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第二次世界大戦下のヨーロッパ [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

笹本 駿二 著の「第二次世界大戦下のヨーロッパ」を読破しました。

1月の「ベルリン戦争」を楽しんだ勢いで購入した本書は、1938年から日本公使館員として、
その後、朝日新聞特派員としてヨーロッパ各国に滞在した著者によるもので、
1970年の岩波新書、220ページとコンパクトな一冊です。
経歴だけを見れば、外交官の著者による「第二次大戦下ベルリン最後の日」と、
朝日新聞特派員の著者による「最後の特派員」を連想しますね。

第二次世界大戦下のヨーロッパ.jpg

まずは1939年9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻からです。
このようなタイトルの本で、一行目からこの日というのは好感が持てますね。
しかし本書でのポイントは、「ドイツが攻め込めば必ず助ける」と約束して、
ポーランドをけしかけてドイツに挑戦させておきながら見殺しにした英仏首脳です。

Poland, September 1939, German motorized units on their way to the front..jpg

チャーチルの回顧録から抜粋して、「ガムラン将軍だけを責めることは出来ない」などと、
よそ事のような言葉で誤魔化そうとしている・・とし、
2か月半前にパリで行われた「英仏作戦会議」ですでに、
「戦争の初めにおいてポーランドを助けることは出来ず、
ポーランドの運命を決めるのは戦争が終結した後のことである」と決定されていたとします。
このことを知っていたら、ダンツィヒ問題などでドイツにあれほど強く抵抗するほど
「ポーランドも馬鹿ではなかっただろう」。

先日、ダンツィヒ問題と現在のクリミア問題が似ている・・と書きましたが、
米国とEUはウクライナの為に、戦争出来るんでしょうか??

Gamelin Churchill.jpg

この戦争が始まった同じ日に、著者の滞在するスイスでも総動員が行われ、
総人口の1割以上の43万人が招集。
中立国であるものの、万一攻め込まれれば、断乎として戦うという決意です。
また、ワルシャワから逃げ出してきたS大使は、ワルシャワ爆撃の酷さ、
そして「ヒトラーのゴロツキの奴、あいつは必ずこの戦争で滅びるのさ」と憎しみを持って、
著者の聞く、「ヒトラー没落説」第1号を語るのでした。

Germans prepare for a victory parade in Warsaw 1939.jpg

翌年のフランス敗戦をマンシュタイン・プランなどにも触れながら紹介し、
その後、11月にモロトフを招いて行われた独ソ首脳会談をかなり詳しく解説します。
特に日独伊の三国同盟に、ソ連を加えた「四国同盟の草案」の件で、
「ドイツの仲介努力によって日ソ関係が最近改善し、日支関係については、
その解決を助けることは独ソの任務だが、支那の名誉を保つ解決でなければ・・」
と語るモロトフ。
帰国後にヒトラーヘの回答として、フィンランドとブルガリア問題の他、
「日本は北樺太の石炭、石油利権を放棄する」というスターリンの条件提示が印象的でした。
このあたりは日本人著者ならでは・・でしょうかね。

ヒトラーとしてはベルリンでのモロトフの強情で傲慢な態度に憤慨したこともあって、
バルバロッサ」への決意を固めるわけですが、
スターリンは「三国同盟の仲間入りを高い値段で売りつけることができる」とばかりに、
交渉と宥和を駆使し続けた結果、大きな痛手を被ったとします。

Molotov hitler.jpg

1941年3月に「ヒトラーさん、リッベントロップさんとお互い顔も知らないではお話にならぬ」
と言ってやってきた松岡外相はヒトラーと2回、リッベントロップと3回会談しますが、
ドイツ側が示唆した「独ソ衝突の可能性」を無視して「日ソ中立条約」を調印し、
帰国後はその件を閣議に報告せず、独ソ開戦の噂も否定したとして、
ヒトラー・松岡会談議事録の「日本では機密がすぐに漏れるのです」などといった、
自国のアラやボロを暴き立てる無神経ぶりに著者は「甚だしく不見識」と厳しい判定。。

hitler matsuoka ooshima.jpg

フランスの敗戦後にスイスのベルンから、ハンガリーのブダペストに移っていた著者。
4月上旬、突然ドイツ軍が現れ、南へと走り去っていきます。
ユーゴスラヴィアへの攻撃など知らなかったブダペスト市民は肝をつぶしますが、
翌日にリベラルな政治家であったテレキー首相が自殺して、さらなる衝撃を味わいます。

これは4ヵ月前にユーゴと友好条約を結んだばかりであるにもかかわらず、
枢軸の加盟国としてドイツに協力する義務を負い、そのユーゴ撃滅の為に
ハンガリー国内の通過と軍事行動の要請をヒトラーから受ける一方、
英国からは「ドイツのユーゴ攻撃に味方するならば、ハンガリーに宣戦する」
という脅迫を受けていたのです。

