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最悪の戦場に奇蹟はなかった -ガダルカナル・インパール戦記- [日本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

高崎 伝 著の「最悪の戦場に奇蹟はなかった」を読破しました。

5月の「桜花―極限の特攻機」に続く、日本戦記モノ第2弾ですが、
本書を購入したのは2009年3月ですから、4年間もず~と本棚の隅っこに眠っていました。
う~む。一体全体、ナゼ本書を読んでみたいと思ったのか・・、まったく覚えていませんが、
まぁ、最近、日本軍に興味が湧いてきましたので、初版は1974年、
1999年に再刊され、2007年には文庫にもなっている329ページの本書に挑んでみます。

最悪の戦場に奇蹟はなかった.jpg

「私の部隊は、「菊の御紋章」からいただいた部隊号「菊部隊」という名と、
124代、今上天皇にちなんだ「歩兵第124連隊」という名を持つ、
帝国陸軍でもNo.1を誇る部隊であり、菊部隊敗るるときは日本敗るるときなり・・、
と自負していた精強部隊であった。」で本書は始まります。

原隊は北九州は博多の連隊で、硫黄島や沖縄戦といった「守備」はやらず、
緒戦から終戦まで攻撃専門で東南アジアを駆け回り、
中国戦線では「情け無用の残虐部隊」として、18師団中でも「ゴロツキ連隊」の異名を取り、
著者の知る限り、1人の捕虜も生かしておかず、敵国地では老若男女の容赦なく、
少しでもおかしい奴と思えば、日本的武士道の処置としてバッサリ・・。
部隊全員が戦犯者にもなりかねない猛者揃い・・という、強烈な自己紹介です。。

昭和17年(1942年)9月1日、完全軍装で大発艇に移乗し、ガダルカナル島を目指しますが
上陸直前、敵戦闘機6機の襲撃を受け、80名とすし詰めの艇内は阿鼻叫喚、
一瞬にして、阿修羅の地獄と化し、生き残ったのは著者を含め20余名・・。
この出だしも強烈で、イメージ的には「プライベート・ライアン」の血のオマハ・ビーチです。

Daihatsu-class landing craft.jpg

そして9月13日、オーステン山からルンガ飛行場(ヘンダーソン飛行場)への総攻撃を開始。
しかし真っ暗闇のジャングルの中で第2大隊は米軍迫撃砲の集中砲火にあい、
第1大隊も「大隊長以下全滅!」と、完全な失敗に・・。
博多時代からの仲の良い戦友は著者の顔を見て泣きながら言います。
「高崎っ! 自動小銃が欲しい! 三八(三八式歩兵銃)じゃだめだ。
自動小銃があったら、メリケン野郎に負けるもんか・・」。
こうしてその戦友は泣きながら死んでいくのでした。

Japanese dead after the failed attack on Henderson Field.jpg

翌月の第2次総攻撃も失敗に終わると、ガ島全体に飢えが迫り始めます。
そんなある日、米軍の若いパイロットが捕虜になっているのに出くわします。
過酷な拷問にも口を割らず、「殺せ!」と自ら言う姿に岡連隊長も感心して、
「敵ながら天晴れ!」と褒め称えます。
さらに「このアメリカの一青年の立派な態度に、皆も学ぶように・・」と訓示まで。
しかし、日が暮れて、兵隊たちの話すところによれば、
この天晴れなパイロットは文字通り「料理」されてしまったとのこと・・。
肝は栄養剤になるといって某隊長自らが、そして肉は兵隊たちが。。

著者は「戦後のガ島戦記では、日本兵が同胞の人肉を常食にしたように書かれているが・・」、
これについては完全否定しています。その一方で、敵兵の場合、
「米兵の人肉なら食ってやるという兵隊が多かったのは、それも戦闘の一つ・・
と思ったからだろう。憎き敵に噛みついて、ついでに喰ってやるというのも、
敵愾心の表れであったろうと思う。」としています。
あ~「戦争と飢餓」でも、同胞の死体は食べてはならないって命令がありましたね。

United States Marines.jpg

11月の終わりになると、部隊から離れ、勝手にエサを求めてガ島内を徘徊する
ガリガリに痩せ細った「ガ島ルンペン」が多く出没し始めます。
回虫性腸閉塞で倒れていた著者の元へ、牛肉といわれる肉が・・。
「こりゃきっと人肉だよ。いまごろガ島に牛なんかいるはずがない」と訝しがるも、
初年兵が「うまい、うまい」と言って食べるスープの肉を見ては、
遂に辛抱たまらず食べだします。
15㎝ほどのトカゲに至っては、一日に飯盒2杯も食べるほど美味。。

Japanese soldier throwing a Type 91 grenade, Guadalcanal,.jpg

12月、戦況がどうなっているかなどには無頓着となり、ただエサ拾いに懸命。
ジャングル内には無数の餓死したミイラのような死体が散乱し、昼間でも不気味です。
吉井上等兵が「飯盒のおかゆを食べるか」と言って持ってきますが、
その正体は「死体にわいたウジ虫」です。
「おも湯の中にシラミをたっぷり入れた」ものは食べていた著者ですが、
まだウジ虫はムリ・・。

A dead Japanese soldier on Guadalcanal.jpg

初年兵の森下一等兵はマラリアで脳症になり気が狂ってしまいます。
「高崎上等兵殿ッ、バスが出発しますから、森下はこれで失礼します」。
敬礼して、ジャングルの奥に向かって走り出すものの、泣きじゃくりながら戻ってくると、
「上等兵殿ッ、バスは出てしまいました。この次の稲築行きは何時ですか?」
あまりに哀れなその姿・・。
「高崎上等兵殿ッ、きょうは、おっ母ちゃんが御馳走こしらえて待っちょりますけん、
この次のバスで帰してつかさい」と何度も繰り返すのでした。

japanese prisoners guadalcanal.jpg

いよいよ撤退の日。
その時、藪の中から1メートル以上もあろうかというオオトカゲが突如姿を現します。
「ご馳走だ!」とぱかりに追い掛け回し、三八銃を棍棒代わりに大格闘。
ガ島最後のデラックスな食事を満喫します。
また連隊旗がとても重要で、撤退する際に必ず持ち帰らねばならず
このために命を落とす兵士が多かった・・など、興味深い話も多くありました。

歩兵第124連隊旗.jpg

こうして地獄のガ島から生還し、ブーゲンビル島で静養。
しかしガ島帰りは、かたい飯を食ったら胃拡張で死ぬと言われて、
スズメの涙ほどのおかゆに、梅干し一個が出されるだけ。。
実際、将校たちはわがままが利くためか、
食べ過ぎで死んだ例がいくつも見られたそうですが、
ヨーロッパの解放された街々でも良くあった話ですね。

Bougainville.jpg

そこからマニラのケソン病院へと搬送された著者。
綺麗な看護婦さんに、食べきれないほどのマンゴーとモンキーバナナ。
まさに「天国」です。
そして避暑地ルソンの療養所へと向かう汽車の中で、買ったゆで卵を割ってみると、
中身はなんと、血の付いた死んだヒヨコの姿が・・。
「ピリピン野郎に騙された!」と思っていると、現地人がこうして食べるんだとヒヨコをペロリ。。
ガ島でのゲテモノ食いで鳴らした著者も挑戦しますが、
2.3回噛むうちに「茹でヒヨコ」の腸がネチャネチャと飛び出してきて・・、敗北。

ヒヨコ入り茹で卵.jpg

130ページからは続いて向かったインドのインパール戦記です。
と言ってもガダルカナル戦記すら初めて読んだヴィトゲンシュタインですから、
インパール戦もなんとなく聞いたことがある程度です。。
まず著者はこの作戦を簡単に振り返り、
「愚将牟田口将軍のもとに、万骨枯れた英霊の無念さを思えば、
故人となった将軍の死屍にムチ打っても、なおあまりある
痛恨限りなき地獄の戦場であったといえる。」と、凄い憎しみを感じます。

