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悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉 -スターリンの農業集団化と飢饉テロ- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロバート・コンクエスト著の「悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉」を遂に読破しました。

一昨年の9月に「スターリン -赤い皇帝と廷臣たち-」を読んだ際に知った本書は、
このBlogでも何度となく取り上げた「ホロコースト」に匹敵するジェノサイドとして、
「ホロドモール」と呼ばれる、ウクライナでの恐るべき大飢饉の全貌を描いたものです。
2007年に発刊された638ページの大作ですが、すでに廃刊でプレミア価格・・。
区内の図書館にも置いていませんでしたが、よその区からお取り寄せしてもらいました。 

悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉.jpg

3部から成る本書、まずは第1部「主役たち・・党、農民、国家」です。
キエフ大公の時代からモンゴル軍の手に落ち、今度はモスクワ公国へ・・といった
災難をいくつも乗り越えてきたウクライナ人の歴史を紹介し、
「10月革命」後、その資源に期待を寄せ、なんとしても自分の新体制の中に
ウクライナを編入したいと望むレーニン
1919年、1人当たりの消費量を130㌔とし、それを超えるすべての「余剰」穀物を
無料で徴発するよう命じます。
ナチス・ドイツもそうですが、この肥沃な土地は魅力があるんですね。

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ウクライナでは4ヵ月間で300回もの暴動が起こり、まだ内戦の最中ですから、
白軍の攻撃からも撤退を余儀なくされるボルシェヴィキ・・といった構図です。
「国家が必要」という観点から、農民の手元にどれだけ残るかということには関係なく、
徴発されることとなり、「食料徴発隊」が45000名に増員。
村々ではそんな食料徴発隊が到着すると発砲して交戦。
これに農民パルチザンの「緑軍」も加わって大掛かりな反乱へと発展していきます。
この1918年~20年の「農民戦争」における死者数は900万人。
さらに1921年~22年にかけて大飢饉が発生します。
天候が悪かったのに加え、農民が生存していくための最低条件となる農産物まで
ソ連政府が没収したことで、500万人が命を落とすのでした。

Одеські комсомольці вирушають на боротьбу з повстанцями, 1920.jpg

都会人のボルシェヴィキはもともと農民を「恐ろしく貪欲で負けず嫌い」と見ており、
スターリンも「農民は屑」と語っています。
そんな農民、特に地主貴族の延長上である「クラーク(富農)」は共産党の敵であり、
階級的にも許されず、反革命家であるわけです。
しかし富農の定義は曖昧であり、1927年、最も豊かな農民でも7人家族で
2,3頭の雌牛と10haの耕地を持っているだけ・・。
そして日雇い労働者などの「貧農」、その間に存在する「中農」も定義しようと四苦八苦。
「弱い」中農と、「豊かな」中農に分けると、党内も大混乱です。

Кулак смертный и бесмертный 1920_1930.jpg

第2部は「農民蹂躙」。
1929年、スターリンが「富農撲滅運動」に着手します。
これまでの、ただ穀物を収奪しただけの政策から大きく転換。
富農を3つのカテゴリーに分け、第1カテゴリーの10万人の富農を銃殺、または禁錮。
第2カテゴリーはシベリア、ウラル地方、カザフスタンなどの遠方地への強制移住で、
その数、15万世帯。。カラシニコフ一家もコレに該当したんでしょうね。
第3カテゴリーは政府に忠実な富農として、財産没収は部分的。
労働予備軍として政府の支配下に置かれます。

第1カテゴリーの「強情な階級の敵」とレッテルを貼られた富農は、
25人用の監房に140人が詰め込まれ、またある監房では7人用に36人が・・、
そしてキエフの刑務所では一夜に100人が銃殺された記録もあるそうです。

また、強制移住もこれだけの世帯数ですから計画もずさんで、
北半球におけるもっとも寒い地域であるマガダンのキャンプに送られた数千人と
監視人や番犬までが、その恐ろしい冬によって一人残らず全員が死亡。

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北カザフスタンの無人地に送られた富農たちが目にしたのは、
定住地5番とか、6番と書かれた小さな標識の付いた杭が地面に打たれているだけ。
建物も何もないこの土地で、「以後、自分のことは自分でせよ」と命令を受けます。
彼らは地面に穴を掘りますが、無数の人間が飢えと寒さで死んでいくのでした。

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「富農は人間じゃない。蛆虫だ」という言葉によって、このような大量虐殺が起こります。
ナチスが「ユダヤ人は人間ではない」と言ったように・・と、所々で、
ウクライナ生まれの、あのグロースマンの文章からも引用しています。
また、ウクライナ共産党第一書記でスターリンの側近だったカガノーヴィチや、
モロトフカリーニントロツキー、そしてフルシチョフの報告や命令、回想も随所に・・。

Lazar Kaganovich_Stalin.jpg

富農のいなくなった農場は「コルホーズ(集団農場)」に変身。
しかし農民たちは家畜の大量殺処分で抵抗します。
また、巨大な官僚ネットワークによって派遣されたコルホーズ責任者の無知や怠慢によって、
大抵のところでは不効率を極め、例外的に模範的なコルホーズも、
その穴埋めのために農民の分の穀物まで取り上げるのです。
まして農民に支払われる1年間の現金は、靴一足が買えるかどうかという程度。。
当然、ガッカリした農民の労働意欲は失われていきます。

例えば日本の大企業であっても、工場長と熟練の技師たちをクビにして、
代わりにデスクワークが取り柄の素人主任と、時給激安のバイトが来たところで、
生産能率が上がるとは、とても思えませんね。

Kolkhoz Propaganda-Poster2.jpg

大規模に導入された機械トラクターも故障が多く、そのくせ部品のスペアがないために
農業全体の生産はガタ落ちです。
ですが、スターリンはこれらの政策によって1932年には生産高が50%も上昇するだろうと予測。
新たに導入された「生物学的収穫高」によって、見積もりが行われますが、
これは利用可能な最大限の土地に対して、理論的に可能な最大の収穫高を当てはめ、
他方、収穫の際の、気候も伴うさまざまな損失は無視する・・というもの。
すなわち、「凶作」だろうが関係なく、「大豊作」の供出を要求するということですね。

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中盤ではウクライナ以外の国、ウズベキスタンやカザフスタンなど中央アジアにおける
「集団化」についても触れられます。
元来、定住すらしていない遊牧民を集団化させようという無茶な政策で、
その多くが砂漠など充分な水の供給すらない場所があてがわれます。
カザフ人の馬賊はコルホーズを襲撃してOGPUの武装隊と戦い、家畜を連れ去ります。

共産党のもう一つの敵が「教会」です。
革命前のロシア正教会は、1億人の正規信徒、5万の教会と同じだけの司祭を抱えていますが、
集団化は、地元教会の閉鎖も伴います。
イコンは没収されて、聖器具と一緒に燃やされ、教会そのものは「穀物倉庫」に変身。

Снятые с церквей колокола, г. Запорожье, 1930 год..jpg

以上を踏まえて、360ページからメインとなる第3部「飢饉テロ」が始まります。
1931年、ウクライナ嫌いのスターリンによって収穫高の42%に当たる
770万㌧の供出が要求され、さらに翌年も同じ数字をウクライナに求めます。
畜牛に穀物といったコルホーズのすべての財産は国家の保有とすることが定められ、
農民の70%がコルホーズで働いていたウクライナでは、法的な飢餓が始まります。
自分の自営地で実ったトウモロコシを100個ほど刈り取った農婦は10年の禁固刑を言い渡され、
集団農場から10個のタマネギを掘り出した別の農婦も同じ道を辿ります。
オマケに財産まで没収ですから、家族は餓死・・。
情状酌量の余地がなければ銃殺で、ハリコフ法廷の1ヶ月だけでも死刑判決が1500件。。

