SSブログ

ナチ武装親衛隊 -ヒトラーの鉄血師団- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジョン・キーガン著の「ナチ武装親衛隊」を読破しました。

先日の「ゲシュタポ」と一緒に買った「第二次世界大戦ブックス」の武装SSモノです。
相変わらず、時代を感じさせる「副題」が良い感じですねぇ。
本書も「軍事顧問・総監修:リデル・ハート卿」。英国人の著者キーガンは
軍事史の専門家で英国士官学校の主席講師という人物です。

ナチ武装親衛隊.JPG

過去にも何冊か紹介しているSSや武装SSの興亡史と同様、
本書もまず、SSの創設の紹介からです。
1933年の「長いナイフの夜」において、SA幕僚長、レームを殺害し、
そのナチ党の巨大軍事組織だったSA(突撃隊)にSSが取って代わり、
経済復興で入隊者の激減したSAは、お呼びがかかっても、
お祭り行事に道路で群衆整理に当たるのがせいぜいとなった・・。

goebbels_speech.jpg

そして「ライプシュタンダルテ」や「ダス・ライヒ」といったエリート師団が創設されますが、
ヒムラーの発案によっていきなりフィールドグレーの軍服を着させられ、
厳しい訓練を受けさせられることになった「お年寄り」たちの2流師団である「警察師団」、
アイケの収容所看守「髑髏部隊」で構成された「トーテンコップ」が紹介されます。

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この「トーテンコープ」ではフランス戦役で投降して来た英部隊を虐殺した
「ラパラディの捕虜大虐殺」を取り上げ、命令を下したクネヒライン(クノッホライン)について
彼の生い立ちなどから、武装SSの誰もがする行為ではなく、
クネヒラインのような異常者によっておこされる行為と解説しています。

ロシア戦線では、面白い解釈がありました。
それは武装SSが名声を持ち続けるうえで幸運だったのは
スターリングラード攻防戦に従事しなかった」ことというものです。
そして第6軍を壊滅し、勢いに乗って攻めてくるソ連軍をハリコフの逆襲で
打ち負かしたのが武装SS軍団だったことで、機動部隊としての存在を誇示することとなった・・。

German troops in Stalingrad.jpg

後半では、拡大していく武装SS師団・・その多くを占めることとなる「外国人義勇兵」部隊を
なかなか詳細に説明しています。
しかしなかには第24SS武装山岳猟兵師団が「ロック・クライミング」と書かれていますが、
コレは一体なんなんでしょうか?「カルスト・イェーガー」というのはたまに聞く師団名ですけどねぇ。

50名は超えたことの無いという「イギリス自由軍」やインド人義勇兵も紹介。
北方の義勇兵ではノルウェー、デンマーク、オランダ人よりも
フィンランド人が最も良く戦ったとして、その理由は「ソ・フィン戦争」による
モチベーションの高さといったことのようですね。

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バルト3国ではリトアニアがキリスト教が根付いていることから除外されるものの、
エストニア人とラトヴィア人の凶暴性に目を付けたヒムラーは
彼らを殺戮隊員として登用します。

バルカンにおける血で血を洗う戦いでも、チトー率いるセルヴィア人パルチザン部隊に対抗すべく、
クロアチア人やアルバニア人の回教徒で構成されたSS部隊が次々と創設されます。
ハントシャール」や「カマ」、「スカンデルベク」などもしっかり出てきますが、
結局は「失敗だった」と片付けられてしまいました。

SS Handschar.jpg

戦局の悪化に喘ぐ、1944年の西部戦線。
弱体化する国防軍に対して、「ホーエンシュタウフェン」や
フルンツベルク」も含めた武装SSのエリート師団は
陸軍将兵の尊敬と信頼をガッチリとものにし、ヒムラーと陸軍総司令部の間に
どれだけ不信感があったにしろ、戦線の兵士同士の関係はとても良かったとしています。

その一方で、この西部戦線で有名な虐殺事件も・・。
ダス・ライヒによる「オラドゥール村の大虐殺」や
「バルジの戦い」におけるヨッヘン・パイパーによるものとされる「マルメディの虐殺」についても
有名な写真(「バルジの戦い」でパイパーではないとされている、あの写真です)を掲載し、
そのキャプションでは「彼は米軍捕虜の大量虐殺を計画していた」と書かれ、
それはスコルツェニーの「グラフ作戦」と共に、米軍を恐怖に陥れるために命令されたもの・・
といった見解です。

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ノルマンディでの「ヒトラー・ユーゲント」が起こした、捕虜大量射殺事件も
おそらく”パンツァー”マイヤーの承認の上で行われたものとし、
その理由は、彼が長く戦った東部戦線では、こんな殺戮はごく普通だったというものです。

