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津山三十人殺し ―日本犯罪史上空前の惨劇 [番外編]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

筑波 昭 著の「津山三十人殺し」を読破しました。

半年ほど前から突然、古尾谷雅人主演の「丑三つの村」が観たい・・と思い始めました。
本書の津山三十人殺しを描いた1983年の映画ですが、
この大量殺人事件を描いたものとしては1977年の「八つ墓村」も有名ですね。
いろいろと調べてみると、この事件そのものを詳しく知りたくなり、
「丑三つの村」を観る前に、まず1981年刊行後、加筆・修正されて2005年に再刊された
364ページのノンフィクションを読んでみることにしました.。

津山三十人殺し.jpg

寅さんとショーケンの「八つ墓村」は子供の頃にTVで観て以来、5回以上は観ています。
なんといっても前半の落武者が殺されてさらし首に・・というシーンと、
ラストシーンで山の上から八つ墓村を笑いながら見下ろす落武者が怖かったですねぇ。
最近流行の「影武者」を知ったのは黒沢明ですし、「落武者」ならこの映画です。

八つ墓村_落武者.jpg

そしてショーケンの父が頭に懐中電灯2本、日本刀と猟銃で村人を惨殺する回想シーン。
容赦なしっていうか、ハリウッドの西部劇でもあんなに女子供を問答無用に殺しませんから、
物凄いインパクトがありました。「祟りじゃ~」も流行りましたね。
鍾乳洞で犯人だとバレた小川眞由美がショーケンを殺そうと追いかけるシーンも恐ろしかった・・。
この小学生当時、もしロードショーで観てたら、本当にオシッコちびってたような気もします。

八つ墓村_小川眞由美.jpg

その後、村人30人殺しのシーンが実話だったということをなにかで知ったわけですが、
ひょっとすると、「皆様方よ、今に見ておれで御座居ますよ・・」で知られる
「丑三つの村」が公開された時なのかも知れません。
この映画、なんで観に行かなかったのかな?? と考えてみたら「R-18」指定だったようです。

丑三つの村.jpg

前置きが長くなりましたが、本書は2部構成になっており、第1部は「事件」です。
昭和13(1938)年5月21日に岡山県の集落で起こった大量殺人事件。
事件を伝える朝日新聞の記事に、駐在所の巡査が提出した詳細な報告、
22歳の犯人、都井睦雄が犯行前にしたためた遺書全文などが淡々と掲載されます。
その遺書には自分の病気を肺結核と信じ、近所の2人の女性に対する恨みつらみが・・。
そして自分が精神異常者ではなく、覚悟の死であることも強調します。
また、数年前に嫁いだ姉と、からくも難を逃れた関係者たち、
特に睦雄の遺書に名前を挙げられていたマツ子らの当時の供述も印象的です。

津山事件.jpg

105ページから第2部の「犯人」へ・・。
大正6年生まれの都井睦雄の生い立ちが1歳ごとに章になっている構成で、
2歳の時に39歳の父が肺結核で死去すると、翌年には24歳の母が同じ病気で・・。
後見人となった祖母と3つ年上の姉との3人暮らしで成長します。
小学校では成績も優秀、しかし16歳の時、肋膜炎となり、自宅静養を言い渡されます。
卒業後、自宅の農家の手伝いもせず、ブラブラと過ごす睦雄。

都井睦雄0.jpg

19歳となり、1つ年上の唯一の友人から「大阪で女を紹介してやる」と言われ、
娼婦を相手に童貞を喪失。
すっかりエッチにハマってしまった睦雄は部落内の人妻、マツ子に「関係してくれ」と迫るのでした。

本書では事件の2年前、1936年に東京で起こった「阿部定事件」を大きく取り上げています。
エッチの最中に絞め殺して、チンチン切り取っちゃった・・というあの有名な事件ですね。
睦雄はこの事件に大変興味を示し、安倍定の調書の地下出版本を写し取るほど。。
おぁっ、ついでタマタマも切り取ってんのか。。

吉蔵の殺害現場_安倍定事件.jpg

この事件、考えるだけで下半身がムズムズするので調べたことはなかったんですが、
1976年の「愛のコリーダ」ってコレが題材だったんですねぇ。
藤竜也は好きですが、いや~、こういう映画は苦手です。。

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どっちかって言えば、クインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」の方がイイ気持ち!



実はレビューは書いていませんが、同じように女性による殺人事件、
「毒婦伝説―高橋お伝とエリート軍医たち」という本を2ヵ月前に読んでいまして、
この主役の高橋お伝とは、明治時代に剃刀で男を殺して、斬首刑になった女性です。
興味深かったのは、その彼女の遺体、特に陰部が切り取られてホルマリン漬けに・・、
そしてその行方を追う著者が、存在するとされる東大に単身乗り込むという部分です。

なぜかというと、ヴィトゲンシュタインが子供の頃からの遊び場だった東大構内には
当時、通称"ミイラ館"と呼んでいた小さい2階建ての建物があり、
そこにはホルマリン漬けにされた「何か」が沢山あったんですね。
真昼間に度胸試しで入った友達も泣き叫んで出てくる・・という恐怖の館。。
去年、たまたまソレを思い出して、記憶を辿ってその建物を探したり・・。
なので、ひょっとしてあの"ミイラ館"に高橋お伝が・・と読んでてドキドキしました。

毒婦伝説―高橋お伝とエリート軍医たち.jpg

おおっと、かなり脱線してしまいましたので、話を本書に戻しましょう。
21歳の睦雄といえば、趣味はエッチといった趣で、完全にサカリがついています。
まるで生きがいかのように、あちらこちらに夜這いに出かけ、
ある晩、18歳の娘に夜這いを仕掛けたところ、運悪く母親に見つかってしまいます。
そんなピンチも「ならばあんたでもいいわい」と、その母親に乗り換えるという変わり身の早さ。
もはや、「穴があったら入りたい」ならぬ、「穴があったら入れたい」状態ですね。。

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当時、このような部落では夜這いはある程度「文化」でもあったようで、
ここでも睦雄だけの仕業ではなく、旦那にバレても酒を持って謝れば解決という大らかさ。
しかし戦争が始まっているこの時、若い男が病気だと言って出兵もせず、
夜な夜な情交に耽っていれば、悪口と良くない噂が広がるのは避けられません。

都井睦雄.jpg

やがてブローニング12番口径5連発猟銃を購入し、コレを9連発に改造。
弾は猛獣用のダムダム弾で、日本刀なども手に入れた睦雄。
こうして部落内の自分の敵を抹殺する計画が粛々と進み、
昭和13年5月21日の午前1時ごろ、遂に凶行が始まります。

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まずは育ててくれた祖母が不憫だと、その首を斧で一撃のもとに切断。
そして家を飛び出すと、頭に2つ、胸に1つの電燈を光らせた3つ目の悪魔は、
2時間の間に老若男女30名を殺害し、3名に重軽傷を負わせるのでした。
この犯行場面は非常にリアルかつ詳細を極め、各家の間取りも掲載しながら、
睦雄がどのように侵入して、ナニを喋り、誰をどのように殺したかを描きます。

岸田家の70歳のたまばあちゃんは「頼むけん。こらえてつかあさい」と哀願。
「ばばやん。顔をあげなされ」と銃口で顔をすくい上げてズドン!
「八つ墓村」の山崎勉にも勝るとも劣らない迫力ですね。

丑三つの村2.jpg

凶行後、山へと逃れ、再度、簡単な遺書をしたためた睦雄。
猟銃を胸に当て、両手で銃身をしっかりと握り、右足の親指で引金を・・。
その瞬間、猟銃は3尺ほど吹っ飛び、睦雄は即死。

睦雄.jpg

結核による絶望と部落民への憎悪、そして「安倍定に負けないような、
どえらいことをやって死にたいもんじゃ」と語っていたとされる睦雄の自己顕示欲・・。
これらが空前絶後の大量殺人の動機だと推測しています。

本書を読んでる最中に山口県周南市「5人連続殺人事件」が起こりました。
山間にある集落の4棟の民家が次々と襲われたこの事件。
なんだか似たようなことが起こったなぁ・・とニュースを見ていました。
今のところ詳しい動機と被害者たちの軋轢などの関係はわかっていないようですが、
タイミングといい、なんとなく不思議で複雑な心境です。

