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白い死神 [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ペトリ・サルヤネン著の「白い死神」を読破しました。

先日の「流血の夏」を独破後に偶然発見した、今年3月に出たばかりの263ページの本書。
1939年から翌年の「冬戦争」で、542名のソ連兵を狙撃したという史上最強のスナイパー、
フィンランド人、シモ・ヘイヘを描いたものということで、早速、購入。
表紙は劇画調で一瞬「コレ、ひょっとしてマンガ??」という「ヒトラーを操った男」と同じ展開・・。
このヘイヘ(Häyhä)という発音は難しいようで、以前紹介した「雪中の奇跡」では
「ハイハ」となっていて、「ソ連兵219人を倒した狙撃手」と書かれてましたが、542名というのは・・?
ヴィトゲンシュタインが個人的に大好きなスナイパー物は、映画「スターリングラード」の原作、
鼠たちの戦争」以来ですが、ノンフィクションとなるとあの強烈だった
最強の狙撃手」以来となりますから、これはもう楽しみです。

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本書はまずはシモ・ヘイヘの生い立ちを簡単に紹介します。
農夫の息子として生まれた彼は兄弟姉妹の多い大家族のひとりで、
17歳で民間防衛隊に入隊。1925年から15ヵ月間の兵役義務も自転車大隊で過ごします。
この新兵訓練は第1次大戦でドイツ軍に訓練を学んだイェーガー隊による過酷なモノですが、
農場での労働と民間防衛隊で鍛えていた彼にはたいしたものでもなかったようです。
その民間防衛隊ではロシア製のモシン・ナガンに親しみ、射撃大会にも参加。
練習では1分間に16発を放ち、同じ数を標的にも当てて注目され始めるのでした。

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また、小銃だけではなく、フィンランドで開発されたドラム型弾倉の短機関銃、
スオミKP/31の扱いでも卓越した能力を発揮していたということです。
こうして1939年冬、攻め込んできた「ロシア野郎」を追い払うため、民間防衛隊の制服を着込み
小銃を担いだ33歳の予備役兵長の彼は、臨時招集の再訓練に向かうのでした。

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第6中隊に配属されたヘイヘ。12月21日にはこの日だけで25人のソ連兵を屠り、
この3日間だけでもその数は51人に上ります。
しかしこれはヘイヘだけの幸運ではなく、他の戦区では44発で41名のソ連兵を倒した猛者も・・。
ソ連兵はすでに死体が山と重なる場所へ飽きもせずに現れ続け、あまつさえ、密集隊形を組んで、
フィンランド軍陣地に進軍・・。4列縦隊で進んでくる兵士たちを根こそぎ倒し、
断末魔の悲鳴が響き続けるなか、神経をやられて撃てなくなるフィンランド兵も出てきます。

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確認戦果が136名になると、上官の中隊長ユーティライネン予備役中尉から
恐ろしく腕の良い敵の狙撃兵の排除を依頼されます。
スコープを使わず、単純なオープンサイトの小銃を使うヘイヘ。射撃時にスコープを覗くほど
頭を上げずに済み、レンズの光が相手に届くことも防げるというのがその理由です。

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160cm程度の身長で物静かなヘイヘに対して、ユーティライネン予備役中尉は
「モロッコの恐怖」の異名を持つ、気性も激しい大男で、まさに好対照です。
そしてその男が語るフランス外人部隊でのエピソードを部下たちが
興味深く聞くシーンは印象的でした。

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コッラー戦線でのヘイヘとその中隊の奮戦の様子が続きます。
ヘイヘの超人的な狙撃シーンもありますが、それはあくまで戦闘の一部でしかありません。
年も明けた1940年の1月、敵の射撃統制所からヒョコヒョコ突き出しては消える
双眼式潜望鏡の存在に業を煮やした第5中隊は名案を思いつきます。
「シモ・ヘイヘを呼ぼう」。
すっかり第12師団のなかでも有名人となった「コッラーの脅威」こと下級軍曹ヘイヘ。
師団長スヴェンソン大佐からは、「小銃のみで219名、さらに短機関銃でも同数の戦果」を讃えられ、
スウェーデンから寄贈された見事な小銃が贈られることに。

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3月にはソ連軍の攻撃も激しさを増し、至近距離での激戦が・・。
1日がまだ半分過ぎたところだというのにヘイヘが殺した敵兵は40名。。
そして遂にヘイヘは敵の炸裂弾を顔に受け、左頬を吹き飛ばされてしまうのでした。
しかし護送された病院で休戦の報がもたらされて、ヘイヘの戦いも終わりを告げます。

Simo Häyhä.jpg

ヘイヘは「コッラー十字章」と「第一級自由章」を受章したということですが、
前者はドイツ軍で言うところの「デミヤンスク・シールド」や「クリミア・シールド」のような感じですか。
「第一級自由章」というのは、「制服の帝国」でデメルフーバーSS中将が
「お情けで貰った」と書かれていたヤツと同じようですね。

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結局、本書によると狙撃銃での戦果はやっぱり219名で、連射式の火器で300名強、
合計、542名・・ということですが、著者からインタビューを受けたヘイヘは
連射式の火器による戦果は拡張されていると語っています。
しかしスナイパーの戦果はスナイパー・ライフル(狙撃銃)によるものでなければいけないのか・・?
ということは考えたことがないのでなんともわかりません。
戦争で敵兵を殺す(戦果)のに、なんの武器を使ったのか・・が問題なのかという気もしますが、
最強のスナイパーは?となると、そういうわけにもいきませんか。。

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また、「ウラー!」と叫んで、怒涛のように向かってくるソ連歩兵を片っ端から撃ち殺す・・
というシチュエーションは独ソ戦記でも御馴染みですが、
平気で1日に30人も殺していたヘイヘは、ある意味、コレ以上ない絶好の敵を相手に
戦果を挙げ続けたとも言えるのではないでしょうか。

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帯には「敵兵を屠った数、世界一!」と書かれていますが、武器がなんでも良いのなら、
ソ連戦車500両を屠ったシュトゥーカ大佐のルーデルは、仮に1両につき2名を殺したとしても
1000人の敵兵を屠っているという計算になるわけで、さすが「ソ連人民最大の敵」です。

また、U-47のプリーンは戦艦ロイヤル・オークを撃沈し、英海軍将兵800余を屠っています。
まぁ、もちろん、パイロットや戦車乗り、Uボート艦長の戦果は人数では表しませんが、
逆に人数を戦果とするのはスナイパーだけ・・。
機関銃で殺しまくった一般歩兵は、人数のカウントはしないんでしょうか?

