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君はヒトラー・ユーゲントを見たか? 規律と熱狂、あるいはメカニカルな美 [ヒトラー・ユーゲント]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

中道 寿一 著の「君はヒトラー・ユーゲントを見たか?」を読破しました。

武装SSではない、純粋な青年団としてのヒトラー・ユーゲント本は今回で3冊目になります。
以前の2冊はかなり良い本で、これ以上、勉強できる本があるとは思っていませんでしたが、
1999年発刊で254ページの本書は、
ヒトラー・ユーゲント -第三帝国の若き戦士たち-」にも触れられていた
1938年(昭和13年)の「ヒトラー・ユーゲント来日」をテーマにしたものです。
しかし、「君は見たか?」と言われても、「ボクは見た!」って答えられるのは
発刊当時でも65歳以上のおじいちゃんじゃなければ無理ですよねぇ・・。

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まず、第1章「ヒトラー・ユーゲントとは?」で、ナチ党の青少年団でしかなかったものが、
ナチ党政権獲得以後、その他の数多く存在した青少年団を強引に吸収し、
国家として唯一の青少年団となった経緯を解説します。
反抗的な若者グループのひとつ、「エーデルヴァイス海賊団」にも触れて、
1944年秋、ケルン市のゲシュタポ本部長を殺害したかどで、
彼ら13名が「裁判抜きの公開絞首刑に処せられた」など初めて聞いた話もありました。
「エーデルヴァイス海賊団―ナチズム下の反抗少年グループ」でも買ってみようかなぁ。。

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続いて「日独青少年団交歓事業の経緯」の章へと移ります。
1936年11月、ヒトラー・ユーゲント指導者フォン・シーラッハより、日本の青少年団を招待し、
交流後、今度は一緒に日本に向かうという提案がなされます。
そして33歳のヒトラー・ユーゲント外国部長ラインホルト・シュルツェが
公式代表としてドイツ大使館に着任し、計画は現実的なものとなっていきますが、
まずは日本側から30名をドイツに派遣。その後、ヒトラー・ユーゲントが来日することで決定。
当時の日本には大日本連合青年団とか、大日本少年団連盟とか、帝国少年団協会とか
いろいろと青少年団が存在し、これらの中から団員が選抜。
代表団が一覧表になっていますが、19歳から25歳までで、平均は22歳くらいでしょうか。

Yoshinori Futara Baldur von Schirach Hitlerjugend Bremen 1937.jpg

そして1938年5月、神戸港から靖国丸に乗船する訪独派遣団一行。
第3章ではマルセイユからパリを経由して、7月2日にドイツ国境の街アーヘンに到着し、
歓迎を受けながらベルリンに到着する様子が詳しく書かれています。
カリンハルゲーリングを訪問したり、ヒトラー・ユーゲントらと1週間野営したりと
多忙な日程をこなしていると、8月には真新しい制服が完成します。
これは戦闘帽に団服、巻脚半にリュックといういでたちが「貧弱で惨めであった」と
在独日本人会によって作られたものです。
ヒトラー・ユーゲントの型に似ていて、緑のネクタイにねずみ色のワイシャツだそうです。

大日本青少年団独逸訪問.jpg

9月には訪独のメインイベントである、ニュルンベルクの党大会に出席。
第1日目にはホテルのバルコニーから姿を見せたヒトラーに感激し、
「BdMの団員の少女はもう泣いている」と彼らの記録から紹介。
第5日目の「ヒトラー・ユーゲントの日」の謁見に興奮するさまも興味深いですね。

Reichsparteitag 1938.jpg

ここまでも知らないことが多く、非常に楽しめる内容でしたが、
いよいよ来日するヒトラー・ユーゲント一行の様子は当時の新聞などを駆使して、
大変詳しく書かれています。
「彼らを多忙と疲労に陥れないよう、各地での行事は時間厳守、
簡素にして誠意のこもったものとし、神社、仏閣、史跡、青少年団生活、芸術、風俗、
武道に温泉」といったものを推奨して、北海道から九州まで、心構えを示します。
北原白秋作詞による「万歳ヒットラー・ユーゲント」といった曲も作られ、
コレは歌詞も載っていますが、かなりヒドイ・・。
ついでに曲も聞いてみましたが、輪をかけてヒドイ・・、酷すぎるぜ。。

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7月12日、訪独日本代表団の見送りを受けてブレーメンを出港し、8月16日に横浜港へ入港。
30名の団員は17歳~19歳がほとんどで、日本到着まで団長を務めるレデッカーくんでも20歳です。
その横浜港では数千の歓迎陣が迎えるなか、外国部長シュルツェが団長として感謝の辞を述べると
続いて副団長レデッカーくんが立派な日本語で「大日本帝国万歳!」を叫びます。

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東京駅に移動して日独大使や東京府知事らが出迎えるなか歓迎式典。
幹部団員はカーキ色の制服、団員たちは濃紺のユニフォームに襷掛けの白のベルトを結び、
胸には功績を示すバッジにハーケンクロイツの腕章、褐色のワイシャツに黒のネクタイという姿に
「これが青年団なのか」と驚きと賞賛の声が・・。
その機械的で美しく一糸乱れぬ行進も、すべての日本人を魅了するのに充分です。

Japanese crowds welcoming Hitler Jugend in front of Tokyo station.jpg

その後は現在の皇居である宮城広場へと行進し、明治神宮に靖国神社を参拝、
本日の宿泊は新橋の「第一ホテル」となっております。
3日後には最初の大きな行事、歓迎野営と富士登山。
日本の青少年団500名が待ち受けるなか、夏季用の真っ白なユニフォームで登場します。
「わぁ!」という歓声が巻き起こり、みな大興奮で写真を撮ったり・・。
ヒトラー・ユーゲントらも九合目で御来光を拝しながら、
富士山頂からの大パノラマに感嘆の声を上げるのでした。

ハイル! 天皇陛下.jpg

軽井沢では近衛首相の晩餐会が開かれますが、
食後には首相と共に円陣を作って歌ったりと大はしゃぎ。
「全く感激した。あんな遊びで僕たちも総理をいくらかでも慰めるのに役立ったと思う」と
20歳のシュレーターくんは感想を語ります。

近衛内閣総理大臣.jpg

ちなみに本書によると来日メンバーにはBdMの女子は入っていないそうですが、
在日ユーゲントも度々、合流したそうですから、このような写真もあるようですね。
しかし、このドイツ大使館と思われる庭ですが、さすが提灯もハーケンクロイツ・・!

