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あのころはフリードリヒがいた [戦争小説]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ハンス・ペーター・リヒター著の「あのころはフリードリヒがいた」を読破しました。

いつもコメントしていただくドイツ在住の日本女性であるIZMさんが、先月、帰国され、
お目にかかる機会がありました。そのときのお話はコチラから・・。
そしてその際に、ナント本書をプレゼントしていただきました。
以前から本書のことは聞いていただけに、一度ページをめくると、2時間程度で一気読み!
もともとは1977年に、改定版である本書は2000年に出た255ページの
岩波少年文庫の読みやすい一冊です。

あのころはフリードリヒがいた.jpg

「生まれたころ(1925年)」で始まる本書。
ドイツのインフレがようやく終わろうとする時代で、主人公の「ぼく」の父親は失業者。
アパートの2階に住み、上の階には郵便局員のシュナイダーさん一家が住んでいます。
そして「ぼく」の一週間後に生まれたのがフリードリヒ・シュナイダーです。

そんなことから仲の良い付き合いが始まった両家。
もちろん「ボク」とフリードリヒも大の仲良しです。
しかし1930年になると、訪ねてきた国鉄職員の祖父がシュナイダー家のことを知り、
「この子がそのユダヤ人の子と付き合うのは承知せんぞ!」
1階に住む家主のレッシュ氏も「ユダヤ野郎め!」とフリードリヒには冷たい態度・・。

Friedrich.jpg

そんな反ユダヤの雰囲気は1933年にナチスが政権を取ると、激しさを増します。
アブラハム・ローゼンタール文具店の前には鉤十字の腕章を巻いた男が立ちはだかって
「ユダヤ人の店で買わないように」と立札でアピール。

Four Nazi troops sing in front of the Berlin branch of the Woolworth Co. store during the movement to boycott Jewish presence in Germany, in March, 1933.jpg

一方、「ボク」は両親に内緒でヒトラー・ユーゲントの集まりに
親友のフリードリヒを新入団員として連れて行きますが、
「ユダヤ人はわれわれの災いの元だ!」と連呼する地方管区本部から来た小男の前に
彼がユダヤ人であることがバレてしまうのでした・・。

Friedrich-Richter-Hans-Peter.jpg

翌年にはクラスのノイドルフ先生が苦しそうにみんなに告げます。
「フリードリヒくんはもうこの学校に来られなくなった。
ユダヤ教徒だから、ユダヤ人学校に転校しなければならなくなったのだ」。

このようにユダヤ人迫害が進む中、「ボク」の父親はナチ党員となります。
そして家にシュナイダーさんを招き、自分がとても良い職につけたことを語ります。
「初めて家族揃って休暇旅行に行けるんです。<喜びを通じて力を>という、アレですよ。
私がナチ党員になったのは、家族のためになると思ったからなんですよ」。
やがて2人の話は本題へ。
「あなたたちの生活はますます酷くなるんです。家族のことを考えて、
シュナイダーさん。早くドイツから出ておいきなさい!」

Reiseführer für KdF-Reisen nach Hamburg.jpg

1938年には「水晶の夜(クリスタルナハト)」が起こってしまいます。
アブラハム・ローゼンタール文具店のガラスは割られ、
ユダヤ人開業医の診察室が荒らされたばかりではなく、
好奇心から皆と一緒にユダヤ人寮に侵入し、ガラスを叩き割って楽しむのは「ボク」です。

しかし、帰ってくると3階に住むシュナイダー家も暴徒の標的に・・。
新聞配達のおばさんが「くたばれ、ユダヤの野郎ども!」と金切り声をあげ、
絵や本はズタズタに、ソファーも窓から放り投げられるのを見て、
母と一緒に、「ボク」も泣くのでした。

Hans Peter Richter - Damals war es Friedrich.jpg

1940年には、国民全部がこの映画を観るように・・と言われていた
「ユダヤ人ジュース」をコッソリとフリードリヒと観に行きます。
髭を生やし、こめかみまで巻き毛で覆われたユダヤ人の顔が看板。
コレは先日の「映画大臣 -ゲッベルスとナチ時代の映画-」にも紹介されていた
ゲッベルスが脚本から参加した肝いり「反ユダヤ主義映画」ですね。

しかし、身分証明書でユダヤ人であることが年配の案内係にバレて大騒ぎに・・。
その背後では電灯が消え、「ドイツ週間ニュース」の
勝利のファンファーレが鳴り響くのでした。

Jud Süss.jpg

翌年、ラビを匿っていたシュナイダーさんが逮捕されてしまいます。
たまたま家にいなかったフリードリヒは難を逃れますが、
すでに彼のお母さんも病死していてひとりぼっちに・・。
姿を消してしまったフリードリヒは、1年後にすっかり汚れた姿で戻ってきます。
そんなとき、空襲警報、続いて連合軍の爆撃機が街を襲いますが、
共同の地下防空壕へとユダヤ人を連れて行くことはできません。
爆撃は激しさを増し、ひとり屋外へと取り残されたフリードリヒが
「ぼくも入れてください!開けてくれーっ!」と絶望的に叫び、地下室のドアを叩く音が。。

Friedrich by Hans Peter Richter. Puffin Books.jpg

本書はいわゆる児童文学というものなんでしょうが、
だからってハッピーエンドではありません。
それどころか大人のヴィトゲンシュタインが読んでも、暗い気持ちになるラストです。
う~ん。確かに反ユダヤ主義とナチスの社会を理解するのには
児童向けということではなく、日本人の大人も一度は読んでみるべきですね。
ユダヤ人から描いたものではないのが素直に入りやすい感じがしますし、
「ボク」も、両親も決して聖人ではなく、我が身可愛さに
友人にしてあげられることには限界があることがリアルに伝わってくる良書でした。

ヒトラーやナチスに興味があって、いま、コレを読んでいる少年少女諸君!
とりあえず図書館で本書を借りて、読んでみるべし!
アウシュヴィッツのガス室での何十万人と云われる大量殺戮が
実際にあったにせよ、無かったにせよ、ホロコーストに繋がる根本があります。

1925年生まれの著者リヒターによる自叙伝と思わせる本書でしたが、
本書に続いて、熱心なヒトラー・ユーゲントであった自分たち少年の姿を描いた
「ぼくたちもそこにいた」と、志願して従軍した時の実態を書いた
「若い兵士のとき」の2冊も書いており、彼の3部作となっているそうです。
コレは読むしかないなぁ。







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レニングラード封鎖: 飢餓と非情の都市1941-44 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マイケル・ジョーンズ著の「レニングラード封鎖」を読破しました。

