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ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡 [イタリア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アンドレ・フランソワ・ポンセ 解説の「ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡」を読破しました。

1996年に出た190ページの本書は以前から少しだけ気になっていた一冊ですが、
2月に、「ふたつの戦争を生きて」を読んでから、ムクムクと興味が湧いてきました。
1940年1月から1943年5月まで、2人の独裁者によってやり取りされた書簡を掲載したもので、
そのため一応、著者はヒトラーとムッソリーニということになっています。

ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡.jpg

最初に30ページほどタップリ解説を書くのはフランソワ・ポンセ。
この名前をご存知の方なら、本書は楽しめるかも知れません。
末尾の「訳者解説」にも書かれていますが、ポンセはフランスの外交官であり、
1932年~38年まで駐ベルリン大使、1938年~40年は駐ローマ大使を歴任して、
ヒトラー、ムッソリーニに対する見識が深い人物です。

1943年にゲシュタポに逮捕されて2年間拘禁され、戦後の1946年、
フランス語の本書がまとめられて出版されたということです。

François-Poncet _Hitler 1935.jpg

そんな経歴を持つポンセが書く解説は2人を比較し、なかなか楽しめます。
人間的な比較だけでなく、「ナチズムはファシズムに多くを負っており、
そこから生まれたのだと言える。ファシズムの模擬であり、特徴的な諸制度、
親衛隊、褐色の制服、古代ローマ式敬礼、青年組織、職場クラブ、
さらには「ドゥーチェ(統領)」の訳語にほかならない「フューラー(総統)」まで借用した」。

そして1923年の「ミュンヘン一揆」の失敗後、ゲーリングらがイタリアに避難所と支援を見出し、
ヒトラーはこのことを恩義に感じて、以来、ムッソリーニを「師」と仰ぐようになります。
1934年の初めてのイタリア訪問では、スーツにトレンチコート姿で、
まるで街へ出るために一張羅を着込んだ田舎者のよう・・という屈辱を味わったヒトラー。

Mussolini-Hitler_1934.jpg

その後、数回に及ぶ双方の歓迎合戦も詳しく書かれています。
この話は何度か読みましたが、子供じみていて面白いですね。

1936年のスペイン内戦で「枢軸」の絆は強まり、
オーストリア問題、ズデーテンラント問題の「ミュンヘン会談」でのムッソリーニの手腕。
しかし「1942年までは戦争をしない」と確約していたヒトラーがポーランドに侵攻すると
彼の思惑は外れ、戦争が始まってしまいます。
鋼鉄条約によれば、ドイツへの支援に急行しなければならないムッソリーニは、
この困難な状況をなんとか回避します。
いつの間にか「師」を越えた存在になりつつある「弟子」のヒトラー・・。

on in a Munich railway station during the time of the 1938 conference_ Front row Hitler (Center) Mussolini left of him - Munich, Germany September 1938.jpg

ということを解説で理解したうえで、いよいよ1940年1月4日のムッソリーニの書簡へ。
1940年~43年まで各年ごとに章分けされ、そのアタマには簡単な情勢が書かれています。
それでは10ページに渡るムッソリーニの書簡から、ちょっと抜粋してみましょう。

「こう申したからといって驚かないでいただきたいのですが、
独ソ不可侵条約はスペインにおいて好ましからざる反響を招いたようです。
スペイン内戦は、まだあまりにも近い過去なのです。
その下に死者たちが眠るこの土地は、まだ固まっていないのです。
スペインにとってボルシェヴィズムはつきまとって離れない悪夢なのです。
情熱的な思考性を持つスペイン人には、政治の持つ戦術的要請は理解しえないことなのです」。

「貴下は西へ向けての戦争の意図はないことを再度明言されてはいかがでしょうか。
そうすることによって、紛争継続の責任をフランス、英国に転嫁することができますし、
全世界もそれを認証するでありましょう」。

Hitler Examining The West Wall Fortifications May 1939.jpg

あくまで宣戦布告をし、戦争を始めたのは英仏であり、
反ボルシェヴィズムの旗を降ろすべきではなく、ロシア打倒を目指すべき・・と、
ヒトラーにけしかけつつも、自軍については、
「現時点では、貴国の予備隊であるべきだと考えています。
イタリアは長期戦に耐えることは出来ず、それを望んでおりません。
イタリアの参戦は、最も有効な、最も決定的な時点でなされるでありましょう」。

Mussolini con alcuni ufficiali militari e Starace passa in rassegna soldati accanto a carri armati.jpg

続く書簡もムッソリーニのものです。
4月~6月にかけてのドイツ軍のノルウェー占領、ベルギー降伏に祝意を表明し、
「6月5日を期して参戦するという当方の決断をご報知したかった・・」と、
フランスに対する、いわゆる「火事場泥棒」の決断に至った経緯を語りつつ、
ピエモンテの工業中心部の対空防衛体制強化のために、
「対空砲兵50個中隊並びに弾薬を委譲して下さるよう要望いたします」。

