ヒトラーの呪縛(下) - 日本ナチ・カルチャー研究序説 [ナチ/ヒトラー]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
佐藤 卓己 編著の「ヒトラーの呪縛(下)」を読破しました。
普通は上下巻の文庫を読もうと思ったとき、まとめて入手するんですが、
本書は果たしてどんなモンなのか?? と少し不安で、まずは上巻だけを試し読み・・。
しかしそんな不安をよそになかなか楽しめましたので、早速、下巻に挑みます。
第6章から始まるこの下巻はまず、「コミック&アニメ」です。
ヒトラー自身を主人公とする娯楽マンガとしては、戦後少年マンガの巨匠として双璧を成す、
手塚治虫の「アドルフに告ぐ」と、水木しげるの「劇画ヒットラー」を詳しく比較。
前者はフィクションであり、後者は史実に基づいて描かれているという相違はあるものの、
戦時中は銃後にいた手塚と、戦地で片腕を失った経験のある水木との違いも指摘します。
「週刊少年ジャンプの友情とナチス」として・・、「リングにかけろ」からはJr世界大会準決勝、
対戦相手の総統スコルピオン率いるドイツチームは「Jrナチス親衛隊」であり、
メンバーはゲッペルス、ヒムラー、ゲーリングとそのまんまで何の捻りもナシ。。
「サーキットの狼」では、暴走族ナチス軍ポルシェ隊総統のカレラには鈎十字が・・。
「キン肉マン」になると、「ブロッケンマン」が口から吐き出す毒ガス攻撃にラーメンマンも悶絶。
実況も思わず、「ま、まさにナチスガス室の恐怖を再現しております!!」。
ん~・・。そう言われてみると、なんとなくそんなことも記憶の片隅に・・。
この章はタイトルが「デスラー総統はドイツ人か」というくらいあって、
当然、「宇宙戦艦ヤマト」も分析します。
副総統の名前がレドフ・ヒス、
勇将ドメルとゲールに至っては最初のうちロンメル、ゲーリングと呼ばれていたと。。
それでも松本零士曰く、「デスラーはヒトラーと関係ない」。
しかし総統デスラーと聞いて、彼を善玉だと思う読者や視聴者は皆無であり、
容赦なき侵略者としてピッタリのイメージで、正義の味方がぶっ殺しても後腐れが無く、
なにより名前の響きが「カッコいい」のであって、
総統ピーターソンや総統ワタナベでは「サマにならない」と分析。
2008年にはヤマト公開30周年を記念して、「デスラー総統ワインセット」が発売され、
13650円も完売。。特典としてデスラー勲章と、
デスラー総統の訓示を書いたリーフレットも付いていたそうな・・。
それから「ガンダム」のナチスチックな部分についても解説してますが、
ヴィトゲンシュタインはまったく見てないので割愛・・。
また、ミリタリー・マニアたちに熱烈な支持を受けるマンガ家として、小林源文も紹介。
そして1990年代、日本マンガ文化の「国際化」によって、海外輸出文化となり、
ポケモンカードの卍がユダヤ系団体から抗議を受け、回収するような環境です。
グローバル化するマンガ市場がある一方、ローカル化する「同人マンガ」という二極化が進み、
コミケにおける「ナチ・パロディ」、ナチスの少女マンガ化へと話しは移っていきます。
あ~、この世界は全然だめだ・・。
第7章は「トンデモ本」・・。
イヤな予感がしますが、予想どおり落合信彦の「第四帝国」からです。
コレは「ジョーク本」というカテゴリーがある独破戦線でさえ、紹介しなかった、
というか、半分まで読むのがやっとこさ・・という、超トンデモ本ですね。
何というか、馬鹿らしいのに真面目にやってて、ソコに笑いが無いのがいけません。。
しかし矢追純一 著の「ナチスがUFOを造っていた」には笑いがあります。3回は爆笑できます。
本書でもドコがどうトンデモなのか、同じような指摘をしてますねぇ。
もう1人著名な作家としては出ました、ノストラダムスの大予言で知られる御大、五島勉の
「1999年以後 -ヒトラーだけに見えた恐怖の未来図」で、この本でヒトラーは、
後藤久美子や今井美樹、菊池桃子に中山美穂といった1980年代後半のアイドルまで予言。。
7月にコレが加筆、改題され「ヒトラーの終末予言 側近に語った2039年」として復活しました。
そして五島勉を遥かに上回る超絶なトンデモ本も存在するそうで、
それは「滅亡のシナリオ―いまも着々と進む1999年への道」。
このタイトルには「原作:ノストラダムス 演出:ヒトラー」と書かれているように、
ノストラダムスがヒトラーを予言したのではなく、ヒトラーはノストラダムスの予言を
成就させるために全ての行動を起こしていたのだ・・と主張。
著者は精神科医の川尻徹氏・・。
この人は栄えある第一回「日本トンデモ本大賞」の受賞者であり、
かの麻原彰晃も熱心な読者だったそうです。ソコまで曰くつきだと読んでみたくなりますね。。
ヤコブ・モルガンなる人物が書いた「誰も書かなかった昭和史」は、
ヒトラーはフリーメーソンだった説を展開。
大戦はドイツや日本などの非ユダヤ国家を壊滅させるために、
米英仏のユダヤ国家が仕組んだ陰謀・・だという論理を貫くこの本では、
スターリングラードでのドイツ軍の敗戦も、
ヒトラーがあらゆる戦局で勝たないよう予定通りに指導したから・・というもの。
この論理でいくと、失敗した作戦を立案した将軍は、全員フリーメーソンです。
トンデモ本作家はまだいました。大川隆法先生です。
7月にも「赤い皇帝 スターリンの霊言」を刊行していますが、
2010年には「国家社会主義とは何か」という本でヒトラーの言霊との対話記録を掲載。
本書でも中国が日本に侵攻する場合の具体的な戦略を気楽に語る
ヒトラー(の言霊)との対話を1ページ抜粋しています。
ヒトラー・・「やはり電撃戦しかないね。基本的には電撃戦を勧めてる」。
あまりにアホらしいんでカッツアイ!
昨年、ちょっとした話題になった「眠れなくなるほど面白いヒトラーの真実」の話もありました。
ドイツとイスラエルの大使館から抗議を受けて、ローソンが早速店舗から撤去。
このようなヒトラーとナチスの「すごい」ところだけに焦点を当てた出版物に目を光らせているのが
サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)であり、2003年に戦犯追及の終了を宣言した現在、
ユダヤ陰謀論などを提唱する団体の摘発、つまり「歴史パトロール」機関と化しています。
まぁ、個人的には閉鎖してもらって構いません。。
第8章は「文芸」・・。上巻からここまできて、「文芸」とは何ぞや?? と思いましたが、
帚木蓬生の「ヒトラーの防具」といった日本人作家によるナチス小説をまず紹介。
続いては三島由紀夫の戯曲として有名な「わが友ヒットラー」。
実のところヴィトゲンシュタインはですね・・、日本人作家の小説類は全然読まないんですよ。
なのでこの章では、幻の兵器「超カルル砲」の謎を追うという五木寛之「ヒットラーの遺産」を
読んでみたくなりましたが、佐々木 譲の冒険小説「ベルリン飛行指令」を購入してみました。
最新の演劇としては去年、再演された三谷幸喜作「国民の映画」が詳しく紹介されています。
ベルリンを舞台に、ゲッベルズと映画人たちとの間で繰り広げられる人間ドラマで、
ゲッベルス役に小日向文世、ヒムラーは段田安則、そしてゲーリングに渡辺徹・・。
このメンツだけで笑えてきます。。
第9章は「架空戦記」です。
このジャンルにもあまり手を出したことがありませんね。早い話が「たられば戦記」であり、
思い浮かぶのはリチャード・コックス著の「幻の英本土上陸作戦」くらいでしょうか?
本書ではその筆頭格として以前に「ヒトラー時代のデザイン」だけは読んだ柘植久慶の
一連の軍事シミュレーションである「逆撃シリーズ」の解説を読むと、
独善的社長のヒトラーや、体面だけを気にする重役ボルマンと積極的にわたり合い、
サバイバルを試みるよう促す物語であるそうで、何だか余計にわからなくなってきました。。
思うに、架空戦記と一口に言っても、大きく分けられるような気がしますね。
1つは歴史のちょっとした「IF」、あの戦役の勝者が逆であったら?? というようなもの、
もう1つには、この章でも紹介されているような、どうやってか「日独決戦」になってしまうもの・・。
まぁ、確かに日本人ですから、日本人の立場で、ヒトラー率いるナチスと戦いたい。。
いわゆる宇宙戦艦ヤマトの第2次大戦版のような戦記であり、
日本軍の武器でティーガー戦車に戦いを挑んでみたい・・という願望を
理解できなくもありませんが、そこまで何でもアリとなると、
読んでいて「だったらもっとこういう展開にしろよ・・」と文句を言いたくなってしまいそうです。
本書では広義の意味での「架空戦記」は現在、
インターネット・ゲームの「艦これ」に見ることができるとして、
戦艦ビスマルクは、プライドの高い金髪の美少女で、育成が難しい戦艦うんぬん・・と解説付き。
どーですか? いまコレをお読みのお父さん方は、話について来れていますか?
最後の第10章はその「インターネット」です。
1999年時点でも、3000件以上の日本語のヒトラー関連ページが存在する世界。
ナチスを中心とした「軍装店」がネット上にいくつも存在し、ヒムラーの1/6フィギアも買える時代。
また「ヒトラー 最期の12日間」は、映画そのものよりも動画の素材として大人気になったとして、
YouTubeのあの「総統はお怒りのようです」まで紹介します。
確かにナチカルとして確立してますな。
率直な感想として上巻の方が楽しめましたが、それは個人的にドコのナチカルに属しているか
といったことが理由でしょう。「海外ノンフィクション文庫」、「映画」、「ロック音楽」は
ナチスに限らず、ヴィトゲンシュタインの人生の大半を占めていますし、
逆に若い人や女性なら、下巻の方が楽しめる要素が多いように感じました。
単にナチカルをジャンル分けして面白おかしく紹介している本ではなく、
日本におけるヒトラー、ナチスとは何なのか?
その文化への浸透具合の時代による遍歴を洗い出しながら、
今の時代、どのように向き合うべきなのかにも言及した、考えさせられるものでした。
佐藤 卓己 編著の「ヒトラーの呪縛(下)」を読破しました。
普通は上下巻の文庫を読もうと思ったとき、まとめて入手するんですが、
本書は果たしてどんなモンなのか?? と少し不安で、まずは上巻だけを試し読み・・。
しかしそんな不安をよそになかなか楽しめましたので、早速、下巻に挑みます。
第6章から始まるこの下巻はまず、「コミック&アニメ」です。
ヒトラー自身を主人公とする娯楽マンガとしては、戦後少年マンガの巨匠として双璧を成す、
手塚治虫の「アドルフに告ぐ」と、水木しげるの「劇画ヒットラー」を詳しく比較。
前者はフィクションであり、後者は史実に基づいて描かれているという相違はあるものの、
戦時中は銃後にいた手塚と、戦地で片腕を失った経験のある水木との違いも指摘します。
「週刊少年ジャンプの友情とナチス」として・・、「リングにかけろ」からはJr世界大会準決勝、
対戦相手の総統スコルピオン率いるドイツチームは「Jrナチス親衛隊」であり、
メンバーはゲッペルス、ヒムラー、ゲーリングとそのまんまで何の捻りもナシ。。
「サーキットの狼」では、暴走族ナチス軍ポルシェ隊総統のカレラには鈎十字が・・。
「キン肉マン」になると、「ブロッケンマン」が口から吐き出す毒ガス攻撃にラーメンマンも悶絶。
実況も思わず、「ま、まさにナチスガス室の恐怖を再現しております!!」。
ん~・・。そう言われてみると、なんとなくそんなことも記憶の片隅に・・。
この章はタイトルが「デスラー総統はドイツ人か」というくらいあって、
当然、「宇宙戦艦ヤマト」も分析します。
副総統の名前がレドフ・ヒス、
勇将ドメルとゲールに至っては最初のうちロンメル、ゲーリングと呼ばれていたと。。
それでも松本零士曰く、「デスラーはヒトラーと関係ない」。
しかし総統デスラーと聞いて、彼を善玉だと思う読者や視聴者は皆無であり、
容赦なき侵略者としてピッタリのイメージで、正義の味方がぶっ殺しても後腐れが無く、
なにより名前の響きが「カッコいい」のであって、
総統ピーターソンや総統ワタナベでは「サマにならない」と分析。
2008年にはヤマト公開30周年を記念して、「デスラー総統ワインセット」が発売され、
13650円も完売。。特典としてデスラー勲章と、
デスラー総統の訓示を書いたリーフレットも付いていたそうな・・。
それから「ガンダム」のナチスチックな部分についても解説してますが、
ヴィトゲンシュタインはまったく見てないので割愛・・。
また、ミリタリー・マニアたちに熱烈な支持を受けるマンガ家として、小林源文も紹介。
そして1990年代、日本マンガ文化の「国際化」によって、海外輸出文化となり、
ポケモンカードの卍がユダヤ系団体から抗議を受け、回収するような環境です。
グローバル化するマンガ市場がある一方、ローカル化する「同人マンガ」という二極化が進み、
コミケにおける「ナチ・パロディ」、ナチスの少女マンガ化へと話しは移っていきます。
あ~、この世界は全然だめだ・・。
第7章は「トンデモ本」・・。
イヤな予感がしますが、予想どおり落合信彦の「第四帝国」からです。
コレは「ジョーク本」というカテゴリーがある独破戦線でさえ、紹介しなかった、
というか、半分まで読むのがやっとこさ・・という、超トンデモ本ですね。
何というか、馬鹿らしいのに真面目にやってて、ソコに笑いが無いのがいけません。。
しかし矢追純一 著の「ナチスがUFOを造っていた」には笑いがあります。3回は爆笑できます。
本書でもドコがどうトンデモなのか、同じような指摘をしてますねぇ。
もう1人著名な作家としては出ました、ノストラダムスの大予言で知られる御大、五島勉の
「1999年以後 -ヒトラーだけに見えた恐怖の未来図」で、この本でヒトラーは、
後藤久美子や今井美樹、菊池桃子に中山美穂といった1980年代後半のアイドルまで予言。。
7月にコレが加筆、改題され「ヒトラーの終末予言 側近に語った2039年」として復活しました。
そして五島勉を遥かに上回る超絶なトンデモ本も存在するそうで、
それは「滅亡のシナリオ―いまも着々と進む1999年への道」。
このタイトルには「原作:ノストラダムス 演出:ヒトラー」と書かれているように、
ノストラダムスがヒトラーを予言したのではなく、ヒトラーはノストラダムスの予言を
成就させるために全ての行動を起こしていたのだ・・と主張。
著者は精神科医の川尻徹氏・・。
この人は栄えある第一回「日本トンデモ本大賞」の受賞者であり、
かの麻原彰晃も熱心な読者だったそうです。ソコまで曰くつきだと読んでみたくなりますね。。
ヤコブ・モルガンなる人物が書いた「誰も書かなかった昭和史」は、
ヒトラーはフリーメーソンだった説を展開。
大戦はドイツや日本などの非ユダヤ国家を壊滅させるために、
米英仏のユダヤ国家が仕組んだ陰謀・・だという論理を貫くこの本では、
スターリングラードでのドイツ軍の敗戦も、
ヒトラーがあらゆる戦局で勝たないよう予定通りに指導したから・・というもの。
この論理でいくと、失敗した作戦を立案した将軍は、全員フリーメーソンです。
トンデモ本作家はまだいました。大川隆法先生です。
7月にも「赤い皇帝 スターリンの霊言」を刊行していますが、
2010年には「国家社会主義とは何か」という本でヒトラーの言霊との対話記録を掲載。
本書でも中国が日本に侵攻する場合の具体的な戦略を気楽に語る
ヒトラー(の言霊)との対話を1ページ抜粋しています。
ヒトラー・・「やはり電撃戦しかないね。基本的には電撃戦を勧めてる」。
あまりにアホらしいんでカッツアイ!
昨年、ちょっとした話題になった「眠れなくなるほど面白いヒトラーの真実」の話もありました。
ドイツとイスラエルの大使館から抗議を受けて、ローソンが早速店舗から撤去。
このようなヒトラーとナチスの「すごい」ところだけに焦点を当てた出版物に目を光らせているのが
サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)であり、2003年に戦犯追及の終了を宣言した現在、
ユダヤ陰謀論などを提唱する団体の摘発、つまり「歴史パトロール」機関と化しています。
まぁ、個人的には閉鎖してもらって構いません。。
第8章は「文芸」・・。上巻からここまできて、「文芸」とは何ぞや?? と思いましたが、
帚木蓬生の「ヒトラーの防具」といった日本人作家によるナチス小説をまず紹介。
続いては三島由紀夫の戯曲として有名な「わが友ヒットラー」。
実のところヴィトゲンシュタインはですね・・、日本人作家の小説類は全然読まないんですよ。
なのでこの章では、幻の兵器「超カルル砲」の謎を追うという五木寛之「ヒットラーの遺産」を
読んでみたくなりましたが、佐々木 譲の冒険小説「ベルリン飛行指令」を購入してみました。
最新の演劇としては去年、再演された三谷幸喜作「国民の映画」が詳しく紹介されています。
ベルリンを舞台に、ゲッベルズと映画人たちとの間で繰り広げられる人間ドラマで、
ゲッベルス役に小日向文世、ヒムラーは段田安則、そしてゲーリングに渡辺徹・・。
このメンツだけで笑えてきます。。
第9章は「架空戦記」です。
このジャンルにもあまり手を出したことがありませんね。早い話が「たられば戦記」であり、
思い浮かぶのはリチャード・コックス著の「幻の英本土上陸作戦」くらいでしょうか?