2月に白水社から出たばかりの440ページの本書。
過去には「攻防900日-包囲されたレニングラード-」に
ドキュメント 封鎖・飢餓・人間 -1941→1944年のレニングラード-」と読んでいますが、
スターリングラード、レニングラードと聞くと、黙っていられない性格です。。
原著も2008年と、最新のレニングラードもの・・楽しみですね。

レニングラード封鎖.jpg

「序論」では、解放されたレニングラードについてのソ連政府の態度に言及します。
1946年に開館した「レニングラード防衛博物館」は、その生々しい展示内容が
あまりにも悲惨すぎると見なされ、収蔵物はちりぢりになった挙句、館長は投獄・・。
現在の「封鎖博物館」は、1989年になってようやく開設されたものだそうです。

そして封鎖解除の25周年にあたる1969年に出版された「攻防900日」は
プラウダが「英雄的行為を冒涜し、共産党の役割を矮小化している」と全面攻撃。
しかし2002年に公開された秘密警察の記録は、ソールスベリーが描いたものよりも
はるかに恐ろしく、例えばカニバリズムのかどで処刑されたのが少なくとも300人・・。

Blockade-Museum-State-Museum-of-the-Defense-and-Blockade-of-Leningrad.jpg

第1章は1941年6月22日から始まったドイツ軍の進撃の様子がかなり詳細に・・。
特に60歳の第18軍司令官、フォン・キュヒラーが献身的なナチ党員で、
ヒトラーはポーランド戦西方戦に重要な役割を彼に与え、
今回のバルバロッサ作戦ではレニングラード攻撃の先頭に当てたと紹介します。
同じく、熱狂的なナチ党員のブッシュ率いる第16軍も
フォン・レープの北方軍集団に組み込み、
ボルシェヴィキ革命の地であるレニングラードの陥落の決定的重要性を強調します。

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ヘプナーの第4装甲集団もこの軍集団には重要です。
バルト三国を蹂躙し、レニングラードを目指す2個軍団は、
ラインハルトの第41軍団と、マンシュタインの第56軍団。
さらに武装SS トーテンコップ に、シュターレッカーのアインザッツグルッペAまでが
ユダヤ人とコミッサールを銃殺しながら追随。
こうして9月18日にレニングラードはドイツ軍によって包囲され、
いまだ分散貯蔵されていなかったバダーエフの食糧倉庫が爆撃されて、
ヒトラーの狙う、住民餓死作戦が始まるのでした。

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この70ページの第1章は、独ソ戦記といった展開で、良い意味で予想を裏切られましたが、
続く第2章は「赤軍随一の能無し」として、主役になるのはヴォロシーロフ元帥です。
革命の英雄としてスターリンの側近となり、国防人民委員(国防大臣)だった彼ですが、
1939年のフィンランドとの戦争で醜態を晒して罷免されていたものの、
この祖国の危機にレニングラード方面の総司令官に抜擢されてしまいます。
1936年の赤軍大粛清にもページを割き、トハチェフスキーの処刑の原因は
彼が愚かなヴォロシーロフをバカにし続けたことによるもの・・といった解釈ですね。

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そんなヴォロシーロフとコンビを組んで防衛戦に当たるのは
レニングラードの党第1書記、ジダーノフです。
しかしこの窮地にあって政治的生残りしか考えない彼らは
スターリンへの印象を良くすることが第一であり、弾薬や食料不足が問題となっている中、
支離滅裂な命令を繰り返し、迫りくるマンシュタインの装甲部隊に対して、
8月20日、女性や10代の若者を含む、義勇兵大隊の創設を決めて次のように宣言します。
「義勇軍は猟銃、手製爆発物、各博物館所蔵のサーベルと短剣で武装される」。

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9月11日には突然、前線に姿を現し、ピストルを振りかざして、兵士たちを戦闘に狩り立て
共にドイツ軍陣地に向かって前進するヴォロシーロフ。
しかし悲しいかな、途中で息が切れて取り残されると、
砲撃の音と共に兵士たちは逃げ戻ってくるのでした。
そんな勇ましい元帥に堪忍袋の緒が切れたスターリンは、ジューコフを送り込むのです。

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レニングラード市民の様子はというと、
7月から女性も塹壕掘りに駆り出され、夏物のワンピースにサンダルという姿で
1日12時間、休みなしで18日間つるはしを振るい続けます。
また、当局は個人所有のラジオを没収。
これは外部のニュースを遮断するためのもので、代わりにスピーカーが据えつけられ
党による公式のニュースとプロパガンダのみを聞くシステムです。
8月に数千人の児童疎開が始まりますが、その方向には意気上がるマンシュタインが接近中・・。
結局、250万人が閉じ込められ、その中の50万人は子供たちです。

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ヴォロシーロフより15歳も年下のジューコフは早速、前任者の決定を取り消して、
防衛体制を猛烈に推し進めますが、ドイツ軍が長期包囲のために腰を落ち着けている・・
という山のような情報を信じず、ちっぽけな橋頭堡からの攻撃命令を繰り返します。
旅団単位で全滅が続き、現大統領プーチンのお父さんも、なんとか九死に一生を得ます。
そして10月、スターリンから状況について尋ねられたジューコフは、
ドイツ軍が2週間も前に独自の判断で攻勢を中止していたにも関わらず、
「我々は任務を遂行し、ナチス軍の攻勢を停止させた」と語り、
今度は危機の迫ったモスクワの防衛に向かうのでした。

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包囲網の前線におけるドイツ軍兵士たちの話も紹介されます。
彼らもこの兵糧攻めの方針を理解していますが、
実際に懸念された問題は、敵側が婦女子を我が方に送る決定をしたとき、
「そのような絶望した大量の非武装民間人を撃ち殺すのは想像すらできない」。
もちろん無神経な兵士たちもいて、夜間に敵軍陣地に潜入し、
掩蔽壕にカバンを放り込みながら「ほら、お前たちのパンだ!」
しかしその中には1㌔のダイナマイト。

200ページから、いよいよ包囲下のレニングラードの恐怖が始まります。
10月には事務員と扶養家族へのパンの配給量は、一日200gに引き下げられ、
それは125gにまで減っていくわけですが、
あらゆる種類の屑とわずかな小麦粉が含まれたパンは「ベタベタして湿気を帯びていた」。
10歳の少年ワシリーは日記に書きます。
「猫のフライを食べた。とてもおいしかった」。

