外交舞台の脇役(1923‐1945) -ドイツ外務省首席通訳官の欧州政治家達との体験- [ヒトラーの側近たち]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
パウル・シュミット著の「外交舞台の脇役(1923‐1945)」を読破しました。
過去に読んだ第三帝国モノで「不撓不屈の通訳官」と書かれた人物の回想録である本書は、
1998年、663ページという大作なのもさることながら、すでに絶版で、
定価3500円がamazonでは倍以上の値段がついており、見送っていました。
著者シュミットはミュンヘン会談など、ヒトラーが外国の首相、外相、大使と会談する際、
必ず列席しており、その裏側のエピソードを知りたいと思いが徐々に強くなって、
試しに文京区の図書館にリクエストしてみたところ、
2週間ほどで中野区図書館からお取り寄せしてもらいました。ダンケ・・中野区・・。
序文では、第1次大戦の始まった1914年、15歳だった著者シュミットが
腕に白い腕章を巻いた補助警官としてベルリンの鉄橋のたもとで鉄道防衛の役に付き、
1917には軍務に編入されて、翌年、機関銃射手として連合軍と相まみえ、
敗戦後はベルリン大学で学び、通訳として外務省に・・という経歴が簡単に語られます。
そして第1章「HAAGでの序幕(1923)」が始まり、
常設国際司法裁判所の裁判での通訳として派遣されるわけですが、
24歳のシュミットの国際舞台でのデビュー戦は公式用語である
英語とフランス語を駆使して、まずまず合格。
1925年からは「ロカルノ条約」で奮戦し、スイス、パリ、ロンドンを駆け巡ります。
この辺りは外相シュトレーゼマンの通訳とエピソードが中心で、
いやいや、知らないことが多くて結構大変・・。
1920年代がそのまま200ページも続きますから、ココが踏ん張りどころですね。。
1931年になると世界的な大恐慌が起こり、ロンドンでの英独首相会談が開かれます。
ドイツ首相はブリューニングですが、ナチスと共産主義が勢いを増し、
ブリューニング暗殺の噂もあるなかでのハンブルクからの出航。
デモ隊だけでなく、造船所の労働者も「飢餓独裁者くたばれ」と
拳を振り上げ、叫びながら近づいてくるという危険な状況。
そして会議では経済問題よりも1万㌧の「ポケット戦艦」問題が度々、取り上げられ、
英海軍大臣も苦情を申し立てるのでした。
遂にヒトラーが政権を握った1933年。最初の国際舞台は軍縮会議です。
その代表団の一人にはラインハルト・ハイドリヒの姿が・・。
突撃隊(SA)、鉄兜団の指導者と一緒に国粋武装団体の「専門家」として
地上軍委員会に出席しますが、通訳のヤコブ氏がユダヤ人であることを不服とした結果、
シュミットにとって初めての「ナチスの顧客」になってしまうのです。
「突撃隊(SA)はスポーツ活動をしているに過ぎない」。
「親衛隊(SS)は武装してなく、演説者を共産主義者の襲撃から守るため、
秩序維持にあたるだけである」と発言するハイドリヒ。
しかし国際連盟の委員会は納得せず、国粋武装団体は兵力に算入されると決定し、
ナチス補助警察のみが例外に。
しかもドイツ国旗は、まだ公式に変更されていなかったにもかかわらず
ジュネーブのホテルに掲げてあった三色旗を勝手にハーケンクロイツへと変更。
代表団長のナドルニーに「自分勝手な行動は禁止する」とお説教を受け、
顔を紅潮させながらもハイドリヒは、おとなしく指示に従うのでした。
ナチス政権は徐々に国際会議から身を引き出しますが、1935年、