う~む。。勝手に参戦すると言って、防御の為に兵士と弾をくれ・・というのも凄いですが、
「我々相互の同志的連帯を示すための部隊兵員の交換」というまっとうな理由があるそうで・・。

Mussolini with Hitler 1941.jpg

7月には英国本土上陸作戦にイタリア軍を参加させたいと要望するムッソリーニ。
「我々は現在、極めて強力かつ高速の新型機の航空部隊を擁しています」。
当時、イタリア空軍このような新型機があったのかは良くわかりませんが、
北アフリカでの状況もあって、英軍に対して致命的打撃を与えようと目論んでいるのです。

日本の情勢についてもヒトラーに進言します。
「それとわかる新たな動きの兆しはまだありません。
日本の政策は謎めいており、優柔不断であります」。

Mussolini recibe a los japoneses en Palazzo Venezia 1941.jpg

こうしたムッソリーニの書簡が続いた後、11月になって初めてヒトラーの書簡が登場。
ムッソリーニの書簡を読む限りでは、別にヒトラーが無視していたわけでなく、
ちゃんと返信なり、ヒトラーからの書簡はあったようですが、本書に未掲載なんですね。
そもそもポンセと出版社がどのような経緯で、この書簡を手に入れたのかも不明で、
書簡によっては後半部分が判読不能として省略されているものもありました。

anking Nazi and Italian Fascist officials, including Hitler and Mussolini, at Santa Marinella, north of Rome, during Hitler's 1938 state visit to Italy.jpg

その10ページ越えのヒトラーの書簡、出だしはこんな感じです。
「ドゥーチェ
本書簡をしたためるにあたって、過去2週間、私の心はかつてないほど貴下と共にあったと
確信することをお許しいただきます。現在の情勢下で、貴下への支援になりうる
全てのことを行うという当方の決意をここで改めて披瀝しておきます」。

この長い書簡には興味深かった箇所が2つほどありました。
まずは対ギリシャ戦の延期要望が叶わなかったことに遠回しに不満を述べ、
「とりわけ、クレタ島の電撃的制圧がなるまでは、その行動を控えることの必要を
納得していただくつもりでありました。」と、有名な「クレタ島攻略作戦」の半年も前に、
イタリア軍も含めた空挺作戦を想定していたことです。
しかし実際には10月にイタリア軍がギリシャに侵攻したことで、英軍がクレタ島を占拠し、
翌年5月の作戦で、ドイツ降下猟兵が大損害を負うのです。

3rd Alpine Division Julia marching through the Balkans to Greece.jpg

もう一つは地中海の封鎖要望です。
「貴下が、それが可能になった時点で、メルサ・マトルーに進駐して空軍基地を建設し、
シュトゥーカを大量に投じてアレキサンドリアの英国艦隊を駆逐し・・」。
ロンメル戦記でお馴染みのエジプトの都市メルサ・マトルーにすでに言及していますが、
ドイツ・アフリカ軍団の派遣は、この3ヵ月後です。
まだドイツ軍の舞台となっていない北アフリカ戦線の知識と、
イタリア軍の戦略にまで丁寧ながらも遠慮なく首を突っ込んでいるのが印象的です。

3CountyClassCruisersAlexandria.jpg

12月のヒトラーの書簡ではスペイン情勢がアツいですね。
「スペインは枢軸諸国との協力を拒否いたしました。
フランコはその生涯最大の愚行を演じているのではないかと思われます。
まことに嘆かわしい事態です。なにしろ我々としては、1月10日にスペイン国境を踏破し、
2月初めにはジブラルタルを攻撃する予定だったのです。
この作戦に充当されるはずであった部隊は特別に選別され、訓練されていたのです。
フランコの決定にはいたく失望しております。
彼自身が苦境にあった時に我々が支援したことからは考えられない態度です」。

Francisco Franco.jpg

そしてロシアとの関係・・。
スターリンが存命である限り、かつ、我々が深刻な危機に見舞われるようなことがない限り、
我々に対してロシア側から手出しすることはあるまいと考えております。
ソ連邦との現在の関係が非常に良好だということであります」。

しかし新年に際しての文末はこのように締め括られるのです。
「来たるべき年が最終的勝利の年となるよう願うことになりましょう」。

State visit of the Leader in Rome 1938.jpg

1941年の書簡は2月28日のヒトラーからムッソリーニへのもの。
年を跨いでもいまだフランコに対する「きわめて不快」な話から始まります。
そしてあの将軍の名前が・・。
「トリポリタニアのイタリア軍機甲部隊を我がロンメル将軍の指揮下に置いて下さったことに
深く感謝いたします。彼は貴下の信頼を裏切ることはありませんし、
貴下の兵士たちの心服と敬愛を短期間に勝ち取るものと確信しております」。

