団(JG77)だと思います。
そしてハイドリヒは対空砲火により被弾し、ロシア軍前線付近に不時着。
数時間後、斥候兵が不時着したパイロットを救出の報告が入ります。
しかしそのパイロットは外傷はないものの、脳に損傷を受けている可能性が・・。
自分のことを「RSHA長官」だと言い続けている。。
この直前に英国へ飛んで行き、「自分はナチ党副総裁だ」と言った人を思い出しますねぇ。
アルコール依存や精神障害の例が見られるとの報告を頻繁に受け、
銃殺というアインザッツグルッペンの処刑方法に疑念が出始めると、
いよいよアイヒマンだのガス・トラックだのガス室だのという「ホロコースト」が。
「狂信的で陰険なオーストリア人」と紹介されるのはグロボクニクです。
このように、後世にも名を残す極悪非道のアインザッツグルッペンを指揮し、
ユダヤ人問題の最終的解決を目指す「ヴァンゼー会議」も紹介されたあと、
337頁から第8章「保護領の支配者」が始まります。
ちなみに本書はこれまで語られてきたハイドリヒのイメージ、
すなわちシェレンベルクが「凄まじく野心的」、カール・ヴォルフが「悪魔的」と評した
金髪の野獣ハイドリヒのイメージを踏襲するような伝記ではなく、
あくまで現存する公的な資料、残された手紙、理性的な証言を元に書き起こされており
逆に言えば「ハイドリヒってどんだけ悪い奴やねん・・」という極悪人エピソードの連発に
思わず苦笑いしながら楽しむ本ではありません。
裏の取れないハイドリヒ極悪人伝説は極力排除し、あるいは有名な逸話を紹介した場合でも
「証明されていない」と、あくまで「噂」の域を出ないことを明確にします。
まだバルバロッサとアインザッツグルッペンが進撃中の1941年9月、RSHA長官としての
職はそのままに、ベーメン・メーレン保護領副総督に任命されたハイドリヒ。
総督ノイラートの緩い保護政策を回復させるだけでなく、ベルリン、ウィーンと並び、
プラハが「ユダヤ人ゼロ」とされるべき主要都市の一つとしてヒトラーが選んだことによる
人選であり、それを急速に実行するのにうってつけだったのがハイドリヒ・・というのが
著者の見解です。ふ~ん。なるほどねぇ。。
この対ソ戦の勝利を目前としてベルリンから離れざるを得ないハイドリヒですが、
SS大将及び警察大将に昇進し、口うるさい占領地行政官やガウライターらとの軋轢もなく、
思いっきり自身のSS政策を実行でき、なにより、保護領総督の地位は「総統直属」であり、
ヒトラーとの直接の接触の道を開いたということになるわけです。
そして保護領内の4つの大管区、ズデーテンラント、オーバードナウ、ニーダードナウ、
バイエリッシュ・オストマルクの外見に加え、知的能力も劣ったガウライターらに
攻撃を開始し、最も頑強な抵抗者ニーダードナウのフーゴ・ユリを名指しして、
自分の計画を混乱させる元凶だと痛罵。
非協力的なナチ党官吏たちも容赦なく解任するのでした。
抵抗運動の抑え込み以外にも重要な仕事、それは「保護領のゲルマン化」です。
チェコ人は基本的にスラヴ民族とされているわけですが、SS人種専門家の意見では
チェコ住民の相当数は本来ドイツ系であり、ほぼ50%は貴重なゲルマンの血を
保持しているというもの。
本土からの入植によってドイツの血を再獲得し、増大させることが必要なのです。
例えばドイツ人と結婚したチェコ人女性から生まれてきた子供はドイツ人といった具合。
しかし事柄を複雑にしたのはスラヴ人とは何か、ドイツ人とは何かについて、
なんら明確な定義が無いという事実にハイドリヒも悪戦苦闘。。
1942年3月にはハイドリヒの親密な仲間でありアインザッツグルッペンの指揮官であった
シュターレッカーがパルチザンに殺害されるなど、占領下各地で抵抗運動が激化。
5月、軍政の敷かれたパリでもSSが権力拡大を目指し、ハイドリヒのかつての個人副官
オーベルクを責任者に据えると自身もパリへ飛び、ホテル・リッツで就任式を主宰します。
こうして運命の5月27日の朝をプラハで迎えることになるのでした。
最後の第9章は「破壊の遺産」
ハイドリヒの国葬の様子が詳細に、そして報復となる「リディツェ村の惨劇」と続き、
デスマスクをあしらった「ハイドリヒ記念切手」が発売。
翌年には米国で「死刑執行人もまた死す」が上映。
また、亭主を失ったリナの生活とその戦後。
今回は初めて本書で知った、または興味深いエピソードを中心に紹介しました。
本書でも途中、触れられていたと思いますが、とにかく警官の経験もなく、
警察の仕事は知らない、あるいは一つの国を統治するなどという行政の経験もない
ハイドリヒが次から次へとそれらをこなしていくというのは、単に能力だけではなく、
膨大な仕事量であり、どれだけのエネルギーが必要だったかは、
社会で仕事をした人なら容易に想像がつくでしょう。
しかも「ヒムラーとヒトラー 氷のユートピア」という本がありましたが、
彼らの夢想を実現する、現実化するのがリアリストであるハイドリヒであり、
その部下をコントロールする手腕と、敵対する官庁への根回しや調整能力といったものも
抜群だったのではないか・・と想像できます。
ヒムラーのように1900年生まれとか、ハイドリヒのような1904年生まれというのは
ちょっと兄貴の世代、5歳年上、場合によっては1歳年上の人が第1次大戦に従軍しており、
男として、その軍人としての経験を味わうことなく育ったという劣等感がある気がします。
軍の前線に追随し、命の危険もあるアインザッツグルッペンに若いエリートを派遣したり、
今次大戦が続いているうちに、戦闘機パイロットとして活躍しておきたいという願望など
単にSSという組織で出世することだけが目標ではない、
自身の理想とする男としての渇望がハイドリヒを一心不乱に向かわせたのではないか?
そんな風にも感じました。
例えばプラハで護衛も付けずにオープンカーに乗っていたのも、
「私がドイツ国民に襲われるわけがない」と公言し、オープンカーに乗っていた
1930年代のヒトラーを彷彿とさせますし、襲撃された際も、
全速力で逃げればよいものを、わざわざ停車させて拳銃を抜き、自ら暗殺者を
倒そうとする行動は、ここまで成り上がって来た彼の生き様そのものにも思えます。
良くも悪くも、丸々1週間ほどハイドリヒと向き合う生活を送り、
精神的にもグッタリと疲れた1週間となりました。
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パンツァー・オペラツィオーネン 第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録
https://ona.blog.ss-blog.jp/2018-04-30
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。ヘルマン・ホート著の「パンツァー・オペラツィオーネン」を読破しました。ゴールデンウィークというのはナニかしたくなるものですね。4月初旬に引っ越しをして、本の整理&再読をしていたら、この2年間なんとか堪えていた新しいナチス・ドイツ軍モノを読みたい症候群を発病してしまいました。そういえば、この「独破戦線」を始めたのも9年前のGWでしたっけ。。そんな2年振りの復活か、一時的な暇つぶしかは不明ながら、2018年の最初に選んだのは去年の9月に出た、第三帝国における3大ヘルマンのひとり、「ホト爺」の回顧録です。第1章「序説」、第2章「前史」は、主に戦略、作戦、戦術とは? ということをテーマにそれぞれの概念の明確化を試みます。また、政治と戦争指導の線引き・・といった、いかにもヒトラーを意識した問題、そして対ソ戦においての「戦争目標」と「作戦目標」は、モスクワという一点となるはずだと語ります。いよいよ75ページから、第3章「国境地帯のおける敵の撃破 6月22日~7月1日」です。しかし、いきなり細かい!「第57装甲軍団の進撃は・・」とか、「第12装甲師団の戦車は・・」とか、「第39装甲軍団は、持てる戦車連隊2個に第20自動車化師団の一部を・・」と、師団長や軍団長の名も挙げずに記述しているので、早速、睡魔との戦いが始まります。そんな時には本書の真ん中にまとめられている「戦況図」を眺めて気を紛らわし、「そもそも第3装甲集団の編制はどうだったっけ?」とググってみたり。。まぁ、独ソ戦記を読むのが久しぶりというのもありますが、本書を読むにあたっては、「バルバロッサ作戦」についてある程度の知識がないと100ページで戦死してしまうでしょう。そんなわけで、まず、1941年時点でのドイツ軍装甲集団を再確認してみました。まずルントシュテットの南方軍集団にはクライストの「第1装甲集団」が、レープの北方軍集団にはヘプナーの「第4装甲集団」が、そしてボック率いる最強の中央軍集団には、グデーリアンの「第2装甲集団」と本書の著者であるホトの「第3装甲集団」が先陣を切って暴れ回るというわけです。興味深かった戦闘は、北端で頑強に戦う「リトアニア人の軍団」です。ここには多数のロシア人将校と政治将校が混入されていたそうですが、やがて森林へと退却していた残兵はロシア人政治将校を片付けて、続々と投降してくるのでした。。リトアニアは北方軍..
戦記
ヴィトゲンシュタイン
2018-04-30T10:32:02+09:00
ヘルマン・ホート著の「パンツァー・オペラツィオーネン」を読破しました。
ゴールデンウィークというのはナニかしたくなるものですね。
4月初旬に引っ越しをして、本の整理&再読をしていたら、この2年間なんとか堪えていた
新しいナチス・ドイツ軍モノを読みたい症候群を発病してしまいました。
そういえば、この「独破戦線」を始めたのも9年前のGWでしたっけ。。
そんな2年振りの復活か、一時的な暇つぶしかは不明ながら、2018年の最初に選んだのは
去年の9月に出た、第三帝国における3大ヘルマンのひとり、「ホト爺」の回顧録です。
第1章「序説」、第2章「前史」は、主に戦略、作戦、戦術とは? ということをテーマに
それぞれの概念の明確化を試みます。
また、政治と戦争指導の線引き・・といった、いかにもヒトラーを意識した問題、
そして対ソ戦においての「戦争目標」と「作戦目標」は、モスクワという一点となるはずだ
と語ります。
いよいよ75ページから、第3章「国境地帯のおける敵の撃破 6月22日~7月1日」です。
しかし、いきなり細かい!
「第57装甲軍団の進撃は・・」とか、「第12装甲師団の戦車は・・」とか、
「第39装甲軍団は、持てる戦車連隊2個に第20自動車化師団の一部を・・」と、
師団長や軍団長の名も挙げずに記述しているので、早速、睡魔との戦いが始まります。
そんな時には本書の真ん中にまとめられている「戦況図」を眺めて気を紛らわし、
「そもそも第3装甲集団の編制はどうだったっけ?」とググってみたり。。
まぁ、独ソ戦記を読むのが久しぶりというのもありますが、
本書を読むにあたっては、「バルバロッサ作戦」についてある程度の知識がないと
100ページで戦死してしまうでしょう。
そんなわけで、まず、1941年時点でのドイツ軍装甲集団を再確認してみました。
まずルントシュテットの南方軍集団にはクライストの「第1装甲集団」が、
レープの北方軍集団にはヘプナーの「第4装甲集団」が、
そしてボック率いる最強の中央軍集団には、グデーリアンの「第2装甲集団」と
本書の著者であるホトの「第3装甲集団」が先陣を切って暴れ回るというわけです。
興味深かった戦闘は、北端で頑強に戦う「リトアニア人の軍団」です。
ここには多数のロシア人将校と政治将校が混入されていたそうですが、
やがて森林へと退却していた残兵はロシア人政治将校を片付けて、
続々と投降してくるのでした。。
リトアニアは北方軍集団の管轄なので不思議に思いましたが、
第3装甲集団は中央軍集団のなかでの左翼(北方)に位置し、
よって北方軍集団とも連携してるんですね。
なので、突然「第56装甲軍団が・・」などと出てくると、
「お~、マンシュタインじゃね~か!」とカッと目覚めたりもするのです。
また、「第2装甲集団司令官が、今後の作戦について協議するため、
第3装甲集団司令部を訪ねてきたのは、極めて望ましいことだった」という部分には
カッコ書きでハインツ・グデーリアン上級大将と書かれており、
マンシュタインなどの有名な将軍についても同様です。
これは「序言」で、「(将来の装甲部隊指揮官の)教育上の目的を最重視しているので、
部隊の勲功を強調したり、傑出した指揮官たちの名前を挙げることは避けた」
と述べられてるとおりであって、ホト自身も「わたし」ではなく、
「第3装甲集団司令官」という名前で登場するのです。
それにしても最初のページ目に掲載されている有名な写真を彷彿とさせますね。
8月、ここまでに得られた疑う余地のない大勝利を如何に活用するか、
陸軍総司令部も決められず、政治的理由から「レニングラード包囲」を確定しようと、
中央軍集団司令部で「モスクワは、レニングラード、ハリコフに次ぐ第三の目標となる」
と明言したヒトラー。参謀総長ハルダーも不信感を募らせます。
そしてモスクワを目指す第3装甲集団から1個装甲軍団を北方軍集団に割愛すべしとの命令が・・
8月12日には「冬の到来前にモスクワを征服すべし」と命じていたにも関わらず、
続いての総統命令は「クリミア並びにドニェツ工業・炭鉱地帯の奪取、
コーカサス地域よりロシアへの石油を遮断すること」が最重要目標に。。
東部戦線の重心が中央から南方へと移り、グデーリアンの第2装甲集団は
9月いっぱい「キエフ大包囲戦」へ。
そしてモスクワへの準備が整った10月7日、東部戦線全体に最初の雪が降るのでした。
464ページの本書、195ページで「第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録」の
本文は終わり、付録として命令書や覚書、陸軍総司令官ブラウヒッチュへの意見具申・・
などが紹介されています。例えば、
「元帥閣下! 小官の柏葉章受勲授与にお祝いの言葉をいただいたことに
謹んで感謝申し上げます。元帥閣下の眼の前で受勲したことは、
小官にとって格別の栄誉であります。
遺憾ながら、最近数日の膠着状態も・・」
それから戦況図が30ページ、写真が6ページと続いた後、
1958年にドイツの軍事専門誌「国防知識」にホトが寄稿した論文が始まります。
最初は「ヤーコプセン博士『黄号作戦』への書評と題した論文が2つ。
解説が無いのでそのまま読み進めると、ど~もこの博士は新進気鋭の軍事研究者で、
1940年の西方電撃戦の著作において、マンシュタインが発案した作戦は、ヒトラーも
同様の考えを有しており、OKHとハルダーによって見事なものとして完成した・・と
解釈しているようです。
ソレに対してホトが噛みついているというもので、簡単に要約すると、
1940年の冬には「シュリーフェン・プラン」の焼き直ししか出来ない参謀本部に苛立って
A軍集団参謀長の天才マンシュタインが完璧に仕上げたんじゃ!
そして何度意見具申してもハルダーは握りつぶした挙句、1軍団長に左遷、
マンシュタイン・プランを聞いたヒトラーが、さも自分のアイデアのように
策定指示を出すと、慌ててゴミ箱から拾い上げ、「コレでいかがでしょう。総統閣下」と
そのままやっただけじゃ。
一大作戦計画の策定という高尚な問題に若造のトーシロが首を突っ込むんじゃない!
我らがマンシュタインを舐めとんのか? ボケっ!
ちょっと要約し過ぎた感はありますが、具体的なホトのマンシュタイン評は、
「マンシュタインのごとき我の強い人物が、最終要求を行う際に、
おとなしく引っ込んだりしないしないことは確実であろう」
コレは褒め言葉ですね。。
ちなみにマンシュタインによるホト評は、彼の回想録にタップリと。
で、このホトのクレームに対して、ヤーコプセン博士も反論。さらにホトも・・と
熱いバトルが展開します。
「戦史の実例にみる、戦隊としての運用された装甲師団の戦闘」と題され、
3つの実例を挙げた論文も非常に興味深いものです。
1939年のポーランド戦は第4装甲師団の戦闘について詳細に記述。
相変わらず「第4装甲師団は・・」とありますが、おそらくラインハルトでしょうね。
翌年のフランス戦役では、ハッキリとロンメルの第7装甲師団と明記。
そして師団長ロンメル少将に直卒された弱体な「尖兵部隊」が川を超えるという
独断専行的決定は、ほとんど一大博打に等しく、第15軍団長はロンメル師団長に
命令を届けることも出来なくなってしまいます。
当然、第15軍団長はホト爺さん。。
「師団長による尖兵部隊の指揮は必要なかった」としつつも、
「ロンメルが突破とアヴェーヌへの進撃に同行したことはまだ正当化し得る」と。
3つ目の戦闘は「スターリングラード解囲に際しての第6装甲師団の突進」です。
こちらでは師団長自らの指揮ではなく、戦車連隊長の指揮を重視します。
主役の第11戦車連隊長の名は、フォン・ヒューナースドルフ大佐。
おっと、「奮戦!第6戦車師団 スターリングラード包囲環を叩き破れ」を思い出します。
この1942年暮れには、ホト自身「第4装甲軍」司令官として、スターリングラードへ。
ドン軍集団司令官となったマンシュタインと共に、包囲された第6軍救出に挑むのです。
あ~、巻頭に「フォン・ヒューナースドルフ将軍の思い出に。」と書かれてましたねぇ。
彼はホトの第3装甲集団の参謀長~第6装甲師団長として戦死・・ということでした。
最後は訳者さんによるホトの生い立ちと経歴についての解説が・・。
スターリングラード後、1943年にはクルスクの戦いでも主役を演じたホト。
しかし、ホトの著作は本書のみなんだそうです。残念ですねぇ。
キエフを放棄したことにより、ヒトラーの怒りを買って休職となり、
戦後はニュルンベルク継続裁判の被告となって、15年の禁固刑に。。
ということで「パンツァー・オペラツィオーネン」、日本語では「装甲部隊の諸作戦」を
楽しみましたが、ブランクが長かったせいか? なかなか苦労しました。。
かなり専門的な内容ですから、全体を理解しながら楽しむには、
少なくともフランス戦~バルバロッサ作戦について書かれた本を
数冊は独破しているくらいの知識が必要でしょう。
それにしても、グデーリアンやロンメル、マンシュタインと出てくると、
必然的に「次は??」という気持ちになってきます。
「戦車に注目せよ グデーリアン著作集」もまだ読んでないし、
「「砂漠の狐」回想録 アフリカ戦線1941~43」も去年の暮れに出ましたし、
「ヒトラーの元帥 マンシュタイン」の上下巻もまだ・・。
しかも最近、「マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より」まで翻訳されましたから
ナニから手を付けるか・・実に悩ましいところです。。
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独破リスト
https://ona.blog.ss-blog.jp/2012-03-20
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。またしてもサボり気味なので「独破リスト」だけでも更新しておきます。※ 2016/4/27更新しました!<あ>愛と欲望のナチズム愛は絶ちがたく -アイゼンハワーとの秘められた恋-アイヒマン調書 -イスラエル警察尋問録音記録-アウシュヴィッツ収容所暁の七人-ハイドリッヒの暗殺-暁の出撃悪魔の旅団 -米軍特殊部隊、イタリア戦線を制覇す-アドルフ・ガラントアドルフ・ヒトラー[1] -1889-1928 ある精神の形成-アドルフ・ヒトラー[2] -1928-1938 仮面の戦争-アドルフ・ヒトラー[3] -1938-1941 第二次世界大戦-アドルフ・ヒトラー[4] -1941-1945 奈落の底へ-アドルフ・ヒトラー 五つの肖像あのころはフリードリヒがいた 危うし空挺部隊<い>慈しみの女神たち <上>慈しみの女神たち <下> 偽りの街イワンの戦争 -赤軍兵士の記録1939-45-<う>ヴィジュアル版 「決戦」の世界史 -歴史を動かした50の戦い-ヴィットマン-LSSAHのティーガー戦車長たち-〈上、下〉ウィンザー公掠奪ウォッチ・ザ・パンツァー -博物館に現存するドイツ戦車実車写真集-失われた勝利 -マンシュタイン回想録-失われた勝利〈上〉 -マンシュタイン回想録-失われた勝利〈下〉 -マンシュタイン回想録-嘘八百 -明治大正昭和変態広告大全-海の狩人・アトランティス運命の決断-第2次大戦インサイドストーリー-V1号V2号 -恐怖の秘密兵器-<え>映画大臣 -ゲッベルスとナチ時代の映画-英国王女を救え英語を禁止せよ -知られざる戦時下の日本とアメリカ-エヴァ・ブラウン -ヒトラーの愛人-エヴァ・ブラウンの日記 -ヒトラーとの8年の記録-HHhH -プラハ、1942年-SSガイドブックSS戦車隊SS‐DASREICH―第2SS師団の歴史1939‐1945SS‐TOTENKOPF-ヒトラーのエリート親衛隊、トーテンコープフの真実-SS‐HITLERJUGEND―第12SS師団の歴史1943-45SS‐LEIBSTANDARTE―第1SS師団の歴史1933‐1945SS-WIKING -第5SS師団の歴史1941-45-SS‐GB <お>桜花―極限の特攻機大空に生きるおかしなジパング図版帖 -モンタヌスが描いた驚..
独破リスト
ヴィトゲンシュタイン
2016-04-27T07:53:30+09:00
またしてもサボり気味なので「独破リスト」だけでも更新しておきます。
※ 2016/4/27更新しました!
<あ>
愛と欲望のナチズム
愛は絶ちがたく -アイゼンハワーとの秘められた恋-
アイヒマン調書 -イスラエル警察尋問録音記録-
アウシュヴィッツ収容所
暁の七人-ハイドリッヒの暗殺-
暁の出撃
悪魔の旅団 -米軍特殊部隊、イタリア戦線を制覇す-
アドルフ・ガラント
アドルフ・ヒトラー[1] -1889-1928 ある精神の形成-
アドルフ・ヒトラー[2] -1928-1938 仮面の戦争-
アドルフ・ヒトラー[3] -1938-1941 第二次世界大戦-
アドルフ・ヒトラー[4] -1941-1945 奈落の底へ-
アドルフ・ヒトラー 五つの肖像
あのころはフリードリヒがいた
危うし空挺部隊
<い>
慈しみの女神たち <上>
慈しみの女神たち <下>
偽りの街
イワンの戦争 -赤軍兵士の記録1939-45-
<う>
ヴィジュアル版 「決戦」の世界史 -歴史を動かした50の戦い-
ヴィットマン-LSSAHのティーガー戦車長たち-〈上、下〉
ウィンザー公掠奪
ウォッチ・ザ・パンツァー -博物館に現存するドイツ戦車実車写真集-
失われた勝利 -マンシュタイン回想録-
失われた勝利〈上〉 -マンシュタイン回想録-
失われた勝利〈下〉 -マンシュタイン回想録-
嘘八百 -明治大正昭和変態広告大全-
海の狩人・アトランティス
運命の決断-第2次大戦インサイドストーリー-
V1号V2号 -恐怖の秘密兵器-
<え>
映画大臣 -ゲッベルスとナチ時代の映画-
英国王女を救え
英語を禁止せよ -知られざる戦時下の日本とアメリカ-
エヴァ・ブラウン -ヒトラーの愛人-
エヴァ・ブラウンの日記 -ヒトラーとの8年の記録-
HHhH -プラハ、1942年-
SSガイドブック
SS戦車隊
SS‐DASREICH―第2SS師団の歴史1939‐1945
SS‐TOTENKOPF-ヒトラーのエリート親衛隊、トーテンコープフの真実-
SS‐HITLERJUGEND―第12SS師団の歴史1943-45
SS‐LEIBSTANDARTE―第1SS師団の歴史1933‐1945
SS-WIKING -第5SS師団の歴史1941-45-
SS‐GB
<お>
桜花―極限の特攻機
大空に生きる
おかしなジパング図版帖 -モンタヌスが描いた驚異の王国-
おすもうさん
オラドゥール-大虐殺の謎-
オレンジの呪縛 -オランダ代表はなぜ勝てないか?-
女たちの時 -ドイツ崩壊の淵で 1944-1947-
女ユダたち -ドイツナチ時代の密告10の実話-
<か>
母さんもう一度会えるまで-あるドイツ少年兵の記録-
外交舞台の脇役(1923‐1945) -ドイツ外務省首席通訳官の欧州政治家達との体験-
回想の第三帝国-〈上、下〉
海戦 連合軍対ヒトラー
帰ってきたヒトラー (上)
帰ってきたヒトラー (下)
帰れなかったドイツ兵 -太平洋戦争を箱根で過ごした誇り高きドイツ海軍将兵-
柏葉騎士十字章受勲者写真集1 (eichenlaubträger 1940-1945-BandⅠ)
柏葉騎士十字章受勲者写真集2 (eichenlaubträger 1940-1945-Band Ⅱ)
柏葉騎士十字章受勲者写真集3 (eichenlaubträger 1940-1945-Band Ⅲ)
カティンの森
悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉 -スターリンの農業集団化と飢饉テロ-
蟹の横歩き -ヴィルヘルム・グストロフ号事件-
カフカスの防衛 -「エーデルヴァイス作戦」ドイツ軍、油田地帯へ-
神々の黄昏 -ヨーロッパ戦線の死闘-
カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男
彼らは来た-ノルマンディー侵攻作戦-
がんこなハマーシュタイン -ヒトラーに屈しなかった将軍-
完全分析 独ソ戦史 -死闘1416日の全貌-
関東大震災
写真集 関東大震災
カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS〈1〉
<き>
消えた将校たち -カチンの森虐殺事件-
消えた百万人-ドイツ人捕虜収容所、死のキャンプへの道-
切手が語るナチスの謀略
切手が伝える第二次世界大戦 -メディアとしての切手-
狐たちの夜
狐の足跡-ロンメル将軍の実像-〈上、下〉
君はヒトラー・ユーゲントを見たか? -規律と熱狂、あるいはメカニカルな美-
虐殺!アウシュビッツ -ユダヤ人集団殺害-戦慄の記録-
急降下爆撃
救出への道 -シンドラーのリスト・真実の歴史-
共産主婦 -東側諸国のレトロ家庭用品と女性たちの一日
極限に生きる-疎外され死ぬ以外の権利を剥奪された一団の物語-
極北の海戦 -ソ連救援PQ船団の戦い-
巨大戦艦ビスマルク-独・英艦隊、最後の大海戦-
<く>
空軍元帥ゲーリング -第三帝国第二の男-
空対空爆撃戦隊-メッサーシュミット対米四発重爆-
グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの“白い将軍”
九人の乙女 一瞬の夏―「終戦悲話」樺太・真岡郵便局電話交換手の自決
グラーグ -ソ連集中収容所の歴史-
グリーン・ビーチ -ディエップ奇襲作戦-
クルスクのパンター -新型戦車の初陣、その隠された記録--
クルスクの戦い1943: 独ソ「史上最大の戦車戦」の実相
クルスクの戦い-戦場写真集南部戦区1943年7月-
続・クルスクの戦い-戦場写真集北部戦区1943年7月-
クルスク大戦車戦
クルスク大戦車戦-〈上、下〉
クルスク大戦車戦 -独ソ精鋭史上最大の激突-
”グロースドイッチュランド”師団写真史
軍艦武藏〈上、下〉
勲章と褒章
<け>
ゲーリング-第三帝国の演出者-〈上、下〉
ゲーリング言行録 -ナチ空軍元帥おおいに語る-
軽駆逐戦車
劇画ヒットラー
撃墜王リヒトホーフェン
ゲシュタポ・狂気の歴史
ゲシュタポ -恐怖の秘密警察とナチ親衛隊-
決定版 20世紀戦争映画クロニクル
決定版 世界の最強軍人FILE
ゲッベルスの日記 -第三帝国の演出者-
ゲルニカ -ドキュメント・ヒトラーに魅入られた町-
幻影 -ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語-
健康帝国ナチス
KGBマル秘調書 -ヒトラー最期の真実-
<こ>
降下目標、シシリー
攻撃高度4000 -ドイツ空軍戦闘記録-
高速戦艦脱出せよ!
攻防900日-包囲されたレニングラード-〈上、下〉
五月の嵐-ドイツ電撃作戦とダンケルク-
国防軍とヒトラー〈Ⅰ〉
国防軍とヒトラー〈Ⅱ〉
コマンド -奇襲!殴り込み作戦-
ゴースト・ソルジャーズ 第二次世界大戦最大の捕虜救出作戦
ゴールデンボーイ -恐怖の四季 春夏編-
コンドル兵団 -スペイン内戦に介入したドイツ人部隊-
<さ>
最悪の戦場に奇蹟はなかった -ガダルカナル・インパール戦記-
最強の狙撃手
最後のドイツ空軍
最後の特派員
最後のナチ メンゲレ
最後の反乱―ゲーリング弾劾と独ジェット戦闘機隊
最後の100日 -ヨーロッパ戦線の終幕-〈上〉
最後の100日 -ヨーロッパ戦線の終幕-〈下〉
最終戦-1945年ドイツ-
砂漠のキツネ
砂漠の狐を狩れ
砂漠の戦争
<し>
ジェット戦闘機Me262
死刑執行人との対話
シシリー島空戦記 -航空団指令の日誌-
史上最大の作戦
実録やくざ映画大全
死闘ケーニヒスベルク -東プロイセンの古都を壊滅させた欧州戦最後の凄惨な包囲戦-
写真 太平洋戦争〈第1巻〉
写真でみる女性と戦争
写真で見る ヒトラー政権下の人びとと日常
写真・ポスターに見るナチス宣伝術 -ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ-
ジャーマンタンクス
従軍看護婦たちの大東亜戦争 -私たちは何を見たか-
ジューコフ元帥回想録 -革命・大戦・平和-
重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編
重戦車大隊記録集〈2〉SS編
出撃!魔女飛行隊
シュトラハヴィッツ機甲戦闘団 -“泥まみれの虎”の戦場写真集-
巡洋艦インディアナポリス号の惨劇
詳解 西部戦線全史 -死闘!ヒトラー対英米仏1919‐1945-
詳解 独ソ戦全史 -「史上最大の地上戦」の実像 戦略・戦術分析-
詳解 武装SS興亡史-ヒトラーのエリート護衛部隊の実像-
将軍たちの戦い -連合国首脳の対立-
将軍たちの夜
焦土作戦 -独ソ戦史- (上)
焦土作戦 -独ソ戦史- (中)
焦土作戦 -独ソ戦史- (下)
消滅した国々 -第二次世界大戦以降崩壊した183ヵ国-
白い死神
深海からの声 -Uボート234号と友永英夫海軍技術中佐-
深海の使者
10年と20日間-デーニッツ回想録-
資料が語る戦時下の暮らし -太平洋戦争下の日本:昭和16年~20年-
<す>
水晶の夜 -ナチ第三帝国におけるユダヤ人迫害-
スカパ・フローへの道 ギュンター・プリーン回想録
図説 死刑全書
スターリン -赤い皇帝と廷臣たち-〈上〉
スターリン -赤い皇帝と廷臣たち-〈下〉
スターリングラード-運命の攻囲戦1942~1943-
スタリングラートの医師 -補虜収容所5110‐47-
スターリングラード -ヒトラー野望に崩る-
スターリン・ジョーク
スターリンの外人部隊 -独ソの狭間で翻弄された「赤い外国軍」の実像-
ストーミング・イーグルス-ドイツ降下猟兵戦史-
スペイン戦争
スローターハウス5
<せ>
制服の帝国 -ナチスSSの組織と軍装-
シリーズ 制服の帝国 -ナチスの群像- <上>
シリーズ 制服の帝国 -ナチスの群像- <下>
西部戦線―SS未公開写真集―
西部戦線の独空軍
西方電撃戦: フランス侵攻1940
世界軍歌全集 -歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代-
世界戦争犯罪事典 <第1部> アジア・太平洋・米大陸
世界戦争犯罪事典 <第2部> ヨーロッパ・中近東・アフリカ
世界の戦車 1915~1945
世界の紛争地ジョーク集
世界反米ジョーク集
赤軍記者グロースマン -独ソ戦取材ノート1941‐45-
赤軍ゲリラ・マニュアル
赤軍大粛清 -20世紀最大の謀略-
雪中の奇跡
世情を映す昭和のポスター -ポスターに見る戦中・戦後の日本-
戦艦ティルピッツを撃沈せよ!
戦時下のベルリン: 空襲と窮乏の生活1939-45
戦時広告図鑑 -慰問袋の中身はナニ?-
戦場の掟
戦場のクリスマス -20世紀の謎物語-
戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち
戦場の狙撃手
戦場のピアニスト
潜水艦の死闘 -彼らは海面下で戦った-
戦争映画名作選-第2次大戦映画ガイド-
戦争は女の顔をしていない
戦争と飢餓
戦争の記憶 記憶の戦争 -韓国人のベトナム戦争
戦争の世界史 大図鑑
戦闘機 -英独航空決戦-
1945年・ベルリン解放の真実 -戦争・強姦・子ども-
1945年のドイツ 瓦礫の中の希望
<そ>
総員起シ
総統からの贈り物 -ヒトラーに買収されたナチス・エリート達-
そこに僕らは居合わせた -語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶-
ソビエト航空戦 -知られざる航空大国の全貌-
ゾルゲ 引裂かれたスパイ〈上〉
ゾルゲ 引裂かれたスパイ〈下〉
<た>
第10戦車師団戦場写真集 -東部および西部戦線、アフリカ戦線1939‐1943年-
第5SS装甲師団「ヴィーキング」写真集 大平原の海賊たちⅠ
第44戦闘団-ザ・ガランド・サーカス-
第6軍の心臓-1942-3年スタリングラート地下野戦病院-
第653重戦車駆逐大隊戦闘記録集
大虐殺-リディツェ村の惨劇-
第三帝国と音楽
第三帝国の興亡〈1〉 ヒトラーの台頭
第三帝国の興亡〈2〉 戦争への道
第三帝国の興亡〈3〉 第二次世界大戦
第三帝国の興亡〈4〉 ヨーロッパ征服
第三帝国の興亡〈5〉 ナチス・ドイツの滅亡
第三帝国のスポーツVol.1 (Sport and the Third Reich: History, Uniforms, Insignia, and Awards)
第三帝国のスポーツVol.2 (Sport and the Third Reich: History, Uniforms, Insignia, and Awards)
第三帝国の中枢にて-総統付き陸軍副官の日記-
大西洋の脅威U99-トップエースクレッチマー艦長の戦い-
大西洋防壁 -ノルマンディ要塞の真実-
大脱走
第二次世界大戦〈上〉 リデル・ハート
第二次世界大戦〈下〉 リデル・ハート
第二次世界大戦〈1〉 W.チャーチル
第二次世界大戦〈2〉 W.チャーチル
第二次世界大戦〈3〉 W.チャーチル
第二次世界大戦〈4〉 W.チャーチル
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈1〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈2〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈3〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈4〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈5〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈6〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈7〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈8〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈9〉
第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈10〉
第二次世界大戦-ムッソリーニの戦い-
第二次世界大戦下のヨーロッパ
第二次大戦下ベルリン最後の日 -ある外交官の記録-
第二次大戦のドイツ軍婦人補助部隊
第二次大戦の連合軍婦人部隊
第2次大戦ドイツ軍装ガイド
第2次大戦 ドイツ武装親衛隊
第2次大戦 ドイツ武装親衛隊Ⅱ
大日本帝国陸海軍〈2〉 軍装と装備 明治・大正・昭和
対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第1巻〉
対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第2巻〉
対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第3巻〉
大崩壊-ゲッベルス最後の日記-
大砲撃戦 -野戦の主役、列強の火砲-
戦う広告 -雑誌広告に見るアジア太平洋戦争-
戦う翼
脱出 1940夏・パリ
脱出記-シベリアからインドまで歩いた男たち-
たのしいプロパガンダ
卵をめぐる祖父の戦争
誰がキーロフを殺したのか
誰がムッソリーニを処刑したか -イタリア・パルティザン秘史-
誰にも書けなかった戦争の現実
<ち>
チェルカッシィ包囲突破戦-東部戦線、極寒の悪夢-〈上、下〉
父の国 ドイツ・プロイセン
諜報・工作 -ラインハルト・ゲーレン回顧録-
<つ>
妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻
津山三十人殺し ―日本犯罪史上空前の惨劇
<て>
ティーガー戦車隊-第502重戦車大隊オットー・カリウス回顧録-〈上、下〉
ティーガー-無敵戦車の伝説1942~45-〈上、下〉
ティーガーの騎士 -ミヘル・ヴィットマン物語-
ディナモ-ナチスに消されたフットボーラー-
ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー
ディファイアンス -ヒトラーと闘った3兄弟-
抵抗のアウトサイダー -クルト・ゲルシュタイン-
帝国日本とスポーツ
擲弾兵-パンツァーマイヤー戦記-
鉄十字のエースたち
鉄十字の騎士-騎士十字章の栄誉を担った勇者たち-
鉄の棺 -最後の日本潜水艦-
鉄の棺―U-Boot死闘の記録―
デーニッツと「灰色狼」 -Uボート戦記-〈上、下〉
電撃戦
電撃戦-グデーリアン回想録-(上)
電撃戦-グデーリアン回想録-(下)
電撃戦という幻〈上〉
電撃戦という幻〈下〉
<と>
ドイツ海軍 Uボート(1) ファイティングシップ・シリーズNo.3
ドイツ海軍 Uボート(2) ファイティングシップ・シリーズNo.4
ドイツ海軍戦記
ドイツ海軍魂-デーニッツ元帥自伝-
ドイツ機甲師団 -電撃戦の立役者-
ドイツ空軍エース列伝
ドイツ空軍のエースパイロット/エーリッヒ・ハルトマン
ドイツ空軍の終焉 -西部戦線ドイツ戦闘機隊、最後の死闘-
ドイツ空軍、全機発進せよ!
