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第二次世界大戦下のヨーロッパ [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

笹本 駿二 著の「第二次世界大戦下のヨーロッパ」を読破しました。

1月の「ベルリン戦争」を楽しんだ勢いで購入した本書は、1938年から日本公使館員として、
その後、朝日新聞特派員としてヨーロッパ各国に滞在した著者によるもので、
1970年の岩波新書、220ページとコンパクトな一冊です。
経歴だけを見れば、外交官の著者による「第二次大戦下ベルリン最後の日」と、
朝日新聞特派員の著者による「最後の特派員」を連想しますね。

第二次世界大戦下のヨーロッパ.jpg

まずは1939年9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻からです。
このようなタイトルの本で、一行目からこの日というのは好感が持てますね。
しかし本書でのポイントは、「ドイツが攻め込めば必ず助ける」と約束して、
ポーランドをけしかけてドイツに挑戦させておきながら見殺しにした英仏首脳です。

Poland, September 1939, German motorized units on their way to the front..jpg

チャーチルの回顧録から抜粋して、「ガムラン将軍だけを責めることは出来ない」などと、
よそ事のような言葉で誤魔化そうとしている・・とし、
2か月半前にパリで行われた「英仏作戦会議」ですでに、
「戦争の初めにおいてポーランドを助けることは出来ず、
ポーランドの運命を決めるのは戦争が終結した後のことである」と決定されていたとします。
このことを知っていたら、ダンツィヒ問題などでドイツにあれほど強く抵抗するほど
「ポーランドも馬鹿ではなかっただろう」。

先日、ダンツィヒ問題と現在のクリミア問題が似ている・・と書きましたが、
米国とEUはウクライナの為に、戦争出来るんでしょうか??

Gamelin Churchill.jpg

この戦争が始まった同じ日に、著者の滞在するスイスでも総動員が行われ、
総人口の1割以上の43万人が招集。
中立国であるものの、万一攻め込まれれば、断乎として戦うという決意です。
また、ワルシャワから逃げ出してきたS大使は、ワルシャワ爆撃の酷さ、
そして「ヒトラーのゴロツキの奴、あいつは必ずこの戦争で滅びるのさ」と憎しみを持って、
著者の聞く、「ヒトラー没落説」第1号を語るのでした。

Germans prepare for a victory parade in Warsaw 1939.jpg

翌年のフランス敗戦をマンシュタイン・プランなどにも触れながら紹介し、
その後、11月にモロトフを招いて行われた独ソ首脳会談をかなり詳しく解説します。
特に日独伊の三国同盟に、ソ連を加えた「四国同盟の草案」の件で、
「ドイツの仲介努力によって日ソ関係が最近改善し、日支関係については、
その解決を助けることは独ソの任務だが、支那の名誉を保つ解決でなければ・・」
と語るモロトフ。
帰国後にヒトラーヘの回答として、フィンランドとブルガリア問題の他、
「日本は北樺太の石炭、石油利権を放棄する」というスターリンの条件提示が印象的でした。
このあたりは日本人著者ならでは・・でしょうかね。

ヒトラーとしてはベルリンでのモロトフの強情で傲慢な態度に憤慨したこともあって、
バルバロッサ」への決意を固めるわけですが、
スターリンは「三国同盟の仲間入りを高い値段で売りつけることができる」とばかりに、
交渉と宥和を駆使し続けた結果、大きな痛手を被ったとします。

Molotov hitler.jpg

1941年3月に「ヒトラーさん、リッベントロップさんとお互い顔も知らないではお話にならぬ」
と言ってやってきた松岡外相はヒトラーと2回、リッベントロップと3回会談しますが、
ドイツ側が示唆した「独ソ衝突の可能性」を無視して「日ソ中立条約」を調印し、
帰国後はその件を閣議に報告せず、独ソ開戦の噂も否定したとして、
ヒトラー・松岡会談議事録の「日本では機密がすぐに漏れるのです」などといった、
自国のアラやボロを暴き立てる無神経ぶりに著者は「甚だしく不見識」と厳しい判定。。

hitler matsuoka ooshima.jpg

フランスの敗戦後にスイスのベルンから、ハンガリーのブダペストに移っていた著者。
4月上旬、突然ドイツ軍が現れ、南へと走り去っていきます。
ユーゴスラヴィアへの攻撃など知らなかったブダペスト市民は肝をつぶしますが、
翌日にリベラルな政治家であったテレキー首相が自殺して、さらなる衝撃を味わいます。

これは4ヵ月前にユーゴと友好条約を結んだばかりであるにもかかわらず、
枢軸の加盟国としてドイツに協力する義務を負い、そのユーゴ撃滅の為に
ハンガリー国内の通過と軍事行動の要請をヒトラーから受ける一方、
英国からは「ドイツのユーゴ攻撃に味方するならば、ハンガリーに宣戦する」
という脅迫を受けていたのです。

Teleki_Hitler 1940-11-20.jpg

ソ連に対するドイツ軍の攻撃はモスクワ前面で行き詰まったころと時を同じくして、
日本軍の真珠湾攻撃が・・。
ソ連の参戦で「これで勝った」と喜んでいたチャーチルは、再び「これで我々は勝った」と大喜び。
日本の大戦果を知ったヒトラーも米国に対して宣戦布告。
ブダペストでは「枢軸側の最後の勝利をもたらすのは、ドイツではなく日本である」と、
日本の陸軍武官は一躍、ブダペスト社交界のスターに・・。

朝日新聞のバルカン特派員となった著者は、1942年の「ブラウ作戦」に従軍します。
ポーランドのルジェフではゲットーのユダヤ人の姿にショックを受け、
廃墟と化したキエフを通って、6月26日に終点のクルスクへ・・。

Hunarian-2nd-Army-1942.jpg

堂々としたハンガリー軍総司令官ヤーニー大将が語るところによれば、
「ロシアから石油地帯を奪い取ること、これが最大の目標です。
これに成功すれば今度の攻勢は目標を達成する」。
ふ~ん。ハンガリー軍でもドイツ軍からキチンと説明は受けていたんですね。

Model_Gusztáv Jány.jpg

28日に始まった「ブラウ作戦」では、敵の迫撃砲にあわや・・という著者の戦記。
ドイツ軍とハンガリー軍の将校で満員の宿泊所では、
「7月中にはスターリングラードを落としてみせる」と鼻息高いドイツ軍将校と相部屋になり、
なかには「スターリングラードまで一緒に来ないか」と真面目に誘ってくる将校も。。

Panzer IV in front of damaged church. Near Stalingrad, September, 1942..jpg

しかしヴォロネジの町が燃えているのを見届けて東部戦線に別れを告げた著者。
客として好遇してくれたハンガリー軍は、スターリングラードの激戦の末、
ドン河のほとりで雪と氷の中に消え、ヤーニー大将は戦後、銃殺刑に処せられるのでした。

Gusztáv Jány_Gusztáv Jány Hungarian Second Army.jpg

ルーマニア、ブルガリア、ユーゴ、そしてトルコを周って、1943年にはパリを訪れます。
パリ見物のために自動車と案内人を付けてくれる親切なドイツ占領軍。
シトロエン自動車工場の労働者も、被服廟の女工さんたちも、案外陽気に働いていますが、
消極的なサボタージュは大っぴらで、これにはドイツ軍も手を焼いているそうな。。
混乱と反発を恐れて、東欧でやっているような厳しい強制労働は出来ないのです。

paris-Musique militaire 1943.jpg

10月にベルリンへと入りますが、朝日新聞支局があるホテル・カイザーホーフが
大空襲によって1週間後に焼け落ちてしまいます。
宣伝省はすぐさまホテル・エクセルシオールを世話してくれたものの、
2ヵ月後にはこちらも焼けて、ホテル・エスプラナードへ・・。
しかし食料や衣料の配給切符もドイツ人の10数倍という高待遇ですから、
日常生活に不便さはありません。

kaiserhof_1943.jpg

1944年にはノルマンディに連合軍が上陸し、報復兵器も登場。
7月20日の夕方、ホテルの事務所でボンヤリしていると、
周囲のただならぬ様子に何かが起こったと気が付きますが、
近所の陸軍省やゲッベルス邸が舞台となって、ヒトラー暗殺未遂の大事件と、
シュタウフェンベルクらの反乱が鎮圧されたことを夜になって知るのでした。

