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グラーグ -ソ連集中収容所の歴史- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アン・アプルボーム著の「グラーグ」を遂に読破しました。

2006年発刊で上下2段組、676ページ、定価5460円という大著を購入したのが4年前。。
古書で2000円でした。
ナチス・ドイツの強制収容所についてはそれなりに読んできましたが、
ソ連の「ラーゲリ」と呼ばれる収容所も、ドイツ人捕虜のいわゆる「シベリア送り」や
日本人の「シベリア抑留」というキーワードもあって、詳しく知りたいと思っていました。
しかし、この重い本を前にすると、どうしてもページを開く気が起きませんでしたが、
ヒトラーとスターリン」を独破以来、ソ連モノに興味が沸いた勢いでやっつけてみることに・・。
ちなみにタイトルである「グラーグ」とは、収容所管理総局、
または収容所システムそのものを指すそうです。

グラーグ.jpg

序論ではロシアの流刑制度の歴史から。
17世紀には、死刑や四肢切断などよりもはるかに好ましいとされたシベリア流刑。
この流刑制度はロシア独特のものではなく、ヨーロッパ各国や日本でもあったと思いますが、
先日コッソリ読んだアラン・ムーアヘッドの「恐るべき空白」でもオーストラリアが
英国の流刑地であった・・という話でした。
20世紀になると監獄改革がロシアにも波及して、規制や警備も緩やかに・・。
4回逮捕され、流刑となったスターリンも3回脱走し、「たがのゆるんだ」帝政の制度を軽蔑。
自らの体験から、異常に厳しい刑罰制度の必要性を学んだとしています。

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グラーグ収容所第1号は、白海に浮かぶ「ソロヴェーツキイ群島」です。
1920年代に主には政治犯を島流し・・。
もともとは15世紀に修道院が建造されたこの島が労働収容所にうってつけだった・・
という話から、GPU(国家政治保安部)、1923年に改称されたOGPU(統合国家政治保安部)を
指揮したジェルジンスキーに、セヴァストポリ要塞の305mm砲ではない
作家のマキシム・ゴーリキーも登場してきます。
そして「働きに応じて食わせる」という悪名高いシステムもこの収容所によって確立します。

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1928年にはコルホーズ(農業集団化)政策によって、父祖伝来の耕地から農民は追い出され、
数年後にはウクライナや南ロシアで700万人が餓死するという大飢饉が・・。
この集団化に抵抗して、穀物を隠したり、当局への協力を拒否したりした数百万人は、
「クラーク(富農)」というレッテルを張られて、行政命令によって流刑です。
1930年から3年間に200万人がシベリア、カザフスタンなど人口希薄地域で
「特別入植者」として家族ともども残りの生涯を送り、村を離れることも禁じられます。
もちろん、逮捕されてグラーグにぶち込まれる農民も10万人と増大。
例えばリンゴひとつかみ盗んだだけで、「国有財産侵害罪」として10年の判決です。。

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巨大建築マニアのスターリンは白海運河建設に並々ならぬ野心を持ち始め、
227㌔の水路を掘削し、ダムも5ヶ所という大規模なもの。
これを最低のテクノロジーでわずか20ヶ月の工期で完成させるように指示します。
そして17万の囚人と特別入植者は粗末なのこぎり、つるはし、手押し一輪車で挑むのです。
ノルマ競争を煽り立て、「自発的に」24時間も働く、突貫作業も・・。
ノルマを超過遂行し、食料増配や特権を受ける「突撃労働者」も誕生します。
しかし、ある推定ではこのプロジェクトで25000人の囚人が死亡・・。

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砂金などの資源が発見されたコリマー(コルイマ鉱山)は数ある収容所のなかでも最悪の部類です。
冬場はマイナス45℃にもなる酷寒の地・・。
最初の入植では人も住まないタイガとツンドラの地で、バラックを設営することから始まります。
寒さも凌げず、食料にも事欠き、多数の囚人が死亡・・。

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1934年に大飢饉が落ち着き、溢れかえっていたグラーグも軌道に乗り始め、
OGPUが再編のため、NKVD(内務人民委員部)として、100万人の囚人をコントロール。
しかし1937年には「大テロル(大粛清)」が始まります。
スターリンによる「人民の敵」の逮捕、裁判、処刑命令。。
党の序列の上の方から下へ向かって、狂乱の逮捕と処刑が続きます。