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最後には、武装SSが偶然起こした、これらの事件とは別に、
その部隊の性格自体が犯罪性を持っていたとして、
「ディルレヴァンガー」と「カミンスキー」が紹介され、
1943年ワルシャワ・ゲットー蜂起で破壊の限りを尽くした、シュトロープSS少将
訓練中だった新隊員による2個大隊にも言及しています。

ここではシュトロープがこの「大作戦」の様子を大量の写真に収め、綺麗に製本して
ヒムラーに提出したという、初めて知った話が印象的でした。
「汚い、偉ぶったSSのブタめ!忌まわしい「大量虐殺作戦」に75ページもの報告書を
誇らしげに作るとはなんたることか!」とニュルンベルク裁判で証言した
国防軍最高司令部作戦部長ヨードル上級大将が絶叫したそうです。

SS Major General Jürgen Stroop.jpg

戦後、25年経ち発刊された1970年当時は、まだまだ、ナチ戦犯に対する裁判も続いていた時代で
本書では軍隊としての武装SSの犯罪に大きなスポットを当てていますが、それは国防軍も
「全てSSがやったこと」と言い逃れは出来ない・・。としています。

この「第二次世界大戦ブックス」を読むにあたっては、
やはり40年前のものという意識をしておくべきでしょう。
当時の通説と現在の見解では、多少なりとも違いがあることは否めません。
しかし、その変化を楽しめるくらいの度量があれば、今でも充分に楽しめるシリーズで、
まだまだ、10冊は読みたいものがあります。



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ベルリン・ダイアリー -ナチ政権下1940‐45- [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マリー・ヴァシルチコフ 著の「ベルリン・ダイアリー」を読破しました。

以前に紹介した「ベルリン終戦日記」がとても興味深かったことで
似たような感じかな~と、本書を購入していました。
450ページと結構ボリュームがあるものの、当時のベルリン社交界の様子から、
常に空爆に悩まされながらの生活、そして1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に至る
彼女の関与とその後までが、あちらに負けず劣らず、非常に興味深く書かれたものです。

ベルリン・ダイアリー.JPG

1917年ペテルブルク(レニングラード)生まれの彼女は、代々ロマノフ王朝に仕えた
ドイツに近いバルト海の国、リトアニアの貴族の家系で
革命後、フランスに亡命、母国語のように英語を学び、
この日記が始まる1940年1月に23歳になろうとする、いわゆる美人令嬢です。

この時期、ドイツは英仏との「まやかし戦争」の真っ最中・・。
しかし故国リトアニアが強引にソ連に吸収されると家族も命からがらドイツへと逃げ込んできます。
すでにドイツに滞在していたマリーは、姉のタチアーナと共にベルリンへ出て職探し。
それでもベルリンの社交界は、この美人姉妹を放って置かないのか、
夜な夜な、各国の大使館での舞踏会やら、豪華なディナーやらに招待されています。

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なんとか姉妹揃って放送局に職を得ますが、直後にはフランス侵攻が・・。
ベルギーやオランダの皇族、貴族にも知り合いもおり、もちろん育ったパリの情報も
多く流れてきます。ムッソリーニの堂々たる参戦発表には
「馬鹿みたい。ちっとも立派なんかじゃない」といった感想です。

プロイセン皇太子が戦死すると、ヒトラーは彼ら皇族軍人らを前線から引き上げさせたそうで、
これは彼らが「戦功」をあげることで、帝政復古を危惧したことによるようです。

1941年になるとアダム・トロットに誘われて外務省情報部へ・・。
このような重要な人物や出来事には、とても勉強になる注釈が出てくるので
このアダム・トロットが反ヒトラー派の重要人物であることも良くわかります。

Volksgerichtshof, Adam von Trott zu Solz.jpg

副総裁ルドルフ・ヘスが勝手に英国に飛んで行き、「ヘスは狂った」と公表した件では
ベルリンっ子たちのジョークをいくつか紹介しています。例えば・・
チャーチル・・『つまりあんたが例の気違いかね?』
ヘス・・『いいえ、気違いの公式代理です』

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雲行きが怪しくなってくる1943年には、フィンランドのマンネルヘイム将軍と知り合いだったり
ゴットフリート・ビスマルクやベルリン警視総監のヘルドルフといった
後にヒトラー暗殺未遂事件に関与したかどで人民裁判に立たされる人物が
頻繁に登場してきます。
しかしマリーは日記のなかでもヘルドルフに対してだけは、「信用できない」という
感想を残しています。

Berlin, von Helldorf_italienische Polizeiführer, Parade.jpg

そして本書で最も驚いた人物が登場・・・。
その名もハインリヒ・プリンツ・ツー・ザイン・ヴィトゲンシュタインです。
「最も親しい友人のひとり」であるハインリヒについて「こんなに感受性の強い人はいない」と評価し、
彼も貴族の出身であることから、すでに敵機を63機も撃ち落しているのに
体制側から冷遇され、過小評価されている・・。
いよいよの時になったら、ハインリヒの飛行機に飛び乗ってコロンビアかどこかへ・・と語り合います。

