ナチ占領下のパリ [フランス]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
長谷川公昭 著の「ナチ占領下のパリ」を読破しました。
前に紹介した「脱出 1940夏・パリ」に続く、ナチス/ドイツのパリ占領シリーズ?第2弾です。
著者は元日経新聞記者という経歴で、戦後、レジスタンスによる抵抗しかなかったように云われた
このパリ及びフランスのドイツによる占領下では、その占領軍に対する協力もあったのだ
ということを数々のエピソードを紹介しながら非常にわかりやすく、公平に書き、
また、パリにおけるドイツの組織と多数の人物を紹介して、
単なる占領ドイツ軍対パリ市民といった、短絡的な読み物とはしていません。
1940年6月14日、「無防備都市」を宣言していたパリに整然と入城したドイツ軍。
このパリでの彼らの振る舞いは「脱出 1940夏・パリ」でも述べられていたように
紳士的で、非常に友好的・・。怯えていたパリ市民も早速、商店を開くと
ドイツ兵たちも略奪はおろか、値切ることもせず、せっせと買い物に勤しみます。
もちろん、このような背景には、不当な為替レートを押し付けたドイツという構図や
ポーランドでの行政が悪評だったこともあって、ナチ党や親衛隊ではなく、
国防軍による行政がフランスでは行われたということがあります。
本書では歴代のパリ管区司令官の将軍の名や、その上位に当たるフランス駐留軍最高司令部の
歴代司令官もさりげなく紹介してくれます。
なかでも長くパリ管区司令官を務めたフォン・シャウムブルク将軍は
根っからのフランス人嫌いだったそうで、彼によってパリっ子たちは泣かされたことだろう・・と紹介。
配給制となったパリの食料事情も厳しくなり、それゆえ猫のスープからカラス料理まで登場。
観測史上最も寒い冬がやってくるも、暖房の燃料も手に入らないため、
結婚率が半減しているのと逆に出生率は増え、
これを寒さしのぎに子作りに励んだ結果としています。
燃料という意味ではガソリンも同様です。パリからは自動車がほとんど消え、
市民の足は自転車や大八車もどきの人力タクシーが流行ります。
フランスの大手自動車メーカー「ルノー」は、この窮地にドイツ軍の軍需物資の生産を請け負い、
軍用トラックや軍事兵器部品の製造で生き残りを図ります。
著名な文化人たちも紹介されます。
ナチ党員だったカラヤンはベルリンとパリを往復しては、指揮棒を振るい、
ココ・シャネルの有名な話、そしてパリ市民が食うや食わずを生活をしているなか、
毎日のようにシャトーブリアンを平らげる、対独協力者の教祖と噂されるパブロ・ピカソの姿も・・。
当初はロスチャイルド家などのメジャー系ユダヤ人は、まだ、優遇されていましたが、
そのユダヤ人に対する政策も、年を追うごとに厳しさを増していきます。
ペタン元帥のヴィシー政府の政策も含め、フランス人である富豪ユダヤ人は
東から逃れてきた外国ユダヤ人に対しては、とても同じユダヤ人としての仲間意識はありません。
しかし、フランス系だろうがポーランド系だろうが、ユダヤ人はユダヤ人と解釈するドイツにより、
メジャー系ユダヤ人にもアウシュヴィッツ行きという危機が迫るのでした。
こんな話までも!と嬉しい驚きだったのが、1941年のソ連侵攻作戦に端を発した
「反共フランス義勇軍」の創設とその運命です。
このパリの対独協力団体が自主的に発足させた「反共フランス義勇軍」ですが、
現場の最高司令官がなかなか決まりません。
結局、60歳という高齢ながら長い軍歴でもこれといった戦功もあげたこともない、
ラボンヌ大佐という名の無能者が、これをよろこんで引き受けてしまうことに・・。
8万~10万人という兵力を見込んだ「反共フランス義勇軍」の指導者たちですが、
なんとか集まったのは、たったの2000名・・。
純粋な反共主義者やナチズム信奉者もわずかにいたものの、ほとんどは
失業者や警察に追われる犯罪者で、ボーナスを手にしたとたんにドロンしてしまいます。
それでもなんとか、義勇兵として東部戦線に投入されますが、
そこはモスクワ前面、零下40℃での独ソ必死の攻防戦の真っ只中・・。
案の定、「戦闘能力なし」の刻印を押された「反共フランス義勇軍」は、
道路の補修や鉄道の監視などの任務が与えられることに・・。
そんな彼らも1944年には、武装SS「シャルルマーニュ」として防衛戦に駆り出され、
ベルリンで最期まで戦い続けるのでした。。
