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ナチスの財宝 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

篠田 航一 著の「ナチスの財宝」を読破しました。

5月に出たばかりの256ページの本書は、「ヒトラーが強奪した「消えた宝」を追え!
略奪美術品から読み解くナチスと戦後ドイツの裏歴史。」という煽り文句です。
この手の本はそれなりにあって、以前に「ヒトラー第四帝国の野望」を読んでますが、
今回は聞いたことのない「ロンメル将軍の秘宝」というのに興味を惹かれました。
毎日新聞社のベルリン特派員を2011年から最近までの4年間務めていた著者による
というのも、その気になった要因の一つです。

ナチスの財宝.jpg

第1章は「『琥珀の間』を追え」。
2014年7月、ポツダム警察の元首席捜査官シュールタイスから話を聞く著者。
それは1997年、ブレーメンで「琥珀の間」のモザイク画を売りたいという人物と接触し、
最終的に真作と鑑定されたその絵を押収したという経緯です。

プロイセン王フリードリヒ1世によって作成が始まり、その後、エカテリーナ宮殿へ
寄贈された「琥珀の間」。1941年にレニングラードに侵攻したドイツ軍によって、
ケーニッヒスベルク城へ移されたものの、大戦末期の連合軍の空爆によって焼失した・・
という歴史も紹介しながら進み、1941年に略奪された「琥珀の間」に飾られていた
装飾品であるモザイク画のひとつ、「嗅覚と触覚」が現存するならば、
本体もいまだどこかに隠されているのでは??

original Amber Room.jpg

戦後、ソ連はすぐに「琥珀の間」の保管責任者でケーニッヒスベルクの博物館長ローデを尋問。
しかし「空襲で燃えてしまった」の一点張りで、12月には謎の死を遂げているのです。
そして著者は「琥珀の間」の探索を続ける人々を尋ねながら、その行方を追って行くのです。

koenigsberg-1945.jpg

空襲前に疎開したと噂される「琥珀の間」。疎開先として一番怪しいのはザクセンです。
東ドイツ時代には秘密警察シュタージも、親分であるソ連の要望を受けて大々的に捜査。
東西のドイツ人が追い求める宝、その謎に近づいた人間は無残な死体となって発見・・。

Catherine_Palace_interior_-_Amber_Room_(1931).jpg

第2章は「消えたコッホ・コレクション」で、好きな方はコレだけで続きだと解りますね。
ドイツ統一後の1991年に訪独してきたエリツィンは、記者会見で「琥珀の間は実在する」と発言。
チューリンゲンにある「ヨナス谷」がその発言の候補地です。
終戦間際、崖の斜面のあちこちにナチスによって25か所ものトンネルが掘られたというこの谷。
ブッヘンヴァルト強制収容所などから1万人以上が危険なトンネル工事に駆り出され、
建築技師の調書によれば、SS将校カムラーがトップ・シークレットで命じたモノだと・・。

ココは「SS将校カムラー」が引っかかりますね。あのSS大将ハンス・カムラーのことだとすれば、
V2ロケット生産を監督したり、自殺説はあるものの、行方不明とされている謎の多い人物ですし、
もちろんもこのトンネルは「報復兵器」などの製造工場にしようとした可能性もあるでしょうが・・。

Hans Kammler.jpg

そしてこの章の主役、エーリッヒ・コッホが登場・・・。
ケーニッヒスベルクのある東プロイセンのガウライターであり、ウクライナ総督時代には、
その占領地の美術館や教会から多くの絵画、高価な絨毯、銀製品に聖人の遺品・遺骨などの
「聖遺物」まで略奪した、美術品蒐集家です。
その彼のコレクションが保管されたのがケーニッヒスベルク。
しかし1945年にソ連軍が踏み込んだときには、琥珀の間も、「コッホ・コレクション」も行方不明。

ErichKoch.jpg

戦後、逮捕されたコッホはポーランドで死刑を宣告されるものの、終身刑へと減刑。
ポーランドとソ連の執拗な尋問に対し、「私を釈放するなら、ありかを教える」と
司法取引を持ち出し、1986年、口を割らぬまま、90歳で息を引き取るのです。
そしていまだに候補地が絞りきれないこれらの隠し場所。16ヵ所もの候補地が存在し、
そのなかには撃沈され、海底に沈んだままの「ヴィルヘルム・グストロフ号」も含まれます。

財宝の発見は、いわゆるトレジャーハンターの活躍にかかっているわけですが、
もし発見した場合、持ち主に返還されるという問題もあるわけです。
先のモザイク画も2000年にロシアへ返還され、復元された「琥珀の間」に飾られたそうで、
仮にドイツ政府が力を入れて予算を組んだとしても、本物を見つければロシアへ還すだけ・・。

Mosaik Fühlen und Riechen.jpg

第3章は「ナチス残党と闇の組織」と題して、ヒトラーの死の真相から、逃亡したアイヒマン
ナチス狩りのヴィーゼンタールに、フォーサイスの「オデッサ・ファイル」などを紹介。
興味深かったのはアルゼンチンへ逃亡した戦犯はドイツ人だけでなく、
クロアチアの「ウスタシャ」の連中も含まれている・・というところですね。

イタリアの南チロル、ブレンナー峠の町を訪れた著者。ユダヤ博物館の館長は、
「あのメンゲレが来た。SS大尉プリーブケも来た。そんな史実を誇らしげに話す人もいます」。
お尋ね者の有名戦犯が滞在したことを、どこか誇りに思う住民感情って面白いですね。

ただ、メンゲレはわかっても「SS大尉プリーブケ」を名前だけでも知ってる人って
どれほどいるんでしょうか? 335人を殺害した「アルデアティーネ洞窟」の指揮官ということは
書いても良いんじゃないかな・・と。

Erich Priebke.jpg

そして「ベルンハルト作戦」で偽造した贋札を保管していたSS少佐フリードリヒ・シュヴェントが
滞在した町や、「オラドゥール村の大虐殺」のSS中尉、ハインツ・バルトが滞在した町も訪問。
あ~、「ヒトラーの贋札」を久しぶりに観たくなってきました。

The Counterfeiters.jpg

第4章は、いよいよ「ロンメル将軍の秘宝」。
戦後語り継がれてきた噂の一つに「ロンメルの部下が北アフリカでユダヤ人から財宝を略奪し、
どこかに隠した」という伝説がある・・・ということですが、そうですか。初めて聞きました。。
そしてこうした戦利品をコルシカ島沖に沈めたという元ドイツ兵、キルナーという人物が現れ、
財宝を探したという話を紹介します。
このキルナーはかなりの嘘つきかつ、すでに死去しているので、特に進展はありませんが、
ロンメルの財宝と呼ばれるものは、どこから運ばれてきたのかに注目するのです。

Erwin Rommel observing the field near El Alamein, Egypt, 18 Jun 1942.jpg

パリのユダヤ現代史文書センターの文献には、
「1943年2月13日、チュニジア東部のユダヤ人が多く住む、ジェルバ島にドイツ人たちが上陸し、
処刑すると脅して集めた43キロの黄金を持ち去った」。

この略奪品を900㌔も離れたコルシカ島に運んだ人物として浮上するのが、
SS大佐ヴァルター・ラウフ。チュニスなどでも金細工や装飾品を奪っているというラウフは、
アウシュヴィッツのガス室の原型となる「ガス・トラック」を開発した中心人物であり、
ラウフの関与で殺害されたユダヤ人は最大で20万人。筋金入りの殺人狂が略奪を指揮した・・
と紹介。まぁ、「ガス・トラック」の開発に関与したからって、それを「殺人狂」と言うかは??

Walther-RAUFF.jpg

そしてこのラウフが治安警察の責任者としてコルシカ島にいたことや、
1942年7月にエル・アラメイン付近で、ロンメル将軍の参謀ヴェストファールと会談し、
自身の任務を説明していることまで突き止めますが、
ラウフとロンメルが会ったことはないだろう・・と推測します。

Siegfried Westphal.jpg

ラウフは戦後、収容所から脱走し、シリアやチリで生活。西ドイツ政府は戦犯として追跡しつつも、
実はスパイとして雇い、キューバ情勢を探らせるのでした。

最後の第5章は、「ヒトラー、美術館建設の野望」。
007「ゴールドフィンガー」で、Mから「トブリッツ湖にあったナチスの金塊だ」と渡され、
それをエサにボンドがゴールドフィンガーと賭けゴルフをする前半のエピソードを紹介し、
あれはイアン・フレミングの作り話ではなかったという展開です。

Goldfinger_1964.jpg

オーストリア中部にあるトプリッツ湖は「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台になった辺りでもあり、
夏場は観光地というこの湖に1945年5月8日、「何かを沈めた」と言う人物との接触に成功。
SSがやって来て70もの木箱の運搬を手伝わされたと語る老婆。

Toplitzsee.jpg

トプリッツ湖を実際に見た著者はその大きさに「上野の不忍池」を思い出します。
なんでも実家の近くだそうで、ありゃりゃ、ひょっとしたらご近所さんですね。。

そして1959年、この木箱が引揚げられ大ニュースとなりますが、
肝心の金塊は発見されず、そこにはあの大量の贋札が・・。

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その他、オーストリアの湖水地方には金塊伝説が多くあり、
フシェル湖の湖畔にはリッベントロップの別荘があって、夫人から命令を受けた管理人が、
金貨などが詰まったタンクを湖に沈めた・・とか、
エーデン湖ではスコルツェニーが多くの木箱を沈めたのを目撃されていたり、
カルテンブルンナーが終戦間際にアルトアウスゼー湖畔に滞在し、
逃走資金として、大量の純金の延べ棒やダイヤモンドをワゴン車に積んでいたとか・・。

Ernst Kaltenbrunner.jpg

ブランデンブルク州のシュトルプ湖には、ゲーリングが金やプラチナなどの貴金属類を沈めた
という伝説もあるそうで、そういえば迫りつつあるソ連軍が到着する前に
HG師団の分遣隊がカリンハルを爆破したなんて話を思い出しました。

本書では序盤から「ナチスが略奪した」という表現で進んできましたが、ここにきて、
「実はヒトラーは自ら金を支払って、絵を購入したことも多いのです」という証言が出てきました。
まぁ、ゲーリングでもその他の幹部でも、多少なりともお金を払って購入したのは事実でしょう。
特に戦争初期の頃、ユダヤ人の画商を仲介したりなんて話もありましたが、
フランスでも気を遣い、逆に東部戦線では容赦ない「強奪」だったと思いますね。