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ヴィトゲンシュタインが本土防衛に呼び戻されたように、ベルリンでも空襲が激しさを増し、
動物園に付属する水族館も爆撃され、ヘビや魚が全滅。
猛獣類はすべて射殺されるものの、ワニが逃亡・・。

1944年になるとマリーの勤める外務省の情報部のボスに、
SSのフランツ・アルフレート・ジックス博士が就任します。
ジックスはアインザッツグルッペンにも派遣されたことのある悪名高いインテリですが、
マリーも含め、部署の全員からも嫌われています。

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疲れきった様子でビスマルク家に立ち寄ったヴィトゲンシュタインと夕食を共にした数日後、
彼の戦死のニュースが飛び込んできます。
彼が育ったスイスに住む両親に知らせなければ・・と、悲痛な思いで書き記し、
ロシア人とフランス人を祖先に持つ彼は、どう見てもドイツ人ではなかったとして、
また、人殺しをする辛さを会うたびに語り、搭乗員を脱出させられる撃墜方法はないものかを
検討する一方で、ヒトラーから柏葉騎士十字章を受け取った際、「奴さんをぶっ殺す」ことが
出来そうだったとして、今度のときには握手しながら一緒に自爆する方法も
あれこれ考えたとしています。
さらに5月には英国空軍がヴィトゲンシュタインの墓に花輪を投下したという噂まで・・。

Streib-Wittgenstein-Rall-Nowotny.jpg

こうして、いよいよ運命の7月20日を迎えます。
ゴットフリート・ビスマルクやヘルドルフらは、ヒトラーが死んだ、死んでないとの情報に一喜一憂し、
シュタウフェンベルクは死んだのを見たと言ってるんだ!」
結局は失敗に終わったこの事件ですが、グロースドイチュラントの大隊長レーマーにも触れ、
「このレーマーみたいな男は蜂起の前に追っ払うようヘルドルフが警告していたのに
軍部が無視をした」。

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そしてマリーの周辺の関係者が次々とゲシュタポによって逮捕されていきます。
尊敬する上司のアダム・トロットやゴットフリート・ビスマルク、ヘルドルフの他にも
彼女の友人でもあったベルリン防衛司令官のフォン・ハーゼ将軍も・・。

Hase, Paul von - Generalleutnant.jpg

注釈ではとても興味深い話がありました。
この時期、SS内部でも敗戦を意識し、ヒムラーを筆頭に様々な策謀が行われ、
そのひとつとして武装SSの重鎮、フェリックス・シュタイナーゼップ・ディートリッヒ
総統本営の襲撃を企てていた・・というものです。初めて聞く話ですね。

ゲシュタポによる魔女狩りから逃れることが出来たマリーは1945年1月になると
看護婦としてウィーンへ旅立ちます。
しかしここもソ連軍が進撃中。。アメリカ爆撃機も連日編隊を組んで飛行してきます。
病院も爆撃の被害を受けながらも、敵の爆撃機が墜落すると乗員の救助に駆り出され
彼らを収容し、手当てをするという実に複雑な任務です。

Vienna bomb.jpg

4月にはウィーンとオーストリアからの脱出を図りますが、憲兵隊とSSが
あちこちで検問を実施しており、容易に通行することが出来ません。
それでも手に入れた偽造書類・・「ゲシュタポの特命による隠密旅行」により、
にじり寄って来たSSも「ゲシュタポだ・・」と呟いた挙句、ご丁寧に「お気をつけて」。

このような波乱万丈な戦中を過ごした彼女は1976年、この日記の公表を薦められます。
しかし出版のための最終稿が完成した数週間後、マリーは61歳で他界・・。
実の弟、ジョージによって注釈などが加えられて出版されたというのが本書の経緯です。

Marie Vassiltchikov.jpg

「ベルリン終戦日記」の女性のような一般市民とは言えないマリーの日記ですが、
彼女の交流範囲の広さと、その日記の期間の長さ、そしてヒトラー暗殺未遂事件と
一般市民の目からはとても書けない、非常に興味深いものでした。
特にヴィトゲンシュタインが出てくるとは・・。

そういえば「ベルリン終戦日記」はもうすぐDVDが発売されるようです。
この映画が、あの本とは思えないパッケージですが・・。





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ジューコフ元帥回想録 -革命・大戦・平和- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ゲ・カ・ジューコフ著の「ジューコフ元帥回想録」を読破しました。

1年半ほど前に¥2000で購入した、函入で600ページ弱という強烈な回想録です。
著者は当然、ソ連の大エース、ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフですが、
この函に書かれている「ゲ・カ・」というのはすごいですねぇ。
「G.K.」をロシア語でそのように発音するんでしょうが、カタカナとは珍しいです。
また、笑っちゃいけませんが「四回ソ連邦英雄」というのもなにか、マイケル・バッファーや
ジミー・レノン・ジュニアがボクシングの世界戦で選手を紹介するときみたいです。。

