ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡 [イタリア]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
アンドレ・フランソワ・ポンセ 解説の「ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡」を読破しました。
1996年に出た190ページの本書は以前から少しだけ気になっていた一冊ですが、
2月に、「ふたつの戦争を生きて」を読んでから、ムクムクと興味が湧いてきました。
1940年1月から1943年5月まで、2人の独裁者によってやり取りされた書簡を掲載したもので、
そのため一応、著者はヒトラーとムッソリーニということになっています。
最初に30ページほどタップリ解説を書くのはフランソワ・ポンセ。
この名前をご存知の方なら、本書は楽しめるかも知れません。
末尾の「訳者解説」にも書かれていますが、ポンセはフランスの外交官であり、
1932年~38年まで駐ベルリン大使、1938年~40年は駐ローマ大使を歴任して、
ヒトラー、ムッソリーニに対する見識が深い人物です。
1943年にゲシュタポに逮捕されて2年間拘禁され、戦後の1946年、
フランス語の本書がまとめられて出版されたということです。
そんな経歴を持つポンセが書く解説は2人を比較し、なかなか楽しめます。
人間的な比較だけでなく、「ナチズムはファシズムに多くを負っており、
そこから生まれたのだと言える。ファシズムの模擬であり、特徴的な諸制度、
親衛隊、褐色の制服、古代ローマ式敬礼、青年組織、職場クラブ、
さらには「ドゥーチェ(統領)」の訳語にほかならない「フューラー(総統)」まで借用した」。
そして1923年の「ミュンヘン一揆」の失敗後、ゲーリングらがイタリアに避難所と支援を見出し、
ヒトラーはこのことを恩義に感じて、以来、ムッソリーニを「師」と仰ぐようになります。
1934年の初めてのイタリア訪問では、スーツにトレンチコート姿で、
まるで街へ出るために一張羅を着込んだ田舎者のよう・・という屈辱を味わったヒトラー。
その後、数回に及ぶ双方の歓迎合戦も詳しく書かれています。
この話は何度か読みましたが、子供じみていて面白いですね。
1936年のスペイン内戦で「枢軸」の絆は強まり、
オーストリア問題、ズデーテンラント問題の「ミュンヘン会談」でのムッソリーニの手腕。
しかし「1942年までは戦争をしない」と確約していたヒトラーがポーランドに侵攻すると
彼の思惑は外れ、戦争が始まってしまいます。
鋼鉄条約によれば、ドイツへの支援に急行しなければならないムッソリーニは、
この困難な状況をなんとか回避します。
いつの間にか「師」を越えた存在になりつつある「弟子」のヒトラー・・。
ということを解説で理解したうえで、いよいよ1940年1月4日のムッソリーニの書簡へ。
1940年~43年まで各年ごとに章分けされ、そのアタマには簡単な情勢が書かれています。
それでは10ページに渡るムッソリーニの書簡から、ちょっと抜粋してみましょう。
「こう申したからといって驚かないでいただきたいのですが、
独ソ不可侵条約はスペインにおいて好ましからざる反響を招いたようです。
スペイン内戦は、まだあまりにも近い過去なのです。
その下に死者たちが眠るこの土地は、まだ固まっていないのです。
スペインにとってボルシェヴィズムはつきまとって離れない悪夢なのです。
情熱的な思考性を持つスペイン人には、政治の持つ戦術的要請は理解しえないことなのです」。
「貴下は西へ向けての戦争の意図はないことを再度明言されてはいかがでしょうか。
そうすることによって、紛争継続の責任をフランス、英国に転嫁することができますし、
全世界もそれを認証するでありましょう」。
あくまで宣戦布告をし、戦争を始めたのは英仏であり、
反ボルシェヴィズムの旗を降ろすべきではなく、ロシア打倒を目指すべき・・と、
ヒトラーにけしかけつつも、自軍については、