Hitler_Göring.jpg

そしてそんなヒトラーが夢見たのが、故郷リンツをウィーンを凌ぐ芸術の都にして、
総統のための「リンツ美術館」をオープンすることだったのです。
しかしドイツ国内の空襲が激しくなると、集められていた総統の財宝が焼失することもあり、
ボルマンの命令によって、「芸術品疎開」が始まります。

Hitler_Ley looks upon a large scale model of a city linz.jpg

大ドイツ帝国内の各地に疎開したこれらの財宝の多くは現在も行方不明のまま・・。
それでも1945年5月、米軍によってアルトアウスゼーの坑道から大量の美術品が押収されます。
油彩だけでも6577点・・。しかし行方不明の美術品の数は「10万点」にも及ぶそうです。

Wintergarden by French impressionist Edouard Manet was also found in the same salt mine in Merkers.Altaussee.jpg

「ミケランジェロ・プロジェクト」というジョージ・クルーニーの映画が紹介されましたが、
原作は「ナチ略奪美術品を救え─特殊部隊「モニュメンツ・メン」の戦争」だったんですねぇ。
530ページの大作なので未読でしたが、映画も未見で・・こりゃイカンなぁ。。
と思ったら、なんらかの理由で日本では公開中止になったそうな・・、まさかオデッサの圧力か??

the-monuments-men-george-clooney-matt-damon_2013.jpg

正直、Webの記事の見出しのような、ちょっと大袈裟な表現もありましたが、
研究書ではなく、ジャーナリストによる趣味のルポルタージュですから、
ワーワー言うほどのことではないでしょう。
ターゲットは一般のナチスに少し興味がある程度の人でしょうし、
最後まで興味を持たせ続けるには、ある程度しょうがない表現と言えるかもしれません。

逆に現地での足で稼いだ調査、ドイツ語の参考文献も巻末に挙げられ、
単なる2次、3次史料から机上で推理した中途半端な研究書よりは好感が持てました。

Bradley,Patton,Eisenhower inspects looted art treasures in a salt mine in Merkers, central Germany in April 1945..jpg

ヴィトゲンシュタインも未読の、この手の本としては「ナチの絵画略奪作戦」、
「ヨーロッパの略奪―ナチス・ドイツ占領下における美術品の運命」、
先に挙げた「ナチ略奪美術品を救え─特殊部隊「モニュメンツ・メン」の戦争」と3冊はあります。
どれもハードカバーで500ページ程度の大作なので、なかなか手を出しづらいんですよね。
興味とお金のある方は、ぜひ挑戦してみてください。









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ナチスと精神分析官 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジャック・エル=ハイ著の「ナチスと精神分析官」を読破しました。

今年の3月に出た340ページの本書の煽り文句はこんな感じです。
「ナチスの心は本当に病んでいたのか? ニュルンベルク裁判に先立ち
ゲーリングなど最高幹部を診断した米軍医が見た「悪の正体」とは? 
戦後70年間埋もれていた記録を発掘した迫真のノンフィクション! 映画化決定」
まぁ、映画化するぞ詐欺は多いのでアレですが、一応、出版社は角川マガジンズ。
主役の精神分析官が、以前に読んだ「ニュルンベルク軍事裁判」でも頻繁登場した
ダグラス・ケリー少佐だということもあって、いざ、4度目のニュルンベルクへ向かいましょう・・。

ナチスと精神分析官.jpg

「その飛行機、パイパーL-4は動かなかった。」という出だしで始まります。
前々日に米軍の捕虜となったものの、このスター捕虜に対する歓迎会が第7軍本部で開かれ、
シャンパンを飲み、写真撮影のポーズを決め、記者会見まで開いていたゲーリングが重すぎて・・
というのが理由であり、より馬力のあるL-5の乗せても、その腹ではシートベルトが締まらず。。

Goering during a press conference after his capture by American troops in May 1945_L4 Grasshopper (Piper Cub.jpg

結局、プール・ル・メリット拝領者でかつてのエース・パイロットにはシートベルトなんぞ問題なし。
辿り着いたアウグスブルクでは特権を剥奪され、希望するアイゼンハワーとの会談も無視。
反ナチの弟、アルベルトと最後の会話を交わすことができますが、金とプラチナ、
そして640個のダイヤモンドが埋め込まれた象牙の元帥杖を取り上げられてしまうのです。

Marschallstab milik Reichsmarschall Hermann Göring.jpg

5月20には再び移送。ルクセンブルクのモンドルフ=レ=バンに米軍が設立した収容所です。
次々とやってくるナチス要人たち。大統領デーニッツに、
捕虜になってから2度の自殺を試みたハンス・フランク
飲食物には興味を示さない一方で、執拗に女を要求するロベルト・ライに、ローゼンベルク
それからシャハトシュトライヒャー、OKW総長カイテルに、「彼の副官」ヨードル・・。

luxembourg-mondorf-les-bains-top-ranking-nazis-in-jail-2.jpg

ちゃちなテーブルと椅子、枕のないベッドがあるだけの部屋。
その椅子はゲーリングが腰掛けるやいなやバラバラに・・。所長のアンドラス大佐は語ります。
「捕虜が上に乗って首を吊らないように壊れやすく作られていた」。
こんな待遇にドイツの最高幹部、かつ元帥として、怒りに震えるほどだと文句を言うゲーリング。
国家元帥の経歴についても簡単に触れ、徐々にヒトラーに対する影響力が減った過程や、
最終的に処刑命令が実行されず、命拾いした理由をこのように・・。
「ゲシュタポ局長、カルテンブルンナーが書面による確認なしで命令を遂行するのを渋ったからだ」

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薬物依存の治療をゲーリングが受けている頃、ヨーロッパ戦線で米兵の精神医療の責任者だった
ダグラス・ケリー少佐が赴任してきます。若くハンサムな彼の職務は、
ナチ収容者の最終的な処遇が決まるまで、彼らの精神面の健康を維持すること。

Douglas M. Kelley.jpg

1923年のミュンヘン一揆の際、腿に銃弾を受け、モルヒネ中毒となって135㌔まで体重が増加。
グロテスクなほど太ってしまい、妻のカリンも苦しんだゲーリングは、
この時でも1日100錠のパラコディンを服用しており、ケリーは
「あなたは他の人より強いからやめられるはずだ」とおだてると、それに熱心に答えるゲーリング。
自分を国家元首だと考えるゲーリングが指示に従うことで、
専門化としてのプライドがくすぐられるケリー。
どっちがどっちを導いているのかはハッキリしませんが、5ヵ月で27㌔の減量に成功するのです。

また、カリンの死後、豪邸にカリンハルと名付けるなどしたのは、闘争時代に病気の妻を顧みず、
看取ることもできなかった自責の念がさせたもの・・という見解です。

Hermann-och-Carin-Göring.jpg

8月にはまたも移送。今度の行先はニュルンベルクです。
トイレ用のバケツしかないC-47輸送機に乗り込んだナチ高官たちが押し黙るなか、
「コックピットを見せ入て欲しい」と訴えるのは、元ドイツ空軍総司令官です。
しかしニュルンベルクは40回の空襲で壊滅したままであり、
最初に修復が行われたグランド・ホテルにこれから始まる裁判に従事する人々が宿泊。

devastated-Nuremberg_1945.jpg

裁判所も屋根が崩れ、時計塔は崩壊しているものの、倒壊を免れている大きな建物のひとつ。
翼のような形に建てられた19世紀の刑務所の3つの区画に250人の男女の捕虜が収容され、
噂されているナチス・ゲリラの蜂起や、帝国の犠牲者による襲撃から守るため、
武装兵に戦車、高射砲が配置されているのです。

Nuremberg Palace of Justice in Winter 1945-46.jpg

「先生、私はどうしたらいいんですか?どうしたらいいんですか?」とぶつぶつ独り言を言い、
独房の掃除が下手なことで有名だったというリッベントロップに、
逆に軍隊仕込みの徹底さで秀でた存在だったというカイテルも徐々に登場してきます。
ローゼンベルクは、酔っ払って関節を痛め、病院に運ばれたところを捕まります。
自分が罪を犯したとは全く考えておらず、どんな話も民族浄化に変えてしまうローゼンベルク。
ケリーの意見では、彼は「知的には無能で、曖昧模糊とした愚にもつかない哲学の宣伝屋」です。

Nuremberg Trials Ribbentrop_Keitel_Rosenberg.jpg

知的な面でさらに信用が置けないのがシュトライヒャー・・。
話の最後には必ず「ユダヤ人問題」についての独白で締めるサディストで強姦魔、
猥褻雑誌と写真の蒐集家という評判から、群を抜いて仲間から相手にされない存在で、
デーニッツが、「食事の際、皆と同じテーブルにシュトライヒャーをつかせないでほしい」
という嘆願書をアンドラス所長に出すほどの嫌われようです。

Julius Streicher with US Army.jpg

そんな嫌われ者シュトライヒャーの近くにいることを我慢できた唯一の捕虜はロベルト・ライ。
ベルヒテスガーデンに近い山中の小屋に隠れていたところを捕まり、3回も自殺を図ります。
ケリーは何かしらの心理学的な欠陥があることを見抜きます。
「独房での話に興味を持つと、立ち上がり、うろうろと歩き、腕を振り回し、
乱暴なほど身振り手振りが大きくなって、叫び始めることが多かった」。
そしてライが第1次大戦時に乗っていた飛行機が撃墜され、前頭部に怪我を負ったことが
原因ではないかと推測するようになるのです。

Robert Ley, kurz nach seiner Festnahme durch amerikanische Soldaten am 16. Mai 1945 in der Nähe von Berchtesgaden.jpg

恐ろしげな決闘の傷跡が刻まれた、と思いきや交通事故による傷だというカルテンブルンナー。
その外見とは裏腹に臆病な男だとケリーは判断します。
「典型的ないじめっ子で、政権の座にあるときは強面で横柄だが、
負けるとケチな臆病者になり、捕虜生活のプレッシャーに耐えることすらできない」。