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1896年、モスクワの西南にある貧しい農家で生まれたジューコフ
幼・青年時代の回想から始まります。
父親は捨て子であり、その家系も不明という最下層の生活ぶり。。
8歳にもなれば男として、刈り入れを手伝い、小学校を卒業すると
モスクワに毛皮職人の見習いとしてひとり旅立っていきます。
この20世紀初頭の帝政ロシアが舞台というのは初めて読みましたし、
ジューコフ少年の苦労とガッツは非常に印象的です。

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第1次大戦の真っ只中である1915年に遂にジューコフも騎兵として徴集されます。
ほとんどが歩兵である友人たちからは羨ましがられ、
彼自身もこのロマンチックな兵科に有頂天です。
そしてこの大戦から10月革命による内戦を経験し、27歳でブズルク騎兵第39連隊長に就任します。

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旧友、ロコソフスキーと共に騎兵として昇進を重ねていくジューコフ。
1930年代にはトハチェフスキー元帥とも親近となり、その彼の軍人としての偉大さと
思い出を語ります。しかし、その後起こった「赤軍大粛清」については、
わずかに5行、述べているだけです。

ここまでの前半の「革命」パートが終わると、メインとなる「大戦」パートへ・・。
白ロシア軍管区司令官代理というポストにいたジューコフにモスクワから呼び出しがかかります。
そして友好国モンゴルへ侵攻してきた日本軍を追い返すという特別任務を与えられ、
1939年に起こった有名な「ノモンハン事件」について詳細に回想しています。

Battles of Khalkhin Gol 1939.jpg

この「ノモンハン事件」で見事圧勝したジューコフは遂に、スターリン
直接引見され、1941年初頭にはいきなり「参謀総長」を言い渡されます。
当初は参謀経験のないことを理由に断ったジューコフですが、
バトゥーチンやワシレフスキーらの名だたる参謀本部員らに助けられ
一心不乱に間も無く来るであろう、ドイツ軍侵攻に備えます。

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しかしいざ、ドイツ軍によるソ連侵攻「バルバロッサ作戦」が始まると
ほとんど全ての戦線において、縦横無尽に突破され、
慌てたスターリンにより、「実戦経験のある指揮官が必要」との理由で、
最高軍司令部の代表者として南西方面軍に派遣されます。
そして、ここからジューコフの独ソ戦における放浪の旅の幕が上がるわけです。

その後は包囲されたレニングラードを立て直し、モスクワをなんとか防衛、
スターリングラードでもドイツ第6軍を包囲壊滅し、
クルスク戦では、その防御準備の様子を詳細に説明してくれます。
ジューコフ個人の回想なのに、ほとんどの有名な戦役、会戦に関わっているところが凄いですね。

German troops taking a Russian City in July 1941.jpg

普段、ドイツ軍戦記を読んでいるヴィトゲンシュタインとしては、
時折出てくる各戦線の状況説明・・・例えば「西部戦線」などと出てくると
どうしてもフランスを想像してしまいますが、これはもちろんソ連から見た西部戦線であり、
主にドイツ中央軍集団と対峙する戦線のことを指し、
北方軍集団や南方軍集団相手にはそれぞれ、北西戦線、南西戦線と呼ぶようです。

また、1969年に発刊された本書ですから、すでに刊行されている様々な書物を
参考にしていて、ドイツ軍の作戦や内情についてもハルダーの日記や
ライバルであったグデーリアン、マンシュタインらの回想録なども大いに研究しています。

Guderian reibert.jpg

ただし、おそらくロシア語の翻訳の問題なのか、訳者がドイツ軍に明るくないのか、
ハルダーが「ハリデル」だったり、謎の「ゴッド元帥」も出てきたり(う~ん、いったい誰なんだ・・)、
グデーリアンに至っては、「グーデルリアン」と書かれています。
古い本だと「グーデリアン」が多いこの「Guderian」は個人的には
「グデー」でも「グーデ」でも気にしませんが「グーデルリアン」は初めてで、
なにか「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を思い出してしまいました。

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マンシュタインに対しては「ドイツ軍最高の将軍」と評価しているようで
クルスク戦で「南軍の司令官は只者ではないと思ったら、
それを率いていたのはあのマンシュタインだった」という感想を残しています。
いや~、またカレルの「焦土作戦」を読みたくなってきました。

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なお、この南軍のSS軍団は「アドルフ・ヒトラー」、「ライフ」、「鉄丹」の3戦車師団で、
「ライフ」が「ダス・ライヒ」であろうことは想像出来ますが、「鉄丹」というのは・・?
おそらく「トーテンコップ」なんでしょうけど、普通、和訳は「髑髏」ですし、
そもそも「鉄丹」の意味がわかりません・・。

