Uボート、西へ! 1914年から1918年までのわが対英哨戒 [Uボート]
ど~も。突如復活したヴィトゲンシュタインです。
エルンスト・ハスハーゲン著の「Uボート、西へ! 」を読破しました。
5ヵ月ほど前に出た本書を最初見かけたとき、「あ~、アレが再刊したのね・・」と思いました。
「アレ」とは朝日ソノラマの航空戦史シリーズがお好きな方ならお分かりのように、
エドウィン・グレイ著の「Uボート西へ」です。
しかし、今更ハードカバーで出るのもおかしく、著者も別人・・。
さらには訳者さんが「Uボート部隊の全貌」、「始まりと終わり」でお馴染みの方・・、
また、去年は第1次大戦勃発から100周年というのも手伝って、勢いよく読みました。
まずは第一次大戦開戦当時のUボートの戦い。
有名なヴェディゲン艦長が英装甲巡洋艦3隻を立て続けに撃沈するも、
やがて壮絶なる戦死の様子が簡単に語られます。
この人は以前に「潜水艦の死闘」で紹介しましたね。
おっと、この著者もエドウィン・グレイでした。
続いて本書の著者ハスハーゲンは1915年にU-22の先任としてUボートデビュー。
しかし急速潜航時に潜舵が下げ舵いっぱいのまま固着してしまい、逆立ち状態で沈んでいくと
更に蓄電池液が漏れ始めて、バッテリーから塩素ガスが発生・・。
ここの深さは底なし。艦内では生存の見込みなし。海上には敵という絶体絶命のピンチ・・。
結局この9日間の哨戒はトラブルに見舞われただけに終わりますが、数名が鉄十字章を受章。
敵前で勇猛さを示すこともできずに・・と恐縮してしまうのでした。
「Uボートの世界」の章では、この当時のUボートについて詳細に解説します。
バラストタンクに水上ではディーゼル、水中では電動機で航行するなど、
全長7メートルの魚雷、甲板にある2門の砲も含め、第2次大戦のUボートとイメージは同じです。
また意外だったのが写真の多さですね。全部で20枚以上は掲載されていました。
1916年、UB21の艦長となったハスハーゲン。
UBというのは沿岸型で魚雷4本、乗員23名という小型Uボートです。
小さいながらも念願の艦長になったのも束の間、戦争の雲行きは怪しくなり、
ドイツは「拿捕規定」に従ってのみ潜水艦戦を実施することを誓うのです。
コレは軍艦に対してだけは雷撃が許可されてはいますが、
商船に対しては、まず停船させてキッチリと臨検し、問題が無ければ解放するということです。
その結果、せっかくの獲物も20隻中13隻を開放することに・・。
Uボート戦を「陰険な泥試合」と表現する著者。
その主役を演じるのがUボート囮船、すなわち仮装巡洋艦などの「Qシップ」です。
無害な商船を装ってUボートをおびき寄せ、至近距離に来たら突如、偽装を剥ぎ取り、
不意打ちでUボートに砲撃を加えるというのが、「ドイツ野郎」を罠にかけてやろうと
志願してきた英国の冒険好きの船員を含んだQシップなのです。
このUボート最大のライバルかのようなQシップのその策略について細かく書いていることから、
よっぽど嫌な思いをしたのが伝わってきます。
Uボートから警告射撃を受けたQシップは、まず逃げようとする素振りを見せ、
次の段階では機関員や水夫、コックらからなる寄せ集めの「パニック集団」が登場し、
救命艇へと殺到。何人かが海に落ちたり、規律なく、艇の漕ぎ方も無様で、
艦長に化けた航海長も一緒という不自然なところがない演技を披露・・。
こうしてまんまと疑似餌に喰いついてしまった不幸なUボートは、
近づいたところを船内に隠れていた本物艦長の指揮による、死の砲火に襲われるのです。
UB21で6回の長期哨戒を経験した後、遂に全長70m、乗員40名の大型艦U-62の艦長に・・。
まずは宿敵Qシップを魚雷で撃沈します。
潜望鏡に写真機を取り付け、1000mから250mまでの「Q12」の3枚の写真まで掲載。
思わず笑ったのは、「一番管-撃てぇ!」の撃てぇに「ロース」とルビが振られていて、
「『ロース』は、歌うような調子で長めに叫ぶ・・」と、本文でも解説します。
Uボートの映画を観てる方ならすぐに思い出すでしょう。アレですよ。低くシブい声で「ロ~ス!」。
間違っても戦車長みたく、「フォイヤー!!」なんて叫んではいけません。
そして救命艇にいたQ12の艦長、ルイス中佐を見せしめのために捕虜にすることに。。
野蛮人のUボート野郎の捕虜になったことで、「私を殺そうというのだな、艦長」と
観念していたルイス中佐も、「こちらで一杯どうぞ」とまず勧められた後、
彼らの懇切丁寧な騎士道的振る舞いに徐々に感銘を受け、
タバコは好きなだけ、士官食堂で過ごして、寝心地の良い寝台をあてがわれ、
嬉しいことに読書用に米国の雑誌12冊を持ってきてくれたのだ・・と、
U-62での19日間の捕虜生活を戦後、新聞に発表します。
本書にはこの時の2人の艦長の楽しげな写真と、12年後に英国で再会した2人の写真まで。
戦争も後半、1917年になってくると、英国は対Uボート戦に様々な兵器を投入してきます。
特に防潜網と機雷で徹底的に封鎖された「ドーバー=カレー海峡」。
ココを突破するのは至難技で、詳細な図を用いて解説。実にわかりやすいですね。
第2次大戦のジブラルタル海峡よりも強烈なんじゃないでしょうか?
更に駆逐艦は体当り攻撃から、新たに開発した爆雷を用いた戦術に変化し、
特に太陽を背にした航空機攻撃なんて、この時代にあったことが驚きです。
また、17世紀からの伝統的な「護送船団=コンボイ」との戦いも始まります。
23隻から成るコンボイを発見したU-62。
ところが攻撃のために浮上してみると、なんと船団の真っ只中・・。
すかさず汽船マドゥラ号を討ち取ると、英軍の注意は船団の外側に向かうのです。
翌日は1万3千㌧の巨大な仮装巡洋艦「オラマ号」を見事に仕留めて意気揚々。
偶然から起こったこのような攻撃。
まさにクレッチマーらの実施した闇に乗じて船団内に潜り込み、
浮上したまま魚雷攻撃を仕掛ける・・といった戦術の元祖とも言えそうです。
いや、ひょっとしたらクレッチマーは本書を読んだのかも知れませんね。
それにしても巻頭に掲載されているハスハーゲン艦長、カッコイイですねぇ。
本文にも書かれていますが、袖の2本線は金色で大尉を現しています。
そして左胸にはお馴染み「一級鉄十字章」が・・。
この鉄十字章がドイツ軍の伝統的なものであることは御存じかと思いますが、
Uボートエースの喉元を飾る騎士十字章はヒトラーの発案であり、
第一次大戦当時、それに該当するのは「プール・ル・メリット章」です。
ハスハーゲン自身はソレを受章していない代わりに、その他の勲章が妙に気になりますね。
ソコソコの勲章好きですが、第一次大戦当時のドイツはプロイセンやら、バイエルンなど、
地方によって勲章が存在し、コレがなかなかわかりにくいんです。
それでも、このポートレートとドイツ語サイトを手掛かりに、ちょっくら調べてみました。
まず「一級鉄十字章」の下に付けている同じような十字章。
コレはメクレンブルク・シュヴェリーン大公国の「戦功十字章」のようです。
もうひとつ、ボタンに引っ掛けたリボンで吊るしている勲章はというと、
有名なUボートサイトによると、プロイセン王国の「ホーエンツォレルン家勲章」とされていますが、
形は似ているものの、別のサイトで受章したとされている「剣付き赤鷲勲章」だと思います。
まぁ、コレもプロイセンのものですが、二級鉄十字章のリボンを流用する決まりがあって、
第2次大戦の赤白と違い、当時は黒白のリボンですね。
戦争の最終年には大海原での戦いでもドイツは窮地に陥ります。
敵はあらゆる船舶の9割が武装、聴音装置まで発明してUボートが潜む海底をまさぐるのです。
戦果が減る一方、米国の建造ペースは上がり・・。
まるで1945年にも起こったことが既に1918年にも起きていたんですねぇ。
そんな状況下でもフランスの装甲巡洋艦デュプティ・トゥアールを撃沈して
U-62とUボート部隊の戦いは終焉を迎えるのでした。
215ページですから、どれだけジックリ読んでも2日で読み終わってしまいましたが、
巻末の「訳者あとがき」では第1次大戦時のドイツ潜水艦戦について簡潔に書かれていて、
本文でも紹介された「Qシップ」による損害から、「無警告撃沈」作戦に移ったものの、
米国人の乗った客船を撃沈したことで、米政府からの抗議を受けて消極的になっていったなど、
著者が後半で無知な政治家による誤ったUボート運用を毒づいている理由が理解出来ました。
ハスハーゲンは1905年に海軍兵学校に入校し、あのカナリス提督と同期の桜だそうです。
そして戦後、1931年に原著の初版が出版され、1941年に再刊、本書はその1941年版です。
日本でも愛國新聞社から当時、出版されたそうです。へ~、知らなかったなぁ。
タイトルも同じだったのなら、朝日ソノラマのほうがパクリになるでしょうね。
ちなみにその朝日ソノラマの方は小説だということもあって未読ですが、
もともと1975年に白金書房から出てるんですね。
「Uボート西へ」は同じですけど、副題の「総統命令=生存者を残すな」はちょっと酷いなぁ。。
興味深いのは1941年~42年、ハスハーゲンは少佐として
バルト海のUボート乗組員錬成部隊の指令を務めていたということです。
その時期に本書が再刊されたということは、まさに新米Uボート乗りたちへの
教材としての意味合いもあったのではないでしょうか??
