大虐殺 - リディツェ村の惨劇- [第二次世界大戦ブックス]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
ジョン・ブラッドレー著の「大虐殺 - リディツェ村の惨劇-」を読破しました。
「暁の七人 -ハイドリッヒの暗殺-」でも触れられた、数あるナチス/ドイツによる大量虐殺でも
有名な事件の全貌です。200ページほどですが、
当時のチェコスロバキアの政治情勢から英国などとの関わり、
国内の一般市民から地下組織の様子、さらには駐屯するドイツ軍と
なかなか知ることの出来なかった情報が信じられないほどの多数の写真とともに
コンパクトに収められた強烈なインパクトがある名著です!
まずはこのリディツェ村の惨劇が起こるキッカケとなったハイドリヒの暗殺までの過程を
英国の亡命政府を中心に追い、ヤン・クビシュ、ヨゼフ・ガブチックの暗殺実行も
ダイジェスト的に説明しています。
このチェコ(ベーメン・メーレン保護領)の内務大臣(国務相)を務める
カール・ヘルマン・フランクSS中将がこの本の中心人物で、総督ノイラート男爵の元で、
その後ノイラートが「病気」のために送られてきたハイドリヒ副総督の死後も、
その後任には秩序警察長官クルト・ダリューゲSS上級大将が登場と
野心はあるものの、なかなかヒトラーに認めてもらえない程度のしょうもないオヤジです。
1942年6月9日、ベルリンでハイドリヒの葬儀が行われた、その翌日、
ヒトラーからの命令があったとするフランクの指示により、
プラハのゲシュタポ地方本部長ホルスト・ベームSS大佐率いる一団によって
総統命令の名の下に、 リディツェ村の16歳以上の男性173名が銃殺され、
185名の婦人が強制収容所送りとなり、母親から引き裂かれた104人の子供は選別されて
「アーリア化」されるためにドイツ、或いはドイツ人家庭へ送られてしまいます。
この104人のうち、戦後チェコスロバキアに帰れたのはわずか16人だそうです。
この虐殺の様子は非常に具体的に、生々しく描かれており、
例えば、銃殺隊は10人1組の3組に分かれて銃殺を行い、50名を銃殺した後、
アルコールで気分を沈め、続行を断った3名の隊員は予備隊員と交換となったなど・・。
この大量虐殺の方法についてですが、このような銃殺はSS隊員の精神的負担が
問題となっていました。
そこで安易な方法として編み出されたのが、アウシュヴィッツでも使用された
毒ガスによる大量虐殺です。
死体の処理をするのは、このリディツェ村にしても、強制収容所にしても
ユダヤ人などの囚人たちです。
「リディツェ村を地図からも抹消し、形跡も残さず真っ平らにすべし」との
ヒトラー命令があったとのことから、フランクは1943年の3月までかけて徹底的に破壊し、
新しい道路、小川の流れを変え、放牧場と原野へと完全に姿を変えてしまいます。
リディツェ村の大虐殺から1週間後、クビシュ、ガブチックの暗殺実行者たちも
仲間の裏切りにより、隠れていた教会でSS部隊との壮絶な銃撃戦の末、
全員、自殺をとげることとなります。
結局、リディツェ村はハイドリヒの暗殺の真犯人を挙げられないドイツ側の焦りと
真犯人に対して無関係な市民を虐殺してプレッシャーを与えるという
ことだけで、実行されたようです。。。
その意味では「仲間の裏切り」という成果はあったのでしょう。
この本でも「なぜリディツェ村が対象となったのか」については必ずしも明確ではなく、
潜入した亡命チェコ兵士を匿ったらしい手紙に住所が書かれていた・・という程度で
もっとも、フランクにしてみれば、そんなのが事実かどうかは二の次だったのでしょう。
そのフランクは戦後、裁判にかけられるわけですが、彼の供述も所々に出てきます。
そして1946年、プラハにおいて絞首刑に処せられますが、
その鮮明な写真が突然デカデカと出てきて、ビックリしました。
現在、リディツェ村の跡地にはモニュメントが建てられています。
なかなか綺麗な状態のものが見つからなかったのですが、
今回は900円で良いものを手に入れることが出来ました。
ジョン・ブラッドレー著の「大虐殺 - リディツェ村の惨劇-」を読破しました。
「暁の七人 -ハイドリッヒの暗殺-」でも触れられた、数あるナチス/ドイツによる大量虐殺でも
有名な事件の全貌です。200ページほどですが、
当時のチェコスロバキアの政治情勢から英国などとの関わり、
国内の一般市民から地下組織の様子、さらには駐屯するドイツ軍と
なかなか知ることの出来なかった情報が信じられないほどの多数の写真とともに
コンパクトに収められた強烈なインパクトがある名著です!
