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ナチ将校の妻 - あるユダヤ人女性:55年目の告白 [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーディト・ハーン ベア著の「ナチ将校の妻」を読破しました。

オーストリアのユダヤ人家庭に生まれ、ヒトラーの併合によるユダヤ人虐待を
家族と恋人とバラバラになりながらも、なんとか逃れ、
辿り着いたバイエルンでナチ党員の男性と知り合い、
結婚して生き延びた女性の回想録です。

ナチ将校の妻.JPG

前半は少女時代の1920年代の記憶から、当時すでに反ユダヤという風潮が
オーストリアにおいても存在していたことや、いわゆる「水晶の夜」も実体験として語られ、
ユダヤ人の迫害が徐々にエスカレートしていった様子が自然と理解出来ます。

母親や2人の妹を助けるために1人、労働収容所へ送られ、
一生懸命に働かなければ、家族や自分が強制収容所行きとなってしまうという
大変なプレッシャーの元で生活は初めて知りました。

そして1942年、偽造書類を手に入れた彼女は「アーリア人」となって
ドイツでの逃亡生活を始めるわけですが、ここでは当時の一般ドイツ市民の
本音と建前が錯綜していて、非常に勉強になりました。
スターリングラードで窮地に陥った第6軍のために、教会にお祈りに行く女性がいたと思えば、
「軍事の天才のパウルス将軍なんだから、さっさと陥落させるよ」という男性もいたりと
いわゆる大本営の発表もそれなりであったことや、個々の解釈もそれぞれであった
という印象です。

他にも、怖がられているSS隊員は孤独なので、ヒトラー・ユーゲントの女性たちが
レーベンスボルン(生命の泉)の施設で相手にしているなどという話も出てきます。
こういうのも、ある程度知られてたことなんですね。

Helferinnenkorps.JPG

女性に対するナチス/ドイツの政策はとても面白いもので
ヒトラーの秘書などが証言しているように、ヒトラー自身が女性に対して非常に紳士的な態度であり、
戦争の話題は一切避けていたということが、そのまま国民にも反映されていた印象があります。

この本でも「母親十字章」のことにも触れられ、女性は家庭に留まり、
子どもを沢山産むことが激賞されていたことがわかります。
余談ですが、この「母親十字章」なるものは、子どもを4人産むと銅賞、6人で銀賞、8人で金賞
というもので、裏にはヒトラーのサインの刻印があり、これを着けている女性にあったなら
「ハイル・ヒトラー!」の敬礼をしなければならなかったという話を読んだことがあります。

MothersCross.jpg

結婚した旦那さんは知っているものの、常にユダヤ人であることを悟られないように生きる彼女の、
人に対する疑心暗鬼の目から見た、ドイツ市民の考え方は1944年にもなると変化してくるようです。
連戦連勝のウハウハな時代は終わり、敗戦を意識しだすものの、
それを口には出すことで密告される恐怖があったことが伝わってきます。

そして旦那さんも将校として東部戦線に召集(おそらく国民突撃隊)されていきますが、
このようにドイツ人男性がいなくなってしまうと、残された女性と外国人労働者との
不倫やらなんやらという問題が大きくなっていったようです。

なかなか楽しめる回想録で一気読みしてしまいました。
女性の感想というのもぜひ聞いてみたいですね。



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SS‐LEIBSTANDARTE―第1SS師団の歴史 1933‐1945 [武装SS]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ルパート・バトラー著の「第1SS師団の歴史」を読破しました。

独破戦線でも今ひとつ評判の良くない、リイド社出版の武装SS師団シリーズものです。
師団の歴史ですが、ライプシュタンダルテなので、どうしても親衛隊の成り立ちから
始ってしまいますが、これはしょうがないところでしょう。
「長いナイフの夜」事件などに関わったことなど、暗い面にも光を当てています。

第1SS師団の歴史.JPG

武装SSとしてはあまりにも有名な部隊であり、ポーランド侵攻から西方電撃戦、ギリシャ、
バルバロッサ作戦、クルスクの戦車戦やハリコフ、チェルカッシィ包囲陣救出、
ノルマンディ、バルジの戦い、そしてバラトン湖と、有名な戦いに参戦していることから
逆にこれを読めばドイツ軍のヨーロッパにおける戦いや国防軍と武装SSの立場が
理解できるとも言えます。

peiper&wittmann.JPG

前半はフリッツ・ヴィットSS少佐やパンツァー・マイヤー、フーゴ・クラースなど古参の戦い。
クルスク戦車戦からはヴィットマンが再三登場してきます。
ある意味メインとなっているのはバルジの戦いで、ヨッヘン・パイパーの活躍と
マルメディ虐殺事件の関与について解説しています。
また、開戦前にはパイパーがヒムラーの副官を務めていたことなどもしっかり書かれており、
そのような過去からもパイパーの人間性も探っています。