1944.7.20_Berlin, Bendlerstraße, Waffen-SS-Männer_Otto Skorzeny.jpg

ベルリンから姿を消したユダヤ人の問題については、
想像を絶した恐ろしい話が伝わってきてはいて、多くのドイツ人も知っていたと・・。
「我々は何も知らなかった」という主張を無条件に認めるわけにはいかないとしながらも、
「あの時のドイツ人には何の術もなかった」ことも認めてやらねば・・としています。

berliners_bus_stop_1945.jpg

アルデンヌ攻勢が起こった12月、著者はスイスへと戻ります。
最後に連合国三国首脳の「ヤルタ会談」を詳しく取り上げ、
ベルリンを目前として余裕しゃくしゃくのスターリンに対し、
ドイツを倒したあと、18ヶ月は続くと想定される対日戦で本土上陸をやれば、
50万人の死傷者を出すと計算し、満州の関東軍を掃討するためにも
ソ連の対日参戦がどうしても必要だとするルーズヴェルト

そして70歳のチャーチル、65歳のスターリン、62歳のルーズヴェルトが
奇妙なことに若い順で死んでいったことを挙げ、
もしこの順番が逆でルーズヴェルトがもっと長生きしてくれたら、
強硬な反共論者のトルーマンが大統領になることもなかったし、
反共の総大将であり、冷戦の巨魁であるチャーチルが米国中を歩き回って
「赤禍論」をぶち歩くことを許さなかっただろう・・と熱く語ります。
著者はチャーチル大嫌いみたいですね。
それにしてもルーズヴェルトでも「原爆」使ったのかなぁ??

Yalta Conference 1945.jpg

このように本書は、まず戦争の政治的背景の説明、大きな戦局の推移がメインで、
そこに当時の著者の体験談がプラスされるという展開です。
しかし政治的背景は日本人らしい視点が独特で、思わず、なるほど・・と頷く部分もありましたし、
体験記としてはちょっと物足りなかったものの、ハンガリー軍が大収穫でした。
このボリュームとしては、うまくまとめられた一冊だと思います。
ちょうど1年前に出たハードカバー 536ページの大作、
「不必要だった二つの大戦: チャーチルとヒトラー」も読んでみたくなりました。



そういえばお正月にwowowで放映された映画「カサブランカ」。
ハンフリー・ボガートの「君の瞳に乾杯」で有名な、アカデミー作品賞も獲った映画ですが、
1942年に公開された米国プロパガンダ映画という話もあって、初めて観てみました。
ラストシーンは幾度もTVで見ているので、わかった気になってパスしていたんですね。

casablanca-poster.jpg

舞台となるのは北アフリカのフランス領モロッコのカサブランカ。
ドイツ軍の電撃戦に敗れたフランスは本国の南部を含めて、
ナチス・ドイツの傀儡政権である「ヴィシー政府」の管轄となっており、
ここカサブランカにも中立国のポルトガルから米国へ亡命しようと、多くの人が集まっています。
そんな不思議な賑わいを見せる街で酒場を営む米国人がハンフリー・ボガートです。

ドイツ人のクーリエが殺された事件を調査するためにやって来たドイツ軍一行。
責任者のドイツ空軍の少佐の名前はハインリヒ・シュトラッサーです。
ヒムラーとグレゴールを足したような、いかにもナチって名前ですね。

Conrad Veidt as Major Heinrich Strasser.jpg

クロード・レインズ扮する現地の警察署長はそんなドイツ人に媚を売るフランス人。
米国人のボギーともなかなかの付き合いです。

Claude Rains as Captain Louis Renault.jpeg

そこへやって来たのが陥落したパリで姿を消した元恋人のイングリッド・バーグマンです。
オスロ出身のイルザって名前なので、ノルウェー人役かな??
いや~、それにしても綺麗だなぁ。今まで観た彼女の映画で一番です。
吉永小百合と江角マキコ足して、スウェーデン人にしたみたい・・。

Ingrid Bergman as Ilsa Lund.jpg

そして彼女の連れが実は旦那さんであり、チェコ人のレジスタンスの大物で、
自由フランスと連携しており、ドイツ軍に狙われてボギーに亡命の手助けを頼むのです。

Paul Henreid as Victor Laszlo.jpg

と、ザックリこんな感じのストーリーですが、
シュトラッサー少佐に一生懸命話しかけるも無視されるイタリア軍将校やら、
ボギーの店で愛国歌を大声で唄うドイツ人に反発して、全員でフランス国歌を唄うシーンなど、
普通に観ていても各国の関係は楽しめます。

しかし前半から「俺は中立だよ」と語るボギーの台詞などを注意していると、
彼らがその国を代表していることに気が付くのです。
すなわちボギーはまだドイツと戦っていない米国、ルーズヴェルトであり、
バーグマンはロンドンへ亡命したノルウェー国王・・というより、米国に助けを求めるチャーチル。
そのレジスタンスの旦那ヴィクトルは、もろにドゴールであり、
フランス人警察署長はペタン元帥なわけです。
ボギーに助けを求めるブルガリア難民の若い奥さんなんかも、
まさに大国に挟まれて苦悩するヨーロッパの小国そのもの・・。

Joy Page as Annina Brandel, the young Bulgarian refugee.jpg

イタリア人の悪徳事業家フェラーリは最後にボギーの店を買ってあげたりして、
なんとなく、シチリア上陸の「ハスキー作戦」に協力したと云われる、
ラッキー・ルチアーノなどの米本土のイタリアン・マフィアにも思えました。

Sydney Greenstreet as Signor Ferrari.jpg

そしてラストシーンでバーグマン夫妻を無事、飛行機に乗せて、
ナチスの化身、シュトラッサーを撃ち殺す米国人のボギー。
フランス人警察署長は「ヴィシーの水」と書かれたボトルをごみ箱に捨て、
ボギーと一緒に闘うことを誓ったかのように2人で歩き去っていきます。

casablanca last scene.jpg

この映画が製作されていたのが1942年というのも興味深いですが、
米国で公開されたのがその年の11月26日。
まさにこの時、モロッコを含む北アフリカ上陸の「トーチ作戦」が行われていたんですね。
そして年明けの1943年1月14日には連合軍首脳による「カサブランカ会談」が開かれるのです。

Casablanca Conference.jpg

まぁ10年前だったら、戦時中を舞台にしたキザなラブ・ストーリーとしか思わなかったかも・・。
よく、「『カサブランカ』ってそんな名作か??」って話も聞きますが、
このような当時の世界情勢と、ラブ・ストーリーのなかに織り込まれたプロパガンダを理解し、
その時代に並行して公開されたことを知ったうえで評価するべきでしょう。

それにしてもボギーをルーズヴェルト、バーグマンがチャーチルと考えてから、
愛し合う2人の写真を見ると、ちょっと気持ち悪くなってしまいました。。おぇっ!