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最後のページにはオマケとして「第1次大戦」、「第2次大戦」、「朝鮮戦争」、
「ベトナム戦争」ごとのスナイパー一覧が掲載されていました。
「第2次大戦」部門ではヘイヘの542人がトップですが、
その後は500人から400人のソ連スナイパーが10名続きます。
あの映画「スターリングラード」のヴァシリ・ザイツェフさえ、400人で13位、
ドイツ軍では、エルヴィン・ケーニッヒが同じく13位、ハインツ・トールヴァルト300人などと
エド・ハリスが演じた実在したのかどうかがハッキリしない同一人物も堂々ランクイン・・。
ソ連のスナイパーの戦果もプロパガンダ色が濃くてかなり怪しい・・と思ってます。

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世間一般的にドイツ軍では、345名のソ連兵を屠ったマティアス・ヘッツェナウアーが第1位。
257名のヨーゼフ・アラーベルガーが第2位とされていますが、
このアラーベルガーが、あの「最強の狙撃手」でしたね。
しっかし・・、この本、いま書いてる時点で10万円超えてます。なんで??

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本書はフィンランド軍好きなら読んでおかねばならない一冊ですが、
純粋なスナイパー物を求められると、ちょっとキツイかも知れません。
もともと映画「ジャッカルの日」を観て以来(ゴルゴ13ではないですよ・・)のスナイパー好きで、
フォーサイスの原作やスティーヴン・ハンターの小説もかなり読んできましたが、
本書のようなスナイパー・ノンフィクションがもっとあっても良いんじゃないでしょうか?
例えば史上最強の女スナイパーで本書でも触れられているリュドミラ・パヴリチェンコなんて、
女エース・パイロットのリディア・リトヴァクを超えている気がしますし、
充分一冊の本になると思います。











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ナチスの女たち -秘められた愛- [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アンナ・マリア ジークムント著の「ナチスの女たち -秘められた愛-」を読破しました。

2009年発刊で2巻組みの、この「ナチスの女たち」は、2年前にボルマンの奥さんや
ユニティ・ミトフォード、ハンナ・ライチュらが紹介された「-第三帝国への飛翔-」を
独破済みですが、なんといってもリナ・ハイドリヒが出ていたのがアッチを購入した理由でした。
本書はゲーリングの2人の奥さんにゲッベルスの奥さん、レニ・リーフェンシュタールと
ゲリとエヴァ、「ヒトラーをめぐる女性たち」を書いたヘンリエッテ・フォン・シーラッハ・・
というかなりメジャーな人選です。
彼女たちについてはソコソコ読んでいるのもあってパスしていましたが、
実は最近興味のあった「全国婦人指導者」のゲルトルート・ショルツ=クリンクが出ている・・
ということに気がついたので、早速、購入して読んでみました。

ナチスの女たち -秘められた愛-.jpg

最初はカリン・ゲーリングからです。
新婚早々、「ミュンヘン一揆」でゲーリングが銃弾を受け、イタリアなど国外を転々としながら
モルヒネ中毒になってしまった旦那を介護するカリン。
そして彼女自身も心臓を患い、余命幾許もない・・といういつもながらの悲しい展開。。
主に「ゲーリング」など過去に読んだものと特に変わりはありませんが、
このゲーリングが最も辛かった時期に彼を支えたカリンを死後も愛した・・ということを
改めて理解できました。

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ゲーリングの2番目の妻、エミーの章では、亡妻をいまだ愛する夫が
カリンハルと名付けた別荘に、ヨットにもカリンⅠ号、Ⅱ号などと付けたのは有名ですが、
実はエミーの名を付けたものもあったそうです。
それは「エミーハル」と呼ばれるようになった、つつましい「狩猟小屋」。。
コレは女性にとってどうなんでしょうかね。。エミーは喜んだんでしょうか?

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1930年にゲッベルスの個人資料係となり、その一年後に11歳のヒトラー・ユーゲントの息子、
ハーラルトを連れて上司と結婚したマグダ(本書ではマクダ)・ゲッベルス。
その後3回の流産を含め、19年間に10回妊娠して7回出産と、ナチ信奉の女性らしく大忙しです。
「総統にささげた子供たち」による母親十字章の初叙勲者であるというのは初めて知りました。

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開戦後は律儀に戦時徴用に服し、招待客に対しても食料配給券を出すよう強要した・・そうですが、
健康帝国ナチス」でも、ニシンと茹でたジャガイモを食べ続け、客にも平気でソレを・・
と書かれていたのは、こういう理由からなのかも知れませんね。

レニ・リーフェンシュタールは、「意志の勝利」と「オリンピア」という2つの映画の撮影秘話と
ヒトラーと宣伝大臣ゲッベルスとの関係。そして彼女自身がナチ崇拝者だったのか・・?
という内容で進みます。

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個人的に本書のメインであるゲルトルート・ショルツ=クリンクの章はジックリ読みました。
1902年生まれの彼女は19歳の時にナチ党共鳴者のオイゲン・クリンクと結婚し、
党の社会福祉活動・・すなわち、SA隊員の炊事を引き受け、同志の子供たちを保育し、
針仕事にも精を出します。
しかし、旦那はデモ中に心臓発作で死亡。その後、バーデン地方の大管区女性部長として、
党の行事にも演説者として登場するほどに・・。

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1932年にはギュンター・ショルツと再婚し、内務省に招かれて、「女性労働奉仕指導者」となります。
2年後には「全国婦人指導者」としてナチの女性機関すべての最高責任者に任命。
張り切る彼女は、全ドイツ人女性を管轄することを要求しますが、そうは問屋が卸しません。。。
女性に優しいナチ党は、本来女性蔑視であり、女性の社会進出は望んでおらず、
党の幹部という地位にも女性の入り込む余地はないのです。