本書ではその筆頭格として以前に「ヒトラー時代のデザイン」だけは読んだ柘植久慶の
一連の軍事シミュレーションである「逆撃シリーズ」の解説を読むと、
独善的社長のヒトラーや、体面だけを気にする重役ボルマンと積極的にわたり合い、
サバイバルを試みるよう促す物語であるそうで、何だか余計にわからなくなってきました。。
思うに、架空戦記と一口に言っても、大きく分けられるような気がしますね。
1つは歴史のちょっとした「IF」、あの戦役の勝者が逆であったら?? というようなもの、
もう1つには、この章でも紹介されているような、どうやってか「日独決戦」になってしまうもの・・。
まぁ、確かに日本人ですから、日本人の立場で、ヒトラー率いるナチスと戦いたい。。
いわゆる宇宙戦艦ヤマトの第2次大戦版のような戦記であり、
日本軍の武器でティーガー戦車に戦いを挑んでみたい・・という願望を
理解できなくもありませんが、そこまで何でもアリとなると、
読んでいて「だったらもっとこういう展開にしろよ・・」と文句を言いたくなってしまいそうです。
本書では広義の意味での「架空戦記」は現在、
インターネット・ゲームの「艦これ」に見ることができるとして、
戦艦ビスマルクは、プライドの高い金髪の美少女で、育成が難しい戦艦うんぬん・・と解説付き。
どーですか? いまコレをお読みのお父さん方は、話について来れていますか?
最後の第10章はその「インターネット」です。
1999年時点でも、3000件以上の日本語のヒトラー関連ページが存在する世界。
ナチスを中心とした「軍装店」がネット上にいくつも存在し、ヒムラーの1/6フィギアも買える時代。
また「ヒトラー 最期の12日間」は、映画そのものよりも動画の素材として大人気になったとして、
YouTubeのあの「総統はお怒りのようです」まで紹介します。
確かにナチカルとして確立してますな。
率直な感想として上巻の方が楽しめましたが、それは個人的にドコのナチカルに属しているか
といったことが理由でしょう。「海外ノンフィクション文庫」、「映画」、「ロック音楽」は
ナチスに限らず、ヴィトゲンシュタインの人生の大半を占めていますし、
逆に若い人や女性なら、下巻の方が楽しめる要素が多いように感じました。
単にナチカルをジャンル分けして面白おかしく紹介している本ではなく、
日本におけるヒトラー、ナチスとは何なのか?
その文化への浸透具合の時代による遍歴を洗い出しながら、
今の時代、どのように向き合うべきなのかにも言及した、考えさせられるものでした。
ヒトラーの呪縛(上) - 日本ナチ・カルチャー研究序説 [ナチ/ヒトラー]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
佐藤 卓己 編著の「ヒトラーの呪縛(上)」を読破しました。
6月に出た文庫上下巻の本書は、もともとは2000年に発刊された単行本。
「日本のカルチャー、サブカルチャーにかくも浸透しているナチスの「文化」。
メディア、海外冒険小説、映画、ロック、プラモデルまで。」という謳い文句であり、
そういえば、この「独破戦線」もある意味、「ナチ・カルチャー」に属するのかもしれない・・と、
軽い気持ちで読んでみました。
「序章」では、編著者の「ナチカル体験」を赤裸々に告白します。
1960年生まれですから、ヴィトゲンシュタインより、かなり年上ですね。。
戦争TVドラマ「コンバット」を見るために学校から走って帰った記憶、
そしてサンダース軍曹よりも、悪役のドイツ軍が妙にスマートに見えたことに始まり、
最初に作ったプラモデルは「タイガー戦車」、映画「大脱走」を観れば、学校で大脱走ごっこ・・。
プロレス黄金時代の悪役は、「アイアン・クロー」のフリッツ・フォン・エリックで、
ドイツ系米国人のザ・デストロイヤーは、和田アキ子と出演した「うわさのチャンネル!!」で、
シュタールヘルムをかぶって登場・・。
実物以上にインパクトのあったプロレスラーなら、「タイガーマスク」のハンス・ストライザー。
ハンブルク出身で、リングネームは「ナチス・ユンケル」です。。
へえ~、アニメ版のみの登場のようで、原作を持っていましたけど、初めて知りました。
もちろん、「仮面ライダー」のショッカーはナチ残党の秘密組織であり、初代幹部はゾル大佐。
本を読めば、1970年代から刊行された「第二次世界大戦ブックス」が徐々に欧州戦線化し、
別巻「ナチ独逸ミリタリー・ルック」まで刊行されるほどの人気。
当然、「宇宙戦艦ヤマト」のデスラー総統の声にもシビレるのでした。
このような本では、やっぱり著者の年齢と経験というのは大事な要素で、
ヴィトゲンシュタインでいえば、ナチス歴はこの10年弱しかありませんし、
子供の頃に同様な経験をしていても、ナチスに目覚めたり、意識したことはありませんでした。
逆に著者と同年代で、同じようなナチス文化を経験してきた読者も多いでしょう。
特にそのような読者には、懐かしさを持って楽しく読み進められると思います。
また、15年後に再刊された本書は各章のおわりに「21世紀追補」として、最新情報を記載。
映画なら、ヒトラーを人間化した作品として注目を浴びた「ヒトラー~最期の12日間~」、
本ならヒトラーの趣味や食習慣に病歴まで証言によって書かれた「ヒトラー・コード」に、
「萌え萌えナチス読本」まで、丁寧に紹介。
「ヒトラー サラリーマンがそのまま使える自己PR術とマネジメント術」に至っては
日本における21世紀のヒトラー・イメージの典型として挙げています。
このような本の表紙や人物写真も、ちょくちょく掲載されていてわかりやすいですね。
第1章は「ジャーナリズム」です。
リビアのカダフィ大佐、イラクのフセイン大統領、ロシアのプーチン大統領まで、
独裁的な政治家は「現代のヒトラー」呼ばわりすることが定番となっている日本の報道。
麻生さんの「あの手口を学んだら」発言は、その部分が強調して報道され、
靖国神社参拝問題では、「ヒトラーの墓」と例えた報道も見受けられる現在。
一連のオウム真理教報道でも1995年に「FLASH」誌が特集を組み、
上祐史浩=ゲッベルス、早川紀代秀=ヒムラー、井上嘉浩=ゲーリングとの類似性を指摘し、
「ヒトラーは敵の報復をおそれてサリンを使わなかったが、
麻原教祖は悪魔の兵器については、ナチス以上の虐殺行為を犯したのである」。
その他、「ガス室はなかった」で有名な、「マルコポーロ廃刊事件」なども取り上げます。
第2章は「海外ノンフィクション文庫」。いや~、大好物ですねぇ。
本書が取り上げるのは、ヒトラー闘争そのものを舞台とした軍事冒険小説で、
まず、そもそもの冒険小説の定義も説明します。
19世紀、財宝を発見し、美女を救い出す冒険小説には海賊にインディアン、人食い人種など、
「撃ち殺して当然」の敵役をいくらでも供給できたものの、戦後の人種思想ではとても無理。。
そこで、ヒーローが思う存分「正義の暴力」を振るえる悪役としては、
同じ白色人種であり、「過去時制に属する」ナチスしか見当たらない・・ということに。。
なるほど、面白い解釈ですねぇ。
最初の敵役、KGBのソ連が徐々に姿を消していき・・と、ヴィトゲンシュタインも今年、数冊読んだ
「007シリーズ」の悪役遍歴も辿りながら進みますが、現存する国では多少の気も使うからか、
冒険小説に登場する「ナチス」は、決してドイツ人ではなく、
過去に繁栄し、滅亡した「魔人ヒトラー率いるナチス第三帝国」人ということなんでしょう。
その意味では、戦争映画でも機関銃でバタバタとなぎ倒されるドイツ兵は、
ショッカーの戦闘員とほとんど変わらない・・と言えるかもしれません。
その代表的な例として紹介されるのは「ナヴァロンの要塞」です。
日本でも1980年代以降に「ヒトラー小説」ブームが起こった・・として、
キルスト著「長いナイフの夜」に、ポロック著の「略奪者」など20冊程度を挙げていますが、
「略奪者」は内容はまったく覚えていないものの、しっかり本棚にありました。再読しよう。。
また、小説と言うかはアレですが、デズモンド・ヤング著「ロンメル将軍」が
「ロンメル神話」を創り上げた記念碑的作品とし、その後もロンメル物は大人気。
SSの出てこない、国防軍による「キレイな戦争」なのも、砂漠の戦いが人気である要因の一つ。
海洋冒険小説では、「眼下の敵」にブーフハイム著の「Uボート」が・・。
こちらにもロンメル的騎士道精神が投影されたものが多く、Uボート艦長はヒトラー嫌いで、
同じ船舶に乗っていれば、階級による危険性も関係なく、SSにゲシュタポ、
ユダヤ人問題も絡まないため、不純物の少ない「海の男たち物語」に・・。
アドミラル・シェア艦長が書いた回顧録「ポケット戦艦」でさえ、さながらチェスか、
フットボールの試合記録であり、戦争の悲哀はほとんど感じられない・・と。
ヒギンズ著「鷲は舞い降りた」は特別扱いで6ページも書かれています。
細かい記述は割愛しますが、最後はこのように・・。
「シュタイナ中佐は現代人を魅了して止まないだろう。コミケに集うドイツ軍おたくにとっても
「鷲舞」はバイブルであり、シュタイナの名前は殉教聖者の響きを帯びている」。
他にもスパイ小説としては「偽りの街」、映画しか観てない「針の眼」などを挙げていますが、
カナリス、ハイドリヒ、SIS、キム・フィルビーといった英独スパイ組織が複雑に絡み合った
テイラー著「総統暗殺」というのが秀作だということで、ちょっと気になりますね。
また、ヒトラーは生きていた風の小説では「ファーザーランド」に「SS‐GB」。
片田舎に25年間潜伏していたヒトラーが自ら公開裁判を求めて姿を現す・・という、
「ヒトラー裁判」なんてのも奇想天外ながら面白そう。
なんとなく、ミュンヘン一揆の裁判を彷彿とさせる内容のような気もします。
SF小説の「鉄の夢」は休止期間中だったのでレビューを書きませんでしたが、印象的でしたし、
人間性の闇を描いたモダンホラーなら、「ブラジルから来た少年」と「ゴールデンボーイ」。
ここ最近のものとしては「HHhH」の他、「帰ってきたヒトラー」を大きく取り上げて、
20世紀であれば、こんな作品がドイツ本国でヒットすることはなかっただろうと分析しますが、
全体的に21世紀の「ヒトラー小説」は、前世紀よりもインパクトに欠けると締め括ります。
その「帰ってきたヒトラー」も10月にドイツで映画が公開されるように第3章は「映画」。
章タイトルは「絵になる不滅の悪役たち」です。
まずは「地獄に堕ちた勇者ども」に始まるイタリア映画の系譜。
日本では「ナチ女秘密警察 SEX親衛隊」としてポルノ扱いで公開された「サロン・キティ」など、
詳しいことは「ナチス映画電撃読本」をご覧いただきたい・・とのことです。
収容所映画ではスピルバーグの「シンドラーのリスト」vs「長編ドキュメンタリー「ショア」の戦い。
圧倒的多数のユダヤ人が救われなかったのに、1200人を救った1人のドイツ人の物語では、
ホロコーストは語れないはずだという批判が相次ぐのです。
しかし、いかにドキュメンタリーであろうとも、そこには「構成」と「意図」が存在するわけで、
絶対的中立ではなく、また、スピルバーグの「まず知ってもらう」という意図も評価されるべきと・・。
そのようなドキュメンタリーのヒトラーとしては、「意志の勝利」に、1960年の「我が闘争」。
後者はDVDも出ていますが、日本で公開されてたんですね。しかもリバイバルまで。。
娯楽冒険映画では「インディ・ジョーンズ・シリーズ」を取り上げ、
ダース・ヴェイダーのようにナチスを連想させるものなど、「とりあえず悪い奴は黒い奴」論を展開。
まぁ、それでも単なる敵ではなく、ドイツ兵の素顔を見せる映画もあり、「橋」や、
「スターリングラード」、「戦争のはらわた」、もちろん「Uボート」も含めてシッカリと解説します。
21世紀に入ると、「ワルキューレ」に、「イングロリアス・バスターズ」といった大作の他、
不謹慎で、ナチカル映画史上、最も画期的・・という「アイアン・スカイ」が・・。
どうやら来年に総統がティラノサウルスに乗ってやって来るという続編が公開されるそうで、
世界上の映画ファンからすでに100万ドル以上の寄付が集まっているそうです。
笑えるのが出資額によって特典があり、15ドルで監督のサインが貰え、
100ドル出すと映画のエンドロールに名前が出る・・。
200ドルなら月面基地の兵士や住人としてエキストラ出演が可能で、
1250ドルからは恐竜に殺される役、5000ドルならアップで喰われるという無上の喜びが・・。
第4章は「ロック音楽」です。
ここ数年では「氣志團」やら、サザンの桑田のちょび髭事件など、日本のミュージシャンによる
ヒトラー、ナチスファッションも物議を醸していますが、
1966年にはローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズがSSの制服で「BORGE」に登場。
1970年代後半のパンク、特にセックス・ピストルズのジョニー・ロットンやシド・ヴィシャスが
ハーケンクロイツのファッションでステージに立ち、新聞・雑誌をにぎわせますが、
別に彼らは思想的にナチズムなのではなく、あくまでファッションとして、
大人たちが眉をひそめるようなことがやりたいという反抗の象徴として・・と解説します。
まぁ、そうでしょう。ヴィトゲンシュタインも中学生のとき、彼らの真似してましたからね。。
日本では1978年にジュリーが「サムライ」でSS風のファッションで歌番組に登場するも、
ハーケンクロイツの腕章は黒柳徹子や野坂昭如らからクレームがついて「X」に変更。
GS時代にストーンズ憧れていたジュリーにとって、SSの制服も憧れだったのかもと推測します。
そして最近の日本のヴィジュアル系バンドにも言及し、彼らがナチの軍服に身を包むことに
「彼らが擬装したいのはゲルマン民族のナチ将校ではない。
ナチズムという妖しいイメージに包まれた夢の世界に存在する現実社会への
対抗価値と呼ぶべきものだろう」とまとめます。
最後の第5章は「プラモデル」。
日本の老舗「タミヤ」、「ハセガワ」を押しのけて、「ドラゴンモデル」や「トランペッター」などの
中国メーカーの進出が著しい現在。
1990年代からは「アーマーモデリング」といった戦車モデル専門誌が相次いで創刊され、
ドイツ軍の特定の戦車を特集した豪華本も出るようになり、なかでも圧巻なのが、
「ティーガー戦車」などのシュピールベルガー著「軍用車両」シリーズだとします。
ドイツ軍AFVばかりを特集した「グランドパワー」は、別冊「ドイツ武装親衛隊」を出し、
兵器、軍装、デザインについて細かく解説。
思想的な部分は排除され、あくまで「マニア」のかっこいいと思う部分が強調されたこれらの世界。
2000年代には「ワールドタンクミュージアム」が大ヒット商品となり、
最近の「ガールズ&パンツァー」に至っては、ドイツ戦車が出てくるものの、
ヒトラーやナチスといった政治的背景は完全に姿を消している・・とします。
433ページの上巻、本文は315ページであり、残りは「ナチカル資料編」となっています。
章によって著者が違うことから、なかなか専門的な解説と考察がありました。
特にナチス研究の単行本よりも、ナチス兵器の雑誌の方が圧倒的に売れている・・
という話は印象的でしたね。
日本における現在のナチスものというのは、「主義」ではなく、「趣味」だということです。
続けて、下巻に進みますか。
佐藤 卓己 編著の「ヒトラーの呪縛(上)」を読破しました。
6月に出た文庫上下巻の本書は、もともとは2000年に発刊された単行本。
「日本のカルチャー、サブカルチャーにかくも浸透しているナチスの「文化」。
メディア、海外冒険小説、映画、ロック、プラモデルまで。」という謳い文句であり、
そういえば、この「独破戦線」もある意味、「ナチ・カルチャー」に属するのかもしれない・・と、
軽い気持ちで読んでみました。
「序章」では、編著者の「ナチカル体験」を赤裸々に告白します。
1960年生まれですから、ヴィトゲンシュタインより、かなり年上ですね。。
戦争TVドラマ「コンバット」を見るために学校から走って帰った記憶、
そしてサンダース軍曹よりも、悪役のドイツ軍が妙にスマートに見えたことに始まり、
最初に作ったプラモデルは「タイガー戦車」、映画「大脱走」を観れば、学校で大脱走ごっこ・・。
プロレス黄金時代の悪役は、「アイアン・クロー」のフリッツ・フォン・エリックで、
ドイツ系米国人のザ・デストロイヤーは、和田アキ子と出演した「うわさのチャンネル!!」で、
シュタールヘルムをかぶって登場・・。
実物以上にインパクトのあったプロレスラーなら、「タイガーマスク」のハンス・ストライザー。
ハンブルク出身で、リングネームは「ナチス・ユンケル」です。。
へえ~、アニメ版のみの登場のようで、原作を持っていましたけど、初めて知りました。
もちろん、「仮面ライダー」のショッカーはナチ残党の秘密組織であり、初代幹部はゾル大佐。
本を読めば、1970年代から刊行された「第二次世界大戦ブックス」が徐々に欧州戦線化し、
別巻「ナチ独逸ミリタリー・ルック」まで刊行されるほどの人気。
当然、「宇宙戦艦ヤマト」のデスラー総統の声にもシビレるのでした。
このような本では、やっぱり著者の年齢と経験というのは大事な要素で、
ヴィトゲンシュタインでいえば、ナチス歴はこの10年弱しかありませんし、
子供の頃に同様な経験をしていても、ナチスに目覚めたり、意識したことはありませんでした。
逆に著者と同年代で、同じようなナチス文化を経験してきた読者も多いでしょう。
特にそのような読者には、懐かしさを持って楽しく読み進められると思います。
また、15年後に再刊された本書は各章のおわりに「21世紀追補」として、最新情報を記載。
映画なら、ヒトラーを人間化した作品として注目を浴びた「ヒトラー~最期の12日間~」、
本ならヒトラーの趣味や食習慣に病歴まで証言によって書かれた「ヒトラー・コード」に、
「萌え萌えナチス読本」まで、丁寧に紹介。
「ヒトラー サラリーマンがそのまま使える自己PR術とマネジメント術」に至っては
日本における21世紀のヒトラー・イメージの典型として挙げています。
このような本の表紙や人物写真も、ちょくちょく掲載されていてわかりやすいですね。
第1章は「ジャーナリズム」です。
リビアのカダフィ大佐、イラクのフセイン大統領、ロシアのプーチン大統領まで、