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やがて犬や猫も姿を消し、大量飢餓が市内で始まると人々は他人には無関心に・・。
「倒れた人の懇願の声が聞こえる。人々はまたいで通り過ぎ振り向こうとしない。
まだ死んでいないこの人から衣服を剥ぎ取り始め、パン配給権を盗む者も出てくる」。
気温は氷点下20℃にも下がり、毎日、決まった時間にドイツ軍の砲撃。
窓ガラスも吹き飛び、寒さとの戦いも余儀なくされます。

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その一方、飢えで衰弱した息子を3時間かけて病院に連れて行ったエレーナは
院長の健康そうな息子が、ハムとチーズのサンドウィッチをムシャムシャ食べているという
悪夢のような光景を目にするのでした。
権力者・・、特に共産党役員の家族のためには特別に飛行機で搬入され、
米や小麦粉は10㌧単位で、バター5㌧、200本の燻製ハム、キャビアでさえ2㌧です。
ジダーノフの本部では、内密の食事施設があり、充分なパンにメンチカツ、
一口パイなどを提供しているのでした。
もちろん肥えたジダーノフは市民からは「豚」と呼ばれています。

まぁ、本書も先月の「戦争と飢餓」と同様、読んでいてお腹が減ってきます。
特に「メンチカツ」の話が多いので、ついつい大量に作ってしまいました。

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飢餓はもう拷問のよう・・。タマーラは回想します。
「私たちは本を食べ始めた。母がページを水に浸し、私たちはその液体を飲んだ。
父はベルトを切り、その小片を毎日くれた。味は酷かったが、
それを噛むことによって飢えを忘れることができた」。

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1942年1月には人肉食の事件が77件報告され、すでに22人が銃殺刑に。。
人々はそのことを公然と口にします。
「○○通りのある女が、自分の死んだ息子の一部を切り取ってメンチカツを作ったそうよ」。
この1月から2月はレニングラード包囲のなかでも最悪の時期です。
民警署では12人の人肉食容疑の女性が拘留。
「夫が失神した時、夫の足の一部を切り取り、自分と子供たちのためにスープを作った」。

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子沢山なはずの母親の家にはなぜか2人しか子供がいません。
「ストーブの上の鍋のなかのスープをお玉ですくってみると、人間の手が出てきた」。
こんなホラー映画のような話は頻繁に出てくるようになりますが、
20人からなる組織された「人食い団」も登場。
こういった連中は飢えて痩せ衰えた人間ではなく、健康な人間がターゲット。
レニングラードに入って来る軍事郵便輸送員が待ち伏せされて、殺されているのです。
もうイメージ的にはゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」ですね。。

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娘が行方不明になったと民警署へ届け出た母親。
係員は保管室の箱から娘さんの衣類を探すように指示します。
「もし見つけたら、連中がどこで娘さんを殺し、そして食べたかをお話しできます」。

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ラドガ湖が凍りつくと「生の道」として、トラックが行き来できるようになります。
しかし誰でもここを通って疎開できるわけではありません。
腐敗が蔓延り、食糧か品物による「袖の下」を渡さなければ・・。

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ドキュメント 封鎖・飢餓・人間」の時に、2009年の英/ロ合作映画、
「レニングラード 900日の大包囲戦」について触れましたが、
その後、しっかりDVDを購入して観賞しています。
本書などの想像を絶するほどの悲惨さはないものの、
包囲下のレニングラードをカラーでイメージできますから、
今回は、より市民たちの状況を理解しやすかった気がしますね。

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3月、最悪の冬が終わろうとしていますが、新たな脅威・・、赤痢です。
1月末に市内の下水道システムが故障したあと、
排泄物は通りや中庭に捨てられ、川の水も汚染するようになっていたのです。
飢餓に苦しむ市民たちに、もはや赤痢の猛攻に耐える力はありません。
女性や子供たちは建物から死体を運びだし、通りに転がっている死体の始末を始めますが、
切断された脚は肉が切り取られ、体の断片がゴミ箱から、地下室からは
胸部を切り取られた女性の死体、自分の臀部を切り取って食べている者・・。

それでも広場ではジャガイモやキャベツの植え付けが行われ、
5月になると菜園が至る所に出現してきます。

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そんな希望の芽生えたバルト艦隊の港でもあるレニングラードですが、、
黒海艦隊の本拠地であり、特別な絆を感じているセヴァストポリ港が心配です。
そしてそこを封鎖し、今や勝利を目前にしているのは、あの恐ろしいマンシュタイン・・。
更迭されたホージン中将に代わって、レオニード・ゴヴォロフ中将がレニングラード方面軍の
新司令官となり、封鎖に穴を開けるために「イスクラ作戦」に取り掛かります。

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そこへやり残した仕事に決着をつけるべく、クリミア戦線から再びマンシュタインが戻ってきます。
独ソ双方の第2ラウンドが詳しく書かれますが、マンシュタインは結局、
スターリングラードの救援へと向かい、翌年、クルスクの戦い以降、
盛り返す赤軍と敗走するドイツ軍の構図まで・・、
1944年1月15日、ゴヴォロフは戦争中最大の集中砲火となる50万発以上の
砲弾とロケット弾をドイツ軍陣地にぶち込み、遂にレニングラードは勝利するのでした。

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包囲下の市民の様子だけでなく、独ソ戦記とも言えるほど
双方の軍事的な部分までなかなか良く書かれていました。
レニングラードが主役とはいえ、ソ連軍が善、ドイツ軍が悪というわけではなく、
公正に書かれている印象を持ちましたし、
特にマンシュタインってこんなレニングラードに絡んでたんだっけ・・と、
いろいろと読み返したくなる本が出てきましたね。

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著者は英国の歴史家で、戦闘の心理状態と絶望的状況下での士気の
死活的役割の研究が専門だそうで、本書の1年前には
「スターリングラード -赤軍はいかにして勝利したか-」を書き、
2009年にはモスクワ攻防戦を描いた「退却 -ヒトラー最初の敗北-」を、
2011年には「総力戦 -スターリングラードからベルリンへ-」と連発しています。

本書のスタイルを考えると、これらも単なる戦記ではなく、
独ソ両軍の兵士たちの心理状況に重きを置いた内容に思いますし、
この機会に白水社からは著者の作品を、ぜひ立て続けに出版して欲しいですね。









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勲章と褒章 [日本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

佐藤 正紀 著の「勲章と褒章」を読破しました。

先日、何の気なしにamazonで「勲章」に関する本を探していた時に偶然見つけた、
現在の日本の勲章と褒章について書かれた一冊を紹介します。
2007年発刊でわずか84ページの本ですが、すでに絶版で、定価1400円が
なんと7000円のプレミア価格・・。1ページあたり100円弱ですね。。
そんなのはとても手が出せませんが、区内の図書館にはありました。
日本の勲章はまったく知りませんので、このオールカラーで勉強です。