Munich Germany November 9, 1938 during the remembrance of the Putsch13.jpeg

結局のところ、労働戦線のロベルト・ライは働く女性も統括することを要求し、
ヴァルター・ダレは「全国栄養部会」に農民女性の返還を請求し、
シーラッハも「ドイツ青年女性同盟(BdM)」を自分の勢力圏から離脱させる考えもありません。

「我が闘争」を福音書と思い込み、ローゼンベルクと文通して「20世紀の神話」も学ぶゲルトルート。
火の如き熱意をもってナチのイデオロギーを実践に移すため、会議から会議、
数限りない講演をこなし、「ドイツ民族の勤めと奉仕による女性の民族水準の高揚」を訴えます。
しかし、ナチ党に情熱を傾け過ぎるあまり、旦那に非難されて離婚・・。
さらに党の要人の妻たちは演説に来ないばかりか、出版物も読まず、距離を取ることに傷つく彼女。

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1940年に6人の子沢山のSS大将、「キング・オブ・アルゲマイネSS」ことハイスマイヤーと再婚。
戦局の悪化した1944年でも「母親たちよ、祖国を支えよ!」と訴えますが、
1945年になると旦那と共に地下へ潜伏。
米軍占領地で3年間発見されずに生活するものの、1948年に逮捕・・。という経歴です。
本人は信念を持ってやっていたのでしょうが、良いように利用されていたという
ちょっと可哀そうなひとにも感じました。

ちなみにハイスマイヤーSS大将(Obergruppenführer=上級集団指導者)ですが、
本書ではなぜか親衛隊分隊長・・と訳されています。。。コレじゃSS軍曹級ですね。。
SS曹長のOberscharführerと間違えてるのかも知れません。

Gertrud Scholtz-Klink _August Heißmeyer_1948.JPG

ゲリの章では、ヒトラーの運転手のエミール・モーリスと恋に落ちて、コッソリ婚約・・という
有名な話以外にも、1993年にオークションにかけられたという彼女がモーリスに宛てた
ラブレターも掲載されています。
ヒトラーが友人たちに結婚を勧めていたにも関わらず、
激怒したヒトラーによってクビになったモーリスも確かに可哀想ですが、
ゲリより10歳以上も年上のモーリスは軽そうな風貌ですし、
この一件から「誰にもゲリは渡さん・・」とヒトラーが考えていたと解釈するよりは、
「こんなチャラ男に大事な姪はやれん・・」と考えたほうが自然のような気もしますね。

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叔父と姪のエロティックな関係の証拠とされる、ゲリの裸体の水彩デッサンですが、
1929年という日付とサインを入れていることから、権力の座を狙う政治家がやることか??
敵の手に渡っちゃったらどうすんの・・? という感じで、
あのクーヤウの描いた贋作ではないか・・と推測しています。

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また、ゲリの自殺後のヒトラーの態度については、自身の政治生命ばかりを気にし、
直後は友人の家で過ごして、ウィーンに埋葬されるゲリの葬儀にも参列しなかった・・と
その無関心ぶりを強調していますが、以前に読んだトーランドの「アドルフ・ヒトラー」では
憔悴しきったヒトラーが自殺しないよう友人が家に匿ったり、
ヒトラーはオーストリアへの入国が禁止されていた・・
という話だったと思いますが、まぁ、ゲリにはいろいろな説と解釈があるものですね。

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エヴァ・ブラウンは以前に紹介した「エヴァ・ブラウン」とほとんど同じと言って良いでしょう。
右腕を長時間挙げることが仕事のヒトラーが、毎朝、窓を開け放って
エキスパンダーで鍛える姿をエヴァが目撃した・・とか、
基本的にヒトラーと一緒に写ったものは公式にはない・・とされているエヴァの写真も
唯一、1936年の冬季オリンピックで写ってしまったものが存在する・・という
写真の紹介 ↓ は面白かったですけどね。

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最後はヘンリエッテ・フォン・シーラッハです。
ヒトラー専属写真家ホフマンの娘として、ヒトラーに可愛がられ、12歳にしてバイロイト音楽祭で
ヒトラーの隣りに座ってワーグナーのオペラに耳を傾けた・・という彼女の生い立ちから、
ヒトラー・ユーゲント指導者のフォン・シーラッハとの結婚、ウィーン大管区指導者の妻としての生活、
そして戦後までが詳しく書かれています。

Henriette von Schirach_hitler.jpg

しかしなんといってもヘンリエッテが旦那と共にヒムラー邸に食事に招かれた話が最高でした。
嫁さんマルガレーテの尻に完全に敷かれ、厳しい口調で「ハインリヒ」と呼びつけられる
冷遇されたSS全国指導者の哀れな姿・・。
確かこの嫁さんはヒムラーより8歳年上だったと思いますが・・。

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そして後に、このSS全国指導者が勇気を奮い起こして愛人を作った・・という噂を聞くのです。
本書ではこれ以上触れられていませんが、この愛人はヒムラーの秘書だった
ヘトヴィヒ・ポトハストという女性で、
このような ↓ 写真はまさに典型的な「鬼嫁から解放された男」の図ですね。。

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本書の特徴は取り上げられた女性たちの生い立ちから死までを綴っているところです。
第三帝国の歴史の中で死んでしまったカリンやマグタ、ゲリにエヴァ以外の
エミーとレニ、ショルツ=クリンク、ヘンリエッテの晩年も知ることが出来ます。

「第三帝国とヒトラーの女」といった本は、まだまだ出版されています。
ヴィトゲンシュタインが知っているだけでも、
マグダなら「炎と闇の帝国―ゲッベルスとその妻マクダ」も気になりますし、
レニは本書でも引用されている、そのものズバリ「回想」という回想録の上下巻が出ているほか、
「レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実」という500ページ越えの大作も・・。
エヴァも「エヴァの愛・ヒトラーの愛―独裁者を恋した女の生涯」のほかに
今年の1月にも「ヒトラーに愛された女 (真実のエヴァ・ブラウン) 」が出ましたが、
コレはパスかな・・。

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他にも、13人の女たちが取り上げられている「ヒトラーをめぐる女たち」は、
本書の女性たちとカブっているものの、ヒトラーの母クララに始まり、
1920年代にヒトラーの面倒を見たハンフシュテングル婦人、
そしてユンゲ嬢よりヒトラーの秘書を長く勤めたクリスタ・シュレーダーというのに惹かれますね。

それからヒトラーだけではありませんが、「女と独裁者―愛欲と権力の世界史」という
今年の4月に出たばっかりの本も・・。
登場する独裁者はムッソリーニにレーニン、ヒトラー、スターリン、毛沢東とその女たち。
そして何故かエレナ・チャウシェスク・・。最後だけ、「女の独裁者」ということ??

