ドイツ空軍全史
ドイツ空軍装備大図鑑
ドイツ軍装備大図鑑 -制服・兵器から日用品まで-
ドイツ軍名将列伝 -鉄十字の将官300人の肖像-
ドイツ軍の小失敗の研究 -第二次世界大戦戦闘・兵器学教本-
ドイツ高射砲塔 -連合軍を迎え撃つドイツ最大の軍事建造物-
ドイツ参謀本部
ドイツ参謀本部興亡史-〈上、下〉
ドイツ戦車軍団-〈上、下〉
ドイツ戦車隊 -キャタピラー軍団,欧州を制圧-
ドイツ戦闘機開発者の戦い -メッサーシュミットとハインケル、タンクの航跡-
ドイツ装甲師団
続ドイツ装甲師団
ドイツ装甲師団とグデーリアン
ドイツ第三帝国
ドイツのロケット彗星 -Me163実験飛行隊、コクピットの真実-
ドイツ武装SS師団写真史〈1〉髑髏の系譜
ドイツ武装SS師団写真史〈2〉遠すぎた橋
ドイツ夜間戦闘機
ドイツ夜間防空戦-夜戦エースの回想-
ドイツ列車砲&装甲列車戦場写真集
ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945
東京裁判 〈上〉
東京裁判 〈下〉
東部戦線 ―SS未公開写真集―
東部戦線のSS機甲部隊 -1943-1945年-
東部戦線のドイツ戦闘航空団
東部戦線の独空軍
東部戦線の独ソ戦車戦エース1941‐1945年
遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち
ドキュメント 封鎖・飢餓・人間 -1941→1944年のレニングラード-〈上、下〉
ドキュメント ヒトラー暗殺計画
ドキュメント ロンメル戦記
独裁者の妻たち
特殊戦闘車両
髑髏の結社 SSの歴史(上)
髑髏の結社 SSの歴史(下)
突撃砲兵-〈上、下〉
ドラムビート-Uボート米本土強襲作戦-
ドレスデン逍遥 -華麗な文化都市の破壊と再生の物語-
トレブリンカ -絶滅収容所の反乱-
泥まみれの虎 -宮崎駿の妄想ノート-
<な>
ナヴァロンの要塞
ナチからの脱出-ドイツ軍将校に救出されたユダヤ人-
ナチ親衛隊知識人の肖像
ナチス映画電撃読本
ナチスがUFOを造っていた -ついに突き止めた超兵器-
ナチス狂気の内幕-シュペールの回想録-
ナチス裁判
ナチス親衛隊
ナチス親衛隊装備大図鑑
ナチス親衛隊SS軍装ハンドブック
ナチス第三帝国とサッカー -ヒトラーの下でピッチに立った選手たちの運命-
ナチス第三帝国の崩壊-スターリングラードからベルリンへ-
ナチス第三帝国事典
ナチスと精神分析官
ナチスと動物 -ペット・スケープゴート・ホロコースト-
ナチス突撃隊 ヒトラーに裏切られた悲劇の集団
ナチス・ドイツ軍の内幕
ナチスドイツ支配民族創出計画
ナチスドイツの映像戦略 -ドイツ週間ニュース 1939‐1945-
ナチスの女たち -第三帝国への飛翔-
ナチスの女たち -秘められた愛-
ナチスの財宝
ナチスの知識人部隊
ナチスの発明 -特別編集版-
ナチ将校の妻-あるユダヤ人女性:55年目の告白
ナチズム下の女たち -第三帝国の日常生活-
ナチズムと強制売春 -強制収容所特別棟の女性たち-
ナチ占領下のパリ
ナチ・ドイツ清潔な帝国
ナチ・ドイツ軍装読本 -SS・警察・ナチ党の組織と制服-【増補改訂版】
ナチ独逸ミリタリー・ルック 制服・制帽から勲章・ワッペン・徽章まで
ナチ武装親衛隊 -ヒトラーの鉄血師団-
ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実
<に>
ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品
ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品
ニセドイツ〈3〉 ≒ヴェスタルギー的西ドイツ
日本本土決戦 知られざる国民義勇戦闘隊の全貌
ニュルンベルク・インタビュー(上)
ニュルンベルク・インタビュー(下)
ニュルンベルク軍事裁判〈上〉
ニュルンベルク軍事裁判〈下〉
ニュルンベルク裁判 ナチ・ドイツはどのように裁かれたのか
ニュールンベルク裁判 -暴虐ナチへ“墓場からの告発”-
人間機雷「伏龍」特攻隊
人間の暗闇 -ナチ絶滅収容所長との対話-
203の勝利 -リッペルト大尉空戦記-
<ね>
鼠たちの戦争-〈上、下〉
<の>
ノルマンディー上陸作戦1944(上)
ノルマンディー上陸作戦1944(下)
ノルマンディのロンメル
呪われた海―ドイツ海軍戦闘記録―
<は>
爆撃機
始まりと終り -栄光のドイツ空軍-
始まりと終わり ドイツ空軍の栄光 -アドルフ・ガランド自伝
パットン対ロンメル-軍神の戦場-
母と子のナチ強制収容所 -回想ラーフェンスブリュック-
バービイ・ヤール
バラトン湖の戦い -写真集 ドイツ軍最後の戦車戦1945年1月~3月-
ハリコフ攻防戦 -1942年5月死の瀬戸際で達成された勝利-
「ハリコフの戦い」戦場写真集 1942~1943年冬
パリ解放 1944-49
パリとヒトラーと私 -ナチスの彫刻家の回想-
パリは燃えているか?-〈上、下〉
遥かなる橋-〈上、下〉
バルジの戦い(上)
バルジの戦い(下)
バルジ大作戦-〈上、下〉
バルト海の死闘
バルバロッサ作戦-独ソ戦史-(上)
バルバロッサ作戦-独ソ戦史-(中)
バルバロッサ作戦-独ソ戦史-(下)
バルバロッサのプレリュード -ドイツ軍奇襲成功の裏面・もうひとつの史実-
反逆部隊〈上〉
反逆部隊〈下〉
パンツァータクティク -WW2ドイツ軍戦車部隊戦術マニュアル-
パンツァー・フォー
パンツァー・ユニフォーム -第2次大戦ドイツ機甲部隊の軍装-
パンツァーズ・イン・ノルマンディ
<ひ>
ヒットラー売ります -偽造日記事件に踊った人々-
ヒットラーと鉄十字章
ヒットラーと鉄十字の鷲 -WW2ドイツ空軍戦記-
ヒットラー・ユーゲント SS第12戦車師団史-〈上、下〉
ヒットラーを焼いたのは俺だ
ヒトラー暗殺
ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争
ヒトラー・コード
ヒトラー 最期の12日間
ヒトラー最後の戦闘
ヒトラー最後の十日間
ヒトラー最期の日
ヒトラー時代のデザイン
ヒトラー・ジョーク -ジョークでつづる第三帝国史-
ヒトラー戦跡紀行 -いまこそ訪ねよう第三帝国の戦争遺跡-
ヒトラー対チャーチル-80日間の激闘-
ヒトラー第四帝国の野望
ヒトラーとスターリン -死の抱擁の瞬間- 〈上〉
ヒトラーとスターリン -死の抱擁の瞬間- 〈下〉
ヒトラーと退廃芸術 -「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」-
ヒトラーに抱きあげられて -あるドイツ人少女の回想記-
ヒトラーの外交官-リッベントロップは、なぜ悪魔に仕えたか-
ヒトラーの作戦指令書 -電撃戦の恐怖-
ヒトラーの贋札-悪魔の工房-
ヒトラーの共犯者(上)
ヒトラーの共犯者(下)
ヒトラーの最期 -ソ連軍女性通訳の回想-
ヒトラーの呪縛(上) - 日本ナチ・カルチャー研究序説
ヒトラーの呪縛(下) - 日本ナチ・カルチャー研究序説
ヒトラーの死を見とどけた男-地下壕最後の生き残りの証言-
ヒトラーの親衛隊
ヒトラーのスパイたち
ヒトラーの戦艦-ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇-
ヒトラーの戦士たち-6人の将帥-
ヒトラーの戦争〈1〉
ヒトラーの戦争〈2〉
ヒトラーの戦争〈3〉
ヒトラーの代理人 -ルードルフ・ヘス-
ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈上〉
ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈下〉
ヒトラーの特攻隊
ヒトラーの秘密警察-ゲシュタポ・恐怖と狂気の物語-
ヒトラーの遺言: 1945年2月4日―4月2日
ヒトラー・ユーゲント -戦場に狩り出された少年たち-
ヒトラー・ユーゲント-第三帝国の若き戦士たち-
ヒトラーを操った男 -マルチン・ボルマン-
ヒトラーを支持したドイツ国民
ヒトラーをめぐる女性たち
ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡
秘密機関長の手記
秘密警察 ゲシュタポ -ヒトラー帝国の兇手-
ヒムラーとヒトラー -氷のユートピア-
<ふ>
ファーザーランド
フォト・ドキュメント女性狙撃手 :ソ連最強のスナイパーたち
不屈の鉄十字エース
武装親衛隊外国人義勇兵師団―1940‐1945
武装親衛隊 -ドイツ軍の異色兵力を徹底研究-
武装親衛隊とジェノサイド -暴力装置のメタモルフォーゼ-
ふたつの戦争を生きて ファシズムの戦争とパルチザンの戦争
普通の人びと -ホロコーストと第101警察予備大隊-
仏レジスタンスの真実 -神話・伝説・タブーの終わり-
フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」
プロ野球ユニフォーム物語
奮戦!第6戦車師団 -スターリングラード包囲環を叩き破れ-
<へ>
兵士とセックス 第二次世界大戦下のフランスで米兵は何をしたのか?
ベリヤ -スターリンに仕えた死刑執行人 ある出世主義者の末路-
ヘルマン・ゲーリング戦車師団史-〈上、下〉
ベルリン・オリンピック1936 -ナチの競技-
ベルリン陥落1945
ベルリン攻防戦 激闘 東部戦線(3)
ベルリン攻防戦Ⅱ 激闘 東部戦線(4)
ベルリン終戦日記-ある女性の記録-
ベルリン戦争
ベルリン・ダイアリー -ナチ政権下1940‐45-
ベルリン 地下都市の歴史
ベルリン特電
ベルリンの戦い -総統ヒトラー廃虚に死す-
へんな商標?(1)、(2)
<ほ>
報復兵器V2 -世界初の弾道ミサイル開発物語-
ぼくたちもそこにいた
ポケット戦艦-アドミラル・シェアの活躍-
ポーランド電撃戦
ボッシュの子 -ナチス・ドイツ兵とフランス人との間に生まれて-
炎と闇の帝国 ゲッベルスとその妻マクダ
炎の騎士 -ヨーヘン・パイパー戦記-
捕虜 -誰も書かなかった第二次大戦ドイツ人虜囚の末路-
ポルシェ博士とヒトラー -ハプスブルク家の遺産-
ホロコースト全証言 -ナチ虐殺戦の全体像-
<ま>
幻の英本土上陸作戦
幻の1940年計画 -太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した-
マルタ島攻防戦
卍とハーケンクロイツ -卍に隠された十字架と聖徳の光-
<み>
ミッキー・マウス -ディズニーとドイツ-
密告者ステラ -ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女-
宮崎駿の雑想ノート 【増補改訂版】
<む>
無敵! T34戦車 -ソ連軍大反攻に転ず-
ムッソリーニを逮捕せよ
<も>
猛将パットン -ガソリンある限り前進せよ-
燃える東部戦線-独ソ戦の全貌-
モスクワ攻防戦 -ドイツ軍クレムリンに迫る-
モスクワ攻防戦 -20世紀を決した史上最大の戦闘-
モスクワ攻防1941 -戦時下の都市と住民-
モントゴメリー回想録
<や>
野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」―第二次世界大戦末期におけるイデオロギーと「主体性」
ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集 -第654重戦車駆逐大隊-
<ゆ>
Uボート
U‐ボート977
Uボート、出撃せよ
Uボート、西へ! 1914年から1918年までのわが対英哨戒
Uボート・エース
Uボート・コマンダー-潜水艦戦を生きぬいた男-
Uボート作戦
Uボート戦士列伝-激戦を生き抜いた21人の証言-
Uボート総覧 -図で見る「深淵の刺客たち」発達史-
Uボート部隊の全貌 -ドイツ海軍・狼たちの実像-
雪の中の軍曹
輸送船団を死守せよ
<よ>
ヨーロッパで最も危険な男-SS中佐スコルツェニー-
<ら>
ラスト・オブ・カンプフグルッペ
続ラスト・オブ・カンプフグルッペ
ラスト・オブ・カンプフグルッペIII
ラスト・オブ・カンプフグルッペIV
ラプラタ沖海戦
<り>
流血の夏
<る>
ル・グラン・デューク
<れ>
レニングラード封鎖: 飢餓と非情の都市1941-44
<ろ>
狼群作戦の黄昏
ロシアから来たエース -巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩-
ロケット・ファイター
ロンメル将軍
ロンメル戦記 -第一次大戦~ノルマンディーまで-
<わ>
ワイルド・ブルー
ワインと戦争-ヒトラーからワインを守った人々-
若い兵士のとき
我が足を信じて -極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語-
わが闘争 〈上〉Ⅰ 民族主義的世界観
わが闘争 〈下〉Ⅱ 国家社会主義運動
鷲は舞い降りた[完全版]
忘れられた兵士-ドイツ少年兵の手記-
私はガス室の「特殊任務」をしていた
私はヒトラーの秘書だった
ワルシャワ反乱-見殺しのレジスタンス-
ワルシャワ蜂起 1944
WW2ドイツの特殊作戦 -恐るべき無法と無謀の集大成-
こん○○わ。
このブログのテーマから外れたことを好き勝手に書く、
ここ通称「リスト元帥」のページです。
この1年ほどの新刊本はなぜか超の付く大作が多く、ど~も手を付けようという気が起きません。
個人的には大局的じゃないマニアックな戦役だとか、
微妙な立ち位置の人物に焦点を当てたものを読みたいんですが、
去年の5月から続々発刊されたアントニー・ビーヴァー著「第二次世界大戦1939-45」も
(上) (中) (下) の3巻で1万円也・・。
各巻500ベージ超えですから1500ページのボリュームです。。
Amazonでの評価は芳しくないようですけど太平洋戦争は詳しくないですし、
細かい記述は読み飛ばししそうなので、
個人的にはヨーロッパ戦線に知らないエピソードがあれば楽しそうですけどね。
去年10月に出た「ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」も気になってます。
上下巻で6000円超えの700ページ強ですから、まあまあのボリュームでしょうか。
「ウクライナ、ベラルーシ、ポーランド。ドイツとソ連に挟まれ、
双方から蹂躙されたその地で何があったのか?」という内容で、
特にウクライナ、ベラルーシについては興味がありますね。
ああ、そうだ。ベラルーシといえば「戦争は女の顔をしていない」でお馴染みの
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著「ボタン穴から見た戦争―白ロシアの子供たちの証言」が
岩波現代文庫から再刊されました。
ノーベル文学賞受賞のおかげですね。でも内容はキツそうだなぁ。。
「ブラッドランド」の著者ティモシー・スナイダーは「赤い大公:ハプスブルク家と東欧の20世紀」
というのも書いていて、「ヒトラーとスターリンのはざまで、ウクライナ王になることを夢見、
ハプスブルク帝国の再興を夢見た、「赤い大公」ヴィルヘルム・フォン・ハプスブルクの
政治的な夢と挫折とが綯い交ぜになった五三年の生涯」という512ページの一冊で、
この人はまったく知らなかっただけに、是非、読んでみたいと思っています。
「フォト・ドキュメント女性狙撃手: ソ連最強のスナイパーたち」に登場した一人を主人公にした
「狙撃兵ローザ・シャニーナ―ナチスと戦った女性兵士」も気になりますね。
300ページの「史実に基づいたドキュメンタリー・ノベル」ということは、
あくまで「小説」でしょうけど。。
流れでソ連関連本に進むと、
まず「ソ連極秘資料集 大粛清への道―スターリンとボリシェヴィキの自壊1932‐1939年」。
2001年の本ですが649ページで、古書でも7000円超えのプレミア価格になっちゃってますね。
「厳密な校訂を経た学術的価値の高いシリーズ「共産主義の記録」最新巻の完訳。」
という紹介にも惹かれます。
その代わりと言っちゃなんですが、ちくま学芸文庫から「共産主義黒書〈ソ連篇〉」が出ました。
「長きにわたり隠されてきた共産主義の犯罪を数々の資料から白日の下に曝し、
世界に衝撃を与えた書。」ということで、
文庫と言えど630ページのボリュームです。表紙も悪くな~い。
ちくま学芸文庫だともう一冊、「戦争における「人殺し」の心理学」も一度読みたいと思ってました。
似たような本では「兵士は戦場で何を見たのか」もありますね。
このような前線兵士の心理ってのは100年前も今も、たいして変わらないと思うんですよ。
独破戦線ではベトナム戦争モノを一冊だけ紹介していますが、これまた去年10月に出た
「動くものはすべて殺せ―アメリカ兵はベトナムで何をしたか」も気になっているところです。
肝心のナチス・ドイツ本はどうなのか・・?
実はあまりコレといった本が発刊されてないんですねぇ。
去年9月の「第三帝国の愛人―ヒトラーと対峙したアメリカ大使一家」は無視してたんですが、
主人公がドッド大使とその娘マーサであり、特にマーサが体験した当時のベルリンの話も多い・・、
ということを知ってから俄然、興味が湧いてきました。
なぜなら、このマーサは「ヒトラーのテーブル・トーク」のネタになっていて、
総統曰く「以前の米大使ドッドの娘をモノに出来る男が一人もいなかったとは!
しかもあの娘は難物ではなく、あっという間に征服できるハズだった。
現実に娘は征服された。ただし、よその国の男にな。
そのとき、ドイツ外務省の爺むさい男どもは雁首揃えて何をしていたというのだ。
あのうすのろのドッドも娘を陥落させればこっちのモノだったのに・・」。
そこでカイテルが質問。「ドッドの娘はさぞかし別嬪だったんでしょうな」。
海軍副官のフォン・プットカマーが答えます。「ひどいのなんのって!」
先月出版された2冊のうち、「ドイツ国防軍兵士たちの100通の手紙」は、
「野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」」と、どれだけ違うのか? となりますが、
もう一冊の「ドイツ軍事史―その虚像と実像」は大木 毅 著ということで大いに興味がありますね。
次に読破するとすればコレかなぁ??
それからイアン・カーショー著のヒトラー伝、「ヒトラー(上):1889-1936 傲慢」は、
12月26日発売だったのに、誰もクリスマス・プレゼントとしてくれなかったので未購入。
この上巻だけで802ページ、8640円ですよ!
そして4月29日、下巻の「ヒトラー(下):1936-1945 天罰」が満を持して出るようですが、
1150ページ、11880円と2割増し設定。。
計算は苦手ですけど、上下巻で2000ページの2万円ってことで合ってますかね??
「ヒトラー伝」ということではジョン・トーランド著の「アドルフ・ヒトラー」が文庫で4巻、
アラン・ブロック著の「対比列伝 ヒトラーとスターリン」はハードカバーで3巻、
と、レビューも書いてきて、「ヒトラー 最期の12日間」で知られる大御所ヨアヒム・フェスト著、
1100ページの超大作「ヒトラー」に至っては遂に書けず、
水木 しげる著「劇画ヒットラー」のレビューで触れた程度になってしまいました。
ですから、カーショーの「ヒトラー」も、よほど珍しいエピソードや解釈でもない限り、
記事にするのは難しいと考えています。
他の「ヒトラー伝」と比較してどうたらこうたら・・と細かく指摘するのは、
独破戦線のスタイルではないですしね。
でも、いま図書館検索をしてみたら上巻の予約「0」でした。ホントかよ。。どうするかな・・。
まぁ、このように大作が多いのが独破戦線停滞気味・・の理由の一つでもあるんですが、
大笑いできそうなジョーク本も最近出ました。
「ヒトラー的視点から検証する 世界で最も危険な独裁者の見分け方」がソレで、
著者は偉大なる大川隆法大先生。。
「1 ヒトラーの霊に、各国指導者の「独裁度」を訊く」で始まり、
「3 ヒトラーはトランプ氏をどう見るか」、
「6 プーチン大統領と習近平国家主席をどう見るか」
と、目次を見ただけでも笑いが込み上げてきます・・。
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戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち
https://ona.blog.ss-blog.jp/2016-02-05
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。レギーナ・ミュールホイザー著の「戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち」を読破しました。前回、・・と言っても2ヵ月ほど空いてしまいましたが、「兵士とセックス」を読破した際に、年末に本書が出版されることを記述していました。ソ連兵によるベルリンでのレイプ、フランス女性に対する米兵の実態と続いてきて、今回は東部戦線におけるドイツ兵と占領地の女性がテーマの上下2段組み360ページ。面白いのは、この手の本の著者って女性なんですよね。当然、本書もドイツ人女性によるものです。本書のテーマと日本軍による慰安婦問題を関連付けた「日本語版への序文」に続き、第1章は「本書の視角」です。特に肝心要の「史料」についてはこのように分類。①国防軍兵士あるいはSS隊員としてソ連に駐屯したドイツ人の男たちによる、 同時代の証言、もしくは戦後の回想②陸軍衛生監部、SS・警察指導者、民政占領当局の文書③ソ連の占領地域において迫害された人々の証言④協力、傍観、抵抗の間を揺れ動いた現地住民による報告そんな史料のなかで、2000年に元ライプシュタンダルテの隊員、ヘルベルト・メーガーが「真の体験報告」として出版した「失われた名誉 -裏切られた忠誠-」から抜粋。「血まみれの若い兵士から次のような言葉を聞いたのは一度だけではなかった。『もし死ななきゃいけないのなら、その前に俺は知りたい。女と寝るのがどんな感じなのかってことを・・』。それが最後の望みだった」。第2章「性暴力」に入る前には、「国防軍兵士の個人的な写真」が11枚ほど掲載。プロパガンダ写真ではなく、裸で水浴び、現地女性と戯れスナップなどですね。1942年にモロトフが公表し、ニュルンベルク裁判でも採用された証言、「スモレンスク州ベリョーゾフカ村では、酔ったドイツ兵が16歳から30歳までの全ての女性と少女をレイプして、拉致した」などの例がいくつも挙げられます。本書では、テキストは断片的で不正確であり、プロパガンダとして作成されたと推測し、これに対する被告人、「立派な軍人らしさ」を証明しようとするマンシュタインは、開戦直後、老婦人をレイプして殺害した2名の兵士に死刑判決を下したと主張。また「どんな重い罪も全面的に、そして喜んで責任を取る」と公言していたゲーリングも、「強姦を容認したことは一度もなく、女性の凌辱は自分には決して受け入れられないこと」と弁明。バルバロッサ発動後、..
ドイツ陸軍
ヴィトゲンシュタイン
2016-02-05T08:11:18+09:00
レギーナ・ミュールホイザー著の「戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち」を読破しました。
前回、・・と言っても2ヵ月ほど空いてしまいましたが、「兵士とセックス」を読破した際に、
年末に本書が出版されることを記述していました。
ソ連兵によるベルリンでのレイプ、フランス女性に対する米兵の実態と続いてきて、
今回は東部戦線におけるドイツ兵と占領地の女性がテーマの上下2段組み360ページ。
面白いのは、この手の本の著者って女性なんですよね。
当然、本書もドイツ人女性によるものです。
本書のテーマと日本軍による慰安婦問題を関連付けた「日本語版への序文」に続き、
第1章は「本書の視角」です。特に肝心要の「史料」についてはこのように分類。
①国防軍兵士あるいはSS隊員としてソ連に駐屯したドイツ人の男たちによる、
同時代の証言、もしくは戦後の回想
②陸軍衛生監部、SS・警察指導者、民政占領当局の文書
③ソ連の占領地域において迫害された人々の証言
④協力、傍観、抵抗の間を揺れ動いた現地住民による報告
そんな史料のなかで、2000年に元ライプシュタンダルテの隊員、ヘルベルト・メーガーが
「真の体験報告」として出版した「失われた名誉 -裏切られた忠誠-」から抜粋。
「血まみれの若い兵士から次のような言葉を聞いたのは一度だけではなかった。
『もし死ななきゃいけないのなら、その前に俺は知りたい。
女と寝るのがどんな感じなのかってことを・・』。それが最後の望みだった」。
第2章「性暴力」に入る前には、「国防軍兵士の個人的な写真」が11枚ほど掲載。
プロパガンダ写真ではなく、裸で水浴び、現地女性と戯れスナップなどですね。
1942年にモロトフが公表し、ニュルンベルク裁判でも採用された証言、
「スモレンスク州ベリョーゾフカ村では、酔ったドイツ兵が16歳から30歳までの
全ての女性と少女をレイプして、拉致した」などの例がいくつも挙げられます。
本書では、テキストは断片的で不正確であり、プロパガンダとして作成されたと推測し、
これに対する被告人、「立派な軍人らしさ」を証明しようとするマンシュタインは、
開戦直後、老婦人をレイプして殺害した2名の兵士に死刑判決を下したと主張。
また「どんな重い罪も全面的に、そして喜んで責任を取る」と公言していたゲーリングも、
「強姦を容認したことは一度もなく、女性の凌辱は自分には決して受け入れられないこと」と弁明。
バルバロッサ発動後、迅速にリトアニア、ラトヴィアといったバルト諸国に侵攻したドイツ軍。
その当時の写真には、彼らに歓迎の挨拶をする女性の姿も多く写っており、
それは「ボルシェヴィキからの解放者」と見なしたものであるわけですが、
都市占領直後の数日間の混乱に乗じて、多くの男たちが
住居に侵入して女性を、ユダヤ人も含めてレイプした・・という元国防軍兵士の報告も。。
このようなことは歴史上何度も繰り返されてきた、記述されない戦争の掟の一部でもあり、
軍当局によって厳しく禁止されてはいたものの、全体的には沈黙されるのです。
そして「人種法」によってユダヤ女性との性的接触も禁止されていますが、
これについても明らかに厳格には守っていなかったとします。
それは、すぐに移動する前線師団にとって、出会った女性がユダヤ人かどうか
見分けがつかなかったことによるとも・・。
「HHhH」に書かれていた水晶の夜でも、ユダヤ人女性を強姦した犯人は逮捕され、
党から除名されたうえで裁判。 一方、殺人を犯した者は起訴もされなかったとかありましたねぇ。
1942年の例では砲兵ハインツ・Bがジャガイモを手に入れるべく小さな村へ出かけ、
住人を武器で脅し、疎開していた23歳のモスクワ女性をレイプしたとして、
第339歩兵師団の軍法会議によって、懲役4年の判決が・・。
この比較的厳しい処罰は、ここがパルチザン浸透地域だったことから、
その犯行により住民をその戦列に駆り立てた・・というのが理由です。
そんなパルチザン問題。
赤軍とパルチザン部隊には合わせて100万人の女性がいたと考えられているそうですが、
ドイツ兵にとって武装した女性中隊は、「我々の秩序に反していた」と・・。
「男らしさの製造所」である軍隊の性格からすれば受け入れがたいものであり、
ドイツ軍には通信技手といった女性補助婦隊も同行はしていたものの、
「非常に危険な目にもあいましたが、彼女たちは武器も持っていなかったし、
戦いには参加しませんでした」と語るのはある退役軍人。
白ロシアのパルチザン部隊は女性をスパイや偵察、伝令に投入し、
「女性の魅力」を発揮して頻繁に軍の検問をくぐり抜けます。
そのような作戦を察知した第6歩兵師団は、若い女性はスパイ活動の証拠を
下着の中に隠すだろうから、身体検査をするように・・と指示。
となれば、ドイツ兵はどうしても積極的に女性の服の中に手を入れ、
罵りながら裸体を触って調べることになるのです。だって、命令なんだもの。。
そういえば白ロシアの総弁務官、ヴィルヘルム・クーベでさえ、女中のエレーナが
ベッドの下に仕掛けた磁気機雷によって吹き飛ぶくらいの恐るべき相手です。
その他、ユダヤ人ゲットーで行われたドイツ人警察官によるレイプや、
ヒムラーから「人種法を厳守するように」と改めて言われているSS隊員が
若いユダヤ女性をガールフレンドとして関係を持ち、それが告発されたり、
その彼女たちも時が来れば射殺・・といったエピソードが続きます。
1940年7月時点での陸軍総司令官ブラウヒッチュの考えは興味深いですね。
「申し分ない兵士であったとしても、まったく違う状況下での生活、強い精神的衝撃、
また時には過度の飲酒によって、普段の抑制がたまたま失われてしまうことがある。
一度限りの道徳的な領域での逸脱を通常の状況と同じ形で処罰するのは許されないだろう」。
このようにレイプには1年以上の懲役刑と定める国防軍の軍法会議に対抗した総司令官。
彼によれば、懲役刑は兵士に生涯ついてまわる「名誉剥奪」であり、それに値するのは、
「異常な卑劣さ、残忍な振る舞いと粗暴さを伴う犯行のみである」。
一方、翌年にロシアへと進撃したマンシュタインは、酔っ払ってロシア女性をレイプしようとした
下士官を10日間拘留し、「異性に対する抑制」を求め、兵士の粗暴化と無規律に対処する際、
「非常に厳しい措置」を取るように上官たちに要求するのです。
このロシアでのレイプ、思わず「戦争のはらわた」の小屋で無理やり一物をしゃぶらせようとして
食べられちゃった痛すぎるドイツ兵が・・。イテテテ・・。
このような考えの国防軍上層部に対して、「ユダヤ人と共産主義者」に対する世界観に基づく、
絶滅戦争を断固として遂行中のSS全国指導者ヒムラーは、マンシュタインの要求と同じころ、
「SSと警察官がロシア地域で民族ドイツ人でない女性と行った性交渉の全ての事例について、
綿密に取り調べて報告しなければならない」と命令。。
翌1942年にはこの命令を変更し、「(レイプを含む)多人種との性交渉は如何なる場合にも、
軍事的不服従として、司法上処罰されなければならない」。
しかし1943年、東部占領地域のSS・警察裁判所は「望ましくない性交渉の禁止」を
一時的に無効にするようヒムラーに上告しようとするのです。
なぜなら、あまりに多くのSS隊員に有罪判決を下さなければならないからです。。
もちろんこの時期、SS隊員といっても全員がエリートのアーリア人ではなく、
外国人志願兵も増え、そんな敗者から勝者へと鞍替えした彼らが自国の女性をレイプ・・、
という苦情も町長に挙がってくるのです。
現地住民はSS隊員がドイツ人かどうか、または国防軍兵士との区別もつかないため、
職場から逃げ出し、パルチザンになることが多いと危惧した国防軍は、
SS隊員によるレイプ18件をリストアップしてカール・ヴォルフSS大将に送り付けるのでした。
あ~、コレ「1945年・ベルリン解放の真実 戦争・強姦・子ども」にありましたねぇ。
第3章は「取引としての性」。
先の元ライプシュタンダルテの回顧録から、ハリコフでの出来事が・・。
「私たちの宿舎には可愛いのに無愛想な少女と女性たちがいた。皆、もちろん興味津々だった。
糧食担当下士官バブッケは、彼好みの女っぽいふっくらした相手を見つけていた。
彼女は、彼の有利な立場を利用できることがわかっていたのだ」。
「ベルリン終戦日記」でも最初は野蛮なロシアの下士官の相手をし、
徐々にお土産で持ってきてくれる食料の質が高い、礼儀正しい将校へと相手が変わっていく・・
という展開でしたが、占領地の若い女性がより良く生きるためには当然なんでしょう。
この章でメインとなるのは「売買春」ですが、スターリン体制化のソ連では、
売買春は全面的に禁止。国家の仕事に就かず、「寄生虫的な生活スタイル」として、
追放、また労働収容所行きなのです。
しかし、1940年に併合されたエストニアなどはそれまで売買春は合法であり、
一口にソ連と言っても、文化的に違いがあるようですね。
ドイツ軍が進駐すると「もぐりの売春宿」が出来るわけですが、性病も怖い。。
そこで兵士の性を軍事政策の中核的な問題と見なしていたブラウヒッチュは、
「女性との適度な性愛の機会がない限り、性暴力行為や、同性愛的な行動によって
爆発する恐れがある」と考え、医師の管理下にある適切な売春施設を
ドイツ兵に開放するよう勧告するのです。
当然、性病への予防措置として全兵士にコンドームの使用義務を理解させ、
「ドイツ国防軍専用、使用後は直ちに処分すること」と書かれたコンドームを大量に作って支給。
ただし衛生将校は、彼らが休暇で妻や恋人を訪ねる際に、ソレを使って
アーリア人種の子作りに影響しないよう留意しなければならないのです。
このコンドーム「ドイツ軍装備大図鑑 制服・兵器から日用品まで」に載ってましたねぇ。
さらに「性交後2時間以内」に衛生室を訪れて、医務局員から「消毒」されねばなりません。
大きな街ではこのように徹底されていますが、農村部の小さな部隊には消毒用物資も不足し、
結局、淋病や梅毒を発症してしまう兵士も・・。
売春婦として働いた女性たちについては不明なことが多いようです。
ソ連側の証言では、ドイツ人が街路や労働局、カフェや映画館での手入れの際に、
頻繁に女性を「彼らの施設」に連れて行った・・と言われていたり、
逆にドイツの元兵士曰く、「それが彼女たちの職業だった」。
そして本書では、自分と家族を救う手段のない女性たちが、自ら売春に応募したと推測します。
また、そんな売春宿は「兵士とセックス」にも書かれていたように、
一般兵士用と、将校用とが存在し、SSが独自の売春施設を開設したかは不明ながらも、
SS隊員たちは主に国防軍将校用の施設を間違いなく利用していたそうな・・。
第4章は「合意の上での関係」です。
1941年7月、国防軍裁判官ブレンネッケが妻に宛てた手紙にはこのように・・。
「それはそうと、とても可愛い金髪の女の子が沢山いることに、どの兵士も驚いている。
我々が彼女たちの祖国を破壊したにもかかわらず、大嫌いなモスクワの連中を追い払う
我々の侵攻をとても喜んでいる」。
これは旧ポーランド領、ウクライナ地域の話ですが、塩とパンで歓迎する住民たちの写真も
多く残されてますね。ウクライナは数年前に「大飢饉」に苦しんだばかりですし、
ビートルズも「バック・イン・ザ・U.S.S.R」で「ウクライナ娘は最高だな マジで恋に落ちちゃうよ♪」
と歌ってるように、現在でも世界的に美人が多いことで知られています。
侵攻前のプロパガンダでソ連の女性は農民的で粗野な下等人間であると教えられていた
若い兵士たちにとっては、予想外の嬉しい驚きであったでしょうね。
国防軍兵士の回想でも「ウクライナの住民は好意的だった。我々は若くて可愛いウクライナの
女の子たちと素敵で無邪気な相互にメリットのある恋愛関係になった」。
コレがどういう意味かは常識のある人ならおわかりでしょう。
若い兵士は祖国の彼女を懐かしみながらセックス付きの恋愛ゲームを楽しみ、
女の子たちはカッコいい解放者と遊んだり、寝たりすることで、美味しいものも食べられる。
それでも街中で公然とイチャつく若い兵士見ると、少尉にもなれば危惧するのです。
彼女たちはあくまで敵であって、兵士らの闘争心が失われることも心配・・。
一方、再び戦線に行ったドイツ兵の写真を見せ、戻ってきたら結婚すると約束したという女性。
そのくせ、パルチザンに志願しようとしているというカオスな情況も・・。
もう、純粋過ぎて、恋と戦争の区別がついてないのかも知れません。。
しかしSS隊員は大変です。ヒムラーが「異人種女性との性交禁止」令を公布しているからです。
これに対しSDの隊長は、彼女たちがドイツ人男性に「理想像」を見出し、
対価無しの性交渉を望んでいるため、これら数多くの申し出を常に退けることは困難であり、
不可能である・・と訴えるのです。
ゴットロープ・ベルガーもバルト諸国の女性たちとの交際を認めるよう進言するなど、
「異人種」とはなにか? の基準を巡って侃々諤々の議論が数年に渡って繰り広げられ、
結局はヒムラーも、人種意識を働かせた個人の良心に訴えるだけに留まるのです。
そして1944年8月、20万余のドイツ軍が敗走して東プロイセンに雪崩れ込んできた際、
ウクライナ総督でもあるエーリッヒ・コッホは、「この後方集団にはドイツ人将校に甘やかされて
ワガママになったロシア女もいる。この女たちは怠け者の娼婦か、女スパイのどちらかだ」と、
ボルマンに書き送るのでした。
う~む。この辺り「若い兵士のとき」のエピソードを思い出しました。
最後の第5章は「占領下ドイツ兵の子供たち」。
ヒムラーがSS隊員の性交に関して口酸っぱく言うのには、数十年後のことを想定し、
優れた血統の子供をいかに沢山産み育てるか? ということであり、
末期には男子の生産を増やしたい・・に変化して、「男女産み分け問題」に悩む男。。
この章ではまず「レーベンスボルン(生命の泉)協会」に触れ、特に占領地の一つであり
「北方的」と評価されたノルウェーの出生率が減少傾向にあることから、
ドイツ人占領者がノルウェー女性との間に後継者を作るべきだと訴える
当地の警察長官(HSSPF)ヴィルヘルム・レディースによるレーベンスボルンの
ノルウェー支部の結果に喜ぶヒムラーが印象的でした。
確か「ABBA」のアンニ=フリッド・リングスタッドも、ノルウェーのレーベンスボルン生まれで
お父さんはドイツ兵だった・・という話もありましたっけ。
それにしてもウクライナに負けず劣らず、美人が多いんだよなぁ。ノルウェー・・。特に真ん中。。
さらにバルト三国で生まれたドイツ兵の子供の取り扱いが問題になってきます。
この子供たちをドイツ人として国家が養育するべきか否かという問題で、
まず首を突っ込むのは自らがバルト人であり、東部占領地域大臣であるローゼンベルクです。
まずは登録だけを行い、人種的選抜や養育問題は戦後に先送り・・と主張するも、
総統であるヒトラーは、SS全国指導者兼「ドイツ民族性強化全権委員」たるヒムラーに軍配を・・。
そして東部の女性の産んだ子供の父親がドイツ兵だとされた場合でも、
- まぁ、フランスで言うところの「ボッシュの子」ですか・・ - ファーストネームしか
解らない場合が多く、当局がなんとか父親を探し出したとしても、それを認めることもなく・・。
国防軍は、我々の兵士が本国で結婚、または婚約者がいる可能性も考慮するよう
当局に強く主張するのです。
そりゃそうですな。戦地での浮気だとしたら、当人にとっては実に余計なお世話です。。
末尾は「訳注」と「文献リスト」がビッシリと掲載されているため、本文は240ページほどです。
全体的には博士論文がベースというだけあって、淡々と事例を挙げて解説していく展開で、
この手の女性著者にありがちな? 感情論はまったくありませんでした。
また、こっちはソコソコにエロい一般男性ですから、性に関する女性著者の本を読むと、
倫理的ではない、男女の本能の部分のような根本的なギャップを感じることもよくありますけど、
本書ではそれは気になりませんでした。
「結論」には「忘れられた兵士 -ドイツ少年兵の手記-」にも触れられていて、
ドイツ語版では性暴力行為のシーンはカットされてるそうな。
確かに邦訳版にもそんな場面はなかったと思いますね。あれ、何語の邦訳だったっけな?
結局のところ、予想していたように女とみればヤル奴はヤル。自制する奴は自制する。
若者たちが数ヵ月も集団生活するのであれば、なんらかの性的欲求を放出する環境が必要。
言葉もロクに通じない女性でも、一緒に暮らしたり、何回かエッチもすれば恋もしてしまう。
このようなことは戦争は知らなくとも想像の範囲内であり、ナチ占領下のフランスも同じ、
ロシア兵、米国兵であっても基本的には変わらないことを改めて確認できました。
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兵士とセックス 第二次世界大戦下のフランスで米兵は何をしたのか?
