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フォト・ドキュメント女性狙撃手 :ソ連最強のスナイパーたち [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ユーリ・オブラズツォフ著の「フォト・ドキュメント女性狙撃手」を読破しました。

7月に出た本書を見つけたのは、その3週間後のこと・・。
久しぶりに「おおっ」という感じに食いつきました。
109ページと薄い本ですが、「狙撃手」モノを出版させたら右に出る者が無い原書房。
このBlogでも「最強の狙撃手」やら、去年は「戦場の狙撃手」を紹介していますが、
その「戦場の狙撃手」のレビューの最後にこんなことを書いていました。
・・「出撃!魔女飛行隊」のような、ソ連の女スナイパー戦記が読んでみたいところです・・
まさに願いが叶った・・といったトコでしょうか?

フォト・ドキュメント女性狙撃手.jpg

第1章は「大祖国戦争を戦った女性たち」と題して、帝政ロシアが革命によって崩壊し、
女性に選挙権や中絶、様々な文化活動に参加する自由を得た・・という経緯を解説。
1941年にドイツに侵攻されると、国民が総動員され、男性は前線に、
女性は工場や畑仕事に従事しますが、それだけでは満足せず、看護婦、戦車搭乗員、
パイロットとしても活躍することになるのです。
と、ココではあのリディア・リトヴァクがエース・パイロットとして写真付きで登場。
「母なる祖国が呼ぶ」というポスターも掲載しており、ポスター好きにも嬉しいですね。

war-time-posters.jpg

続く第2章はメインの「女性狙撃手たち」。
その一番手として紹介されるのはリーザ・ミロノヴァです。
堂々たる男前の雰囲気で表紙も飾っている彼女。
パッと見、男前女子ゴルファーの筆頭である、成田美寿々似ですね・・。

1941年に高校を卒業したモスクワっ子の彼女はすぐさま志願して、
黒海艦隊第255海軍歩兵旅団に配属され、オデッサとセヴァストポリの戦いに参加。
約100名の敵兵と将校を射殺したものの、1943年9月、肝臓を撃たれて死亡するのでした。

Marine sniper Mironova.jpg

次は・・出ました、309名を狙撃したという伝説のリュドミラ・パヴリチェンコです。
1937年、キエフ大学で勉学に励む一方、グライダーやスポーツ射撃にも興味を持ち、
民間人がパラシュート降下などの軍事訓練が受けられる「オソアヴィアヒム」で
精密射撃を習得したことで、志願後のオデッサの戦いで187人を仕留めるのでした。
セヴァストポリでも72人の敵兵を射殺。
この当時、2等軍曹時の写真は初めて見ましたが、まだ初々しいですね。

Lyudmila Pavlichenko1941.jpg

彼女の「回想」に加え、1942年秋には「北米青年派遣団」の一員に選ばれて、
アメリカ大統領と面会した初めてのソ連市民となるのです。
さすがの有名人だけあって、その全米ツアーの写真も掲載しながら14ページを独占。
そんなパヴリチェンコを主人公にしたロシア=ウクライナ合作映画 『セヴァストポリの戦い』が
作られましたが、公開予定は・・???



ちなみに「オソアヴィアヒム」なるものについても1ページ書かれていて、
正式には「ソ連国防および航空・化学産業支援協会」という名で大都市近郊にあり、
最終的には600万人から900万人の会員を擁したということです。
そしてこの「オソアヴィアヒム」の各種記章や、射手の記章も写真付きで紹介しています。

Voroshilov Marksman Badge_snaiper-OSOAVIAKHIM.jpg

3人目の女性狙撃手はニーナ・ペトロヴァ。
万能のスポーツ選手で1932年には体育教師の免許を取得。その時、39歳・・。
その後、レニングラードの狙撃学校で腕を磨き、そのまま狙撃教官になるのです。
1941年、ドイツ軍が迫ってくると、徴兵指令所に赴くものの、48歳の彼女は不適格・・。
それでも腕に自信のある、このおばちゃんは義勇軍第4師団に加わると、
すぐに軍の教官に抜擢され、狙撃手として下士官では最高の階級である上級曹長に昇進し、
狙撃手グループのリーダーになるのです。

512名もの狙撃手を訓練しつつ、自らも100名の敵兵を狙撃した恐怖の「マンマ」は、
栄誉勲章3級、2級を授与され、1945年2月には1級も推薦されますが、
彼女の乗ったトラックが修復中の橋を渡っている最中に崩壊してしまい・・。

Nina Petrova.jpg

栄誉勲章は下士官、女性兵士、空軍少尉に対し、3級から順に与えられるもので、
戦争の4年間で3級が100万人、2級が5万人、1級になると2672人だけ・・。
女性兵士の1級はニーナを含めて僅か4名であり、狙撃手になると彼女だけということです。
この勲章についても後半に2ページを割いて詳しく書かれていて、具体的な戦功基準も・・。

「個人で敵将校を捕虜にする」、「戦闘において、敵戦車を複数破壊する」
などというのは、ドイツ軍にもありそうなのでわかりますが、
「炎上する戦車に残って、任務を遂行する」というのは、やはりソ連らしいというか・・。

Order of Glory 栄誉勲章.jpg

4番手はアリヤ・モルダグロヴァ。
1925年、カザフスタン生まれのレニングラード育ちの彼女は、1942年になってもまだ17歳。
前線に出るために開校したての「中央女子狙撃訓練学校」に通い、
1943年7月、18歳となって北西戦線へと向かいます。
10月までに戦果、32人。怖いもの知らずのきゃしゃな女の子・・。

しかし翌年1月、ノヴォソコリニキの接近戦でドイツ軍将校と撃ち合い、重傷を負って死亡。
公式には78人を挙げたというアリヤには、レーニン勲章ソ連邦英雄が贈られたそうで、
カザフ人女性としては2人だけ、銅像も建てられ、切手にもなるという英雄です。

Aliya Moldagulova.jpg

第3章は「中央女子狙撃訓練学校」を紹介。
前半で「狙撃数の確定」方法は第3者による証言などが必要・・と書かれていましたが、
この章では戦後の卒業生のインタビューがあり、
負傷させただけなのか、射殺したのかの確認方法を訊ねられ、
「それはわかりません。相手が倒れたら、射殺したことになるんです」。

まぁ、コレを「盛ってる」と判断するかは難しい問題ですね。
本書でも重傷を負い、数日後に死亡した彼女たちのケースがあるように、
同じ射殺でも「即死」かどうかの違いもあり、もちろん撃たれても軽傷の可能性もあるわけです。

例えば戦車の撃破数にしても、行動不能になったら撃破とカウントしても、
その後、後方に牽引して復活するケースもありますし、
Uボート戦でも轟沈とカウントしたのに、実は中破だったり・・。
結局は撃った相手のその後まで見届けなければ、わからないことであって、
その戦闘において、行動不能=排除した・・という意味での戦果数なら問題ないでしょう。

Soviet snipe3.jpg

56ページから第4章「スナイパー・ライフル」で、代表的な「モシン・ナガン」について詳しく解説。
モシンさんと、ナガンさんによる開発競争も書かれ、「カラシニコフ自伝」を思い出しましたね。
写真も集団で敵機銃撃の体勢を披露しているルーニン大尉率いる狙撃手たち・・といった具合。

The infantry air defense, June 1943.jpg

またトカレフの「SVT-40」スナイパー・ライフルとの比較も興味深く、
なぜかドイツ軍の「カラビナー98K」も登場。
この ↓ パヴリチェンコが持っているのが「SVT-40」ですね。

Lyudmila Pavlichenko SVT-40- Soviet sniper.jpg

さて、ここで5人目の女性狙撃者が・・。彼女も有名なローザ・シャニーナです。
1924年生まれで、兄の2人はレニングラードとクリミアで命を落とし、
1943年、保育士だった彼女は「中央女子狙撃訓練学校」に入学。
夜間に動く標的を狙って射撃することが得意だったローザの戦果は75まで上るものの、
1945年1月、東プロイセン近郊で負傷した砲兵将校を守ろうとして胸に重傷を負って、
運ばれた病院で息を引き取るのです。

