スカパ・フローへの道 ギュンター・プリーン回想録 [Uボート]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
ギュンター・プリーン著の「スカパ・フローへの道」を読破しました。
プリーン艦長のU-47が英国戦艦ロイヤルオークを撃沈した話は、
「独破戦線」初のUボート本、「Uボート、出撃せよ」で紹介しましたが、
2009年5月という遠い昔のことであり、いま読み返してみてもなんだか良くわからないという
かなり酷いレビューです。。
本書は2001年に出た336ページの一冊で、気が付いた時には絶版かつ、
プレミア価格になっていたということもあって、スッカリ忘れていました。
しかし、つい最近、よくお邪魔するBlogでプリーンとスカパ・フロー・ネタが
投下されたことで思い出しました。
定価3600円のところ、古書価格も1600円に下がっていたので、迷わず購入です。
まず、本書の特異性についてちょっと説明しましょう。
amazonでは商品の説明に、「94年名取書店刊「Uボート」の改題。」と書かれていますが、
これは「1994年」ではなく、「1941年」の間違いです。
本書の巻末には「一九四一年名取書店より・・」と明記されていますので、
漢数字の"一"を、"-(ハイフン)"と認識してしまったんでしょう。
プリーン自身は1941年に戦死しているわけですから、原著も1940年に書かれたものであり、
また、その内容もプロパガンダ色が強く、もっと言えばゴーストライター説も根強い、
かなり怪しげな一冊としても知られています。
そんなこともあって、本書の存在を忘れていたんですが、
今回は敢えて、それらのこと・・・
「ゲッベルスの日記」に収められていた、「勝利の日記」のような当時のナチス・プロパガンダ本・・・
を踏まえたうえで、楽しんでみたいと思います。
第1章は「海へ、海へ」。
1923年のライプツィヒでのプリーン少年の生活の様子です。
母親の内職の手伝いをして、お小遣い稼ぎの日々。
部屋には「海の英雄では彼が一番好きだ」というヴァスコ・ダ・ガマの肖像画が一枚・・。
プリーンは1908年生まれですから、このとき15歳ですね。
苦しい家計を助けるため、そして海への憧れから海員養成所へと進み、
帆船ハンブルク号の見習い水夫となります。
乗船して4日目、ハンブルクを出航。
乗組員一同は陸の方を並んで見つめ、「聖パウリに三唱」と叫んで万歳三唱が・・。
「女たち、しばしの別れだ」と言われても、プリーン少年にはなんのことやら。。
訳注にあるんですが、これはハンブルクの歓楽街、ザンクト・パウリのことなんですね。
航海中は、牛乳も出さずに評判の悪いケチな料理番が自分だけはコッソリと・・、
というわけで皆の怒りが爆発します。
「バルケンホルめ、狡猾な豚・・ユダヤ人め、犬みてえに袋叩きにしちまえ」。
船長は船長で、「シァーデ君、ひとつ積荷の方を見て下しゃらんか。
此の様子では多分、小麦粉の袋を移す必要があると思うのでしゅが・・」。
と、なんとも甘ったるい調子で喋ります。
これは、「Sの発音が少し強い」ことを日本語で表現してるんですね。
そして料理番を任されたプリーン少年・・、先輩からは「プリ公」と呼ばれていますが、
張り切り過ぎて大失敗。全員が食中毒という大騒ぎで、艦長も激怒。
「此処から出て行きなしゃい! また元の通り働くのでしゅ。見張り番じゃ!」
ハンブルク号はダブリンで難破。
しかしダブリン港に上陸するとアイルランド人は大歓迎します。
彼らに言わせれば、「英国人の敵は、みな自分の友人」なのです。
ハンブルクへ戻ると、今度は貨物船プファルツブルク号に乗船。
「波止場破落戸」と呼ばれる巨漢の先輩水夫との決闘・・。
破落戸と書いて、ゴロツキと読むんですね。
巻頭で「旧字は新字に直しました」などとありましたが、