Дети на колхозном поле собирают мерзлую картошку, с1933 год..jpg

ある村では多数の農民が埋められた馬を食べたために銃刑に・・。
これは鼻疽病などの伝染病を恐れるGPUの手によるものです。
しかしスターリンの手先として農民のわずかな食料を徹底的に捜査する「作業班」のなかには、
腫れ上がった足を抱えて絶望し、毎日、死体が運び出されるさまに、
神経が耐えられなくなる者も出てきます。
慈悲深く、ジャガイモやサヤエンドウを家族の食糧として残してやることもあれば、
「これがスターリンの政策の結果だとしても、正しいやり方なのか・・」と。。
う~ん。。「普通の人びと -ホロコーストと第101警察予備大隊-」を思い出しますね。

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もちろん町には共産党員の官吏らのための大食堂があり、
とびきりの安価でパンや牛肉、フルーツ、ワインが提供されています。
このオアシスに飢えた農民や子供たちが入ってこないよう、警察が守りを固め、
農婦たちは食物欲しさに官吏らを相手に売春をするのです。

国家からハッパをかけられて、虐殺行為が広がっていくウクライナの村々。
小麦を引き抜いたり、トウモロコシを拾い集めているところを見つかっただけで、
武装した警備員に14歳の子どもでも銃殺されてしまいます。
1941年のレニングラードのように犬や猫も食べて、ミミズや砕いた骨も食べる農民たち。

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食料を求めて、キエフやハリコフ、オデッサの諸都市にやって来た農民も、
歩道に倒れ、飢えたまま転がっているだけ・・。
医師には農民に医療を施すことを禁じる命令が出され、
党員と警察が飢えた農民を駆り集めて、汽車で窪地に運んでそのまま放置。

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ある街路では毎日、150もの死体が集められます。
2500万人というウクライナの農業人口の1/4から1/5、約500万人がこのようにして死亡。
その死亡率は村や地域によって異なりますが、10%~100%です。
・・・「100%」って凄いですね。。村ひとつが飢餓で全滅したということです。

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飢餓の肉体的症状についても詳しく語られます。
もうちょっとシンドくなってきましたので、詳しい話はパス。。
自殺も増え、主な方法は首つりです。
母親たちは、しばしば子供の首を絞めて、悲惨な状況から子供を解放してあげるのです。
しかし、人間の顔をしながら、狼の目をした母親も・・。 
そう、気が狂って、自分の子どもを殺して食べる「人食い」です。
人食いを禁じる法律はないものの、「こいつは人食いだ。射殺しなければ・・」となります。
ですが、そう言う彼等こそが母親が子供を喰うほど、狂気に追い込んでいるのです。
トドメとばかりに「子供たち」という章も出てきて、餓死しただけでなく、
親と生き別れた子供たちが浮浪者となって・・と、もう書く気がしません。。

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1933年3月、ウクライナの穀物徴発はついに中止が決定します。
ミコヤンが軍隊の保存していた穀物の一部を農民に解放する指令を出しますが、
パンを与えられた農民が、あまりに沢山、しかも早く食べ過ぎて、死者が出た・・という話も。。
こうして農民と教会が破壊されただけでなく、文化人のほとんども粛清され、
ウクライナは蹂躙され尽くすのでした。

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ウクライナの国旗が、青色は空、黄色はステップ(草原)に豊かに実る小麦・・
ということは知っていましたが、本書を読んでから改めて眺めると、
何とも言えない気持ちになります。

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「結論」として著者は、1930年~37年までのソヴィエト農民の死亡者を1100万人、
この時期に逮捕され、その後、強制収容所で死亡した者を350万人、
合計1450万人が死亡したとしています。

「エピローグ」ではその後の出来事が語られます。
1936年~38年に起こった次のテロ。「大粛清」です。
10年の刑で刑務所にいた富農や農民がこの時期に銃刑となり、
また、コルホーズの議長や役人を告発することが期待されます。
告発された議長は自分の委員会を告発し、委員は監督や作業班長を告発・・。
もちろん、ブハーリンやルイコフといった党の主要人物も銃刑に処せられ、
ウクライナのNKVDの部長、バリーツキーらも同様です。
1938年のウクライナ共産党大会では86人のうち、前年から残っていた者は3人だけ。。

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スターリンを始めとして、本書には写真が一枚も掲載されておらず、
細かく挙げられる収穫高や死者数も表や一覧にまとめられていないのは不親切に感じました。
その分、登場する人物については訳注として生没年月日から党での役職、
エピソードが書かれていて、コレはなかなか参考になりました。
しかし恐ろしいのはこのような党員・・、80人くらいは出てくるでしょうか、
ざっと8割方が1937年前後に、「銃刑」、「自殺」、「獄中死」となっていることです。

ロシアに滞在していた海外メディアによる飢饉報道に対しても、
そんなものは存在しない・・と頑なに否定していたスターリン。
もうスターリン自身とモロトフ、カガノーヴィチ以外の関係者も粛清してしまってますから、
この問題は長い間、闇に葬られることになるのです。

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著者は英国のソヴィエト史家であり、「スターリンの恐怖政治」、
「誰がキーロフを殺したのか」、「スターリン -ユーラシアの亡霊」も書いている専門家です。
キーロフの本は読んでみたいと思っていたんですよねぇ。

本書は確かに、スターリン体制下のソ連について、ある程度知っている方向きです。
例えば頻繁に名称の変わる、KGBの前身であるいわゆる秘密警察・・、
GPU→OGPU→NKVDということを知っていた方が読みやすいですし、
また、個人的には知らなかった名称・・、
国営農場の「ソフホーズ」や、「村ソヴィエト」などは勉強になりました。
「ソヴィエト」って何の意味だっけ?? と、新鮮な感じでした。

それに純粋に「ホロドモール」について知りたければ、第3部だけでもOKでしょう。
しかし、なぜそれが起こったのか?? は、やはりウクライナの歴史と農民、
そしてボルシェヴィキのイデオロギーを前半で理解する必要があると思います。

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現在、ウクライナで激しいデモによって多数の死者が出ていると伝わっていますが、
EUとの連合協定締結協議を停止して、ロシアとの経済協力強化を進めようとする政府に
抗議する形で始まったようです。
政府側と戦っているのは、つい最近までボクシングのヘビー級チャンピオンだった
野党ウダル(UDAR)の党首、"鋼鉄の拳"ビタリ・クリチコです。



いくら10試合くらいは見たからといって、ウクライナの野党が正しいなんて言えませんが、
こんな本を読んだ後だけに、ロシアとの関係も含めて早く落ち着いてほしいものです。

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訳者あとがきでは「餓鬼(ハングリー・ゴースト)―​秘密にされた毛沢東中国の飢饉」
という本を紹介し、そちらでも本書が比較参考にされているそうです。
中国の大飢饉は「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962」を
チェックしていましたが、ちょっと気になるところです。

また「北朝鮮飢餓の真実―なぜこの世に地獄が現れたのか?」というのもあるそうで、
「北朝鮮人喰い収容所―飢餓と絶望​の国」というホラー映画みたいな本もあったり、
レニングラード包囲ガダルカナル島、そして本書と続いてきた飢餓シリーズは
今後どうするか、悩ましいですね。

















帰ってきたヒトラー (下) [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ティムール・ヴェルメシュ著の「帰ってきたヒトラー (下)」を読破しました。

上巻は出演したTV番組が「YouTube」にUPされ、大人気を博したところまででした。
本人はいたって真面目に政治演説をしているつもりが、周りはブラックジョークととり、
その双方の誤解っぷりが本書をユーモラスなものにしていますね。
例えば、会社とは「ユダヤ人をジョークのネタにしないこと」という取り決めになりますが、
ヒトラーは喜んで納得します。
なぜなら、「ユダヤ人問題は冗談ごとではない・・」と思っているからです。