「現時点では、貴国の予備隊であるべきだと考えています。
イタリアは長期戦に耐えることは出来ず、それを望んでおりません。
イタリアの参戦は、最も有効な、最も決定的な時点でなされるでありましょう」。
続く書簡もムッソリーニのものです。
4月~6月にかけてのドイツ軍のノルウェー占領、ベルギー降伏に祝意を表明し、
「6月5日を期して参戦するという当方の決断をご報知したかった・・」と、
フランスに対する、いわゆる「火事場泥棒」の決断に至った経緯を語りつつ、
ピエモンテの工業中心部の対空防衛体制強化のために、
「対空砲兵50個中隊並びに弾薬を委譲して下さるよう要望いたします」。
う~む。。勝手に参戦すると言って、防御の為に兵士と弾をくれ・・というのも凄いですが、
「我々相互の同志的連帯を示すための部隊兵員の交換」というまっとうな理由があるそうで・・。
7月には英国本土上陸作戦にイタリア軍を参加させたいと要望するムッソリーニ。
「我々は現在、極めて強力かつ高速の新型機の航空部隊を擁しています」。
当時、イタリア空軍このような新型機があったのかは良くわかりませんが、
北アフリカでの状況もあって、英軍に対して致命的打撃を与えようと目論んでいるのです。
日本の情勢についてもヒトラーに進言します。
「それとわかる新たな動きの兆しはまだありません。
日本の政策は謎めいており、優柔不断であります」。
こうしたムッソリーニの書簡が続いた後、11月になって初めてヒトラーの書簡が登場。
ムッソリーニの書簡を読む限りでは、別にヒトラーが無視していたわけでなく、
ちゃんと返信なり、ヒトラーからの書簡はあったようですが、本書に未掲載なんですね。
そもそもポンセと出版社がどのような経緯で、この書簡を手に入れたのかも不明で、
書簡によっては後半部分が判読不能として省略されているものもありました。
その10ページ越えのヒトラーの書簡、出だしはこんな感じです。
「ドゥーチェ
本書簡をしたためるにあたって、過去2週間、私の心はかつてないほど貴下と共にあったと
確信することをお許しいただきます。現在の情勢下で、貴下への支援になりうる
全てのことを行うという当方の決意をここで改めて披瀝しておきます」。
この長い書簡には興味深かった箇所が2つほどありました。
まずは対ギリシャ戦の延期要望が叶わなかったことに遠回しに不満を述べ、
「とりわけ、クレタ島の電撃的制圧がなるまでは、その行動を控えることの必要を
納得していただくつもりでありました。」と、有名な「クレタ島攻略作戦」の半年も前に、
イタリア軍も含めた空挺作戦を想定していたことです。
しかし実際には10月にイタリア軍がギリシャに侵攻したことで、英軍がクレタ島を占拠し、
翌年5月の作戦で、ドイツ降下猟兵が大損害を負うのです。
もう一つは地中海の封鎖要望です。
「貴下が、それが可能になった時点で、メルサ・マトルーに進駐して空軍基地を建設し、
シュトゥーカを大量に投じてアレキサンドリアの英国艦隊を駆逐し・・」。
ロンメル戦記でお馴染みのエジプトの都市メルサ・マトルーにすでに言及していますが、
ドイツ・アフリカ軍団の派遣は、この3ヵ月後です。
まだドイツ軍の舞台となっていない北アフリカ戦線の知識と、
イタリア軍の戦略にまで丁寧ながらも遠慮なく首を突っ込んでいるのが印象的です。
12月のヒトラーの書簡ではスペイン情勢がアツいですね。
「スペインは枢軸諸国との協力を拒否いたしました。
フランコはその生涯最大の愚行を演じているのではないかと思われます。
まことに嘆かわしい事態です。なにしろ我々としては、1月10日にスペイン国境を踏破し、
2月初めにはジブラルタルを攻撃する予定だったのです。
この作戦に充当されるはずであった部隊は特別に選別され、訓練されていたのです。
フランコの決定にはいたく失望しております。
彼自身が苦境にあった時に我々が支援したことからは考えられない態度です」。
そしてロシアとの関係・・。
「スターリンが存命である限り、かつ、我々が深刻な危機に見舞われるようなことがない限り、
我々に対してロシア側から手出しすることはあるまいと考えております。