また、プリーンやクレッチマーらの大エースたちも、1931年版を読んでいたんじゃ・・と思うと、
まさしく本書は「Uボート戦記の元祖」であるように感じました。
改めて巻頭を読み返してみると、「誰それに捧ぐ・・」っていう部分。
「家族を顧みなかった自分を恥じ、妻や子供などへ捧ぐ」っていうのが一般的ですが、
本書ではこのように捧げられていました。
忘れがたき往年のUボート部隊と
蘇った新生Uボート部隊に捧ぐ
だとすると、誰かに成りきって読むのが好きなヴィトゲンシュタインからしてみれば、
「鉄の棺」のヘルベルト・ヴェルナーや、「U‐ボート977」のハインツ・シェッファーらに
成りきって読むのが本書の正しい読み方のような気がしてきました。
エルンスト・ハスハーゲン著の「Uボート、西へ! 」を読破しました。
5ヵ月ほど前に出た本書を最初見かけたとき、「あ~、アレが再刊したのね・・」と思いました。
「アレ」とは朝日ソノラマの航空戦史シリーズがお好きな方ならお分かりのように、
エドウィン・グレイ著の「Uボート西へ」です。
しかし、今更ハードカバーで出るのもおかしく、著者も別人・・。
さらには訳者さんが「Uボート部隊の全貌」、「始まりと終わり」でお馴染みの方・・、
また、去年は第1次大戦勃発から100周年というのも手伝って、勢いよく読みました。
まずは第一次大戦開戦当時のUボートの戦い。
有名なヴェディゲン艦長が英装甲巡洋艦3隻を立て続けに撃沈するも、
やがて壮絶なる戦死の様子が簡単に語られます。
この人は以前に「潜水艦の死闘」で紹介しましたね。
おっと、この著者もエドウィン・グレイでした。
続いて本書の著者ハスハーゲンは1915年にU-22の先任としてUボートデビュー。
しかし急速潜航時に潜舵が下げ舵いっぱいのまま固着してしまい、逆立ち状態で沈んでいくと
更に蓄電池液が漏れ始めて、バッテリーから塩素ガスが発生・・。
ここの深さは底なし。艦内では生存の見込みなし。海上には敵という絶体絶命のピンチ・・。
結局この9日間の哨戒はトラブルに見舞われただけに終わりますが、数名が鉄十字章を受章。
敵前で勇猛さを示すこともできずに・・と恐縮してしまうのでした。
「Uボートの世界」の章では、この当時のUボートについて詳細に解説します。
バラストタンクに水上ではディーゼル、水中では電動機で航行するなど、
全長7メートルの魚雷、甲板にある2門の砲も含め、第2次大戦のUボートとイメージは同じです。
また意外だったのが写真の多さですね。全部で20枚以上は掲載されていました。
1916年、UB21の艦長となったハスハーゲン。
UBというのは沿岸型で魚雷4本、乗員23名という小型Uボートです。
小さいながらも念願の艦長になったのも束の間、戦争の雲行きは怪しくなり、
ドイツは「拿捕規定」に従ってのみ潜水艦戦を実施することを誓うのです。
コレは軍艦に対してだけは雷撃が許可されてはいますが、
商船に対しては、まず停船させてキッチリと臨検し、問題が無ければ解放するということです。
その結果、せっかくの獲物も20隻中13隻を開放することに・・。
Uボート戦を「陰険な泥試合」と表現する著者。
その主役を演じるのがUボート囮船、すなわち仮装巡洋艦などの「Qシップ」です。
無害な商船を装ってUボートをおびき寄せ、至近距離に来たら突如、偽装を剥ぎ取り、
不意打ちでUボートに砲撃を加えるというのが、「ドイツ野郎」を罠にかけてやろうと
志願してきた英国の冒険好きの船員を含んだQシップなのです。
このUボート最大のライバルかのようなQシップのその策略について細かく書いていることから、
よっぽど嫌な思いをしたのが伝わってきます。
Uボートから警告射撃を受けたQシップは、まず逃げようとする素振りを見せ、
次の段階では機関員や水夫、コックらからなる寄せ集めの「パニック集団」が登場し、
救命艇へと殺到。何人かが海に落ちたり、規律なく、艇の漕ぎ方も無様で、
艦長に化けた航海長も一緒という不自然なところがない演技を披露・・。
こうしてまんまと疑似餌に喰いついてしまった不幸なUボートは、
近づいたところを船内に隠れていた本物艦長の指揮による、死の砲火に襲われるのです。
UB21で6回の長期哨戒を経験した後、遂に全長70m、乗員40名の大型艦U-62の艦長に・・。
まずは宿敵Qシップを魚雷で撃沈します。
潜望鏡に写真機を取り付け、1000mから250mまでの「Q12」の3枚の写真まで掲載。
思わず笑ったのは、「一番管-撃てぇ!」の撃てぇに「ロース」とルビが振られていて、
「『ロース』は、歌うような調子で長めに叫ぶ・・」と、本文でも解説します。
Uボートの映画を観てる方ならすぐに思い出すでしょう。アレですよ。低くシブい声で「ロ~ス!」。
間違っても戦車長みたく、「フォイヤー!!」なんて叫んではいけません。
そして救命艇にいたQ12の艦長、ルイス中佐を見せしめのために捕虜にすることに。。
野蛮人のUボート野郎の捕虜になったことで、「私を殺そうというのだな、艦長」と
観念していたルイス中佐も、「こちらで一杯どうぞ」とまず勧められた後、
彼らの懇切丁寧な騎士道的振る舞いに徐々に感銘を受け、
タバコは好きなだけ、士官食堂で過ごして、寝心地の良い寝台をあてがわれ、
嬉しいことに読書用に米国の雑誌12冊を持ってきてくれたのだ・・と、
U-62での19日間の捕虜生活を戦後、新聞に発表します。
本書にはこの時の2人の艦長の楽しげな写真と、12年後に英国で再会した2人の写真まで。
戦争も後半、1917年になってくると、英国は対Uボート戦に様々な兵器を投入してきます。
特に防潜網と機雷で徹底的に封鎖された「ドーバー=カレー海峡」。
ココを突破するのは至難技で、詳細な図を用いて解説。実にわかりやすいですね。
第2次大戦のジブラルタル海峡よりも強烈なんじゃないでしょうか?
更に駆逐艦は体当り攻撃から、新たに開発した爆雷を用いた戦術に変化し、
特に太陽を背にした航空機攻撃なんて、この時代にあったことが驚きです。
また、17世紀からの伝統的な「護送船団=コンボイ」との戦いも始まります。
23隻から成るコンボイを発見したU-62。
ところが攻撃のために浮上してみると、なんと船団の真っ只中・・。
すかさず汽船マドゥラ号を討ち取ると、英軍の注意は船団の外側に向かうのです。
翌日は1万3千㌧の巨大な仮装巡洋艦「オラマ号」を見事に仕留めて意気揚々。
偶然から起こったこのような攻撃。
まさにクレッチマーらの実施した闇に乗じて船団内に潜り込み、
浮上したまま魚雷攻撃を仕掛ける・・といった戦術の元祖とも言えそうです。
いや、ひょっとしたらクレッチマーは本書を読んだのかも知れませんね。
それにしても巻頭に掲載されているハスハーゲン艦長、カッコイイですねぇ。
本文にも書かれていますが、袖の2本線は金色で大尉を現しています。
そして左胸にはお馴染み「一級鉄十字章」が・・。
この鉄十字章がドイツ軍の伝統的なものであることは御存じかと思いますが、
Uボートエースの喉元を飾る騎士十字章はヒトラーの発案であり、
第一次大戦当時、それに該当するのは「プール・ル・メリット章」です。
ハスハーゲン自身はソレを受章していない代わりに、その他の勲章が妙に気になりますね。
ソコソコの勲章好きですが、第一次大戦当時のドイツはプロイセンやら、バイエルンなど、
地方によって勲章が存在し、コレがなかなかわかりにくいんです。
それでも、このポートレートとドイツ語サイトを手掛かりに、ちょっくら調べてみました。
まず「一級鉄十字章」の下に付けている同じような十字章。
コレはメクレンブルク・シュヴェリーン大公国の「戦功十字章」のようです。
もうひとつ、ボタンに引っ掛けたリボンで吊るしている勲章はというと、
有名なUボートサイトによると、プロイセン王国の「ホーエンツォレルン家勲章」とされていますが、
形は似ているものの、別のサイトで受章したとされている「剣付き赤鷲勲章」だと思います。
まぁ、コレもプロイセンのものですが、二級鉄十字章のリボンを流用する決まりがあって、
第2次大戦の赤白と違い、当時は黒白のリボンですね。
戦争の最終年には大海原での戦いでもドイツは窮地に陥ります。
敵はあらゆる船舶の9割が武装、聴音装置まで発明してUボートが潜む海底をまさぐるのです。
戦果が減る一方、米国の建造ペースは上がり・・。
まるで1945年にも起こったことが既に1918年にも起きていたんですねぇ。
そんな状況下でもフランスの装甲巡洋艦デュプティ・トゥアールを撃沈して
U-62とUボート部隊の戦いは終焉を迎えるのでした。
215ページですから、どれだけジックリ読んでも2日で読み終わってしまいましたが、
巻末の「訳者あとがき」では第1次大戦時のドイツ潜水艦戦について簡潔に書かれていて、
本文でも紹介された「Qシップ」による損害から、「無警告撃沈」作戦に移ったものの、
米国人の乗った客船を撃沈したことで、米政府からの抗議を受けて消極的になっていったなど、
著者が後半で無知な政治家による誤ったUボート運用を毒づいている理由が理解出来ました。
ハスハーゲンは1905年に海軍兵学校に入校し、あのカナリス提督と同期の桜だそうです。
そして戦後、1931年に原著の初版が出版され、1941年に再刊、本書はその1941年版です。
日本でも愛國新聞社から当時、出版されたそうです。へ~、知らなかったなぁ。
タイトルも同じだったのなら、朝日ソノラマのほうがパクリになるでしょうね。
ちなみにその朝日ソノラマの方は小説だということもあって未読ですが、
もともと1975年に白金書房から出てるんですね。
「Uボート西へ」は同じですけど、副題の「総統命令=生存者を残すな」はちょっと酷いなぁ。。
興味深いのは1941年~42年、ハスハーゲンは少佐として
バルト海のUボート乗組員錬成部隊の指令を務めていたということです。
その時期に本書が再刊されたということは、まさに新米Uボート乗りたちへの
教材としての意味合いもあったのではないでしょうか??
また、プリーンやクレッチマーらの大エースたちも、1931年版を読んでいたんじゃ・・と思うと、
まさしく本書は「Uボート戦記の元祖」であるように感じました。
改めて巻頭を読み返してみると、「誰それに捧ぐ・・」っていう部分。
「家族を顧みなかった自分を恥じ、妻や子供などへ捧ぐ」っていうのが一般的ですが、
本書ではこのように捧げられていました。
忘れがたき往年のUボート部隊と
蘇った新生Uボート部隊に捧ぐ
だとすると、誰かに成りきって読むのが好きなヴィトゲンシュタインからしてみれば、
「鉄の棺」のヘルベルト・ヴェルナーや、「U‐ボート977」のハインツ・シェッファーらに
成りきって読むのが本書の正しい読み方のような気がしてきました。
スカパ・フローへの道 ギュンター・プリーン回想録 [Uボート]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
ギュンター・プリーン著の「スカパ・フローへの道」を読破しました。
プリーン艦長のU-47が英国戦艦ロイヤルオークを撃沈した話は、
「独破戦線」初のUボート本、「Uボート、出撃せよ」で紹介しましたが、
2009年5月という遠い昔のことであり、いま読み返してみてもなんだか良くわからないという
かなり酷いレビューです。。
本書は2001年に出た336ページの一冊で、気が付いた時には絶版かつ、
プレミア価格になっていたということもあって、スッカリ忘れていました。
しかし、つい最近、よくお邪魔するBlogでプリーンとスカパ・フロー・ネタが
投下されたことで思い出しました。
定価3600円のところ、古書価格も1600円に下がっていたので、迷わず購入です。
まず、本書の特異性についてちょっと説明しましょう。
amazonでは商品の説明に、「94年名取書店刊「Uボート」の改題。」と書かれていますが、
これは「1994年」ではなく、「1941年」の間違いです。
本書の巻末には「一九四一年名取書店より・・」と明記されていますので、
漢数字の"一"を、"-(ハイフン)"と認識してしまったんでしょう。
プリーン自身は1941年に戦死しているわけですから、原著も1940年に書かれたものであり、
また、その内容もプロパガンダ色が強く、もっと言えばゴーストライター説も根強い、
かなり怪しげな一冊としても知られています。
そんなこともあって、本書の存在を忘れていたんですが、
今回は敢えて、それらのこと・・・
「ゲッベルスの日記」に収められていた、「勝利の日記」のような当時のナチス・プロパガンダ本・・・
を踏まえたうえで、楽しんでみたいと思います。
第1章は「海へ、海へ」。
1923年のライプツィヒでのプリーン少年の生活の様子です。
母親の内職の手伝いをして、お小遣い稼ぎの日々。
部屋には「海の英雄では彼が一番好きだ」というヴァスコ・ダ・ガマの肖像画が一枚・・。
プリーンは1908年生まれですから、このとき15歳ですね。