Renya_Mutaguchi.jpg

まずはやっぱり食事です。
「久しぶりに犬のすき焼きでもやろうか」。
若い下士官たちは驚いて、「高崎古兵殿、犬はおいしいですか?」
「犬料理は白犬が最高だ。一白、二赤、三半黒と覚えておくんだな」と、
愛用の三八銃で白犬をズドンと一発。。

すき焼き味.jpg

そして前線での斥候任務から一転、いつ果てるともない撤退作戦へ。
一日に20回も30回も小川の中を靴ごと歩くため、足首に入った砂で、
歩くたびに大根おろしにかけられたように皮膚が剥け、赤くただれます。
歩くことにかけては世界一を自負する日本の歩兵でも、この苦しさには根を上げ、
初年兵は泣きながら、あるいはうめき声を上げながら、やがて行き倒れてしまうのです。
オマケに重たい三八歩兵銃は「菊の御紋」の入っているばっかりに捨てるに捨てられず、
それが多くの兵隊たちの命取りとなったのです。

三八歩兵銃.jpg

「白骨街道」と呼ばれるほどの日本兵の行き倒れた哀れな死体が・・。
その死体を辿って先発部隊を求め、ひたすら歩き続けます。
幅2~3mの浅いせせらぎには200ではきかないほどの日本兵の死体だらけ。
白髪と見間違うほどに、ウジ虫が全身にわきながらも、まだ生きている兵士も・・。
もはや生きた屍となったその兵士が、瞬きをしながら、こちらをジっと見つめ、
「私を殺してください。お願いします」と、かすかな声で訴えます。

インパール作戦2.jpg

第3部は「イラワジ会戦」です。
インパール白骨街道を命からがら連隊駐屯地へと辿り着いた著者。
このビルマにおける日本軍最後の決戦は勝てないのを百も承知で、
ただ帝国陸軍、日本人としての名誉を守るための生死を度外視した大戦闘。
しかし多くの兵士が馬鹿デッカイ三八歩兵銃を捨て、敵の戦利品である自動小銃を使ったことが
日本軍が奮戦した理由であり、数は少なくとも、敵と同じ武器を使ったら、
日本軍がいかに強かったかを如実に物語っているとしています。

インパール作戦.jpg

しかし英軍機だけでなく、米軍のP38ライトニングまで現れると、
「双胴の悪魔」の姿を初めて見た若い兵士は驚きを隠せません。
そして124連隊の古参兵を無視した言動で反感を買っていた連隊長が、
敵機の爆撃によって戦死すると、みんな小躍りして大喜びです。
「連公が死んだ!連公が死んだぞ!ざまぁ見やがれっ!」
「天誅だ!連公を殺した敵のパイロットに乾杯!」と水筒を掲げてはしゃぐ始末。

p38-lightning.jpg

敵の連合軍の将校は中隊長や大隊長、連隊長でさえ、自動小銃を携帯しているのに、
日本軍の将校はどこの戦場でも土壇場まで、五月人形の如く、軍刀を吊ったまま。
そんな文句を随所に挟みつつ、5月初旬、敵戦闘機から陣中新聞がばら撒かれます。
「ドイツ無条件降伏! 日本軍将兵のみなさん!
ヨーロッパ戦線は終了しました。
近々のうちに、ヨーロッパの連合軍が見参いたします。ご期待ください!」

高崎伝.jpg

この後、捕虜となり、やがて帰国するまでが描かれていますが、この辺りで・・。
綺麗ごとは一切なしで、良いも悪いも著者が経験し、思ったままを熱く語った
とても印象的な回想録でした。
食べ物の話を多く書いてしまいましたが、本書はソレがメインではなく、
軍部への批判も含んだ一冊ですが、読み終えてみて、
過去に紹介した「戦争と飢餓」や「レニングラード封鎖」と同様、
戦場での飢餓について知りたいというのが、本書を購入した経緯・・
だったと改めて思いました。





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若い兵士のとき [戦争小説]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ハンス・ペーター・リヒター著の「若い兵士のとき」を読破しました。

あのころはフリードリヒがいた」、「ぼくたちもそこにいた」に続く、
著者リヒターの自叙伝的小説、第3弾です。
翻訳版は1995年、そして2005年に新装版として出た245ページの本書ですが、
原著は3部作とも1960年代に書かれたものです。
前作、「ぼくたちもそこにいた」のラストがラストでしたから、
友人のハインツとギュンターの運命が気になります。

若い兵士のとき.jpg

出だしは「志願するまで」の章で、14歳から17歳の「ボク」のエピソード。
ヒトラー・ユーゲント時代に空襲を経験したり、防空壕でいつも会う女の子・・。
そして焼夷弾によって燃えるビルの消火活動。

第2章は「入隊後の訓練」です。
前2作と違って、19XX年(XX歳)というのが章のアタマに書かれていませんが、
1925年生まれで、17歳で志願した「ボク」ですから、1942年~43年の話ですね。

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上級曹長による半分イジメのようなシゴキと嫌がらせ。
初めての外出の直前に、「おい、豚!」と上級曹長が怒鳴ります。
「貴様、髭も剃らずに宣誓したのか!」
「上級曹長どの、自分はまだ髭を剃ったことがないんであります!」
「貴様、豚は豚でも雄じゃないな。雌豚だ!」
「上級曹長どの、自分はまだ大人ではないということで、髭剃り用の石鹸を戴いておりません」
「貴様、大勢の前でこの俺に忠告を与えようってのか?後悔するなよ」
こうして新兵の期間中、一度の外出も許されないのでした。

german-soldiers-slaughtered-pigs.jpg

士官候補生の「ボク」にはまだまだ厳しい訓練が続きます。
銃を両手で持ったまま、砂場で匍匐前進。
下士官は「銃身の中を見せろ!」
そして「砂!砂が入っておる!それが貴様の銃の扱い方か!」
それから半時間、閲兵式の行進をし、走り、跳び、匍匐前進をし、捧げ銃。。
立っているのがやっとのボロボロの姿を見て、下士官はカラカラと大笑い。
「貴様のような弱虫が、将校になろうってのか!」

Nazi troops.jpg

そんな訓練も終わり、いよいよ前線へ。
しかし早々にロシア狙撃兵の銃弾が・・。
「肺および左腕の貫通」と衛生兵が診断を下します。
「喜べ!故郷送りの弾だぞ!」
しかし「ボク」は、「くそーっ、少尉になるのがまた遅れる」と歯ぎしり。。

負傷者たちがヒイヒイ泣いている野戦病院に送られると、
軍医は「・・腕は切断せざるを得ない・・」。
「ボク」は懇願し、身をもぎはなそうともがきますが、衛生兵に頭を押さえられ、
軍医がノコギリで引きはじめます。
脳髄が轟音を立て、足が震え、全身が揺さぶられ、まるで獣のように吠え・・。
そして古い弾薬箱に「ボク」の腕が放り投げられるのでした。

German medic and comrades help a soldier who just had his arm blown off on the East Front.jpg

後方の病院。
右のベッドには燃える機体から飛び降りたときに背骨を折った空軍一等兵。
左には凍傷によって両足を失った砲手。
向こうのベッドでは頭に弾を撃ち込まれた機甲兵がひっきりなしに喋っています。
やがて文書係が「おめでとう!」と箱を投げて寄こします。
その中には「銀の戦傷章」と、「2級鉄十字章」が入っていたのです。

名誉戦傷章(銀章).jpg

退院して久しぶりの実家へ。
母は片腕のない「ボク」を見て、ぐっと息を呑み込み、唇をかみしめて、
空っぽの袖に視線が行かないように懸命に堪えています。
てっきり除隊になるかと思っていたものの、士官学校へと移籍。
毎日、大勢の将校が死んでいる今、片腕が無いくらいではお話になりません。