ベルリンへ英国のサイモン外相と王璽尚書イーデンがやってくると、
外務省の推薦によって初めてヒトラーの通訳という大任が・・。
ドイツ側は外相ノイラートと軍縮問題特別担当リッベントロップも出席です。
ボルシェヴィズムに関する脅威を英国人に長々と独演するヒトラー。
2,3言ごとに通訳するというものではなく、15分~20分も喋ってから
ようやく通訳の時間が与えられるという難問にも耐え抜きます。
このようにして外務省の首席通訳官兼ナチス御用達通訳官となってしまった著者。
ゲッベルス、ゲーリング、一応英語のできるリッベントロップの通訳も務め、、
1936年のベルリン・オリンピックでは、この期間中の「通訳マラソン」も耐え抜きます。
午前中はゲーリングの通訳、終わると大急ぎで首相官邸のヒトラーの元へ・・。
翌年は経済相のシャハトと一緒にパリの万博へと旅立ちます。
ドイツ館の開館式辞の通訳ですが、このパリ万博ってなかなか面白いですね。
「第三帝国の立て看板」と呼ばれたドイツ館。
それに向かい合って立つのが屋根に大きな彫像が置かれたソ連館。。
エッフェル塔を中心に両巨頭が対峙する構図は、4年後を予知しているかのようですし、
ちょっと現実の風景とは思えませんね。
この年にはムッソリーニもドイツを訪問します。
まだまだファシストの兄貴分であるドゥーチェですから、やることも豪快で、
記章と短剣を叙任証とともにわざわざ持参し、
ヒトラーを「ファシスト軍伍長」に任命するのでした。。
続いて地元ベルリンをオープンカーでパレードする行列の一員となった著者。
ドイツとイタリアの国旗が打ち振られ、ヒトラー、ムッソリーニ、チアーノ外相に対する歓呼が
響き渡りますが、昔の学友のひとりが自動車No.25に乗った著者に気づき、
「シュミット、シュミット!」と突然叫びます。
予期せざる再会に、帽子を振って挨拶すると、悪戯好きのベルリンっ子は
「シュミット、シュミット、そこにいるのはまさにシュミットだ!」と
歓呼の嵐がそれまでの最高潮に達します。。
もちろん同乗のイタリア人は、この超人気者の文官はいったい・・??
それまで文官としてスーツ姿だった、謎のベルリンの人気者シュミットですが、
ヒトラーからダメ出しを受けてしまいます。
ヒトラーはSSの制服の着用を命じ、ゲーリングからも空軍の制服が・・。
しかしまるで海軍のような濃紺の外務省制服が正式に仕立てられると、
その姿を見たイタリア人は恭しく言うのです。「提督閣下御入来」。
さらに儀礼用に銀の飾緒と懸章に短剣を着用する場合も・・。
ヒトラーの副官に「あなたは懸章を逆につけている」と直前に注意され、
取り外せない短刀は、晩餐会で着席する際、度々、あばらを突きます。
提督への道のりは険しいことを実感。。
洋書では第三帝国の外交官や政府高官、赤十字の制服を扱った
「IN THE SERVICE OF THE REICH」という本が出ていて、
あ~、コレは前から手に入れたい・・と思っています。
まだまだウィンザー公の訪独でも通訳を務め、ゲーリングのカリンハルにも同行。
この広大な別荘で最後に案内されるのは、あの鉄道模型の部屋・・。
ムッソリーニだろうが、ウィンザー公だろうが、誰でもこの部屋では
無邪気に遊んでしまうのです。
そんな笑い話やお気楽なエピソードもこの年まで。
1938年にはズデーテンラント問題から戦争の危機が訪れます。
外務省の友人たちはヒトラーに激しく反対し、総動員令を発すれば
軍によって即座に逮捕するという反抗計画があることも知らされます。
そして英首相チェンバレンが電撃的にミュンヘンを訪問。