勲章と褒章.jpg

まずは「グラビア 日本の勲章と褒章一覧」と題した章で、
勲章の種類と授与対象、そして「大勲位菊花章頸飾」のカラー写真です。
解説には、わが国の最高位の勲章であり、頸飾りがあるのでコレだけで、
頸飾部分には制定された時の元号である「明」「治」の2文字を古篆字で飾り、
菊の花と葉が配されているということで、表紙の勲章もコレですね。

大勲位菊花章頸飾.jpg

次のページは「大勲位菊花大綬章」と、「桐花大綬章」。いわゆる第2位と第3位ですね。
「大勲位菊花大綬章」の勲章部分のデザインについて、
「日章を中心に光線を配し・・」と書かれていますが、
最初の「大勲位菊花章頸飾」と一緒のようです。
もちろん「頸飾り」で胸元に勲章が来るわけではなく、
赤に黒の「大綬」で肩から斜めに着用するタイプ。
右下の一回り大きいのが「副章」で、書かれてはいませんが、
「大綬」を付ける正装ではないときに、胸に着用するものでしょう。
そして左下の小さいのが「略綬」です。

大勲位菊花大綬章_桐花大綬章.jpg

「桐花大綬章」は、デザイン的にも似た感じですが、
名前の通り「桐花」が用いられています。
日本における花のランクは、菊花⇒桐花なんですね。

続いては「旭日章」シリーズです。
最初のページに簡単な表となっていましたが、
「旭日大綬章」を筆頭に6段階に分かれています。
「明治8年にわが国最初の勲章として制定され・・」ということで、
確か、あの勲章大好きゲーリングもどれかを受章しています。

旭日大綬章_旭日重光章.jpg

「旭日章」が功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた者であるのに対し、
次の「瑞宝章」シリーズは、公務等に長年にわたり従事し、成績を挙げた者が対象です。
「古代の宝鏡を中心に大小16個の連珠を配し・・」といったデザイン。

瑞宝章.jpg

「瑞宝章」と同じ、明治21年に制定された「宝冠章」の受章対象者は女性です。
こちらも6段階で、「宝冠大綬章」から牡丹、白蝶、藤花、杏葉、波光と、
勲章の名前も女性的。
デザインも同様で、古代の女帝の宝冠を中心に、桜の花葉を配したもの。
「文化勲章」は昭和12年制定で、橘の五弁の花のデザインだそうです。

宝冠章_文化勲章.jpg

以上、ここまでが現在の日本の勲章で、う~ん。思ったより少ない気もしました。
そして褒章。こちらは6段階ではなく、6種類が色別に制定されていて、
「学術、芸術上の発明、改良、創作に関して事績の著しい者」に授与される
「紫綬褒章」が有名です。
オリンピックの金メダリストなど、若い人でも受章するケースもありますね。
ガンバレ前畑に、世界の青木、同じく世界の山下、月面宙返りの塚原、
チョー気持ちいい北島、イナバウアー荒川、といった面々です。
おっと、内柴正人も2回貰っちゃってますねぇ・・。
それはそうとして、この紫以外にも、紅、緑、黄、藍、紺があます。

褒章.jpg

写真グラビアは最後に勲章に替わる銀杯と木杯が紹介されて終了。
29ページから勲章・褒章とはなんぞやといった解説が始まります。
上記で紹介した各勲章の授与対象や受勲の種類、
宮中での授与方法も、「大綬章」以上と文化勲章は天皇陛下から親授され、
それ以外の下位の勲章は総理大臣、または各省大臣が伝達するなど・・。
小泉総理と文化勲章受章者の森光子さんとのカラー写真も出てきました。

「勲章・褒章の佩用」の章では、定められている着用規定を解説。
燕尾服やドレスの場合だけでなく、日本らしく紋付き袴に着物といった和装もありますから、
ここら辺の着用例を絵でも説明します。親切な本ですね。
まぁ、ヴィトゲンシュタインがコレを参考にする機会はやってこないと思いますが。。

着用規定.jpg

50ページから「勲章・褒章の歴史」として明治8年に制定された
日本の勲章制度と、その遍歴を紹介。
第2次大戦後には軍人の勲章である「金鵄勲章」が廃止された件や、
平成15年にはそれまでの勲一等、二等という数字序列が現代にはふさわしくないとして、
本書で紹介したとおりの名称へと変更された話など・・。
「金鵄勲章」や各種「従軍章」にも興味があるんですが、本書では写真すらなく、
なぜかこれらに関する本も見つかりません。

功二級金鵄勲章.jpg

また、江戸時代の末に日本最初の勲章が存在していたとして、
慶応3年(1867年)に徳川幕府とは別にパリ万博に参加していた薩摩藩が、
フランスのレジオン・ド・ヌール勲章を見本としてパリで作らせ、
ナポレオン3世などにも贈った「薩摩勲章」が写真付きで登場。
薩摩琉球国という文字に、丸に十文字の島津家の紋章をあしらったデザインです。

一方、徳川幕府も外交における勲章の重要性に気づき、図案まで検討していたものの、
維新の混乱で実現に至らなかったそうで、
これは「幻の葵勲章」と呼ばれ、残された図案から平成10年に松戸市が製作したものも。
徳川家の三つ葉葵に2匹の龍のデザイン。。良いですねぇ。

薩摩勲章_幻の葵勲章.jpg

さらには勲章と勲記の作成工程もカラー写真を交えて紹介します。

最後は外国の勲章を文章のみで解説。
英国のガーター勲章やら、バス勲章などですね。
フランスのレジオン・ド・ヌール勲章は良く知らなかったんですが、
1802年にナポレオンが創設し、5等級に分かれているそうです。
日本人では中曽根元総理が受章しているそうな。。
ドイツではヒトラー時代に対する批判から勲章制度が凍結されたものの、
1951年に再開されたそうで、実は現代のドイツの勲章も全然知らないんですね。

L'Ordre de la Légion d'Honneur.jpg

読んでいる途中でふと思ったんですが、
近頃、長嶋茂雄&松井秀喜のダブル「国民栄誉賞」が賛否両論となっています。
長嶋さんが引退した翌シーズンから中日ドラゴンズ・ファンを続けている者からしてみると、
まぁ、裏での読売と自民党政府の癒着に思えて、確かにスッキリしません。
早い話、ミスターとゴジラのどっちがメインなのか・・?? ってことですね。

長嶋茂雄 松井秀喜.jpg

ゴジラがイチローみたく辞退しないように、ミスターを安全弁(オマケ)で受賞させる・・
なんてのは、ミスターの1つ年下で大ファンだったウチの親父も、
あの世で「失敬だ!」と激怒していることでしょう。