ソ連邦との現在の関係が非常に良好だということであります」。
しかし新年に際しての文末はこのように締め括られるのです。
「来たるべき年が最終的勝利の年となるよう願うことになりましょう」。
1941年の書簡は2月28日のヒトラーからムッソリーニへのもの。
年を跨いでもいまだフランコに対する「きわめて不快」な話から始まります。
そしてあの将軍の名前が・・。
「トリポリタニアのイタリア軍機甲部隊を我がロンメル将軍の指揮下に置いて下さったことに
深く感謝いたします。彼は貴下の信頼を裏切ることはありませんし、
貴下の兵士たちの心服と敬愛を短期間に勝ち取るものと確信しております」。
6月21日の書簡。ヒトラーが「バルバロッサ作戦」を翌日に発動することを知らせるものです。
ヨーロッパ各国に北アフリカの状況、米国や日本の情勢にも触れたうえで、
「クレムリンとの騙し合いに終止符を打つ決心をしたのであります」と語ります。
そして、あのイタリア遠征軍を送ろうという申し出に対して、遠回しながらも、
それよりアフリカ軍団を強化したり、地中海での空戦と潜水艦戦に力を入れなさい・・
といった具合です。
また、最も重要なメッセージは、ポロポロと情報漏れするイタリアへの一言。
「とりわけ貴下に心から要望するのは、この件を貴下のモスクワ駐在大使には
伝達しないでいただきたいということであります」。
1942年はムッソリーニの書簡が2通掲載されているだけで、
しかもファシズム成立20周年を記念して、ドクター・ライに率いられた使節団の到着、
恐らく、ロベルト・ライの歓喜力行団がローマでお祝いした・・というようなお礼ですね。
最終章となる1943年は、20ページに及ぶ2月16日のヒトラーの書簡からです。
スターリングラードでの敗北後のこの書簡は次のように始まります。
「長らくご無沙汰いたしましたのは、数ヵ月来、我が肩にのしかかっている
極めて重大な責務のためであります」。
第6軍のことなど、すでに終わったことには触れずに今後の問題を相談。
「ドゥーチェ、バルカンの情勢については強い懸念を抱いております。
バルカンのいずれかの地点に連合軍が上陸したならば、
共産主義者、ミハイロヴィッチのパルチザンらがただちに結束し、
ドイツ、イタリア軍部隊を攻撃して、連合軍を支援するでありましょう。
チトーの反乱組織の拡大ぶりは驚くべきものであり、
ミハイロヴィッチのチュトニクの行動には危険が潜んでいるのでありますから、
占領地域にいる彼の配下のパルチザン全員をわが部隊によって
殲滅するよう指示いたしました。
貴下の各部隊指揮官にこの方向での指令を発するよう希望いたします」。
チトーが登場する戦記はいくつか読みましたが、ミハイロヴィッチのチュトニクに対しても
かなり心配していたんですねぇ。
このような命令から、血で血を洗う凄惨なバルカン・パルチザン戦争へとなるわけですか。
また、ヒトラーはサルデーニャ、コルシカ、シチリアの上陸の可能性も排除できず、
「サルデーニャとコルシカはとりわけ標的にされていると思われますので、
この2島の防衛力強化は決定的に重要であると考えます。」と、
あの英国による欺瞞工作「ミンスミート作戦」の影響があるかも知れません。
東部戦線ではマンシュタインが部隊の再編成と戦線の再構築をしている最中ですが、
A軍集団のカフカスからの撤退などについてもその苦労を語ります。
ドイツ軍将兵に求められている努力が言語を絶するものであるとして、一例を挙げますが、
それは前年の武装SS「トーテンコープフ」のデミヤンスク包囲での戦いです。
包囲陣から連絡を回復した後も戦い続け、最終的には170名まで減少。
フリードリヒ大王の話も織り交ぜながら、ナチスは絶対降伏しないとの決意を示し、
もはやムッソリーニに対して脅迫めいたことまで書き記します。
「最後の男子、最後の婦女子に至るまで動員し、戦い抜くでありましょう。
そしてドゥーチェ、イタリアには同じ道を進む以外の選択はあり得ないのです」。
この書簡に対するムッソリーニの返信。
チュニジアを維持するためにはロンメルの提案ではたちまち海中へ追い落とされる・・
