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嘘八百 -明治大正昭和変態広告大全- [ジョーク本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

天野 祐吉 著の「嘘八百 -明治大正昭和変態広告大全-」を読破しました。

最近、日本における第2次大戦、太平洋戦争の勉強という意味ではなく、
大正から昭和の広告だとか、生活用品だとかに興味があって、いろいろ調べています。
本書はそんな勉強向けの一冊で、著者はコラムニスト、または
雑誌「広告批評」の主宰としても有名な天野さんです。
「1990年代に大きな話題を呼んだ、『もつと面白い廣告』と『嘘八百』シリーズ(全四巻)から、
著者が選び抜いた“変態”広告の傑作を一冊に。」
という内容の2010年に出た317ページの文庫です。
とても面白かったので、今回、感想を書いてみました。

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通常の「はじめに」にあたる「前口上」では、
「優れた広告は全て嘘であり、受け手のほうも、嘘を承知で広告を楽しんでる。
『さァさァ、お立合い、聞いてびっくり、しゃっくりが止まるよ』なんて口上を聞いて、
本気でしゃっくりが止まると思う人がいたら、その人の人生は貧しいと言わねばなりますまい」。
嘘の宝庫ともいえる明治大正昭和初期の正しい嘘広告から「正しい嘘のつき方」を学び、
嘘をつく技術の退廃した日本の文化を豊かにしよう・・という内容ですね。
それでは、ヴィトゲンシュタインが楽しんだ広告を「ヒトラー・ジョーク」や
スターリン・ジョーク」のように、いくつか紹介してみましょう。

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第1章は「嘘につける薬(薬品)」の広告です。
明治時代の人々も「にきび」やら、「毛生え薬」やら、気になるのは現代人と同じ。
毛のはへる香油」、「老人に黑き毛がはへるとは不思議なり」。
広告の下には著者によるユーモアたっぷりの突っ込みが入っていて楽しめます。

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明治42年(ヴィトゲンシュタインのお祖父ちゃんが生まれた年)の広告は
「良薬にして口に甘し」の浅田飴。へ~、浅田飴って古いんですねぇ。
たんせきに浅田飴 すきはらにめし」というフレーズがなんとも・・。

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昭和4年には「喜びに沸く 不死薬が発明さる」。
こんなのが掲載されているのは「東京朝日新聞」です。怪しいなぁ~。東スポみたい。

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肺、胃腸を患んだ極度の悲観から極度の楽観への導きは
中島の征露丸ですが、昔は日露戦争でロシアを征服したから『征露丸』。
太平洋戦争に負けて、いまの『正露丸』になったそうです。知らなかった。。
しかし下痢だけでなく、肺や胃にも効くんですね・・。

今では三歳の童児にすら感激的な親しさを以て迎へられるる仁丹
仁丹の全身像、というか下半身初めて見ました。スタイル抜群です。

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「男女毛深い方に・・脱毛剤ラベル」。昭和7年の「文藝春秋」の広告です。
タツタ三分間でスベスベと玉の肌になりました」という女の子の絵。。
どんだけ毛深いんだよ・・。熊じゃないんだから・・。

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「川添博士 乳の出る薬」も良いですが、「男女やせ薬」は、
男女ともふとりすぎはデブだ豚だと悪口され見にくいから早く治療してやせなさい」と
命令口調です。

第2章は「珍案特許(珍品・逸品)」です。
英語を知らぬと犬にもオトル 犬ですら英語がワカル」と大正時代の広告は言ってます。
「少年は今から英語を充分に勉強して置かないと今後はとても立身出世は出来ない。
本校にて発明した『特許英語暗記器』を用いて勉強すれば、コレ迄百日かかっても
覚えないものがタツタ一日で立派に覚えられる。」

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この不思議な教授法はハガキで申し込めば見本を無代進呈するそうですが、
住所が「東京市本郷区大学正門前英語通信学校」というのもイヤラシイ・・。
早い話、東大の目の前ってコトですね。。

これも凄い。「世界的大発明 病気予防器」。
胃腸病から婦人病、動脈硬化症、神経衰弱とあらゆる病気に対応。

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そして、「今日の如く世間の物騒なる時には、夜は枕元に置き、
外出の時には帯や隠しに所持して居れば、病気予防以外更に
萬一の場合、護身用具ともなる」という謎のスーパー・マシンです。

「面白いほど速く泳げる水泳手袋 『ウカール』の発明」。
昭和6年「少年倶楽部」の広告ですから、コリャ子供たちは欲しがったでしょう。。

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「男子用小便取器 菊式便器」は意味わかりませんね。
いよいよできました。寝てて小便してみたい」。
チンチンと尿瓶がゴム管で繋がって「自由自在」だそうです。

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女性向けの昭和初期の広告なら、「安い『乳バンド』」。
「盛夏の外出は、薄着ですから『乳バンド』が、ぜひ必要であります」。
ブラジャーっていつから言うようになったんでしょうかね?

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左の「奥様ズロース」もキテルなぁ。主婦の友社と有名デパート推奨です。

昭和12年にも読売新聞で「仕事の合間に英語を」。
前年には1936年ベルリン・オリンピックが開催されており、
1940年(昭和15年)は東京オリンピックが開催予定という時ですね。

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諸君!朝凉一時間を割いて立身の武器を獲よ!
オリンピツクを控えて帝都の英語熱は沸騰した!」煽ってますな。。
写真は英語猛練習中のバスの車掌さんです。

コレも好きです。「ギャング除け 貞操擁護 ドロボウ撃退器」。

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ガマ口型護身具で、「キュット オセバ ジュット デル わるもの タチマチ タイサン
というフレーズと挿絵が何とも言えません。

第3章「人には言えぬ悩みあり(性関連)」。段々、楽しくなってきました。
「いもりの黒焼き」に「淋病」、「梅毒」と今で言うエイズ対策は重要です。
そんななかで「男の悩み 早漏=早期射精」も大問題です。
恐るべき性の破産病早漏の詳細と・・」随分な言い方ですね。

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ヴィトゲンシュタインならとりあえず、左のやつを試します。
弱いお方に スッポン飴」。
いや~、スッポンは馬鹿に出来ないですよ。
中学生の時、レストランでスッポン・スープを飲んでる最中に大きくなりましたから・・。