Ernst Kaltenbrunner am 10. Dezember 1945 in seiner Zelle in Nürnberg.jpg

しかしケリーが最も興味を抱くのは、捕虜のエースであるゲーリングです。
動物愛護に力を入れる一方で、政敵は容赦なく抹殺する自己中心的な人物。
古い仲間のレームを殺す命令を出したことについては、単に「彼は私の邪魔をした」。
ゲーリングは自分がヒトラーの手下ではなく、総統が誤った判断をしたとき、
それを指摘した数少ない一人だったことをケリーにアピール。

Hitler, Goering and Roehm, 1931.jpg

そんなゲーリングの心配事は、机に写真が飾られた妻エミーと愛娘エッダの行方・・。
ケリーとの面談を心待ちにし、スッカリ信頼関係の出来上がったころ、
ケリーは2人の行方を突き止めてゲーリングの手紙、エミーの返信を届け、
本書ではその内容も詳しく、最後にエッダが書き加えた一文までが書かれています。

Defendant Herman Goering lies in his bunk in jail during the International Military Tribunal trial of war criminals at Nuremberg.jpg

10月、新たな捕虜がニュルンベルクにやって来ます。その名はルドルフ・ヘス
英国に捕らわれていた間に2度の自殺未遂を起こし・・、
1回目は階段の手すりから身を躍らすも、階下に無様に着地して左腿の3ヵ所を骨折。
2回目は胸にパン切りナイフを突き刺し、「見ろ!自分の心臓を刺したぞ」。
しかし、なまくら凶器ではわずかに二針縫う怪我をしただけ・・。

そしてゲーリングと久々の対面を果たしても・・、
ゲーリング:「私を知らないのか?私のことがわからないのか?」
ヘス:「個人的には知りませんが、名前は覚えています」

Rudolf Heß.jpg

こうしてゲーリングは「ヘスは完全に狂ってる」と断言し、
アンドラス所長は「イカサマ野郎」という見解。
そしてケリーは、長い間記憶喪失のフリをしているうちに、自分でもそう信じ込んでしまった・・と。

ケリーが好意的な印象を抱いた捕虜はデーニッツです。
友好的だが、距離を置き、鋭いユーモアのセンスを見せ、鬱の形跡はまったくなし。
英語力の向上に余念がなく、詩を読み、知性で感銘を与えます。
アンドラスに提出した精神分析報告書では、
「もっともバランスのとれた人格で、独創力、想像力、よい精神生活に恵まれた男。
後継者に彼を選ぶとは、ヒトラーはいい判断をした。
デーニッツには間違いなく指導者としての資質があり、適任だった」と断言。

Hermann Göring, Alfred Rosenberg, Baldur von Schirach and Karl Dönitz.jpg

「安楽死の仕事は無理強いされたのだ」と面談でおどおど抗議した内気で小柄なコンティ医師
シャツの袖を首と窓の格子に巻き付けて自殺してしまいます。
続いて恐れていた事態、精神的に不安定だったライも便器に腰掛けたまま窒息死
「脚は伸びたまま硬直し、顔は赤カブのように真っ赤で、眼は飛び出していた」。
この大失態に所長は監視体制を強化します。
各独房に1人の看守を置き、24時間の監視体制です。
そして次に自殺の恐れがあるのはメソメソしているカルテンブルンナー。

Prison cell block, Nuremberg, 1946.jpg

この頃、ケリーの通訳に代わってやって来たのがオーストリア系ユダヤ人のギルバート中尉です。
彼は単なる通訳ではなく、心理学者として勤務することを認められますが、
年下で階級が上のケリーとは合わないのか、1人で収容所内を歩き回り、捕虜と面談も・・。
自分がユダヤ人であることを告げ、故意に敵意を現すギルバートに対し、パーペンは嫌悪を抱き、
ゲーリングもケリーを好みます。そしてケリーとギルバートには意見交換や協調性もありません。

Gustave Gilbert.jpg

裁判が近づき、「絞首刑になることは分かっている。準備はできている。
たが、私はなんとしても、偉大な人物としてドイツの歴史に残る。
もし法廷を納得させることができなくても・・・」と語るゲーリング。

Goering1_240914_4c.jpg

そして195ページから裁判の様子が描かれます。
ジャクソン検事とゲーリングの対決、解放された強制収容所のフィルム上映など、
過去に紹介したエピソードなので割愛しますが、1946年1月、
ケリーは自分の仕事は終わったと考え、カリフォルニアの家族の元へ帰るのでした。
彼の後任でやって来たのは「ニュルンベルク・インタビュー」のゴールデンソーンです。

判決が近づくと、ようやく待ちに待った家族との面会が許可されます。
エミーも娘を連れてやって来て、エッダの姿を見たゲーリングは感極まって泣き出すのです。
「大きくなったな・・」。
東京裁判」にあった重光元外相の手向けの句を思い出しますねぇ。
そして死刑執行前日に、青酸カリを飲み下したゲーリング。。

Goering_fam.jpg

米国で講義の準備をしていたケリーはその前日、報道陣に対して、
「ゲーリングは最期も立派に振る舞うはずだ。絞首台で彼が気弱になることはありえない」
と語っただけに自殺はショックです。
賞賛せずにはいられない指導者、彼にとって重要な患者であり、調査対象であり、
さまざまな形で結びついた友人の死・・。

一足早く帰国していたケリーは、「ニュルンベルクの二十二の独房」という本を書き上げますが、
出版はわずか300ドルでの契約。本で儲からないことがわかると、
その後、精神科医として活躍し、TV番組にも出演。

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ギルバートも後発で「ニュルンベルク日記」を出版。この本についてシュペーア
「驚くべき客観性で刑務所内の雰囲気を再現しており、彼の診断は概ね正確でフェアなものだ」。

Nuremberg-Diary_Gustave Gilbert.jpg

1952年になってある抗議の手紙を受け取ったケリー。
それは「ニュルンベルクの二十二の独房」に書かれた女性からのもので、
彼女の名はクリスタ・シュレーダー。ヒトラーの元秘書のひとりです。
曰く、ケリーが彼女との対話は出版物には使わないという約束を破ったこと、
「40代後半の未婚女性であり、中背で、ずんぐりとした体形、だらしがなく・・」
という記述は、不正確で、思いやりがない・・というものです。
彼女に言わせれば、「6ヶ月も収監されていて女性が身だしなみを整えるのは不可能だ」。
身長は170㎝、もっとも重要なことは、当時、38歳だったということでしょうか??

Christa Schroeder.jpg

ケリーが45歳のとき、仕事上でのプレッシャー、内面の腹立ちと失望、結婚生活の不和、
いろいろなストレスが重なった結果か、家族の前でゲーリングと同じ行為、
すなわち青酸カリのカプセルを飲み下して絶命・・。
ゲーリングとは彼にとって、彼の心中で、いったいどんな存在だったのか??

Douglas M. Kelley teaching, circa 1955_HG.jpg

本書の主役はあくまでケリーであり、ナチス幹部は研究対象でしかありませんが、
表紙のハーケンクロイツの中がゲーリングであるように、彼らもタップリと書かれています。
ゲーリングを「6」とするなら、ヘスが「2」、ライが「1」、その他「1」といった割合でしょうか。

まぁ、精神分析っていうのも難しいものですね。
本書でもケリーとギルバートでは分析結果に違いが出ますし、対象者の各被告も
話しやすい好きな分析官か、そうでないかによって態度と発言も変わるわけです。
それでも特にゲーリングの当初の楽観的な考え方が徐々に変化していく過程、
現存するナチNo.1だという己のプライドを守るために裁判に挑んでいったという見解は
個人的に納得いくもので、後任の精神分析官ゴールデンソーン少佐の
ニュルンベルク・インタビュー」を再読、比較してみたくなりました。








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炎と闇の帝国 ゲッベルスとその妻マクダ [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

前川 道介 著の「炎と闇の帝国」を読破しました。

小復活と同時にTwitterを始めまして、「第三帝国~今日は何の日~」というのを
フォローしているんですが、4月20日以降、総統ブンカーの最期の日が細かく呟かれました。
当然、そこにはゲッベルス夫妻と可哀そうな子供たちのツイートも・・。
本書はすでに読んだことのある気がしていましたが、「ヒトラーをめぐる女性たち」と、 
「ナチスの女たち -秘められた愛-」の2回で、読んでみたい・・と書いていただけでした。
そこで今回、1995年、302ページの綺麗な古書をゲットして、
久しぶりのナチ幹部モノを楽しんでみたいと思います。

炎と闇の帝国2.jpg

第1章は「ヨーゼフ・ゲッベルス・・暗い青春」から。。
1897年生まれで、10歳の時の手術の結果、右脚が左脚より10㎝ほども短くなり、一生義足。
勉強のできる優等生になったものの、ダンスで知り合った少女たちの噂話に興じている
同級生たちに煮えたぎるような嫉妬美貌を覚え、自分を見下し、仲間外れにした悪童たちの
一挙一動を観察して、チャンスがあれば、その弱点を徹底的かつ執拗にあげつらい、
教室の晒し者にするか、教師にその生徒の校則違反をチクって、処罰させるという、
まあ、ドコの学校に必ず一人は居そうなヒネクレ少年ですね。
本書は所々に、「12歳のゲッベルス」といった具合で写真が掲載されています。

Joseph Goebbels in 1910.jpg

第2章は「マクダ・リッチェル」の章で、彼女は1901年生まれ。
わざわざ「ゲッベルスも彼女もさそり座の生まれである」と書かれてますが、
コレはどういう意味でしょう??
ヴィトゲンシュタインも「さそり座」ですから、軽くdisられてるような気分になりました・・。

3歳のときに両親は離婚、若い母は富裕な革皮卸商のユダヤ人と再婚。
彼女はお嬢さん学校で成長していきます。
この後、ゲッベルスとマグダの章が交互に出てくることに。
ちなみに"Magda" は本書では「マクダ」ですが、このBlogでは「マグダ」と書いてきましたので、
そのまま継続して「マグダ」で進めたいと思います。

MAGDA GOEBBELS1.jpg

1917年にボン大学に入学し、ドイツ文学を専攻するゲッベルス。
二学期だけでフライブルク大学へと移り、ここでミスに選ばれたアンカの心を射止めることに成功。
他の連中を出し抜いて良家の娘を征服したことは、肉体的コンプレックスの払拭に役立ちますが
ゲッベルスの尋常ではない自己愛、富裕階級に対するヒガミにアンカは耐えきれず・・。