といったことに、第1次大戦の遺留品のような兵器で戦わなければならない悲劇を・・。
3月、ロンメルが総司令部に出頭した件をムッソリーニに報告するヒトラー。
「とりあえず健康上の理由ということで彼を司令官の地位から解任いたしました。
医師団の所見に照らしても、彼には休息が緊急に必要であります。
いずれにせよ、ロンメル元帥の解任並びにアフリカ軍団司令部の暫定的改編については、
これを極秘にして下さるよう要望いたします。
この情報が漏れ伝わることは我々にとって極めて有害であると考えます。
というのも、後世が彼をどう判断するにせよ、彼は指揮を執った至る所で、
部下の将兵から敬愛された指揮官だったからであります。
彼の敵側からすればロンメルは恐るべき敵手であったし、いまもそうでありましょう。
もっとも悲劇的なのは、稀にみる指揮能力と勇気とを兼ね備えたこの人物が、
海上輸送力を最大限に拡充することによってしか解決しえない、
補給能力において敵側に凌駕されたことであります」。
3月25日のムッソリーニの書簡を最後に紹介しましょう。
「いまやロシアの章は閉じらせても良いと申せるかと思います。
もし可能ならば、単独講和によって、あるいは防衛線を設置することによって。
このような結論に至ったのは、なによりもまず、
ロシアを破壊し尽くすことは不可能であるとの確信からであります。
我々は夏の侵攻と冬の後退とを果てしなく続けることは不可能であり、
それを無理に続けていれば疲労困憊し、結局はアングロサクソンに
漁夫の利を与えることとなりましょう。
加えて申しますなら、スターリンと連合国の目下の関係は良好どころではなく、
従っていまは決行の好機でありましょう」。
4年以上前に読んだ「第二次世界大戦 -ムッソリーニの戦い-」を思い出すと、
この辺りはまさに娘婿の外相チアーノの影響のように思いますね。
そしてこの4か月後の7月には逮捕されてしまったムッソリーニ。
スコルツェニーによって救出され、ナチスの傀儡国家であるサロ政権を樹立して、
それまで以上にヒトラーと親睦を深めるも、ヒトラーがエヴァと自殺する2日前、
愛人のクラレッタと共に銃殺されてしまうのでした。
ヒトラーの「そしてドゥーチェ、イタリアには同じ道を進む以外の選択はあり得ないのです」が
なんとも恐ろしく感じましたね。
本書はヒトラーとムッソリーニの関係をちょっと知ってみたいな・・という方には向きません。
最初のフランソワ・ポンセによる解説文こそ、まさにその点に光を当てていますが、
「書簡の内容を如何に楽しむか・・」というのが、本来の目的になるでしょう。
それには1939年から1945年までのヨーロッパ戦線全般の知識が必要であり、
具体的には児島さんの「ヒトラーの戦い」を全巻読んでいるくらいがちょうど良いと思います。
書簡の日付を見て、東部戦線、西部戦線、北アフリカ戦線で何が起こっていたかがわかり、
その数ヵ月後には何が起こるのか・・という答えを知りながら読む楽しさということです。
また、お互いこれ以上ないほどの丁寧な文章と、自軍の状況、相手に対する希望は、
そのまま鵜呑みにできない政治的駆け引きや、己のプライドも垣間見ることができ、
読者の知識をもって深読みするのも、大人の楽しみ方のひとつのように思います。
確かに序盤から中盤にかけてはムッソリーニの書簡が一方的に紹介されたことから、
読みながらも、その書簡ごとの内容説明が必要なのでは・・と思っていました。
しかし1942年~43年、双方の危機的状況が頻繁にやり取りされてくると、
逆にそんな解説があったら「野暮」だなぁ・・と考えが変わりました。
それは第3者の余計な説明が一切ないことで、その2人の緊張感が持続するからです。
特に最後の数10ページは夜中にお酒を呑むのも寝るのも忘れて、一気読み・・。
アンドレ・フランソワ・ポンセ 解説の「ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡」を読破しました。
1996年に出た190ページの本書は以前から少しだけ気になっていた一冊ですが、
