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ベルリン・ダイアリー -ナチ政権下1940‐45- [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マリー・ヴァシルチコフ 著の「ベルリン・ダイアリー」を読破しました。

以前に紹介した「ベルリン終戦日記」がとても興味深かったことで
似たような感じかな~と、本書を購入していました。
450ページと結構ボリュームがあるものの、当時のベルリン社交界の様子から、
常に空爆に悩まされながらの生活、そして1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に至る
彼女の関与とその後までが、あちらに負けず劣らず、非常に興味深く書かれたものです。

ベルリン・ダイアリー.JPG

1917年ペテルブルク(レニングラード)生まれの彼女は、代々ロマノフ王朝に仕えた
ドイツに近いバルト海の国、リトアニアの貴族の家系で
革命後、フランスに亡命、母国語のように英語を学び、
この日記が始まる1940年1月に23歳になろうとする、いわゆる美人令嬢です。

この時期、ドイツは英仏との「まやかし戦争」の真っ最中・・。
しかし故国リトアニアが強引にソ連に吸収されると家族も命からがらドイツへと逃げ込んできます。
すでにドイツに滞在していたマリーは、姉のタチアーナと共にベルリンへ出て職探し。
それでもベルリンの社交界は、この美人姉妹を放って置かないのか、
夜な夜な、各国の大使館での舞踏会やら、豪華なディナーやらに招待されています。

berlin_1940.jpg

なんとか姉妹揃って放送局に職を得ますが、直後にはフランス侵攻が・・。
ベルギーやオランダの皇族、貴族にも知り合いもおり、もちろん育ったパリの情報も
多く流れてきます。ムッソリーニの堂々たる参戦発表には
「馬鹿みたい。ちっとも立派なんかじゃない」といった感想です。

プロイセン皇太子が戦死すると、ヒトラーは彼ら皇族軍人らを前線から引き上げさせたそうで、
これは彼らが「戦功」をあげることで、帝政復古を危惧したことによるようです。

1941年になるとアダム・トロットに誘われて外務省情報部へ・・。
このような重要な人物や出来事には、とても勉強になる注釈が出てくるので
このアダム・トロットが反ヒトラー派の重要人物であることも良くわかります。

Volksgerichtshof, Adam von Trott zu Solz.jpg

副総裁ルドルフ・ヘスが勝手に英国に飛んで行き、「ヘスは狂った」と公表した件では
ベルリンっ子たちのジョークをいくつか紹介しています。例えば・・
チャーチル・・『つまりあんたが例の気違いかね?』
ヘス・・『いいえ、気違いの公式代理です』

Adolf Hitler und Rudolf Heß.jpg

雲行きが怪しくなってくる1943年には、フィンランドのマンネルヘイム将軍と知り合いだったり
ゴットフリート・ビスマルクやベルリン警視総監のヘルドルフといった
後にヒトラー暗殺未遂事件に関与したかどで人民裁判に立たされる人物が
頻繁に登場してきます。
しかしマリーは日記のなかでもヘルドルフに対してだけは、「信用できない」という
感想を残しています。

Berlin, von Helldorf_italienische Polizeiführer, Parade.jpg

そして本書で最も驚いた人物が登場・・・。
その名もハインリヒ・プリンツ・ツー・ザイン・ヴィトゲンシュタインです。
「最も親しい友人のひとり」であるハインリヒについて「こんなに感受性の強い人はいない」と評価し、
彼も貴族の出身であることから、すでに敵機を63機も撃ち落しているのに
体制側から冷遇され、過小評価されている・・。
いよいよの時になったら、ハインリヒの飛行機に飛び乗ってコロンビアかどこかへ・・と語り合います。

Heinrich Prinz zu Sayn-Wittgenstein.jpg

ヴィトゲンシュタインが本土防衛に呼び戻されたように、ベルリンでも空襲が激しさを増し、
動物園に付属する水族館も爆撃され、ヘビや魚が全滅。
猛獣類はすべて射殺されるものの、ワニが逃亡・・。