「精神をよく集中してください」と言うのは外務次官ヴァイツゼッカーです。
「明日、ベルヒテスガーデンで戦争か平和かが決まるのだ」。
アドバイザーは同席せず、マンツーマンの会談。
ヒトラーはチェンバレンに言います。「シュミットは同席する必要がある。
彼は通訳として中立であり、双方のグループには勘定しない」。
この結果、「2軍落ち」となってしまった外相のリッベントロップは怒り心頭です。
この後の、4ヵ国首脳によるいわゆる「ミュンヘン会談」の様子も詳細ですが、
シュミットは「ムッソリーニの提案の受諾は彼がいまや戦争という考えを捨てた」として、
戦争か否かの本当の危険は、ヒトラーが2度たじろいで譲歩した、
チェンバレンとの会談だったのであり、ミュンヘン会談の結論は想定されていたもの・・
としています。
1939年になると今度はポーランド問題で再び、戦争の危機が・・。
アットリコ大使とチアーノ外相が必死にイタリアの弱さを説明します。
なんとか夏休みを取ったのも虚しく、休暇先の島に飛行機が飛んできて、
そのままモスクワ行き・・。リッベントロップの「独ソ不可侵条約」のお供です。
ただしロシア語はNGなシュミットは通訳ではなく、記録係として気楽に観光も。。
8月30日の真夜中、英国大使ヘンダーソンとリッベントロップよる最後の交渉。
両者激高して立ち上がり、掴みかからんばかりの状況です。
リッベントロップはポーランド紛争解決の提案をドイツ語で読み上げますが、
コレをヘンダーソンに手交することを拒否。
もしかしたらポーランドが合意するかもしれないのに・・と、
今やシュミットも、外交官として軽蔑するドイツ外相に対して、怒りが込み上げてきます。
しかし「意見を言うことは通訳として万死に値する・・」。
このようにして9月3日、面会を嫌がったリッベントロップに代わってヘンダーソンを迎え、
彼が英国の最後通牒を受け取ることになるのです。
「この文書を常に協力的であった貴職に手交せざるを得ないとは、本当に残念である」。
ポーランド戦が始まると大臣官房の一員となって、
傲慢なリッベントロップに独占的にこき使われるシュミット。
東部から侵攻を開始したソ連や、翌年の西部への侵攻もラジオで常に先を越す
ゲッベルスの宣伝省との発表争いを巡って、報告が遅い・・と叱責されますが、
この辺りは、このダメ上司に対するグチも多くなりますね。
コンピエーニュの森におけるフランスとの休戦協定にも出席。
カイテルが休戦条件を朗読し、それをフランス語に通訳するシュミット。
「フランスは英雄的抗戦のあと、敗北した。
かくも勇敢な敵方に対し、屈辱の性格を付与する意図はない」。
スペインのフランコ将軍、ヴィシーのペタン元帥と会談するもヒトラーが敗北した後、
イタリア皇太子妃のマリア・ジョゼーと兄のベルギー国王のエピソードが詳しく出てきました。
山荘ベルクホーフにおいて、彼女の故国ベルギーの戦争捕虜の帰還や、
食糧事情について強い情熱を傾けられ、女性には極めて優しいヒトラーは終始、逃げ腰です。
そんな若く優雅で愛らしい外交上手の彼女は、
「私が女で政治に疎いという理由で話し合いたくなければ、私の兄と会談を・・」と
まんまと捕虜であるレオポルド国王と接見することを無理やり約束させてしまいます。
お茶が熱すぎて、口を火傷させてしまい、ヒトラーが平謝り・・なんて話もありましたね。
それから数週間後、妹の発議を呪っている・・といった表情の兄貴が登場。
会見を強制されたヒトラーも幾分冷たい態度で出迎えますが、とりあえず愛想よく、
「私は貴下の事情を真に遺憾に思う。何か個人的な希望を叶えることはできますか?」