Joachim Peiper_personal adjutant _Himmler.jpg

この本の主役はヒトラーの警護部隊としての発足時からの隊長であったゼップ・ディートリッヒで
師団長の座はテオドール・ヴィッシュ~モーンケに譲るものの
そのライプシュタンダルテを含む第1SS装甲軍団長、そしてSS装甲師団からなる
第6装甲軍司令官として、最後までライプシュタンダルテと共にあったという印象です。
SS全国指導者ヒムラーとの微妙な関係やゲーリングルントシュテット元帥
シュタイナーハウサーといった同僚のディートリッヒ評も非常に楽しく読めます。

sepp_dietrich.jpg

同じ著者によるヒトラー・ユーゲントの「第12SS師団の歴史」よりは大分マシな一冊で、
写真もなかなか良いものが多く、キャプションもしっかりしていて、
気軽に読む師団史としてはちょうど良いんじゃないんでしょうか。



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ドイツ列車砲&装甲列車戦場写真集 [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

広田 厚司 著の「ドイツ列車砲&装甲列車戦場写真集」を読破しました。

近頃、個人的に興味津々の列車砲について勉強してみました。
列車砲と言えば、セヴァストポリ要塞で登場したドーラ(グスタフ)か
第1次大戦でパリを攻撃したということで有名な「パリ砲」ぐらいしか知りませんでした。
写真はすべて白黒なのが残念ですが、さすがに初見の写真がほとんどで
キャプションもしっかりと書かれています。

ドイツ列車砲.JPG

一口にドイツが開発した列車砲といっても、やはり!というか、あれもこれもと計画を立てて
マニアックに非効率な開発をしていたという印象です。
最終的には80門ほどの列車砲を生産したそうですが、この開発はほぼ「クルップ社」の独壇場で
巨大な列車砲グスタフという名前もクルップ社の会長の名前だということからもわかります。
ちなみに2番砲のドーラは、巨砲設計チーム責任者の奥さんの名前だそうです。

Gustav Krupp.JPG

しかしこの費用と時間がかかる代物(砲身と砲架の費用だけでパンター戦車の50両分)を
生産/運用し続けたのは、ヒトラーの巨大兵器嗜好や以前のパリ砲を運用したのが
艦砲射撃の経験に優れた海軍だったことが、陸軍総司令部が拘った理由かも知れません。
英国の調査によれば、この列車砲のような兵器開発に多数の技術者や設備が使われ、
本当に必要な兵器に回されなかったことは連合軍にとっては幸いであったとしています。

Gustav_dora.jpg

後半は装甲列車です。こちらは開発というよりも鹵獲列車の改造と運用といった趣です。
なので、特に系統的というよりも東部戦線や西部/南部戦線、また、攻勢の時期か否かで
その装甲(戦車の砲塔や対空砲など)もさまざまです。
白黒写真でハッキリとはわかりませんが、その迷彩もなかなかやってる感じです。

Panzerzug1.jpg

この本で難ありとするところをあえて挙げるとすれば、一連の写真のページの後に
「概説」として文章によって、その歴史や詳細がまとめられていますが、
自分のようなシロウトには読みづらく、もう少し、写真と概説の説明文をバランスよく
編集してあっても良いんではないでしょうか?



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パンツァー・フォー [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

カール・アルマン著の「パンツァー・フォー」を読破しました。

ドイツ機甲軍から著者の選んだ15人の猛者たちの戦記です。
まるでその場に居合わせているかのような描写で戦車戦が表現され
その主人公の生い立ちやポートレートの写真までを各々15ページ程度に
まとめたものですが、この人選がなかなかで結構勉強になりました。

パンツァー・フォー.JPG

SSダス・ライヒ師団のパンター乗り、エルンスト・バルクマンや
最年少で柏葉騎士十字章を受章したオットー・カリウスなども出てきますが、
まずはSSヴィーキングの戦車連隊長のヨハネス・ミューレンカンプです。
戦前、武装SS士官候補生学校でパウル・ハウサー校長の副官を勤めていたり、
もともとはゲルマニア連隊の所属で、その後は師団となったダイ・ライヒで
活躍していたなどの過去や、1944年にはオットー・ギレ師団長の跡を継ぎ、
さらには、グデーリアン装甲兵総監のもとで武装SS装甲兵総監を勤めた・・
という経歴を知ることができました。

Mühlenkamp.jpg

続いてはグロースドイチュラント戦車連隊長のヴィリィ・ラングカイト少将です。
第14戦車(装甲)師団の連隊長としてスターリングラードで騎士十字章を受章し、
この包囲陣内から飛び立った最後のJu52に搭乗していたというドラマティックな
経歴などと裏腹な、温厚そうで良いオジサン的なギャップがなんとも言えませんね。