そして訪れたポーランドでは父が歩哨任務に就いています。
夜はレジスタンスがドイツ兵を襲って武器を奪う危険な場所です。
父の兵員室では、第1次大戦に従軍し、再び、一等兵か上等兵として招集された
男たちが大勢。
父が「ボク」を紹介すると、彼らは飛び上がって挙手の礼をとり、
座りもせず、直立不動の姿勢で突っ立ったまま。。
前大戦の鉄十字章を下げ、白い口髭を生やした下士官が巡回に来ますが、
「失礼しました。軍曹どの」と言うと、後ずさりで出て行くのです。
「ボク」はまだ18歳。。

german dog soldier.jpg

この時点で気がつきましたが、前作の「ぼくたちもそこにいた」の続きではないんですね。
ということは、あの2人の友人の話には続きが無い・・、
すなわち、あそこで死んでしまったんでしょう。。

フランス戦線では、包囲網から抜け出るために2台の戦車を従えて、
大渋滞となっている唯一の道から、無理やり脱出に成功します。
ハッキリとした時期と地名はわからないんですが、
ファレーズ・ポケット」からの決死の脱出を想像しました。

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占領下のデンマークでは接収された獣医の家に住み、
新しい当番兵によってベッドが模範的に整えられ、窓ガラスは曇りひとつなく、
ブラシをかけた軍服に、まるで鏡のような長靴が・・。
早速、この当番兵を呼び出し、今後も当番兵を引き受けるかを訪ねる「ボク」。
「はい、喜んでやらせていただきます。自分は大家族なんであります。
でありますから、習い覚えたんですよ。自分には子供が8人おります。
一番上は、もう20歳です。少尉どの」。
「ボク」はまだ19歳。。

die zeit der jungen soldaten.jpg

朝早く、17歳、18歳の若い新兵たちが寝間着姿で整列。
「さて、それでは貴様らがもう売春婦から何かモラッてないかどうか、
診察するとしよう!」と宣言するのは軍医大尉です。
「ボク」には将校としての同席する義務が・・。
「俺の前に出るときは、左手で寝間着を持ち、右手でペニスを持つ!一番の者!」 
こうして抜き打ち検査が開始。
「包皮をめくる・・、押す・・、包皮、もとへ・・、咳をする・・、よし。次!」 
は~、咳をする・・ってのはどうゆう理由なんでしょうか・・??

musterung.jpg

再び、東部戦線。
真夜中に「ドーン」という音で叩き起こされると、バラックの宿舎の一部が壊れています。
集まって来た下士官たちは瓦礫の死体を見て、なにやら満足げな様子。
死んでいたのは部隊と一緒に行動していた、とびきり美しいロシア女と、
皆が憎々しく思っていた嫌われ者の曹長。
ロシア女を巡る嫉妬の争いの中、2人はベッドで発見されたのです。
弾が上からではなく、バラックの真横から撃ちこまれたことがバレそうになると、、
下士官たちは突然、壊れたバラックの残りの部分を力を合わせて取り壊し始めるのでした。

StuG III with mounted infantry securing a Russian village, winter.jpg

戦局はさらに悪化。
司令官に呼ばれて炊事方のロシア女がやってきます。
「わたし、要りますか?」
司令官は途方に暮れたように顔を赤らめて、一息ついて言います。
「お前に出て行ってもらわなければならないのだ。
命令がきたのだ。ロシア人の手伝いは、全員、集合施設に送ること。
そこから船でドイツへ運ばれる」。

「それ、本当じゃない!」 とロシア女は叫びます。
「あなた達、船、一隻も持ってない!ドイツの女を送る船だってないのに!」 
「いや!少尉さん、たすけて!」と「ボク」の腕を掴んで、哀願します。
「わたし、なんでもします。お願いだから、そこへ送らないで! ねぇ、お願い!」
ひざまずき、両手を組み合わせて拝む、ロシア女・・。
う~ん。言うまでもありませんが、捕虜もドイツ協力者も赤軍に解放された後は、
裏切り者として処刑か、良くても矯正収容所行きなんですね。

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縞の服を着た憔悴しきった男たちの列。
ソ連軍の手に落ちないよう、強制収容所から撤退する収容者を見ながら、
20歳の誕生日を迎え、伝令兵から髭剃り用の石鹸、
そして板チョコひとかけらをプレゼントされる「ボク」。

港から救命ボートもない貨物船が出航。バルト海かも知れませんね。
立ったまま、大勢の避難民とギュウギュウ詰めで乗り込みます。
そんな最後の最後に最大の試練が・・。
用を足す必要に迫られたのです。しかも大きい方・・。
手すり沿いの仮小屋の便所まではとても進めません。
隣りの者が「ここですればいいじゃないですか」。
「ボク」は涙が溢れ出ます。。

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本書はこのようなエピソードの積み重ねで進み、「訳者あとがき」によると、
本書ではヨーロッパのどこかから、船で帰ったことになっていますが、
実際は敗戦後に、著者はシベリアに抑留されているそうです。
ひょっとすると中立国スウェーデンに船で着いた後、
ソ連に引き渡されたのかも知れませんね。

左腕を失ったというのは、事前情報で知ってはいましたが、それでもねぇ・・。
その他、女性との出会いもいくつかありますが、そこは児童文学ですから、
読んでて思わず興奮してしまうような、エッチなシーンはありません。
名作の誉れ高い「忘れられた兵士」を思い出させるような雰囲気もありましたが、
正直、大人向けに書かれていたら、もっともっとキツイ本になっているでしょう。
雪の中の軍曹」のような印象もありました。

あのころはフリードリヒがいた」と、「ぼくたちもそこにいた」、それから本書。
どれが一番かと言われても、これは実に難しいですね。
「フリードリヒ・・」は客観的な要素が大きかった気がしますし、
「ぼくたちも・・」は青春ドラマの雰囲気、
そして本書は前2作と違って、淡々とした、切ない思いに包まれてるというか、
著者が身も心も傷ついたことが、よく伝わってくる一冊でした。







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戦う広告 -雑誌広告に見るアジア太平洋戦争- [日本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

若林 宣 著の「戦う広告」を読破しました。

この「独破戦線」では第三帝国を中心に、ソ連、英米などのプロパガンダ・ポスターも
たまにUPしていますが、基本的にああいうのが好きなんですね。
当時のスローガン、国ごとのデザイン・センス・・、見るべきところが豊富です。
今年3月、九段下の「昭和館」で見た、戦時中のポスターは印象的で、
先日、偶然に本書を発見し、早速、読んでみました。
本書は日本の雑誌広告に限定した2008年発刊、159ページ、B5サイズの一冊で、
1937年から1945年までの戦時中の広告を時系列で紹介しています。

戦う広告.jpg

第1章は「1937年~1941年(昭和12年~16年)」の広告で、
「日中戦争の勃発から総動員体制へ」といった章タイトルです。
5年間の年表と、近衛内閣の発足に盧溝橋事件などの政治と戦況、
また、1939年、軍用米確保のための「白米禁止令」、
そして配給制といった国民生活の概要が2ページで解説。

そして1ページあたり3枚程度の割合で広告が登場します。
友邦伊太利で作られた オリヂナル ボルサリノ帽子」が一発目ですね。
コレは「週刊朝日」の広告ですが、同じ号では
銀座のマロミ美粧院の「パァマネントウェブ」も印象的です。

ボルサリノ帽子.jpg

しかし「日本人なら贅沢は出来ない筈だ!」というスローガンが、
東京市内の目抜き通りに1500本も立てられると、
マロミ美粧院も「パーマネント」という言葉を言い換えた「淑髪」で対抗。。