苦しい家計を助けるため、そして海への憧れから海員養成所へと進み、
帆船ハンブルク号の見習い水夫となります。
乗船して4日目、ハンブルクを出航。
乗組員一同は陸の方を並んで見つめ、「聖パウリに三唱」と叫んで万歳三唱が・・。
「女たち、しばしの別れだ」と言われても、プリーン少年にはなんのことやら。。
訳注にあるんですが、これはハンブルクの歓楽街、ザンクト・パウリのことなんですね。
航海中は、牛乳も出さずに評判の悪いケチな料理番が自分だけはコッソリと・・、
というわけで皆の怒りが爆発します。
「バルケンホルめ、狡猾な豚・・ユダヤ人め、犬みてえに袋叩きにしちまえ」。
船長は船長で、「シァーデ君、ひとつ積荷の方を見て下しゃらんか。
此の様子では多分、小麦粉の袋を移す必要があると思うのでしゅが・・」。
と、なんとも甘ったるい調子で喋ります。
これは、「Sの発音が少し強い」ことを日本語で表現してるんですね。
そして料理番を任されたプリーン少年・・、先輩からは「プリ公」と呼ばれていますが、
張り切り過ぎて大失敗。全員が食中毒という大騒ぎで、艦長も激怒。
「此処から出て行きなしゃい! また元の通り働くのでしゅ。見張り番じゃ!」
ハンブルク号はダブリンで難破。
しかしダブリン港に上陸するとアイルランド人は大歓迎します。
彼らに言わせれば、「英国人の敵は、みな自分の友人」なのです。
ハンブルクへ戻ると、今度は貨物船プファルツブルク号に乗船。
「波止場破落戸」と呼ばれる巨漢の先輩水夫との決闘・・。
破落戸と書いて、ゴロツキと読むんですね。
巻頭で「旧字は新字に直しました」などとありましたが、
基本的には昭和16年の文章と漢字そのままで、感心したりも・・。
続いて旅客船サンフランシスコ号の4等航海士となりますが、
見張りの際に、カールスルーエ号と衝突。。
海難審判庁に出頭し、あわや免許が取り上げられそうな絶体絶命も、
ブッツラー1等航海士の助けもあって、ギリギリ・セーフ。
遠洋航海の船長試験にめでたく合格したものの、時は1932年の失業時代。
どこの汽船会社も雇ってはくれず、文無しとなって失望の日々・・。
この失業地獄から抜け出すために決心する24歳のプリーン。
「その日以来、僕はナチス運動の一員となった」。
特にナチ党員になったとは書かれていませんが、労働奉仕団(RAD)に志願し、
とりあえず、衣食住は保障されます。
新米ながらも皆よりも年長のために、すぐさま同志指導者、部隊指導者へと昇進。
盗みを働いた団員を秩序を守るために追放することで、反対派の仲間たちと大揉めに。。
そんなとき、海軍の士官候補者補充の通知を受け取り、喜び勇んで海軍へ。
1933年の1月、まさにヒトラーが首相となったときです。
ここまで全12章のうち、7章。半分の170ページが過ぎましたが、
ハードカバーとはいえ、上部に無駄な余白はあるわ、字も大きいわ、
嬉しいことに、所々で写真も掲載されているわ・・と、2時間ほどで読めてしまいます。
第8章は「潜水艦乗り組み修業の始まり」。
キール軍港のUボート学校へ入学させられ、U-3に乗り込んで実習。
このU-3については、訳注でも書かれていますが、1933年時点ではまだ、
ドイツ海軍はUボートを保有しておらず、フィンランドで建造された練習艦では・・
と、推測しています。確かにU-3は1935年の建造ですし、
あのヴィディゲンが乗った第1次大戦のU-3も、1919年に廃艦となっています。
まぁ、この当時は書いて良いことと悪いことがあるでしょうね。
実習が終わると、1936年に新造されたU-26の先任将校に任命されます。
艦長は、「剃刀の如くきれる男」と云われているハルトマン大尉。
「プリーン少尉、U-26勤務を拝命したことを申告いたします」。
「では君だね。わしは待ちかねておった」。
このハルトマン艦長。実はプリーンよりわずか6歳年長なだけの34歳です。
日本の古いドイツ軍戦記を読むと、艦長や将軍となると年齢に関係なく、
「わしは・・」とおじいちゃん言葉になるのが面白いですね。
シュタインホフの回想録でも、プリーンより4歳も若いガーランド将軍が、
やっぱり「わしは・・」とやってて、笑いましたっけ・・。
U-26は、「スペイン方面に出動だ」と、大急ぎで出航。コレは「スペイン内戦」ですね。
フランコ将軍の軍艦2隻と遭遇しますが、こちらへその砲口を向けています。
「我々を人民戦線政府の艦と間違えておるわい」と語る艦長。
かくして1938年秋、海軍中尉プリーンは、Uボート艦長に任命されます。
先任将校のエントラースら、乗組員についても触れられていますが、
肝心要の「U-47」の文字が本文中には一切ありません。
戦時中の秘密事項なんですね。
そして1939年9月3日、司令塔にいたプリーンに臨時ニュースが届きます。
それはドイツに対する英国の宣戦布告・・、戦争の始まりです。
早速、出会った英国船を撃沈・・、もちろん乗員を下ろしたうえでの騎士道的方法。
今度は英軍機ブリストル・ブレニムに撃墜され、漂流中のドイツ軍飛行士3名の救出作戦。
この哨戒では1万2千㌧級のタンカーや、7千㌧級のタンカーなど次々と屠り、
最後の魚雷で1万5千㌧の英国汽船アランドラ・スターも撃沈し、合計トン数「66587㌧」。
Uボート戦に詳しい方なら、1939年の9月~10月の間に、
そんな大戦果はないだろう・・と思うでしょうが、まさにそのとおり。。
この第11章はスカパ・フローの後の話、すなわち1940年の哨戒であり、
実際にアランドラ・スターの撃沈は1940年7月のことです。
いよいよ最終章、「スカパ・フロー」です。
1939年10月、Uボート艦隊司令官(FdU)に呼び出されたプリーン大尉。
前大戦で侵入した2隻のUボートが失敗したスカパ・フローの海図を広げ、
「英国艦隊慣用の停泊地じゃ」と、おじいちゃんの如く切り出すデーニッツ。。
「此処じゃ、此処から入るのじゃ。勿論簡単ではない。
此の島々の間の潮流は非常に荒いからな。
だが、わしは突破出来ん筈はないと信じとる。
どうじゃな、プリーン大尉の意見は・・」。
もう今にも死にそうなヨボヨボのデーニッツですが、これでも一応、48歳。。
まさに命がけの任務。決めるのはプリーン本人です。
家に帰り、妻と子供の顔を見て考え、それでも答えは「やれます!」
こうしてU-47は見事、スカパ・フローへの潜入を果たし、
停泊中の戦艦ロイヤルオークを撃沈して、脱出にも成功します。
30ページほどで書かれたこの一部始終ですが、
最初に紹介した「Uボート、出撃せよ」の元ネタにもなっていますね。
この顛末だけを詳しく知りたいなら、293ページのあちらをお勧めします。
ちなみに旧題は「U47、スカパ・フローに潜入せよ! 」です。
エピローグとして「総統の前に立つ」。
意気揚々と本国へ向けて南下するU-47は放送を受信します。
「スカパ・フローにおいて英国戦艦ロイヤルオークはドイツUボートの魚雷を受けて
沈没した。英国側の報道によれば、該ドイツUボートは時を移さず撃沈された・・」。
これには全員が吹き出します。
「すると我々は沈没しちゃったわけですな!」
英国にしてみれば、戦艦一隻を失ったところで物的損害は大したことはなく、
それよりもスカパ・フローに潜入、撃沈、脱出を許したことが大問題であって、
第1次大戦以来、安全とされていたこの基地がもはや過去のものとなり、
また、その面子を完全に潰されたというショックが大きいわけです。
なんとなく、真珠湾攻撃に近い気も・・。
そういえば、チャーチルも回想録でこの件に触れていました。
「U-47の艦長、プリーン大尉の武勲と見なさなければならない」。
デーニッツだけではなく、レーダー海軍総司令官直々の出迎えを受け、
そのまま乗員全員が飛行機でベルリンへ・・。
テンペルホーフ空港から歓喜する市民の中をパレードして総統官邸に到着すると、
遂にヒトラーから「騎士十字章」を授かるプリーン艦長。
「少年の夢が現実になったのだ。そして此の世に於ける最大最善のものだったろう。
だが僕の生涯に較べて総統のそれは何という素晴らしいものであったろうか。
祖国の屈辱と困窮を、自らのものと感じて、より幸福で自由な祖国の建設を希望した
一個の男子だった総統は、信じかつ行動し、
その夢は現実となり、その信念は生命を得たのだ」と、本書を締めくくります。
1940年8月付のあとがきでは、第11章と第12章の順序の入れ替え理由について述べ、
簡単に言えば、「スカパ・フローをクライマックスにしても悪くあるまい・・」ということでした。
ギュンター・プリーンといえば、スカパ・フローだけでなく、「騎士十字章」のイメージもあります。
これはヒトラーによって1939年9月1日に制定された「騎士十字章」を
それからわずかに1か月半後の、10月18日にヒトラー自らが贈呈したことも大きいでしょう。
ただ、プリーンが最初の受章者かというと、そうではなく、
「鉄十字の騎士 -騎士十字章の栄誉を担った勇者たち-」をチラ見してみると、
ポーランド戦が片付いた9月30日に第1弾として10名が受章しています。
しかしその顔触れは、ゲーリングを筆頭に、ブラウヒッチュ、ルントシュテット、
ライヒェナウ、ブラスコヴィッツ、リスト、ケッセルリンク、そしてレーダー提督といった、
大将および軍司令官以上の高級将校が対象なのです。
ですから、大尉という階級で、騎士十字章の規定でもある「個人的武勲を讃え」た
最初の騎士十字章受章者は、プリーンということになるんですね。
ちなみにwikiには、「彼はドイツ海軍軍人の中で初めて騎士鉄十字章を授与された。」
と、書かれていますが、前途のように海軍総司令官のレーダーが先ですね。
プリーンの後、10月27日にはポーランド戦の戦功第2弾グループとして11名が受章。
ここには陸軍参謀総長ハルダーに、グデーリアン、ヘプナー、ホトといった錚々たる将軍が
名を連ねていますから、それだけでもプリーンの偉業が目立ちます。
30歳の好青年、まさに第2大戦におけるドイツ軍最初のスーパースターですね。
W杯で優勝したドイツ代表の凱旋に勝るとも劣らない、その当時のフィーバーぶりを
「ドイツ週間ニュース」からど~ぞ。
読み終えて、「ゴーストライターによるプロパガンダ本」という定評もあった本書ですが、
それほど違和感は感じませんでした。
実際のところ、9割がたは事実なんじゃないでしょうか。
前半の「ユダヤ人め・・」やら、「ナチス運動の一員・・・」というのは、オマケ程度でしたし、
最後の「総統・・」のくだりだけは如何にもヤラセ臭が。。
確かに、貧しい少年が海に憧れて船乗りとなり、化け物みたいな船員と戦ったり、
不景気による夢の挫折があって、RADで個人よりも組織の大事さを学び、
新生Uボート部隊の艦長になって、大戦果をあげる・・というストーリーは、
当時のドイツ少年の心を鷲掴みにしたでしょう。
翌年に翻訳されたということは、日本の少年も熱中したのかもしれません。
本書の前に読んだ、「ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で」も、
直前まで中産階級の教師の息子、チトフとのライバル争いがあり、
最終的にガガーリンが選ばれたのは、スモレンスクのコルホーズの息子であったことも
推測されているなど、やっぱり国家のスーパースターには、
最下級からトップへ・・という成り上がりっぷりが重要かと思いました。
ただ、個人的にはユーリイ・ガガーリンという、"THE ソヴィエト人民"的な名前に対して、
「ゲルマン・チトフ」ではマズイんじゃないの??・・と思った次第です。
ワールドツアーでエリザベス女王と会食したり、日本にやって来た際のエピソードも書かれ、
またソ連側だけでなく、米国のマーキュリー計画も並行して語られているので、
映画「ライトスタッフ」が好きな方なら更に楽しめる良本でした。
ちなみに、この本を読んで1967年という年がソ連にとって重要な年だったというのを知りました。
すなわち、ボルシェヴィキの十月革命が1917年であり、1967年は記念すべき「50周年」・・。
どうして1967年に拘るのかというと、ヴィトゲンシュタインは1967年生まれなんですね。
ついでにスターリングラード包囲の「天王星作戦」が発動された11月19日生まれですから、
もう、真っ赤っ赤です。。
また「ゴーストライター」については、100%の事実だと思いますけれども、
今年、あの佐村河内 守氏の「ゴーストライター問題」が大きく取り上げられた際、
芸能人やスポーツ選手が「書いた」とされる本に至るまで、
マスコミの追及があるのかな?? と思っていましたが、案の定でしたね。。
まぁ、世界中の常識ある人なら、わかっている話ですし、
それらの本、全てがゴーストライターによる「創作」とは言わないまでも、
本人が口述したことを作家さんが巧くまとめているということでしょう。
その意味ではヒトラーの「わが闘争」にしても、口述ですから、