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この下巻は、そんな人気の出たヒトラーを非難するタブロイド紙との戦いからです。
表紙にはヒトラーの顔写真がデカデカと載り、大げさな見出しが・・。
「狂気のユーチューブ・ヒトラー 全ドイツが混迷 -いったいあれはユーモアなのか?」
悪趣味で奇怪なコメディアンと紹介して、その芸風にも言及。
・トルコ人は文化と無縁だ。
・毎年国内で、10万件もの堕胎が行われているのは許しがたい事態だ。
 将来、東方で戦争が起きたときには、4個師団分の兵士が不足することになろう。

このタブロイド紙とは、ドイツで最も有名な「ビルト」紙です。
日本でいえば東スポみたいなもんでしょうが、実際にヒトラーのUFOネタとかやっている新聞。。

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ホテルの食堂ではラインハルトという名の可愛らしい少年がサインをもらおうとやって来ます。
「私も昔、ラインハルトという男を知っていた。
とても勇敢な男だった。たくさんの悪い奴らが君や私に悪さをしようとしても、
ラインハルトのおかげで奴らは何もすることができなかった」。
下巻でもすぐに昔を思い出すヒトラー。
ちなみにハイドなんとか・・という名前は出てこないのがミソですね。
その他、前半だけでもリッベントロップハンフシュテングルハインリヒ・ホフマンの名も・・。

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過激さの増す「ビルト」紙。秘書のクレマイヤー嬢と会社を出たところを隠し撮りされ、
翌日には、「狂気のユーチューブ・ヒトラー 寄り添う謎の女はだれだ?」
なんだかんだと上手くやっていた24歳の現代っ子女性のメアドまで紙面で晒され、
嫌がらせメールに「サイアク・・」と落ち込む彼女をヒトラーは優しく励まします。
そしてトラウデル・ユンゲの代わりを彼女が務めていることに気付くのです。

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若い社員、ザヴァツキくんはやる気満々の上に宣伝の才能もある心強い味方。
総統のホームページをちゃっちゃと作成し、過去のTV出演の映像に、
「最新情報」、「総統に質問!」といったコンテンツの他、「年譜」では、
1945年から<復活>までの空白年月が、<バルバロッサ作戦休止中>と表示されています。
まぁ、洒落っ気のある現代版ゲッベルスのようなイメージですね。

ナチスの継承者を自称する「ドイツ国家民主党(NPD)」に突撃取材を敢行するヒトラー。
ミュンヘンの最初のナチ党本部である「ブラウン・ハウス」の足元にも及ばない、
「カール=アルトゥール・ビューリンク・ハウス」と書かれたオンボロ小屋に吐き気を覚えます。

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暫くして姿を現したのは、むっくり太って苦しげに息をする無気力そうな人物。
「私はホルガー・アプフェル。NPDの党首です。あなたの番組は興味深く拝見していますよ」。
そして党の活動について鋭く質問するヒトラー。
「見たところ、親衛隊には所属していたことはないようだな。
だが、少なくとも、私の本は読んでいるのだろうな?」
不安げな目つきで答える党首。
「いや、あの本は国内での出版が認められていないので、そう簡単には・・」
「いったい何が言いたいのだ? 私の本を読んでいないことに対して謝罪したいのか?
それとも読んで理解できなかったことを謝罪したいのか?」

こんな調子で、ボコボコにされてしまうNPD党首ですが、
調べてみたら、この人、実在の人物なんですねぇ。

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「ビルト」紙との戦いはヒトラー側の完全勝利に終わったころ、
クレマイヤー嬢とザヴァツキくんのただならぬ雰囲気に気が付きます。
「彼のことをソートーは・・・男性としてどんなふうに見てるかなって・・」。
そしてやっぱり昔の若き秘書トラウデルと、従卒のハンス・ユンゲとの結婚を思い出し、
「私の執務室の隣で2つの心が惹かれあうのは、これが初めてではない」。

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ヒトラーが自殺した日、1945年4月30日を第2の誕生日としたかったものの、
年齢と合わないためにしかたなく、1954年4月30日生まれとして住民登録も完了。
会議室に急いでくるように言われても、カフェテリアにラムネ菓子を買いに行くヒトラー。
「ほんとに度胸があるんですね。あなた」
「私のような度胸がなければ、ラインラントに進むことなどできない」
「またまた大げさな。こんなところでのんびりしていて、平気なんですか?」
1941年の冬も、誰もがそう言った」。
総統との会話は、基本的にこんな感じです。。

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「ドイツ国家民主党(NPD)」突撃取材の特番が、「グリメ賞」を獲得したという知らせに
フラッシュライト社は社長以下が総出でお祭り騒ぎになります。
この「グリメ賞」というのはドイツ最高のTV番組に与えられるもののようで、
ヒトラーは急遽、全員の前で受賞の挨拶をすることに・・。

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「私はこの身が神によって使命を授けられたことを強く自覚している。
それはこのフラッシュライト社に自由と名誉を再び取り戻すことだ。
22年前、パリ近郊のコンピエーニュの森で強いられたあの敗戦の恥辱。
それを今、また同じ場所で・・・、失礼、
このベルリンの地において拭い去るのだ。
ドイツの素晴らしき将校として、あるいは兵士として・・・、いや、
ドイツの素晴らしきカメラマンとして、照明係として諸君は犠牲を捧げた。
そしてわれらは勝利した。ジーク・ハイル(勝利万歳)!」



ヒトラー人気もさらに高まって、新しい番組も始まります。
ヒトラーがホストとなり、政治家をゲストに招いた討論番組です。
独ソ戦の大本営ヴォルフスシャンツェにそっくりのセットが作られ、
ドアを開けてくれるようなアシスタントを決めることに・・。

「では、その役は党官房長官のボルマンに決まりだ」
「誰です、それは? 聞いたことがないですな」
「君はヒムラーが毎朝、私の制服にアイロンがけをしていたとでも思っているのか?」
「その名前なら、少なくとも知られていますからね」
「例えば、ゲッベルス、ゲーリング、それからヘスくらいかしら・・」
ヘスはダメですよ。同情されるキャラですから」
ゲッベルスは呼び鈴が鳴っても私のためにドアを開けたりしない」
ゲーリングを出した方が、お客は笑ってくれるんじゃないかな」

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緑の党の元党首、レナーテ・キュナスト女史をゲストに招いた本番では、
机の下になぜかブリーフ・ケースが置いてあり、カチカチと時計の音を立てるという演出付き。
「ところで、シュタウフェンベルクはどこに行ったのだ?」

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こうして復活してから2回目の冬を迎えたころ、ベルリンの裏道を歩いていたヒトラーの前に
2人の男がぬっと立ちはだかります。
「お前がドイツを侮辱するのを、俺たちが黙って見ているとでも思うのか?」
次の瞬間、キラリと光った拳が驚くほどのスピードで飛んで来るのでした・・。

と、新しい小説ですから、こんなところで終わりにしましょう。
個人的にネガティブ・エンディングというか、主人公が死ぬとか、救いのないラストが好きなので、
本書もテーマからして、そうなるのでは?? 1945年4月30日にタイムスリップするのでは??
と想像しながら後半読み進めましたが、まぁ、うまいこと外されましたね。
上下巻で500ページ超えですが、あと数ページとなると、寂しい気持ちにもなりましたし、
ひょっとしたら、続編を想定しているのかも知れません。

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「訳者あとがき」では、ナチス礼賛が禁止、「わが闘争」が発禁されているドイツで、
本書が電子書籍等を含めて、130万部を売り上げるベストセラーとなり、
38か国で翻訳、さらに映画化も決定していると解説。
ヒトラーが首相となった1933年に因み、19.33ユーロだったとか。。