しかし、誇り高い王家の見下すような調子で若き王は答えます。
「私自身個人的にはなんの願望もない」。
気まずい会談は何の解決策もなく早々に終わりますが、双方にとっては残念なことに
今日の日程には「午後のお茶会」も組み込まれていたのでした・・。
ははぁ・・、ヒトラーが「畜生! どうしようもない奴だ。」と激怒していた理由が
ようやくわかった気がします。
1941年3月には日本からのお客様、松岡外相との会談です。
「ドイツとソ連間に紛争がないとは言えないと天皇陛下に・・」と遠回しに通訳し、
やっぱりカリンハルで鉄道模型・・。ある意味、ここは第三帝国のテーマ・パークですね。
ちなみに勲章大好きゲーリングは写真の通り ↓ しっかり「旭日章」をゲットしています。
1943年には「カサブランカ会談」が開かれるとの情報を掴んだ外務省。
記者会見でスポークスマンが、「ルーズヴェルトとチャーチルが近々、
ホワイト・ハウスで会談するであろうことをわが国は正確に知っている」。
スペイン語のテキストを忠実に翻訳したため・・というこのエピソードですが、
そうか、Casablanca・・「カーサ・ブランカ」って聞けば、確かに「白い家」ですね。。
総統本営でも通訳の仕事が度々出てくるシュミット。
ルーマニアのアントネスクにはフランス語で通訳します。
大のソ連嫌い、ハンガリー嫌いのこの元帥はヒトラー似のアツい男で、
そんなところをヒトラーは特別気に入っていたそうです。
パリ駐在武官で参謀としての自信もあるアントネスクがヒトラーの作戦指導の弱点と
欠陥を暴露すると、驚いたことにヒトラーは謙虚に助言を求めます。
「クリミア半島を撤退すべきか、防衛すべきか判断できない。
貴下の助言はいかに? 元帥閣下」。
自動車事故での入院生活から回復したのも束の間、東プロイセンの本営に行くよう命ぜられ、
今回はムッソリーニとの会談。その日付は1944年7月20日です。
ゲルリッツ駅と呼ばれる本営の小さな駅でムッソリーニを迎え、
数時間前にシュタウフェンベルクの爆弾から難を逃れたばかりのヒトラーも合流。
事件現場を訪れ、ひっくり返った箱に腰を下ろし、
身振り手振りでその時の状況を説明するヒトラー。
外務省としては次官のヴァイツゼッカーを中心に、
ナチス政権であろうがなかろうがドイツの国益のために働くのみですが、
この暗殺事件の余波で、処刑される職員も出てきます。
著者はそんなナチス政府の中心に居ながら非党員であり続けますが、
1943年に友人の忠告を受けて入党。タイミングはギリギリですね。
1944年12月にヒトラーを見たのを最後に通訳の仕事もなくなり、
ザルツブルクで終戦を迎えた著者。
戦後は米軍に捕らわれ、ニュルンベルク裁判で証人として出廷。
米軍心理学者の通訳もして「最も深い悲劇の人間ドラマ」を体験したそうですが、
詳しくは触れられません。
絞首台が設営された体育館から、わずか50mの証人棟にいた彼は、
長く従えた尊敬できない上司のリッベントロップの死をどう感じたのでしょうか?
読んでいて、あの本に出てたなぁ・・と思ったエピソードも数多く、
原著が1950年ということもあって、有名なネタ本なのは間違いありませんね。
また本書は地名に人名がすべてドイツ語表記です。
「恐らくChamberlainを長とする英国代表団も、Rhein対岸の
Hotel DreesenをPetersbergから見ていた。」
と、こんな感じですから、本書は左開きの横書きという、
この手の本としては珍しい形をとっています。
"Rom"とか、"Genf"なんて最初はなんだかなぁ・・?