独裁的な政治家は「現代のヒトラー」呼ばわりすることが定番となっている日本の報道。
麻生さんの「あの手口を学んだら」発言は、その部分が強調して報道され、
靖国神社参拝問題では、「ヒトラーの墓」と例えた報道も見受けられる現在。
一連のオウム真理教報道でも1995年に「FLASH」誌が特集を組み、
上祐史浩=ゲッベルス、早川紀代秀=ヒムラー、井上嘉浩=ゲーリングとの類似性を指摘し、
「ヒトラーは敵の報復をおそれてサリンを使わなかったが、
麻原教祖は悪魔の兵器については、ナチス以上の虐殺行為を犯したのである」。
その他、「ガス室はなかった」で有名な、「マルコポーロ廃刊事件」なども取り上げます。
第2章は「海外ノンフィクション文庫」。いや~、大好物ですねぇ。
本書が取り上げるのは、ヒトラー闘争そのものを舞台とした軍事冒険小説で、
まず、そもそもの冒険小説の定義も説明します。
19世紀、財宝を発見し、美女を救い出す冒険小説には海賊にインディアン、人食い人種など、
「撃ち殺して当然」の敵役をいくらでも供給できたものの、戦後の人種思想ではとても無理。。
そこで、ヒーローが思う存分「正義の暴力」を振るえる悪役としては、
同じ白色人種であり、「過去時制に属する」ナチスしか見当たらない・・ということに。。
なるほど、面白い解釈ですねぇ。
最初の敵役、KGBのソ連が徐々に姿を消していき・・と、ヴィトゲンシュタインも今年、数冊読んだ
「007シリーズ」の悪役遍歴も辿りながら進みますが、現存する国では多少の気も使うからか、
冒険小説に登場する「ナチス」は、決してドイツ人ではなく、
過去に繁栄し、滅亡した「魔人ヒトラー率いるナチス第三帝国」人ということなんでしょう。
その意味では、戦争映画でも機関銃でバタバタとなぎ倒されるドイツ兵は、
ショッカーの戦闘員とほとんど変わらない・・と言えるかもしれません。
その代表的な例として紹介されるのは「ナヴァロンの要塞」です。
日本でも1980年代以降に「ヒトラー小説」ブームが起こった・・として、
キルスト著「長いナイフの夜」に、ポロック著の「略奪者」など20冊程度を挙げていますが、
「略奪者」は内容はまったく覚えていないものの、しっかり本棚にありました。再読しよう。。
また、小説と言うかはアレですが、デズモンド・ヤング著「ロンメル将軍」が
「ロンメル神話」を創り上げた記念碑的作品とし、その後もロンメル物は大人気。
SSの出てこない、国防軍による「キレイな戦争」なのも、砂漠の戦いが人気である要因の一つ。
海洋冒険小説では、「眼下の敵」にブーフハイム著の「Uボート」が・・。
こちらにもロンメル的騎士道精神が投影されたものが多く、Uボート艦長はヒトラー嫌いで、
同じ船舶に乗っていれば、階級による危険性も関係なく、SSにゲシュタポ、
ユダヤ人問題も絡まないため、不純物の少ない「海の男たち物語」に・・。
アドミラル・シェア艦長が書いた回顧録「ポケット戦艦」でさえ、さながらチェスか、
フットボールの試合記録であり、戦争の悲哀はほとんど感じられない・・と。
ヒギンズ著「鷲は舞い降りた」は特別扱いで6ページも書かれています。
細かい記述は割愛しますが、最後はこのように・・。
「シュタイナ中佐は現代人を魅了して止まないだろう。コミケに集うドイツ軍おたくにとっても
「鷲舞」はバイブルであり、シュタイナの名前は殉教聖者の響きを帯びている」。
他にもスパイ小説としては「偽りの街」、映画しか観てない「針の眼」などを挙げていますが、
カナリス、ハイドリヒ、SIS、キム・フィルビーといった英独スパイ組織が複雑に絡み合った
テイラー著「総統暗殺」というのが秀作だということで、ちょっと気になりますね。
また、ヒトラーは生きていた風の小説では「ファーザーランド」に「SS‐GB」。
片田舎に25年間潜伏していたヒトラーが自ら公開裁判を求めて姿を現す・・という、
「ヒトラー裁判」なんてのも奇想天外ながら面白そう。
なんとなく、ミュンヘン一揆の裁判を彷彿とさせる内容のような気もします。
SF小説の「鉄の夢」は休止期間中だったのでレビューを書きませんでしたが、印象的でしたし、
人間性の闇を描いたモダンホラーなら、「ブラジルから来た少年」と「ゴールデンボーイ」。
ここ最近のものとしては「HHhH」の他、「帰ってきたヒトラー」を大きく取り上げて、
20世紀であれば、こんな作品がドイツ本国でヒットすることはなかっただろうと分析しますが、
全体的に21世紀の「ヒトラー小説」は、前世紀よりもインパクトに欠けると締め括ります。
その「帰ってきたヒトラー」も10月にドイツで映画が公開されるように第3章は「映画」。
章タイトルは「絵になる不滅の悪役たち」です。
まずは「地獄に堕ちた勇者ども」に始まるイタリア映画の系譜。
日本では「ナチ女秘密警察 SEX親衛隊」としてポルノ扱いで公開された「サロン・キティ」など、
詳しいことは「ナチス映画電撃読本」をご覧いただきたい・・とのことです。
収容所映画ではスピルバーグの「シンドラーのリスト」vs「長編ドキュメンタリー「ショア」の戦い。
圧倒的多数のユダヤ人が救われなかったのに、1200人を救った1人のドイツ人の物語では、
ホロコーストは語れないはずだという批判が相次ぐのです。
しかし、いかにドキュメンタリーであろうとも、そこには「構成」と「意図」が存在するわけで、
絶対的中立ではなく、また、スピルバーグの「まず知ってもらう」という意図も評価されるべきと・・。
そのようなドキュメンタリーのヒトラーとしては、「意志の勝利」に、1960年の「我が闘争」。
後者はDVDも出ていますが、日本で公開されてたんですね。しかもリバイバルまで。。
娯楽冒険映画では「インディ・ジョーンズ・シリーズ」を取り上げ、
ダース・ヴェイダーのようにナチスを連想させるものなど、「とりあえず悪い奴は黒い奴」論を展開。
まぁ、それでも単なる敵ではなく、ドイツ兵の素顔を見せる映画もあり、「橋」や、
「スターリングラード」、「戦争のはらわた」、もちろん「Uボート」も含めてシッカリと解説します。
21世紀に入ると、「ワルキューレ」に、「イングロリアス・バスターズ」といった大作の他、
不謹慎で、ナチカル映画史上、最も画期的・・という「アイアン・スカイ」が・・。
どうやら来年に総統がティラノサウルスに乗ってやって来るという続編が公開されるそうで、
世界上の映画ファンからすでに100万ドル以上の寄付が集まっているそうです。
笑えるのが出資額によって特典があり、15ドルで監督のサインが貰え、
100ドル出すと映画のエンドロールに名前が出る・・。
200ドルなら月面基地の兵士や住人としてエキストラ出演が可能で、
1250ドルからは恐竜に殺される役、5000ドルならアップで喰われるという無上の喜びが・・。
第4章は「ロック音楽」です。
ここ数年では「氣志團」やら、サザンの桑田のちょび髭事件など、日本のミュージシャンによる
ヒトラー、ナチスファッションも物議を醸していますが、
1966年にはローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズがSSの制服で「BORGE」に登場。
1970年代後半のパンク、特にセックス・ピストルズのジョニー・ロットンやシド・ヴィシャスが
ハーケンクロイツのファッションでステージに立ち、新聞・雑誌をにぎわせますが、
別に彼らは思想的にナチズムなのではなく、あくまでファッションとして、
大人たちが眉をひそめるようなことがやりたいという反抗の象徴として・・と解説します。
まぁ、そうでしょう。ヴィトゲンシュタインも中学生のとき、彼らの真似してましたからね。。
日本では1978年にジュリーが「サムライ」でSS風のファッションで歌番組に登場するも、
ハーケンクロイツの腕章は黒柳徹子や野坂昭如らからクレームがついて「X」に変更。
GS時代にストーンズ憧れていたジュリーにとって、SSの制服も憧れだったのかもと推測します。
そして最近の日本のヴィジュアル系バンドにも言及し、彼らがナチの軍服に身を包むことに
「彼らが擬装したいのはゲルマン民族のナチ将校ではない。
ナチズムという妖しいイメージに包まれた夢の世界に存在する現実社会への
対抗価値と呼ぶべきものだろう」とまとめます。
最後の第5章は「プラモデル」。
日本の老舗「タミヤ」、「ハセガワ」を押しのけて、「ドラゴンモデル」や「トランペッター」などの
中国メーカーの進出が著しい現在。
1990年代からは「アーマーモデリング」といった戦車モデル専門誌が相次いで創刊され、
ドイツ軍の特定の戦車を特集した豪華本も出るようになり、なかでも圧巻なのが、
「ティーガー戦車」などのシュピールベルガー著「軍用車両」シリーズだとします。
ドイツ軍AFVばかりを特集した「グランドパワー」は、別冊「ドイツ武装親衛隊」を出し、
兵器、軍装、デザインについて細かく解説。
思想的な部分は排除され、あくまで「マニア」のかっこいいと思う部分が強調されたこれらの世界。
2000年代には「ワールドタンクミュージアム」が大ヒット商品となり、
最近の「ガールズ&パンツァー」に至っては、ドイツ戦車が出てくるものの、
ヒトラーやナチスといった政治的背景は完全に姿を消している・・とします。
433ページの上巻、本文は315ページであり、残りは「ナチカル資料編」となっています。
章によって著者が違うことから、なかなか専門的な解説と考察がありました。
特にナチス研究の単行本よりも、ナチス兵器の雑誌の方が圧倒的に売れている・・
という話は印象的でしたね。
日本における現在のナチスものというのは、「主義」ではなく、「趣味」だということです。
続けて、下巻に進みますか。
ナチ・ドイツ清潔な帝国 [ナチ/ヒトラー]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
H.P.ブロイエル著の「ナチ・ドイツ清潔な帝国」を読破しました。
1983年、293ページの本書はかなり前からチェックしていたものの、スッカリ埋もれていました。
なにか調べ事をしていた際に本書の存在を思い出しましたが、内容紹介では、
「性、家族、風俗、教育、犯罪などに絞って「悪夢のような時代」を社会学的にとらえる新ナチ論」、
そして「各章にナチ高官の人物描写をはさみ・・」というのにも惹かれました。
タイトルも嫌味半分な感じで悪くないですし、表紙も行進するBDMさんたちで実に悪くありません。
序盤では19世紀のドイツから1920年代、ナチス政権になる前の道徳観、
女性や性に対する考え方が如何なるものだったのかを丁寧に解説します。
1927年のベストセラー、ミュンヘン大学教授マックス・フォン・グルーバーが書いた
「性生活の衛生学」では、「性交は結婚において行われる。女性は結婚まで純潔に生きるべきで、
男性は禁欲に努めなければならない。結婚の目的は子孫の産出と教育である。
民族の成長は、少なくとも4人の子孫を産むことを要求している。」
と、まぁ、現代からすればとても保守的な考え方ですね。
そしてまたヒトラーもこう語ります。
「結婚にしてもそれ自体が目的ではなく、種と民族の増加と維持という、より大きな目的に
奉仕するというものでなければならない。それのみが結婚の意味であり、任務である。」
基本的にはミュンヘン大学教授の言ってることと、ほとんど変わらないわけです。
ヒトラーの生い立ちを振り返りながら、プライベートでは女性に対して奥手であった彼が、
ナチ党演説家として頭角を現してきた頃、数多くの中年のご婦人が彼を「庇護」したことに触れ、
学校教師の未亡人カローラ・ホフマン、出版社社長の妻エルザ・ブルックマンといった女性が
ヒトラーを社交界にデビューさせ、資金的にも援助。
ピアノ製造業者の妻、ヘレーネ・ベヒシュタインは、オーバーザルツベルクの別荘に彼を迎え、
社交界向きに教育したと紹介します。
その2人について、オットー・シュトラッサーは、
「母親らしい優しさの混じったエクスタシーすれすれの愛」と大袈裟に語ります。
「ごく少数の友人しかいないときには、ヒトラーは堂々たる女主人の足元に座った。
彼女はその大きな子供の頭を撫で、『狼ちゃん、私の狼ちゃん!』と優しく言ったものだ」。
ちょっと気持ち悪い話ですが、当時、アウトサイダーだったヒトラーには
成熟した女性を引き付ける魅力と、それを利用する才能があった・・としています。
このように章の後半はまず、「ヒトラーの例」として姪のゲリやエヴァ・ブラウンとの関係も紹介し、
次の章へと進みます。
主に女性の労働について書かれたこの章では、ナチスは女性過酷な労働を求めず、
夜間の労働や、鉱山建築業での資材運搬、鉄道、バス、トラック運転手は禁止。
しかし戦争も2年目の1940年にもなると、そのような通則も形骸化していくのでした。
そして「ゲッベルスの例」では、彼の妻マグダと、愛人リダ・ヴァーロヴァとの不倫問題が・・。
「喫煙は私の最後の楽しみ」と語っていたゲッベルス。
戦争時には1日30本を目立たぬように吸っていたそうですが、総統の前では当然ガマン・・。
その総統曰く、「肉食はアルコールを呼び、そのあとにはニコチンが続く。
一つの悪徳は次々と別の悪徳を招きよせるものだ・・」という信念であり、
戦争が終わったら、国民すべてを菜食主義者にさせようと考えている狂信的な禁欲主義者です。
ナチス最大の組織である「労働戦線」のロベルト・ライは、「仕事に支障をきたさない限り、
好きなだけ喫煙、飲酒してもかまわない」とする一方、「男子たる者、自分自身を意志に従わせる
力を持たねばならない」と力強く語るものの、当の本人の綽名が『帝国泥酔官』。。
5月1日は「労働の日」と制定され、4月20日の「総統誕生日」など、ナチスの祝日を紹介。
12月のゲルマン的「冬至祭」を導入するにあたっては、かなりの苦労をしたようで、
火の輪や、かがり火といった昔風のシンボリズムは、ゲルマン志向のSSでさえ、
有難がらなかった・・と。この辺りは「ヒトラーに抱きあげられて」でも書かれてましたねぇ。
「エルンスト・レームの例」はやっぱり男色話に終始します。
1925年、17歳の男娼をホテルに連れ込んだレームですが、慎み深い男娼は逃げ出してしまい、
「ボクにはとても出来ないようなイヤラシイ性交を要求されて・・」。
そんなレームの性癖と部下のハイネスがヒトラー・ユーゲントに悪影響を与えていることも
知っていたヒトラーですが、彼らを一時的に追放したのは、政策の相違と命令無視によるもの。
しかしボリビアでレームは思わぬ苦労をするのです。
「ここでは『私の好むやり方』が知られていない」。
次の章、エリート養成学校の話がこれまたナチスらしい。
1933年に「ナポラ」を開校した文部相のルスト。
1936年にはSSのハイスマイヤーに引き継ぎますが、これが面白くないのがロベルト・ライ。。
シーラッハと共同で、「アドルフ・ヒトラー学校」を開校すると、SS贔屓のルストも驚きます。
しかし文部相に対してライは断言。「アドルフ・ヒトラー学校は君には何の関係もない」。
シーラッハが登場してくれば、当然、青少年の鑑、ヒトラー・ユーゲントの厳しい現実が・・。
1941年にある裁判所管区で「刑法第175条」違反で告訴されたHJ団員は16名。
「刑法第175条」とは男性同性愛を禁止したもので知られていますが、
ナチス特有のものではなく、ドイツでは1871年から1994年まで施行されているんですね。
その他、NSFKの航空教官がHJ生徒と少なくとも10件の違反で3年の懲役刑。
マインツではHJ指導員が、20名の少年に対して28件の罪を犯し、4年の懲役・・。
そんなヒトラー・ユーゲントの教育はスポーツ、軍事教練、そして世界観教育です。
キャンプの合宿所には映写機が備えられ、5000本のフィルムが毎月配給されます。
それらのタイトルは「健康な家庭」、「遺伝的疾病のある子孫」、「五千年のゲルマン文明」、
「ヴェルサイユ条約とその克服」、「旧い軍隊から新しい軍隊へ」などなど・・。
10歳~14歳の子供たちはこのような映画や合唱、討論会で喜ぶものの、
年長の17歳、18歳にもなると、ウンザリした様子が見え始めます。
彼らにとって「ほんものの少年」らしく振る舞うことは、あまり魅力的でなくなり、
無菌状態のHJ合宿所よりも、タバコの煙だらけの酒場にいるほうが男らしく感じるのです。
ですよねぇ。16歳にもなって半ズボンを履くのに耐えられない・・なんて話もありましたっけ。
1937年には300万人団員を数える世界最大の少女組織、「女子青年団(BdM)」。
その頭文字を取って、「ドイツ男子の必需品」、「ドイツ牝牛団」などと綽名されています。
BdMを卒業すると、「信仰と美」と名付けられた組織に行くか、ショルツ=クリンクの
「ドイツ婦人労働奉仕団」へと進みます。
ヒールルの「労働奉仕団(RAD)」に吸収されて、「女子労働奉仕団(RADwJ)」となりますが、
これについては、いくらかでも重要性のある党下部組織は、女性指導者には任せられない、
ハイスマイヤーの妻として、帝国最高位の母親でさえ、飾り物に過ぎなかった証拠とします。
指導的女性、指導者の奥さんともなると、いろいろと頭痛の種にもなってきます。
ヒムラーもあるSS大将に憂慮の手紙を書くことに・・。
「きみの奥さんが大管区の政治問題や、指導者個人についてあちこちの場所で
ハッキリ意見を述べたてないよう、よくしつけてくれたまえ」。
闘争時代には彼女たちは良き主婦、熱心な助力者として役に立ったものの、
いまではその夫たちは国家の高い地位に登っているのだから、
彼女たちのそういう単純な才能ではもはや不十分だという理屈を持ち出すのです。
こうして「ヘルマン・エッサーの例」としてナチ式離婚を紹介。
古い党員で、ゴロツキと評判だったエッサーは、絶え間ない女出入りで悪名を轟かせ、
様々な女に貢がせていることを公然と自慢するような男・・。
政権獲得後も、最高位の役職に就く柄ではなく、帝国会議の第二副議長やら、
帝国観光交通協会の会長や、観光委員会の会長代理とかならなんとかなるといった程度。
そんな男が愛人と一緒になるために繰り返した離婚訴訟がこの章のトリになるのでした・・。
このような矛盾だらけのナチス表すような「真のドイツ人のモットー」とは・・
ヒトラーのように子だくさんであれ、
ゲーリングのように地味で質素であれ、
ヘスのように忠実であれ、
ゲッベルスのように寡黙であれ、
ライのようにシラフであれ、
ショルツ=クリンクのように美しくあれ!