Bogart and Bergman.jpg






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ベルリン戦争 [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

邦 正美 著の「ベルリン戦争」を読破しました。

第二次大戦下ベルリン最後の日」、「ベルリン特電」に続く、
日本人が体験したベルリン最終戦シリーズの第3弾がやってまいりました。
1993年に出た340ページの著者は当時、舞踏家の留学生で、
前2冊の外交官、通信社支局長とはかなり立場が違いますね。
そんな著者の見たベルリンの戦争とはどんなものだったのか、興味津々です。

ベルリン戦争.jpg

1908年生まれの著者が1936年から留学したかつてのプロイセン王国の首都ベルリン。
東西が45㌔、南北38㌔という大都市は、バイエルン王国の首都、ミュンヘンの3倍の大きさです。
ハレンゼー地区の住宅街に住居を構え、ユダヤ人迫害を目にして、
開催された大美術展覧会では、ディックスやシャガールといった前衛作家の作品を鑑賞。
しかし実はこれ、あの「退廃芸術展」だったのです。

berlin_EntarteteKunst.jpg

1938年11月19日の朝、水晶の夜事件が発生したことを知ります。
「ひどいもんだよ。SAの奴らがあの立派な店のショーウィンドーをめちゃくちゃに・・」。
早速、出かけると、焼き打ちで煙を上げるシナゴーグの姿。

Synagogen brannten.jpg

翌年にヒトラーがポーランドに侵攻して戦争が始まります。
食料は配給となって、横暴なSAにナチ党嫌いのベルリン市民は戦争には反対の姿勢ですが、
東ではポーランドを破り、西でもマジノ線を突破して、パリに堂々と入るといったニュースが
毎日のように発表されると、それを見るために映画館も超満員。
大の反ナチスだったインテリでさえフランス軍が降伏すると、
「ヒトラーは大嫌いだったけど、フランス軍に勝ってくれて胸がすっとした」と語るのです。

Brandenburg Gate & colonnade lit up at midnight in honor of Hitler's 50th birthday.jpg

そんなベルリンの中流社会で過ごす日本人の著者。
アーリア人を自負するナチ党員の集まりになるとこんな雰囲気です。
「お前は日本人か。日本人はモンゴーレだけど、特別扱いしているよ。
日本人は勇敢で戦争に強いから、いわばアジアのプロイセン人だ。
ドイツとは同盟国だし、名誉アーリア人だよ」。

また、ヒムラーの代理人であるSSの高官がベルリンの日本研究所にやってきて、
「金髪で青い眼をした昔のサムライの写真を探し出してくれ」と命令。
これは政治的結びつきが人種政策に沿う合理的なものであることを証明するための
ヒムラー苦肉の策で、確かにこの研究をしていたことが書かれた本を読みましたね。
自分のBlogで検索したらありました。シュペーアの回想録です。便利だなぁ。

The_Last_Samurai.jpg

1942年、たまたま出かけた先のカッセルで、空襲に遭ってしまいます。
なんとか中央停車場に辿り着くと、長い行列が・・。
戦争が始まってからの処世訓は、行列を見つけたら何でもよいからすぐに並ぶこと。
必ず良いことが待っているのです。
今回は無料のスープと黒パン、空襲で被災したという証明書をゲット。
ベルリンに帰ってこの証明書と無くした物リストを「空襲被害補償所」に持っていくと、
3日後にはリストに書かれた品々全て、新品のライカに背広一式と靴、
下着類などの細々した物までが揃えられ、しかもタダでくれるのです。

Allied 1943 Strategic Bombing Campaign_Kassel.jpg

もちろんベルリンでも空襲の頻度が増してきます。
画一的な四階建ての住居ビルには広々とした地下室があり、
そこに換気装置を付けて補強工事を行い、便所に電話、全員分のベンチが取り付けられ、
救急箱と飲料水入りの瓶を並べて、立派な防空壕が完成。

bunker.jpg

毎夜毎夜、しかも2年も3年も続けて同じ地下室に入り、2時間も一緒にいると、
相手が好きでも嫌いでもすっかり親しくなり、運命を共にする友人となるのです。
47人が入るこの壕も、いつの間にか「自分の席」も決まって、黙っていてもそこは開けてあり、
爆弾が近くに落ちて揺れようが、サロンのようにゴシップやニュースを語り合うのです。

Hot water storage in the large gallery.jpg

そして屋上に焼夷弾が落ちれば、男たちは壕を飛び出して消火に向かいます。
当初は、各自が自分の住居を守ろうという動機から始まった消火活動ですが、
焼夷弾と戦っているうちに、そのビル全体を守る心となり、
遂にはベルリンという都を守るために戦う・・という気持ちに変化していくのです。
戦争に勝とうとか、ヒトラーが良いの悪いのと考えることもなく、
ただ、愛するベルリンが無事でさえあれば・・。

パリで早川雪洲と付き合っていたソプラノ歌手田中路子がベルリンにやって来ると、
著者の友人の2枚目映画スター、ヴィクトル・デ・コヴァと豪邸で住み始めます。

Viktor de Kowa.jpg

結婚を希望する2人に、ゲーリングはOKを出しますが、ヒトラーとヒムラーはNG。
2枚目のアーリア人がモンゴールと結婚することは許されません。
解決策として田中路子は避妊手術を受けること・・。
彼女はこのナチスの非人道的な条件を呑み、デ・コヴァも同意します。

Michiko Tanaka.jpg

著者の交友関係は実に広く、芸術家だけでなく、軍関係者にも及びます。
1943年に他界した元最高司令官のフォン・ハマーシュタイン邸にも招かれていて、
「あの本」に書かれていた子供たちについても言及しています。

この頃でも30歳を過ぎた独身男性ですから、ちょっとしたドイツ人女性の話も・・。
クーアダムの大通りには売春婦とはハッキリ違う、品のよい美人がウヨウヨしていて、
このような金髪の若い女は、恐ろしいことにゲシュタポの工作員なのです。
狙いは外国人。ゲシュタポ美人に声をかけられた著者の友人Mくんは、
寝物語に他言してはならないことを喋ったおかげで、留置所で3日間過ごす羽目に。。

Achtung! Spione _Denk an Deine Schweigepflicht!.jpg

1944年の暮れも迫ってくると、戦局の悪化に「総力戦」を叫ぶゲッベルス
彼は宣伝相であるだけでなく、厄介なことにべルリンのガウライターであり、
ベルリン市民にとっては締め付けがより強くなるのです。
老人と子どもから成る「国民突撃隊」の訓練も始まり、
ベルリンの空襲も激しさを増して、ツォーの高射砲塔も狂ったように撃ちまくります。

Berlin, Zoo-Flakturm, Flak-Vierling..jpg

1月20日正午、グデーリアン参謀総長によるラジオの号外放送。
「本日、東部戦線では敵軍がドイツ国領内に侵入した」。
よくもそんなことをラジオで簡単に発表できたものだ・・と唖然として顔を見合わせます。

東から人の群れがベルリン市内に入り、西に向かって動き続けます。
着の身着のままで東プロイセンから逃げてきた、子供の手を引いた女性がほとんど。
そして今度はモスクワの放送がラジオから聞こえてきます。
「赤軍はドイツ市民をナチスから解放するために前進しているのだ。
文化高き赤軍の兵士は、あなた方に自由を取り戻し、保護することを
スターリン元帥は約束する。安心して冷静に赤軍を迎えてください」。

German refugees in Berlin. 1945.jpg

そんな戯言は誰一人として信じません。
見かける一群のなかには荷車に乗って寝ている16歳の少女がおり、
ソ連兵に20回も強姦されて、半死の状態で救い出されたとのこと。。
やがて道路のあちこちで古家具やコンクリートの塊で封鎖も始まるのです。