読み終えて、早速amazonに「丑三つの村」のDVDを注文。
昨日、ちょうど届いたところです。
今日にでも観ようと思いますが、睦雄を演じた古尾谷雅人も自殺してるんですよね。
う~ん、あまりそういうことは気にせず、映画として楽しんでみたいと思います。
若い田中美佐子も出てますしね・・。











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妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻 [日本]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

豊田 正義 著の「妻と飛んだ特攻兵」を読破しました。

6月に出たばかりの333ページの本書は、特攻関係の本を探していた際に見つけました。
終戦直後の満州で、ソ連軍に向かって夫婦共々特攻した・・という話ですが、
写真でみる女性と戦争」のコメントで教えていただいた、ソ連の自走砲に
夫婦で搭乗して戦ったというヴェーラ・オルロヴァ中尉の件や、家族をドイツ軍に殺され、
「復讐の女戦車長」として散ったマリア・オクチャブリスカヤなどもありますので、
なんだか妙に気になって、早速、読んでみました。

妻と飛んだ特攻兵.jpg

主人公は大正12年生まれの谷藤徹夫。
勇猛果敢な会津藩士の家系ながらも、美しい顔立ちで体格も華奢と母親似です。
一方、2学年後輩には二瓶秀典という会津藩士の名家の少年もおり、
こちらは徹夫と違って運動能力と武道の力量は抜群といった具合。
昭和15(1940)年には東京の中央大学に進学したエリートの徹夫。
戦前の大学進学率は、わずか1%だったそうです。
本書は並行してドイツ、イタリアとの三国同盟や、
東条英機内閣が開戦に向かって行った経緯などがかなりシッカリと書かれています。

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そんな情勢の中、右翼学生だった徹夫は徴兵検査に臨みますが、
身長159㎝、体重48㌔と痩せ細っていた彼は「第二乙種」にランクされて
不合格という屈辱を味わうのでした。
幼馴染みの二瓶秀典が13歳で仙台陸軍幼年学校に入学し、
エリートコースを歩んでいたのとは対照的。

徴兵検査.jpg

しかしガダルカナル島などで惨敗した大本営は、航空戦力の拡充を図り始め、
陸軍の伝統である地上戦を指揮することに憧れ、士官学校での猛訓練を耐えてきた二瓶は
新たに創設された「陸軍航空士官学校」に転向させられてしまうのでした。

さらに東条の思想によって大学卒業生を飛行学校に入学させ、
短期間で徹底的に訓練することで高度な操縦技術と指揮能力を教え込める・・
ということから「陸軍特別操縦見習士官(特操)」が創設され、
新聞には「学鷲」、「陸鷲」といった勇ましい言葉が躍り、
合格しただけで曹長、1年後には航空将校になれる夢のような制度に、徹夫は合格。
一期生として福岡の飛行学校へ240名の同期生と共に入校するのでした。

陸軍航空士官学校.jpg

そしてこの地で2つ年上の従姉弟ながらも、血の繋がりはない朝子と出会い、
卒業前の昭和19年7月に結婚。
この時の写真が、表紙の写真ですね。
B29による本土空襲が激しくなったことから、空襲のない満州国の飛行場が
飛行兵の拠点となり、新婚の徹夫は教官として、ひとり満州へ旅立ちます。

ここからは満州国の歴史・・といった趣で、中盤の100ページを割いています。
溥儀が満州国皇帝に即位する件など、映画「ラスト・エンペラー」を思い出しますね。
ちなみに溥儀を演じたジョン・ローンは好きな俳優でしたが、
その前に「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」という映画が公開された時には、
友達から「お前に似てるな」と言われました。。へっへ・・。

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それから満州といえば「関東軍」です。
犬養首相暗殺の「5.15事件」、ソ連軍と激突した「ノモンハン事件」、
松岡外相がスターリンと結んだ「日ソ中立条約」、ソ連のスパイ「ゾルゲ」など、
様々なエピソードで当時の日本、ソ連、満州の状況を解説。
詳しい方にはこの100ページはウットオシイかも知れませんが、
これはこれでなかなか勉強になりますし、「関東軍」の名称が日本の関東地方のことではなく、
関東州(満州)のことなど、親切丁寧だと思いました。

関東軍司令部全景.jpg

そんな満州に降り立った徹夫。
昭和20(1945)年の正月を迎えても満州国は天下泰平を謳歌していて、
豪華な食料はたっぷり、ウィスキーにブランデーもたらふく用意されています。
しかし飢餓に見舞われている南方では、遂に「特攻作戦」が始まります。
12月7日にはマニラから「勤皇隊」の特攻9機が出撃。
駆逐艦「マハン」を見事、轟沈したのは、幼馴染みの二瓶秀典だったのです。享年20歳。

USS Mahan, DD-364.jpg

関東軍もメンツにかけて最強精鋭の飛行隊5部隊を特攻隊としてフィリピンに送り出しますが、
4月にもなると「軍神」として神格化された特攻隊が、さらに13隊割り当てられます。
熟練飛行士をこれ以上失いたくない関東軍は、半年前に来たばかりの
「特操一期生」を隊長に選出します。隊員には2期生、3期生、そして少年兵・・。
特攻機も陸軍が誇る一式戦闘機「隼」ではなく、
オレンジ色の複葉機「九三式中間練習機」、通称「赤トンボ」です。

九三式中間練習機.jpg

「特操一期生」の徹夫は人選から漏れるものの、同期生と教え子たちを見送らねばなりません。
「自分も必ず後から行くからな」と固く約束し、苦悩するのみ・・。
故郷では新妻の朝子が日の丸鉢巻にモンペ姿で、「エイ、ヤァー」と竹槍訓練に励んでいます。
そして再編成で大虎山飛行場に移動した徹夫に、隊長は朝子を呼び寄せることを勧めます。

竹槍訓練.jpg

この時期、奇跡的に海を渡れた朝子と9か月ぶりに再会し、
将校用の一軒家で新婚生活を送り始める徹夫と朝子。朝の見送りは「投げキッス」。。
そんな蜜月も束の間、8月9日にスターリンの戦車5500両が満州国境を越えます。
恐怖に駆られた開拓民はその後の数日間で集団自決を繰り返します。
421人が自決した「麻山事件」以外にも、72人、43人と女性と子供が・・。
関東軍が降伏してからも、ソ連軍はやりたい放題の虐殺、暴行、略奪の限りを尽すのです。

男性はシベリア送り、女性は少女から70歳近いおばあさんも強姦・・。
妻が連れて行かれるのを見た夫が、「止めてくれ・・」と立ち上がった途端、「ズドーン」。
まさにベルリンと同じ惨劇が起こっていますね。。

こちらは ↓ 溥儀の玉座でポーズを決めるソ連兵の図です。

Маньчжоу–Го Пу И, 1945.jpg

さらに大半が女性と子供の避難民2000名にソ連戦車14両が襲い掛かり、
2時間に渡って逃げまどう避難民を次々と轢き殺すという「葛根廟事件」を偵察機が目撃。
これを聞いた徹夫たちは「かならず露助の戦車隊を叩き潰す!」と激高。
しかし「赤トンボ」や、九七式戦闘機など稼働機は11機のみで、爆弾そのものすらありません。
T-34戦車を破壊することは無理でも、敵機の体当たりを受ければ心理的ダメージは大きいはず、
そして進軍を遅らせることができれば、慰留民が帰還する時間が稼げる・・。

妻と飛んだ特攻兵2.jpg

こうして11機による特攻機「神州不滅特攻隊」が整列し、エンジンを始動。
すると突然、見送りのフリをしていた白いワンピースの2人の女性、
大倉少尉の恋人スミ子と、徹夫の妻朝子が日傘を捨てて、サッと乗り込みます。
群衆も気がつき、「女が乗っているぞ!」、「軍紀違反だ。飛行機を止めろ!」
非難の声が上がるなか、特攻機は積乱雲の中に消えて行ったのでした。

九七式戦闘機.jpg

ノンフィクション作家の著者が2年半の取材の後に完成させたという本書。
元軍幹部は、「あれは命令による特攻ではないから、単なる自爆行為だ」と蔑み、
女性を同乗させたことは「軍紀違反」と非難。
そんなこともあってか、なかなか取材にも苦労したそうです。
情報や資料、当事者も少ないことから、徹夫と朝子の思いについては
著者の推測が多くなっている感は否めませんが、
白いワンピースも「白装束」をイメージさせますし、
個人的には納得のいくもので、特別、ロマンチックに展開させていることはないでしょう。
映画化されてもおかしくないストーリーですね。