基本的には昭和16年の文章と漢字そのままで、感心したりも・・。
続いて旅客船サンフランシスコ号の4等航海士となりますが、
見張りの際に、カールスルーエ号と衝突。。
海難審判庁に出頭し、あわや免許が取り上げられそうな絶体絶命も、
ブッツラー1等航海士の助けもあって、ギリギリ・セーフ。
遠洋航海の船長試験にめでたく合格したものの、時は1932年の失業時代。
どこの汽船会社も雇ってはくれず、文無しとなって失望の日々・・。
この失業地獄から抜け出すために決心する24歳のプリーン。
「その日以来、僕はナチス運動の一員となった」。
特にナチ党員になったとは書かれていませんが、労働奉仕団(RAD)に志願し、
とりあえず、衣食住は保障されます。
新米ながらも皆よりも年長のために、すぐさま同志指導者、部隊指導者へと昇進。
盗みを働いた団員を秩序を守るために追放することで、反対派の仲間たちと大揉めに。。
そんなとき、海軍の士官候補者補充の通知を受け取り、喜び勇んで海軍へ。
1933年の1月、まさにヒトラーが首相となったときです。
ここまで全12章のうち、7章。半分の170ページが過ぎましたが、
ハードカバーとはいえ、上部に無駄な余白はあるわ、字も大きいわ、
嬉しいことに、所々で写真も掲載されているわ・・と、2時間ほどで読めてしまいます。
第8章は「潜水艦乗り組み修業の始まり」。
キール軍港のUボート学校へ入学させられ、U-3に乗り込んで実習。
このU-3については、訳注でも書かれていますが、1933年時点ではまだ、
ドイツ海軍はUボートを保有しておらず、フィンランドで建造された練習艦では・・
と、推測しています。確かにU-3は1935年の建造ですし、
あのヴィディゲンが乗った第1次大戦のU-3も、1919年に廃艦となっています。
まぁ、この当時は書いて良いことと悪いことがあるでしょうね。
実習が終わると、1936年に新造されたU-26の先任将校に任命されます。
艦長は、「剃刀の如くきれる男」と云われているハルトマン大尉。
「プリーン少尉、U-26勤務を拝命したことを申告いたします」。
「では君だね。わしは待ちかねておった」。
このハルトマン艦長。実はプリーンよりわずか6歳年長なだけの34歳です。
日本の古いドイツ軍戦記を読むと、艦長や将軍となると年齢に関係なく、
「わしは・・」とおじいちゃん言葉になるのが面白いですね。
シュタインホフの回想録でも、プリーンより4歳も若いガーランド将軍が、
やっぱり「わしは・・」とやってて、笑いましたっけ・・。
U-26は、「スペイン方面に出動だ」と、大急ぎで出航。コレは「スペイン内戦」ですね。
フランコ将軍の軍艦2隻と遭遇しますが、こちらへその砲口を向けています。
「我々を人民戦線政府の艦と間違えておるわい」と語る艦長。
かくして1938年秋、海軍中尉プリーンは、Uボート艦長に任命されます。
先任将校のエントラースら、乗組員についても触れられていますが、
肝心要の「U-47」の文字が本文中には一切ありません。
戦時中の秘密事項なんですね。
そして1939年9月3日、司令塔にいたプリーンに臨時ニュースが届きます。
それはドイツに対する英国の宣戦布告・・、戦争の始まりです。
早速、出会った英国船を撃沈・・、もちろん乗員を下ろしたうえでの騎士道的方法。
今度は英軍機ブリストル・ブレニムに撃墜され、漂流中のドイツ軍飛行士3名の救出作戦。
この哨戒では1万2千㌧級のタンカーや、7千㌧級のタンカーなど次々と屠り、
最後の魚雷で1万5千㌧の英国汽船アランドラ・スターも撃沈し、合計トン数「66587㌧」。
Uボート戦に詳しい方なら、1939年の9月~10月の間に、
そんな大戦果はないだろう・・と思うでしょうが、まさにそのとおり。。
この第11章はスカパ・フローの後の話、すなわち1940年の哨戒であり、