Anka Stalherm.jpg

首尾よく、「ドクトル」の称号を受けることができたゲッベルス。
ジャーナリストを志し、「ベルリン日刊新聞」の名編集長テオドール・ヴォルフに宛てて、
50篇もの投稿を行うも、すべてボツ・・。
この恨みから後年、ユダヤ人ヴォルフの新聞を発行停止にし、
ヴォルフは強制収容所で命を落とすことになるのでした。

Joseph Goebbels with classmates in 1916.jpg

挫折した彼は1924年、ヒトラーがランツベルクの牢に繋がれ、ナチ党が禁止にになったことで
グレゴール・シュトラッサーが隠れ蓑としてつくった「国民自由党」の集会に参加するようになり、
"小男のドクトル"の雄弁ぶりは次第に有名に、論説や演説にも力を入れ出します。

マグダは37歳にして頭の禿げあがった会社社長、ギュンター・クヴァントに言い寄られて結婚。
先妻の2人の男の子の若い母親となり、1921年にはハラルトを出産。
やがて歳の離れた夫との性格の不一致もあって、離婚を選ぶのでした。

G_nther_Quandt.jpg

遂にヒトラーと対面することになったゲッベルス。本書では紹介したのはカール・カウフマンだとし、
また、シュトラッサーが発行していた機関誌「国家社会主義通信」の編集も任せられます。
この機関誌の編集をそれまでやっていたのは、後のSS全国指導者ヒムラーで、
いきなり、新参者のゲッベルスに職場を逐われたわけですね。。 
そして党内派閥争いでヒトラーが主導権を握るようになると、シュトラッサーとは疎遠となり、
ベルリンの大管区指導者に大抜擢されるのでした。時にゲッベルス28歳。

1926 Gregor Strasser, Joseph Goebbels und Viktor Lutze.jpg

1920年代のベルリンは「赤いベルリン」と異名をとるほどに共産党の勢力下にあり、
その党員数は10万人。一方でミュンヘンが本拠のナチ党はココではわずか1000人です。
3マルクの党費を払ってない党員を片っ端からやめさせて、600人ほどの精鋭を残し、
党の存在を知らしめるために突撃隊(SA)を使って共産党に殴り込みをかけ、
乱闘騒ぎで各新聞に大きく取り上げられよう・・というのがゲッベルスの戦術です。
その結果、90名の負傷者を出しますが、3000人の入党希望者がやって来るのでした。

angriffcov.jpg

ゲッベルスの肝いりで発行された「攻撃(デア・アングリフ)」も、当初は全ての面で泥臭く、
活字の詰まった鼻紙といわれるほどですが、徐々に洗練され、朝刊、夕刊を出す大新聞に。
そんな旺盛な足の悪い小男の演説を見たマグダは感銘を受けてしまうのです。
早速入党した上流階級出身で美人の彼女はガウライター・ゲッベルスの秘書に任命され、
自分が「いかに切れる男であるか」を見せることを楽しむゲッベルスに対し、
襟の大きな背広をやめさせ、上等なワイシャツに格好良くオールバックにするよう勧めるマグダ。
こうして、あっと言う間に、2人は同棲することに・・。

Dr.goebbels vor dem radio.jpg

最愛の姪、ゲリを亡くし、女性に興味を失っていたヒトラーも、美人のマグダには一目を置きます。
しかし総統に会わせてくれたお礼にと、マグダの自宅に招待された件をヒトラーに報告する3人。
べろべろに酔っ払ったユリウス・シャウプゼップ・ディートリッヒユリウス・シュレックの前に、
突然、ゲッベルスが姿を現したことで、「なんだ、もうデキてるんじゃないか」。
3人衆の下卑た笑い声に、ヒトラーの顔はこわばるのでした・・。

Joseph Goebbels Geli Raubal adolf hitler.jpg

興味深かった話ではゲッベルスもヒトラー同様に眼が悪く、大きな文字で打ったタイプを
好んでいたそうで、そのヒトラーが眼鏡をかけた写真はあるものの、
ゲッベルスのメガネ姿の写真は一枚も存在しないということです。
確かに見たことないなぁ。グラサン姿ならありますけどね。
逆にメガネ無しのヒムラーも見てみたい。。

Glasses hitler.jpg

1930年代入り、ナチ党が第二党になると、総選挙でゲッベルスも活躍します。
反戦平和主義文学の「西部戦線異状なし」がハリウッド映画として公開されると、
ゲッベルスは映画館へデモをかけ、館内でハツカネズミを放って上映中止に追い込んだり、
逆にヒトラー演説の映画を各市町村で上映させ、有権者へレコードを送り付けたり、
「ドイツの上なるヒトラー」のスローガンを掲げて、Ju-52をチャーターし、
西欧の政治家の誰もがやったことのない飛行機による選挙戦全国遊説も編み出します。

hitler ju52.jpg

そんな働きから自分には国務大臣の椅子が・・と考えていたゲッベルスですが、
ゲーリングが無任所大臣、フリックが内相、かねてから軽蔑していたルストまでが
プロイセン州の文化相に任じられると、スッカリ無視されたことに大激怒。
しかし、新たに「国民啓蒙宣伝省」が誕生してさらに辣腕をふるい、最初に「国民の日」、
ヒンデンブルクとヒトラーが礼拝式に出席し、恭しく握手を交わす壮麗な儀式を演出。

Hindenburg hitler 1933.jpg

その模様は全国に実況中継され、アナウンサーを務めたのはナチ党公認詩人であり、
後のヒトラー・ユーゲント指導者のフォン・シーラッハ
感激屋の彼は放送中にしばしば感極まって絶句し、嗚咽の声を漏らすのでした。。

baldur-von-schirach.jpg

第13章は「第三帝国紳士録」と題して、ゲーリング、ヘス、ヒムラー、リッベントロップボルマン
シュトライヒャーレームハイドリヒコッホと写真付きで紹介します。

Himmler and Goebbels.jpg

基本的にはゲッベルスと彼らの関係・・、もっともほとんど不仲と憎悪の関係であるわけですが、
この男もサディストだった・・として登場するのはロベルト・ライ
『俺の女房の肉体美を拝ませてやる』と言って、綺麗なインゲさんの服をいきなり引き裂いたり、
いつか夫に殺されると脅えていた彼女が、本当にライに撃たれて死んだという酷い話が・・。
まぁ、自殺説もあるんですけど、いずれにしても可哀そうな女性です。

Inga.jpg

1932年、夫妻の間に長女ヘルガが誕生。1年半後には次女ヒルデが・・。
マグダは夫とベッドを共にすると必ず妊娠するとこぼすほど多産な体質ですが、
産めよ殖やせよ」がスローガンですから、宣伝相の妻としては申し分ありません。
1935年には念願の男の子、ヘルムートが生まれて狂喜乱舞するゲッベルス。

Hilde (left), Helmut (center), and Helga (right).jpg

ヒトラーも度々訪れる私邸や別荘の買い増しは国家からの提供という形を良しとしますが、
こと生活費に関してはヒムラーと同様、給料のみで、借金するほど厳格です。
ブルガリア国王のボリス3世や、ウィンザー公が突然訪問・・となると、
慌てたマグダはお菓子でもてなすことしかできず、見栄を傷つけられた旦那さまは、
自分のケチを棚に上げて、ネチネチとマグダを叱るのでした。

The Duke of Windsor chats to Hitler's propaganda chief Joseph Goebbels at a party in Berlin.jpg

そして若い女性がヒトラーに熱狂したように、爬虫類のような顔をしたゲッベルスにもまた、
多くの女性が魅きつけられ、一目見ようと集まってくるのです。
となると、模範的家長を演じるフラストレーションも要因となって、マグダの目を盗んでは、
若い女性の肉体を追い求めることになり、大好きな映画業界も取り仕切った彼は、
いい役を貰おうとする駆け出しの女優を次々に・・。

Joseph Goebbels.jpg

有名なのはチェコ出身のエキゾチックな若手女優リダ・バーロヴァで、その手口は演説直前に
接吻の嵐をお見舞いし、ハンカチで口紅を拭き取りながら、「君にだけ話しかけるからね」。
そして演説中にリダの顔を注視し、先ほどのハンカチで口を拭うという秘密の合図を送るのです。
いや~、イヤラシイやっちゃなぁ・・。変な鳥肌が立ったわ・・!
彼女との関係を赤裸々に、やがて本物の愛だとして、マグダに離婚を求めるまでにエスカレート。

lida baarova Goebbels.jpg

マグダから亭主の乱心の相談を受けたヒトラーは、次の日、問題の亭主を召喚します。
覚悟を決めて現れたゲッベルスは、どれだけ努力してもこれ以上結婚生活は続けられない。
大臣職から身を引き、大使として東京へ転出させて欲しいと訴えます。
しかしヒトラーの答えは「No」。
娼婦と結婚して国防大臣の椅子を棒に振ったブロムベルクの二の舞は許さん!というわけで、
泣く泣くリダに別れの電話をかけることになりますが、その立会人はゲーリング・・。
相談を受けていた彼は、大嫌いな小男を葬る絶好のチャンスとほくそ笑んでいたのでした。

Goebbels,Himmler,Hess,Hitler, Werner von Blomberg.jpg

1938年のこの不倫問題。日本の新聞にも顔写真つきで紹介されたほどのゲッベルスが
駐日ドイツ大使になっていたらと考えると面白いですね。ゾルゲとの関係や如何に・・?

