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グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの“白い将軍” [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

植村 英一 著の「グスタフ・マンネルヘイム」を読破しました。

先日、たまたま見つけてしまった1992年に日本人著者によって書かれた本書。
いや~、こんな本があるんですねぇ。。
マンネルヘイムといえば、戦時中にフィンランドの元帥、大統領としてドイツ軍と共同して戦い、
末期にはその盟友と戦うことになるという、これだけで波乱万丈の人生ですね。
ハードカバー、259ページというソコソコのボリュームで、定価2600円ですが、
決して世の中は甘くなく、Amazonでは8000円のプレミア価格・・。
まぁ、そういう場合には地元の図書館が助けてくれるのです。ありがたや・・。

フィンランドの白い将軍.jpg

1867年生まれのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム。
おおっといきなり、ちょうど100年違いの方でしたか。。
男爵として生まれた彼ですが、父は会社が倒産すると情婦と共にパリへ逃避。
傷心の母は1881年に亡くなり、子供たちはばらばらに親戚に預けられるという子供時代。
スウェーデン王国の統治下だったフィンランドが1809年に帝政ロシアの手に移り、
マンネルヘイム家の祖先もスウェーデンから移住して来たなど、
この18~19世紀のフィンランドの歴史についても並行して進んでいきます。

Mannerheim1889.jpg

体格も良く、活発なマンネルヘイム少年は、ロシア帝国陸軍に身を投じて、
ツァーの将校となる道を選び、当時、最も人気の高いザンクト・ペテルブルクの
騎兵学校へとなんとか入学。卒業後は黒龍連隊で2年勤務、その後、念願かなって、
王妃を名誉連隊長に仰ぐ、シュバリエール近衛騎兵連隊へ・・。
1896年のニコライ2世の戴冠式には皇帝の天蓋のすぐ前に、銀のヘルメットをかぶり
煌びやかな礼装をまとった2mもの長身が写真に収められるのでした。

Kejsar Nikolaj II_s kröning i Moskva 1896. Framför kejsaren går Chevaliergardets officerare Gustaf Mannerheim.jpg

そして彼にとっての最初の戦争がやってきます。それは「日露戦争」。
旅順要塞の攻防戦、いわゆる二百三高地の決着がついた後の、日本第3軍に対する攻撃、
チネンスキー・ドラゴンズ連隊の2個騎兵隊を指揮するマンネルヘイム。
しかしコサック騎兵は重い装備品を携行し、盛大な砂塵を巻き上げる割には、
1日にわずか30㌔しか前進せず、攻撃は失敗。
コサックの実力と無統制、乱暴狼藉にに失望するのでした。

Mannerheim1904.jpg

帰国すると今度は未開の地、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の軍事偵察に出発。
2年にも及ぶ大冒険であり、ダライラマとの面会を果たし、西太后が統治する北京へと進んだ後、
天津から長崎に上陸し、8日間の日本滞在を経て、舞鶴からウラジオストックへ・・。
ただ、残念ながら、このマンネルヘイム日本見聞録の詳細は不明なんだそうな。。

Mannerheim taking notes during his 1906-1908 Asia Expedition.jpg

第1次大戦が始まると、レンベルクの会戦でオーストリア軍の初動を頓挫させる大活躍。
ロシア革命が起こった頃には、中将にまで昇進し、3個師団から成る第6騎兵軍団長に
任ぜられます。しかし祖国フィンランドが独立を宣言すると、故郷に凱旋した彼は、
ロシア赤衛軍相手にフィンランド国軍総司令官として戦うことになるのです。
フィンランドの歩兵博物館には「メイジ30」、「メイジ38」と名付けられた小銃が展示されていて、
このような日本の三十年式歩兵銃、三八式歩兵銃を3万丁以上も保有していたそうです。

Mannerheim1918.jpg

独立戦争が終わった後、フィンランドの政治家は親ドイツに走り、
議会はドイツ皇帝の皇弟ヘッセン公フリードリヒ・カールを国王として向かえる決議に至ります。
その途端、ドイツは降伏してカイザーも退位・・。
ヘッセン公も当然、辞退しヘルシンキに現れることもありません。
それどころか親独政策によって「被告」となることを怖れた政府は、この危機に
西側列強との友好関係を回復させるため、ロンドンとパリにマンネルヘイムを派遣するのでした。

Friedrich Karl von Hessen-Kassel.jpg

しばし隠居していた65歳のマンネルヘイム。
1932年になって大統領に請われ、軍事委員会の委員長に就任すると同時に「元帥」の称号も。
彼の軍事に関する考え方は以下のようなものです。
「小国は戦争の圏外に立って、中立を維持しなければならない。
大国からの援助は魅力があり、安心感を与えるが、それは抜き差しならぬ束縛と
義務を負わせ、これほど危険なものはない。」
そして自力による武装中立を目指します。
「自らを守ることの出来ない国を、一体どこの国が守ってくれるのか」。

う~ん、最近、どこかの国で議論になっていることを思い出しますねぇ。

Le maréchal Mannerheim dans son quartier général.jpg

ちょうど真ん中あたり、135ページから「冬戦争 1939-1940」の章がやってきました。
1932年に不可侵条約を締結していたソ連とフィンランドですが、
ナチス・ドイツのバルト海への進出に脅威を感じたスターリンが、
再三にわたり、国境調整を要求してきます。
マンネルヘイムは譲歩するよう政府に要請しますが、ソ連の要求は条約無視だと憤慨する政府。
その結果、スターリンはフィンランドの「抹殺」を決意するのです。

Stalin, Voroshilov.jpg

戦争に反対し、辞職を決意したマンネルヘイムですが、武人としての職はそれを許さず、
総司令官として日々命令を発することに・・。
この章は35ページほど、もちろん「雪中の奇跡」にはかないませんが、なかなかのもので、
戦況図も掲載しながら、最後には過酷な条件で休戦に至るまでが書かれています。

Mannerheim 1939.jpg

こうして再び、もう一つの大国であるドイツとの関係が親密になっていくフィンランド。
防衛のためにドイツに渡って近代戦の訓練を受ける志願兵の若者たちに加え、
1941年3月になると、SS戦闘部隊の志願兵をフィンランド国内で募集することを承認し、
やがて彼らは武装SSヴィーキング師団となって、遠くウクライナで戦うことになるのです。

nazi_Finn.jpg

始まった「バルバロッサ作戦」。
ドイツとフィンランドには外交上の同盟や条約は何も結ばれず、軍事上の協定も
文書として残すことを拒み、ドイツ軍との合意は道徳的な「口頭の了解」に留めるマンネルヘイム。
同盟戦争ではなく、たまたま、共通の敵に対して戦う共同戦争であって、その目的は
1940年3月の講和条約で失った国境線の回復と、民族の故郷である東カレリア地方の領有。
よってフィンランドにとっては「継続戦争」なのです。

Karjalankannaksen valtaus 1941.jpg

レニングラード攻略を目指すドイツ軍と、マンネルヘイム・ラインからそれを眺めるフィンランド軍。
ドイツ軍が耐寒装備を持っていないことを知ったマンネルヘイムはショックを受け、
その軍事力に対する信頼を失い、戦略の根本的な転換を考えるのです。

信頼するディートル将軍をドイツ・ラップランド軍(第20山岳軍)の長として進捗を図り、
1942年6月、75歳を迎えたマンネルヘイムのもとをわざわざ訪れたヒトラー。

Mannerheim-Hitler.jpg

しかし翌年2月、すなわちスターリングラードで第6軍が全滅した頃、
早い時期に戦争から離脱するべきである・・という危険な政策転換に切り替わり、
ベルリンでの外相同士の会談で、フィンランドの戦線離脱の意向を暗に打ち明けたものの、
予想通り、リッベントロップの怒りを買い、単独講和を縛る政治協定の締結を要求してくるように
なるのでした。

