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ロシアから来たエース -巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩- [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ナターシャ・スタルヒン著の「ロシアから来たエース」を読破しました。

EUROは2日間が終わってロシアは大勝、さっき終わったドイツは辛勝でした。
特にドイツは出来は良くなかったですが、自走砲部隊のような名前のセンターバック、
フンメルスが素晴らしかったですね。
そんな話はさておき、先日の「グラーグ」を読んでいたとき、TVでプロ野球初の300勝投手、
スタルヒンが「帝政ロシア出身」と紹介されてビックリ・・!
慌ててPCで調べてみると、彼の娘さんが書いた本書を発見して、すぐに購入。
スタルヒンという名前は沢村栄治と並び、伝説の投手として、後楽園球場まで歩いて行ける
地元の野球小僧は誰でも知っていましたが、無条件で米国人とばっかり思っていました。
確かにスタルヒンなんて米国人ぽくないですが、その当時は日本と米国くらいしか
野球なんてやっていないという先入観があったんでしょうね。
この234ページの本書、あまりの面白さに、久しぶりに一気読みしてしまいました。

ロシアから来たエース.jpg

ヴィクトル・スタルヒンは1916年、ウラル山脈東部の人口3万人という小さな村の生まれ。
まさに第1次大戦中ですが、翌年にはロシア革命が起き、ロマノフ王朝の将校だった父と一家は、
革命軍に追われ、ウラルから広大なシベリアを横断するという果てしない旅に出ることを
余儀なくされます。
国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びて、
日本への入国に必要な一人当たり1500円という大金をなんとか支払い、
北海道の旭川へ。ヴィクトルはすでに9歳に・・。

地元の小学校へ入学し、「ロシア負けた。ニッポン勝った」と虐められながらも成績も優秀、
抜群の運動神経をもって徒競走では20mも後ろからスタートさせられても一等になるほど・・。
大正から昭和にかけて全国的にも少年野球は盛んで、スタルヒンも学校のチームで活躍します。
しかしロシア・カフェを営む父親が店のロシア娘を殺害したかどで逮捕されてしまうのでした。

昭和7年、夏の甲子園を目指して北海道大会に挑む旭川中の怪童スタルヒン。
戦前は旧制ですから「○○高」じゃなくて、「○○中」なんですね。
惜しくも2年連続で甲子園行きの切符を逃しますが、昭和9年(1934年)にベーブ・ルースら
米国のスター選手が来日する第2回日米野球戦の全日本軍のメンバーにスタルヒンの名が・・。

日米野球戦.jpg

日本にはプロ野球は誕生しておらず、野球人気は六大学のアマチュアが支えていたこの当時、
文部省は学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならぬ・・と通達。
このため、主催の読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成することになるのです。
京都商業の沢村栄治を中退させたのと同様の手口で
スタルヒンを退学させてこのチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、
地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗します。

澤村 榮治.jpg

チームメイトはスタルヒンをさらわれないよう一致団結して彼の送り迎えをし、
誘拐魔が来たら、学生服のポケットに詰め込んだボールを浴びせようと考えます。
しかし、警察をも動かす力を持った正力松太郎の読売は、国籍のないスタルヒンを国外追放し、
殺人罪で入獄中の父親もろともスターリン個人崇拝の始まったソ連に
送り返すことをほのめかします。
とうとう、この脅迫の前に退学届を書き、チームメイトに知らせることもなく、
熊の彫り物を抱えたスタルヒンは、夜逃げ同然で上野駅に降り立つのでした。

young starffin.jpg

発足した巨人軍は翌年、アメリカ遠征に出発します。
しかし無国籍のスタルヒンに米国は入国を拒否するなど、トラブルも・・。
あの水原茂と同部屋となり、「先輩、アメリカって外国人ばかりですね」とか
「外国人って全然、日本語喋らないんですね」と
物心ついた時から日本で育った田舎者の少年そのものの感想で水原を呆れさせます。

試合では水原のようなベテラン連中が、速球は良いものの、ノーコンで四球の多い彼に
「トウシロウ!」、「アホ」、「どこ見てほおってんだ!」と代わる代わる怒鳴りつけてきます。
涙を流しながら「このままじゃ怖くて投げれません」と監督に訴え、
目を腫らしてマウンドに立ち続けるスタルヒン・・。