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対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第3巻〉 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アラン・ブロック著の「対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第3巻〉 」をようやく読破しました。

第2巻〉は1940年の暮れ、ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の命令を下すヒトラーで
終わりましたが、この最終巻はもうソレしかありませんね。
ただし、ポーランド戦フランス戦と細かい戦局までは書かれていませんから、
戦記ではなく、独ソの最高司令官がいかに大戦争に関与したのか・・が焦点です。

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スターリンとソ連軍は、1937年の赤軍大粛清から立ち直っておらず、
将校の75%が1年足らずの経験しかない・・という有様で、
その粛清を逃れたクリーク元帥は、最新のカチューシャ・ロケットを理解できず、
赤軍の自動車化、機械化は不要だと断言する頭の古さ。。
ナチスの副総裁ヘスが英国に飛んで行ったことを猜疑心旺盛なスターリンは、
ヘスが英国情報部に招かれ、独英が協力してソ連に侵攻する秘密の交渉を
しているのでは・・??との考えが頭から離れていません。

Hitler_Rudolf Hess.jpg

そして始まったドイツ軍侵攻。緒戦の惨敗で意気消沈するものの、なんとか立ち直り、
最高統帥部(スタフカ)の最高司令官となったスターリンは、スケープゴートを探し、
ドイツ軍の突破を許した西部方面軍のパヴロフ将軍を逮捕。
拷問の末、軍内部のスターリン打倒の陰謀に加わっていたと「告白」したことで、銃殺。。

11月にはモスクワ攻防戦
今度はヒトラーが最高司令官としてこの難局に立ち向かう番です。
両軍、消耗しきって戦線が安定すると、ドイツ軍の将軍が次々に去っていきます。
グデーリアンヘプナーといった装甲部隊の司令官に、3つの軍集団司令官、
さらには陸軍総司令官のブラウヒッチュも辞任し、
「自分の知る限り、国家社会主義の精神を陸軍に浸透させられる将軍は1人もいない」
と断言して、総統自らが後継者に・・。

Hitler_with_Runstedt.JPG

ドイツ軍が進撃をするにつれて、バルト諸国、白ロシア、ウクライナといった占領地を軍政から
直属の行政官による民政に移管すると言い出すヒトラー。
東方占領地省の長官として任命されたのはバルト生まれのローゼンベルクです。
しかし、四ヶ年計画の一環として、自分こそが占領地の経済開発の責任者であると
主張するゲーリング
総統命令をタテに、占領地でアインザッツグルッペンを独立行動させるヒムラー
そしてナチ党のトップとして、「政治的な意志の伝達者」として決定権を持つべきという論法で、
東プロイセンの大管区指導者、エーリッヒ・コッホをウクライナの民政長官に任命することに
成功したボルマン・・と、幹部たちの主導権争いの前に無視され、除け者にされ、
傷ついたばかりか忘れ去られてしまったローゼンベルク。。

著者はこのローゼンベルクが力説したとおりに、抑圧されてきたウクライナ人の伝統に訴えて、
集団農場を解体し、農民の土地保有を認めていたら、彼らを味方につけえただろうか。
ここはスターリン政権の最大の弱点となる狙いどころだったとしています。
確かに、「戦争と飢餓」を読んだり、本書を通して読んでいると、
その可能性はより大きく感じますね。

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また、日本の真珠湾攻撃に伴う、ヒトラーの米国への宣戦布告については、
ヒトラーの計算違いをこのように解説します。
「米国がヨーロッパに介入してくるのは早くても1942年の末以降で、
その時までにはソ連軍を打ち負かせる、と彼は信じた。
そうすれば、ドイツ軍を西方での戦いに投入し、英米上陸軍をすべて海に追い落とせると
計算したのである。しかし、すべてが後手に回った。
英国を倒せないうちに、ドイツをソ連との戦争に突入させた挙句、
今度は英国もソ連も打ち負かせないうちに、米国との戦争にのめり込ませたのである」。

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さて、対比列伝としては、2人の戦争指導も戦略的な指揮だけでは満足せず、
作戦面にも絶えず口を出し・・と、似たような傾向だとしています。
曰く、指揮官たちを前線から呼び出し、しかも作戦幕僚や彼らの上官に事前の相談もなし。。
または電話に呼び出され、命令を実行しなかったとして罵られ、新たな命令を下され、
しかもそれが戦闘の最中のことも・・。
2人とも、こうした行為が引き起こす混乱を意に介さず、他の誰も信用せずに将校をどやしつけ、
脅しをかけて、人間の耐えられる限界まで目的を追求させられるのは自分だけだと・・。

そんなスターリンは経験豊かな参謀総長シャポシュニコフ元帥には信頼感を持っていたそうで、
話しかける時も「シャポシュニコフさん」と呼び、執務室での喫煙を唯一、許すなど特別扱いです。
ヒトラーで言えば、やっぱりルントシュテット元帥になるんですかねぇ。

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1942年には、「ただ守勢にまわって手をこまねいているだけではだめだ。
こちらからも打って出て、広範な戦線で機先を制し、敵を攪乱するべき」と語るスターリン。
そんなわけでティモシェンコによるハリコフ奪回作戦が実施されるものの、
逆に包囲され、23万人以上が捕虜となり、
レニングラード戦線でもウラソフ将軍指揮の第2突撃軍の9個師団が同じ運命を辿り、
セヴァストポリを解放させようと、メフリスを送り込んで喝を入れようとしたところで、
現地の司令官がよけいに混乱し、5月にはマンシュタインの第11軍には手も足も出ず、
21個師団が崩壊してしまうのでした。

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そしてヒトラーが占領する決意を固め、スターリンが断固としてそれを阻む決意だった都市、
スターリングラードの攻防戦へ。
犠牲の大きさは別として、過ちを乗り越えて、ジューコフら、少数の将校グループと
以前より安定した関係を築き始めていたスターリンに対し、
時が経つにつれ、軍や参謀幕僚との関係が修復しがたいまでに悪化したヒトラー・・。
それはこの戦いによって、決定的なものへとなってしまい、
せっかく元帥にした包囲陣内のパウルスは名誉ある死を選ばずに降伏し、
参謀総長ハルダーも去っていくのでした。

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「核分裂はもともとドイツで発見されたもの」で始まる核爆弾の話。
1942年の初めごろ、ドイツの核物理学者と討議したドイツ陸軍兵站部が出した結論は、
「戦争終結前に核爆弾の生産にこぎつけるのは不可能」というものです。
ただし、いつ戦争が終結するのか・・?? は、英米が長引くだろうと考えて、
そのために核開発に全力を注ぐわけですが、ドイツではロケット開発のほうが手っ取り早い。。

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ヒトラーは核兵器の破壊力についてはあまり知らされていなかったようで、
ある物理学者が兵站部に、「この問題は軍の上層部で討議しては」と訊ねたところ、
「核兵器が製造可能と聞けば、ヒトラーは半年でソレを作れと言うでしょう。
それが不可能なことはおわかりだろうし、あなたも私も困った立場に追い込まれることになる」
と、こんなような経緯もあったようです。

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ハイドリヒアイヒマンが主導する、ユダヤ人の最終的解決の推移に、
ゴットロープ・ベルガーも登場する武装SSの拡大、
フランスに上陸した連合軍との戦いにも触れながら、ヒトラー暗殺未遂事件へ。
難を逃れたヒトラーは激昂し、恨みと怒りに、自分が正しかったことへの
安堵感をにじませながら言いつのります。
「ロシアにおける私の壮大な計画が近年、なぜ尽く失敗したのか、
いまにしてわかった。すべてが裏切りだったのだ! 
あの裏切り者たちがいなかったら、我々はとうの昔に勝っていた」。

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しかし軍事的危機の最中とあって、怒りに身を任せて目のつく将軍たちを片っ端から投獄したり、
射殺するわけにもいきません。妥協するのがどれほどイヤでも、
自分のために戦争を遂行してくれる将校団が必要なのです。
大管区指導者たちも、1934年にレームと突撃隊が国防軍に負かされたことを残念がり、
「もし勝っていたら、レームは国家社会主義の精神に裏打ちされた軍を創設したことだろう」。