Willy Langkeit.JPG

第9番目のダイヤモンド章受賞者であるアダルベルト・シュルツ少将は
一番印象的な人物です。
フランス侵攻時に「幽霊師団」として名を馳せたロンメル少将の第7戦車(装甲)師団の
戦車中隊長として活躍し、その後もマントイフェル師団長のもとでも戦車連隊長として、
通算176回にも及ぶ戦車突撃行動、そして師団長となってからも
指揮戦車の砲塔に立つ勇猛さを見せますが、1944年、
炸裂した迫撃砲弾を頭部に受け、戦死します。

adelbert schulz.JPG

その最後まで戦車とともに生きた「パンツァー・シュルツ」らしい最後で
将軍の戦車服も粋に着こなしていたのでしょう。。

Général uniforme Adalbert Schulz.JPG

その他にも「ホルニッセ」(ナースホルン )自走砲による戦いも2章収められていて
これもまた新鮮で楽しめました。結構強いんですよ、ホルニッセ・・。

HORNISSE NASHORN.jpg



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大虐殺 - リディツェ村の惨劇- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジョン・ブラッドレー著の「大虐殺 - リディツェ村の惨劇-」を読破しました。

「暁の七人 -ハイドリッヒの暗殺-」でも触れられた、数あるナチス/ドイツによる大量虐殺でも
有名な事件の全貌です。200ページほどですが、
当時のチェコスロバキアの政治情勢から英国などとの関わり、
国内の一般市民から地下組織の様子、さらには駐屯するドイツ軍と
なかなか知ることの出来なかった情報が信じられないほどの多数の写真とともに
コンパクトに収められた強烈なインパクトがある名著です!

大虐殺.JPG

まずはこのリディツェ村の惨劇が起こるキッカケとなったハイドリヒの暗殺までの過程を
英国の亡命政府を中心に追い、ヤン・クビシュ、ヨゼフ・ガブチックの暗殺実行も
ダイジェスト的に説明しています。

このチェコ(ベーメン・メーレン保護領)の内務大臣(国務相)を務める
カール・ヘルマン・フランクSS中将がこの本の中心人物で、総督ノイラート男爵の元で、
その後ノイラートが「病気」のために送られてきたハイドリヒ副総督の死後も、
その後任には秩序警察長官クルト・ダリューゲSS上級大将が登場と
野心はあるものの、なかなかヒトラーに認めてもらえない程度のしょうもないオヤジです。

Kurt Daluege&Karl Hermann Frank.jpg

1942年6月9日、ベルリンでハイドリヒの葬儀が行われた、その翌日、
ヒトラーからの命令があったとするフランクの指示により、
プラハのゲシュタポ地方本部長ホルスト・ベームSS大佐率いる一団によって
総統命令の名の下に、 リディツェ村の16歳以上の男性173名が銃殺され、
185名の婦人が強制収容所送りとなり、母親から引き裂かれた104人の子供は選別されて
アーリア化」されるためにドイツ、或いはドイツ人家庭へ送られてしまいます。
この104人のうち、戦後チェコスロバキアに帰れたのはわずか16人だそうです。

Lidice Children's.jpg

この虐殺の様子は非常に具体的に、生々しく描かれており、
例えば、銃殺隊は10人1組の3組に分かれて銃殺を行い、50名を銃殺した後、
アルコールで気分を沈め、続行を断った3名の隊員は予備隊員と交換となったなど・・。
この大量虐殺の方法についてですが、このような銃殺はSS隊員の精神的負担が
問題となっていました。
そこで安易な方法として編み出されたのが、アウシュヴィッツでも使用された
毒ガスによる大量虐殺です。
死体の処理をするのは、このリディツェ村にしても、強制収容所にしても
ユダヤ人などの囚人たちです。

Lidice_massacred.jpg

「リディツェ村を地図からも抹消し、形跡も残さず真っ平らにすべし」との
ヒトラー命令があったとのことから、フランクは1943年の3月までかけて徹底的に破壊し、
新しい道路、小川の流れを変え、放牧場と原野へと完全に姿を変えてしまいます。

lidice before.jpg

リディツェ村の大虐殺から1週間後、クビシュ、ガブチックの暗殺実行者たちも
仲間の裏切りにより、隠れていた教会でSS部隊との壮絶な銃撃戦の末、
全員、自殺をとげることとなります。
結局、リディツェ村はハイドリヒの暗殺の真犯人を挙げられないドイツ側の焦りと
真犯人に対して無関係な市民を虐殺してプレッシャーを与えるという
ことだけで、実行されたようです。。。
その意味では「仲間の裏切り」という成果はあったのでしょう。

この本でも「なぜリディツェ村が対象となったのか」については必ずしも明確ではなく、
潜入した亡命チェコ兵士を匿ったらしい手紙に住所が書かれていた・・という程度で
もっとも、フランクにしてみれば、そんなのが事実かどうかは二の次だったのでしょう。

Karl Hermann Frank_2.jpg

そのフランクは戦後、裁判にかけられるわけですが、彼の供述も所々に出てきます。
そして1946年、プラハにおいて絞首刑に処せられますが、
その鮮明な写真が突然デカデカと出てきて、ビックリしました。

現在、リディツェ村の跡地にはモニュメントが建てられています。

Weeping Women.jpg
Lidice Children's Monument.jpg
Lidice Children's Monument1.jpg
Lidice Children's Monument2.jpg
Lidice Children's Monument3.JPG
なかなか綺麗な状態のものが見つからなかったのですが、
今回は900円で良いものを手に入れることが出来ました。



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