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流血の夏 [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

梅本 弘 著の「流血の夏」を読破しました。

去年の4月に「雪中の奇跡」という1939年に起こった「ソ芬戦争」、通称「冬戦争」について
詳しく書かれた本を紹介しましたが、予想外に面白かったのもあり、
1999年発刊で407ページの、1944年夏の「第2次ソ芬戦争」が描かれた本書も
すぐに購入していました。
夏の戦争といっても6月から始まった戦いですから、季節感を大事にする??
「独破戦線」としては、ちょうど良いタイミングだと思います。。

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まずは1939年に侵攻してきたスターリンに一時は赤っ恥をかかせたものの
出直ししてきたソ連軍に領土を奪われて、1940年3月になんとか停戦・・。
翌年、ドイツ軍のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」が始まると、失われていた領土を取り返すべく、
国境を越え、ドイツ軍のレニングラード包囲にも協力したフィンランド。
この小国をサポートしていた英首相チャーチルも、しぶしぶ宣戦布告することを余儀なくされます。

第1次大戦時に帝政ロシアの圧政に抵抗するフィンランドの若者はドイツに渡り、
第27猟兵大隊を編成して戦った・・という伝統を守り、
「反共」を旗印に、北欧人から成る武装SSの義勇兵部隊「SSノルトラント連隊」に
1407名のフィンランド青年が志願して入隊。

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ドイツ軍もディートル上級大将の第20山岳軍、17万人がラップランド地方に駐留しますが、
1943年のスターリングラードでのドイツ第6軍の敗北以後、マンネルヘイム元帥
戦争からの離脱を模索し、第5SS装甲師団ヴィーキングに配属されていた
自国義勇兵たちにも帰国を命じます。

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1944年になるとソ連の攻勢はさらに強まり、首都ヘルシンキが空襲に見舞われるほど。
88㎜高射砲、通称「ロンメル砲」が猛威を揮って、5機を撃墜・・。
このような1944年6月までの経緯が簡単に書かれていますが、
コレはコレであまり知らないことばかりですごく面白いですね。
そしてソ連に屈することは、前年のイタリアのように、ヒトラーの怒りを買うことにもなり、
両大国に挟まれたまま身動きが取れないフィンランドなのでした。

Finninsh civilian woman with a child after a soviet bomber attack in Helsinki, july 9, 1941.jpg

37ページから、6月9日のソ連の夏季攻勢が始まります。
ソ連のヤク戦闘機などに対抗するため、それまで477機のソ連機を落としてきた
米国製の旧式バッファロー戦闘機から、メッサーシュミットのMe-109が配備されています。
フィンランドではこの戦闘機を「メルス」と呼んでるそうで、この後は最後までメルスです。
そして頻繁に出てくる空戦はユーティライネン准尉の鬼神のような活躍も書かれていますが、
この人の回想録「フィンランド空軍戦闘機隊」も著者が訳してるんですね。

Finnish American Brewster F2A Buffalo's in flight.jpg

歩兵にはやっぱりドイツからパンツァーファウストパンツァーシュレック1万3千丁が送られ、
ドイツのⅢ号突撃砲22両から成る突撃砲大隊もヴィーキング出身者を中心に編成。
本書の表紙もまさに「Ⅲ突」ですね。
また、フィンランド湾の対岸の兄弟国で常に助け合ってきたエストニアからも義勇兵がやってきます。

400ページのほとんどが、この「第2次ソ芬戦争」戦記であり、1日ごとに、時間ごとに
空戦、地上戦がソ連側も含めて徹底的に詳しく書かれています。
登場するフィンランド兵はほとんど全員知りませんから、コレはなかなか大変なんですが、
本書は何と言っても「写真の量と質」がハンパじゃありません。
4ページに1枚くらいの割合で、非常に鮮明な写真が詳細なキャプションと共に掲載されていて
この写真が無かったら、最後まで読破するのはよっぽどのフィンランド・マニアじゃない限り
至難の業・・だと思います。

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その写真に写ったものとしては、ソ連軍なら「地雷処理ローラー」を装着したPT34地雷処理戦車、
フィンランド軍はドイツ軍のヘルメットをかぶっている者もいれば、チェコ軍のヘルメットも多く、
ハンガリー製にスウェーデン製のヘルメットとなんでもあり。。
もちろんソ連のありとあらゆる鹵獲戦車と兵器も使用し、BT42突撃砲という珍品の写真も・・。
これは捕獲したBT7快速戦車の砲塔を拡大して、大きな箱型の戦闘室を作り、
第1次大戦当時の英国製114㎜榴弾砲を無理やり搭載した突撃砲で
その姿から「ミニKV-2」などとも呼ばれたそうです。
フィンランド戦車師団の全163両のうち、100両以上がソ連軍の分捕り品という
まさに鹵獲戦車師団とも言える編成ですね。

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突撃砲大隊のⅢ号突撃砲の活躍は本書の中心のような位置づけです。
敵の最新型戦車であるT-34/85を撃破し、KV-1重戦車にも勇敢に挑みます。
そして兵器だけではなく、援軍として第303突撃砲旅団と1個歩兵師団、
23機のJu-87急降下爆撃機と同数のFw-190から成るクールメイ戦隊が
ヒトラーによって送り込まれるのでした。

しかしソ連軍は「冬戦争」当時とは違い、桁外れの火力を持ち、3年に及ぶドイツ軍との戦いで
鍛え抜かれた兵士と将校で編成され、彼らを苦しめた雪や酷寒もありません。
果敢に防戦するフィンランド軍ですが、あちこちを蹂躙突破されて、後退するのみ・・。