Röhm.jpg

同じころ、東部戦線では「ワルシャワ蜂起」が起こり、スターリンが軍を停止したことについて、
著者はこのような解釈をしています。
「スターリンは蜂起に腹を立てたばかりでなく、不意を突かれたようだった。
ソ連軍の主力の進撃に勢いがなくなり、ヴィスワ川前線でのドイツ軍の
思いがけない反撃を考えれば、ロコソフスキーの軍隊が戦線を突破して
ワルシャワ蜂起軍を救うことは、たとえスターリンが望んだとしても困難だっただろう。
そしてまた、スターリンにはそれを望む理由などなかった」。

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遂に1945年の4月を迎えたベルリンの総統ブンカー。
シュタイナーの軍がまだ編制中であると聞かされて、ヒトラーは感情を爆発させます。
「いまやSSさえ嘘をつくのだ。すべてが終わった。戦争は負けた。死ぬほかない」。
その大荒れの翌日には、覚悟を決め、優しくさえなったヒトラー。
南を目指して発つカイテル元帥に食事を命じて、彼のかたわらにじっと座り、
長い道中を気遣って、サンドウィッチとブランデーを持たせることも忘れません。

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こうしてヒトラーがエヴァとともに自殺してしまうと、322ページからは
「スターリンの新秩序」の章が始まります。
日本の千島列島を奪っただけでなく、日本本土にソ連占領地域を設けるよう
トルーマン大統領に強く迫るスターリン。
ヘタしたら東西ドイツのように、「北日本」と「南日本」になってたり、怖いなぁ・・。

Truman stalin.jpg

また数百万の解放された捕虜やドイツへの強制労働者らに対しては
同情ではなく、疑いの目で見ます。
それは対独協力者か反逆者、外国の思想にかぶれ、危険思想に染まっている者・・。
もちろん、解放された彼ら(彼女ら)はNKVDによって、「再教育」のために収容所行きです。。
1947年にスターリンがふとしたはずみで「ロシア国民は北極海への安全な出口を夢見てきた」
と言ったばっかりに、ツンドラを横切ってイガルガに達する、長さ1800㌔の鉄道の建設に
何万という囚人が駆り出され、これは「死の鉄道」として莫大な人命を犠牲にしながら
850㌔まで完成したものの、スターリンが死ぬとプロジェクトはあっさり放棄されて、
施設と機関車は雪に埋もれて、錆びるにまかされた・・ということです。

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頂上にいる者とて安心してはいられません。
1946年、スターリンはジューコフをクレムリンに召還します。
「ベリヤの報告によると、きみは米国人や英国人と不審な接触をしているとのことだ。
ベリヤはきみが連中のスパイになるのではないかと考えている。
私はそんな馬鹿げたことは信じない。
だが、そうはいっても、しばらくモスクワを離れた方がよかろう。
オデッサ軍管区の司令官に任命するよう提案しておいた」。

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本書を読んでいるとわかるんですが、スターリンは「命令」しないんです。
あくまで「提案」するだけで・・。
その提案を然るべき部署や委員会が決定したり、死刑判決の署名にしても
必ず誰かにも署名させることで、後に結果が良ければスターリンの手柄となり、
失敗や批判が出てくれば、決定や同意した人物の責任になる仕組みです。

1949年にソ連の占領地であるドイツ東部はドイツ民主共和国となり、
その時を境に、再び、粛清が始まります。
ハンガリーの内相ライクはスパイ容疑で銃殺。
ブルガリアの副首相コストフは、同志を告発させるための拷問から逃れるために
ソフィアの警察本部の窓から身を投げます。
しかし両足を骨折したのみで未遂に終わり、結局は絞首刑。
アルバニアの第3副首相ホウヘイは「チトー主義」の容疑で処刑と、
チェコスロヴァキアでは230万人の党員のうち1/4が粛清され、
ポーランドと東ドイツで30万人、ハンガリーで20万人といわれているそうで、
ヒトラーとスターリンに刃向って生き延びた共産主義者は、チトーだけ・・。

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ソ連国内でも粛清が行われていますが、これはNKVD長官でベリヤ
策謀であることがほとんどです。
ベリヤは前任者のヤーゴタとエジョフのように破滅させられないように警戒し、
スターリンはベリヤが先手を打って自分の命を狙うのでは・・と目を光らせます。
どこへ行くにも飛行機は使わず、列車に乗るときは同じ線を走る列車は全て運休にし、
2、3組の列車が別々に発車して、そのどれに乗るかは最後の瞬間に
スターリンが決める徹底ぶり・・。

Mikojan, Hrutsev, Stalin, Malenkov, Berija,  Molotov_Kremlin, 1946..jpg

こうして裏切りと暗殺を恐れていたスターリンも1953年に倒れます。
娘のスヴェトラーナが語る最期の様子。
「断末魔の苦しみは凄まじかった。いよいよ臨終と思われたとき、
父は突然目を開き、全員を見渡した。それは恐ろしい眼差しで、狂気か怒りを帯び、
死の恐怖に満ちていた。突然、両手を持ち上げ、上空の何かを指すような、
私たち全員に呪いをかけるような仕草をした」。
彼女の回想録、読んでみようかなぁ。

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このように後半は、死んでしまったヒトラーに対して、さらに危険な頑固ジジィになっていく
スターリンが強烈な印象を・・という後味が残ってしまう本書ですが、
「戦争が終わったら後継者に譲って引退したい」と語っていたと云われているヒトラーも、
もし独ソ戦に勝っていたら、そうそう引退はできないんじゃないかと思いました。
絶対的な後継者がいたわけでもなく、引退して権力を失えば、ナニをされるかわかりませんから、
スターリンよりも10歳若いヒトラーは、まるで「ファーザーランド」のように、
1960年代になっても、死ぬまでその地位に就かざるを得ないんじゃないでしょうか?
独裁者というものは、そのような運命を背負っている気がしますね。

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まぁ、1巻ごとに大変なボリュームのあるこの対比列伝ですが、
グッタリと疲れながらも、こうして振り返ってみると、
2人の似た部分を無理やり比較するような安直な本ではなく、
第1巻〉はヒトラーがどのようにしてナチス・ドイツをつくり上げ、
スターリンがボルシェヴィキ・ソ連に君臨するようになったか・・?
第2巻〉はこの2ヵ国を中心に、なぜ第2次世界大戦が起こったのか・・?
そしてこの〈第3巻〉は独ソ戦に、スターリンを中心とした戦後の冷戦・・と
独立した本と言えるかもしれません。
なので、ヒトラーとスターリンの生い立ちから読むのは嫌だなぁ・・という方なら、
〈第2巻〉から、もしくは戦記好きの方なら〈第3巻〉をまず読んでみるのも可能ですね。





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プロ野球ユニフォーム物語 [スポーツ好きなんで]

ど~も。中日ドラゴンズ・ファンのヴィトゲンシュタインです。

綱島 理友 著の「プロ野球ユニフォーム物語」を読破しました。

いつぞやの「パンツァー・ユニフォーム」に続く、独破戦線ユニ・シリーズ第2弾です。
野球モノとしても、「ロシアから来たエース -巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩-」を
去年、紹介していますが、小さい頃からの野球好きですし、
近頃はプロ野球でも、特別なデザインのサンデー・ユニフォームがあったり、
我がドラゴンズも、「燃えドラ」という赤いユニフォームを着用、
また、米国ではスローバックと言いますが、昔のデザインの復刻版を着たりと、
そんな過去のチームカラーや、ユニフォームが気になっていたところ、
本書を友人に貸してもらいました。
2005年に出た357ページのオールカラーで、定価は何とビックリ7000円!
ユニフォームだけではなく、戦前からのプロ野球の歴史にも言及した、
「異色のビジュアル図鑑」です。

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プロローグでは明治時代に米国から野球が伝わり、旧制一高や早稲田大学などを中心に
日本に広まっていった歴史を当時のユニフォーム・イラストと共に紹介。
なかでもミスター5千円こと、新渡戸稲造が急先鋒となった「野球害悪論」が面白いですね。
野球という遊戯は、・・対手を常にペテンにかけよう、計略に陥れよう、
塁を盗もうなどと、眼を鋭くしてやる遊戯である。
故に米人には適するが、英人や独逸人には決して出来ない。
英国の国技たる蹴球のように鼻が曲がっても顎骨がゆがんでも
玉にかじりついているような勇剛な遊びは米人には出来ぬ。・・」。