ルドルフ・ヘスがゴーストライターとして、どれだけ活躍したのか判ったもんじゃありません。
それを追及するのは野暮ってなモンです。
と、ここまで書いて、わざと読まずに残しておいた巻末の昭和16年「初版の序」と、
2001年の「解題」を読んでみました。
「初版の序」を書くのは海軍中将 和波豊一と、駐日独逸大使館海軍武官 ヴェネカア少将で、
「解題」ではプリーンの生涯、3大エースとその最期についても触れられていますが、
本書が戦意昂揚を狙って刊行されたものであるから、そのあたりを考慮しつつも、
記述が具体的で、Uボート艦長の伝記としてはなかなか面白い・・と、
3人の感想とヴィトゲンシュタインの感想は、ほぼ一致していました。
いずれにしても、Uボート好き、またはナチスのプロパガンダに興味があるならば、
本書は読んで損はないでしょう。
戦前のドイツと、見習い水兵の生活、Uボート部隊のドコが事実で、ドコがそうでないのか、
そして戦時中の本を読んでいるかのような文章も含め、
楽しめる観点は思っていたよりたくさんありました。
「U47出撃せよ」という映画もありますよ。
r
ギュンター・プリーン著の「スカパ・フローへの道」を読破しました。
プリーン艦長のU-47が英国戦艦ロイヤルオークを撃沈した話は、
「独破戦線」初のUボート本、「Uボート、出撃せよ」で紹介しましたが、
2009年5月という遠い昔のことであり、いま読み返してみてもなんだか良くわからないという
かなり酷いレビューです。。
本書は2001年に出た336ページの一冊で、気が付いた時には絶版かつ、
プレミア価格になっていたということもあって、スッカリ忘れていました。
しかし、つい最近、よくお邪魔するBlogでプリーンとスカパ・フロー・ネタが
投下されたことで思い出しました。
定価3600円のところ、古書価格も1600円に下がっていたので、迷わず購入です。
まず、本書の特異性についてちょっと説明しましょう。
amazonでは商品の説明に、「94年名取書店刊「Uボート」の改題。」と書かれていますが、
これは「1994年」ではなく、「1941年」の間違いです。
本書の巻末には「一九四一年名取書店より・・」と明記されていますので、
漢数字の"一"を、"-(ハイフン)"と認識してしまったんでしょう。
プリーン自身は1941年に戦死しているわけですから、原著も1940年に書かれたものであり、
また、その内容もプロパガンダ色が強く、もっと言えばゴーストライター説も根強い、
かなり怪しげな一冊としても知られています。
そんなこともあって、本書の存在を忘れていたんですが、
今回は敢えて、それらのこと・・・
「ゲッベルスの日記」に収められていた、「勝利の日記」のような当時のナチス・プロパガンダ本・・・
を踏まえたうえで、楽しんでみたいと思います。
第1章は「海へ、海へ」。
1923年のライプツィヒでのプリーン少年の生活の様子です。
母親の内職の手伝いをして、お小遣い稼ぎの日々。
部屋には「海の英雄では彼が一番好きだ」というヴァスコ・ダ・ガマの肖像画が一枚・・。
プリーンは1908年生まれですから、このとき15歳ですね。
苦しい家計を助けるため、そして海への憧れから海員養成所へと進み、
帆船ハンブルク号の見習い水夫となります。
乗船して4日目、ハンブルクを出航。
乗組員一同は陸の方を並んで見つめ、「聖パウリに三唱」と叫んで万歳三唱が・・。
「女たち、しばしの別れだ」と言われても、プリーン少年にはなんのことやら。。
訳注にあるんですが、これはハンブルクの歓楽街、ザンクト・パウリのことなんですね。
航海中は、牛乳も出さずに評判の悪いケチな料理番が自分だけはコッソリと・・、
というわけで皆の怒りが爆発します。
「バルケンホルめ、狡猾な豚・・ユダヤ人め、犬みてえに袋叩きにしちまえ」。
船長は船長で、「シァーデ君、ひとつ積荷の方を見て下しゃらんか。
此の様子では多分、小麦粉の袋を移す必要があると思うのでしゅが・・」。
と、なんとも甘ったるい調子で喋ります。
これは、「Sの発音が少し強い」ことを日本語で表現してるんですね。
そして料理番を任されたプリーン少年・・、先輩からは「プリ公」と呼ばれていますが、
張り切り過ぎて大失敗。全員が食中毒という大騒ぎで、艦長も激怒。
「此処から出て行きなしゃい! また元の通り働くのでしゅ。見張り番じゃ!」
ハンブルク号はダブリンで難破。
しかしダブリン港に上陸するとアイルランド人は大歓迎します。
彼らに言わせれば、「英国人の敵は、みな自分の友人」なのです。
ハンブルクへ戻ると、今度は貨物船プファルツブルク号に乗船。
「波止場破落戸」と呼ばれる巨漢の先輩水夫との決闘・・。
破落戸と書いて、ゴロツキと読むんですね。
巻頭で「旧字は新字に直しました」などとありましたが、
基本的には昭和16年の文章と漢字そのままで、感心したりも・・。
続いて旅客船サンフランシスコ号の4等航海士となりますが、
見張りの際に、カールスルーエ号と衝突。。
海難審判庁に出頭し、あわや免許が取り上げられそうな絶体絶命も、
ブッツラー1等航海士の助けもあって、ギリギリ・セーフ。
遠洋航海の船長試験にめでたく合格したものの、時は1932年の失業時代。
どこの汽船会社も雇ってはくれず、文無しとなって失望の日々・・。
この失業地獄から抜け出すために決心する24歳のプリーン。
「その日以来、僕はナチス運動の一員となった」。
特にナチ党員になったとは書かれていませんが、労働奉仕団(RAD)に志願し、
とりあえず、衣食住は保障されます。
新米ながらも皆よりも年長のために、すぐさま同志指導者、部隊指導者へと昇進。
盗みを働いた団員を秩序を守るために追放することで、反対派の仲間たちと大揉めに。。
そんなとき、海軍の士官候補者補充の通知を受け取り、喜び勇んで海軍へ。
1933年の1月、まさにヒトラーが首相となったときです。
ここまで全12章のうち、7章。半分の170ページが過ぎましたが、
ハードカバーとはいえ、上部に無駄な余白はあるわ、字も大きいわ、
嬉しいことに、所々で写真も掲載されているわ・・と、2時間ほどで読めてしまいます。
第8章は「潜水艦乗り組み修業の始まり」。
キール軍港のUボート学校へ入学させられ、U-3に乗り込んで実習。
このU-3については、訳注でも書かれていますが、1933年時点ではまだ、
ドイツ海軍はUボートを保有しておらず、フィンランドで建造された練習艦では・・
と、推測しています。確かにU-3は1935年の建造ですし、
あのヴィディゲンが乗った第1次大戦のU-3も、1919年に廃艦となっています。
まぁ、この当時は書いて良いことと悪いことがあるでしょうね。
実習が終わると、1936年に新造されたU-26の先任将校に任命されます。
艦長は、「剃刀の如くきれる男」と云われているハルトマン大尉。
「プリーン少尉、U-26勤務を拝命したことを申告いたします」。
「では君だね。わしは待ちかねておった」。
このハルトマン艦長。実はプリーンよりわずか6歳年長なだけの34歳です。
日本の古いドイツ軍戦記を読むと、艦長や将軍となると年齢に関係なく、
「わしは・・」とおじいちゃん言葉になるのが面白いですね。
シュタインホフの回想録でも、プリーンより4歳も若いガーランド将軍が、
やっぱり「わしは・・」とやってて、笑いましたっけ・・。
U-26は、「スペイン方面に出動だ」と、大急ぎで出航。コレは「スペイン内戦」ですね。
フランコ将軍の軍艦2隻と遭遇しますが、こちらへその砲口を向けています。
「我々を人民戦線政府の艦と間違えておるわい」と語る艦長。
かくして1938年秋、海軍中尉プリーンは、Uボート艦長に任命されます。
先任将校のエントラースら、乗組員についても触れられていますが、
肝心要の「U-47」の文字が本文中には一切ありません。
戦時中の秘密事項なんですね。
そして1939年9月3日、司令塔にいたプリーンに臨時ニュースが届きます。
それはドイツに対する英国の宣戦布告・・、戦争の始まりです。
早速、出会った英国船を撃沈・・、もちろん乗員を下ろしたうえでの騎士道的方法。
今度は英軍機ブリストル・ブレニムに撃墜され、漂流中のドイツ軍飛行士3名の救出作戦。
この哨戒では1万2千㌧級のタンカーや、7千㌧級のタンカーなど次々と屠り、
最後の魚雷で1万5千㌧の英国汽船アランドラ・スターも撃沈し、合計トン数「66587㌧」。
Uボート戦に詳しい方なら、1939年の9月~10月の間に、
そんな大戦果はないだろう・・と思うでしょうが、まさにそのとおり。。
この第11章はスカパ・フローの後の話、すなわち1940年の哨戒であり、
実際にアランドラ・スターの撃沈は1940年7月のことです。
いよいよ最終章、「スカパ・フロー」です。
1939年10月、Uボート艦隊司令官(FdU)に呼び出されたプリーン大尉。
前大戦で侵入した2隻のUボートが失敗したスカパ・フローの海図を広げ、
「英国艦隊慣用の停泊地じゃ」と、おじいちゃんの如く切り出すデーニッツ。。
「此処じゃ、此処から入るのじゃ。勿論簡単ではない。
此の島々の間の潮流は非常に荒いからな。
だが、わしは突破出来ん筈はないと信じとる。
どうじゃな、プリーン大尉の意見は・・」。
もう今にも死にそうなヨボヨボのデーニッツですが、これでも一応、48歳。。
まさに命がけの任務。決めるのはプリーン本人です。
家に帰り、妻と子供の顔を見て考え、それでも答えは「やれます!」
こうしてU-47は見事、スカパ・フローへの潜入を果たし、
停泊中の戦艦ロイヤルオークを撃沈して、脱出にも成功します。
30ページほどで書かれたこの一部始終ですが、
最初に紹介した「Uボート、出撃せよ」の元ネタにもなっていますね。
この顛末だけを詳しく知りたいなら、293ページのあちらをお勧めします。
ちなみに旧題は「U47、スカパ・フローに潜入せよ! 」です。
エピローグとして「総統の前に立つ」。
意気揚々と本国へ向けて南下するU-47は放送を受信します。
「スカパ・フローにおいて英国戦艦ロイヤルオークはドイツUボートの魚雷を受けて
沈没した。英国側の報道によれば、該ドイツUボートは時を移さず撃沈された・・」。
これには全員が吹き出します。
「すると我々は沈没しちゃったわけですな!」
英国にしてみれば、戦艦一隻を失ったところで物的損害は大したことはなく、
それよりもスカパ・フローに潜入、撃沈、脱出を許したことが大問題であって、
第1次大戦以来、安全とされていたこの基地がもはや過去のものとなり、
また、その面子を完全に潰されたというショックが大きいわけです。
なんとなく、真珠湾攻撃に近い気も・・。
そういえば、チャーチルも回想録でこの件に触れていました。
「U-47の艦長、プリーン大尉の武勲と見なさなければならない」。
デーニッツだけではなく、レーダー海軍総司令官直々の出迎えを受け、
そのまま乗員全員が飛行機でベルリンへ・・。
テンペルホーフ空港から歓喜する市民の中をパレードして総統官邸に到着すると、
遂にヒトラーから「騎士十字章」を授かるプリーン艦長。
「少年の夢が現実になったのだ。そして此の世に於ける最大最善のものだったろう。
だが僕の生涯に較べて総統のそれは何という素晴らしいものであったろうか。
祖国の屈辱と困窮を、自らのものと感じて、より幸福で自由な祖国の建設を希望した
一個の男子だった総統は、信じかつ行動し、
その夢は現実となり、その信念は生命を得たのだ」と、本書を締めくくります。
1940年8月付のあとがきでは、第11章と第12章の順序の入れ替え理由について述べ、
簡単に言えば、「スカパ・フローをクライマックスにしても悪くあるまい・・」ということでした。
ギュンター・プリーンといえば、スカパ・フローだけでなく、「騎士十字章」のイメージもあります。
これはヒトラーによって1939年9月1日に制定された「騎士十字章」を
それからわずかに1か月半後の、10月18日にヒトラー自らが贈呈したことも大きいでしょう。
ただ、プリーンが最初の受章者かというと、そうではなく、
「鉄十字の騎士 -騎士十字章の栄誉を担った勇者たち-」をチラ見してみると、
ポーランド戦が片付いた9月30日に第1弾として10名が受章しています。
しかしその顔触れは、ゲーリングを筆頭に、ブラウヒッチュ、ルントシュテット、
ライヒェナウ、ブラスコヴィッツ、リスト、ケッセルリンク、そしてレーダー提督といった、
大将および軍司令官以上の高級将校が対象なのです。
ですから、大尉という階級で、騎士十字章の規定でもある「個人的武勲を讃え」た
最初の騎士十字章受章者は、プリーンということになるんですね。
ちなみにwikiには、「彼はドイツ海軍軍人の中で初めて騎士鉄十字章を授与された。」
と、書かれていますが、前途のように海軍総司令官のレーダーが先ですね。
プリーンの後、10月27日にはポーランド戦の戦功第2弾グループとして11名が受章。