一般論としてはミスターは当然としても、ゴジラは若過ぎるということもありますが、
第1号の王さんだって現役時代の37歳だし、別に良いんじゃないかと思います。
それに当時、王さんは「叙勲には若過ぎた」という理由もあって、国民栄誉賞が
より柔軟な表彰規定を持つ顕彰として創設されたということだったのであれば、
現在77歳のミスターは充分、叙勲の資格がありますし、
また、受賞者を見ると「国民栄誉賞」の価値が下がってる気もします。

国民栄誉賞 王貞治.jpg

そこで「紫綬褒章」や、「文化勲章」なんてレベルではなく、
1月に亡くなった大鵬さんが、授与基準に「文化又はスポーツの振興に寄与した者」とある
旭日章の勲二等である「旭日重光章」も追贈されているように、
ミスターには勲一等の「旭日大綬章」ないしは、上位の「桐花大綬章」、もっと言ってしまえば、
日本の勲章の最高位である、「大勲位菊花章頸飾」を天皇陛下から授与された方が
よっぽど良いんじゃないですかねぇ。
ミスターだって、安倍ノミクスに黄金バットなんか貰うより、天皇陛下からの方が嬉しいでしょう。
皇室とは天覧試合サヨナラホームラン繋がりもあるわけですし・・。
ついでに「人間国宝」に認定しても。存在自体が「重要無形文化財」ですから・・。

長嶋茂雄 どうでしょう.gif

ちょっと調べてみると「旭日大綬章」受章者には一般人から日テレ会長の氏家齊一郎。
その上の「桐花大綬章」は政治家と最高裁長官がほとんどですが、
あの海部俊樹元総理も受章してました・・。
だとすると、やっぱり最高位の「大勲位菊花章頸飾」じゃないと、日本国民は納得しないかな?
受章者は天皇陛下に伊藤博文、吉田茂、連合艦隊司令長官の東郷平八郎らです。
お~、外国人は歴代英国国王はもとより、ドイツ帝国のヴィルヘルム2世の名も・・。
アイゼンハワー大統領ってのはなんなんでしょうか・・?

Tōgō Heihachirō.jpg

いやいや、日本の勲章ってのも、七宝などで実に美しいですね。
本書の著者は総理府に入省し、賞勲局長を務めた方で、
この程度のボリュームでもとてもわかりやすく、かなり理解できました。
池袋にある造幣局の東京支局には「造幣東京博物館」というのがあって、
貨幣、勲章等の製造工程紹介及び古銭、記念貨幣、勲章など約1000点が展示され、
なかには「大勲位菊花章頸飾」の実物もあるそうなので、今度、行ってきます。





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映画大臣 -ゲッベルスとナチ時代の映画- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

フェーリクス・メラー著の「映画大臣」を読破しました。

第三帝国と映画・・というテーマだと「ミッキー・マウス ディズニーとドイツ」という本を
以前に紹介していますが、2009年発刊で562ページの本書は
そのボリュームといい、白水社だったり、と
いくら古い映画も観てきたヴィトゲンシュタインでも独破できるのか不安でした。
定価も4725円ですし、安い古書も見つからない・・。
そんなビビった場合には、図書館で借りるのが一番ですね。

映画大臣.jpg

著者はドイツ人の映画史家で、本書の主役ゲッベルスが1924年~1945年まで
丁寧につけていた日記を出版されていない読みにくい自筆のマイクロフィルムを含めて読み倒し、
その他の資料と比較しながら10年かけて仕上げた労作だそうで、
その結論は「序章」に書かれています。
「これまでのように日記を批判せずに使用することはやめるべきだろう。
主観的な誠実さを持った"個人的な日記"ではなく、ナチスのプロパガンディストのトップによって、
"未来の世代"を念頭に置いて作成されたものなのである」。
すなわち、将来、読まれることを想定した"偉人の日記"をということで、コレは同意見です。

Dr. Josef Goebbels.jpg

ゲッベルスは1897年生まれですから、まさに娯楽映画の発展と共に青年時代を過ごしたわけで、
1929年の日記では日本でも無声映画『メトロポリス』でも有名な
フリッツ・ラング監督の『ニーベルンゲン』について、
「ドイツの最高傑作だ。このドイツの力、偉大さ、そして美が壮大に映写された作品」と大興奮し、
米国の初期のトーキー映画『シンギング・フール』を観ても、
「トーキーの遥かに進歩している技術に驚いた。ここには未来がある。
だから米国の作り物だと言って何でも拒絶してしまうのは間違いだろう」。

となれば、ソ連の『戦艦ポチョムキン』も「この映画の出来は素晴らしい」となります。
未見だった『ニーベルンゲン』は最近、WOWOWで放送したんですが、
2部あわせて、トータル4時間半という非人道的な長さに敗北しました。。

Die-Nibelungen-1_-Teil-Siegfried-1924.jpg

第1章はこのようにフリッツ・ラングの『M』や、マレーネ・ディートリッヒ主演の『嘆きの天使』など、
さまざまな映画の感想が出てきます。『M』は昔に観ましたけど、
知らない映画も多くてこりゃ大変です。
フランス映画ではジャン・ギャバン主演の『望郷』について、「典型的な退廃作品だ。」と一蹴し、
ヒトラーもファンだったスウェーテン女優、グレタ・ガルボ主演の米国映画、
『グランド・ホテル』や『アンナ・カレニナ』、『征服』がお気に入りです。
他にはフランク・キャプラの『オペラハット』では、
主演のゲーリー・クーパーについて、「名演技だ。感激した。」
そんな彼にとって米国映画の頂点に位置していたのは『風と共に去りぬ』です。
「何度でも観なければならない作品だ。これを手本にしよう」。

Greta Garbo in Grand Hotel  1932.jpg

1930年代の娯楽映画についてはこのような感想を書き記しているゲッベルスですが、
1939年に戦争が始まると「娯楽」という観点だけでは映画は受け入れられません。
1940年のヒッチコックの『海外特派員』は、「第一級の駄作だ。
必ずや敵国の幅広い観客層にある種の印象を与えるだろう」としています。
紹介される映画のストーリーは本書には書かれていないため、
その映画の内容をある程度知っている映画好きじゃないと厳しいですね。。
ヒッチコックはほとんど観てますが、どんな内容だったかなぁ・・。

Foreign Correspondent 1940.jpg

第2章では、「宣伝大臣」となったゲッベルスが大手映画会社の「ウーファ」などを
支配下に置き、映画産業界からユダヤ人が追放され、
1933年に創設された「帝国映画院」の国有化などの経緯が詳細に書かれ、
「帝国映画総監督」などの重要なポストの人事も大ナタが振るわれます。
まぁ、でも知ってる名前が全然出てこないのがツライ。。