Erwin Rommel is awarded the Colonial Order of the Star of Italy.jpg

6月21日の書簡。ヒトラーが「バルバロッサ作戦」を翌日に発動することを知らせるものです。
ヨーロッパ各国に北アフリカの状況、米国や日本の情勢にも触れたうえで、
「クレムリンとの騙し合いに終止符を打つ決心をしたのであります」と語ります。
そして、あのイタリア遠征軍を送ろうという申し出に対して、遠回しながらも、
それよりアフリカ軍団を強化したり、地中海での空戦と潜水艦戦に力を入れなさい・・
といった具合です。

また、最も重要なメッセージは、ポロポロと情報漏れするイタリアへの一言。
「とりわけ貴下に心から要望するのは、この件を貴下のモスクワ駐在大使には
伝達しないでいただきたいということであります」。

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1942年はムッソリーニの書簡が2通掲載されているだけで、
しかもファシズム成立20周年を記念して、ドクター・ライに率いられた使節団の到着、
恐らく、ロベルト・ライの歓喜力行団がローマでお祝いした・・というようなお礼ですね。

hitler-mussolini_stamp.jpg

最終章となる1943年は、20ページに及ぶ2月16日のヒトラーの書簡からです。
スターリングラードでの敗北後のこの書簡は次のように始まります。
「長らくご無沙汰いたしましたのは、数ヵ月来、我が肩にのしかかっている
極めて重大な責務のためであります」。

第6軍のことなど、すでに終わったことには触れずに今後の問題を相談。
「ドゥーチェ、バルカンの情勢については強い懸念を抱いております。
バルカンのいずれかの地点に連合軍が上陸したならば、
共産主義者、ミハイロヴィッチのパルチザンらがただちに結束し、
ドイツ、イタリア軍部隊を攻撃して、連合軍を支援するでありましょう。
チトーの反乱組織の拡大ぶりは驚くべきものであり、
ミハイロヴィッチのチュトニクの行動には危険が潜んでいるのでありますから、
占領地域にいる彼の配下のパルチザン全員をわが部隊によって
殲滅するよう指示いたしました。
貴下の各部隊指揮官にこの方向での指令を発するよう希望いたします」。

チトーが登場する戦記はいくつか読みましたが、ミハイロヴィッチのチュトニクに対しても
かなり心配していたんですねぇ。
このような命令から、血で血を洗う凄惨なバルカン・パルチザン戦争へとなるわけですか。

Draža Mihailović.jpg

また、ヒトラーはサルデーニャ、コルシカ、シチリアの上陸の可能性も排除できず、
「サルデーニャとコルシカはとりわけ標的にされていると思われますので、
この2島の防衛力強化は決定的に重要であると考えます。」と、
あの英国による欺瞞工作「ミンスミート作戦」の影響があるかも知れません。

manstein_Richard Ruoff _Hitler_meeting_1943.jpg

東部戦線ではマンシュタインが部隊の再編成と戦線の再構築をしている最中ですが、
A軍集団のカフカスからの撤退などについてもその苦労を語ります。
ドイツ軍将兵に求められている努力が言語を絶するものであるとして、一例を挙げますが、
それは前年の武装SS「トーテンコープフ」のデミヤンスク包囲での戦いです。
包囲陣から連絡を回復した後も戦い続け、最終的には170名まで減少。

SS-Totenkopfdivision Im Kessel von Demjansk.jpg

フリードリヒ大王の話も織り交ぜながら、ナチスは絶対降伏しないとの決意を示し、
もはやムッソリーニに対して脅迫めいたことまで書き記します。
「最後の男子、最後の婦女子に至るまで動員し、戦い抜くでありましょう。
そしてドゥーチェ、イタリアには同じ道を進む以外の選択はあり得ないのです」。

hitler-greets-muso-munich.jpg

この書簡に対するムッソリーニの返信。
チュニジアを維持するためにはロンメルの提案ではたちまち海中へ追い落とされる・・
といったことに、第1次大戦の遺留品のような兵器で戦わなければならない悲劇を・・。

3月、ロンメルが総司令部に出頭した件をムッソリーニに報告するヒトラー。
「とりあえず健康上の理由ということで彼を司令官の地位から解任いたしました。
医師団の所見に照らしても、彼には休息が緊急に必要であります。
いずれにせよ、ロンメル元帥の解任並びにアフリカ軍団司令部の暫定的改編については、
これを極秘にして下さるよう要望いたします。
この情報が漏れ伝わることは我々にとって極めて有害であると考えます。
というのも、後世が彼をどう判断するにせよ、彼は指揮を執った至る所で、
部下の将兵から敬愛された指揮官だったからであります。
彼の敵側からすればロンメルは恐るべき敵手であったし、いまもそうでありましょう。
もっとも悲劇的なのは、稀にみる指揮能力と勇気とを兼ね備えたこの人物が、
海上輸送力を最大限に拡充することによってしか解決しえない、
補給能力において敵側に凌駕されたことであります」。