1944年、フィンランドに戦争継続を要求しつつも、武器弾薬の供給を停止していたヒトラー。
連合軍がノルマンディに上陸すると、東部戦線でもすっかり近代化されたソ連軍が大攻勢に出て、
フィンランド政府はパニックに陥り、講和を求めようとしますが、マンネルヘイムが押しとどめ、
気心の通じた純情熱血のディートル将軍が要望に応えて、ドイツ軍の倉庫から
最新式の対空対戦車火砲が運び出されることに・・。

Dietl Mannerheim.jpg

さらに救援の要請をヒトラーに直談判したディートルですが、その帰りの飛行機が墜落・・。
ロンメルの場合と同じく、ヒトラーの謀殺であったとの説もある」と書かれていますが、
まぁ、コレはないでしょう。ロンメルは7月20日事件への関与を疑われたのであり、
ディートルの事故死は6月の出来事。
そもそも、どんな人気将軍であっても、気に入らなければ簡単に罷免するのがヒトラーです。

Dietl_Hitler.jpg

「ドイツの同意なしにソ連との講和を結ばない」という協定に縛られたリチ大統領は、
この協定から解放されるために退陣し、新たにマンネルヘイムが大統領に就任します。
表敬のために飛来してきたOKW総長に前大統領が結んだ協定に縛られないことを伝えると
「憤慨し異常な興奮を示す」カイテル・・。
パリは西側連合軍によって解放され、ルーマニアはソ連軍に占領されるという難しい時期・・。

Keitel,Mannerheim.jpg

そして遂にドイツとの国交断絶。ヒトラー宛に自筆の書簡も送るマンネルヘイムですが、
ディートルの後任、レンドリック将軍とは険悪な雰囲気です。
ソ連の「踏み絵」の如き要請により、自国からドイツ軍を叩き出ことになったフィンランド。
しかし将兵の間には戦友愛が育まれ、尊敬と信頼で結ばれているのです。

german finn.jpg

ドイツ軍は事前に部隊の撤退日時を連絡し、フィンランド軍はその後、突撃を仕掛けるという
「いかさま戦争」を繰り返してソ連の目を欺こうとします。
実際、ドイツ軍の主要な司令部にはフィンランド軍の連絡将校が勤務したままで、
「秋季機動演習」と呼ばれていたそうです。
このラッブランド戦争も思ったより、書かれてますね。

Finnish infantry batallion as it begins the encircling maneuvers against Germans positions in Lapland, Finland, October 1944.jpg

こうして戦後は公職から引退したマンネルヘイム。
回想録が完成に近づいた1951年、84歳で永眠するのでした。

非常に読みやすい一冊でした。
フィンランドと帝政ロシアの歴史、マンネルヘイム個人の人生に、
彼が体験した数度の戦い、そして第2次大戦のフィンランドの戦略と状況の変化、
大国に翻弄されながらも、自立を目指す一貫した姿勢・・と、
必要な事柄がバランスよく配されていると思いました。

Von Falkenhorst and Mannerheim.jpg

「ドイツのノルウェー軍司令官フォン・ハルケンシュタイン将軍とは最後まで馴染めなかった」
のところが、まぁ、敢えて書けば、「フォン・ファルケンホルスト」だろ・・なんて。。

でも日本人著者ならでは、一般の日本人にも理解しやすいように記述していると感じますし、
日本人武官の証言を取り上げるなど、親近感が湧くような仕組みもあるのかも知れません。



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遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ベン・シェファード著の「遠すぎた家路」を読破しました。

3月に出たばかりの625ページの大作を10日間かけてやっつけました。
タイミングとしては完ぺきで、前回の「ホロコースト全証言」の最後が解放された人々ですから、
まさに続きの如く、その後のユダヤ人、ナチスに強制連行された外国人労働者たち、
さらには迫る赤軍から西へと逃れてきたドイツ人難民の運命に迫った一冊です。

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19章から成る本書、出だしは1940年春のポーランド、クラクフの様子。
ゲシュタポが私たちの病院をいきなり襲撃した」と回想する学生看護婦のアンナ。
医師は連行され、看護婦は準備に5分間与えられた後、列車でヴェストファーレン送りです。
辿り着いたのは「職業紹介所」。
「未来の雇い主たちが私たちを待っていた。
家畜品評会の畜牛のように品定めをし、指でいじくった。
私たち女学生にはあまり買い手が付かず、最後まで広間に残された」。
最終的に彼女は農場労働者となりますが、都会育ちの若い女性にはつらい仕事です。

Zwangsarbeiterinnen aus dem Osten deportiert_1943.jpg

1930年代後半、ドイツでは景気回復と再軍備によって、労働力不足が予想されており、
農場では特に人手が足りず、ポーランド侵攻後には100万人を供給する計画があったのです。
しかしそれはナチスの民族原理に反する政策でもあり、国内の「血の純潔」を脅かすことに・・。
そこで連れてきたポーランド人には「懲罰的隔離制度」を課して、離れたバラックで暮らし、
低い賃金、「P」の字の認識札を身に付けることを強いるのです。

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ドイツ人とポーランド人の性的接触は当然、死刑に値します。
1941年、あるポーランド人が「農業の勤労奉仕をしているドイツ娘のスカートに手を突っ込んだ」
として、絞首刑に処せられるのでした。
むむ、まさしく「愛と欲望のナチズム」チックな話・・。 

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そんな時にご存知「バルバロッサ作戦」が発動するも、冬には行き詰まり、
兵士たちが帰還しないばかりか、膨大な数の補充兵が必要・・。
それは本国の労働者が新兵になるということであり、
すでに枯渇しているドイツの人的資源に悪影響を及ぼすのです。

Salt and bread from the Crimea-1941.jpg

ロシア人捕虜は「けだもの」であり、彼らを本国で働かせることで、
大事なドイツ女性に近づけることなど考えられません。
しかしウクライナではドイツ軍が「解放者」として、伝統的なパンと塩の贈り物で歓迎されると、
ドイツの生活水準の高さや、ウクライナ人をその気にさせるプロパガンダが掲載されるだけでなく、
ウクライナの若者たちが牧歌的なドイツの農場で歌い踊る「陽光あふれるドイツへおいで」
という映画まで上映されるのです。

Wir gehen nach Deutschland um für den Frieden und eine bessere Zukunft zu arbeiten..jpg

こうして、いい給料、すぐに帰れるという約束にキエフでも志願者が大勢現れ、
ブラスバンドの演奏に送られて、ドイツへと向かうのでした。

Fremdarbeiter waren die Sklaven eines barbarischen Systems. Über das Millionenheer der Zwangsarbeiter.jpg

そんな彼らを待ち受けていたのは、劣悪な住居、粗末な食事、さまざまな虐待と屈辱であり、
ポーランド人労働者以下の扱いを受けて、「Ost(東)」のパッチの装着が義務付けられ、
共産主義を広めないようにと、鉄条網で囲われた収容所に押し込められるのです。

ost.jpg

数ヵ月後にはそんな実情を噂で聞いたウクライナ人の志願者が激減するのは当然で
となれば労働力配置総監ザウケルは強制力を行使することになり、
公共の場にいるウクライナ人も一網打尽。
1943年8月までに、280万人の外国人労働者が送り込まれることになるのです。

Sauckel Hitler.jpg

たまたま何人かのウクライナ少女を目にしたヒトラー。
その金髪と、「アーリア風」の顔立ちに驚いたことで、彼女たちはドイツ人家庭の家政婦として
働くことが許可されます。生意気で怠慢なドイツ人家政婦とは違い、
ドイツ語も話せず、部屋のトイレや風呂も見たことがない木靴を履いたメリーポピンズは、
うんと安い賃金ながらも、意欲があり、勤勉で、勉強熱心。汚れ仕事もへっちゃらなのでした。

Ostarbeiterin_in_Deutschland.jpg

戦場の兵士たちにも食料が送れなくなったドイツは食糧危機に直面し、国防軍は自給自足、
占領地からドイツへ食料を送るという「戦争と飢餓」の話へと進み、
外国人労働者の配給や、ユダヤ人には配給停止・・といったホロコーストへと向かって行きます。