本来つけることの許されなかった彼女の日記が6ページほど掲載されていますが、
なかなか前線に出してもらえずに、男に生まれたなら思う存分、戦えたのに・・と、
グチも多い一方、若い兵士がやって来て、「キスをさせてください。
もう4年も女の子とキスをしていないんです」と実感のこもったお願いをされたり・・。
映画「戦火のナージャ」の、死ぬ前にオッパイが見たい・・を思い出しました。

Roza Shanina1.jpg

6番目はローザの友人だったイェヴドキヤ・クラスノボロヴァ、
7番目にクラヴティナ・カルギナが女性狙撃手として紹介。
特にクラヴティナちゃんは戦争勃発時にはまだ15歳で、
17歳で狙撃学校に条件付きで入学というエピソードを戦後のインタビューで・・。
初陣で、雪かきしているドイツ兵が丸見えなのに、ついに引金を引くことができなかった・・
という話や、コンビを組むマルーシャが狙撃され、自分の悲鳴が響き渡った話など、
写真どおりの、ごく普通の女の子のプチ戦記です。こういうの好きだなぁ。

Klavdia Kalugina, 1944.jpg

第3章で「相手が倒れたら、射殺したことになるんです」と話をしていたのも彼女でした。
手榴弾は2個を携帯し、1つはドイツ兵に、1つは自爆用・・。
「これは決まりです。捕虜にならないように使うんです。
狙撃手が捕まったら、容赦なしの扱いですからね」。
う~ん。「最強の狙撃手」だったか、ロシア兵の手に落ちたドイツの狙撃兵が
お尻にライフルを突っ込まれて串刺しになっていたなんて話が・・。

こんなロシアン・ジョークもありました。

ずっと森のはずれを気にしているドイツ兵。
「あそこに俺のことをじっと見ている可愛いロシア人の女の子がいるんだよ」
「だったらお前、なぜ隠れてるんだ?」
「あの子、スコープ越しに見つめてるんだよ・・」

Snipers Yevdokia, Russian Female.jpg

8番目はマリア・イヴシュキナ、
9番目は1924年生まれのニーナ・ロブコフスカヤ。
そしてベルリン占領に参加した第3突撃軍の女性狙撃手たちのエピソードと続き、
彼女たちは祖国へと戻っていくのでした。
後半は特に「戦争は女の顔をしていない」を彷彿とさせる展開でした。

Nina Lobkovskaya.jpg

こうして、戦場に向かった女性狙撃手はおよそ2000人。
そのうち生き残ったのは500人程度・・。
最後には、現在3万人の女性がいるロシア軍についても触れており、
さすがにスペツナズといった特殊部隊は女性の受け入れをしていないそうです。

Russian Female Soldiers.jpg

と、109ページながら充実した一冊でした。
知らなかった勲章や狙撃学校も勉強になりましたし、
写真は全て白黒ですが、ざっと150枚~200枚くらいでしょうか?
ロシア語サイトなどで見たことのあるのは30枚程度はありましたが、
ほとんどの場合はキャプションで名前まで明確にされています。
なので今まで見たことのある女性スナイパーの名前を本書でようやくわかった・・なんて。。
とにかく、「ドイツ軍婦人補助部隊」を読んだときのような新鮮さがありました。

またレニングラード包囲戦や、バグラチオン作戦についてもページを割いているので、
独ソ戦には詳しくない若い女性の方でも(独破戦線を読んでる若い女性はいないか・・)、
彼女たちの戦いざまが理解しやすく、オススメできます。



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ヒトラーに抱きあげられて -あるドイツ人少女の回想記- [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

イルムガルド・A. ハント著の「ヒトラーに抱きあげられて」を読破しました。

このBlogでも何度かヒトラーが幼い少女と一緒に写っている写真を載せていますが、
2007年に出た370ページの本書の著者もそんな少女の一人です。
彼女が労働力配置総監フリッツ・ザウケルの息子とクラスメイトで、
ニュルンベルク裁判により父親の死刑が執行されたと聞いて卒倒した・・
なんて話が書かれていると知ってから、本書がず~と気になっていました。

ヒトラーに抱きあげられて.jpg

1910年に祖父母が結婚し、第1次大戦が勃発すると、祖父は西部戦線へ・・。
ティーンエイジゃーの母親の1920年代は大インフレ。
1923年には、1ドルが4兆2千億ライヒスマルク換算というレートです。
そんなドイツ国民が貧しい時代にヒトラーとナチスが台頭し、
同じく貧しいマックスという青年と恋に落ちた母親アルビーネ。
マックスは磁器の絵付師としてバイエルン州の発展途上の観光の町、
ベルヒテスガーデンの工房で働き始めると、1933年1月に結婚します。
この1933年1月といえば、まさにヒトラーが首相になった時ですね。
そして山の山腹には「ヒトラーの別荘」が・・。

erwirbt Hitler Haus Wachenfeld.jpg

翌年の1934年に誕生した著者のイルムガルド。
ベルヒテスガーデンはカトリックの伝統が浸透しており、マリアやアンナ、エリザベトなどの
聖人の名を娘の洗礼名にする人が多かったものの、
生活のあらゆる面に介入するナチスは、親が子に与える名前にまで指示を与えます。
ドイツ民族の優越性を強調し、ヘルガやグズルーン、ヒルデガルド、イングリッドといった名前が
付けられるようになり、イルムガルドという名もドイツ語起源の名です。
ほうほう、SS女看守の定番、イルザ、オルガ、ヘルザなんかもこの路線なんですね。

クリスマスはドイツ語では「Weihnachten」と言うようですが、
ナチスは新たに「冬至祭」という名前を広めようとします。
しかしバリバリのヒトラー信奉者の両親ですら、そんな呼び方は使いません。
サンタクロース(聖ニコラウス)は12月6日の夜に子どもたちの前に現れるそうで、
白と金の司教の衣装をまとって杖を持ち、頭にはミトラを冠っているという姿・・。
また、聖ニコラウスは荒々しい悪魔を連れているのが伝統なんだそうです。

1901-christmas-postcard-santa-krampus.jpg

そして角の付いた木製のマスクをかぶった悪魔に震え上がる幼いイルムガルド。
聖ニコラウスに一年間良い子でいたことを伝えれば、クッキーやチョコが貰える仕組みです。
そんな伝統も極寒の北欧からやって来る赤い服を着た髭の男、
「サンタクロース」に変えようとしたのがナチスなんだそうです。
ふ~ん。時期も時期だし、面白い話で調べちゃいました。。
まさかサンタさんが何者なのかという夢のないことを調べる時がくるとは・・。
日本で言うと、クリスマスというより、「なまはげ」に近い気もします。

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イブにはクリスマスを祝う射撃クラブの射手たちが古びた大きな銃で大騒ぎ。
火薬を入手する権利を持つこのクラブが悩みの種なのはボルマンです。
他の多くのクラブと同様にナチス組織に組み込もうとしますが、上手く行きません。
それはヒトラー自身が射撃クラブの「名誉会員」だったからです。

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父の手書きで描いたエーデルヴァイスやリンドウなどの陶磁器が
「ヒトラーの山荘」で使う正餐用食器として納品されていることに誇りを持つ家族。
素朴な花の柄を好んでいる・・ということで、ますますヒトラーは地元民に慕われます。
わずか3歳にして正しいナチ式敬礼「ハイル・ヒトラー」を父親から仕込まれるイルムガルド。

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こんなヒトラーの城下町のようなベルヒテスガーデンですが、変な噂も聞こえてきます。
近所のダウン症の子供が医療施設に行ったら、風邪で亡くなった・・とか、
1933年まで住んでいた2家族のユダヤ人は突撃隊(SA)の嫌がらせに堪えられず、
売り払うと、家屋と農場は破壊されて、ボルマンの庭になった・・など。

berghof-obersalzberg-alps-1936.jpg

オーバーザルツベルクへの散歩の途中、山荘へとやって来たヒトラーと出くわします。
大勢の人々の叫び声、彼らと一緒に喜んで腕を上げ、
「ハイル・ヒトラー」と立派に叫ぶことに成功。。