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パンツァーファウストとパンツァーシュレックに最初こそ不慣れだったフィンランド兵も
慣れてくるにつれ、T-34以外にも「戦車の親玉」こと、SU-152重自走砲をも葬ります。
動けなくなった「戦車の親玉」を発見し、立て籠もって降伏しないソ連兵に業を煮やして
「石」を投げたりするシーンは笑ってしまいましたね。
後半は鹵獲T-34のフィンランド軍戦車の戦いが中心となり、
彼らのT-34/76がソ連軍のT-34/85に挑み続けます。

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せっかくやって来たドイツ軍の第303突撃砲旅団の戦果は僅かにT-34を3両と悲しいもの。
それに比べるとフィンランド軍の突撃砲大隊は、かなりの戦果を挙げ、
本書では戦闘機エースを含め、パンツァーシュレックで8両撃破した兵などが、
マンネルヘイム十字章を授与された・・ということですが、
この十字章は良く見ると十字の中にハカリスティ(卍)があるんですね。

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こうして1ヶ月が過ぎた7月13日、ソ連軍はドイツ中央軍集団に対する「バグラチオン作戦」のために
前線から部隊を引き上げ始め、フィンランド政府も「ドイツに無断でソ連と講和しない」という
約束を反故にして休戦。
責任を取ってリュティ大統領が退陣し、マンネルヘイム元帥が大統領に。
宣戦布告をしていたものの、終始フィンランドに同情的だった英国は、講和条約に介入。
ソ連もフィンランドに対して寛大さを見せることで、その他の枢軸陣営の脱落が始まると予想し、
その通り、ブルガリアもあっさりと・・。
結局、ヨーロッパの参戦国で他国に占領されなかった国は英国とフィンランドだけという
「奇跡」を勝ち取るのでした。

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最後にはソ連との講和の条件であるフィンランドからのドイツ軍の駆逐・・。
いわゆる「ラップランド戦争」についても少し触れています。
「昨日まで戦友として一緒に戦ってきたのに、そんなことは人間のやることじゃない」と
怒る兵もいたそうで、当初はドイツ軍指揮官に電話をして、「明日はドコソコに進行する」と伝え、
ドイツ軍は事前に撤退・・などという有様だったそうですが、
この談合がソ連側にばれると死闘を強要・・。
一方、フィンランドの背信に怒るヒトラーも懲罰として、焦土作戦を展開し、
ラップランド地方を有史以前の姿まで荒廃させるように命じた・・ということです。

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まぁ、「雪中の奇跡」もそうでしたが、日本人著者が現地も含め、徹底的に調査した1冊で、
読みやすいとか、面白いとかいうことをさておき、なにか「執念」のようなものを感じました。
ソ連という大国を隣国に持つ日本との協力関係が休戦後も続いたという話や、
婦人部隊についても言及しています。
個人的には「ラップランド戦争」がもう少し、書かれていたらなぁ・・と思いましたが、
ひょっとしたら、次作に残してあるのかも知れません。そうだと良いなぁ。。

いまコレを書いていると偶然、「雪中の奇跡」にも登場し、542名のソ連兵を狙撃した??
という前人未到の戦果を上げたシモ・ヘイヘ(ハイハ)の本が3月に出ていたのを発見しました。
タイトルは「白い死神」。定価1680円と以外に安いので、
気が付いたらamazon「ショッピングカートに入れる」ボタンを押してしまいました。。







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最後の特派員 [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

衣奈 多喜男 著の「最後の特派員」を読破しました。

去年の6月に新関 欽哉 著の「第二次大戦下ベルリン最後の日 -ある外交官の記録-
という日本人の見た面白い本を紹介しましたが、本書も元々アントニー・ビーヴァーの
ベルリン終戦日記 -ある女性の記録-」のときにコメントで教えていただいた一冊です。
戦後間もない1947年に朝日新聞社から「ヨーロッパ青鉛筆」として、
1973年に「敗北のヨーロッパ特電―第二次世界大戦ドイツ・イタリア陣営の内幕」として
朝日ソノラマから刊行されていたものに若干修正を加え、
1988年に朝日ソノラマ文庫の「新戦史シリーズ」として復刊されたという長い歴史を持ったものです。
そして当時、朝日新聞の「特派員」だった著者は、後に「朝日ソノラマ」の社長も務めたそうです。

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日独伊三国同盟が締結された4ヵ月後の1941年2月、
悠長な船旅をすることの出来た「最後の特派員」である著者は、「浅間丸」で横浜港から出港。
2週間でサンフランシスコに到着し、ニューヨークの朝日新聞支局まで・・。
そしてUボートを警戒しながら進む米商船でポルトガルに到着したのは4月1日です。

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汽車で「スペインの大阪」バルセロナ。
ドイツ軍がユーゴのベオグラードを空襲したというニュースを聞きながらジュネーブへ・・。
最終的に辿り着いたローマの朝日新聞支局長を引き継いだあと、
日本軍の真珠湾攻撃が起こるのでした。

ジブラルタルやドイツ軍占領下のフランスも取材しながら迎えた1942年の12月、
ムッソリーニはベネチア宮殿に日本の新聞記者を引見します。
この時のことを「闘病のあとも残り、涙ぐましいものがあたりを支配していた」と
翌年に起こる政変を予感しています。

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本書は各章の初めに一般的な戦局や各国の情勢などを解説し、
その後に著者自身の体験談・・という流れで進みます。
1943年7月の最後のファッショ大評議会でムッソリーニに反旗が翻されると
農水省パレスキが極度の緊張から、2回も失神・・。
情勢の解説もこんな感じですから、それほど詳しくない方でも安心して読み進められますね。

ファシスト党員証を破り捨て、一斉に街の歓喜のなかに入って行く青少年団員。。
支局のスタッフも「お前はファシストか」と聞くなり殴りつけてくる連中から逃げ延びます。
混迷の中にバドリオ元帥登場となると、本書では
「国家経世の一大事には、どの国でも"国宝的老人"が担ぎ出されるのが順序である」。
これには思わず苦笑・・。1940年のフランスもペタン元帥でしたしねぇ。。