マロミ.jpg

「防空壕」の広告もインパクトあります。
まだまだ昭和16年ですから、「平時は耐震・耐火の土蔵」ということです。
どんなモンなのか、一度、見てみたい・・。

防空壕.jpg

関西ペイントからは、「空襲恐るるに足らず!!」
凡ゆる建築物・造営物の迷彩と偽装に完璧を期せ」と
防空用塗料「仏陀青 ブターブルー」が発売中です。

佛陀青.jpg

クラウン万年筆の「ムッソリーニペン」も笑えます・・。
軍の航空のみならず、国策遂行の重要な手段として本土と植民地や占領地を
連絡していた民間航空も・・と説明がありますが、
そのような題材に便乗した「売らんかな」の姿勢だそうです。

ムッソリーニペン.jpg

第2章は1942年(昭和17年)、「太平洋戦争と緒戦の勝利」です。
松下無線のナショナル受信機。
戦況ニュースは良いラジオでハッキリと!
定価61円70銭ってのは、果たして高いのか、安いのか・・。

ナショナル.jpg

「慰問袋」関連の広告も多くなってきました。
「酷寒の北から、酷熱の南まで、どこの戦線でも文句なしに喜ばれて居るものは・・
慰問袋のサロメチールです」。

左ページでは三越も慰問袋を販売していますが、トンボ鉛筆も強烈です。
職場は戦場だ! 机上は陣地だ! 鉛筆は兵器だ!
ムリヤリ過ぎますなぁ。。

トンボ.jpg

わかもと本舗からは「必殺の照準視力 エーデー」。
戦場だけでなく、「必見の防空監視に健全な視力の緊要な時」ということです。
ちなみに関西弁の「え~で~」ではなく、ビタミンAとDの「エーデー」です。

エーデー.jpg

本書の真ん中にはカラーも使ったグラビアの特集が・・。
戦時下の映画では、「戦う軍楽隊」に「シンガポール総攻撃」、
「愛国の花」といった銃後の婦人の献身ぶりを強調したメロドラマなどがポスターで紹介されます。

映画.jpg

また、昭和17年からは郵便切手も教化や意識の高揚に一役買うことに。
図案が一般公募され、普通切手として発行。
「女子工員」、「旭日と三式戦闘機(飛燕)」、「少年航空兵」、「靖国神社」などなど・・。
基本的にはナチス・ドイツの切手と変わらないですねぇ。

1銭_女子工員 5銭_飛燕 15銭_少年航空兵 27銭 靖国神社.jpg

「総出陣、女子挺身の時」では、内閣情報局のプロパガンダ雑誌といわれる
「写真週報」の写真も登場します。
「『写真週報』に見る戦時下の日本」という本も出ているので、かなり気になりますね。

写真週報 292号.jpg

第3章は「1943年(昭和18年) 悪化する戦局」です。
青果や鮮魚などの生鮮食料品の不足が続き、ガダルカナル島からの撤退、
そして「学徒出陣」・・というのがこの年です。

大日本飛行協会は「諸君の友達を射殺したアメリカの飛行機をたたき落とすために」。
陸海軍の少年飛行兵らの募集広告ですが、
警戒の目を盗んで飛びまわるあの憎い敵米英の、最後の一機を
大東亜の空からたたき落とした時、輝かしい勝利がくるのだ。
そのためには、よい飛行機と秀れた飛行士が必要だ。沢山必要だ。
英米が千機造れば日本でも千機造ろう。英米が千人持てば、日本でも千人の飛行士を持とう。
日本の運命がここで決せられるのだ。
今度卒業する諸君
諸君はもう日本を背負って立つ国民の一人だ。
諸君の魂と腕と力を、進んで御国のために捧げてもらいたい」。

大日本飛行協会.jpg

う~ん。。すでに「特攻」を想定してると思うのは気のせいでしょうか・・??

そんな重々しいのもあったかと思えば、相変わらずの商法も・・。
勝つために 先づ鼻病撃滅」。しかも「ミナト式」。

ミナト式.jpg

宝塚歌劇も、ズバリ「海軍」を雪組が公演しています。
「海軍省後援」というので本気度がわかりますが、戦時中はこのようなのが多く、
満州への慰問なども行っていたようですね。

昭和十九(1944)年3月の雪組公演.jpg

「着剣した鉛筆」は、またまたトンボ鉛筆です。
敵性語撃滅に率先着剣して敢然! 突撃をしたトンボ鉛筆!」。
攻撃的だなぁ。。だけど、意味不明・・。

着剣した鉛筆.jpg

出たっ! 「ヒロポン」!
戦後を舞台としたヤクザ映画でもいっぱい出てくるポン中のアレですね。
メタンフェタミンという強い中核神経興奮作用を持つ科学物質の商品名で、
覚醒(眠気覚まし)や疲労が無くなる感覚をもたらすことで、
勤労者を「ハイな気持ち」にさせ、生産効率を落とさずに、
長時間労働をさせようとした・・と、本書では詳しく書かれていました。

ヒロポン.jpg

西宮航空園の広告では、「アメリカの新標識」。
「憎むべきアメリカ空軍は、時々飛行機に描き入れたマークを改めて
不意打ちをかけようとしている。
各家庭でも配布されている、敵機記号を直しておくがよい。
アメリカでは最近青字に白星で、今迄の赤玉をつけていない」。

アメリカの新標識.jpg

じぇじぇっ! これは知らなかった!
確かに1942年までは「赤玉」付いてますなぁ。。

F4_Wildcat.Note that the red centers have been removed from the national insignia as of 15 May 1942 in order to avoid confusion with the Japanese red rising-sun markings..jpg

いよいよ最終章、「1944年~1945年(昭和19年~20年) 戦局の絶望化と敗戦」。
「コロムビア」改め、「ニッチクレコード」からの、「大航空の歌」。
仇敵米英を殲滅せん 一億必唱の大航空歌」。
思わずYouTubeで聞いてしまいました。「一億必唱」ってのが好き。。

大航空の歌.jpg

「これがB29だ!!!」とか、「B29 現る」なんて、なんの広告かと思いきや、
大阪模型とツバサヤ本店の広告でした。
頭に叩き込もう この正體!
防空の要訣は先づ敵機を識ることだ! 今! 直ぐ 敵機模型を作れ!」って、
昭和19年9月に正しい広告なんでしょうか・・??

B29.jpg

「ここに銀が要る!!」と、銀の供出呼びかける広告。
勝利の翼を送れ!敵を叩くのには飛行機だ!! 飛行機だ!!」と悲壮感が漂いますが、
「戦時女性」に載ったこの広告の主は「オバホルモン」です。

オバホルモン.jpg

昭和20年3月の「アサヒグラフ」の広告。
またもやB29を中心に「決死増産! 全機撃墜!」と謳ってますが、 
なんのこっちゃ「一家に一函 食栄素」です。
これはナニか申しますと、配給の醤油一升と水一升、そして本品を混ぜると
あら不思議・・即座に二升の美味しい醤油が出来る・・というものです。

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終戦間際の6月にもなると「特攻」の文字が目につきますね。
「一機一鑑!」とか、「生産特攻」、「国民総特攻!」。
もはや広告のコピーといった枠を超え、単なるスローガンと化したのでした。
「七生報国」は三島由紀夫のハチマキを彷彿とさせます。

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個人的にとても楽しみながら、勉強にもなりました。
嘘八百 -明治大正昭和変態広告大全-」はもっと笑える本でしたが、
本書は戦時中の広告が対象なだけに、茶化したものではありません。
小学館の発行だけあってか、戦争に詳しくない若い人向けのようにも思いました。
割愛しましたが「徴兵保険」など、知らないことがいくつもありましたし、
分厚い本を読んだり、プロパガンダ写真を見るよりも、
銃後の生活と、その変化の様子が違った視点で理解できますね。





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ナチス親衛隊装備大図鑑 [軍装/勲章]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アルリック・オブ・イングランド著の「ナチス親衛隊装備大図鑑」を読破しました。

去年に紹介した「ドイツ軍装備大図鑑: 制服・兵器から日用品まで」に続く 、
装備大図鑑シリーズの第2弾がやってまいりました。
5月に出た435ページの大型本で、お値段9975円と高価ですが、迷わず購入。。
山下 英一郎著の「制服の帝国」にも似た感じかと思いますが、
なんといっても当時の品々がオールカラーで楽しめます。