ここには陸軍参謀総長ハルダーに、グデーリアン、ヘプナー、ホトといった錚々たる将軍が
名を連ねていますから、それだけでもプリーンの偉業が目立ちます。
30歳の好青年、まさに第2大戦におけるドイツ軍最初のスーパースターですね。
W杯で優勝したドイツ代表の凱旋に勝るとも劣らない、その当時のフィーバーぶりを
「ドイツ週間ニュース」からど~ぞ。
読み終えて、「ゴーストライターによるプロパガンダ本」という定評もあった本書ですが、
それほど違和感は感じませんでした。
実際のところ、9割がたは事実なんじゃないでしょうか。
前半の「ユダヤ人め・・」やら、「ナチス運動の一員・・・」というのは、オマケ程度でしたし、
最後の「総統・・」のくだりだけは如何にもヤラセ臭が。。
確かに、貧しい少年が海に憧れて船乗りとなり、化け物みたいな船員と戦ったり、
不景気による夢の挫折があって、RADで個人よりも組織の大事さを学び、
新生Uボート部隊の艦長になって、大戦果をあげる・・というストーリーは、
当時のドイツ少年の心を鷲掴みにしたでしょう。
翌年に翻訳されたということは、日本の少年も熱中したのかもしれません。
本書の前に読んだ、「ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で」も、
直前まで中産階級の教師の息子、チトフとのライバル争いがあり、
最終的にガガーリンが選ばれたのは、スモレンスクのコルホーズの息子であったことも
推測されているなど、やっぱり国家のスーパースターには、
最下級からトップへ・・という成り上がりっぷりが重要かと思いました。
ただ、個人的にはユーリイ・ガガーリンという、"THE ソヴィエト人民"的な名前に対して、
「ゲルマン・チトフ」ではマズイんじゃないの??・・と思った次第です。
ワールドツアーでエリザベス女王と会食したり、日本にやって来た際のエピソードも書かれ、
またソ連側だけでなく、米国のマーキュリー計画も並行して語られているので、
映画「ライトスタッフ」が好きな方なら更に楽しめる良本でした。
ちなみに、この本を読んで1967年という年がソ連にとって重要な年だったというのを知りました。
すなわち、ボルシェヴィキの十月革命が1917年であり、1967年は記念すべき「50周年」・・。
どうして1967年に拘るのかというと、ヴィトゲンシュタインは1967年生まれなんですね。
ついでにスターリングラード包囲の「天王星作戦」が発動された11月19日生まれですから、
もう、真っ赤っ赤です。。
また「ゴーストライター」については、100%の事実だと思いますけれども、
今年、あの佐村河内 守氏の「ゴーストライター問題」が大きく取り上げられた際、
芸能人やスポーツ選手が「書いた」とされる本に至るまで、
マスコミの追及があるのかな?? と思っていましたが、案の定でしたね。。
まぁ、世界中の常識ある人なら、わかっている話ですし、
それらの本、全てがゴーストライターによる「創作」とは言わないまでも、
本人が口述したことを作家さんが巧くまとめているということでしょう。
その意味ではヒトラーの「わが闘争」にしても、口述ですから、
ルドルフ・ヘスがゴーストライターとして、どれだけ活躍したのか判ったもんじゃありません。
それを追及するのは野暮ってなモンです。
と、ここまで書いて、わざと読まずに残しておいた巻末の昭和16年「初版の序」と、
2001年の「解題」を読んでみました。
「初版の序」を書くのは海軍中将 和波豊一と、駐日独逸大使館海軍武官 ヴェネカア少将で、
「解題」ではプリーンの生涯、3大エースとその最期についても触れられていますが、
本書が戦意昂揚を狙って刊行されたものであるから、そのあたりを考慮しつつも、
記述が具体的で、Uボート艦長の伝記としてはなかなか面白い・・と、
3人の感想とヴィトゲンシュタインの感想は、ほぼ一致していました。
いずれにしても、Uボート好き、またはナチスのプロパガンダに興味があるならば、
本書は読んで損はないでしょう。
戦前のドイツと、見習い水兵の生活、Uボート部隊のドコが事実で、ドコがそうでないのか、
そして戦時中の本を読んでいるかのような文章も含め、
楽しめる観点は思っていたよりたくさんありました。
「U47出撃せよ」という映画もありますよ。
r
深海の使者 [Uボート]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
吉村 昭 著の「深海の使者」を読破しました。
時々、無性に読みたくなるUボートもの・・。
そんな本を一心不乱に探していると、本書がヒットしました。
聞いたことのあるタイトルなので、内容を確認してみると、
日本とナチス・ドイツの連絡をつけるべく、命がけの航海をした
遣独潜水艦の活躍を描いたもので、最初に出版されたのは1973年。
本書は2011年の427ページ、文庫改訂版です。
この遣独潜水艦は何度か独破戦線でも取り上げていますし、
著者は「関東大震災」の方ですから、まず、間違いなさそうですね。
昭和17(1942)年4月22日、一隻の大型潜水艦がマレー半島西海岸のペナンを出港。
2ヵ月前に呉海軍工廠で完成したばかりの新造潜水艦、伊30です。
米・英・ソ・中の連合国側は共同作戦のための連絡会議や、兵器技術の交流、
軍事物資の支援を活発に行っているものの、対照的に枢軸国側、
特に日本とドイツ、イタリア両国間の連絡はまったくの杜絶状態であり、
双方の連絡は無線通信以外にないのです。
そんな状況を打破すべく、海面下のルートを開発しようという日本。
その第1便の遺独艦が伊30なのです。
ドイツの驚くべき電波深信儀(レーダー)を譲渡してもらうこともレーダー元帥が承諾済み。
ドイツ側へのお土産は生ゴムなどの物資に空母の設計図。
そのドイツ側が実物の譲渡を熱望する極秘の「酸素魚雷」だけは拒絶して、
代わりに航空魚雷の設計図を積み込みます。
そして8月6日、インド洋、大西洋を突破して、遂にロリアン軍港に近づいた伊30。
巨大なブンカーに向かって、艦の乗組員は紺の第1種軍装に着替えて舷側に整列。
彼らはドイツ海軍軍楽隊の「君が代」の吹奏に感動し、目を潤ませるのでした。
出迎えたデーニッツは遠藤艦長と握手し、その行動に賛辞を送ります。
基地内の歓迎会場では祝宴が繰り広げられ、
深い森に包まれたフランスの豪壮な館で疲労を癒す乗組員たち。
さらにパリ観光に、ベルリンのヒトラーに招待されて「クロス勲章」を授与された遠藤艦長。
「クロス勲章」って何でしょうね。1級鉄十字章あたりかな?
この伊30について調べていたら、「ドイツ週間ニュース」の映像を見つけました。
デーニッツにレーダー、ドイツ海軍兵と交流する伊30の乗組員たちの姿です。
Uボート関係者をまず驚かせたのが、伊30の大きさです。
主力UボートのⅦ型は700㌧級で全長67m、900㌧級のⅨ型でも77m。
それに比べ、伊30は2198㌧で109mという大きさゆえ、
Uボートブンカーに収まりきらず、艦尾がブンカーの外にはみ出すほど・・。
大きいエンジンを積み、その騒音に眉をしかめるドイツ士官。
しかし、作戦する海域の大きさと、戦艦などの機動部隊と共に行動する日本潜水艦には
水上での速度が必要であり、ジ~ッと身を潜めて通商破壊戦を行うUボートとは、
その設計思想が違うのです。
いや~、初めて知りましたが、これはデカい潜水艦です。
小型水上偵察機まで格納しているくらいですから・・。
8月22日にはレーダー元帥じゃない方のレーダーを積んで日本へ向けて出港。
無事シンガポールに帰着し、お土産のひとつ、エニグマ暗号機を陸揚げしますが、
内地への帰航の際、港内で機雷に触れて沈没してしまいます。。
死者は13名と少なかったものの、せっかくのレーダーや機密兵器類が
設計図と共に海中へ没してしまうという大失態です。
ちょうどそのころ、日伊の連絡路が空路によって開かれます。
イタリア軍首脳によるこの発案は、ドイツに後れを取る名誉挽回の策であり、
サヴォイア・マルケッティ SM-75という三発の長距離機で、
ドイツ軍占領下のクリミア半島から、日本軍占領下の中国北部へ無着陸飛行を行うというもの。
しかし日本としては、中立であるソ連領内の侵犯だけは絶対に避けなければならず、
それには距離も長く、気象条件も悪いペルシャ湾~インド洋コースを取るしかありません。
ソ連を挑発したくないという日本の危惧を了承したイタリア。
7月1日、東の空に消えて行った三発機は、ソ連領南部へ機首を向けるのでした・・。
この1942年の夏といえば、イタリア軍は東部戦線でソ連と戦っているわけですから、
日本の要望が受け入れられないようで、結局、この連絡ルートは消滅。
ここからインド独立の為に対英戦を唱えて、ドイツへと亡命していたチャンドラ・ボースを
日本へと招く計画へと進み、洋上での移乗作戦が始まります。
日本側からはあの友永技術中佐らが伊29に乗り込んでドイツへと向かい、
チャンドラ・ボースを乗せたU-180とマダガスカル島沖で見事、会合を果たすのでした。
この話は何度か紹介していますが、「Uボート ファイティングシップ・シリーズ」を読んでから、
Uボートのエンブレム(紋章)がいつも気になって、U-180を調べてみると、
なぜか「メルセデス・ベンツ」でした。
またドイツ海軍は突如、「2隻のUボートを贈呈するから、取りに来て」と言ってきます。
あ~、コレはヒトラーがデーニッツへの相談なく、勝手に決めたってヤツですね。
1隻はドイツ海軍の手で日本へ送るが、もう1隻は日本海軍で回航して欲しいという要望に、
1943年6月1日、またしても大型の潜水艦である伊8が呉軍港を出港。
100名の乗組員の他、Uボート回航要員の60名も載せて、ギュウギュウ詰め。。
上等水兵一人が熱帯性マラリアで死亡するなど、2ヶ月に及ぶ航海です。
8月20日、アゾレス諸島でU-161と会合することに成功。
最新式の電波探知機を受け取ったお礼に、コーヒーの一斗缶を送った内野艦長。
コーヒー大好きなのにコーヒー不足のドイツ兵は大喜びです。
ちなみにU-161のエンブレムは「ブラック・バイキング」でした。
ようやく、ブレストのブンカーに辿り着いた伊8。
整列する彼らに、やっぱり日本国歌とドイツ国歌が演奏され、胸を熱くします。
出迎えには西部管区海軍長官、あのクランケ提督がやって来て、祝辞を述べるのでした。
Uボートの2隻のうち1隻、U-511はすでに7月、ドイツ海軍によってペナン基地へと辿り着き、
翌月、呉軍港に入って、シュネーヴィント艦長は南雲中将らの出迎えを受け、
9月、日本の乗員に引き継がれたU-511は、呂500と命名されます。
ドイツがUボートを譲渡した目的は、コレを大量生産して欲しいというものですが、
現実には金属材料の不足、工作機械も不備であり、魚雷なども日本海軍のとは寸法も違うため、
U-511は研究対象としてしか存在意義はないのです。
しつこいようですが、U-511のエンブレムは秤・・。
10月、伊8はブレストをひっそりと出て、12月にはシンガポールまで帰ってきます。
しかしその間に遣独潜水艦の3番艦として出港した伊34は、英海軍潜水艦によって撃沈・・。
潜水艦によるドイツとの連絡は、このように確実性がないばかりか、
片道に2ヵ月を要し、往復の期間となると、半年という長丁場です。
そこで日本軍も長距離飛行機に目を向け、「キ77」を開発します。
なんと言っても2ヶ月どころか、2日で到着できるんですから・・。
ですが、7月シンガポールから飛び立った双発の「キ77」は行方不明に・・。
すでにイタリアは降伏し、戦局が悪化する中、ドイツとの連携のためには
やっぱり潜水艦しかないことを悟った日本軍は、チャンド・ボースを乗せて帰って来た伊29を
遣独潜水艦の4番艦として送り出します。
襲いくる英軍機から必死の思いで逃れながら、ドイツ駆逐艦4隻と戦闘機の護衛を受け、
なんとかロリアンに辿り着いたのは昭和19(1944)年3月。
シンガポールを出港後、実に86日間の航海です。
この時期にUボートがどれだけやられているか知っていれば、奇跡的に感じますね。
と、ココでそういえば・・の、ドイツが贈呈したもう1隻のUボートの話がありました。
乗田艦長の指揮のもと、バルト海で急速潜航訓練も行ったU-1224。
ロケット戦闘機Me-163、ジェット戦闘機Me-262に関する資料の譲渡をミルヒから承諾され、
2月、キールにて正式にU-1224を受領。呂-501と命名して翌月、出港します。
しかし悲しいかな、大西洋上で米海軍駆逐艦の餌食になってしまうのです。
4月にロリアンから帰路についた木梨艦長の伊29は、7月にシンガポールに到着します。
もっとも機密性の高い設計図などは降ろされて、空路、東京へ向かいます。
そして内地帰投を目前に、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて轟沈する伊29・・。