Teleki_Hitler 1940-11-20.jpg

ソ連に対するドイツ軍の攻撃はモスクワ前面で行き詰まったころと時を同じくして、
日本軍の真珠湾攻撃が・・。
ソ連の参戦で「これで勝った」と喜んでいたチャーチルは、再び「これで我々は勝った」と大喜び。
日本の大戦果を知ったヒトラーも米国に対して宣戦布告。
ブダペストでは「枢軸側の最後の勝利をもたらすのは、ドイツではなく日本である」と、
日本の陸軍武官は一躍、ブダペスト社交界のスターに・・。

朝日新聞のバルカン特派員となった著者は、1942年の「ブラウ作戦」に従軍します。
ポーランドのルジェフではゲットーのユダヤ人の姿にショックを受け、
廃墟と化したキエフを通って、6月26日に終点のクルスクへ・・。

Hunarian-2nd-Army-1942.jpg

堂々としたハンガリー軍総司令官ヤーニー大将が語るところによれば、
「ロシアから石油地帯を奪い取ること、これが最大の目標です。
これに成功すれば今度の攻勢は目標を達成する」。
ふ~ん。ハンガリー軍でもドイツ軍からキチンと説明は受けていたんですね。

Model_Gusztáv Jány.jpg

28日に始まった「ブラウ作戦」では、敵の迫撃砲にあわや・・という著者の戦記。
ドイツ軍とハンガリー軍の将校で満員の宿泊所では、
「7月中にはスターリングラードを落としてみせる」と鼻息高いドイツ軍将校と相部屋になり、
なかには「スターリングラードまで一緒に来ないか」と真面目に誘ってくる将校も。。

Panzer IV in front of damaged church. Near Stalingrad, September, 1942..jpg

しかしヴォロネジの町が燃えているのを見届けて東部戦線に別れを告げた著者。
客として好遇してくれたハンガリー軍は、スターリングラードの激戦の末、
ドン河のほとりで雪と氷の中に消え、ヤーニー大将は戦後、銃殺刑に処せられるのでした。

Gusztáv Jány_Gusztáv Jány Hungarian Second Army.jpg

ルーマニア、ブルガリア、ユーゴ、そしてトルコを周って、1943年にはパリを訪れます。
パリ見物のために自動車と案内人を付けてくれる親切なドイツ占領軍。
シトロエン自動車工場の労働者も、被服廟の女工さんたちも、案外陽気に働いていますが、
消極的なサボタージュは大っぴらで、これにはドイツ軍も手を焼いているそうな。。
混乱と反発を恐れて、東欧でやっているような厳しい強制労働は出来ないのです。

paris-Musique militaire 1943.jpg

10月にベルリンへと入りますが、朝日新聞支局があるホテル・カイザーホーフが
大空襲によって1週間後に焼け落ちてしまいます。
宣伝省はすぐさまホテル・エクセルシオールを世話してくれたものの、
2ヵ月後にはこちらも焼けて、ホテル・エスプラナードへ・・。
しかし食料や衣料の配給切符もドイツ人の10数倍という高待遇ですから、
日常生活に不便さはありません。

kaiserhof_1943.jpg

1944年にはノルマンディに連合軍が上陸し、報復兵器も登場。
7月20日の夕方、ホテルの事務所でボンヤリしていると、
周囲のただならぬ様子に何かが起こったと気が付きますが、
近所の陸軍省やゲッベルス邸が舞台となって、ヒトラー暗殺未遂の大事件と、
シュタウフェンベルクらの反乱が鎮圧されたことを夜になって知るのでした。

1944.7.20_Berlin, Bendlerstraße, Waffen-SS-Männer_Otto Skorzeny.jpg

ベルリンから姿を消したユダヤ人の問題については、
想像を絶した恐ろしい話が伝わってきてはいて、多くのドイツ人も知っていたと・・。
「我々は何も知らなかった」という主張を無条件に認めるわけにはいかないとしながらも、
「あの時のドイツ人には何の術もなかった」ことも認めてやらねば・・としています。

berliners_bus_stop_1945.jpg

アルデンヌ攻勢が起こった12月、著者はスイスへと戻ります。
最後に連合国三国首脳の「ヤルタ会談」を詳しく取り上げ、
ベルリンを目前として余裕しゃくしゃくのスターリンに対し、
ドイツを倒したあと、18ヶ月は続くと想定される対日戦で本土上陸をやれば、
50万人の死傷者を出すと計算し、満州の関東軍を掃討するためにも
ソ連の対日参戦がどうしても必要だとするルーズヴェルト

そして70歳のチャーチル、65歳のスターリン、62歳のルーズヴェルトが
奇妙なことに若い順で死んでいったことを挙げ、
もしこの順番が逆でルーズヴェルトがもっと長生きしてくれたら、
強硬な反共論者のトルーマンが大統領になることもなかったし、
反共の総大将であり、冷戦の巨魁であるチャーチルが米国中を歩き回って
「赤禍論」をぶち歩くことを許さなかっただろう・・と熱く語ります。
著者はチャーチル大嫌いみたいですね。
それにしてもルーズヴェルトでも「原爆」使ったのかなぁ??