もちろん批判もあり、特にヒトラーが悪者ではなく、人間的魅力のある人物に描かれていること。
著者はこれに対し、「人々は気の狂った男ではなく、魅力的に映った人物を選んだのだ」
と語っているそうです。まぁ、同意見ですね。

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同意見といえば、ヒトラーはこんなことも考えています。
「なぜ電話が、カレンダーにカメラ、その他モロモロの機能を備えていなければならないのか?
なぜわざわざ、こんなに愚かでかつ危険なものをつくりあげたのか?
多くの機能が盛り込まれているおかげで、若者らは画面に見入りながら道路を歩く。
そのせいで、たくさんの事故が起こるに違いない。
劣等民族にはそれを義務化するほうが、むしろ好ましいかも知れない。
そうすれば数日のうちにベルリンの大通りには、車に轢かれたハリネズミのように、
やつらの遺体がゴロゴロと転がっているはずだ」。

そして上巻でも気が付いた登場人物や戦役などに関する(注)が一切ない件についても、
「研究書ではなく小説だから」との理由により、著者が翻訳者に課した制約なんだそうです。
端折りましたが、シュトライヒャーエミール・モーリスハインリッヒ・ミュラーDr.モレル・・
なんて名前も登場しました。

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う~ん。映画かぁ。。
映画化するにあたって一番心配なのは、主役の俳優さんですね。
ソックリさんというレベルでは本末転倒ですから、ブルーノ・ガンツを越える必要があるでしょう。
コメディだからフルCGという手もあるかもしれませんが・・。子供向けじゃないし。。
また本書の面白さは、ナチス時代と現代との話のかみ合わない小ネタにあるので、
それを万人にわかるように説明するには、第三帝国のエピソードを織り込む必要がありますし、
だとすると、2時間では網羅しきれない気がします。
30分の連続ドラマあたりがちょうど良いと思うんですけどね。





帰ってきたヒトラー (上) [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ティムール・ヴェルメシュ著の「帰ってきたヒトラー (上)」を読破しました。

去年から海外でも話題になっていた本書を読むのを楽しみにしていましたが、
1月21日に発売されてからすぐではなく、無駄にちょっと我慢してから取り掛かりました。
現在、amazonでは「ア行の著者のベストセラー1位」になっていますね。
ヒトラーが現代に蘇って、コメディアンになる風刺小説・・という程度の情報しかあえて知らずに
256ページのこの上巻を楽しんでみたいと思います。
しかし区内の図書館では「14人待ち」と、これからの方も多いでしょうから、
極力、本質的なことは避けて、独破戦線らしく書いてみましょう。

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第1章は「2011年8月30日-ヒトラー復活」です。
午後のまだ早い時間帯にがらんとした空き地で目覚めたヒトラー。
昨晩の記憶といえば、総統地下壕でエヴァと談笑し、手持ちの古いピストルを見せたことだけ・・。

この小説、ヒトラーの一人称です。そうきたか。。
またこれだけで、ヒトラーが自殺した日から蘇ったということが判る人なら本書はより楽しめます。
ヒトラーの気持ちになって読み進めることができるからです。

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物音がする方を見ると、サッカーで遊んでいるヒトラー・ユーゲントの少年たち。
けばけばしい色のスポーツシャツに母親が縫い付けたと思われる少年の名を読み取ります。
「ロナウド! ヒトラー・ユーゲントのロナウド!通りにはどうすれば出られるのか?」

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大通りをおぼつかない足取りで歩いていると、ベルの音と誰かが怒鳴る声・・。
「ちょっと、おっさん! 気を付けろよ! どこに目ぇつけてんだ!」
そこには自転車とその乗り手がおり、彼が防護用にかぶっているヘルメットは、
表面にたくさんの穴が空いています。
「敵の攻撃を受けてひどく損傷したせいなのだろう。つまり、今はまだ戦時中なのだ」。

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事態を冷静に分析するために「民族の観察者(フェルキッシャー・ベオバハター)」紙か、
「突撃兵(デア・シュテュルマー)」紙、それが無理なら「パンツァーベア」紙でも手に入れようと、
キオスクを訪れます。
求める新聞はないものの、そこにある新聞の日付を見て卒倒するヒトラー。
しかし幸いにもキオスクの男がなかなか親切です。
「『ヒトラー~最期の12日間~』。主役のブルーノ・ガンツははまり役だったな。
でも、あんなの目じゃないね。おたくは全体のたたずまいが・・言っちゃなんだが、
まったく、あれの本人みたいなんだよね」。

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一文無しのヒトラーはこのキオスクで寝泊まりし、「バルバロッサ作戦」から70周年というこの年、
多くの報道が書かれた新聞を読んで、自分が事実上死んだことになっていたり、
帝国の領土が縮小し、本来存在すべきでないポーランドですら、
そもそもドイツ領土だった場所までドサクサにまぎれて持ち去ったことを理解して激昂。。
しかし彼に言わせれば、「それでは、亡くなった総統の遺体はどこだ? 見せてみろ!」。

こうして、運命が彼を過去から呼び寄せたということであれば、一見平穏であるこのドイツが、
そのじつ、かつてより深刻な状況にあるのでは・・・? と解釈した彼は、
総統として再び立ち上がることを闇夜に誓うのでした。

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数日後、テレビプロダクションの男2人がキオスクにやって来てヒトラーに面会。
もちろん彼らは噂に聞いた「そっくりさんの芸」を見てみようと思って来たものの、
内外の政治家や将軍連中もギャフンといわせてきた総統の話術と、その迫力に
思わずコーヒーを噴きだすほど。。

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用意されたホテルでは1936年当時とは形も変わったテレビに驚き、
その内容の低俗さにも毒を吐き続けます。
しかも番組はたびたび唐突に打ち切られ、お得な保養旅行ができるだのの広告宣伝が・・。
どの店の名前も「www」という3文字で始まるのは、同じ親会社に属しており、
ロベルト・ライの「KdF(歓喜力行団)」の偽名なのかも・・と期待するのでした。

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素晴らしい乗り心地の迎えの車。運転手曰く「メルセデスですよ。お客さん」。
「私も以前カブリオレを持っていた。運転手のケンプカは文句ひとつ言わなかった・・」と
郷愁が波のように襲います。

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本書ではこのケンプカやライのように、ヒトラーは昔の人物をたびたび思い出します。
ここまでなら、フンク、ルスト、デーニッツシュペーアゲーリングパウルスシュタイナー
基本的には彼らに対する悪口ですが、本書には(注)が一切ありません。
ヒトラーが語る最低限の説明しかない彼らを読者は知らなくても実害はないでしょうが、
第三帝国とドイツ軍に詳しい方が読めば、その面白さは倍増しますね。

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プロダクションとの契約にこぎつけると、社会保険や銀行関連の書類作成に一悶着。
「アドルフ・ヒトラー」では絶対に書類が法務部を通りません。
パスポートか銀行通帳を・・という問い合わせにも嫌気がさし、
「そんなことはボルマンに聞いてくれ」。

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大手プロダクションのフラッシュライト社に小さな仕事部屋を与えられ、
パートタイムの若い女性秘書も。
ヴェラ・クレマイヤーという名の彼女は、握手をして言います。
「やだほんと。ウソみたい。やっぱりそれって、<メソッド演技法>なんですか?
ほら、デ・ニーロとかパチーノみたいな。役に100%なりきるやつ・・」。

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そんな現代っ子の秘書にも臆さないヒトラー。
「まず第一に、私は総統だ。だから「わが総統(Mein Führer)」と呼んでもらいたい。
それから部屋に入るときは右手を高く上げて、ドイツ式敬礼で挨拶をしてほしい」。
顔がパッと明るくなったクレマイヤー嬢。
「知ってます、それ! ほら、あれでしょ? ちょっと今、やってみせます?
おはようございまーす!わがソートー!」