それでもこのとき、東京に送られた設計関係資料をもとに、「秋水」、「橘花」が試作され、
「桜花」が誕生するのでした。
まだまだ終わらない遣独潜水艦。
連合軍がノルマンディに上陸・・という時期になって向かっているのは5番艦の伊52です。
最新レーダーなどの電波兵器は日本軍に必要不可欠であり、そのような機密兵器入手と
ヨーロッパ駐在員の活動費として、金の延べ棒2㌧を積み込んでいます。
ロリアンへの到着予定日は8月1日・・。
そこへ向かって「ガソリンある限り前進」しているのはパットンです。ドキドキするなぁ。。
ノルウェーに向かうよう暗号電文を打ちますが、結局、伊52は2度と姿を現すことはありません。
本書は1973年と古いモノですから、伊52は撃沈されたもの・・と推測するだけですが、
近年、深海に眠る伊52が発見されたそうです。
2㌧の金の延べ棒は手つかずだそうな・・。
1945年にはもうドイツへ向かう遣独潜水艦はありません。
それでも最後のクライマックスはU-234で日本に向かう友永、庄司両技術中佐が・・。
天才的な潜水艦技術士官であり、「海軍技術有功章」を唯一、2回授与された
友永技術中佐はガッチリと書かれており、
以前に読んだ「深海からの声」は、本書の影響を受けてたんですね。
クドいようですが、U-234のエンブレムは「ライジング・デビル」・・。
大島大使らドイツ駐在員らの脱出行もなかなか詳細です。
ハインケルの工場からジェット戦闘機He-162の技術資料を入手して、
スウェーデンに脱出を図る一行もいれば、
日本大使館には河原参事官と、あの新関欽哉氏の2人が留まり、
大使館付首席補佐官渓口大佐と安倍中将が4月20日に総統ブンカーを訪れて、
総統誕生日を祝する記帳を行っていたり・・。
ドイツ降伏時に、東洋地域には6隻のUボートがいたそうです。
通商破壊戦を行うと同時に、南方資源の輸送に従事していたそうで、
U-511で日本に来たシュネーヴィントも、U-183の艦長となって1945年に戦死。。
これらはいわゆる「モンスーン戦隊」のことでしょう。
日本軍ともかなり連携していたようで、もっと詳しく知りたいですね。
Uボートではないですが、
「帰れなかったドイツ兵 -太平洋戦争を箱根で過ごした誇り高きドイツ海軍将兵-」も
なかなか感動しましたから。。
8月15日、「一切の敵対行動を停止すべし」との電文を受けた伊401。
3機の小型水上偵察機が格納できる3500㌧の巨大な最新艦です。
「全員自決」が日本海軍軍人の取るべき態度・・と全員が同調しますが、
無条件降伏は天皇の命令であり、それに反することは天皇に背くことを意味します。
結局、自決は中止され、米潜水艦の監視のもと、横須賀に回航する伊401。
そして乗艦していた指令、有泉大佐は、1人軍刀を掴んで椅子に座り、
左手で掴んだ拳銃を口にくわえて自決を決行します。その遺書には、
「最も誇りとする軍艦旗を下ろして、星条旗を掲揚しなければならないことが忍びない」。
このように本書はドイツへ命がけの航海に挑んだ伊号潜水艦が主役ですが、
日本へと向かうUボート、長距離機で空路、枢軸の連絡を図ろうとする努力、
そして友永技術中佐など、ドイツへ派遣された軍人や武官たちの運命にまで言及し、
単なる第2次大戦の潜水艦戦記を超えた、とても充実した一冊でした。
あえて「名著」と呼んでも差し支えないでしょう。
ドイツの潜水艦を描いた「Uボート」という超が付く名作映画がありますが、
日本においても映画の題材となって然るべき、このような伊号潜水艦が存在したのです。
大和や零戦ばっかりで、これを映画化できない現在の日本映画界は、
あえて腑抜けと言わせてもらいます。
戦時中のエピソードのひとつ、アクション映画として製作すればいいのであって、
特攻や反戦だったり、映画の中で終戦を迎えて悲しむ必要はないと思います。
「真夏のオリオン」、アレは・・。
吉村 昭氏の作品を調べてみると、興味深いドキュメンタリー小説や短編が沢山あります。
大正4年12月に北海道で起った、巨大ヒグマが6人を殺したという「羆嵐」、
タイトルだけは知っていた「漂流」と、「破船」、
ソ連参戦で宗谷海峡を封鎖された南樺太の危険な脱出行を描いた「脱出」。
そんななかで、帰艦できずに銃殺刑を怖れて逃亡した海軍機関兵の話である「帰艦セズ」。
沈没した[伊33号]を襲った悲劇、樺太の看護婦の集団自決事件などが収められた
「総員起シ」を購入してしまいました。
1
吉村 昭 著の「深海の使者」を読破しました。
時々、無性に読みたくなるUボートもの・・。
そんな本を一心不乱に探していると、本書がヒットしました。
聞いたことのあるタイトルなので、内容を確認してみると、
日本とナチス・ドイツの連絡をつけるべく、命がけの航海をした
遣独潜水艦の活躍を描いたもので、最初に出版されたのは1973年。
本書は2011年の427ページ、文庫改訂版です。
この遣独潜水艦は何度か独破戦線でも取り上げていますし、
著者は「関東大震災」の方ですから、まず、間違いなさそうですね。
昭和17(1942)年4月22日、一隻の大型潜水艦がマレー半島西海岸のペナンを出港。
2ヵ月前に呉海軍工廠で完成したばかりの新造潜水艦、伊30です。
米・英・ソ・中の連合国側は共同作戦のための連絡会議や、兵器技術の交流、
軍事物資の支援を活発に行っているものの、対照的に枢軸国側、
特に日本とドイツ、イタリア両国間の連絡はまったくの杜絶状態であり、
双方の連絡は無線通信以外にないのです。
そんな状況を打破すべく、海面下のルートを開発しようという日本。
その第1便の遺独艦が伊30なのです。
ドイツの驚くべき電波深信儀(レーダー)を譲渡してもらうこともレーダー元帥が承諾済み。
ドイツ側へのお土産は生ゴムなどの物資に空母の設計図。
そのドイツ側が実物の譲渡を熱望する極秘の「酸素魚雷」だけは拒絶して、
代わりに航空魚雷の設計図を積み込みます。
そして8月6日、インド洋、大西洋を突破して、遂にロリアン軍港に近づいた伊30。
巨大なブンカーに向かって、艦の乗組員は紺の第1種軍装に着替えて舷側に整列。
彼らはドイツ海軍軍楽隊の「君が代」の吹奏に感動し、目を潤ませるのでした。
出迎えたデーニッツは遠藤艦長と握手し、その行動に賛辞を送ります。
基地内の歓迎会場では祝宴が繰り広げられ、
深い森に包まれたフランスの豪壮な館で疲労を癒す乗組員たち。
さらにパリ観光に、ベルリンのヒトラーに招待されて「クロス勲章」を授与された遠藤艦長。
「クロス勲章」って何でしょうね。1級鉄十字章あたりかな?
この伊30について調べていたら、「ドイツ週間ニュース」の映像を見つけました。
デーニッツにレーダー、ドイツ海軍兵と交流する伊30の乗組員たちの姿です。
Uボート関係者をまず驚かせたのが、伊30の大きさです。
主力UボートのⅦ型は700㌧級で全長67m、900㌧級のⅨ型でも77m。
それに比べ、伊30は2198㌧で109mという大きさゆえ、
Uボートブンカーに収まりきらず、艦尾がブンカーの外にはみ出すほど・・。
大きいエンジンを積み、その騒音に眉をしかめるドイツ士官。
しかし、作戦する海域の大きさと、戦艦などの機動部隊と共に行動する日本潜水艦には
水上での速度が必要であり、ジ~ッと身を潜めて通商破壊戦を行うUボートとは、
その設計思想が違うのです。
いや~、初めて知りましたが、これはデカい潜水艦です。
小型水上偵察機まで格納しているくらいですから・・。
8月22日にはレーダー元帥じゃない方のレーダーを積んで日本へ向けて出港。
無事シンガポールに帰着し、お土産のひとつ、エニグマ暗号機を陸揚げしますが、
内地への帰航の際、港内で機雷に触れて沈没してしまいます。。
死者は13名と少なかったものの、せっかくのレーダーや機密兵器類が
設計図と共に海中へ没してしまうという大失態です。
ちょうどそのころ、日伊の連絡路が空路によって開かれます。
イタリア軍首脳によるこの発案は、ドイツに後れを取る名誉挽回の策であり、
サヴォイア・マルケッティ SM-75という三発の長距離機で、
ドイツ軍占領下のクリミア半島から、日本軍占領下の中国北部へ無着陸飛行を行うというもの。
しかし日本としては、中立であるソ連領内の侵犯だけは絶対に避けなければならず、
それには距離も長く、気象条件も悪いペルシャ湾~インド洋コースを取るしかありません。
ソ連を挑発したくないという日本の危惧を了承したイタリア。
7月1日、東の空に消えて行った三発機は、ソ連領南部へ機首を向けるのでした・・。
この1942年の夏といえば、イタリア軍は東部戦線でソ連と戦っているわけですから、
日本の要望が受け入れられないようで、結局、この連絡ルートは消滅。
ここからインド独立の為に対英戦を唱えて、ドイツへと亡命していたチャンドラ・ボースを
日本へと招く計画へと進み、洋上での移乗作戦が始まります。
日本側からはあの友永技術中佐らが伊29に乗り込んでドイツへと向かい、
チャンドラ・ボースを乗せたU-180とマダガスカル島沖で見事、会合を果たすのでした。
この話は何度か紹介していますが、「Uボート ファイティングシップ・シリーズ」を読んでから、
Uボートのエンブレム(紋章)がいつも気になって、U-180を調べてみると、
なぜか「メルセデス・ベンツ」でした。
またドイツ海軍は突如、「2隻のUボートを贈呈するから、取りに来て」と言ってきます。
あ~、コレはヒトラーがデーニッツへの相談なく、勝手に決めたってヤツですね。
1隻はドイツ海軍の手で日本へ送るが、もう1隻は日本海軍で回航して欲しいという要望に、
1943年6月1日、またしても大型の潜水艦である伊8が呉軍港を出港。
100名の乗組員の他、Uボート回航要員の60名も載せて、ギュウギュウ詰め。。
上等水兵一人が熱帯性マラリアで死亡するなど、2ヶ月に及ぶ航海です。
8月20日、アゾレス諸島でU-161と会合することに成功。
最新式の電波探知機を受け取ったお礼に、コーヒーの一斗缶を送った内野艦長。
コーヒー大好きなのにコーヒー不足のドイツ兵は大喜びです。
ちなみにU-161のエンブレムは「ブラック・バイキング」でした。
ようやく、ブレストのブンカーに辿り着いた伊8。
整列する彼らに、やっぱり日本国歌とドイツ国歌が演奏され、胸を熱くします。
出迎えには西部管区海軍長官、あのクランケ提督がやって来て、祝辞を述べるのでした。
Uボートの2隻のうち1隻、U-511はすでに7月、ドイツ海軍によってペナン基地へと辿り着き、
翌月、呉軍港に入って、シュネーヴィント艦長は南雲中将らの出迎えを受け、
9月、日本の乗員に引き継がれたU-511は、呂500と命名されます。
ドイツがUボートを譲渡した目的は、コレを大量生産して欲しいというものですが、
現実には金属材料の不足、工作機械も不備であり、魚雷なども日本海軍のとは寸法も違うため、
U-511は研究対象としてしか存在意義はないのです。
しつこいようですが、U-511のエンブレムは秤・・。
10月、伊8はブレストをひっそりと出て、12月にはシンガポールまで帰ってきます。
しかしその間に遣独潜水艦の3番艦として出港した伊34は、英海軍潜水艦によって撃沈・・。
潜水艦によるドイツとの連絡は、このように確実性がないばかりか、
片道に2ヵ月を要し、往復の期間となると、半年という長丁場です。
そこで日本軍も長距離飛行機に目を向け、「キ77」を開発します。
なんと言っても2ヶ月どころか、2日で到着できるんですから・・。
ですが、7月シンガポールから飛び立った双発の「キ77」は行方不明に・・。
すでにイタリアは降伏し、戦局が悪化する中、ドイツとの連携のためには
やっぱり潜水艦しかないことを悟った日本軍は、チャンド・ボースを乗せて帰って来た伊29を
遣独潜水艦の4番艦として送り出します。
襲いくる英軍機から必死の思いで逃れながら、ドイツ駆逐艦4隻と戦闘機の護衛を受け、
なんとかロリアンに辿り着いたのは昭和19(1944)年3月。
シンガポールを出港後、実に86日間の航海です。
この時期にUボートがどれだけやられているか知っていれば、奇跡的に感じますね。
と、ココでそういえば・・の、ドイツが贈呈したもう1隻のUボートの話がありました。
乗田艦長の指揮のもと、バルト海で急速潜航訓練も行ったU-1224。
ロケット戦闘機Me-163、ジェット戦闘機Me-262に関する資料の譲渡をミルヒから承諾され、
2月、キールにて正式にU-1224を受領。呂-501と命名して翌月、出港します。
しかし悲しいかな、大西洋上で米海軍駆逐艦の餌食になってしまうのです。
4月にロリアンから帰路についた木梨艦長の伊29は、7月にシンガポールに到着します。
もっとも機密性の高い設計図などは降ろされて、空路、東京へ向かいます。
そして内地帰投を目前に、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて轟沈する伊29・・。