第1回米国遠征 秩父丸.jpg

遠征で味わった屈辱感ゆえ、日本国籍を申請しますが、190㎝近い六尺二寸の身長で
鼻の大きなスタルヒンに対し、役所は「どう見ても日本人じゃない」と一言で終了。
当時の日本では国籍取得のちゃんとしたルールもありません。
ペラペラの日本語を喋り、義理人情も重んじて日本人より日本人らしいと言われるスタルヒンも、
「外人」や「亡命者」というレッテルで、仲間も決して一線を越えてくれないことに悩み、
白系ロシア人の集まる御茶ノ水の「ニコライ堂」に友達探しに通って、
ついには花嫁まで見つけるのでした。
このニコライ堂はヴィトゲンシュタインも子供の頃から見ていますが、こういう教会だったんですねぇ。

ニコライ堂.jpg

「日本人より日本人らしい・・」と繰り返し語られるスタルヒンですが、
読んでいてヴィトゲンシュタインは横綱、白鵬を思い出しました。
今も大相撲では、やれ、日本人の横綱が何年いないとか、日本人力士が何年優勝していないとか、
NHKでも平気でアナウンサーが喋りますが、こういうのを聞くと
「白鵬が可哀想だなぁ・・」といつも思っていました。
当時のスタルヒンとなにも変わっていないんですね。。

白鵬 挙式.jpg

昭和12年になると、あの沢村栄治ですら「スタちゃんと並んで投げると、遅く見えるから・・」と
一緒に投球練習をするのを嫌がるほどになり、ノーヒット・ノーランも達成し28勝をマーク。
ちなみに怖い先輩方は「スタ公」と呼んでます。。
結婚し、MVPも受賞して絶頂期を迎えたスタルヒンですが、時は昭和14年、
1939年という戦争の暗雲立ち込める時代に突入。
満州遠征でも優秀投手賞の活躍をしますが、汽車のなかでは憲兵が「おい、そこの外人」と
ビザが無いことを理由に拳銃まで突きつけるのでした。

victor-starffin_巨.jpg

プロ野球も変革が始まり、タイガースは阪神、イーグルスは黒鷲、ライオンは朝日と横文字禁止。
こうなるとスタルヒンにも風当たりが強くなり、球団によって「須田博(すた ひろし)」と
勝手に改名させられてしまいます。
それでも無国籍者でロシア人の血を持つ彼は「敵性外人」という扱いで、
遠征で東京を離れる場合には、交通手段などを書いた届け出を警察に
いちいち出さなければなりません。

スタルヒン、呉波、白石敏男.jpg

そして警察を訪れ、キョロキョロするスタルヒンに「貴様、何しとる!」といきなりの平手打ち。。
著者は、届け出をしに来た人間に平手打ちを喰らわせる国がどこにあろうか・・としていますが、
当時の日本は映画やドラマで観るよりエゲツない感じです。
まして日本の秘密警察である「特高」に目を付けられているスタルヒンは尾行やスパイ容疑に脅え、
スター選手であってもTVの無いこの時代、一般市民は彼の顔も知らず、
ケンカを吹っかけられたり、蕎麦屋では店員にスパイと間違われて通報されたり・・。

戦前のスタア.jpg

そんな苦労に加え、肋膜炎を患いながらも登板を続け、勝ち続けるスタルヒン。
しかし遂に昭和16年12月に開戦・・。
試合前には近衛師団から借りた軍服に短剣を付け、
チームごとに「米英撃滅」と書かれた標識目掛けて手榴弾を投げるアトラクションが始まり、
後楽園球場の2階席には高射砲が備え付けられます。
沢村や千葉、吉原といった主力選手も戦場へと去って、
ユニフォームは国防色になり、帽子は顎ひも付き戦闘帽、
「セーフ」、「アウト」も日本語化・・。コレは確か「よしっ」とか「だめっ」てなったんでしたっけ??