Joseph Goebbels movie.jpg

第3章はナチ党が政権を握った1933年から34年にかけての映画製作です。
1933年6月にヒトラーも臨席した党映画第1作目の『突撃隊員ブラント』の完成披露上映。
ゲッベルスはその前日にようやく試写を観ることができたようで、
「恐れていたほど悪くない。ほとんど耐えがたい部分もあるが・・。」
ミュンヘンのナチ党機関紙である「フェルキッシャー・ベオバハター」紙が
好意的な評価をしたのに対して、ゲッベルスの手中にあるはずの
ベルリンの「デア・アングリフ」紙が酷評を載せるなどナチ党の報道にも混乱が見られます。

SA mann brand.jpg

結局、不評に終わった「突撃隊員ブラント」に続く、10月公開予定の『ホルスト・ヴェッセル』は
ゲッベルスが一旦編集室に戻し、いくらか手を加えた後で、
『ハンス・ヴェストマー』という新しいタイトルで公開されるのでした。

Hans Westmar.jpg

1938年はゲッベルスに危機が訪れます。
それは「水晶の夜」事件と、反ユダヤ人プロパガンダをどう展開するかという問題に
心を奪われていたと同時に、女優のリダ・バーロヴァとの情事による離婚問題です。
妻のマグダはヒトラーに仲介を依頼し、宣伝大臣を辞職することも選択肢に・・。
「何本か映画を観た。しかし真の関心はなかった。もうこれ以上、続けたくない」。

Lída Baarová_original.jpg

1936年にスペイン内戦に参加したドイツ空軍の英雄詩『コンドル部隊』も
撮影が順調に進んでいます。
しかし独ソ不可侵条約が結ばれた1939年というこの時期、
「残念ながら、ハッキリとした反ボルシェヴィズムの傾向があるために使えない。
全てを中止させよう」と、ヒトラーの大胆な政策のためにポシャってしまう映画も・・。

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こうして第4章「戦争がテーマを与えてくれる」へ進みます。
「初の本格的反ユダヤ主義映画」とゲッベルス自ら語る『ユダヤ人ジュース』には
脚本から参加し、数少ない友人であり、安楽死「T4作戦」の責任者のひとりである
フィリップ・ボウラーの管轄下で始まった『告発』は、
不治の病を患った医師の妻が、夫に致死量の投薬によって
自分を"解放する"ことを依頼し、それを実行する・・という内容の映画だそうです。

Philipp Bouhler, Robert & Inga Ley.jpg

1941年2月から6月にかけてドイツ各地の映画館で封切られたのは、
「見事な空中撮影」の『急降下爆撃隊』に、ノルウェー奇襲の『斥候隊ハルガルテン』、
その他、『リュッツオ爆撃隊』、『潜水艦西へ』、『6日間の1時休暇』などなど・・。
そしてヒトラーユーゲント映画、『元気を出せ、ヨハネス』も封切られますが、
「上映することは出来ない駄作」という感想のゲッベルス。
彼の立場であっても党関係の映画となると、絶対ではありません。
実際、文化関連の最大のライバルであるローゼンベルクや、
副総裁ルドルフ・ヘスゲーリングボルマンとのバトルも繰り広げています。

Goebbels_Hess and Sleepy Hitler.jpg

ゲッベルスは検閲官としてではなく、「ファイナルカット」権を有する最終判断者、
全能のプロデューサーとして君臨していたわけですが、
それを上回る立場の人間も存在しています。
映画好きの総統はスリリングな筋立ての映画を好み、犯罪映画などがお気に入り。
米国映画も西部劇に、チャップリンやバスター・キートン、
特に好きだったのは、やっぱりディズニー映画です。
つまらない映画はすぐに飽きてしまい、上映をストップさせ、
役者の演技や「監督が良くない」、そして「真の生活環境描写」も重視しています。

そういえば先日、TVで「チャップリンの独裁者」を初めてちゃんと観ましたが、
1940年ですからゲッベルスなんかは、取り寄せてコッソリ観たんでしょうかねぇ?
内相兼宣伝相ガービッチなんかはゲッベルスのパロディでしたし、
勲章をいっぱい付けたデブ戦争相のヘリング元帥には大笑いしました。
そうか、ヘルマン・ゲーリングを縮めた名前ですね!

The Great Dictator_Herring.jpg

また、国防軍を扱った映画になると、最高司令部による検閲が必要です。
『最後の一兵まで』の場合には、国防大臣ブロムベルクから電話が・・。
「艦隊が激しい攻撃を受ける場面を取り除いてほしい」との要望です。

Joseph Goebbels, Werner v. Blomberg.jpg

1934年からすべての映画館では本編の前に「ドイツ週間ニュース」、
それともうひとつ副番組という形で短編の「文化映画」の上映が義務付けられ、
自然と科学、芸術と民族、職人技と技術、軍事と政治が題材の教育映画です。
数多くの党組織に国境警備隊、爬虫類の世界に古ゲルマンの農民文化・・。
ゲッベルスはこのような15分の短編にもプロパガンダとしての力を注ぎます。
1940年には『ドイツの兵器製造所』、『防空』、『助っ人労働者』といったタイトルが・・。

Filmberichter mit Askania-Stativkamera.jpg

個人的なお楽しみ「ドイツ週間ニュース」もかなりのページが書かれていました。
1930年代はオリンピックや党のパレード、ヒトラーや党指導者の演説などですが、
1938年にプロパガンダ中隊(PK)が誕生し、報道素材のすべてを供給します。
戦争が始まると、ヒトラーももちろんこのニュース映像に大きな関心を寄せ、
1941年1月の号の試写では「総統のお気に召さなかった」と意気消沈・・。
ナレーションと音楽のまだついていないバージョンから試写し、
週に4回は詳細な箇所にまで編集作業に時間を費やすゲッベルス。。

Propagandakompanien.jpg

全体的な効果はナレーションの投入、音楽、モンタージュの完璧な構成、
効果音による信憑性、トリック撮影や地図の挿入といったことで発揮され、
派手な戦闘シーンがない場合には、テキストの調子を強め、
豊かな伴奏音楽で埋め合わせる・・。
ヒトラーが最良のものと考えている号は「ディエップでの戦闘」で、
V2の映像」の号には、ことのほか興味を示したということですが
ゲッベルスが何度も要望した総統本人の登場は、頑なに拒まれるのでした。