本書では特定地域ごとの逮捕者の割り当て数が表で掲載されていました。
スターリンの出身国であるグルジア共和国を例にとると
第1類(死刑)に分類された人数は2000人、第2類(刑期10年)が3000人。
この数字は結果ではなく、希望人数(ノルマ)というのが怖いですね。。

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さらにグラーグ・システム拡張の大半を仕切った秘密警察長官のヤーゴダまでが
銃殺刑となり、彼の育てた収容所幹部の多くも同じ運命をたどります。
と、ここまで150ページが第1章の「グラーグの起源」ですが、
第2章はメインとなる「収容所の生活と労働」です。

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NKVDによる荒っぽい逮捕の過程から、ルビヤンカ刑務所での尋問や身体検査の様子・・、
特に女性には侮辱的な婦人科検査が何度も繰り返し行われます。
囚人が壁を叩く暗号についても詳しく表になって掲載されていて、
コレは「反逆部隊」でGRUがサリンの情報を伝えたヤツですね。

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逮捕の次は収容所への移送です。裁判はないのか・・?というと、ある場合もありますが、
5分くらいで「25年・・」とか言われるだけなので、裁判と呼べるものではありません。
開いた足の間に次々と座るという、人間オイルサーディーンのごとき、ギュウギュウ詰めにされた
トラックでの輸送から、列車に乗り換えて何十日もかけてシベリアまで・・。
到着に時間がかかりますから、ナチスのアウシュヴィッツ行きほど劣悪ではありませんが、
夏は悪臭が耐えがたく、冬は寒さとの戦い・・。
もちろん水とトイレは大問題です。特に男女一緒くたですから、若い女性は・・。

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そして最悪の地、コリマーへは北海道沖を進む、地獄の船旅が待っています。
老築貨物船を改装して、日本漁船に見つからないよう船倉に1500人の囚人を押し込めます。
男女は隔離されているものの、買収された警備兵は強姦目的の男たちを女の船室に入れて、
その後は見て見ぬ振り・・。
一人の女に数人の男が襲い掛かり、「バザール終了」の声と同時にしぶしぶ次の男に交代。
死んだらドアまで引きずって積み上げ、遺体は船外へと放り出して、警備兵が血を掃除・・。
それでも飽き足らない屈強な男どもは、少年狩りを始めるのでした。。

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こうして各収容所に辿り着いた囚人たちを出迎えるのはアウシュヴィッツのゲートに掲げられた
「働けば自由になる」とよく似た「労働をつうじて自由を!」といったスローガン。
また、収容者による楽団も編成されていて、ナチスに似ているなぁとも思いましたが、
毎朝、ゲートの前で力強く意気揚々と軍隊風の演奏をして労働者を送り出しますが、
「最後尾が通り過ぎると楽器を置いて、労務者となって森の中へ歩いて行くのだった」。

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食堂の様子では、スープに肉が入っていたためしはなかったという証言がある一方、
「犬肉入りスープ」が出たことがあったそうですが、フランス人の囚人はソレを口にすることが出来ず、
西側諸国の囚人は飢えていても心理的障害を乗り越えることが困難だったようです。

労働作業といえば、当然「ノルマ」です。
しかも女性であろうが、求められるのはプロの伐採夫や炭鉱夫と同じレベルの仕事。
そして達成率に応じて、配給されるパンの量も違い、そのため体力も衰えていくという悪循環・・。
ノルマ遂行率500%や1000%という信じられない数字も掲示されたそうですが、
どんな間抜けにも基準の10倍もの土を掘り出すことは出来ないとわかっていたそうで、
あくまで「労働推奨キャンペーン」だったようですね。

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収容所の娯楽としてはサッカーの試合や映画鑑賞などもあったようです。
しかし、ここで笑えたのは10曲のタイトルがある「NKVD歌舞アンサンブル」のレパートリーです。
「国境守備隊行進曲」に、「NKVD戦士の歌」、NKVD長官に捧ぐ「ベリヤの歌」に、
筆頭の曲のタイトルは「スターリンのバラード」。。一体どんなバラードなんでしょう・・?
ちなみにヤーゴダの後任のエジョフは、やっぱり逮捕されてベリヤに交代・・と、
この「グラーグ」のトップであっても、いとも簡単に破滅するのが凄まじい・・。