いまや隣の区に行くのすら、警察の許可が必要となったスタルヒン。
水道橋まで電車で行くつもりが、ひとつ前の飯田橋で降りて歩いていると
「おい、こらっ」と警官がやって来て、そのまま逮捕・・。
平日は産業戦士として工場で働き、週末のみ試合することになったプロ野球。
日本人ではないスタルヒンは徴用されないものの、チームメイトと一緒に工場で働く道を選び、
長身を折り曲げて作業台に向かいます。
そんな彼の野球とチームを思う努力も虚しく、「外人」がいると軍部から野球禁止令が出されることを
恐れた巨人軍は、スタルヒンを野球界から「追放」するのでした。

Starffin.jpg

終戦を迎え、幽閉されていた軽井沢から東京へ戻ってきたスタルヒン。
たまたま知り合ったGIから仕事を貰い、進駐軍の一員としてなんとか生活も・・。
プロ野球はすぐさま復活し、巨人時代の恩師、藤本定義監督の「パシフィック=太平」への入団を
希望しますが、するとココに優先交渉権を振りかざし、彼を追放した巨人が横やりに・・。
紆余曲折の末、無事入団。かつての剛腕こそ衰えたものの、クレバーな投手に変身し、
金星スターズ戦での1勝で、プロ野球史上初の200勝投手になります。

スタルヒン トンボ.jpg

その後、金星スターズへと移り、吸収合併されて大映スターズ、離婚と再婚を経験して
トンボ・ユニオンズに移籍した39歳のベテランは、前人未到の300勝投手に輝くのでした。
しかしこの弱小球団はスタルヒンに引退を勧告。現役にこだわってごねるスタルヒンに
「正力さんが巨人で引退興行をやってくれるそうだ。よかったな・・」
最後に巨人のユニフォームを着てプレー出来るのなら・・と引退を決心した彼ですが、
結局、理由のないまま興行はお流れに・・。

トンボ300勝.jpg

プロ野球界は外人選手が記録を作るのを好まず、仮に記録を作っても
日本人が破れる程度の記録でなければならない・・と心の底に持っているのです。
スタルヒンはこう漏らします。「野球人生、僕は裏切られっぱなしだった」。

1986年の初版は「ロシアから来たエース―300勝投手スタルヒンのもう一つの戦い」です。
副題が違うのがおわかりのように、巨人だけで300勝挙げた訳ではないので、
その意味ではこの再刊の副題には「偽りあり」ですね。

大映 スタルヒン.jpg

しかし巨人ってのは、今も変わらずヒドイ球団です。。
本書での巨人は、ほとんどナチ党のようなイメージですので、
巨人ファンの方が読まれたらどういう印象になるかはわかりません。
逆に言えばヴィトゲンシュタインのようなアンチ巨人が読むと、その面白さは倍増しますし、
生まれたばかりのプロ野球と戦争、聞いたこともないチーム名など、
スタルヒン以外の部分も大変、楽しく読めました。

「おわりに 天国にいるパパへ」では1982年、スタルヒンの地元、旭川の球場が
日本で初めて一選手の名前の付いた「スタルヒン球場」となったことなどが紹介されます。

スタルヒン球場.jpg

実は最初の章で引退から2年後の昭和32年、自動車事故によるスタルヒンの悲惨な死の様子が・・
というちょっと衝撃的な展開です。
それを知っているからなのかも知れませんが、後半は可哀想でうるうるしてしまいました。
引退後から死までの間のスタルヒンについては、娘さんである著者は書きたくないそうで、
それゆえ、この事故死が「自殺」ともされているのも本書を読むと、う~ん。。

ナターシャ・スタルヒン.jpg

第1次大戦と第2次大戦に翻弄されたスタルヒンの人生。
日本人になりたいと願いながらも、死ぬまで無国籍のまま・・。
近頃は相撲だけではなく、サッカーやオリンピックでも、このような国籍問題がありますから、
いろいろと考えさせられました。
また、巨人入団までのスタルヒンの前半生が描かれた
「白球に栄光と夢をのせて―わが父V・スタルヒン物語」というのもあるようなので、
今度、読んでみようと思っていますが、本書は何度か再読してしまうでしょう。







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