1943年の終わりには、ロシア人捕虜、フランス人に加え、脱落したイタリア人も強制労働者に・・。
鉱山での労働では、いけ好かないロシア人よりも、裏切り者のイタリア人への敵意が強く、
身体的暴力が横行・・。鞭打たれ、満足な衣類も与えられず、蠅のように死んでいくのです。

Sowjetische Zwangsarbeiterinnen 1943 bei Erdarbeiten am Diestelkai im Hafen Hamburg.jpg

工場で重労働を強いられる東方の女性たちも、無垢な少女から成長して知恵をつけ、
所長やドイツ人上司との「密通」により副収入を得て、闇市でパンを買うことも可能。
妊娠したら「外国人の子供のための養護ホーム」が企業によって設置され、
「レーベンスボルン」とは真逆なこの施設で、劣等人種の子供たちは、
育児放棄されて、栄養失調によって見殺しになるのでした。

Ausländische_Arbeitskräfte_im_III._Reich,_Ostarbeite.jpg

1944年、連合軍がノルマンディへ上陸・・となると、ナチス・ドイツの敗北と共に、
何百万人ものヨーロッパ人を本国へ送還するという、驚くほど大規模で、
複雑な問題に連合軍は気づきます。
本書では避難民や強制移住者を"Displaced Person"の略語である「DP」として表現。

フランクフルトなどの各都市、ブッヘンヴァルトなどの強制収容所を開放する度、
工場、鉱山、農場から数万人のDPと戦争捕虜が出てきて幹線道路に溢れ、
都市はカオス状態に・・。略奪、喧嘩、強姦、殺人が1週間も続きます。

A concentration camp victim identifies an SS guard in June 1945.jpg

小集団をなすフランス人、オランダ人、ベルギー人にチェコ人、ポーランド、イタリア、
そして圧倒的多数を占める、背中に白いペンキで「SU」と書かれたソ連の捕虜たちが、
食料と寝泊まりする場所を求め、ぞろぞろと西へと歩いて移動するのです。

SU on the back of Soviet forced labourers.jpg

ハノーファーでは市庁舎の地下貯蔵庫に何百人ものロシア人が押し寄せて、
ワインや蒸留酒の樽を次々に叩き割ったことで、床は15㎝の混合酒の海となり、
しゃがみ込んでこの強烈なカクテルを呑んでいたロシア人はバタバタと倒れて、
その多くが溺死してしまいます。。
う~む。。ある意味、彼らにとって本望だったと思いたいですね。

解放されたDPの心は復讐心と飢え、歓喜であり、この3つの精神状態が結びついた結果、
行動の面で問題となったのです。
国ごとに分かれた集団はナショナル・アイデンティティの主張が強く、
リーダーを決めるにも、シラフの人間がいないため、容易ではありません。
連合軍はチフスや赤痢の蔓延を防ぐために、彼らを収容所へと追いやります。

The_British_Army_in_North-west_Europe_Ostarbeiterinnen in Osnabrück, die kurz vor ihrer geplanten Ermordung gerettet wurden, 7. April 1945.jpg

ふと思い出しましたが、フレンスブルクにあった海軍大学校が降伏したデーニッツの司令部で
英国軍からDPの襲撃に備え、歩哨を置くよう言われた結果、
この地区の司令官だったダイヤモンド章に輝くUボート・エースのリュートが、
18歳のドイツ人歩哨に誤って撃ち殺される・・という悲劇が起こっていますね。

それでも西欧の、まずフランス人労働者16万人が母国へ帰還。
30万人のベルギー人、オランダ人と続きますが、
イタリア人DPが想定の2倍、70万人もいることに驚く連合軍・・。

片や東欧のロシア人となると、コレが簡単にはいきません。
ノルマンディで捕えたドイツ軍捕虜1600名が、実はドイツ軍の軍服を着たロシア人だと解ると、
彼らがソ連全土から来たウクライナ人、中央ロシア人、ベラルーシ人、
シベリア人にモンゴル人の混成と判明。
生き延びるためにドイツ軍へ「奉仕」することを申し出た現地の助っ人、「ヒーヴィ(Hiwi)」と、
東部戦線の戦力増強のために東方義勇兵(オストトルッペン)として投入された赤軍捕虜たち。
しかし続々とパルチザンに鞍替えするために、西部戦線行きとなったのです。

German infantry and Hiwi.jpg

そしてロシア人捕虜は帰国後の運命をスターリンの発言から知っており・・。
「わが国に捕虜などいない。いるのは反逆者のみ。
最後の一発の銃弾は、つねに自分自身のためにあるべきだ」。
1939年のソフィン戦争で、フィンランド人捕虜と引き換えに返還された3万人のロシア人捕虜は、
機関銃隊に射殺され、その機関銃隊が今度はNKVDによって粛清されたのです。

また、チトーが実権を握ったユーゴスラヴィアからはクロアチア人とスロヴェニア人が逃げ出し、
英軍によって捕えられた彼ら2万7千人は、最後まで目的地はイタリアだと思っていたものの、
欺瞞工作によってユーゴ共産党に引き渡されてしまうのです。
その後の悲惨な運命は書かれていませんが、セルビア人を大虐殺したウスタシャだとすれば、
絞首刑や銃殺で済めば、万々歳といったところでしょうか・・。

Ustase-klanje.jpg

しかし一番の問題は4万人の「コサック」の扱いです。
ヤルタ会談で解放されたソ連市民はすべてロシア人へ引き渡すと明記されており、
運命を悟った彼らからは自殺者が続出・・。
このあたりはまさに「幻影 -ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語」を彷彿とさせる展開ですね。

Russkaia Osvoboditelnaia Armiia (KOS).jpg

同様に帰国を望まないウクライナ人の運命へと続きます。
8月、英軍のホロックス中将は手紙に書き記します。
「はたして彼らを帰すべきなのでしょうか?ロシア側を説得し、帰りたくない人々は、
全員この国に置いておくようにさせることはできないものでしょうか?」

また、同じウクライナでも東ウクライナはロシア正教の信者であり、ソ連の臣民、
対して西ウクライナはカトリック教徒で、元々オーストリア=ハンガリー帝国の臣民。
その後、ポーランド市民となって、独ソのポーランド侵攻によって、ウクライナ人に・・。
東ウクライナ人は帰国を希望し、「大飢饉」をを含めた複雑な歴史と、
ウクライナ人民族主義者にとっては、ロシアとポーランドは「大敵」であり、
ドイツは「伝統的な盟友」であるのです。
なんとも現在のウクライナ問題を思い起こさせますねぇ。

Many Ukrainians welcome German troops as liberators.jpg

また、別の章ではスターリングラードの戦いを起点に、非ドイツ人志願兵に参加呼びかけ、
すなわち武装SSの新師団へ参加するウクライナの若者たちの話もありました。
ドイツでの労働は免れたい彼らは、よく訓練された軍事力を持つことでロシアに対抗できると、
第14SS武装擲弾兵師団 ガリツィーエン(ウクライナ第1)が誕生。

しかし願いも虚しく、まともな訓練も受けないまま、「ブロディの戦い」へ投入され、ほぼ全滅。。
再編成後、ウクライナ国民軍第1師団となって・・と続き、
この「ガリツィーエン」に関しては初めて読んだ気がします。

14th Waffen Grenadier Division of the SS (1st Galician).jpg

またこの「ガリツィーエン」が全滅したころ、ドイツのソ連労働者の「Ost」が改変され、
ロシアとウクライナ、別々のパッチとなっていたのを発見しました。
仲悪すぎて、一緒に働かせると効率が悪かったんでしょうかね。。
ロシア人はブルークロスのマークで、これはロシア解放軍「РОА」のデザイン。
ウクライナ人は黄色と青にウクライナの国章「三叉槍」で、これもウクライナ義勇軍「YBB」と同じ。

poa.jpg

戦争の始まった1939年時点では、まだ独立国家だったバルト3国のDPも、
祖国がソ連に組み込まれたいま、帰国を願うのは少数派。
生き残ったDPの最大集団はポーランド人。
しかしウクライナ人と名乗るべきだった人々がココに多数含まれていたと推測。
そして強制収容所から出てきた20万人のユダヤ人、
西側占領区域には5万以上が生き残っていたものの、うち2万人が1週間と経たずに死亡。。