ナチス・ドイツにおける最高級の勲章のひとつに「母親十字章」がありますが、
このような「産めよ増やせよ」政策のために、1000マルクの結婚資金貸付制度が誕生。
子供一人産むと250マルクが免除になり、理想とされる4人産んだらチャラになるわけです。
しかし、現実的には母親が一人で子育てと家事をこなすことは困難であり、
この問題に頭を痛めたヒムラーは、ポーランドとウクライナで人種的に許される女子を選び出し、
ドイツで3人以上の子供がいる家庭で女中や子守りとして働かせ、その報酬として数年後には、
彼女たちにドイツ国籍を与え、ドイツ人と結婚することを許そうという案をひねり出すのです。
コレは「遠すぎた家路」でも紹介されていたパターンですね。
それでもヒムラーが考えるように事は簡単には運びません。
1944年になると、単に子供をたくさん! ではなく、男子の生産を増やしたい・・に変化。。
レーベンスボルン(生命の泉)に対し、「男女産み分け問題」というファイルを作らせ、
最初の資料をSS全国指導者自ら持参する気合の入りよう・・。
その資料には書かれていたのは本部長ゴットロープ・ベルガーが故郷の風習として語ったこと、
1週間酒を断った夫が正午に家を出て、20㌔を往復して帰り着くと、同様に1週間、働かず、
給養充分の妻と性交。するとアラ不思議、必ず男児が生まれる・・というメルヘンなのです。
ドイツ民族の利益を満たすため、彼の黒色騎士団の生殖能力が充分に生かされるよう気を配り、
フランスからゼップ・ディートリッヒが、ライプシュタンダルテに200名の淋病患者がいると報告して
驚いた時も、性に飢える隊員に理解を示し、武装SS向けに医師の監督付き娼家の設立を命令。
既婚者には妻との面会の方法を考えてやって、たくさんの子宝に恵まれるようにするのです。
しかし、愛し合う夫婦なら誰もかれも子供ができるわけではありません。
子供のない夫婦の医療相談所をつくらせた、全国保健指導者のコンティ。
この援助事業に相談所を訪ねる者も多く、彼は「人工授精」も視野に入れるのです。
コンティの案に驚いたのがヒムラー。「オレの領分に割り込んできたヤツがいる!」と激怒。
なぜかボルマンに不満をぶつけるのでした。
その「マルティン・ボルマンの例」では1929年に彼が新妻ゲルダとヒトラーのメルセデスで
戸籍登録場へ向かったエピソードから、子宝に恵まれ、不倫も愛する妻に認めてもらい・・と、
「ナチスの女たち」に出ていたストーリーですね。
後半はヒムラーの独壇場になってきますが、第6章「新しい人間」になると、
エリート騎士団SSの結婚における厳しい戒律が紹介されます。
夫婦共々が人種的、血統的に優れてならなければならず、結婚を望む隊員はすべて、
SS全国指導者の結婚許可を得なければならないなどの「12か条」に加え、
2人ともスポーツバッジの受章者であることや、ヒムラー本人は猛練習の甲斐なく、
遂にできなかった鉄棒の「大車輪」が、優れた生殖能力の保障であるとみなされているのです。
そんな「ハインリヒ・ヒムラーの例」では、3兄弟の次男坊である彼の子供時代からが書かれ、
1923年に兄のゲプハルトが婚約した際、その許嫁の純潔に疑問を持ち、興信所に調べさせ、
自分でも前歴を調査。兄はそんな弟の溢れる兄弟愛に負けて、婚約を解消・・。
8歳年上のマルガレーテと結婚した道徳監視者たるヒムラーは、右腕のハイドリヒの妻リナの
放縦な生活態度に憤慨し、離婚させたがっていたという話も・・。
そのリナは、長官婦人が裏で糸を引いていると思い込み、
「偏屈でユーモアもなく、ズロースのサイズは50番・・」と馬鹿にするのです。
いや~、夫人同士のゲスい戦いですが、結局はそれとなくヒムラーの仕業なんですかね。
もちろん、浮気相手の秘書で「ヒムラーのうさぎちゃん」こと、ヘトヴィヒ・ポトハストのエピソードも。
最後の第7章では、当時のナチ警察による性犯罪取り締まりについても考察。
1943年2月、ベルリンで中年女性を殺した容疑で逮捕されたブルーノ・リュトケの話は印象的で、
絞殺してから犯す・・という特異な性犯罪は1928年から未解決が54件もあり、
リュトケが自白したことでようやく解決するのです。
しかも彼はそれを上回る、84件の犯行を自白するという大量殺人鬼・・。
ベルリン大管区指導者ゲッベルスは、警察長官ヒムラーに手紙を送ります。
「この獣の如き女性屠殺者は、普通の絞首刑で死なせてはならない。
生きたままで焼くか、あるいは四つ裂きの刑に処すよう、私は提案する」。
しかし結局、ウィーンの犯罪医学研究所に送られたリュトケは実験の最中に死ぬのでした。
レームが逮捕されたその日、すでにヒトラーは新幕僚長となるルッツェに対して要求します。
「SAが純粋かつ清潔な組織として確立することを期待する。
全ての母親が息子を道徳的堕落の心配なしに、SAやヒトラー・ユーゲントに入れることが
出来るようにしてもらいたい。第175条の違反者は、即刻、SAおよび党からの除名をもって・・」。
1934年にSAに対してそんな要求をしていたわけですから、
黒騎士団の長ヒムラーの頭を悩ますあの問題も、SS内での同性愛です。
そのために古参のSS高官を泣く泣く降格させなくてはならなくなったヒムラーの苦悩・・。
ホモはただちに去勢してしまうのがいいのか、軽度の場合でも6年以上の禁固刑など、
さまざまな対策を打ち出すものの・・。
ナチスの「性、家族、風俗、教育、犯罪」について書かれた本書。
全体的には以前に紹介した「愛と欲望のナチズム」に似ていると言っていいでしょう。
特にヒトラー・ユーゲントやBdMの性問題については同じ記述もあったりと、
重複するエピソードは今回は割愛しましたが、読みやすさという点で言えば、
日本人著者の書いたアチラかも知れませんね。
こちらがネタ本になりますが、登場人物も多く、ナチスに詳しい方は本書も楽しめるでしょう。
H.P.ブロイエル著の「ナチ・ドイツ清潔な帝国」を読破しました。
1983年、293ページの本書はかなり前からチェックしていたものの、スッカリ埋もれていました。
なにか調べ事をしていた際に本書の存在を思い出しましたが、内容紹介では、
「性、家族、風俗、教育、犯罪などに絞って「悪夢のような時代」を社会学的にとらえる新ナチ論」、
そして「各章にナチ高官の人物描写をはさみ・・」というのにも惹かれました。
タイトルも嫌味半分な感じで悪くないですし、表紙も行進するBDMさんたちで実に悪くありません。
序盤では19世紀のドイツから1920年代、ナチス政権になる前の道徳観、
女性や性に対する考え方が如何なるものだったのかを丁寧に解説します。
1927年のベストセラー、ミュンヘン大学教授マックス・フォン・グルーバーが書いた
「性生活の衛生学」では、「性交は結婚において行われる。女性は結婚まで純潔に生きるべきで、
男性は禁欲に努めなければならない。結婚の目的は子孫の産出と教育である。
民族の成長は、少なくとも4人の子孫を産むことを要求している。」
と、まぁ、現代からすればとても保守的な考え方ですね。
そしてまたヒトラーもこう語ります。
「結婚にしてもそれ自体が目的ではなく、種と民族の増加と維持という、より大きな目的に
奉仕するというものでなければならない。それのみが結婚の意味であり、任務である。」
基本的にはミュンヘン大学教授の言ってることと、ほとんど変わらないわけです。
ヒトラーの生い立ちを振り返りながら、プライベートでは女性に対して奥手であった彼が、
ナチ党演説家として頭角を現してきた頃、数多くの中年のご婦人が彼を「庇護」したことに触れ、
学校教師の未亡人カローラ・ホフマン、出版社社長の妻エルザ・ブルックマンといった女性が
ヒトラーを社交界にデビューさせ、資金的にも援助。
ピアノ製造業者の妻、ヘレーネ・ベヒシュタインは、オーバーザルツベルクの別荘に彼を迎え、
社交界向きに教育したと紹介します。
その2人について、オットー・シュトラッサーは、
「母親らしい優しさの混じったエクスタシーすれすれの愛」と大袈裟に語ります。
「ごく少数の友人しかいないときには、ヒトラーは堂々たる女主人の足元に座った。
彼女はその大きな子供の頭を撫で、『狼ちゃん、私の狼ちゃん!』と優しく言ったものだ」。
ちょっと気持ち悪い話ですが、当時、アウトサイダーだったヒトラーには
成熟した女性を引き付ける魅力と、それを利用する才能があった・・としています。
このように章の後半はまず、「ヒトラーの例」として姪のゲリやエヴァ・ブラウンとの関係も紹介し、
次の章へと進みます。
主に女性の労働について書かれたこの章では、ナチスは女性過酷な労働を求めず、
夜間の労働や、鉱山建築業での資材運搬、鉄道、バス、トラック運転手は禁止。
しかし戦争も2年目の1940年にもなると、そのような通則も形骸化していくのでした。
そして「ゲッベルスの例」では、彼の妻マグダと、愛人リダ・ヴァーロヴァとの不倫問題が・・。
「喫煙は私の最後の楽しみ」と語っていたゲッベルス。
戦争時には1日30本を目立たぬように吸っていたそうですが、総統の前では当然ガマン・・。
その総統曰く、「肉食はアルコールを呼び、そのあとにはニコチンが続く。
一つの悪徳は次々と別の悪徳を招きよせるものだ・・」という信念であり、
戦争が終わったら、国民すべてを菜食主義者にさせようと考えている狂信的な禁欲主義者です。
ナチス最大の組織である「労働戦線」のロベルト・ライは、「仕事に支障をきたさない限り、
好きなだけ喫煙、飲酒してもかまわない」とする一方、「男子たる者、自分自身を意志に従わせる
力を持たねばならない」と力強く語るものの、当の本人の綽名が『帝国泥酔官』。。
5月1日は「労働の日」と制定され、4月20日の「総統誕生日」など、ナチスの祝日を紹介。
12月のゲルマン的「冬至祭」を導入するにあたっては、かなりの苦労をしたようで、
火の輪や、かがり火といった昔風のシンボリズムは、ゲルマン志向のSSでさえ、
有難がらなかった・・と。この辺りは「ヒトラーに抱きあげられて」でも書かれてましたねぇ。
「エルンスト・レームの例」はやっぱり男色話に終始します。
1925年、17歳の男娼をホテルに連れ込んだレームですが、慎み深い男娼は逃げ出してしまい、
「ボクにはとても出来ないようなイヤラシイ性交を要求されて・・」。
そんなレームの性癖と部下のハイネスがヒトラー・ユーゲントに悪影響を与えていることも
知っていたヒトラーですが、彼らを一時的に追放したのは、政策の相違と命令無視によるもの。
しかしボリビアでレームは思わぬ苦労をするのです。
「ここでは『私の好むやり方』が知られていない」。
次の章、エリート養成学校の話がこれまたナチスらしい。
1933年に「ナポラ」を開校した文部相のルスト。
1936年にはSSのハイスマイヤーに引き継ぎますが、これが面白くないのがロベルト・ライ。。
シーラッハと共同で、「アドルフ・ヒトラー学校」を開校すると、SS贔屓のルストも驚きます。
しかし文部相に対してライは断言。「アドルフ・ヒトラー学校は君には何の関係もない」。
シーラッハが登場してくれば、当然、青少年の鑑、ヒトラー・ユーゲントの厳しい現実が・・。
1941年にある裁判所管区で「刑法第175条」違反で告訴されたHJ団員は16名。
「刑法第175条」とは男性同性愛を禁止したもので知られていますが、
ナチス特有のものではなく、ドイツでは1871年から1994年まで施行されているんですね。
その他、NSFKの航空教官がHJ生徒と少なくとも10件の違反で3年の懲役刑。
マインツではHJ指導員が、20名の少年に対して28件の罪を犯し、4年の懲役・・。
そんなヒトラー・ユーゲントの教育はスポーツ、軍事教練、そして世界観教育です。
キャンプの合宿所には映写機が備えられ、5000本のフィルムが毎月配給されます。
それらのタイトルは「健康な家庭」、「遺伝的疾病のある子孫」、「五千年のゲルマン文明」、
「ヴェルサイユ条約とその克服」、「旧い軍隊から新しい軍隊へ」などなど・・。
10歳~14歳の子供たちはこのような映画や合唱、討論会で喜ぶものの、
年長の17歳、18歳にもなると、ウンザリした様子が見え始めます。
彼らにとって「ほんものの少年」らしく振る舞うことは、あまり魅力的でなくなり、
無菌状態のHJ合宿所よりも、タバコの煙だらけの酒場にいるほうが男らしく感じるのです。
ですよねぇ。16歳にもなって半ズボンを履くのに耐えられない・・なんて話もありましたっけ。
1937年には300万人団員を数える世界最大の少女組織、「女子青年団(BdM)」。
その頭文字を取って、「ドイツ男子の必需品」、「ドイツ牝牛団」などと綽名されています。
BdMを卒業すると、「信仰と美」と名付けられた組織に行くか、ショルツ=クリンクの
「ドイツ婦人労働奉仕団」へと進みます。
ヒールルの「労働奉仕団(RAD)」に吸収されて、「女子労働奉仕団(RADwJ)」となりますが、
これについては、いくらかでも重要性のある党下部組織は、女性指導者には任せられない、
ハイスマイヤーの妻として、帝国最高位の母親でさえ、飾り物に過ぎなかった証拠とします。
指導的女性、指導者の奥さんともなると、いろいろと頭痛の種にもなってきます。
ヒムラーもあるSS大将に憂慮の手紙を書くことに・・。
「きみの奥さんが大管区の政治問題や、指導者個人についてあちこちの場所で
ハッキリ意見を述べたてないよう、よくしつけてくれたまえ」。
闘争時代には彼女たちは良き主婦、熱心な助力者として役に立ったものの、
いまではその夫たちは国家の高い地位に登っているのだから、
彼女たちのそういう単純な才能ではもはや不十分だという理屈を持ち出すのです。
こうして「ヘルマン・エッサーの例」としてナチ式離婚を紹介。
古い党員で、ゴロツキと評判だったエッサーは、絶え間ない女出入りで悪名を轟かせ、
様々な女に貢がせていることを公然と自慢するような男・・。
政権獲得後も、最高位の役職に就く柄ではなく、帝国会議の第二副議長やら、
帝国観光交通協会の会長や、観光委員会の会長代理とかならなんとかなるといった程度。
そんな男が愛人と一緒になるために繰り返した離婚訴訟がこの章のトリになるのでした・・。
このような矛盾だらけのナチス表すような「真のドイツ人のモットー」とは・・
ヒトラーのように子だくさんであれ、
ゲーリングのように地味で質素であれ、
ヘスのように忠実であれ、
ゲッベルスのように寡黙であれ、
ライのようにシラフであれ、
ショルツ=クリンクのように美しくあれ!