2月に、「ふたつの戦争を生きて」を読んでから、ムクムクと興味が湧いてきました。
1940年1月から1943年5月まで、2人の独裁者によってやり取りされた書簡を掲載したもので、
そのため一応、著者はヒトラーとムッソリーニということになっています。
最初に30ページほどタップリ解説を書くのはフランソワ・ポンセ。
この名前をご存知の方なら、本書は楽しめるかも知れません。
末尾の「訳者解説」にも書かれていますが、ポンセはフランスの外交官であり、
1932年~38年まで駐ベルリン大使、1938年~40年は駐ローマ大使を歴任して、
ヒトラー、ムッソリーニに対する見識が深い人物です。
1943年にゲシュタポに逮捕されて2年間拘禁され、戦後の1946年、
フランス語の本書がまとめられて出版されたということです。
そんな経歴を持つポンセが書く解説は2人を比較し、なかなか楽しめます。
人間的な比較だけでなく、「ナチズムはファシズムに多くを負っており、
そこから生まれたのだと言える。ファシズムの模擬であり、特徴的な諸制度、
親衛隊、褐色の制服、古代ローマ式敬礼、青年組織、職場クラブ、
さらには「ドゥーチェ(統領)」の訳語にほかならない「フューラー(総統)」まで借用した」。
そして1923年の「ミュンヘン一揆」の失敗後、ゲーリングらがイタリアに避難所と支援を見出し、
ヒトラーはこのことを恩義に感じて、以来、ムッソリーニを「師」と仰ぐようになります。
1934年の初めてのイタリア訪問では、スーツにトレンチコート姿で、
まるで街へ出るために一張羅を着込んだ田舎者のよう・・という屈辱を味わったヒトラー。
その後、数回に及ぶ双方の歓迎合戦も詳しく書かれています。
この話は何度か読みましたが、子供じみていて面白いですね。
1936年のスペイン内戦で「枢軸」の絆は強まり、
オーストリア問題、ズデーテンラント問題の「ミュンヘン会談」でのムッソリーニの手腕。
しかし「1942年までは戦争をしない」と確約していたヒトラーがポーランドに侵攻すると
彼の思惑は外れ、戦争が始まってしまいます。
鋼鉄条約によれば、ドイツへの支援に急行しなければならないムッソリーニは、
この困難な状況をなんとか回避します。
いつの間にか「師」を越えた存在になりつつある「弟子」のヒトラー・・。
ということを解説で理解したうえで、いよいよ1940年1月4日のムッソリーニの書簡へ。
1940年~43年まで各年ごとに章分けされ、そのアタマには簡単な情勢が書かれています。
それでは10ページに渡るムッソリーニの書簡から、ちょっと抜粋してみましょう。
「こう申したからといって驚かないでいただきたいのですが、
独ソ不可侵条約はスペインにおいて好ましからざる反響を招いたようです。
スペイン内戦は、まだあまりにも近い過去なのです。
その下に死者たちが眠るこの土地は、まだ固まっていないのです。
スペインにとってボルシェヴィズムはつきまとって離れない悪夢なのです。
情熱的な思考性を持つスペイン人には、政治の持つ戦術的要請は理解しえないことなのです」。
「貴下は西へ向けての戦争の意図はないことを再度明言されてはいかがでしょうか。
そうすることによって、紛争継続の責任をフランス、英国に転嫁することができますし、
全世界もそれを認証するでありましょう」。
あくまで宣戦布告をし、戦争を始めたのは英仏であり、
反ボルシェヴィズムの旗を降ろすべきではなく、ロシア打倒を目指すべき・・と、
ヒトラーにけしかけつつも、自軍については、
「現時点では、貴国の予備隊であるべきだと考えています。
イタリアは長期戦に耐えることは出来ず、それを望んでおりません。
イタリアの参戦は、最も有効な、最も決定的な時点でなされるでありましょう」。
続く書簡もムッソリーニのものです。
4月~6月にかけてのドイツ軍のノルウェー占領、ベルギー降伏に祝意を表明し、
「6月5日を期して参戦するという当方の決断をご報知したかった・・」と、
フランスに対する、いわゆる「火事場泥棒」の決断に至った経緯を語りつつ、
ピエモンテの工業中心部の対空防衛体制強化のために、