1930s Nazi Fuhrer Adolf Hitler Greeting Crowds at Obersalzberg.jpg

それにしても「ヒトラーの山荘」と一口に言いますが、実に様々な表現があります。
ベルヒテスガーデンにオーバーザルツベルク、ベルクホーフにイーグルズ・ネストなど、
種類が豊富でコンガラガッてきましたので、一度整理してみたいと思います。

ベルヒテスガーデン・アルプス山脈の一地域にあるのが「オーバーザルツベルク」です。
その山腹にあった「ヴァッヘンフェルト・ハウス」という別荘を気に入ったヒトラーが
1929年に買い取り、改築後の1936年から「ベルクホーフ」と呼ばれることとなって、
コレがいわゆる「ヒトラーの山荘」を指します。
そして近郊の町の名が「ベルヒテスガーデン」であり、
また1940年にボルマンがヒトラーの50歳を記念して、ケールシュタイン山頂に立てた
ティーハウスが「ケールシュタインハウス」で、
「イーグルズ・ネスト」という名称は、1945年に占領した米軍が名付けたものですね。

adlerhorst_berchtesgaden.jpg

そして遊びに来ていたヒトラー嫌いの祖父母も一緒にベルクホーフまでハイキング。
観光客で溢れかえり、山荘の写真を撮ろうと場所取りにやっきになっている人々。
すると突然、ヒトラーが現れ、イルムガルドを膝の上に抱きかかえます。
この時の写真は公表されなかったようで、
数10枚の写真が掲載されている本書にも載っていません。
そもそも「ヒトラーに抱きあげられて」というタイトルは日本版であり、
原題は「On Hitler's Mountain」でした。

それでも町に戻った彼女は、周囲から称賛を浴び、美貌の眼差しを受ける女の子となって、
彼女自身、心の中でヒトラーを好ましく思う感情が芽生えるのです。

Haus Wachenfeld.jpg

1938年になるとドイツ軍を熱狂的に歓迎しているオーストリア人の写真を見せられて、
ベルヒテスガーデン付近のオーストリア国境が開かれたことで、
「これからはパスポートがなくてもザルツブルクへ行けるよ」と喜ぶ父。

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しかし翌年のポーランド侵攻によって、34歳の父に招集令状が・・。
そして1941年7月、「フランスで総統の為に戦死した」という電報が届くのでした。

11月9日の「英雄記念日」の式典に出席し、ドイツ国歌に続いて、
ホルスト・ヴェッセル・リート」を右腕をいっぱいに伸ばして力強く唄うイルムガルド。
父を含む戦死者の名前が読み上げられた後、
私には戦友がいた。たった一人の親友だった」という
もの悲しい歌が演奏されると、我慢できずに泣き崩れます。

Irmgard Hunt fam.jpg

悲しいクリスマス・イブ。
ツリーの下の段ボール箱の中にはフランス製の美しい人形が2体。
サイズがぴったりのコートやドレスまで詰まったこのプレゼントの送り主は、
ベルクホーフのすぐそばに住んでいるエミー・ゲーリングです。
戦争で父親を失ったオーバーザルツベルクの子どもたちに、隣人としてプレゼント。
敬意を表して妹イングリッドの人形には「エミー」、
自分の人形にはゲーリング夫妻の娘の名である「エッダ」と名付けて可愛がるのでした。

Göring med hustrun Emmy och dottern Edda.jpg

小学校のクラスの席の近くにはアルベルト・シュペーアが座っています。
父親の軍需相と同じ名前で、愛想がよく、金髪をきちんと横分けにした「Jr」です。
山にいるナチエリートは平等を重んじ、地元の学校に通わせていて、
彼女の親友も一度、ボルマンの子どもと遊ぶように招待されたことも・・。
はにかみ屋のアルベルトJrもごく普通の子どもですが、唯一の違いは、
SSが運転するピカピカの黒いメルセデスに乗って通学しているところ・・。

Hitler, together with Albert Speer Jr. and Hilde Speer in the Obersalzberg, 1942..jpg

1944年、10歳になって「ユング・メーデル(少女団)」に入ります。
行進は退屈ですが、ドイツの女の子たちが同じ制服を着て一致団結しているという一体感、
そして姉としての権威を小さい妹に示すことが出来て大満足。
もちろん「総統は無敵であり、ドイツの唯一の救世主だと信じなければならない」
と、教え込まれるのです。

Winterhilfswerk.jpg

7月20日にはヒトラー暗殺未遂事件のニュースがラジオから流れてきます。
総統が奇跡的に助かったことを知り、安心する母。。
稼ぎ頭の父も亡くなり、生活も困窮、配給もギリギリです。
ある日には道路の上手に住んでいたSSの「霧の兵士」を昼食に招待し、
煙草と引き換えに丸太をストーブ用に割って欲しいとお願い。。
「霧の兵士」とは化学薬品で霧を作り、空襲からヒトラーの山荘を守る兵士のことだそうです。
もちろん未亡人にはSS兵も優しいですな。

Berghof Obersalzberg  color post cards.jpg

オーバーザルツベルクの劇場はヒトラーによって土曜の午後は無料開放され、
ゲッベルスが選んだ恋愛ものから家族向けドラマ、オペラといった映画が上映。
地下壕建設に従事している外国人労働者の劣悪な居住区を通り、
SSの衛兵所を抜けて、薄暗い簡素なホールに到着。
しかしまずは「ドイツ週間ニュース」から観て、戦局を理解しなければなりません。

Egaes Nest Hitler House.jpg

そして1945年4月25日、英爆撃機300機による空襲が始まります。
家に帰る途中で通り掛かったSSの運転手が呼びかけます。「早く乗れ!」
化学薬品は底をついていて「霧」を発生させることが出来ず、
対空砲の弾薬も尽き、山のナチス居住地はほとんどが破壊されてしまいます。

Berghof Under attack.jpg

その後は様々な噂が飛び交い、遂に総統が死んだことがハッキリすると、
人々の関心は、どこの国がナチスに取って代わるのか・・??
恐ろしいロシア人だけはゴメンです。。
SSが爆破しようとしていた兵舎のカーテンと寝具用の生地、黒と灰緑色の制服用布地、
そして山ほど蓄えていた黒いブーツは市民に配分されることとなり、
以後数年間、この地の女性たちはこれらSSの生地から作られたドレスやコート、
大きすぎるブーツを履いて過ごすことになります。

Berghof ss guard.jpg

ベルヒテスガーデンに進軍してきたのは恐れていたロシア軍ではなく、米軍。
付近のケーニヒス村に本部を設けていたケッセルリンク元帥は、
ヤーコブ群長の「降伏しましょう」という説得に同意し、
山岳隊の兵舎にいた国民突撃隊の少年たちも武器を置いて、すぐさま解散。
SS部隊も直接対決を回避するために山から去りますが、
あの優しい「霧の兵士」が家にやってきて、大好きだった父の私服を
母が与えるのを見ると、怒りを抑えられません。
しかし、大人の男女のタダならぬ関係は、まだ理解できないのです。

While the 101st Airborne liberated Berchtesgaden in 1945.jpg

米第101空挺師団に降伏後も、占領軍に何をされるかわかったものではありません。
略奪と強姦の噂のあるフランスとモロッコの分遣隊も同時に到着し、
16歳の女の子が米兵に輪姦されたという証言も・・。

Berghof after it was bombed on April 25, 1945.jpg

オーバーザルツベルクの廃墟からは大量の食糧や贅沢品が発見され、
イルムガルドもリュックを背負って略奪に向かいます。
ザルツブルクまでの未完成のトンネルの中にはゲーリングの専用汽車が止まったまま。
やっぱりシャンパンにコニャック、葉巻、トリュフなど極上の品々が・・。
ヒトラーの銀製食器類も市民によって盗み出され、秩序回復を図ろうとする米軍は、
「貴重な品々は返却しなければならない」と通知するものの、
彼ら自身が「記念品」と称して、略奪をしているのです。

Berghof Pattern Adolf Hitler .925 silver cocktail coasters.jpg

1946年10月、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪者に天罰が下ったことを先生が告げます。
すると前の席に座っていたベルンハルト・ザウケルが椅子から落ちて失神・・。
ニュルンベルクで父親とお別れをして、昨日戻って来たばかりだったのです。