「戦争難民」という意味では東方から逃げてきた何百万というドイツ人も対象です。
ベルリン周辺にはホームレスとなった人々が溢れているだけでなく、
さらにチェコスロヴァキアから500万人のドイツ人が追い出され、じきにやってくるのです。

Ein erschöpfte russische Zwangsarbeiterin ruht sich im April 1945 in der Sammelstelle für Zwangsverschleppte in Würzburg auf Gepäckstücken aus.jpg

ドイツ軍の降伏後、ミュンヘン会談の侮辱やリディツェ村の虐殺などに対する報復の声が高まり、
チェコ人兵士がドイツ人をめった打ちにし、銃で撃ち、拷問にかけ、首を吊ったら火をつけ、
自警団はドイツ人を自宅から追い出し、国境の向こうへ追いやったのです。
その報復の激しさにはロシア人でさえ驚き、あるドイツ人は、婦女暴行の癖を別にすれば、
「ロシア兵の方がチェコ人より遥かに人情味があって信頼できる・・」。

Germans-expelled--1945.jpg

ポーランドでも追い出されたドイツ人は不幸な旅を続けます。
荷車はポーランド兵に強奪され、若い娘は悲鳴を上げながら畑へ引きずり込まれ、
わが娘を助けようとした男性は撃ち殺され・・。

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戦後2年半が過ぎても、ドイツとオーストリア、そしてイタリアにはまだ100万を超えるDPが。
DP収容所の数は762にものぼります。
マーシャルプランなどドイツ経済復興が優先事項になると、DPはルール地方の炭鉱で働き、
最大の雇い主はフォルクスワーゲン工場で、ここでは多くのウクライナ人とバルト人が・・。

German propaganda poster in Polish language _Let's do agricultural work in Germany_.jpg

後半の第15章では、「レーベンスボルン」のその後についても書かれていました。
選び抜かれたナチ党員の男性と女性が生んだ「アーリア人」の子供ではなく、
ポーランドなどから誘拐した「金髪で青い眼」をした子供たちについてです。
このような子供を捜索、発見するとドイツ人の育ての親の腕から引ったくり、
子も母もさめざめと泣くなか、本国へと帰されるのです。
しかし、実の母との再会を果たすことは少なく、ほとんどが孤児院行き・・。
子供の親が生きており、我が子を取り戻したがっているかは、二の次なのです。

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西欧諸国が最終的に受け入れた難民の数は17万人。全体の1/5です。
この問題の恒久的解決策は「海の向こう」、南北アメリカと英連邦しかありません。
カナダは森林作業にバルト人の若い労働者を中心に受け入れ、
90%が英国系だった広大なオーストラリアも、防衛力不足を理由に受け入れます。
ベロン政権が移住を促進しているアルゼンチンにも多くのDPが流れ、ブラジルにも・・。
ガーランドやルーデルといった空軍出身者や、メンゲレアイヒマンなども思い出しますね。

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やっかいなのはユダヤ人の扱いです。
トルーマン大統領は1947年の日記にこう書き記します。
「ユダヤ人は物凄く利己主義だ。自分たちが特別扱いさえしてもらえれば、
多くのバルト人やポーランド人が虐待されたり、殺されたりしようと気にしない。
だが彼らが財力なり、政治力なりを持ったら、
無慈悲さや負け犬の虐待の点では、ヒトラーもスターリンも敵わない」。

そして、なんでユダヤ人に我らの土地を分け与えなければならんのだ・・と、
不満タラタラなパレスチナにイスラエルが建国されると同時に
ユダヤ人DPは、その地へと向かうのでした。

元々ドイツ系の多かった米国、フーヴァーにアイゼンハワーリンドバーグらですが、
最終的にはこの国もドイツ人を含む、多くの難民を受け入れることに・・。

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昔から海外のスポーツが好きなヴィトゲンシュタインは、
NFLの選手の名前からナニ系米国人だとかをよく想像したものです。
もう20年前ですが、確かグリーンベイ・パッカーズに○○ヴィッチという選手がいて、
ストイコヴィッチ(Stojković)のようなユーゴ系だと思いきや、スペルは"○○vich"でした。
"vic"は英語読みだと、"ヴィック"になってしまうので、末尾に"H"をつけて"vich"。
当時聞いたところでは、ヴィックと呼ばれても構わないという人と、
スペルを変えてでもヴィッチと呼ばれたい人の差だそうで、
お父さん、お爺さんの代に変更したんでしょう。

現在ならテニス界で、錦織くんのライバル、カナダのラオニッチ(Raonic)も
少し前までラオニックと英語読みされてましたが、モンテネグロ出身なのでラオニッチに統一。
同様にオーストラリアのトミッチ(Tomic)は、まだ日本ではトミックとも呼ばれてますが、
親父さんはクロアチア人だし、大抵の審判もトミッチと呼んでいます。
まぁ、そんな移民の、名前からしての苦労も想像できますね。
いま売出し中のアルゼンチン人、ディエゴ・シュワルツマン(Diego Schwartzman)くんも
ナチ党員の移民の子孫だったりして・・なんて不謹慎なことを考えてみたり・・。

Raonic_Tomic_Schwartzman.jpg

本書のターゲットはあくまで一般の避難民(DP)であり、ドイツ軍捕虜は対象外となっています。
ですから、その捕虜たちの運命を知りたい方は、パウル・カレルの名著「捕虜」や、
消えた百万人」を読まれればよいでしょう。特に前者は超オススメです。

Berlin in Summer of 1945 (5).jpg

読み終えて、当初は各国の避難民がどれくらい悲惨な暮らしを強いられたのか??
に注目していましたが、結果的には戦後のイスラエル建国の経緯や、
現在、世界中に暮らしているの移民の2世、3世に思いを馳せたり、
そういえばドイツ系の英国人、その逆の英国系ドイツ人ってあまり聞かないな・・など、
戦後の難民たちの希望と、各国の思惑によって、紛争を含めた現在の世界が
出来上がったということがある程度、理解出来ました。

そして特に現在のロシア-ウクライナ問題に通じる歴史や、
近年、ドイツに対する戦後補償を求める当時の人々との裁判の話などは、
日本も隣国から求められたものとも似ていることが印象的でした。



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消えた将校たち -カチンの森虐殺事件- [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

J.K.ザヴォドニー著の「消えた将校たち」を読破しました。

2009年に公開されたアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」。
当時、その映画の原作本を先に読んで、映画も鑑賞しましたがインパクトありましたねぇ。
それ以降、何度かこのBlogでも取り上げたことのある事件ですが、
2010年に出た最新の研究書「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」をチェックしつつも、
2012年に同じみすず書房から出た280ページの本書を選んだ理由は、
「カティンの森の夜と霧」という1963年の古い本を大幅に改訂した新版であり、
1944年のワルシャワ蜂起にも参加した著者による、冷戦時代の謎解きのような内容・・
という紹介に惹かれたことです。

消えた将校たち.jpg

1939年8月31日、ハイドリヒの命を受けたナウヨックスによってグライヴィッツ事件が起こり、
翌日、ドイツ軍によるポーランド侵攻が始まります。
ポーランド政府はルーマニアへと逃れ、東から侵攻してきたソ連軍とに分割されるポーランド。
ドイツ占領下はハンス・フランクが「ポーランドのドイツ人国王」を自認し、
一方のソ連占領下では、すぐさまソ連北部への大量国外追放が始まって、
一家全員が無理やり列車に積み込まれ、その人数は120万と推測されます。