1944年になるとマリーの勤める外務省の情報部のボスに、
SSのフランツ・アルフレート・ジックス博士が就任します。
ジックスはアインザッツグルッペンにも派遣されたことのある悪名高いインテリですが、
マリーも含め、部署の全員からも嫌われています。

Franz Alfred Six.jpg

疲れきった様子でビスマルク家に立ち寄ったヴィトゲンシュタインと夕食を共にした数日後、
彼の戦死のニュースが飛び込んできます。
彼が育ったスイスに住む両親に知らせなければ・・と、悲痛な思いで書き記し、
ロシア人とフランス人を祖先に持つ彼は、どう見てもドイツ人ではなかったとして、
また、人殺しをする辛さを会うたびに語り、搭乗員を脱出させられる撃墜方法はないものかを
検討する一方で、ヒトラーから柏葉騎士十字章を受け取った際、「奴さんをぶっ殺す」ことが
出来そうだったとして、今度のときには握手しながら一緒に自爆する方法も
あれこれ考えたとしています。
さらに5月には英国空軍がヴィトゲンシュタインの墓に花輪を投下したという噂まで・・。

Streib-Wittgenstein-Rall-Nowotny.jpg

こうして、いよいよ運命の7月20日を迎えます。
ゴットフリート・ビスマルクやヘルドルフらは、ヒトラーが死んだ、死んでないとの情報に一喜一憂し、
シュタウフェンベルクは死んだのを見たと言ってるんだ!」
結局は失敗に終わったこの事件ですが、グロースドイチュラントの大隊長レーマーにも触れ、
「このレーマーみたいな男は蜂起の前に追っ払うようヘルドルフが警告していたのに
軍部が無視をした」。

Otto-Ernst Remer bei Rundfunkinterview.jpg

そしてマリーの周辺の関係者が次々とゲシュタポによって逮捕されていきます。
尊敬する上司のアダム・トロットやゴットフリート・ビスマルク、ヘルドルフの他にも
彼女の友人でもあったベルリン防衛司令官のフォン・ハーゼ将軍も・・。

Hase, Paul von - Generalleutnant.jpg

注釈ではとても興味深い話がありました。
この時期、SS内部でも敗戦を意識し、ヒムラーを筆頭に様々な策謀が行われ、
そのひとつとして武装SSの重鎮、フェリックス・シュタイナーゼップ・ディートリッヒ
総統本営の襲撃を企てていた・・というものです。初めて聞く話ですね。

ゲシュタポによる魔女狩りから逃れることが出来たマリーは1945年1月になると
看護婦としてウィーンへ旅立ちます。
しかしここもソ連軍が進撃中。。アメリカ爆撃機も連日編隊を組んで飛行してきます。
病院も爆撃の被害を受けながらも、敵の爆撃機が墜落すると乗員の救助に駆り出され
彼らを収容し、手当てをするという実に複雑な任務です。

Vienna bomb.jpg

4月にはウィーンとオーストリアからの脱出を図りますが、憲兵隊とSSが
あちこちで検問を実施しており、容易に通行することが出来ません。
それでも手に入れた偽造書類・・「ゲシュタポの特命による隠密旅行」により、
にじり寄って来たSSも「ゲシュタポだ・・」と呟いた挙句、ご丁寧に「お気をつけて」。

このような波乱万丈な戦中を過ごした彼女は1976年、この日記の公表を薦められます。
しかし出版のための最終稿が完成した数週間後、マリーは61歳で他界・・。
実の弟、ジョージによって注釈などが加えられて出版されたというのが本書の経緯です。

Marie Vassiltchikov.jpg

「ベルリン終戦日記」の女性のような一般市民とは言えないマリーの日記ですが、
彼女の交流範囲の広さと、その日記の期間の長さ、そしてヒトラー暗殺未遂事件と
一般市民の目からはとても書けない、非常に興味深いものでした。
特にヴィトゲンシュタインが出てくるとは・・。

そういえば「ベルリン終戦日記」はもうすぐDVDが発売されるようです。
この映画が、あの本とは思えないパッケージですが・・。





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