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確かに正々堂々としたスポーツに「盗塁」とか、「隠し玉」なんてのは・・。
広島カープのキャッチャーは、当たってもいないのに「デッドボールだ!」と大騒ぎしてましたし、
高校野球ですら一塁コーチャーは完全アウトでも「セーフ」とアピールしたり。。
これらがとても「武士道精神」に則っている・・と思われないのはしょうがないですね。。

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そして本文は「読売ジャイアンツ」から始まります。
アタマには、昭和9(1934)年 大日本東京野球倶楽部として創設、
昭和10(1935)年、アメリカ遠征中に球団名を東京ジャイアンツと命名。
と、球団の遍歴に加え、球団旗の遍歴もカラーで掲載しています。
概要ではさらに詳しく「ジャイアンツ」に決まった経緯に、球団旗のえび茶色と、
ユニフォームの花文字書体が早稲田大学からとったのでは・・と推測します。
また、小さいですが、当時のカラー写真(着色含む)も数枚掲載されています。

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続いて、本書のメインであるユニフォーム解説です。
大日本東京野球倶楽部から、ユニフォームのデザインが変わるごとに
丁寧に描かれたカラーイラストで説明。
文章も前頁の概要と重複するところもありますが、当該ユニフォーム時代の逸話や
成績など、その情報量には驚かされました。
この読売ジャイアンツだけで23ページ、登場するユニフォーム・イラストの数は
ビジター用も含めて41種類!です。

プロ野球ユニ_1.jpg

次のチームは昭和10(1935)年「大阪タイガース」として創設された「阪神タイガース」です。
この登場順は創設順のようですね。
ニックネームであるタイガースの由来は、阪神工業地帯なので、
同じ米国の大工業地帯であるデトロイトの「タイガース」を意識した命名だそうで、
「東京のジャイアンツがニューヨーク・ジャイアンツなら、こっちはデトロイト・タイガースだ」。

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そして1940年にはチーム名の日本語化によって「阪神」と改称。
ユニフォームも左胸に縦書きで「阪神」ですね。
審判用語も、1ストライクは「よし一本」、セーフは「よし」、アウトは「ひけ」・・。
規則用語ならストライクは「正球」、ボールは「悪球」、ファールは「圏外」といった具合。。
さらに野球帽は「戦闘帽」に変更され、「挙手の礼」の励行、
しまいにはユニフォームの国防色化も決定されますが、
1943年にもなると物資不足のために国防色の生地を入手するのも難しくなり、
そのため阪神は創成期の地味なグレーのユニフォームを改造して凌ぐのでした。

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3番目のチームは我が「中日ドラゴンズ」。
昭和11(1936)年、通称「名古屋軍」として創設され、大戦末期には「産業軍」となり、
戦後は「中部日本ドラゴンズ」・・といった経緯です。
そして日本野球界で最もユニフォームのモデルチェンジを行ったと書かれているとおり、
本書でのユニ・イラストは50種類です。
そのかわり、巨人と阪神のように一貫したコンセプトやこだわりが無いとも言えるようです。
実際、イラストを眺めていくと、1937年には赤のユニですし、
その後も紺色になったり、えび茶になったりとバラバラな印象です。

プロ野球ユニ_4.jpg

戦時中の日本語化においては、もともとが「名古屋軍」なので問題なし。
しかしユニフォームに縫い付けられた「名」のマークは
ナチス・ドイツの「ハーケンクロイツ」を模してデザインされたものだそうです。
いや~、こんなところでナチスが出てくるとは・・、しかもドラゴンズ・・、偶然とは恐ろしい。。

名古屋軍 石丸兄弟.jpg

ドラゴンズ・ユニではもうひとつ面白いエピソードがありました。
戦後の1948年の新ユニがそれで、胸には「Doragons」の文字が堂々と。。
本来は「Dragons」であり、「D」のあとに余計な「o」を付けてしまったのです。
後楽園球場では観戦していた米兵から「なんというチーム名だ」とからかわれ、
新調したくとも戦後の物資不足の時代・・。数ヵ月間はそのままで試合をする羽目に・・。

1974年からはヴィトゲンシュタインが子供用レプリカを着ていたユニが登場。
好きだったのは高木守道に星野仙一、監督さんは与那嶺、4番はマーチンでした。

星野仙一 高木守道.jpg

ちょうど1年前に生まれて初めて聖地「ナゴヤドーム」に行って来ましたが、
その際、気合を入れて古いレプリカ・ユニを買って行こうか・・などと考えました。
しかし、本当のファンなのであれば、オフィシャルショップで最新のデザインを買って、
球団に貢献すべきだなぁ・・と思いました。
イングランドのサッカー・ファンでも毎年ユニが変わる度に買ったりしますし、
さも「俺は35年前からのファンだぜ!」って、昔のユニを着てるのは違う気がするんですね。

次はおじいちゃん世代だけが知っている「東京セネタース」と、「名古屋金鯱」。
1941年に合併して、その2年後には解散してしまった2チームです。
中日ドラゴンズの「名古屋軍」が新愛知新聞で、
ライバル新聞社の名古屋新聞が「名古屋金鯱」を創設したというのは知りませんでした。
だいたい、名古屋軍と名古屋金鯱って漠然と同じだと思っていましたし・・。
「東京セネタース」は競馬の有馬記念で知られる有馬頼寧伯爵と、旧西武鉄道の球団で、
今月26日から「西武ライオンズ」が西武鉄道100年アニバーサリー特別企画の一環として、
「東京セネタース」の復刻ユニで3試合をやるそうです。

西武復刻_東京セネタース.jpg

そんな古いチームの後は「オリックス・ブルーウェーブ」です。
昭和11(1936)年に「阪急」、戦後、「阪急ブレーブス」となった古参の球団ですね。
平成3(1991)年に現在の名前になりますが、若い人は「阪急ブレーブス」知らないのかなぁ?

阪急ブレーブス 山田久志.jpg

「横浜ベイスターズ」も新しいイメージです。
去年、「横浜DeNAベイスターズ」へ変更になりましたが、
もともとは昭和24(1949)年創設の「大洋ホエールズ」ですね。
しかしこの球団には2系統があり、もう一つは戦前の「大東京」です。

昭和11年に江東区新砂の埋立地に球場を建設したものの、
秋の満潮日になると潮が上がって来てグラウンドが水没し、
コールドゲームになることもしばしば・・。
さらに資金難から「ライオン歯磨本舗」とスポンサー契約して球団名は「ライオン」に。
これが日本球界におけるネーミングライツ第1号です。
そこへ「日本語化」が求められるわけですが、「ライオンは日本語だ」と言い張って粘るものの、
ついにスポンサー契約を解消し、「朝日軍」に改称することに・・。

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戦後には「戦争が終わって天下太平になった」ということから「パシフィック(太平)」として復活し、
「太陽ロビンス」、そして「松竹ロビンス」へ。やがて「大洋ホエールズ」と合併という経緯です。
本書ではもちん、このような超マイナーなユニも詳しくイラストで紹介。
しかしこのチームはなんといっても1974年~使われたオレンジと緑が印象的です。
当時、後楽園が人工芝になった頃、巨人vs大洋を見に行った友達曰く、
「緑のユニが人工芝の色とかぶって、背番号が走ってるみたいだった」。
まぁ、シピンの時代の話です。。

大洋ホエールズ_シピン.jpg

次は「イーグルス」。日本語化で「黒鷲軍」となった戦前の球団です。
「プロ野球は本拠地球場と一体でなければならない」という理想の元、
陸軍砲兵工廟の跡地に「後楽園球場」を発起人として建設。
しかし、1937年に球場が完成してみると、球場使用の優先権は「後楽園野球クラブ」、
通称「イーグルス」にはなく、球場経営の主導権を握っていた正力松太郎の
「東京ジャイアンツ」が優先権を持っていたのでした・・。

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福岡ダイエーホークス」。一瞬、昔はなんだっけなぁ?? 思ってしまいましたが、
昭和13(1938)年創設の「南海」でした。
戦時中、「近畿日本鉄道」と合併し、球団名は「近畿日本」となり、
戦後は「大いなる鉄輪」という意味の「近畿グレート・リング」に改称しますが、
コレが米兵たちに大人気。
スタンドから「グレート・リング」と叫べば、周囲の米兵が大爆笑するという不思議さで、
実は「グレート・リング」とは米兵のスラングで「巨大な女性器」だったのです。