Dinner at the German embassy on their first day in Japan.jpg

軽井沢からは東北、北海道を巡る旅。
わずかな停車時間でも各駅には女学生群が押し寄せ、
車窓に詰め寄ってのサイン攻めに、人形などのプレゼント攻撃が・・。
会津若松駅ではユーゲント一行がドイツ国歌に続き、「君が代」まで合唱します。
東山温泉の旅館では初めての純日本式ということもあって、
温泉に飛び込んだり、浴衣姿で刺身もパクついたり・・と日本を満喫。

Japanese girls doing a stage show for Hitler Jugend.jpg

翌日は飯盛山にある白虎隊の墓が参拝予定ですが
折からの雨と強風で中止しようとの意見も、彼らの強い希望で決行。
同年代の「白虎隊」に特に強い関心を持っていた彼らですが、
報道陣が写真を撮るために白虎隊の墓に上ったりする様に苦言も呈します。。

何を隠そう江戸時代から続く??日本舞踊の家系に育ったヴィトゲンシュタインは
子供の頃にこの「白虎隊」を演じたことがあるので、改めて興味を持ちました。
当時は「白虎隊」がなんたるか・・も知らず、たぶん、男らしく「刀」を使った演目が踊りたいという
要望を両親に出したんでしょう。覚えているのは最後に切腹で果てるトコだけですが・・。
「白虎隊」という本もいろいろ出ていますので、今度、なにか読んでみようと思います。

花の白虎隊.jpg

秋田、青森を経て、連絡船で函館に入港。そのまま札幌へ・・。
軽井沢で風邪でダウンしていた2名が合流しますが、
会津若松で転倒して怪我をしていたローターくんが治療のために残留することに・・。
仙台から東京へと戻ると、陸軍幼年学校を訪れ、日本刀鍛錬見学に、三越デパート見学、
相撲部屋見学、講道館にも行ったかと思えば、合間には外相招待のお茶会にも出席し、
夜には日比谷公会堂での朝日新聞社主催の歓迎大講演会とハードスケジュールをこなします。
ちなみに本書では多くの写真が掲載されていますが、
白鵬も敬愛する大横綱、双葉山との写真も出てきました。

Hitlerjugend visit to Yasukuni Shrine State Shintō wreath procession kannushi 1938.jpg

まだまだ、大島に渡ったり、鎌倉見物と続きますが、9月25日のせっかくの休養日、
由比ヶ浜海岸を散歩していたフォルタースドルフくんは海の中で溺れる20歳の娘を助ける羽目に。
当然、新聞にも大きく掲載。「盟友青年が救助/投身娘、感謝に泣く」

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明治神宮外苑陸上競技場での最大の歓迎行事が行われると、
10月から近畿、九州、四国を巡る旅に・・。
岐阜では鵜飼を見物し、名古屋城見学、愛知一中とのサッカーの試合では2-0と勝利し、
伊勢神宮参拝して松坂から奈良ホテルへ。
春日神社に大仏を拝んだ後、京都に到着。駅前広場では一般市民3万人の「万歳」の声の中、
二列縦隊でまたもや「一糸乱れぬ壮重な足どり」で東本願寺前まで行進。
こりゃ大変ですねぇ。

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さすがにこの頃は班ごとに分かれて行動し、休養班も出来たと思えば
元気な希望者は比叡山にも登ります。
そして大阪ではその歓迎ぶりが最高潮に達し、沿道の観衆5万人が日独の国旗を打ち振って、
「天にも轟けよ!」とばかりに万歳を連呼。
大ブラスバンドの行進曲に合わせて右手を高く差しのべながら
新大阪ホテルまで行進するのでした。

Hitler Jugend 1938.jpg

四国に入ると瀬戸内海の景色に感動し、彼らが日本の発祥の地と語る九州にも上陸。
しかし文部省からこれまでと同じような歓迎行事や観光は慎むようにと伝達されていたものの、
さしものヒトラー・ユーゲントも繰り返される歓迎行事には辟易。。
サッカーやハンド・ボールの試合が若い彼らにはとても楽しめたようですし、
副団長レデッカーくんは「日本の異文化を理解することに相当疲れ、
最高の印象は富士山の荘厳な姿であり、江田島の海軍兵学校は
近代化の衣を着けたる日本武士道の神髄であった」と語ります。

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九州を一周したあとも広島、神戸と訪れ、11月12日、ついに日本滞在最後の日を迎えます。
日本中が熱狂したヒトラー・ユーゲントですが、外務省の担当者の批判的な談話も。
「確かに彼らは体格も良く、眼鏡もかけていないが、途中病気で落伍した者の人数を数えれば
日本青年は断じて負けておらず、体力の問題ではなく、精神の問題である」。
さらに「良い青年たちだがナチス的な考え方しか知らず、自分というものがなく、
融通の利かない鈍重なドイツ人には鉄の如き規律の組織が適しているのだ」。

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それでも彼らヒトラー・ユーゲントが残した影響もあって、大きく3つに分かれていた
日本の青少年団も1941年に一元化されることになります。
また一回こっきりと考えていた日本に対し、ドイツ側から第2回を行いたいとの要望が来たものの、
1939年の独ソ不可侵条約の衝撃で平沼内閣が総辞職という事態もあって中止。。
しかし1940年には指導者6名の相互派遣が実現して、まずドイツ側が来日。
1941年2月には訪独団がベルリンに到着しますが、「独ソの風雲ただならぬ」として6月6日に出発。
21日に東京へと戻りますが、その翌日には「バルバロッサ作戦」が・・。

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著者は「ヒトラー・ユーゲントがやってきた」という本も1991年に出しており、
あとがきによると本書は、訪日部分を中心とした続編だということですが、
単なるヒトラー・ユーゲントものの一冊ではなく、
ナチス・ドイツにおける青年団と、今までまったく知らなかった日本の青年団との関係と
彼らの訪日が与えた影響、全国各地での国民の熱狂の様子、
そして何より、国内旅行記のような展開は、自分が如何に日本の名所を知らないかも教えられ、
出来ることなら、ヒトラー・ユーゲントの足跡を辿るかのように
夏休みにでも同じルートで全国行脚をしてみたくなりました。
とりあえず白虎隊のお墓参りにでも行こうかなぁ・・。





イワンの戦争 赤軍兵士の記録1939-45 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

キャサリン・メリデール著の「イワンの戦争」を読破しました。

5月に発売されたばかりの520ページの本書を本屋さんで偶然見つけた瞬間、
「うぉっ!」と変な声を漏らしてしまいました。
この厚さといい、タイトルと副題から簡単に内容が想像出来るところといい、
「赤軍記者グロースマン」、「ベルリン終戦日記」、「グラーグ―ソ連集中収容所の歴史」といった
ソ連がらみの名著を発刊している白水社であることといい、
漏らしたのが声で済んだだけでホッとしました。。
「イワン」といえば、赤軍兵士を指すのは皆さんご存知だと思います。
「トミー」なら英国兵士の総称ですし、ドイツ軍兵士は「フリッツ」、米国兵士は「ヤンキー」??
第2次大戦におけるジューコフやロコソフスキーといったソ連の大将軍ではない、
一般のソ連兵士たちの真実に迫った一冊ということで、
やはり名著「戦争は女の顔をしていない」の男版のような感じカナ?と
とりあえず図書館の予約待ちに登録・・。だって定価4620円なんですよ・・。

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「序章」では、1939年から1945年までに招集された赤軍兵士は3000万人を超え、
「肉挽き機」とも呼ばれた彼らの物語はまだ語られておらず、ソ連が公式に認める物語は
長い間、ソ連邦英雄の神話しかなかったとし、あのグロースマンのような作家たちも
兵士の恐怖を描くことが禁じられた・・と語ります。
「招集し、訓練し、そして殺した」とされるスターリン時代の兵士の生き残りたちから
クルスクやセヴァストポリで直接話を聞き、彼らが書き綴った手紙、NKVDの文書などを駆使して
英雄神話を超越するために、英国人の女性著者はこの著作に取り組んだとしています。