Erwin Rommel greets Nazi nurses in 1943.jpg

3月25日のムッソリーニの書簡を最後に紹介しましょう。
「いまやロシアの章は閉じらせても良いと申せるかと思います。
もし可能ならば、単独講和によって、あるいは防衛線を設置することによって。
このような結論に至ったのは、なによりもまず、
ロシアを破壊し尽くすことは不可能であるとの確信からであります。
我々は夏の侵攻と冬の後退とを果てしなく続けることは不可能であり、
それを無理に続けていれば疲労困憊し、結局はアングロサクソンに
漁夫の利を与えることとなりましょう。
加えて申しますなら、スターリンと連合国の目下の関係は良好どころではなく、
従っていまは決行の好機でありましょう」。

Mussolini-Hitler_03.jpg

4年以上前に読んだ「第二次世界大戦 -ムッソリーニの戦い-」を思い出すと、
この辺りはまさに娘婿の外相チアーノの影響のように思いますね。
そしてこの4か月後の7月には逮捕されてしまったムッソリーニ
スコルツェニーによって救出され、ナチスの傀儡国家であるサロ政権を樹立して、
それまで以上にヒトラーと親睦を深めるも、ヒトラーがエヴァと自殺する2日前、
愛人のクラレッタと共に銃殺されてしまうのでした。
ヒトラーの「そしてドゥーチェ、イタリアには同じ道を進む以外の選択はあり得ないのです」が
なんとも恐ろしく感じましたね。

本書はヒトラーとムッソリーニの関係をちょっと知ってみたいな・・という方には向きません。
最初のフランソワ・ポンセによる解説文こそ、まさにその点に光を当てていますが、
「書簡の内容を如何に楽しむか・・」というのが、本来の目的になるでしょう。
それには1939年から1945年までのヨーロッパ戦線全般の知識が必要であり、
具体的には児島さんの「ヒトラーの戦い」を全巻読んでいるくらいがちょうど良いと思います。

mussolini-hitler.jpg

書簡の日付を見て、東部戦線、西部戦線、北アフリカ戦線で何が起こっていたかがわかり、
その数ヵ月後には何が起こるのか・・という答えを知りながら読む楽しさということです。
また、お互いこれ以上ないほどの丁寧な文章と、自軍の状況、相手に対する希望は、
そのまま鵜呑みにできない政治的駆け引きや、己のプライドも垣間見ることができ、
読者の知識をもって深読みするのも、大人の楽しみ方のひとつのように思います。

確かに序盤から中盤にかけてはムッソリーニの書簡が一方的に紹介されたことから、
読みながらも、その書簡ごとの内容説明が必要なのでは・・と思っていました。
しかし1942年~43年、双方の危機的状況が頻繁にやり取りされてくると、
逆にそんな解説があったら「野暮」だなぁ・・と考えが変わりました。
それは第3者の余計な説明が一切ないことで、その2人の緊張感が持続するからです。
特に最後の数10ページは夜中にお酒を呑むのも寝るのも忘れて、一気読み・・。



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戦争の記憶 記憶の戦争 -韓国人のベトナム戦争 [世界の・・]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

金 賢娥 著の「戦争の記憶 記憶の戦争」を読破しました。

今回は独破戦線初となるベトナム戦争モノです。
この戦争については、「狩りのとき」など、小説はいくつか読んできましたし、
地獄の黙示録」に、「プラトーン」といった映画もロードショーで観てきました。
そういうわけで、大まかな知識はあったものの、深入りするのはなかなか難しい・・。
泥沼のベトナム戦争全般ではなく、なにか興味深いテーマの本を探していたところ、
2009年、375ページの本書に辿り着いた・・という経緯です。
米軍に次ぐ戦力、最盛期には5万人もの兵を送り込んだ韓国軍。
一般的には5000名もの死者を出したとされる一方、
数千人の民間人虐殺を行ったと云われており、
なかには、ベトナム市民の結婚式を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦。
ついでに宝石を奪った挙句、女性たちを川に投げ込んで殺害・・なんてメチャクチャな話も・・。
著者は韓国人女性ですが、果たしてどこまでこの問題に切り込んでいるのでしょうか・・。

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1998年、韓国の市民団体「ナワウリ(私と私たち)」が創設され、その代表である著者は、
交流のあった日本の市民団体を介して、「ベトナム戦争での韓国軍民間人虐殺」を知ります。
早速、現地調査に着手しますが、まずはその準備としてベトナム戦争そのものの勉強を・・。
読者も10ページほど、この戦争の概要を学ぶことになります。
植民地だったベトナムがフランスを追い出し、ホー・チミンによって共産化。
1965年、米国は北ベトナムへの攻撃を開始します。

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「ベトナム戦争の国際化」という大義名分を確保するために、25か国に参戦を要請する米国。
しかし、それに応じたのはオーストラリア、ニュージーランド、台湾、フィリピン、タイ、英国、
そして韓国のたった7か国だけ・・。
しかも韓国以外は砲兵隊や工兵隊を派遣するだけであり、英国に至っては米国のしつこい要請に
サイゴンの空港に6名の儀仗兵を派遣し、辛うじて体面を保ったのです。
それに比べ1965年~73年まで、延べ32万人もの兵力を派遣した韓国軍。
朝鮮戦争で米国の世話になったことから、断れずに決定されたと云われているそうです。