さらに写真は一枚もなく、訳者さんによる戦局などの注意書きもありませんから、
なにかしら第三帝国興亡史を読まれている方ではないと大変だと思いますが、
1933年のナチス政権が誕生した279ページ以降だけでも非常に読み応えがあり、
この400ページ弱だけでも定価3500円の価値は充分にあります。
コレは読み返したくなりそうなので、中野区に返したくありませんね・・。
パウル・シュミット著の「外交舞台の脇役(1923‐1945)」を読破しました。
過去に読んだ第三帝国モノで「不撓不屈の通訳官」と書かれた人物の回想録である本書は、
1998年、663ページという大作なのもさることながら、すでに絶版で、
定価3500円がamazonでは倍以上の値段がついており、見送っていました。
著者シュミットはミュンヘン会談など、ヒトラーが外国の首相、外相、大使と会談する際、
必ず列席しており、その裏側のエピソードを知りたいと思いが徐々に強くなって、
試しに文京区の図書館にリクエストしてみたところ、
2週間ほどで中野区図書館からお取り寄せしてもらいました。ダンケ・・中野区・・。
序文では、第1次大戦の始まった1914年、15歳だった著者シュミットが
腕に白い腕章を巻いた補助警官としてベルリンの鉄橋のたもとで鉄道防衛の役に付き、
1917には軍務に編入されて、翌年、機関銃射手として連合軍と相まみえ、
敗戦後はベルリン大学で学び、通訳として外務省に・・という経歴が簡単に語られます。
そして第1章「HAAGでの序幕(1923)」が始まり、
常設国際司法裁判所の裁判での通訳として派遣されるわけですが、
24歳のシュミットの国際舞台でのデビュー戦は公式用語である
英語とフランス語を駆使して、まずまず合格。
1925年からは「ロカルノ条約」で奮戦し、スイス、パリ、ロンドンを駆け巡ります。
この辺りは外相シュトレーゼマンの通訳とエピソードが中心で、
いやいや、知らないことが多くて結構大変・・。
1920年代がそのまま200ページも続きますから、ココが踏ん張りどころですね。。
1931年になると世界的な大恐慌が起こり、ロンドンでの英独首相会談が開かれます。
ドイツ首相はブリューニングですが、ナチスと共産主義が勢いを増し、
ブリューニング暗殺の噂もあるなかでのハンブルクからの出航。
デモ隊だけでなく、造船所の労働者も「飢餓独裁者くたばれ」と
拳を振り上げ、叫びながら近づいてくるという危険な状況。
そして会議では経済問題よりも1万㌧の「ポケット戦艦」問題が度々、取り上げられ、
英海軍大臣も苦情を申し立てるのでした。
遂にヒトラーが政権を握った1933年。最初の国際舞台は軍縮会議です。
その代表団の一人にはラインハルト・ハイドリヒの姿が・・。
突撃隊(SA)、鉄兜団の指導者と一緒に国粋武装団体の「専門家」として
地上軍委員会に出席しますが、通訳のヤコブ氏がユダヤ人であることを不服とした結果、
シュミットにとって初めての「ナチスの顧客」になってしまうのです。
「突撃隊(SA)はスポーツ活動をしているに過ぎない」。
「親衛隊(SS)は武装してなく、演説者を共産主義者の襲撃から守るため、
秩序維持にあたるだけである」と発言するハイドリヒ。
しかし国際連盟の委員会は納得せず、国粋武装団体は兵力に算入されると決定し、
ナチス補助警察のみが例外に。
しかもドイツ国旗は、まだ公式に変更されていなかったにもかかわらず
ジュネーブのホテルに掲げてあった三色旗を勝手にハーケンクロイツへと変更。
代表団長のナドルニーに「自分勝手な行動は禁止する」とお説教を受け、
顔を紅潮させながらもハイドリヒは、おとなしく指示に従うのでした。
ナチス政権は徐々に国際会議から身を引き出しますが、1935年、
ベルリンへ英国のサイモン外相と王璽尚書イーデンがやってくると、
外務省の推薦によって初めてヒトラーの通訳という大任が・・。
ドイツ側は外相ノイラートと軍縮問題特別担当リッベントロップも出席です。
ボルシェヴィズムに関する脅威を英国人に長々と独演するヒトラー。
2,3言ごとに通訳するというものではなく、15分~20分も喋ってから
ようやく通訳の時間が与えられるという難問にも耐え抜きます。
このようにして外務省の首席通訳官兼ナチス御用達通訳官となってしまった著者。
ゲッベルス、ゲーリング、一応英語のできるリッベントロップの通訳も務め、、
1936年のベルリン・オリンピックでは、この期間中の「通訳マラソン」も耐え抜きます。
午前中はゲーリングの通訳、終わると大急ぎで首相官邸のヒトラーの元へ・・。
翌年は経済相のシャハトと一緒にパリの万博へと旅立ちます。
ドイツ館の開館式辞の通訳ですが、このパリ万博ってなかなか面白いですね。
「第三帝国の立て看板」と呼ばれたドイツ館。
それに向かい合って立つのが屋根に大きな彫像が置かれたソ連館。。
エッフェル塔を中心に両巨頭が対峙する構図は、4年後を予知しているかのようですし、
ちょっと現実の風景とは思えませんね。
この年にはムッソリーニもドイツを訪問します。
まだまだファシストの兄貴分であるドゥーチェですから、やることも豪快で、
記章と短剣を叙任証とともにわざわざ持参し、
ヒトラーを「ファシスト軍伍長」に任命するのでした。。
続いて地元ベルリンをオープンカーでパレードする行列の一員となった著者。
ドイツとイタリアの国旗が打ち振られ、ヒトラー、ムッソリーニ、チアーノ外相に対する歓呼が
響き渡りますが、昔の学友のひとりが自動車No.25に乗った著者に気づき、
「シュミット、シュミット!」と突然叫びます。
予期せざる再会に、帽子を振って挨拶すると、悪戯好きのベルリンっ子は
「シュミット、シュミット、そこにいるのはまさにシュミットだ!」と
歓呼の嵐がそれまでの最高潮に達します。。
もちろん同乗のイタリア人は、この超人気者の文官はいったい・・??