1945_Berlin_Panzersperre_am_Potsdamer_Platz1.jpg

ベルリンの空気は敗色に包まれ、同盟通信社の江尻くんに様子を尋ねます。
「ドイツ政府は南部へ移動する準備をしている」。
おっと、この江尻くんは、「ベルリン特電」の著者じゃないですか。

2月3日付の新聞には、精鋭部隊として名のあるルーデル将軍の突撃隊が
キュストリン付近に集結していた赤軍の戦車部隊を殲滅することに成功・・、
といった記事が出て、久しぶりの勝利の報に我を忘れて喜ぶベルリン市民。
コレはおそらく、
ルーデル大佐のシュトゥーカ部隊が、包囲されていたキュストリン要塞を救った・・
というヤツでしょうね。

Ace Lutwaffe pilot Hans-Ulrich Rudel with colleagues.jpg

ドイツ人の心は西に向かっています。
特にベルリン市民は100%、西から進撃してくる米軍を迎えたいと思っているのです。
もともと英国人とは親類のような血の繋がりを持っており、
第1次大戦後、米軍が飢えるドイツ人の食料を助けてくれたことを忘れていないのです。
その一方、東欧には親近感は持っておらず、モンゴルの襲来のことは忘れていません。
「野蛮人がやって来るよ!」と、ナチスは宣伝も繰り返すのです。

そういえば、1942年にSSのヒムラー公認で出た50ページほどの写真集があるようで、
どれだけの一般市民が読んだのかは不明ですが、
ロシア人の恐ろしさを描いた強烈なプロパガンダ写真集を参考までに紹介してみましょう。
タイトルは「Der Untermensch」、ズバリ「下等人種」。
この下等人種とはナチスが言うところのユダヤ人、スラヴ人、ロシア人、モンゴル人の蔑称で、
表紙も小銃を持った赤軍兵に、一番、凶暴で頭の悪そうな下士官ぽいヤツのアップ・・。

Der Untermensch.jpg

中身も「フン族が戻って来た」って感じで、下等人種のお顔紹介。。
特に左下のヤツは有名というか、他のプロパガンダ・ポスターでも見たことがありますね。
こんな連中に強姦されちゃったら・・。まぁ、似た顔の友達がいるんですけど・・。

Now the huns are back, distorted pictures of human faces, nightmares that became reality.jpg

ロシア女性と、幸せなアーリア人女性の顔を比較しています。

Russian subhuman woman compared to a happy German Aryan.jpg

ロシアの貧しい少年と、アーリア人の幸せな子供も比較・・。

We want to prevent our youth from suffering like the boy on the left.jpg

続いて男女の彫像比較・・。
下等人種の創ったものは怪しいお土産品レベルです。
まさに「退廃芸術」の極み・・。ウケるなぁ。

Two humans on the right and two subhumans on the left!.jpg

最後に両軍の将校の比較です。
右ページの左はドイツ陸軍将校にシュトゥーカ・パイロット。
右上のSS中尉はライプシュタンダルテのハインリヒ・シュプリンガーですね。
SS主幹の本ですから、武装SS一のイケメンとされているのかも知れません。
右下のUボート艦長はオットー・クレッチマーだと思います。

One of the most extreme pieces of anti-Jewish_anti-Russian SS literature!!.jpg

2月も終わりに近づきつつあるころ、著者は自分がどうするべきかを考えます。
日米戦争は激しさを増し、世田谷の自宅が焼かれているかもしれない・・。
それにもともとスイスに永住するのが夢であり、ドイツに踏みとどまっていた方が・・。
時々ベルリン・フィルも指揮する近衛秀麿くんも日本に帰るつもりがなく、
ソ連とは不可侵条約の関係で同盟国のような関係であるし、
例え捕えられても中立国の人間ゆえ、危害は加えられないはず・・。
しかし、日本が交戦中の米軍は、話の分かる文明国であるし・・。
ということで、市内から30㌔離れた別荘地、グロース・グリニッケ湖へと疎開します。

Groß Glienicker See.jpg

宣伝省は「ドイツ国政府機関は本日をもってベルリンを去り、他の所に移動する」と発表。
ただし、役人の6割が移動したのは事実ながらも、地方に疎開したわけではなく、
そのまま「国民突撃隊」に編入されてしまったということです。
また、ベルリン市内の警官も同様ですし、消防隊も1400台の消防車を残して・・。

Volkssturm_2.jpg

疎開しても自宅のあるベルリンが心配でなりません。
3日もすると、3タクトの小さなDKWで市内を走り回ります。
山下奉文という軍人と五目並べをやった日本料理店に、アロイス・ヒトラーという喫茶店。
そこの主人はヒトラーの兄と言われているほど、体つきも顔も髭も良く似ているそうで、
ひょっとしたら、ヒトラーの死体と云われている写真は、彼なんじゃないでしょうか??

日本大使館では大島大使らがすでに南へ逃れてしまっているため、河原参事官が留守番。
第二次大戦下ベルリン最後の日」ともリンクしてますねぇ。

gendarmenmarkt-may-1944.jpg

別荘では東プロイセンやポンメルンから逃れてきた女性たちによる報告会。
強姦と暴虐の限りを尽くす赤軍の獣のような恐ろしさを語ります。
修道女がロシア兵に次々と24時間も連続強姦された話などなど。。
4月20日のヒトラー誕生日も過ぎ、ゲッベルスは家族を連れて総統ブンカーに入ったと報じると、
ナチス幹部が南部へ逃げたり、自殺したりしているなか、
敢然と立ちあがったこの男を皆が見直します。
嘘八百だと思われていた「ソ連兵の強姦の脅威」も事実だと証明されたことも手伝って、
最後の最後に男を上げたゲッベルス。。

Dr Goebbels is greeted by a young admirer.jpg

既に新聞は発行されなくなっていますが、ここに至って「ベルリン前線新聞」という肩書の
「デア・パンツァーベア(装甲熊)」が創刊されます。
ゲッベルスの演説を編集したのは新聞局長のハンス・フリッチェです。

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それにしてもこの「装甲熊」のロゴ、可愛らしいですね。

der panzerbär_mag.jpg

4月25日、西の方から銃声や迫撃砲の音が聞こえだすと、
旭日旗のような旗を作って家の前に立てて、「中立国の家」としていたことから、
隣近所の奥さんと娘さん、10数人が匿ってもらおうと押し寄せてきます。
青い顔をして、強姦されるよりは死ぬつもり・・と語る娘に、
抵抗して殺されるより、要求に応ずる・・と言う若い母親。
予期せぬ重大な責任を負わされて、とりあえず全員を屋根裏部屋に・・。

そして遂にやって来た赤軍兵。
両手を高く挙げて「ヤポンスキー」と訴えますが、信じてもらえません。
しかし「シュナップス」がないことが判ると、腕時計を奪って出て行きます。
ベルリン市内では武装SSが地下トンネルで激しく抵抗し、赤軍も苦戦との情報が入るなか、
こちらにやって来たのは、ウズベク人とポーランド兵の質の悪い混成部隊だと判明します。

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流暢なドイツ語を喋る大佐のもとに出頭し、暴行を止めるように訴えます。
そこにはゲッベルスの寵愛を受けていたと言われる大舞台女優のオルガ・チェホワもおり、
ロシア語で楽しそうに談笑。「彼女がスパイであったという噂は本当らしい・・」。
ちなみにこの女性については、5月にアントニー・ビーヴァーの本が出ています。
「ヒトラーが寵愛した銀幕の女王: 寒い国から来た女優オリガ・チェーホワ」ですね。