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第1章は1930年前半からのスターリン体制下の様子・・。
農場の国有化により大飢餓が発生し、クラークと呼ばれた豊かな農民は追放。
まさに先日の「グラーグ」を思い出します。
そしてその一方では欧州最大の工業国へと変貌を遂げながらも、
赤軍のトハチェフスキー元帥を筆頭とした「大粛清」も紹介。

第2章はその赤軍の最初の試練、1939年のフィンランド侵攻です。
最初の1ヶ月で18000人が死亡、行方不明となり、その半数は初日に国境を越えた者たち・・
ということですから、シモ・ヘイヘらの格好の餌食となったのでしょうね。
この短い戦争で12万人が戦死、30万人が負傷。対するフィンランドは合計でも9万人です。
12月21日のスターリンの誕生日を祝して、意味のない攻撃を数多く仕掛けたことも・・。
この結果は赤軍将校の多くが粛清されたことも大きな原因ですが、
同時に全土から兵士が招集され始め、赤軍は拡張。
しかし、その訓練やひどい食事から脱走、士官候補生は「責任を問われる恐怖」から自殺、
といった若い兵士たちの事情が・・。

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第3章から1941年6月のドイツ軍の奇襲攻撃「バルバロッサ」の前に
総崩れとなるソ連軍の実情が語られます。
ウクライナなどの反ソ的な心情を抱く兵士などが次々に降伏。
NKVD特殊部隊は6月最後の3日間だけで700名の逃亡兵を捕え、
第26軍からは4000名もの兵士が脱走。。
兵士は士官を恨み、命令は信用せず、仲間は脱走を目論んでいるのでは・・と疑心暗鬼です。
攻撃中の自分の部隊を銃撃して指揮官を殺そうとする兵士がいたかと思えば、
対空戦闘を命じた指揮官は、戦闘が始まると車に乗って逃げ出します。

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スモレンスクの戦いでは30万人が捕虜となり、3000両の戦車が失われますが、
自軍の兵士にさえ極秘とされていた兵器「カチューシャ・ロケット」が初めて火を噴きます。
エレメンコ元帥の回想では、「効果は凄かった。ドイツ軍はパニックを起こして逃げた。
我が軍の兵士でさえ、前線から一目散に逃げた」。

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それでも逃亡者は相変わらず減りません。
そこでスターリンは逃亡軍人の家族も逮捕する命令を打ち出します。
しかし、河川で撃ち殺されたり、バラバラに吹き飛んだり、ネズミに遺体を食い散らかされた
数万名に達する行方不明者も「不名誉な逃亡者」として扱われるのです。

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ドイツ軍が占領したポーランド、白ロシア、ウクライナでは収容所が新設され
政治委員とユダヤ人は見つかり次第射殺。
ロシア人以外の民族も選び出されて、彼らの憎むべき敵であるボルシェヴィキ、
ユダヤの極悪人を打倒するためにナチの手先となり、警官業務でユダヤ人を摘発したり、
アインザッツグルッペンなどの射殺部隊にも参加することになるわけですね。

「ドイツ人と戦っているのはロシア人だけだ」と言われ始めたウクライナ兵は
別の人種に責任転嫁します。
「中央アジアから来た連中は地面にひれ伏して例の"おー、アラー"を始める。
祈るだけで敵には突進しないし、戦闘にも巻き込まれないようにしていた」。

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いよいよ有名な「一歩も引くな」というスターリン命令が発せられます。
これによって選抜した要員をNKVD部隊と共に前線部隊の背後に配置し、
遅れをとったり、逃げる兵士を容赦なく射殺することになるのです。

1942年になると、スターリンはお荷物無能将官の排除にも着手。
盟友だったヴォロシーロフにクリミア司令官のメフリス、
内戦時代の老ヒーロー、ブジョンヌイらが左遷され、ジューコフコーネフ
そして42歳の野心家チュイコフらが登用されるのでした。

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そのチュイコフが指揮するスターリングラード攻防戦
ヴォルガ川を背後にし、撤退することは不可能です。
数週間で13000名が臆病な裏切り行為で銃殺され、新設された懲罰大隊もやってきます。
7月には50万を超える将兵が集結しますが、このうち30万人を優に超える人名が失われます。
この戦いはいろいろと読んでいますが、このソ連側の損害の数字はとんでもないですね。。
もちろんこのような膨大な損害はソ連国内では一切、発表されず、
何百人も埋葬した墓地が記録では35人などと、埋葬した遺体の数も少なく記録します。

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検閲の対象となるのは人間の感情にも及びます。
復讐心を煽る「悲しみ」はOKですが、危険や苦痛がもたらす感情を語ってはなりません。
1943年春、包囲されていたレニングラード戦線から移ってきた兵士が新しい戦友に
「飢餓」について言及。すると彼の姿は消えてしまうのでした。。

Soviet troops of the 3rd Ukrainian front in action amid the buildings of the Hungarian capital on February 5, 1945.jpg

また飢餓といえば、ソ連全土にも広がっています。
収容所からも駆り出された余命幾ばくもない懲罰部隊では、
スプーンで4回もすくえば終わる程度の量しかないスープ。
科学者たちは様々な種類の肉を調べ、イタチや豚に比べても肉質は美味で、
どんな肉より栄養価が高いのは「リス」の肉であることを主張・・。

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クルスク戦ではパンター、ティーガーに、T-34といった戦車も紹介しますが、
やっぱり主役は人間です。
会戦前半の守勢段階だけでソ連軍の犠牲者は7万人に達したそうで、
「原始的な技術で戦車を操り、あらゆる困難を克服するロシア兵には驚くばかりだ」と語るのは
マックス・ジーモンSS中将です。
そしてこの大勝利は彼らに新たな自信と熱意をもたらし、勝利への道に突き進むのです。

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1944年2月、西へと進む赤軍ですが、そこからは徐々に規律が失われていきます。
「盗みは当然だ。さもないと生き残れない・・」。
闇市場では戦争でもなければ手に入らない、性能の良いドイツ製品が最も珍重されます。
ある兵士は語ります。「私はドイツ兵の遺体から財布を取った。写真の他にコンドームがあった。
我々には避妊してセックスするヤツなんていなかった」。

そして「前線妻」。隠語では「野戦行軍妻」と呼ばれていたというこの話は、
一人の男が5人以上の「妻」を持つのも珍しくなかったなど、
まぁ、男の勝手というか、男の性というか・・。
また、女の方といえば、「将来を考えて、禁を犯して男と付き合う」。
あの「戦争は女の顔をしていない」と違って、インタビューや告白形式ではなく、
それらのちょっとしたエピソードを数行織り交ぜながら、本書は進みます。

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赤軍兵にとって酒の価値は品質ではなく、アルコール度数の強さで決まります。
ポーランドでナチの兵舎を占領し、ワイン貯蔵庫を見つけますが、
「どれも"炭酸飲料"ばかりだ」と落胆。。
彼らにとってはシャンパンより、サマゴンと呼ばれる「密造酒」の方が上のようですね。
ある中尉は、「我が軍がこんなに酒に溺れなければ、2年前に勝っていただろう」。
そして士官による大掛かりな盗みや転売も頻繁に起こります。
モスクワの上官への賄賂に「豚肉267㎏、羊肉125㎏、バター114㎏」を一度に送ったり・・。