1940年10月、ゲッベルス43歳の誕生日には末っ子の5女ハイデが生まれます。
そういえば本書では触れられていませんが、1938年制定の「母親十字章」の
初受章者はマグダ・・という説があり、その年に四女ヘッダが生まれ、前夫との子を入れると
6人目を産み育てていることへの、ヒトラーなりの賞賛の意味合いが強かったように思います。
もちろん、子だくさんを激励する新しい勲章ですから、
ナチス宣伝大臣の妻に授与することは大いに宣伝効果もありますね。

Berlin,_Joseph_Goebbels_mit_Kindern_bei_Weihnachtsfeier.jpg

男女関係だけではなく、あの「水晶の夜」や「退廃芸術展」などにも触れながら進んでいきます。
ベルリン・オリンピック開催時、ゲッベルス主催の大規模な夏祭に偽造入場券で紛れ込み、
酔っ払って大騒ぎする下級SSとSA隊員を鎮めるよう部下に指示するも、
荒くれ者の彼らが宣伝省の事務屋の叱責に甘んじるわけもなく、逆に修羅場に・・。

しかし徐々にゲッベルスがヒトラーから冷たい扱いを受け始めると、
マグダも取り巻きたちのせいだと考えるようになり、その筆頭はボルマン、そしてDr.モレルなど。
一方の味方といえばシュペーアにシャウプ、ブリュックナーリンゲケンプカです。
レーベンスボルンについて得々と、「ここの子どもたちは国家が育てるのだ」と語るヒトラー。
「そんな残酷な。どんな優れた国家だろうと、親の代わりは務まりません」とマグダは反対も。

Magda Htler Helga Goebbels Bouhler.jpg

戦争が始まっても「全知全能のヒトラー」を宣伝するのは楽しくて仕方がない仕事。
しかしそれはドイツ国民に対してのみゲッベルスが行えることで、
戦局については国防軍総司令部が発表の権限を、国外への宣伝の一部は不倶戴天のライバル
リッベントロップにその権限が与えられていることがゲッベルスには面白くないのです。
あ~、リッベントロップはリッベントロップで、ゲッベルスに先を越された・・と怒ってましたっけ。。

Ribbentrop  Goebbels.jpg

独ソ戦も2年目を迎え、戦局も悪化。と、ここでヒトラー・ジョークがいくつか出てきました。

ヒトラーと太陽はどこが違う?
太陽は東から昇り、ヒトラーは東に沈む

一番短いジョークは?
われわれは勝つ!

ゲッベルス邸には若い女性家庭教師がおり、戦後、彼女が当時のことを唯一語った相手は、
大統領官房長のマイスナーの作家の息子だけであり、彼の書いた「マグダ・ゲッベルス」から
ゲッベルス家の生活の様子と、6人の子供たち各々の性格も紹介。興味深かったですね。

Rommel Magda Goebbels with children.jpg

本土ではケルンに続き、ハンブルクが英爆撃機軍団によって壊滅的な被害を受けると、
捕虜のパイロットを銃殺し、サリンなどの毒ガス使用をヒトラーに進言するゲッベルス。
しかし報復をおそれた空軍高官の反対でうやむやに・・。

女たちの争いも紹介されます。
ヒトラーが囲うエヴァ・ブラウンとは、最初から一触即発の仲・・。
第三帝国の公式なファースト・レディは、No.2ゲーリングの妻エミーです。
しかしエミーが側近婦人や女性秘書たちを招いた際、エヴァを「招き忘れた」ことで
ヒトラーの怒りに触れ、旦那の空軍の不信も手伝って、ヒトラーとの関係は冷えていくのです。
うぇ~、旦那同士がアレだし、奥さん同士の楽しげな視線も妙に不気味に見えます。。

Goebbels Magda with Göring and Emmy.jpg

1944年には「ヒトラー暗殺未遂事件」が起こり、ベルリンではゲッベルスが反乱を鎮圧
1945年1月、5年ぶりにゲッベルス邸へやって来たヒトラー。
子供たちは晴れ着を着て、花束でアドルフおじさんを歓迎します。

次に会ったのは4月22日、ゲッベルス一家は総統ブンカーで過ごすことを決め、
「ベルリンで最後の決戦が行われる。総統は留まられる。私も妻子と共に留まる」とラジオで発表。
ヒトラーは安全な南方に避難するようマグダに勧めますが、彼女の意志は固く、
前夫がスイスに逃げられるよう手はずを整えても、キッパリ断るのです。
あ~、この辺りは「ベルリン戦争」にあったナチス幹部が南部へ逃げたり、自殺したりしているなか
敢然と立ちあがったこの男を皆が見直した・・っていう話ですね。

joseph-goebbels-getty 1.jpg

すでに道連れになることが決定している子供たち。13歳になった長女ヘルガは
「戦争に負けるの?」と質問するほど、その雰囲気を察しているのです。
ここからは映画「ヒトラー 最期の12日間」そのままのような展開で進み、
ハンナ・ライチュが子供たちに冒険談を聞かせ、彼女が去る際には、クレタ島、
モンテ・カッシーノで戦い、捕虜となっている降下猟兵の長男ハラルトに宛てた手紙を託し、
そのゲッベルス夫妻が別々に書いた手紙も全文紹介。

goebbels family.jpg

5月1日、6人の子供を毒殺して、ゲッベルス夫妻は中庭で青酸カリのカプセルを噛み砕くと
同時に命ぜられていたSS兵士が背後から射殺。映画とは違う最期ですね。
そして翌日、黒焦げの遺体をソ連軍が発見。本書もその写真で終わります。

mortgoebbels.jpg

3日かけて独破しましたが、まぁ、率直に言って面白かったですね。
理由はいろいろとあります。まず、著者が日本人であることで理解しやすい点、
過去にココでも紹介した「日記」やナチス本の数々が参考文献として挙がっていること、
もちろん未翻訳文献もありますが、エピソードによっては複数存在する"説"、
"証言"にもキチンと触れ、著者の思い込みによるゲッベルス夫妻像とはなっておらず、
第三帝国の裏表をちょっと覗いてみたい・という女性でも楽しめると感じました。

それにしても、エヴァを筆頭にナチスの女性モノもソコソコ読んできましたが、
熾烈を極めた「第三帝国のファースト・レディ争い」をまとめた本を読んでみたいですねぇ。
「大奥」みたいというか、最近のドラマ「マザー・ゲーム〜彼女たちの階級〜」でもあるような、
主婦たちの友情と葛藤を描いたヒューマンドラマという雰囲気で・・。



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わが闘争 〈下〉Ⅱ 国家社会主義運動 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アドルフ・ヒトラー著の「わが闘争 〈下〉」を読破しました。

ヒトラーの冗長な語り口に負け、何度か落ちてしまった500ページ超えの上巻
この下巻はページ数も若干少なくて、すでに半分を過ぎたことを実感しています。
amazonでは上巻が506ページ、下巻が418ページと書かれてますが、
実際は554ベージと462ページであり、100ページ弱の増量サービスとなっております。
これは・・、嬉しいような嬉しくないような・・。

わが闘争 下.jpg

さて、上巻では「アーリア人種」というナチスお得意のワードがありましたが、
下巻で早々に出てきたナチス・ワードは「ゲルマン化」です。
青年時代に「スラブ民族のゲルマン化」という話を聞いていたヒトラー。
しかし、土地についてそれはできるが、人間に対してはありえないと説明します。
「ニグロや中国人がドイツ語を覚えてドイツ語を話し、ドイツの政党に投票するからといって、
彼らがゲルマン民族になるなどということは、ほとんど理解しがたい。
こういうゲルマン化は実際には、悪ゲルマン化である・・」。

そして子供が民族の最も貴重な財宝である・・として、留意事項を述べます。
「ただ健全である者だけが、子供を生むべきで、
自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず、子供をつくることは、ただ恥辱であり、
むしろ生むことを断念することが、最高の名誉である。
国家は最新の医療的手段を用いるべきであり、明らかに病気を持つ者や、
悪質の遺伝のある者、さらに負担になる者は、生殖不能と宣告し、
そしてこれを実際に実施すべきである」。
愛と欲望のナチズム」でもこのあたり、抜粋されてましたね。 

Nazi Mother & Child 1944.jpg

続いて子供の教育へと進みます。
「国家は何よりも、部屋の中にばかりにいるような世代が作られないように配慮しなければ・・」。
う~む。。なんでしょうねぇ。。こういうドキッとするような感覚・・。
そこで身体的鍛錬、すなわちスポーツを取り上げて、なかでもボクシングを推奨します。
「教養のある人々はフェンシングで決闘して歩くのは当然であり、名誉なことだと考えている。
しかしボクシングをすると、それが粗暴だとは! なぜだ?
これぐらい攻撃精神を助長し、電光石火の決断力を必要とし、
肉体を鋼鉄のように鍛えるスポーツはない」。
確かに映画「ナポラ」でも、まずはボクシングをやってましたか。

Hitler-Jugend boxing.jpg

学校を卒業しても青少年には身体的な発育を伸ばすような配慮が必要として、
後の兵役の準備教育たりうる訓練を国家の施設において行うことで、
非の打ちどころがない若人が新兵として入営することになる・・と、
まだ具体案のないこの件は、「国家労働奉仕団(RAD)」として確立するんですね。

RAD nrnberg1937.jpg

ヒトラーの考えるカトリック教会というのは、なかなか複雑だと思っていました。
本書では所々に登場し、ある程度、肯定的に書かれていますが、
カトリック教徒として育ったヒトラーは、国民には宗教として必要と認めるものの、
その巨大な組織の影響力には不安を持っていたのではないでしょうか。
ナチ党でのカトリック排除派はヒムラーボルマンで、何度もヒトラーを説得したようですが、
戦争が終わったら考えよう・・という立場だったと思います。

また、貴族といった特権階級についても、はぐらかしているように感じますし、
マルクス主義を比較として持ち出しているだけに、
貴族、宗教を追放したソ連と同じことをやるわけにはいかない・・と考えたのかも知れません。

Adolf Hitler mit Kronprinz Wilhelm von Preußen am Tag von Potsdam.jpg

ナチスとキリスト教の関係は、戦犯を南米へ逃亡させたヴァチカン・ルートも良く聞くように、
良い関係だったのではないか?? とも推測されています。
ちなみに、そんなことを表現しているとする有名な写真があります。
ドイツの司祭が「ナチ式敬礼」 ↓ をしているとされる写真です。

Young Joseph Ratzinger - NAZI SALUTE!!!.jpg

しかし、この写真・・、かなり悪意を持たされた写真なんですよねぇ。
実際は両手を前に突き出したポーズであり、わざと邪魔な左手がカットされているのです。
しかもこの若い司祭、前のローマ法王、ベネディクト16世というオマケ付き。。
ついでに言えば、1927年バイエルン生まれの彼が司祭になったのは戦後のことです。

ratzinger_bros_ordination.jpg

ソ連も粛清されたエジョフを写真から消したり・・と政府による偽造写真は多いですが、
ナチス関係の捏造写真もかなり出回っているので、注意が必要です。
女性パルチザンの死体のそばで、笑いながらポーズをとっているSS含むドイツ軍兵士の
鮮明な写真を見つけたら、ほとんど合成写真だと言っても良いでしょう。
特に最近はPCで加工・合成が簡単にできますからね。