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このように本書は、まず戦争の政治的背景の説明、大きな戦局の推移がメインで、
そこに当時の著者の体験談がプラスされるという展開です。
しかし政治的背景は日本人らしい視点が独特で、思わず、なるほど・・と頷く部分もありましたし、
体験記としてはちょっと物足りなかったものの、ハンガリー軍が大収穫でした。
このボリュームとしては、うまくまとめられた一冊だと思います。
ちょうど1年前に出たハードカバー 536ページの大作、
「不必要だった二つの大戦: チャーチルとヒトラー」も読んでみたくなりました。



そういえばお正月にwowowで放映された映画「カサブランカ」。
ハンフリー・ボガートの「君の瞳に乾杯」で有名な、アカデミー作品賞も獲った映画ですが、
1942年に公開された米国プロパガンダ映画という話もあって、初めて観てみました。
ラストシーンは幾度もTVで見ているので、わかった気になってパスしていたんですね。

casablanca-poster.jpg

舞台となるのは北アフリカのフランス領モロッコのカサブランカ。
ドイツ軍の電撃戦に敗れたフランスは本国の南部を含めて、
ナチス・ドイツの傀儡政権である「ヴィシー政府」の管轄となっており、
ここカサブランカにも中立国のポルトガルから米国へ亡命しようと、多くの人が集まっています。
そんな不思議な賑わいを見せる街で酒場を営む米国人がハンフリー・ボガートです。

ドイツ人のクーリエが殺された事件を調査するためにやって来たドイツ軍一行。
責任者のドイツ空軍の少佐の名前はハインリヒ・シュトラッサーです。
ヒムラーとグレゴールを足したような、いかにもナチって名前ですね。

Conrad Veidt as Major Heinrich Strasser.jpg

クロード・レインズ扮する現地の警察署長はそんなドイツ人に媚を売るフランス人。
米国人のボギーともなかなかの付き合いです。

Claude Rains as Captain Louis Renault.jpeg

そこへやって来たのが陥落したパリで姿を消した元恋人のイングリッド・バーグマンです。
オスロ出身のイルザって名前なので、ノルウェー人役かな??
いや~、それにしても綺麗だなぁ。今まで観た彼女の映画で一番です。
吉永小百合と江角マキコ足して、スウェーデン人にしたみたい・・。

Ingrid Bergman as Ilsa Lund.jpg

そして彼女の連れが実は旦那さんであり、チェコ人のレジスタンスの大物で、
自由フランスと連携しており、ドイツ軍に狙われてボギーに亡命の手助けを頼むのです。

Paul Henreid as Victor Laszlo.jpg

と、ザックリこんな感じのストーリーですが、
シュトラッサー少佐に一生懸命話しかけるも無視されるイタリア軍将校やら、
ボギーの店で愛国歌を大声で唄うドイツ人に反発して、全員でフランス国歌を唄うシーンなど、
普通に観ていても各国の関係は楽しめます。

しかし前半から「俺は中立だよ」と語るボギーの台詞などを注意していると、
彼らがその国を代表していることに気が付くのです。
すなわちボギーはまだドイツと戦っていない米国、ルーズヴェルトであり、
バーグマンはロンドンへ亡命したノルウェー国王・・というより、米国に助けを求めるチャーチル。
そのレジスタンスの旦那ヴィクトルは、もろにドゴールであり、
フランス人警察署長はペタン元帥なわけです。
ボギーに助けを求めるブルガリア難民の若い奥さんなんかも、
まさに大国に挟まれて苦悩するヨーロッパの小国そのもの・・。

Joy Page as Annina Brandel, the young Bulgarian refugee.jpg

イタリア人の悪徳事業家フェラーリは最後にボギーの店を買ってあげたりして、
なんとなく、シチリア上陸の「ハスキー作戦」に協力したと云われる、
ラッキー・ルチアーノなどの米本土のイタリアン・マフィアにも思えました。

Sydney Greenstreet as Signor Ferrari.jpg

そしてラストシーンでバーグマン夫妻を無事、飛行機に乗せて、
ナチスの化身、シュトラッサーを撃ち殺す米国人のボギー。
フランス人警察署長は「ヴィシーの水」と書かれたボトルをごみ箱に捨て、
ボギーと一緒に闘うことを誓ったかのように2人で歩き去っていきます。

casablanca last scene.jpg

この映画が製作されていたのが1942年というのも興味深いですが、
米国で公開されたのがその年の11月26日。
まさにこの時、モロッコを含む北アフリカ上陸の「トーチ作戦」が行われていたんですね。
そして年明けの1943年1月14日には連合軍首脳による「カサブランカ会談」が開かれるのです。

Casablanca Conference.jpg

まぁ10年前だったら、戦時中を舞台にしたキザなラブ・ストーリーとしか思わなかったかも・・。
よく、「『カサブランカ』ってそんな名作か??」って話も聞きますが、
このような当時の世界情勢と、ラブ・ストーリーのなかに織り込まれたプロパガンダを理解し、
その時代に並行して公開されたことを知ったうえで評価するべきでしょう。

それにしてもボギーをルーズヴェルト、バーグマンがチャーチルと考えてから、
愛し合う2人の写真を見ると、ちょっと気持ち悪くなってしまいました。。おぇっ!

Bogart and Bergman.jpg






22਍റ
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