The Mystery of Olga Chekhova.jpg

帰ってもやって来るのは「ドイチェ・フラウを出せ!」と怒鳴るポーランド兵たちです。
「ドイツ兵はポーランドの女を一人残らず暴行した。その仕返しをしてなぜ悪い。
私はドイツの女を全部強姦するためにやって来たのだ」。

ヒトラーも自殺して、近郊から集められた25人の日本人はモスクワへ送られることに・・。
2台の軍用トラックに乗せられて、戦闘が終わったばかりの荒廃したベルリン市内へ入ると、
交差点ではスタイルの良い制服を着た女兵士がテキパキと交通整理。

Регулировщица в Берлине, 1 мая 1945.jpg

国会議事堂の屋根にもブランデンブルク門にも赤旗がはためき
東に向かって大量のドイツ軍の捕虜が歩いています。
この捕虜の一団を先導しているのはポーランド人であり、、
強制労働者の立場から一転、その手には憎しみのムチが握られているのです。

Berlin, German prisoners of war.jpg

辿り着いたモスクワでは待遇良く、赤の広場にレーニン廟まで見学。
真新しい軍服に身を包んだ若い兵士たちは実に礼儀正しく、
「16歳から60過ぎの老婆まで強姦した鬼畜」を想像することは出来ません。

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彼らの胸には「ベルリンの勝利」でもらったという、新しい勲章が揺れています。
う~ん。「ベルリン攻略記章」っていうのが確かにあるんですね。
「大祖国戦争 対独戦勝記章」というのもありますし、
日本人が見たくもないと思うような「対日戦勝記章」もあります。
左からその順番で・・。

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前2冊の日本人ベルリン最終戦シリーズに勝るとも劣らない一冊でした。
それどころか、ほぼベルリン市民と同化していますから、
戦時下のベルリン: 空襲と窮乏の生活1939-45」の日本人体験版といった趣も・・。
政治的、軍事的視点が一般市民レベルというのが逆に生々しいですし、
情報の錯綜、独ソのプロパガンダに揺れる心も伝わってきました。
最初から最後まで興味深いエピソードの連続で、実に堪能しました。
以前にコメントで教えていただいた、東部戦線ハンガリー軍の従軍取材があるという
「第二次世界大戦下のヨーロッパ」もつい買ってしまいました。









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ベルリン特電 [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

江尻 進 著の「ベルリン特電」を読破しました。

もう3年も前の「ベルリン終戦日記 -ある女性の記録-」の時にオススメいただいた本書は、
第二次大戦下ベルリン最後の日 -ある外交官の記録-」、「最後の特派員」と続く、
日本人の体験したナチス・ドイツの興亡モノです。
1995年、310ページのハードカバーで、著者は当時の同盟通信社のベルリン支局長。
日本版ウィリアム・シャイラーってトコでしょうか。

ベルリン特電.jpg

1939年2月、突然ベルリン支局長として単身赴任の内命を受けた著者。
2日間の短い新婚旅行から戻ってきた翌日のこと。
著者は1908年生まれですから、30歳になったところ、新婦はまだ20歳です。
親からは「お前のやったことは詐欺だ」と烈火のごとく怒られる始末ですが、
当人も寝耳に水であり、英語には多少自信はあるものの、ドイツ語はダメ。。

郵船の欧州航路は月2回、残っていた乗船切符は「特別1等室」のみ。
月給100円の時代に、船賃1千円也。それでも急き立てられた結果、
若奥さんも連れて、神戸から筥崎丸で豪華客船の旅を満喫することになるのでした。

筥崎丸.jpg

マルセイユまで43日、そして井上パリ特派員が推薦してくれた大衆的な可愛いホテルは
手洗い、風呂が別室の共用になっていて、小さな寝室を見た若奥さんは、
「これが花の都パリのホテルですか」と涙声・・。
ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京に次ぐ人口420万の大都会、
ベルリンまでの列車の旅も珍道中のような展開で、こういうのは好きですねぇ。
ちなみに著者は「同盟通信社」の支局長ですが、この通信社は1936年に設立され、
戦後は「共同通信」と「時事通信」に分かれた、日本最大の通信社です。

東方での軍事的紛争が近くに起こるのでは・・という雰囲気に、
ベルリンから早速、ポーランド行の列車に乗り込みます。
食堂車で相席となったポーランド人弁護士の見通しは、
「ポーランド軍は特に騎兵が強力なので、ドイツ軍は撃破される」。
さらに「騎兵は逆にドイツ領に突入するかも・・」と自信満々です。。

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始まったベルリンでの生活はドイツ語教室通いに、住居探し。
4、5軒の候補住居の下見と交渉に向かうのは、地図と和独小辞典を抱えた新妻・・。
慣れぬ外国で単身交渉に当たる行動力には、新米特派員も太刀打ちできません。

そんな着任2ヵ月後には「独ソ不可侵条約」が発表されます。
ソ連情報にも精通したエストニアの新聞記者から入手した情報には、
ポーランド分割に関する"秘密協定"も存在し、この重大情報を日本に打電。
すると翌朝、ドイツ外務省情報部日本課長から呼び出しを受け、
「総統は、こんな極秘事項を打電した特派員は国外追放にしろ、と激怒している」。

German-Soviet Nonaggression Pact.jpg

本書でも説明していますが、ナチ党としてはオットー・ディートリッヒを長とする、
党宣伝部の組織を持ち、記者を集めて重要政策の演説したりとする一方で、
ゲッベルスの宣伝省が、内外のプレスに対して実務的な宣伝工作を行っています。
さらにリッベントロップの外務省も絡んでくる・・という相変わらずのややこしさですね。

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翌月には、ドイツ軍のポーランド侵攻、反対側からソ連・・と分割作戦が開始。
著者は「真実の報道なのに、あのような圧力を加えるとはけしからん」と抗議するも、
「日本の代表通信社が報道すると、真実として信用されるので困るのだ」と
訳のわからない説明に終わるのでした。

Berlin, Germany, December 1939, A press conference at the Ministry of Propaganda​..jpg

そしてワルシャワでの戦勝パレードに従軍記者として参加することになった著者。
飛行場で外国人記者たちひとりひとりに話しかけるヒトラーの姿があります。
こうして著者の番、握手をしたもののドイツ語の挨拶がとっさに出てこない大ピンチ・・。
眼と眼は睨み合ったまま、ジーッと手を握ったまま放してくれません。。

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またソ・フィン戦線への従軍の招待を受け、カレリア地方の第一線の塹壕まで行ってみると、
200m先の塹壕から無防備のソ連兵士が身を乗り出して、手を振っています。
ソ連軍はフィンランド軍の強さに懲りて、ジッと守りに徹しているという、一見平和な風景。
ちょっとばかりシモ・ヘイヘがソ連兵を殺し過ぎたのかもしれませんね。

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翌1940年、始まった欧州動乱によって若妻を日本へと送り返し、
ドイツ軍の西への集結ぶりなどから、「ドイツ軍の西部攻撃切迫」を打電します。
するとまたもや「総統が、不当な予測記事だ、として怒っている」と厳重注意が・・。

しかし、「不当な予測記事」は的中し、ベルギー降伏前に第3回目の従軍旅行に招かれます。
米国人3人に、ハンガリー、ソ連、スペイン、フィンランドからの記者という多国籍軍。
オランダのロッテルダムは爆撃によって激しい破壊の跡が見られますが、
アムステルダムでは、「これが欧州の戦争なのか」と首をかしげるほど、お店も開いています。