そんな男子の悩みは早いだけではありません。古今東西、大きさも重要です。
若者よナゼ泣く? 問題の生殖器弱小 極度の哀愁より、急回転、無上の幸福へ・・」。

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いったいどんなことが書かれているのかというと、
「折角苦心勉学しても、他日妻を迎へたとて、新婚蜜月の歓楽も失望に帰し、
離婚問題が起こることになるから、生殖器発育不完全があつて泣かないものは腑抜けである。
しかしながら、泣くな若者! 医学博士が9名も実験証明推奨され、
各博覧会では名誉大金杯受領し海外までも名高い専売特許真空水治療法器を、
自分で秘密、簡単、安全に、一日一回僅か五分間づつ使用して治療すると、
忽ち驚嘆すべき理学的真空吸引力により著しき発育が現れ、
同時に神秘極まりないエンツンデユング作用により、局部性神経衰弱を復活して
機能を着々、強健旺盛ならしめ、費用少なく、時日短くて、而も効果は満点的に
弱小も強大化し、元気も溌剌となり人生が明るくなる。
此の如き超スピード的理学療法があるのに、若者よナゼ泣く?早速進んで実験されよ」

いや~、今でも通用しそう。ちなみに昭和6年の広告ですが、
この「真空水治療法器」の価格は四円八十銭です。果たして高いのか安いのか?
代引き十五銭増し」というのが、生々しいですね。

続いて「青年よ 戒心猛省せよ 不自然 手○の害」も生殖器発育不全問題です。

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「青少年時代の悪癖とも云ふべき手○は、天理に背く一種の罪悪である。
成長するに従ひ頭が悪くなり学校の成績もだんだんさがり、
入学試験にも落伍してブラブラする様になつたりするのは、多くは手○の害である」。
確かに子供の頃、やり過ぎると馬鹿になるって言われたなぁ。。
あら、コレも「真空水治療法器」の広告でした。

「男子専用珍具大安賣!!」なのは、「クッサ」じゃくて「サック」。
和名は「肉衣」です。。

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一打 金五十銭」ですが、「一打」ってどういう単位なんでしょうか?
早い話、「コンドーム1個」ってコトなのか・・? 「一発」って表現はありますけど。。

第4章は「あなたは美しくなれる(化粧品)」です。
明治38年にはもう「ライオン歯磨き」があったようですが、
米國大統領ルーズベルト氏の常用品にして・・」というのは。。

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昭和18年(1943年)にもなると資生堂の広告も悲しいですね。

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第5章「良い嘘は口に甘し(食品・咆哮品)」。
明治40年の森永の広告で、西洋菓子を作り始めた年だそうです。

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森永バナナ、フレンチメキスト、スターってどんなお菓子なんでしょう?
個人的には「マシマロー」って響きに惹かれます。

出た。「長命のできる強壮飲料 スピルカ」。

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もちろん「カルピス」ですけど、そんな効能があったとは・・。

森永も昭和14年(1939年 )になると、マシマローとか言ってる場合じゃありません。
「戦線の勇士達の間で呼ばれる愛称です 戦力蓄積丸!

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オラガビール」って聞いたこともありませんでした。

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「もう工場を出て今や御宅の付近にあり」って、
まるでスーパードライのCMみたいですね。これが昭和5年ですよ。

最後の第6章は「言葉の曲芸団(娯楽・その他)」。
大正7年、浅草の三友館での日活の映画広告です。
メインは右の尾上松之助ですが、左の「番外 怒涛乗り切り」が凄い。

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「全世界を通じて比なく類なき決死断行の最新競技、海國男児見落とすべかざる、
天下稀有の冒険的競技ワイキキ海上に於て決行せる
常時すべての生命保険解約を迫まらる他は・・」。

著者曰く、「もしかしたら、ただのサーフィンじゃないの?」 同感。
そういえば通っていた湯島小学校ってかなり古い小学校でして、
地下の入り口に、「無用の者、入るべからず」と墨で書かれた木の看板が怖かったです。。

大正12年のエロ本広告。「艶麗なる裸体美人写真 分譲」。
決して凡夫は見るべからず」とか、「俗悪品のニセモノあり御注意乞ふ」が好きですが、
昭和6年のコレが最高です。「最新刊 東京エロ・オンパレード」。
●全巻皆殺人的エロ!
死なない程度にチラ見してみたい・・。

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山中峯太郎著の「敵中横断三百里」は売れに売れて、百四十版までいってます。
「陸軍の諸将星 口を極めて激賞」というように、かなり有名な一冊のようです。

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「小説ではない。生々しき事実だ。建川中尉以下六名の挺進斥候が凄壮なる大苦闘を以て、
奉天総攻撃の大軍略を決定せしめた日露戦争裏面に潜む大秘録だ!
児玉将軍をして『人間業ではない』と、涙と共に絶叫せしめたる、一大快挙の記録だ!」
や~、そんな言われると読んでみたくなります。
1957年に「日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里」という映画にもなっているんですね。
脚本はあの「世界のクロサワ」だそうです。

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まぁ、久しぶりに大笑いしました。
本書はポスターといった類ではなく、新聞・雑誌の白黒広告が対象ですから、
デザインよりも、怪しい文言を楽しむ一冊であるわけですが、
やっぱり右から読むのは慣れてませんから、「スピルカ」や「クッサ」だけでなく、
「ルーガ」なんて出てくると、「ウゴウゴルーガ」を思い出してしまいました。

オリジナルの『嘘八百』シリーズ(全四巻)も読んでみたくなりましたので、
先ほど四巻まとめて買ってしまいました。
ついでに「ナチス親衛隊装備大図鑑」も買ってしまい・・ました。ぐはー!( ‘ jjj ’ )/









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ぼくたちもそこにいた [戦争小説]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ハンス・ペーター・リヒター著の「ぼくたちもそこにいた」を読破しました。

先月の「あのころはフリードリヒがいた」に続く、著者リヒターの自叙伝的小説、第2弾です。
前著は反ユダヤ主義を少年の目で描いたものとして有名でしたが、
本書は熱心なヒトラー・ユーゲントであった自分たち少年の姿と、その生活を描いたもので、
翻訳版は1995年、そして2004年に新装版として出た302ページの児童文学です。

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1933年のドイツ、夜中に殺し合い。殺されたのは茶色、やったのは赤。
人ごみの中で女が言います。
「この政治、いまいましいったらありゃしない! 
ヒトラーか、でなきゃ、テールマン。茶色か赤か。どっちもどっち、似たり寄ったりなのに!
馬鹿を見るのは私たちよねぇ!」 
すると中年の男が口を挟みます。
「政権を取るのが共産主義者か国家社会主義者かで大違いだ。
共産主義者は俺たちから個人の財産を奪おうとして・・」。

8歳の「ボク」は友人のギュンターとアパートの前で歌を唄っています。
しかし帰ってきた父はビックリし、「お前たち、気がおかしくなったのか!」 
「母さん、この子たちったら大声で『インターナショナル』を唄ってるんだ」。
そして「新しい首相はああいうのが嫌いなんだ、赤は禁止になったんだよ・・」と
汗をかきかき説明し、どうしても唄いたければこの歌をとばかりに、
旗を掲げて(ホルスト・ヴェッセル・リート)』を推奨するのでした。