「対空砲兵50個中隊並びに弾薬を委譲して下さるよう要望いたします」。
う~む。。勝手に参戦すると言って、防御の為に兵士と弾をくれ・・というのも凄いですが、
「我々相互の同志的連帯を示すための部隊兵員の交換」というまっとうな理由があるそうで・・。
7月には英国本土上陸作戦にイタリア軍を参加させたいと要望するムッソリーニ。
「我々は現在、極めて強力かつ高速の新型機の航空部隊を擁しています」。
当時、イタリア空軍このような新型機があったのかは良くわかりませんが、
北アフリカでの状況もあって、英軍に対して致命的打撃を与えようと目論んでいるのです。
日本の情勢についてもヒトラーに進言します。
「それとわかる新たな動きの兆しはまだありません。
日本の政策は謎めいており、優柔不断であります」。
こうしたムッソリーニの書簡が続いた後、11月になって初めてヒトラーの書簡が登場。
ムッソリーニの書簡を読む限りでは、別にヒトラーが無視していたわけでなく、
ちゃんと返信なり、ヒトラーからの書簡はあったようですが、本書に未掲載なんですね。
そもそもポンセと出版社がどのような経緯で、この書簡を手に入れたのかも不明で、
書簡によっては後半部分が判読不能として省略されているものもありました。
その10ページ越えのヒトラーの書簡、出だしはこんな感じです。
「ドゥーチェ
本書簡をしたためるにあたって、過去2週間、私の心はかつてないほど貴下と共にあったと
確信することをお許しいただきます。現在の情勢下で、貴下への支援になりうる
全てのことを行うという当方の決意をここで改めて披瀝しておきます」。
この長い書簡には興味深かった箇所が2つほどありました。
まずは対ギリシャ戦の延期要望が叶わなかったことに遠回しに不満を述べ、
「とりわけ、クレタ島の電撃的制圧がなるまでは、その行動を控えることの必要を
納得していただくつもりでありました。」と、有名な「クレタ島攻略作戦」の半年も前に、
イタリア軍も含めた空挺作戦を想定していたことです。
しかし実際には10月にイタリア軍がギリシャに侵攻したことで、英軍がクレタ島を占拠し、
翌年5月の作戦で、ドイツ降下猟兵が大損害を負うのです。
もう一つは地中海の封鎖要望です。
「貴下が、それが可能になった時点で、メルサ・マトルーに進駐して空軍基地を建設し、
シュトゥーカを大量に投じてアレキサンドリアの英国艦隊を駆逐し・・」。
ロンメル戦記でお馴染みのエジプトの都市メルサ・マトルーにすでに言及していますが、
ドイツ・アフリカ軍団の派遣は、この3ヵ月後です。
まだドイツ軍の舞台となっていない北アフリカ戦線の知識と、
イタリア軍の戦略にまで丁寧ながらも遠慮なく首を突っ込んでいるのが印象的です。
12月のヒトラーの書簡ではスペイン情勢がアツいですね。
「スペインは枢軸諸国との協力を拒否いたしました。
フランコはその生涯最大の愚行を演じているのではないかと思われます。
まことに嘆かわしい事態です。なにしろ我々としては、1月10日にスペイン国境を踏破し、
2月初めにはジブラルタルを攻撃する予定だったのです。
この作戦に充当されるはずであった部隊は特別に選別され、訓練されていたのです。
フランコの決定にはいたく失望しております。
彼自身が苦境にあった時に我々が支援したことからは考えられない態度です」。
そしてロシアとの関係・・。
「スターリンが存命である限り、かつ、我々が深刻な危機に見舞われるようなことがない限り、
我々に対してロシア側から手出しすることはあるまいと考えております。
ソ連邦との現在の関係が非常に良好だということであります」。
しかし新年に際しての文末はこのように締め括られるのです。
「来たるべき年が最終的勝利の年となるよう願うことになりましょう」。
1941年の書簡は2月28日のヒトラーからムッソリーニへのもの。
年を跨いでもいまだフランコに対する「きわめて不快」な話から始まります。
そしてあの将軍の名前が・・。
「トリポリタニアのイタリア軍機甲部隊を我がロンメル将軍の指揮下に置いて下さったことに