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そして机に置かれたパソコンと、マウスという装置の素晴らしさに驚愕します。
<インターネッツ>は閉館時間のない巨大な図書館であり、
「あの当時にこんなものがあったなら!」
お気に入りは、ゲルマン風の名前の付いた「ウィキペディア(Wikipedia)」です。
すこし考えればこれが「エンサイクロペディア(百科事典)」と、
古代ゲルマン人の「ヴァイキング(Wiking)」を掛け合わせた造語であるのは、一目瞭然。。

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Eメールアドレスの登録ではクレマイヤー嬢とドタバタが続きます。
自分の名前にしたいという総統に対して、「あなたの名前は禁止されていますよ。わがソートー」。
あーだこーだの末、結局、「新総統官邸(Neue Reichskanzlei)」で落ち着くのでした。

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研究熱心なヒトラーは空白であった戦後ドイツの歴史を<インターネッツ>で学びます。
「中途半端な自称「ドイツ再統一」を成し遂げたという首相は、
16年という長きにわたってこの国を統治。
16年といえば自分よりも4年も長い期間であり、ゲーリングの如くでっぷりと太ったその姿・・。
宿敵フランスは知らぬ間に、ドイツにとって最大の盟友に成り上がり、
EU連合はそのじつ、小学生が作るギャング団と同じほど幼稚な集団に過ぎない」。

Helmut Kohl  Brandenburger Tor.jpg

「一方、東欧諸国でも負けず劣らずの愚行が繰り広げられてきたものの、西側との相違点は、
揉め事が起これば、ボルシェヴィキのソ連が涎を垂らして乗り込んでくる・・。
また、米国に引き抜かれた腰抜けで怪しげな日和見主義者のSS少佐フォン・ブラウンは、
「V2ロケット」の知識を最高入札者に高い値段で売りつけた・・」と辛辣ですねぇ。

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それよりも彼にとって衝撃的なのが、ドイツ政治の現状です。
「なにしろ国の頂点に立つのが、女。
それも、陰気くさいオーラを自信満々に放っている不恰好な女だ。
東独育ちのこの女は、つまりは36年もボルシェヴィキの亡霊と共にあったというのに・・」。

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遂にTV出演のときがやって来ました。
低俗なお笑い番組で持ち時間5分、「トルコ人問題」などについての演説を冷静に・・。
しかし、100人の観客は微妙な反応です。
翌日は新聞に少しだけ記事になっていますが、
「昔も、最初は底辺の底辺、聴衆は20人足らずだった。その時のことを思えば・・」と、
振り返るヒトラー。
ドイツ再建のために切実に演説したい彼ですが、周りは全員ジョークだと思っているのです。

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そんなとき突然、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」が鳴り響きます。
秘書のクレマイヤー嬢が設定してくれた携帯電話の着信音なのです。
「こちらヒトラー! こちら総統大本営!」。
電話の要件は昨日のTV出演が「YouTube」にアップされ、アクセス数70万回と爆発中とのこと。
プロダクションは、この人気に大急ぎでヒトラーの突撃取材コーナーなど製作し始めます。
カメラマンを携えて、街行くご婦人方にインタビュー取材するヒトラー。
そして彼女たちの反応は・・。

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いや~、コレは予想以上に面白い。
この256ページの上巻を3時間ほどで一気読みしました。
おそらく1時間42分ほどはニヤケ顔だったでしょう。
実在した、或いはする登場人物についての余計な注釈がないのでサクサクいけますし、
さすがにこんな小説を書くだけあって、著者のヒトラーと第三帝国に関する知識は、
なかなかのものだと思いました。
少なくとも、「それはないだろ・・」というヒトラーの発言はありませんし、
プロダクションの若手社員であるザヴァツキくんとの食事の席でベジタリアンを語る際、
「ライオンは2,3㌔、時間にしたら20分そこらで、もうぐったり疲れ果ててしまう・・」
なんて話は、「ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈上〉」からの抜粋だったりします。

これくらいボリュームなら上下巻にする必要は無いんじゃないでしょうか。
帯には「映画化決定!!」とありますが、大丈夫かな?? こういう話はすぐ立ち消えになるし・・。
本当はこんなレビューを書いているヒマがあったら、サッサと下巻を読みたいところですが、
そこはグッと堪えて、楽しみを取っておきます。





ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

宇都宮 徹壱 著の「ディナモ・フットボール」を読破しました。

2002年に出た269ページの本書が本棚に未読のまま眠っていたのを発見しました。
買った記憶もなく、「ディナモ ナチスに消されたフットボーラー」と
ごっちゃになっていたようですね。
もともと東欧のサッカーにも興味があって、6~7年前に購入したんだと思いますが、
この「ディナモ」と付くサッカークラブは、共産国における「内務省」のチームとして知られています。
言い方を変えれば「秘密警察サッカークラブ」っトコですね。。
本書はベルリンの壁が崩壊し、ソ連も解体してから10年後である2000年に
各国の「ディナモ」の現状を取材した、ルポルタージュです。

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著者がまず訪れた街はベルリン。
冷戦時代も西側のブンデスリーガに在籍していた有名な「ヘルタ・ベルリン」ではなく、
壁の向こう側、東ドイツリーグで無敵を誇り、1979年から10連覇を達成した最強クラブ、
「ディナモ・ベルリン」が取材対象です。
しかしながら、昔から東ベルリン市民に愛されるどころか、忌み嫌われており、
その理由は、「ディナモ」の東ドイツ秘密警察といえば、あの「シュタージ」というわけです。

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内務大臣、すなわちシュタージのトップはエーリッヒ・ミーケレという人物で、
クレムリンの代理人として、1957年から壁が崩壊するまでその座に君臨。

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体制を維持する機関であるシュタージは「正義」であり、
そして「正義」は必ず勝利しなければなりません。
となれば、対戦相手とレフェリーにも、不可解なオフサイドやPKが求められ、
何千人もの観衆の前で公然と行われた不正による勝利の結果、
「いかさまマイスター」という綽名を頂戴するのでした。

なにか「ニセドイツ」を読んでいるような気になってきました。
1980年代のユニフォームも確かに「シュタージ」っぽい色合いですね。

dynamo berlin 1984.jpg

東西ドイツ統合後は、後ろ盾のシュタージも消滅して西側クラブとの実力差は明らか。
アンドレアス・トームといった点取り屋も移籍し、あっという間に4部へ降格・・。
カメラマンでもある著者は7万6千人を収容する巨大なオリンピア・シュタディオンで行われる
魅力的な一戦、ヘルタ・ベルリンvsハンブルガーSVではなく、
1万2千ぽっちのシュタディオンでの「ディナモ・ベルリン」の戦いざまを選ぶのです。
しかも相手はアマチュア・クラブ・・。

この「ディナモ・ベルリン」というのはほとんど知らなかったんですが、
ドイツでもっと有名な「ディナモ」である、「ディナモ・ドレスデン」にも触れながら、
DDR時代、「ディナモ・ベルリン」の最大のライバルであった
東ベルリンの労働者のクラブ、「1. FCウニオン・ベルリン」への取材へと進みます。

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次にやって来たのはウクライナのキエフ。
1927年に設立され、第2次大戦中「ナチスに消されたフットボーラー」となったクラブです。
本書ではこの件も紹介しますが、「ソ連のプロパガンダであったという説もある」としています。
まぁ、「カティンの森」がドイツの仕業と言い張るくらいですからねぇ。
有り得ない説じゃありません。。

1975年にはロシア勢を差し置いて、ソ連初のヨーロッパ・カップを獲得。
これはバイエルンを下したカップウィナーズカップです。
このような快挙もウクライナの弾圧された歴史を振り返りながら進むことで、
ウクライナが世界に誇れるものは天然資源ではなく、
ディナモ・キエフ・フットボールだったのだとしています。