それまで文官としてスーツ姿だった、謎のベルリンの人気者シュミットですが、
ヒトラーからダメ出しを受けてしまいます。
ヒトラーはSSの制服の着用を命じ、ゲーリングからも空軍の制服が・・。
しかしまるで海軍のような濃紺の外務省制服が正式に仕立てられると、
その姿を見たイタリア人は恭しく言うのです。「提督閣下御入来」。
さらに儀礼用に銀の飾緒と懸章に短剣を着用する場合も・・。
ヒトラーの副官に「あなたは懸章を逆につけている」と直前に注意され、
取り外せない短刀は、晩餐会で着席する際、度々、あばらを突きます。
提督への道のりは険しいことを実感。。
洋書では第三帝国の外交官や政府高官、赤十字の制服を扱った
「IN THE SERVICE OF THE REICH」という本が出ていて、
あ~、コレは前から手に入れたい・・と思っています。
まだまだウィンザー公の訪独でも通訳を務め、ゲーリングのカリンハルにも同行。
この広大な別荘で最後に案内されるのは、あの鉄道模型の部屋・・。
ムッソリーニだろうが、ウィンザー公だろうが、誰でもこの部屋では
無邪気に遊んでしまうのです。
そんな笑い話やお気楽なエピソードもこの年まで。
1938年にはズデーテンラント問題から戦争の危機が訪れます。
外務省の友人たちはヒトラーに激しく反対し、総動員令を発すれば
軍によって即座に逮捕するという反抗計画があることも知らされます。
そして英首相チェンバレンが電撃的にミュンヘンを訪問。
「精神をよく集中してください」と言うのは外務次官ヴァイツゼッカーです。
「明日、ベルヒテスガーデンで戦争か平和かが決まるのだ」。
アドバイザーは同席せず、マンツーマンの会談。
ヒトラーはチェンバレンに言います。「シュミットは同席する必要がある。
彼は通訳として中立であり、双方のグループには勘定しない」。
この結果、「2軍落ち」となってしまった外相のリッベントロップは怒り心頭です。
この後の、4ヵ国首脳によるいわゆる「ミュンヘン会談」の様子も詳細ですが、
シュミットは「ムッソリーニの提案の受諾は彼がいまや戦争という考えを捨てた」として、
戦争か否かの本当の危険は、ヒトラーが2度たじろいで譲歩した、
チェンバレンとの会談だったのであり、ミュンヘン会談の結論は想定されていたもの・・
としています。
1939年になると今度はポーランド問題で再び、戦争の危機が・・。
アットリコ大使とチアーノ外相が必死にイタリアの弱さを説明します。
なんとか夏休みを取ったのも虚しく、休暇先の島に飛行機が飛んできて、
そのままモスクワ行き・・。リッベントロップの「独ソ不可侵条約」のお供です。
ただしロシア語はNGなシュミットは通訳ではなく、記録係として気楽に観光も。。
8月30日の真夜中、英国大使ヘンダーソンとリッベントロップよる最後の交渉。
両者激高して立ち上がり、掴みかからんばかりの状況です。
リッベントロップはポーランド紛争解決の提案をドイツ語で読み上げますが、
コレをヘンダーソンに手交することを拒否。
もしかしたらポーランドが合意するかもしれないのに・・と、
今やシュミットも、外交官として軽蔑するドイツ外相に対して、怒りが込み上げてきます。
しかし「意見を言うことは通訳として万死に値する・・」。
このようにして9月3日、面会を嫌がったリッベントロップに代わってヘンダーソンを迎え、
彼が英国の最後通牒を受け取ることになるのです。
「この文書を常に協力的であった貴職に手交せざるを得ないとは、本当に残念である」。
ポーランド戦が始まると大臣官房の一員となって、
傲慢なリッベントロップに独占的にこき使われるシュミット。