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ドイツ軍によるバルバロッサ作戦から、ちょうど3年が経った1944年6月22日、
お返しの大攻勢「バグラチオン作戦」が開始。
兵士たちは勢いづきます。ドイツ軍機を撃墜すれば現金、1週間分が、
ドイツ士官を捕虜にすれば2週間の休暇の権利が(建前上)与えられます。
しかしルーマニアでは情報担当者を偽って選び出した女性をレイプしたうえ、頭を撃ち抜き、
ハンガリーでは精神病院に押し入った一団が16歳から60歳までの女性患者をレイプして殺します。

This poster celebrates the liberation of Prague by Soviet troops.jpg

ポーランドではナチの収容所が解放されます。
ドイツ兵が死んだ犬を投げ込むと、ロシア人捕虜は気違いのように喚き立て、その死骸に殺到し、
素手で八つ裂きにして、配給された戦闘食のように犬の腸をポケットに詰め込んだ・・という話や、
カニバリズムで飢えを凌いできた彼らには、すでに人間らしささえありません。。
この件は詳しく書かれているわけではありませんが、以前に読んだ本では、
ガリガリに痩せ細ったわずかな人肉ではなく、生きた「肝臓」を食うことが目当てだったと・・。

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そして遂にドイツ本土。野獣の巣窟である東プロイセンに踏み込む時・・。
ラビチェフという若い士官はドイツ軍が遺棄した救護施設を宿舎にあてがわれますが、
どの部屋も子供や老人の死体だらけ・・。
レイプの後に身体を切断された何人もの女性の遺体の性器にはワインボトルが挿入されています。
捕らわれの身の脅えきったドイツ娘の中からひとり選べと言われたラビチェフ。
拒否すれば部下から「臆病者」と思われかねず、もっとマズイのは「不能者」と見られることです。

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やがて辿り着いたベルリンでもそのレイプと強奪は激しさを増します。
ここでは「ベルリン終戦日記」からも引用していますが、
アレはこの手の本には必ずと言っていいほど出てきますね。
さすがに気になったので映画版の「ベルリン陥落1945」を買ってしまいました。

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1945年5月、長かった戦争は終わりを告げようとしてます。
喜びを抑えきれない国境警備隊の兵士は、たまたま見つけたメタノールを試し呑み・・。
料理係やら次々に現れて、彼らを巻き込みながら呑み続けます。
そして3人が翌日に死に、残りの連中もカイテルが降伏文書に調印する前に死んでしまうのでした。
確かイタリアでも喜び過ぎて死んでしまった人がいましたねぇ。。

手を取り合った2つの超大国。当時の末端兵士は束の間の友情を育みます。
ロシア人のおおらかさ、呑んで歌ってすぐに打ち解けるところを米軍兵士も気に入ります。

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最後には「裏切り者」である捕虜が今度は自国の労働収容所へと送られ、
またウラソフ派の最も悲惨な運命にも言及し、
まともに帰国が出来る兵士にも、死亡率や残虐行為についてのかん口令が敷かれます。
さらに275万人という傷痍軍人は義足も義手も足りず、物乞いとなるしかありません。
1947年、スターリンは路上の物乞い排除命令を出し、ラドガ湖対岸のヴァラーム島へと流刑。
多くがその地で生涯を閉じるのでした。

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後半はやはり・・というか、ソ連軍兵士による強姦、暴行、略奪が中心となっていきますが、
本書のように戦争の始まる前から、彼ら「イワン」たちがどのような祖国に生き、
ドイツ軍に国土を蹂躙され、戦友が殺され、迫害されて生き別れとなった家族を心配しつつ、
敵の数倍の血を流しながらも反撃する姿を時系列で追っていけば、
今までのように単純なイメージの「酔っ払った強姦魔のソ連兵」では片付けられません。

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11章から成る実質450ページの本書。
ただ、章ごとに特定のテーマがあるわけではなく、特定の時期の様子・・、
すなわち前線でのイワンの様子に、彼らを監視するNKVD、占領地の市民、
ドイツ側の証言といった事柄と細かいエピソードがふんだんに語られる展開ですので、
読破後の印象は、ややもするとボンヤリした風にもなってしまいました。

興味深いエピソードは多々ありましたが、それらをもっと深く掘り下げて欲しいという希望も・・。
しかしソレをやってしまうと、ボリュームが倍になってしまいますからしょうがないですね。
その意味で個人的には、このページ数でもあくまで「概要レベル」でしかないと思いましたが、
それだけ、「赤軍兵士の記録」というものは、今まで紹介されてこなかったということであって、
独ソ戦好きの方であっても驚くことが多いですし、
ドイツ軍ファンの方でも知られざる敵を知るのにうってつけの、必読の書と言えるでしょう。
例えればUボート好きが「Uボート部隊の全貌」を読まなければならないのと一緒です。
赤軍記者グロースマン」とセットで読んでも良いですね。
たぶん、一年くらいしたら再読したくなるハズなので、そのときにはキッチリ購入しますし、
今年の1月に出た、グロースマンの「人生と運命」全3巻も読んでみようかと思っています。








図説 死刑全書 [世界の・・]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マルタン・モネスティエ著の「図説 死刑全書」を読破しました。

先日の「女ユダたち」を読んで、本棚に仕舞いっぱなしだった本書にとうとうチャレンジしました。
購入したのは5年以上は前ですが、なんでこんな本を買ったのか、良く覚えてません。。
まぁ、「死刑」に興味があったのは間違いありませんが・・。
1996年発刊で405ページの本書を読むに当たって、第三帝国関連の記述がない限りは
記事としてUPするつもりはありませんでしたが、やっぱり・・というか、
所々で「ナチス・ドイツは・・」と紹介されてしまいましたので、
今回、本書の内容ほど「グロ」くならないように書いてみますが、
果たして、どうなることやら・・。

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「はじめに」では本書の目的を、多数出版されている「なぜ?」ではなく、
「どのように?」という疑問に答えようというものとしています。
例えば、斬首刑で使われた斧は、どのようにして剣にとって代わられたのか?
世界中に広まっていた十字架刑は、なぜ突然行われなくなったのか?

第1章は「動物刑」です。
文明の歴史と同じくらい古くから行われてきたという動物刑。
紀元前のエジプト人は、囚人にワニを襲わせていたという話からです。
インドでは象によって踏み潰され、スペイン人は何百人ものインカ人を犬に食い殺させます。
ローマの競技場でも、飢えさせられたライオンに虎、熊などあらゆる猛獣が囚人を襲ったそうで、
コレなどは映画「グラディエーター」のようなイメージですね。

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「喉切りの刑」から「腹裂きの刑」と続き、ココでは日本の「切腹」についても触れていますが、
ペルシャでは切った腹から腸を全部巻き取ったり、生かしたまま内臓を摘出する・・というものです。
そしてこれらは180点余の版画などを掲載して具体的に理解できるようになっています。
「餓死刑」ではルーベンスの「ローマの慈愛」に似た版画も出てきました。

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「磔刑」はキリストの有名な十字磔が知られていますが、
「聖アンデレ十字」と呼ばれる、X十字による磔刑の版画がありました。
コレはスコットランドの国旗「セント・アンドリュース・クロス」のことなんですねぇ。
そしてナチス・ドイツがソ連でユダヤ人を磔にした・・という話も紹介されていました。
う~ん。。そんな話は聞いたことがないですけどね。。