パリのゲシュタポ、そしてSS部隊の立場や国防軍との対立と権力争いの過程も驚くほど詳細です。
国防軍トップのシュテルプナーゲルとSSトップのオーベルクとの
第1次大戦における上官と部下だったという微妙な関係や、7月20日事件。
ゲシュタポの拷問方法とそれを実行する、雇われ者のベルギー人や犯罪者たち・・。
ルノーの創設者、ルイ・ルノーはドイツ軍相手に笑いが止まらぬほど大儲けしたものの、
その商売相手であるドイツの戦況が不利になると、材料の入手も困難となり、
従業員もドイツのために働くことを良しとは考えず、
連合軍からは工場を爆撃の標的にされるに至って顔色を失い、
パリ解放後は対独協力者としてかつての収容所にぶち込まれ、
裁判を受けることもなく、獄中死したそうです。。
この4年にも及ぶ、占領下のパリにおいて「対独協力」とはどのような行動を指すのか・・。
大企業でなくても、小さな商店から街の娼婦まで、商売によって生計を経てている以上、
相手がフランス人からドイツ人に変わっただけ・・というのは、至極もっともだと思います。
1944年、「パリは燃えているか?」でコルティッツ司令官がバリを破壊することなく明け渡し、
「対独協力者」が一般市民からも弄り者にされたというのは有名な話ですが、
本書でも、連合軍の攻勢の情報を聞き、先を見越して「対独協力者」から
こっそり反ドイツのレジスタンス的な立場へ衣替えしていったという市民の例も出てきます。
そして残念ながら、頭が少しでも働く人間なら、このような行動を取るのも当然だと思うのです。
ゲーリングがパリで収集した美術品・・。「H」と書かれたものはヒトラーへ、「G」は自分用に・・。
これらの大量の絵画などはドイツの4つの古城で保管されたらしく、
そのうちのひとつは、「白鳥城」としても知られる「ノイシュヴァンシュタイン城」です。
ここはヴィトゲンシュタインもちっちゃな頃から知っている好きな城で、
いつかドイツを訪れた際には、ぜひとも立ち寄りたい場所、Best3に入っています。
それは中学生の夏休みに挑戦した、「ノイシュヴァンシュタイン城」の
2000ピースのジグソーパズルが完成できなかった・・という苦い過去を克服したい
という思いからでもあります・・。
長谷川公昭 著の「ナチ占領下のパリ」を読破しました。
前に紹介した「脱出 1940夏・パリ」に続く、ナチス/ドイツのパリ占領シリーズ?第2弾です。
著者は元日経新聞記者という経歴で、戦後、レジスタンスによる抵抗しかなかったように云われた
このパリ及びフランスのドイツによる占領下では、その占領軍に対する協力もあったのだ
ということを数々のエピソードを紹介しながら非常にわかりやすく、公平に書き、
また、パリにおけるドイツの組織と多数の人物を紹介して、
単なる占領ドイツ軍対パリ市民といった、短絡的な読み物とはしていません。
1940年6月14日、「無防備都市」を宣言していたパリに整然と入城したドイツ軍。
このパリでの彼らの振る舞いは「脱出 1940夏・パリ」でも述べられていたように
紳士的で、非常に友好的・・。怯えていたパリ市民も早速、商店を開くと
ドイツ兵たちも略奪はおろか、値切ることもせず、せっせと買い物に勤しみます。
もちろん、このような背景には、不当な為替レートを押し付けたドイツという構図や
ポーランドでの行政が悪評だったこともあって、ナチ党や親衛隊ではなく、
国防軍による行政がフランスでは行われたということがあります。
本書では歴代のパリ管区司令官の将軍の名や、その上位に当たるフランス駐留軍最高司令部の
歴代司令官もさりげなく紹介してくれます。
なかでも長くパリ管区司令官を務めたフォン・シャウムブルク将軍は
根っからのフランス人嫌いだったそうで、彼によってパリっ子たちは泣かされたことだろう・・と紹介。
配給制となったパリの食料事情も厳しくなり、それゆえ猫のスープからカラス料理まで登場。
観測史上最も寒い冬がやってくるも、暖房の燃料も手に入らないため、
結婚率が半減しているのと逆に出生率は増え、
これを寒さしのぎに子作りに励んだ結果としています。
燃料という意味ではガソリンも同様です。パリからは自動車がほとんど消え、
市民の足は自転車や大八車もどきの人力タクシーが流行ります。
フランスの大手自動車メーカー「ルノー」は、この窮地にドイツ軍の軍需物資の生産を請け負い、
軍用トラックや軍事兵器部品の製造で生き残りを図ります。
著名な文化人たちも紹介されます。
ナチ党員だったカラヤンはベルリンとパリを往復しては、指揮棒を振るい、