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夏には新しい政党の結成が禁止され、10月には国際連盟から脱退。
11月にはまたもや総選挙・・。
大統領ヒンデンブルクと首相ヒトラーのポスターが至る所に張られ、
「アドルフ・ヒトラーで平和を!」と、横断幕の投票所。
息子に『インターナショナルを教えたギュンターのお父さんが騒いでいます。
投票用紙には「諸君は帝国政府が行う政治に同意し、それを諸君自身の見解と
意思の表明であると宣言して、自らそれに属することに誠意をもって認める用意がありますか?」
と書かれ、ナチ党以外からは何も選べない、形だけの総選挙なのです。

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そんななか、「ドイツ少年団」入りした2歳年上のハインツは、よぼよぼのお婆ちゃんに説明。
「白い用紙の『国家社会主義ドイツ労働者党』の横にある丸になかに印をつけてね、
緑の用紙には『賛成』の丸のなかに印を書き入れてください」。
それを見ていた「ボク」の父は、「お前、ああいう子を友達にしなくちゃ!」 

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翌年、祖母に買ってもらった茶色の開襟シャツを着て、
ドイツ少年団の最年少団員として街中での大行進に初参加する「ボク」。
ハインツに助けてもらうも、長い行進にフラフラになって涙を流しながら市電で帰るハメに・・。。
SA(突撃隊)、ヒトラー・ユーゲントドイツ少女同盟にドイツ少女団
そして「ボク」のような14歳までの年少男子が所属する「ドイツ少年団」ですが、
ドイツ語では"deutsche-jungvolk"、マークもハーケンクロイツではなく、
「ジークルーン」なんですね。

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冬季救済事業での募金集めも年上のハインツは「ボク」と違って絶好調。
共産主義者の父を持つギュンターは学校でも除け者扱い。
そして街中で「きったねぇユダヤのブタ野郎!」と罵倒されているのは
あの「フリードリヒ」です。
ひとりの団員が飛んできて、「やれよ、いっしょに!」 

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1938年、13歳となって、49歳を迎える総統誕生日の準備に向かいます。
「貯金帳がいっぱいになったら、フォルクスワーゲンでアウトバーンを走れるようになる。
そしたらドイツ中、オストマルクまで旅行できるぞ」と父も喜んで送り出します。

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迎えに寄ったハインツの大きな家では、ガラスの額に入った大きな総統の写真が
少年団へプレゼントされます。ハインツの父は2人に語ります。
「君たちが羨ましい。君たちの味わうことのできる未来が羨ましい」。

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続いて強制的にドイツ少年団へ入団したギュンターの家へ・・。
一度、投獄もされたギュンターの父は「ヒトラーは我々を戦争に引きずり込むぞ!」と
怒りを爆発させ、「出ていけ!」
そして玄関の外でお母さんが子供たちにすがるように言うのです。
「お願いだから、あなた達、今のコト、聞かなかったことにしてね」。
う~ん。ヒトラーの悪口を言った親を、子供が密告したって話、ありますからね。。

供給物資として、各家庭から中古品や古鉄回収にみんなで繰り出し、
ボクも自然に参加してしまった「水晶の夜」事件を巡って、ハインツは
「ドイツ少年団とヒトラー・ユーゲントは参加しないことに決まっていたんだ」と告白します。
「ぼく、親父がそのことで電話で話してるのを偶然、聞いてしまったんだ」。

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1939年、ついに14歳となり、晴れてヒトラー・ユーゲントとなった「ボク」。
新しい小刀に刻まれた「血と名誉」、黒い柄に掘ってある「HJ」の印も磨き上げ、
これまでと違う赤と白の腕章はしっかり縫い付けないとずり落ちたり、
ぐるぐる回ってハーケンクロイツが内側になってしまうのです。。

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しかし、ポーランド侵攻によって英仏との戦争も始まっています。
年上の分団長ハインツは、17歳になったらすぐに志願すると宣言。
すると団員たちも口々に言い始めます。

「ぼくは空軍が良いなぁ。格好良い制服を着てるしなぁ。急降下爆撃機に乗って・・」。
「ばか!そんなにぶくぶく太ってて、あの急降下爆撃機に乗り込めもしないだろ」。
「ぼくは参謀本部の将校になるんだ。危険性が無いしね。
金のボタンに金の飾り紐。襟には騎士十字章。女の子が振り返って見るよ」。
「この卑怯者!危険のないポストを探しておいて、騎士十字章もないもんだ」。
「ぼくは海軍に行くんだ。潜水艦さ。これこそ本命だよ。どんな船だって寄せ付けないんだ」。
「水の中ばっかりいてどうするんだい。ぼくは陸軍だ。フランス人を皆殺しにしてやる!
それにさ、フランスには男狂いの綺麗な女の子がいるんだって。ヒヒヒッ」。

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そして翌年、17歳となったハインツは志願兵となり、彼の後任の分団長には、
ヒトラー・ユーゲントは嫌だけど、みんなと一緒にいたいと考えている程度の
やる気のないギュンターが選ばれてしまいます。
「ボク」は父親から、なんでお前が選ばれないで共産主義者の息子が・・と叱責。。
1年後、下士官となり2級鉄十字章のリボンを付けたハインツが負傷して帰還します。
「英雄の話」をせがむ団員たちに彼が見た、たった一人の英雄の話を・・。

それは手榴弾訓練場で出来事で、穴に下りた1人の兵が導火線を引いた後、
掩蔽地の他の兵が待機している方に投げてしまい、その瞬間、
教官の上等兵が駆け寄って、手榴弾の上に腹這いに身を投げた・・。
ナチのエリート養成学校を描いた「ナポラ」という映画で、同じようなシーンがありました。
とても印象的だったので良く覚えていますが、本書のパクリなんですね。

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ヒトラー・ユーゲントの訓練もカービン銃の組み立てや、射撃訓練と
軍事教練の色が濃くなってきます。
そんななかで天才的な狙撃の才能を現すのは、
「急降下爆撃機に乗りたい」と言っていた「ふとっちょ」です。

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しかし、街を襲った空襲によって「ふとっちょ」は瓦礫に埋まり、死んでしまうのでした。
あ~、この名前もない「ふとっちょ」は良い味出してましたがねぇ・・。