日本の植民地から解放されたものの、南北に分断されて戦争になった朝鮮半島。
ベトナムもまさにフランスから解放された後、南北に分かれて戦い、
しかも北には社会主義政権、南は資本主義政権と、あまりに似通っています。

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こうして、現地の村々で35年前の当時を知る生存者からインタビュー。
住民50名ほどのブンタオ村に突然姿を現した韓国軍。
隠れていると「ベトコン」に勘違いされるため、赤ん坊を抱いて全員が広場に集まると、
いきなり銃撃を始めます。命乞いをする村人に照準を合わせ、
赤ん坊から妊婦、老人たちが虐殺され、死んだふりして生き残ったのはわずか3名です。

5つの集落、100余名が同様にして殺され、
また別の村では、行軍してきた南朝鮮青龍部隊によって36人が殺されて、
翌日も別の村で273名が様々な武器によって残虐に殺されます。

派遣された韓国軍は主に3つの師団で、この青龍部隊は「海兵隊第2海兵師団」、
猛虎部隊と呼ばれた「陸軍首都師団」、そして白馬部隊こと「陸軍第9師団」です。

2ndROKMarine.jpg

韓国軍司令部が発行した戦訓集には「部落はすべて敵の活動根拠地」と書かれ、
「ベトコンの下部構造の基盤は部落と住民である」と強調されます。
韓国軍の将校でさえ、ベトナムとは特別な縁があるわけでもなく、敵愾心もない。
兵士たちには「国際共産化」を防ごう、と精神訓話をするだけ・・。
朝鮮戦争を経て、彼らは「アカは殺してもいい」、「殺さねばならない」という意識が、
彼らの身体に内在化していったと著者は語ります。

なんだかもう、「アインザッツグルッペン」の精神ですね。

2ndROKMarine1.jpg

また、ある兵士はこう語ります。
「一度だけでも、民間人を殺してはならない。子供や老人、女性を殺してはならない。
強姦してはならない。と聞いていたら、こんなことまでしなかっただろう。
ベトナム行きの船で聞いたのは、捕まれば両手両足を裂かれて殺されるとか、
子供もベトコンだから殺さねばならない。強姦後は殺さねばならない。
そんな話ばかり聞きました。
実際、私が体を張って戦う理由がどこにありますか。
生き残らなければならないと考えるようになると、婦女子もベトコンに見えるのです」。

う~ん。ゲリラ戦の怖さですね。
武装SSの「プリンツ・オイゲン」も残虐部隊だったとして知られていますが、
主にユーゴでパルチザン相手に戦ってたわけですから、しょうがないと思うんですよね。。

Korean Tiger Division.jpg

ベトナム人は、ベトナム戦争を「抗米戦争」と呼び、
ベトコンを「南ベトナム解放民族戦線」と呼びます。
青龍、猛虎、白馬部隊を「韓国軍」とは呼ばずに、
大統領だった「朴正煕(パク・チョンヒ)の軍隊」と呼びます。
そして彼らは「朴正煕の軍隊」は、米国の傭兵であると記憶しているのです。

1968年1月、北ベトナム軍による「テト攻勢」に対抗した「怪龍一号作戦」を展開します。
旅団規模の青龍部隊がベトコン捜索掃討作戦を開始したのです。
米海兵隊と連携した「安全な村」であるフォンニィ村から射撃を受けた部隊は、
村の住民69名を虐殺。
その数時間後、フォンニィ村が韓国軍に攻撃されたことを知った米海兵隊が
負傷者救援のためにカメラ持参でやってきます。
この偶然によって、「胸をえぐられても生きている女性」、
「至近距離で撃たれた女性と子供」、「池で溺死した子供」などの写真が撮影され、
後に、報告書としてまとめられるのでした。ただし、本書に写真は未掲載・・。

Phong_Nhi_massacre_3.jpg

ヴィトゲンシュタインが調べた限り、韓国軍の蛮行を示す写真は、この報告書の写真のみです。
そしてベトナム派遣軍司令官ウェストモーランドは報告書を韓国軍に送り、調査を求めますが、
韓国軍司令官は「ベトコンが仕組んだ邪悪な陰謀である」と否定するのでした。

Phong Nhị and Phong Nhất massacre.jpg

韓国軍が関わった最大の虐殺事件は1966年1月の猛虎部隊3個中隊によって行われます。
ゴーザイ(ゴダイ)ではわずか2時間のうちに住民320が射殺され、
15の地点で1200名以上が虐殺されるという「タイヴィン虐殺」も・・。
身元の分かった公式な死者だけでも728名。
子供166名、女性231名、60歳以上の老人88名、家族皆殺しが8家族に及びます。