久々のオマケで、1944年の「ドイツ週間ニュース」を5分ほどご鑑賞ください。
出演者は、西方B軍集団司令官ロンメルに、OKW作戦部長のヨードル
JG26司令のプリラー、そして夜戦エースのプリンツ・ヴィトゲンシュタインです。



最後には女流映画監督、レニ・リーフェンシュタールとゲッベルスの関係。
本書では戦後のレニの発言は「嘘が多い」として、
ゲッベルスは彼女の仕事を賞賛し、個人的にも高く買っている。
しかし彼女とヒトラーの直接的な関係や、輝かしい映画の作り手としての姿勢が
ゲッベルスの気に障ったのは確実である・・としています。

Goebbels, Riefenstahl & Hitler.jpg

監督という立場からすると、大好きな『未来世紀ブラジル』という映画での
テリー・ギリアム監督の「ファイナルカット」権を巡る戦いを描いた
「バトル・オブ・ブラジル」という本を昔読んだのも思い出しましたが、
お気に入りの監督や俳優はゲッベルスから十分な報酬を授かり、
スターリングラードで敗北した1943年以降は、国民が現実逃避できるような
楽しい映画を製作し、「ドイツ週刊ニュース」のカラー化も実験します。
しかし戦局の悪化、爆撃の影響とともに前線からのフィルムは遅延を余儀なくされ、
1945年にもなると、戦闘シーンは一切なくなってしまうのでした。

Die Deutsche Wochenschau.jpg

中盤は知らない映画と人物が多くて、かなり苦労しましたが、
後半はなかなか楽しめました。
ゲッベルスの考えるプロパガンダ映画というのは終始一貫していて、
「突撃隊員ブラント」といった、タイトルからしてナチス・・という押し付けのものではなく、
あくまで国民が観たいと望む映画、そのなかにさりげなくプロパガンダを織り込む・・
といった手法だと感じることができる一冊でした。



























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野戦郵便から読み解く「ふつうの​ドイツ兵」―第二次世界大戦末期​におけるイデオロギーと「主体性​」 [ドイツ陸軍]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

小野寺 拓也 著の「野戦郵便から読み解く「ふつうの​ドイツ兵」」を読破しました。

ちょっと珍しい視点からナチス・ドイツを研究した本を紹介します。
去年の11月に出た324ページの本書は、2010年に著者が東京大学に提出した
博士論文を公刊用に圧縮したうえで、加筆、修正を加えたもので、
このような研究書にありがちな5000円という価格設定からしても、
単純に「ドイツ兵の手紙」を紹介しているわけではないのが想像できますね。

野戦郵便から読み解く「ふつうの​ドイツ兵」.jpg

「序章」では、イデオロギーと「主体性​」という本書の問いについて説明します。
まず、人種主義、反ユダヤ主義がナチズムの中核をなす要素である以外に
優生学、人口政策、農業ロマン主義、反キリスト教的道徳観、プロイセン的軍国主義、
ヒトラーへのカリスマ的崇拝など、ありとあらゆる、
ときには相互に矛盾する要素が混合しているのがナチ・イデオロギーの特徴とします。

ここまでは個人的にもなんとかOK。
そして本書の研究としての新しさとして、このようなナチ・イデオロギーに限定せず、
戦友意識と男らしさ、暴力経験に被害者意識、ナショナリズムといった
ドイツ以外の戦争経験国にも見られる現象も取り上げ、
研究対象としては未開拓と言ってもいい領域の第2次大戦末期の考察に絞り、
2001年から所蔵を開始したベルリン・コミュニケーション博物館の
データベース化された野戦郵便を史料としているということです。

Parcel_post_bags__1940.jpg

第1章では、その野戦郵便が史料として、いかなるものかを解説します。
日記と同様、戦場で体験したことが間をおかずに記されるため、
自叙伝や、戦後の聞き取り調査に比べ、後付けの知識で修正される危険性が少ない反面、
家族や恋人などの親密な読み手に向けて書かれた手紙には、
不用意な記述で相手を不安にさせたくない・・という配慮が付け加えられます。

そんな兵士たちの書く手紙は、ドイツ国防軍では組織的に検閲が行われており、
軍ごとに「野戦郵便検査所」が設けられ、将校5人、下士官14人が配属。
1人の検閲官が、1日平均160通以上も抜き取り検閲し、
秘密保持を要する類に、軍や政府に対する批判などがあった場合は逮捕。
しかし、戦争の期間、あわせて1800万人が国防軍に所属し、
前線と「銃後」の間を行き来した野戦郵便の数は、推定300億通~400億通と膨大です。

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本書の対象となったのは国防軍の中核である陸軍兵士であり、1944年6月以降に
10通以上のまとまった手紙のある職業軍人ではない、下士官と兵卒23名です。
また、衛生兵や通信兵といった特殊技能を必要とする高学歴の兵士の手紙を重要視して、
彼らが所属する部隊の中で、男らしさや戦友意識をどのように考えていたかを検証します。

特に女性遍歴の自慢と酒豪自慢、そして猥談・・。
ある通信兵はこうした環境での苦痛を家族に書いています。
「彼らが話すことが正しいとすると、物凄いプレイボーイで、酒を何樽も空けたことになります。
人間が真実を口に出来ないのはとても残念なことです」。
まぁ、Uボートでも猥談がメインですから、彼のような真面目でシャイな人間は
仲間として溶け込むのが大変なのは良くわかりますね。

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そして兵科の違いによる安全性は、「通信部隊は生命保険」と認識しており、
砲兵の無線通信担当や後方の運転兵も「心配する必要はありません」と書き送ります。
しかしはるかに危険で多くの死傷者を出す擲弾兵(歩兵)に対しては、
後ろめたさとコンプレックス、あるいは優越感と裏表の心境であり、
「絶え間なく降り注ぐ爆弾や迫撃砲のなかを勇敢に前進していく」姿に畏敬の念を持ち、
「歩兵たちが通信部隊をまったく対等と見なしていないこともわかりました。
通信部隊というのは日陰者なのです」。

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ですが、前線経験のない人間や輜重兵には「日陰者」の彼らも辛辣です。
「輜重兵、我々の中では卑怯者の集まりということになっていますが、
彼らははるか遠くまで逃げて行ったので、今どこに隠れているのか誰にもわかりません。
彼らの多くが見せる臆病さに我々は失望させられました」。

German_soldier_writing_letter_post.jpg

また、職業軍人ではない彼らは昇進や勲章にそれほどのコダワリはなく、
最低限の任務を果たしながら戦争をやり過ごしたい・・と考えているものの、
2年も3年も軍隊にいれば、腹立たしい上官にも出会い、いつまで経っても上等兵でいることを
不満に感じ、「3ヵ月も故郷で訓練を受けていると、卑怯者のように思えてきます」
という心境になってくるのです。