東部から侵攻を開始したソ連や、翌年の西部への侵攻もラジオで常に先を越す
ゲッベルスの宣伝省との発表争いを巡って、報告が遅い・・と叱責されますが、
この辺りは、このダメ上司に対するグチも多くなりますね。
コンピエーニュの森におけるフランスとの休戦協定にも出席。
カイテルが休戦条件を朗読し、それをフランス語に通訳するシュミット。
「フランスは英雄的抗戦のあと、敗北した。
かくも勇敢な敵方に対し、屈辱の性格を付与する意図はない」。
スペインのフランコ将軍、ヴィシーのペタン元帥と会談するもヒトラーが敗北した後、
イタリア皇太子妃のマリア・ジョゼーと兄のベルギー国王のエピソードが詳しく出てきました。
山荘ベルクホーフにおいて、彼女の故国ベルギーの戦争捕虜の帰還や、
食糧事情について強い情熱を傾けられ、女性には極めて優しいヒトラーは終始、逃げ腰です。
そんな若く優雅で愛らしい外交上手の彼女は、
「私が女で政治に疎いという理由で話し合いたくなければ、私の兄と会談を・・」と
まんまと捕虜であるレオポルド国王と接見することを無理やり約束させてしまいます。
お茶が熱すぎて、口を火傷させてしまい、ヒトラーが平謝り・・なんて話もありましたね。
それから数週間後、妹の発議を呪っている・・といった表情の兄貴が登場。
会見を強制されたヒトラーも幾分冷たい態度で出迎えますが、とりあえず愛想よく、
「私は貴下の事情を真に遺憾に思う。何か個人的な希望を叶えることはできますか?」
しかし、誇り高い王家の見下すような調子で若き王は答えます。
「私自身個人的にはなんの願望もない」。
気まずい会談は何の解決策もなく早々に終わりますが、双方にとっては残念なことに
今日の日程には「午後のお茶会」も組み込まれていたのでした・・。
ははぁ・・、ヒトラーが「畜生! どうしようもない奴だ。」と激怒していた理由が
ようやくわかった気がします。
1941年3月には日本からのお客様、松岡外相との会談です。
「ドイツとソ連間に紛争がないとは言えないと天皇陛下に・・」と遠回しに通訳し、
やっぱりカリンハルで鉄道模型・・。ある意味、ここは第三帝国のテーマ・パークですね。
ちなみに勲章大好きゲーリングは写真の通り ↓ しっかり「旭日章」をゲットしています。
1943年には「カサブランカ会談」が開かれるとの情報を掴んだ外務省。
記者会見でスポークスマンが、「ルーズヴェルトとチャーチルが近々、
ホワイト・ハウスで会談するであろうことをわが国は正確に知っている」。
スペイン語のテキストを忠実に翻訳したため・・というこのエピソードですが、
そうか、Casablanca・・「カーサ・ブランカ」って聞けば、確かに「白い家」ですね。。
総統本営でも通訳の仕事が度々出てくるシュミット。
ルーマニアのアントネスクにはフランス語で通訳します。
大のソ連嫌い、ハンガリー嫌いのこの元帥はヒトラー似のアツい男で、
そんなところをヒトラーは特別気に入っていたそうです。
パリ駐在武官で参謀としての自信もあるアントネスクがヒトラーの作戦指導の弱点と
欠陥を暴露すると、驚いたことにヒトラーは謙虚に助言を求めます。
「クリミア半島を撤退すべきか、防衛すべきか判断できない。
貴下の助言はいかに? 元帥閣下」。
自動車事故での入院生活から回復したのも束の間、東プロイセンの本営に行くよう命ぜられ、
今回はムッソリーニとの会談。その日付は1944年7月20日です。
ゲルリッツ駅と呼ばれる本営の小さな駅でムッソリーニを迎え、
数時間前にシュタウフェンベルクの爆弾から難を逃れたばかりのヒトラーも合流。
事件現場を訪れ、ひっくり返った箱に腰を下ろし、
身振り手振りでその時の状況を説明するヒトラー。