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続く「生き埋め」でも、ナチのいくつかの部隊はレジスタンスやパルチザンに対して、
恐ろしい見せしめとなるように生き埋めを行うことがあった・・としています。
銃殺したつもりがまだ生きていて、結果、生き埋めに・・ということならありそうですが、
埋めちゃったら、その場限りですし、たいした見せしめにならないと思います。
ユダヤ人を磔に・・にしても、そんな面倒くさいことを組織的にやったとは
あまり考えられませんね。

einsatz41.jpg

第10章はヴィトゲンシュタインが一番苦手なヤツ、「串刺し刑」です・・。
1917年に赤軍兵士たちによって串刺しにされたポーランドのロジンスキー将軍の写真が
いきなり1ページフルフルで出てきてビックリ・・。
まぁ、この写真でも、串刺しってドラキュラや串刺し公で知られるヴラド・ツェペシュの
有名な版画のようにお腹から背中に突き刺すのではなく、お尻からいくんですね。。

VladTepes.jpg

そういえば「最強の狙撃手」でも赤軍兵士はやってましたか。
中学生のときにビビって観に行けなかった「食人族」のポスターもそんな感じ。。

食人族.jpg

執行人は途中でお腹なんかを突き破ることなく、口に抜ける技術が必要とされ、
しかも先が尖ったものより、丸いもののほうが臓器を傷つけることなく、
数日かけて苦しめられる・・という・・・イタタ。。もうダメ・・。

Empalement.jpg

しかしココから「皮はぎ刑」と「切断刑」、「解体刑」、「切り裂き刑」と
かなりエグイ刑が容赦なく連発。。
「火刑」では有名なジャンヌ・ダルクの場合も詳しく解説します。
一般的には縛り付けて、足元から火をつけるこの処刑ですが、
クレーンみたいなシーソーを用いて吊るして焼き、苦痛を長引かせるため、
時々、火から引き上げたりという責め苦パターンもあったそうです。

Bûcher.jpg

「火刑」の次は「肉を焼く」です・・。もう、章タイトルがエグくて困りますねぇ。
2年ほど前に確か「ヒストリー・チャンネル」で観た「ペリロスの雄牛」の版画が・・。
古代ギリシャで真鍮で作った雄牛のお腹に人間を入れ、下から火を焚く・・という残酷なもの。
外から中は見えませんが、雄牛の口から叫び声が聞こえる仕組みとなっております。
その他、この章で紹介されるのは火刑とは違う、グリルのベッドで両面こんがり焼いたり、
油の中に放り込まれたり・・と、ロースト、グリル、フライといった洋食屋さんのような処刑です。。
そして最後には「ナチスは死体を焼却しただけでなく、生きている女性と新生児を度々、
炉の中に投げ込んだのである」。

Brazen bull.jpg

「ノコギリ引き」は、「串刺し刑」に匹敵するキッツい処刑方法です。
コレもお腹から真っ二つ・・というのは優しい方法で、
基本は逆さにして足を開かせ、お股から引いていきます。
そしておヘソを通り過ぎるまで意識を失わないそうで、あ~、も~、イテーな~。。
ですから、頭から引いてあげるのはすぐに死ぬので、まだ、良いほうなんですね。

「突き刺す」ではやはりTVで観た「悲しみの聖母」、「ニュルンベルクの処女」と
名の付いた棺が登場。
「四つ裂き」はヴィトゲンシュタインの好きな映画Best10にランクインする「ブレイブハート」で
最後にメル・ギブソンがやられてしまうヤツです。
日本では「八つ裂き」と言いますが、四肢を無理やりバラバラにするので「四つ裂き」。。
八つに裂くという刑は実際には無いようですね。

Virgin of Nuremberg.jpg

中盤からは写真も多くなってきます。
主に1900年代、そして現在でも続いている絞首刑に斬首刑、鞭打ち刑などの写真ですが、
結構、デカイ生首写真なんかが予告もなく出てくるので「うおっ・・」となりました。
しかもほとんど電車のなかで読んでいましたから、隣に座ってるおばちゃんや
前に立ってる女子高生に見られないよう、身体をよじったり・・と気を使って大変。。

そしていよいよ「ギロチン」が・・。
先日の「女ユダたち」でナチス・ドイツの処刑の話から本書を読むことになってしまったわけですが、
本書で一番印象に残ったのは、ヨハン・ライヒハルトという人物です。
彼は第三帝国の「死刑執行人」として、3,165人を処刑したという世界記録保持者です。
基本的には「ギロチン」専門で、あの「白バラ」のショル兄妹も彼の手にかかったんでしょう。
ヒトラー暗殺未遂事件でのピアノ線を使ったと云われる絞首刑もそうかも知れません。

Johann Reichhart.jpg

しかし、本書をここまで読み進めていればわかるように
ライヒハルトが残酷な人間・・というわけではなく、18世紀から続く執行役人の家系の最後の
処刑人という必要不可欠で重要な仕事に就いていただけで、彼がフライスラーと手を組み、
フランス革命のギロチン王、シャルル=アンリ・サンソンの持つ、2700人の記録を
破ろうとしていたなんてことではありません。

死刑執行人は、特に19世紀以降、より人道的に苦しませないように処刑せねばならず、
手際の良く、確実な処刑を行なえるプロフェッショナルが求められます。
それはある意味「職人技」であり、戦後、ライヒハルト自身も「死刑執行人の義務を果たしただけ」
ということで無罪となって、彼はニュルンベルク裁判でも、カイテルヨードル
戦犯を絞首刑にした連合軍の死刑執行人であるウッズ曹長のお手伝いもしたというほどです。

Nazi guillotine.jpg

また、切断された頭部がいつまで意識を持っているのか・・?
についても数ページに渡って、様々な実験の報告などを紹介しながら検証しています。
本書の後半はナチスの大量虐殺にも言及した「ガス室」、
そして「電気椅子」、「薬物注射」といった現在の米国で見られる処刑と続きます。

ただ「銃殺刑」では本書で唯一、感動的な処刑がありました。
ヴィシー政府の内務大臣で、首相のラヴァルと共に死刑となったピエール・ピュシュー。
彼は自分で銃殺隊を指揮する許可を与えられ、銃殺隊長は隊員をひとりずつ紹介。
ピュシューは隊員たちに語りかけます。「諸君はこの政治的殺人には関係がない」。
そして右腕を真っ直ぐに上げ、「構え!」・・・「撃て!」
ピュシューが腕を組んだまま倒れると、兵士たちは泣いた・・。

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日本でも死刑が廃止にならないのは「犯罪抑止力」の効果のためと言われていますが、
本書のさまざまな死刑も、根本的には同様のような気もします。
犯した罪の種類によって方法が違ったり、数万人という多くの見物人を集めた公開処刑や
四つ裂き刑という惨いものも、死刑の恐ろしさを知らしめる効果でもある気がします。
もちろん、自白目的の拷問を兼ねた処刑という別の形もありますが・・。

2002年に551ページの「完全版」というのも出ていました。
150ページ増量で図版も100点ほど多いようですが、どこら辺が「完全版」なのか・・?
本書に載せられなかったほどのエグい処刑や図版が掲載されているのかは不明ですが、
今回、万が一、興味を持たれた方がいるなら、そちらのほうが良いかも知れません。。