Dynamo Kyiv 1975 cup winners cup.jpg

独立を果たした90年代には、カリスマ指導者ロバノフスキー監督のもと、
レブロフやシェフチェンコらが大活躍。
チャンピオンズリーグの98-99シーズンにはベスト4と一大旋風を巻き起こします。
いや~、懐かしい。この時は凄かったです。ロバノフスキーはベンチで全然、動かないし。。

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1887年、モスクワ郊外で「モロゾフ」という工場を経営していた英国人チャーノックが
ロシア初のフットボール・クラブ「モロゾフツィ(モロゾフの仲間たち)」を設立。
やがて「モスクワの恐怖」と呼ばれるようになったクラブのカラーは青と白。
これはチャーノックが熱烈なブラックバーン・ローバーズ・ファンであったことに由来します。
ヴィトゲンシュタインも好きで、実は上下のトレーニング・ウェアを持っています。。

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革命の混沌のなかを生き延びたこのクラブは1923年に生まれ変わります。
新たな名称は「ディナモ・モスクワ」で、受け継いだのは青と白のチームカラーのみ。
創設の主要メンバーにはあの「チェーカー」の議長、ジェルジンスキーが名を連ね、
この時から「ディナモ」は秘密警察のクラブとなり、モスクワに倣えと
各地で誕生した「ディナモ」も、このチームカラーを選択するのです。

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なるほど・・、確かに「ディナモ・キエフ」もこの色ですね。
秘密警察の青だから、NKVDの青をイメージしてるんじゃと思ってたんですけどね。。
「ディナモ・ベルリン」が違うのは、この色を「ヘルタ・ベルリン」が使っていたからかも・・。

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著者が訪れた2000年、モスクワでは5つクラブがトップリーグでしのぎを削り、
内務相のディナモの他、生産者組合のスパルタク、鉄道労働者組合のロコモティフ、
自動車工場組合のトルペド、そして本田くんがいたCSKAは、もともと赤軍の後援です。

地下鉄の駅名にもそのまま「ディナモ」が付けられているこのクラブは、
単なるサッカークラブではなく、欧州でよくある総合スポーツ・クラブであり、
「ロシアの白い巨塔」と呼ばれる女子バレーのエカテリーナ・ガモワも
2009年まで、「ディナモ・モスクワ」に所属していたようです。

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「ディナモ」の名付け親はマキシム・ゴーリキーであるという伝説があるそうで、
その語源は「ダイナミズム」、「運動」のイメージであり、転じて「革命」にも通じると・・。
ロシアにおいては本来的に、「スポーツ・クラブ」と同義であるともしています。

3万6千席のディナモ・スタジアムでは、ベリヤが座っていた貴賓席を見学し、
フットボール狂だったベリヤが露骨にゲームに介入した話も紹介。
KGB出身の現大統領プーチンも「ディナモ」サポーターかと思いきや、
ザンクトペテルブルク出身なので「ゼニト」を応援しているのでは?? とのことで、
う~む。。そういえば、ここ数年ゼニトはメキメキ強くなっています。怪しいなぁ。

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一方、内務省のサポートが途絶えたディナモは落ち目で、実際、有名な選手は
「黒蜘蛛」を異名を持つ、唯一のバロンドール受賞GKであるレフ・ヤシンくらい。。

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それでも「ディナモ」の総本山である「ディナモ・モスクワ」ですから、
実は本書では「プロローグ」として、1945年11月にモスクワから英国へやって来た
この謎のフットボールクラブが、チェルシーに3-3で引き分け、カーディフ・シティには10-1と圧勝。
ハイバリー・スタジアムがドイツ軍の空爆によって破壊されていたアーセナルは、
スパーズのホワイトハート・レーンで迎え撃ちますが、4-3と逆転負け。
「ディナモ・モスクワ」は最後にグラスゴーでレンジャースと2-2で引き分けて帰国します。

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ナチス相手に共に戦った同盟国ソ連に対して、この遠征を打診したのは英国ですが、
第2次大戦当時、英国ではリーグ戦は中止され、終戦後も徴兵されていた選手たちが
戻ってくるのが遅れていたことがあるにしても、フットボールの母国としてはショックです。

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すでに「大祖国戦争」での勝利を確信していたスターリンによって、
「ディナモ」のメンバーだけでなく、国家から認められたスポーツ選手は中央アジアの
ウズベキスタンの首都、タシケントなどに集められてトレーニングに励んでおり、
「ソヴィエト社会主義がいかに優れているか」を
スポーツを通じて証明する機会を探っていたのです。
こうしてスターリンとベリヤの決定によってやって来たのが、
ソ連最強のコマンドである「ディナモ・モスクワ」だったのです。

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2勝2分で英国人を驚かせたから良かったものの、もしボロ負けしてたら、
全員そのまま亡命・・とか、帰国後はシベリアへ・・、なんてことが起こったでしょうね。
ちなみに現在の監督はダン・ペトレスクでした。
昔、スタンフォード・ブリッジで観たことありますし、同い年なのでファンなんです。

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また、オリンピックなどの戦後のソ連スポーツについても書かれていますが、
このあたりも「ソチ・オリンピック」も手伝って、非常に興味深いですね。

いちスポーツ好きの日本人として言わせてもらえれば、
オリンピックやワールドカップなど、4年に一度の世界最高峰の大会では、
その競技における世界最高のプレーと選手が、まず見たいのであって、
日本人が・・とか、アジア初の・・だとか、そんなことは二の次なんですね。
外国人選手の紹介があったにしても、やれ「イケメン選手」、「美人アスリート」ですし、
日本人中心の放送や報道を否定するつもりはありません。

しかし、「金メダル候補が怪我で欠場するからチャンスだ!」というのはどうでしょう。
そのような外国人選手に勝ってこそ、メダルの価値があるんじゃないでしょうか?
上村愛子ちゃんには今回こそメダル獲ってほしかったですが、
もう少し、世界最高のプレーヤーたちに対する敬意を払ってほしいものです。

それにしてもロシアの"カー娘"、アンナ・シードロヴァちゃんは、なんてハシタナイ格好で・・。

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共産党から距離を置いた形で1922年に設立されたのが、「スパルタク・モスクワ」です。
「民衆のクラブ」として、ベリヤにも迫害されるディナモ最大のライバルであり続けますが、
ソ連崩壊後はいち早く民営化に成功。
チャンピオンズリーグにもオノプコ中心に、毎年出場していましたねぇ。

8万人の収容人数を誇る有名なルジニキ・スタジアムでは、
1982年に起こった340人が死亡したという史上最悪の大惨事を取り上げ、
共産党指導部がこの事件を隠蔽した・・という話や、
今もなおそびえる巨大なレーニン像も、白黒ながら写真を掲載。

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スターリンの生まれ故郷であるグルジアまで取材する著者。
首都のトビリシには「ディナモ・トビリシ」が存在します。
ここの卒業生はアヤックスに移籍したアルフェラーゼに、ミランで活躍したカラーゼ。

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あ~、ここでも懐かしい名前。。
ゴルバチョフ時代の有名な外相で、後のグルジア大統領がシュワルナゼでしたから、
「なんとかーゼ」って言ったらグルジア人・・という風に覚えたもんです。
もちろん例外もあって、一番好きなグルジア人選手はニューカッスルのケツバイヤでした。

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1925年設立のこのクラブは「グルジア人の誇り」であり、事実上の「グルジア代表」。
ソ連リーグではリーグとカップで2回ずつ優勝し、1981年にはディナモ・キエフに続き、
カップウィナーズカップを獲得します。
ロシアのクラブが一度も手にすることの出来なかった欧州カップを
グルジア人たちが掲げたことは、切手になるくらいの大きな事件なんですね。