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千葉ロッテマリーンズ」も、前身が「ロッテ・オリオンズ」だと知っている程度です。
しかしこの球団の歴史の複雑さはハンパじゃありません。
「毎日オリオンズ」系統、「大映スターズ」系統、そして「高橋ユニオンズ」の3系統の球団史を
理解しなければなりません。

一番古いのが「大映スターズ」系統で、昭和21(1946)年の「ゴールドスター」です。
翌年「金星スターズ」になりますが、前から「金星」って何のことだ?? と思ってたので
スッキリしました。別に「金星」っていう企業があったわけじゃないんですね。

大映スターズ_スタルヒン.jpg

「高橋ユニオンズ」はトンボ鉛筆と業務提携して「トンボユニオンズ」へ。
コレはスタルヒンが300勝を達成したチームですね。
「最弱球団  高橋ユニオンズ青春記」という面白そうな本も出ています。

最弱球団  高橋ユニオンズ青春記.jpg

そして初代コミッショナー正力松太郎が2リーグ構想において、
読売新聞のライバルである毎日新聞に球団結成を勧め、
セの「読売ジャイアンツ」に、パの「毎日オリオンズ」という強力な2大新聞社の構図が・・。
ユニフォームも縦じまの「ニューヨーク・ヤンキース」スタイルで、
ビジター用は「ブルックリン・ドジャース」というメジャーの2つのリーグを代表する
チームの真似をするほど気合の入りよう。。

プロ野球ユニ_7.jpg

しかし毎日の経営は思っていたほど順調とはいかず、
照明設備の無い球場での大きくリードされた試合で、わざとチンタラ試合を進めて
日没中止になると、ファンも暴動を起こします。
とても球界の盟主のやることではない・・と、人気もガタ落ちに・・。

この「千葉ロッテマリーンズ」の歴史を振り返ると、現在のセ・パ創設の経緯も理解できますね。
まぁ、ヴィトゲンシュタイン世代では「ミスター・ロッテ」の有藤ですが・・。

有藤_ロッテ.jpg

北海道日本ハムファイターズ」も過去がややこしいチームです。
1945年、戦後すぐに創設された新「セネタース」。
2年後に東急が買収して「東急フライヤーズ」になり、
系列の東映に移管されて「東映フライヤーズ」。
後に「日拓ホーム」へ譲渡されて、それから日本ハムです。

プロ野球ユニ_8.jpg

1973年からパ・リーグは前期と後期に分かれてリーグ戦を行いますが、
「日拓ホームフライヤーズ」は7種類の日替わりユニを採用します。
記者会見でのお披露目では「カラー作戦で相手を翻弄します」と発表され、
1人あたり夏用2着、春秋用も2着、1色につき4着を作り、7色で28着。
遠征では荷物も大変で、ダフルヘッダーも5回はあり、
その都度、ストッキングから着替えなければなりません。
まさに「翻弄された」のは自軍の選手たちであり、
本書では当時の選手へのインタビュー(グチ)が掲載されていて笑えます。
まるで「レインボーマン」を彷彿とさせます。ちと古いか・・。

日拓ホームフライヤーズ.png

西武ライオンズ」は、「西鉄ライオンズ」時代が今でも有名ですね。
しかし昭和24(1949)年の設立当初は、「西鉄クリッパーズ」で、
2年後にセ・リーグの「西日本パイレーツ」と合併したという経緯は初めて知りました。
1970年代には「太平洋クラブライオンズ」から「クラウンライターライオンズ」と
スポンサー契約で改名。
ヴィトゲンシュタインもなんとかギリギリ覚えていますが、
子供がこんな名前のプロ野球チームを好きになろうってのは不可能です。
ましてや「太平洋クラブライオンズ」は背番号を前にも持ってくるという
掟破りのアメフト型ユニを採用。色もワインカラーと言いながらも、
「さつまいものピンク」と言われています。↓ 前列「21番」は若き東尾修ですな。。

太平洋クラブライオンズ.jpg

そして「大阪近鉄バファローズ」。
あ~、いま何位だっけ・・と思わず確認しようとしましたが、途中で気がつきました。
昭和24年(1949)年に「近鉄パールス」として設立。
このニックネームは近鉄沿線の名産品である「真珠」からとられたそうですが、
著者も「こんなに弱々しく可憐な名前は珍しい」と書いています。
さらに「プロ野球史上、最も弱いチームは? と聞かれたら、
迷うことなく1958年の近鉄パールスを挙げる」とまで書かれ、
130試合のうち勝ったのはわずか29試合・・。、
その年の最多勝投手、稲尾和久が一人で33勝・・というのは情けないの一言ですね。
ユニフォーム見ても確かに弱そう・・。

プロ野球ユニ_9.jpg

そんな最弱球団に「猛牛」の異名を持つ、千葉茂が監督に就任。
岡本太郎画伯に有名な「猛牛マーク」のデザインを依頼して、
ニッネームも「近鉄バファロー」に変更します。「ズ」は付かないのがミソですね。

近鉄バファロー.jpg

それとは逆なのが「広島東洋カープ」です。
「カープ(鯉)」で登録してから、複数形でなくてはおかしいということで「カープス」へと変更。
しかし、カープは単複同形で「S」が付かないと指摘され、慌てて戻したものの
1950年の開幕戦の入場式プラカードには「広島カープス」の文字が・・。

その他、原爆の惨禍から、元気と希望の象徴として造られたこの球団の
ニックネーム候補には「アトムズ(原子爆弾)」というものまであったそうです。
これは「ノー・モア・広島」の意味を込めてということですが、いくらなんでも・・。

去年、友達と東京ドームに巨人vs広島を観に行って、初めて広島を応援しました。
しかし、まるで勝つ気がないかのようにあっさりと敗北・・。
試合後、ヘラヘラしてる広島ファンを捕まえて
「ドラゴンズ・ファンだけど、弱すぎるぞ」と、5分ほど説教しちゃいました。。
昔は、北別府とか津田とか、気持ちが入ったピッチャーが多かったんですけどねぇ。
大野もカッコ良かったなぁ。

大野豊_広島.jpg

それでも「アトムズ」というニックネームをご存知の方も多いかも知れません。
昭和48(1973)年まで「ヤクルトアトムズ」というチーム名だった、「ヤクルトスワローズ」です。
もともとは「国鉄スワローズ」なのは良く知られたところですが、
ニックネームは当時の国鉄の花形特急「つばめ」からとられたそうです。
電車だけに「座ろうズ」なんてジョークもあったそうですが、
そういえば親父がキャプテンだった日本舞踊家の草野球チームが
「オドリ・オドロウズ」という、友達にも言えないほどダサい名前だったんですが、
このようなジョーク系統だったのかも知れません。
また、亡くなったおじさんが国鉄スワローズの元1軍のキャッチャーで、
金やんの「2段階カーブ」の凄さをよく話してくれましたっけ。

金田_つばめ.jpg

しかし国営企業の球団が大枚はたいて選手を買い漁るわけにもいかず、
終いには国鉄の膨大な累積赤字が明るみになって、サンケイ新聞に売却。
そのサンケイの系列であるフジテレビで絶賛放映中の「鉄腕アトム」から
今度は「アトムズ」がニックネームとなりますが、赤字経営が続くなか、
ヤクルトに譲渡するものの、今度は手塚治虫の「虫プロ」が倒産・・。
このような不幸の末に、現在の「ヤクルトスワローズ」に至ります。

サンケイアトムズ.jpg

最後は本書が出版された2005年に設立された「東北楽天ゴールデンイーグルス」。
また、昭和22(1947)年の1年間だけ運営された「幻のリーグ」、
「国民野球連盟」、通称:国民リーグについても詳しく紹介しています。
4球団のユニ・イラストは当然ながら、困難な球場確保、難航した運営、
そして国税庁からの査察などが大きな大ダメージとなったそうで、
当然、正力の「日本野球連盟」のいやがらせもあったんでしょう。
国税の査察などと聞くと、正力の指示では?? と勘ぐってしまいますね。