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まずプロローグでは、「SSはドイツとヨーロッパの歴史に根ざした、驚くほど複雑で、
魅力的な歴史現象であり、このテーマに関する真に決定版と呼べる学術論文は、
(「髑髏結社 SSの歴史」はそれに近いが)疑いなくまだ現れていない」とします。
ほ~、確かにSSの本ではアレがベストですね。
そして本書のコンセプトは、「黒の軍団の制服と徽章にハッキリと現れた審美的な世界・・、
本物の一般親衛隊(アルゲマイネSS)の歴史的遺物から代表的なものを一堂に集め、
読者がSSの組織という文脈の中でそれらを理解できるような方法で紹介すること」としています。

本書は2部構成となっていて、第1部はSS内の儀式的要素と、
ドイツ社会のさまざまな領域へのSSの教化、指導、浸透の方法論を、
第2部では制服と装備品を紹介します。
それでは第1部「歴史的背景と組織」へ・・。

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1925年のSSの誕生、その前身である「アドルフ・ヒトラー挺身隊(Stosstrupp-Hitler)」が
1923年に誕生した話など、当時の大きな写真も掲載してかなり詳しく解説します。
初代隊長シュレック、ベルヒトルト、ハイデンも写真付きで紹介し、
1929年にヒムラーがSS全国指導者になると、その当時の彼のSS身分証明書も登場。
ちなみに「アドルフ・ヒトラー挺身隊」は「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」とも訳されますね。

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続いて、「一般親衛隊の組織」を解説します。
SS本部から、SS国家保安本部、SS経済・管理本部など8つの部局を責任者の写真と共に。
写真といってもハイスマイヤーカルテンブルンナーといった有名人だけでなく、
初めて聞いた名前の人もバンバン写真で出てきます。
もう、この時点で本書のマニアックさが伝わってきました。

ヒムラーが「SS信仰」構想の中心人物としていたハインリッヒ1世に触れながら、
ルーン文字ヴェーヴェルスブルク城アーネンエルベ協会などへと進みます。
しかし、ベルリンのアーネンエルベ本部に飾ってあったタペストリーのカラー写真や、
ヴェーヴェルスブルク城の大ホールで使われたイスのカラー写真とか、
品々のマニアック度は半端じゃありません。思わず、じ~・・と見入ってしまいます。。

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髑髏リングの後は、SS隊員の結婚と葬儀。
1923年から1934年の間に400名以上のSA隊員とSS隊員が共産主義者によって殺され、
そのような殉職者はヒトラーが特に指名した場合は、SS連隊や中隊に名が付けられ、
そんな部隊のカフタイトルも各種掲載されています。

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まだまだ、レーベンスボルン(生命の泉)に、
機関紙ダス・シュヴァルツェ・コーアと、SS関連の事業紹介。
SDハイドリヒの紹介では、豪勢なハイドリヒの執務室の写真も。
SS士官学校も外観から施設の写真まで・・、校長先生はパウル・ハウサーですね。

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本書は武装SSはあくまで対象外となっていますが、SS-VT(特務部隊)として
ライプシュタンダルテドイチュラント、ゲルマニア、デア・フューラーの各連隊を紹介します。
襟章にカフタイトルもそれぞれに、またゼップ・ディートリッヒの夜会服まで出てきました。
これは1945年にベルリンで発見され、いまはモスクワ軍事博物館のコレクションだそうです。
ちなみにライプシュタンダルテは「総統旗」など、いろいろな表現がありますが、
本書では「アドルフ・ヒトラーSS身辺警護連隊」で統一されています。

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それから髑髏部隊
テオドール・アイケの未見の写真も良いですが、SS中佐のカール・コッホが結婚した写真。
ブーケを持って微笑んでいるのは、もちろんイルゼ・コッホですね。。
しかし本書ではそういう関係ないネタには一切触れません。

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その他、SSの専門部隊。まずはSS乗馬連隊で、SS乗馬学校も創設。
こちらの校長先生はヘルマン・フェーゲラインですが、「交差した槍」の襟章がステキです。
工兵隊なら「交差したつるはしとシャベル」の徽章、通信隊なら「稲妻」ですね。

そして、SS飛行隊!
1931年11月にミュンヘンで設立されたそうで、コレはまったく知りませんでした。
この小規模な部隊は1933年9月に、ドイツ航空スポーツ連盟に吸収されてしまったそうですが、
「翼とプロペラ」の徽章に、「SS/SA操縦者翼状徽章」なんてのも始めて見ました!

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SS音楽隊だけでも8ページと写真たっぷり、自動車化部隊にSS予備役部隊まで・・。
予備役大隊は「Reserve」のカフタイトルに、「R」の襟章、
45歳を超えた予備役資格は「後備役中隊」に配属されて、徽章類も黒ではなく、「グレー」です。

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こうして155ページから第2部「制服、装具、旗、徽章」へ。
帽子だけでも1925年当初の「ケピ帽」から、定番の「鍔付き制帽」まで丁寧に紹介。
1938年型のフィールドグレーの制帽、野戦帽もしっかりと。
夏用の白制帽はヒトラー専属運転手のケンプカの物です。
将校用の黒い初期型制帽の写真では、1934年当時の見本としてモデルを務めているのが
SS大尉のテオドール・ヴィッシュです。若いなぁ。。

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ヘルメットは1933年にパレード用として使うことになりますが、
最初は第1次大戦の余剰ヘルメット(M16)を黒く塗ったもの。
M1935型ヘルメットが造られ始めても、陸軍への供給が優先され、
1936年の遅くなってからようやくSSにもM35が供給されたということです。
ヘルメットをかぶったヒムラーの写真が掲載されていましたが、
第二次世界大戦ブックス「ゲシュタポ」の表紙ですね。

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「制服」はまだSSの黒い上着が登場する前、いわゆるSAの褐色シャツ
SSの黒い襟章を付けたスタイルから紹介します。
一般SSの命、黒の制服も数種類現物で部分的にはアップの写真も。

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リッベントロップが着ていた夜会服では特別に右胸に付けていたという
髑髏にモットーが書かれた「夜会服徽章」の写真が鮮明です。
こういう品々も、「1945年に米軍のゴールドスミス中佐がホテル・クローンから手に入れた」と
入手経緯についも可能な限り書かれていますが、
大抵、西側連合軍による略奪品で、後年、売りに出された物なんですね。

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白いステッチの入ったダブルの「社交服」も一歩間違えれば戦車服ですね。
ヒトラーの給仕をする「食堂当番兵」の白の上着まで出てきました。
そんな彼らは「ライプシュタンダルテ」から選抜された隊員であり、
完璧に信用できて、何を立ち聞きしたとしても口を慎む精鋭だったようです。

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1934年に採用された「黒マント」は首相(内閣)官房長官ハインリヒ・ラマースのものです。
高価につき購入したSS隊員はほとんどいなかったそうですが、
これは完全にダース・ヴェイダーですよね。。

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夏季用白上衣は例のホテルで大量に略奪されたリッベントロップの物と、
1945年にヒムラーの自宅から米軍によって持ち去られた物の2着です。
フィールドグレーの制服はオスヴァルト・ポールの1938年型が細かく出てきますが
これは「SS軍装ハンドブック」にも巻頭カラーで載っていました。付いている徽章が違いますが。

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「コート」だけでも12ページ。
ヒムラーの幕僚長だったカール・ヴォルフの黒のオーバーコートは上等なウールの逸品で、
左腕にはSA/SS指導者学校「ライヒスフューラーシューレ」を卒業したことの証である
「↑ ティール・ルーン」付き。「革のオーバーコート」もカッコいいっす。