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1942年、17歳となり、徴兵検査を自ら受ける「ボク」とギュンター。
志願兵として兵科を自由に選べるにもかかわらず、彼らの希望は「歩兵」。
ただし、「2人揃って同じ部隊」という条件付きです。
その結果、補充兵として送られた先は、地獄の東部戦線・・。
「ギュンター!」 と叫んで、突進してくる少尉の姿。
「君たちじゃないか!君たち2人!信じられない!」と力任せに肩を叩くのはハインツです。 

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そんな再開も束の間、敵の捕虜を捕まえる任務に出かけたハインツが
絶体絶命の危機に。
榴弾と弾丸が飛び交う地獄の真っ只中に、胸壁を飛び越えて走り出すギュンター。
「ハインーツ!」 とギュンターの叫びが響き渡るのでした。

え~、本書はコレにて終了です。
いつも小説はネタバレになりますから、最後の最後までは書かないんですが、
ホントにこのシーンで終わります。表紙の絵と同じ状況だなぁ。。
3部作の最終巻、「若い兵士のとき」に続くんでしょうか。
まるで「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」をテアトル東京で観て、
「なんだよ。ハン・ソロはどうなっちゃうんだよ!」と思ったのと同じ感じです。
まさかアレもパクリだったりして・・。
そういえば「ダース・ヴェイダーとプリンセス・レイア」良かったっス。ほろっと・・。

ダース・ヴェイダーとプリンセス・レイア.jpg

端折りましたが、ドイツ少女同盟(BdM)の色っぽいネーチャンも出てきたりと、
エビソートは豊富で、キャンプも含めた彼らの活動や、
それぞれの考え方、またそれぞれの家庭の状況などの違いも面白いところです。
15歳の時、同級生たちと高尾山へ内緒で一泊しに行ったことも思い出しましたし、
登場人物の誰かしらには共感を持つんじゃないでしょうか。

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あのころはフリードリヒがいた」ともリンクしていますし、
巻末の「注」では、ユーゲントの単位、例えば最少が15人の「班」で、
それが3つ集まって「分団」、分団が3つで「団」、団が4つで「大隊」、6大隊で「連隊」と
細かい情報も掲載されていて、非常に勉強になりました。
ヒトラー・ユーゲントに興味のある方は読んで損はありません。
第二次世界大戦ブックスの「ヒトラー・ユーゲント -戦場に狩り出された少年たち-」と
合わせて読めば、より理解できるでしょう。











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パリとヒトラーと私 -ナチスの彫刻家の回想- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アルノ・ブレーカー著の「パリとヒトラーと私」を読破しました。

2011年に発刊された347ページの本書は、この数年、ヒトラーとなんとか・・や、
ナチスのなんとか・・という新刊はチェックしているだけに気がついてはいましたが、
著者の名を知らないことからスルーしていました。
しかし3月の「ヒトラーと退廃芸術」で著者の彫刻家を知りました。
彼は1936年のベルリン・オリンピックの大きな彫刻でヒトラーに認められ、
表紙の有名な1940年のヒトラー・電撃パリ観光に同行した芸術家です。
このようにして「独破戦線」は半永久的に続いていくんでしょうか。。
それではナチス芸術シリーズの第2弾として、早速、いってみましょう。

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まずはその1936年のベルリン・オリンピック競技場正面を飾る
彫像製作を競うコンクールから始まります。
すでに著名な彫刻家15人が参加しており、著者のブレーカーは、
3.25mの高さの2体の彫像を作成します。
そしてこの2体、「十種競技の走者」と「オリーヴの小枝を持った勝利の女神」は
見事、銀メダルの輝くのでした。

Der Zehnkämpfer fürs_Die Siegerin fürs Olympia-Stadion, Berlin (1936).jpg

「ヒトラーと退廃芸術」にも書かれていたゲッベルスによってミュンヘンで開催される
「ベルリン美術展」の選定に参加し、ミュンヘンの大管区指導者ワーグナーが乱入してきた話も・・。
そして1937年の「退廃芸術展」を中止させるために奔走します。
そんなナチ党員ではないものの、一目置かれている芸術家の著者の元に翌年現れたのは、
ヒトラーの主任建築家、アルベルト・シュペーア
新しい総統官邸の模型を見せ、中庭の階段両端に立つ、2体の彫像の製作依頼です。

Es sind Entwürfe für die Ausführung der überlebensgroßen Figuren am Hauptportal der Neuen Reichskanzlei in Berlin.jpg

ドイツの都市を刷新するための仕事が任されたシュペーアのために働きたい・・
という願望が芽生えた彼は、一方は松明、一方は剣を手にした彫像を製作。
その作品にいたく感動したヒトラーの指名によって、ゲルマニア計画の中心のひとつ、
円形広場の直径126mもの巨大な噴水の製作の依頼まで舞い込んでくるのでした。

Es sind Entwürfe für die Ausführung der überlebensgroßen Figuren am Hauptportal der Neuen Reichskanzlei in Berlin2.jpg

ここまで、著者ブレーカーの生い立ちなどには触れられませんでしたが、
徐々にそれらも回想されます。
1900年生まれでデュッセルドルフの芸術学校で彫刻と建築を学び、
その後、パリで腕を磨き、1927年にはヒンデンブルク大統領の胸像の注文を受け、
大金を貰って2年間はパリ生活を謳歌・・。

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こういった経歴で同世代のシュペーアとも親友になり、ヒトラーの主治医カール・ブラント
自宅を訪問してくるなど、ヒトラーの側近たちの仲間入り。
ソ連から外相のモロトフがやって来た時には、直接、仕事の依頼まで・・。
「我々には巨大な建築がいくつもあり、そこに置かれている石の塊は、加工されるのを
待っているのです。スターリンはあなたの作品の熱烈な賞賛者です」。
唖然としながらも、丁重に謝意を示すしかありません。

Arno_Breker,_Albert_Speer_(1940).jpg

1940年6月の朝、突然、電話が鳴り響きます。
「ゲシュタポだ! 我々はあなたに小旅行の準備をするように指示する!」
訳もわからずJu-52に乗り込み、ベルギーの総統指令部へ。
そこでヨードル少将と陸軍副官エンゲルを従えて、ヒトラーが登場します。
「数年来、私はパリを訪れたいという燃えるような願望を抱いてきた。
パリは私にとって模範なのだ。ドイツの都市の改造計画をパリと比較照合することができるだろう」。

こうしてパリに詳しい芸術家の彼がお供をすることになり、
空軍のボーデンシャッツ、カール・ブラント、エンゲル、ボルマン、カイテルも同行が決定。
陸軍中尉の階級の付いたコートと士官帽だけを身に付け、翌朝、午前3時に出発します。