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-11-27
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。メアリー・ルイーズ・ロバーツ著の「兵士とセックス」を読破しました。8月に出た本書は、そのものズバリのタイトルと副題からかなり興味を持っていました。過去にはベルリンでソ連兵がドイツ人女性に何をしたのか? を検証した「1945年・ベルリン解放の真実 -戦争・強姦・子ども-」を読んでいますが、コチラはノルマンディで、パリで、またはル・アーヴルで米兵は何をしたのか? を恋愛、売買春、レイプの3つ視点で検証したものです。最初は1944年、フランス人は連合軍の上陸を待ち望むものの、同時に恐れも抱きます。それは50万㌧もの爆弾が落とされ、3万人以上の市民が命を落としているからです。希望よりも恐怖・・。それはどこかよその場所であってほしいという願い。。ソコでドイツ軍はビラ撒き作戦に出て、米国がフランスを乗っ取り、この国を破壊し、欧州全土を植民地化するつもりだ・・と、連合軍への反感を煽るのです。そして遂にやって来た解放者。ル・アーヴルにカーン、サン・ローは爆撃によって壊滅的な被害を受け、すでにドイツ軍が撤退したにもかかわらず、爆弾は教会も区別せずに降り注ぎ、見つかったドイツ人の死体は10体足らずなのに、死亡した市民は3000人にものぼる・・と、フランス当局は腹立たしげに報告するのでした。「ドイツ軍が来たからといって、ひどく困ることはなかった。少なくとも家だけは残してくれたから。けれども今、アメリカは何一つ残してくれなかった」。そんな状況下で解放者として迎え入れられた米兵たち。美しい現地女性と出会ったGIのジョーは、フランス語で「はじめまして」と言ったつもりが、「どんなやり方が好き?」と口走ってしまい、往復ビンタの洗礼を受けます。米軍の公式新聞「スターズ・アンド・ストライプス」は当然、プロパガンダ的な写真を掲載。大抵は女性や子供から熱烈に歓迎される米兵の姿であり、救った者と救われた者、救ったのは米軍(男性)であり、救われたのはフランス人(女性)という構図を意図したとしています。本書にはいくらかこのような写真や当時のマンガも掲載してありました。もちろん首都パリを解放すれば、フランス人は感謝の気持ちを「キスの嵐」で表現。前途の新聞ではコミュニケーションの向上を図るため、フランス語のレッスンを掲載します。憶えるドイツ語は「禁煙!」、「武器を捨てろ!」、「整列、前に進め!」なのに対し、フランス語といえば「あ..
USA
ヴィトゲンシュタイン
2015-11-27T18:56:00+09:00
メアリー・ルイーズ・ロバーツ著の「兵士とセックス」を読破しました。
8月に出た本書は、そのものズバリのタイトルと副題からかなり興味を持っていました。
過去にはベルリンでソ連兵がドイツ人女性に何をしたのか? を検証した
「1945年・ベルリン解放の真実 -戦争・強姦・子ども-」を読んでいますが、
コチラはノルマンディで、パリで、またはル・アーヴルで米兵は何をしたのか? を
恋愛、売買春、レイプの3つ視点で検証したものです。
最初は1944年、フランス人は連合軍の上陸を待ち望むものの、同時に恐れも抱きます。
それは50万㌧もの爆弾が落とされ、3万人以上の市民が命を落としているからです。
希望よりも恐怖・・。それはどこかよその場所であってほしいという願い。。
ソコでドイツ軍はビラ撒き作戦に出て、米国がフランスを乗っ取り、この国を破壊し、
欧州全土を植民地化するつもりだ・・と、連合軍への反感を煽るのです。
そして遂にやって来た解放者。
ル・アーヴルにカーン、サン・ローは爆撃によって壊滅的な被害を受け、
すでにドイツ軍が撤退したにもかかわらず、爆弾は教会も区別せずに降り注ぎ、
見つかったドイツ人の死体は10体足らずなのに、死亡した市民は3000人にものぼる・・と、
フランス当局は腹立たしげに報告するのでした。
「ドイツ軍が来たからといって、ひどく困ることはなかった。少なくとも家だけは残してくれたから。
けれども今、アメリカは何一つ残してくれなかった」。
そんな状況下で解放者として迎え入れられた米兵たち。
美しい現地女性と出会ったGIのジョーは、フランス語で「はじめまして」と言ったつもりが、
「どんなやり方が好き?」と口走ってしまい、往復ビンタの洗礼を受けます。
米軍の公式新聞「スターズ・アンド・ストライプス」は当然、プロパガンダ的な写真を掲載。
大抵は女性や子供から熱烈に歓迎される米兵の姿であり、
救った者と救われた者、救ったのは米軍(男性)であり、救われたのはフランス人(女性)
という構図を意図したとしています。
本書にはいくらかこのような写真や当時のマンガも掲載してありました。
もちろん首都パリを解放すれば、フランス人は感謝の気持ちを「キスの嵐」で表現。
前途の新聞ではコミュニケーションの向上を図るため、フランス語のレッスンを掲載します。
憶えるドイツ語は「禁煙!」、「武器を捨てろ!」、「整列、前に進め!」なのに対し、
フランス語といえば「あなたの瞳は魅力的です」、「私は将官です」、
「私は結婚していません」、「ご両親はご在宅ですか?」と、表現も大きく違うのでした。
ドイツの収容所から解放されたフランス人男性が3年ぶりに故郷に戻ってみると、
我が家は米兵たちで溢れ、食事をし、寝泊まりをしているという第2の占領期間・・。
バーやカフェでは夫や恋人と一緒のフランス女性にも言い寄り、「いくら?」尋ねる米兵の姿。
当然、男同士のケンカに発展するのです。
続いては闇市場と結びついていた「売春」です。
お金だけではなく、タバコやチョコレートでもセックスを購入できるシステム。
「ナチズムと強制売春」にも少し触れられていたように、ドイツ占領下では、
売春宿は効率的に運営され、性病検査に売春婦の個人情報まで管理していたものの、
米兵が到着すると、その需要に圧倒され、もぐりの売春婦にも仕事が回ってくるのです。
一日に1000人から1500人の客が訪れ、1人の女性が50人以上の相手をさせられたとか。。
パリでは「将校用」の売春宿、「下士官用」、そして「黒人用」と・・。
アントニー・ビーヴァー著の「パリ解放 1944-49」にも似た話がありましたね。
兵士がフランス市民と見境のないセックスをするよりも、売春宿で管理しようというわけですが、
パットンもこのように語ったそうです。「連中はファックしなけりゃ、ファイト(戦闘)しない」。
軍上層部は男性の性的活動は健全なものと考え、禁欲を強制すると倒錯的な性行動・・、
すなわち、同性愛に走ることが懸念されているのです。
また米軍基地内に忍び込む売春婦も現れると、フルタイムのポン引きになる憲兵も登場。
入場料を取り、稼ぎの一部をせしめる輩もおり、1946年1月に基地を強制捜査すると、
124人もの女性が見つかって、粛々と基地外まで護送・・。
本書の3つ目の視点は「レイプ」です。
1944年10月、憲兵隊長が提出した犯罪リストの筆頭に挙がっていたのはレイプ。
152人の米兵がレイプ容疑で裁判にかけられ、そのうち139人が黒人・・。
欧州に派遣された米兵には、わずか1割しか黒人兵がいないことを考えると、
この数字は愕然としてしまうものであり、米軍が強姦、性的暴行に関して厳しく処罰していることを
フランス国民に示すため、事件発生現場の近隣で「公開処刑」が執り行われます。
そしてロープで吊るされた者29名のうち、25名が黒人兵・・。
ドイツ人女性がソ連兵だけでなく、500人以上が米兵にレイプされたという統計を紹介しつつ、
フランスではなぜ、ここまで黒人兵が簡単に犯人とされ、告訴から裁判まで僅か1~2週間、
被告にはまともな弁護人も付けられず、蝋燭や月明かりのなかで行われた犯罪に対し、
被害者がどうやって犯人を特定できたのか?? といったことに検証に検証を重ねます。
いわゆる「面通し」を行っても、被害者や目撃者が犯人を特定することは困難で、
レイプ犯だと確信した理由は「ただそうに違いないと思ったから・・」。
裁判で被害者が「この人が犯人です」と指差したのは、「黒人の補佐弁護人」だったり。。
黒人は性欲が過剰であるとされていて、女性の告発に疑いがもたれることはありません。
そして軍当局がレイプを「アメリカの問題ではなく、黒人の問題」とする傾向があり、
シェルブールのような兵站基地地区に数多い黒人部隊は、白人の戦闘部隊よりも
フランス人と接触する機会が多く、女性と知り合う機会も多い・・と歩兵たちから恨まれ、
人種差別主義者によって、自らの犯罪を押し付けられたり・・。
まぁ、イタリアでもフランス軍のモロッコ兵に襲われる! なんて宣伝していたくらいですから、
当時、特に田舎では、どこの国でも黒人は野蛮で性欲が強いとされていたんでしょう。
436ページ本書は様々な記録や証言などを繰り返し引用して結論付けているわけですが、
まぁ、読んでいてそれほど驚くような事実が出てきたということもありませんでした。
過去のパリ解放モノでもある程度は書かれていたと思いますし、
男からすれば、「若い兵士がヤリたい」という心理は以前から理解しています。
最後のレイプにしても、冤罪の可能性をメインに検証していますが、
実際にあったであろうレイプの実例についてはほとんどスルー・・。
女性の著者、訳者さんですから、知りたいことの感覚が違うようにも思いました。
ちなみにコレを書いてる今、「戦場の性 ―独ソ戦下のドイツ兵と女性たち」
という本が近々出るのを見つけました。
本書の巻末にも「監訳者解題」として、日本の従軍慰安婦制度に触れられていますが、
この連発は現在の従軍慰安婦問題に対して、当時の各国の状況を確認しようという
出版業界の意思の現れなのかも知れませんね。
ソ連兵、米兵ときて、今度はドイツ兵・・。そして著者はやっぱり女性のようです。
でも、また読んじゃうんだろうなぁ。。
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たのしいプロパガンダ
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-10-20
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。辻田真佐憲 著の「たのしいプロパガンダ」を読破しました。先月に出た224ページの新書。「本当に恐ろしい大衆扇動は、 娯楽(エンタメ)の顔をしてやってくる! 」という謳い文句で、表紙のセンスもなかなか・・、と気になったところ、著者は「世界軍歌全集―歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代」の方で、この謳い文句と世界軍歌全集を足して考えれば、「コリャ面白そうだ・・」と購入しました。大日本帝国、ナチス、ソ連といった大戦期から、中国、北朝鮮などの東アジア、そして現代のイスラム国(ISIL)によって行われているプロパガンダまでを広く解説しています。「はじめに」では本来、「宣伝」という意味である言葉、「プロパガンダ」が、「政治的な意図に基づき、相手の思考や行動に影響を与えようとする組織的な宣伝活動」という、一般的な解釈を説明しながら、本書の目的を解説します。そして第1章は「大日本帝国の思想戦」。陸軍のプロパガンダの関心は、明治以来モデルにし、あれほど強かったドイツがどうして大戦で負けてしまったのか。陸軍の結論はプロパガンダの戦いに敗北し、内部から崩壊してしまったのだ・・。総力戦では国民の戦争協力を欠かすことができず、やる気を無くさせようものなら工場も鉄道も止まり、戦争どころではない。ドイツもロシアもそのようにして敗れたと・・。ということで、1938年に陸軍省新聞班の清水盛明中佐による説明を紹介。「由来宣伝というものは強制的ではいけないのでありまして、楽しみながら知らず知らずのうちに自然に啓発教化されて行くということにならなければいけないのであります」。そして人気コメディアン古川ロッパの舞台の合間に、5分ほど「支那事変」の解説をさせ、笑いながら楽しんだ客は「支那事変」の真意義を聞かされて帰る・・という戦略です。一方の海軍では海軍省軍事普及部のエリート将校、松島慶三が宣伝を研究し、数多くの軍歌の作詞を手掛け、あの宝塚歌劇団のレビューの原作にも手を伸ばします。「太平洋行進曲」に始まり、「軍艦旗に栄光あれ」、「少年航空兵」、「南京爆撃隊」といった「軍国レビュー」を次々と繰り出すのでした。そういえば「戦う広告」にも宝塚の軍国レビュー広告が載ってましたねぇ。有名な「写真週報」にも触れ、その第二号に掲載された一文を紹介。「映画を宣伝戦の機関銃とするならば、写真は短刀よく人の心に直入する銃剣でもあり、何..
世界の・・
ヴィトゲンシュタイン
2015-10-20T19:28:54+09:00
辻田真佐憲 著の「たのしいプロパガンダ」を読破しました。
先月に出た224ページの新書。
「本当に恐ろしい大衆扇動は、 娯楽(エンタメ)の顔をしてやってくる! 」
という謳い文句で、表紙のセンスもなかなか・・、と気になったところ、
著者は「世界軍歌全集―歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代」の方で、
この謳い文句と世界軍歌全集を足して考えれば、「コリャ面白そうだ・・」と購入しました。
大日本帝国、ナチス、ソ連といった大戦期から、中国、北朝鮮などの東アジア、
そして現代のイスラム国(ISIL)によって行われているプロパガンダまでを広く解説しています。
「はじめに」では本来、「宣伝」という意味である言葉、「プロパガンダ」が、
「政治的な意図に基づき、相手の思考や行動に影響を与えようとする組織的な宣伝活動」
という、一般的な解釈を説明しながら、本書の目的を解説します。
そして第1章は「大日本帝国の思想戦」。
陸軍のプロパガンダの関心は、明治以来モデルにし、あれほど強かったドイツが
どうして大戦で負けてしまったのか。
陸軍の結論はプロパガンダの戦いに敗北し、内部から崩壊してしまったのだ・・。
総力戦では国民の戦争協力を欠かすことができず、やる気を無くさせようものなら
工場も鉄道も止まり、戦争どころではない。ドイツもロシアもそのようにして敗れたと・・。
ということで、1938年に陸軍省新聞班の清水盛明中佐による説明を紹介。
「由来宣伝というものは強制的ではいけないのでありまして、楽しみながら知らず知らずのうちに
自然に啓発教化されて行くということにならなければいけないのであります」。
そして人気コメディアン古川ロッパの舞台の合間に、5分ほど「支那事変」の解説をさせ、
笑いながら楽しんだ客は「支那事変」の真意義を聞かされて帰る・・という戦略です。
一方の海軍では海軍省軍事普及部のエリート将校、松島慶三が宣伝を研究し、
数多くの軍歌の作詞を手掛け、あの宝塚歌劇団のレビューの原作にも手を伸ばします。
「太平洋行進曲」に始まり、「軍艦旗に栄光あれ」、「少年航空兵」、「南京爆撃隊」といった
「軍国レビュー」を次々と繰り出すのでした。
そういえば「戦う広告」にも宝塚の軍国レビュー広告が載ってましたねぇ。
有名な「写真週報」にも触れ、その第二号に掲載された一文を紹介。
「映画を宣伝戦の機関銃とするならば、写真は短刀よく人の心に直入する銃剣でもあり、
何十万何百万と印刷されて撤布される毒ガスでもある」。
確かにこのBlogのコメントでもたま~にありますが、頑張って2000文字のレビューを書いても、
オマケで貼りつけた一枚の写真に喰いつかれる方もいるので、その効用はよくわかります。
そういえば「『写真週報』に見る戦時下の日本」を読むのを忘れてました。
その機関銃たる映画、円谷英二が特撮を手掛けた1942年の「ハワイ・マレー沖海戦」など
軍の後援を受けた迫力ある映画は大ヒットし、志願制であった飛行兵の募集にも貢献。
1943年には「桃太郎の海鷲」というアニメも公開。
桃太郎率いる空母機動部隊が鬼ヶ島を空襲する血なまぐさいストーリーで、
「ハワイこそ! 悪鬼米英の根拠地鬼ヶ島ではないか!」
1945年4月という時期には続編「桃太郎 海の神兵」も公開され、大東亜共栄圏の諸民族を現す
動物たちに桃太郎がアジア解放の大義を教えるシーンもあるなど、より生々しいそうな・・。
本書では白黒で小さいながらも所々に写真も掲載されています。
第2章は「欧米のプロパガンダ百年戦争」。
まずはプロパガンダ国家というソ連からで、水兵の反乱と革命を描いた「戦艦ポチョムキン」を
共産主義のプロパガンダ映画の代表格として紹介。
この1920年代のソ連では国立映画学校が設立され、アニメにも力を入れており、
「惑星間革命」というSFアニメの内容は、赤軍の闘士「コミンテルノフ」が宇宙船で火星に向かい、
プロレタリア革命を起こして資本家たちを打倒する・・というもの。。
大祖国戦争真っ只中の1942年に製作された短編アニメ「キノ・サーカス」は、
ヒトラーとファシスト軍をを徹底的に茶化した3本立てで、
犬の姿をしたムッソリーニ、ホルティ、アントネスクをヒトラーが調教したり、
ナポレオンの墓を訪れたヒトラーが世界征服のアドバイスを求めるも・・。
4分ほどの短編ですから、ちょっと覗いてみてください。
1930年代に刊行された対外宣伝グラフ誌、「ソ連邦建設」というのは初めて知りました。
ロシア語だけでなく、英語、仏語、独語といった様々なバージョンがあり、
見上げるように撮影された雄々しい兵士や、合成された巨大なスターリンの写真。
神の如き偉大な指導者を演出しているのです。
続いてはナチス・ドイツ。
「戦艦ポチョムキン」を褒め称えたゲッベルスが主役で、映画、音楽を統制します。
ベルリン・オリンピックは反ユダヤ色を廃し、ギリシャからの聖火リレーも発明。
「意志の勝利」のレニ・リーフェンシュタール監督による記録映画「オリンピア」も好評・・と、
やや駆け足ながらサクサクと進みます。
そしてやっぱりソ連の対外宣伝グラフ誌、「ソ連邦建設」と同様の「ジグナル」についても解説。
1940年の創刊で、1945年3月まで刊行され、最大250万部を発行した有名グラフ誌です。
今年の1月に「ヒトラーの宣伝兵器―プロパガンダ誌『シグナル』と第2次世界大戦」という
大型本が出ましたが、実は休止中にコッソリ読みました。気になる方は図書館へGO!
米国ではディズニーが1943年に「総統の顔」を製作します。
ドナルド・ダックが「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒロヒト! ハイル・ムッソリーニ!」と挨拶させられ、
「わが闘争」の独破を強要され、軍需工場へ駆り出されるというお話。
その年のアカデミー短編アニメ賞に輝きますが、調べてみるとネタが枢軸だからなのか、
日本で発売されているDVD-BOXには未収録なんだそうです。
第3章は「戦場化する東アジア」。
最初は現代のプロパガンダ国家の鑑・・とでも言えそうな北朝鮮です。
そのキーマンは第2代の「将軍様」、金正日で、彼は1964年に大学を卒業後、
党の宣伝扇動部でそのキャリアをスタートさせ、25歳で文化芸術指導課長に、
1973年に党書記(党組織および宣伝扇動担当)に選出されるという、
一貫したプロパガンダ畑を歩み続けて出世した人物であり、
TVアナのおばちゃんが勇ましくアナウンスするのも、「戦闘的で革命的な」という
金正日の1971年の指示によるものだそうです。
そしてやっぱり映画好き。ハリウッド・コレクションに「寅さんシリーズ」の全フィルムも所有。
抗日武装闘争がテーマの映画には、予算からシナリオ、撮影にも口を出すなど、
まさに北朝鮮のゲッベルスですね。
1985年には怪獣映画「プルガサリ」の製作のため、東宝のスタッフも招かれるのです。
音楽の面でも大衆が楽しめなければ・・という考えのもと、「ポチョンボ電子楽団」を1985年に、
3代目の金正恩も亡き父の教えを受け継ぎ、ガールズユニット「モランボン楽団」を立ち上げ
ミッキーやプーさんらしき着ぐるみと共にディズニー・メドレーを披露。
コレはニュースにもなりましたね。
対する休戦国家、韓国は・・というと、若者の徴兵制への不満もあるなか、
国防部は2012年になって軍隊生活のイメージ・アップを図るため、
既存の軍歌を今風にアレンジして、有名歌手や芸能人が歌い、
人気作曲家に依頼してバラード風の軍歌「自分を超える」を製作し、
兵役中の歌手、パク・ヒョシンが歌って、ミュージックビデオを全部隊に配布・・。
これを「K-POP新軍歌」と言うんだそうです。
中国では抗日映画がTVドラマへ変化するも、日本兵はさながらハリウッドにおけるナチスであり、
中国人が弓矢、刀で絶対悪の日本軍をいくら打ち倒しても問題なし。
決まりきったストーリーで、予算もかからず、一定の視聴率も稼げるということで、
まぁ、「遠山の金さん」とか、「桃太郎侍」みたいなモンなんでしょう。
しかし2013年まで放映された「抗日奇侠」、カンフーで日本兵を真っ二つにする過剰演出が
物議を醸して、中国政府が抗日ドラマの規制に乗り出したそうな・・。
どう真っ二つかを見たい方は、「抗日奇侠 真っ二つ」でググると出てくるかも・・。
モデルガンで日本兵をやっつけることの出来る抗日体験アトラクションが充実したテーマパーク
「八露軍文化園」も紹介。
2014年には党機関紙「人民日報」の傘下のWEBサイトに「打鬼子」というゲームが公開。
「鬼畜を打て」という意味のこのゲームは、 東條英機を筆頭とする「A級戦犯」を選び、
その顔を描いた看板を射撃して点数を競うというもの・・。エゲツないなぁ。。
第4章はちょっと雰囲気が変わり、「宗教組織のハイテク・プロパガンダ」と題して、
「オウム真理教」のプロパガンダ手法について詳しく振り返り、
インターネットとSNSを大いに活用した最近のイスラム国(ISIL)のプロパガンダを警戒します。
そして彼らが同じ黒い服を着て、黒い旗を掲げ、指を立てるポーズは、
ナチスに良く似ている・・という指摘もあるんだとか・・。
こうして最後の第5章で現在の日本にはプロパガンダが浸透しているのか? を検証。
「右傾エンタメ」とされる「艦これ」や、特に百田尚樹著「永遠の0」について大いに私見を述べ、
同じ時期に公開された宮崎駿の「風立ちぬ」と比較します。
個人的にはどちらも未見なので、何とも意見のしようがありませんが・・。
最後に「自衛隊」のプロパガンダ。
防衛庁の1962年の要領には、「映画会社に対しては、防衛意識を高めるようなもの、
ないし自衛隊を正しく興味深く取り扱うものを製作するよう誘導する」と書かれ、さらに
「自衛隊色を表面に出さず、観客に自然と防衛の必要性、自衛隊の任務等が理解されるよう・・」。
原則、自衛隊は無償で映画製作に協力しているわけですが、
要は「悪く書くなら協力しないよ」であるとも言え、このようなことは、「レマゲン鉄橋」でも
GIがドイツ兵の死体から双眼鏡と腕時計を外す場面をカットしなければ撮影に協力しないと
言い出したり、ナチス映画「最後の一兵まで」でも、国防大臣ブロムベルクが
「艦隊が激しい攻撃を受ける場面を取り除いてほしい」との要望を出したのと同様ですね。
確か「野性の証明」は内容的に問題が多くて、自衛隊は協力しなかったと・・。
仁義なき風の松方弘樹が、ヘリから機関銃を狂ったように撃ちまくるんではねぇ。。
そして昨今の「自衛官募集ポスター」にはアニメ風に描かれた絵の採用が増え、
このような若者をターゲットにした「萌えミリ」効果は、少なからず見られるそうです。
大戦中の米国「婦人補助部隊」募集ポスターは綺麗でキリっとしたおねぇちゃんだったなぁ。。
その他、自衛隊の歌姫や、「ガルパン」への協力姿勢にも言及していました。
224ページの新書なので、ゆっくり読んでも2日も持ちませんでしたが、
時代と文化の異なる国々を広範囲に、非常に巧くまとめていました。
その理由としては、自国民に対するプロパガンダとは、楽しくなければならない・・、
という論理が歴史的にどこの国でも繰り返されているわけで、
新聞、ラジオといった媒体から、映画、TV、インターネット、ゲームと変化した娯楽コンテンツに
組み込まれる・・というだけの違いしかないのでしょう。
著者の主観が強すぎるような記述もありましたが、このような本では許容範囲で
気軽に読める「プロパガンダ入門」として最適だと思います。
各国のプロパガンダをより細かく知りたい人には、巻末の参考文献が役立ちそうです。
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ラスト・オブ・カンプフグルッペIV
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-10-05
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。高橋 慶史 著の「ラスト・オブ・カンプフグルッペIV」を読破しました。前作の「ラスト・オブ・カンプフグルッペⅢ」が出版されたのが2012年。ということは、小学生でもわかるように3年ぶりの新作です。ちなみに第1弾は2001年ですから、実に14年続いているシリーズですか。購入後、すぐに独破してしまうのはもったいないので、3週間ほど熟成させて、かつ、2週間ほどかけて、全9章をゆっくり楽しみ、さらにもう一度読み直しました。第1章からいきなり列車砲・・。「アンツィオ・アニー」です。1943年9月、イタリアに連合軍が上陸すると、ケッセルリンクは強力な砲兵部隊の派遣を要請。そこでフランスのパド・カレーで平和に暮らしていた列車砲中隊がアルプスを越えて、イタリア戦線に派遣され、1944年2月、連合軍が陣取るアンツォ湾施設に15発の巨弾を送り込むことに。2門の列車砲「28㎝ K-5 (E)」は、それぞれ「ロベルト」、「レオポルト」と呼ばれ、突如として降り注いでくる死の恐怖にGIたちは「アンツィオ・アニー」という綽名をつけるのでした。このような列車砲の運用も詳しく、キッチンやベッドなど隊員が寝起きしたり、弾薬を保管するために10℃に保つ空調設備のある特殊貨車が随伴。1回の砲撃は6発~8発に制限され、敵機の来襲前にササッとトンネルへ退避するのです。しかし6月には巨弾も尽き、終焉の時を迎え、放置された「アンツィオ・アニー」は、研究のために米国本土へと運ばれ、アバディーンの兵器博物館から、現在は、ヴァージニア州フォートリーの軍事施設野外展示場で見ることができるそうな・・。第2章は「ディエップで朝食を」と題して、カナダ軍中心のディエップ奇襲の顛末を・・。まぁ、コレについては「グリーン・ビーチ」を読んでいましたので、だいたいのことはアレですが、さすがに戦況図に編成図、装備表と写真が掲載してあってわかりやすいですね。第3章は1945年の2月~3月にかけてのポンメルン防衛戦。主役となるのは、わずか2ヵ月間だけ存在した戦車師団「ホルシュタイン」です。いや~、いよいよ「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」らしくなってきました。東部戦線での壊滅的な事態に対し、第233予備戦車師団を母体にして、機甲擲弾兵補充旅団「グロースドイッチュラント」、戦車射撃学校「プトロス」、戦車学校「ベルゲン」、その他、教育突撃砲旅団が集まって、戦車..
戦記
ヴィトゲンシュタイン
2015-10-05T20:09:01+09:00
高橋 慶史 著の「ラスト・オブ・カンプフグルッペIV」を読破しました。
前作の「ラスト・オブ・カンプフグルッペⅢ」が出版されたのが2012年。
ということは、小学生でもわかるように3年ぶりの新作です。
ちなみに第1弾は2001年ですから、実に14年続いているシリーズですか。
購入後、すぐに独破してしまうのはもったいないので、3週間ほど熟成させて、
かつ、2週間ほどかけて、全9章をゆっくり楽しみ、さらにもう一度読み直しました。
第1章からいきなり列車砲・・。「アンツィオ・アニー」です。
1943年9月、イタリアに連合軍が上陸すると、ケッセルリンクは強力な砲兵部隊の派遣を要請。
そこでフランスのパド・カレーで平和に暮らしていた列車砲中隊がアルプスを越えて、
イタリア戦線に派遣され、1944年2月、連合軍が陣取るアンツォ湾施設に
15発の巨弾を送り込むことに。
2門の列車砲「28㎝ K-5 (E)」は、それぞれ「ロベルト」、「レオポルト」と呼ばれ、
突如として降り注いでくる死の恐怖にGIたちは「アンツィオ・アニー」という綽名をつけるのでした。
このような列車砲の運用も詳しく、キッチンやベッドなど隊員が寝起きしたり、
弾薬を保管するために10℃に保つ空調設備のある特殊貨車が随伴。
1回の砲撃は6発~8発に制限され、敵機の来襲前にササッとトンネルへ退避するのです。
しかし6月には巨弾も尽き、終焉の時を迎え、放置された「アンツィオ・アニー」は、
研究のために米国本土へと運ばれ、アバディーンの兵器博物館から、現在は、
ヴァージニア州フォートリーの軍事施設野外展示場で見ることができるそうな・・。
第2章は「ディエップで朝食を」と題して、カナダ軍中心のディエップ奇襲の顛末を・・。
まぁ、コレについては「グリーン・ビーチ」を読んでいましたので、だいたいのことはアレですが、
さすがに戦況図に編成図、装備表と写真が掲載してあってわかりやすいですね。
第3章は1945年の2月~3月にかけてのポンメルン防衛戦。
主役となるのは、わずか2ヵ月間だけ存在した戦車師団「ホルシュタイン」です。
いや~、いよいよ「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」らしくなってきました。
東部戦線での壊滅的な事態に対し、第233予備戦車師団を母体にして、
機甲擲弾兵補充旅団「グロースドイッチュラント」、戦車射撃学校「プトロス」、
戦車学校「ベルゲン」、その他、教育突撃砲旅団が集まって、
戦車師団「ホルシュタイン」を編成。。
その戦力はⅣ号戦車が46両、マーダー自走砲が9両とⅢ号突撃砲、Ⅳ号駆逐戦車ラングです。
参謀総長グデーリアンによって「冬至(ゾンネンベンデ)作戦」が計画されるも、
肝心のヴァイクセル軍集団司令官がヒムラーでは、戦線の大崩壊は必至の状況で、
次長のヴェンクがヒムラーの代理として派遣されます。
あ~、グデーリアンを出向かえた、ヒムラーの参謀長ラマーディングSS少将も思わず、
「あの司令官をなんとかしていただけませんでしょうか・・?」
て言ってしまったエピソードを思い出しました。
出来たてほやほやの「ホルシュタイン」を視察しに来たヴェンクは擲弾兵連隊長が輸送途中、
空襲により戦死したことを知ると、同行していた柏葉章拝領者のOKH機甲擲弾兵監察官、
エルンスト・ヴェルマン大佐を当座の指揮官任命。師団長も未着任のため、
そのまま彼が師団長代理として指揮を執ることになるのでした。
ん~。。こういう仕事の出来る人たちの臨機応変さっていうのは、実に気持ちがイイ。
しかし帰路の途中、三日三晩、不眠不休だったヴェンクは運転を誤り、鉄橋の橋脚に激突。
頭蓋骨と肋骨5本を骨折して静養するハメに・・。
ソ連の2個軍12万名と対峙するポンメルン防衛線。
兵力不足のドイツ第3戦車軍といえば、SS「シャルルマーニュ」とSS「レットラント第1」という、
フランス人、ラトヴィア人部隊が中心で、ホルシュタインは予備部隊。
案の定、ソ連軍に粉砕されて、その後、フォン・テッタウ中将指揮の「テッタウ作戦軍団」として、
ホルシュタインはSS義勇兵の残余と共に再編され、退却戦へと進むのです。
途中、ヴォルフガング・パウルの名著「最終戦」から引用するなど、
この戦役部分だけ引っ張り出して、再読したくなりました。
次の章も興味深い「SS第14/15コサック騎兵軍団」です。
まずは最初に投降したコサック部隊として1941年のバルバロッサにギブアップをし、
スターリン体制と戦うことを宣言するイヴァン・コノノフ率いるソ連の軽歩兵連隊を取り上げます。
投降した赤軍兵士から成る義勇兵部隊の編制がヒトラーに許可されて、
第600コサック大隊と命名され、コノノフ自身も晴れてドイツ陸軍中佐に昇進するのでした。
このようなコサック部隊があちこちに誕生すると、それらを大規模な部隊として運用しようと、
元SA指導者で騎士十字章を持つ、ヘルムート・フォン・パンヴィッツに白羽の矢が立つことに。
参謀本部のシュタウフェンベルク少佐の働きかけがあったと書かれていますが、
あの「幻影 -ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語-」にあったエピソードですね。
そして1943年4月、ついに「第1コサック師団」が誕生しますが、旅団長や連隊長といった
ドイツ人将校は馬術技能に秀でていないと、部下のコサックたちに舐められてしまいますから、
フォン・なにがし・・といった名前を持つ、騎兵部隊の親分肌のベテランが集められるのです。
1944年になると2個師団から成る「コサック軍団」を編成しようとするパンヴィッツ。
しかしこの時期、すでに陸軍にはコサック部隊なんぞに物資を提供する力はなく、
ヒムラーのとの会談の結果、「SSコサック軍団」となり、パンヴィッツ自身もSS中将に・・。
かと言っても武装SSの制服は着用せず、終始コサック風だったそうですが、
最終的にはウラソフのロシア解放軍も登場し、「遠すぎた家路」にも書かれていたような
悲惨な運命が彼らを待っているのでした。
第5章はあの最弱と呼ばれる「空軍地上師団ついに逃げ勝つ」と題して、
1944年、ギリシャに駐留していた第11空軍地上師団がルーマニアの寝返りや
ブルガリアの枢軸からの離脱といったバルカン方面の危機に直面し、
プリンツ・オイゲンやハントシャールといったSS義勇兵部隊と協力しつつ、
一大パルチザン帝国であるユーゴスラヴィアを突破し、
オーストリアを目指してひたすら撤退する・・という切ないお話。。
「ラスカン①」では、マーケット・ガーデン作戦に対する寄せ集め戦闘団の戦いを、
「ラスカン③」では、ワルシャワ蜂起に対する寄せ集め戦闘団の戦いを、
そして本書では3つめの寄せ集め戦闘団の戦い、「スロヴァキア蜂起」の登場です。
1944年8月はワルシャワ蜂起にパリ陥落、ルーマニアの脱落・・という状況で、
ソ連軍はスロヴァキア国境の手前カルパチャ山脈にまで進出中・・。
国境をソ連と接しておらず、フィンランドやルーマニアのように歴史的領土問題もないこの国では、
すでに厭戦気分が広がっており、東部、中部、西部に配置されたスロヴァキア軍が蜂起し、
同じスラヴ民族であるソ連軍を手引きしようということに・・。
しかし機甲連隊を有する最強の東部軍は、カルパチャ山脈持久戦を展開していた
ハイリーチ軍集団による「ジャガイモ刈り作戦」であっさりと武装解除。。
8月31日、ドイツ軍はSS本部長ゴットロープ・ベルガーをスロヴァキア防衛軍の責任者に任命し、
近郊のSS工兵学校や武装SS後方治安部隊、陸軍補充部隊を必死にかき集めます。
兵力2200名のSS戦闘団「シル」や、中古Ⅳ号戦車15両だけの戦車師団「タトラ」、
SS第18義勇機甲擲弾兵師団 ホルスト・ヴェッセルの分遣隊であるSS戦闘団「シェーファー」
再編中の第14SS武装擲弾兵師団 ガリツィーエン中心の戦闘団といった、
数々の寄せ集め戦闘団が誕生。。いや~、こりゃ、かなりヤヤコシイ。。
Ⅳ号戦車2両で攻撃を開始した戦車師団「タトラ」ですが、蜂起軍側のマーダーⅢによって撃破。
同胞だったスロヴァキア軍はシュコダ製戦車だけでなく、ドイツ軍から提供されていた
ドイツ軍兵器で善戦するのでした。
9月22日、蜂起軍鎮圧作戦がスローペースなのに業を煮やしたヒムラーによって
ベルガーは解任されてしまい、ヘルマン・ヘーフレSS大将が後任になると、
SS部隊の増援による総攻撃を決意し、ホルスト・ヴェッセルとガリツィーエンの全部隊に加え、
あのワルシャワ蜂起鎮圧で疲れて編制中の、SS特別連隊「ディルレヴァンガー」も投入。
しかし北方線区で第1スターリン・パルチザン旅団の逆襲に遭遇してしまったディルレヴァンガー。
捕虜136名を出す大損害を蒙って撃退され、コレがスロヴァキア蜂起における
ドイツ軍最大の敗北という汚名を着ることに・・。
そうはいっても兵力に勝るドイツ軍。2週間頑張ればソ連軍が来ると信じて戦った蜂起軍は、
実に2ヵ月に渡って死闘を繰り広げるも、ハインリーチの巧みな防御の前に大損害を出した
ソ連軍は、遂にやって来ることはなかったのでした。。
11月8日にはティソ大統領も出席した祝勝パレードも行われ、本書ではこの時のみならず、
写真、戦況図、編成図などを掲載しているものの、正直言って、難しいなぁ。。
2回読み返したのに、まだモヤモヤしているほどです。寄せ集め戦闘団、恐るべし・・。
次の章も「蜂起」。なかなか読めない「プラハ蜂起」です。
1945年3月、ソ連軍がチェコ領内に侵攻するも主力部隊はベルリン攻撃作戦に転用され、
5月1日を迎えた頃、西部のベーメンでも米軍が進撃中という状況。
ポーランドの「国内軍(AK)」と同様に、チェコにも地下抵抗組織「国民防衛(ON)」が存在し、
首都プラハではこのタイミングでドイツ軍を駆逐しようと武装蜂起します。
駐留するドイツ軍部隊は2万名程度で、ヘッツァーを有する部隊があるものの、雑多な小部隊。
ベーメン・メーレン保護領担当相カール・ヘルマン・フランクは、
この僅かな兵力でプラハの防衛と治安維持を行うのは不可能であるとして、
5月3日にヒトラーに後継者に指名されたデーニッツ大統領と会談し、
プラハを病院都市として攻撃対象から外すよう連合軍と折衝することが承認されますが、
米第3軍司令官であるパットンとの接触工作は失敗に終わるのです。
ふ~む。。初めて知ったエピソードだなぁ・・。
この状況だけでもすでに四つ巴ですが、ここに問題を複雑にする軍団が登場。
ウラソフのロシア解放軍(РОА)です。
中央軍集団シェルナー元帥の命令を無視して戦線から離脱していたロシア解放軍は、
チェコの「国民防衛」から武装蜂起部隊への支援を要請されて、「プラハへ行軍!」
簡単に言うと一度寝返った人たちが、ここに来て、また寝返った・・ということですね。。
ドイツ人市民を救出したいフランクは、保護領武装SS司令官ピュックラー=ブルクハウスに
緊急出動を依頼し、武装SSの各兵科学校や補充教育部隊の教官、生徒が動員され、
ココにSS緊急動員部隊「ヴァレンシュタイン」が誕生するのでした。
部隊名は、この地の三十年戦争期の英雄「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」から
頂戴したようで、武装SSにはよくあるパターンですね。
そしてもう一つ、ウィーンで大損害を負った「ダス・ライヒ」の残余、デア・フューラー連隊の
戦闘団を率いるのは剣章拝領者のオットー・ヴァイディンガーSS中佐で、
ベルリン方面への移動命令はフューラーの死によって無効となり、
ピュックラー=ブルクハウスの緊急出動命令を受領して、プラハを目指すのです。
おぉ~、ヴァイディンガーか・・。お久しぶりです。。
「ヴァレンシュタイン」はいくつかの「戦闘団」となって戦うわけですが、
途中、ジェット戦闘機Me-262が地上掃射したり、SA連隊「フェルトヘルンハレ」と合流するなど、
かなりカオスな展開が繰り広げられた挙句、
ウラソフの部隊はチェコのパルチザンに捕えられてソ連軍に引き渡され、
ヴァイディンガーは1000名を失うも、残った車両にドイツ難民を乗せ、米軍のいる西へ撤退。
ピュックラー=ブルクハウスは6000名の将兵と共に降伏し、文書に署名した後に自決・・。
この人は第1次大戦で1級鉄十字章を授与された大尉で、戦後はSA少将、
1938年には陸軍大尉となって歩兵師団の作戦参謀を務め、
ヒムラーからの懇願を受けて武装SSに転入し、バッハ=ツェレウスキにも従えて、
SS第15「レットラント第1」師団長を拝命する・・という非常にカオスな人生を送っています。
ラス前の第8章は「第三帝国最後の戦車師団出撃す!」
1945年4月の西部戦線・・。モーデルのB軍集団32万名が「ルール・ポケット」で包囲。
そこでOKWは弱体な第11軍をハルツ山地に集結させて、強力な米3個軍の東進を防ぎつつ、
編制中であるヴェンクの第12軍と連絡して反撃させ、B軍集団の解囲を図る・・という、
まさに夢のような壮大な作戦を立案するのです。
主役となるのは第12軍に配属される予定で編成が進んでいた3個師団です。
再編された第84歩兵師団の他、歩兵師団「アルベルト・レオ・シュラゲーター」は
第1RAD(国家労働奉仕団)歩兵師団であり、7500名のRAD隊員と
壊滅した第299国民擲弾兵師団の残余・・という、これだけで泣けそうです。
シュラゲーターといえば、第26戦闘航空団(JG26)の愛称として知られていますが、
RADだけに、まさかメインとなる武器はシャベルってことはないだろうな・・。
そしてもう一つの師団が戦車師団「クラウゼヴィッツ」であり、
第3章で壊滅した戦車師団「ホルシュタイン」、
戦車旅団「フェルトヘルンハレ」などが再編された師団です。
一応、ティーガー、パンター、ヤークトパンター、Ⅲ号突撃砲を装備しているものの、
悠長に完全編成の師団として出撃するわけではなく、逐次「戦闘団」として
先に孤立してしまった第11軍の救出に投入されるのです。
この3個師団は「第39戦車軍団」となりますが、軍団長はあのカール・デッカー大将。
いや~、これまたお久しぶりです。この人はシュトラハヴィッツとやり合う気の強さがあって、
以前から気になっていた戦車将軍なんですね。
4月14日、ヴァレ少佐率いる突撃砲20両による英軍への夜間攻撃。
そして明け方、チャーチル歩兵戦車の2個戦車中隊が近づいて来たのを確認すると、
歴戦の叩き上げフリードリヒ・アンディング少尉とシュティッツレ伍長の3人は、
パンツァーファウストによる攻撃に打って出るのです。
ヴァレ少佐は7両、アンディング少尉は6両と、次々に仕留めるまさに戦車猟兵の鑑・・。
本書の帯にも「歩兵3人vs戦車30両!!」と書かれているだけのクライマックスです。
また、このアンディング少尉はその眼つきと右袖の「戦車撃破章」の数から気になっていた人物。
肉薄攻撃による敵戦車1両撃破で「銀章」、5両で「金章」、彼は3個ずつ付けているわけですね。
4月20日、「クラウゼヴィッツ」師団長ウンライン中将らとトランプを楽しんだデッカー軍団長。
「明日は死か捕虜か2つの選択肢しかない。しかし米軍は私を捕虜にすることはできない」。
翌日、パンター2両を先頭に、デッカーの乗ったSd Kfz 234/2「プーマ」が続き、
敵歩兵中隊を50㎜砲と機関銃で掃射しながら突っ走ります。
う~ん。。プーマの戦記って初めて読んだ気がしますね。しかもデッカー軍団長が乗車中。。
その軍団長は拳銃自殺を遂げるのですが、まったく男らしい・・。
結局、クラウゼヴィッツと「第39戦車軍団」のハルツ山地までの無謀な奮戦。
すでに第11軍は存在せず、救うはずのB軍集団も降伏したあと・・。
「戦争論」で有名なクラウゼヴィッツの名を冠し、たった25日で生涯を終えた戦車師団・・
というのも、まったく歴史の皮肉に感じますね。。
最後は「ドイツ海軍 高射砲艦」です。
この高射砲艦やら、防空巡洋艦・・などという名称自体、完全に初耳ですが、
船団護衛艦の防空力を高める必要性を感じた英海軍によって旧式の軽巡洋艦が改装され、
それを見た金満米海軍は防空巡洋艦11隻を建造・・という歴史を解説します。
魚雷発射装置と15㎝カノン砲を撤去して、高射砲、機関砲を設置する・・ということで、
わかりやすく言えば、IV号戦車の車体を用いた対空戦車ヴィルベルヴィントのようなモンですね。
そしてドイツ海軍には「船団護衛」というテーマは無いにしろ、湾港施設に停泊している艦船を
敵の空襲から守る必要があり、そのためどれだけ低速でも、極端に言えば、
動力機関すらない、曳航式でもOK・・。
こうして鹵獲されていたノルウェー、デンマーク、オランダ等の外国製旧式艦艇7隻が
栄えある「高射砲艦」として生まれ変わるのでした。
このような外国人義勇兵的高射砲艦以外にも、純血アーリア人的高射砲艦も2隻存在します。
それは第1次大戦で活躍したガツィレ級小型巡洋艦、「アルコナ」と、「メデューサ」で、
1940年、動力機関が撤去された曳航式の高射砲艦としてデビュー。
乗員数は将校2名に下士官25名、兵員220名で、105㎜高射砲4門に
40㎜高射砲2門、20㎜機関砲6門を搭載して、ヴィルヘルムスハーフェンの湾港沖で
防空任務に就くのです。
しかし終戦間際に敵爆撃機の攻撃により中破・・、乗員22名が戦死するのでした。
と、まぁ、今回も興味深い戦いが数多くありました。
特に「スロヴァキア蜂起」、「プラハ蜂起」、「クラウゼヴィッツ」の3連チャンはかなり濃く、
例えば「プラハ蜂起」で、「ヴィルヘルム・フリック総督が・・」という記述に驚き、
よくよく調べてみると、確かにノイラートの後任のベーメン・メーレン保護領総督でした。
ヤヤコシイですが、ノイラートの穏健な統治がヒトラーから嫌われて事実上のクビになり、
ハイドリヒが副総督としてやって来るも、暗殺されてダリューゲがその後任に・・。
そのダリューゲも心筋梗塞で重体になると、内相の座をヒムラーに奪われて、
暇だったフリックが正式に総督として腰かけでやって来た・・という流れでした。
他にも、最弱の空軍地上師団なんて、脚本次第で戦争コメディ映画にもなりそうな気が・・。
このシリーズを読み終わっていつも困ることは、早く次を読みたいと思ってしまうことです。
果たして第5巻がいつ出るのかはわかりませんが、
それまで、過去の「ラスカン」3冊に、「カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS」、
「ドイツ武装SS師団写真史」をちびちび再読して誤魔化そうかと・・。
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ヒトラーの呪縛(下) - 日本ナチ・カルチャー研究序説
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-09-18
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。佐藤 卓己 編著の「ヒトラーの呪縛(下)」を読破しました。普通は上下巻の文庫を読もうと思ったとき、まとめて入手するんですが、本書は果たしてどんなモンなのか?? と少し不安で、まずは上巻だけを試し読み・・。しかしそんな不安をよそになかなか楽しめましたので、早速、下巻に挑みます。第6章から始まるこの下巻はまず、「コミック&アニメ」です。ヒトラー自身を主人公とする娯楽マンガとしては、戦後少年マンガの巨匠として双璧を成す、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」と、水木しげるの「劇画ヒットラー」を詳しく比較。前者はフィクションであり、後者は史実に基づいて描かれているという相違はあるものの、戦時中は銃後にいた手塚と、戦地で片腕を失った経験のある水木との違いも指摘します。「週刊少年ジャンプの友情とナチス」として・・、「リングにかけろ」からはJr世界大会準決勝、対戦相手の総統スコルピオン率いるドイツチームは「Jrナチス親衛隊」であり、メンバーはゲッペルス、ヒムラー、ゲーリングとそのまんまで何の捻りもナシ。。「サーキットの狼」では、暴走族ナチス軍ポルシェ隊総統のカレラには鈎十字が・・。「キン肉マン」になると、「ブロッケンマン」が口から吐き出す毒ガス攻撃にラーメンマンも悶絶。実況も思わず、「ま、まさにナチスガス室の恐怖を再現しております!!」。ん~・・。そう言われてみると、なんとなくそんなことも記憶の片隅に・・。この章はタイトルが「デスラー総統はドイツ人か」というくらいあって、当然、「宇宙戦艦ヤマト」も分析します。副総統の名前がレドフ・ヒス、勇将ドメルとゲールに至っては最初のうちロンメル、ゲーリングと呼ばれていたと。。それでも松本零士曰く、「デスラーはヒトラーと関係ない」。しかし総統デスラーと聞いて、彼を善玉だと思う読者や視聴者は皆無であり、容赦なき侵略者としてピッタリのイメージで、正義の味方がぶっ殺しても後腐れが無く、なにより名前の響きが「カッコいい」のであって、総統ピーターソンや総統ワタナベでは「サマにならない」と分析。2008年にはヤマト公開30周年を記念して、「デスラー総統ワインセット」が発売され、13650円も完売。。特典としてデスラー勲章と、デスラー総統の訓示を書いたリーフレットも付いていたそうな・・。それから「ガンダム」のナチスチックな部分についても解説してますが、ヴィトゲンシュタインはまったく..