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収容所警備兵を「二流どころか四流のくずのような連中」と酷評するグラーグ幹部。
拡大する収容所は警備兵の確保も大変で、囚人から警備兵に転身する者も・・。
収容所幹部といえば、個人的な世話をする「メイド」を抱えていたそうですが、
ブーチコという粗暴な守衛の食事を運んだり、ストーブを焚いたりする召使をやっていたのが、
大粛清で収容所送りとなっていた、あのロコソフスキー元帥だったというのは印象的でした。

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また、囚人は政治囚と刑事囚に大きく分類されますが、当初は優遇されていた政治囚も
収容所の力関係のなかで徐々にその力は弱まり、
いわゆる「ヤクザの親分」的なプロの犯罪者がこの世界のトップに君臨します。
様々な悪逆非道の例も紹介されますが、コレはどこの世界の刑務所でも一緒のようですね。

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終戦期にグラーグと捕虜収容所に抑留された60万人の日本人にも少し書かれていました。
ソ連が捕虜にした各国兵士400万人のうち、ドイツが240万人、その他イタリア、ルーマニアなど
ヨーロッパの各国が100万人という数字を挙げて、ソ連と交戦した期間が短かったことを考えると
日本の捕虜の数は途方もなく多い・・としています。
そんな彼らが困ったのは量の乏しい食事で、日本人の食習慣からすれば
事実上食べられないものだったということです。
しかしその逆に、野草、虫けら、甲虫類、蛇、といった類に
ロシア人でさえ手を出さないようなキノコを食べ、最悪の結果を招いたことも・・。

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このようにいつ死んでもおかしくない過酷な収容所生活。
ある囚人が夜の点呼の最中、死んだかのように倒れます。
周りに人垣ができ、ひとりが「帽子は俺が貰った」。
すると長靴、コート、肌着までが取り合いに・・。
身ぐるみ剥がされて裸にされた彼は、弱々しく片手を挙げ、「寒いよ・・」。
そしてガックリと雪のなかへ頭を落とし、死んでしまうのでした。。

医者はヤブ、設備は貧弱、医療品は足りないにも関わらず、収容所病院は魅力です。
親切な女医さんや看護婦もいて「スタリングラートの医師」を思い出しました。
しかし一輪車が押す作業が出来ないように親指と小指以外の3本を斧で切り落とす者、
片手や片足を切り落としたり、両目に酸を擦り込む者。
え~、それからちょっと書くのがはばかれるほどの、とんでもないことをする者も・・。


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そして「脱走」。フィンランドまで逃げおおせた囚人の話などもありますが、
エスキモーやカザフ人が脱走者を見張り、脱走者の首を持参した現地人が
250ルーブルの賞金を手にしたという話も紹介。
この章では、以前に紹介した「脱出記 -シベリアからインドまで歩いた男たち-」が出てきました。
あの本はまぁ、凄い本ですが、本書でも作り話ではないのか・・?
ということに言及していますが、結論としてはどちらとも言えない・・。

仲間が助け合って脱走する、ある意味、この正統派の「脱出記」は
エド・ハリスも出演した映画になっていますが、日本ではなぜか完全に無視されています。。
ですが、本書で紹介される次の脱走は、とても映画には出来ないでしょう・・。
脱走を計画する2人組は、もう1人、ぽっちゃり系の3人目も仲間に入れて脱走。
この3人目は通称「肉」と呼ばれていて、途中で殺して食べちゃうんですね。
そんなことを夢にも思わない「肉」は、自ら新鮮な生肉を運んでいる・・というわけです。。

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仲の良い2人組も、3人目を消化してしまうと、今度はお互いが自分を食おうとしていると
疑心暗鬼となって眠ることすらできなくなり、遂に一方が眠り込むと・・。
大航海時代に新鮮な肉を食べられるように帆船に生きた家畜を積み込んだり、
ガラパゴスのゾウガメ捕まえたり・・という話と同様の手口ですか。。
本書ではいわゆる「カニバリズム」については、不道徳であるとか、オドロオドロしい表現は使わず、
ごく、当たり前のことのように淡々と書かれているところが、逆に恐ろしい・・。