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「バドリオ万歳」の声も、新内閣の戦争継続声明の前に市民も落ち着きますが、
今度は「ヒトラーが死んで、後任はゲーリングに!」という噂が広まって、
群衆は「これで戦争は済んだ!」と再び、大騒ぎに・・・。
噂の元は某中立国領事館で、バルコニーから大声でそのような発表をしていたのでした。

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イタリア本土に上陸した英米との戦争休戦を宣言し、ドイツ軍の報復を怖れて
ローマから逃亡するバドリオ首相と国王エマヌエーレ3世
日本の大使館に陸軍事務所、そして新聞記者たちも慌ててローマからの脱出を図ります。
3日後にはベネチアに到着した10数台の日の丸自動車隊。
ベネチアーノが押し寄せて「ローマはどうか」、「イタリアはどうなるのか」と質問攻めに・・。
そこへドイツ軍の装甲車が登場し、青年将校がイタリアの憲兵将校と握手して
武装解除が始まります。

ローマではイタリア軍の歩兵砲が腰を据えていますが、ドイツ軍戦車の前にひとたまりもなく追走し、
バチカン駐在のドイツ大使、ヴァイツゼッカーが非武装都市宣言を認めます。

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その一方でモントゴメリーの進撃に対し、ケッセルリンクを最高司令官に任命して、
防衛作戦を立て始めるドイツ軍。
ドイツ軍砲兵陣地に「12サンチ」の重砲4門が3脚を広げているのを見学する著者。
カメラのシャッターを切る指は砲口の閃光と同時に下りますが、
これは撮影者の意思ではなく、爆発の反射運動によるそうで、
いわば砲手がシャッターを一緒に切ってくれるみたいなものなんだそうです。

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さらに「今をときめくドイツの戦車タイガー」にも出会います。
大木をいっぱい付けて、小さな森のように偽装したその姿・・。
隊長に話をして内部も見学。ぎっしり詰まった砲弾が自動装填ではなく、
いちいち手で込めることに驚きつつも、「どうせなら、ちょっと前進できないか」と注文も・・。

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モンテ・ソラッテという山に築かれた一大岩窟要塞にはケッセルリンクが鎮座しています。
一度も日本人記者に会ったことのない元帥を取材するため、強行突破。
対応に出てきたゲンツォ少佐からも了解を得られます。
アフリカ遠征用の夏服に、首には剣章が揺れる、人なつっこい顔のケッセルリンクと対面。
「お望みなら、あなたの新聞に論文を書いてもいい」と気さくに語る元帥に感激・・。

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ゲンツォ少佐とも仲良くなりますが、著者は「源造」さんと呼ぶところが笑えますね。。
そして同行するPK(宣伝班)のショーベルトくんとの自動車の旅。
しかし最も苦労するのはガソリンです。
「ガソリン乞食」と成り下がり、方々を徘徊するもなかなか手に入らず・・。
途中、出合った親切なドイツ軍将校から10㍑を分けてもらい、
「ダンケ・シェーン」、「ビッテ・シェーン」と気持ちの良いドイツ語が爽やかに・・。

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再びローマへ戻った1944年の1月。
ホテルに数十人のドイツ兵がやって来て「エングランダーとアメリカーナーが向かってくる。
お前はヤパーナーなのに、こんなところに待っていて良いのか?」
日本人である自分がドイツ軍に守ってもらっていることに改めて気づき、
ローマの防衛司令官メルツァー将軍と話をして戦況を確認するのでした。

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6月4日、米軍が遂にローマに入城し、その直後にはノルマンディにも上陸
パリにいた著者はPKの少尉を案内人として、7月1日ノルマンディの前線に向かいます。
サン・ローは最後の砲火を浴び、人口6万の街、カーンは廃墟となっています。
死臭の漂うカーンに足を踏み入れるのも束の間、大爆撃に遭遇・・。
3発の至近弾を浴びてヘルメットから足まで真っ白になり、次の爆撃までに脱出することを決意。
PKの少尉は動くのは危険だと異を唱えるものの、運転兵は「ヤボール!」
まさにカーン攻防戦の最後の劫火に遭遇したこの章は一番印象的でした。

Smoldering ruins of Caen.jpg

今度は解放の迫るパリからドイツ軍とともに脱出することになった著者。
ホテル・マジェスティックの前に並んだ40台のコンボイに彼の車も混ざっています。
日が暮れてから出発。午前3時になると「全員そのままの姿勢で2時間睡眠」の命令が。。
5時かっきりにオートバイ伝令がけたたましく走って「アップファーレン!」

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突然、轟音と一緒に巨鯨のような黒い影が見えると、慌てて車から逃げ出します。
バスのなかにいたドイツの「フローライン」もいっせいに躍り出すなり、溝に伏せますが、
著者は「驚くべき迅速な集団行動にイタリアやフランスでは見られない、
"訓練された女"の美しさ」を発見するのでした。

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ライン川を越えてドイツ本土に入り、ボンからベルリンへ・・。
PKから今一度、ロシア戦線を見てくれないか・・?と勧誘が来ますが、
同僚たちから「脱出特派員」とまで言われていた著者はスウェーデン行きを決意します。
この中立国にやって来た人々は祖国の戦雲に追われてきた避難民たちと、
ヨーロッパ戦争劇の千秋楽を見ようとする観客たちに分かれています。
そしてこの国からドイツの敗戦と、日本に宣戦布告するソ連、原爆、降伏を知るのです。
タクシーの運転手は聞いてきます。
「日本が戦争を止めて、世界が平和になったというは本当ですかい・・おめでとう」。

最後の最後には、日本に帰る親友の技術中佐に写真と手紙を託すエピソード。
その友人の名は庄司元三、彼は友永英夫技術中佐とともにU-234に乗り込むのでした・・。

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ローマやパリからの脱出もさることながら、カーンのような最前線での
命がけの取材というものまであって、想像以上に楽しめた一冊でした。
また、途中ではどうしても同じ記者である「神々の黄昏」や「砂漠の戦争」の
アラン・ムーアヘッドを思い出して、比較したりもしてしまいました。