それでもこのとき、東京に送られた設計関係資料をもとに、「秋水」、「橘花」が試作され、
「桜花」が誕生するのでした。
まだまだ終わらない遣独潜水艦。
連合軍がノルマンディに上陸・・という時期になって向かっているのは5番艦の伊52です。
最新レーダーなどの電波兵器は日本軍に必要不可欠であり、そのような機密兵器入手と
ヨーロッパ駐在員の活動費として、金の延べ棒2㌧を積み込んでいます。
ロリアンへの到着予定日は8月1日・・。
そこへ向かって「ガソリンある限り前進」しているのはパットンです。ドキドキするなぁ。。
ノルウェーに向かうよう暗号電文を打ちますが、結局、伊52は2度と姿を現すことはありません。
本書は1973年と古いモノですから、伊52は撃沈されたもの・・と推測するだけですが、
近年、深海に眠る伊52が発見されたそうです。
2㌧の金の延べ棒は手つかずだそうな・・。
1945年にはもうドイツへ向かう遣独潜水艦はありません。
それでも最後のクライマックスはU-234で日本に向かう友永、庄司両技術中佐が・・。
天才的な潜水艦技術士官であり、「海軍技術有功章」を唯一、2回授与された
友永技術中佐はガッチリと書かれており、
以前に読んだ「深海からの声」は、本書の影響を受けてたんですね。
クドいようですが、U-234のエンブレムは「ライジング・デビル」・・。
大島大使らドイツ駐在員らの脱出行もなかなか詳細です。
ハインケルの工場からジェット戦闘機He-162の技術資料を入手して、
スウェーデンに脱出を図る一行もいれば、
日本大使館には河原参事官と、あの新関欽哉氏の2人が留まり、
大使館付首席補佐官渓口大佐と安倍中将が4月20日に総統ブンカーを訪れて、
総統誕生日を祝する記帳を行っていたり・・。
ドイツ降伏時に、東洋地域には6隻のUボートがいたそうです。
通商破壊戦を行うと同時に、南方資源の輸送に従事していたそうで、
U-511で日本に来たシュネーヴィントも、U-183の艦長となって1945年に戦死。。
これらはいわゆる「モンスーン戦隊」のことでしょう。
日本軍ともかなり連携していたようで、もっと詳しく知りたいですね。
Uボートではないですが、
「帰れなかったドイツ兵 -太平洋戦争を箱根で過ごした誇り高きドイツ海軍将兵-」も
なかなか感動しましたから。。
8月15日、「一切の敵対行動を停止すべし」との電文を受けた伊401。
3機の小型水上偵察機が格納できる3500㌧の巨大な最新艦です。
「全員自決」が日本海軍軍人の取るべき態度・・と全員が同調しますが、
無条件降伏は天皇の命令であり、それに反することは天皇に背くことを意味します。
結局、自決は中止され、米潜水艦の監視のもと、横須賀に回航する伊401。
そして乗艦していた指令、有泉大佐は、1人軍刀を掴んで椅子に座り、
左手で掴んだ拳銃を口にくわえて自決を決行します。その遺書には、
「最も誇りとする軍艦旗を下ろして、星条旗を掲揚しなければならないことが忍びない」。
このように本書はドイツへ命がけの航海に挑んだ伊号潜水艦が主役ですが、
日本へと向かうUボート、長距離機で空路、枢軸の連絡を図ろうとする努力、
そして友永技術中佐など、ドイツへ派遣された軍人や武官たちの運命にまで言及し、
単なる第2次大戦の潜水艦戦記を超えた、とても充実した一冊でした。
あえて「名著」と呼んでも差し支えないでしょう。
ドイツの潜水艦を描いた「Uボート」という超が付く名作映画がありますが、
日本においても映画の題材となって然るべき、このような伊号潜水艦が存在したのです。
大和や零戦ばっかりで、これを映画化できない現在の日本映画界は、
あえて腑抜けと言わせてもらいます。
戦時中のエピソードのひとつ、アクション映画として製作すればいいのであって、
特攻や反戦だったり、映画の中で終戦を迎えて悲しむ必要はないと思います。
「真夏のオリオン」、アレは・・。
吉村 昭氏の作品を調べてみると、興味深いドキュメンタリー小説や短編が沢山あります。
大正4年12月に北海道で起った、巨大ヒグマが6人を殺したという「羆嵐」、
タイトルだけは知っていた「漂流」と、「破船」、
ソ連参戦で宗谷海峡を封鎖された南樺太の危険な脱出行を描いた「脱出」。
そんななかで、帰艦できずに銃殺刑を怖れて逃亡した海軍機関兵の話である「帰艦セズ」。
沈没した[伊33号]を襲った悲劇、樺太の看護婦の集団自決事件などが収められた
「総員起シ」を購入してしまいました。
1
ドイツ海軍 Uボート(2) ファイティングシップ・シリーズNo.4 [Uボート]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
グランドパワー別冊の「ドイツ海軍 Uボート(2) 」を読破しました。
5月に「Uボート(1)」と併せて800円で入手したデルタ出版のグランドパワー別冊です。
鮮明な写真たっぷりで人物や艦橋も詳細にわかるのも良いですが、
なんといっても艦橋に描かれたマークが楽しめます。
表紙の写真はU-204で、艦橋には「我々はそれを手に入れる」と
フランス語で書かれた珍しいマークですね。
巻頭は「Uボート(1)」のようなカラー写真ではない代わりに、
カラーイラストで7隻が描かれています。
大日本絵画の大判写真集で戦車のカラーイラストが出てくるのと同じ感じ。
そして57ページまでフォトコレクションとして白黒の写真集が続きます。
まずはギュンター・プリーンの先任だったエンドラス艦長のU-46の帰港シーン。
猛牛マークも引き継ぎ、「11008」は戦果(㌧数)を示しています。
クレッチマーのU-99はパーソナルマークの代わりに
お守りの「馬蹄」が艦橋側面に取り付けられています。
まぁ、コレも「下向き」なのがダメだった・・とか、有名な逸話もあります。
「海戦 連合軍対ヒトラー」にも書かれていたかな・・?
U-94は「ユニオンジャックを着たライオンを海に引きずり込もうとする魚」。
ほとんど、マンガの1シーンのようなコミカルなものも多いですが、
このようなセンスは、その艦の絵心ある水兵による気もします。
パーソナルマークという意味だと、米爆撃機の「ノーズ・アート」も良く知られていますが、
アッチは「エロい女の子」の図柄が基本・・。
伝統あるドイツ海軍ではとても許されそうがありませんね。
そしてU-97は品の良い「タツノオトシゴ」。
U-552のエーリッヒ・トップは有名な「躍る悪魔」ですが、
本書によるとこのマークは、U-57(コルス艦長)が初めて用いたものを
トップがパクッたものと伝えられているそうです。
U-124は、「蛙」と「エーデルヴァイス」の2種類が描かれていて、
蛙がパーソナルマーク、エーデルヴァイスが戦隊マークのようですね。
こうして58ページから、第1章「Uボートの搭載兵器」。
多数の写真と図版を用いながら、魚雷や艦橋の火砲について解説。
特にⅦC型の8.8㎝砲や、10.5㎝砲が魚雷節約のために使われたのは
Uボート戦記で良く読みますが、空からの攻撃に苦しみ出すと、
使い道が無くなって、徐々に撤去され、
3.7㎝対空砲などに取って代わられた話は印象的でした。
第2章は「大西洋の戦い」。
1939年9月の開戦早々にU-30のレンプが客船アセニア号を誤って撃沈した件から、
1945年の敗戦までをコンパクトに振り返ります。
しかし何故にUボート戦記っていうのは面白いのか・・? と振り返ってみると、
50人程度の乗組員。艦長も少尉から大尉とリアルな階級です。
基本的には大海原で商船を見つけては身ぐるみ剥がして撃沈するという、
「追い剥ぎ」のごときUボート部隊ですが、陸軍でいえば1個小隊程度であり、
たまに戦艦や空母なんかを撃沈するということは、わずか1個小隊が奇襲によって、
敵の1個連隊に勝つという考えられないような痛快さにあるんじゃないでしょうか?
続いて第3章は「Uボートと掩蔽壕」。いわゆるUボート・ブンカーです。
占領したフランスのビスケー湾。
北からブレスト、ロリアン、サン・ナゼール、ラ・パリス、そしてボルドー。
膨大な量の鋼材とコンクリートを用いて創られた頑丈なブンカーは、
英空軍が10㌧爆弾「グランドスラム」で5~6mの天井を貫こうと計画しますが、
爆弾の加速をつけるのに必要な高度までランカスターが上昇できないため、
6㌧爆弾「トールボーイ」26発を叩き込んでみたものの、1発も貫通せず・・。
第4章は「Uボートエース」です。
普通は撃沈㌧数順で紹介される彼らですが、本書では高位の勲章順です。
ダイヤモンド剣柏葉付き騎士十字章受章者のUボート乗りはたった2人。
ヴォルフガンク・リュートとアルブレヒト・ブランディです。
海軍で最初に剣柏葉付き騎士十字章を受章したのが30万㌧を撃沈したクレッチマー。
続いて「躍る悪魔」のトップ、半年後にズーレンと、似顔絵と写真で紹介。
ズーレンのマークも「黒猫の3倍」って意味不明ですね。。
グッゲンベルガーにシュネー、ハルデゲンなど、「独破戦線」で紹介した
エースたちがたっぷりで、クレーマーのU-333の「3尾の魚」の写真も出てきました。
U-156のハルテンシュタインを出迎えるデーニッツや、騎士十字章を授けたり、
女性補助員から花束贈呈など、このような一連の写真も大好きです。
このファイティングシップ・シリーズでは、「Uボート」が(4)まで、
また、「ドイツ海軍 水上艦艇」や、「ドイツ海軍 1914~1945」もシリーズ化されており、
内容もドイツ海軍ユニフォーム写真集、ドイツ海軍主要将官、ドイツ海軍の勲章と記章、
ドイツ海軍の個人装備品、という実に美味しそうな特集もあるようなので、
安く見つけられたら、ぜひ買ってみたいと思います。
ただ、amazonで売っているのは「Uボート(3)」のみ・・しかも3000円と高額です。
地道に神保町巡りするしかなさそうですね。。
グランドパワー別冊の「ドイツ海軍 Uボート(2) 」を読破しました。
5月に「Uボート(1)」と併せて800円で入手したデルタ出版のグランドパワー別冊です。
鮮明な写真たっぷりで人物や艦橋も詳細にわかるのも良いですが、
なんといっても艦橋に描かれたマークが楽しめます。
表紙の写真はU-204で、艦橋には「我々はそれを手に入れる」と
フランス語で書かれた珍しいマークですね。
巻頭は「Uボート(1)」のようなカラー写真ではない代わりに、
カラーイラストで7隻が描かれています。
大日本絵画の大判写真集で戦車のカラーイラストが出てくるのと同じ感じ。
そして57ページまでフォトコレクションとして白黒の写真集が続きます。
まずはギュンター・プリーンの先任だったエンドラス艦長のU-46の帰港シーン。
猛牛マークも引き継ぎ、「11008」は戦果(㌧数)を示しています。
クレッチマーのU-99はパーソナルマークの代わりに
お守りの「馬蹄」が艦橋側面に取り付けられています。
まぁ、コレも「下向き」なのがダメだった・・とか、有名な逸話もあります。
「海戦 連合軍対ヒトラー」にも書かれていたかな・・?
U-94は「ユニオンジャックを着たライオンを海に引きずり込もうとする魚」。
ほとんど、マンガの1シーンのようなコミカルなものも多いですが、
このようなセンスは、その艦の絵心ある水兵による気もします。
パーソナルマークという意味だと、米爆撃機の「ノーズ・アート」も良く知られていますが、
アッチは「エロい女の子」の図柄が基本・・。
伝統あるドイツ海軍ではとても許されそうがありませんね。
そしてU-97は品の良い「タツノオトシゴ」。
U-552のエーリッヒ・トップは有名な「躍る悪魔」ですが、
本書によるとこのマークは、U-57(コルス艦長)が初めて用いたものを
トップがパクッたものと伝えられているそうです。
U-124は、「蛙」と「エーデルヴァイス」の2種類が描かれていて、
蛙がパーソナルマーク、エーデルヴァイスが戦隊マークのようですね。
こうして58ページから、第1章「Uボートの搭載兵器」。
多数の写真と図版を用いながら、魚雷や艦橋の火砲について解説。
特にⅦC型の8.8㎝砲や、10.5㎝砲が魚雷節約のために使われたのは
Uボート戦記で良く読みますが、空からの攻撃に苦しみ出すと、
使い道が無くなって、徐々に撤去され、
3.7㎝対空砲などに取って代わられた話は印象的でした。
第2章は「大西洋の戦い」。
1939年9月の開戦早々にU-30のレンプが客船アセニア号を誤って撃沈した件から、
1945年の敗戦までをコンパクトに振り返ります。
しかし何故にUボート戦記っていうのは面白いのか・・? と振り返ってみると、
50人程度の乗組員。艦長も少尉から大尉とリアルな階級です。
基本的には大海原で商船を見つけては身ぐるみ剥がして撃沈するという、
「追い剥ぎ」のごときUボート部隊ですが、陸軍でいえば1個小隊程度であり、
たまに戦艦や空母なんかを撃沈するということは、わずか1個小隊が奇襲によって、
敵の1個連隊に勝つという考えられないような痛快さにあるんじゃないでしょうか?