プロ野球ユニ_10.jpg

最初は軽い気持ちで昔のユニフォームを眺めてみよう・・と思って借りた本でしたが、
実際、プロローグを読んだだけで、コレは大変な労作だということがわかりました。
「週刊ベースボール」の連載に加筆したということで、
数年がかりでまとめられた、素晴らしい日本プロ野球史です。
今年、30年ぶりに後楽園の「野球殿堂博物館」にも行ったばかりで
贔屓の球団の歴史っていうのは応援するうえでも知っておくべきだと思います。

野球殿堂博物館.jpg

今回、Webでもいろいろと調べてみましたが、
ヴィトゲンシュタインがドラゴンズ・ファンになった経緯・・、リーグの最終戦かつ、
それまで家族中が好きだった長嶋さんの引退試合をTVで観ていて、
相手のドラゴンズが2軍メンバーということに親父が「長嶋さんに失礼だ!」と激怒。
子供のヴィトゲンシュタインは「打たせてあげようとしているんじゃ・・」と、
その優しさと、好きだったブルーのユニに惹かれてその時から・・ということなんですが、
実はこのシーズン、ドラゴンズはV10を阻止して優勝し、この日は優勝パレードの日。
しかし、雨で順延していた後楽園での最終戦も戦わなければならないという状況で、
1軍メンバーは強制的に名古屋での優勝パレードに参加することに・・。
コレには高木守道は「長嶋さんに失礼だ!」と抗議したそうです。
う~ん、自分のルーツを発見したような気がしますね。

1974-10-14巨人×中日@後楽園球場 長嶋茂雄現役引退.jpg

ただ、残念ながら本書はすでに絶版で、amazonでも15000円のプレミア価格・・。
この内容なら当然ですが、うまく割愛、再編集して3000円くらいで再刊して欲しいですね。




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対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第2巻〉 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アラン・ブロック著の「対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第2巻〉 」を読破しました。

〈第1巻〉 はヒトラーとスターリンのそれぞれ1934年まで。
ヒトラーは45歳、スターリンは55歳で絶対的な権力を掌握したところでした。
575ページの〈第2巻〉 ではまず、ここまでを
「スターリンとヒトラーの比較」として振り返る章から始まります。

対比列伝 ヒトラーとスターリン 2.jpg

ヒトラーの首相就任に先立つこと100年前にドイツの著名な哲学者、
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが語ったこと・・。
「世界史とは、個人心情や良心の支えとなる道徳が占める地盤よりも、
一段高い地盤で動くものである。見当違いの道徳的な要求を持ち出して、
世界史的な行為とその成果に文句をつけてはならない。
世界史的な人物に対して、慎ましさ、謙虚さ、人間愛、寛容といった
私的な徳目を並べ立ててはならないのである。
このような偉人がその途上で多くの無垢な花々を踏みにじり、
行く手に横たわる多くの者を踏み潰すのは仕方のないことである」。

著者はこの言葉を2人に共通する信念として、この信念こそが
ヒトラーとスターリンを直接比較する時の基礎とします。

Rede Adolf Hitler.jpg

1931年にヒトラーの愛する姪であるゲリ・ラウバルが拳銃自殺すると
その一年後にはスターリンの2番目の妻であるナジェージダが拳銃自殺を遂げます。
ヒトラーとゲリ、スターリンとナジェージダの歳の差も、ほぼ20歳・・。
このような偶然というか、運命というか、不思議なもんですね。。

本書には触れられていませんが、いずれにも他殺説があるんですね。
主役の2人が直接手を下した説から、第3者によるものまで実に豊富です。
ヒトラーを例にとると、姪と変態叔父さんの情事のもつれから、
大事な選挙中に総統を悩ます、邪魔でワガママな姪を側近が・・、というヤツです。

Adolf Hitler _ Geli Raubal.jpg

しかしスターリンは2度の結婚の縁者に対しては血も涙もありません。
3人の子供たちは以前に「スターリン―赤い皇帝と廷臣たち」で書きましたが、
最初の妻エカテリーナの兄はスパイとして処刑、その妻も逮捕されて収容所で死亡。
2人の間に生まれた子供は「人民の敵の息子」としてシベリア送り、
エカテリーナの妹マリアも逮捕されて獄死です。
ナジェージダの妹アンナもスパイ活動の容疑で逮捕されて10年の刑、
夫は「人民の敵」として銃殺、その他、ナジェージダの叔父の妻まで逮捕されています。

Nadezhda Sergeyevna.jpg

続いては大建築合戦。
ヒトラーがシュペーアに依頼した「ゲルマニア計画」に水を差すことがひとつ。
それはスターリンが計画していたモスクワの「ソヴィエト宮殿」が
「巨大なドーム型の講堂」を高さで上回ることがわかったのです。
ヒトラーと同じくスターリンはモダニズムよりも記念碑的な建造物を好み、特徴は規模の大きさ。。
最上部には高さ30mのレーニン像が安置されることになっていますが、
戦争が始まって結局は建築されず・・。

〈第1巻〉を読んでるときにこの宮殿を思い出しましたが、ココで詳しく紹介されました。
ヒトラーは「これでロシアの例の建物は永久に完成しないだろう」とほくそ笑みますが、
戦後、宮殿が6つの高層ビル化けるという変更を余儀なくされたものの、
モスクワの街並みが刷新されるのをスターリンは見続けられるのでした。

Germania Dome_Palace of Soviets.jpg

芸術についても口を挟みたがる両者。
ヒトラーの「ドイツ芸術の家」と「退廃芸術展」などにも触れられ、
モダニズムを嫌っていたのと同様、
スターリンも書物に芝居、オペラに対して口をだし、賞賛したり、非難したり・・。
彼の求める芸術は、ソ連の生活をありのままに描くのではなく、
自分が望み、必要と感じ、そうだと信じたように描かれる芸術です。
政権を支持する作家の影響力を重要視し、存命中のロシア人作家では最も優れていた
マキシム・ゴーリキーをイタリアから帰国させて、効果的に利用します。

そういえば最近、この作家の名前をWebで良く目にしますが、
剛力彩芽ちゃんが「ゴーリキー」って言われてるんですね。。可哀想に・・。
「八重の桜」にも出ててビックリ・・・くなんしょ。。

Maxim Gorky_Stalin.jpg

この比較の章の〆には両者のイデオロギーを簡単に説明します。
ナチのイデオロギーがバラバラで、時には矛盾していたことは周知のとおりですが、
本書ではこのように解説。
「ヒトラーの場合には、総統である彼がイデオロギーだとしたものがイデオロギーだった」。
一方、スターリンの場合、
「マルクスとレーニンがイデオロギーだと言ったと、
書記長であるスターリンが認めたものこそがイデオロギーなのであった」。

次の第11章は「総統国家」と題して、ヒトラーとナチス・ドイツの1938年まで。
ヒトラーがヒンデンブルク大統領の後継者になってから、
政府の日常的な業務から手を引いてしまい、既存の省庁にナチ党の各部署、
各州の長官と大管区指導者が対立し、SSのヒムラーとハイドリヒによって警察も合体。
実際は問題だらけの行政はヒトラーの気まぐれな介入によって一層悪化し、
「独裁主義の無政府状態」、「永遠の一時しのぎ」などと言われます。

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反目しあう共産党と社会民主党を叩きのめして、指導者を逮捕し、
彼らの資産を奪うことが成功しても、その支持者たちはまだ1000万人以上・・。
ゲッベルスを中心としたダイナミックなプロパガンダ作戦で
批判の声を押さえつけようとします。

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1月30日の「ヒトラー首相任命の日」から祝祭日のカレンダーは始まり、
2月24日は「1925年に党を再建した日」、4月20日は「ヒトラーの誕生日」、
11月9日は「1923年のミュンヘン一揆の記念日」となって、
9月には数日間に渡る盛大な「ニュルンベルク党大会」が開催されます。
何万人という人々が直接参加することを求められ、参加しなかったり、
国旗の掲揚を怠ったりすれば、街区監視者の目に留まり、
「政治的に信用できない人物」としてマークされて、職場での昇進の妨げから
免職、逮捕・・へとつながっていきます。
ナチ党の都合たっぷりの祝日ですが、5月にはちゃんと「母の日」があるところがなんとも。。