Column T-34.jpg

ちなみに当時のソ連軍ではクルーゲが率いたドイツ北軍が精鋭戦車部隊を揃えているという
認識であったようで、会戦が始まってから、間違いに気付いた・・とし、
ちょっと順番は逆転しますが、「バルバロッサ作戦」でもスターリンは、
ドイツ軍は南の油田を狙ってくるだろうという予測の元、ウクライナの防御を固め、
その結果、ルントシュテットの南方軍集団は苦労したようです。

Georgy_Zhukov.jpg

そのスターリンについても数ページを割いて分析しています。
結論からすると「スターリンの偉いところは、われわれベテランの軍事専門家の
意見を聞く耳を持っていたということにある。」

全線戦でソ連の攻勢が始まると、スターリン、ジューコフともにドイツ軍の「包囲殲滅」作戦を
ひたすら目論み、それは「チェルカッシィ」などでも成功します。
そしてブルガリアもあっさりと寝返らせて、一路、ベルリンへ・・。

Bulgarian troops.jpg

ここでは「ゼーロウ高地」におけるジューコフ発案の、あの「サーチライト」戦術を紹介します。
「140のサーチライトが敵を眩惑し、暗闇から攻撃目標を浮き出させた。
その情景は極めて心象的だった」としながらも、
「砲撃による埃と煙でなにも見えなくなった」との状況も認めています。
特にこのサーチライト批判、またはジューコフ批判をしたチュイコフ将軍の回想については
大反論を展開しています。

ベルリン作戦の模様も詳細で、カイテルらの降伏の様子、そして裏切り者ウラソフ将軍
毛布に包い、病人を装った姿で車で逃走しているところを発見し、「大戦」パートも終了します。

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最後の「平和」パートでは、米英仏の西側連合軍とのドイツ分割についての駆け引きと、
その一方で、お互い「勲章」の授け合い・・。アイゼンハワーから「レギオン・オブ・メリット」を、
モントゴメリーから「GCB」を授章すると、お返しに「勝利勲章」を2人に贈ります。

Orden-Pobeda-Marshal Vasilevsky.jpg

モスクワでの凱旋パレードでは騎兵出身らしく、白馬で見事に疾走し、
その後、アイゼンハワーも招いて、親しく、また軍人らしく、西側の当時の戦況を聞き出します。
バルジの戦い」についてはアイゼンハワーも口が重いものの、
ノルマンディ上陸」作戦には口も滑らか、ジューコフも興味深かったようで、
映画「史上最大の作戦」を観た感想と、その比較まで書かれています。

Zhukov gallops onto Red Square 1945.jpg

読み終えて、改めて序文の「日本の読者に」に書かれている
「偉大な10月革命は、社会の最下層出身者が元帥になることを可能とした」
という意味がわかったような気がします。
帝政ロシアと、革命後のソ連が社会的、政治的に良いか悪いかを
コメントできる知識はありませんが、
少なくとも彼にとっては「ソ連」という国家によって大いに恩恵を受けたことに
最期まで誇りを持って生きていたと感じました。

General_Zhukov.jpg

ジューコフ晩年に書かれた本書ですが、彼のその後、スターリンの妬みによって左遷され、
フルシチョフによって失脚、ブレジネフによって名誉を回復したという話は出てきません。
個人の回想録ではありますが、第2次大戦を中心とした非常に充実した1冊で、
実は読破できるか心配でしたが、とても勉強になり、かつ予想以上に楽しめた1冊でした。



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ドイツ武装SS師団写真史〈1〉髑髏の系譜 [武装SS]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

高橋 慶史 著の「ドイツ武装SS師団写真史〈1〉」を読破しました。

先日紹介した「カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS」の続編です。
タイトルも変わり、大判の写真史として衣替えしました。
「カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS」の売れ行きが芳しくなかったということなので、
ヴィトゲンシュタインは正規品?を定価で購入しました。

ドイツ武装SS師団写真史1.JPG

本書に登場するSS師団は「第3」、「第6」、「第18」、「第25」、「第26」、「第30」の
各SS師団ですが、第3SS師団 がトーテンコップであることは即答出来ますが、
「第6」の山岳師団ノルトまでが答えられるギリギリです。

まずは副題「髑髏の系譜」というように第1部はトーテンコップからの紹介からです。
1933年のダッハウ強制収容所の責任者、テオドール・アイケによって編成された
SS髑髏部隊が、フランス戦役~東部戦線、ハンガリーでの春の目覚め作戦、
そして終焉までを多くの写真と戦況図、編成表を用いて解説しています。
このアイケとトーテンコップは、初期に創設されたSS師団のなかでも
敵に対して残忍な行為に及んだ・・というのが一般的ですが、
本書ではそのような話は特に出てきません。
どちらかというと純粋な師団史であり、その歴史の長さからも
あまり、細かいエピソードは書かれていない、といった印象です。