ナチ/ヒトラー
ヴィトゲンシュタイン
2015-09-18T19:23:48+09:00
佐藤 卓己 編著の「ヒトラーの呪縛(下)」を読破しました。
普通は上下巻の文庫を読もうと思ったとき、まとめて入手するんですが、
本書は果たしてどんなモンなのか?? と少し不安で、まずは上巻だけを試し読み・・。
しかしそんな不安をよそになかなか楽しめましたので、早速、下巻に挑みます。
第6章から始まるこの下巻はまず、「コミック&アニメ」です。
ヒトラー自身を主人公とする娯楽マンガとしては、戦後少年マンガの巨匠として双璧を成す、
手塚治虫の「アドルフに告ぐ」と、水木しげるの「劇画ヒットラー」を詳しく比較。
前者はフィクションであり、後者は史実に基づいて描かれているという相違はあるものの、
戦時中は銃後にいた手塚と、戦地で片腕を失った経験のある水木との違いも指摘します。
「週刊少年ジャンプの友情とナチス」として・・、「リングにかけろ」からはJr世界大会準決勝、
対戦相手の総統スコルピオン率いるドイツチームは「Jrナチス親衛隊」であり、
メンバーはゲッペルス、ヒムラー、ゲーリングとそのまんまで何の捻りもナシ。。
「サーキットの狼」では、暴走族ナチス軍ポルシェ隊総統のカレラには鈎十字が・・。
「キン肉マン」になると、「ブロッケンマン」が口から吐き出す毒ガス攻撃にラーメンマンも悶絶。
実況も思わず、「ま、まさにナチスガス室の恐怖を再現しております!!」。
ん~・・。そう言われてみると、なんとなくそんなことも記憶の片隅に・・。
この章はタイトルが「デスラー総統はドイツ人か」というくらいあって、
当然、「宇宙戦艦ヤマト」も分析します。
副総統の名前がレドフ・ヒス、
勇将ドメルとゲールに至っては最初のうちロンメル、ゲーリングと呼ばれていたと。。
それでも松本零士曰く、「デスラーはヒトラーと関係ない」。
しかし総統デスラーと聞いて、彼を善玉だと思う読者や視聴者は皆無であり、
容赦なき侵略者としてピッタリのイメージで、正義の味方がぶっ殺しても後腐れが無く、
なにより名前の響きが「カッコいい」のであって、
総統ピーターソンや総統ワタナベでは「サマにならない」と分析。
2008年にはヤマト公開30周年を記念して、「デスラー総統ワインセット」が発売され、
13650円も完売。。特典としてデスラー勲章と、
デスラー総統の訓示を書いたリーフレットも付いていたそうな・・。
それから「ガンダム」のナチスチックな部分についても解説してますが、
ヴィトゲンシュタインはまったく見てないので割愛・・。
また、ミリタリー・マニアたちに熱烈な支持を受けるマンガ家として、小林源文も紹介。
そして1990年代、日本マンガ文化の「国際化」によって、海外輸出文化となり、
ポケモンカードの卍がユダヤ系団体から抗議を受け、回収するような環境です。
グローバル化するマンガ市場がある一方、ローカル化する「同人マンガ」という二極化が進み、
コミケにおける「ナチ・パロディ」、ナチスの少女マンガ化へと話しは移っていきます。
あ~、この世界は全然だめだ・・。
第7章は「トンデモ本」・・。
イヤな予感がしますが、予想どおり落合信彦の「第四帝国」からです。
コレは「ジョーク本」というカテゴリーがある独破戦線でさえ、紹介しなかった、
というか、半分まで読むのがやっとこさ・・という、超トンデモ本ですね。
何というか、馬鹿らしいのに真面目にやってて、ソコに笑いが無いのがいけません。。
しかし矢追純一 著の「ナチスがUFOを造っていた」には笑いがあります。3回は爆笑できます。
本書でもドコがどうトンデモなのか、同じような指摘をしてますねぇ。
もう1人著名な作家としては出ました、ノストラダムスの大予言で知られる御大、五島勉の
「1999年以後 -ヒトラーだけに見えた恐怖の未来図」で、この本でヒトラーは、
後藤久美子や今井美樹、菊池桃子に中山美穂といった1980年代後半のアイドルまで予言。。
7月にコレが加筆、改題され「ヒトラーの終末予言 側近に語った2039年」として復活しました。
そして五島勉を遥かに上回る超絶なトンデモ本も存在するそうで、
それは「滅亡のシナリオ―いまも着々と進む1999年への道」。
このタイトルには「原作:ノストラダムス 演出:ヒトラー」と書かれているように、
ノストラダムスがヒトラーを予言したのではなく、ヒトラーはノストラダムスの予言を
成就させるために全ての行動を起こしていたのだ・・と主張。
著者は精神科医の川尻徹氏・・。
この人は栄えある第一回「日本トンデモ本大賞」の受賞者であり、
かの麻原彰晃も熱心な読者だったそうです。ソコまで曰くつきだと読んでみたくなりますね。。
ヤコブ・モルガンなる人物が書いた「誰も書かなかった昭和史」は、
ヒトラーはフリーメーソンだった説を展開。
大戦はドイツや日本などの非ユダヤ国家を壊滅させるために、
米英仏のユダヤ国家が仕組んだ陰謀・・だという論理を貫くこの本では、
スターリングラードでのドイツ軍の敗戦も、
ヒトラーがあらゆる戦局で勝たないよう予定通りに指導したから・・というもの。
この論理でいくと、失敗した作戦を立案した将軍は、全員フリーメーソンです。
トンデモ本作家はまだいました。大川隆法先生です。
7月にも「赤い皇帝 スターリンの霊言」を刊行していますが、
2010年には「国家社会主義とは何か」という本でヒトラーの言霊との対話記録を掲載。
本書でも中国が日本に侵攻する場合の具体的な戦略を気楽に語る
ヒトラー(の言霊)との対話を1ページ抜粋しています。
ヒトラー・・「やはり電撃戦しかないね。基本的には電撃戦を勧めてる」。
あまりにアホらしいんでカッツアイ!
昨年、ちょっとした話題になった「眠れなくなるほど面白いヒトラーの真実」の話もありました。
ドイツとイスラエルの大使館から抗議を受けて、ローソンが早速店舗から撤去。
このようなヒトラーとナチスの「すごい」ところだけに焦点を当てた出版物に目を光らせているのが
サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)であり、2003年に戦犯追及の終了を宣言した現在、
ユダヤ陰謀論などを提唱する団体の摘発、つまり「歴史パトロール」機関と化しています。
まぁ、個人的には閉鎖してもらって構いません。。
第8章は「文芸」・・。上巻からここまできて、「文芸」とは何ぞや?? と思いましたが、
帚木蓬生の「ヒトラーの防具」といった日本人作家によるナチス小説をまず紹介。
続いては三島由紀夫の戯曲として有名な「わが友ヒットラー」。
実のところヴィトゲンシュタインはですね・・、日本人作家の小説類は全然読まないんですよ。
なのでこの章では、幻の兵器「超カルル砲」の謎を追うという五木寛之「ヒットラーの遺産」を
読んでみたくなりましたが、佐々木 譲の冒険小説「ベルリン飛行指令」を購入してみました。
最新の演劇としては去年、再演された三谷幸喜作「国民の映画」が詳しく紹介されています。
ベルリンを舞台に、ゲッベルズと映画人たちとの間で繰り広げられる人間ドラマで、
ゲッベルス役に小日向文世、ヒムラーは段田安則、そしてゲーリングに渡辺徹・・。
このメンツだけで笑えてきます。。
第9章は「架空戦記」です。
このジャンルにもあまり手を出したことがありませんね。早い話が「たられば戦記」であり、
思い浮かぶのはリチャード・コックス著の「幻の英本土上陸作戦」くらいでしょうか?
本書ではその筆頭格として以前に「ヒトラー時代のデザイン」だけは読んだ柘植久慶の
一連の軍事シミュレーションである「逆撃シリーズ」の解説を読むと、
独善的社長のヒトラーや、体面だけを気にする重役ボルマンと積極的にわたり合い、
サバイバルを試みるよう促す物語であるそうで、何だか余計にわからなくなってきました。。
思うに、架空戦記と一口に言っても、大きく分けられるような気がしますね。
1つは歴史のちょっとした「IF」、あの戦役の勝者が逆であったら?? というようなもの、
もう1つには、この章でも紹介されているような、どうやってか「日独決戦」になってしまうもの・・。
まぁ、確かに日本人ですから、日本人の立場で、ヒトラー率いるナチスと戦いたい。。
いわゆる宇宙戦艦ヤマトの第2次大戦版のような戦記であり、
日本軍の武器でティーガー戦車に戦いを挑んでみたい・・という願望を
理解できなくもありませんが、そこまで何でもアリとなると、
読んでいて「だったらもっとこういう展開にしろよ・・」と文句を言いたくなってしまいそうです。
本書では広義の意味での「架空戦記」は現在、
インターネット・ゲームの「艦これ」に見ることができるとして、
戦艦ビスマルクは、プライドの高い金髪の美少女で、育成が難しい戦艦うんぬん・・と解説付き。
どーですか? いまコレをお読みのお父さん方は、話について来れていますか?
最後の第10章はその「インターネット」です。
1999年時点でも、3000件以上の日本語のヒトラー関連ページが存在する世界。
ナチスを中心とした「軍装店」がネット上にいくつも存在し、ヒムラーの1/6フィギアも買える時代。
また「ヒトラー 最期の12日間」は、映画そのものよりも動画の素材として大人気になったとして、
YouTubeのあの「総統はお怒りのようです」まで紹介します。
確かにナチカルとして確立してますな。
率直な感想として上巻の方が楽しめましたが、それは個人的にドコのナチカルに属しているか
といったことが理由でしょう。「海外ノンフィクション文庫」、「映画」、「ロック音楽」は
ナチスに限らず、ヴィトゲンシュタインの人生の大半を占めていますし、
逆に若い人や女性なら、下巻の方が楽しめる要素が多いように感じました。
単にナチカルをジャンル分けして面白おかしく紹介している本ではなく、
日本におけるヒトラー、ナチスとは何なのか?
その文化への浸透具合の時代による遍歴を洗い出しながら、
今の時代、どのように向き合うべきなのかにも言及した、考えさせられるものでした。
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ヒトラーの呪縛(上) - 日本ナチ・カルチャー研究序説
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-09-09
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。佐藤 卓己 編著の「ヒトラーの呪縛(上)」を読破しました。6月に出た文庫上下巻の本書は、もともとは2000年に発刊された単行本。「日本のカルチャー、サブカルチャーにかくも浸透しているナチスの「文化」。メディア、海外冒険小説、映画、ロック、プラモデルまで。」という謳い文句であり、そういえば、この「独破戦線」もある意味、「ナチ・カルチャー」に属するのかもしれない・・と、軽い気持ちで読んでみました。「序章」では、編著者の「ナチカル体験」を赤裸々に告白します。1960年生まれですから、ヴィトゲンシュタインより、かなり年上ですね。。戦争TVドラマ「コンバット」を見るために学校から走って帰った記憶、そしてサンダース軍曹よりも、悪役のドイツ軍が妙にスマートに見えたことに始まり、最初に作ったプラモデルは「タイガー戦車」、映画「大脱走」を観れば、学校で大脱走ごっこ・・。プロレス黄金時代の悪役は、「アイアン・クロー」のフリッツ・フォン・エリックで、ドイツ系米国人のザ・デストロイヤーは、和田アキ子と出演した「うわさのチャンネル!!」で、シュタールヘルムをかぶって登場・・。実物以上にインパクトのあったプロレスラーなら、「タイガーマスク」のハンス・ストライザー。ハンブルク出身で、リングネームは「ナチス・ユンケル」です。。へえ~、アニメ版のみの登場のようで、原作を持っていましたけど、初めて知りました。もちろん、「仮面ライダー」のショッカーはナチ残党の秘密組織であり、初代幹部はゾル大佐。本を読めば、1970年代から刊行された「第二次世界大戦ブックス」が徐々に欧州戦線化し、別巻「ナチ独逸ミリタリー・ルック」まで刊行されるほどの人気。当然、「宇宙戦艦ヤマト」のデスラー総統の声にもシビレるのでした。このような本では、やっぱり著者の年齢と経験というのは大事な要素で、ヴィトゲンシュタインでいえば、ナチス歴はこの10年弱しかありませんし、子供の頃に同様な経験をしていても、ナチスに目覚めたり、意識したことはありませんでした。逆に著者と同年代で、同じようなナチス文化を経験してきた読者も多いでしょう。特にそのような読者には、懐かしさを持って楽しく読み進められると思います。また、15年後に再刊された本書は各章のおわりに「21世紀追補」として、最新情報を記載。映画なら、ヒトラーを人間化した作品として注目を浴びた「ヒトラー~最期の1..
ナチ/ヒトラー
ヴィトゲンシュタイン
2015-09-09T19:36:03+09:00
佐藤 卓己 編著の「ヒトラーの呪縛(上)」を読破しました。
6月に出た文庫上下巻の本書は、もともとは2000年に発刊された単行本。
「日本のカルチャー、サブカルチャーにかくも浸透しているナチスの「文化」。
メディア、海外冒険小説、映画、ロック、プラモデルまで。」という謳い文句であり、
そういえば、この「独破戦線」もある意味、「ナチ・カルチャー」に属するのかもしれない・・と、
軽い気持ちで読んでみました。
「序章」では、編著者の「ナチカル体験」を赤裸々に告白します。
1960年生まれですから、ヴィトゲンシュタインより、かなり年上ですね。。
戦争TVドラマ「コンバット」を見るために学校から走って帰った記憶、
そしてサンダース軍曹よりも、悪役のドイツ軍が妙にスマートに見えたことに始まり、
最初に作ったプラモデルは「タイガー戦車」、映画「大脱走」を観れば、学校で大脱走ごっこ・・。
プロレス黄金時代の悪役は、「アイアン・クロー」のフリッツ・フォン・エリックで、
ドイツ系米国人のザ・デストロイヤーは、和田アキ子と出演した「うわさのチャンネル!!」で、
シュタールヘルムをかぶって登場・・。
実物以上にインパクトのあったプロレスラーなら、「タイガーマスク」のハンス・ストライザー。
ハンブルク出身で、リングネームは「ナチス・ユンケル」です。。
へえ~、アニメ版のみの登場のようで、原作を持っていましたけど、初めて知りました。
もちろん、「仮面ライダー」のショッカーはナチ残党の秘密組織であり、初代幹部はゾル大佐。
本を読めば、1970年代から刊行された「第二次世界大戦ブックス」が徐々に欧州戦線化し、
別巻「ナチ独逸ミリタリー・ルック」まで刊行されるほどの人気。
当然、「宇宙戦艦ヤマト」のデスラー総統の声にもシビレるのでした。
このような本では、やっぱり著者の年齢と経験というのは大事な要素で、
ヴィトゲンシュタインでいえば、ナチス歴はこの10年弱しかありませんし、
子供の頃に同様な経験をしていても、ナチスに目覚めたり、意識したことはありませんでした。
逆に著者と同年代で、同じようなナチス文化を経験してきた読者も多いでしょう。
特にそのような読者には、懐かしさを持って楽しく読み進められると思います。
また、15年後に再刊された本書は各章のおわりに「21世紀追補」として、最新情報を記載。
映画なら、ヒトラーを人間化した作品として注目を浴びた「ヒトラー~最期の12日間~」、
本ならヒトラーの趣味や食習慣に病歴まで証言によって書かれた「ヒトラー・コード」に、
「萌え萌えナチス読本」まで、丁寧に紹介。
「ヒトラー サラリーマンがそのまま使える自己PR術とマネジメント術」に至っては
日本における21世紀のヒトラー・イメージの典型として挙げています。
このような本の表紙や人物写真も、ちょくちょく掲載されていてわかりやすいですね。
第1章は「ジャーナリズム」です。
リビアのカダフィ大佐、イラクのフセイン大統領、ロシアのプーチン大統領まで、
独裁的な政治家は「現代のヒトラー」呼ばわりすることが定番となっている日本の報道。
麻生さんの「あの手口を学んだら」発言は、その部分が強調して報道され、
靖国神社参拝問題では、「ヒトラーの墓」と例えた報道も見受けられる現在。
一連のオウム真理教報道でも1995年に「FLASH」誌が特集を組み、
上祐史浩=ゲッベルス、早川紀代秀=ヒムラー、井上嘉浩=ゲーリングとの類似性を指摘し、
「ヒトラーは敵の報復をおそれてサリンを使わなかったが、
麻原教祖は悪魔の兵器については、ナチス以上の虐殺行為を犯したのである」。
その他、「ガス室はなかった」で有名な、「マルコポーロ廃刊事件」なども取り上げます。
第2章は「海外ノンフィクション文庫」。いや~、大好物ですねぇ。
本書が取り上げるのは、ヒトラー闘争そのものを舞台とした軍事冒険小説で、
まず、そもそもの冒険小説の定義も説明します。
19世紀、財宝を発見し、美女を救い出す冒険小説には海賊にインディアン、人食い人種など、
「撃ち殺して当然」の敵役をいくらでも供給できたものの、戦後の人種思想ではとても無理。。
そこで、ヒーローが思う存分「正義の暴力」を振るえる悪役としては、
同じ白色人種であり、「過去時制に属する」ナチスしか見当たらない・・ということに。。
なるほど、面白い解釈ですねぇ。
最初の敵役、KGBのソ連が徐々に姿を消していき・・と、ヴィトゲンシュタインも今年、数冊読んだ
「007シリーズ」の悪役遍歴も辿りながら進みますが、現存する国では多少の気も使うからか、
冒険小説に登場する「ナチス」は、決してドイツ人ではなく、
過去に繁栄し、滅亡した「魔人ヒトラー率いるナチス第三帝国」人ということなんでしょう。
その意味では、戦争映画でも機関銃でバタバタとなぎ倒されるドイツ兵は、
ショッカーの戦闘員とほとんど変わらない・・と言えるかもしれません。
その代表的な例として紹介されるのは「ナヴァロンの要塞」です。
日本でも1980年代以降に「ヒトラー小説」ブームが起こった・・として、
キルスト著「長いナイフの夜」に、ポロック著の「略奪者」など20冊程度を挙げていますが、
「略奪者」は内容はまったく覚えていないものの、しっかり本棚にありました。再読しよう。。
また、小説と言うかはアレですが、デズモンド・ヤング著「ロンメル将軍」が
「ロンメル神話」を創り上げた記念碑的作品とし、その後もロンメル物は大人気。
SSの出てこない、国防軍による「キレイな戦争」なのも、砂漠の戦いが人気である要因の一つ。
海洋冒険小説では、「眼下の敵」にブーフハイム著の「Uボート」が・・。
こちらにもロンメル的騎士道精神が投影されたものが多く、Uボート艦長はヒトラー嫌いで、
同じ船舶に乗っていれば、階級による危険性も関係なく、SSにゲシュタポ、
ユダヤ人問題も絡まないため、不純物の少ない「海の男たち物語」に・・。
アドミラル・シェア艦長が書いた回顧録「ポケット戦艦」でさえ、さながらチェスか、
フットボールの試合記録であり、戦争の悲哀はほとんど感じられない・・と。
ヒギンズ著「鷲は舞い降りた」は特別扱いで6ページも書かれています。
細かい記述は割愛しますが、最後はこのように・・。
「シュタイナ中佐は現代人を魅了して止まないだろう。コミケに集うドイツ軍おたくにとっても
「鷲舞」はバイブルであり、シュタイナの名前は殉教聖者の響きを帯びている」。
他にもスパイ小説としては「偽りの街」、映画しか観てない「針の眼」などを挙げていますが、
カナリス、ハイドリヒ、SIS、キム・フィルビーといった英独スパイ組織が複雑に絡み合った
テイラー著「総統暗殺」というのが秀作だということで、ちょっと気になりますね。
また、ヒトラーは生きていた風の小説では「ファーザーランド」に「SS‐GB」。
片田舎に25年間潜伏していたヒトラーが自ら公開裁判を求めて姿を現す・・という、
「ヒトラー裁判」なんてのも奇想天外ながら面白そう。
なんとなく、ミュンヘン一揆の裁判を彷彿とさせる内容のような気もします。
SF小説の「鉄の夢」は休止期間中だったのでレビューを書きませんでしたが、印象的でしたし、
人間性の闇を描いたモダンホラーなら、「ブラジルから来た少年」と「ゴールデンボーイ」。
ここ最近のものとしては「HHhH」の他、「帰ってきたヒトラー」を大きく取り上げて、
20世紀であれば、こんな作品がドイツ本国でヒットすることはなかっただろうと分析しますが、
全体的に21世紀の「ヒトラー小説」は、前世紀よりもインパクトに欠けると締め括ります。
その「帰ってきたヒトラー」も10月にドイツで映画が公開されるように第3章は「映画」。
章タイトルは「絵になる不滅の悪役たち」です。
まずは「地獄に堕ちた勇者ども」に始まるイタリア映画の系譜。
日本では「ナチ女秘密警察 SEX親衛隊」としてポルノ扱いで公開された「サロン・キティ」など、
詳しいことは「ナチス映画電撃読本」をご覧いただきたい・・とのことです。
収容所映画ではスピルバーグの「シンドラーのリスト」vs「長編ドキュメンタリー「ショア」の戦い。
圧倒的多数のユダヤ人が救われなかったのに、1200人を救った1人のドイツ人の物語では、
ホロコーストは語れないはずだという批判が相次ぐのです。
しかし、いかにドキュメンタリーであろうとも、そこには「構成」と「意図」が存在するわけで、
絶対的中立ではなく、また、スピルバーグの「まず知ってもらう」という意図も評価されるべきと・・。
そのようなドキュメンタリーのヒトラーとしては、「意志の勝利」に、1960年の「我が闘争」。
後者はDVDも出ていますが、日本で公開されてたんですね。しかもリバイバルまで。。
娯楽冒険映画では「インディ・ジョーンズ・シリーズ」を取り上げ、
ダース・ヴェイダーのようにナチスを連想させるものなど、「とりあえず悪い奴は黒い奴」論を展開。
まぁ、それでも単なる敵ではなく、ドイツ兵の素顔を見せる映画もあり、「橋」や、
「スターリングラード」、「戦争のはらわた」、もちろん「Uボート」も含めてシッカリと解説します。
21世紀に入ると、「ワルキューレ」に、「イングロリアス・バスターズ」といった大作の他、
不謹慎で、ナチカル映画史上、最も画期的・・という「アイアン・スカイ」が・・。
どうやら来年に総統がティラノサウルスに乗ってやって来るという続編が公開されるそうで、
世界上の映画ファンからすでに100万ドル以上の寄付が集まっているそうです。
笑えるのが出資額によって特典があり、15ドルで監督のサインが貰え、
100ドル出すと映画のエンドロールに名前が出る・・。
200ドルなら月面基地の兵士や住人としてエキストラ出演が可能で、
1250ドルからは恐竜に殺される役、5000ドルならアップで喰われるという無上の喜びが・・。
第4章は「ロック音楽」です。
ここ数年では「氣志團」やら、サザンの桑田のちょび髭事件など、日本のミュージシャンによる
ヒトラー、ナチスファッションも物議を醸していますが、
1966年にはローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズがSSの制服で「BORGE」に登場。
1970年代後半のパンク、特にセックス・ピストルズのジョニー・ロットンやシド・ヴィシャスが
ハーケンクロイツのファッションでステージに立ち、新聞・雑誌をにぎわせますが、
別に彼らは思想的にナチズムなのではなく、あくまでファッションとして、
大人たちが眉をひそめるようなことがやりたいという反抗の象徴として・・と解説します。
まぁ、そうでしょう。ヴィトゲンシュタインも中学生のとき、彼らの真似してましたからね。。
日本では1978年にジュリーが「サムライ」でSS風のファッションで歌番組に登場するも、
ハーケンクロイツの腕章は黒柳徹子や野坂昭如らからクレームがついて「X」に変更。
GS時代にストーンズ憧れていたジュリーにとって、SSの制服も憧れだったのかもと推測します。
そして最近の日本のヴィジュアル系バンドにも言及し、彼らがナチの軍服に身を包むことに
「彼らが擬装したいのはゲルマン民族のナチ将校ではない。
ナチズムという妖しいイメージに包まれた夢の世界に存在する現実社会への
対抗価値と呼ぶべきものだろう」とまとめます。
最後の第5章は「プラモデル」。
日本の老舗「タミヤ」、「ハセガワ」を押しのけて、「ドラゴンモデル」や「トランペッター」などの
中国メーカーの進出が著しい現在。
1990年代からは「アーマーモデリング」といった戦車モデル専門誌が相次いで創刊され、
ドイツ軍の特定の戦車を特集した豪華本も出るようになり、なかでも圧巻なのが、
「ティーガー戦車」などのシュピールベルガー著「軍用車両」シリーズだとします。
ドイツ軍AFVばかりを特集した「グランドパワー」は、別冊「ドイツ武装親衛隊」を出し、
兵器、軍装、デザインについて細かく解説。
思想的な部分は排除され、あくまで「マニア」のかっこいいと思う部分が強調されたこれらの世界。
2000年代には「ワールドタンクミュージアム」が大ヒット商品となり、
最近の「ガールズ&パンツァー」に至っては、ドイツ戦車が出てくるものの、
ヒトラーやナチスといった政治的背景は完全に姿を消している・・とします。
433ページの上巻、本文は315ページであり、残りは「ナチカル資料編」となっています。
章によって著者が違うことから、なかなか専門的な解説と考察がありました。
特にナチス研究の単行本よりも、ナチス兵器の雑誌の方が圧倒的に売れている・・
という話は印象的でしたね。
日本における現在のナチスものというのは、「主義」ではなく、「趣味」だということです。
続けて、下巻に進みますか。
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フォト・ドキュメント女性狙撃手 :ソ連最強のスナイパーたち
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-09-01
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。ユーリ・オブラズツォフ著の「フォト・ドキュメント女性狙撃手」を読破しました。7月に出た本書を見つけたのは、その3週間後のこと・・。久しぶりに「おおっ」という感じに食いつきました。109ページと薄い本ですが、「狙撃手」モノを出版させたら右に出る者が無い原書房。このBlogでも「最強の狙撃手」やら、去年は「戦場の狙撃手」を紹介していますが、その「戦場の狙撃手」のレビューの最後にこんなことを書いていました。・・「出撃!魔女飛行隊」のような、ソ連の女スナイパー戦記が読んでみたいところです・・まさに願いが叶った・・といったトコでしょうか?第1章は「大祖国戦争を戦った女性たち」と題して、帝政ロシアが革命によって崩壊し、女性に選挙権や中絶、様々な文化活動に参加する自由を得た・・という経緯を解説。1941年にドイツに侵攻されると、国民が総動員され、男性は前線に、女性は工場や畑仕事に従事しますが、それだけでは満足せず、看護婦、戦車搭乗員、パイロットとしても活躍することになるのです。と、ココではあのリディア・リトヴァクがエース・パイロットとして写真付きで登場。「母なる祖国が呼ぶ」というポスターも掲載しており、ポスター好きにも嬉しいですね。続く第2章はメインの「女性狙撃手たち」。その一番手として紹介されるのはリーザ・ミロノヴァです。堂々たる男前の雰囲気で表紙も飾っている彼女。パッと見、男前女子ゴルファーの筆頭である、成田美寿々似ですね・・。1941年に高校を卒業したモスクワっ子の彼女はすぐさま志願して、黒海艦隊第255海軍歩兵旅団に配属され、オデッサとセヴァストポリの戦いに参加。約100名の敵兵と将校を射殺したものの、1943年9月、肝臓を撃たれて死亡するのでした。次は・・出ました、309名を狙撃したという伝説のリュドミラ・パヴリチェンコです。1937年、キエフ大学で勉学に励む一方、グライダーやスポーツ射撃にも興味を持ち、民間人がパラシュート降下などの軍事訓練が受けられる「オソアヴィアヒム」で精密射撃を習得したことで、志願後のオデッサの戦いで187人を仕留めるのでした。セヴァストポリでも72人の敵兵を射殺。この当時、2等軍曹時の写真は初めて見ましたが、まだ初々しいですね。彼女の「回想」に加え、1942年秋には「北米青年派遣団」の一員に選ばれて、アメリカ大統領と面会した初めてのソ連市民となるのです。さす..
女性と戦争
ヴィトゲンシュタイン
2015-09-01T12:17:25+09:00
ユーリ・オブラズツォフ著の「フォト・ドキュメント女性狙撃手」を読破しました。
7月に出た本書を見つけたのは、その3週間後のこと・・。
久しぶりに「おおっ」という感じに食いつきました。
109ページと薄い本ですが、「狙撃手」モノを出版させたら右に出る者が無い原書房。
このBlogでも「最強の狙撃手」やら、去年は「戦場の狙撃手」を紹介していますが、
その「戦場の狙撃手」のレビューの最後にこんなことを書いていました。
・・「出撃!魔女飛行隊」のような、ソ連の女スナイパー戦記が読んでみたいところです・・
まさに願いが叶った・・といったトコでしょうか?