それとは別にソ連軍に捕虜として捕えられたポーランド軍将兵は25万人。
その内、将校は1万人です。
そして8000人以上の将校を含む、15000人の捕虜が完全に地上から姿を消えうせ、
この行方不明者の運命を辿るのが本書の目的としています。

Warsaw_1939_Polish_POWs.jpg

独ソの侵攻から2年後の1941年7月、ロンドンのポーランド亡命政府とソ連の間で、
正式に外交協定が交わされます。
ソ連がドイツに襲われた結果、英ポとソ連は手を組むことになったのです。
議定書には「ソ連で自由を剥奪されているポーランド人捕虜と市民に対する大赦」が明記。
元捕虜による在ソ連ポーランド軍が編成され、釈放されたアンデルス将軍が指揮を執ることに・・。

Władysław Anders.jpg

しかし毎日、数千人単位でやってくる釈放された捕虜たちですが、将校は滅多に現れません。
14人いるはずの将軍も、現れたのはわずかに2人だけ。。
高級参謀将校300名もやってきたのはたった6人。大多数が行方不明なのです。
労働収容所中央管理局(グラーグ)に問い合わせても埒が明かず、
逆に勝手に動き回っていることをNKVDから抗議される始末・・。
遂に外交レベルの捜索へと発展し、ロンドンのシコルスキ将軍はモスクワへと飛び立ちます。
「彼らはどこにいるのか?」という執拗な問いに、スターリンは答えます。
「彼らは満州へ逃亡した」。

あらゆる努力にもかかわらず、たった一つの手がかりすら掴めずに1年8ヶ月が過ぎると、
1943年2月、スモレンスクの西方数㌔に駐屯していたドイツ軍部隊が
「革長靴を履き、胸には勲章を付けたままのポーランド軍将校の死体」を多数発見するのでした。

Massaker von Katyn 1943.jpg

4月9日の「ゲッベルスの日記」には、この事件について記載されています。
「ボルシェヴィキはポーランド人捕虜1万人をあっさりと撃ち殺し、
穴に放り込んで埋めてしまった・・」。
そして宣伝大臣の本領を発揮して、ドイツのラジオ放送は全世界に発表。
連合国の一政府が同盟国の将校団の半分近くを殺してしまったことを暴露することで、
その連合国の結束に亀裂を入れることを狙ったものです。
1943年4月、すなわちスターリングラード戦と、クルスク戦の間・・という時期がミソですね。

Himmler and Goebbels.jpg

2日後にはソ連が声明を発表します。
「1941年に建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、
ドイツ・ファシストの死刑執行人の手に落ち・・」。
ナチス占領下の人々や連合国は、ドイツの言うことなど信用しません。
そこでゲッベルスとヒムラーは12か国から成る国際調査団を要請。
ベルギー、ブルガリア、デンマーク、フィンランド、オランダ、チェコ、ルーマニア、スイスといった
国々の著名な法医学の学者や専門家が、完全な行動の自由のもとに解剖を行います。
さらにはポーランド赤十字の医学チームもやって来ますが、このチームには
地下組織の秘密メンバーも含まれていて、ロンドンの亡命政府へ情報を伝えるのです。

katyn 1943.jpg

犠牲者は冬外装を着て、白い縄で両手を後ろ手に縛られ、その縄はソ連製であることが判明。
おがくずを口いっぱいに詰め込まれた遺体もあれば、腕や腿に銃剣の傷がある遺体も・・。
必死に抵抗した彼らの傷は、ソ連軍が使用していた銃剣によるものということもわかります。

ポケットの中は個人情報の宝庫であり、身分証明書に日記や手紙、写真の数々。
立ち合ったポーランド人もこれらが本物であることを確認します。

Katyn, Öffnung der Massengräber, polnische Rot-Kreuz-Mitarbeiter.jpg

予備役将校の遺体が多いのも特徴です。
数百人の法律家と小中高校員、21名の大学教授、300名の医者やジャーナリスト・・。
また、女性もひとり含まれます。
彼女はソ連の捕虜となっていたポーランド空軍の中尉で、
調べたところ、Janina Lewandowskaという名だと思いますね。

Janina_Lewandowska.jpg

4000体を超す遺体がこのカチンの森から発見され、埋められたのは1940年の春と特定。
独ソ戦の始まる1年以上前であり、当時、ここはNKVDの保養所だったのです。
あ~、映画「カティンの森」のシーンを思い出しますねぇ。観てて怖かったです。

Katyn_2007.jpg

この当時、ワルシャワにいた著者。この事件は大ニュースとして伝わりますが、
ドイツの宣伝にも関わらず、下手人が誰かは確信が持てません。
なぜなら、あのシュトロープ将軍による「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の大鎮圧作戦
ポーランド側から言えば「集団殺戮」が同じ時期、1943年4月には始まっていたからです。

Warsaw Ghetto Uprising.jpg

ソ連はポーランド政府に対し、「カチンの虐殺がドイツの犯行である」という
声明を出すように求め、それを拒否するポーランド政府。
腹を立てたスターリンはルーズヴェルトとチャーチルへ書簡を送ります。
「現在のポーランド政府がヒトラー政府と共謀するまで堕落し、事実上ソ連との同盟関係を断ち、
敵対的態度を取るようになったと見なさざるを得ない。
この理由により、ソ連政府はポーランド政府との断交を決定した」。

Sikorski stalin.jpg

チャーチルはシコルスキ将軍にお灸をすえ、忠告します。
「もし死んでいるのなら、何をしようと彼らを生き返らせることは出来ない」。
また、ルーズヴェルトの反応も同様です。
そんなシコルスキ将軍の乗った搭乗機が7月4日に墜落・・。
一応は事故ですが、タイミング的に「謀殺」説が強いそうな。。

Gen Sikorski, Winston Churchill and de Gaulle.jpg

ドイツ軍が埋め直した遺体が再び、掘り返されます。
このカチンの森まで進撃してきたソ連軍が改めて調査を行おうとしているのです。
結局、ドイツの報告書の1/15ほど、ポーランド調査団の1/20の報告書を作成。
もちろん都合の悪いことには一切、触れられません。

こうして終戦を迎え、始まったニュルンベルク裁判では、米英の反対を押し切り、
「ドイツによるカチンの森虐殺」を告発するソ連。
ソ連側の証人には1943年にドイツが組織した国際調査団のひとりである
ブルガリア人のマルコフ博士が含まれ、
博士はかつての自説を完全に覆し、全員がドイツに強制されて署名したと証言します。
実は「ドイツがやった」と主張したマルコフは、ブルガリアへ進軍してきたソ連軍によって逮捕、
数ヵ月の投獄の後、国際調査団に参加したことで「人民の敵」の罪を認めていたのです。。
ソ連側検察は奮戦するも、関与したとされるドイツ人の反論の前に告発はウヤムヤに・・。
英空軍将校の捕虜50名が殺害された「ザガン事件(『大脱走』)」については徹底的に究明され、
関係者が裁かれたものの、ポーランド人捕虜4000人の死は無視されるのでした。

The Great Escape_Attenborough.jpg

実はここまでの経緯は本書の前半部分で書かれ、中盤からは虐殺の再現へ・・。
1939年に捕らわれたポーランド兵25万人は138か所の収容所に集められ、
そのうちソ連領内の3ヵ所の収容所の捕虜が虐殺の対象となります。
半年間、NKVDから徹底的に尋問され、思想教化が図られ、448人が合格。
大多数が「ポーランドに送還される!」という噂が意図的に流され、出発する捕虜の名簿が発表。
先陣を切るのは将軍たちで、盛大な喝采を浴びながら収容所を出発します。
残された448名は希望を失いつつありますが、実は彼等こそが生き残れるのです。