Holocaust Fake.jpg

ドイツの市民権獲得の問題では、この当時の制度を熱く解説。
「ドイツ国内に住んでいるニグロが自分の子供を「ドイツ国家市民」として世に出す。
同じようにユダヤ人やポーランド人、アジア人種の子供は誰でも、
無造作にドイツ国家市民に登録されるのだ。
その際、人種を考慮することは、一般に問題にならない。
こやつが梅毒で腐っていようがいまいが、無害な政治的まぬけであれば、
自動車クラブに入会するのとたいした違いのない手続きで、
神さえもできないものを、州の首相が一瞬間にやってしまうのだ。
簡単にペン先で、蒙古人の小僧から突然、本当の「ドイツ人」ができあがるのだ」。

ベルリン戦争」でも、ソプラノ歌手の田中路子の結婚問題がありましたが、
このような外国人問題、帰化問題は、現在でも悩ましいところです。
ヨーロッパではEUとなって以降、複雑化してきていますし、
例えばサッカークラブでもスタメンに自国の選手が一人もいない・・なんて事態も起こっています。
W杯をご覧になった方もお分かりのように、ヨーロッパの代表チームでも
この20年で黒人選手が増えてきていて、日本でも大相撲に外国人が多くなって・・。
まぁ、人種差別のない世界を目指していても、メリットもあればデメリットもあるわけですが、
「在日○○人は出て行け!」などと極端なことを言っている方々は、
ヒトラーと同類だね・・と返されても反論できませんね。

formal Hitler.jpg

第7章は「赤色戦線との格闘」と題して、1920年からのビアホール集会でのバトルの数々・・。
野次と混乱によってナチ党集会を解散に追い込もうとするマルクス主義者に対抗するため、
「場内整理隊」をつくり、ヒトラーの元戦友や若い党員がその任に当たります。
後にコレが「ヒトラー警護隊」となり、「ライプシュタンダルテ」、
やがて武装SSへと発展していくわけですね。

Old Guard_Julius Schreck.jpg

そしてナチ党のシンボル、赤白黒のハーケンクロイツの旗の誕生へ・・。
当時のワイマール共和国は、名誉ある黒白赤の帝国国旗を使うことがなく、
ナチ党の運動も自己の失敗で没落した古いドイツを目覚めさせることは望まず、
あくまで新しい国家をつくること・・。

Deutsches Reich 1871 - 1918.jpg

そのような新しいシンボルに非常に頭を使い、あらゆる方面から提案されます。
「白は純潔な処女団体には似合うが、感動的な色ではなく、改革運動には合わない。
黒は現代に適しているが、そこには運動の意欲の説明的表示がない。
白・青は美的効果は素晴らしいものの、あるドイツの一連邦の色として、
評判の良くない分離主義的偏狭さという政治的立場を現しているために問題外」。。
この、あるドイツの一連邦とは、バイエルン州のことですね。
同じように黒・白も問題外だそうで、こちらはプロイセン州のことです。

Königreich Bayern_Königreich Preußen  Flagge.jpg

このような紆余曲折の末、ハーケンクロイツのデザインが完成しますが、
結局はヒトラーが兵士として神聖かつ、美的効果にピッタリだったという
帝国国旗の黒白赤の3色を使うことになるのでした。

Nazi-rally_1923.jpg

「突撃隊(SA)」についても詳しく書かれています。
この組織が「秘密結社」であってはならないとの理念から、
「隠れて集会してはならず、誰にでもわかる服装で、自由な大空の下に行進する」。
また、「軍隊的防衛的組織」でもあってはならないとして、
「肉体鍛錬は軍隊的錬兵ではなく、スポーツ活動にその主眼点はおかれる。
組織的な構成と服装・装備は旧軍隊の範に従わずに企画すべきである」と、
純粋な軍隊は「国防軍」だけ・・と認識しているあたりは、レームとの対立に繋がりそうですね。
SAが「ナチ党スポーツ部」とされていたり、SSにも引き継がれた
「なんちゃら上級指導者」という独特の階級と襟章も、この時点の定義のようです。

あぁ、いま思いましたが、ヒトラーは褐色の制服でも「襟章」ないんですねぇ。
1939年以降に着続けたグレーの軍服にも、襟章を付けていませんし、
この自分が定めた徽章、勲章は一切しないというコダワリは徹底しています。

hitler_SA.jpg

327ページからは第13章の「戦後のドイツ同盟政策」です。
ここまでのドイツ国内問題と、ナチ党の理想とする新しいドイツという視点とは少し変わった
いわゆる新たな外交政策で、第2次大戦好きはかなり盛り上がります。
まずは第1次大戦の勝利国である英国とフランスの状況について・・。

「今日のフランスは、軍事的には大陸において強力なライバルを持たぬ第一の強国である。
南の国境はスペインとイタリアに対して守備されているも同然の地形であり、
ドイツに対しては我が祖国の仮死状態によって、安全が保障されている。
海岸線の点では、英国の中核の前面に長い戦線を繰り広げているのである。
ただ飛行機や長距離砲に英国の生命中核が攻撃し甲斐のある目標となるばかりでなく、
Uボートの活動にとっても貿易の交通網は剥き出しであるといえよう。
大西洋に面した長い海岸線、地中海沿岸のヨーロッパ、北アフリカのフランス領の
海岸線を基地にして、Uボート戦をするならば、恐ろしい成果を上げるに違いない」。

いかがでしょう?
コレはあくまでフランスが英国に戦いを挑む場合をヒトラーが想定したものですが、
「飛行機」は電撃戦後のバトル・オブ・ブリテンであり、長距離砲は巨大な沿岸砲V-1、V-2
そして当然のフランス沿岸を基地としたドイツUボートによる通商破壊戦が行われるのです。

Ostsee, Germany, German submarines in a drill, July 1939..jpg

英国の願望は大陸の一強国(フランス)が法外な力を持つことを防止する点にあり、
片やフランスは自己のヨーロッパでの支配的立場を作り出すために、
ドイツが統一した強国を形成するのを防止しようとしている・・と分析した結果、
「ドイツにとっての同盟可能性は、ただ英国に依存することしか残っていない」。
つまり、英国にとってはフランスとドイツという2つの強国によってバランスが保たれることが、
自国の利になるとヒトラーは考えているのです。

Adolf Hitler 1922.jpg

しかし、そのような政治的視点だけでもないようなのがヒトラーの面白いところであり、
「ドイツ民族にとって仮借のない不倶戴天の敵は、いつの世もフランスである。
ブルボン王家だろうと、ナポレオン一族であろうと、赤いボルシェヴィストであろうと、
誰がフランスを支配してもまったく変わりはない」。
と、結局のところフランス嫌いなんですね。。
でもナポレオンは意外です。パリのお墓を訪れたりしてますからねぇ。
政治家としてではなく、軍人の立場として崇拝していたのかも知れません。
また、本書では述べていませんが、自称芸術家、自称建築家として、
芸術の都パリと、その建築物に思いを馳せていたようですから、
フランスに対する憎しみと憧れが表裏一体であったようにも感じます。

1944年8月に大パリ防衛司令官、フォン・コルティッツにパリ破壊命令を出し、
「いま、この瞬間、パリは燃えているのか?」と本当に言ったかどうかは良くわかりませんが、
迫る連合軍に対し、セーヌ川に架かる橋を爆破するのは軍事的に正しいとしても、
エッフェル塔に凱旋門、ルーヴルにノートルダムを破壊したところで何にもなりません。
もはや政治的、軍事的な観点での命令ではなく、
芸術家がヤケクソになって、自分の作品を焼いてしまおう・・というのに近い気がしますね。

hitler paris.jpg

フランスとユダヤ人の関係、英国とユダヤ人の関係について述べた後、
「日本とユダヤ人」について自説を展開します。

「ユダヤ人は1000年に渡る順応によってヨーロッパ民族を性格の失った雑種に養育することは
なるほどできるとしても、日本のようなアジア的国家主義国家に同じ運命を与えることは
ほとんどだめだということを充分知っている。
ユダヤ人はドイツ人、英国人、フランス人、米国人のふりをすることはできるが、
黄色いアジア人に通じる道は彼らに欠けている。
ユダヤ人は自分たちの至福千年帝国の中に、日本のような国家主義国家が残っているのを憚り、
自分自身の独裁が始められる前に、きっちり日本が絶滅されるよう願っているのである。
従って彼らは、以前にドイツに対してやったように、日本に対して諸民族を扇動しており、
英国の政治がなおも日本との同盟を頼りにしようと試みているのに、
英国のユダヤ人新聞は、すでにこの同盟国に対する戦争を要求し、
民主主義の宣伝と、『日本の軍国主義打倒と天皇制打倒!』のときの声の下に、
絶滅戦を準備するということも起こりうるのである」。

Ribbentrop, Kurusu, and Hitler negotiate the Tripartite Pact, 1940.jpg

日本を「国家主義国家」と表現していることから、
自分たちの運動である「国家社会主義」との類似性を意識しているように感じます。
また意外だったのは、ヒトラーの力説する「民族主義」という概念が、
植民地になったこともなく、独自の言語を話す日本人にとっては、
現在でも違和感なく、自然でわかりやすいということでしょう。
ただ、ヒトラーが「国家社会主義」と謳っていても「社会主義」は伝わってこないんですよね。

Propaganda Nazi Japanese Monster.jpg

ヒトラーの言う「世界の強国」という意味は、単に軍事的、経済的なことだけではありません。
英国本土は、全地表の1/4を自国の領土と呼びうる大英帝国の大首都に過ぎず、
アフリカを中心に植民地の多いフランスでさえ、有色人軍隊を大規模に増進、
ユダヤ人が金融力の支配者かつ、1億人の民衆の監督者の地位にある米国、
加えてその領土の大きさから、ロシア、中国を巨大な国家とみなしています。
となると、ドイツの面積などお笑い種のようで、それを解決するには
東方政策、すなわち生活圏のためのロシアの領土獲得が目的となるのです。