ナチス・ドイツにおける最高級の勲章のひとつに「母親十字章」がありますが、
このような「産めよ増やせよ」政策のために、1000マルクの結婚資金貸付制度が誕生。
子供一人産むと250マルクが免除になり、理想とされる4人産んだらチャラになるわけです。
しかし、現実的には母親が一人で子育てと家事をこなすことは困難であり、
この問題に頭を痛めたヒムラーは、ポーランドとウクライナで人種的に許される女子を選び出し、
ドイツで3人以上の子供がいる家庭で女中や子守りとして働かせ、その報酬として数年後には、
彼女たちにドイツ国籍を与え、ドイツ人と結婚することを許そうという案をひねり出すのです。
コレは「遠すぎた家路」でも紹介されていたパターンですね。
それでもヒムラーが考えるように事は簡単には運びません。
1944年になると、単に子供をたくさん! ではなく、男子の生産を増やしたい・・に変化。。
レーベンスボルン(生命の泉)に対し、「男女産み分け問題」というファイルを作らせ、
最初の資料をSS全国指導者自ら持参する気合の入りよう・・。
その資料には書かれていたのは本部長ゴットロープ・ベルガーが故郷の風習として語ったこと、
1週間酒を断った夫が正午に家を出て、20㌔を往復して帰り着くと、同様に1週間、働かず、
給養充分の妻と性交。するとアラ不思議、必ず男児が生まれる・・というメルヘンなのです。
ドイツ民族の利益を満たすため、彼の黒色騎士団の生殖能力が充分に生かされるよう気を配り、
フランスからゼップ・ディートリッヒが、ライプシュタンダルテに200名の淋病患者がいると報告して
驚いた時も、性に飢える隊員に理解を示し、武装SS向けに医師の監督付き娼家の設立を命令。
既婚者には妻との面会の方法を考えてやって、たくさんの子宝に恵まれるようにするのです。
しかし、愛し合う夫婦なら誰もかれも子供ができるわけではありません。
子供のない夫婦の医療相談所をつくらせた、全国保健指導者のコンティ。
この援助事業に相談所を訪ねる者も多く、彼は「人工授精」も視野に入れるのです。
コンティの案に驚いたのがヒムラー。「オレの領分に割り込んできたヤツがいる!」と激怒。
なぜかボルマンに不満をぶつけるのでした。
その「マルティン・ボルマンの例」では1929年に彼が新妻ゲルダとヒトラーのメルセデスで
戸籍登録場へ向かったエピソードから、子宝に恵まれ、不倫も愛する妻に認めてもらい・・と、
「ナチスの女たち」に出ていたストーリーですね。
後半はヒムラーの独壇場になってきますが、第6章「新しい人間」になると、
エリート騎士団SSの結婚における厳しい戒律が紹介されます。
夫婦共々が人種的、血統的に優れてならなければならず、結婚を望む隊員はすべて、
SS全国指導者の結婚許可を得なければならないなどの「12か条」に加え、
2人ともスポーツバッジの受章者であることや、ヒムラー本人は猛練習の甲斐なく、
遂にできなかった鉄棒の「大車輪」が、優れた生殖能力の保障であるとみなされているのです。
そんな「ハインリヒ・ヒムラーの例」では、3兄弟の次男坊である彼の子供時代からが書かれ、
1923年に兄のゲプハルトが婚約した際、その許嫁の純潔に疑問を持ち、興信所に調べさせ、
自分でも前歴を調査。兄はそんな弟の溢れる兄弟愛に負けて、婚約を解消・・。
8歳年上のマルガレーテと結婚した道徳監視者たるヒムラーは、右腕のハイドリヒの妻リナの
放縦な生活態度に憤慨し、離婚させたがっていたという話も・・。
そのリナは、長官婦人が裏で糸を引いていると思い込み、
「偏屈でユーモアもなく、ズロースのサイズは50番・・」と馬鹿にするのです。
いや~、夫人同士のゲスい戦いですが、結局はそれとなくヒムラーの仕業なんですかね。
もちろん、浮気相手の秘書で「ヒムラーのうさぎちゃん」こと、ヘトヴィヒ・ポトハストのエピソードも。
最後の第7章では、当時のナチ警察による性犯罪取り締まりについても考察。
1943年2月、ベルリンで中年女性を殺した容疑で逮捕されたブルーノ・リュトケの話は印象的で、
絞殺してから犯す・・という特異な性犯罪は1928年から未解決が54件もあり、
リュトケが自白したことでようやく解決するのです。
しかも彼はそれを上回る、84件の犯行を自白するという大量殺人鬼・・。
ベルリン大管区指導者ゲッベルスは、警察長官ヒムラーに手紙を送ります。
「この獣の如き女性屠殺者は、普通の絞首刑で死なせてはならない。
生きたままで焼くか、あるいは四つ裂きの刑に処すよう、私は提案する」。
しかし結局、ウィーンの犯罪医学研究所に送られたリュトケは実験の最中に死ぬのでした。
レームが逮捕されたその日、すでにヒトラーは新幕僚長となるルッツェに対して要求します。
「SAが純粋かつ清潔な組織として確立することを期待する。
全ての母親が息子を道徳的堕落の心配なしに、SAやヒトラー・ユーゲントに入れることが
出来るようにしてもらいたい。第175条の違反者は、即刻、SAおよび党からの除名をもって・・」。
1934年にSAに対してそんな要求をしていたわけですから、
黒騎士団の長ヒムラーの頭を悩ますあの問題も、SS内での同性愛です。
そのために古参のSS高官を泣く泣く降格させなくてはならなくなったヒムラーの苦悩・・。
ホモはただちに去勢してしまうのがいいのか、軽度の場合でも6年以上の禁固刑など、
さまざまな対策を打ち出すものの・・。
ナチスの「性、家族、風俗、教育、犯罪」について書かれた本書。
全体的には以前に紹介した「愛と欲望のナチズム」に似ていると言っていいでしょう。
特にヒトラー・ユーゲントやBdMの性問題については同じ記述もあったりと、
重複するエピソードは今回は割愛しましたが、読みやすさという点で言えば、
日本人著者の書いたアチラかも知れませんね。
こちらがネタ本になりますが、登場人物も多く、ナチスに詳しい方は本書も楽しめるでしょう。
ナチス突撃隊 ヒトラーに裏切られた悲劇の集団 [ナチ/ヒトラー]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
桧山 良昭 著の「ナチス突撃隊」を読破しました。
ここのところ、突撃隊(SA)について、しこしことネットで調べていたんですが、
ちょっと頭の中を整理したいなぁ・・と、未読だった本書を選んでみました。
1993年、487ページというなかなかボリュームのある文庫ですが、
もともと1976年に発刊された、その筋では有名な一冊です。
本書を読む前には「将軍たちの夜」のキルスト著の小説「長いナイフの夜」も再読して、
すっかり「粛清」モードに入ってしまいました。
第1章は「突撃隊の設立」。
1920年、ドイツ労働者党を設立したドレクスラーの話から始まります。
やがて怪我の癒えたヒトラーも入党し、ビアホールでの集会も活発化すると、
2000名もの聴衆が詰めかけることとなり、その結果、会場警備隊が必要に・・。
最初の警備隊員は旧軍人と旧警官から優先して選ばれた25名。
隊長には23歳の時計修理工、エミール・モーリスが任命されるのです。
後にヒトラーの姪ゲリと結婚しようとして、クビになったあの人ですね。
そして「SA」といえばこの人、第11歩兵旅団司令部副官であったエルンスト・レームが登場し、
まだ、ヒトラーに出会う前の、彼がミュンヘンでエップ義勇軍の装備と兵站の仕事を任され、
抜群の組織能力が認められて、この道の専門化になっていく過程を紹介。
彼の野望はバイエルンの極右団体すべてを軍事団体化し、国防軍第7軍に合体させ、
ベルリンに攻め上がるという雄大なものであり、ナチ党委員長となったヒトラーもこの構想に同意。
ヒトラーは会場警備隊を「体育・スポーツ隊」と改め、元少尉のウルリッヒ・クリンチを指導者に・・。
この改称については中央政府の目を欺こうとするレームが名付け親だろうと推測しますが、
実は指導者に任命されたクリンチというのがくせ者で、ナチ党員でもなく、カップ一揆によって
解散となったエアハルト義勇軍の隊員によって設立された「コンスル組織」のメンバー。
全国各地に支部を置いたコンスルは5000名から成り、1922年までに「売国的」という理由で、
350名もの人々を暗殺している恐るべき暗殺結社なのです。
ベルリンでカップ一揆を見学したヒトラーも、この時のエアハルト義勇軍に深く印象付けられて、
党の軍隊の理想像としていたことによる人選では? と推測します。
体育・スポーツ隊のメンバーは、大戦中の決死的任務のために臨時編成された部隊の名称、
「突撃隊」を名乗るようになると、党本部でもそっちの方が勇ましくて格好良いということで
あっさり改称・・。こうして正式に「突撃隊(SA)」が誕生するわけです。
1921年末の時点で党員数は6000名、そのうち突撃隊は100名程度。
しかし1923年の「ミュンヘン一揆」に向けて党員が増大すると、突撃隊員も3000名へと拡張。
ヒトラーによる選抜条件は、「戦闘能力がある18歳~32歳までの男子」であり、
「党のエリートから構成される」という編成方針があったものの、最も厳格な規律に欠け、
かなりの者がコンスルなどの他の組織や、ナチス協力団体のメンバーなのでした。
無鉄砲さが売りのSA隊員。会場警備の際の妨害者との乱闘、政敵の会場への妨害行為、
街頭での政敵との乱闘は党中央、およびSA幹部からの命令による暴力ですが、
隊員個人による乱暴狼藉も多いこの時代、ヒトラーも私的犯罪を放任・・。
最初は素手だった共産党や社会民主党との乱闘もエスカレートし、棍棒にナイフ、チェーン、
やがてピストル、機関銃、手榴弾へとグレードアップしていくのでした。
ムッソリーニの「ローマ進撃」の成功を見て、ベルリン進撃を唱えるようになったヒトラー。
結局はコレが「ミュンヘン一揆」へとなるわけですが、第2章で詳しく書かれています。
ナチス単独では不可能な構想なことから、各団体と同盟を結びつつ、SAは民間防衛隊として
国防軍の手によって軍事訓練を受けさせようとなると、レームの息がかかったクリンチに代えて、
新たなSA指導者としてゲーリングを任命します。
ゲーリングによって3個大隊からなる1115名の連隊に編成されたミュンヘンのSA。
連隊長には大柄なブリュックナーが登用されます。
一方のクリンチはSA隊員の中からヒトラーに忠実な者を8名選び出し、
新たに「本部衛兵隊」を組織することに・・。
しかしエアハルト大佐の命令でナチスに送り込んでいたコンスルは人員の引き上げを行い、
クリンチも手を引いて、歴史から消え去っていくのです。
そして彼の遺産である本部衛兵隊はユリウス・シュレックにより、
「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」と改名し、その隊員数も150名を数えるのでした。
見事に「一揆」は失敗し、逮捕される寸前にローゼンベルクを党首代理に任命したヒトラー。
そしてSAは・・というと、怪我を負い、国外へ逃れたゲーリングに代わり、
出獄したレームに「無条件で服従する」ことをSA隊員に求めるのでした。
東アフリカの旧ドイツ植民地駐留軍の制服であった褐色シャツもロスバッハが手に入れ、
新たに再建への道を進むSA。しかしSAを民間防衛隊に発展させるのか、
それとも宣伝・集会防衛の機関とするのかで激しくやりあうレームとヒトラー。
結局、SA司令官を辞任すると通告したレームは、政治軍事活動から手を引き、
セールスマン、機械工場の事務員など職を転々とし、アルコールとホモの生活に溺れた末、
ボリビア軍の軍事顧問に招かれ、1926年、ドイツを去っていくのでした。
そんなころ、ヒトラーはシュレックに命じて、「本部警備隊」を作らせ、間もなく「親衛隊」と改称。
そのメンバーは以前の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」と同様です。
SAもバイエルンだけでなく、ドイツ各地で再編成。
ベルリンではロスバッハ義勇軍だったクルト・ダリューゲがナチスに加わり、
SA指導者に任命されますが、大部分は彼が引き連れてきた600名の義勇兵。
このダリューゲはベルリンの暗黒街で「無鉄砲ダリューゲ」の異名をとった、
ちんぴらギャング団のボスでもあり、アウトローな方法で収入を得ていた・・と。
また同じ1926年春、ルール管区ではヴィクトール・ルッツェがSA指導者に・・。
いやいや、そろそろお馴染みさんたちが登場してきましたねぇ。
党再建拡張による宣伝・集会に必要なSAが不足している・・とヒトラーは感じる反面、
管区指導者、いわゆる政治部門のガウライターに反抗する過激なSAにも嘆くという矛盾・・。
そこで新たなSA指導者にプフェファ・フォン・ザロモンを任命して組織改革を実行します。
それまで各管区の下にあったSAをザロモンを頂点とした中央集権的構成に再編成し、
各指導者に絶対的服従を要求します。
そしてガウライターら政治組織との関係も新たに規定しますが、
それは政治指導者が下す、SA指導者への指令が強制権を持たず、
具体的に干渉することも出きないというものであり、その結果、
指令を受けたSAは任務が自分たちの能力を超えている・・とか、
SAの仕事に相応しくない・・と拒否できることになってしまうのです。
最終的には政治指導者とSA指導者、2人の力関係で強いほうが勝つ・・という論理です。
SAの本来の任務とは、ビラを配ったり、プラカードを掲げた行進といった宣伝活動に、
音楽会やダンス会、スポーツ競争などによって地域の住民と接触するのも仕事です。
本書では1928年7月の上バイエルン管区での「夏祭り」のプログラムも紹介。
7:30に駅で来賓の歓迎会に始まり、教会まで吹奏楽団付きのSA行進、
昼には音楽会、水泳競技に市民競技場での競技大会、19:00にはダンス会・・といった具合で、
時間と共に住民を観客から参加者に変えてしまうよう、周到に計画され、
最後にはナチスと住民の違和感が取り除かれた親密な一体感が生まれる仕組みなのです。
1929年になると経済恐慌の波がSAにも押し寄せます。
党員費1マルクの払い込みが減少したことで、その半額50ペニッヒによってまかなわれていた
SA財政が苦しくなり、そのSAを維持するために新たに新党員を確保しなければならない・・
ということで、過去の政治歴や思想を問わず、誰でも入党させてしまうという悪循環・・。
低額所得者の多いSA隊員にとって給与のストップは死活問題であり、
党とヒトラーのちまちました「合法戦術」に我慢の限界が近づいてくるのです。
そこでザロモンは負傷保険制度を導入して、積立金から怪我の程度によって
保険金が支払われることにすると、隊員たちは政治闘争に励むことになります。
1929年下半期だけで、621件の負傷保険の支払いがあったそうな・・。
それでもSA隊員の不満は収まりません。
ベルリンではガウライターのゲッベルスがSA隊員に完全服従を要求すると、
彼らはSAの自立性を主張し、選挙運動をボイコット。ゲッベルスが除名をもって脅すと、
SA東部指導者のヴァルター・シュテンネスは逆にゲッベルスの解任を党本部に要求。
そしてこれが拒否されると激昂したSA隊員の一部がゲッベルスの本部に乱入して占拠。
危うく監禁を逃れたゲッベルスはダリューゲの親衛隊を差し向けますが、
凄まじい死闘の末、数に勝るSAがSSを叩きのめして追い出します。
ならばとベルリン治安警察に依頼して、またもや激しい格闘の末、
なんとか党本部を取り戻したゲッベルス。
この事件の後、ザロモンは辞任し、ヒトラーは自らがSA最高指導者となって、
SA中隊の間を巡回して彼らの説得と、絶対的忠誠、そして経済状態改善を約束するのです。
入党費も倍の2マルクに引き上げて、SAには1マルクをまわし、
党員から臨時SA隊費30ペニッヒを徴収。
規律を無視するSA隊員であろうとも、共産党に移っていくのを恐れる彼は、
彼らを除名する勇気にも欠け、この危機を乗り越えるのが難しいと感じたヒトラーは、
SAを抑え込める唯一の人物として、ボリビアからレームを呼び寄せるのでした。
1931年春に組織改革を行い、再び、管区長の指揮下にSA連隊が配されることに・・。
レームをトップの参謀長(幕僚長)にして、ルッツェら4人が上級集団長に任命され、
ベルリンではシュテンネスに代わってレームの信頼の厚いヘルドルフが選ばれます。
ヒトラーに呼び出されたシュテンネスは解任通知を平然と聞き流して、大規模な反抗を準備。
4月、シュテンネス配下のSA隊員がベルリンの管区本部と支部を急襲。
ゲッベルスはまたもやダリューゲのSSを投入しますが、争奪戦は半日続き、
結局、警官隊の出動で終息します。
シュテンネスは離党し、オットー・シュトラッサーのグループに合流。
ベルリンの25000名の隊員のうち、1/3がシュテンネスに従って去っていくのでした。
なにか、近年の日本でもニュースなった問題・・。
有名な弁当チェーンが分離して、裁判沙汰になったりとか、
牛丼チェーン店の激しい値下げ争いとか、全国展開する組織づくりの大変さを感じますね。
実は夜間の「バイト1オペ」を狙った強盗なんて、ライバル店の差し金だったりして・・。
その結果、近所でも閉店しちゃってますからね。。こわっ!