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別の席に座っているギーゼラ・シュムントは明るくて活発な女の子。
彼女は7月20日事件の巻き添えで死亡したヒトラーの副官ルドルフ・シュムントの娘で、
アルムガルトとレナーテの双子は、フリッツ・ディートロフ・フォン・デア・シューレンブルクの姪。
シューレンブルクはベルリン警察長官代理として、事件に関与し、処刑された人物です。
まさしく第三帝国のカオスと化しているクラスですね。
それでも子供たちはそんなこと、たいして知りもしなければ、気にもしていないのです。

Fritz-Dietlof von der Schulenburg.jpg

アルプスの麓で育った少女の回想録ですが、
ご近所さんがヒトラーでは、「アルプスの少女ハイジ」のようには育ちません。
田舎の貧しい人たちが、なぜナチスを支持したのか。
彼らの生活にナチスがどのように関与していったのか。
カトリック教会とナチスの絶妙なバランスや、学校でのガスマスク訓練など、
興味深いエピソードが盛りだくさんで、ほとんど一気読みでした。
ナチスに馴染みのない女性でも読める回想録ですが、
ナチスに詳しいおじさんでも楽しめる回想録だと思います。



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独裁者の妻たち [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アンティエ・ヴィントガッセン著の「独裁者の妻たち」を読破しました。

先週、チトー関連の本を探していた際に見つけた2003年発刊の本書。
スターリン、ムッソリーニ、フランコ、毛沢東、チャウシェスク、ペロン、ホーネッカー、
チトー、ミロシェヴィッチという20世紀の独裁者の妻たちを描いたものだということですが、
チトーも含め、詳しく知らない面々にも惹かれて、早速、読んでみましたが、
読破後に驚くようなことが起こりました。

独裁者の妻たち.jpg

著者はドイツ人女性のようですが、「はじめに」では本書に欠けている名前として
最期にヒトラーの妻となった、エヴァ・ブラウンを挙げています。
しかし、近年の数多くの出版物を勘案して、彼女については断念したそうで、
このBlogでも、ヒトラー/ナチスの女性モノでは「エヴァ・ブラウン -ヒトラーの愛人-」筆頭に、
ナチスの女たち -第三帝国への飛翔-」、「ナチスの女たち -秘められた愛-」、
ヒトラーをめぐる女性たち」とかなり紹介していますから、
実はヒトラー関連が外されているのが本書を選んだ理由でもあります。

まずは「スターリンの妻たち」からです。
34ページに3人の女性が登場し、最初の妻、エカテリーナ・スワニーゼの生い立ちに、
スターリンがまだ小物の革命家「コーバ」として収容所からの脱走を繰り返し、
1907年、病によって25歳にして最期を迎えようとするエカテリーナに、
死んだら正教会の儀式に則って埋葬する・・という約束を残して去っていくコーバ・・。
奥さんの話だけでなく、旦那の政治的活動もシッカリと書かれているのがわかりやすいですね。
例えば、息子のヤーシャ(ヤーコフ)が1941年にドイツ軍の捕虜になるも、
スターリンは捕虜交換の提案に無関心。
自分を育ててくれた養父母が、自分の父親によって逮捕、処刑されたことを知ったヤーシャは
深い絶望に陥って、捕虜収容所の鉄条網に突進。
銃弾が雨あられと撃ち込まれて、彼の希望は叶えられるのでした。

The body of Yakov Dzhugashvili on barbwire in Sachsenhausen concentration camp.jpg

次の奥さんはナジェージダ・アリルーエワです。
まぁ、彼女については「スターリン -赤い皇帝と廷臣たち-」や、「対比列伝 ヒトラーとスターリン
とたいして変わらないですかね。問題は本当に自殺なのか・・?? ということです。

そして3番目の妻として、ローザ・カガノヴィチを紹介します。
1933年、54歳のスターリンは、側近のラーザリ・カガノヴィチの妹であり、野心家ながらも
栗色の髪、緑の目、鼻筋の通った魅力的な27歳のローザと知り合います。
数ヵ月後には結婚を申し込むスターリンに、チャンスを逃さないローザ。
ベッドでの愛人かつ、前妻の子供ワシーリーとスヴェトラーナに加え、
秘書ヨルカ・アンドレエブナの間にできた5歳のボリスの継母になることも心得ています。
しかし2年後の1935年には結婚生活に終止符が打たれ、
ローザは忽然と姿を消し、後にはこの結婚自体が否定されたということです。

rosa_kaganovich.jpg

次の独裁者はムッソリーニ
「賢明なる正妻」として紹介されるのはラケーレ・ムッソリーニです。
1890年生まれで、両親は貧しい小作農。
ムッソリーニと出会って、1910年に長女エッダを出産。
後に、外相チアーノの奥さんになる人ですね。
その後も子宝に恵まれ、旦那も「全国ファシスト党」を率いて1922年に首相に・・。
衝動的で無邪気なムッソリーニが浮気を繰り返していることは知りつつも、
愛する妻と子どもたちを捨てることは決してない・・と確信しています。
彼女が共著で書いた「素顔の独裁者―わが夫ムッソリーニ」という本があるんですね。

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1932年、国民の人気者「ドゥーチェ」の大ファンだった19歳のクララ(クラレッタ)・ペタッチが
ヴェネツィア宮殿の執務室に招かれ、愛人になることを承諾します。
それから2年間、ほぼ毎日のように逢引きを重ねますが、
ムッソリーニの助言もあって空軍少尉のリカルド・フェデリーチと結婚するものの、
1年後には母の手助けで愛するムッソリーニのもとへ現れ、
邪魔な空軍少尉は直ちに東京のイタリア大使館付き武官として旅立つことに・・。

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ムッソリーニが失脚して監禁されると、ペタッチ一家も逮捕されてしまいます。
しかしスコルツェニーの救出作戦と同時に、ラケーレと子どもたちもドイツ軍特殊部隊が解放し、
ペタッチ一家も数日後、刑務所から釈放されるのでした。
ここからはラケーレとクラレッタの直接対決など、以前に読んだ話となり、
誰がムッソリーニを処刑したか」のような展開で逃亡したムッソリーニとクラレッタは 
銃殺されてミラノで晒し者に・・。
本書ではクラレッタ本人というよりも、ペタッチ一家の野心について厳しめで、
1984年の映画、「クラレッタ・ペタッチの伝説」によって、
偉大な愛人という神話になったとしています。

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フランコの奥さん、カルメン・ポロは資産家で土地の有力者の両親の子どもとして生まれます。
17歳の時、慈善パーティで23歳のフランシスコ・フランコに出会い、
厳しい父親の反対もなんのその、北アフリカのスペイン外人部隊司令官となったフランコと結婚。
1936年に始まったスペイン内戦、1939年にフランコが勝利すると、
夫妻は住居をマドリード近郊のエル・パルド宮殿に決め、スッカリ改装させて優雅な暮らしを・・。

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「国家元首継承法」によってフランコが終身国家元帥としてスペインを統治した後は、
ブルボン家が国王として自分の後継者になることを定めたことで、
妻のカルメンは、国王の存在しない君主制下の統治者とは国王に等しい・・と考えます。
そして自らを王妃と見なして、宮殿にはスペイン中の宝物が運び込まれ、
催しの際にカルメンが登場する際には「王妃のマーチ」が演奏されます。
まぁ、貴族の娘ですから、こんなもんでしょうねぇ。。

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毛沢東の奥さん、江青は一筋縄ではいきません。
偉大な女優になるという野心溢れた16歳の少女は、演劇学校の校長と関係を持とうと決心。
その後、上海では著名な映画評論家に喰いついたかと思えば、次は映画監督。
しかし女優として華々しくデビューすることは叶わず、放り出され、
1937年に日中戦争が始まると共産党に入党し、演劇部門で働きます。