Anti-American, Anti-Jewish.jpg

「数百年来、ロシアはその上級の指導層にいたゲルマン民族的中核のおかげで存続してきた。
この中核は今日ではほとんど跡形もなく根絶され、抹消されたとみなすことができる。
その代わりにユダヤ人が登場した。
ユダヤ人自身は組織の構成分子ではなく、分解の酵素である」。
そうか・・、ニコライ2世はヴィルヘルム2世ジョージ5世と従兄弟同士なんでしたっけ。

さらに続きます。「東方の巨大な国は崩壊寸前である。
ロシアでのユダヤ人支配の終結は、国家としてのロシアの終結でもあるだろう。
我々は運命によって、民族主義的人種理論の正当さを極めて強力に裏書きするに違いない、
一大破局の目撃者となるよう選ばれている」。
いや~、まさに「バルバロッサ作戦」的思想です。

Der deutsche Kaiser Wilhelm II. mit seinem Cousin, dem russischen Zaren Nikolaus II.jpg

それでも、そんな「ロシアとドイツの同盟はどうか?」と検討するあたりが普通じゃありません。
「目下のロシアはその新しい支配者の内的な意図をまったく無視するとしても、
ドイツ国民の自由闘争にとって同盟国ではない。
純粋に軍事的に考えても、ドイツとロシアが西欧に対して、たぶん他の全世界を
相手にすることになろうが、戦争をする場合には、状況は正しく破滅的なものとなるのだろう。
戦争はロシアの土地ではなく、ドイツの大地で行われるに違いない。
そして、その際ドイツは、ロシアからほんの少しばかりも、有効な援助を受けることが
できないに違いない」。

このドイツ・ロシア同盟軍が、西側連合軍と戦う・・というヒトラーの妄想はさらに具体的に・・。
「次の戦争できっと圧倒的に勝敗を決するものとして現れてくるであろう、
世界の一般的モータリゼーション。ドイツ自体がこの最も重要な方面で不面目にも
立ち遅れているだけでなく、実際に走る自動車を生産し得る工場ひとつないような
ロシアをさらに守らなければならなくなるに違いない」。

sowjetische und deutsche Truppen j-Polen-1939-.jpg

この大妄想の結論は、第1次大戦をも超えるドイツの大敗北に終わるわけですが、
さすが、自動車化部隊の重要性を認識しているんですねぇ。
そして軍事的同盟以前に、ロシアとの同盟はあり得ないとまとめます。

「ロシアの今日の権力者は、誠実な態度で同盟に加わることはもとより、
さらにそれを維持することなど、ちっとも考えていない。
つまり、今日のロシアの統治者たちは血で汚れた下賤な犯罪者であること、
また、彼らは人間の屑であり、悲劇的な情況に恵まれて大国家を打倒し、
その指導者的なインテリ数百万を粗野な残忍さでもって惨殺し、根絶し、
残酷極まる暴政を行っていることを忘れてはならない」。

まだまだ、ロシアを完全に支配している国際主義的ユダヤ人が、
虚偽、欺瞞、強奪、横領の代表者としてこの世の中を生きており、
そんな奴らと同盟を結ぶなど狂気の沙汰である・・と言いたい放題です。

nazi_propaganda.jpg

それにしても、このボルシェヴィキ・ロシアを徹底的にこき下ろし、
英国との同盟を切実に願うヒトラー唯一の著作をスターリンも読んでいたでしょうが、
確かにチャーチルとヒトラーが繋がっているのでは?? 裏で手を繋ごうとしているのでは??
と、疑心暗鬼になってもしょうがない気がしますね。
今まで、スターリンの猜疑心の強さを笑っていましたが、コレは確かに・・。
そして、1939年の「独ソ不可侵条約」がドイツ国内、ナチ党員だけでなく、
全世界に大きなインパクトを与えたこともなるほど、頷けます。狂気の沙汰なんですね。

Adolf-Hitler-Speech-in-Brunswick-1931.jpg

ほとんど最後になってヒトラーが尊敬する人物について語ります。
「私は正直に告白するが、アルプス南方の偉人に対し、心の底からの驚嘆の念を抱いていた。
彼は自民族に対する激しい愛情から、イタリアの国内にいる敵を容認せず、
あらゆる方法を用いて彼らの絶滅に努力した。
ムッソリーニをこの地上の偉人の列に加わらせるものはなにかといえば、
それはイタリアをマルクシズムから救った決然たる態度に求められる」。

Adolf-Hitler-of-Germany-and-Benito-Mussolini-June-14-1934.jpg

上巻の最初にも書いたように、1924年に刑務所に入れられた地方政党の党首の考えとしては、
この当時から、かなりシッカリした目標を持っているなぁ・・という印象を持ちました。

もちろん、かなり極端で激しい論理もありますが、
最終的な結果を知っている人間が読むと、実現させたことも多く、
それを「予言的だ!」なんて書いてしまうと、五島勉チックになるので自粛・・。
だって本人がやったことですからね。

Ben Goto.jpg

でも1933年に政権を獲るまで、あるいは1939年に戦争が起こってしまうまでには、
政治家として、または人間として成長し、現実路線を歩んだことが理解できます。
支離滅裂でもなければ、狂人の論理とも思えない、
極端ではあるけれども一貫性があると言えるでしょう。
ただし、特に外交については判断を過ったことで、最終的には破滅に陥ったと・・。

Hitler Mesmorized the youth.jpg

もう少し総合的な感想を書くなら、政治家として冷静で先を読む目を持っていたとしても、
反ユダヤ、嫌フランスという感情が前面に出てしまったという印象も持ちました。
偉大な政治家を目指し、そのためには決して欲していなかったにもかかわらず、
結局、軍人としての欲望である、戦争という手段に訴えてしまった・・、
独裁政治を行う総統かつ、作戦レベルにまで細かく関与する最高司令官であるという
稀有な政治家と、熱い軍人魂が混在する2面性、そして芸術家肌の繊細さを持っていた
人間の崩壊が、そのままナチス・ドイツの興亡であったように思いました。

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ヒトラーの「わが闘争」の名の付いた本は他にも存在します。
本書と同じ角川文庫から2004年に出た、405ページの「続・わが闘争―生存圏と領土問題」。



そして成甲書房から同じ年に出たのが349ページの
「ヒトラー第二の書―自身が刊行を禁じた「続・わが闘争」」。
調べてみたところ、どちらも戦後に米国立公文書館で発見されたヒトラーの口述草稿のようで、
内容的には同じだと思います。訳者さんが違うので、その差はあるでしょうが・・。



それから出ました、「わが闘争 (まんがで読破) 」。
2008年の190ページの文庫で、表紙には「ヒトラー・作」って書かれています。
コレを読破した子供は思うでしょう。「ヒトラーってまんが書くのも上手いんだね!」



あとは、DVDとしても「我が闘争」がありました。
117 分のドキュメンタリーで、本書とは関係なく、あくまでヒトラーの生涯のようですね。
タイトルも「わが闘争」ではなく、「我が闘争」ですから別物扱いして欲しいのがわかります。
昨晩、偶然にもヒストリー・チャンネルでこれを放映したので録画しました。
気が付いたのは40分前・・。
ヒストリー・チャンネル、独破戦線が「わが闘争」やってんの知ってんのか??



さてさて、最後に独破戦線からお知らせがあります。
実は今回をもって「終了」となります。

ひょっとしたら、あるいは気が変わったら、そのうちに再開するかも知れませんし、
別の形のBlogとして再スタートすることがあるかも知れません。

人生何が起きるかわかりませんから、「完全終了」とは言いませんが、
一応、「終了」です。

5年間のご愛読、ありがとうございました。














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わが闘争 〈上〉Ⅰ 民族主義的世界観 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アドルフ・ヒトラー著の「わが闘争 〈上〉」を読破しました。

ナチス関連本を読み倒すという特異なBlogなのに、一番有名な本を紹介していませんでした。
忘れていたわけではなく、再読するのが面倒くさかったという理由でもなく、
単に、あまり興味がなかったからです。
本書が日本でも発刊された経緯については以前に「第三帝国の興亡〈1〉」で書きましたから、
そちらを参照していただくとして、今回、ようやく読んでみようという気になったのは、
「独破戦線」の最終回としてはちょうど良いかな・・と思ったからなのです。

わが闘争 上.jpg

本場ドイツで本書が発刊された経緯を簡単に整理すると、
1923年に「ミュンヘン一揆」が失敗に終わり、ランツベルク刑務所に収監されたヒトラーが
モーリスヘスを相手に口述して編集されたものが1925年に出版されます。
第1巻と第2巻から成り、発売当初の売り上げは数千部というもの・・。
しかし1930年代~ドイツの総統になるにつれて売り上げはうなぎ登りとなり、
結婚式には付き物といった具合で、まさに一家に一冊となっていくのです。

当初、ヒトラーが考えたのは「虚偽、愚行そして臆病に対する4 1/2年の闘争」という
長ったらしいタイトルだったというのも知られていますが、
そこからもわかるように第1次大戦後に政治家を志したヒトラーですから、
本書の執筆当時は、ミュンヘンの地方政党で4年そこそこの政治経験があるに過ぎない、
30代半ばのオーストリア人が獄中で書いた本だということです。

1925_AH_MK_1st_Edition.jpg

後年、ヒトラーはこの「わが闘争」については多くを語らなかった印象を持っていますが、
常識的に考えれば、それも当然と言えるでしょう。
例えば、1944年になっても同じことを語っていたとすれば、
20年間、政治家として成長していないと証明しているようなものですし、
若気の至りだと感じている部分もあったのではないかと思います。

25歳の方が中学生時代の卒業文集を読み返して、恥ずかしかったり、
40代の課長の方が最初に手掛けたプロジェクトの企画書を見たら恥ずかしいと思うのと同じく、
もし、若い頃の自分が書いたものを読んで恥ずかしくならないなら、
その人はまったく成長していないと言われてもしょうがありません。
ヴィトゲンシュタインも5年前の記事を読めば、やっぱり恥ずかしくなります。