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各種ズボンに「新品」の褐色シャツ、白の皮手袋と続々と続きます。
ベルトのバックルも将校用、下士官用だけでなく、1932年に採用された洋銀製と
1930年代後半に製造されたアルミ製と区別するマニアックぶり・・。
それどころか美しいアルミ糸織物の礼装用のベルトまで出てきました。

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キャンバス製のブレッドバッグ(背嚢)に水筒、飯盒、テント布、副官用飾緒と、
一般SS向けには何でも黒く塗装したりして製造されています。
胸当て(ゴルゲット)は、SS巡察部の物と無線局警備用の2種類を紹介。
1936年のオリンピック当時の写真では、そのゴルゲットを指さして喜ぶ日本人の姿・・。

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黒革ブーツに続いて、徽章の巻。
当初はSSマンから、SSオーバーグルッペンフューラーまで9階級しかなかったものの、
SS隊員の増加に伴い階級が増えていったわけですが、
まぁ、ここら辺はボクシングの階級と同じ感じですね。
襟章の紹介では、第19SS連隊を現す「19」の襟章を付けた当時のモデルさん。
「ヨセフ・シュトロープSS上級小隊指揮官」とキャプションに書かれていますが、
この人は後に、よりアーリア人らしくと「ユルゲン」に改名したシュトロープ将軍です。
イルゼ・コッホの時といい、本書では「ブッヘンヴァルトの魔女」とか、
「ワルシャワ・ゲットー蜂起の鎮圧者」とか、そういう下世話な話はありません。
写真を見て、わかる人だけわかればいい・・ということが徹底しています。

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肩章、腕章、そしてカフタイトル。
ここでも第10SS連隊のカフタイトルを付けた若きアイケがモデルです。
初見の写真ですが、やっぱり悪そうな顔してんなぁ。ボルマン系・・。

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左腕につける「ダイヤモンド型職掌徽章」は素晴らしい。ドキドキします。。
歯科隊用、法務部職員用、馬係、薬剤師、獣医部、管理部など種類も豊富。
ここのモデルさんは「完全な資格を持つ医師用」の徽章を付けたレオナルド・コンティと、
「人種・移住本部要員用」の徽章を付けたヘルベルト・バッケの2人です。

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右腕の古参闘士の「V字形章」も警察、国防軍の元メンバー用に星付きのがあったり、
射撃徽章も4つの等級があったりと、知らなかったことが実に多いですね。

勲章と記章では、ミュンヘン一揆の「血の勲章」から始まり、
ユリウス・シャウプの物だった「金枠党員章」。
1929年ニュルンベルク党大会記章と、1931年ブラウンシュヴァイク党大会記章の他、
1922年10月の「コーブルク集会」に参加した者を讃えるために
1932年にヒトラー自ら制定したという「「コーブルク名誉記章」。
これは知りませんでしたが、授与基準は400名程度というレアなモノです。
そして一揆が失敗に終わった禁止令時代に、代用突撃隊として1924年に設立された
フロントバンの元隊員向けの「フロントバン記章」というのも珍しいですね。

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SS永年勤続章は4年、8年、12年、25年と4段階ですが、
SS誕生の1925年から勘定すると、25年も勤続したら1950年になってしまい、
受章するには「ファーザーランド」の世界が必要になってしまいます。
なので、政権を取った1933年までの期間は「闘争時代」ということで2倍の計算。。
しかし、闘争時代からのナチ党員はこのように様々な徽章や勲章があったりと、
特別扱いなのが良くわかります。
ヒトラーが首相になってからは、多くの有能なドイツ人もナチ党員、SS隊員となるわけですが、
「古参」というだけで優遇された、威張るのだけが取り柄の能無しには困ったんでしょうね・・。

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「私服用ピン」も、「FM(後援会)」の会員用や名誉ピンに
1939年のポーランド戦以前から、自由都市ダンツィヒで奮戦していた隊員向けの
「ダンツィヒ郷土防衛軍名誉ピン」といったレアなものが登場します。

SS-FM Patron Pin_Pin of Honour of the SS-Heimwehr Danzig.jpg

「長剣」も良いですねぇ。名誉長剣に、ヒムラーが特別な高級指導者の50歳の記念に
贈ったという「誕生日贈呈用長剣」などが20ページに渡って紹介されます。
なかでもSSオフィシャル長剣ではなく、「ライプシュタンダルテ」の将校団が
ゼップ・ディートリッヒの44歳の誕生日に贈呈した、特別な長剣が印象的です。

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「短剣」になると、これはもうヒトラー・ユーゲントでも各自持っている位ですから大変です。
大量の短剣を受注したのはゾーリンゲン商工会議所で、大手メーカーばかりでなく、
小さな会社でも短剣を生産。
本書ではそのようなメーカー毎に紹介してくれます。

次の武器は「拳銃」です。
ハイドリヒをヒムラーに紹介したフォン・エーバーシュタインの美しい拳銃に、
オークの葉が彫刻された金メッキに象牙グリップの「ワルサーPP」。
これはカール・ヴォルフがイタリアで米軍に降伏した際に、
その贈呈用の拳銃をケンドール少将に手渡し、
その後、ウェストポイントに寄贈されて、現在もそこに保管されているそうです。
いや~、実に綺麗ですね。

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「文書、身分証明書、印刷物」もたっぷりですね。
SD将校の身分証明書にはハイドリヒの肉筆署名が入っていたりします。
ハイドリヒのサインも初めてですが、凄いなぁ。字がのたくってます。

残りも少なくなってきましたが、ここで「連隊旗」の登場です。
良くナチ党のパレードで見かけるアレですね。
正面には「ドイチュラント・エアヴァッヒェ(ドイツよ、目覚めよ)」と書かれ、
旗頭の箱型に連隊名。裏は「NSDAP」です。
神聖な「血染めの旗」についても詳しく書かれていますが、
1944年までは本部に置かれていたことが分かっているものの、
戦争を生き延びたのかどうかは一切不明だそうです。

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そんな連隊旗を掲げる旗手の装具も手袋から胸当て章、旗バンドまで。
旗ついでに「車両用指令旗」まで細かく紹介されます。
最後には「アラッハ磁器」という、SS御用達の陶器や彩色の美しい軍隊人形が、
まるでオークション・カタログの如く・・。

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いや~、こんな高い買い物、久々にしましたが大満足でございます。
次のページにナニが出てくるのか、ドキドキ、ワクワクしつつも、
今読んでいるページの写真と解説が濃すぎて、なかなか次のページ進めない・・という
モドカシくて、悶絶しました。
「うぉあ!」とか、「なんだコリャ!?」、「ふ~、、スゲえなぁ」って何度口にしたかわかりませんね。
制服の帝国」などが好きな方には、絶対の自信を持ってお勧めします。

今まで読んだSS関連本にも触れられてなかった情報もありましたし、
帯に書かれた「・・・永久保存版!」はダテではありません。
大概、帯に書かれた大げさな文句は「嘘八百」ですが、本書は文句なし!
「日本軍装備大図鑑」が図書館にあるので借りてみようかな。







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外交舞台の脇役(1923‐1945) -ドイツ外務省首席通訳官の欧州政治家達との体験- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

パウル・シュミット著の「外交舞台の脇役(1923‐1945)」を読破しました。

過去に読んだ第三帝国モノで「不撓不屈の通訳官」と書かれた人物の回想録である本書は、
1998年、663ページという大作なのもさることながら、すでに絶版で、
定価3500円がamazonでは倍以上の値段がついており、見送っていました。
著者シュミットはミュンヘン会談など、ヒトラーが外国の首相、外相、大使と会談する際、
必ず列席しており、その裏側のエピソードを知りたいと思いが徐々に強くなって、
試しに文京区の図書館にリクエストしてみたところ、
2週間ほどで中野区図書館からお取り寄せしてもらいました。ダンケ・・中野区・・。