江青 藍蘋.jpg

そして出会った20歳年上の45歳の毛沢東。
政治局からは禁欲令が発せられて、快楽は悪徳とされていたこの時期に、
愛の経験豊かな江青の手にかかり、道徳観念はさっさと捨てて欲望に屈します。
1939年に結婚し、夫の個人秘書から、最終的には党のNo.4まで上り詰めた江青。
毛沢東の死後、死刑判決を受け、その後に無期懲役に減刑されるものの、
1991年に首つり自殺。
1958年には「大躍進」と呼ばれたキャンペーンは破局し、大飢饉が・・、
といった話も多く、なかなか勉強になりますね。
今度、「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災1958-1962」を読んでみようか。。

毛沢東 江青_1946.jpg

「ルーマニアのドラキュラ伯爵夫人」として登場するのは、エレナ・チャウシェスクです。
1989年当時、TVで見たベルリンの壁崩壊のニュースも印象的でしたが、
ルーマニアの大統領夫妻が銃殺されるシーンも、繰り返し流れましたね。
1916年、貧しい農家の生まれで、14歳で紡績工場の女工として働きますが、
ほどなく売春婦として副収入を得ることに・・。
1937年に共産党に入党してニコラエ・チャウシェスクと出会いますが、
戦争が始まるとニコラエは逮捕され、エレナは再び、昔の副業に手を染めます。
しかしドイツと共に戦ったルーマニアは1944年、ソ連に蹂躙され、
赤軍をバックに共産主義者のチャウシェスクは右肩上がりで出世を掴むのでした。

1960年代に子どもたちも大きくなると、博士号の肩書に執着するエレナ。
小学校すら満足に出ていないにもかかわらず、「イソプレンの特殊重合」といった
博士論文でチャウシェスク工学博士と呼ばれるように・・。
もちろん書いたのは、とある大学教授です。
その後も100以上の学術論文を発表し、1974年に夫が大統領に就任すると
外国旅行の際にはどこの大学が名誉博士号を授与してくれるのかが関心事。
学術教育制度国家評議会の総裁に加え、首相代理にも任命されて大満足です。

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1984年、多くの外国の首都を見てきた大統領夫妻は、首都ブカレストを
その名声にふさわしいものにしようと、巨大な政府宮殿「人民の家」の建築に着手。
7000もの部屋がある大プロジェクトに、2万人の労働者が3交替制で働きますが、
経済は衰弱の一途を辿り、全土が飢餓に苦しみます。

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そして1989年12月、現実を無視した政府に対して抗議の声が市民から上がると、
デモは膨れ上がり、大統領によるデモ隊への発砲命令も国防大臣と将軍らが拒否。
クリスマス、遂に夫妻は捕えられ、即決裁判で銃殺刑になるのでした。

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「エビータ」として知られるエバ・ペロンは、「貧者の聖母を演じきった女」として紹介。
やっぱり貧困の出で、ブレノスアイレスで女優を目指し、
1944年に24歳年上のファン・ドミンゴ・ペロンと知り合い、愛人に・・。
その後、大統領夫人となって、社会福祉制度の一環として「エバ・ペロン財団」を設立。
多くの病院や老人ホーム、孤児院などを建設しますが、
子宮ガンにより、33歳の若さで死去。

本書のまとめとしては慈悲を施す天使という表向きの顔とは裏腹に、
陰謀を巡らし、欲しいものはなりふりかまわず手に入れる女が隠れていた・・、
としていますが、それほど非難されるようには感じなかったですけどね。。

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東ドイツのボスということではウルブリヒトよりもホーネッカー議長の名を覚えています。
その奥さん、マーゴットは1927年生まれで、共産党員の父親は1933年に逮捕されて、
その後、ブッヘンヴァルト強制収容所送り、釈放後、第999懲罰大隊で西部戦線へ・・、
とマーゴットは語っているそうですが、著者はその信憑性を疑っています。
戦後、若くて綺麗な娘マーゴットはドイツ共産党へ入党し、
下心の見える視線を浴びつつ、幹部候補生のキャリアを歩み始めるのです。

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1953年にエーリヒ・ホーネッカーと結婚すると、旦那は政治局委員、
彼女には人民教育大臣というポストが与えられます。
そして1976年にエーリヒ・ホーネッカーが国家元首となり、
教育制度の全権を握るマーゴットは、東ドイツの子どもたちに
マルクス=レーニン主義に基づいた統制と二枚舌教育を実施するのでした。

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1924年、ボスニアとの境界に近いクロアチアの山村に生まれたヨヴァンカ。
16歳の時にドイツ/イタリア枢軸国が祖国を占領し、
ウスタシャの指導者アンテ・パヴェリッチが「独立国クロアチア」を創立し、
セルビア人やユダヤ人数十万人が民族浄化によって追放、殺害されると、
チトーをリーダーとした共産主義者はパルチザンとして立ち上がります。
1942年、そんなパルチザンに女性闘士として身を投じたヨヴァンカ。

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1945年、新たにユーゴスラヴィア連邦人民共和国が誕生し、
チトーはドナウ流域などの18世紀に入植したドイツ人の粛清に乗り出します。
ドイツ人の居住する何百という村々の一軒一軒にパルチザンが回り、
拷問の末、森へ連れて行って射殺。
両親を奪われた数千人のドイツ人の子どもたちは、収容施設で強制的に「スラヴ化」。
「チトーは君たちの父であり、国家は君たちの母である!」

1948年、チトーの愛する奥さんが27歳の若さで急死すると、
ベオグラードの白亜の宮殿で少尉として働いていたヨヴァンカに声がかかります。
それは偉大な元帥との一晩のお相手・・。
それ以降、必要な時に傍らに控え、スターリンと西側諸国を相手に激務に明け暮れるチトーに
安らぎを与える存在であり続けるヨヴァンカ。
1952年、ついに敬愛するチトーは彼女に求婚するのでした。

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ファーストレディとしてチトーの外国訪問にも付き添い、夫の良き助言者にまでなります。
本書に登場する妻たちのなかで、唯一、非の打ちどころのない女性ですね。
しかし1980年にチトーが死去すると、この多民族国家は瓦解を始め、
ヨヴァンカは自宅軟禁に・・。
25年間の華やかなファーストレディの生活の後、25年間も続く自宅軟禁です。
「私の治める国には、二種類の文字、三つの言語、四つの宗教があり、
六つの共和国の中に五つの国籍と八つの少数民族が存在する。
そしてわが国は七つの国々と国境を接している」というチトーの言葉。
映画「アンダーグラウンド」のラストシーンでもこのような言葉が語られましたね。

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と、ここまで書いて、本書のレビューの仕上げに入っていた昨日、
ヨヴァンカが88歳で亡くなったというニュースが。。
7月の「津山三十人殺し」の時にも読んでる最中に、
山口県周南市「5人連続殺人事件」が起こりましたし、今回もゾクっとしました。。
そもそも先週、突然チトーを調べたくなって、本書を知って、ヨヴァンカが一番印象的で、
そして彼女が亡くなってしまうというのは、どういうことなんでしょう。
もちろん単なる偶然だと思いますが、ご冥福をお祈りいたします。



最後はミロシェヴィッチ大統領の奥さん、ミリャナ・マルコヴィッチです。
チトーに続いてユーゴの独裁者ですが、1990年代のユーゴ内戦の時期ですね。
1942年にミリャナを出産し、2年後に裏切り者として殺されたパルチザンの母親。
黒い髪のぽっちゃりした少女に育ったミリャナですが、目立たず、友人もいません。
そんな学生時代、同じく友人もおらず、おそろしく退屈な奴と旧友から言われていた
スロボダン・ミロシェヴィッチと出会い、切っても切れない仲に・・。

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1965年に大学を卒業し、結婚。もちろん揃ってチトーの共産党員です。
ミリャナが舵を取り、スロボダンが汗を流す・・という完璧なタンデムで、
ベオグラードの党書記からセルビア共産党の議長に上り詰めた旦那に
ベオグラード大学でマルクス主義の講座を獲るほどのミリャナ教授。
1989年に大統領になるとコソヴォでのセルビア人とアルバニア人の紛争に介入し、
その後、全土で内戦へと発展。NATOによる空爆も・・。
国連の制裁下、彼らの周辺では闇取引で大金を儲け、汚職と賄賂が横行します。