第1章は「大祖国戦争を戦った女性たち」と題して、帝政ロシアが革命によって崩壊し、
女性に選挙権や中絶、様々な文化活動に参加する自由を得た・・という経緯を解説。
1941年にドイツに侵攻されると、国民が総動員され、男性は前線に、
女性は工場や畑仕事に従事しますが、それだけでは満足せず、看護婦、戦車搭乗員、
パイロットとしても活躍することになるのです。
と、ココではあのリディア・リトヴァクがエース・パイロットとして写真付きで登場。
「母なる祖国が呼ぶ」というポスターも掲載しており、ポスター好きにも嬉しいですね。
続く第2章はメインの「女性狙撃手たち」。
その一番手として紹介されるのはリーザ・ミロノヴァです。
堂々たる男前の雰囲気で表紙も飾っている彼女。
パッと見、男前女子ゴルファーの筆頭である、成田美寿々似ですね・・。
1941年に高校を卒業したモスクワっ子の彼女はすぐさま志願して、
黒海艦隊第255海軍歩兵旅団に配属され、オデッサとセヴァストポリの戦いに参加。
約100名の敵兵と将校を射殺したものの、1943年9月、肝臓を撃たれて死亡するのでした。
次は・・出ました、309名を狙撃したという伝説のリュドミラ・パヴリチェンコです。
1937年、キエフ大学で勉学に励む一方、グライダーやスポーツ射撃にも興味を持ち、
民間人がパラシュート降下などの軍事訓練が受けられる「オソアヴィアヒム」で
精密射撃を習得したことで、志願後のオデッサの戦いで187人を仕留めるのでした。
セヴァストポリでも72人の敵兵を射殺。
この当時、2等軍曹時の写真は初めて見ましたが、まだ初々しいですね。
彼女の「回想」に加え、1942年秋には「北米青年派遣団」の一員に選ばれて、
アメリカ大統領と面会した初めてのソ連市民となるのです。
さすがの有名人だけあって、その全米ツアーの写真も掲載しながら14ページを独占。
そんなパヴリチェンコを主人公にしたロシア=ウクライナ合作映画 『セヴァストポリの戦い』が
作られましたが、公開予定は・・???
ちなみに「オソアヴィアヒム」なるものについても1ページ書かれていて、
正式には「ソ連国防および航空・化学産業支援協会」という名で大都市近郊にあり、
最終的には600万人から900万人の会員を擁したということです。
そしてこの「オソアヴィアヒム」の各種記章や、射手の記章も写真付きで紹介しています。
3人目の女性狙撃手はニーナ・ペトロヴァ。
万能のスポーツ選手で1932年には体育教師の免許を取得。その時、39歳・・。
その後、レニングラードの狙撃学校で腕を磨き、そのまま狙撃教官になるのです。
1941年、ドイツ軍が迫ってくると、徴兵指令所に赴くものの、48歳の彼女は不適格・・。
それでも腕に自信のある、このおばちゃんは義勇軍第4師団に加わると、
すぐに軍の教官に抜擢され、狙撃手として下士官では最高の階級である上級曹長に昇進し、
狙撃手グループのリーダーになるのです。
512名もの狙撃手を訓練しつつ、自らも100名の敵兵を狙撃した恐怖の「マンマ」は、
栄誉勲章3級、2級を授与され、1945年2月には1級も推薦されますが、
彼女の乗ったトラックが修復中の橋を渡っている最中に崩壊してしまい・・。
栄誉勲章は下士官、女性兵士、空軍少尉に対し、3級から順に与えられるもので、
戦争の4年間で3級が100万人、2級が5万人、1級になると2672人だけ・・。
女性兵士の1級はニーナを含めて僅か4名であり、狙撃手になると彼女だけということです。
この勲章についても後半に2ページを割いて詳しく書かれていて、具体的な戦功基準も・・。
「個人で敵将校を捕虜にする」、「戦闘において、敵戦車を複数破壊する」
などというのは、ドイツ軍にもありそうなのでわかりますが、
「炎上する戦車に残って、任務を遂行する」というのは、やはりソ連らしいというか・・。
4番手はアリヤ・モルダグロヴァ。
1925年、カザフスタン生まれのレニングラード育ちの彼女は、1942年になってもまだ17歳。
前線に出るために開校したての「中央女子狙撃訓練学校」に通い、
1943年7月、18歳となって北西戦線へと向かいます。
10月までに戦果、32人。怖いもの知らずのきゃしゃな女の子・・。
しかし翌年1月、ノヴォソコリニキの接近戦でドイツ軍将校と撃ち合い、重傷を負って死亡。
公式には78人を挙げたというアリヤには、レーニン勲章とソ連邦英雄が贈られたそうで、
カザフ人女性としては2人だけ、銅像も建てられ、切手にもなるという英雄です。
第3章は「中央女子狙撃訓練学校」を紹介。
前半で「狙撃数の確定」方法は第3者による証言などが必要・・と書かれていましたが、
この章では戦後の卒業生のインタビューがあり、
負傷させただけなのか、射殺したのかの確認方法を訊ねられ、
「それはわかりません。相手が倒れたら、射殺したことになるんです」。
まぁ、コレを「盛ってる」と判断するかは難しい問題ですね。
本書でも重傷を負い、数日後に死亡した彼女たちのケースがあるように、
同じ射殺でも「即死」かどうかの違いもあり、もちろん撃たれても軽傷の可能性もあるわけです。
例えば戦車の撃破数にしても、行動不能になったら撃破とカウントしても、
その後、後方に牽引して復活するケースもありますし、
Uボート戦でも轟沈とカウントしたのに、実は中破だったり・・。
結局は撃った相手のその後まで見届けなければ、わからないことであって、
その戦闘において、行動不能=排除した・・という意味での戦果数なら問題ないでしょう。
56ページから第4章「スナイパー・ライフル」で、代表的な「モシン・ナガン」について詳しく解説。
モシンさんと、ナガンさんによる開発競争も書かれ、「カラシニコフ自伝」を思い出しましたね。
写真も集団で敵機銃撃の体勢を披露しているルーニン大尉率いる狙撃手たち・・といった具合。
またトカレフの「SVT-40」スナイパー・ライフルとの比較も興味深く、
なぜかドイツ軍の「カラビナー98K」も登場。
この ↓ パヴリチェンコが持っているのが「SVT-40」ですね。
さて、ここで5人目の女性狙撃者が・・。彼女も有名なローザ・シャニーナです。
1924年生まれで、兄の2人はレニングラードとクリミアで命を落とし、
1943年、保育士だった彼女は「中央女子狙撃訓練学校」に入学。
夜間に動く標的を狙って射撃することが得意だったローザの戦果は75まで上るものの、
1945年1月、東プロイセン近郊で負傷した砲兵将校を守ろうとして胸に重傷を負って、
運ばれた病院で息を引き取るのです。
本来つけることの許されなかった彼女の日記が6ページほど掲載されていますが、
なかなか前線に出してもらえずに、男に生まれたなら思う存分、戦えたのに・・と、
グチも多い一方、若い兵士がやって来て、「キスをさせてください。
もう4年も女の子とキスをしていないんです」と実感のこもったお願いをされたり・・。
映画「戦火のナージャ」の、死ぬ前にオッパイが見たい・・を思い出しました。
6番目はローザの友人だったイェヴドキヤ・クラスノボロヴァ、
7番目にクラヴティナ・カルギナが女性狙撃手として紹介。
特にクラヴティナちゃんは戦争勃発時にはまだ15歳で、
17歳で狙撃学校に条件付きで入学というエピソードを戦後のインタビューで・・。
初陣で、雪かきしているドイツ兵が丸見えなのに、ついに引金を引くことができなかった・・
という話や、コンビを組むマルーシャが狙撃され、自分の悲鳴が響き渡った話など、
写真どおりの、ごく普通の女の子のプチ戦記です。こういうの好きだなぁ。
第3章で「相手が倒れたら、射殺したことになるんです」と話をしていたのも彼女でした。
手榴弾は2個を携帯し、1つはドイツ兵に、1つは自爆用・・。
「これは決まりです。捕虜にならないように使うんです。
狙撃手が捕まったら、容赦なしの扱いですからね」。
う~ん。「最強の狙撃手」だったか、ロシア兵の手に落ちたドイツの狙撃兵が
お尻にライフルを突っ込まれて串刺しになっていたなんて話が・・。
こんなロシアン・ジョークもありました。
ずっと森のはずれを気にしているドイツ兵。
「あそこに俺のことをじっと見ている可愛いロシア人の女の子がいるんだよ」
「だったらお前、なぜ隠れてるんだ?」
「あの子、スコープ越しに見つめてるんだよ・・」
8番目はマリア・イヴシュキナ、
9番目は1924年生まれのニーナ・ロブコフスカヤ。
そしてベルリン占領に参加した第3突撃軍の女性狙撃手たちのエピソードと続き、
彼女たちは祖国へと戻っていくのでした。
後半は特に「戦争は女の顔をしていない」を彷彿とさせる展開でした。
こうして、戦場に向かった女性狙撃手はおよそ2000人。
そのうち生き残ったのは500人程度・・。
最後には、現在3万人の女性がいるロシア軍についても触れており、
さすがにスペツナズといった特殊部隊は女性の受け入れをしていないそうです。
と、109ページながら充実した一冊でした。
知らなかった勲章や狙撃学校も勉強になりましたし、
写真は全て白黒ですが、ざっと150枚~200枚くらいでしょうか?
ロシア語サイトなどで見たことのあるのは30枚程度はありましたが、
ほとんどの場合はキャプションで名前まで明確にされています。
なので今まで見たことのある女性スナイパーの名前を本書でようやくわかった・・なんて。。
とにかく、「ドイツ軍婦人補助部隊」を読んだときのような新鮮さがありました。
またレニングラード包囲戦や、バグラチオン作戦についてもページを割いているので、
独ソ戦には詳しくない若い女性の方でも(独破戦線を読んでる若い女性はいないか・・)、
彼女たちの戦いざまが理解しやすく、オススメできます。
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ナチ・ドイツ清潔な帝国
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-08-21
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。H.P.ブロイエル著の「ナチ・ドイツ清潔な帝国」を読破しました。1983年、293ページの本書はかなり前からチェックしていたものの、スッカリ埋もれていました。なにか調べ事をしていた際に本書の存在を思い出しましたが、内容紹介では、「性、家族、風俗、教育、犯罪などに絞って「悪夢のような時代」を社会学的にとらえる新ナチ論」、そして「各章にナチ高官の人物描写をはさみ・・」というのにも惹かれました。タイトルも嫌味半分な感じで悪くないですし、表紙も行進するBDMさんたちで実に悪くありません。序盤では19世紀のドイツから1920年代、ナチス政権になる前の道徳観、女性や性に対する考え方が如何なるものだったのかを丁寧に解説します。1927年のベストセラー、ミュンヘン大学教授マックス・フォン・グルーバーが書いた「性生活の衛生学」では、「性交は結婚において行われる。女性は結婚まで純潔に生きるべきで、男性は禁欲に努めなければならない。結婚の目的は子孫の産出と教育である。民族の成長は、少なくとも4人の子孫を産むことを要求している。」と、まぁ、現代からすればとても保守的な考え方ですね。そしてまたヒトラーもこう語ります。「結婚にしてもそれ自体が目的ではなく、種と民族の増加と維持という、より大きな目的に奉仕するというものでなければならない。それのみが結婚の意味であり、任務である。」基本的にはミュンヘン大学教授の言ってることと、ほとんど変わらないわけです。ヒトラーの生い立ちを振り返りながら、プライベートでは女性に対して奥手であった彼が、ナチ党演説家として頭角を現してきた頃、数多くの中年のご婦人が彼を「庇護」したことに触れ、学校教師の未亡人カローラ・ホフマン、出版社社長の妻エルザ・ブルックマンといった女性がヒトラーを社交界にデビューさせ、資金的にも援助。ピアノ製造業者の妻、ヘレーネ・ベヒシュタインは、オーバーザルツベルクの別荘に彼を迎え、社交界向きに教育したと紹介します。その2人について、オットー・シュトラッサーは、「母親らしい優しさの混じったエクスタシーすれすれの愛」と大袈裟に語ります。「ごく少数の友人しかいないときには、ヒトラーは堂々たる女主人の足元に座った。彼女はその大きな子供の頭を撫で、『狼ちゃん、私の狼ちゃん!』と優しく言ったものだ」。ちょっと気持ち悪い話ですが、当時、アウトサイダーだったヒトラーには成熟..
ナチ/ヒトラー
ヴィトゲンシュタイン
2015-08-21T19:02:26+09:00
H.P.ブロイエル著の「ナチ・ドイツ清潔な帝国」を読破しました。
1983年、293ページの本書はかなり前からチェックしていたものの、スッカリ埋もれていました。
なにか調べ事をしていた際に本書の存在を思い出しましたが、内容紹介では、
「性、家族、風俗、教育、犯罪などに絞って「悪夢のような時代」を社会学的にとらえる新ナチ論」、
そして「各章にナチ高官の人物描写をはさみ・・」というのにも惹かれました。
タイトルも嫌味半分な感じで悪くないですし、表紙も行進するBDMさんたちで実に悪くありません。
序盤では19世紀のドイツから1920年代、ナチス政権になる前の道徳観、
女性や性に対する考え方が如何なるものだったのかを丁寧に解説します。
1927年のベストセラー、ミュンヘン大学教授マックス・フォン・グルーバーが書いた
「性生活の衛生学」では、「性交は結婚において行われる。女性は結婚まで純潔に生きるべきで、
男性は禁欲に努めなければならない。結婚の目的は子孫の産出と教育である。
民族の成長は、少なくとも4人の子孫を産むことを要求している。」
と、まぁ、現代からすればとても保守的な考え方ですね。
そしてまたヒトラーもこう語ります。
「結婚にしてもそれ自体が目的ではなく、種と民族の増加と維持という、より大きな目的に
奉仕するというものでなければならない。それのみが結婚の意味であり、任務である。」
基本的にはミュンヘン大学教授の言ってることと、ほとんど変わらないわけです。
ヒトラーの生い立ちを振り返りながら、プライベートでは女性に対して奥手であった彼が、
ナチ党演説家として頭角を現してきた頃、数多くの中年のご婦人が彼を「庇護」したことに触れ、
学校教師の未亡人カローラ・ホフマン、出版社社長の妻エルザ・ブルックマンといった女性が
ヒトラーを社交界にデビューさせ、資金的にも援助。
ピアノ製造業者の妻、ヘレーネ・ベヒシュタインは、オーバーザルツベルクの別荘に彼を迎え、
社交界向きに教育したと紹介します。
その2人について、オットー・シュトラッサーは、
「母親らしい優しさの混じったエクスタシーすれすれの愛」と大袈裟に語ります。
「ごく少数の友人しかいないときには、ヒトラーは堂々たる女主人の足元に座った。
彼女はその大きな子供の頭を撫で、『狼ちゃん、私の狼ちゃん!』と優しく言ったものだ」。
ちょっと気持ち悪い話ですが、当時、アウトサイダーだったヒトラーには
成熟した女性を引き付ける魅力と、それを利用する才能があった・・としています。
このように章の後半はまず、「ヒトラーの例」として姪のゲリやエヴァ・ブラウンとの関係も紹介し、
次の章へと進みます。
主に女性の労働について書かれたこの章では、ナチスは女性過酷な労働を求めず、
夜間の労働や、鉱山建築業での資材運搬、鉄道、バス、トラック運転手は禁止。
しかし戦争も2年目の1940年にもなると、そのような通則も形骸化していくのでした。
そして「ゲッベルスの例」では、彼の妻マグダと、愛人リダ・ヴァーロヴァとの不倫問題が・・。
「喫煙は私の最後の楽しみ」と語っていたゲッベルス。
戦争時には1日30本を目立たぬように吸っていたそうですが、総統の前では当然ガマン・・。
その総統曰く、「肉食はアルコールを呼び、そのあとにはニコチンが続く。
一つの悪徳は次々と別の悪徳を招きよせるものだ・・」という信念であり、
戦争が終わったら、国民すべてを菜食主義者にさせようと考えている狂信的な禁欲主義者です。
ナチス最大の組織である「労働戦線」のロベルト・ライは、「仕事に支障をきたさない限り、
好きなだけ喫煙、飲酒してもかまわない」とする一方、「男子たる者、自分自身を意志に従わせる
力を持たねばならない」と力強く語るものの、当の本人の綽名が『帝国泥酔官』。。
5月1日は「労働の日」と制定され、4月20日の「総統誕生日」など、ナチスの祝日を紹介。
12月のゲルマン的「冬至祭」を導入するにあたっては、かなりの苦労をしたようで、
火の輪や、かがり火といった昔風のシンボリズムは、ゲルマン志向のSSでさえ、
有難がらなかった・・と。この辺りは「ヒトラーに抱きあげられて」でも書かれてましたねぇ。
「エルンスト・レームの例」はやっぱり男色話に終始します。
1925年、17歳の男娼をホテルに連れ込んだレームですが、慎み深い男娼は逃げ出してしまい、
「ボクにはとても出来ないようなイヤラシイ性交を要求されて・・」。
そんなレームの性癖と部下のハイネスがヒトラー・ユーゲントに悪影響を与えていることも
知っていたヒトラーですが、彼らを一時的に追放したのは、政策の相違と命令無視によるもの。
しかしボリビアでレームは思わぬ苦労をするのです。
「ここでは『私の好むやり方』が知られていない」。
次の章、エリート養成学校の話がこれまたナチスらしい。
1933年に「ナポラ」を開校した文部相のルスト。
1936年にはSSのハイスマイヤーに引き継ぎますが、これが面白くないのがロベルト・ライ。。
シーラッハと共同で、「アドルフ・ヒトラー学校」を開校すると、SS贔屓のルストも驚きます。
しかし文部相に対してライは断言。「アドルフ・ヒトラー学校は君には何の関係もない」。
シーラッハが登場してくれば、当然、青少年の鑑、ヒトラー・ユーゲントの厳しい現実が・・。
1941年にある裁判所管区で「刑法第175条」違反で告訴されたHJ団員は16名。
「刑法第175条」とは男性同性愛を禁止したもので知られていますが、
ナチス特有のものではなく、ドイツでは1871年から1994年まで施行されているんですね。
その他、NSFKの航空教官がHJ生徒と少なくとも10件の違反で3年の懲役刑。
マインツではHJ指導員が、20名の少年に対して28件の罪を犯し、4年の懲役・・。
そんなヒトラー・ユーゲントの教育はスポーツ、軍事教練、そして世界観教育です。
キャンプの合宿所には映写機が備えられ、5000本のフィルムが毎月配給されます。
それらのタイトルは「健康な家庭」、「遺伝的疾病のある子孫」、「五千年のゲルマン文明」、
「ヴェルサイユ条約とその克服」、「旧い軍隊から新しい軍隊へ」などなど・・。
10歳~14歳の子供たちはこのような映画や合唱、討論会で喜ぶものの、
年長の17歳、18歳にもなると、ウンザリした様子が見え始めます。
彼らにとって「ほんものの少年」らしく振る舞うことは、あまり魅力的でなくなり、
無菌状態のHJ合宿所よりも、タバコの煙だらけの酒場にいるほうが男らしく感じるのです。
ですよねぇ。16歳にもなって半ズボンを履くのに耐えられない・・なんて話もありましたっけ。
1937年には300万人団員を数える世界最大の少女組織、「女子青年団(BdM)」。
その頭文字を取って、「ドイツ男子の必需品」、「ドイツ牝牛団」などと綽名されています。
BdMを卒業すると、「信仰と美」と名付けられた組織に行くか、ショルツ=クリンクの
「ドイツ婦人労働奉仕団」へと進みます。
ヒールルの「労働奉仕団(RAD)」に吸収されて、「女子労働奉仕団(RADwJ)」となりますが、
これについては、いくらかでも重要性のある党下部組織は、女性指導者には任せられない、
ハイスマイヤーの妻として、帝国最高位の母親でさえ、飾り物に過ぎなかった証拠とします。
指導的女性、指導者の奥さんともなると、いろいろと頭痛の種にもなってきます。
ヒムラーもあるSS大将に憂慮の手紙を書くことに・・。
「きみの奥さんが大管区の政治問題や、指導者個人についてあちこちの場所で
ハッキリ意見を述べたてないよう、よくしつけてくれたまえ」。
闘争時代には彼女たちは良き主婦、熱心な助力者として役に立ったものの、
いまではその夫たちは国家の高い地位に登っているのだから、
彼女たちのそういう単純な才能ではもはや不十分だという理屈を持ち出すのです。
こうして「ヘルマン・エッサーの例」としてナチ式離婚を紹介。
古い党員で、ゴロツキと評判だったエッサーは、絶え間ない女出入りで悪名を轟かせ、
様々な女に貢がせていることを公然と自慢するような男・・。
政権獲得後も、最高位の役職に就く柄ではなく、帝国会議の第二副議長やら、
帝国観光交通協会の会長や、観光委員会の会長代理とかならなんとかなるといった程度。
そんな男が愛人と一緒になるために繰り返した離婚訴訟がこの章のトリになるのでした・・。
このような矛盾だらけのナチス表すような「真のドイツ人のモットー」とは・・
ヒトラーのように子だくさんであれ、
ゲーリングのように地味で質素であれ、
ヘスのように忠実であれ、
ゲッベルスのように寡黙であれ、
ライのようにシラフであれ、
ショルツ=クリンクのように美しくあれ!
ナチス・ドイツにおける最高級の勲章のひとつに「母親十字章」がありますが、
このような「産めよ増やせよ」政策のために、1000マルクの結婚資金貸付制度が誕生。
子供一人産むと250マルクが免除になり、理想とされる4人産んだらチャラになるわけです。
しかし、現実的には母親が一人で子育てと家事をこなすことは困難であり、
この問題に頭を痛めたヒムラーは、ポーランドとウクライナで人種的に許される女子を選び出し、
ドイツで3人以上の子供がいる家庭で女中や子守りとして働かせ、その報酬として数年後には、
彼女たちにドイツ国籍を与え、ドイツ人と結婚することを許そうという案をひねり出すのです。
コレは「遠すぎた家路」でも紹介されていたパターンですね。
それでもヒムラーが考えるように事は簡単には運びません。
1944年になると、単に子供をたくさん! ではなく、男子の生産を増やしたい・・に変化。。
レーベンスボルン(生命の泉)に対し、「男女産み分け問題」というファイルを作らせ、
最初の資料をSS全国指導者自ら持参する気合の入りよう・・。
その資料には書かれていたのは本部長ゴットロープ・ベルガーが故郷の風習として語ったこと、
1週間酒を断った夫が正午に家を出て、20㌔を往復して帰り着くと、同様に1週間、働かず、
給養充分の妻と性交。するとアラ不思議、必ず男児が生まれる・・というメルヘンなのです。
ドイツ民族の利益を満たすため、彼の黒色騎士団の生殖能力が充分に生かされるよう気を配り、
フランスからゼップ・ディートリッヒが、ライプシュタンダルテに200名の淋病患者がいると報告して
驚いた時も、性に飢える隊員に理解を示し、武装SS向けに医師の監督付き娼家の設立を命令。
既婚者には妻との面会の方法を考えてやって、たくさんの子宝に恵まれるようにするのです。
しかし、愛し合う夫婦なら誰もかれも子供ができるわけではありません。
子供のない夫婦の医療相談所をつくらせた、全国保健指導者のコンティ。
この援助事業に相談所を訪ねる者も多く、彼は「人工授精」も視野に入れるのです。
コンティの案に驚いたのがヒムラー。「オレの領分に割り込んできたヤツがいる!」と激怒。
なぜかボルマンに不満をぶつけるのでした。
その「マルティン・ボルマンの例」では1929年に彼が新妻ゲルダとヒトラーのメルセデスで
戸籍登録場へ向かったエピソードから、子宝に恵まれ、不倫も愛する妻に認めてもらい・・と、
「ナチスの女たち」に出ていたストーリーですね。
後半はヒムラーの独壇場になってきますが、第6章「新しい人間」になると、
エリート騎士団SSの結婚における厳しい戒律が紹介されます。
夫婦共々が人種的、血統的に優れてならなければならず、結婚を望む隊員はすべて、
SS全国指導者の結婚許可を得なければならないなどの「12か条」に加え、
2人ともスポーツバッジの受章者であることや、ヒムラー本人は猛練習の甲斐なく、
遂にできなかった鉄棒の「大車輪」が、優れた生殖能力の保障であるとみなされているのです。
そんな「ハインリヒ・ヒムラーの例」では、3兄弟の次男坊である彼の子供時代からが書かれ、
1923年に兄のゲプハルトが婚約した際、その許嫁の純潔に疑問を持ち、興信所に調べさせ、
自分でも前歴を調査。兄はそんな弟の溢れる兄弟愛に負けて、婚約を解消・・。
8歳年上のマルガレーテと結婚した道徳監視者たるヒムラーは、右腕のハイドリヒの妻リナの
放縦な生活態度に憤慨し、離婚させたがっていたという話も・・。
そのリナは、長官婦人が裏で糸を引いていると思い込み、
「偏屈でユーモアもなく、ズロースのサイズは50番・・」と馬鹿にするのです。
いや~、夫人同士のゲスい戦いですが、結局はそれとなくヒムラーの仕業なんですかね。
もちろん、浮気相手の秘書で「ヒムラーのうさぎちゃん」こと、ヘトヴィヒ・ポトハストのエピソードも。
最後の第7章では、当時のナチ警察による性犯罪取り締まりについても考察。
1943年2月、ベルリンで中年女性を殺した容疑で逮捕されたブルーノ・リュトケの話は印象的で、
絞殺してから犯す・・という特異な性犯罪は1928年から未解決が54件もあり、
リュトケが自白したことでようやく解決するのです。
しかも彼はそれを上回る、84件の犯行を自白するという大量殺人鬼・・。
ベルリン大管区指導者ゲッベルスは、警察長官ヒムラーに手紙を送ります。
「この獣の如き女性屠殺者は、普通の絞首刑で死なせてはならない。
生きたままで焼くか、あるいは四つ裂きの刑に処すよう、私は提案する」。
しかし結局、ウィーンの犯罪医学研究所に送られたリュトケは実験の最中に死ぬのでした。
レームが逮捕されたその日、すでにヒトラーは新幕僚長となるルッツェに対して要求します。
「SAが純粋かつ清潔な組織として確立することを期待する。
全ての母親が息子を道徳的堕落の心配なしに、SAやヒトラー・ユーゲントに入れることが
出来るようにしてもらいたい。第175条の違反者は、即刻、SAおよび党からの除名をもって・・」。
1934年にSAに対してそんな要求をしていたわけですから、
黒騎士団の長ヒムラーの頭を悩ますあの問題も、SS内での同性愛です。
そのために古参のSS高官を泣く泣く降格させなくてはならなくなったヒムラーの苦悩・・。
ホモはただちに去勢してしまうのがいいのか、軽度の場合でも6年以上の禁固刑など、
さまざまな対策を打ち出すものの・・。
ナチスの「性、家族、風俗、教育、犯罪」について書かれた本書。
全体的には以前に紹介した「愛と欲望のナチズム」に似ていると言っていいでしょう。
特にヒトラー・ユーゲントやBdMの性問題については同じ記述もあったりと、
重複するエピソードは今回は割愛しましたが、読みやすさという点で言えば、
日本人著者の書いたアチラかも知れませんね。
こちらがネタ本になりますが、登場人物も多く、ナチスに詳しい方は本書も楽しめるでしょう。
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グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの“白い将軍”
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-08-10
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。植村 英一 著の「グスタフ・マンネルヘイム」を読破しました。先日、たまたま見つけてしまった1992年に日本人著者によって書かれた本書。いや~、こんな本があるんですねぇ。。マンネルヘイムといえば、戦時中にフィンランドの元帥、大統領としてドイツ軍と共同して戦い、末期にはその盟友と戦うことになるという、これだけで波乱万丈の人生ですね。ハードカバー、259ページというソコソコのボリュームで、定価2600円ですが、決して世の中は甘くなく、Amazonでは8000円のプレミア価格・・。まぁ、そういう場合には地元の図書館が助けてくれるのです。ありがたや・・。1867年生まれのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム。おおっといきなり、ちょうど100年違いの方でしたか。。男爵として生まれた彼ですが、父は会社が倒産すると情婦と共にパリへ逃避。傷心の母は1881年に亡くなり、子供たちはばらばらに親戚に預けられるという子供時代。スウェーデン王国の統治下だったフィンランドが1809年に帝政ロシアの手に移り、マンネルヘイム家の祖先もスウェーデンから移住して来たなど、この18~19世紀のフィンランドの歴史についても並行して進んでいきます。体格も良く、活発なマンネルヘイム少年は、ロシア帝国陸軍に身を投じて、ツァーの将校となる道を選び、当時、最も人気の高いザンクト・ペテルブルクの騎兵学校へとなんとか入学。卒業後は黒龍連隊で2年勤務、その後、念願かなって、王妃を名誉連隊長に仰ぐ、シュバリエール近衛騎兵連隊へ・・。1896年のニコライ2世の戴冠式には皇帝の天蓋のすぐ前に、銀のヘルメットをかぶり煌びやかな礼装をまとった2mもの長身が写真に収められるのでした。そして彼にとっての最初の戦争がやってきます。それは「日露戦争」。旅順要塞の攻防戦、いわゆる二百三高地の決着がついた後の、日本第3軍に対する攻撃、チネンスキー・ドラゴンズ連隊の2個騎兵隊を指揮するマンネルヘイム。しかしコサック騎兵は重い装備品を携行し、盛大な砂塵を巻き上げる割には、1日にわずか30㌔しか前進せず、攻撃は失敗。コサックの実力と無統制、乱暴狼藉にに失望するのでした。帰国すると今度は未開の地、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の軍事偵察に出発。2年にも及ぶ大冒険であり、ダライラマとの面会を果たし、西太后が統治する北京へと進んだ後、天津から長崎に上陸し、..
欧州諸国
ヴィトゲンシュタイン
2015-08-10T07:33:25+09:00
植村 英一 著の「グスタフ・マンネルヘイム」を読破しました。
先日、たまたま見つけてしまった1992年に日本人著者によって書かれた本書。
いや~、こんな本があるんですねぇ。。
マンネルヘイムといえば、戦時中にフィンランドの元帥、大統領としてドイツ軍と共同して戦い、
末期にはその盟友と戦うことになるという、これだけで波乱万丈の人生ですね。
ハードカバー、259ページというソコソコのボリュームで、定価2600円ですが、
決して世の中は甘くなく、Amazonでは8000円のプレミア価格・・。
まぁ、そういう場合には地元の図書館が助けてくれるのです。ありがたや・・。
1867年生まれのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム。
おおっといきなり、ちょうど100年違いの方でしたか。。
男爵として生まれた彼ですが、父は会社が倒産すると情婦と共にパリへ逃避。
傷心の母は1881年に亡くなり、子供たちはばらばらに親戚に預けられるという子供時代。
スウェーデン王国の統治下だったフィンランドが1809年に帝政ロシアの手に移り、
マンネルヘイム家の祖先もスウェーデンから移住して来たなど、
この18~19世紀のフィンランドの歴史についても並行して進んでいきます。
体格も良く、活発なマンネルヘイム少年は、ロシア帝国陸軍に身を投じて、
ツァーの将校となる道を選び、当時、最も人気の高いザンクト・ペテルブルクの
騎兵学校へとなんとか入学。卒業後は黒龍連隊で2年勤務、その後、念願かなって、
王妃を名誉連隊長に仰ぐ、シュバリエール近衛騎兵連隊へ・・。
1896年のニコライ2世の戴冠式には皇帝の天蓋のすぐ前に、銀のヘルメットをかぶり
煌びやかな礼装をまとった2mもの長身が写真に収められるのでした。
そして彼にとっての最初の戦争がやってきます。それは「日露戦争」。
旅順要塞の攻防戦、いわゆる二百三高地の決着がついた後の、日本第3軍に対する攻撃、
チネンスキー・ドラゴンズ連隊の2個騎兵隊を指揮するマンネルヘイム。
しかしコサック騎兵は重い装備品を携行し、盛大な砂塵を巻き上げる割には、
1日にわずか30㌔しか前進せず、攻撃は失敗。
コサックの実力と無統制、乱暴狼藉にに失望するのでした。
帰国すると今度は未開の地、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の軍事偵察に出発。
2年にも及ぶ大冒険であり、ダライラマとの面会を果たし、西太后が統治する北京へと進んだ後、
天津から長崎に上陸し、8日間の日本滞在を経て、舞鶴からウラジオストックへ・・。
ただ、残念ながら、このマンネルヘイム日本見聞録の詳細は不明なんだそうな。。
第1次大戦が始まると、レンベルクの会戦でオーストリア軍の初動を頓挫させる大活躍。
ロシア革命が起こった頃には、中将にまで昇進し、3個師団から成る第6騎兵軍団長に
任ぜられます。しかし祖国フィンランドが独立を宣言すると、故郷に凱旋した彼は、
ロシア赤衛軍相手にフィンランド国軍総司令官として戦うことになるのです。
フィンランドの歩兵博物館には「メイジ30」、「メイジ38」と名付けられた小銃が展示されていて、
このような日本の三十年式歩兵銃、三八式歩兵銃を3万丁以上も保有していたそうです。
独立戦争が終わった後、フィンランドの政治家は親ドイツに走り、
議会はドイツ皇帝の皇弟ヘッセン公フリードリヒ・カールを国王として向かえる決議に至ります。
その途端、ドイツは降伏してカイザーも退位・・。
ヘッセン公も当然、辞退しヘルシンキに現れることもありません。
それどころか親独政策によって「被告」となることを怖れた政府は、この危機に
西側列強との友好関係を回復させるため、ロンドンとパリにマンネルヘイムを派遣するのでした。
しばし隠居していた65歳のマンネルヘイム。
1932年になって大統領に請われ、軍事委員会の委員長に就任すると同時に「元帥」の称号も。
彼の軍事に関する考え方は以下のようなものです。
「小国は戦争の圏外に立って、中立を維持しなければならない。
大国からの援助は魅力があり、安心感を与えるが、それは抜き差しならぬ束縛と
義務を負わせ、これほど危険なものはない。」
そして自力による武装中立を目指します。
「自らを守ることの出来ない国を、一体どこの国が守ってくれるのか」。
う~ん、最近、どこかの国で議論になっていることを思い出しますねぇ。
ちょうど真ん中あたり、135ページから「冬戦争 1939-1940」の章がやってきました。
1932年に不可侵条約を締結していたソ連とフィンランドですが、
ナチス・ドイツのバルト海への進出に脅威を感じたスターリンが、
再三にわたり、国境調整を要求してきます。
マンネルヘイムは譲歩するよう政府に要請しますが、ソ連の要求は条約無視だと憤慨する政府。
その結果、スターリンはフィンランドの「抹殺」を決意するのです。
戦争に反対し、辞職を決意したマンネルヘイムですが、武人としての職はそれを許さず、
総司令官として日々命令を発することに・・。
この章は35ページほど、もちろん「雪中の奇跡」にはかないませんが、なかなかのもので、
戦況図も掲載しながら、最後には過酷な条件で休戦に至るまでが書かれています。
こうして再び、もう一つの大国であるドイツとの関係が親密になっていくフィンランド。
防衛のためにドイツに渡って近代戦の訓練を受ける志願兵の若者たちに加え、
1941年3月になると、SS戦闘部隊の志願兵をフィンランド国内で募集することを承認し、
やがて彼らは武装SSヴィーキング師団となって、遠くウクライナで戦うことになるのです。
始まった「バルバロッサ作戦」。
ドイツとフィンランドには外交上の同盟や条約は何も結ばれず、軍事上の協定も
文書として残すことを拒み、ドイツ軍との合意は道徳的な「口頭の了解」に留めるマンネルヘイム。
同盟戦争ではなく、たまたま、共通の敵に対して戦う共同戦争であって、その目的は
1940年3月の講和条約で失った国境線の回復と、民族の故郷である東カレリア地方の領有。
よってフィンランドにとっては「継続戦争」なのです。
レニングラード攻略を目指すドイツ軍と、マンネルヘイム・ラインからそれを眺めるフィンランド軍。
ドイツ軍が耐寒装備を持っていないことを知ったマンネルヘイムはショックを受け、
その軍事力に対する信頼を失い、戦略の根本的な転換を考えるのです。
信頼するディートル将軍をドイツ・ラップランド軍(第20山岳軍)の長として進捗を図り、
1942年6月、75歳を迎えたマンネルヘイムのもとをわざわざ訪れたヒトラー。
しかし翌年2月、すなわちスターリングラードで第6軍が全滅した頃、
早い時期に戦争から離脱するべきである・・という危険な政策転換に切り替わり、
ベルリンでの外相同士の会談で、フィンランドの戦線離脱の意向を暗に打ち明けたものの、
予想通り、リッベントロップの怒りを買い、単独講和を縛る政治協定の締結を要求してくるように
なるのでした。
1944年、フィンランドに戦争継続を要求しつつも、武器弾薬の供給を停止していたヒトラー。
連合軍がノルマンディに上陸すると、東部戦線でもすっかり近代化されたソ連軍が大攻勢に出て、
フィンランド政府はパニックに陥り、講和を求めようとしますが、マンネルヘイムが押しとどめ、
気心の通じた純情熱血のディートル将軍が要望に応えて、ドイツ軍の倉庫から
最新式の対空対戦車火砲が運び出されることに・・。
さらに救援の要請をヒトラーに直談判したディートルですが、その帰りの飛行機が墜落・・。
「ロンメルの場合と同じく、ヒトラーの謀殺であったとの説もある」と書かれていますが、
まぁ、コレはないでしょう。ロンメルは7月20日事件への関与を疑われたのであり、
ディートルの事故死は6月の出来事。
そもそも、どんな人気将軍であっても、気に入らなければ簡単に罷免するのがヒトラーです。
「ドイツの同意なしにソ連との講和を結ばない」という協定に縛られたリチ大統領は、
この協定から解放されるために退陣し、新たにマンネルヘイムが大統領に就任します。
表敬のために飛来してきたOKW総長に前大統領が結んだ協定に縛られないことを伝えると
「憤慨し異常な興奮を示す」カイテル・・。
パリは西側連合軍によって解放され、ルーマニアはソ連軍に占領されるという難しい時期・・。
そして遂にドイツとの国交断絶。ヒトラー宛に自筆の書簡も送るマンネルヘイムですが、
ディートルの後任、レンドリック将軍とは険悪な雰囲気です。
ソ連の「踏み絵」の如き要請により、自国からドイツ軍を叩き出ことになったフィンランド。
しかし将兵の間には戦友愛が育まれ、尊敬と信頼で結ばれているのです。
ドイツ軍は事前に部隊の撤退日時を連絡し、フィンランド軍はその後、突撃を仕掛けるという
「いかさま戦争」を繰り返してソ連の目を欺こうとします。
実際、ドイツ軍の主要な司令部にはフィンランド軍の連絡将校が勤務したままで、
「秋季機動演習」と呼ばれていたそうです。
このラッブランド戦争も思ったより、書かれてますね。
こうして戦後は公職から引退したマンネルヘイム。
回想録が完成に近づいた1951年、84歳で永眠するのでした。
非常に読みやすい一冊でした。
フィンランドと帝政ロシアの歴史、マンネルヘイム個人の人生に、
彼が体験した数度の戦い、そして第2次大戦のフィンランドの戦略と状況の変化、
大国に翻弄されながらも、自立を目指す一貫した姿勢・・と、
必要な事柄がバランスよく配されていると思いました。
「ドイツのノルウェー軍司令官フォン・ハルケンシュタイン将軍とは最後まで馴染めなかった」
のところが、まぁ、敢えて書けば、「フォン・ファルケンホルスト」だろ・・なんて。。
でも日本人著者ならでは、一般の日本人にも理解しやすいように記述していると感じますし、
日本人武官の証言を取り上げるなど、親近感が湧くような仕組みもあるのかも知れません。
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ナチス突撃隊 ヒトラーに裏切られた悲劇の集団
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-08-01
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。桧山 良昭 著の「ナチス突撃隊」を読破しました。ここのところ、突撃隊(SA)について、しこしことネットで調べていたんですが、ちょっと頭の中を整理したいなぁ・・と、未読だった本書を選んでみました。1993年、487ページというなかなかボリュームのある文庫ですが、もともと1976年に発刊された、その筋では有名な一冊です。本書を読む前には「将軍たちの夜」のキルスト著の小説「長いナイフの夜」も再読して、すっかり「粛清」モードに入ってしまいました。第1章は「突撃隊の設立」。1920年、ドイツ労働者党を設立したドレクスラーの話から始まります。やがて怪我の癒えたヒトラーも入党し、ビアホールでの集会も活発化すると、2000名もの聴衆が詰めかけることとなり、その結果、会場警備隊が必要に・・。最初の警備隊員は旧軍人と旧警官から優先して選ばれた25名。隊長には23歳の時計修理工、エミール・モーリスが任命されるのです。後にヒトラーの姪ゲリと結婚しようとして、クビになったあの人ですね。そして「SA」といえばこの人、第11歩兵旅団司令部副官であったエルンスト・レームが登場し、まだ、ヒトラーに出会う前の、彼がミュンヘンでエップ義勇軍の装備と兵站の仕事を任され、抜群の組織能力が認められて、この道の専門化になっていく過程を紹介。彼の野望はバイエルンの極右団体すべてを軍事団体化し、国防軍第7軍に合体させ、ベルリンに攻め上がるという雄大なものであり、ナチ党委員長となったヒトラーもこの構想に同意。ヒトラーは会場警備隊を「体育・スポーツ隊」と改め、元少尉のウルリッヒ・クリンチを指導者に・・。この改称については中央政府の目を欺こうとするレームが名付け親だろうと推測しますが、実は指導者に任命されたクリンチというのがくせ者で、ナチ党員でもなく、カップ一揆によって解散となったエアハルト義勇軍の隊員によって設立された「コンスル組織」のメンバー。全国各地に支部を置いたコンスルは5000名から成り、1922年までに「売国的」という理由で、350名もの人々を暗殺している恐るべき暗殺結社なのです。ベルリンでカップ一揆を見学したヒトラーも、この時のエアハルト義勇軍に深く印象付けられて、党の軍隊の理想像としていたことによる人選では? と推測します。体育・スポーツ隊のメンバーは、大戦中の決死的任務のために臨時編成された部隊の名称、「突撃隊」を名..
