撃墜王 リヒトホーフェン [第一次世界大戦]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
S.M.ウラノフ編の「撃墜王 リヒトホーフェン」を読破しました。
「独破戦線」もついに第一次大戦まで遡ってしまいました。
第二次大戦を語るには、当然、第一次大戦を、或いはそれ以前のヨーロッパの歴史を
理解している必要があるということは重々承知していますが、なかなか勉強しきれません。
今回の「レッド・バロン」こと、リヒトホーフェンは子供の頃から興味があったのと
先日、映画「ブルー・マックス」を初めて観まして、非常に興味をそそられたのが理由です。
めでたく記事数が100に達したから・・というわけではありませんが、
まぁ、それにしても我ながら飽きっぽい人間としてはよく続いていると思います。
こんな変なブログを閲覧する人は10人くらいだろうな・・と思っていたのに
カウンターこそ搭載していませんが、アクセス数も気が付けばすでに2万を超え、
先輩諸兄方の厳しい目があることを想像すると、段々いい加減なことも書けなくなってきました。
本来このブログを開設した目的は、現在読破中かつ勉強中のWWⅡ物の感想を
残すことでアタマを整理しておきたかったということと、
「WWⅡのドイツ軍に興味はあるけど、何を読めば良いのかわからない」という
自分のような人の参考情報になれば良いな・・という思いからでした。
たまには、戦争映画のレビューやベトナム~現代の戦争もの、
近所のお酒とつまみの美味しいお店の紹介なんかも書きたいんですが、
ここはぐっと堪えて初心貫徹です。
無駄な前置きが長くなりましたが、本書は「S.M.ウラノフ編」となっているように
マンフレート・フライヘア・フォン・リヒトホーフェン本人の個人的な戦闘日誌が
基盤となっており、これは彼の生前(1918年)にベルリンで出版され、
その後1933年に家族への手紙や弟のローターの手記などが追加された物の
最新の英訳版(1980年)の翻訳ということのようです。
まずは11歳で陸軍士官学校に入ったという回想から始まりますが、
この1ページ目から、その伝説の人物の気質が見えるようです。
それは厳しい規律や命令が大嫌いで必要以上の勉強も意味が無いとする性分で、
その分、大のスポーツ好きだったそうです。
めでたく騎兵少尉として任官し、第一次大戦を迎えるものの
塹壕戦に飽き飽きし、飛行隊へ志願します。
ここでは当時の複座機のシステムを初めて知りました。
後ろに乗る士官はオブザーバーと呼ばれ、飛行の指揮権を握っており、
パイロットはいわば運転手という位置づけだったそうです。う~ん、勉強になりました。
やがてパイロットの訓練もなんとか終えたリヒトホーフェンは
その赤く塗られた機体と騎士道精神に溢れた戦いぶりも相まって名を挙げると
(女性ではないかという噂も広まったそうな・・)
英空軍からは賞金を賭けられ、リヒトホーフェン駆逐戦隊に狙われることになります。
しかし自身が率いる飛行隊の全機を赤く塗り、これらを返り討ちにして
逆に戦果を挙げていくことになります。
リヒトホーフェンによる英仏パイロットの違いは面白く、「すぐに逃げ出す卑怯なフランス機と
馬鹿らしいほどに勇敢かつ大胆に向かってくるイギリス機」という表現をしています。
そして1918年4月、敵陣であるソンムで撃墜され、25歳の若さで戦死します。
この死因はいまだにハッキリしていないようで、英空軍のブラウン大尉の撃墜説と
オーストラリア軍による対空砲と諸説ありますが、この本では前者の手記が
数頁掲載されています。この手記の真偽のほどは怪しいようですが、
「偉大なリヒトホーフェンの亡骸は非常に小柄で温厚な穏やかさをたたえた童顔であった」
として、彼を殺した自分を悔いています。
撃墜数80機という第一次大戦における敵国の最高のエースを
英国軍がまるで自国の兵士と同様の厳粛な埋葬を行ったという有名な逸話も
詳細に書かれていて、皇帝ヴィルヘルムやヒンデンブルクの哀悼の意までが
記されています。
最後に1933年のリヒトホーフェン伝記へ書かれた
ヘルマン・ゲーリング国家元帥(撃墜数22機)の序文が紹介されています。
ゲーリング自身がリヒトホーフェンと面識があり、