この事件にショックを受けたヒトラー。勇敢に戦ったダリューゲのSSに感激し、
それまでザロモンの抵抗にあって存在感のなかったヒムラーのSSに関心も移るのです。
SAの過激派から党組織を守るため、SSを党の警察機構にしようと考え、
SAの部分組織から、独立した組織に発展させていくのです。
情報組織の設立を命ぜられたヒムラーは、1931年にヨットに乗りたくて入党したSA船舶隊長、
ハイドリヒに3人の部下を与えて、後のSS保安情報部が誕生するのでした。
1931年末の党員数は80万名で、1年前の2倍に膨れ上がり、レームは頑強な青年党員を
精力的にSAへと編入します。SA隊員は同じ期間に6万名から20万名へと拡張。
しかし政権争いが本格化すると、ブリューニングとグレーナーによって、「SA禁止令」が・・。
これに不満を申し立てるのは国土防衛でSAの協力を得ている軍管区司令部将校たち。
ヴィルヘルム皇子はグレーナー国防相宛ての抗議電報を送り、
第2軍管区司令官のフォン・ボック将軍も国防省に抗議にやってくる始末・・。
それでもパーペン内閣に代わると禁止令は撤回。
このあたりは策士シュライヒャー将軍と、事実上の党No.2、グレゴール・シュトラッサーが
頻繁に登場する展開で、どちらかというと「SA」は政権争いに振り回される1組織ですね。
こうして1933年にヒトラー内閣が誕生すると、主役はプロイセン内相となったゲーリングです。
SAとSS、併せて4万名が補助警官に任命され、その指揮官にはダリューゲが・・。
そして「国会議事堂放火事件」が起こると、積年のライバル共産党が解党へと追い込まれ、
ゲシュタポ長官ディールスの回想録からも抜粋します。
バイエルンでもレームがプロイセンに倣って「治安補助警官隊」を編成しますが、
もちろんほとんどがSA隊員であり、本書では、「犯罪者的気質をもつSA隊員が、警察的任務を
遂行するのだからたまらない。暴力団が警察権を握った場合を想像すると良い」と・・。
全国で一般党員とSA隊員が市政府の辞職を迫り、市庁舎を占拠してハーケンクロイツ旗を掲揚。
しかしヒトラーも党本部も政権獲得後の公職ポストの配分を計画していなかったことから、
管区長以上の党員は、自分が望む公職に殺到し、激しい争奪戦を演じることに・・。
党内における序列、当人の専門的能力とは無関係で、すばしこい者が勝ちを収めるのです。
これにより、党内と公職の序列が逆転したり、1人で関係ないポストをいくつも所有する例も続出。
補助警官は案の定、不当逮捕や私設収容所への監禁、私刑を繰り返し、
500人以上が殺されると、ゲシュタポのディールスが取締りに乗り出し、
ベルリンのSA本部を包囲して機関銃を撃ちこんでSAの若造たちを引きずり出すほど。
ゲーリングも補助警察を解散させてしまうと、また失業者となったSA隊員は不満が堪るのです。
混乱はプロイセンで権力を握ったゲーリングと、ミュンヘンのレームの対立という構図に。
レームは行政を監視して助言与えるSA特別全権官制度を導入して、
プロイセンにもSA政治部長のゲオルク・フォン・デッテンを派遣します。
デッテンはゲーリングに対し、「同意しなければ国会放火の真相を暴露する」と強請ったそうな。。
さらにレームは国防軍の軍事訓練センターを奪って管理し、その他の訓練施設も独占。
SA訓練局を管理するのはSA幹部学校の校長でもあるヴィルヘルム・クリューガーです。
一方で、ゲーリングからゲシュタポを引き継いだヒムラーとハイドリヒのSSチームは、
レーム暗殺を目論むものの、ヒトラーから抑えられ、SA隊員の尾行と監視に着手します。
同じ時期、SAの解体やむなしと考えていたのは政務局長のフォン・ライヒェナウ。
彼は軍情報部以外にも、SA内部に情報ルートを持っていて、それはルッツェとクリューガーです。
こうして「SAの武装蜂起の計画」なるものが、ハイドリヒとライヒェナウの周りに姿を現すと、
それが証拠となって、SA幹部粛清の「長いナイフの夜」へと進んでいくのです。
ゲーリングがプロイセンのライバル、デッテンも粛清対象に組み込むと
ゲッベルスもシュライヒャーとシュトラッサーの名前を書き入れ、
ヒムラーに連れられてきたハイドリヒは「誰彼も危険人物だから除きましょう」と提案・・・。
クライマックスの「長いナイフの夜」もなかなか詳細に書かれていて、
SA幹部の中でも「殺人鬼」として恐れられていた大男エドムンド・ハイネスは、
若い男と寝ていたところを双璧の大男、ブリュックナーが拳で殴り倒し、
レームも逮捕されて、裏切り者のルッツェらを除くSA幹部が処刑されていくのです。
思っていたよりもシッカリと書かれた一冊でした。
巻末に出典一覧はないものの、途中途中でディールスの回想録などから抜粋したりと、
気になっていた未訳の文献がいくつかありました。
ただし、純粋に突撃隊(SA)について触れられているのは、全体の1/3程度でしょうか。
ヒトラーとナチ党がいかにして政権を獲ったか・・の過程が非常に詳細であり、
その中でのSAの役割の変化、別の言い方をすれば「SA興亡史」が展開される構成なので、
その意味では必要かとは思いますが、ヒトラーが首相となる経緯などはちょっとやり過ぎ感も・・。
シュライヒャー将軍の名前が何十回も出てくるわけですからね。
また、国会議事堂放火の下手人はゲーリングとSAだと断定していますが、
著者は「ヒトラーの陰謀 ドイツ国会放火事件」という本も書いているんですねぇ。
ちなみに別の著者による「国会炎上(デア・ライヒスターク)―1933年-ドイツ現代史の謎」
という本もありました。
まぁ、その件も含めて、本書が若干古いとか、日本人が書いたとかの意見は置いておいても、
いくつか「ホンマかいな??」というのもありましたので、それらも今回は取り上げています。
なにが真実かということに拘るより、名前も知らなかった初期のナチ党員やSA隊員らの、
虚虚実実の駆け引きを味わうことができた一冊でした。
桧山 良昭 著の「ナチス突撃隊」を読破しました。
ここのところ、突撃隊(SA)について、しこしことネットで調べていたんですが、
ちょっと頭の中を整理したいなぁ・・と、未読だった本書を選んでみました。
1993年、487ページというなかなかボリュームのある文庫ですが、
もともと1976年に発刊された、その筋では有名な一冊です。
本書を読む前には「将軍たちの夜」のキルスト著の小説「長いナイフの夜」も再読して、
すっかり「粛清」モードに入ってしまいました。
第1章は「突撃隊の設立」。
1920年、ドイツ労働者党を設立したドレクスラーの話から始まります。
やがて怪我の癒えたヒトラーも入党し、ビアホールでの集会も活発化すると、
2000名もの聴衆が詰めかけることとなり、その結果、会場警備隊が必要に・・。
最初の警備隊員は旧軍人と旧警官から優先して選ばれた25名。
隊長には23歳の時計修理工、エミール・モーリスが任命されるのです。
後にヒトラーの姪ゲリと結婚しようとして、クビになったあの人ですね。
そして「SA」といえばこの人、第11歩兵旅団司令部副官であったエルンスト・レームが登場し、
まだ、ヒトラーに出会う前の、彼がミュンヘンでエップ義勇軍の装備と兵站の仕事を任され、
抜群の組織能力が認められて、この道の専門化になっていく過程を紹介。
彼の野望はバイエルンの極右団体すべてを軍事団体化し、国防軍第7軍に合体させ、
ベルリンに攻め上がるという雄大なものであり、ナチ党委員長となったヒトラーもこの構想に同意。
ヒトラーは会場警備隊を「体育・スポーツ隊」と改め、元少尉のウルリッヒ・クリンチを指導者に・・。
この改称については中央政府の目を欺こうとするレームが名付け親だろうと推測しますが、
実は指導者に任命されたクリンチというのがくせ者で、ナチ党員でもなく、カップ一揆によって
解散となったエアハルト義勇軍の隊員によって設立された「コンスル組織」のメンバー。
全国各地に支部を置いたコンスルは5000名から成り、1922年までに「売国的」という理由で、
350名もの人々を暗殺している恐るべき暗殺結社なのです。
ベルリンでカップ一揆を見学したヒトラーも、この時のエアハルト義勇軍に深く印象付けられて、
党の軍隊の理想像としていたことによる人選では? と推測します。
体育・スポーツ隊のメンバーは、大戦中の決死的任務のために臨時編成された部隊の名称、
「突撃隊」を名乗るようになると、党本部でもそっちの方が勇ましくて格好良いということで
あっさり改称・・。こうして正式に「突撃隊(SA)」が誕生するわけです。
1921年末の時点で党員数は6000名、そのうち突撃隊は100名程度。
しかし1923年の「ミュンヘン一揆」に向けて党員が増大すると、突撃隊員も3000名へと拡張。
ヒトラーによる選抜条件は、「戦闘能力がある18歳~32歳までの男子」であり、
「党のエリートから構成される」という編成方針があったものの、最も厳格な規律に欠け、
かなりの者がコンスルなどの他の組織や、ナチス協力団体のメンバーなのでした。
無鉄砲さが売りのSA隊員。会場警備の際の妨害者との乱闘、政敵の会場への妨害行為、
街頭での政敵との乱闘は党中央、およびSA幹部からの命令による暴力ですが、
隊員個人による乱暴狼藉も多いこの時代、ヒトラーも私的犯罪を放任・・。
最初は素手だった共産党や社会民主党との乱闘もエスカレートし、棍棒にナイフ、チェーン、
やがてピストル、機関銃、手榴弾へとグレードアップしていくのでした。
ムッソリーニの「ローマ進撃」の成功を見て、ベルリン進撃を唱えるようになったヒトラー。
結局はコレが「ミュンヘン一揆」へとなるわけですが、第2章で詳しく書かれています。
ナチス単独では不可能な構想なことから、各団体と同盟を結びつつ、SAは民間防衛隊として
国防軍の手によって軍事訓練を受けさせようとなると、レームの息がかかったクリンチに代えて、
新たなSA指導者としてゲーリングを任命します。
ゲーリングによって3個大隊からなる1115名の連隊に編成されたミュンヘンのSA。
連隊長には大柄なブリュックナーが登用されます。
一方のクリンチはSA隊員の中からヒトラーに忠実な者を8名選び出し、
新たに「本部衛兵隊」を組織することに・・。
しかしエアハルト大佐の命令でナチスに送り込んでいたコンスルは人員の引き上げを行い、
クリンチも手を引いて、歴史から消え去っていくのです。
そして彼の遺産である本部衛兵隊はユリウス・シュレックにより、
「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」と改名し、その隊員数も150名を数えるのでした。
見事に「一揆」は失敗し、逮捕される寸前にローゼンベルクを党首代理に任命したヒトラー。
そしてSAは・・というと、怪我を負い、国外へ逃れたゲーリングに代わり、
出獄したレームに「無条件で服従する」ことをSA隊員に求めるのでした。
東アフリカの旧ドイツ植民地駐留軍の制服であった褐色シャツもロスバッハが手に入れ、
新たに再建への道を進むSA。しかしSAを民間防衛隊に発展させるのか、
それとも宣伝・集会防衛の機関とするのかで激しくやりあうレームとヒトラー。
結局、SA司令官を辞任すると通告したレームは、政治軍事活動から手を引き、
セールスマン、機械工場の事務員など職を転々とし、アルコールとホモの生活に溺れた末、
ボリビア軍の軍事顧問に招かれ、1926年、ドイツを去っていくのでした。
そんなころ、ヒトラーはシュレックに命じて、「本部警備隊」を作らせ、間もなく「親衛隊」と改称。
そのメンバーは以前の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」と同様です。
SAもバイエルンだけでなく、ドイツ各地で再編成。
ベルリンではロスバッハ義勇軍だったクルト・ダリューゲがナチスに加わり、
SA指導者に任命されますが、大部分は彼が引き連れてきた600名の義勇兵。
このダリューゲはベルリンの暗黒街で「無鉄砲ダリューゲ」の異名をとった、
ちんぴらギャング団のボスでもあり、アウトローな方法で収入を得ていた・・と。
また同じ1926年春、ルール管区ではヴィクトール・ルッツェがSA指導者に・・。
いやいや、そろそろお馴染みさんたちが登場してきましたねぇ。
党再建拡張による宣伝・集会に必要なSAが不足している・・とヒトラーは感じる反面、
管区指導者、いわゆる政治部門のガウライターに反抗する過激なSAにも嘆くという矛盾・・。
そこで新たなSA指導者にプフェファ・フォン・ザロモンを任命して組織改革を実行します。
それまで各管区の下にあったSAをザロモンを頂点とした中央集権的構成に再編成し、
各指導者に絶対的服従を要求します。
そしてガウライターら政治組織との関係も新たに規定しますが、
それは政治指導者が下す、SA指導者への指令が強制権を持たず、
具体的に干渉することも出きないというものであり、その結果、
指令を受けたSAは任務が自分たちの能力を超えている・・とか、
SAの仕事に相応しくない・・と拒否できることになってしまうのです。
最終的には政治指導者とSA指導者、2人の力関係で強いほうが勝つ・・という論理です。
SAの本来の任務とは、ビラを配ったり、プラカードを掲げた行進といった宣伝活動に、
音楽会やダンス会、スポーツ競争などによって地域の住民と接触するのも仕事です。
本書では1928年7月の上バイエルン管区での「夏祭り」のプログラムも紹介。
7:30に駅で来賓の歓迎会に始まり、教会まで吹奏楽団付きのSA行進、
昼には音楽会、水泳競技に市民競技場での競技大会、19:00にはダンス会・・といった具合で、
時間と共に住民を観客から参加者に変えてしまうよう、周到に計画され、
最後にはナチスと住民の違和感が取り除かれた親密な一体感が生まれる仕組みなのです。
1929年になると経済恐慌の波がSAにも押し寄せます。
党員費1マルクの払い込みが減少したことで、その半額50ペニッヒによってまかなわれていた
SA財政が苦しくなり、そのSAを維持するために新たに新党員を確保しなければならない・・
ということで、過去の政治歴や思想を問わず、誰でも入党させてしまうという悪循環・・。
低額所得者の多いSA隊員にとって給与のストップは死活問題であり、
党とヒトラーのちまちました「合法戦術」に我慢の限界が近づいてくるのです。
そこでザロモンは負傷保険制度を導入して、積立金から怪我の程度によって
保険金が支払われることにすると、隊員たちは政治闘争に励むことになります。
1929年下半期だけで、621件の負傷保険の支払いがあったそうな・・。
それでもSA隊員の不満は収まりません。
ベルリンではガウライターのゲッベルスがSA隊員に完全服従を要求すると、
彼らはSAの自立性を主張し、選挙運動をボイコット。ゲッベルスが除名をもって脅すと、
SA東部指導者のヴァルター・シュテンネスは逆にゲッベルスの解任を党本部に要求。
そしてこれが拒否されると激昂したSA隊員の一部がゲッベルスの本部に乱入して占拠。
危うく監禁を逃れたゲッベルスはダリューゲの親衛隊を差し向けますが、
凄まじい死闘の末、数に勝るSAがSSを叩きのめして追い出します。
ならばとベルリン治安警察に依頼して、またもや激しい格闘の末、
なんとか党本部を取り戻したゲッベルス。
この事件の後、ザロモンは辞任し、ヒトラーは自らがSA最高指導者となって、
SA中隊の間を巡回して彼らの説得と、絶対的忠誠、そして経済状態改善を約束するのです。
入党費も倍の2マルクに引き上げて、SAには1マルクをまわし、
党員から臨時SA隊費30ペニッヒを徴収。
規律を無視するSA隊員であろうとも、共産党に移っていくのを恐れる彼は、
彼らを除名する勇気にも欠け、この危機を乗り越えるのが難しいと感じたヒトラーは、
SAを抑え込める唯一の人物として、ボリビアからレームを呼び寄せるのでした。
1931年春に組織改革を行い、再び、管区長の指揮下にSA連隊が配されることに・・。
レームをトップの参謀長(幕僚長)にして、ルッツェら4人が上級集団長に任命され、
ベルリンではシュテンネスに代わってレームの信頼の厚いヘルドルフが選ばれます。
ヒトラーに呼び出されたシュテンネスは解任通知を平然と聞き流して、大規模な反抗を準備。
4月、シュテンネス配下のSA隊員がベルリンの管区本部と支部を急襲。
ゲッベルスはまたもやダリューゲのSSを投入しますが、争奪戦は半日続き、
結局、警官隊の出動で終息します。
シュテンネスは離党し、オットー・シュトラッサーのグループに合流。
ベルリンの25000名の隊員のうち、1/3がシュテンネスに従って去っていくのでした。
なにか、近年の日本でもニュースなった問題・・。
有名な弁当チェーンが分離して、裁判沙汰になったりとか、
牛丼チェーン店の激しい値下げ争いとか、全国展開する組織づくりの大変さを感じますね。
実は夜間の「バイト1オペ」を狙った強盗なんて、ライバル店の差し金だったりして・・。
その結果、近所でも閉店しちゃってますからね。。こわっ!