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占領されたばかりのパリは死んでいるかのように、人っ子ひとりいません。
電撃ツアーの一発目はオペラ座です。そこでは国防軍の分遣隊が待っていて、
責任者はシュパイデル大佐・・。あのシュパイデルですね。。
当然、いろんな本に登場するフランス人の守衛の逸話・・
ヒトラーがチップを渡すよう求めても、キッパリ断られたなど・・も、
その断られた本人ですから、実に詳しく書かれています。

Paris 1940_Hitler Keitel and Colonel Hans Speidel.jpg

続いてマドレーヌ寺院、コンコルド広場にシャンゼリゼ大通りを進み、凱旋門へ。
ヒトラーが再び車を止めさせると、眼前にはエッフェル塔の姿・・。
ヒトラーはエッフェル塔という存在に、芸術的着想を基礎に技術と機能性が
理想的な形をとった、最も幸運な典型と見ていたとして、パリの建築家たちに敬意を表します。

Paris 1940_Hitler_Bormann,  Breker, Speer,.jpg

ある意味、メイン・イベントであるのはアンヴァリッド(廃兵院)のだったように思います。
礼拝堂正面の見事な建築もさることながら、その内部にあるのは「ナポレオンの墓」。
ヒトラーは制帽を手に持ち、胸に当て、頭を下げるのでした。

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まだまだ、ノートルダム大聖堂にルーヴル美術館と名所を巡るなか、
新聞売りが車両の隊列を見て近づいてきますが、ヒトラーの顔に気がついた彼は、
口をあんぐりと開け、新聞を放り出して、助けを求めて逃げ去っていくのでした。
本書は写真も豊富でなかなか楽しめます。

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この140ページほどで、ヒトラー唯一のパリ観光の部分は終わってしまいましたが、
まだまだ面白いエピソードがいろいろと紹介されています。
著者が気になっていたのは大聖堂のあるランス。
前大戦では激しく傷ついたこの町は今回、果たして無事なのか・・?
行ってみるとランスに至る道路は軍司令官によって完全封鎖されています。
その理由は、町の地下の迷路となった巨大な酒蔵に眠る
億を数えるシャンパンの略奪を回避するためのものだった・・。

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また1941年に初めてベルヒテスガーデンを奥さんと共に訪れると、
ヒトラーは彼のギリシャ人の奥さんの姿を見て動揺し、急いでやってきます。
「マダム・ブレーカー、お会いするまで、あなたのことをしきりに思っておりました。
政治上の回避しえない揉め事によって、ギリシャの英雄的な国民を敵に回して
戦争を始めたことが、如何に私にとって苦痛であったか・・」。

Arno Breker  im  Atelier.jpg

そして6月22日を迎えると、彼の家にやって来たのはマルティン・ボルマンです。
いつもの燦然とした自信は消え、意気消沈したボルマンは語ります。
「君はラジオでソ連との戦いが始まったことを知ったね。
厳しいことになるだろう! 我々は、存在と非存在の境界にいる・・」。
手を取りながら、これが言うべきことのすべてだ・・と去っていくボルマン。。

ボルマンについては結構書いていて、特に彼の奥さんも
「貴族の出で、驚くほどの美しさだった。7人の子供たちの母親であった彼女は、
その優しさによって、野蛮な見せかけの夫と好対照をなしていた」と、
この奥さん、ゲルダの胸像まで作っていたようです。

Breker_frau_bormann.jpg

しかし軍人でもSS隊員でもない芸術家の彼は東部戦線とは関係がありません。
1942年にはパリのオランジェリー美術館で個展を開催。
それを楽しみにやって来るのは美術品蒐集家のゲーリングです。
「これらの作品はベルリンのもので、何一つ売渡しはしないように!」
特にゲーリングは、びた一文も払わない・・とヒトラーからも忠告されている
非常に厄介な展開です。
すると案の定、「おおっ! ここにカリンハルに置きたいと思ったものがある」。

Inauguration à l'orangerie de l'exposition Arno Breker en mai 1942.jpg

後に広大な森林のなかにあるカリンハルを訪れた著者。
ゲーリングは武器のコレクションを見せようと部屋に誘います。
中世のドイツの傭兵が使っていたどっしりした剣を壁から取り外し、
両手で振って見せるゲーリング。
「ボルマンの首をこの剣で切り落としてみたい。
奴は総統を孤立させようとしているし、報告を加減し、
前線に関して常識外れで破滅的な決定をさせている。
我々、古くからの取り巻きは受け入れられず、もはや総統に話をすることもできない・・」。

Arno_Breker_-_Der_Rufer.jpg

ヒトラーがフランス人芸術家に対する共感の気持ちがあることに気付いた彼は、
25000人もの芸術家たちが捕虜として無益な生活を送っており、
彼らを解放する試みを実践します。
しかし、アンリ・ジロー将軍の収容所からの逃亡が、この希望を打ち砕くのでした。

戦後にグデーリアン将軍と再会し、敗北の理由を話し合い、
米陸軍情報部から出頭を命ぜられ、「連合軍はあなたを逮捕することを禁じられている」
ことを伝えられます。ただし心から悔いていることを公に表明するように・・。
そのような忠告は、彼の芸術家としてのプライドが許さないのでした。

Adolf_Hitler_-_Arno_Breker_Medallion.jpg

最後の章はフランス人の友人たちについて語ります。
活動的な共産主義者とされたピカソが逮捕されそうだと知ったブレーカー。
ベルリンのゲシュタポ本部に乗り込み、長官のミュラーに直談判。
「ピカソを捕まえてみなさい。世界中の新聞が大騒ぎをして、
あなたは茫然とするだろう。あなたは国際世論を考慮しなければ・・」。

他にはジャン・コクトーともかなり仲良しですし、
ジャン・ポール・ベルモントの彫刻家の父とも友人。
<ドイツのミケランジェロ>とも称され、
後年はサルヴァドール・ダリとも知り合って、胸像を製作したり・・。

MY FRIEND SALVADOR DALI By Arno Breker.jpg

訳者あとがきによると、本書はブレーカー自身がドイツ語で書いたものが
フランス語に翻訳されて1970年に出版されたものの日本語版だということです。
今回、興味が湧いたのでブレーカーの作品もいろいろと調べてみましたが、
本書に書かれていない第三帝国関係者の胸像も結構、作成していて、
ヒトラーやリヒャルト・ワーグナーは当然ながら、ゲッベルス
シュペーアの奥さんマルガレーテ、ゲーリングの愛娘エッダちゃんまで・・。