比較するのは不謹慎ながらも、映画「コーラスライン」の最終選考シーン・・、
名前を呼ばれて一歩出て、合格と信じて笑みを浮かべたのも束の間、「お疲れさん・・」、
を思い出してしまいました。

katyn Andrzej Wajda.jpg

ベルリング大佐は思想教化された生残りとして、NKVD長官のベリヤに食事に招かれます。
ポーランド軍装甲師団をつくりたいと述べるベリヤに、部下の将校を呼びたいと語るベルリング。
ベリヤは答えます。「我々は大変な失敗をした。大変な誤りを犯した・・」。

beria.jpg

独ソ戦が始まるとベルリングは、アンデルス将軍の新ポーランド軍に入隊しますが、
一年後には脱走。
アンデルス部隊は英第8軍と合流するために中東方面に向けて出発し、
英国構成部隊として、モンテ・カッシーノで甚大な死傷者を出しながらも勝利。

1943年にポーランド共産主義者が組織したポーランド部隊を率いることになったベルリング。
こちらの部隊は赤軍に加わり、ベルリン攻略に挑むのです。
ふ~ん。「スターリンの外人部隊」を再読したくなってきましたねぇ。

Zygmunt Berling wysyłając swoich żołnierzy na drugi brzeg Wisły.jpg

なぜ、ソ連がポーランド将校を大量虐殺したのか・・?
本書では様々な角度からその理由を探りますが、こんなエピソードも。
1943年にカチンの森が発見されたというニュースがドイツの捕虜収容所にも伝わります。
ここにはベルギー、ポーランド、ロシアの捕虜が収容されていますが、
超有名な捕虜、ヤコフ・ジュガシヴィリ、すなわちスターリンの息子の姿もあります。

Yakov Stalin con oficiales de la Luftwaffe durante su cautiverio.jpg

「1万のポーランド人が殺されたくらいでこんなに騒ぎ立てるとは何事かね?
ウクライナの集団農場化のときには300万人くらいが死んだぞ!
ポーランド軍将校・・あの連中は知識人で、我々にとって最大の危険分子だ。
絶滅しなければならなかった」。
ついでに、ドイツの残忍な方法と違って、人道的な方法で絶滅されたから安心しろ・・と語ります。

katyn-2007.jpg

戦後、共産主義政権となった著者の母国ポーランドではカチン事件に触れられることも少なく、
相変わらず、ドイツ軍によるもの・・と結論付けた研究書が出版されます。
また、著者はルーズヴェルトもチャーチルも、ソ連政府を犯人とするより、
ソ連を反ドイツ陣営に引き留めておくことが大事であり、なにより勝利が優先し、真実を封印する。
そして戦後も、国連組織にソ連の協力を確保する方が大事だった・・と理解しています。
最後には戦勝国の犯罪、敗戦国の犯罪にかかわりなく、審理する法廷の必要性を訴えます。

Katyn_massacre.jpg

本書の発刊当時は冷戦時代であり、未解決であったこの事件は、
単なるポーランド軍将兵の虐殺という問題だけでなく、
後の独ソ戦によるドイツ軍捕虜に対する「思想教化」、朝鮮戦争の捕虜に至るまで裏で指揮し、
国際的な大きな懸念であったことが伝わってきました。

末尾の「解説」で2012年現在の最新の情報が書かれていました。
この「カチンの森事件」の被害者は最大2万5千人であり、その現場は複数に及びます。
2001年になってもキエフ郊外の森で2000人の遺体が発見されており、
ゴルバチョフが明らかにした後も、封印されていたすべての資料が公開されておらず、
全ての発掘も終わっていない・・、この事件はまだ進行形なんですね。
ロシア人学者の書いた「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」も読み比べしたくなりました。








:st
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共産主婦 -東側諸国のレトロ家庭用品と女性たちの一日 [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

イスクラ 著の「共産主婦」を読破しました。

このBlogでも人気のある「ニセドイツ〈1〉」、「ニセドイツ〈2〉」の共産趣味インターナショナル。
本書は3月に出たばかりのシリーズ"vol.4"です。
内容は表紙の帯に書かれたとおり・・としか、言いようがありませんが、
当時の雑貨だけでなく、各国の文化や旅行などにも言及しており、
「ニセドイツ」を彷彿とさせる部分も多々あります。

共産主婦.jpg

まずは「東ドイツ」から・・。
帯のかわいい人形さんが1980年の東ドイツの生活を紹介してくれますが、
彼女の名前はモニカ、ライプツィヒ在住の22歳で電話局勤務、
夫のジークフリートと2人暮らしで、趣味はお菓子作り・・としっかりしたプロフィール。。

朝の5時起きで生活がスタート。
東ドイツのどこの家庭でもあったというコルディッツ社製のコーヒーカップ、
勤務先の食堂で使える「食事補助券」などがオールカラーで紹介されます。
「いつ何時食材が買えるか分からないので、主婦は折り畳んでバッグを忍ばせて・・」と、
デデロン素材の買物袋が・・。
関西のおばちゃんは折り畳んだレジ袋をいつも持ち歩いている・・というのを
聞いたことがありますが、同じ感覚なのかな??

共産主婦_1.jpg

夜の10時、夫婦での語らいの時間。
「ジギー! 私の予想では「トラバント」はあと5年で来るわ!」。
と、あのボール紙の車と揶揄された東ドイツ車も。

「旧共産圏共通コラム」では、いきなり生理用品について詳しく解説します。
東ドイツのタンポンもカラー写真で、こりゃ公共の場所で読むのはちと恥ずかしい。。
いや~、でもタンポン。。
この話題に中年男が触れるのもはばかれますが、ちょっとした思い出があります。
中3当時、女子の机の中からタンポンを発見した奴がいて、
帰りにヴィトゲンシュタインの部屋に4人ほどが集まって、この未知の品を研究・・。
筒を一度外したら元に戻らなくなったり、悪戦苦闘の末、
「水に浸してみようと!」と、コップにの中に入れてみたら、ブア~!と広がって「うぁ~!」。。

共産主婦_2.jpg

そんなことはど~でもいいですね。
次は1972年のポーランドの生活で、22歳のアグニエシュカが登場。
1932年にと、戦後の1965年にイタリアのフィアット社とライセンス契約を結んだという
「ポルスキ・フィアット」という自動車が面白いですね。
走りが軽快で、英国などの西側にも大量に輸出されたそうですが、初めて知りました。

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お休み前にビールを一杯。
彼女の住むクラクフには、1856年に創業された「ジヴィエツ」という
有名なビール醸造所があり、クラクフ地方の民族衣装がデザインされたラベルも2枚。
世界各国のビールを呑んできたヴィトゲンシュタインですけど、コレは知らなんだ。。

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「休暇の過ごし方」では、ワルシャワの文化科学宮殿が印象的です。
1955年に完成したスターリンの贈り物という42階建ての大建築。
まさしくスターリン様式であり、ソヴィエト支配を象徴する建造物ゆえ、
住民は嫌悪感をもっているそうです。

Pałac Kultury i Nauki.jpg

続いては共産主義のボス、ソ連をイルクーツクに住む30歳のナターシャが紹介。
ロシアでなく、「ソ連邦」の各共和国が入り組んでいますから、
例えば、お昼にはウクライナの「ボルシチ」、お茶の時間にはやっぱりウクライナの
ドヴビッシュ社の白に朱色の水玉模様でお馴染み・・という陶器。
凄い柄ですね。ツール・ド・フランスの山岳ジャージだな。。
そして、このティーカップで飲むのは、スターリンの故郷であるグルジアのお茶であり、
さらにこのお茶は「レーニン製茶工場製」という徹底ぶりです。

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そんなグルジアには、「スターリン博物館」が存在し、生家まで復元されていると・・。
う~む。。グルジアにおけるスターリンの評判はどんなもんなんでしょうね。

Stalin Museum.jpg

1972年にはペプシコーラのソ連で独占販売が合意に達し、
ソ連における初めての米国製品となり、
モスクワ・オリンピックの前年、1979年にペプシは大々的な販売を開始したそうです。