Dinamo Tbilisi 1981_cup winners cup.jpg

続いてやって来たのはルーマニアの首都、ブカレスト。
戦後の1948年に設立された「ディナモ・ブカレスト」は、内務省と
秘密警察「セクリターテ(セクリタテア)」にサポートされたクラブです。
著名なプレーヤーなら、1994年のW杯で4点取る大活躍をしたラドチョウが筆頭ですね。

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銃殺されたチャウシェスク大統領夫妻の件など、ルーマニア政治にも触れながら進み、
ライバルの「ステアウア・ブカレスト」についてもなかなか詳しく・・。
「ステアウア」とは「星」を意味するそうで、陸軍のクラブであり、
チャウシェスクの息子、ヴァレンティンの所有財産のひとつでもあります。
日本でもディナモよりもステアウアの方が有名だと思いますが、
1986年、スペインのセヴィージャでバルセロナを下してチャンピオンズ・カップを獲得し、
翌年にはトヨタ・カップで来日していることも大きな理由でしょう。

しかし、バルサとの決勝で4本のPKを止めた、守護神デュカダムは日本に来ることはなく、
「右腕が原因不明の血栓症に冒された」とのことで突然、引退。
スペイン国王から贈られた高級車をチャウシェスクの息子に譲らなかったことで、
「セクリターテに右腕を潰された」という恐ろしい話が伝わっているそうな。。

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最後にやって来たのはクロアチアのザグレブ。
ユーゴの内戦が終わり、独立したクロアチアはリーグも独立。
仇敵レッドスター・ベオグラードとのゲームが行われなくなってサポーターも淋しい限り。。
トゥジマン大統領によって共産主義のイメージが強すぎるとの理由で、
「ディナモ」が外され、「クロアチア・ザグレブ」へと名称変更されると、
愛するクラブの名称が勝手に変更されたことにサポーターは激怒しますが、
本書で紹介したその他の「ディナモ」でも同様の問題が起こっています。

そんな1999年に移籍してきたのは「キング・カズ」。
12試合に出場してゴールは「0」。日本でも中継されましたねぇ。

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第2次大戦のナチスによる傀儡国家クロアチアや、「ウスタシャ」も紹介しながら、
セルビア人との長年の確執について言及します。
1945年にはベオグラードに2つのクラブ、レッドスターとパルチザンが、
クロアチアにはディナモ・ザグレブとハイジュク・スプリトという4強時代の幕開け。

1990年、独立目前の状況で行われたディナモ・ザグレブvsレッドスターの民族対決。
ザグレブのマクシミール・スタジアムでサポーター同士が激しく衝突し、
セルビア人警官隊もディナモ・サポーターに襲い掛かると、
10番を付けたボバンが警官に飛び蹴りを喰らわせて、一躍、国民のアイドルに・・。
有名な事件ですね。



その後、クロアチア代表は1998年のW杯でも日本と戦い、好成績を残しますが、
ボバンを筆頭にプロシネチキやシューケルも、この「ディナモ・ザグレブ」の出身なのです。

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予想以上に楽しめた一冊でした。
確かに購入当時に読んでいても、サッカー好きとしてそれなりに面白かったでしょうが、
独破戦線でスターリンやベリヤの本も読んできただけに、
本書に書かれている各国の歴史や秘密警察についても同じくらい
興味深く読みましたし、いろいろと調べてしまいました。

共産主義国家から民主化に移行したものの、現在の欧州サッカー界では、
多くの選手が西側のリーグへと流出し、国内のスタジアムは閑古鳥が鳴いています。
まして政府の「ディナモ」系クラブはクラブ自体の民主化にも乗り遅れて、
往年の名声を取り戻せないまま・・。
このようなことはサッカーだけでないことが本書では良く伝わってきました。



ふたつの戦争を生きて ファシズムの戦争とパルチザンの戦争 [イタリア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヌート・レヴェッリ著の「ふたつの戦争を生きて」を読破しました。

実に久しぶりとなる「イタリアもの」の紹介です。
前回はいつかというと、2010年9月の「誰がムッソリーニを処刑したか」ですから、
3年以上になりますね。
ちょうどその頃、2010年7月に出た272ページの本書は
イタリア軍将校として東部戦線に従軍し、その後、本国でパルチザンとして・・という、
タイトルどおりの経歴を持つ著者による一冊です。

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「はじめに」では、一般的な歴史書や将軍たちが書いた回想録を
「高所から見た歴史」と位置づけ、兵士たちの声、「底辺から見た戦争」を重視し、
素晴らしい本として「雪の中の軍曹」を挙げています。
あ~、あれも何とも言えない良い本でした。今でもすぐに思い出せますね。

第1章は、著者の生まれた1919年に出現した初期のファシストについて。
イタリア全般というよりも、著者の出身地であるクーネオ県が舞台です。
このクーネオ県はピエモンテ州の南西部に位置し、北にはトリノ、
西はアルプス山脈をはさんでフランスに接する地域のようです。
1930年代になると教育はファシズム一色となり、
全国バリッラ事業団(後のリットリオ青年団)により、青少年は強制的に組織されます。
6歳~8歳までは「牝狼の息子たち(フィーリ・デッラ・ルーパ)」。

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11歳までは木製の銃を与えられた「バリッラ少年団」、
14歳になると本物の銃を与えられて「前衛少年団(アヴァングァルディスティ)」、
最終的に18歳までの若者で構成される「青年ファシスト隊(ジョヴァニ・ファシスティ)」となります。
ヒトラー・ユーゲントと、その年少組織と同様・・というか、その手本ですね。

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女の子の場合にもナチスのBDMなどと同じく年齢別に組織され、
最初は「イタリアの少女たち(ピッコリ・イタリアーネ)」、

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「イタリアの娘たち(ジョヴァニ・イタリアーネ)」、

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そして最後には「ファシスト婦人団(ドンネ・ファシステ)」となっていくのです。

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いや~、こんな話、初めて知りました。
ちょっと調べてみましたが、日本語で書かれた書籍やWebサイトは見つかりませんでした。
やっぱりピン・バッジなんかもあったようで・・。

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そして10代の著者も勉強そっちのけで、制服を着た軍隊モドキの生活、
提供されるスポーツ活動に励み、大いに満足しているのです。
学校は公然たるファシズム機関と化し、非ファシズムは危険を伴います。
エチオピア戦争、スペイン戦争と戦勝を祝う日が続き、
1938年には人種法が制定され、クラスのユダヤ人も学校に来られなくなるのです。

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1940年6月にはドイツ軍の電撃戦の前に右往左往しているフランスに対し、
火事場泥棒的に攻め込みます。
10月にはアルバニアからギリシャへと侵攻。
しかし12月には前線が壊滅状態になると、バドリオが参謀本部から放逐され、
1941年4月、ドイツ軍がユーゴからギリシャに転進したことによって、
ムッソリーニもようやく喚き立てることができたのです。
「我々はギリシャを粉砕するだろう」。

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そんな1939年から1941年の4月まで、著者はモデナの陸軍士官学校に在籍。
叩き込まれた第1点は、
国王は国家のヒエラルキーの頂点に位置し、次に来るのが皇太子殿下ピエモンテ公、
最後が内閣の長であり、全軍総司令官たるムッソリーニ閣下」。
あ~、ピエモンテ公ウンベルト2世は、マリア・ジョゼーの旦那さんかぁ。。

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そしてもう1点、「軍とファシズムは別物である」。
パドリオが参謀総長を解任されたその日、厳格な老士官である教官が授業で語ります。
「卑しいファシストどもの、烏合の衆どもの陰謀がわが軍のバドリオ元帥を罷免したのである。
ファシストどもはイタリア全軍を辱めた。暗黒の時代となった」。