ココ・シャネルの有名な話、そしてパリ市民が食うや食わずを生活をしているなか、
毎日のようにシャトーブリアンを平らげる、対独協力者の教祖と噂されるパブロ・ピカソの姿も・・。
当初はロスチャイルド家などのメジャー系ユダヤ人は、まだ、優遇されていましたが、
そのユダヤ人に対する政策も、年を追うごとに厳しさを増していきます。
ペタン元帥のヴィシー政府の政策も含め、フランス人である富豪ユダヤ人は
東から逃れてきた外国ユダヤ人に対しては、とても同じユダヤ人としての仲間意識はありません。
しかし、フランス系だろうがポーランド系だろうが、ユダヤ人はユダヤ人と解釈するドイツにより、
メジャー系ユダヤ人にもアウシュヴィッツ行きという危機が迫るのでした。
こんな話までも!と嬉しい驚きだったのが、1941年のソ連侵攻作戦に端を発した
「反共フランス義勇軍」の創設とその運命です。
このパリの対独協力団体が自主的に発足させた「反共フランス義勇軍」ですが、
現場の最高司令官がなかなか決まりません。
結局、60歳という高齢ながら長い軍歴でもこれといった戦功もあげたこともない、
ラボンヌ大佐という名の無能者が、これをよろこんで引き受けてしまうことに・・。
8万~10万人という兵力を見込んだ「反共フランス義勇軍」の指導者たちですが、
なんとか集まったのは、たったの2000名・・。
純粋な反共主義者やナチズム信奉者もわずかにいたものの、ほとんどは
失業者や警察に追われる犯罪者で、ボーナスを手にしたとたんにドロンしてしまいます。
それでもなんとか、義勇兵として東部戦線に投入されますが、
そこはモスクワ前面、零下40℃での独ソ必死の攻防戦の真っ只中・・。
案の定、「戦闘能力なし」の刻印を押された「反共フランス義勇軍」は、
道路の補修や鉄道の監視などの任務が与えられることに・・。
そんな彼らも1944年には、武装SS「シャルルマーニュ」として防衛戦に駆り出され、
ベルリンで最期まで戦い続けるのでした。。
パリのゲシュタポ、そしてSS部隊の立場や国防軍との対立と権力争いの過程も驚くほど詳細です。
国防軍トップのシュテルプナーゲルとSSトップのオーベルクとの
第1次大戦における上官と部下だったという微妙な関係や、7月20日事件。
ゲシュタポの拷問方法とそれを実行する、雇われ者のベルギー人や犯罪者たち・・。
ルノーの創設者、ルイ・ルノーはドイツ軍相手に笑いが止まらぬほど大儲けしたものの、
その商売相手であるドイツの戦況が不利になると、材料の入手も困難となり、
従業員もドイツのために働くことを良しとは考えず、
連合軍からは工場を爆撃の標的にされるに至って顔色を失い、
パリ解放後は対独協力者としてかつての収容所にぶち込まれ、
裁判を受けることもなく、獄中死したそうです。。
この4年にも及ぶ、占領下のパリにおいて「対独協力」とはどのような行動を指すのか・・。
大企業でなくても、小さな商店から街の娼婦まで、商売によって生計を経てている以上、
相手がフランス人からドイツ人に変わっただけ・・というのは、至極もっともだと思います。
1944年、「パリは燃えているか?」でコルティッツ司令官がバリを破壊することなく明け渡し、
「対独協力者」が一般市民からも弄り者にされたというのは有名な話ですが、
本書でも、連合軍の攻勢の情報を聞き、先を見越して「対独協力者」から
こっそり反ドイツのレジスタンス的な立場へ衣替えしていったという市民の例も出てきます。
そして残念ながら、頭が少しでも働く人間なら、このような行動を取るのも当然だと思うのです。
ゲーリングがパリで収集した美術品・・。「H」と書かれたものはヒトラーへ、「G」は自分用に・・。
これらの大量の絵画などはドイツの4つの古城で保管されたらしく、
そのうちのひとつは、「白鳥城」としても知られる「ノイシュヴァンシュタイン城」です。
ここはヴィトゲンシュタインもちっちゃな頃から知っている好きな城で、
いつかドイツを訪れた際には、ぜひとも立ち寄りたい場所、Best3に入っています。
それは中学生の夏休みに挑戦した、「ノイシュヴァンシュタイン城」の
2000ピースのジグソーパズルが完成できなかった・・という苦い過去を克服したい
という思いからでもあります・・。
ポールスミス 名刺入れ
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by コーチ アウトレット (2013-10-19 00:51)