Heil!!.jpg

そのころ、農業の集団化に第1次5ヶ年計画の過酷なキャンペーンを終えたスターリン。
自分自身を敵意に満ちた世界に立ち向かう偉大な人物だと想像し、
そこに住む嫉妬深くて油断のならない敵が常に陰謀を凝らしていて、
先に攻撃を仕掛けなければ自分がやられてしまうと妄想する偏執症。。
トロツキーが「人民の敵」として国外追放され、
レニングラードでは力をつけてきた第1書記のキーロフが暗殺されます。
そして始まった「大粛清」。
死刑を含むあらゆる刑罰の適用が12歳の子供にまで広げられ、
国外逃亡も死刑となり、その「裏切り者の家族」はそれを知っていようが、
知るまいが禁固刑という、人質制度を導入。

Kirov_Stalin 1934.jpg

「クレムリンでスターリンの暗殺を企てた」というフィクションが準備され、
古参ボルシェヴィキを含む40名が逮捕。
古い仲間のブハーリンやルイコフも追放され、NKVD長官のヤーゴダも・・。
そしてソ連の歴史でも身長わずか150㎝程度の小人ほど、
軽蔑と憎しみの感情をかきたてた者は他にいないと紹介されるエジョフ
粛清されたヤーゴダの後任として、テロ機構を作り上げます。
もちろん、トハチェフスキー元帥らの赤軍も大粛清の餌食です。

Stalin_Bukharin.jpg

大飢饉を味わったウクライナはその独立した地位を潰そうとするスターリンの標的となり、
モロトフフルシチョフ、そしてエジュフの委員会がNKVDの大部隊とともに乗り込み、
ウクライナ政府の閣僚17人全員が逮捕され、ウクライナ中央委員会の102人のうち、
生き残ったのはわずか3人のみ。。
ウクライナ共産党は事実上壊滅し、フルシチョフが党第1書記に任命されて
再建を任され、ブレジネフなど、若い幹部候補生を育てるのでした。

Khrushchev_Brezhnev.jpg

このNKVDの活動の基盤は「自白システム」です。
証拠というものは一切関係なく、とにかく囚人が自分の罪を認め、他者を告発すること。
そしてそれには「拷問」が必要な場合も多々あり、
本書では睡眠や食事を許さず、数日間もぶっ続けで尋問するという基本的な「コンベア」から、
当たり前の「殴打」、お前の子供を銃殺する・・と脅す心理作戦に、
隣室で女性のあげるかな切り声を奥さんだと思わせるゲシュタポ方式など。。

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グラーグ」で書かれていた収容所と、その極東の流刑地帯についても詳しく、
フランスの4倍もの広さのコルイマ地方では50万人が働き、
氷点下70℃にもなるこの収容所では氷点下50℃まで戸外労働が強制され、
どこよりも死亡率が高い・・と、まぁメチャクチャですね。
ちなみにNKVDの職員も粛清されると、ココへ飛ばされて収容所職員になるそうです。

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次の章では1936年~38年までの独ソの外交政策について比較します。
スペイン内戦では、ゲーリングブロムベルクカナリスの意見を聞いたヒトラーが
フランコ将軍を援助することを決め、コンドル軍団を派遣。
スターリンは共和国政府を援助することを決定します。
まぁ、しかし、当時のスペイン国内の状況にイタリア、フランスなども絡んでいるこの話は、
一度、ガッチリ勉強しないと、ど~も良くわかりません。
やっぱりビーヴァーの「スペイン内戦―1936-1939」を読むしかなさそうですね。

LEGION CONDOR Y MOROS POSIBLEMENTE REGULARES.jpg

そしてヒトラーは外務省をナチ化するために外相フォン・ノイラートを解任し、
英国大使リッベントロップを抜擢します。
また、国防軍に対して不満があるものの、スターリンの行った「赤軍大粛清」規模のことを
実施するわけにもいかず、そこでブロムベルク=フリッチュ事件によって
国防相と陸軍総司令官を葬り去り、OKW(国防軍最高司令部)を創設することで、
保守的で口うるさいOKH(陸軍最高司令部)を無視することに・・。
OKW長官にカイテル、作戦部のヨードルが登場してくると、いよいよといった雰囲気ですね。

Adolf Hitler, Hermann Göring, Werner von Blomberg, Werner Freiherr von Fritsch and Erich Raeder.jpg

第14章は遂にお互いが直接絡み合う「独ソ不可侵条約」です。
1938年、オーストリアがナチス・ドイツに併合され、一つの国が地図から抹消。
そしてもう一つの国も脅威にさらされていることをスターリンは危惧します。
チェコスロヴァキア・・。もし、この国まで併合されることになれば、
ヨーロッパの勢力の均衡が崩れ、ドイツ軍がソ連国境のすぐ近くにやってきます。
しかも、仏ソ条約によってチェコが攻撃された場合、それを支援する義務も・・。

こうした戦争の危機に反ヒトラー派の陸軍参謀総長ベック
その後任のハルダーを中心にクーデター計画が練られる一方、
英首相チェンバレンの訪独と、それに続く4ヵ国のミュンヘン会談によって
戦争の危機はなんとか回避されますが、ソ連は孤立主義に傾いています。

Hitler-unterschreibt-Muenchner-Abkommen.jpg

スターリンは英仏が侵略者に立ち向かえなかったのは、国力の弱さが原因ではなく、
とりもなおさず侵略を黙認し、戦争が起こるのを黙って見ていること・・と考え、
この危険なゲームの行き着くところは、英仏がドイツをそそのかして東に進ませ、
「さっさとボルシェヴィキに戦争を仕掛けろ。そうすれば、万事うまくいく」と
互いに相手を弱め、消耗するのを待っていると思っているのです。

soviet-poster-munich-agreement.jpg

こうして「独ソ不可侵条約」が締結。日本の内閣は衝撃によって倒れ、
ドイツ軍の年配の将軍たちは、フォン・ゼークト将軍の持論だった「ソ連との協調」
ヒトラーが立ち返ったことを喜んで、プロイセンの宿敵たるポーランドへの電撃戦に向けて、
若い将軍も自分たちが何ができるかを示す機会だと喜ぶのでした。

Adolf Hitler watching parades at the Reichs Veterans Day at Kassel, 4 June 1939.jpg

最後の章は「ヒトラーの戦争」。
1939年9月、ポーランドに侵攻したドイツ軍。
そのあまりの速さに、東の領土を貰う約束のスターリンも慌てふためきます。
ドイツ領となったポーランド西部ではヒムラーのSSの手荒さに、総督ハンス・フランクが抗議。
ソ連領となった東部では、商工業を国有化して、農業を集団化。
赤軍を伴った行政官がウクライナ人と貧しい農民を駆り立てて、
ポーランド人の地主、富農、警官を襲わせ、ポーランド人支配下の20年間、
彼らを苦しめてきた不正に報復するため、積年の恨みを晴らさせます。
また、ポーランド軍将校の扱いについては、もちろん「カティンの森」なわけです。

Himmler in Poland.jpg

その後にソ連が起こしたフィンランド侵攻ではヒトラーが中立を守ったことで、
似た者同士のNKVDとゲシュタポが協力関係を示すことになります。
それはソ連の強制労働収容所に服役中のドイツ人共産主義者ら、500名を選んで
ゲシュタポに引き渡し、その全員が今度はナチの強制収容所に移されたというものです。

その中の一人、1937年に粛清されたスターリンのかつての盟友だったハインツ・ノイマンの妻、
元共産主義者のマルガレーテ・ブーバー=ノイマンは
ラーヴェンスブリュック女性収容所へと送られ、1945年に解放されますが、
スターリンとヒトラーの両方の強制収容所を経験して生き残った数少ない例だということで、
ちょっと調べてみると、彼女の書いた
「スターリンとヒットラーの軛のもとで―二つの全体主義 」という本があるのを発見しました。

buber-neumann.JPG

翌1940年には西方電撃戦が成功し、絶好調で有頂天となったヒトラー。
そんな8月にスターリンも生涯またとない喜びを味わう瞬間が訪れます。
それは永遠のライバル、トロツキーの死。。
メキシコに滞在していたトロツキーに前年の「独ソ不可侵条約」の際、
「ヒトラーの補給係将校 スターリン」という見出しの屈辱的な記事を書かれていただけに、
粛清されたエジョフに代わったNKVD長官ベリヤにハッパをかけ、
「もっと力を入れてトロツキーを黙らせろ」と命令した末の暗殺成功です。

Dead Trotsky.1940.jpg

最後のページである575ページ目には、「バルバロッサ作戦」を命じるヒトラー。
〈第3巻〉は、まさに「独ソ戦」ですね。







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