Amsterdam 1940.jpg

ダンケルク、カレー、そしてパリへと辿り着き、シャンゼリゼ通りでのドイツ軍の行進
コンコルド広場で解散したドイツ軍将兵は、フランス人女性と腕を組み、嬉々として散歩。
著者はそのような光景を見て思います。
「これが西欧での、昨日までの敵味方の姿である」。

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1941年には、クーデターを起こしたユーゴへの軍事侵攻、そしてギリシャ戦が始まり、
急遽バルカン従軍記者団が組織されて、唯一の日本人記者として参加します。
このような前線での話は予想以上に面白いですねぇ。

中盤からは独ソ戦を巡る、日本も含めた駆け引きの様子がメインになります。
シベリア鉄道を経て、1941年3月にベルリンに到着した松岡外相。
ウンター・デン・リンデンの大通りから総統官邸まで日独国旗が色鮮やかに飾り、
大々的に歓迎されますが、ベルリン市民からはこんな多くの国旗を並べ立てるのは
配給制のいま、「繊維の無駄遣いである・・」という陰口も聞かれます。
個人的な話で恐縮ですが、初めて「シベリア鉄道」っていうのを知ったのは、
大瀧 詠一の「さらばシベリア鉄道」ですね。。名曲です。

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親独の大島大使と意見の食い違う松岡外相。
公邸ロビーで大臣を待ち受けていた著者は、「独ソ開戦は必至ですよ」と問いかけるも、
「君たちまで、そんな馬鹿げたことを信じているのか」と吐き捨てます。
そしてベルリンからモスクワに向かい、スターリンとモロトフと会談をして、
「日ソ中立条約」を調印。
日本をドイツから引き離し、背後のシベリアの安全を図ろうとしたのは明らかである
と、日本の政治家の無能ぶりに対しては、なかなか辛辣です。

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バルバロッサ作戦の初期にも唯一の日本人記者として従軍する著者。
本書ではポーランド戦から始まって、この独ソ戦までの戦局も、並行して丁寧に書かれています。
翌1942年の夏にも再び、独ソ戦に従軍。今度はセヴァストポリ攻撃の報道です。
巨大列車砲ドーラにも触れられますが、ドイツ軍の最後の攻撃では
「第2次大戦では少ない例のひとつとなったが、毒ガスを使った殲滅作戦に出た」として、
サリンではなかったか」と推測しています。

ふ~ん。。これは聞いたことがないなぁ。ホントだとするとマンシュタインが悪者にされますね。。
ただ、第1次大戦で使われた毒ガス兵器が野蛮だと考えられて使われず、
火炎放射器はOKっていうのも、なんだかなぁ・・と思うんですね。あれもヒドイ。。

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スターリングラードクルスク、そしてアフリカ戦線の戦局も紹介しながら、
「舞台裏の攻防」として、東京のゾルゲ事件についてもかなり書かれています。
要は、著者が日本に送った独ソ開戦を巡る情報が、間接的にゾルゲへ、
そしてモスクワに送られた・・ということですね。

1943年3月、ヒトラー、リッベントロップ、大島大使の3者会談で、
突然ヒトラーがデーニッツらとの打ち合わせもなく、U-ボート2隻を寄贈すると言い出します。
野村中将はこの第1号である、U-511で帰国することとなり、
名艦長の37歳のシュネーウィンド中尉・・と書かれていますが、26歳かな??

Fritz Schneewind u511.jpg

いずれにせよ、途中で商船を魚雷で撃沈しながら、無事に呉に辿り着き、
「呂-500」という日本の潜水艦になったというこの話は面白く、
「潜艦U-511号の運命―秘録・日独伊協同作戦 」という本が出ているそうです。
コレ古すぎるんで、どこかで再刊してくれませんかねぇ。

U-511_1943.jpg

1944年にはフランス出張で大西洋の防衛線を一巡します。
ブンカーの陰で日向ぼっこで居眠りしているドイツ兵の姿を眺め、
ベルリンに帰着後、「当分、連合軍の上陸作戦はない模様」と打電すると、
報道用ではないこの情報が、日本の占領各地にも大きく報道されます。
そしてその翌日、ノルマンディ上陸作戦が・・。

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1945年4月になると支局のあるベルリンも爆撃によって大混乱です。
街中には人影が消え、15歳前後のヒトラー・ユーゲントの少年が、
パンツァーファウストで警戒に当たっているのが見かけられるだけ・・。
そんな首都からの脱出を決意した著者に宣伝省から、
「南ドイツに政府の一部が移動し、南政府が組織される。
同盟国の代表が移転先へ同行されることを期待する」ということで、
一応、4連発の高射機関砲を装備した、貧弱な特別編成の列車に乗り込みます。

hitlerjugend  Panzerfaust.jpg

最終的には大島大使ら大勢の日本人とも合流し、ドイツの敗北、
東京大空襲、原爆投下、日本の敗戦をチロル山中から
米国送りとなった船のなかで聞き、12月に帰国を果たすのでした。

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いや~、面白かった。。
新婚の著者が悪戦苦闘しながら、ナチスの戦争の真っ只中で頑張る姿は
思わず応援したくなりますし、妻のいる日本への帰国を要望するも、
戦局悪化のためそっちで踏ん張れと言われ、その仕事の重要性に誇りを持ったり、
特に外務省の秘密クラブを電話で予約する際、「徳川家康です」とか、
トイレのないJu-52でおしっこがしたくなって、仕方なく買ったばかりのボルサリーノに・・
と、人間らしい笑えるエピソードも当時の私信や写真も掲載しながら豊富です。

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また、ソ連や米国の記者仲間も戦局の推移とともにベルリンから去っていくわけですが、
コレも決して彼ら同士には憎しみの感情はありません。
そういえばユダヤ人弾圧の様子は目にしていたものの、
アウシュヴィッツその他での集団虐殺が行われていたという話は全く耳に入らず
戦後に初めて聞かされたそうです。
やっぱり都会では目立つことはやってなかったんでしょうねぇ。

日本人体験の本としては、もう一冊「ベルリン戦争」があるので、
コレも楽しみですね。







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最後の特派員 [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

衣奈 多喜男 著の「最後の特派員」を読破しました。

去年の6月に新関 欽哉 著の「第二次大戦下ベルリン最後の日 -ある外交官の記録-
という日本人の見た面白い本を紹介しましたが、本書も元々アントニー・ビーヴァーの
ベルリン終戦日記 -ある女性の記録-」のときにコメントで教えていただいた一冊です。
戦後間もない1947年に朝日新聞社から「ヨーロッパ青鉛筆」として、
1973年に「敗北のヨーロッパ特電―第二次世界大戦ドイツ・イタリア陣営の内幕」として
朝日ソノラマから刊行されていたものに若干修正を加え、
1988年に朝日ソノラマ文庫の「新戦史シリーズ」として復刊されたという長い歴史を持ったものです。
そして当時、朝日新聞の「特派員」だった著者は、後に「朝日ソノラマ」の社長も務めたそうです。

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日独伊三国同盟が締結された4ヵ月後の1941年2月、
悠長な船旅をすることの出来た「最後の特派員」である著者は、「浅間丸」で横浜港から出港。
2週間でサンフランシスコに到着し、ニューヨークの朝日新聞支局まで・・。
そしてUボートを警戒しながら進む米商船でポルトガルに到着したのは4月1日です。

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汽車で「スペインの大阪」バルセロナ。
ドイツ軍がユーゴのベオグラードを空襲したというニュースを聞きながらジュネーブへ・・。
最終的に辿り着いたローマの朝日新聞支局長を引き継いだあと、
日本軍の真珠湾攻撃が起こるのでした。