ミリャナ自身も「ユーゴスラヴィア左翼連合」を結成して政治に介入し、
大統領の旦那は完全にチトーの後継者を自負する彼女の言いなりです。
1日に9回も奥さんに電話をかけ、しかも会話が政治問題になると
「可愛い子ちゃん」とか、「ミーちゃん」などと幼児語で。。

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この内戦の結果、大統領を退陣し、2001年に逮捕されたスロボダン。
オランダはハーグの戦犯法廷に引き渡されますが、
非難はされたものの、ミリャナは自由の身です。
原著は2002年ですから、スロボダンが2006年に独房で死亡したところまでは
当然ながら書かれていません。

原著のタイトルは「権力と契りを結んで」というものですから、
「妻」ではないクラレッタ・ペタッチが登場するのはOKですね。
285ページというソコソコのボリュームですが、非常に充実した一冊でした。
1900年代初頭のスターリンから、2000年のミロシェヴィッチまで、ほぼ時系列ですし、
なにより旦那である独裁者も生い立ちから、その独裁政治の様子まで
書かれているのが良かったですね。
同時代に生きた妻たち、例えばエレナ・チャウシェスクが江青と会ったり、
エバ・ペロンがカルメン・ポロと会ったり、妻たちの外交もリンクしてて楽しめました。

似たような本として、去年に出た「女と独裁者―愛欲と権力の世界史」があります。
こちらはムッソリーニ、レーニン、ヒトラー、スターリン、毛沢東、チャウシェスク。
読み比べてみるのも一興かも知れません。

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それにしても、おかげでまたいろんな本を読んでみたくなりました。
特に旧ユーゴはナチス・ドイツに興味が出る前から勉強しようと思っていて、
"ピクシー"・ストイコヴィッチの「誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡」と、
「悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記」は何度読んで、その都度、涙したことか・・。

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改めて、「図説 バルカンの歴史」を読んで勉強してみます。
それともう一冊、名著「ニセドイツ」の共産趣味インターナショナル VOL1である
「アルバニアインターナショナル」も読んでみようかな。。



















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従軍看護婦たちの大東亜戦争 -私たちは何を見たか- [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

従軍看護婦たちの大東亜戦争刊行委員会編の「従軍看護婦たちの大東亜戦争」を読破しました。

「女性と戦争」というテーマも度々、取り上げる独破戦線ですが、
ソ連や米国などの連合軍と違って、枢軸側はドイツも日本も戦地にはほとんど送られません。
しかし看護婦さんだけは別です。
本書は2006年に出版された296ページのソフトカバーで、
1977に刊行された「ほづつのあとに」という従軍看護婦の手記3部作を集約し、
時系列で編集し直した濃密な一冊です。

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巻頭ではまず、日本赤十字社社長の言によって、赤十字の歴史を簡単に紹介します。
1863年にジュネーブにおいて設立された「赤十字」の目的は、
「戦場において敵・味方の別なく、傷病者を救護する」。
そして日本では1877(明治10年)に博愛社が創立されて、その後、日本赤十字社へ。
日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と幾多の戦争に救護員を派遣します。
第2次大戦が終結するまでの8年間では、延べ35000名が派遣され、
救護看護婦の殉職者は1120名・・と想像以上に大変な数字ですね。

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第1章は「勃発 -それは中国大陸で始まった」と題して、3名の従軍看護婦の手記が掲載。
昭和12年の支那事変が勃発すると、全国に救護班員の招集がかかります。
駅前では壇に登って「万歳三唱」で送られますが、女の子にとっては結構、恥ずかしい。。
彼女が着いた先は「軍都・広島」。へ~、軍都って表現、初めて知りました。
病院船「春成丸」に東京、茨木、秋田、岩手の4個班が兵士や馬と共に乗船し、
上海を目指しますが、救護班の構成はおおむね医師1人、看護婦長1人、看護婦20名です。

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基本的には病院船上での勤務が彼女たちの戦場であるわけですが、
初めての戦地負傷者の包帯交換では、
「傷口からぼろぼろ、もりもりと蛆が出てくるのはぞっとした」。

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天津から20㌔足らずの第四兵站病院での勤務。
髭もじゃの負傷兵の片足をバケツに入れて丁寧に洗っていると、
その兵士は肩から切断された傷の包帯を押さえて、涙を流しながら小声で言います。
「家に帰ったようだ。こんなことはお袋しかしてくれないと思っていたのに・・」。
彼女は当たり前のことがどんなに大切なのかを味わうのです。

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昭和14年にはノモンハン事件が起こります。
日本軍は戦傷病者が続出し、急遽、ハルピンの大きな病院に派遣。
「今頃やって来て何事だ」とばかりの態度に続いて、病院長閣下にご挨拶。
廊下に看護婦10名が整列させられて、若い衛生下士官が大声で第1声を・・。
「貴様らは、体温の測定をどのようにするのか知っておるのか!」
本書は赤十字の看護婦が対象で、それとは別に衛生兵や軍属の看護婦もいるんですね。
しかし赤十字の彼女たちにも、徴兵と同じように「招集令状」が届くのです。

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第2章は「宣戦布告 -大東亜戦争への突入」です。
万国公法により、病院船は船名や船型を相手国に通知しておき、
全体を白く、さらに煙突及び甲板上へ赤い十字を表しておけば、
どんな海面においても襲撃を受けることはない・・となっているものの、
機雷も流れ、潜水艦も潜んでいる状況では、絶対安全とは言い切れません。

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そんなこともあってか、女性の乗った病院船は廃止しようとの意見も・・。
甲板での散歩でも付き添いが看護婦さんなら、話をしながら患者はいつもニコニコ。
しかし衛生兵と船員だけの女性のいない病院船では、
付き添っておれと命令を受けた衛生兵が、直立して傍らにいるだけ。
男同士が双方むっと顔を並べて・・。
前線の病院で女の病院船と決まると、患者たちが歓声を上げるのも無理はありません。。

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昭和18年、そんな病院船のひとつ「ぶえのすあいれす丸」がB-24の攻撃を受けます。
数千人の傷病兵が乗った一万㌧の巨体があっと言う間に沈没し、
看護婦たちも大海原へと放り出されます。
救命ボートで5日間も漂流し、大波に襲われて半分が犠牲に・・。
再び、コンソリー機(B-24)がやって来て、ボート目掛けて機銃掃射を繰り返し、
その超低空飛行の機体の中の米兵の笑っている顔までハッキリと・・。
「悔しくて、思わず『血も涙もない米機のヤツ』と叫んだ」。
13ページほどの手記ですが、これだけで1冊の本になりそうなほど印象に残りました。

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第3章「転進 -死屍累々の中での敗走」。
これまで20歳前後の若い看護婦さんの手記が中心でしたが、
満州戦線ではベテラン看護婦長の手記も出てきます。
陸軍病院で病名不明のまま死んだ患者の死体を解剖する婦長さん。
長い腸を開くと18センチ級の「回虫」が勢いよく飛び出します。
思わず「きゃー」と飛び上がり、軍医殿も駆け寄ってきますが、
「なあんだ。回虫じゃないか。婦長も悲鳴を上げる時があるのだね」。
私がそんな「マスラ女」に見えるのか・・と憤懣に堪えない婦長さん。。

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しかし「回虫」ってのは子供の頃に読んだ筒井康隆の強烈な短編がありましたし、
飛び出すっていうのも、映画「エイリアン」のチェストバスターを思い起こさせて、
どうも、弱いですよねぇ。
いつもだったらグロい回虫の写真でも載せるところですが、とてもそんな気には。。

そんな「マスラ女」婦長はある日、部隊長殿から精神訓話を求められます。
いかなる事態になっても慌てず、立派に大和撫子らしく、笑って死ねる決意の教育です。
以来、毎晩30分、1時間と、ギラギラ光る短刀の切っ先を見つめて
自らの心臓に突き刺せる確信が持てるまで精神統一に励み、
部下の看護婦たちにも「立派に死ねる覚悟を持ちなさい」と訓話するのでした。