ドイツ本土の爆撃が激しくなってくると、家族が避難することで手紙が届かないことも・・。
故郷からの手紙の山が分配されても何も手にすることができなかった兵士の不満も
徐々に大きくなり、家族からの手紙を受け取った兵士にはやっかみの視線が向けられます。
「一番手紙が来るので、今のところ"一番嫌われている"人間です」。

Bundle_of_letters.jpg

大戦末期の東部戦線では、「我々の神経は完全に衰弱してしまいました。
ロシア軍の爆撃機がやってくると、我々はガタガタと震え出します」。
「出来れば頻繁に手紙を書きたいのですが、残念ながらなかなか書けません。
神経が参ってしまっていて、気分も滅入っていて、とにかくもう書けないのです!」

戦友の死の様子をその両親に伝えるという責任に苦悩する兵士の手紙も印象的です。
「家族は一字一句を厳格に受け取るものですから、決して悟られないように
しなければなりません。彼らは頭を撃たれたと信じているわけですから、
それがもし嘘であっても、本当の残酷な死亡理由を知らせるよりは良いのです」。
誰にも書けなかった戦争の現実」では、ドイツ兵なら「総統のために・・」とか、
「ボルシェヴィキと戦って・・」と書くことができ・・とありましたが、
やっぱり、そんな簡単なものではないですねぇ。

German soldier writing letter.jpg

ブッヘンヴァルト強制収容所からの囚人移送監視に駆り出された兵士。
「見る光景、見る光景、身の毛のよだつものでした。
そのような収容所に入れられるよりは死んだほうがましです。
毎日、死者が出ます。容赦なく撃てという命令を受けましたが、
自分の車両においてそうする必要はありませんでした。よかったです!」

東プロイセンにおける撤退の様子を目撃した兵士。
「泣いている女性や子供たちの隊列がひっきりなしに通り過ぎ、
避難する母親の腕の中で凍死し、見知らぬ家の前に置かれた子供、
その横には書置きと、誰かに埋葬してもらえればと100マルクが置かれていても、
それをただ冷たく笑うだけです。
すべての悲惨さが現実のものとは思えなくなって、同情することを私は忘れてしまいました」。

East Prussia 1945.jpg

ワルシャワ蜂起の鎮圧に関わっていた兵士は、ポーランド人の女性や子供の死体、
避難民の悲惨な光景を目の当たりにし、ニュースで聞く西部戦線の戦況と重ね合わせ、
「早く逃げてください。強制疎開は恐ろしいものです」と
デュッセルドルフに住む家族に手紙で自主的避難を呼びかけます。

Polish civilians captured by the Germans after the defeat of the Warsaw Uprising, September 1944..jpg

そんな西部戦線、フランスでの退却戦でパルチザンとの夜間戦闘を経験した兵士。
「もはやこれは戦争ではなく、暗殺です。疑わしいと思われた者は容赦なく殺されるのです。
全フランス民族が我々に対して抵抗しています。一杯の水すらもらえません」。

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しかし陥落寸前のユーゴスラヴィアのパルチザンになると・・。
「これらの匪賊たちの手に落ちた人々は、射殺されたのではありません。
正真正銘、虐殺されたのです。
喉は切り裂かれ、手は切り落とされ、まさに中世のようです」。

「ボルシェヴィキの洪水に歯止めがかけられるといいのですが。
今や赤い人殺しの群れが故郷に殺到しつつあります。
怒りのあまり髪の毛をかきむしりそうです」。
と書くのは、南部のイタリアで米英軍の攻撃を食い止めている兵士です。

German_soldiers_writing_letter_post.jpg

ドイツ兵にとっては東部戦線の状況が一番の心配事であり、シベリアへの強制労働
自分の家族がロシア軍による性暴力の被害に遭うのではないか・・という恐怖です。
「ボルシェヴィキどもは凄まじい乱暴を働き、殺害し、略奪しています。
ロシア人はいかなる状況であっても、再び駆逐されねばなりません。
私がすべての出来事にうんざりしているといえども、
この戦いを継続することが必要だということは私も認識しています」。

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「私が捕虜になることはないでしょう。あなたに尋ねますが、
ロシアの捕虜になり、シベリアで働いて命を失うのが良いのか、
それとも死んだ方が良いのか、私はどうすれば良いでしょうか」。

dejected-german-soldier-konigsberg-1945.jpg

終戦直前の4月30日になっても希望を抱く兵士の手紙。
「西部ではもはや抵抗は行われておらず、出来るだけ迅速にロシア軍と戦うために
ドイツ軍部隊は英米軍と合流するとのことです」。
あ~、ロンメルとパットンが協力してソ連軍と戦う・・なんて小説もありましたね。

検閲があったとはいえ、彼ら前線の兵士はヒトラーについても肯定的に
途切れることなく記述していることを指摘し、その背景には、
軍事的才能への信頼感、「神意」という神秘性に加え、
危機にあって人々が一体化し得るシンボルとしてヒトラーが機能したこと、
そしてとにかく彼を信じることによって、現状を打開するしかないという目的楽観主義など、
さまざまな要因があったとしています。

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それは「総力戦」に対する彼らの考え方にも表れているようです。
母親が工場での作業に従事していることについて、
「それこそが本当の総力戦なのだと思います。
仕事がそれほどきつくないことを祈るばかりです」と書く兵士。
「パパは国民突撃隊の任務にもう入りましたか?
そうでなければなりません。個人的な楽しみは戦争の後です」。

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本書の内容はタイトル通り、野戦郵便から読み解く「ふつうの​ドイツ兵」であり、
第二次世界大戦末期​におけるイデオロギーと「主体性​」を研究したものですが、
特に「研究」部分については、今回は大きく割愛しました。
まぁ、ちょっとヴィトゲンシュタインには消化しきれないテーマですし、
個人的には、一連の手紙を時系列で紹介してもらったうえで、
自分なりにその本人の立場に立って考えてみたかった・・ということもあります。
また、1944年6月以降の手紙が研究対象となっている本書ですが、
戦争の全期間、1939年のポーランド侵攻から、包括的な傾向なども知りたいと思いました。

ちなみに日本軍兵士が戦地から家族に宛てた手紙などが
靖国神社の「遊就館」で12月まで開催中の「大東亜戦争 70周年展Ⅱ」で見れるそうで、
いつもコメントいただくIZMさんのBlogに詳しいレビューが書かれております。
零戦も展示されているようで、ヴィトゲンシュタインも近々、行くつもりです。



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