リヒトホーフェン戦闘機隊の隊長も務めてたことからのようですが、
これだけでも充分貴重な内容だと思いました。
S.M.ウラノフ編の「撃墜王 リヒトホーフェン」を読破しました。
「独破戦線」もついに第一次大戦まで遡ってしまいました。
第二次大戦を語るには、当然、第一次大戦を、或いはそれ以前のヨーロッパの歴史を
理解している必要があるということは重々承知していますが、なかなか勉強しきれません。
今回の「レッド・バロン」こと、リヒトホーフェンは子供の頃から興味があったのと
先日、映画「ブルー・マックス」を初めて観まして、非常に興味をそそられたのが理由です。
めでたく記事数が100に達したから・・というわけではありませんが、
まぁ、それにしても我ながら飽きっぽい人間としてはよく続いていると思います。
こんな変なブログを閲覧する人は10人くらいだろうな・・と思っていたのに
カウンターこそ搭載していませんが、アクセス数も気が付けばすでに2万を超え、
先輩諸兄方の厳しい目があることを想像すると、段々いい加減なことも書けなくなってきました。
本来このブログを開設した目的は、現在読破中かつ勉強中のWWⅡ物の感想を
残すことでアタマを整理しておきたかったということと、
「WWⅡのドイツ軍に興味はあるけど、何を読めば良いのかわからない」という
自分のような人の参考情報になれば良いな・・という思いからでした。
たまには、戦争映画のレビューやベトナム~現代の戦争もの、
近所のお酒とつまみの美味しいお店の紹介なんかも書きたいんですが、
ここはぐっと堪えて初心貫徹です。
無駄な前置きが長くなりましたが、本書は「S.M.ウラノフ編」となっているように
マンフレート・フライヘア・フォン・リヒトホーフェン本人の個人的な戦闘日誌が
基盤となっており、これは彼の生前(1918年)にベルリンで出版され、
その後1933年に家族への手紙や弟のローターの手記などが追加された物の
最新の英訳版(1980年)の翻訳ということのようです。
まずは11歳で陸軍士官学校に入ったという回想から始まりますが、
この1ページ目から、その伝説の人物の気質が見えるようです。
それは厳しい規律や命令が大嫌いで必要以上の勉強も意味が無いとする性分で、
その分、大のスポーツ好きだったそうです。
めでたく騎兵少尉として任官し、第一次大戦を迎えるものの
塹壕戦に飽き飽きし、飛行隊へ志願します。
ここでは当時の複座機のシステムを初めて知りました。
後ろに乗る士官はオブザーバーと呼ばれ、飛行の指揮権を握っており、
パイロットはいわば運転手という位置づけだったそうです。う~ん、勉強になりました。
やがてパイロットの訓練もなんとか終えたリヒトホーフェンは
その赤く塗られた機体と騎士道精神に溢れた戦いぶりも相まって名を挙げると
(女性ではないかという噂も広まったそうな・・)
英空軍からは賞金を賭けられ、リヒトホーフェン駆逐戦隊に狙われることになります。
しかし自身が率いる飛行隊の全機を赤く塗り、これらを返り討ちにして
逆に戦果を挙げていくことになります。
リヒトホーフェンによる英仏パイロットの違いは面白く、「すぐに逃げ出す卑怯なフランス機と
馬鹿らしいほどに勇敢かつ大胆に向かってくるイギリス機」という表現をしています。
そして1918年4月、敵陣であるソンムで撃墜され、25歳の若さで戦死します。
この死因はいまだにハッキリしていないようで、英空軍のブラウン大尉の撃墜説と
オーストラリア軍による対空砲と諸説ありますが、この本では前者の手記が
数頁掲載されています。この手記の真偽のほどは怪しいようですが、
「偉大なリヒトホーフェンの亡骸は非常に小柄で温厚な穏やかさをたたえた童顔であった」
として、彼を殺した自分を悔いています。
撃墜数80機という第一次大戦における敵国の最高のエースを
英国軍がまるで自国の兵士と同様の厳粛な埋葬を行ったという有名な逸話も
詳細に書かれていて、皇帝ヴィルヘルムやヒンデンブルクの哀悼の意までが
記されています。
最後に1933年のリヒトホーフェン伝記へ書かれた
ヘルマン・ゲーリング国家元帥(撃墜数22機)の序文が紹介されています。
ゲーリング自身がリヒトホーフェンと面識があり、
リヒトホーフェン戦闘機隊の隊長も務めてたことからのようですが、
これだけでも充分貴重な内容だと思いました。