SS gruppenfuhrer Theodor Eicke, commander of the SS Totenkopf Division on the Eastern front 1942.jpg

続いて第6SS山岳師団 ノルト。もともとこの師団も髑髏部隊が母体となって
編成されたということで、この「髑髏の系譜」として紹介されています。
「第6」といえばヴィーキングの次ですが、この師団が詳しく書かれたものは
ほとんど読んだことがありません。
創設時の師団長であるデメルフーバーSS少将が写真付きで紹介され、
その「ノルト=北」という師団名どおり、ノルウェー、そしてフィンランドにおいて
ヒトラーの信頼するディートル司令官のもと、戦い続けます。

SS-Obergruppenführer Karl Maria Demelhuber.jpg

しかし1944年、盟友フィンランドがソ連との単独講和に応じると、
そのフィンランド軍を相手に戦いながら、ノルウェーへの撤退・・。
う~ん。これはノルト師団の話というより、この「ラップランド戦争」をほとんど知らなかったので、
大変勉強になりました。早速、なにか本を探してみます。

チェコで暗殺されたハイドリヒの名を第11連隊が付与されたことについて
「兵士たちにとっては何の脈略も無い称号にさぞかし複雑な思いであったろう」と
推測しています。これはホントに不思議ですが、
スポーツ好きだったハイドリヒが生前、山とスキーを愛していたのかも知れませんね。

Reinhard Heydrich in Kitzbühel during the German Ski Championships 1939.jpg

他にも、フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーが一時、師団長となったことについても
有名な実兄であるヴァルター・クリューガーの弟思いの人事では?とか
その後の師団長、ブレンナーSS中将の元妻と結婚したのが、ゼップ・ディートリッヒであると
写真も掲載して紹介。この師団の章は最も楽しめました。

SS Gruppenführer Karl-Heinrich Brenner.jpg

この章に最後に登場するのは、第18SS義勇装甲擲弾兵師団 ホルスト・ヴェッセルです。
この部隊も母体となった連隊が髑髏部隊であったそうで、
ポーランドと東プロイセンでの治安部隊が「第1SS歩兵旅団」として編成され、
1944年、ヒトラー直々の命により「ホルスト・ヴェッセル」が師団名として制定されたということです。
しかし、この「義勇」かつ「ホルスト・ヴェッセル」という名称の裏には、
当時の状況から、なかなか思惑通りにいかないといったことが読み取れるようです。

Horst Wessel Lied.jpg

「ホルスト・ヴェッセル」は1930年、共産党員に殺害されたとされるSA=突撃隊の中隊長で、
ナチ党は彼を殉教者としてまつりあげ、党歌「旗を高く掲げよ」も
「ホルスト・ヴェッセル・リート」として良く知られていますが、この名を用いたということで、
SAから志願兵を補充することで新たなエリートSS師団を計画したそうです。
しかし、とてもこの時期そのような志願兵は集まらず、結局ドイツ系ハンガリー兵中心となり、
結果的にドイツ系ではない「義勇」師団となってしまいます。



そしてハンガリーでの戦い・・。敵戦車にパニックを起こしてあっという間に敗走する体たらく。。
総統命令でのテコ入れに送られたのは、あの囚人部隊ディルレヴァンガーだそうです。
また、最初の師団長であるトラバントSS少将は非常に興味深い人物で、
ライプシュタンダルテ」で大隊長としてフランス戦役まで活躍したものの、
ヒムラー全国指導者の不興を買い、武装SSを追放・・。ゼップ・ディーリッヒの取り成しによって
3階級降格のSS大尉として復帰したという経緯が書かれています。
ただ、どのような行為によってヒムラーに嫌われたのかが分からずじまいで
ちょっと消化不良になりました。

Wilhelm Trabandt.jpg

第2部は「祖国は遥か遠く」。登場する3つのSS師団の名は、書くのも恐ろしい
フニャディ(ハンガリー第1)、ハンガリア(ハンガリー第2)、ロシア第2という
「超」の付くマイナー師団です。
著者も「日本語文献においては数行の説明で片付けられている場合が多い」とする
これらの師団を、果たして写真史として、どのように料理しているのか・・。

フニャディの事実上唯一の師団長である、ハンガリー人、ヨーゼフ・グラッシーSS少将は
ハンガリーにおける反共軍人の縮図を体現しているかのような人物で、
第1次大戦でも従軍した愛国心に溢れるハンガリー軍人も、この時代に翻弄され、
選択肢を失いながらも戦い続け、やがては悲惨な結末を迎えるという、
思わず肩入れしたくなるような人物です。

Josef Grassy.jpg

予想以上のハンガリー兵が集まったことから、すぐさま姉妹師団、ハンガリア(ハンガリー第2)が
創設されますが、人は集まっても、戦う武器がまったく揃いません。
それは兵士10人に対し、小銃が1丁というもので、
映画「スターリングラード」のオープニングでのジュード・ロウより、劣悪な装備と環境です。