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序文では、第1次大戦の始まった1914年、15歳だった著者シュミットが
腕に白い腕章を巻いた補助警官としてベルリンの鉄橋のたもとで鉄道防衛の役に付き、
1917には軍務に編入されて、翌年、機関銃射手として連合軍と相まみえ、
敗戦後はベルリン大学で学び、通訳として外務省に・・という経歴が簡単に語られます。

そして第1章「HAAGでの序幕(1923)」が始まり、
常設国際司法裁判所の裁判での通訳として派遣されるわけですが、
24歳のシュミットの国際舞台でのデビュー戦は公式用語である
英語とフランス語を駆使して、まずまず合格。
1925年からは「ロカルノ条約」で奮戦し、スイス、パリ、ロンドンを駆け巡ります。
この辺りは外相シュトレーゼマンの通訳とエピソードが中心で、
いやいや、知らないことが多くて結構大変・・。
1920年代がそのまま200ページも続きますから、ココが踏ん張りどころですね。。

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1931年になると世界的な大恐慌が起こり、ロンドンでの英独首相会談が開かれます。
ドイツ首相はブリューニングですが、ナチスと共産主義が勢いを増し、
ブリューニング暗殺の噂もあるなかでのハンブルクからの出航。
デモ隊だけでなく、造船所の労働者も「飢餓独裁者くたばれ」と
拳を振り上げ、叫びながら近づいてくるという危険な状況。

そして会議では経済問題よりも1万㌧の「ポケット戦艦」問題が度々、取り上げられ、
英海軍大臣も苦情を申し立てるのでした。

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遂にヒトラーが政権を握った1933年。最初の国際舞台は軍縮会議です。
その代表団の一人にはラインハルト・ハイドリヒの姿が・・。
突撃隊(SA)、鉄兜団の指導者と一緒に国粋武装団体の「専門家」として
地上軍委員会に出席しますが、通訳のヤコブ氏がユダヤ人であることを不服とした結果、
シュミットにとって初めての「ナチスの顧客」になってしまうのです。

突撃隊(SA)はスポーツ活動をしているに過ぎない」。
親衛隊(SS)は武装してなく、演説者を共産主義者の襲撃から守るため、
秩序維持にあたるだけである」と発言するハイドリヒ。
しかし国際連盟の委員会は納得せず、国粋武装団体は兵力に算入されると決定し、
ナチス補助警察のみが例外に。

parade 1934.jpg

しかもドイツ国旗は、まだ公式に変更されていなかったにもかかわらず
ジュネーブのホテルに掲げてあった三色旗を勝手にハーケンクロイツへと変更。
代表団長のナドルニーに「自分勝手な行動は禁止する」とお説教を受け、
顔を紅潮させながらもハイドリヒは、おとなしく指示に従うのでした。

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ナチス政権は徐々に国際会議から身を引き出しますが、1935年、
ベルリンへ英国のサイモン外相と王璽尚書イーデンがやってくると、
外務省の推薦によって初めてヒトラーの通訳という大任が・・。
ドイツ側は外相ノイラートと軍縮問題特別担当リッベントロップも出席です。

ボルシェヴィズムに関する脅威を英国人に長々と独演するヒトラー。
2,3言ごとに通訳するというものではなく、15分~20分も喋ってから
ようやく通訳の時間が与えられるという難問にも耐え抜きます。

Anthony Eden (fourth from left) and Sir John Simon, meets with Adolf Hitler, Berlin, Germany,1935..jpg

このようにして外務省の首席通訳官兼ナチス御用達通訳官となってしまった著者。
ゲッベルス、ゲーリング、一応英語のできるリッベントロップの通訳も務め、、
1936年のベルリン・オリンピックでは、この期間中の「通訳マラソン」も耐え抜きます。
午前中はゲーリングの通訳、終わると大急ぎで首相官邸のヒトラーの元へ・・。

翌年は経済相のシャハトと一緒にパリの万博へと旅立ちます。
ドイツ館の開館式辞の通訳ですが、このパリ万博ってなかなか面白いですね。
「第三帝国の立て看板」と呼ばれたドイツ館。
それに向かい合って立つのが屋根に大きな彫像が置かれたソ連館。。

Soviet_and_German_Pavilions_in_Paris_1937.jpg

エッフェル塔を中心に両巨頭が対峙する構図は、4年後を予知しているかのようですし、
ちょっと現実の風景とは思えませんね。

pavilions of Nazi Germany and the Soviet Union defiantly faced each other in Paris.jpg

この年にはムッソリーニもドイツを訪問します。
まだまだファシストの兄貴分であるドゥーチェですから、やることも豪快で、
記章と短剣を叙任証とともにわざわざ持参し、
ヒトラーを「ファシスト軍伍長」に任命するのでした。。

Adolf Hitler & Hermann Göring received Benito Mussolini at Berlin airport.jpg

続いて地元ベルリンをオープンカーでパレードする行列の一員となった著者。
ドイツとイタリアの国旗が打ち振られ、ヒトラー、ムッソリーニ、チアーノ外相に対する歓呼が
響き渡りますが、昔の学友のひとりが自動車No.25に乗った著者に気づき、
「シュミット、シュミット!」と突然叫びます。
予期せざる再会に、帽子を振って挨拶すると、悪戯好きのベルリンっ子は
「シュミット、シュミット、そこにいるのはまさにシュミットだ!」と
歓呼の嵐がそれまでの最高潮に達します。。
もちろん同乗のイタリア人は、この超人気者の文官はいったい・・??

1937_Berlin,Mussolini,Hitler.jpg

それまで文官としてスーツ姿だった、謎のベルリンの人気者シュミットですが、
ヒトラーからダメ出しを受けてしまいます。
ヒトラーはSSの制服の着用を命じ、ゲーリングからも空軍の制服が・・。
しかしまるで海軍のような濃紺の外務省制服が正式に仕立てられると、
その姿を見たイタリア人は恭しく言うのです。「提督閣下御入来」。

Ciano is standing with Hitler's interpreter Paul Schmidt..jpg

さらに儀礼用に銀の飾緒と懸章に短剣を着用する場合も・・。
ヒトラーの副官に「あなたは懸章を逆につけている」と直前に注意され、
取り外せない短刀は、晩餐会で着席する際、度々、あばらを突きます。
提督への道のりは険しいことを実感。。

1939, Hitler conversing with the British ambassador Handerson,Paul Schmidt.jpg

洋書では第三帝国の外交官や政府高官、赤十字の制服を扱った
「IN THE SERVICE OF THE REICH」という本が出ていて、
あ~、コレは前から手に入れたい・・と思っています。

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まだまだウィンザー公の訪独でも通訳を務め、ゲーリングのカリンハルにも同行。
この広大な別荘で最後に案内されるのは、あの鉄道模型の部屋・・。
ムッソリーニだろうが、ウィンザー公だろうが、誰でもこの部屋では
無邪気に遊んでしまうのです。

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そんな笑い話やお気楽なエピソードもこの年まで。
1938年にはズデーテンラント問題から戦争の危機が訪れます。
外務省の友人たちはヒトラーに激しく反対し、総動員令を発すれば
軍によって即座に逮捕するという反抗計画があることも知らされます。
そして英首相チェンバレンが電撃的にミュンヘンを訪問。
「精神をよく集中してください」と言うのは外務次官ヴァイツゼッカーです。
「明日、ベルヒテスガーデンで戦争か平和かが決まるのだ」。

アドバイザーは同席せず、マンツーマンの会談。
ヒトラーはチェンバレンに言います。「シュミットは同席する必要がある。
彼は通訳として中立であり、双方のグループには勘定しない」。
この結果、「2軍落ち」となってしまった外相のリッベントロップは怒り心頭です。

Premierminister Chamberlain beim Führer_dazwischen Gesandtschaftsrat Dr. Schmidt.jpg

この後の、4ヵ国首脳によるいわゆる「ミュンヘン会談」の様子も詳細ですが、
シュミットは「ムッソリーニの提案の受諾は彼がいまや戦争という考えを捨てた」として、
戦争か否かの本当の危険は、ヒトラーが2度たじろいで譲歩した、
チェンバレンとの会談だったのであり、ミュンヘン会談の結論は想定されていたもの・・
としています。