また戦争は食糧難を引き起こし、グラーグの収容所でも200万人が刑罰以外で死亡。
包囲されたレニングラードだけが唯一の飢餓都市ではなく、ウズベキスタンにモンゴル、
タタールにおける大量餓死をNKVDが報告し、ウクライナでは1947年になっても食人の事例が・・。

Блокада Ленинграда.jpg

さらにこの独ソ戦が書かれた章では、1941年の開戦当初、ポーランドとバルト諸国の
監獄にいる政治囚をドイツの手に渡すことが出来ない・・とパニックになったNKVDが
収監者の射殺を開始し、最終的に1万人を殺害したとしていますが、
このようなのも「独ソ戦記」には度々出てくる話ですね。

もちろん、1939年のソ連のポーランド侵攻に伴う、大量の逮捕や
1991年にエリツィン大統領がやっと責任を認めた「カティンの森」事件。。
ドイツ人を先祖に持つヴォルガ・ドイツ人全体がスパイとされた話に、
スターリングラードで捕虜となった9万を超えるドイツ兵に収容施設も食料も準備されてなく、
最初の数ヵ月で死亡率は60%に跳ね上がり、ドイツ軍の捕虜生活での死亡者は
57万人と公式に記録されているそうですが、著者はもっと多かっただろう・・としています。

Soviets Transport German POWs to Gulags In Massive Boxcars.jpg

それからソ連のなかに組み込まれたコサックやタタール人、チェチェン人といった民族や
ウラソフ将軍のような裏切り者の運命にも触れています。
そして戦後。ナチスの強制収容所として有名なザクセンハウゼンブッヘンヴァルト
そのままソ連の「特別収容所」に衣替え・・。
5年間に24万人の政治囚を収容し、10万人が死んだと推定されるそうです。
この他、ポーランドやルーマニア、ユーゴスラヴィアなど、ソ連支配下となった国の収容所も・・。

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やがて1953年になってスターリンの死去が発表されると、
泣き出すのは収容者だけではなく、収容所管理者たちにも大混乱が。。
後継者となったNKVD長官ベリヤは改革を目指して、すぐさま100万人に恩赦を与えて釈放。
しかしベリヤは政敵フルシチョフによって逮捕され、前任者のヤーゴダとエジョフと同じように
お慈悲を訴える手紙をせっせと書く羽目に・・。

Lavrentij Pavlovich Berija.jpg

スターリンによって多くの人々が死んだ「グラーグ」は、これ以降、一気に衰退し、
フルシチョフ、ブレジネフの時代、そしてゴルバチョフの時代にソ連が崩壊するまでの
ソ連収容所の歴史が網羅されています。
ナチスは強制収容所とアウシュヴィッツのような絶滅収容所が知られていますが、
このソ連のグラーグとは、あくまで労働収容所であり、
例えば「シンドラーのリスト」に出てきたような囚人による生産力を目的としたものです。
決して殺すことが目的ではなく、収容所所長は生産高を中央に報告しなければならず、
環境の過酷さと、食糧難が多くの人々を死に至らしめた・・という感想を持ちました。

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この上下2段組、676ページという本書は大変なボリュームで
ヒトラーとスターリン -死の抱擁の瞬間- 」上下巻を合わせたのと同じページ数です。
「第二次世界大戦ブックス」で言えば8冊分くらいのボリュームといえば良いでしょうか。
この、ひたすらグラーグだけを取り上げた内容なのに、決して飽きることの無いというのは
さすが、2004年度、一般ノンフィクション部門のピュリツァー賞に輝いただけのことはある・・
とも思いました。

ナチス強制収容所モノで本書に匹敵するのは「SS国家―ドイツ強制収容所のシステム」
なんでしょうか?
しかしコレは古書でも高いんですよねぇ。
それから本書では所々で、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」や
「収容所群島」にも触れています。
実は本書を読む前、コッチを先に読もうと思ってたんですよねぇ。

また、偶然とは恐ろしいもので、本書を独破中に、映画「9000マイルの約束」の原作である
「我が足を信じて -極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語-」が
5月に発売されたのを知りました。
捕虜となったドイツ兵の実話と言われている有名なもので、
コレは1680円と手頃ですから、早速、読んでみたいと思います。















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