Breker_portraet_Goebbels_Edda Goering.jpg

ドイツ人ながらも芸術家同志の付き合いを大切にし、
フランス人の友人を助けた経緯なども書かれた本書ですが、
ヒトラーの側近の一人としての、今まで読んだことない様々なエピソードが楽しめました。
また、単なる側近ではなく、ヒトラーの認めた芸術家としての彼に絡んでくる
シュペーア、ゲーリング、そしてボルマンの芸術観もなんとなく理解出来ました。



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桜花―極限の特攻機 [日本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

内藤 初穂 著の「桜花―極限の特攻機」を読破しました。

遂にやってしまった日本軍戦記・・。
先月、靖国神社内の「遊就館」に行き、2Fの天井から吊るされた「桜花」のレプリカを見て
「なんじゃコリャ!」と衝撃を受けました。
帰って来るなり、1999年の再刊で330ページの本書を購入しましたが、
なんせ日本軍は将兵も兵器も全く知らず・・という、"ド"の付く素人ですから
ベテランの方々にお叱りを受けないよう、頑張って感想を書いてみます。。

桜花.jpg

昭和19年(1944年)夏・・、三浦半島にある海軍航空技術廠。
今後を見越した「将来機」の開発を担当する三木忠直技術少佐は、
グライダー爆弾の案を持ち込んできた人物と対面することに。
当時、ドイツからは伊号潜水艦でMe-163ロケット戦闘機「コメート」や、
Me-262ジェット戦闘機「シュワルベ」の資料が届き、コレを実機に復元中。
また、無人の有翼爆弾の「V1号」についても情報が入って来ています。

Me 163_Me 262.jpg

案を持ち込んできた太田正一海軍少尉は図面を広げて仕組みを説明。
「敵艦の近くまで一式陸攻で運び、適当なところで投下後、搭乗員が滑空降下しながら
敵艦に向かって針路を定めます。ロケットを噴かせて敵機をかわし、
体当たりで轟沈させます。一発必中です」。

人間が乗って体当たりする・・という説明を聞いた三木少佐は、
「なにが一発必中だ。そんな物が造れるか。冗談じゃない」と激高します。
しかし戦局を憂いている太田少尉も怯みません。「私が乗ってゆきます。私が」。
こうして始まった人間爆弾機「桜花」の開発。
全長6mの機体の前方部分に1200㌔爆弾を搭載するのです。

Ohka.jpg

10月には桜花専用の特攻部隊「第721海軍航空隊(神雷部隊)」が
岡本大佐を指令に、野中五郎少佐を陸攻飛行隊長として発足します。
しかしその頃、レイテ湾の敵艦隊、特に空母を叩く必要に迫られた日本軍は
250㌔爆弾を抱かせた零戦による体当たり攻撃を決定。
神風特別攻撃隊」を名乗った24名の若い志願パイロットが整列します。

250 kg bomb  Zero.jpg

「諸子はすでに神である。神であるから欲望はないであろう。
ただ、自分の体当たりの成否を知り得ないのが心残りであろう。
しかし、戦果確認機が見届けることになっている。
その戦果を必ず諸子の霊に告げ、上聞にも達するようにする。
安心して征ってくれ」。

Navy_Kamikaze_Lieutenant.jpg

空母1隻を撃沈、4隻を撃破したこの特攻は成功とされ、
訓練中の桜花隊にも志願兵がやってきます。
これまでの出撃で格別なのは、風防を開け、
白いマフラーをなびかせながら片手を振ってゆく恰好の良さ。
それなのに格納庫の人間爆弾を見て、目標空域まで母機の仮席に乗っていく・・
と知ってガッカリする隊員も・・。
「艦上攻撃機だと、死ぬとき誰も看取ってくれないぞ。一人ぼっちだ。
でも、これなら母機の連中が見ている前で恰好良く突っ込める。
物は考えようだよ」。
この事故も起きる新兵器のテスト・シーンはまるで「ロケット・ファイター」のようですね。

Yokosuka MXY7-K1 Cockpit.jpg

11月、完成した「桜花」50機が巨艦空母「信濃」に乗せられ、基地に向け出港したものの
米潜水艦アーチャーフィッシュによって葬り去られてしまいます。
う~む。。出だしは最悪ですね。
そして陸攻飛行隊長の野中少佐は、桜花作戦に疑問を呈します。
「俺は必死攻撃を恐れるものではない。しかし桜花を吊った陸攻が
敵まで到達できると思うか。援護戦闘機が我々を守り切れると思うか。
そんな糞の役にも立たない自殺行為に、部下を道連れにするなど真っ平だ」。

彼は続けます。
「運よく敵まで辿り着いても、司令部は桜花を投下した陸攻は
すみやかに帰投して、再び出撃するのだと言っている。
同じ釜の飯を食った部下が肉弾となって敵艦に突入するのだ。
それを見ながら自分らだけが帰れると思うか。
桜花を投下したら、俺も飛行機も、別の目標に体当たりを食わせてやる」。

Commander Goro Nonaka.jpg

南九州にある神雷部隊の各基地は米艦載機による空襲を受けることもしばしば・・。
そして1945年3月21日、偵察機から空母2隻を含む、敵機動部隊発見との報告が。
遂に「桜花」初陣の時。
野中少佐の18機の陸攻に、指揮官機以外に吊り下げられた「桜花」15機、
直接護衛の戦闘機32機、間接護衛23機という陣容です。

MXY-7 Ohka.jpg

出撃隊員は遺書をしたため、すでに今生とは決別。
20歳の嶋村一等飛行兵曹・・、
「これより私は笑いながら唄いながら散ってゆきます。
今春、靖国神社に詣ってください。
そこには幾多の戦友と共に、桜花となって微笑んで居ることでしょう。
私は笑って死にました。どうか笑ってください。
泣かないで私の死を意義あらしめてください」。

こうして飛び立っていった桜花攻撃部隊ですが、
整備不良のために護衛戦闘機の約半数が帰還してきます。
レーダーで探知した米空母ホーネットとベロー・ウッドからは
48機のグラマンF6戦闘機が発進し、野中のベティ(一式陸攻)に襲い掛かります。
その結果は野中隊の全滅に終わるのでした。

ohka-pilots.jpg

制空権が確保できない状況では、足の遅い7人乗りの一式陸攻は分が悪く、
桜花搭乗員1名だけでなく、一式陸攻の7名も犠牲になることから、
神雷部隊でも零戦に50番(500㌔)爆弾を抱かせた、爆戦との併用が検討されます。
戦艦でも空母でも桜花の一発で撃沈させるという「大物食い」の自負に
支えられてきた隊員たちは50番爆弾を抱いたところで、
威力は桜花(1200㌔爆弾)の半分にも満たないじゃないか・・。
そんな葛藤も最後には、
「桜花でも爆戦でも、俺たちの命が必要だと言うなら、死のうじゃないか」
と、結論付ける者もいれば、「俺はあくまで桜花で死ぬ」と決意する者も・・。