深く感謝いたします。彼は貴下の信頼を裏切ることはありませんし、
貴下の兵士たちの心服と敬愛を短期間に勝ち取るものと確信しております」。
6月21日の書簡。ヒトラーが「バルバロッサ作戦」を翌日に発動することを知らせるものです。
ヨーロッパ各国に北アフリカの状況、米国や日本の情勢にも触れたうえで、
「クレムリンとの騙し合いに終止符を打つ決心をしたのであります」と語ります。
そして、あのイタリア遠征軍を送ろうという申し出に対して、遠回しながらも、
それよりアフリカ軍団を強化したり、地中海での空戦と潜水艦戦に力を入れなさい・・
といった具合です。
また、最も重要なメッセージは、ポロポロと情報漏れするイタリアへの一言。
「とりわけ貴下に心から要望するのは、この件を貴下のモスクワ駐在大使には
伝達しないでいただきたいということであります」。
1942年はムッソリーニの書簡が2通掲載されているだけで、
しかもファシズム成立20周年を記念して、ドクター・ライに率いられた使節団の到着、
恐らく、ロベルト・ライの歓喜力行団がローマでお祝いした・・というようなお礼ですね。
最終章となる1943年は、20ページに及ぶ2月16日のヒトラーの書簡からです。
スターリングラードでの敗北後のこの書簡は次のように始まります。
「長らくご無沙汰いたしましたのは、数ヵ月来、我が肩にのしかかっている
極めて重大な責務のためであります」。
第6軍のことなど、すでに終わったことには触れずに今後の問題を相談。
「ドゥーチェ、バルカンの情勢については強い懸念を抱いております。
バルカンのいずれかの地点に連合軍が上陸したならば、
共産主義者、ミハイロヴィッチのパルチザンらがただちに結束し、
ドイツ、イタリア軍部隊を攻撃して、連合軍を支援するでありましょう。
チトーの反乱組織の拡大ぶりは驚くべきものであり、
ミハイロヴィッチのチュトニクの行動には危険が潜んでいるのでありますから、
占領地域にいる彼の配下のパルチザン全員をわが部隊によって
殲滅するよう指示いたしました。
貴下の各部隊指揮官にこの方向での指令を発するよう希望いたします」。
チトーが登場する戦記はいくつか読みましたが、ミハイロヴィッチのチュトニクに対しても
かなり心配していたんですねぇ。
このような命令から、血で血を洗う凄惨なバルカン・パルチザン戦争へとなるわけですか。
また、ヒトラーはサルデーニャ、コルシカ、シチリアの上陸の可能性も排除できず、
「サルデーニャとコルシカはとりわけ標的にされていると思われますので、
この2島の防衛力強化は決定的に重要であると考えます。」と、
あの英国による欺瞞工作「ミンスミート作戦」の影響があるかも知れません。
東部戦線ではマンシュタインが部隊の再編成と戦線の再構築をしている最中ですが、
A軍集団のカフカスからの撤退などについてもその苦労を語ります。
ドイツ軍将兵に求められている努力が言語を絶するものであるとして、一例を挙げますが、
それは前年の武装SS「トーテンコープフ」のデミヤンスク包囲での戦いです。
包囲陣から連絡を回復した後も戦い続け、最終的には170名まで減少。
フリードリヒ大王の話も織り交ぜながら、ナチスは絶対降伏しないとの決意を示し、
もはやムッソリーニに対して脅迫めいたことまで書き記します。
「最後の男子、最後の婦女子に至るまで動員し、戦い抜くでありましょう。
そしてドゥーチェ、イタリアには同じ道を進む以外の選択はあり得ないのです」。
この書簡に対するムッソリーニの返信。
チュニジアを維持するためにはロンメルの提案ではたちまち海中へ追い落とされる・・
といったことに、第1次大戦の遺留品のような兵器で戦わなければならない悲劇を・・。
3月、ロンメルが総司令部に出頭した件をムッソリーニに報告するヒトラー。
「とりあえず健康上の理由ということで彼を司令官の地位から解任いたしました。
医師団の所見に照らしても、彼には休息が緊急に必要であります。
いずれにせよ、ロンメル元帥の解任並びにアフリカ軍団司令部の暫定的改編については、
これを極秘にして下さるよう要望いたします。