Go Dai massacre.jpg

2011年の調査では参戦軍人もベトナムへ同行します。
「私は当時、新兵でした。捕えた男性1名と女性2名を木に縛り付けると、
分隊長が肝力をつけてやるから、着剣して刺し殺せ、と言われました。
とてもできませんと言うと、頭に銃を当てられました。命令不服従だと。
私は太ももを刺しました。次の人は腹部を刺しました。すぐに戻って吐きました。
少しして「バーン」という音がしました」。

旧日本軍でも似たような話を読んだ記憶があります。

参戦軍人は戦争終結の翌年に建てられ、遺品や写真が収められたミライ博物館を訪れ、
ひどい気分も味わうのでした。

my lai museum.jpg

米軍が「ミライ」と呼ぶ、ソンミ村。
ここは1968年に米軍が起こした最大の虐殺地で、「ソンミ村虐殺事件」として知られています。
この事件が知られるようになったのも、やっぱり写真。
従軍写真家が同行しており、白黒フィルムだけでなく、カラーでも撮影されたことから、
後に米国だけでなく、全世界に衝撃を与えることになるのです。

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動く者はベトコンであり、動かない者は老練なベトコン。
黑いベトナム服を着た15歳ほどの少女を引きずり出し、ブラウスを脱がせ始め、
「この娘の出来をみようぜ」と笑う米兵たち。
その時、少女の母とおぼしき老婆が狂ったように止めに入ります。
少女が母の後ろに隠れてブラウスのボタンを留めているところをカラー写真に収めますが、
暫くして聞こえた銃声に振り返ると、全員が殺されていたのです。

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504名が犠牲となったこの事件。女性182名のうち、17名が妊婦、
173名の子供のうち、5か月未満の赤ちゃんが56名・・。
黒人兵カーターはこの野蛮な虐殺行為に耐えられなくなり、自らの足の甲を撃ち抜きます。

Pfc Carter.jpg

命令を下したのは「狂犬」の綽名を持った中隊長メディナ大尉。
そして第1小隊長のキャリー中尉も狂ったようにベトナム人を殺します。

Ernest Medina.jpg

1年後、米国メディアはこのニュースを書き立て、ニクソン大統領も
「明白な虐殺」として裁判が始まりますが、将校たちは赦免され、
キャリー中尉だけが軍隊から除名されただけ。しかもすぐに仮釈放です。

William Calley.jpg

1968年、ハミ村も韓国軍の虐殺の被害に遭います。
数日前から村へやって来ては、パンを配っていた韓国軍。
その日も、当然のように子供も一緒に集まってくると、手榴弾を投げてきたのです。
135名が死亡し、20名が生き残ったものの、死体が散らばった現場をブルドーザーで踏み潰し、
散らばった肉片と折れた骨を拾い集めることになった生き残りの人々。。
そして2001年には韓国軍の参戦軍人の支援より、慰霊碑が立てられます。

The marble with paintings of lotuses, covering the original memorial statue in Ha My, Vietnam.jpg

著者は所々で「元日本軍慰安婦」の語った話を挿入して比較します。
また、最後には韓国の教授の言葉を引用します。

ドイツは自分たちの蛮行が人類犯罪だと告白し、実践したため、
世界国家に生まれ変わることができた。
一方、アジアの世界国家を自認する日本は、先の犯罪行為を力の論理で包み込んで
美化することに忙しい。罪責感と責任感は眼中にもない。
日本は理解しなければならない。過去の克服は「ともに記憶すること」であって、
「ひとりで埋めてしまうこと」ではないことを。

そして著者は「日本の替わりに韓国を代入してもこの文章は成り立つ」とします。

原著は2002年に韓国で発表されたようですが、執筆中に金大中大統領が、
公式謝罪をしたそうです。
「私たちが不幸な戦争に参与し、ベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」。
それでも、民間人虐殺などの件については認めていないようですね。
いろいろと調べてみると、以前の大統領である全斗煥、盧泰愚が
ベトナム戦争で武勲を挙げた軍人であったということも、ハッキリできない要因であるんでしょう。

訳者あとがきによると、この戦争を描いた「ホワイト・バッジ」という韓国映画が作られ、
1992年の東京国際映画祭でグランプリを受賞したそうです。知らなかったなぁ。
映画に登場するのは白馬部隊だそうで、戦争映画好きとしては気になりますね。

White Badge.jpg

こうして韓国軍が行った蛮行の数々を書いていて少し危惧するのは、
その部分だけがどこかに転載されて、ネトウヨと呼ばれる方々の楽しいネタになるのでは??
ということです。
実際、2chの軍事スレに独破戦線の記事の一文がそのまま掲載されたりしたこともあります。
「それ、独破戦線のコピペじゃね~か」と指摘されていたのは面白かったですけどね。。

戦争の世界史という観点から、ベトナム戦争における韓国軍の蛮行に興味があるのであって、
韓国のアラ探しをして喜ぼうという趣旨は毛頭ありませんし、
このような件についてはドイツ、ロシア、米国、とやってきてるので、ご存知とは思いますが。。