G4M2e_with_Okha_and_crew_1945.jpg

米軍の沖縄上陸を遅らせるための敵艦船攻撃。
岡村指令から命ぜられた人数の出撃搭乗員の選定をする林分隊長。
死地に赴く一人一人を指名するのは分隊長の任務とはいえ、23歳の身には残酷です。
桜花搭乗員表の真っ先に自分の名前を書いて指令に提出しますが、
「君は最後だ。その時はわしもゆく」と、「必死」の時が与えられるまで、
「死刑執行人」の役割を果たすことを暗に命ぜられるのでした。

4月1日の第2次桜花攻撃も全機失敗に終わり、
上陸した米軍によって沖縄の飛行場では、怪飛行機「桜花」が無傷のまま発見されます。
そして彼らにとって想像を絶する自殺攻撃機には「BAKA」と名付けられるのです。

MXY7-K1_Ohka_(Baka-11).jpg

4月6日には戦艦大和と呼応する航空総攻撃の「菊水一号作戦」が発動。
神雷部隊の50番爆戦「第三建武隊」18機を含む、海軍特攻機60機が出撃。
それとは別に海軍特攻機150機、陸軍特攻機60機も出撃するという、大特攻作戦です。
最終的に十号まで実施された菊水作戦の様子が、桜花部隊を中心に描かれ、
空母や戦艦を撃沈した・・と報告するも誤認が多く、
実際、撃沈できたのは駆逐艦に留まります。
もちろん大型艦にも大きな損傷は与えていますね。

U.S.S. Bunker Hill suffering the attack of an Yokosuka MXY-7 Ohka..jpg

一方、本土決戦を想定し、ターポジェットの改良型「桜花四三乙型」も開発され、
三浦半島の基地や、比叡山でのカタパルト発進も計画。
ターポジェットは例のMe-262「シュワルベ」を復元した「橘花」の原動機として
テストが繰り返され、その実用化を待つばかり。

そうか、先日、「勲章と褒章」という本を読んだばかりですが、
文化勲章のデザインが「橘花」でした。日本人には意味がある名前なんですね。
しかし「橘花」が試験飛行にこぎつけ、日本初のジェット機が空をよぎったのは
終戦間際の8月7日・・。

test_flight_of_the_Nakajima_Kikka.jpg

桜花を着想した太田中尉は、桜花に乗りたい一心で操縦の手ほどきを受けたものの
適正なしと判定され、多くの戦友を死地に送ったという事実と、
「戦争犯罪人は厳重に処罰される」というポツダム宣言が彼の心を責め立て、
自殺を匂わせたまま練習機で飛び去って行きます。

生き残ってしまった岡本指令は、3年後、鉄道自殺を遂げ、
さらに4年後には4本の桜が神雷部隊戦友会から靖国神社へ献木され、
「神雷桜」と名付けられます。
現在、気象庁はこれを標準木の一つとして、サクラ前線の通過を宣言するのでした。

Sakura cherry blossoms in Yasukuni Shrine.jpg

2日で読み終えましたが、2回ほど泣きました。。
コレを書いている途中では、キーボードが滲んで叩けなくもなりました。
ナチス・ドイツの「特攻」兵器としては「ヒトラーの特攻隊」のBf-109を使ったものや、
桜花のような親子飛行機の「ミステル」を紹介した本も読みましたが、
日本の特攻隊のような悲惨さは感じたことがありません。
特攻を美化するつもりはありませんが、
現在の一般市民を巻き込んだ「無差別自爆テロ」とは一線を画すべきでしょう。

Ohka (replica)_Yasukuni Shrine Museum.jpg

「神風特攻隊」を"カミカゼ"ではなく、カッコ書きで"しんぷう"と書かれているのも
印象的でした。本書を読むと、妥当なようにも思いますね。
その他、いろいろと調べているところですが、
設計を担当した三木少佐は戦後、初代「新幹線」のデザインにも携わったとか、
野中隊全滅の様子は、米戦闘機のガンカメラに収められ、カラー映像で見られるなど。。



桜花について書かれた本もたくさん出版されています。
「人間爆弾と呼ばれて―証言・桜花特攻」や、「神雷部隊始末記」、
また、林分隊長について書かれた本も発見しました。
「父は、特攻を命じた兵士だった。-人間爆弾「桜花」とともに-」というタイトルです。
う~ん。コリャ、大変な世界に足を踏み入れてしまいましたね。。

先月、靖国神社に行った際には、すでに桜は散っていましたので、
来年はいつもの上野公園ではなく、「神雷桜」を・・。









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続・クルスクの戦い -戦場写真集北部戦区1943年7月- [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジャン・ルスタン著の「続・クルスクの戦い」をようやく読破しました。

南部戦区を扱った「クルスクの戦い―戦場写真集 南部戦区1943年7月」を読んだのが
3年半前ですから、かなり時間が経ってしまいましたが、
ようやく古書を3800円で購入しました。
2007年に出た 367ページの大型写真集ですが、マンシュタインやホト、武装SS、
プロホロフカの大戦車戦、といった有名なキーワードもあまりない「北部戦区」というのは
逆にあまり知らないので、新鮮で楽しめそうな気がします。

続・クルスクの戦い.jpg

まずはいつものように20ページほどカラーイラストで始まります。
Ⅲ号戦車にⅣ号戦車マーダーⅢフンメルといった自走砲に
第3戦車連隊、第35戦車連隊、第33戦車連隊などのマークもカラーで・・。
特に第33戦車連隊は「プリンツ・オイゲン」。
武装SSの山岳師団や、重巡にもこの名前は使われていますね。

prinz eugen 33. panzer rgt.jpg

本文は「準備段階」として、この「ツィタデレ作戦」が発動された経緯が解説されますが、
グデーリアンモーデルマンシュタインはいずれも、戦略上、用兵上の観点から
この作戦には反対であったものの、楽観的なクルーゲによるヒトラーヘの進言、
そして「当時すでにリッベントロップがモロトフと接触するなど、
ソ連との単独講和への道が探られつつあり、交渉が開始されていた」としています。
このような噂は聞いたことがありますが、本書は言い切ってますね。。

General_Model_at_Kursk.jpg

そしてモーデルの第9軍の戦力を表も使って細かく分析。
6個装甲師団のⅢ号、Ⅳ号戦車中心で、自走砲と突撃砲も以外にも
第505重戦車大隊のティーガー31両に
第656重戦車駆逐連隊はフェルディナンド91両、ブルムベアが42両
この準備期間の写真もいくつかありますが、「ティーガーの車上での結婚式」
という写真 ↓ が笑えます。