続いて第3章は「Uボートと掩蔽壕」。いわゆるUボート・ブンカーです。
占領したフランスのビスケー湾。
北からブレスト、ロリアン、サン・ナゼール、ラ・パリス、そしてボルドー。
膨大な量の鋼材とコンクリートを用いて創られた頑丈なブンカーは、
英空軍が10㌧爆弾「グランドスラム」で5~6mの天井を貫こうと計画しますが、
爆弾の加速をつけるのに必要な高度までランカスターが上昇できないため、
6㌧爆弾「トールボーイ」26発を叩き込んでみたものの、1発も貫通せず・・。
第4章は「Uボートエース」です。
普通は撃沈㌧数順で紹介される彼らですが、本書では高位の勲章順です。
ダイヤモンド剣柏葉付き騎士十字章受章者のUボート乗りはたった2人。
ヴォルフガンク・リュートとアルブレヒト・ブランディです。
海軍で最初に剣柏葉付き騎士十字章を受章したのが30万㌧を撃沈したクレッチマー。
続いて「躍る悪魔」のトップ、半年後にズーレンと、似顔絵と写真で紹介。
ズーレンのマークも「黒猫の3倍」って意味不明ですね。。
グッゲンベルガーにシュネー、ハルデゲンなど、「独破戦線」で紹介した
エースたちがたっぷりで、クレーマーのU-333の「3尾の魚」の写真も出てきました。
U-156のハルテンシュタインを出迎えるデーニッツや、騎士十字章を授けたり、
女性補助員から花束贈呈など、このような一連の写真も大好きです。
このファイティングシップ・シリーズでは、「Uボート」が(4)まで、
また、「ドイツ海軍 水上艦艇」や、「ドイツ海軍 1914~1945」もシリーズ化されており、
内容もドイツ海軍ユニフォーム写真集、ドイツ海軍主要将官、ドイツ海軍の勲章と記章、
ドイツ海軍の個人装備品、という実に美味しそうな特集もあるようなので、
安く見つけられたら、ぜひ買ってみたいと思います。
ただ、amazonで売っているのは「Uボート(3)」のみ・・しかも3000円と高額です。
地道に神保町巡りするしかなさそうですね。。
ドイツ海軍 Uボート(1) ファイティングシップ・シリーズNo.3 [Uボート]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
グランドパワー別冊の「ドイツ海軍 Uボート(1) 」をようやく読破しました。
このBlogの独自ルールとして、いわゆる「雑誌」は紹介しない・・ということがあるんですが、
GWのお気楽企画第2弾としてやってみましょう。
実はグランドパワー別冊はガリレオ出版、本書のデルタ出版を含めて10冊は読んでいますし、
モデルアート臨時増刊、戦車マガジン別冊、グラフィックアクション、
それから学研の欧州戦史シリーズや、歴史群像シリーズも結構、持っています。
本書は1996年の156ページ、定価2300円の一冊ですが、Uボート・マニアには有名なもので、
先日、「Uボート(2)」と併せて800円と格安で手に入りました。
もう、買って読みたいUボート関連の本が無くなってきましたので
ちょっとマニアックに楽しんでみたいと思います。
表紙は「笑うノコギリ鮫」のマークと同様に微笑む、U-96のレーマン=ヴィレンブロック艦長。
名作映画「Uボート」のモデルと云われている有名人ですね。
巻頭カラーは4ページほど。以前に紹介したU-100のシェプケの写真などが登場します。
本文はフォトコレクションとして、白黒ながらも大きく鮮明な写真集といった趣で、
UボートのタイプをⅠ型~ⅩⅣ型までを68ページまで紹介します。
このような写真で良いところは、Uボート・マークが綺麗にわかることですね。
U-83は、「バイキング船」の紋章を入れています。
U-73の紋章なら、「双頭の鷲」。キャプションもしっかりとしており、
下の写真も「ロリアン基地に接舷しようとしているところ・・」だそうです。
U-95のマークは、「雨に降られて考え込む蛙」。。
コレは初めて見ましたが、どんな意味があるんでしょう・・?
U-136は「オマール海老」。
U-69は「笑う牛」。水兵たちはパナマ帽姿で、もちろん官給品ではなく、
撃沈した船の積み荷だったに違いない・・としています。
U-106は「2尾のノコギリ鮫」ですね。
ただし「笑うノコギリ鮫」もそうですが、ノコギリエイとか、メカジキとも言われます。
U-123といえば「ドラムビート作戦」のハルデゲン艦長が有名ですが、
1941年初めのU-123はモール艦長で、紋章は「戦傷章」。なんでだ?
このパーソナルマークは艦に与えられたものではなく、
艦長が代われば書き直されたこともあるようですが、
ハルデゲンは「戦傷章」を引き継いだかもしれません。
U-38の「キューピット」マークも面白い。魚雷に乗ってるのかな。。
そしてこのパーソナルマークの他に、潜隊マークが書かれている場合もあり、
例えばサン・ナゼールの第7潜隊はギュンター・プリーンの「鼻息の荒い牛」ですし、
ブレストの第9潜隊はレーマン=ヴィレンブロックが指令になったことから
「笑うノコギリ鮫」のマークが使用されているわけです。
また、このようなマークはバッジも作られて、船員の略帽にも付けられます。
しかしゲルマン男子たるもの、可愛い熊とかってイヤだって思うヤツもいたんじゃ・・。
U-68が撃沈された仮装巡洋艦アトランティスの生存者を救助している
2ページぶち抜きの写真も初めて見ましたが良いですねぇ。
名著「Uボート部隊の全貌」でも、人気の図柄が文章ながら紹介されていましたから、
全体的にUボート・マークに目が行ってしまって、いろいろと探してみましたが、
ここら辺が整理されている日本のWebサイトは残念ながら見つかりませんでした。
続く後半は、「Uボートの系譜」と題して、1918年の第1次大戦後からの
Uボート開発が詳細に述べられています。
Type ⅠAがU-25~U-26、Type ⅡAがU-1~U-6など、
図版と写真も使って解説。
Type ⅦBになるとU-45~U-55、U-73~U-76、U-83~U-87、U-99~U-102。
プリーンのU-47、クレッチマーのU-99など、
初期のUボートエースたちの乗艦であるのが良くわかりますね。
「遠洋を狙うUボート」ではⅦ型の2倍近い航続力を持つ、Type ⅨBにU-122~U-124。
ハルデゲンのU-123が米東海岸で暴れた理由も理解できますし、
Type ⅨCでは、U-511が1943年に呉軍港に入り、呂-500となったものの、
隅から隅まで研究した日本海軍は、 ⅨC型を建造することは不可能・・という結論に。。
以降も乳牛(ミルヒクー)こと、給油用Uボートに、XXI型エレクトロボート。
ⅩⅩⅦB型というのは、2人乗りの「ゼーフント」です。
最後はUボート艦内の写真特集。
魚雷の上で食事をする魚雷科員たちの写真がとても印象的でした。
いや~、大満足ですねぇ。
本書はなかなかレアな代物で、amazonでも手に入りません。
ガリレオ出版から改訂版が2011年に出ていたり、
デルタ出版のものでは「ドイツ海軍Uボート3」が4200円也。。
立ち読み程度しか読んでないので比較できませんが、光人社から出ている
「Uボート戦場写真集」よりは、遥かに良い本だと思います。
ちなみにこれから本屋さんに行って来ます。目的は「絵本」・・。
「ダース・ヴェイダーとルーク(4才) 」に続く、
「ダース・ヴェイダーとプリンセス・レイア」が発売されていたのに気が付きました。
このBlogをお読みいただいているお父さん方も、ヒトラー本や独ソ戦記ばかりでなく、
たまには可愛いお子さんや、お美しい奥様に、こんな絵本を買ってあげましょう。。
2009年から始めたこの「独破戦線」も、まる4年が過ぎ、遂に5年目に突入しました。
まぁ、いい加減、今年が最後の年になりそうですね。
グランドパワー別冊の「ドイツ海軍 Uボート(1) 」をようやく読破しました。
このBlogの独自ルールとして、いわゆる「雑誌」は紹介しない・・ということがあるんですが、
GWのお気楽企画第2弾としてやってみましょう。
実はグランドパワー別冊はガリレオ出版、本書のデルタ出版を含めて10冊は読んでいますし、
モデルアート臨時増刊、戦車マガジン別冊、グラフィックアクション、
それから学研の欧州戦史シリーズや、歴史群像シリーズも結構、持っています。
本書は1996年の156ページ、定価2300円の一冊ですが、Uボート・マニアには有名なもので、
先日、「Uボート(2)」と併せて800円と格安で手に入りました。
もう、買って読みたいUボート関連の本が無くなってきましたので
ちょっとマニアックに楽しんでみたいと思います。
表紙は「笑うノコギリ鮫」のマークと同様に微笑む、U-96のレーマン=ヴィレンブロック艦長。
名作映画「Uボート」のモデルと云われている有名人ですね。
巻頭カラーは4ページほど。以前に紹介したU-100のシェプケの写真などが登場します。
本文はフォトコレクションとして、白黒ながらも大きく鮮明な写真集といった趣で、
UボートのタイプをⅠ型~ⅩⅣ型までを68ページまで紹介します。
このような写真で良いところは、Uボート・マークが綺麗にわかることですね。
U-83は、「バイキング船」の紋章を入れています。
U-73の紋章なら、「双頭の鷲」。キャプションもしっかりとしており、
下の写真も「ロリアン基地に接舷しようとしているところ・・」だそうです。
U-95のマークは、「雨に降られて考え込む蛙」。。
コレは初めて見ましたが、どんな意味があるんでしょう・・?
U-136は「オマール海老」。
U-69は「笑う牛」。水兵たちはパナマ帽姿で、もちろん官給品ではなく、
撃沈した船の積み荷だったに違いない・・としています。
U-106は「2尾のノコギリ鮫」ですね。
ただし「笑うノコギリ鮫」もそうですが、ノコギリエイとか、メカジキとも言われます。
U-123といえば「ドラムビート作戦」のハルデゲン艦長が有名ですが、
1941年初めのU-123はモール艦長で、紋章は「戦傷章」。なんでだ?
このパーソナルマークは艦に与えられたものではなく、
艦長が代われば書き直されたこともあるようですが、
ハルデゲンは「戦傷章」を引き継いだかもしれません。
U-38の「キューピット」マークも面白い。魚雷に乗ってるのかな。。
そしてこのパーソナルマークの他に、潜隊マークが書かれている場合もあり、
例えばサン・ナゼールの第7潜隊はギュンター・プリーンの「鼻息の荒い牛」ですし、
ブレストの第9潜隊はレーマン=ヴィレンブロックが指令になったことから
「笑うノコギリ鮫」のマークが使用されているわけです。
また、このようなマークはバッジも作られて、船員の略帽にも付けられます。
しかしゲルマン男子たるもの、可愛い熊とかってイヤだって思うヤツもいたんじゃ・・。
U-68が撃沈された仮装巡洋艦アトランティスの生存者を救助している
2ページぶち抜きの写真も初めて見ましたが良いですねぇ。
名著「Uボート部隊の全貌」でも、人気の図柄が文章ながら紹介されていましたから、
全体的にUボート・マークに目が行ってしまって、いろいろと探してみましたが、
ここら辺が整理されている日本のWebサイトは残念ながら見つかりませんでした。
続く後半は、「Uボートの系譜」と題して、1918年の第1次大戦後からの
Uボート開発が詳細に述べられています。
Type ⅠAがU-25~U-26、Type ⅡAがU-1~U-6など、
図版と写真も使って解説。
Type ⅦBになるとU-45~U-55、U-73~U-76、U-83~U-87、U-99~U-102。
プリーンのU-47、クレッチマーのU-99など、
初期のUボートエースたちの乗艦であるのが良くわかりますね。
「遠洋を狙うUボート」ではⅦ型の2倍近い航続力を持つ、Type ⅨBにU-122~U-124。
ハルデゲンのU-123が米東海岸で暴れた理由も理解できますし、
Type ⅨCでは、U-511が1943年に呉軍港に入り、呂-500となったものの、
隅から隅まで研究した日本海軍は、 ⅨC型を建造することは不可能・・という結論に。。
以降も乳牛(ミルヒクー)こと、給油用Uボートに、XXI型エレクトロボート。
ⅩⅩⅦB型というのは、2人乗りの「ゼーフント」です。
最後はUボート艦内の写真特集。
魚雷の上で食事をする魚雷科員たちの写真がとても印象的でした。
いや~、大満足ですねぇ。
本書はなかなかレアな代物で、amazonでも手に入りません。
ガリレオ出版から改訂版が2011年に出ていたり、
デルタ出版のものでは「ドイツ海軍Uボート3」が4200円也。。
立ち読み程度しか読んでないので比較できませんが、光人社から出ている
「Uボート戦場写真集」よりは、遥かに良い本だと思います。
ちなみにこれから本屋さんに行って来ます。目的は「絵本」・・。
「ダース・ヴェイダーとルーク(4才) 」に続く、
「ダース・ヴェイダーとプリンセス・レイア」が発売されていたのに気が付きました。
このBlogをお読みいただいているお父さん方も、ヒトラー本や独ソ戦記ばかりでなく、
たまには可愛いお子さんや、お美しい奥様に、こんな絵本を買ってあげましょう。。
2009年から始めたこの「独破戦線」も、まる4年が過ぎ、遂に5年目に突入しました。
まぁ、いい加減、今年が最後の年になりそうですね。