また、韓国軍による虐殺を知り、それを公に認めない韓国政府に対して、
「日本に謝罪を求めるより、まず、自分たちが謝れよ」という意見も聞こえそうです。
しかし、それは議論のすり替えであって、日本がどうこう言う話ではありません。

いずれにしても、最近の嫌韓の傾向からして、
「従軍慰安婦を支援する韓国人が書いた本なんぞ読めるか」と考える向きの方は、
今回のレビューはキレイさっぱり忘れてください。




えで⹃
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おかしなジパング図版帖 -モンタヌスが描いた驚異の王国- [番外編]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

宮田 珠己 著の「おかしなジパング図版帖」を読破しました。

去年の4月に出た192ページの本書は、神保町の三省堂に山積みになっていて
ちょっと立ち読みしたことを覚えています。
モンタヌスという名前は知りませんでしたが、どこか見たことのある図版で、
簡単に言えば、17世紀の鎖国時代の日本を想像で描いたものです。
当時、ヨーロッパで日本がどんな国だと思われていたのか・・?
またはタイトルどおり、シュールな図版そのものを楽しんでみる・・。
いずれにしても、気になる一冊ですから、
エイプリルフール・スペシャルとして紹介してみましょう。

おかしなジパング図版帖.jpg

「はじめに」では、モンタヌスについて簡単に述べられています。
1625年アムステルダム生まれで、教科書や歴史書など多くを出版。
1669年にオランダ使節の「江戸参府日記」や、その他の報告を元に通称「日本誌」を出版。
90点以上の挿絵を含むことで、日本のイメージが視覚的に伝わるようになったそうです。
しかし致命的な問題は、モンタヌス本人が日本に来なかったことと、
その挿絵も、絵描き職人が手持ち資料や文章から描いたということです。

Arnoldus Montanus japan.jpg

とは言ってもモンタヌスの「日本誌」が日本を描いた最初というわけではなく、
1641年まで日本に滞在したフランソワ・カロンが1661年に「日本大王国志」を出版し、
本書にも「切腹」の挿絵が掲載されていました。
アルファベットが振られていて、Aが切腹する人、Bが介錯人、Eが僧侶、Fが近親者、
両端に沢山いるGは見物人です。。こんなに観られているのか・・。

A True Description of the Mighty Kingdoms of Japan_François Caron_1661.jpg

「オランダ使節 珍妙な旅をする」の章では、謎の「オウネワリ城」が登場します。
小倉から豊後を経て、長崎に向かう途上で通過した城だそうで、
川に面した岩山に建つ、実に不気味なお城ですね。
次のページには九州のスモンギ(Smongy)にあるとされるオンナイス(Onnays)宮殿が。。
モンタヌスの地名表記は誤りが多く、これらはどこの城だかは不明だそうな・・。

Arnoldus Montanus japan_Ounewari.jpg

本書の表紙、帯の上に絵が描かれているのは「使節を出迎える奉行の行列」です。
不思議な車輪のと派手な屋根の馬車はインパクト充分。

「へんてこな人々」として紹介されるのは「上流婦人」。
大きな扇を持った婦人に、下男の差す傘にスッポリと隠れた婦人。。
傘には覗き窓が付いているようですが、なんというか、火星人のようにも見えますし、
ついつい「きのこの山」を食べたくなりますね。

Arnoldus Montanus japan_NOBILITY-LADY.jpg

「武士と呼ばれる戦士たちの世界」では、「銃を担ぐ近衛兵」が良い味出してます。
本書では章の最初に2ページ程度の解説が書かれているほか、
図版ごとにキャプションというか、説明書きが書かれています。
しかしコレが、「どこか日本離れしている」とか、「微妙にズレていて面白い」、
「まるで中国のよう」、「微妙な違和感がある」、「でたらめである」、
「先端にイガイガのついた棒はなんだろう」、「微妙に変」という表現のオンパレードで、
説明と言うより、ヴィトゲンシュタインを含む「一般読者の単なる感想」レベルです。
タイトルからして、面白おかしく紹介したいのかも知れませんが、ちっょとなぁ。。

Arnoldus Montanus japan_Royal Guard.jpg

中盤には「ヨーロッパ人によるおもしろ日本地図」と題するコラムが・・。
日本を描いた最初の地図と呼ばれる1459年の「世界図」からカラーで紹介します。
言われなければとても日本とは思えないほど、形もメチャクチャですが、
1592年の「テイセラの日本図」になると、かなり日本らしくなります。
しかし北海道の存在は否定・・。
ヴィトゲンシュタインのせいではありませんが、北海道の方、なんかスイマセン。。

Japonia_1592.jpg

1621年になってヨーロッパの地図に北海道が登場しますが、これが実に壮大です。。
本州の2.5倍くらいありそうですね。

Girolamo De Angelis_Nippon_1621.jpg

モンタヌスも「切腹」を描いていました。
腸がドロ~ン・・と飛び出して苦悶の表情を浮かべた、生々しい図版です。
個人的に気になるのは、右後方で両手を挙げて興奮し、制止されている人物です。
近親者なのか、エキサイトした見物人なのか・・??