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次は1976年のハンガリー主婦事情です。
ブダペストに住む32歳のアンナが紹介します。
これまで各国とも朝昼晩の食事にも触れられていましたが、
どこもお昼にタップリ食べて、夜は軽く・・なんですね。
これは共産主義ではなく、東欧の文化なんだと思いますが・・。
このハンガリーでは「ベーチ・セレット」と呼ばれるハンガリー風カツレツ。
そしてハンガリーのソウルフードという牛肉のスープ「グヤーシュ」。
ドイツで言うところの「グラーシュ」ですね。うへー、美味そう・・。

共産主婦_4.jpg

フルシチョフによる「スターリン批判」を発端とした1956年の「ハンガリー動乱」にも
触れながら進みます。
ちょうど白水社の「ハンガリー革命 1956」を読んでみたいと思っているんですよねぇ。




こうしてハンガリー人の休暇といえばココ。
独ソ戦記好きなら誰でも知っている「バラトン湖」です。
中欧最大の湖であり、ハンガリー人は「海」と言っているそうで、
会社所有の保養所も多く、海外からバカンスで来る人も多いのだとか・・。

Balaton.jpg

26歳のヴェロニカが語る、1987年のチェコスロバキアの生活。
ここでも気になったのは自動車で、第三帝国好きのお馴染みメーカー、「シュコダ」です。
第2次大戦後に国営企業となったシュコダは、大衆車「シュコダ」を生産。
英国だけでなく、ニュージーランドやオーストラリアにも輸出されたそうです。

Škoda 110ls.jpg

途中2回の「コラム」では、紙のパッケージ入りで保湿ができたか怪しいソ連製コンドームと、
紙質が固くて、お尻が痛かったという各国のトイレットペーパー事情を・・。
なぜかコラムは「下ネタ」ですね。

共産主婦_5.jpg

1970年のルーマニアは24歳のマリチカが紹介。
もちろんマリチカ自身もドール(人形)ですが、ルーマニアの誇るレジェンド・オブ・10点満点、
コマネチ公認の「コマネチドール」がウケますね。似てなさ加減がなんとも。。

Nadia Comăneci _and_doll.jpg

最後は1981年のブルガリア。24歳のニナが紹介するのは
東ドイツの「ロボトロン」を凌いだというパソコン、「ブラヴェツ」です。
その他、農業国らしい野菜の切手シリーズもいい味出してます。
東ドイツの交通安全の切手とか、チェコスロバキアの毒キノコ切手など、
各国のデザインも個性的で、切手好きも楽しめます。

Czechoslovakia stamp Mushroom.jpg

4つめのコラムは「タバコ」。
家事、労働、育児とこなす共産主婦たちの息抜きがお茶とタバコの時間だとし、
特にロシアは伝統的に女性の喫煙率が高かったそうです。
そんなロシア製のタバコ、ドゥカット社の「トロイカ」は可愛いパッケージ。
しかし2007年には日本のJTに買収されたそうです。
エストニアのタバコ、「タリン」もJT傘下となり、ルーマニアの「ドゥナレア」も同様。。
JTは世界各国、荒らしまくってるんですねぇ・・。

Troyka.jpg

本書は当時の「共産主婦」の目線から生活雑貨を紹介したものですが、
このように"一般的日本中年男"が読んでも楽しめる内容となっています。
ただし、客観的に考えても、このレビューが本質をついているなどということは、
決してありませんので、騙されずに女性らしい雑貨を楽しんだり、
あまり知られていない「共産主婦」の日常を自分に置き換えて夢想してみたり、
東欧の歴史と文化を学んでみるキッカケにしてみたり・・と、
人それぞれの楽しみ方がある一冊だと言えるでしょう。

共産主婦_6.jpg

実は本書の他、「ニセドイツ」、「世界軍歌全集」、「消滅した国々」を手掛けた
編集者さんと最近お会いすることができ、2時間ばかりお話させていただきました。
ヴィトゲンシュタインが数ある書籍Blogと同じのは嫌だと思って始めたように、
この編集者さんも、世に出ていないような本を出版する・・という信念がベースにあり、
企画立案、組み版、カバーまで行っているというコダワリようです。
本書が男性でも楽しめる仕上がりになっているのは、お世辞ではありませんが、
この編集者さんのお力も大きいのでは・・と、読み終わって改めて思いました。



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スペイン戦争 [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
明けましておめでとうございます。

三野 正洋 著の「スペイン戦争」を読破しました。

スペイン内戦というテーマには数年前から挑戦してみたいと思っていました。
ナチス・ドイツの「コンドル軍団」派遣や、「ゲルニカ爆撃」程度は読んできましたが、
ど~も、本腰を入れづらい・・というか、背景や組織がややこしそうと、いつまでも敬遠・・。
そんなヘタレの独破戦線は、今年は勝手にチャレンジがテーマ。
そこで今回、本格的に理解するための取っ掛かりとして、
1997年、436ページの朝日ソノラマを選んでみました。

スペイン戦争.jpg

「まえがき」では、日本でも10数点のスペイン戦争に関する著書が出版されているものの、
革新的な勢力を心情的に支持しているために、イタリア・ドイツを含む
フランコ側に対する非難の色合いが強いとしています。
また、単純に「ファシズム = 悪」とも叫びたくないと、本書の中立性を宣言します。
いきなり難しい問題ですねぇ。
独破戦線は完全なドイツ寄りですから、戦記としてはフランコ・ファシスト軍を応援したいですが、
個人的に20数年のFCバルセロナ・ファンであり、レアル・マドリー嫌いという、
サッカーにおいては「反フランコ」なんですね。。
この精神的アンバランスが、今までスペイン内戦を掘り下げようとしなかった理由かも・・。

FC Barcelona 1994.jpg

第1章は「スペインの予備知識」です。
スペイン地図を掲載して、各地方と各都市を理解します。
「バルサとレアル スペイン・サッカー物語」というアンダルシアやバスクにも
言及した本を以前に読んでいますし、リーガ・エスパニョーラも毎週観ていますから、
行ったことのないスペインですが、この地理関係はOKですね。

それから「用語集」。
反ファシスト軍の総称が「人民戦線」であるとか、「コミンテルン」、
「無政府主義(者)、アナーキズム(アナーキスト)」、「ファシズム」といった言葉の意味。
恐らくこのBlogで初登場の「アナーキスト」ですが、
これについても少年時代セックス・ピストルズを毎日聞いていただけに、まったく問題なし。
ご存じない方に「anarchy in the u.k.」を英語とスペイン語歌詞でど~ぞ。



しかしさらに細かく組織単位の解説になると、コレがなかなか大変です。
政府である人民戦線側は、共産党、社会党、無政府主義者が主であり、
クーデターを起こした反政府側は、カトリック教会、軍人、ファシズム支持派が中核です。
真っ赤な共産党はカトリックを弾圧しますから、教会が反政府につきますし、
軍人と言っても一枚岩ではなく、フランコらはスペイン陸軍の正統派である王党支持グループ。
陸軍とは犬猿の仲の海軍士官は、政府側につく・・という分裂も起きています。

Generalissimo Franco TIME.jpg

第2章は「戦争前夜のスペイン」で、内戦に発展した政治的背景を解説します。
1920年代から始まった労働条件改善のストライキ、
共産主義者とアナーキストによる扇動、バスクやカタルーニャ分離主義者の存在、
政治テロによって1800人以上が殺されるという混乱続きのなか、
1936年の総選挙で左派の人民戦線側が勝利。
それによって貴族や地主、資本家に教会関係者らは国外に脱出。
イメージ的にはソ連の革命そのものですね。こうして軍部による反政府クーデターへ。

第3章では始まった「戦争の経緯」を簡単に年表と共に振り返り、
第4章で「各国の態度と介入の度合い」へ。
早速、フランコ側についたイベリア半島の隣国ポルトガルに、
コンドル軍団を派遣したドイツ。