カナ使いなどを一部改訂しているとはいえ、良い意味でさすがに古い本だな・・
とも思いました。読めない四文字熟語も2つ3つありましたし・・。
でもこういうのは決して嫌いじゃないんですね。
今回はその雰囲気が伝わっていれば良いんですが。。
一度は1947年版の「ヨーロッパ青鉛筆」も読んでみたくなりました。







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ロシアから来たエース -巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩- [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ナターシャ・スタルヒン著の「ロシアから来たエース」を読破しました。

EUROは2日間が終わってロシアは大勝、さっき終わったドイツは辛勝でした。
特にドイツは出来は良くなかったですが、自走砲部隊のような名前のセンターバック、
フンメルスが素晴らしかったですね。
そんな話はさておき、先日の「グラーグ」を読んでいたとき、TVでプロ野球初の300勝投手、
スタルヒンが「帝政ロシア出身」と紹介されてビックリ・・!
慌ててPCで調べてみると、彼の娘さんが書いた本書を発見して、すぐに購入。
スタルヒンという名前は沢村栄治と並び、伝説の投手として、後楽園球場まで歩いて行ける
地元の野球小僧は誰でも知っていましたが、無条件で米国人とばっかり思っていました。
確かにスタルヒンなんて米国人ぽくないですが、その当時は日本と米国くらいしか
野球なんてやっていないという先入観があったんでしょうね。
この234ページの本書、あまりの面白さに、久しぶりに一気読みしてしまいました。

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ヴィクトル・スタルヒンは1916年、ウラル山脈東部の人口3万人という小さな村の生まれ。
まさに第1次大戦中ですが、翌年にはロシア革命が起き、ロマノフ王朝の将校だった父と一家は、
革命軍に追われ、ウラルから広大なシベリアを横断するという果てしない旅に出ることを
余儀なくされます。
国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びて、
日本への入国に必要な一人当たり1500円という大金をなんとか支払い、
北海道の旭川へ。ヴィクトルはすでに9歳に・・。

地元の小学校へ入学し、「ロシア負けた。ニッポン勝った」と虐められながらも成績も優秀、
抜群の運動神経をもって徒競走では20mも後ろからスタートさせられても一等になるほど・・。
大正から昭和にかけて全国的にも少年野球は盛んで、スタルヒンも学校のチームで活躍します。
しかしロシア・カフェを営む父親が店のロシア娘を殺害したかどで逮捕されてしまうのでした。

昭和7年、夏の甲子園を目指して北海道大会に挑む旭川中の怪童スタルヒン。
戦前は旧制ですから「○○高」じゃなくて、「○○中」なんですね。
惜しくも2年連続で甲子園行きの切符を逃しますが、昭和9年(1934年)にベーブ・ルースら
米国のスター選手が来日する第2回日米野球戦の全日本軍のメンバーにスタルヒンの名が・・。

日米野球戦.jpg

日本にはプロ野球は誕生しておらず、野球人気は六大学のアマチュアが支えていたこの当時、
文部省は学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならぬ・・と通達。
このため、主催の読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成することになるのです。
京都商業の沢村栄治を中退させたのと同様の手口で
スタルヒンを退学させてこのチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、
地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗します。

澤村 榮治.jpg

チームメイトはスタルヒンをさらわれないよう一致団結して彼の送り迎えをし、
誘拐魔が来たら、学生服のポケットに詰め込んだボールを浴びせようと考えます。
しかし、警察をも動かす力を持った正力松太郎の読売は、国籍のないスタルヒンを国外追放し、
殺人罪で入獄中の父親もろともスターリン個人崇拝の始まったソ連に
送り返すことをほのめかします。
とうとう、この脅迫の前に退学届を書き、チームメイトに知らせることもなく、
熊の彫り物を抱えたスタルヒンは、夜逃げ同然で上野駅に降り立つのでした。

young starffin.jpg

発足した巨人軍は翌年、アメリカ遠征に出発します。
しかし無国籍のスタルヒンに米国は入国を拒否するなど、トラブルも・・。
あの水原茂と同部屋となり、「先輩、アメリカって外国人ばかりですね」とか
「外国人って全然、日本語喋らないんですね」と
物心ついた時から日本で育った田舎者の少年そのものの感想で水原を呆れさせます。

試合では水原のようなベテラン連中が、速球は良いものの、ノーコンで四球の多い彼に
「トウシロウ!」、「アホ」、「どこ見てほおってんだ!」と代わる代わる怒鳴りつけてきます。
涙を流しながら「このままじゃ怖くて投げれません」と監督に訴え、
目を腫らしてマウンドに立ち続けるスタルヒン・・。

第1回米国遠征 秩父丸.jpg

遠征で味わった屈辱感ゆえ、日本国籍を申請しますが、190㎝近い六尺二寸の身長で
鼻の大きなスタルヒンに対し、役所は「どう見ても日本人じゃない」と一言で終了。
当時の日本では国籍取得のちゃんとしたルールもありません。
ペラペラの日本語を喋り、義理人情も重んじて日本人より日本人らしいと言われるスタルヒンも、
「外人」や「亡命者」というレッテルで、仲間も決して一線を越えてくれないことに悩み、
白系ロシア人の集まる御茶ノ水の「ニコライ堂」に友達探しに通って、
ついには花嫁まで見つけるのでした。
このニコライ堂はヴィトゲンシュタインも子供の頃から見ていますが、こういう教会だったんですねぇ。

ニコライ堂.jpg

「日本人より日本人らしい・・」と繰り返し語られるスタルヒンですが、
読んでいてヴィトゲンシュタインは横綱、白鵬を思い出しました。
今も大相撲では、やれ、日本人の横綱が何年いないとか、日本人力士が何年優勝していないとか、
NHKでも平気でアナウンサーが喋りますが、こういうのを聞くと
「白鵬が可哀想だなぁ・・」といつも思っていました。
当時のスタルヒンとなにも変わっていないんですね。。

白鵬 挙式.jpg

昭和12年になると、あの沢村栄治ですら「スタちゃんと並んで投げると、遅く見えるから・・」と
一緒に投球練習をするのを嫌がるほどになり、ノーヒット・ノーランも達成し28勝をマーク。
ちなみに怖い先輩方は「スタ公」と呼んでます。。
結婚し、MVPも受賞して絶頂期を迎えたスタルヒンですが、時は昭和14年、
1939年という戦争の暗雲立ち込める時代に突入。
満州遠征でも優秀投手賞の活躍をしますが、汽車のなかでは憲兵が「おい、そこの外人」と
ビザが無いことを理由に拳銃まで突きつけるのでした。