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サイゴンではオランダ人の捕虜が防空壕掘りに駆り出されています。
そんな捕虜収容所からの患者も受け入れ、治療にあたる看護婦たち。
白の看護服も緑に染めて、壕に避難することも頻繁に・・。
あるオランダ兵は家族の写ったヨレヨレの写真を取り出し、何事かを話します。
言葉は解らなくても笑顔で頷くと、満足そうに微笑み、「サンキュー」。

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昭和20年4月、ミンダナオ島では空襲の激しさが増し、ジャングルの中を移動。
救護班は現地解散を言い渡されますが、男性上司が濁流に呑まれ、
いよいよ女性だけの集団に・・。
9月、死体のそばの飯盒を覗くと人間の皮膚らしきものが見られることも。
新しい死体はほとんど大腿筋や臀筋が切り取られています。
「私たちは兵隊の声を聞くと、木陰に身を隠した。人間が恐ろしかった」。

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看護婦の集団は徐々に人数が少なくなっていきます。
病死・・、川に流されて・・、美しく死に化粧をして自ら命を絶つ者・・。
死期が迫ったある看護婦は言い残します。
「私が死んだら絶対に兵隊の目が触れない所に捨ててください」。
・・いっぺん、女を喰ってみたい・・って言ってたヤツいましからねぇ。。

第4章は「焦土 -焼き尽くされる祖国」。
東京大空襲下の東大病院の様子が語られます。
若年用の看護婦寮は「弥生門」寄りにあって、火の手が迫っていますが、
ヴィトゲンシュタインはこの弥生門から5分くらいの所に住んでいます。
実は本書を読む前に「東京大空襲: 未公開写真は語る」という写真集を読みました。
去年、NHKスペシャルで放送した番組を写真集にまとめたものです。

東京大空襲  未公開写真は語る.jpg

続いてコレまた有名な「沖縄ひめゆり部隊の軌跡」が・・。
正規看護婦だけでは余りにも人数が不足していたことから、
沖縄県下の各女学校生徒に対し、一応の看護教育を施すとともに
陸軍軍属として従軍看護婦に任じた・・という経緯から語られます。
そして壕の入り口で看護に当たっていた3人の生徒は、
急降下してきた敵機の機銃を浴びて戦死。
その他の壕でも直撃弾によって生き埋め、あるいはガス弾によって・・。

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何度か映画されている「ひめゆり」ですが、一度だけ観た記憶があります。
たぶん、吉永小百合の「あゝひめゆりの塔」だと思うんですけどねぇ・・。

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まだまだ、広島、長崎の原爆投下に伴う、看護婦さんの戦いが続きます。
第5章「玉音」と、最後の第6章「抑留」では、各地で降伏した彼女たち。
米軍の捕虜となったフィリピンでは老若男女が集まって来て、
「ジャパニーズ、バカヤロー、ドロボー!」口々に罵り、投石する者まで・・。

満州では北から避難民に続いて、ソ連軍がやって来ます
当然、彼らの要求は、「看護婦を出せ」。
長髪を切って丸坊主となり、軍服を着用して男装。青酸カリも与えられ
万一の時には日本人として恥ずかしくない最期を遂げるように・・と訓示が。
陸軍看護婦、女子軍属も含めて100名以上の女性が残っていますが、
ソ連兵は移動の隊列にジープで接近し、若い見習い看護婦をさらっていくのです。 
「婦長殿助けて・・」と、暗闇に尾を引くような悲鳴・・。

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そしてウラジオストックから東京行き・・という船に乗せられると、そのままシベリアへ。
零下40℃にもなる炭坑作業のラーゲリは1万人が収容されています。
日本女性がやって来たことで兵士たちも興奮し、大騒ぎに・・。
ここの病棟で看護婦として働くことになった彼女ですが、
女性がシベリア送りになっていたなんて話は初めて知りました。

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前線のソ連女性を扱った、「戦争は女の顔をしていない」も印象的でしたが、
本書は単体で本になりそうな話が3つはありました。
ドイツの看護婦さんでも「アフリカ軍団」で2級鉄十字章を受章したイルゼ・シュルツなんて
回想録出してないのかなぁ・・。

裏表紙には、櫻井よしこさんのコメントが掲載されていました。
改めて読み返してみると、ここに集約されていますね。
「大東亜戦争は一体どんな戦争だったのか。
家庭では戦争世代の大人たちが口をつぐみ、
学校では日本を批判する歴史が教えられてきた。
本書にまとめられた従軍看護婦の方々の体験と想いから、
私たちは多くのことを知り、学ぶことが出来るはずである。
戦後60年を過ぎた今だからこそ、どうしても読んでほしい一冊である」。

「ほづつのあとに―従軍看護婦記録写真集」も再刊して欲しいですね。









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写真でみる女性と戦争 [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ブレンダ・ラルフ ルイス著の「写真でみる女性と戦争」を読破しました。

4月に出たばかりの興味深い342ページの一冊を紹介します。
このBlogでも「女性と戦争」というカテゴリーがあるだけに、
本書のタイトルと表紙を見ただけで、これはもう外せませんね。
また、「写真でみる・・」というタイトルだと、以前に
写真で見る ヒトラー政権下の人びとと日常」という本も紹介していますが、
あぁ、これも同じ原書房でしたか・・。

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第1章は「戦争準備と開戦」です。
「山本五十六提督はパールハーバー奇襲攻撃の立案者だったが・・」で始まる本文。
米国の女性は強い愛国心とともに行動した・・として、
1945年までに陸軍看護婦に5万7000人、陸軍婦人補助部隊(WAAC)に10万人が入隊と、
まるで「第二次大戦の連合軍婦人部隊」を思い起こさせる展開です。
しかしながら米国の世論調査では、女性が軍務に就くことには賛成でも、
自分の母親や姉、妹、妻、娘が軍務に就くことは容認できず、
兵士の手紙では、「入隊すれば離婚する」、
あるいは「縁切りする」という脅し文句も書かれます。

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こうして入隊した女性への誹謗中傷は執拗に続き、伝統主義者は
「軍の女性は妻や母としての務めを果たしていない」と批判。
先輩格である英国の海軍婦人部隊(WRENS)の隊員も、
「欲求不満の同性愛者」、「軍服を着た色情狂」と罵られ続けるのでした。

写真は2ページに1~2枚。白黒写真もありますが、綺麗なカラー写真も多く、
また、写真ではない募集ポスターも個人的に好きなので悪くないですね。

Women's Royal Naval Service (WRENS)_WrenLoadingBombs1942.jpg

そんなプロパガンダ・ポスターとして有名なのが「リベット工のロージー」です。
可愛らしい顔ながらも、捲り上げた袖に露わになった腕の筋肉と大きな拳、
顎をぐっと上げて肉体的な強さと意志の強さを感じさせる姿。
そして「わたしたちにはできる!(we can do it!)」という名言。

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米国内の造船所などでは働き手を募集し、多くの女性たちがロージーのように
リベット工、または溶接工として働くことになります。
なるほどねぇ。。建造と撃沈を争うデーニッツ目線で読むと、なんとも言えません。。

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アラバマのレッドストーン兵器廠では「女性製造戦士」を配属し、
1944年には兵器製造ラインの50%以上が女性に・・。
数名の女性監督官が生まれますが、まだまだ黒人差別という問題も存在します。
ここまで100ページ、著者は英国女性のようですが、米国女性の話が中心で、
英国のランドガール(婦人農業部隊)が「木こり娘」と呼ばれていた話や、
ドイツではレニ・リーフェンシュタールが紹介される程度です。

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第4章は個人的なお楽しみ「看護婦の役割」です。
赤十字看護婦が募集に応じて入隊する「陸軍看護部隊」の看護婦が
米軍に従属する看護婦となったようで、その数、5万名です。
彼女たちは航空機によって後送される負傷兵を速やかに治療するなど、
この戦争での新しい任務にも従事するのでした。
しかしわずか479名の「黒人看護婦」には、白人負傷兵の介護をすることは許されません。

Join_the_U_S__Cadet_Nurse_Corps.jpg

一方、ドイツの看護婦さんはどうかというと、「恐ろしい計画に携わった者がいた」として、
10万人以上の身体障害者や知的障害者が殺された「安楽死計画」を取り上げ、
積極的に、またはやむを得ず協力した・・と紹介します。
ど~も、本書は枢軸国に対して悪意を感じますね。。