ナチ/ヒトラー
ヴィトゲンシュタイン
2015-08-01T10:01:59+09:00
桧山 良昭 著の「ナチス突撃隊」を読破しました。
ここのところ、突撃隊(SA)について、しこしことネットで調べていたんですが、
ちょっと頭の中を整理したいなぁ・・と、未読だった本書を選んでみました。
1993年、487ページというなかなかボリュームのある文庫ですが、
もともと1976年に発刊された、その筋では有名な一冊です。
本書を読む前には「将軍たちの夜」のキルスト著の小説「長いナイフの夜」も再読して、
すっかり「粛清」モードに入ってしまいました。
第1章は「突撃隊の設立」。
1920年、ドイツ労働者党を設立したドレクスラーの話から始まります。
やがて怪我の癒えたヒトラーも入党し、ビアホールでの集会も活発化すると、
2000名もの聴衆が詰めかけることとなり、その結果、会場警備隊が必要に・・。
最初の警備隊員は旧軍人と旧警官から優先して選ばれた25名。
隊長には23歳の時計修理工、エミール・モーリスが任命されるのです。
後にヒトラーの姪ゲリと結婚しようとして、クビになったあの人ですね。
そして「SA」といえばこの人、第11歩兵旅団司令部副官であったエルンスト・レームが登場し、
まだ、ヒトラーに出会う前の、彼がミュンヘンでエップ義勇軍の装備と兵站の仕事を任され、
抜群の組織能力が認められて、この道の専門化になっていく過程を紹介。
彼の野望はバイエルンの極右団体すべてを軍事団体化し、国防軍第7軍に合体させ、
ベルリンに攻め上がるという雄大なものであり、ナチ党委員長となったヒトラーもこの構想に同意。
ヒトラーは会場警備隊を「体育・スポーツ隊」と改め、元少尉のウルリッヒ・クリンチを指導者に・・。
この改称については中央政府の目を欺こうとするレームが名付け親だろうと推測しますが、
実は指導者に任命されたクリンチというのがくせ者で、ナチ党員でもなく、カップ一揆によって
解散となったエアハルト義勇軍の隊員によって設立された「コンスル組織」のメンバー。
全国各地に支部を置いたコンスルは5000名から成り、1922年までに「売国的」という理由で、
350名もの人々を暗殺している恐るべき暗殺結社なのです。
ベルリンでカップ一揆を見学したヒトラーも、この時のエアハルト義勇軍に深く印象付けられて、
党の軍隊の理想像としていたことによる人選では? と推測します。
体育・スポーツ隊のメンバーは、大戦中の決死的任務のために臨時編成された部隊の名称、
「突撃隊」を名乗るようになると、党本部でもそっちの方が勇ましくて格好良いということで
あっさり改称・・。こうして正式に「突撃隊(SA)」が誕生するわけです。
1921年末の時点で党員数は6000名、そのうち突撃隊は100名程度。
しかし1923年の「ミュンヘン一揆」に向けて党員が増大すると、突撃隊員も3000名へと拡張。
ヒトラーによる選抜条件は、「戦闘能力がある18歳~32歳までの男子」であり、
「党のエリートから構成される」という編成方針があったものの、最も厳格な規律に欠け、
かなりの者がコンスルなどの他の組織や、ナチス協力団体のメンバーなのでした。
無鉄砲さが売りのSA隊員。会場警備の際の妨害者との乱闘、政敵の会場への妨害行為、
街頭での政敵との乱闘は党中央、およびSA幹部からの命令による暴力ですが、
隊員個人による乱暴狼藉も多いこの時代、ヒトラーも私的犯罪を放任・・。
最初は素手だった共産党や社会民主党との乱闘もエスカレートし、棍棒にナイフ、チェーン、
やがてピストル、機関銃、手榴弾へとグレードアップしていくのでした。
ムッソリーニの「ローマ進撃」の成功を見て、ベルリン進撃を唱えるようになったヒトラー。
結局はコレが「ミュンヘン一揆」へとなるわけですが、第2章で詳しく書かれています。
ナチス単独では不可能な構想なことから、各団体と同盟を結びつつ、SAは民間防衛隊として
国防軍の手によって軍事訓練を受けさせようとなると、レームの息がかかったクリンチに代えて、
新たなSA指導者としてゲーリングを任命します。
ゲーリングによって3個大隊からなる1115名の連隊に編成されたミュンヘンのSA。
連隊長には大柄なブリュックナーが登用されます。
一方のクリンチはSA隊員の中からヒトラーに忠実な者を8名選び出し、
新たに「本部衛兵隊」を組織することに・・。
しかしエアハルト大佐の命令でナチスに送り込んでいたコンスルは人員の引き上げを行い、
クリンチも手を引いて、歴史から消え去っていくのです。
そして彼の遺産である本部衛兵隊はユリウス・シュレックにより、
「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」と改名し、その隊員数も150名を数えるのでした。
見事に「一揆」は失敗し、逮捕される寸前にローゼンベルクを党首代理に任命したヒトラー。
そしてSAは・・というと、怪我を負い、国外へ逃れたゲーリングに代わり、
出獄したレームに「無条件で服従する」ことをSA隊員に求めるのでした。
東アフリカの旧ドイツ植民地駐留軍の制服であった褐色シャツもロスバッハが手に入れ、
新たに再建への道を進むSA。しかしSAを民間防衛隊に発展させるのか、
それとも宣伝・集会防衛の機関とするのかで激しくやりあうレームとヒトラー。
結局、SA司令官を辞任すると通告したレームは、政治軍事活動から手を引き、
セールスマン、機械工場の事務員など職を転々とし、アルコールとホモの生活に溺れた末、
ボリビア軍の軍事顧問に招かれ、1926年、ドイツを去っていくのでした。
そんなころ、ヒトラーはシュレックに命じて、「本部警備隊」を作らせ、間もなく「親衛隊」と改称。
そのメンバーは以前の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」と同様です。
SAもバイエルンだけでなく、ドイツ各地で再編成。
ベルリンではロスバッハ義勇軍だったクルト・ダリューゲがナチスに加わり、
SA指導者に任命されますが、大部分は彼が引き連れてきた600名の義勇兵。
このダリューゲはベルリンの暗黒街で「無鉄砲ダリューゲ」の異名をとった、
ちんぴらギャング団のボスでもあり、アウトローな方法で収入を得ていた・・と。
また同じ1926年春、ルール管区ではヴィクトール・ルッツェがSA指導者に・・。
いやいや、そろそろお馴染みさんたちが登場してきましたねぇ。
党再建拡張による宣伝・集会に必要なSAが不足している・・とヒトラーは感じる反面、
管区指導者、いわゆる政治部門のガウライターに反抗する過激なSAにも嘆くという矛盾・・。
そこで新たなSA指導者にプフェファ・フォン・ザロモンを任命して組織改革を実行します。
それまで各管区の下にあったSAをザロモンを頂点とした中央集権的構成に再編成し、
各指導者に絶対的服従を要求します。
そしてガウライターら政治組織との関係も新たに規定しますが、
それは政治指導者が下す、SA指導者への指令が強制権を持たず、
具体的に干渉することも出きないというものであり、その結果、
指令を受けたSAは任務が自分たちの能力を超えている・・とか、
SAの仕事に相応しくない・・と拒否できることになってしまうのです。
最終的には政治指導者とSA指導者、2人の力関係で強いほうが勝つ・・という論理です。
SAの本来の任務とは、ビラを配ったり、プラカードを掲げた行進といった宣伝活動に、
音楽会やダンス会、スポーツ競争などによって地域の住民と接触するのも仕事です。
本書では1928年7月の上バイエルン管区での「夏祭り」のプログラムも紹介。
7:30に駅で来賓の歓迎会に始まり、教会まで吹奏楽団付きのSA行進、
昼には音楽会、水泳競技に市民競技場での競技大会、19:00にはダンス会・・といった具合で、
時間と共に住民を観客から参加者に変えてしまうよう、周到に計画され、
最後にはナチスと住民の違和感が取り除かれた親密な一体感が生まれる仕組みなのです。
1929年になると経済恐慌の波がSAにも押し寄せます。
党員費1マルクの払い込みが減少したことで、その半額50ペニッヒによってまかなわれていた
SA財政が苦しくなり、そのSAを維持するために新たに新党員を確保しなければならない・・
ということで、過去の政治歴や思想を問わず、誰でも入党させてしまうという悪循環・・。
低額所得者の多いSA隊員にとって給与のストップは死活問題であり、
党とヒトラーのちまちました「合法戦術」に我慢の限界が近づいてくるのです。
そこでザロモンは負傷保険制度を導入して、積立金から怪我の程度によって
保険金が支払われることにすると、隊員たちは政治闘争に励むことになります。
1929年下半期だけで、621件の負傷保険の支払いがあったそうな・・。
それでもSA隊員の不満は収まりません。
ベルリンではガウライターのゲッベルスがSA隊員に完全服従を要求すると、
彼らはSAの自立性を主張し、選挙運動をボイコット。ゲッベルスが除名をもって脅すと、
SA東部指導者のヴァルター・シュテンネスは逆にゲッベルスの解任を党本部に要求。
そしてこれが拒否されると激昂したSA隊員の一部がゲッベルスの本部に乱入して占拠。
危うく監禁を逃れたゲッベルスはダリューゲの親衛隊を差し向けますが、
凄まじい死闘の末、数に勝るSAがSSを叩きのめして追い出します。
ならばとベルリン治安警察に依頼して、またもや激しい格闘の末、
なんとか党本部を取り戻したゲッベルス。
この事件の後、ザロモンは辞任し、ヒトラーは自らがSA最高指導者となって、
SA中隊の間を巡回して彼らの説得と、絶対的忠誠、そして経済状態改善を約束するのです。
入党費も倍の2マルクに引き上げて、SAには1マルクをまわし、
党員から臨時SA隊費30ペニッヒを徴収。
規律を無視するSA隊員であろうとも、共産党に移っていくのを恐れる彼は、
彼らを除名する勇気にも欠け、この危機を乗り越えるのが難しいと感じたヒトラーは、
SAを抑え込める唯一の人物として、ボリビアからレームを呼び寄せるのでした。
1931年春に組織改革を行い、再び、管区長の指揮下にSA連隊が配されることに・・。
レームをトップの参謀長(幕僚長)にして、ルッツェら4人が上級集団長に任命され、
ベルリンではシュテンネスに代わってレームの信頼の厚いヘルドルフが選ばれます。
ヒトラーに呼び出されたシュテンネスは解任通知を平然と聞き流して、大規模な反抗を準備。
4月、シュテンネス配下のSA隊員がベルリンの管区本部と支部を急襲。
ゲッベルスはまたもやダリューゲのSSを投入しますが、争奪戦は半日続き、
結局、警官隊の出動で終息します。
シュテンネスは離党し、オットー・シュトラッサーのグループに合流。
ベルリンの25000名の隊員のうち、1/3がシュテンネスに従って去っていくのでした。
なにか、近年の日本でもニュースなった問題・・。
有名な弁当チェーンが分離して、裁判沙汰になったりとか、
牛丼チェーン店の激しい値下げ争いとか、全国展開する組織づくりの大変さを感じますね。
実は夜間の「バイト1オペ」を狙った強盗なんて、ライバル店の差し金だったりして・・。
その結果、近所でも閉店しちゃってますからね。。こわっ!
この事件にショックを受けたヒトラー。勇敢に戦ったダリューゲのSSに感激し、
それまでザロモンの抵抗にあって存在感のなかったヒムラーのSSに関心も移るのです。
SAの過激派から党組織を守るため、SSを党の警察機構にしようと考え、
SAの部分組織から、独立した組織に発展させていくのです。
情報組織の設立を命ぜられたヒムラーは、1931年にヨットに乗りたくて入党したSA船舶隊長、
ハイドリヒに3人の部下を与えて、後のSS保安情報部が誕生するのでした。
1931年末の党員数は80万名で、1年前の2倍に膨れ上がり、レームは頑強な青年党員を
精力的にSAへと編入します。SA隊員は同じ期間に6万名から20万名へと拡張。
しかし政権争いが本格化すると、ブリューニングとグレーナーによって、「SA禁止令」が・・。
これに不満を申し立てるのは国土防衛でSAの協力を得ている軍管区司令部将校たち。
ヴィルヘルム皇子はグレーナー国防相宛ての抗議電報を送り、
第2軍管区司令官のフォン・ボック将軍も国防省に抗議にやってくる始末・・。
それでもパーペン内閣に代わると禁止令は撤回。
このあたりは策士シュライヒャー将軍と、事実上の党No.2、グレゴール・シュトラッサーが
頻繁に登場する展開で、どちらかというと「SA」は政権争いに振り回される1組織ですね。
こうして1933年にヒトラー内閣が誕生すると、主役はプロイセン内相となったゲーリングです。
SAとSS、併せて4万名が補助警官に任命され、その指揮官にはダリューゲが・・。
そして「国会議事堂放火事件」が起こると、積年のライバル共産党が解党へと追い込まれ、
ゲシュタポ長官ディールスの回想録からも抜粋します。
バイエルンでもレームがプロイセンに倣って「治安補助警官隊」を編成しますが、
もちろんほとんどがSA隊員であり、本書では、「犯罪者的気質をもつSA隊員が、警察的任務を
遂行するのだからたまらない。暴力団が警察権を握った場合を想像すると良い」と・・。
全国で一般党員とSA隊員が市政府の辞職を迫り、市庁舎を占拠してハーケンクロイツ旗を掲揚。
しかしヒトラーも党本部も政権獲得後の公職ポストの配分を計画していなかったことから、
管区長以上の党員は、自分が望む公職に殺到し、激しい争奪戦を演じることに・・。
党内における序列、当人の専門的能力とは無関係で、すばしこい者が勝ちを収めるのです。
これにより、党内と公職の序列が逆転したり、1人で関係ないポストをいくつも所有する例も続出。
補助警官は案の定、不当逮捕や私設収容所への監禁、私刑を繰り返し、
500人以上が殺されると、ゲシュタポのディールスが取締りに乗り出し、
ベルリンのSA本部を包囲して機関銃を撃ちこんでSAの若造たちを引きずり出すほど。
ゲーリングも補助警察を解散させてしまうと、また失業者となったSA隊員は不満が堪るのです。
混乱はプロイセンで権力を握ったゲーリングと、ミュンヘンのレームの対立という構図に。
レームは行政を監視して助言与えるSA特別全権官制度を導入して、
プロイセンにもSA政治部長のゲオルク・フォン・デッテンを派遣します。
デッテンはゲーリングに対し、「同意しなければ国会放火の真相を暴露する」と強請ったそうな。。
さらにレームは国防軍の軍事訓練センターを奪って管理し、その他の訓練施設も独占。
SA訓練局を管理するのはSA幹部学校の校長でもあるヴィルヘルム・クリューガーです。
一方で、ゲーリングからゲシュタポを引き継いだヒムラーとハイドリヒのSSチームは、
レーム暗殺を目論むものの、ヒトラーから抑えられ、SA隊員の尾行と監視に着手します。
同じ時期、SAの解体やむなしと考えていたのは政務局長のフォン・ライヒェナウ。
彼は軍情報部以外にも、SA内部に情報ルートを持っていて、それはルッツェとクリューガーです。
こうして「SAの武装蜂起の計画」なるものが、ハイドリヒとライヒェナウの周りに姿を現すと、
それが証拠となって、SA幹部粛清の「長いナイフの夜」へと進んでいくのです。
ゲーリングがプロイセンのライバル、デッテンも粛清対象に組み込むと
ゲッベルスもシュライヒャーとシュトラッサーの名前を書き入れ、
ヒムラーに連れられてきたハイドリヒは「誰彼も危険人物だから除きましょう」と提案・・・。
クライマックスの「長いナイフの夜」もなかなか詳細に書かれていて、
SA幹部の中でも「殺人鬼」として恐れられていた大男エドムンド・ハイネスは、
若い男と寝ていたところを双璧の大男、ブリュックナーが拳で殴り倒し、
レームも逮捕されて、裏切り者のルッツェらを除くSA幹部が処刑されていくのです。
思っていたよりもシッカリと書かれた一冊でした。
巻末に出典一覧はないものの、途中途中でディールスの回想録などから抜粋したりと、
気になっていた未訳の文献がいくつかありました。
ただし、純粋に突撃隊(SA)について触れられているのは、全体の1/3程度でしょうか。
ヒトラーとナチ党がいかにして政権を獲ったか・・の過程が非常に詳細であり、
その中でのSAの役割の変化、別の言い方をすれば「SA興亡史」が展開される構成なので、
その意味では必要かとは思いますが、ヒトラーが首相となる経緯などはちょっとやり過ぎ感も・・。
シュライヒャー将軍の名前が何十回も出てくるわけですからね。
また、国会議事堂放火の下手人はゲーリングとSAだと断定していますが、
著者は「ヒトラーの陰謀 ドイツ国会放火事件」という本も書いているんですねぇ。
ちなみに別の著者による「国会炎上(デア・ライヒスターク)―1933年-ドイツ現代史の謎」
という本もありました。
まぁ、その件も含めて、本書が若干古いとか、日本人が書いたとかの意見は置いておいても、
いくつか「ホンマかいな??」というのもありましたので、それらも今回は取り上げています。
なにが真実かということに拘るより、名前も知らなかった初期のナチ党員やSA隊員らの、
虚虚実実の駆け引きを味わうことができた一冊でした。
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ニュルンベルク裁判 ナチ・ドイツはどのように裁かれたのか
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-07-22
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。アンネッテ・ヴァインケ著の「ニュルンベルク裁判」を読破しました。先月、「ナチスと精神分析官」で4回目のニュルンベルク裁判を紹介したばかりですが、しつこく5回目をやってみたいと思います。今年の4月に出た230ページの新書・・と軽い一冊を選んだのにはわけがあり、いつもの国際軍事裁判に続く、「12の継続裁判」についてページを割いているのがその理由。いわゆる「医師裁判」や、「アインザッグルッペン裁判」などが含まれますが、これらの裁判についての本を読むのは初めてなんですね。そして原題はやっぱり「ニュルンベルク諸裁判」なのでした。第1章では戦時中、1943年当時の連合国首脳の考え方・・。チャーチルは独日伊の「アウトロー」である主要戦争犯罪人100人ほどを身元確認後、銃殺。スターリンはドイツ参謀本部のすべて、少なくとも5万人を抹殺してしまえばいいと主張。ルーズベルトは「モーゲンソー・プラン」を・・という流れを簡単に説明します。第2章は「国際軍事法廷」で、24人の主要戦争犯罪人への処断です。1945年8月の「ポツダム会談」で米英ソの3巨頭によって、可及的速やかに国際軍事法廷を・・、という共同の意志を確認すると、占領下のドイツで証拠資料の奪い合いが始まります。米首席検事ジャクソンの部下たちは、ヒトラーの副官だったホスバッハが作成した1937年のヒトラー欧州戦争計画策定に関する「ホスバッハ覚書」のオリジナルを大量に「借り出し」たものの、その多くを紛失するという大失態・・。英国は当初、被告人をゲーリング、リッベントロップ、ライ、ヘスだけに絞っていたものの、米国はナチ最高幹部に加え、犯罪的であると推定された「組織」の代表者も起訴すべきと主張。ヒトラーユーゲント指導者や、SSの各組織、陸軍参謀本部にOKW、3軍の総司令部も対象に・・。終戦時に大統領であった海軍総司令官のデーニッツ元帥も、「戦前」は地位の低い将校であり、「共同謀議」の罪で立件するのは不可能という英国の異議も、慎重すぎるとあっさり退ける米国。司法代表団は英国が170名、ソ連が24名、フランス12名なのに対して、米国は堂々の2000名超え。他方、20ヵ国から250名の「敏腕ジャーナリスト」も集まると、郊外にある男爵邸をあてがわれます。しかしこれが粗大ごみが所狭しと置かれた「恐怖の邸宅」と呼ばれる建物であり、そのような境遇で数ヵ月も過ごす彼らは、..
ナチ/ヒトラー
ヴィトゲンシュタイン
2015-07-22T12:07:10+09:00
アンネッテ・ヴァインケ著の「ニュルンベルク裁判」を読破しました。
先月、「ナチスと精神分析官」で4回目のニュルンベルク裁判を紹介したばかりですが、
しつこく5回目をやってみたいと思います。
今年の4月に出た230ページの新書・・と軽い一冊を選んだのにはわけがあり、
いつもの国際軍事裁判に続く、「12の継続裁判」についてページを割いているのがその理由。
いわゆる「医師裁判」や、「アインザッグルッペン裁判」などが含まれますが、
これらの裁判についての本を読むのは初めてなんですね。
そして原題はやっぱり「ニュルンベルク諸裁判」なのでした。
第1章では戦時中、1943年当時の連合国首脳の考え方・・。
チャーチルは独日伊の「アウトロー」である主要戦争犯罪人100人ほどを身元確認後、銃殺。
スターリンはドイツ参謀本部のすべて、少なくとも5万人を抹殺してしまえばいいと主張。
ルーズベルトは「モーゲンソー・プラン」を・・という流れを簡単に説明します。
第2章は「国際軍事法廷」で、24人の主要戦争犯罪人への処断です。
1945年8月の「ポツダム会談」で米英ソの3巨頭によって、可及的速やかに国際軍事法廷を・・、
という共同の意志を確認すると、占領下のドイツで証拠資料の奪い合いが始まります。
米首席検事ジャクソンの部下たちは、ヒトラーの副官だったホスバッハが作成した
1937年のヒトラー欧州戦争計画策定に関する「ホスバッハ覚書」のオリジナルを
大量に「借り出し」たものの、その多くを紛失するという大失態・・。
英国は当初、被告人をゲーリング、リッベントロップ、ライ、ヘスだけに絞っていたものの、
米国はナチ最高幹部に加え、犯罪的であると推定された「組織」の代表者も起訴すべきと主張。
ヒトラーユーゲント指導者や、SSの各組織、陸軍参謀本部にOKW、3軍の総司令部も対象に・・。
終戦時に大統領であった海軍総司令官のデーニッツ元帥も、「戦前」は地位の低い将校であり、
「共同謀議」の罪で立件するのは不可能という英国の異議も、慎重すぎるとあっさり退ける米国。
司法代表団は英国が170名、ソ連が24名、フランス12名なのに対して、
米国は堂々の2000名超え。他方、20ヵ国から250名の「敏腕ジャーナリスト」も集まると、
郊外にある男爵邸をあてがわれます。
しかしこれが粗大ごみが所狭しと置かれた「恐怖の邸宅」と呼ばれる建物であり、
そのような境遇で数ヵ月も過ごす彼らは、米検察団の失敗を容赦なく弾劾することで、
ジャクソンに「返礼」するのでした。
ソ連が「カティンの森」はドイツ人よるものという不当な要求を押し通しているころ、
他国は「ソ連にとって危険な証拠は公表しない方が、安全かつ賢明では・・」と協議。
その結果、ポーランドの分割などが確約された独ソ不可侵条約の「秘密議定書」が
起訴状から外されてしまうのです。
最終的に12人に死刑が宣告されてこの章は終わりますが、「勝者の裁き」論にも触れ、
「根拠のある意義はあるにせよ、多くの批判者たちには、裁判に代わる選択肢があったのか、
という問いに答える義務がある」とします。
89ページから第3章の「12の継続裁判」が始まります。
1946年初頭の段階で、米首席検事のジャクソンは、第2の国際軍事法廷は開催せず、
米国の単独管轄による、ドイツ人エリートへの裁判を行うことを決めます。
すでに始動していた「ダッハウ裁判」を支持する在独米軍政局のクレイ将軍も支援する体制。
首席検察官となるのはジャクソンの代理、テルフォード・テイラーです。
「ダッハウ裁判」ってあのマルメディの虐殺における武装SS裁判のことですね。
最初に開かれた継続裁判は「医師裁判」。
ナチスの医療犯罪に関与した20人のSS隊員、または強制収容所の医師・医療関係者などが
対象であり、ヒトラーの随行医師から、保険・衛生全権委員にまで昇りつめたカール・ブラント、
「T4作戦」に責任を持つヴィクトール・ブラックらが被告人席に・・。
医師たちの大部分がナチ保険政策の遺伝学的・人種学的な目的と、
自分を一体化させていたことが審理の過程で明らかになり、
医療実験のイニシアティブをとっていたのはヒトラーやナチ幹部ではなく、医師たち自身であり、
人体実験の自発的な参加は、自分の職業的な功名のため、兵役招集を逃れるために
利用していたことが判明していくのです。
結局、ブラントを含む7人が絞首刑、逆に7人が無罪となりますが、
証拠不足によるものであり、「疑わしきは罰せず」の原則に従ったものだとします。
本書には名前が出てきませんが、アーネンエルベ事務長のヴォルフラム・ジーフェルスや、
主治医としてヒムラー逮捕の時まで同行していたカール・ゲープハルトと
ルドルフ・ブラントも絞首刑に・・。
この「医師裁判」は7ページ。もうちょっとボリュームが欲しいなぁ。。
司法省次官のシュレーゲルベルガーを中心とした「法律家裁判」が続いた後、
「ポール裁判」、すなわちSS経済管理本部オスヴァルト・ポール長官を主要被告人した裁判へ。
経済管理本部と書くとアレですが、アウシュヴィッツをはじめとした強制収容所が担当部署です。
ポールは刑法的な責任を断固として否認し、弁護人も「抑留者たちの生活条件を改善させる」
ための努力をいとわなかったとしますが、検察側の示したポールの管轄下で
死者が猛烈に跳ね上がったことを示す証拠文書によって、絞首刑・・。
「SS人種・植民本部裁判」は、SS大将で「ドイツ民族性強化全権委員長官」の
ウルリヒ・グライフェルトが主要被告人で、レーベンスボルン(生命の泉)のメンバーも起訴。
ポーランドにおける虐殺政策や、ポーランド人孤児の拉致、
東部女性労働者の妊娠中絶などが裁判の中心ですが、判決は寛大なもので、
グライフェルトが終身刑で、7人が10年~20年というもの。
なお、唯一の女性被告人でレーベンスボルン協会副会長インゲ・フィアメッツは無罪です。
次は有名な「行動部隊(アインザッツグルッペン)裁判」です。
開廷前に1人が自殺して、SS、ゲシュタポ、刑事警察、保安部の高官から成る被告は22人。
最も重要なのは、すでにカルテンブルンナーに関する審問において、
南ウクライナ地域を担当していたショーベルトやマンシュタイン、そして自分自身を不利な立場に
置くような発言、「9万人のユダヤ人の殺害に責任がある」と述べていたオーレンドルフです。
それから15か月後の裁判でオーレンドルフは弁護士の勧めもあって、これまでの供述を翻し、
大量処刑は、「国防軍が制約されずに行動できるように」するための軍事的、警察的措置と表現。
また、RSHA人事局長シュトレッケンバッハによる、
「占領地におけるユダヤ人を無差別に殺害すべし」というヒトラー命令を聞いたと主張。
もうヒトラーも、ヒムラーも、ハイドリヒもみんな死んでますしねぇ。
この当時、ソ連に拘留されていたシュトレッケンバッハに責任を押し付ける戦略ですが、
最終的にオーレンドルフを含む14名に死刑判決が下されるという、
全裁判の中でも最も厳しいものとなるのです。
しかし処刑は1951年にオーレンドルフとパウル・ブローベルら4人に対してのみ執行され、
残りの囚人は50年代に放免されたそうです。
「南東戦線将官裁判」は、別名「捕虜裁判」とも呼ばれているもので、
裁判の中心は、占領下のユーゴスラヴィアとギリシャにおける「人質処刑」です。
民間人を人質に取ることは、まだニュルンベルク裁判の時点では、
戦時国際慣習法で許容された対抗措置に属するものだったものの、
バルカン半島でのドイツ軍行動は軍事的報復措置の限界を遥かに超えた・・。
カイテルが「ドイツ兵士一人につき、50~100名の共産主義者を見せしめに処刑せよ」という
ヒトラー命令を伝達したことから、セルビア駐留のベーメ将軍はユダヤ人の大量処刑にも関与。
コレは「世界戦争犯罪事典」に載っていたエピソードですねぇ。
パルチザンに対するフラストレーションが住民にぶつけられた結果の粗暴な行為。
これにより1949年のジュネーブ条約では許容されていた民間人の人質が否定されることに・・。
ベーメは審理開始前に自殺、ヴァイクス元帥は病気により免訴となって、2名に終身刑。
名前は書かれていませんが、この終身刑のうち一人は、あのリスト元帥です。
もっとも病気のため1952年には釈放されたようですね。
また、20年禁固刑を受けたものの、1951年釈放されたギリシャ軍事司令官は、
ヴィルヘルム・シュパイデルで、あのハンス・シュパイデルの兄さんです。
「国防軍最高司令部(OKW)裁判」も対象となる被告は高級将校。
起訴理由は「コミッサール命令」と、「戦時捕虜の大量殺害」に関するもの。
被告は陸軍からフォン・レープ、海軍からはシュニーヴィント、空軍がシュペルレであり、
詳しい方なら、この3人は悪人顔ながらも「OKW」じゃないのがわかるでしょう。
シュペルレは「コンドル軍団」司令官としてゲルニカ空爆を実施していますが、
1939年からの戦争が対象のニュルンベルク裁判ではそれが起訴理由にはなりません。
シュペルレとシュニーヴィントは結局、無罪となりますが、
民間人に対する虐殺行為を何度か激しく非難したことで知られるブラスコヴィッツまでもが
起訴されたことは理解しがたく、その彼は開廷の日である1948年2月5日に自殺・・。
残る11人の被告全員が戦争犯罪、および人道に対する罪で3年以上の有罪判決。
本書からは名前が書かれた4名しかわかりませんので、ちょっと紹介しましょう。
OKWからは3人で、そのうち一人はヨードルの代理でもあったヴァーリモントが終身刑。
フォン・レープは3年、ホリトが5年、オットー・ヴェーラーが8年、
ヘルマン・ホトと、ラインハルトが揃って15年、フォン・キュヒラーとフォン・ザルムートが20年。
とはいってもレープはすでに3年以上拘留されているため判決後釈放され、
その他の被告も1954年までには全員釈放されています。
そういえば「ドイツ装甲師団とグデーリアン」で、戦犯容疑者として拘留されているメンバーが
宿敵ハルダーの保守派である、フォン・レープにリスト、ヴァイクスらで、
村八分のグデーリアン派は、ミルヒとブロムベルクだったなんて書かれてましたね。
鉄鋼界の大立者である「フリードリヒ・フリック裁判」の後、
経済界を対象とした「IG・ファルベン裁判」と続き、
エッセンの大企業「クルップ裁判」と、ナチスに協力した企業家かや経営者への裁きが連続。
空軍次官だった「ミルヒ裁判」はその期間は最も短いもの。
ダッハウで行われたジークムント・ラシャーの人体実験の責任も問われます。
法廷は強制労働計画を理由に「終身刑」の判決を下しますが、
後に15年に減刑、そして1954年には自由の身になるのでした。
最後に紹介される裁判は、閣僚・政府高官へのもので、いわゆる「諸官庁裁判」です。
21人の被告はざっとこんなメンバーです。
内閣官房ラマース、大統領官房マイスナー、食糧・農業省ダレ、財務省フォン・クロージク、
宣伝省オットー・ディートリッヒ、外務省はリッベントロップの副官と書かれたヴァイツゼッカー。
さらにアウトサイダーとしてSS本部長ゴットロープ・ベルガーと、SD国外諜報部長シェレンベルク。
彼らが共同謀議や平和に対する罪、占領地域における経済的略奪、犯罪的な組織への所属・・、
といったことで起訴され、検察側は21人全員の死刑を要求し、弁護側は全員無罪を主張します。
最終的に無罪となったのはマイスナーら2人で、同じ官房長だったラマースは20年の判決。
別に顔つきから無罪と、有罪になったわけではありません。
最も重い25年がベルガーで、シェレンベルクが6年、ヴァイツゼッカーが5年となるのでした。
こうして第4章の「戦後ドイツへの影響」へと進みます。
すでに1948年には第一次世界大戦のUボートの艦長で、反ナチのために1937年から
ザクセンハウゼン強制収容所などに収容されていたマルティン・ニーメラー牧師が
「OKW裁判」に関する請願書を提出。
「目的のためにあらかじめ将官から軍の階級を剥奪するという手法は、
7月20日事件のヒトラーによるドイツ人将校に対する処遇と同じではないでしょうか」。
そして「西ドイツ」が誕生し、ランツベルクに収容された囚人たちへの「恩赦」も検討され、
西ドイツのジャーナリズムも、一連のニュルンベルク裁判を公然と批判します。
「自分の命を常に危険に晒しながら、エーリヒ・コッホのような奴らと闘ったヴァイツゼッカーを
はじめとする人たちが有罪判決を下される一方、東プロイセンの警察・SS最高指導者の
オットー・ヘルヴィヒのような人物が自由に暮らしている事態に、わたしたちはうんざりだ」。
最終章ではこの「ニュルンベルクの原則」を国際法として確立しようとする紆余曲折が
語られます。それは1950年に法典案が提出されてから、国際法委員会で採択されたのは、
ようやく1990年になってから・・。
結局、期待していた「継続裁判」は第3章に70ページほど書かれていましたが、
ひとつひとつの裁判については簡単なものだと3ページ程度(ミルヒ裁判は1ページ)であり、
概要レベルと言っても良いかも知れません。
また、本書の観点は検察側の戦略に重点を置いたものであって、
被告側の主張はオーレンドルフなど、いくつかの例を除いてはそれほど書かれていませんし、
いつものニュルンベルク裁判モノにある被告の心理や、検察との戦いの様子も伝わりません。
もちろん、このボリュームの新書ですからそれはそれでしょうがないですし、
コレだけでも十分勉強になったのは事実です。
でも・・、それでも余計にもっと詳しく知りたいと思ってしまいましたね。
行きたいと思っていた高級レストランの安いランチだけを食べたような心境というんでしょうか・・。
多少は満足したけど、夜のフルコースを存分に味わってみたい・・と更に思います。
そしてできれば、マルメディ裁判に、ポーランドやソ連、その他の国で行われた
ナチス裁判についても、まとまって書かれた本があれば嬉しいですね。
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決定版 20世紀戦争映画クロニクル
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-07-12
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。大久保 義信 著の「決定版 20世紀戦争映画クロニクル」を読破しました。不思議なことに戦争映画ガイドブックってほとんど出版されておらず、知っている限りでは、以前に紹介した「戦争映画名作選 -第2次大戦映画ガイド-」だけであり、あの文庫が出版されたのが1995年ですから、実に20年ぶりといったトコでしょうか。本書は「映画秘宝COLLECTION」として最近出た、239ページの一冊で、単なるガイドブックとは違い、「クロニクル = 年代記」というのがポイントです。4部から成る本書、まずは第1部「第一次世界大戦」です。そしてその第1章は「第一次世界大戦前史(1840年~1905年」であり、これは「はじめに」でも書かれていますが、戦争というのは過去の戦争の結果が引き起こすことが多々あり、第一次世界大戦を語るには「普仏戦争」を、それを語るには「クリミア戦争」を、それを語るには「ナポレオン戦争」を・・、とやってると、17世紀まで簡単に遡ってしまうため、1840年の「阿片戦争」をスタートとしています。ということで、その「阿片戦争」が起こった経緯と、英国議会でも「破廉恥な戦争」と呼ばれた展開を解説しながら、1997年製作の中国映画「阿片戦争」を紹介します。すぐに20世紀に入ると、1904年の日露戦争についての解説と共に、1969年の映画、「日本海大海戦」に触れ、「戦史劇の傑作だ」という評価です。この章の最後は「戦艦ポチョムキン」(1925)で〆られますが、ページ下部には監督、出演者に、DVD情報も廃盤、未発売など細かく記載され、また戦争、事変が「年表」として掲載されつつ、その下に該当する戦争映画のタイトルというのは後で振り返るときに重宝しそうですね。白黒ながらも地図や写真も1ページに1枚程度、掲載されています。第一次世界大戦の勃発っていうのは結構複雑で、本書でも2ページに渡って解説。それに該当する映画は・・というとリチャード・アッテンボロー初監督の「素晴らしき戦争」(1969)で「良くできた映画」と評価。あ~、コレ未見なんですよねぇ。有名なクリスマス休戦なら「戦場のアリア」、日本が参戦すると2006年の「バルトの楽園」が・・。「安っぽくなってしまった残念な映画」という一般的な評価ですね。しかし、この本書の展開、よく考えてみると4年前に紹介した、「ヴィジュアル版 「決戦」の世界史 -歴史を動かした5..