ということで、本書の内容についてはWIKIはおろか、Amazonのレビューも見ておらず、
研究本に研究サイトも完全無視した状態ですので、
ひょっとしたら、とんでもなく変な解釈や誤解をしてしまうかもしれませんが、
そこそこヒトラーを勉強してきた読書好きの日本人という立場で、
この若きヒトラーの思いが書かれた本に挑みます。

mein kampf 1925.jpg

まず、「序言」では、ランツベルク刑務所に収監されたことを契機に本書に取り掛かったことと、
その目的について簡単に述べています。
「わたしは二巻の書において、われわれの運動の目標を明らかにするだけでなく、
われわれの運動の発展の姿をも記そうと決心した。
さらにわたし自身の生い立ちを、第一巻と第二巻の理解に必要であり、
またユダヤ新聞がつくりあげた、わたし個人に関する不当な伝説を破壊するのに
役立つ限り、述べておいた」。

1920 in Munich’s Hofbräuhaus, Adolf Hitler.jpg

この上巻は副題が「Ⅰ 民族主義的世界観」となっており、その第1章は「生家にて」。
ドイツとの境に位置するオーストリアのブラウナウが生誕の地であることを述べると、
それが運命であり、「幸運のさだめ」だとし、いきなりアンシュルスを力説します。

「ドイツ・オーストリアは、母国大ドイツに復帰しなければならない。
しかもそれはなんらかの経済的考量によるものではない。
そうだ、そうだ。たといこの合併が、むしろ有害でさえあっても、
なおかつこの合併はなされなければならない。
同一の血は共通の国家に属する。
ドイツ民族は自分の息子たちを共通の国家に包括することすらできない限り、
植民政策の活動への道徳的権利を持ちえない。
ドイツ国の領域が、ドイツ人の最後の一人に至るまでも収容し、
かれらの食糧をもはや確保し得なくなったときにはじめて、
自国民の困窮という理由から、国外領土を獲得する道徳的権利が生ずるのである」。

う~む、1ページ目から、コレは予言的ですね。
1938年に語ったことならまだしも、その14年も前からオーストリア併合、
ズデーテンラント、ポーランド、ロシア侵攻を夢見ている気すらします。

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そして子供時代の出来事に触れ、「両親の死」については、
「わたしは父を尊敬していたが、母を愛したのだった」。

「図工兼水彩画家」となってウィーンでの生活。
それと同時に、「わたしは多くを読み、そして学んだ」として、「読書法」を解説します。
独破戦線的にも興味深いですね。ちょっと抜粋しましょう。

「際限もなく多く読む人、一冊一冊、一字一句読む人々をわたしは知っている。
けれどもかれ彼らを『博識』ということはできない。
彼らもちろん多量の『知識』を持っている。
だが彼らの頭脳は、自分に取り入れたこの材料を分類したり、整理することを知らない。
彼らには自分にとって価値あるものと価値なきものを選別する技術に欠け、
その上、読書というものは、それ自身目的ではなく、目的のための手段である」。

hitler Landsberg 1924.jpg

本書にはかなりの箇所に注釈があり、巻末にまとめられていますが、
このヒトラーが「多くを読んだ」ことについては、ヒトラーが一冊もまともな本の名を
挙げていないことから、系統的な勉強はしていなかったという説を裏付けている・・としています。

巨大な都市、ウィーンの中心部を歩き回っていると、
「突然、長いカフタンを着た、黒い縮れ毛の人間と出くわした。
これもユダヤ人だろうか?
リンツではそんな外見をしていなかった。わたしは密かに注意深く観察した。
これもまたドイツ人だろうか?
その後わたしは汚い衣服の臭気で、気持ちが悪くなった」。

Jüdisches Leben in Wien_1915.jpg

このような生理的嫌悪感からユダヤ人嫌いが始まり、彼らについて学んでいったようです。
「淫売制度と少女売春に対するユダヤ人の関係さえも、
ウィーンではよく研究することができた。
ユダヤ人が、大都市の廃物たるこの憎むべき淫売業の、厚顔無恥な仕事をしている
支配人であることをはじめて見た時、背筋がかすかにゾッとするのを覚えた。
だが、次には憤慨した」。

政治に興味を持ち始め、ギリシャ風の壮麗なオーストリア議会を訪問するも、
議場はがら空き、あくびをしたり眠っている議員、副議長は退屈そう・・という光景にまたも憤慨。
ふ~む。。確かに議場で睡眠をむさぼっている人って、どの時代にもいますねぇ。

バイエルンに移ると第1次大戦が始まり、連隊へ志願。
東部戦線の状況をこのように解説します。
「3年間、東部のドイツ軍はロシアを攻撃した。
初めはほんの少しの成果さえもなかったように思えた。
結局、人間の数が多い大男ロシアが勝利者であるに違いなかった。
そしてドイツは出血して倒れるのだ」。

いや~、事実はそうはならないわけですが、1945年にはそうなるんですね。

Hitler+Germans-in-hospital-1916.jpg

ガス中毒となって戦後を迎え、上官の命令により「ドイツ労働者党」なる政治団体の調査へ。
フェーダーやドレクスラーが登場しますが、ほとんど「劇画ヒットラー」の雰囲気です。。
「ひどい、ひどい。これは確かに最もひどいインチキ団体だ」。

しかし、なんだかんだと悩み抜いた末、この綱領も、印刷物も何もない、
ヘボ団体に入党してしまったヒトラー。
とりあえずは宣伝担当です。

Two of Adolf Hitler's documents.jpg

新聞の読者を3つのグループに分けて詳しく解説します。
第1のグループは数字の上からは、桁外れの最大グループであり、
それは「読んだものを全部信じる人々」です。すなわち一般大衆ですね。
第2グループは「もはやまったく信じない人々」であり、ごく少数派。
第3には「読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳をもつ人々」。

そして「大衆の投票用紙があらゆることに判決を下す今日では、
決定的な価値は最大多数グループにあり、これこそ第1のグループ、
つまり愚鈍な人々、あるいは軽信者の群集なのである」とします。

hitler_1921.jpg

また、ポスターを含む宣伝方法についても別に述べていて、
「宣伝は大衆的であるべきであり、その知的水準は、最低級の者がわかる程度にすべきで、
それゆえ、獲得すべき大衆の多くなれば多くなるほど、
純粋の知的高度はますます低くしなければならない。
余計なものが少なければ少ないほど、
そしてそれが大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる」。

GermanyIsFree.jpg

言いたくないですけど、正直、耳が痛いですね。
個人的には第3グループでありたいと思いますが、今の日本でも、
ネットに流れるいい加減なニュースをすぐさま鵜呑みにして拡散してみたり、
それがデマだと解ると、今度は「マスゴミ」と逆ギレして吊し上げる。。
選挙では政策よりも、「人柄が良さそう」、「若くて誠実そう」といった見た目で投票。
このような第1グループが相変わらず多いことに、ヒトラーは笑っていることでしょう。

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「われわれの愛を汚す売春」と、再び、この問題を取り上げます。
それは結核と同様に健康上の毒化である恐ろしい「梅毒」がテーマ。
一民族を滅亡させかねない深刻な害悪であるとして、
不治の病人の隔離、断種・・と、後の政策、最終的な「T4作戦」にも繋がりそうです。

古代ローマの円形競技場コロッセオに、古代ギリシャのパルテノン神殿の名が出てくると、
将来、ベルリンの子供たちが、「われわれの時代のもっとも巨大な工事として、
2~3のユダヤ人がもつ百貨店や、いくつかのホテルを挙げて驚愕するだろう」。
こうなると、あの「ゲルマニア計画」を夢想しているのは当然の如くです。

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12章から成る本書の第11章「民族と人種」になって、あの「アーリア人種」が出てきました。
「アーリア人種は、その輝く額からは、いかなる時代にも常に天才の神的なひらめきが飛び出し、
沈黙する神秘の夜に灯をともした人類のプロメテウスである」。
なんだか良くわかりませんけれど、注釈でも書かれているように、
アーリア人種とはナチズムでは、ユダヤ人との区別で用いることが多いようで、
本書の場合も、ユダヤ人以外のヨーロッパ人(スラブ民族を除く)を指しているように感じます。
ですから、イメージにあるような金髪碧眼の北方人種である必要はなく、
ヒトラーを筆頭としたナチ党指導者の風貌でも、立派なアーリア人種なんでしょう。

Himmler,Goebbels,Schaub,Göring,Hitler in 1925.jpg

そして定住地も独自文化も持たないユダヤ人が寄生虫のように入り込み、
混血されていく・・という、いつもの陰謀論をこれでもかと展開するのでした。
また、以前からヒトラーが"ソ連=ユダヤ"と考えている節があるのを疑問に思っていましたが、
カール・マルクスがユダヤ人であることを本書で強調していることから、
そのマルクス主義(共産主義)者たるもの、ユダヤ人である・・という単純なことかも知れません。
或いは共産主義の首領レーニンがユダヤ系であることかも・・。

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途中で2ヵ所、日本海軍や日本の文化にも独特の解釈で語っていますが、
最後の章では英国についてこのように述べています。
「イギリス国民は、かれらの指導者層と大衆の精神の中に、
一度開始された戦いは時間と犠牲を無視し、あらゆる手段を用いて
最後の勝利まで貫き通そうと決心しているあの野蛮さと粘り強さが期待される限り、
世界で一番貴重な同盟仲間であるとみなさなければならぬだろう」。

まぁ、この頃から良くわかってたんですねぇ。

Hitler_early.jpg

地方の政治団体でしかない、ナチスの運動の将来も語ります。
「この若い運動はその本質および内部の組織からして、反議会主義である。
つまり多数決の原理を拒否する。
というのは、この原理では指導者はただ他人の意志と意見の執行者に
下落してしまうからである。この運動は、事の大小を問わず、
最高の責任と結合された無条件の指導者権威の原則を主張する」。

指導者たるもの、究極のもっとも重大な責任を担うのであり、
そうしたことのできない臆病者や、責任を持てない者はその値打ちが無いと力説。
そしてこう締め括ります。
「運動が議会制度に参加するのでさえ、
ただそれを破壊するための活動という意味しか持たない」。

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一応、選挙によって首相となり、「国会議事堂放火事件」の下手人は不明だとしても、
焼けたライヒスタークも修復せず、クロールオペラハウスで全権委任法が承認された・・
ということで、コレも確かに実践しましたか・・。

Krolloper hitler.jpg

予想どおり、冗長で、思いついたことを次から次へと口述している感じです。
まぁ、監獄で時間を持て余していることもあり、自分の考えを整理している風にも思えます。
この上巻554ページ、途中6回ほど落ちました。。下巻も頑張ろう・・!



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