この情報が漏れ伝わることは我々にとって極めて有害であると考えます。
というのも、後世が彼をどう判断するにせよ、彼は指揮を執った至る所で、
部下の将兵から敬愛された指揮官だったからであります。
彼の敵側からすればロンメルは恐るべき敵手であったし、いまもそうでありましょう。
もっとも悲劇的なのは、稀にみる指揮能力と勇気とを兼ね備えたこの人物が、
海上輸送力を最大限に拡充することによってしか解決しえない、
補給能力において敵側に凌駕されたことであります」。
3月25日のムッソリーニの書簡を最後に紹介しましょう。
「いまやロシアの章は閉じらせても良いと申せるかと思います。
もし可能ならば、単独講和によって、あるいは防衛線を設置することによって。
このような結論に至ったのは、なによりもまず、
ロシアを破壊し尽くすことは不可能であるとの確信からであります。
我々は夏の侵攻と冬の後退とを果てしなく続けることは不可能であり、
それを無理に続けていれば疲労困憊し、結局はアングロサクソンに
漁夫の利を与えることとなりましょう。
加えて申しますなら、スターリンと連合国の目下の関係は良好どころではなく、
従っていまは決行の好機でありましょう」。
4年以上前に読んだ「第二次世界大戦 -ムッソリーニの戦い-」を思い出すと、
この辺りはまさに娘婿の外相チアーノの影響のように思いますね。
そしてこの4か月後の7月には逮捕されてしまったムッソリーニ。
スコルツェニーによって救出され、ナチスの傀儡国家であるサロ政権を樹立して、
それまで以上にヒトラーと親睦を深めるも、ヒトラーがエヴァと自殺する2日前、
愛人のクラレッタと共に銃殺されてしまうのでした。
ヒトラーの「そしてドゥーチェ、イタリアには同じ道を進む以外の選択はあり得ないのです」が
なんとも恐ろしく感じましたね。
本書はヒトラーとムッソリーニの関係をちょっと知ってみたいな・・という方には向きません。
最初のフランソワ・ポンセによる解説文こそ、まさにその点に光を当てていますが、
「書簡の内容を如何に楽しむか・・」というのが、本来の目的になるでしょう。
それには1939年から1945年までのヨーロッパ戦線全般の知識が必要であり、
具体的には児島さんの「ヒトラーの戦い」を全巻読んでいるくらいがちょうど良いと思います。
書簡の日付を見て、東部戦線、西部戦線、北アフリカ戦線で何が起こっていたかがわかり、
その数ヵ月後には何が起こるのか・・という答えを知りながら読む楽しさということです。
また、お互いこれ以上ないほどの丁寧な文章と、自軍の状況、相手に対する希望は、
そのまま鵜呑みにできない政治的駆け引きや、己のプライドも垣間見ることができ、
読者の知識をもって深読みするのも、大人の楽しみ方のひとつのように思います。
確かに序盤から中盤にかけてはムッソリーニの書簡が一方的に紹介されたことから、
読みながらも、その書簡ごとの内容説明が必要なのでは・・と思っていました。
しかし1942年~43年、双方の危機的状況が頻繁にやり取りされてくると、
逆にそんな解説があったら「野暮」だなぁ・・と考えが変わりました。
それは第3者の余計な説明が一切ないことで、その2人の緊張感が持続するからです。
特に最後の数10ページは夜中にお酒を呑むのも寝るのも忘れて、一気読み・・。
ファシストイタリアが史実より半年以上早くに降伏していたら
ムッソリーニとファシストイタリア四天王とムッソリーニ内閣の閣僚はもちろん
少なくとも1万人のイタリア軍の士官と同数の民間人がナチスに虐殺されたことでしょう
実際にイタリアが降伏した直後5千人以上のイタリア軍が虐殺されましたし
また旧日本軍とファシストイタリア軍が一緒に戦ったら
撤退したり敵に降伏しようとするファシストイタリア軍を旧日本軍が虐殺したし
旧日本軍もイタリアが降伏した直後イタリア軍を虐殺したに違いありません
旧日本軍はそんなことをしないとか「馬鹿げた妄想だ」というなら
奴らが沖縄でやったことや
未来ある若者たちを特攻隊という殉教者に強制的にしたことは全て嘘になります
by 芋田治虫 (2018-01-15 18:09)