この事件にショックを受けたヒトラー。勇敢に戦ったダリューゲのSSに感激し、
それまでザロモンの抵抗にあって存在感のなかったヒムラーのSSに関心も移るのです。
SAの過激派から党組織を守るため、SSを党の警察機構にしようと考え、
SAの部分組織から、独立した組織に発展させていくのです。
情報組織の設立を命ぜられたヒムラーは、1931年にヨットに乗りたくて入党したSA船舶隊長、
ハイドリヒに3人の部下を与えて、後のSS保安情報部が誕生するのでした。
1931年末の党員数は80万名で、1年前の2倍に膨れ上がり、レームは頑強な青年党員を
精力的にSAへと編入します。SA隊員は同じ期間に6万名から20万名へと拡張。
しかし政権争いが本格化すると、ブリューニングとグレーナーによって、「SA禁止令」が・・。
これに不満を申し立てるのは国土防衛でSAの協力を得ている軍管区司令部将校たち。
ヴィルヘルム皇子はグレーナー国防相宛ての抗議電報を送り、
第2軍管区司令官のフォン・ボック将軍も国防省に抗議にやってくる始末・・。
それでもパーペン内閣に代わると禁止令は撤回。
このあたりは策士シュライヒャー将軍と、事実上の党No.2、グレゴール・シュトラッサーが
頻繁に登場する展開で、どちらかというと「SA」は政権争いに振り回される1組織ですね。
こうして1933年にヒトラー内閣が誕生すると、主役はプロイセン内相となったゲーリングです。
SAとSS、併せて4万名が補助警官に任命され、その指揮官にはダリューゲが・・。
そして「国会議事堂放火事件」が起こると、積年のライバル共産党が解党へと追い込まれ、
ゲシュタポ長官ディールスの回想録からも抜粋します。
バイエルンでもレームがプロイセンに倣って「治安補助警官隊」を編成しますが、
もちろんほとんどがSA隊員であり、本書では、「犯罪者的気質をもつSA隊員が、警察的任務を
遂行するのだからたまらない。暴力団が警察権を握った場合を想像すると良い」と・・。
全国で一般党員とSA隊員が市政府の辞職を迫り、市庁舎を占拠してハーケンクロイツ旗を掲揚。
しかしヒトラーも党本部も政権獲得後の公職ポストの配分を計画していなかったことから、
管区長以上の党員は、自分が望む公職に殺到し、激しい争奪戦を演じることに・・。
党内における序列、当人の専門的能力とは無関係で、すばしこい者が勝ちを収めるのです。
これにより、党内と公職の序列が逆転したり、1人で関係ないポストをいくつも所有する例も続出。
補助警官は案の定、不当逮捕や私設収容所への監禁、私刑を繰り返し、
500人以上が殺されると、ゲシュタポのディールスが取締りに乗り出し、
ベルリンのSA本部を包囲して機関銃を撃ちこんでSAの若造たちを引きずり出すほど。
ゲーリングも補助警察を解散させてしまうと、また失業者となったSA隊員は不満が堪るのです。
混乱はプロイセンで権力を握ったゲーリングと、ミュンヘンのレームの対立という構図に。
レームは行政を監視して助言与えるSA特別全権官制度を導入して、
プロイセンにもSA政治部長のゲオルク・フォン・デッテンを派遣します。
デッテンはゲーリングに対し、「同意しなければ国会放火の真相を暴露する」と強請ったそうな。。
さらにレームは国防軍の軍事訓練センターを奪って管理し、その他の訓練施設も独占。
SA訓練局を管理するのはSA幹部学校の校長でもあるヴィルヘルム・クリューガーです。
一方で、ゲーリングからゲシュタポを引き継いだヒムラーとハイドリヒのSSチームは、
レーム暗殺を目論むものの、ヒトラーから抑えられ、SA隊員の尾行と監視に着手します。
同じ時期、SAの解体やむなしと考えていたのは政務局長のフォン・ライヒェナウ。
彼は軍情報部以外にも、SA内部に情報ルートを持っていて、それはルッツェとクリューガーです。
こうして「SAの武装蜂起の計画」なるものが、ハイドリヒとライヒェナウの周りに姿を現すと、
それが証拠となって、SA幹部粛清の「長いナイフの夜」へと進んでいくのです。
ゲーリングがプロイセンのライバル、デッテンも粛清対象に組み込むと
ゲッベルスもシュライヒャーとシュトラッサーの名前を書き入れ、
ヒムラーに連れられてきたハイドリヒは「誰彼も危険人物だから除きましょう」と提案・・・。
クライマックスの「長いナイフの夜」もなかなか詳細に書かれていて、
SA幹部の中でも「殺人鬼」として恐れられていた大男エドムンド・ハイネスは、
若い男と寝ていたところを双璧の大男、ブリュックナーが拳で殴り倒し、
レームも逮捕されて、裏切り者のルッツェらを除くSA幹部が処刑されていくのです。
思っていたよりもシッカリと書かれた一冊でした。
巻末に出典一覧はないものの、途中途中でディールスの回想録などから抜粋したりと、
気になっていた未訳の文献がいくつかありました。
ただし、純粋に突撃隊(SA)について触れられているのは、全体の1/3程度でしょうか。
ヒトラーとナチ党がいかにして政権を獲ったか・・の過程が非常に詳細であり、
その中でのSAの役割の変化、別の言い方をすれば「SA興亡史」が展開される構成なので、
その意味では必要かとは思いますが、ヒトラーが首相となる経緯などはちょっとやり過ぎ感も・・。
シュライヒャー将軍の名前が何十回も出てくるわけですからね。
また、国会議事堂放火の下手人はゲーリングとSAだと断定していますが、
著者は「ヒトラーの陰謀 ドイツ国会放火事件」という本も書いているんですねぇ。
ちなみに別の著者による「国会炎上(デア・ライヒスターク)―1933年-ドイツ現代史の謎」
という本もありました。
まぁ、その件も含めて、本書が若干古いとか、日本人が書いたとかの意見は置いておいても、
いくつか「ホンマかいな??」というのもありましたので、それらも今回は取り上げています。
なにが真実かということに拘るより、名前も知らなかった初期のナチ党員やSA隊員らの、
虚虚実実の駆け引きを味わうことができた一冊でした。
ニュルンベルク裁判 ナチ・ドイツはどのように裁かれたのか [ナチ/ヒトラー]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
アンネッテ・ヴァインケ著の「ニュルンベルク裁判」を読破しました。
先月、「ナチスと精神分析官」で4回目のニュルンベルク裁判を紹介したばかりですが、
しつこく5回目をやってみたいと思います。
今年の4月に出た230ページの新書・・と軽い一冊を選んだのにはわけがあり、
いつもの国際軍事裁判に続く、「12の継続裁判」についてページを割いているのがその理由。
いわゆる「医師裁判」や、「アインザッグルッペン裁判」などが含まれますが、
これらの裁判についての本を読むのは初めてなんですね。
そして原題はやっぱり「ニュルンベルク諸裁判」なのでした。
第1章では戦時中、1943年当時の連合国首脳の考え方・・。
チャーチルは独日伊の「アウトロー」である主要戦争犯罪人100人ほどを身元確認後、銃殺。
スターリンはドイツ参謀本部のすべて、少なくとも5万人を抹殺してしまえばいいと主張。
ルーズベルトは「モーゲンソー・プラン」を・・という流れを簡単に説明します。
第2章は「国際軍事法廷」で、24人の主要戦争犯罪人への処断です。
1945年8月の「ポツダム会談」で米英ソの3巨頭によって、可及的速やかに国際軍事法廷を・・、
という共同の意志を確認すると、占領下のドイツで証拠資料の奪い合いが始まります。
米首席検事ジャクソンの部下たちは、ヒトラーの副官だったホスバッハが作成した
1937年のヒトラー欧州戦争計画策定に関する「ホスバッハ覚書」のオリジナルを
大量に「借り出し」たものの、その多くを紛失するという大失態・・。
英国は当初、被告人をゲーリング、リッベントロップ、ライ、ヘスだけに絞っていたものの、
米国はナチ最高幹部に加え、犯罪的であると推定された「組織」の代表者も起訴すべきと主張。
ヒトラーユーゲント指導者や、SSの各組織、陸軍参謀本部にOKW、3軍の総司令部も対象に・・。
終戦時に大統領であった海軍総司令官のデーニッツ元帥も、「戦前」は地位の低い将校であり、
「共同謀議」の罪で立件するのは不可能という英国の異議も、慎重すぎるとあっさり退ける米国。
司法代表団は英国が170名、ソ連が24名、フランス12名なのに対して、
米国は堂々の2000名超え。他方、20ヵ国から250名の「敏腕ジャーナリスト」も集まると、
郊外にある男爵邸をあてがわれます。
しかしこれが粗大ごみが所狭しと置かれた「恐怖の邸宅」と呼ばれる建物であり、
そのような境遇で数ヵ月も過ごす彼らは、米検察団の失敗を容赦なく弾劾することで、
ジャクソンに「返礼」するのでした。
ソ連が「カティンの森」はドイツ人よるものという不当な要求を押し通しているころ、
他国は「ソ連にとって危険な証拠は公表しない方が、安全かつ賢明では・・」と協議。
その結果、ポーランドの分割などが確約された独ソ不可侵条約の「秘密議定書」が
起訴状から外されてしまうのです。
最終的に12人に死刑が宣告されてこの章は終わりますが、「勝者の裁き」論にも触れ、
「根拠のある意義はあるにせよ、多くの批判者たちには、裁判に代わる選択肢があったのか、
という問いに答える義務がある」とします。
89ページから第3章の「12の継続裁判」が始まります。
1946年初頭の段階で、米首席検事のジャクソンは、第2の国際軍事法廷は開催せず、
米国の単独管轄による、ドイツ人エリートへの裁判を行うことを決めます。
すでに始動していた「ダッハウ裁判」を支持する在独米軍政局のクレイ将軍も支援する体制。
首席検察官となるのはジャクソンの代理、テルフォード・テイラーです。
「ダッハウ裁判」ってあのマルメディの虐殺における武装SS裁判のことですね。
最初に開かれた継続裁判は「医師裁判」。
ナチスの医療犯罪に関与した20人のSS隊員、または強制収容所の医師・医療関係者などが
対象であり、ヒトラーの随行医師から、保険・衛生全権委員にまで昇りつめたカール・ブラント、
「T4作戦」に責任を持つヴィクトール・ブラックらが被告人席に・・。
医師たちの大部分がナチ保険政策の遺伝学的・人種学的な目的と、
自分を一体化させていたことが審理の過程で明らかになり、
医療実験のイニシアティブをとっていたのはヒトラーやナチ幹部ではなく、医師たち自身であり、
人体実験の自発的な参加は、自分の職業的な功名のため、兵役招集を逃れるために
利用していたことが判明していくのです。
結局、ブラントを含む7人が絞首刑、逆に7人が無罪となりますが、
証拠不足によるものであり、「疑わしきは罰せず」の原則に従ったものだとします。
本書には名前が出てきませんが、アーネンエルベ事務長のヴォルフラム・ジーフェルスや、
主治医としてヒムラー逮捕の時まで同行していたカール・ゲープハルトと
ルドルフ・ブラントも絞首刑に・・。
この「医師裁判」は7ページ。もうちょっとボリュームが欲しいなぁ。。
司法省次官のシュレーゲルベルガーを中心とした「法律家裁判」が続いた後、
「ポール裁判」、すなわちSS経済管理本部オスヴァルト・ポール長官を主要被告人した裁判へ。
経済管理本部と書くとアレですが、アウシュヴィッツをはじめとした強制収容所が担当部署です。
ポールは刑法的な責任を断固として否認し、弁護人も「抑留者たちの生活条件を改善させる」
ための努力をいとわなかったとしますが、検察側の示したポールの管轄下で
死者が猛烈に跳ね上がったことを示す証拠文書によって、絞首刑・・。
「SS人種・植民本部裁判」は、SS大将で「ドイツ民族性強化全権委員長官」の
ウルリヒ・グライフェルトが主要被告人で、レーベンスボルン(生命の泉)のメンバーも起訴。
ポーランドにおける虐殺政策や、ポーランド人孤児の拉致、
東部女性労働者の妊娠中絶などが裁判の中心ですが、判決は寛大なもので、
グライフェルトが終身刑で、7人が10年~20年というもの。
なお、唯一の女性被告人でレーベンスボルン協会副会長インゲ・フィアメッツは無罪です。
次は有名な「行動部隊(アインザッツグルッペン)裁判」です。
開廷前に1人が自殺して、SS、ゲシュタポ、刑事警察、保安部の高官から成る被告は22人。
最も重要なのは、すでにカルテンブルンナーに関する審問において、
南ウクライナ地域を担当していたショーベルトやマンシュタイン、そして自分自身を不利な立場に
置くような発言、「9万人のユダヤ人の殺害に責任がある」と述べていたオーレンドルフです。
それから15か月後の裁判でオーレンドルフは弁護士の勧めもあって、これまでの供述を翻し、
大量処刑は、「国防軍が制約されずに行動できるように」するための軍事的、警察的措置と表現。
また、RSHA人事局長シュトレッケンバッハによる、
「占領地におけるユダヤ人を無差別に殺害すべし」というヒトラー命令を聞いたと主張。
もうヒトラーも、ヒムラーも、ハイドリヒもみんな死んでますしねぇ。
この当時、ソ連に拘留されていたシュトレッケンバッハに責任を押し付ける戦略ですが、
最終的にオーレンドルフを含む14名に死刑判決が下されるという、
全裁判の中でも最も厳しいものとなるのです。
しかし処刑は1951年にオーレンドルフとパウル・ブローベルら4人に対してのみ執行され、
残りの囚人は50年代に放免されたそうです。
「南東戦線将官裁判」は、別名「捕虜裁判」とも呼ばれているもので、
裁判の中心は、占領下のユーゴスラヴィアとギリシャにおける「人質処刑」です。
民間人を人質に取ることは、まだニュルンベルク裁判の時点では、
戦時国際慣習法で許容された対抗措置に属するものだったものの、
バルカン半島でのドイツ軍行動は軍事的報復措置の限界を遥かに超えた・・。
カイテルが「ドイツ兵士一人につき、50~100名の共産主義者を見せしめに処刑せよ」という
ヒトラー命令を伝達したことから、セルビア駐留のベーメ将軍はユダヤ人の大量処刑にも関与。
コレは「世界戦争犯罪事典」に載っていたエピソードですねぇ。
パルチザンに対するフラストレーションが住民にぶつけられた結果の粗暴な行為。
これにより1949年のジュネーブ条約では許容されていた民間人の人質が否定されることに・・。
ベーメは審理開始前に自殺、ヴァイクス元帥は病気により免訴となって、2名に終身刑。
名前は書かれていませんが、この終身刑のうち一人は、あのリスト元帥です。
もっとも病気のため1952年には釈放されたようですね。
また、20年禁固刑を受けたものの、1951年釈放されたギリシャ軍事司令官は、
ヴィルヘルム・シュパイデルで、あのハンス・シュパイデルの兄さんです。
「国防軍最高司令部(OKW)裁判」も対象となる被告は高級将校。
起訴理由は「コミッサール命令」と、「戦時捕虜の大量殺害」に関するもの。
被告は陸軍からフォン・レープ、海軍からはシュニーヴィント、空軍がシュペルレであり、
詳しい方なら、この3人は悪人顔ながらも「OKW」じゃないのがわかるでしょう。
シュペルレは「コンドル軍団」司令官としてゲルニカ空爆を実施していますが、
1939年からの戦争が対象のニュルンベルク裁判ではそれが起訴理由にはなりません。
シュペルレとシュニーヴィントは結局、無罪となりますが、
民間人に対する虐殺行為を何度か激しく非難したことで知られるブラスコヴィッツまでもが
起訴されたことは理解しがたく、その彼は開廷の日である1948年2月5日に自殺・・。
残る11人の被告全員が戦争犯罪、および人道に対する罪で3年以上の有罪判決。
本書からは名前が書かれた4名しかわかりませんので、ちょっと紹介しましょう。
OKWからは3人で、そのうち一人はヨードルの代理でもあったヴァーリモントが終身刑。
フォン・レープは3年、ホリトが5年、オットー・ヴェーラーが8年、
ヘルマン・ホトと、ラインハルトが揃って15年、フォン・キュヒラーとフォン・ザルムートが20年。
とはいってもレープはすでに3年以上拘留されているため判決後釈放され、
その他の被告も1954年までには全員釈放されています。
そういえば「ドイツ装甲師団とグデーリアン」で、戦犯容疑者として拘留されているメンバーが
宿敵ハルダーの保守派である、フォン・レープにリスト、ヴァイクスらで、
村八分のグデーリアン派は、ミルヒとブロムベルクだったなんて書かれてましたね。
鉄鋼界の大立者である「フリードリヒ・フリック裁判」の後、
経済界を対象とした「IG・ファルベン裁判」と続き、
エッセンの大企業「クルップ裁判」と、ナチスに協力した企業家かや経営者への裁きが連続。
空軍次官だった「ミルヒ裁判」はその期間は最も短いもの。
ダッハウで行われたジークムント・ラシャーの人体実験の責任も問われます。
法廷は強制労働計画を理由に「終身刑」の判決を下しますが、
後に15年に減刑、そして1954年には自由の身になるのでした。
最後に紹介される裁判は、閣僚・政府高官へのもので、いわゆる「諸官庁裁判」です。
21人の被告はざっとこんなメンバーです。