戦争映画の本
ヴィトゲンシュタイン
2015-07-12T09:34:36+09:00
大久保 義信 著の「決定版 20世紀戦争映画クロニクル」を読破しました。
不思議なことに戦争映画ガイドブックってほとんど出版されておらず、知っている限りでは、
以前に紹介した「戦争映画名作選 -第2次大戦映画ガイド-」だけであり、
あの文庫が出版されたのが1995年ですから、実に20年ぶりといったトコでしょうか。
本書は「映画秘宝COLLECTION」として最近出た、239ページの一冊で、
単なるガイドブックとは違い、「クロニクル = 年代記」というのがポイントです。
4部から成る本書、まずは第1部「第一次世界大戦」です。
そしてその第1章は「第一次世界大戦前史(1840年~1905年」であり、これは「はじめに」でも
書かれていますが、戦争というのは過去の戦争の結果が引き起こすことが多々あり、
第一次世界大戦を語るには「普仏戦争」を、それを語るには「クリミア戦争」を、
それを語るには「ナポレオン戦争」を・・、とやってると、17世紀まで簡単に遡ってしまうため、
1840年の「阿片戦争」をスタートとしています。
ということで、その「阿片戦争」が起こった経緯と、英国議会でも「破廉恥な戦争」と呼ばれた
展開を解説しながら、1997年製作の中国映画「阿片戦争」を紹介します。
すぐに20世紀に入ると、1904年の日露戦争についての解説と共に、
1969年の映画、「日本海大海戦」に触れ、「戦史劇の傑作だ」という評価です。
この章の最後は「戦艦ポチョムキン」(1925)で〆られますが、
ページ下部には監督、出演者に、DVD情報も廃盤、未発売など細かく記載され、
また戦争、事変が「年表」として掲載されつつ、その下に該当する戦争映画のタイトルというのは
後で振り返るときに重宝しそうですね。
白黒ながらも地図や写真も1ページに1枚程度、掲載されています。
第一次世界大戦の勃発っていうのは結構複雑で、本書でも2ページに渡って解説。
それに該当する映画は・・というとリチャード・アッテンボロー初監督の「素晴らしき戦争」(1969)で
「良くできた映画」と評価。あ~、コレ未見なんですよねぇ。
有名なクリスマス休戦なら「戦場のアリア」、日本が参戦すると2006年の「バルトの楽園」が・・。
「安っぽくなってしまった残念な映画」という一般的な評価ですね。
しかし、この本書の展開、よく考えてみると4年前に紹介した、
「ヴィジュアル版 「決戦」の世界史 -歴史を動かした50の戦い-」のときのレビューと同じですね。。
あの時も、戦いを紹介しながら、勝手に「こんな映画がありました」・・なんてやってました。
ということは、世界史、特に戦争の世界史って映画で学んだことが多いってことであり、
本書のこのような構成はある意味、必然のようにも思えてきました。
こうして「アラビアのロレンス」(1962)、「ブルー・マックス」(1966)、「戦火の馬」(2011)、
「ジョニーは戦場へ行った」(1971)など、3回は観た名作に1度も見てない有名映画、
はたまた無名のTVムービーも登場しながら進みます。
57ページから第2部の「日中戦争~太平洋戦争」です。
「戦争映画の傑作」という1970年の「トラ・トラ・トラ!」に始まり、
1957年の「戦場にかける橋」へと続きますが、後者についてはよく言われるフィクション部分に
言及しつつも、「今更どうでもいいが・・」といった論調です。
ガダルカナル島攻防戦は「シン・レッド・ライン」(1998)や、TVドラマ「ザ・パシフィック」(2010)。
フィリピン決戦ならグレゴリー・ペック主演の「マッカーサー」(1977)。
硫黄島攻防戦はイーストウッド監督の2作品以外に、ジョン・ウェイン主演の古い映画、
「硫黄島の砂」(1949)も同列で紹介します。
最後の島となるのは「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971)で、コレつい最近観たばっかりなんです。
なかなか良かったなぁ。今じゃ描けないようなリアルさが印象的でしたね。
「人間魚雷出撃す」(1956)は、あのインディアナポリス号撃沈のお話。
回天搭乗員として石原裕次郎に長門裕之という「潜水艦映画の秀作」だそうです。
コレは見逃してた。松方弘樹 の「人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊」で満足していたもんで。。
終戦モノになると「日本のいちばん長い日」(1967)が登場。
コレも原作を読んで、今年、映画も観ました。
どっちも傑作と言って良いんじゃないでしょうか。
今夏、リメイク大公開!ですが、果たしてどんなモンでしょう??
それから真岡郵便電信局事件の「樺太1945年夏 氷雪の門」(1974)も出てきました。
そういえば8月に「妻と飛んだ特攻兵」をTVドラマでやるそうです。妻は堀北真希ちゃん・・。
しかし女性と子供の避難民2000名にソ連戦車14両が襲い掛かり、逃げまどう避難民を
次々と轢き殺す・・という「葛根廟事件」のシーンはさすがに無理か・・。
ちょうど半分、115ページからお待ちかねの第3部「第二次世界大戦」。
その第1章はやっぱり「大戦前史 ヨーロッパの新しい国境」であり、帝国が崩壊して、
新たに独立した国々も出てきますから、このあたりの歴史もシッカリと押さえています。
最初に登場するのがエストニア/フィンランド合作の「バルト大攻防戦」(2002)という映画で、
1918年のエストニア独立に伴い、ドイツ、フィンランド、反共ロシア軍、コサックにラトヴィア赤軍が
入り乱れた独立戦争を描いた秀作だそうです。コレ、観てみたいなぁ。
1920年のソ連・ポーランド戦争を描いた「バトル・オブ・ワルシャワ 大機動作戦」(2011)も
気になります。ポーランド映画ですが、例のスターリンとか、トハチェフスキーが活躍、
その因縁の始まりとなる戦いですからね。
イタリアでは1920年代にムッソリーニが台頭。
TVドラマ「ムッソリーニ 愛と闘争の日々」(1985)で、主役を演じるのは「パットン」こと、
ジョージ・C・スコットです。その他、ガブリエル・バーン、ロバート・ダウニー・Jrと、
なかなかの演技派が揃い踏みで、5時間越えでも楽しめそう。
同様にドイツでは、ロバート・カーライルが演じたTV映画「ヒットラー」(2003)と、
長いナイフの夜を描いた傑作といわれる「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)を紹介します。
そのナチスによってオーストリア併合となると、「サウンド・オブ・ミュージック」(1964)です。
「ドレミの唄」が戦争映画かよと思う方もいるかもしれませんが、つい最近、初めて観ました。
長女に恋する男の子がヒトラーユーゲントぽくなって、最後はSAになって、家族を・・と、
楽しいミュージカルの中に、ナチスの暗雲立ち込める複雑な状況を見事に表現した傑作でした。
ポーランド戦なら「戦場のピアニスト」(2002)と、「カティンの森」(2007)。
冬戦争を描いた「ウィンター・ウォー」(1990)はDVDも持ってます。
主人公の弟が砲弾でバラバラになっちゃうんだよなぁ・・。
1940年のドイツの西方戦勝利と、その占領地を描いたものなら「ダンケルク」(1964)、
デンマークのレジスタンスを描いた「誰がため」(2008)、
オランダならポール・ヴァーホーヴェン監督の「ブラックブック」(2006)と、
未公開の「ロッテルダム・ブリッツ ナチス電撃空爆作戦」(2012)ですが、
その空爆シーンは迫力はあるものの、恋愛ドラマなんだそうな・・。
ヴィシー政府を描いた戦時中の映画として「カサブランカ」(1942)も紹介し、
ユダヤ人狩りをするSS大佐を成敗した「イングロリアス・バスターズ」(2009)も・・。
「大西洋の戦い」の筆頭は、当然の如く「U・ボート」。何度見ても最高! 一家に一枚DVD!
しかし、なんでもリメイクされるとかいう恐ろしい噂がありますね・・。
それより古い映画としては「眼下の敵」(1957)や、「戦艦シュペー号の最後」(1956)、
「ビスマルク号を撃沈せよ!」(1959)と名作が続きます。
やっぱり海の男の話に変なヤツは出てこないのかな。
「イギリスの戦い」の章になると、「空軍大戦略」(1969)が傑作と紹介され、
先日紹介したばかりの「殴り込み戦闘機隊」(1956)も出てきます。
撃墜されたドイツ空軍のヴェラ少尉の「脱走四万キロ」(1957)が英国で作られたのは、
「その不屈の闘志と冒険行が敵味方を問わずヒーローにしたのだ」と解説。
バトル・オブ・ブリテンが終わると、騎士道的ではない戦略爆撃モノへと移ります。
「メンフィス・ベル」(1990)に、マックイーンの「戦う翼」(1964)といった米軍モノでは、
指揮官の責任と限界を描いたグレゴリー・ペックの「頭上の敵機」(1949)を推しています。
妥当かな? 厳格な隊長が後半、精神に異常をきたす展開・・。良い演技でした。
「ドレスデン 運命の日」(2006)については、ロマンスを絡めたせいで全体がグダグダに・・、
と辛口で、これなら断然「スローターハウス5」に軍配が上がるとしています。
あぁ、原作だけ読んで、映画観るの忘れてた。。
"ボマー"ハリスの英爆撃機隊を描いたものとしては、「暁の出撃」(1954)などを挙げ、
爆撃機隊は英米それぞれが5万名ずつもの戦死者を出したのだから、
米国が「戦略爆撃映画」数多く作ったことに納得する一方、
英国の場合は「特殊任務爆撃」を題材にしたものが多く、その理由として、
いかにも英国人好みな「趣味的作戦」を製作したと同時に、無差別都市爆撃が
道義的に問題があったという思いがあるからでは・・と分析します。
第4章は「北アフリカ、地中海、イタリア戦線」。
「ナバロンの要塞」(1961)はフィクションだけども、ドイツ軍占領下を舞台にした傑作だとし、
「砂漠の鬼将軍」(1951)は佳作という表現です。
でも戦後6年で米国がナチスの将軍の半生を描くっていうのもさすがロンメルの名声ですし、
個人的にも子供の頃にこの映画を観て、砂漠の狐を知りましたね。
偶然ですが、このような古い戦争映画が991円で限定発売中でした。
「戦後70年―今だから観るべきものがある。映画で振り返る第二次世界大戦厳選30タイトル」
ハンフリー・ボガートの「サハラ戦車隊」が1943年に製作されたっていうのも凄いですが、
西ドイツも1957年になって「撃墜王アフリカの星」を製作。
大好きな「パットン大戦車軍団」(1970)も前半はシチリアが舞台で、未見の映画では、
イタリア映画「炎の戦線 エル・アラメイン」(2002)が兵士目線の映画の傑作と好評価です。
同じ未見のイタリアものでは興味深いのが何作かありましたねぇ。
「やがて来たる者へ」(2009)はSSが起こした「マルツァボット大虐殺」がテーマであり、
「裂けた鉤十字」(1973)は同様に「アルデアティーネ洞窟の悲劇」が題材。
しかも主人公が苦悩するカプラーSS中佐で、演じるのはリチャード・バートンときたもんだ。
「独ソ戦」はちょっと大変です。。
バルバロッサ作戦に始まり、白ロシア占領、レニングラードにスターリングラード、
そしてベルリン攻防戦までを解説しつつ、9ページで該当映画を紹介するという力技。
「戦火のナージャ」(2010)、「ディファイアンス」(2008)、「スターリングラード」(1993)、(2000)、
「戦争のはらわた」(1975)といったDVDも持ってたり・・という映画もあれば、
「炎628」(1985)、「ジェネレーション・ウォー」(2013)のように未見の作品も。
特にドイツのTV映画という「ジェネレーション・ウォー」は興味ありますね。
しかしソ連時代の映画も紹介され、ドイツ映画に、西側の英米の映画、最近の旧ソ連各国・・と、
同じ「独ソ戦」という括りにするのには、史実的にもややこし過ぎる気がしました。
連合軍ノルマンディ上陸・・となると、大定番の「史上最大の作戦」(1962)と、
「プライベート・ライアン」(1998)。本書の表紙「特攻大作戦」(1967)は好きな映画ですが、
そのフランス女性版として、ソフィー・マルソーがSS女のコスプレを披露した
「レディ・エージェント 第三帝国を滅ぼした女たち」(2008)も紹介します。
興味深いところでは妻子をドイツ軍に殺された男がドイツ軍兵士をひとりずつ処刑していく
復讐劇、「追想」(1975)の元ネタは、あの「オラドゥール村大虐殺」だとか・・。
初期の007シリーズの監督、テレンス・ヤングが1950年に撮った「撃滅戦車隊3,000粁」は、
戦車映画の傑作であり、本物のヤークトパンターと、ティーガーⅠが登場するだけでなく、
ティーガーⅠに至っては本当に燃やしてしまうそうで、
映画のためにストラディバリウスをぶっ壊すようなものだと、戦後すぐに作られた映画の
豪快さを強調します。スゲーな・・。ちょっと観てみたい。。
おっと、先日亡くなったクリストファー・リーが出てるじゃないか!
「パリは燃えているか」(1966)もようやくDVDが出ましたから、そのうち観てみるつもりですが、
逆に観たくないのが、「アウシュヴィッツ行 最終列車」(2006)で、
その列車内部に焦点を絞り、悲惨をとおり越した極限状態に、嬉しそうにユダヤ人を虐殺する
ウクライナ人SSのエピソード・・。若い頃はスプラッター映画も好きだったのに、
最近は、血が出る、腹が減る・・といった映画は苦手になってきました。
遂に「最終戦」。
「遠すぎた橋」(1977)から、「バルジ大作戦」(1965)、「大脱走」(1963)はココで紹介。
その他にも「レマゲン鉄橋」(1968)、「橋」(1959)、最近話題となった「フューリー」(2014)、
もちろん「ヒトラー 最期の12日間」(2004)も出てきますが、そのなかでも明確に描かなかった
ソ連兵のベルリン女性に対する強姦を扱った「ベルリン陥落1945」(2008)で終了します。
それにしてもですねぇ。未公開の戦争映画がDVDで続々とリリースされるのは良いですが、
大袈裟なタイトルとパッケージはなんとかしてもらいたいモンです。
ここまで読んでも、そのような内容との乖離がある映画が何本かありましたし、
せっかくストーリーが良くても、騙された感は拭えません。
典型的な例で紹介すると、「ベルリン陥落 1945」は、原題が「ベルリンの女」であり、
オリジナルのパッケージはこんな感じです。
これが日本のDVDになると・・・、
もうハッキリいって詐欺ですね。でも良い映画ですよ。DVD持ってますし。
第4部は「冷戦時代のアジア騒乱」で、朝鮮戦争やベトナム戦争が主たるターゲット。
特に有名な映画が多いベトナムもの、それらはすべて載っているといって良いでしょう。
あの映画ってベトナム戦争だったの?? なんてことにはならないですから、
今回はザックリ割愛しちゃいます。
ちなみに個人的No.1は、「フルメタル・ジャケット」(1987)じゃなくて、「プラトーン」(1986)です。
定番すぎてスイマセン・・。
そういえば「鷲は舞いおりた」(1976)はなかったような・・? フィクションだからかな。
まぁ、原作と俳優陣は完ぺきなんですが、悲しいかなテンポと迫力に欠ける映画なんですよねぇ。
また好きな戦争映画のひとつに「ブラックホーク・ダウン」(2001)があり、
冷戦の終わった1993年のソマリアが舞台と、20世紀にも関わらず、本書の対象外でした。
おっとコレ原作ありましたか。今度、読んでみよう。
戦争映画を評価するとき、それが史実かどうか、兵器や軍装の考証は正しいか?
といったことをまず第一に重要視する人がいますが、
戦争映画といっても「娯楽映画」の範ちゅうにあるジャンルのひとつであって、
映画という意味では、脚本(ストーリー)、演技、監督の思惑(脚色)、
次にテンポの良いカットなどの編集、名作映画に付きものの音楽が重要だと考えます。
あくまで、観終わって「いや~、映画ってホントに良いもんですねぇ」と思える映画が名作であり、
戦争映画もドキュメンタリーでない限り、そのように評価されるべきだと・・。
史実かどうか、軍装は・・? などというのは個人的にオプションであり、
2回目の鑑賞以降にチェックする程度ですから、その2回目すら観る気にならなければ、
どれだけ頑張ってる映画でも確認のしようがありません。
そういう意味で「大脱走」も「戦場にかける橋」も映画として素晴らしい作品だと思います。
もちろん戦争映画ですから、戦闘シーンがあまりにショボければ興ざめになりますけど、
予算の関係もありますし、当時を完全に再現するのは大変です。
その筆頭が「バルジ大作戦」でしょう。
まぁ、現存するケーニッヒスティーガーが無いんだから、アレはアレで良いと思いますね。
もし今、あの映画をリメイクするなら、CGをタップリ使った迫力あるシーンになるでしょうが、
ロバート・ショウ演じるヘスラー大佐を筆頭に、今の役者さんたちでアレを超える映画になるかは?
より史実に忠実にと、ヨッヘン・パイパー似の可愛い顔したヘスラー大佐なんて嫌だしなぁ。
というわけで、本書は「あの戦いは映画になってるのかな?」という風に調べるガイドブックです。
このようなことから、結果的に観たい映画がかなり増えてしまいました。
あの映画ってこんな内容だったのね・・的な、目から鱗のパターンですね。
当然ながら、本書を期待外れと立腹する人もいるでしょう。
戦争の世界史を知りたいんじゃなくて、映画の中身、☆での評価を求める人ですが、
残念ながら本書はそのような人向きではありませんので注意が必要です。。
巻末に「さくいん」があったので、ざっと見たところ「350本」くらいが紹介されているようですね。
また最後に「戦争映画をより深く知りたいと思った読者の方に・・」と参考書籍を挙げていました。
このBlogでも紹介した本が何冊かありますので、抜粋してみましょう。
「第二次世界大戦ブックス」・・一部に古くなった情報もあるが内容は今尚、色褪せない。
「ヒトラーの戦い①~⑩」・・ヒトラーを軸に描いた大作。欧州戦線を掴むにはこの1本で充分。
「誰にも書けなかった戦争の現実」・・最前線兵士の心理を扱った、必読のドキュメント。
「電撃戦という幻」・・フランス戦の真相を軍事サイエンスから分析した大作で、必読。
「最強の狙撃手」・・軍事作戦における狙撃兵の戦術/目的を教えてくれる好著。
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ナチスの財宝
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-07-04
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。篠田 航一 著の「ナチスの財宝」を読破しました。5月に出たばかりの256ページの本書は、「ヒトラーが強奪した「消えた宝」を追え!略奪美術品から読み解くナチスと戦後ドイツの裏歴史。」という煽り文句です。この手の本はそれなりにあって、以前に「ヒトラー第四帝国の野望」を読んでますが、今回は聞いたことのない「ロンメル将軍の秘宝」というのに興味を惹かれました。毎日新聞社のベルリン特派員を2011年から最近までの4年間務めていた著者によるというのも、その気になった要因の一つです。第1章は「『琥珀の間』を追え」。2014年7月、ポツダム警察の元首席捜査官シュールタイスから話を聞く著者。それは1997年、ブレーメンで「琥珀の間」のモザイク画を売りたいという人物と接触し、最終的に真作と鑑定されたその絵を押収したという経緯です。プロイセン王フリードリヒ1世によって作成が始まり、その後、エカテリーナ宮殿へ寄贈された「琥珀の間」。1941年にレニングラードに侵攻したドイツ軍によって、ケーニッヒスベルク城へ移されたものの、大戦末期の連合軍の空爆によって焼失した・・という歴史も紹介しながら進み、1941年に略奪された「琥珀の間」に飾られていた装飾品であるモザイク画のひとつ、「嗅覚と触覚」が現存するならば、本体もいまだどこかに隠されているのでは??戦後、ソ連はすぐに「琥珀の間」の保管責任者でケーニッヒスベルクの博物館長ローデを尋問。しかし「空襲で燃えてしまった」の一点張りで、12月には謎の死を遂げているのです。そして著者は「琥珀の間」の探索を続ける人々を尋ねながら、その行方を追って行くのです。空襲前に疎開したと噂される「琥珀の間」。疎開先として一番怪しいのはザクセンです。東ドイツ時代には秘密警察シュタージも、親分であるソ連の要望を受けて大々的に捜査。東西のドイツ人が追い求める宝、その謎に近づいた人間は無残な死体となって発見・・。第2章は「消えたコッホ・コレクション」で、好きな方はコレだけで続きだと解りますね。ドイツ統一後の1991年に訪独してきたエリツィンは、記者会見で「琥珀の間は実在する」と発言。チューリンゲンにある「ヨナス谷」がその発言の候補地です。終戦間際、崖の斜面のあちこちにナチスによって25か所ものトンネルが掘られたというこの谷。ブッヘンヴァルト強制収容所などから1万人以上が危険なトンネル工事に駆り..
ナチ/ヒトラー
ヴィトゲンシュタイン
2015-07-04T19:54:27+09:00
篠田 航一 著の「ナチスの財宝」を読破しました。
5月に出たばかりの256ページの本書は、「ヒトラーが強奪した「消えた宝」を追え!
略奪美術品から読み解くナチスと戦後ドイツの裏歴史。」という煽り文句です。
この手の本はそれなりにあって、以前に「ヒトラー第四帝国の野望」を読んでますが、
今回は聞いたことのない「ロンメル将軍の秘宝」というのに興味を惹かれました。
毎日新聞社のベルリン特派員を2011年から最近までの4年間務めていた著者による
というのも、その気になった要因の一つです。
第1章は「『琥珀の間』を追え」。
2014年7月、ポツダム警察の元首席捜査官シュールタイスから話を聞く著者。
それは1997年、ブレーメンで「琥珀の間」のモザイク画を売りたいという人物と接触し、
最終的に真作と鑑定されたその絵を押収したという経緯です。
プロイセン王フリードリヒ1世によって作成が始まり、その後、エカテリーナ宮殿へ
寄贈された「琥珀の間」。1941年にレニングラードに侵攻したドイツ軍によって、
ケーニッヒスベルク城へ移されたものの、大戦末期の連合軍の空爆によって焼失した・・
という歴史も紹介しながら進み、1941年に略奪された「琥珀の間」に飾られていた
装飾品であるモザイク画のひとつ、「嗅覚と触覚」が現存するならば、
本体もいまだどこかに隠されているのでは??
戦後、ソ連はすぐに「琥珀の間」の保管責任者でケーニッヒスベルクの博物館長ローデを尋問。
しかし「空襲で燃えてしまった」の一点張りで、12月には謎の死を遂げているのです。
そして著者は「琥珀の間」の探索を続ける人々を尋ねながら、その行方を追って行くのです。
空襲前に疎開したと噂される「琥珀の間」。疎開先として一番怪しいのはザクセンです。
東ドイツ時代には秘密警察シュタージも、親分であるソ連の要望を受けて大々的に捜査。
東西のドイツ人が追い求める宝、その謎に近づいた人間は無残な死体となって発見・・。
第2章は「消えたコッホ・コレクション」で、好きな方はコレだけで続きだと解りますね。
ドイツ統一後の1991年に訪独してきたエリツィンは、記者会見で「琥珀の間は実在する」と発言。
チューリンゲンにある「ヨナス谷」がその発言の候補地です。
終戦間際、崖の斜面のあちこちにナチスによって25か所ものトンネルが掘られたというこの谷。
ブッヘンヴァルト強制収容所などから1万人以上が危険なトンネル工事に駆り出され、
建築技師の調書によれば、SS将校カムラーがトップ・シークレットで命じたモノだと・・。
ココは「SS将校カムラー」が引っかかりますね。あのSS大将ハンス・カムラーのことだとすれば、
V2ロケット生産を監督したり、自殺説はあるものの、行方不明とされている謎の多い人物ですし、
もちろんもこのトンネルは「報復兵器」などの製造工場にしようとした可能性もあるでしょうが・・。
そしてこの章の主役、エーリッヒ・コッホが登場・・・。
ケーニッヒスベルクのある東プロイセンのガウライターであり、ウクライナ総督時代には、
その占領地の美術館や教会から多くの絵画、高価な絨毯、銀製品に聖人の遺品・遺骨などの
「聖遺物」まで略奪した、美術品蒐集家です。
その彼のコレクションが保管されたのがケーニッヒスベルク。
しかし1945年にソ連軍が踏み込んだときには、琥珀の間も、「コッホ・コレクション」も行方不明。
戦後、逮捕されたコッホはポーランドで死刑を宣告されるものの、終身刑へと減刑。
ポーランドとソ連の執拗な尋問に対し、「私を釈放するなら、ありかを教える」と
司法取引を持ち出し、1986年、口を割らぬまま、90歳で息を引き取るのです。
そしていまだに候補地が絞りきれないこれらの隠し場所。16ヵ所もの候補地が存在し、
そのなかには撃沈され、海底に沈んだままの「ヴィルヘルム・グストロフ号」も含まれます。
財宝の発見は、いわゆるトレジャーハンターの活躍にかかっているわけですが、
もし発見した場合、持ち主に返還されるという問題もあるわけです。
先のモザイク画も2000年にロシアへ返還され、復元された「琥珀の間」に飾られたそうで、
仮にドイツ政府が力を入れて予算を組んだとしても、本物を見つければロシアへ還すだけ・・。
第3章は「ナチス残党と闇の組織」と題して、ヒトラーの死の真相から、逃亡したアイヒマン、
ナチス狩りのヴィーゼンタールに、フォーサイスの「オデッサ・ファイル」などを紹介。
興味深かったのはアルゼンチンへ逃亡した戦犯はドイツ人だけでなく、
クロアチアの「ウスタシャ」の連中も含まれている・・というところですね。
イタリアの南チロル、ブレンナー峠の町を訪れた著者。ユダヤ博物館の館長は、
「あのメンゲレが来た。SS大尉プリーブケも来た。そんな史実を誇らしげに話す人もいます」。
お尋ね者の有名戦犯が滞在したことを、どこか誇りに思う住民感情って面白いですね。
ただ、メンゲレはわかっても「SS大尉プリーブケ」を名前だけでも知ってる人って
どれほどいるんでしょうか? 335人を殺害した「アルデアティーネ洞窟」の指揮官ということは
書いても良いんじゃないかな・・と。
そして「ベルンハルト作戦」で偽造した贋札を保管していたSS少佐フリードリヒ・シュヴェントが
滞在した町や、「オラドゥール村の大虐殺」のSS中尉、ハインツ・バルトが滞在した町も訪問。
あ~、「ヒトラーの贋札」を久しぶりに観たくなってきました。
第4章は、いよいよ「ロンメル将軍の秘宝」。
戦後語り継がれてきた噂の一つに「ロンメルの部下が北アフリカでユダヤ人から財宝を略奪し、
どこかに隠した」という伝説がある・・・ということですが、そうですか。初めて聞きました。。
そしてこうした戦利品をコルシカ島沖に沈めたという元ドイツ兵、キルナーという人物が現れ、
財宝を探したという話を紹介します。
このキルナーはかなりの嘘つきかつ、すでに死去しているので、特に進展はありませんが、
ロンメルの財宝と呼ばれるものは、どこから運ばれてきたのかに注目するのです。
パリのユダヤ現代史文書センターの文献には、
「1943年2月13日、チュニジア東部のユダヤ人が多く住む、ジェルバ島にドイツ人たちが上陸し、
処刑すると脅して集めた43キロの黄金を持ち去った」。
この略奪品を900㌔も離れたコルシカ島に運んだ人物として浮上するのが、
SS大佐ヴァルター・ラウフ。チュニスなどでも金細工や装飾品を奪っているというラウフは、
アウシュヴィッツのガス室の原型となる「ガス・トラック」を開発した中心人物であり、
ラウフの関与で殺害されたユダヤ人は最大で20万人。筋金入りの殺人狂が略奪を指揮した・・
と紹介。まぁ、「ガス・トラック」の開発に関与したからって、それを「殺人狂」と言うかは??
そしてこのラウフが治安警察の責任者としてコルシカ島にいたことや、
1942年7月にエル・アラメイン付近で、ロンメル将軍の参謀ヴェストファールと会談し、
自身の任務を説明していることまで突き止めますが、
ラウフとロンメルが会ったことはないだろう・・と推測します。
ラウフは戦後、収容所から脱走し、シリアやチリで生活。西ドイツ政府は戦犯として追跡しつつも、
実はスパイとして雇い、キューバ情勢を探らせるのでした。
最後の第5章は、「ヒトラー、美術館建設の野望」。
007「ゴールドフィンガー」で、Mから「トブリッツ湖にあったナチスの金塊だ」と渡され、
それをエサにボンドがゴールドフィンガーと賭けゴルフをする前半のエピソードを紹介し、
あれはイアン・フレミングの作り話ではなかったという展開です。
オーストリア中部にあるトプリッツ湖は「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台になった辺りでもあり、
夏場は観光地というこの湖に1945年5月8日、「何かを沈めた」と言う人物との接触に成功。
SSがやって来て70もの木箱の運搬を手伝わされたと語る老婆。
トプリッツ湖を実際に見た著者はその大きさに「上野の不忍池」を思い出します。
なんでも実家の近くだそうで、ありゃりゃ、ひょっとしたらご近所さんですね。。
そして1959年、この木箱が引揚げられ大ニュースとなりますが、
肝心の金塊は発見されず、そこにはあの大量の贋札が・・。
その他、オーストリアの湖水地方には金塊伝説が多くあり、
フシェル湖の湖畔にはリッベントロップの別荘があって、夫人から命令を受けた管理人が、
金貨などが詰まったタンクを湖に沈めた・・とか、
エーデン湖ではスコルツェニーが多くの木箱を沈めたのを目撃されていたり、
カルテンブルンナーが終戦間際にアルトアウスゼー湖畔に滞在し、
逃走資金として、大量の純金の延べ棒やダイヤモンドをワゴン車に積んでいたとか・・。
ブランデンブルク州のシュトルプ湖には、ゲーリングが金やプラチナなどの貴金属類を沈めた
という伝説もあるそうで、そういえば迫りつつあるソ連軍が到着する前に
HG師団の分遣隊がカリンハルを爆破したなんて話を思い出しました。
本書では序盤から「ナチスが略奪した」という表現で進んできましたが、ここにきて、
「実はヒトラーは自ら金を支払って、絵を購入したことも多いのです」という証言が出てきました。
まぁ、ゲーリングでもその他の幹部でも、多少なりともお金を払って購入したのは事実でしょう。
特に戦争初期の頃、ユダヤ人の画商を仲介したりなんて話もありましたが、
フランスでも気を遣い、逆に東部戦線では容赦ない「強奪」だったと思いますね。
そしてそんなヒトラーが夢見たのが、故郷リンツをウィーンを凌ぐ芸術の都にして、
総統のための「リンツ美術館」をオープンすることだったのです。
しかしドイツ国内の空襲が激しくなると、集められていた総統の財宝が焼失することもあり、
ボルマンの命令によって、「芸術品疎開」が始まります。
大ドイツ帝国内の各地に疎開したこれらの財宝の多くは現在も行方不明のまま・・。
それでも1945年5月、米軍によってアルトアウスゼーの坑道から大量の美術品が押収されます。
油彩だけでも6577点・・。しかし行方不明の美術品の数は「10万点」にも及ぶそうです。
「ミケランジェロ・プロジェクト」というジョージ・クルーニーの映画が紹介されましたが、
原作は「ナチ略奪美術品を救え─特殊部隊「モニュメンツ・メン」の戦争」だったんですねぇ。
530ページの大作なので未読でしたが、映画も未見で・・こりゃイカンなぁ。。
と思ったら、なんらかの理由で日本では公開中止になったそうな・・、まさかオデッサの圧力か??
正直、Webの記事の見出しのような、ちょっと大袈裟な表現もありましたが、
研究書ではなく、ジャーナリストによる趣味のルポルタージュですから、
ワーワー言うほどのことではないでしょう。
ターゲットは一般のナチスに少し興味がある程度の人でしょうし、
最後まで興味を持たせ続けるには、ある程度しょうがない表現と言えるかもしれません。
逆に現地での足で稼いだ調査、ドイツ語の参考文献も巻末に挙げられ、
単なる2次、3次史料から机上で推理した中途半端な研究書よりは好感が持てました。
ヴィトゲンシュタインも未読の、この手の本としては「ナチの絵画略奪作戦」、
「ヨーロッパの略奪―ナチス・ドイツ占領下における美術品の運命」、
先に挙げた「ナチ略奪美術品を救え─特殊部隊「モニュメンツ・メン」の戦争」と3冊はあります。
どれもハードカバーで500ページ程度の大作なので、なかなか手を出しづらいんですよね。
興味とお金のある方は、ぜひ挑戦してみてください。
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暁の出撃
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-06-27
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。ポール・ブリックヒル著の「暁の出撃」を読破しました。6年前の「暁の七人」に続く、独破戦線「暁」シリーズの第2弾が遂にやってまいりました。しかし「暁」って最近、聞かないですねぇ。夜明けとか日の出と言うよりも風情がありますな。そんなことは置いておいて、この1991年、朝日ソノラマの364ページの原著の出版は、その40年前、1951年と大変古いもので、著者が前年に発表したのがあの「大脱走」。本書「暁の出撃」は、一足早い1955年に映画化もされている有名な一冊で、英空軍特殊爆撃隊によるドイツのダム破壊任務の全貌を生々しく描いたもの。原題はズバリ、「ダム・バスターズ」です。物語は1939年に戦争が始まったころ、ピッカース社でウェリントン爆撃機を設計したベテラン、バーンズ・ウォリス技師が爆弾の設計に携わるところから・・。当時、英空軍が保有していた最大の爆弾は旧式な250㌔爆弾であり、より大型の500㌔爆弾の重要性も認識され始めます。ウォリスは思考の出発点として、ドイツに損害を与えるには「どこ」を「どのように」爆撃するか?エネルギー供給源である炭坑や油田、水力発電所・・。その研究はルール地方の三大ダム、メーネ、エーデル、ゾルベをターゲットとして、10㌧の爆弾を高度1万2200mから投下することで破壊可能と計算されるのでした。しかし、時はダンケルク撤退であり、このような新兵器案は空軍関係者から嘲笑されます。アーサー・テッダー少将とビーヴァーブルック卿が興味を持ち、「ダム空襲委員会」も設立され、模型を使ったテストを繰り返す日々。ダム自体に着弾させるのではなく、ダムの壁面ギリギリの水中に沈めた爆弾が爆発することで、ダムに破孔を生じさせることが判明すると、爆撃機軍団司令官ハリス中将と対面。「貴様のような頭のイカれた発明家に割く時間など持ち合わせておらんのだ。部下たちを貴様のおかしな爆弾投下で無駄死にさせるわけにはいかんのだ!」テスト結果を見てなんとか納得したハリス。胴回り2mの新型爆弾の開発が始まると、コクレーン少将の第5爆撃航空群に、「X」特別飛行隊を編成することとなり、隊長に任命されたのは25歳のガイ・ギブソン中佐。歴戦の爆撃機野郎です。しかし目標は極秘・・。ギブソンは思わず「ティルピッツだ!」練度の高い搭乗員が各飛行隊から集められ、正式に「第617中隊」として猛訓練が始まります。夜間に水上を速度..
戦争映画の本
ヴィトゲンシュタイン
2015-06-27T11:19:31+09:00
ポール・ブリックヒル著の「暁の出撃」を読破しました。
6年前の「暁の七人」に続く、独破戦線「暁」シリーズの第2弾が遂にやってまいりました。
しかし「暁」って最近、聞かないですねぇ。夜明けとか日の出と言うよりも風情がありますな。
そんなことは置いておいて、この1991年、朝日ソノラマの364ページの原著の出版は、
その40年前、1951年と大変古いもので、著者が前年に発表したのがあの「大脱走」。
本書「暁の出撃」は、一足早い1955年に映画化もされている有名な一冊で、
英空軍特殊爆撃隊によるドイツのダム破壊任務の全貌を生々しく描いたもの。
原題はズバリ、「ダム・バスターズ」です。
物語は1939年に戦争が始まったころ、ピッカース社でウェリントン爆撃機を設計したベテラン、
バーンズ・ウォリス技師が爆弾の設計に携わるところから・・。
当時、英空軍が保有していた最大の爆弾は旧式な250㌔爆弾であり、
より大型の500㌔爆弾の重要性も認識され始めます。
ウォリスは思考の出発点として、ドイツに損害を与えるには「どこ」を「どのように」爆撃するか?