ヒトラーの作戦指令書 -電撃戦の恐怖- [戦記]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヒュー・トレヴァー=ローパー著の「ヒトラーの作戦指令書」を読破しました。

2000年発刊で350ページの本書は、あのヒトラーものの第一人者トレヴァ=ローパー著
ということもあって、「ヒトラー最期の日」を読んで以来、目に付けていた一冊です。
しかし、内容はタイトルそのまま、ヒトラーの作戦指令書が掲載されているだけ・・?
との理由から見送っていましたが、まぁ、戦記もいろいろ読んできましたし、
戦局の推移によるヒトラーの作戦指令の変化や、大隊レベルにまで言及したといわれている細かさ、
陸戦専門のヒトラーの海軍に対する命令の度合い・・など、
果たしてどれくらい理解できて、かつ楽しめるのか・・を一度試してみたくなりました。

ヒトラーの作戦指令書.jpg

「序論」では、第2次世界大戦は多くの意味でヒトラー個人の戦争であり、戦争を意図し、
そのための準備を行い、開戦の時を選んだのは、いずれも彼である・・と始まります。
そしてヒトラーが戦争指揮のために創設した「国防軍最高司令部(OKW)」に触れて、
個性のない軍人カイテルを長に据え、作戦部長に豊富な軍事知識を有していたヨードル
次長にヴァーリモントという三羽ガラスを紹介します。

A.jodl.jpg

そしてヒトラーの作戦指令は1938年のオーストリア占領を目的とした<指令第1号>に
オーストリア無血進駐の<指令第2号>、そしてチェコ占領の指令と出されていたものの、
本書では1939年のポーランド侵攻から始まり、1943年まで続いた一連の番号付きシリーズを
取り上げているということです。
ということで第1部の「攻勢作戦」の始まりです。

Fall_Grun_Anschluss.jpg

「発国防軍最高司令官」、「1939年8月31日」、「宛上級指揮官限定」、「複写部数 8部」と
ヘッダー部分に書かれた作戦指令書。
「ファル・ヴァイス」という、日本では「白作戦」とか、「白の場合」とか訳される
ポーランド侵攻作戦の秘匿名ですが、本書では「事例白」と訳されています。
出だしは「1 ドイツ東部国境域はこれ以上容認できぬ状況となり、平和的解決を目指す、
政治手段が尽き果てるに至り、余はここに武力による解決を決意せり」。

Fall of Warsaw, 1939.jpg

そして英仏に宣戦布告されてもヒトラーは慎重で、続く作戦指令でも
英仏それぞれの陸海空戦闘方針を出し、英国については通商破壊戦の準備を、
フランスについては「敵の第一撃によって交戦状態突入とする」と扱いが違うのが面白いですね。
しかしポーランドが片付いた9月25日にはフランスに対しても通商破壊戦を開始し、
フランス海軍と商船への攻撃の規制を解除しますが、
「客船、あるいは相当数の人員を輸送中の大型船舶の攻撃はまだ禁止される」と気を使っています。

Adolf Hitler visits Hamburg.jpg

作戦指令書と次の指令書の間には、その間の戦局(または前回の作戦指令の結果)を
著者トレヴァ=ローパーが簡単に解説しているので、
ドイツ軍の戦争全般の推移を暗記していない方でも理解できる編集となっているのが親切ですね。

<指令第8号>となる、11月20日の「西部正面攻撃準備に関する追加指示」では、
中立国のオランダ軍の態度が予測できないとして、
「抵抗が無ければ、わが方の侵攻は平和的進駐の性格を帯びる」というのも
基本的にヒトラーはオランダとは極力、武力衝突したくないという願望のようにも感じました。

German soldiers examine damage after bombardment Rotterdam on the 14th of May 1940..jpg

ノルウェー侵攻の「ヴェーザー演習」作戦、西方攻撃もいくつかの作戦指令も掲載され、
ほぼ、作戦通り完了。
ただし、突破進撃を続けるグデーリアン装甲部隊の停止命令・・といった細かい命令はありません。
その代わり、ヨードルや陸軍参謀総長ハルダーによると・・と、
「ヒトラーが南翼側を不可解なほど心配していた」という話を紹介していました。

Column of PzKpfw 35(t)s at a stop in a French town-1940.jpg

<指令第16号>は、「英国は絶望的な軍事状況下にありながら、
折り合いをつけても良いという徴候を全然示さない。よって余は、英本土上陸作戦を準備し、
必要であればそれを実行する決意を固めた」。
その指令文のなかで「上陸作戦は"あしか"の暗号名で呼ぶものとする」と丁寧ですね。
次の<指令第17号>は「バトル・オブ・ブリテン」の指令です。

battle_of_britain.jpg

「アッティラ作戦」というフランス南部の非占領地域に反乱が起きた際の指令も
12月10日に出てました。面白いのは最後の一文です。
「我々の意図、準備に関する情報は、イタリア側には一切漏らさない」。

その8日後には<指令第21号>、「事例バルバロッサ」が発令されます。
さすがに5ページというボリュームある作戦指令となっていて、その目標は次の通りです。
「南・・重要軍需産業地帯であるドネツ盆地の早期占領」
「北・・モスクワへの迅速な進撃。モスクワ占領は政治、経済上、決定的勝利となる」。
う~む。やっぱり最初はモスクワ行く気、マンマンだったんですね。。

nazi-germany-rare-color.JPG

1941年3月の<指令第24号>は「対日協力」です。
「三国協定の目的は可及的速やかに日本を極東の戦いに誘い込むことであり、
それによって英米は多数の兵力を拘束される。
日本の攻撃が早ければ早いほど虚を突かれる度合いが強く、成功の確率が大きくなり、
バルバロッサ作戦は、そのための政治上、軍事上の好条件を作り出す」。
さらに3軍司令官は情報提供のほか、日本から経済、軍事援助があったら、
積極的に応じるように指示しています。

Ribbentrop mit Botschafter Oshima.jpg

一方、同じ三国同盟のイタリアが北アフリカギリシャで苦戦し、
ドイツ軍部隊を援助として派遣することが決定すると、
「友軍に対し、侮辱するような横柄な態度を取ってはならない」と
ムッソリーニに気を使った全般指示を出していたということです。

musso_fuehrer.jpg

空挺部隊を中心としたクレタ島占領の「メルクール作戦」と、
失敗に終わったイラク介入の指令と続き、ようやくバルバロッサ作戦の開始。
指令書はまず、軍集団南(南方軍集団)、軍集団中央(中央軍集団)、軍集団北(北方軍集団)、
そして空軍、海軍の順番で作戦が書かれますが、
7月22日の「追加指示」になると第1装甲集団や第2、第3装甲集団、第4装甲集団を
名指しで動かし始めます。

Hitler,Brauchitsch&Keitel.jpg

これらが結局、南でのキエフ大包囲やら、北でのレニングラード、中央のモスクワといった
成功失敗に繋がっていくわけですが、作戦の結果はほとんど書かれていないので、
過去に読んだ戦記を思い出しつつ、その指令によって起こったことを推測していきます。

しかし装甲集団司令官の名前まで指令にはありませんから、
第1~第4装甲集団の司令官がそれぞれフォン・クライストグデーリアンホトヘプナー
であり、顔くらい思い出さないと、ちょっとボ~としてしまいます・・。