Montanus_Seppuku.jpg

長崎の「平戸城」はなかなか、それらしい雰囲気がありますね。
石垣や門なども日本らしく描かれていますが、モンタヌスの本文には、
「塔は7層にてピラミッド形を成し、先端に至るに従って次第に小さくなり・・」と書かれています。

Arnoldus Montanus japan_Hirado Castle.jpg

「モンタヌス日本誌」は1925(大正14)年に翻訳されており、amazonでも古書が売っていました。
87,999円です。ひえ~・・。

モンタヌス日本誌.jpg

また、2004年には柏書房から、「モンタヌス「日本誌」英語版」が出ていて、
これは図版96点を収録したフォリオ判(原寸大判)での完全復刻の英語版と、
復刻した1925年の日本語版のセットのようです。
定価は147,000円也・・。約15万円です。

Atlas Japannensis(The Embassays to the Emperours of Japan).jpg

「得体の知れない宗教」になると、モンタヌスの中でもインパクトNo.1かも知れない、
秀吉によって京都に建造された方広寺の大仏が登場します。
この大仏について調べてみると、16mの東大寺の大仏を凌ぐ、19mもの巨大さで、
1595年に建造されたものの、翌年の慶長伏見地震によって倒壊したそうです。
その後、再興されますが、1662年の地震で再び倒壊・・。
1667年に木造で再興されますが、1798年に落雷による火災で焼失・・。
「木をもって作られ、漆喰を塗り、銅を持って蔽い、二重の鍍金をなせるもの・・」
と、モンタヌスの本文には書かれているので、1代目か2代目の大仏でしょうか。

Arnoldus Montanus japan_daibutsu.jpg

Bカップはあろうか・・という大仏も魅力的ですが、その手前両側で、
「門の両側に二つの恐るべき悪魔の巨像があり、手には小剣を持ち、腰には大剣をおび、
互いに睨み合いて、今や戦わんと構うるの如し・・」と、
読んだだけで仁王像と想像できる、この悪魔の巨像が可愛らしい。。
手はいっぱいあるし、武器を沢山抱えて、西洋のやんちゃな悪魔っぽいですね。
ちなみに隣の獅子像は「狛犬」のようです。

Arnoldus Montanus japan_Nio.jpg

「観音像」になると、お魚の口から出てきました。

Arnoldus Montanus_Kwannon.jpg

ここら辺りはもう、絵描き職人もヒンドゥー教とゴチャゴチャになっているようで、
ヒンドゥー教の神、ヴィシュヌの化身「マツヤ」と瓜二つ。

matsya.jpg

大阪にあるとされる「ヨーシー・グサルの殿堂」の猪顔の謎の神。
踏みつけられた鬼の切ない顔が印象的です。

Arnoldus Montanus_Joosie Goesar.jpg

しかしこれもやっぱり、ヴィシュヌの化身「ヴァラーハ」のパクリなのでした。。

varaha.jpg

江戸市内にあったとされる「黄金阿弥陀像」は、阿弥陀様が犬となってしまいました。
「頭は犬の如く、長い耳がある」との記述があるようですが、
著者は「犬の如く長い耳」という意味ではないか??と推察しています。

Montanus_Amida.jpg

確かに阿弥陀如来像は耳たぶがベロ~ンと垂れ下がってますからねぇ。超福耳。

Amitābha.jpg

「ブサ像」のブサとは「仏陀」のことだそうですが、もはや説明不可能・・。

Arnoldus Montanus japan_buddha.jpg

最後の章は日本で起こった歴史的事件が題材です。
1657年3月2日に江戸で発生し、江戸城天守閣も焼け落ちた「明暦の大火」。

Montanus-Meireki-Fire-Edo.jpg

そして織田信長が都から一哩離れたヅボ(Dubo)という村に美麗なる殿堂を建て、
そこに自己の肖像を置いたという、「信長像」。
かなりの美形男子ですね。

Arnoldus Montanus japan_Nobunaga.jpg

本書はモンタヌスの図版だけに特化したものではなく、
また、「研究書」といった類でもありません。
目線は現代の一般的な日本人であり、その可笑しさを突っ込もうというもので、
以前からモンタヌスをご存知で、真面目にモンタヌスを勉強したいという方には
不向きな一冊と言えるかも知れません。
しかし、著者の思いは一般の人にモンタヌスを広く知ってもらうことのようですから、
その意味ではある程度、成功していると言えるでしょう。
なんと言ってもオリジナルの本が高いですから。。

それにしても、無性に「きのこの山」が食べたくなりました。昔から大好きなんです。
最近、「大人のきのこの山」というのも売ってるんですが、買うのが恥ずかしい。。










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