そしてトリを飾るのは「ロシア第2」。
ベラルーシにおけるパルチザンなどを相手とする地元の治安部隊を基盤として
武装SSへ編入された、このロシア第2ですが、
祖国の解放を目指す、ベラルーシ義勇兵たちの思惑と違い、部隊には
ロシア人やらウクライナ人も混在し、師団名称も、とても受け入れられません。
さらにはいきなりフランス戦線で西側連合軍と戦わさせられる破目に・・。
コレには受け入れ先の西方軍もビックリで「未知のSS師団が判明した」と書き記しています。

ここではベラルーシ総統府の長であるヴィルヘルム・クーベが暗殺されたという話が
特に気になりました。下手人は書かれていませんがパルチザンかも知れませんね。

Wilhelm_Kube.jpg

本書が面白いか、面白くないかと言えば、ズバリ面白かったです。
ただ、「写真史」という意味では、この構成と編集は果たしていかがでしょうか?
それは、例えばトーテンコップなどのメジャーSS師団であれば
それなりの写真と量も期待出来ますが、第2部のような超マイナー師団となると
「ロシア第2」の師団長であるハンス・ジークリングSS中佐の写真すら出てこない・・
といった結果になってしまいます。

もちろん、個人的には多くの写真も欲しいところですが、
まだまだ沢山あるマイナー師団が、どれだけ写真付きで紹介されるのか不安になってきます。
「カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS」も良い写真が多く載っていましたし、
ヴィトゲンシュタインとしては、サイズも含めて、あちらの方が良い感じです。
残るメジャー系がヴィーキングヒトラー・ユーゲントくらいだとすると
どのようにしてマイナーSS師団で購買意欲を誘うか・・という問題だと思いますが、
なんとか、帯の裏に書かれている「以後、続々と刊行予定!」を期待しています。

ちなみにamazonで「ドイツ武装」で検索したら、
「ドイツ武装親衛隊第3装甲師団 ”トテンコプ” フルジップパーカー」が売ってました・・。
他にも「ダス・ライヒ」とか「ノルトラント」とかも色々あるようで、すごいですねぇ。。





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ナチ占領下のパリ [フランス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

長谷川公昭 著の「ナチ占領下のパリ」を読破しました。

前に紹介した「脱出 1940夏・パリ」に続く、ナチス/ドイツのパリ占領シリーズ?第2弾です。
著者は元日経新聞記者という経歴で、戦後、レジスタンスによる抵抗しかなかったように云われた
このパリ及びフランスのドイツによる占領下では、その占領軍に対する協力もあったのだ
ということを数々のエピソードを紹介しながら非常にわかりやすく、公平に書き、
また、パリにおけるドイツの組織と多数の人物を紹介して、
単なる占領ドイツ軍対パリ市民といった、短絡的な読み物とはしていません。

ナチ占領下のパリ.JPG

1940年6月14日、「無防備都市」を宣言していたパリに整然と入城したドイツ軍。
このパリでの彼らの振る舞いは「脱出 1940夏・パリ」でも述べられていたように
紳士的で、非常に友好的・・。怯えていたパリ市民も早速、商店を開くと
ドイツ兵たちも略奪はおろか、値切ることもせず、せっせと買い物に勤しみます。

Deutsche Truppen in Paris.jpg

もちろん、このような背景には、不当な為替レートを押し付けたドイツという構図や
ポーランドでの行政が悪評だったこともあって、ナチ党や親衛隊ではなく、
国防軍による行政がフランスでは行われたということがあります。

german soldier paris.jpg

本書では歴代のパリ管区司令官の将軍の名や、その上位に当たるフランス駐留軍最高司令部の
歴代司令官もさりげなく紹介してくれます。
なかでも長くパリ管区司令官を務めたフォン・シャウムブルク将軍は
根っからのフランス人嫌いだったそうで、彼によってパリっ子たちは泣かされたことだろう・・と紹介。

Rue de Rivoli, Paris sometime between 1940-44.jpg

配給制となったパリの食料事情も厳しくなり、それゆえ猫のスープからカラス料理まで登場。 
観測史上最も寒い冬がやってくるも、暖房の燃料も手に入らないため、
結婚率が半減しているのと逆に出生率は増え、
これを寒さしのぎに子作りに励んだ結果としています。

燃料という意味ではガソリンも同様です。パリからは自動車がほとんど消え、
市民の足は自転車や大八車もどきの人力タクシーが流行ります。
フランスの大手自動車メーカー「ルノー」は、この窮地にドイツ軍の軍需物資の生産を請け負い、
軍用トラックや軍事兵器部品の製造で生き残りを図ります。

occupied Paris, 1940.jpg

著名な文化人たちも紹介されます。
ナチ党員だったカラヤンはベルリンとパリを往復しては、指揮棒を振るい、
ココ・シャネルの有名な話、そしてパリ市民が食うや食わずを生活をしているなか、
毎日のようにシャトーブリアンを平らげる、対独協力者の教祖と噂されるパブロ・ピカソの姿も・・。