Pz.Abt. 505 Tiger.jpg

7月5日から始まった「ツィタデレ作戦」の様子をドイツ側の戦闘記録で紹介しつつ、
場合によっては2ページぶち抜きの大きな写真も登場しながら進みます。
野原で第9装甲師団の礼拝が従軍牧師によって行われている写真の反対には、
跪いて軍旗に忠誠を誓う、ソ連軍第4親衛戦車旅団・・、良い構図ですね。
いくらナチスといっても軍人には神が大切な存在でありますが、ソ連では・・。

このように本書は度々、ソ連側の写真も出てきます。
そして最初にカラーで紹介されていた第2装甲師団第3戦車連隊の連隊章である
「双頭の鷲」のマークがハッキリと写ったⅣ号戦車の写真も良い感じです。

2PzDiv fighting in the summer 1943.jpg

表紙の写真もキャプション付きで出てきました。
こんなタイトルの写真集の表紙ですから、一瞬、フェルディナンドかと思ったものの、
第2装甲師団第74機甲砲兵連隊所属の、ヴェスペ自走砲でした。
「女性兵士も多数投入していた」とソ連の女性兵が写った写真も出てきましたが、
彼女は衛生中隊のようですね。

soviet-russian-soldier-nurse-kursk.jpg

あのルーデル大佐も出撃したシュトゥーカ急降下爆撃機部隊もちょこちょこと・・。
特に対戦車用に搭載された37㎜機関砲でKV戦車を仕留めるガンカメラからの
連続写真ていうのは、不鮮明ながらも生々しい。。
擲弾兵や空軍連絡員、砲兵などの写真も印象的なものが多くて、
"クルスク戦 = 戦車" ではないのも実感できます。

battle_kursk_0085.jpg

Ⅲ号突撃砲G型の主砲の交換シーンも珍しい写真です。
「師団長の乗った指揮戦車が立ち往生」というちょっとした回想が出てきますが、
書いているのは第4装甲師団の師団長、片眼鏡フォン・ザウケンです。
そうですか・・。ココで戦ってましたか。

Dietrich_von_Saucken.jpg

装甲弾薬運搬車の写真も鮮明でした。
整備員が現地改造した砲塔を撤去した戦車ですが、
手榴弾避けの金網カバーが設置されていて、まるで野鳥の罠のような雰囲気ですね。

Kursk.jpg

「赤十字」のマークのついたホルヒ製のワゴンを検分するソ連兵の写真は印象的です。
「東部戦線では赤十字のマークさえ安全保障にならなかった」と書かれているとおり、
100発以上の弾痕が見受けられます。
とある衛生兵の報告もあったりして、やっぱり独ソ戦はキッツイなぁ。。

独ソ双方の"戦闘"という意味では、どっちが残酷・・なんてことはないと思いますね。
本当にルールのない、殺るか、殺れるかの戦い。。
そんな極限状態に何週間も身を置けば、それまでの彼らの常識も吹き飛ぶんですね。
「赤十字」のマークを目にしたら、敵であっても今まで人間として心配していたとしても、
例えば、弱った奴らを簡単に殺せる・・、看護婦さんを強姦できる・・、といった具合。。

battle_kursk_14.jpg

フンメルや装甲兵員車など、各種戦闘車両の写真もバラエティに富んでいて
楽しめましたが、なおさらティーガーっていうのは、存在感が凄いと思いました。
フェルディナンドやブルムベアの写真も出てきますが、
ティーガーには斜め前から見た姿など、全体像に凄味があるんですね。
こんなBlogを読んでいる方は、タイガー・ウッズ(Tiger Woods)のことを
心の中ではついつい「ティーガー・ウッズ」と呼んでいるハズです・・。

opération Zitadelle_Sturmpanzer IV.jpg

最後には「結論」として、北部戦線の戦闘をドイツ軍側から総括します。
「第9軍は、ジャブを打つように戦車部隊を投入した。
素早く、小出しに、針で突くように。
南方軍集団が楔形隊形での投入を実施したのと対照的である。
結果として、ソ連軍の戦線を打破する力は失われた。
過度に慎重な攻撃手法を採用したのは、グデーリアンの有名な金言・・
"平手で打つより、拳で殴れ!"に背くことだった」。

battle-of-kursk-german-elefant.jpg

そして独ソ双方の損害を事細かに洗い出し、7月18日にヒトラーが「作戦中止」を宣言せず、
南方軍集団が圧力をかけ続けたまま、もしも続行されていたらとして・・、
「マンシュタインは正しかった。それが勝利をもぎ取る唯一の方法だった。
彼は「ハンマー」になろうとした。そして彼の南方軍集団がハンマーならば、
第9軍は、たとえ弱くても「鉄床」でなければならなかった。
だが、前提条件として最初の2日間を過ぎた時点で、
北部戦区における攻勢は即座に中止されるべきだったのである」。

konec kurské ofenzívy.jpg

このように南部、北部の攻勢作戦を合わせて、この「ツィタデレ作戦」が理解できるわけですが、
最後の最後になって、真っ先にこの失敗の責めを負うべき人物・・として
中央軍集団司令官のクルーゲが写真付きで紹介されます。
「彼が戦況に関する現実的な知識を全く欠いていたことにある」。
いや~、めちゃめちゃ厳しいなぁ。。

von Kluge.jpg

本書の最初にグデーリアン、モーデル、マンシュタインが触れられた際に、
彼らが装甲兵総監、中央軍集団の第9軍司令官、南方軍集団司令官であることなど
一切、書かれていないことからも、本書はそれなりの知識を持っている人向きだと思います。
朝日ソノラマの「クルスク大戦車戦」を一度、読まれていると良いですね。
端折りましたが、日ごとに変わる戦局の様子、攻勢から防御へ・・も詳しく書かれ、
写真以外の部分でも勉強になりました。

こりゃ、「南部戦区」を今一度、読み直さないといけませんが、
大日本絵画の大型写真集は、「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集」もありますし、
今年の3月に出たばかりの「西方電撃戦: フランス侵攻1940」 もまだ。。
そしてウカウカしていたら、今月の22日には「ナチス親衛隊装備大図鑑」が・・。
コレは以前に紹介した「ドイツ軍装備大図鑑: 制服・兵器から日用品まで」のシリーズで
「日本軍装備大図鑑」に続く、原書房の大型本です。
おそらく原著は「Meine Ehre Heisst Treue: Inside the Allgemeine SS」でしょう。
むひ~、もうダメだ、こりゃ。。

Inside the Allgemeine SS.jpg

クルスク戦のオマケ動画です。ど~ぞ。



















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