LEGION CONDOR.jpg

最大級の介入を行ったのはファシスト・ムッソリーニのイタリアで、
5万人の遠征軍(CTV)を送り込みます。
総司令官はロアッタ将軍で、正規のリットリオ師団の他、
黒シャツ、黒い矢、黒い焔の名の付いた急造3個師団です。

Mussolini and Francisco Franco.jpg

一方の政府側には当然、共産党のボスであるソ連が、1000人の軍人と、
ポリカルポフI-16戦闘機、T-26戦車を派遣して全面バックアップ。
この当時としては世界屈指の最新兵器です。
また、フランスもこの時、右左に政治が揺れ動いており、左派のレオン・ブルム内閣が誕生。
同じ人民戦線としてスペイン政府支援に立ち上がるのでした。

第5章は「主要な戦闘」と題して、マジョルカ島を中心としたバレアレス諸島の争奪戦に、
内戦勃発から33か月間続いた首都マドリード攻防戦などを紹介。
なかでもグアダラハラの戦闘では、例の恐ろしげな黒シャツ、黒い矢、黒い焔師団が
見かけ倒しの民兵隊以下であり、先に逃げ出すのは常にイタリア軍人であった・・と。
最新鋭の装備を持ちながらも、敵の強力なT-26、BT5戦車70両の攻撃の前には
敵味方のスペイン人から笑いの種にされてしまうのもしょうがないですね。
この戦闘で戦死者2000人も出している位ですから・・。

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悪名高い「ゲルニカ爆撃」については4ページほど。
著者は「軍事的に見るかぎり、特別に非難されるものではないように思える」との感想です。
まぁ、この攻撃の真意についてはいろんな説がありますからねぇ。。

Dis Guernica nadat dit gebombardeer was in April 1937.jpg

ビルバオの戦闘ではフランコと共に反乱軍の指導者だったモラ将軍が、
飛行機事故で死亡します。
ゲルニカ爆撃に対するバスク人の復讐説に、フランコ将軍のライバル暗殺説など、
さまざまな噂がスペイン中を駆け巡りますが、
何はともあれ、フランコにとっては、その独裁的な地位が確立されたわけです。

Emilio_Mola.jpg

このちょうど半分が過ぎたところで、戦争自体は終わってしまいます。
以降の章は航空戦、海上戦闘、機甲戦単位で、より詳細に振り返りますが、
ど~も、どこまでが概要で、どこから本文なのかが良くわかりません。
その航空戦、まずコンドル軍団の解説では後期に投入されたJu-87が有名になったものの、
最も活躍した急降下爆撃機として、Hs-126を挙げています。

hs126.jpg

旧スペイン空軍では1000人のパイロットのうち70%がフランコ側につき、
反対に3000人の整備員の大多数が共和国(人民戦線)側につくという、大分裂が・・。
これは、パイロット = 士官(貴族・上流階級)、整備員 = 兵士(労働者階級)という図式です。
そしてフランコ空軍のスペイン人パイロットであるホアキン・ガルシア・モラト少佐が、
40機撃墜のトップエースということです。なかなかの数字ですねぇ。

GARCIA MORATO.jpg

無敵艦隊と云われたスペイン海軍も内戦が始まると混乱に見舞われます。
戦艦ハイメ一世の艦上では、空軍と同様に士官vs水兵に分かれた戦闘となりますが、
当然、人数の多い水兵側の勝利。80名の士官の全員が殺されてしまいます。
しかし、士官のいなくなった軍艦を水兵だけで操るのは大変で、行動不能になったり・・。

JaimeI.jpg

そしてドイツ海軍も最新のポケット戦艦ドイッチュラントを地中海に送り込み、
共和国政府が維持している湾岸都市や軍事施設に艦砲射撃を実施。
しかしマジョルカ島でツポレフSB-2爆撃機の攻撃を受け、死者31人、負傷者83人を出し、
設備の良い病院があるとの理由で、英海軍勢力下のジブラルタル軍港へ逃げ込みます。

deutschland.jpg

陸上の機甲戦の主役はソ連製の10㌧級最新戦車T-26とBT5です。
これに対してイタリアはL3軽戦車を600両も送り込みますが、1/3程度の3㌧しかないうえ
7.9㎜機関銃だけしか火力がなく、到底、太刀打ちできません。

cv33.jpg

フォン・トーマの指揮するドイツ装甲部隊もⅠ号Ⅱ号戦車では歯が立ちませんが、
1200門にも及ぶ、37㎜対戦車砲(PaK36)がソ連戦車を撃破。
また、フランコ側には鹵獲したソ連戦車も30両はあったということですから、
スペイン内戦でのT-26の写真だからといって、人民戦線側とは限らないようですね。

tanks in Spain.jpg

第9章は「国際旅団と外人部隊」です。
フランコ軍の反乱から共和国を守るために、世界54ヶ国から数万人が駆けつけ、
8個の国際旅団が編成されます。
ファシズムの蔓延に強い嫌悪感を抱いた知識人や労働者、学生たち、
または思想とは関係なく、単に冒険を求める若者たちの集まりですが、
スペイン語も話せず、軍事訓練も受けたことがない連中ばかりですから大変です。

中立を装っている英米からも大勢参加しているだけでなく、
ヒトラーやムッソリーニの政策に反発しているドイツ人、イタリア人の姿まで・・。
もちろんヘミングウェイも人民戦線側の取材記者として参加し、
帰国後、「誰がために鐘は鳴る」を発表するのです。
子供の頃にこの映画をTVで1回観ただけで、ほとんど覚えてないのが悔しいところ。。
ゲーリー・クーパーとヒトラーが好きだったというイングリッド・バーグマンですね。
ありゃ、これは「真昼の決闘」のペアじゃないの?? と思ったら、
あっちはグレース・ケリーでした。

For Whom the Bell Tolls_japan.jpg

また、ロバート・キャパの有名な「崩れ落ちる兵士」も含め、
こういうところからも、共産・共和国政府が「善」とされるんでしょうね。

Carteles de la Guerra Civil Española.jpg

函館出身とされるニューヨークの料理人、ジャック白井について9ページ割いています。
米共産党の義勇兵としてスペインへと向かい、食事だけでなく機銃手としても活躍。
しかし、そんな「戦うコック」も狙撃兵の銃弾を頭に受けて、戦死・・。
ちょうど10月に「ジャック白井と国際旅団 - スペイン内戦を戦った日本人」が
文庫化されました。ちょっと気になりますね。

jack shirai.jpg

内戦も2年目の1938年になると、フランコ軍の優勢は明らかとなり、
たいした戦闘力のない国際旅団は大隊単位で全滅することもしばしば・・。
本国で「大粛清」の始まったソ連軍も粛清されるために装備を残して引揚げ、
人民戦線内部でも共産主義者とアナーキストが殺し合い・・。
指導者たちはピレネー山脈を越えてサッサとフランスへ亡命します。。
ツール・ド・フランスのピレネー・ステージのような必死さでしょうか。

FALANGISTAS EN EL DESFILE DE LA VICTORIA.jpg

最後の章ではこの戦争を分析し、登場人物を改めて詳しく紹介します。
さて、本書は評価が分かれる気がしますね。
半分過ぎまで読んで、「お~、この展開で最後まで行くのか・・」と心配になりましたし、
実際、戦記らしい盛り上がりもなく、なんとなく終わってしまいます。

Four female Loyalists patrol the street with rifles over their shoulders, 1937.jpg

しかし、こうして振り返って見ると、それもまたアリなのかなぁ~と・・。
今まで、なかなか理解できなかった各々の組織とその関連性、
この内戦を理解するにはコレ位の基礎知識が必要だとも思います。
本書が面白かったか・・?? というよりも、本書を読んで、
スペイン内戦が頭の中でイメージできるようになったのは確かです。
これでいよいよ、ビーヴァーの「スペイン内戦―1936-1939」いけるかな? 

それとも上下巻で1575ページ!のボロテン著「スペイン内戦 革命と反革命」。。
いやいやコレは無理だ。
とりあえず元旦早々、パエリア食べて気合だけは入れました。



















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