ジブラルタルやドイツ軍占領下のフランスも取材しながら迎えた1942年の12月、
ムッソリーニはベネチア宮殿に日本の新聞記者を引見します。
この時のことを「闘病のあとも残り、涙ぐましいものがあたりを支配していた」と
翌年に起こる政変を予感しています。

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本書は各章の初めに一般的な戦局や各国の情勢などを解説し、
その後に著者自身の体験談・・という流れで進みます。
1943年7月の最後のファッショ大評議会でムッソリーニに反旗が翻されると
農水省パレスキが極度の緊張から、2回も失神・・。
情勢の解説もこんな感じですから、それほど詳しくない方でも安心して読み進められますね。

ファシスト党員証を破り捨て、一斉に街の歓喜のなかに入って行く青少年団員。。
支局のスタッフも「お前はファシストか」と聞くなり殴りつけてくる連中から逃げ延びます。
混迷の中にバドリオ元帥登場となると、本書では
「国家経世の一大事には、どの国でも"国宝的老人"が担ぎ出されるのが順序である」。
これには思わず苦笑・・。1940年のフランスもペタン元帥でしたしねぇ。。

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「バドリオ万歳」の声も、新内閣の戦争継続声明の前に市民も落ち着きますが、
今度は「ヒトラーが死んで、後任はゲーリングに!」という噂が広まって、
群衆は「これで戦争は済んだ!」と再び、大騒ぎに・・・。
噂の元は某中立国領事館で、バルコニーから大声でそのような発表をしていたのでした。

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イタリア本土に上陸した英米との戦争休戦を宣言し、ドイツ軍の報復を怖れて
ローマから逃亡するバドリオ首相と国王エマヌエーレ3世
日本の大使館に陸軍事務所、そして新聞記者たちも慌ててローマからの脱出を図ります。
3日後にはベネチアに到着した10数台の日の丸自動車隊。
ベネチアーノが押し寄せて「ローマはどうか」、「イタリアはどうなるのか」と質問攻めに・・。
そこへドイツ軍の装甲車が登場し、青年将校がイタリアの憲兵将校と握手して
武装解除が始まります。

ローマではイタリア軍の歩兵砲が腰を据えていますが、ドイツ軍戦車の前にひとたまりもなく追走し、
バチカン駐在のドイツ大使、ヴァイツゼッカーが非武装都市宣言を認めます。

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その一方でモントゴメリーの進撃に対し、ケッセルリンクを最高司令官に任命して、
防衛作戦を立て始めるドイツ軍。
ドイツ軍砲兵陣地に「12サンチ」の重砲4門が3脚を広げているのを見学する著者。
カメラのシャッターを切る指は砲口の閃光と同時に下りますが、
これは撮影者の意思ではなく、爆発の反射運動によるそうで、
いわば砲手がシャッターを一緒に切ってくれるみたいなものなんだそうです。

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さらに「今をときめくドイツの戦車タイガー」にも出会います。
大木をいっぱい付けて、小さな森のように偽装したその姿・・。
隊長に話をして内部も見学。ぎっしり詰まった砲弾が自動装填ではなく、
いちいち手で込めることに驚きつつも、「どうせなら、ちょっと前進できないか」と注文も・・。

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モンテ・ソラッテという山に築かれた一大岩窟要塞にはケッセルリンクが鎮座しています。
一度も日本人記者に会ったことのない元帥を取材するため、強行突破。
対応に出てきたゲンツォ少佐からも了解を得られます。
アフリカ遠征用の夏服に、首には剣章が揺れる、人なつっこい顔のケッセルリンクと対面。
「お望みなら、あなたの新聞に論文を書いてもいい」と気さくに語る元帥に感激・・。

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ゲンツォ少佐とも仲良くなりますが、著者は「源造」さんと呼ぶところが笑えますね。。
そして同行するPK(宣伝班)のショーベルトくんとの自動車の旅。
しかし最も苦労するのはガソリンです。
「ガソリン乞食」と成り下がり、方々を徘徊するもなかなか手に入らず・・。
途中、出合った親切なドイツ軍将校から10㍑を分けてもらい、
「ダンケ・シェーン」、「ビッテ・シェーン」と気持ちの良いドイツ語が爽やかに・・。

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再びローマへ戻った1944年の1月。
ホテルに数十人のドイツ兵がやって来て「エングランダーとアメリカーナーが向かってくる。
お前はヤパーナーなのに、こんなところに待っていて良いのか?」
日本人である自分がドイツ軍に守ってもらっていることに改めて気づき、
ローマの防衛司令官メルツァー将軍と話をして戦況を確認するのでした。

German paratroopers in Rome, Italy.jpg

6月4日、米軍が遂にローマに入城し、その直後にはノルマンディにも上陸
パリにいた著者はPKの少尉を案内人として、7月1日ノルマンディの前線に向かいます。
サン・ローは最後の砲火を浴び、人口6万の街、カーンは廃墟となっています。
死臭の漂うカーンに足を踏み入れるのも束の間、大爆撃に遭遇・・。
3発の至近弾を浴びてヘルメットから足まで真っ白になり、次の爆撃までに脱出することを決意。
PKの少尉は動くのは危険だと異を唱えるものの、運転兵は「ヤボール!」
まさにカーン攻防戦の最後の劫火に遭遇したこの章は一番印象的でした。

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今度は解放の迫るパリからドイツ軍とともに脱出することになった著者。
ホテル・マジェスティックの前に並んだ40台のコンボイに彼の車も混ざっています。
日が暮れてから出発。午前3時になると「全員そのままの姿勢で2時間睡眠」の命令が。。
5時かっきりにオートバイ伝令がけたたましく走って「アップファーレン!」

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突然、轟音と一緒に巨鯨のような黒い影が見えると、慌てて車から逃げ出します。
バスのなかにいたドイツの「フローライン」もいっせいに躍り出すなり、溝に伏せますが、
著者は「驚くべき迅速な集団行動にイタリアやフランスでは見られない、
"訓練された女"の美しさ」を発見するのでした。

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ライン川を越えてドイツ本土に入り、ボンからベルリンへ・・。
PKから今一度、ロシア戦線を見てくれないか・・?と勧誘が来ますが、
同僚たちから「脱出特派員」とまで言われていた著者はスウェーデン行きを決意します。
この中立国にやって来た人々は祖国の戦雲に追われてきた避難民たちと、
ヨーロッパ戦争劇の千秋楽を見ようとする観客たちに分かれています。
そしてこの国からドイツの敗戦と、日本に宣戦布告するソ連、原爆、降伏を知るのです。
タクシーの運転手は聞いてきます。
「日本が戦争を止めて、世界が平和になったというは本当ですかい・・おめでとう」。

最後の最後には、日本に帰る親友の技術中佐に写真と手紙を託すエピソード。
その友人の名は庄司元三、彼は友永英夫技術中佐とともにU-234に乗り込むのでした・・。

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ローマやパリからの脱出もさることながら、カーンのような最前線での
命がけの取材というものまであって、想像以上に楽しめた一冊でした。
また、途中ではどうしても同じ記者である「神々の黄昏」や「砂漠の戦争」の
アラン・ムーアヘッドを思い出して、比較したりもしてしまいました。

カナ使いなどを一部改訂しているとはいえ、良い意味でさすがに古い本だな・・
とも思いました。読めない四文字熟語も2つ3つありましたし・・。
でもこういうのは決して嫌いじゃないんですね。
今回はその雰囲気が伝わっていれば良いんですが。。
一度は1947年版の「ヨーロッパ青鉛筆」も読んでみたくなりました。







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深海からの声 -Uボート234号と友永英夫海軍技術中佐- [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