外務省としては次官のヴァイツゼッカーを中心に、
ナチス政権であろうがなかろうがドイツの国益のために働くのみですが、
この暗殺事件の余波で、処刑される職員も出てきます。
著者はそんなナチス政府の中心に居ながら非党員であり続けますが、
1943年に友人の忠告を受けて入党。タイミングはギリギリですね。
1944年12月にヒトラーを見たのを最後に通訳の仕事もなくなり、
ザルツブルクで終戦を迎えた著者。
戦後は米軍に捕らわれ、ニュルンベルク裁判で証人として出廷。
米軍心理学者の通訳もして「最も深い悲劇の人間ドラマ」を体験したそうですが、
詳しくは触れられません。
絞首台が設営された体育館から、わずか50mの証人棟にいた彼は、
長く従えた尊敬できない上司のリッベントロップの死をどう感じたのでしょうか?
読んでいて、あの本に出てたなぁ・・と思ったエピソードも数多く、
原著が1950年ということもあって、有名なネタ本なのは間違いありませんね。
また本書は地名に人名がすべてドイツ語表記です。
「恐らくChamberlainを長とする英国代表団も、Rhein対岸の
Hotel DreesenをPetersbergから見ていた。」
と、こんな感じですから、本書は左開きの横書きという、
この手の本としては珍しい形をとっています。
"Rom"とか、"Genf"なんて最初はなんだかなぁ・・?
さらに写真は一枚もなく、訳者さんによる戦局などの注意書きもありませんから、
なにかしら第三帝国興亡史を読まれている方ではないと大変だと思いますが、
1933年のナチス政権が誕生した279ページ以降だけでも非常に読み応えがあり、
この400ページ弱だけでも定価3500円の価値は充分にあります。
コレは読み返したくなりそうなので、中野区に返したくありませんね・・。
いつも楽しみにさせて頂いております。
こういう人物エピソードが多い本はおもしろいです。
ヒトラーも貴族には弱かったんですかね。
話は変わりますが遊就館に行ってきました。
先日も記事に触発されました。
潜水夫特攻がインパクトありすぎでした。
by ジャルトミクソン (2013-06-12 17:44)
ど~も。ジャルトミクソン さん。
>ヒトラーも貴族には弱かったんですかね。
やっぱり育ちもそうですし、若い頃も伍長だし、政治家になってからもかなりのコンプレックスがあったようですね。
おぉ、「遊就館」。
潜水夫特攻って、あの潜水服を着て棒付き機雷のヤツですか?
それならボクも立ち止まって、ジーっと見ちゃいました。
最近、ハマってる朝ドラの「あまちゃん」でも南部ダイバーってのをやってて、ちょっとカブりました。。
「人間機雷「伏龍」特攻隊」っていう本も出てますね。うぅ、読んでみようかな。。
by ヴィトゲンシュタイン (2013-06-12 19:43)
はぁ、深いですね〜。
様々な人間模様が絡み合って、ついつい夢中になって読んでしまいました。
IN THE SERVICE OF THE REICH は
読まれました?
これもまた興趣そそられますね。
イタリア皇太子妃とのエピソードもなかなか。
それにしても第三帝国沼に陥りそうです。
by 藤原莉子 (2015-09-15 19:57)
ど~も、 藤原莉子さん。
「IN THE SERVICE OF THE REICH」は忘れてましたね。しかし、洋書は高いんですよ。5000円くらいなら・・ね。
マリア・ジョゼーのエピソードも全体像がまだ不明なんですよ。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-09-16 20:58)