Münchener Abkommen, Mussolini, Hitler, Paul Schmidt, Chamberlain.jpg

1939年になると今度はポーランド問題で再び、戦争の危機が・・。
アットリコ大使とチアーノ外相が必死にイタリアの弱さを説明します。
なんとか夏休みを取ったのも虚しく、休暇先の島に飛行機が飛んできて、
そのままモスクワ行き・・。リッベントロップの「独ソ不可侵条約」のお供です。
ただしロシア語はNGなシュミットは通訳ではなく、記録係として気楽に観光も。。

Deutsch-sowjetischer Nichtangriffspakt.jpg

8月30日の真夜中、英国大使ヘンダーソンとリッベントロップよる最後の交渉。
両者激高して立ち上がり、掴みかからんばかりの状況です。
リッベントロップはポーランド紛争解決の提案をドイツ語で読み上げますが、
コレをヘンダーソンに手交することを拒否。
もしかしたらポーランドが合意するかもしれないのに・・と、
今やシュミットも、外交官として軽蔑するドイツ外相に対して、怒りが込み上げてきます。
しかし「意見を言うことは通訳として万死に値する・・」。

Henderson Ribbentrop.jpg

このようにして9月3日、面会を嫌がったリッベントロップに代わってヘンダーソンを迎え、
彼が英国の最後通牒を受け取ることになるのです。
「この文書を常に協力的であった貴職に手交せざるを得ないとは、本当に残念である」。

ポーランド戦が始まると大臣官房の一員となって、
傲慢なリッベントロップに独占的にこき使われるシュミット。
東部から侵攻を開始したソ連や、翌年の西部への侵攻もラジオで常に先を越す
ゲッベルスの宣伝省との発表争いを巡って、報告が遅い・・と叱責されますが、
この辺りは、このダメ上司に対するグチも多くなりますね。

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コンピエーニュの森におけるフランスとの休戦協定にも出席。
カイテルが休戦条件を朗読し、それをフランス語に通訳するシュミット。
「フランスは英雄的抗戦のあと、敗北した。
かくも勇敢な敵方に対し、屈辱の性格を付与する意図はない」。

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スペインのフランコ将軍、ヴィシーのペタン元帥と会談するもヒトラーが敗北した後、
イタリア皇太子妃のマリア・ジョゼーと兄のベルギー国王のエピソードが詳しく出てきました。
山荘ベルクホーフにおいて、彼女の故国ベルギーの戦争捕虜の帰還や、
食糧事情について強い情熱を傾けられ、女性には極めて優しいヒトラーは終始、逃げ腰です。
そんな若く優雅で愛らしい外交上手の彼女は、
「私が女で政治に疎いという理由で話し合いたくなければ、私の兄と会談を・・」と
まんまと捕虜であるレオポルド国王と接見することを無理やり約束させてしまいます。
お茶が熱すぎて、口を火傷させてしまい、ヒトラーが平謝り・・なんて話もありましたね。

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それから数週間後、妹の発議を呪っている・・といった表情の兄貴が登場。
会見を強制されたヒトラーも幾分冷たい態度で出迎えますが、とりあえず愛想よく、
「私は貴下の事情を真に遺憾に思う。何か個人的な希望を叶えることはできますか?」
しかし、誇り高い王家の見下すような調子で若き王は答えます。
「私自身個人的にはなんの願望もない」。
気まずい会談は何の解決策もなく早々に終わりますが、双方にとっては残念なことに
今日の日程には「午後のお茶会」も組み込まれていたのでした・・。
ははぁ・・、ヒトラーが「畜生! どうしようもない奴だ。」と激怒していた理由が
ようやくわかった気がします。

1941年3月には日本からのお客様、松岡外相との会談です。
「ドイツとソ連間に紛争がないとは言えないと天皇陛下に・・」と遠回しに通訳し、
やっぱりカリンハルで鉄道模型・・。ある意味、ここは第三帝国のテーマ・パークですね。
ちなみに勲章大好きゲーリングは写真の通り ↓ しっかり「旭日章」をゲットしています。

Matsuoka_Paul Schmidt_hitler_Göring Order of the Rising Sun.jpg

1943年には「カサブランカ会談」が開かれるとの情報を掴んだ外務省。
記者会見でスポークスマンが、「ルーズヴェルトチャーチルが近々、
ホワイト・ハウスで会談するであろうことをわが国は正確に知っている」。
スペイン語のテキストを忠実に翻訳したため・・というこのエピソードですが、
そうか、Casablanca・・「カーサ・ブランカ」って聞けば、確かに「白い家」ですね。。

Casablanca Conference.jpg

総統本営でも通訳の仕事が度々出てくるシュミット。
ルーマニアのアントネスクにはフランス語で通訳します。
大のソ連嫌い、ハンガリー嫌いのこの元帥はヒトラー似のアツい男で、
そんなところをヒトラーは特別気に入っていたそうです。
パリ駐在武官で参謀としての自信もあるアントネスクがヒトラーの作戦指導の弱点と
欠陥を暴露すると、驚いたことにヒトラーは謙虚に助言を求めます。
「クリミア半島を撤退すべきか、防衛すべきか判断できない。
貴下の助言はいかに? 元帥閣下」。

Ion Antonescu Paul Schmidt Adolf Hitler.jpg

自動車事故での入院生活から回復したのも束の間、東プロイセンの本営に行くよう命ぜられ、
今回はムッソリーニとの会談。その日付は1944年7月20日です。
ゲルリッツ駅と呼ばれる本営の小さな駅でムッソリーニを迎え、
数時間前にシュタウフェンベルクの爆弾から難を逃れたばかりのヒトラーも合流。
事件現場を訪れ、ひっくり返った箱に腰を下ろし、
身振り手振りでその時の状況を説明するヒトラー。

Hitler mit Mussolini und Chefdolmetscher Paul-Otto Schmidt in der zerstörten Lagebaracke.jpg

外務省としては次官のヴァイツゼッカーを中心に、
ナチス政権であろうがなかろうがドイツの国益のために働くのみですが、
この暗殺事件の余波で、処刑される職員も出てきます。
著者はそんなナチス政府の中心に居ながら非党員であり続けますが、
1943年に友人の忠告を受けて入党。タイミングはギリギリですね。

1944年12月にヒトラーを見たのを最後に通訳の仕事もなくなり、
ザルツブルクで終戦を迎えた著者。
戦後は米軍に捕らわれ、ニュルンベルク裁判で証人として出廷。

Paul Schmidt_ Nuremberg.jpg

米軍心理学者の通訳もして「最も深い悲劇の人間ドラマ」を体験したそうですが、
詳しくは触れられません。
絞首台が設営された体育館から、わずか50mの証人棟にいた彼は、
長く従えた尊敬できない上司のリッベントロップの死をどう感じたのでしょうか?

Nuremberg Trials_Ribbentrop.jpg

読んでいて、あの本に出てたなぁ・・と思ったエピソードも数多く、
原著が1950年ということもあって、有名なネタ本なのは間違いありませんね。

また本書は地名に人名がすべてドイツ語表記です。
「恐らくChamberlainを長とする英国代表団も、Rhein対岸の
Hotel DreesenをPetersbergから見ていた。」
と、こんな感じですから、本書は左開きの横書きという、
この手の本としては珍しい形をとっています。
"Rom"とか、"Genf"なんて最初はなんだかなぁ・・?

さらに写真は一枚もなく、訳者さんによる戦局などの注意書きもありませんから、
なにかしら第三帝国興亡史を読まれている方ではないと大変だと思いますが、
1933年のナチス政権が誕生した279ページ以降だけでも非常に読み応えがあり、
この400ページ弱だけでも定価3500円の価値は充分にあります。
コレは読み返したくなりそうなので、中野区に返したくありませんね・・。





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