富永 孝子著の「深海からの声」を読破しました。

4月の「Uボート総覧」に書かれていた、終戦間際の謎を秘めたU-234の話・・。
それは日本人士官2名と560㎏の「ウラン酸化物」を乗せたU-234がキールを出港したものの
ドイツの降伏の知らせに、日本人士官は自決、降伏したU-234は米軍に捕えられ
「ウラン酸化物」はそのまま行方不明・・という事件でした。
本書はこの事件にスポットを当て、特に日本人士官2名のうちの一人、
表紙を飾るイケメン、友永英夫海軍技術中佐の人生を大きく取り上げたものです。

深海からの声.jpg

「序章」では著者が本書の執筆に至る経緯・・、昭和も終わろうとする頃、
吉村昭著の「深海からの使者」を読み、そこに登場する2人の技術士官の秘話に胸を打たれ、
偶然、友永海軍技術中佐の遺族が身近にいることがわかったことから
取材を進め、U-234の乗組員たちにインタビューを行うために、北ドイツのキールも訪れます。
ウラン酸化物や日本人士官2名の自決の件など、この時点でダイジェスト的に書かれていて
おぉっと、という感じですが、これは本書がそれを前提としているということなんですね。

次の章から本格的に36歳の潜水艦設計のベテラン友永技術中佐と、
42歳の航空機エンジン開発リーダー庄司技術中佐がU-234に乗り込み、
その艦内での生活・・ドイツ人の若きボート乗組員たちとの交流の様子が語られます。
1945年2月末から始まるこの章は、このU-234に乗り込むメンバーが非常に興味深く、
あの仮装巡洋艦アトランティスの拿捕士官という経歴を持つ25歳の新人Uボート艦長
フェラー大尉に始まり、ミサイルの専門家である空軍大将ケスラーもお客として日本行き。
これは前年のヒトラー暗殺未遂に賛同していたことから、ゲシュタポの追及を逃れるため・・
というのがその理由です。
さらにはメッサーシュミット社から民間のトップ技術者など、日本人の2人を入れると
12人のお客と海空の各種新兵器、そして「ウラン」を乗せて、いざ日本へ向けて出航。

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しかし直前には「出航中止」命令が総統司令部から届くと、これを覆す命令・・、
「U-234は私の命令で即時出航せよ」がデーニッツ司令官から届くなど、
終戦間際のドタバタに、装備の故障、さらに敵機からの空襲に急速潜航を余儀なくされたりと
出だしから問題山積です。

無事に大西洋へ進出したものの、そこで送られてきた無電は「ヒトラー総統死去」、「ドイツ降伏」、
そして「日本はドイツとの同盟関係を放棄した」というものです。
フェラー艦長にケスラー大将らは対策を協議し、このまま帰国するか、アルゼンチンへ向かうか・・。
まるで「U‐ボート977」とそっくりの展開ですが、このU-234には頑固な日本人も乗艦していて
もちろん彼らは、執拗に当初の目的どおりの日本行きを進言し続けます。
しかし、その願いが叶わないことを悟った二人は、遺書をしたため・・。

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この二人の最期と同時に米海軍に拿捕されたU-234の物語が終わった段階で
150ページを過ぎたところです。
ちなみに本書はハードカバーの448ページという結構なものなんですが。。

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そしてここからは友永中佐伝が始まり、幼少の頃から妻との出会い、
呉の造船部に実習士官として配属、その後、佐世保で潜水艦設計で大きな注目を集め、
昭和15年(1940年)には「自動懸吊装置」と「重油漏洩防止装置」の2大発明によって
海軍技術関係のノーベル賞ともいわれる「海軍技術有功章」が2度も与えられます。
ちなみに勲章好きのヴィトゲンシュタインはこれをちょっと探してみましたが、
綺麗な物は見つかりませんでした(空襲で無残に焼けたものだけ・・)。
七宝焼きで、とても美しいもののようです。

このような活躍が認められて東京の海軍艦政本部勤務となり、友永一家も東京へ。
住所は「東京市小石川区賀籠町102番地」。。ヴィトゲンシュタイン家と結構ご近所さんですね。
そして1943年、彼の発明をドイツに伝達することと、Uボートの調査/研究のため、
いよいよドイツへと旅立ちます。
家族共々と過ごす最後の休日では上野広小路の写真屋や上野動物園のエピソードと
その写真も掲載され、よりヴィトゲンシュタインの地元でのこの場面は不思議な気持ちになりました。
そういえば「象の花子」の話もこんな時かなぁ。。

上野動物園 象の花子.jpg

洋上で「伊29」から「U-180」に乗り換え、カレーライスの作り方も伝達して、人気者になる友永。
また逆に「U-180」から「伊29」に乗り換え、日本へと向かうのが
インド独立を目指してドイツへ亡命していたチャンドラ・ボースです。
この話、何かで読んだなぁと探してみたら「Uボート戦士列伝」のU-180元機関員の話でした。
ちゃんと友永中佐についても触れられていましたねぇ。

印象的だったのが、乗艦時、日独両語で一文を添えて日本刀をU-180の艦長に贈呈した話です。
「私の命を預けた男。U-180潜水艦長、ムーゼンベルグ海軍少佐殿へ」。
もちろん、艦長はいたく感動・・。読んでるこっちも感動・・、友永中佐、カッコ良過ぎるぜ・・・。

Werner Musenberg u180.jpg

こうして無事、ボルドーへ入港し、陸路、ベルリンへ向かう友永。
彼の発明を半信半疑にに聞いていたUボート関係者もそれを理解すると、
畏怖の念を込め、われ先にと握手を求めます。
三国同盟の話では、イタリアをまったく信用していないドイツ軍の態度が面白く、
機密兵器に関する時には「イタリア海軍には内密に・・」と日本海軍に念を押す始末です。

「あとがき」ではキールのUボート記念碑メモリアルホールに、日本の両中佐を顕彰した
記念板があり、「勇士たちよ!・・・」と刻まれている詩が紹介されます。
そして、あの降伏交渉を成し遂げた後、自決したフリーデブルク提督の名がもう一枚の額に・・。
さらにドイツ政府は二人の命日には駐日大使を通して、
毎年、献花や供物を手向け続けていた・・ということです。

Admirał Karl Donitz_admirał Hans Georg von Friedeburg.jpg

全体的に友永英夫海軍技術中佐、そしてもうひとつの主役であるU-234と乗組員たち、
さらにはUボートそのもの、例えばシュノーケルの解説など、非常に良く調査され、
わかりやすく丁寧に書かれているなぁ・・と感心しました。
友永中佐の奥さんと娘さんが1992年のU-234の会合に出席する話は
帰れなかったドイツ兵」を彷彿とさせるものでしたし・・。

ただ、これはあくまで個人的な趣味による見解ですが、
本書の構成は果たしていかがなもんでしょうか?
ヴィトゲンシュタインが一番知りたかった部分はあっさり前半で終わってしまい、
その後は半分以上が友永中佐伝(これはこれで面白いですが・・)。
もうちょっと、どうにかならんもんかなぁ・・という印象です。

自分だったら、友永中佐が初めてUボートブンカーのU-234を訪れた際に、
彼がここに至った経緯を回想形式で紹介するとか、
自決を決意するところで奥さんと娘さんの話が出てくるとか、
独立した章ではなくて、うまく混ぜ合わさっていたら、たぶん、涙ボロボロだったと思います。

実際、友永伝の後半では、ちょっと「うぅ・・」となりましたしねぇ。
なにかもったいない・・構成次第で「名著」と呼ばれるものになった気もするのが残念です。。



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