まずはこのリディツェ村の惨劇が起こるキッカケとなったハイドリヒの暗殺までの過程を
英国の亡命政府を中心に追い、ヤン・クビシュ、ヨゼフ・ガブチックの暗殺実行も
ダイジェスト的に説明しています。
このチェコ(ベーメン・メーレン保護領)の内務大臣(国務相)を務める
カール・ヘルマン・フランクSS中将がこの本の中心人物で、総督ノイラート男爵の元で、
その後ノイラートが「病気」のために送られてきたハイドリヒ副総督の死後も、
その後任には秩序警察長官クルト・ダリューゲSS上級大将が登場と
野心はあるものの、なかなかヒトラーに認めてもらえない程度のしょうもないオヤジです。
1942年6月9日、ベルリンでハイドリヒの葬儀が行われた、その翌日、
ヒトラーからの命令があったとするフランクの指示により、
プラハのゲシュタポ地方本部長ホルスト・ベームSS大佐率いる一団によって
総統命令の名の下に、 リディツェ村の16歳以上の男性173名が銃殺され、
185名の婦人が強制収容所送りとなり、母親から引き裂かれた104人の子供は選別されて
「アーリア化」されるためにドイツ、或いはドイツ人家庭へ送られてしまいます。
この104人のうち、戦後チェコスロバキアに帰れたのはわずか16人だそうです。
この虐殺の様子は非常に具体的に、生々しく描かれており、
例えば、銃殺隊は10人1組の3組に分かれて銃殺を行い、50名を銃殺した後、
アルコールで気分を沈め、続行を断った3名の隊員は予備隊員と交換となったなど・・。
この大量虐殺の方法についてですが、このような銃殺はSS隊員の精神的負担が
問題となっていました。
そこで安易な方法として編み出されたのが、アウシュヴィッツでも使用された
毒ガスによる大量虐殺です。
死体の処理をするのは、このリディツェ村にしても、強制収容所にしても
ユダヤ人などの囚人たちです。
「リディツェ村を地図からも抹消し、形跡も残さず真っ平らにすべし」との
ヒトラー命令があったとのことから、フランクは1943年の3月までかけて徹底的に破壊し、
新しい道路、小川の流れを変え、放牧場と原野へと完全に姿を変えてしまいます。
リディツェ村の大虐殺から1週間後、クビシュ、ガブチックの暗殺実行者たちも
仲間の裏切りにより、隠れていた教会でSS部隊との壮絶な銃撃戦の末、
全員、自殺をとげることとなります。
結局、リディツェ村はハイドリヒの暗殺の真犯人を挙げられないドイツ側の焦りと
真犯人に対して無関係な市民を虐殺してプレッシャーを与えるという
ことだけで、実行されたようです。。。
その意味では「仲間の裏切り」という成果はあったのでしょう。
この本でも「なぜリディツェ村が対象となったのか」については必ずしも明確ではなく、
潜入した亡命チェコ兵士を匿ったらしい手紙に住所が書かれていた・・という程度で
もっとも、フランクにしてみれば、そんなのが事実かどうかは二の次だったのでしょう。
そのフランクは戦後、裁判にかけられるわけですが、彼の供述も所々に出てきます。
そして1946年、プラハにおいて絞首刑に処せられますが、
その鮮明な写真が突然デカデカと出てきて、ビックリしました。
現在、リディツェ村の跡地にはモニュメントが建てられています。
なかなか綺麗な状態のものが見つからなかったのですが、
今回は900円で良いものを手に入れることが出来ました。
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