エネルギー供給源である炭坑や油田、水力発電所・・。
その研究はルール地方の三大ダム、メーネ、エーデル、ゾルベをターゲットとして、
10㌧の爆弾を高度1万2200mから投下することで破壊可能と計算されるのでした。
しかし、時はダンケルク撤退であり、このような新兵器案は空軍関係者から嘲笑されます。
アーサー・テッダー少将とビーヴァーブルック卿が興味を持ち、「ダム空襲委員会」も設立され、
模型を使ったテストを繰り返す日々。
ダム自体に着弾させるのではなく、ダムの壁面ギリギリの水中に沈めた爆弾が爆発することで、
ダムに破孔を生じさせることが判明すると、爆撃機軍団司令官ハリス中将と対面。
「貴様のような頭のイカれた発明家に割く時間など持ち合わせておらんのだ。
部下たちを貴様のおかしな爆弾投下で無駄死にさせるわけにはいかんのだ!」
テスト結果を見てなんとか納得したハリス。胴回り2mの新型爆弾の開発が始まると、
コクレーン少将の第5爆撃航空群に、「X」特別飛行隊を編成することとなり、
隊長に任命されたのは25歳のガイ・ギブソン中佐。歴戦の爆撃機野郎です。
しかし目標は極秘・・。ギブソンは思わず「ティルピッツだ!」
練度の高い搭乗員が各飛行隊から集められ、正式に「第617中隊」として猛訓練が始まります。
夜間に水上を速度386㌔、高度18mで飛び、正確に爆弾を投下する・・。
これがウォリス技師がギブソン隊長に与えた難題です。
ダム爆破に使用する「反跳爆弾」が爆発せずに正しい運動をしたうえで、壁面下に達するよう、
高度が重要であり、アブロ・ランカスター下部2ヵ所にスポットライトを取り付けます。
2本のビームが機体の下18mで交わることで、高度を知ることができるのです。
1943年5月、遂に「チャスタイズ作戦」の日がやってきました。
メインとなるギブソンの9機編隊が南方から侵入し、メーネ・ダムを攻撃。
その後、未投弾の爆撃機はエーデル・ダム攻撃に移り、
北方ルートをとる5機編隊はゾルベ・ダムを攻撃し、機動予備として5機編隊が遅れて発進。
ゾルベ・ダム攻撃は途中、対空砲火による撃墜などもあって失敗に終わりますが、
ギブソン隊長機はメーネ・ダムに突撃。水上面を高度18mで突き進むと、
ドイツ軍高射砲陣地もビームを放ちながら接近する敵機の姿を認め、
無数の曳光弾が飛び交います。
見事、爆弾を投下して、ダムの上に設置されたタワーの間を飛び抜けて急上昇。
そして重苦しい爆発音とともに巨大な水柱が・・、その高さ300m。
しかしダムは破壊されません。
続けて「M号機」が突入しますが、高射砲弾が命中し、爆弾も外れ、主翼も吹っ飛んで墜落・・。
空中で旋回待機しながら、一機ごとに突入を繰り返すと、遂に破壊されるダム。
司令部で一報を受けたウォリスは大喜びで、ハリスもその手を取って顔をほころばせるのです。
エーデル・ダムへの攻撃も成功し、結果は2勝1敗。
無事に帰還してビールを飲み干すギブソンですが、出撃した133名のうち、未帰還が56名。
ビールに口もつけず、涙を拭きながら立ち尽くすのは民間人であるウォリス技師。
「こういうことを知っていたら、私はこの計画を推し進めなかったろう」。
この水上スレスレを一機一機が対空砲火をくぐり抜けながら飛んで、ピンポイントで爆弾を落とし、
最終的にダムが決壊するシーン。迫力があって、読んでいてそれとなく感じていましたが、
あの「スター・ウォーズ」のクライマックス、デス・スターを破壊するシーンの元ネタだそうです。
なるほどねぇ。もっとも映画「暁の出撃」のシーンのオマージュらしいですけれど、
本書だけでも十分に伝わってきました。
ちなみにこの映画には隊長機副操縦士役で、若きロバート・ショウが出演しています。
ますます観てみたくなりました。ヘスラー大佐になる10年前ですね。
ドイツ側の損害を見てみると、ダムから80㌔も離れた炭坑すら水に浸かるほどの洪水によって、
飛行場浸水、25か所の橋梁も押し流され、6500頭の牛や豚が死に、軍需工場も大打撃。
なにか「3.11」の地震と津波を彷彿とさせますねぇ・・。
そして1300人の死者のうち、749人がドイツ人ではなかったそうです。
なぜならエーデル・ダムの下流に、ソ連兵の収容所があったから・・。
国王と皇后がお祝いに一躍有名となったダム爆撃隊を訪問。
ギブソンは飛行隊の記章コンテストを実施しており、閲兵式後に陛下に依頼します。
そして皇后も交えた厳正なる協議の結果、1枚のスケッチが選ばれます。
それはダムの中央部に裂け目が生じて水を噴出し、上には電光が煌めいている図柄。
こうして今でも「第617中隊」のエンブレムとして使われているわけですね。
さて、ここまでクライマックスのデス・スターならぬ、ドイツのダムを破壊して152ページ。
本書はまだまだ続きます。
スッカリ気を良くしたハリス中将によって第617中隊は特別任務部隊とされ、
今後は陸軍、海軍からダムに艦船、その他の硬目標を叩けとの要望があれば出撃・・と。
ギブソン中佐は充分働いた・・と飛行任務から外され、新たな隊長がやって来るのです。
英空軍最年少の大佐、レオナード・チェシアは25歳。
ウォリス技師がもともと考えていた大型爆弾もようやく完成。
長さ6.4m、重量5462㌔の「トールボーイ」です。
この爆弾は「地震爆弾」とも言われ、建造物等に直撃させることが必要ということではなく、
20m以内の弾着であれば、地表深くから爆発によって建造物を基礎から壊してしまうのです。
初陣は連合軍のノルマンディ上陸後すぐにやって来ました。
情報機関の報告によれば、ドイツ軍は1個装甲師団をボルドーから列車で輸送中とのこと。
ならばその前にロワール川付近のサウマー・トンネルを通過できなくしてしまえ・・というわけで、
投下されたトールボーイは地中30mまでめり込んでから炸裂。結果は上々。
結局、通れなかった装甲師団ってなんでしょうね? ダスライヒかな??
ル・アーブルのEボート基地への攻撃が終わると、
ロンドンとノルマンディに落下し始めた「V1飛行爆弾」と、「V2ロケット」の情報が・・。
パ・ド・カレー近郊の巨大な建造物。コンクリートの厚さは6mと推定されます。
また、パリ近郊の洞窟には膨大な量の「報復兵器」が貯蔵されているとの情報から
この洞窟そのものを潰してしまおうと出撃を繰り返します。
その翌日の目標はミモイエック。
地中に隠された砲身長153mの「V3-ムカデ砲」の退治にも成功。
300名の基地要員も生き埋めです。
ブレストにロリアンといったUボート好きお馴染みのブンカーにも「トールボーイ」が降ってきます。
5㌧爆弾「トールボーイ」に自慢のコンクリート天蓋をぶち抜かれたドイツ軍は、
ならばと、ハンブルク、ブレーメンのUボート・ブンカーの天蓋を5mから9mの厚さへ・・。
すると、今度はより強力な10㌧爆弾「グランドスラム」の開発が始まるのです。
すでに昼間もドイツ空軍の迎撃に対する心配もなくなり、堂々と編隊を組んで精密爆撃も可能。
もはや目標も減り、中隊最初の目標と勘違いされた戦艦ティルピッツがターゲットに・・。
しかし、ノルウェー北端のフィヨルドに鎮座するティルピッツを攻撃、帰還するのには
燃料が足りません。そこでロシアとの共同作戦が計画され、
アルハンゲリスクから32㌔ほどの場所にあるヤゴドニク飛行場を発射基地にすることに。
南京虫が這いずり回り、汚水のひどい臭いのする宿舎で3日間待機・・。
端折りますが、この英露パイロットの交流エピソードはなかなか面白かったですねぇ。
この頃にはファウキエ隊長に代わり、ポケット戦艦「リュッツォー」を仕留めに向かいますが、
強力な高角砲、対空砲火は凄まじく、18機すべてが命中弾を受けたかのよう・・。
撃墜されるランカスターも出始めますが、この最後の最後になって、ドイツ海軍の大奮戦。。
思わずニヤニヤしてしまいました。だってやられっぱなしでしたからねぇ。
そういえば「第二次大戦下ベルリン最後の日」では、「袖珍戦艦リュッツォウ号撃沈サル」。
ブレーメンなどのブンカーにも完成した「グランドスラム」を叩き込み、見事に天蓋を貫通。
しかし英海軍省は「貫通した」ことを信じておらず、ハリスはファウキエ隊長に現地視察を指示。
ハンブルクのドックに向かったファウキエと通訳がその威力による荒廃ぶりを眺めていると、
ドイツ水兵が「指揮官の許へおいで願えないでしょうか」とやってきます。
すると200名のドイツ海軍将兵が整列しており、指揮官が敬礼した後、降伏を申し出ます。
コレにはファウキエもビックリ仰天。
なぜなら、この周辺はとっくに降伏した安全地帯だと思っていたからです。
しかもファウキエがこのUボート・ブンカーを爆砕した張本人の爆撃隊長だと
通訳が余計なことまで告げてしまい、身の危険すら感じてしまうファウキエ・・。
しかし指揮官は「貴官の指揮された見事な爆撃ぶりに敬意を表します」。
その爆撃によって多くの部下を失っている傷心のドイツ海軍指揮官は、
沈みかけた貨物船での昼食にファウキエを招待するのでした。
ヨーロッパでの戦争はこうして終わり、隊員たちにも休暇が・・と思いきや、
対日戦略爆撃英空軍航空隊として、九州に上陸する米軍を援護するために
トールボーイとグランドスラムを本州と九州を結ぶ交通線に投下するという任務が・・。
しかしそれより遥かに強力な爆弾が広島と長崎に投下されるのでした。
本書は原題の「ダム・バスターズ」からイメージする「チャスタイズ作戦」に限定したものではなく、
第617中隊のニックネームが「ダム・バスターズ」であり、その部隊の終戦までの戦闘記録です。
ついでに言うと、夜間爆撃なのに「暁の出撃」というのも若干変な話で、
あえて言うなら「暁の帰還」ですかね。。
著者ブリックヒルの原作で映画化されたのがもう1本ありました。
1956年に公開された「殴り込み戦闘機隊」がソレで、義足のパイロットとして知られる
ダグラス・バーダーの伝記映画であり、監督は「暁の七人」のルイス・ギルバート。
コチラも未見ですが、ドイツの捕虜になってガーランドと親交を深めるシーンがあるのかどうか、
ちょっと気になりますね。
原作も読んでみたいところですが、未訳でした。残念!
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ナチスと精神分析官
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-06-18
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。ジャック・エル=ハイ著の「ナチスと精神分析官」を読破しました。今年の3月に出た340ページの本書の煽り文句はこんな感じです。「ナチスの心は本当に病んでいたのか? ニュルンベルク裁判に先立ちゲーリングなど最高幹部を診断した米軍医が見た「悪の正体」とは? 戦後70年間埋もれていた記録を発掘した迫真のノンフィクション! 映画化決定」まぁ、映画化するぞ詐欺は多いのでアレですが、一応、出版社は角川マガジンズ。主役の精神分析官が、以前に読んだ「ニュルンベルク軍事裁判」でも頻繁登場したダグラス・ケリー少佐だということもあって、いざ、4度目のニュルンベルクへ向かいましょう・・。「その飛行機、パイパーL-4は動かなかった。」という出だしで始まります。前々日に米軍の捕虜となったものの、このスター捕虜に対する歓迎会が第7軍本部で開かれ、シャンパンを飲み、写真撮影のポーズを決め、記者会見まで開いていたゲーリングが重すぎて・・というのが理由であり、より馬力のあるL-5の乗せても、その腹ではシートベルトが締まらず。。結局、プール・ル・メリット拝領者でかつてのエース・パイロットにはシートベルトなんぞ問題なし。辿り着いたアウグスブルクでは特権を剥奪され、希望するアイゼンハワーとの会談も無視。反ナチの弟、アルベルトと最後の会話を交わすことができますが、金とプラチナ、そして640個のダイヤモンドが埋め込まれた象牙の元帥杖を取り上げられてしまうのです。5月20には再び移送。ルクセンブルクのモンドルフ=レ=バンに米軍が設立した収容所です。次々とやってくるナチス要人たち。大統領デーニッツに、捕虜になってから2度の自殺を試みたハンス・フランク。飲食物には興味を示さない一方で、執拗に女を要求するロベルト・ライに、ローゼンベルク。それからシャハト、シュトライヒャー、OKW総長カイテルに、「彼の副官」ヨードル・・。ちゃちなテーブルと椅子、枕のないベッドがあるだけの部屋。その椅子はゲーリングが腰掛けるやいなやバラバラに・・。所長のアンドラス大佐は語ります。「捕虜が上に乗って首を吊らないように壊れやすく作られていた」。こんな待遇にドイツの最高幹部、かつ元帥として、怒りに震えるほどだと文句を言うゲーリング。国家元帥の経歴についても簡単に触れ、徐々にヒトラーに対する影響力が減った過程や、最終的に処刑命令が実行されず、命拾いした理由をこの..
ナチ/ヒトラー
ヴィトゲンシュタイン
2015-06-18T20:07:44+09:00
ジャック・エル=ハイ著の「ナチスと精神分析官」を読破しました。
今年の3月に出た340ページの本書の煽り文句はこんな感じです。
「ナチスの心は本当に病んでいたのか? ニュルンベルク裁判に先立ち
ゲーリングなど最高幹部を診断した米軍医が見た「悪の正体」とは?
戦後70年間埋もれていた記録を発掘した迫真のノンフィクション! 映画化決定」
まぁ、映画化するぞ詐欺は多いのでアレですが、一応、出版社は角川マガジンズ。
主役の精神分析官が、以前に読んだ「ニュルンベルク軍事裁判」でも頻繁登場した
ダグラス・ケリー少佐だということもあって、いざ、4度目のニュルンベルクへ向かいましょう・・。
「その飛行機、パイパーL-4は動かなかった。」という出だしで始まります。
前々日に米軍の捕虜となったものの、このスター捕虜に対する歓迎会が第7軍本部で開かれ、
シャンパンを飲み、写真撮影のポーズを決め、記者会見まで開いていたゲーリングが重すぎて・・
というのが理由であり、より馬力のあるL-5の乗せても、その腹ではシートベルトが締まらず。。
結局、プール・ル・メリット拝領者でかつてのエース・パイロットにはシートベルトなんぞ問題なし。
辿り着いたアウグスブルクでは特権を剥奪され、希望するアイゼンハワーとの会談も無視。
反ナチの弟、アルベルトと最後の会話を交わすことができますが、金とプラチナ、
そして640個のダイヤモンドが埋め込まれた象牙の元帥杖を取り上げられてしまうのです。
5月20には再び移送。ルクセンブルクのモンドルフ=レ=バンに米軍が設立した収容所です。
次々とやってくるナチス要人たち。大統領デーニッツに、
捕虜になってから2度の自殺を試みたハンス・フランク。
飲食物には興味を示さない一方で、執拗に女を要求するロベルト・ライに、ローゼンベルク。
それからシャハト、シュトライヒャー、OKW総長カイテルに、「彼の副官」ヨードル・・。
ちゃちなテーブルと椅子、枕のないベッドがあるだけの部屋。
その椅子はゲーリングが腰掛けるやいなやバラバラに・・。所長のアンドラス大佐は語ります。
「捕虜が上に乗って首を吊らないように壊れやすく作られていた」。
こんな待遇にドイツの最高幹部、かつ元帥として、怒りに震えるほどだと文句を言うゲーリング。
国家元帥の経歴についても簡単に触れ、徐々にヒトラーに対する影響力が減った過程や、
最終的に処刑命令が実行されず、命拾いした理由をこのように・・。
「ゲシュタポ局長、カルテンブルンナーが書面による確認なしで命令を遂行するのを渋ったからだ」
薬物依存の治療をゲーリングが受けている頃、ヨーロッパ戦線で米兵の精神医療の責任者だった
ダグラス・ケリー少佐が赴任してきます。若くハンサムな彼の職務は、
ナチ収容者の最終的な処遇が決まるまで、彼らの精神面の健康を維持すること。
1923年のミュンヘン一揆の際、腿に銃弾を受け、モルヒネ中毒となって135㌔まで体重が増加。
グロテスクなほど太ってしまい、妻のカリンも苦しんだゲーリングは、
この時でも1日100錠のパラコディンを服用しており、ケリーは
「あなたは他の人より強いからやめられるはずだ」とおだてると、それに熱心に答えるゲーリング。
自分を国家元首だと考えるゲーリングが指示に従うことで、
専門化としてのプライドがくすぐられるケリー。
どっちがどっちを導いているのかはハッキリしませんが、5ヵ月で27㌔の減量に成功するのです。
また、カリンの死後、豪邸にカリンハルと名付けるなどしたのは、闘争時代に病気の妻を顧みず、
看取ることもできなかった自責の念がさせたもの・・という見解です。
8月にはまたも移送。今度の行先はニュルンベルクです。
トイレ用のバケツしかないC-47輸送機に乗り込んだナチ高官たちが押し黙るなか、
「コックピットを見せ入て欲しい」と訴えるのは、元ドイツ空軍総司令官です。
しかしニュルンベルクは40回の空襲で壊滅したままであり、
最初に修復が行われたグランド・ホテルにこれから始まる裁判に従事する人々が宿泊。
裁判所も屋根が崩れ、時計塔は崩壊しているものの、倒壊を免れている大きな建物のひとつ。
翼のような形に建てられた19世紀の刑務所の3つの区画に250人の男女の捕虜が収容され、
噂されているナチス・ゲリラの蜂起や、帝国の犠牲者による襲撃から守るため、
武装兵に戦車、高射砲が配置されているのです。
「先生、私はどうしたらいいんですか?どうしたらいいんですか?」とぶつぶつ独り言を言い、
独房の掃除が下手なことで有名だったというリッベントロップに、
逆に軍隊仕込みの徹底さで秀でた存在だったというカイテルも徐々に登場してきます。
ローゼンベルクは、酔っ払って関節を痛め、病院に運ばれたところを捕まります。
自分が罪を犯したとは全く考えておらず、どんな話も民族浄化に変えてしまうローゼンベルク。
ケリーの意見では、彼は「知的には無能で、曖昧模糊とした愚にもつかない哲学の宣伝屋」です。
知的な面でさらに信用が置けないのがシュトライヒャー・・。
話の最後には必ず「ユダヤ人問題」についての独白で締めるサディストで強姦魔、
猥褻雑誌と写真の蒐集家という評判から、群を抜いて仲間から相手にされない存在で、
デーニッツが、「食事の際、皆と同じテーブルにシュトライヒャーをつかせないでほしい」
という嘆願書をアンドラス所長に出すほどの嫌われようです。
そんな嫌われ者シュトライヒャーの近くにいることを我慢できた唯一の捕虜はロベルト・ライ。
ベルヒテスガーデンに近い山中の小屋に隠れていたところを捕まり、3回も自殺を図ります。
ケリーは何かしらの心理学的な欠陥があることを見抜きます。
「独房での話に興味を持つと、立ち上がり、うろうろと歩き、腕を振り回し、
乱暴なほど身振り手振りが大きくなって、叫び始めることが多かった」。
そしてライが第1次大戦時に乗っていた飛行機が撃墜され、前頭部に怪我を負ったことが
原因ではないかと推測するようになるのです。
恐ろしげな決闘の傷跡が刻まれた、と思いきや交通事故による傷だというカルテンブルンナー。
その外見とは裏腹に臆病な男だとケリーは判断します。
「典型的ないじめっ子で、政権の座にあるときは強面で横柄だが、
負けるとケチな臆病者になり、捕虜生活のプレッシャーに耐えることすらできない」。
しかしケリーが最も興味を抱くのは、捕虜のエースであるゲーリングです。
動物愛護に力を入れる一方で、政敵は容赦なく抹殺する自己中心的な人物。
古い仲間のレームを殺す命令を出したことについては、単に「彼は私の邪魔をした」。
ゲーリングは自分がヒトラーの手下ではなく、総統が誤った判断をしたとき、
それを指摘した数少ない一人だったことをケリーにアピール。
そんなゲーリングの心配事は、机に写真が飾られた妻エミーと愛娘エッダの行方・・。
ケリーとの面談を心待ちにし、スッカリ信頼関係の出来上がったころ、
ケリーは2人の行方を突き止めてゲーリングの手紙、エミーの返信を届け、
本書ではその内容も詳しく、最後にエッダが書き加えた一文までが書かれています。
10月、新たな捕虜がニュルンベルクにやって来ます。その名はルドルフ・ヘス。
英国に捕らわれていた間に2度の自殺未遂を起こし・・、
1回目は階段の手すりから身を躍らすも、階下に無様に着地して左腿の3ヵ所を骨折。
2回目は胸にパン切りナイフを突き刺し、「見ろ!自分の心臓を刺したぞ」。
しかし、なまくら凶器ではわずかに二針縫う怪我をしただけ・・。
そしてゲーリングと久々の対面を果たしても・・、
ゲーリング:「私を知らないのか?私のことがわからないのか?」
ヘス:「個人的には知りませんが、名前は覚えています」
こうしてゲーリングは「ヘスは完全に狂ってる」と断言し、
アンドラス所長は「イカサマ野郎」という見解。
そしてケリーは、長い間記憶喪失のフリをしているうちに、自分でもそう信じ込んでしまった・・と。
ケリーが好意的な印象を抱いた捕虜はデーニッツです。
友好的だが、距離を置き、鋭いユーモアのセンスを見せ、鬱の形跡はまったくなし。
英語力の向上に余念がなく、詩を読み、知性で感銘を与えます。
アンドラスに提出した精神分析報告書では、
「もっともバランスのとれた人格で、独創力、想像力、よい精神生活に恵まれた男。
後継者に彼を選ぶとは、ヒトラーはいい判断をした。
デーニッツには間違いなく指導者としての資質があり、適任だった」と断言。
「安楽死の仕事は無理強いされたのだ」と面談でおどおど抗議した内気で小柄なコンティ医師が
シャツの袖を首と窓の格子に巻き付けて自殺してしまいます。
続いて恐れていた事態、精神的に不安定だったライも便器に腰掛けたまま窒息死。
「脚は伸びたまま硬直し、顔は赤カブのように真っ赤で、眼は飛び出していた」。
この大失態に所長は監視体制を強化します。
各独房に1人の看守を置き、24時間の監視体制です。
そして次に自殺の恐れがあるのはメソメソしているカルテンブルンナー。
この頃、ケリーの通訳に代わってやって来たのがオーストリア系ユダヤ人のギルバート中尉です。
彼は単なる通訳ではなく、心理学者として勤務することを認められますが、
年下で階級が上のケリーとは合わないのか、1人で収容所内を歩き回り、捕虜と面談も・・。
自分がユダヤ人であることを告げ、故意に敵意を現すギルバートに対し、パーペンは嫌悪を抱き、
ゲーリングもケリーを好みます。そしてケリーとギルバートには意見交換や協調性もありません。
裁判が近づき、「絞首刑になることは分かっている。準備はできている。
たが、私はなんとしても、偉大な人物としてドイツの歴史に残る。
もし法廷を納得させることができなくても・・・」と語るゲーリング。
そして195ページから裁判の様子が描かれます。
ジャクソン検事とゲーリングの対決、解放された強制収容所のフィルム上映など、
過去に紹介したエピソードなので割愛しますが、1946年1月、
ケリーは自分の仕事は終わったと考え、カリフォルニアの家族の元へ帰るのでした。
彼の後任でやって来たのは「ニュルンベルク・インタビュー」のゴールデンソーンです。
判決が近づくと、ようやく待ちに待った家族との面会が許可されます。
エミーも娘を連れてやって来て、エッダの姿を見たゲーリングは感極まって泣き出すのです。
「大きくなったな・・」。
「東京裁判」にあった重光元外相の手向けの句を思い出しますねぇ。
そして死刑執行前日に、青酸カリを飲み下したゲーリング。。
米国で講義の準備をしていたケリーはその前日、報道陣に対して、
「ゲーリングは最期も立派に振る舞うはずだ。絞首台で彼が気弱になることはありえない」
と語っただけに自殺はショックです。
賞賛せずにはいられない指導者、彼にとって重要な患者であり、調査対象であり、
さまざまな形で結びついた友人の死・・。
一足早く帰国していたケリーは、「ニュルンベルクの二十二の独房」という本を書き上げますが、
出版はわずか300ドルでの契約。本で儲からないことがわかると、
その後、精神科医として活躍し、TV番組にも出演。
ギルバートも後発で「ニュルンベルク日記」を出版。この本についてシュペーアは
「驚くべき客観性で刑務所内の雰囲気を再現しており、彼の診断は概ね正確でフェアなものだ」。
1952年になってある抗議の手紙を受け取ったケリー。
それは「ニュルンベルクの二十二の独房」に書かれた女性からのもので、
彼女の名はクリスタ・シュレーダー。ヒトラーの元秘書のひとりです。
曰く、ケリーが彼女との対話は出版物には使わないという約束を破ったこと、
「40代後半の未婚女性であり、中背で、ずんぐりとした体形、だらしがなく・・」
という記述は、不正確で、思いやりがない・・というものです。
彼女に言わせれば、「6ヶ月も収監されていて女性が身だしなみを整えるのは不可能だ」。
身長は170㎝、もっとも重要なことは、当時、38歳だったということでしょうか??
ケリーが45歳のとき、仕事上でのプレッシャー、内面の腹立ちと失望、結婚生活の不和、
いろいろなストレスが重なった結果か、家族の前でゲーリングと同じ行為、
すなわち青酸カリのカプセルを飲み下して絶命・・。
ゲーリングとは彼にとって、彼の心中で、いったいどんな存在だったのか??
本書の主役はあくまでケリーであり、ナチス幹部は研究対象でしかありませんが、
表紙のハーケンクロイツの中がゲーリングであるように、彼らもタップリと書かれています。
ゲーリングを「6」とするなら、ヘスが「2」、ライが「1」、その他「1」といった割合でしょうか。
まぁ、精神分析っていうのも難しいものですね。
本書でもケリーとギルバートでは分析結果に違いが出ますし、対象者の各被告も
話しやすい好きな分析官か、そうでないかによって態度と発言も変わるわけです。
それでも特にゲーリングの当初の楽観的な考え方が徐々に変化していく過程、
現存するナチNo.1だという己のプライドを守るために裁判に挑んでいったという見解は
個人的に納得いくもので、後任の精神分析官ゴールデンソーン少佐の
「ニュルンベルク・インタビュー」を再読、比較してみたくなりました。
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ドイツ空軍装備大図鑑
https://ona.blog.ss-blog.jp/2015-06-09
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。グスタボ・カノ ムニョス著の「ドイツ空軍装備大図鑑」を読破しました。これまで「ドイツ軍装備大図鑑」、「ナチス親衛隊装備大図鑑」と続いてきた大型本シリーズ、今回は去年の9月に出た435ページの空軍ものをようやく・・。このシリーズはお値段1万円とお高いことは否めませんが、オールカラーで実に楽しめます。早速、目次を過ぎると、30㎝x20㎝級のマルセイユの美しいポートレートがいきなり出てきて、若干変な声をタメ息とともに発してしまいました。この大型本で見ると、映画俳優並みですね。そりゃ、キャーキャー言われるわな。。「序文」では本書の目的と特徴を解説。抜粋すると、「もっとも識別しやすい要素を簡単に概観することであり、装備や被服のすべてを深く考察したり、系統立てて紹介することではない。他の本との違いは、量から質に重点を移したことで、平均的なドイツ軍パイロットと搭乗員が一般的に使用した品々を並べ、場合によっては高度なファンの関心を引く希少な現存品も紹介」。そして第1章は17ページの「ドイツ空軍史」。とはいっても、各ページには鮮明な白黒、またはカラー写真が掲載され、それらはBf-109からJu-86、ドイツ空軍軍楽隊に高射砲部隊、巨大な口を開けた怪物のようなMe-323ギガントなど。続くフロー図になっている「組織と指揮系統」では、最期の空軍総司令官となってしまったリッター・フォン・グライムと、アルフレート・ケラーの談笑中の写真が・・。この人は「国家社会主義航空軍団(NSFK)」の軍団長ですね。37ページから第2章の「制服」です。そのドイツ空軍の制服の歴史は、1933年にSAとSSの飛行部隊が統合されて、準軍事組織の「ドイツ航空スポーツ連盟(DLV)」であり、規定としてブルーグレーの被服に制帽、階級章など・・。ほぼそのまま「ドイツ空軍」に受け継がれ、高射砲兵は「真紅」、技術将校は「ローズピンク」、飛行要員と降下猟兵は「ゴールデンイエロー」といった兵科色もカラーの一覧で解説します。こうしてまずは「帽子類」から現存する実物をカラーで、当時の使用例を白黒写真で紹介。お馴染みの「将校用制帽」に始まり、「下士官用制帽」、白の映える「夏用制帽」。この4月~9月まで着用が許可されていたドイツ空軍版クール・ビズですが、頭部は洗濯のためにボタンで取り外しが可能となっています。同じ白の制帽でも、歴戦のUボート艦長の証、..
軍装/勲章
ヴィトゲンシュタイン
2015-06-09T11:41:27+09:00
グスタボ・カノ ムニョス著の「ドイツ空軍装備大図鑑」を読破しました。
これまで「ドイツ軍装備大図鑑」、「ナチス親衛隊装備大図鑑」と続いてきた大型本シリーズ、
今回は去年の9月に出た435ページの空軍ものをようやく・・。
このシリーズはお値段1万円とお高いことは否めませんが、オールカラーで実に楽しめます。
早速、目次を過ぎると、30㎝x20㎝級のマルセイユの美しいポートレートがいきなり出てきて、
若干変な声をタメ息とともに発してしまいました。
この大型本で見ると、映画俳優並みですね。そりゃ、キャーキャー言われるわな。。
「序文」では本書の目的と特徴を解説。抜粋すると、
「もっとも識別しやすい要素を簡単に概観することであり、装備や被服のすべてを深く考察したり、
系統立てて紹介することではない。
他の本との違いは、量から質に重点を移したことで、平均的なドイツ軍パイロットと搭乗員が
一般的に使用した品々を並べ、場合によっては高度なファンの関心を引く希少な現存品も紹介」。
そして第1章は17ページの「ドイツ空軍史」。
とはいっても、各ページには鮮明な白黒、またはカラー写真が掲載され、それらはBf-109から
Ju-86、ドイツ空軍軍楽隊に高射砲部隊、巨大な口を開けた怪物のようなMe-323ギガントなど。
続くフロー図になっている「組織と指揮系統」では、最期の空軍総司令官となってしまった
リッター・フォン・グライムと、アルフレート・ケラーの談笑中の写真が・・。
この人は「国家社会主義航空軍団(NSFK)」の軍団長ですね。
37ページから第2章の「制服」です。
そのドイツ空軍の制服の歴史は、1933年にSAとSSの飛行部隊が統合されて、準軍事組織の
「ドイツ航空スポーツ連盟(DLV)」であり、規定としてブルーグレーの被服に制帽、階級章など・・。
ほぼそのまま「ドイツ空軍」に受け継がれ、高射砲兵は「真紅」、技術将校は「ローズピンク」、
飛行要員と降下猟兵は「ゴールデンイエロー」といった兵科色もカラーの一覧で解説します。
こうしてまずは「帽子類」から現存する実物をカラーで、当時の使用例を白黒写真で紹介。
お馴染みの「将校用制帽」に始まり、「下士官用制帽」、白の映える「夏用制帽」。
この4月~9月まで着用が許可されていたドイツ空軍版クール・ビズですが、
頭部は洗濯のためにボタンで取り外しが可能となっています。
同じ白の制帽でも、歴戦のUボート艦長の証、油で汚れた白の制帽ではいけません。。
コレもお馴染み「略帽」ですが、将校用、下士官用併せて、実物を23カットで分析。
モデルとして登場するのは我らがギュンター・リュッツォウ大佐。ステキです。。
1943年には陸軍の野戦帽と同様の「規格略帽」が登場。ただし色はブルーグレーです。
また、冬季用として耳宛ての付いた白いシープスキンの毛皮帽も・・。
帽子の最後は「ヘルメット」、M35とM40で4ページ、降下猟兵用のヘルメットは無視されたか。。
お次はある意味メインとなりそうな「上衣」です。
ドイツ空軍の制服のデザインに影響を与えたのは、先の「DLV」に、「NSFK」、
それから警察集団「ヴェッケ」と、「ゲネラル・ゲーリング」だということです。
なぜか最初が「社交服上衣」で、ケース入りのカフスまで実物で登場。
次にやっと「フリーガーブルーゼ」として知られる飛行上衣。
このデザインは帝政時代の1915年型上衣の影響を受けていたそうです。
前ボタンが隠れるデザインというのが、その影響なんでしょうか。
本書の当時の写真ではドイツ軍と一緒に闘った「クロアチア空軍」将校や、
スペイン義勇兵の「青飛行中隊」の整備伍長などという珍しい人達がモデルとなっています。
また、左袖に付けられた整備員の「特技章」もアップで嬉しいですね。
「通常勤務服上衣」はドイツ空軍将兵の写真でも、もっともポピュラーなもの。
ドイツ語では「トゥーフロック」と言いますが、日本語表記の下にカタカナでも書かれています。
開襟で4つボタン、ポケットも4つというのがこの制服です。
3種類目の上衣は「軍服上衣(ヴァッフェンロック)」で、1938年11月に採用された、
フリーガーブルーゼと、トゥーフロックの両方に取って代わる狙いがあったそうです。
しかし、なぜか先の2着も製造され続けたそうで、単に要望が多かったのかはわかりませんが、
こういうところ、なんといっても自分用の軍服をデザインするゲーリングが最高司令官ですから、
ルフトヴァッフェは規定が緩いようにも感じますね。
で、このヴァッフェンロックの特徴は前に5つボタン、襟は閉じても開いても着用できるもので、
ガーランド、トラウトロフトが着用例を示します。
では戦闘機隊総監によるフリーガーブルーゼ、トゥーフロック、ヴァッフェンロックの着こなしを。
「夏用制帽」が出てきたように、白の「夏期用上衣」も当然出てきます。
デザインはトゥーフロックであり、素材はギャバジンまたは麻。
洗濯が容易なように、肩章と襟章は取り外しが可能で、
通常は右胸に縫い付けられている「国家鷲章(アドラー)」はピンバッジとなっています。
続いて「オーバーコート」を各種。
「通常勤務用のオーバーコート」は帝政ドイツ陸軍のデザインが基本で、色はブルーグレー。
「革コート」は将校と将校クラスの文官専用の被服で、軍被服廟では入手不可能なため、
民間の洋服屋で購入する必要があったものの、1944年には原材料の節約のために製造禁止。
ウーデット、ガーランド、メルダースが写った有名な写真も掲載されていました。
「ズボン」では、将校用乗馬ズボンと長ズボン。
「ベルトとバックル」では将校用のライトブラウンの2本爪の革製に、
下士官用の黒の革に「空軍型アドラー」が打ち出されたアルミ製のバックルです。
しかし悲しいかな1940年以降は「鉄製」となり、にぶいブルーグレーに塗装。
134ページになって「軍靴」コーナーになりました。
「将校用ハイブーツ」は、乗馬ズボンをはいた将校にだけ許可され、
そのほとんどが民間の靴屋によって製造された上等な革の素晴らしいもの。
下士官用には「行軍ブーツ」が支給されますが、やっぱり1943年にもなると、
丈の高い行軍用ブーツの製造は中止に・・。
「長剣と短剣」は8ページ、短剣は初期型と後期型があり、
結婚式などでの使用例や、吊り下げ方なども解説します。
下の写真は違いますが、ヴェルナー・バウムバッハの結婚式だという写真もデカデカと・・。
ヴァルター・バウムバッハと誤字ってましたが、この程度は大目に見ても良いでしょう。
いわゆる「地上勤務服」はこれにて終了し、第3章の「飛行服と装備」へ。
「飛行帽」ひとつとってみても種類は豊富で、寒さから守るための単純な「K33」は山羊革。
「K33(改)」は子牛革。以降、耳に通話システムを備えたり、喉マイクを備えたりと進化し、
さらに改良を加えていくのです。
夏季用のネット帽などを含め、飛行帽だけでも25ページです。
飛行帽とくれば、今度は「飛行眼鏡」。
これもまた種類が豊富で割れにくいレンズに、色付きのサングラスタイプまで様々。
黄金ダイヤモンド野郎のルーデル大佐の場合には、ネット製飛行帽に、
色付きレンズのニッチェ&ギュンター社製タイプ「D」の飛行眼鏡と詳しく解説します。
また、「汎用眼鏡」として、もともとオートバイ兵向けにデザインされたゴーグルが
航空機搭乗員に広く使用されたとして紹介。
「防塵日除けゴーグル」も空軍向けというわけではなく、陸海空で使われたように思います。
ミイラ怪人のようなアフリカ軍団兵も、おそらくコレでしょう。
ロンメルのゴーグルが英軍の鹵獲品だというのは有名な話ですが、
ドイツ軍にもゴーグルがあったということは軍装的には規定違反なわけで、
思うに、自軍のゴーグルのデザインがあまりにダサかったから・・というオチなのでは。。
「マスク」は、酸素マスクと防寒マスクの2種類。
ふと思ったんですが、日本でもよくドイツ軍将兵の軍装を着て集う方がいるようですけれど、
キチンとした軍服を規定どおりに着こなすのがルールなんでしょうか?
自分がもしドイツ軍コスプレをやるなら、前線の古参下士官が良いですねぇ。
本書にもあるような現地調達、現地改造、敢えて規定を無視したオリジナル作成・・。
若い彼らもファッションに興味があり、人と同じのは嫌だ、スマートに格好良く、
或いは新参者を差別するため、わざと古い支給品を使い続ける・・といろいろやったんでしょう。
ですから、そういう若干アナーキーな古参の前線装備ならやってみたいところですね。
右胸に空軍のアドラーを付けている陸軍兵なんてのも、以前いましたし、
空軍兵なら、酸素マスクを付けたパイロットの軍装したって良いんじゃないでしょうか?
「飛行服」ではまず、男子の憧れ「革製飛行ジャケット」です。
エリート・パイロットたちは支給される着心地の悪い飛行服の代わりに、
注文仕立ての着心地の良い衣類を着用する許可を上官に求め、その結果、
フランスやベルギーなどの占領地からオートバイ用の革ジャケットを購入します。
個人の場合もあれば、あるグループで大量にまとめ買いしたりと、
同デザインのジャケットも見受けられます。
そんな現存する革ジャケットを3種類、メルダースやプリラーの写真と共に紹介。
肩章を縫い付け、アドラーも同様か、ピンバッチ式を右胸に留めて出来上がり・・。
「鷲は舞いおりた」のシュタイナ中佐も、私費で購入したというわけですね。
ちなみに後ろの降下猟兵たちは、バリバリのフリーガーブルーゼです。
この後はしばらく「ワンピース飛行服」と、「ツーピース飛行服」がかなりのボリュームで・・。
ちっょとややこしいのは、「電熱式カナール革製ツーピース飛行服」というのが
大戦末期に支給され、ハルトマンもこのタイプを着用している・・と紹介。
同じ革ジャケットでも、初期のは私費、後期は支給という違いがあるようですね。
「手袋」に、「飛行ブーツ」は、防寒用に裏には子羊の毛皮がタップリ。
さらに「救命胴衣」に「パラシュート」、「腕時計」、「信号拳銃」と、重要な装備品が続きます。
特に救命胴衣は、当初背中側にも浮力があったため、うつぶせの状態となり、
意識不明の場合には溺れることになった・・として1943年にこの問題は解決、
などという記述を読むと、悪名高いジークムント・ラシャー空軍医師がダッハウで行った
低体温実験や、低気圧実験を思い出しますね。
まぁ、冬のドーバー海峡に墜落したら、いつまで仲間の捜索を続ければよいのか??
というようなことに繋がる実験でもあるわけですけれど・・。
最後の装備品は「拳銃」です。
いざ戦線の向こう側に不時着してしまったら、コイツだけが頼りなのです。
まずは「ルガーP08」がホルスター付きで6ページ。
8千挺が発注されただけの小型拳銃「モーゼル1934」は海軍と空軍、
そして警察で使用されたそうで、ちょっと調べてみたところ、映画「大脱走」で登場したとか。
逃亡中の"ビッグX"が「おい、待て!」と呼びとめられると、
「何ですか。私はフランス人ですよ? 拳銃をしまってください」と騙して難を逃れるシーン。
この拳銃が「モーゼル1934」なんだそうです。
そして同じモーゼルでもコンパクトな「HSc」拳銃。
狭いコックピット内では「ルガーP08」などよりも携帯が楽な拳銃が好まれたのです。
というわけで、3日かけてじっくりと楽しみましたが、最初に書いたように
ルフトヴァッフェの恰好良い制服のカラー写真が盛りだくさん・・ということではなく、
半分は実際に戦闘機、または爆撃機に乗るための装備で構成されており、
その意味では、軍装マニアが手放しで喜べる本ではないと思います。
あくまで、彼らは死を賭けて戦う軍人なのであり、その戦いざまは、
ポートレート写真で見るような、勲章まみれで優しく微笑んでいる姿だけではなく、
表の顔と裏の顔、そして軍装と装備も大きく変わるんですね。
次は「ドイツ海軍装備大図鑑」が出るのを密かに楽しみにしています。
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