序文で「本書は歴史書と回想録の中間に位置する」と書かれているとおり、
章ごとにまず全体的なイタリア軍の情勢が描かれ、次に著者の体験へと続くパターンです。
士官学校の制服は伝統的なようで、特に色合いが良いですね。イタリアのセンスです。

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1941年6月21日、ドイツ軍による「バルバロッサ作戦」発動の前日に、
ムッソリーニは参謀本部に「軍団」の創設を要請します。
ドゥーチェの思いは唯ひとつ、「乗り遅れるな」。

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しかしヒトラーは、イタリアは北アフリカと地中海の戦いを強化すべきだと釘を刺し、
6月30日にはロシア戦線についての現状を報告し、敵がまさに鋼鉄の動く要塞というべき
装甲75㎜の巨大な52㌧戦車を配備していることを告げるのです。
「ドゥーチェよ、よく考えたまえ。きみの3㌧戦車など、ここではおもちゃのようなものだよ」。
まぁ、実際にはもっと丁寧な言葉づかいの手紙を送っているんでしょうが、
以前から気になっていた「ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡」を読んでみたくなりました。

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そんなことは意に介さないムッソリーニ。
7月9日、ロシア戦線イタリア派遣軍(CSIR)が結成され、
パズビオとトリノの自動車化師団に第3快速師団、戦闘機51機を含む空軍など、
将校2900名、兵58800名をジョヴァンニ・メッセ司令官と共に送り込むのです。

ルーマニアで軍輸送列車から降ろされたイタリア派遣軍。
ここから先は集結地点まで自力でやりくりせよ・・と言うドイツ軍に対して、
「君たちは誤解している。CSIRは自動車化部隊ではなく、
トラックで移動する訓練を受けた「『自動車輸送可能』部隊なのだ」。。

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仕方なく自前のトラックでカルパチア山脈を越え、ドニエストル河畔を目指しますが、
トリノ師団に至っては全行程1300㌔を徒歩で進む羽目に・・。
難渋の末にフォン・クライストのもとで進軍するイタリア派遣軍。
しかし冬には全戦線が行き詰まり、ヒトラーも追加の軍団の派遣を要請することになって、
1942年7月には3個軍団から成るガリボルディ将軍の
「イタリア第8軍」として生まれ変わるのです。
将校7000名、兵22万と大増強され、「小型トラック」と呼ばれた例の3㌧戦車も55両配備。。
少尉に任官したての著者も、第2山岳師団「トリデンティーナ」に所属して出発。

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前年の冬から何も学ばず、北アフリカで戦うのと同じ靴を履かされたイタリア第8軍。
片やドイツ軍はフェルトでできた「ヴァーレンキ」という冬靴を大量生産しています。
山岳軍団としてカフカス山脈に向かっていたはずが、いつの間にやら12月には
ドン河での防衛陣地に配備され、ハンガリー第2軍とルーマニア第3軍に挟まれます。
これは確か、ハンガリー軍とルーマニア軍をくっつけると戦争になる・・って話だったような。。
イタリア軍の前線は270㌔に及び、後方には予備軍のない、心もとない抵抗線。

Sentinella del 6° reggimento alpini sul fronte del Don (dicembre 1942).jpg

そして12月11日、ソ連軍の攻勢が始まります。
スターリングラードの「天王星作戦」に続く、「小土星作戦」ですね。
1月、何の予告も無く前線を放棄して西へと撤退したお隣さんのハンガリー軍。
左翼は完全な無防備の状態となり、トリデンティーナ師団も
ドン河から離れることを余儀なくされます。
脚が凍傷になって行き倒れている兵士・・。
まさに「雪の中の軍曹」を再現した世界が繰り広げられています。

Armir- La disfatta dell’armata italiana.jpg

ドイツ軍が遺棄したコニャックが山と積まれた倉庫を発見し、
水筒をコニャックで満たして酔っ払った部下たちの姿・・。
この寒さに空きっ腹でコニャックを流し込むことは、野垂れ死にを意味します。
年上の部下たちは憎々しげに語ります。
「俺たちにはコニャックしか残ってないんだ。
なのにあんたは、それさえも取り上げようというのか!」

またある時にはソ連軍が遺棄していったトラックによじ登り、
「蒸留酒が詰まった容器がある」と誰かが叫ぶと、山岳兵たちが殺到。
黄色のベタついた妙な甘みのあるその液体を大勢が飲みますが、
正体は「不凍液」。。
多くが中毒死する、おぞましい光景です。

soldati del Regio Esercito.jpg

ソ連軍に包囲され、カチューシャ・ロケット戦闘機の機銃掃射を浴びる師団。
若き少尉である著者は疑問に思います。
「ローマは我々の窮状を知っているのだろうか。なぜ救援しようとしないのか・・」。
そしてファシズムと軍上層部、希望のない袋小路に追い込んだ「祖国」を呪うのでした。

quello sul fronte russo.jpg

ロシアから戻らなかった者85000名のうち、行方不明者が64000名。
著者はなんとか包囲網からの脱出に成功し、故郷へと帰還を果たします。
神経を冒されて引き籠りの生活を送るなか、7月25日、ファシズムが崩壊。
連合軍がシチリアに上陸し、ムッソリーニが逮捕されたということです。
9月8日にはバドリオの休戦を伝えるニュースが流れ、戦争が終わったと歓喜する人々。

Buona Festa della Liberazione a tutti!.jpg

3日後、装甲車の隊列をなしてクーネオにやってきたドイツ軍が広場を占拠。
ワルシャワで、ロシアで目にした厚顔で傲慢で、おぞましいドイツ軍の姿。
しかもヨッヘン・パイパーが率いるSS部隊なのです。

9月19日にはパイパーSS少佐による虐殺がボヴェス村で行われます。
お~、コレは「炎の騎士 -ヨーヘン・パイパー戦記-」にもありましたね。
著者はパルチザン部隊「戦死者たちの復讐第一中隊」を結成し、
ドイツ軍とファシストに徹底抗戦することを決意するのでした。

Guhl, Peiper and Werner Wolff in Reggio Italy 1943.jpg

そんなパルチザン狩り、掃討作戦を実施するドイツ軍。
それに追従する形で現れるのが憎きファシストであり、
パルチザンの縁者を連行しては口を割らせるために打ちのめす、
残忍非道な拷問者であり、捕えた者は縛り首にするのです。
片やパルチザンはファシストを人間として尊重し、痛めつけることなく、銃殺。。

Donna impiccata dai nazifascisti ad un albero a Roma_1944.jpg

後半は小さな組織が入り乱れての複雑なパルチザン戦ですから、
著者の回想がほとんどを占め、例えばムッソリーニの最期などには触れられません。
ドイツ軍が悪役であるにしても、ある意味、イタリア人同士による内戦ですし、
客観的には「寝返った」などと、いろいろ言われているだけに
読み方によって本書の印象は変わってくるでしょう。

A bullet-holed portrait of Italian dictator Benito Mussolini fixed to a tree.jpg

それでも著者の思い、「底辺から見た戦争」は充分に伝わってくる一冊で、
こんなにイタリア軍のことを知らなかったのか・・と、目から鱗が落ちた一冊でした。
また、イタリア軍だけでなく、まるでヒトラー・ユーゲントのような青少年組織や、
武装SSのようなファシスト軍(国家義勇軍、黒シャツ隊)など、
大きく3つに分けて詳しく知りたくなりました。
「イタリア軍入門 1939~1945」や、「Viva! 知られざるイタリア軍」で勉強してみようかなぁ??
と思いますが、青年団に関する書籍は皆無ですし、黒シャツ隊も同様です。
特に黒シャツ隊の一部は、武装SSの「イタリア第1」になっていったようですから、
なおさら興味が湧いてきました。









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