Panzer III of 3. Panzer-Division.jpg

また、ノルウェーについても結構細かい指示を出し始めます。例えば、
「第2山岳師団指揮下のSS第9連隊は、ノルウェー人とフィンランド人で構成されるSS一個連隊を
オーストリアSS一個連隊で増強し(ヴィーキングのこと??)、これを交代せしめると共に、
SS戦闘集団北(ノルト??)を山岳一個旅団に改編する」。

<指令第41号>となるのは1942年4月の大攻勢です。
目標は「コーカサス占領」ですが、「あらゆる努力を払ってスターリングラードへ到達し、
少なくとも重砲の射程まで進出して、産業、交通の中心としての役割を果たせなくする」。
その後はA軍集団の装甲師団をスターリングラードへ向かうB軍集団に編入したり、
グロースドイッチュランド師団の停止命令など、細かい指示が怪しい展開を予感させます。

Großdeutschland division.jpg

「東部正面の匪賊取締りの強化」指令。
いわゆるドイツ軍が占領した後方地のおけるパルチザン活動に頭を痛めたヒトラー。
「ギャング一味やその支援者すべてを相手にした過酷な手段が必要であり、
対匪賊戦においては、住民の協力が不可欠である。
賞賛に値する人間をけち臭く扱ってはならず、ちゃんとした褒賞を与えるべきである」。

この任務には当然、SSのヒムラーが指名されていましたが、
解放の闘士であるパルチザンは占領軍側からしてみれば、ヒトラーの言うギャングや
テロリストですから、現代の中東やアフリカ諸国で起こっている問題も
どちら側の視線で見るかによって大きく違うんですね。。
米国と国連が支持した政府は正義ですから、その国のパルチザンはテロリストですし、
逆に見放された政府は悪の独裁者扱いで、パルチザンは英雄扱いに・・。

Sowjetische Partisanen.jpg

残念ながら「クルスク戦」についての指令はありませんでしたが、
1943年の11月になると<指令第51号>で、西部の「アングロ・サクソン上陸作戦」について
これまでとはかなり印象の違った指令を出すヒトラー。
新設の武装SS装甲師団ヒトラー・ユーゲント第21装甲師団の戦力充実を迅速に行うよう指示し、
その他新編部隊には11月、12月に40型や43型対戦車砲100門が支給される・・など、
師団だけではなく、装備に関しても注文を付け始めたようです。
そしてこの作戦指令をもって1939年から続いてきた番号付きのシリーズは終わり、
第2部「防御作戦」の章に・・。

12 SS Panzerdivision Hitlerjugend.jpg

1944年3月の<総統命令>は、悪名高い「要塞」指令です。
ヒトラーによって「要塞」と認定された拠点は、それが防御に適した要塞陣地でなくとも
包囲されようが絶対に死守しなければならない・・という恐るべきヤツてす。
要塞地帯指令には特に選別した百戦錬磨の武人がふさわしく、将官級が適当であり、
武人としての名誉にかけて、その任務を最後まで遂行することを宣誓する」。
また「降伏命令は、当該域の軍集団司令官のみができる」としていて、
一瞬「えっ?」と思いましたが、すぐその後、「ただし、余の承認を必要とする」とあるので、
やっぱり事実上、降伏は許されないわけですね。。

4月2日の東部戦線に対する作戦指示では、
フーベの第1装甲軍が包囲されながら突破を図っている状況で
南方軍集団司令官のマンシュタインの名が登場しています。
「全体的に見て、余はフォン・マンシュタイン元帥の構想に賛成である」。
作戦指令に個人名はほとんど出てこない(個人名のついた部隊名は別として)ので、印象的です。
しかもこのあと、すぐにマンシュタインは罷免されるわけですから、なおさらですね。

Field Marshal von Manstein with Hitler, September 1943.jpg

報復兵器「V1」が5月、ロンドンに向け発射されるという指令に、イタリア戦線にも防御の指令を出し、
7月20日の暗殺事件を乗り越えて、3日後には東部の北方軍集団司令官にシェルナーを任命。
英米軍がドイツ本土へ進撃する西部に対しては、この期に及んで軍と党の協力が必要とされ、
「軍司令官は活動域の軍事情勢に関する要請は、作戦域のガウライター(ナチ党大管区指導者)に
申し入れる」ことが必要になります。
コレはヒトラーが、軍より党を信頼するようになった証しとも言えるかもしれません。

Adolf Hitler making radio broadcast from bunker HQ Wolfschanze, aka the Wolf's Lair, hours after he survived an assassination attempt by members of his own military, 20 July 1944.jpg

アルデンヌ攻勢」はさすが極秘中の極秘だからか、作戦指令はありません。
遂に1945年を迎えると、すでに東部戦線に投入されていた「国民突撃隊」ついての指示が・・。
「国民突撃隊が独自に戦闘する場合、戦闘力が殆どなく、すぐに潰滅してしまうことが判明している」
と、今後は正規部隊との混成戦闘団として編成することを希望していました。。

Volkssturmbataillon_an_der_Oder.jpg

「帝国領の破壊に関する件」という、いわゆる焦土命令や、
ドイツ北部はデーニッツ海軍元帥が最高司令官となる・・などの指揮統制の命令。
そして4月15日、「東部戦線の兵士に告ぐ」という最後の総統命令。
「不倶戴天の敵ユダヤ・ボルシェヴィキは大兵力をもって最後の決戦を挑んできた。
老人、子供はすべて虐殺され、婦人、女子は淫売婦として、兵隊の慰みものとなる。
残りはシベリア送りである」。
という出だしで始まり、最後には「運命の女神が史上最大の戦争犯罪者を地上から抹殺した」と
直前のルーズベルト米大統領の死を表現し、我々の未来を守れと鼓舞しています。

Zivile Bombenopfer.jpg

前半こそは結果も作戦指令どおりですから、お勉強というか、
20ページも読むとちょっと眠くなる・・という感じでしたが、
中盤のバルバロッサ作戦あたりから、徐々に面白くなり、
後半は作戦指令名を見るだけで、「お~、アレか!」と中断するタイミングが難しかったほどです。

基本的には全軍に対する総統命令という大きな作戦指令ですから、個別のケース、
陸軍参謀本部のハルダーや、各軍の司令部が出していたと思われる
アフリカ軍団に対する指令やUボート戦ブレスト艦隊のドーヴァー海峡突破などは
ありませんでしたし、読まれる人によっては、アレは無いのか?と思われるかもしれません。

しかし、それを踏まえてもなんの命令が出てくるのかというのは楽しめますし、
戦記にちょくちょく書かれている総統命令が指令書という形で出てくるというのも
なんとなく、本物を見たというような満足感にも浸れました。
第2次大戦のヒトラー、ドイツ軍の戦い、独ソ戦などを研究されている方なら、
古書価格も安いですし、読んで損はない一冊です。



女ユダたち ドイツナチ時代の密告10の実話 [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヘルガ・シューベルト著の「女ユダたち」を読破しました。