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プロ野球も変革が始まり、タイガースは阪神、イーグルスは黒鷲、ライオンは朝日と横文字禁止。
こうなるとスタルヒンにも風当たりが強くなり、球団によって「須田博(すた ひろし)」と
勝手に改名させられてしまいます。
それでも無国籍者でロシア人の血を持つ彼は「敵性外人」という扱いで、
遠征で東京を離れる場合には、交通手段などを書いた届け出を警察に
いちいち出さなければなりません。

スタルヒン、呉波、白石敏男.jpg

そして警察を訪れ、キョロキョロするスタルヒンに「貴様、何しとる!」といきなりの平手打ち。。
著者は、届け出をしに来た人間に平手打ちを喰らわせる国がどこにあろうか・・としていますが、
当時の日本は映画やドラマで観るよりエゲツない感じです。
まして日本の秘密警察である「特高」に目を付けられているスタルヒンは尾行やスパイ容疑に脅え、
スター選手であってもTVの無いこの時代、一般市民は彼の顔も知らず、
ケンカを吹っかけられたり、蕎麦屋では店員にスパイと間違われて通報されたり・・。

戦前のスタア.jpg

そんな苦労に加え、肋膜炎を患いながらも登板を続け、勝ち続けるスタルヒン。
しかし遂に昭和16年12月に開戦・・。
試合前には近衛師団から借りた軍服に短剣を付け、
チームごとに「米英撃滅」と書かれた標識目掛けて手榴弾を投げるアトラクションが始まり、
後楽園球場の2階席には高射砲が備え付けられます。
沢村や千葉、吉原といった主力選手も戦場へと去って、
ユニフォームは国防色になり、帽子は顎ひも付き戦闘帽、
「セーフ」、「アウト」も日本語化・・。コレは確か「よしっ」とか「だめっ」てなったんでしたっけ??

いまや隣の区に行くのすら、警察の許可が必要となったスタルヒン。
水道橋まで電車で行くつもりが、ひとつ前の飯田橋で降りて歩いていると
「おい、こらっ」と警官がやって来て、そのまま逮捕・・。
平日は産業戦士として工場で働き、週末のみ試合することになったプロ野球。
日本人ではないスタルヒンは徴用されないものの、チームメイトと一緒に工場で働く道を選び、
長身を折り曲げて作業台に向かいます。
そんな彼の野球とチームを思う努力も虚しく、「外人」がいると軍部から野球禁止令が出されることを
恐れた巨人軍は、スタルヒンを野球界から「追放」するのでした。

Starffin.jpg

終戦を迎え、幽閉されていた軽井沢から東京へ戻ってきたスタルヒン。
たまたま知り合ったGIから仕事を貰い、進駐軍の一員としてなんとか生活も・・。
プロ野球はすぐさま復活し、巨人時代の恩師、藤本定義監督の「パシフィック=太平」への入団を
希望しますが、するとココに優先交渉権を振りかざし、彼を追放した巨人が横やりに・・。
紆余曲折の末、無事入団。かつての剛腕こそ衰えたものの、クレバーな投手に変身し、
金星スターズ戦での1勝で、プロ野球史上初の200勝投手になります。

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その後、金星スターズへと移り、吸収合併されて大映スターズ、離婚と再婚を経験して
トンボ・ユニオンズに移籍した39歳のベテランは、前人未到の300勝投手に輝くのでした。
しかしこの弱小球団はスタルヒンに引退を勧告。現役にこだわってごねるスタルヒンに
「正力さんが巨人で引退興行をやってくれるそうだ。よかったな・・」
最後に巨人のユニフォームを着てプレー出来るのなら・・と引退を決心した彼ですが、
結局、理由のないまま興行はお流れに・・。

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プロ野球界は外人選手が記録を作るのを好まず、仮に記録を作っても
日本人が破れる程度の記録でなければならない・・と心の底に持っているのです。
スタルヒンはこう漏らします。「野球人生、僕は裏切られっぱなしだった」。

1986年の初版は「ロシアから来たエース―300勝投手スタルヒンのもう一つの戦い」です。
副題が違うのがおわかりのように、巨人だけで300勝挙げた訳ではないので、
その意味ではこの再刊の副題には「偽りあり」ですね。

大映 スタルヒン.jpg

しかし巨人ってのは、今も変わらずヒドイ球団です。。
本書での巨人は、ほとんどナチ党のようなイメージですので、
巨人ファンの方が読まれたらどういう印象になるかはわかりません。
逆に言えばヴィトゲンシュタインのようなアンチ巨人が読むと、その面白さは倍増しますし、
生まれたばかりのプロ野球と戦争、聞いたこともないチーム名など、
スタルヒン以外の部分も大変、楽しく読めました。

「おわりに 天国にいるパパへ」では1982年、スタルヒンの地元、旭川の球場が
日本で初めて一選手の名前の付いた「スタルヒン球場」となったことなどが紹介されます。

スタルヒン球場.jpg

実は最初の章で引退から2年後の昭和32年、自動車事故によるスタルヒンの悲惨な死の様子が・・
というちょっと衝撃的な展開です。
それを知っているからなのかも知れませんが、後半は可哀想でうるうるしてしまいました。
引退後から死までの間のスタルヒンについては、娘さんである著者は書きたくないそうで、
それゆえ、この事故死が「自殺」ともされているのも本書を読むと、う~ん。。

ナターシャ・スタルヒン.jpg

第1次大戦と第2次大戦に翻弄されたスタルヒンの人生。
日本人になりたいと願いながらも、死ぬまで無国籍のまま・・。
近頃は相撲だけではなく、サッカーやオリンピックでも、このような国籍問題がありますから、
いろいろと考えさせられました。
また、巨人入団までのスタルヒンの前半生が描かれた
「白球に栄光と夢をのせて―わが父V・スタルヒン物語」というのもあるようなので、
今度、読んでみようと思っていますが、本書は何度か再読してしまうでしょう。







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