当初はロスチャイルド家などのメジャー系ユダヤ人は、まだ、優遇されていましたが、
そのユダヤ人に対する政策も、年を追うごとに厳しさを増していきます。
ペタン元帥のヴィシー政府の政策も含め、フランス人である富豪ユダヤ人は
東から逃れてきた外国ユダヤ人に対しては、とても同じユダヤ人としての仲間意識はありません。
しかし、フランス系だろうがポーランド系だろうが、ユダヤ人はユダヤ人と解釈するドイツにより、
メジャー系ユダヤ人にもアウシュヴィッツ行きという危機が迫るのでした。

auschwitz09.jpg

こんな話までも!と嬉しい驚きだったのが、1941年のソ連侵攻作戦に端を発した
反共フランス義勇軍」の創設とその運命です。
このパリの対独協力団体が自主的に発足させた「反共フランス義勇軍」ですが、
現場の最高司令官がなかなか決まりません。
結局、60歳という高齢ながら長い軍歴でもこれといった戦功もあげたこともない、
ラボンヌ大佐という名の無能者が、これをよろこんで引き受けてしまうことに・・。

LVF.jpg

8万~10万人という兵力を見込んだ「反共フランス義勇軍」の指導者たちですが、
なんとか集まったのは、たったの2000名・・。
純粋な反共主義者やナチズム信奉者もわずかにいたものの、ほとんどは
失業者や警察に追われる犯罪者で、ボーナスを手にしたとたんにドロンしてしまいます。

それでもなんとか、義勇兵として東部戦線に投入されますが、
そこはモスクワ前面、零下40℃での独ソ必死の攻防戦の真っ只中・・。
案の定、「戦闘能力なし」の刻印を押された「反共フランス義勇軍」は、
道路の補修や鉄道の監視などの任務が与えられることに・・。

Legión de Voluntarios Franceses.jpg

そんな彼らも1944年には、武装SS「シャルルマーニュ」として防衛戦に駆り出され、
ベルリンで最期まで戦い続けるのでした。。

パリのゲシュタポ、そしてSS部隊の立場や国防軍との対立と権力争いの過程も驚くほど詳細です。
国防軍トップのシュテルプナーゲルとSSトップのオーベルクとの
第1次大戦における上官と部下だったという微妙な関係や、7月20日事件。
ゲシュタポの拷問方法とそれを実行する、雇われ者のベルギー人や犯罪者たち・・。

Karl Oberg_Joseph Darnand, chef de la police française.jpg

ルノーの創設者、ルイ・ルノーはドイツ軍相手に笑いが止まらぬほど大儲けしたものの、
その商売相手であるドイツの戦況が不利になると、材料の入手も困難となり、
従業員もドイツのために働くことを良しとは考えず、
連合軍からは工場を爆撃の標的にされるに至って顔色を失い、
パリ解放後は対独協力者としてかつての収容所にぶち込まれ、
裁判を受けることもなく、獄中死したそうです。。

French Resistance fighters, Paris, 1944.jpg

この4年にも及ぶ、占領下のパリにおいて「対独協力」とはどのような行動を指すのか・・。
大企業でなくても、小さな商店から街の娼婦まで、商売によって生計を経てている以上、
相手がフランス人からドイツ人に変わっただけ・・というのは、至極もっともだと思います。
1944年、「パリは燃えているか?」コルティッツ司令官がバリを破壊することなく明け渡し、
「対独協力者」が一般市民からも弄り者にされたというのは有名な話ですが、
本書でも、連合軍の攻勢の情報を聞き、先を見越して「対独協力者」から
こっそり反ドイツのレジスタンス的な立場へ衣替えしていったという市民の例も出てきます。
そして残念ながら、頭が少しでも働く人間なら、このような行動を取るのも当然だと思うのです。

After France was Liberated 1944 ABUSE OF FRENCH WOMEN.jpg

ゲーリングがパリで収集した美術品・・。「H」と書かれたものはヒトラーへ、「G」は自分用に・・。
これらの大量の絵画などはドイツの4つの古城で保管されたらしく、
そのうちのひとつは、「白鳥城」としても知られる「ノイシュヴァンシュタイン城」です。
ここはヴィトゲンシュタインもちっちゃな頃から知っている好きな城で、
いつかドイツを訪れた際には、ぜひとも立ち寄りたい場所、Best3に入っています。

GermanCastle Schloss Neuschwanstein.jpg

それは中学生の夏休みに挑戦した、「ノイシュヴァンシュタイン城」の
2000ピースのジグソーパズルが完成できなかった・・という苦い過去を克服したい
という思いからでもあります・・。



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