独破戦線の「女性と戦争」というカテゴリーでは女性は被害者の場合が多いですが、
密告者ステラ」というゲシュタポに協力したユダヤ人女性の本も以前に紹介しています。
本書もそのステラのような女性たちが10人登場・・ですが、
特に残酷な女性を知りたいという思いがあるわけではなく、
ゲシュタポが市民を監視する第三帝国の世界に生き、
近所の知り合いに肉親や先生など、単純に嫌いというだけの人間を密告することで、
その内容がウソであっても収容所送りに出来たり、斬首刑にも出来たり・・。
「憎い相手」を合法的に葬れる世界で当然、普通に起こったであろうことを知りたいんですね。

女ユダたち.jpg

最初の密告は「カール・ゲルデラー」です。
反ナチでライプツィヒ市長を務めたゲルデラーは、1944年7月のヒトラー暗殺が首尾よく終われば、
首相である国家元首に予定されていた人物です。
シュタウフェンベルク大佐らがさっさと銃殺されたあとも、逃亡を続け、指名手配書には
「情報提供者には100万ライヒスマルクと、ヒトラー総統の握手」が約束してあります。

Carl Goerdeler, zum Tode verurteilt und hingerichtet.jpg

彼を偶然発見し、通報したのは42歳のタイピスト、ヘレーネです。
20年前に近所に住む顔見知りだったゲルデラーの顔を見分けたことで百万長者に・・。
総統本営でヒトラーから直々に小切手を与えられたそうです。
逮捕されたゲルデラーは1945年2月に処刑されますが、密告者ヘレーナもナチスが敗北すると、
まるでニュルンベルク裁判のような「人道に対する罪」で15年の懲役刑を受けることに・・。

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著者は東ドイツに住む小説家として、本書の執筆に先立って東ドイツの中央公文書館を訪れ、
「女の密告によって死刑判決を下された、国民裁判記録を読みたい」旨を申請し、
係官との面接を経て、ようやく許可が下ります。
また、特別な許可で西ドイツへの出入国カードも手にし、証明書など不要なその国の
西ベルリン図書館で、戦後、西ドイツ裁判所が下したナチ時代の殺人に対する判決集も発見。
このような調査経緯から、本書ではナチス時代の密告と裁判、
そして戦後の密告者に対する裁判、という2本立てで進むことになるのです。

Helga Schubert_Judasfrauen.jpg

1943年、汽車のなかで見知らぬ婦人たちと世間話をはじめ、ナチス体制を批判した男・・。
44歳のその商人の夫人は、たまたま隣組班長をしている植木屋の妻にこの件を話すと、
この見ず知らずの植木屋の妻がこの男を密告してしまいます。
戦後の裁判でこの植木屋の妻は、もし商人の夫人が婦人部長にこの件を話し、
班長さんもご存知ですね・・となったら、報告しなかったことで大変厄介なことになっていた・・
と弁明します。

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いつまで経っても結婚してくれない<男F>の目を覚まさせるため、
外国人労働者との良い関係をわざと話した27歳の女。
この犯罪行為に<男F>は女を告発します。
復讐に燃える女はゲシュタポの手先となって、シュナップスをくれなかった若い男や、
ドライブの時、冷淡に扱った男、国防軍報道のラジオを聞いて「くだらん」と言った男、
V兵器は結局、こけおどしさ」と語った男どもを尽く密告・・。
そして外国放送を聞いていたと嘘のでっちあげで<男F>も遂に逮捕・・。
しかし、あまりに話が信憑性に欠ける・・として裁判は延期になります。
あ~、でもこういう女は恐いですねぇ。。

夫がヒトラー・ユーゲント分団長であることを知らずに、妊婦の奥さんにちょっとマズイこと喋った医師。
「あいつは豚よ。人間のクズよ」と妊婦は早速、BdMの婦人指導者に報告します。
国民裁判で、検事側の求刑は10年というもの。
面白かったのはナチスの検事たちっていうのは、調査して、証拠集めして・・と
思った以上にちゃんとやっているところですね。証拠が弱ければそれなりの求刑に・・。
しかしフライスラー裁判長は、ヌルい!とばかりに求刑を却下し、「死刑」を宣告・・。

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この在職中に4951名に死刑を宣告したフライスラー裁判長によって、
ヒトラー暗殺未遂事件に関係した多くが絞首刑になったのは知られていますが、
映画「白バラの祈り」のラストでゾフィー・ショルがあっという間に
ギロチンで「斬首刑」になったのを思い出しました。
ギロチンって聞くと、なにか残酷な気がしますが、死ぬまで時間のかかる絞首刑より、
人道的な処刑方法なのかも知れません。

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しかし首を切り落とされた人間がいつ死ぬのか・・?
頭と身体が離れても、脳に酸素が残っている数秒間は意識があるのでは??
という解説をしている本を昔読んだのも思い出しました。
斬首刑大国フランスでは、ソレを確認するため、落とした頭を拾って殴ったり、
耳元で大声を出したりすると、怒ったような顔や、ビックリしたような顔になった・・
なんて話だったですね。

もう5年以上前に買ったものの怖くて本棚の奥に入れっぱなしだった、
「図説 死刑全書」を開くときがやってきたようですね。
ただし、コレは読んでも第三帝国に関する死刑の話がない限りは
「独破戦線」では紹介しませんのであしからず。。

図説 死刑全書.jpg

38歳のヒルデの旦那ミヒャエルは兵士として出兵。しかしポーランド女性と特別な関係に・・。
それに気づき、生活が荒れ始めたヒルデは、兵隊たちを自宅に連れ込んでは、飲み食いさせて、
一緒に寝たりと小さな町では「ふしだらな態度」が有名になります。
「ミヒャエルがスターリングラードに行けば良かったのに・・」と語り、
7月20日がうまくいっていれば戦争は終わった」という夫からの手紙を
管轄の突撃隊支部長のところへ持って行って報告までしてしまいます。

hese are pitiful remains of the Wehrmacht in Stalingrad.jpg

ところが支部長は手紙を読まずに「あんたのご主人の首が飛ぶよ」と諌めます。
しつこくやってくるヒルデに居留守を使う支部長ですが、遂に管区指導者が知ることとなり、
1945年2月、ミヒャエルは逮捕。
旦那を厄介払いしたいだけの唯一の証人であるヒルデの態度に、軍法会議の裁判長も
「最低の女だな!」。
証拠不十分で有罪にはならず、前線送還と宣告されると激昂するヒルデの宣誓の前に
死刑判決を下さざるを得なくなります。そして、せせら笑いを浮かべるヒルデ。。

1991年発刊で221ページの本書、原著の発刊はベルリンの壁崩壊直後です。
本書の執筆中は東ドイツ公安警察シュタージのスパイ網と密告が続いていた時代。
序文では、「彼女たちも独裁政治の犠牲者であり、民主政治下では他人を死に追いやることは
無かったでしょう。彼女たちは密告の誘惑に負けたのだ」としています。

NS-Frauen-Warte.jpg

そしてスパイと密告者の違い・・。
スパイは計画的で、人を注意深く観察し、通報するのが仕事。
しかし密告者は知っていたことを役人に聞かれたから答える。
或いは、由々しきこと偶然に知ってしまい、黙っていて報告しなかったことを責められるのを恐れ、
我が身可愛さに通報してしまう。。
本書では女性の密告者だけを取り上げていますが、
やっぱり愛憎に起因する女性の執念・・というのが印象に残りましたね。コワい、コワい。。







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