Swearing in of Red Cross volunteers​..jpg

第5章は「軍で働く」です。
まずは1942年2月、ビルマの首都、ラングーンから撤退する英軍と
それに同行する婦人補助部隊300人の話。
南西太平洋戦線では米軍の占領地であろうとも、抵抗する日本軍の兵士に
襲われる危険性があるため、現地の司令官は婦人部隊の派遣には難色を示します。
しかしそれでもやって来る婦人部隊員。外出の際には2名の男性兵士が護衛に・・。

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ソ連の女性兵士ではリディア・リトヴァクリュドミラ・パヴリチェンコの名も・・。
また、ドイツではハンナ・ライチュ、まぁ定番ですか。

英国の空軍婦人補助部隊の任務は様々ですが、パイロットとの無線通信もその中のひとつ。
特にドイツ語が堪能な隊員は、ドイツ夜間戦闘機の無線交信に割り込み、
味方を装って、ニセの情報や指示をドイツ軍パイロットに与えるのです。

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第6章は「情報戦と女性諜報員」。早い話、「女スパイ」ですね。
英国の特殊作戦執行部(SOE)がヨーロッパ諸国へ送り込んだ女スパイは39名。
彼女たちはドイツ軍占領下でゲシュタポの目をくぐり抜けながら任務を遂行するわけですが、
フランス軍兵士だった夫を亡くしたヴィオレット・ザボーは、
隠れ家を取り囲んだゲシュタポと銃撃戦を繰り広げた挙句に逮捕され、
拷問を受けた後、ラーヴェンスブリュック強制収容所に送られ、1945年に処刑。
仲間に関する情報は決して口にしなかった・・と、1947年にジョージ6世から
ジョージ・クロスを娘のタニアが受け取ったそうです。

Violette-Szabo_GeorgeCross.jpg

この話は特に印象的ですが1958年(1957年?)に映画になっていました。
日本でも「スパイ戦線」という邦題で公開されているようです。
ご存知の方、いますか??

CARVE HER NAME WITH PRIDE 1958.jpg

その他は、有名な「東京ローズ」に、過激なユーゴの女性パルチザンの写真では、
「女性もドイツ人を容赦なく殺害した」。

続いて第7章は「捕虜と囚人」です。
シンガポールの劣悪な環境のチャンギ刑務所。
数世紀にわたってアジア諸国を抑圧してきた英仏蘭の商人や農園経営者、
そしてその妻や子供らが日本軍に捕えられ、鞭打たれる番になります。
この刑務所の最初の所長は優しい人物で、子供にはお菓子を分けてあげることも・・。
しかし部下から反逆罪で告発されて死刑。。
その後は恐ろしい日々が続きます。
特に「朝鮮人の看守はひどく野蛮で・・」という話は、まるでナチスの収容所で、
ラトヴィア人やウクライナ人看守らが残酷だったのと同様な気がしましたね。

ww2_poster_this_is_the_enemy.jpg

日本兵が女性を殺害し、強姦する姿を描いた米国のプロパガンダ・ポスターを掲載しながら、
1941年のクリスマスに香港を占領した日本兵が、3人の英国人看護婦を強姦した例も
挙げますが、基本的に日本人は「白人」を四流民族と見なしていたから、
彼女たちと肉体関係を持つことは日本民族の沽券に係わる・・、
また、伝統的に母親と子供を大切にする日本人は、子供を持つ女性を強姦しない・・、
などと書かれる一方、子供を持たない女性やアジア人女性を多数強姦し、
殺害することもあったとしています。朝鮮人をはじめとする女性が兵士の相手をする
「慰安所」についても触れていました。

最近、橋下徹市長が「従軍慰安婦」発言でいろいろと賑わし、
「河野談話」など、旧日本軍の過去についてはTVでも掘り下げていますが、
「米軍、英軍、フランス軍、ドイツ軍、旧ソ連軍、その他の軍においても・・」
という発言を聞くと、過去に読んだ「1945年・ベルリン解放の真実 戦争・強姦・子ども」、
ナチズムと強制売春」、「パリ解放 1944-49」などを思い出しますね。  

1942 This_is_the_Enemy_US.jpg

収容所といえばナチス・ドイツ・・。
「ブッヘンヴァルトの魔女」と呼ばれたイルゼ・コッホについて詳しく書かれていますが、
彼女の写真が無い代わりに、ベルゲン・ベルゼンの女性看守たちの裁判写真が・・。
中央で睨みを利かすのはイルマ・グレーゼですね。
やっぱり、ドイツは女性でも悪人しか登場しません。悪意を感じるなぁ。。

Irma Grese_9.jpg

対独協力者として、見せしめに丸刈りにされたフランス女性の写真も
「レジスタンス組織は厳しく罰した」というキャプションのみ。。
彼女たちの立場について、もう少し言及しても良いのではないでしょうか。

Resistance marseille.jpg

後半の第8章は「ジャーナリスト」です。
1940年にヘミングウェイと結婚したマーサ・ゲルホーンといった女性ジャーナリストらの
戦地での活躍を写真と共に紹介しますが、
「米国社会に息苦しさを感じ、もっと自由で刺激的でスリルを求めて、
戦争が行われているヨーロッパへ渡った。そして多くの女性ジャーナリストが
戦地で活動するために結婚生活を犠牲にした」ということです。
正直言って、自分で好きでやってるんだから、結婚生活が破綻しようが、
離婚しようが、知ったことか!って感じですがね。

Ernest Hemingway_Martha Gellhorn.jpg

ヘミングウェイとマーサ・ゲルホーンの話も去年に米ドラマで製作されていました。
ちょうど6月22日にWOWOWで放送。「私が愛したヘミングウェイ」というタイトルです。
ゲルホーン役はニコール・キッドマン、ヘミングウェイはクライヴ・オーウェン・・。
う~ん。どうするかなぁ・・。
ヘミングウェイの小説は読んだことが無いんですが、「武器よさらば」や
「誰がために鐘は鳴る」、「老人と海」といった映画は良かったですからねぇ。。

clive-owen-nicole-kidman-hemingway-and-gellhorn.jpg

第9章は「娯楽と慰安」。
緊張状態に置かれた兵士や民間人を楽しませるために、
映画俳優や歌手などが慰問活動を繰り広げます。
英国の国防義勇軍補助部隊(ATS)の女性によるダンス・バンド。
あ~、グレン・ミラーも慰問でヨーロッパ行って、死んでしまいました。

ATS dance band.jpg

米国慰安協会の一員として精力的に活動したマレーネ・ディートリッヒ
あの「リリー・マルレーン」の歌詞と共に大きく取り上げられます。

Marlene Dietrich_hospital on the Italian front in May,1944.jpg

戦前に24本の映画に主演しながらパッとしなかったベティ・グレイブルは、
戦争が始まるとともに、ピンナップ・ガールとして大人気に・・。
兵士たちがロッカーやベッドの上に彼女のピンナップを貼ったのは、
彼女の性的な魅力だけでなく、懐かしい故郷や近所の娘、
母親のアップルパイを思い出させる雰囲気を持っていたからということです。

betty-grable-world-war-ii-pin-up-1943.jpg

こうして最後の第10章「戦争が終わって」。
ヨーロッパ戦線の駐屯地でもあった英国では、
大らかで魅力的な米軍兵士と結婚して移住した英国人女性が7万人。
カナダ軍兵士と結婚したのが4万8000人。
戦後の日本での恋人の米軍兵士と過ごす日本女性の写真で終わります。

us-soldier-giving-japanese-girl-a-bicycle-ride.jpg

まぁ、本文の内容はこのように米国中心で、補足的に英国と
西側連合国の「女性と戦争」といった一冊でした。
個人的にはもうちょっとドイツと日本、ソ連なども欲しかったですし、
記述も女性的過ぎる気もしますが訳者さんも女性だし、しょうがないところでしょう。
逆に言えば、戦時下の米英の女性たちを知りたい女性にはうってつけかも知れません。











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