内閣官房ラマース、大統領官房マイスナー、食糧・農業省ダレ、財務省フォン・クロージク、
宣伝省オットー・ディートリッヒ、外務省はリッベントロップの副官と書かれたヴァイツゼッカー。
さらにアウトサイダーとしてSS本部長ゴットロープ・ベルガーと、SD国外諜報部長シェレンベルク。
彼らが共同謀議や平和に対する罪、占領地域における経済的略奪、犯罪的な組織への所属・・、
といったことで起訴され、検察側は21人全員の死刑を要求し、弁護側は全員無罪を主張します。
最終的に無罪となったのはマイスナーら2人で、同じ官房長だったラマースは20年の判決。
別に顔つきから無罪と、有罪になったわけではありません。
最も重い25年がベルガーで、シェレンベルクが6年、ヴァイツゼッカーが5年となるのでした。
こうして第4章の「戦後ドイツへの影響」へと進みます。
すでに1948年には第一次世界大戦のUボートの艦長で、反ナチのために1937年から
ザクセンハウゼン強制収容所などに収容されていたマルティン・ニーメラー牧師が
「OKW裁判」に関する請願書を提出。
「目的のためにあらかじめ将官から軍の階級を剥奪するという手法は、
7月20日事件のヒトラーによるドイツ人将校に対する処遇と同じではないでしょうか」。
そして「西ドイツ」が誕生し、ランツベルクに収容された囚人たちへの「恩赦」も検討され、
西ドイツのジャーナリズムも、一連のニュルンベルク裁判を公然と批判します。
「自分の命を常に危険に晒しながら、エーリヒ・コッホのような奴らと闘ったヴァイツゼッカーを
はじめとする人たちが有罪判決を下される一方、東プロイセンの警察・SS最高指導者の
オットー・ヘルヴィヒのような人物が自由に暮らしている事態に、わたしたちはうんざりだ」。
最終章ではこの「ニュルンベルクの原則」を国際法として確立しようとする紆余曲折が
語られます。それは1950年に法典案が提出されてから、国際法委員会で採択されたのは、
ようやく1990年になってから・・。
結局、期待していた「継続裁判」は第3章に70ページほど書かれていましたが、
ひとつひとつの裁判については簡単なものだと3ページ程度(ミルヒ裁判は1ページ)であり、
概要レベルと言っても良いかも知れません。
また、本書の観点は検察側の戦略に重点を置いたものであって、
被告側の主張はオーレンドルフなど、いくつかの例を除いてはそれほど書かれていませんし、
いつものニュルンベルク裁判モノにある被告の心理や、検察との戦いの様子も伝わりません。
もちろん、このボリュームの新書ですからそれはそれでしょうがないですし、
コレだけでも十分勉強になったのは事実です。
でも・・、それでも余計にもっと詳しく知りたいと思ってしまいましたね。
行きたいと思っていた高級レストランの安いランチだけを食べたような心境というんでしょうか・・。
多少は満足したけど、夜のフルコースを存分に味わってみたい・・と更に思います。
そしてできれば、マルメディ裁判に、ポーランドやソ連、その他の国で行われた
ナチス裁判についても、まとまって書かれた本があれば嬉しいですね。
アンネッテ・ヴァインケ著の「ニュルンベルク裁判」を読破しました。
先月、「ナチスと精神分析官」で4回目のニュルンベルク裁判を紹介したばかりですが、
しつこく5回目をやってみたいと思います。
今年の4月に出た230ページの新書・・と軽い一冊を選んだのにはわけがあり、
いつもの国際軍事裁判に続く、「12の継続裁判」についてページを割いているのがその理由。
いわゆる「医師裁判」や、「アインザッグルッペン裁判」などが含まれますが、
これらの裁判についての本を読むのは初めてなんですね。
そして原題はやっぱり「ニュルンベルク諸裁判」なのでした。
第1章では戦時中、1943年当時の連合国首脳の考え方・・。
チャーチルは独日伊の「アウトロー」である主要戦争犯罪人100人ほどを身元確認後、銃殺。
スターリンはドイツ参謀本部のすべて、少なくとも5万人を抹殺してしまえばいいと主張。
ルーズベルトは「モーゲンソー・プラン」を・・という流れを簡単に説明します。
第2章は「国際軍事法廷」で、24人の主要戦争犯罪人への処断です。
1945年8月の「ポツダム会談」で米英ソの3巨頭によって、可及的速やかに国際軍事法廷を・・、
という共同の意志を確認すると、占領下のドイツで証拠資料の奪い合いが始まります。
米首席検事ジャクソンの部下たちは、ヒトラーの副官だったホスバッハが作成した
1937年のヒトラー欧州戦争計画策定に関する「ホスバッハ覚書」のオリジナルを
大量に「借り出し」たものの、その多くを紛失するという大失態・・。
英国は当初、被告人をゲーリング、リッベントロップ、ライ、ヘスだけに絞っていたものの、
米国はナチ最高幹部に加え、犯罪的であると推定された「組織」の代表者も起訴すべきと主張。
ヒトラーユーゲント指導者や、SSの各組織、陸軍参謀本部にOKW、3軍の総司令部も対象に・・。
終戦時に大統領であった海軍総司令官のデーニッツ元帥も、「戦前」は地位の低い将校であり、
「共同謀議」の罪で立件するのは不可能という英国の異議も、慎重すぎるとあっさり退ける米国。
司法代表団は英国が170名、ソ連が24名、フランス12名なのに対して、
米国は堂々の2000名超え。他方、20ヵ国から250名の「敏腕ジャーナリスト」も集まると、
郊外にある男爵邸をあてがわれます。
しかしこれが粗大ごみが所狭しと置かれた「恐怖の邸宅」と呼ばれる建物であり、
そのような境遇で数ヵ月も過ごす彼らは、米検察団の失敗を容赦なく弾劾することで、
ジャクソンに「返礼」するのでした。
ソ連が「カティンの森」はドイツ人よるものという不当な要求を押し通しているころ、
他国は「ソ連にとって危険な証拠は公表しない方が、安全かつ賢明では・・」と協議。
その結果、ポーランドの分割などが確約された独ソ不可侵条約の「秘密議定書」が
起訴状から外されてしまうのです。
最終的に12人に死刑が宣告されてこの章は終わりますが、「勝者の裁き」論にも触れ、
「根拠のある意義はあるにせよ、多くの批判者たちには、裁判に代わる選択肢があったのか、
という問いに答える義務がある」とします。
89ページから第3章の「12の継続裁判」が始まります。
1946年初頭の段階で、米首席検事のジャクソンは、第2の国際軍事法廷は開催せず、
米国の単独管轄による、ドイツ人エリートへの裁判を行うことを決めます。
すでに始動していた「ダッハウ裁判」を支持する在独米軍政局のクレイ将軍も支援する体制。
首席検察官となるのはジャクソンの代理、テルフォード・テイラーです。
「ダッハウ裁判」ってあのマルメディの虐殺における武装SS裁判のことですね。
最初に開かれた継続裁判は「医師裁判」。
ナチスの医療犯罪に関与した20人のSS隊員、または強制収容所の医師・医療関係者などが
対象であり、ヒトラーの随行医師から、保険・衛生全権委員にまで昇りつめたカール・ブラント、
「T4作戦」に責任を持つヴィクトール・ブラックらが被告人席に・・。
医師たちの大部分がナチ保険政策の遺伝学的・人種学的な目的と、
自分を一体化させていたことが審理の過程で明らかになり、
医療実験のイニシアティブをとっていたのはヒトラーやナチ幹部ではなく、医師たち自身であり、
人体実験の自発的な参加は、自分の職業的な功名のため、兵役招集を逃れるために
利用していたことが判明していくのです。
結局、ブラントを含む7人が絞首刑、逆に7人が無罪となりますが、
証拠不足によるものであり、「疑わしきは罰せず」の原則に従ったものだとします。
本書には名前が出てきませんが、アーネンエルベ事務長のヴォルフラム・ジーフェルスや、
主治医としてヒムラー逮捕の時まで同行していたカール・ゲープハルトと
ルドルフ・ブラントも絞首刑に・・。
この「医師裁判」は7ページ。もうちょっとボリュームが欲しいなぁ。。
司法省次官のシュレーゲルベルガーを中心とした「法律家裁判」が続いた後、
「ポール裁判」、すなわちSS経済管理本部オスヴァルト・ポール長官を主要被告人した裁判へ。
経済管理本部と書くとアレですが、アウシュヴィッツをはじめとした強制収容所が担当部署です。
ポールは刑法的な責任を断固として否認し、弁護人も「抑留者たちの生活条件を改善させる」
ための努力をいとわなかったとしますが、検察側の示したポールの管轄下で
死者が猛烈に跳ね上がったことを示す証拠文書によって、絞首刑・・。
「SS人種・植民本部裁判」は、SS大将で「ドイツ民族性強化全権委員長官」の
ウルリヒ・グライフェルトが主要被告人で、レーベンスボルン(生命の泉)のメンバーも起訴。
ポーランドにおける虐殺政策や、ポーランド人孤児の拉致、
東部女性労働者の妊娠中絶などが裁判の中心ですが、判決は寛大なもので、
グライフェルトが終身刑で、7人が10年~20年というもの。
なお、唯一の女性被告人でレーベンスボルン協会副会長インゲ・フィアメッツは無罪です。
次は有名な「行動部隊(アインザッツグルッペン)裁判」です。
開廷前に1人が自殺して、SS、ゲシュタポ、刑事警察、保安部の高官から成る被告は22人。
最も重要なのは、すでにカルテンブルンナーに関する審問において、
南ウクライナ地域を担当していたショーベルトやマンシュタイン、そして自分自身を不利な立場に
置くような発言、「9万人のユダヤ人の殺害に責任がある」と述べていたオーレンドルフです。
それから15か月後の裁判でオーレンドルフは弁護士の勧めもあって、これまでの供述を翻し、
大量処刑は、「国防軍が制約されずに行動できるように」するための軍事的、警察的措置と表現。
また、RSHA人事局長シュトレッケンバッハによる、
「占領地におけるユダヤ人を無差別に殺害すべし」というヒトラー命令を聞いたと主張。
もうヒトラーも、ヒムラーも、ハイドリヒもみんな死んでますしねぇ。
この当時、ソ連に拘留されていたシュトレッケンバッハに責任を押し付ける戦略ですが、
最終的にオーレンドルフを含む14名に死刑判決が下されるという、
全裁判の中でも最も厳しいものとなるのです。
しかし処刑は1951年にオーレンドルフとパウル・ブローベルら4人に対してのみ執行され、
残りの囚人は50年代に放免されたそうです。
「南東戦線将官裁判」は、別名「捕虜裁判」とも呼ばれているもので、
裁判の中心は、占領下のユーゴスラヴィアとギリシャにおける「人質処刑」です。
民間人を人質に取ることは、まだニュルンベルク裁判の時点では、
戦時国際慣習法で許容された対抗措置に属するものだったものの、
バルカン半島でのドイツ軍行動は軍事的報復措置の限界を遥かに超えた・・。
カイテルが「ドイツ兵士一人につき、50~100名の共産主義者を見せしめに処刑せよ」という
ヒトラー命令を伝達したことから、セルビア駐留のベーメ将軍はユダヤ人の大量処刑にも関与。
コレは「世界戦争犯罪事典」に載っていたエピソードですねぇ。
パルチザンに対するフラストレーションが住民にぶつけられた結果の粗暴な行為。
これにより1949年のジュネーブ条約では許容されていた民間人の人質が否定されることに・・。
ベーメは審理開始前に自殺、ヴァイクス元帥は病気により免訴となって、2名に終身刑。
名前は書かれていませんが、この終身刑のうち一人は、あのリスト元帥です。
もっとも病気のため1952年には釈放されたようですね。
また、20年禁固刑を受けたものの、1951年釈放されたギリシャ軍事司令官は、
ヴィルヘルム・シュパイデルで、あのハンス・シュパイデルの兄さんです。
「国防軍最高司令部(OKW)裁判」も対象となる被告は高級将校。
起訴理由は「コミッサール命令」と、「戦時捕虜の大量殺害」に関するもの。
被告は陸軍からフォン・レープ、海軍からはシュニーヴィント、空軍がシュペルレであり、
詳しい方なら、この3人は悪人顔ながらも「OKW」じゃないのがわかるでしょう。
シュペルレは「コンドル軍団」司令官としてゲルニカ空爆を実施していますが、
1939年からの戦争が対象のニュルンベルク裁判ではそれが起訴理由にはなりません。
シュペルレとシュニーヴィントは結局、無罪となりますが、
民間人に対する虐殺行為を何度か激しく非難したことで知られるブラスコヴィッツまでもが
起訴されたことは理解しがたく、その彼は開廷の日である1948年2月5日に自殺・・。
残る11人の被告全員が戦争犯罪、および人道に対する罪で3年以上の有罪判決。
本書からは名前が書かれた4名しかわかりませんので、ちょっと紹介しましょう。
OKWからは3人で、そのうち一人はヨードルの代理でもあったヴァーリモントが終身刑。
フォン・レープは3年、ホリトが5年、オットー・ヴェーラーが8年、
ヘルマン・ホトと、ラインハルトが揃って15年、フォン・キュヒラーとフォン・ザルムートが20年。
とはいってもレープはすでに3年以上拘留されているため判決後釈放され、
その他の被告も1954年までには全員釈放されています。
そういえば「ドイツ装甲師団とグデーリアン」で、戦犯容疑者として拘留されているメンバーが
宿敵ハルダーの保守派である、フォン・レープにリスト、ヴァイクスらで、
村八分のグデーリアン派は、ミルヒとブロムベルクだったなんて書かれてましたね。
鉄鋼界の大立者である「フリードリヒ・フリック裁判」の後、
経済界を対象とした「IG・ファルベン裁判」と続き、
エッセンの大企業「クルップ裁判」と、ナチスに協力した企業家かや経営者への裁きが連続。
空軍次官だった「ミルヒ裁判」はその期間は最も短いもの。
ダッハウで行われたジークムント・ラシャーの人体実験の責任も問われます。
法廷は強制労働計画を理由に「終身刑」の判決を下しますが、
後に15年に減刑、そして1954年には自由の身になるのでした。
最後に紹介される裁判は、閣僚・政府高官へのもので、いわゆる「諸官庁裁判」です。
21人の被告はざっとこんなメンバーです。
内閣官房ラマース、大統領官房マイスナー、食糧・農業省ダレ、財務省フォン・クロージク、
宣伝省オットー・ディートリッヒ、外務省はリッベントロップの副官と書かれたヴァイツゼッカー。
さらにアウトサイダーとしてSS本部長ゴットロープ・ベルガーと、SD国外諜報部長シェレンベルク。
彼らが共同謀議や平和に対する罪、占領地域における経済的略奪、犯罪的な組織への所属・・、
といったことで起訴され、検察側は21人全員の死刑を要求し、弁護側は全員無罪を主張します。
最終的に無罪となったのはマイスナーら2人で、同じ官房長だったラマースは20年の判決。
別に顔つきから無罪と、有罪になったわけではありません。
最も重い25年がベルガーで、シェレンベルクが6年、ヴァイツゼッカーが5年となるのでした。
こうして第4章の「戦後ドイツへの影響」へと進みます。
すでに1948年には第一次世界大戦のUボートの艦長で、反ナチのために1937年から
ザクセンハウゼン強制収容所などに収容されていたマルティン・ニーメラー牧師が
「OKW裁判」に関する請願書を提出。
「目的のためにあらかじめ将官から軍の階級を剥奪するという手法は、
7月20日事件のヒトラーによるドイツ人将校に対する処遇と同じではないでしょうか」。
そして「西ドイツ」が誕生し、ランツベルクに収容された囚人たちへの「恩赦」も検討され、
西ドイツのジャーナリズムも、一連のニュルンベルク裁判を公然と批判します。
「自分の命を常に危険に晒しながら、エーリヒ・コッホのような奴らと闘ったヴァイツゼッカーを
はじめとする人たちが有罪判決を下される一方、東プロイセンの警察・SS最高指導者の
オットー・ヘルヴィヒのような人物が自由に暮らしている事態に、わたしたちはうんざりだ」。
最終章ではこの「ニュルンベルクの原則」を国際法として確立しようとする紆余曲折が
語られます。それは1950年に法典案が提出されてから、国際法委員会で採択されたのは、
ようやく1990年になってから・・。
結局、期待していた「継続裁判」は第3章に70ページほど書かれていましたが、
ひとつひとつの裁判については簡単なものだと3ページ程度(ミルヒ裁判は1ページ)であり、
概要レベルと言っても良いかも知れません。
また、本書の観点は検察側の戦略に重点を置いたものであって、
被告側の主張はオーレンドルフなど、いくつかの例を除いてはそれほど書かれていませんし、
いつものニュルンベルク裁判モノにある被告の心理や、検察との戦いの様子も伝わりません。
もちろん、このボリュームの新書ですからそれはそれでしょうがないですし、
コレだけでも十分勉強になったのは事実です。
でも・・、それでも余計にもっと詳しく知りたいと思ってしまいましたね。
行きたいと思っていた高級レストランの安いランチだけを食べたような心境というんでしょうか・・。
多少は満足したけど、夜のフルコースを存分に味わってみたい・・と更に思います。
そしてできれば、マルメディ裁判に、ポーランドやソ連、その他の国で行われた
ナチス裁判についても、まとまって書かれた本があれば嬉しいですね。