実際にアランドラ・スターの撃沈は1940年7月のことです。
いよいよ最終章、「スカパ・フロー」です。
1939年10月、Uボート艦隊司令官(FdU)に呼び出されたプリーン大尉。
前大戦で侵入した2隻のUボートが失敗したスカパ・フローの海図を広げ、
「英国艦隊慣用の停泊地じゃ」と、おじいちゃんの如く切り出すデーニッツ。。
「此処じゃ、此処から入るのじゃ。勿論簡単ではない。
此の島々の間の潮流は非常に荒いからな。
だが、わしは突破出来ん筈はないと信じとる。
どうじゃな、プリーン大尉の意見は・・」。
もう今にも死にそうなヨボヨボのデーニッツですが、これでも一応、48歳。。
まさに命がけの任務。決めるのはプリーン本人です。
家に帰り、妻と子供の顔を見て考え、それでも答えは「やれます!」
こうしてU-47は見事、スカパ・フローへの潜入を果たし、
停泊中の戦艦ロイヤルオークを撃沈して、脱出にも成功します。
30ページほどで書かれたこの一部始終ですが、
最初に紹介した「Uボート、出撃せよ」の元ネタにもなっていますね。
この顛末だけを詳しく知りたいなら、293ページのあちらをお勧めします。
ちなみに旧題は「U47、スカパ・フローに潜入せよ! 」です。
エピローグとして「総統の前に立つ」。
意気揚々と本国へ向けて南下するU-47は放送を受信します。
「スカパ・フローにおいて英国戦艦ロイヤルオークはドイツUボートの魚雷を受けて
沈没した。英国側の報道によれば、該ドイツUボートは時を移さず撃沈された・・」。
これには全員が吹き出します。
「すると我々は沈没しちゃったわけですな!」
英国にしてみれば、戦艦一隻を失ったところで物的損害は大したことはなく、
それよりもスカパ・フローに潜入、撃沈、脱出を許したことが大問題であって、
第1次大戦以来、安全とされていたこの基地がもはや過去のものとなり、
また、その面子を完全に潰されたというショックが大きいわけです。
なんとなく、真珠湾攻撃に近い気も・・。
そういえば、チャーチルも回想録でこの件に触れていました。
「U-47の艦長、プリーン大尉の武勲と見なさなければならない」。
デーニッツだけではなく、レーダー海軍総司令官直々の出迎えを受け、
そのまま乗員全員が飛行機でベルリンへ・・。
テンペルホーフ空港から歓喜する市民の中をパレードして総統官邸に到着すると、
遂にヒトラーから「騎士十字章」を授かるプリーン艦長。
「少年の夢が現実になったのだ。そして此の世に於ける最大最善のものだったろう。
だが僕の生涯に較べて総統のそれは何という素晴らしいものであったろうか。
祖国の屈辱と困窮を、自らのものと感じて、より幸福で自由な祖国の建設を希望した
一個の男子だった総統は、信じかつ行動し、
その夢は現実となり、その信念は生命を得たのだ」と、本書を締めくくります。
1940年8月付のあとがきでは、第11章と第12章の順序の入れ替え理由について述べ、
簡単に言えば、「スカパ・フローをクライマックスにしても悪くあるまい・・」ということでした。
ギュンター・プリーンといえば、スカパ・フローだけでなく、「騎士十字章」のイメージもあります。
これはヒトラーによって1939年9月1日に制定された「騎士十字章」を
それからわずかに1か月半後の、10月18日にヒトラー自らが贈呈したことも大きいでしょう。
ただ、プリーンが最初の受章者かというと、そうではなく、
「鉄十字の騎士 -騎士十字章の栄誉を担った勇者たち-」をチラ見してみると、
ポーランド戦が片付いた9月30日に第1弾として10名が受章しています。
しかしその顔触れは、ゲーリングを筆頭に、ブラウヒッチュ、ルントシュテット、
ライヒェナウ、ブラスコヴィッツ、リスト、ケッセルリンク、そしてレーダー提督といった、
大将および軍司令官以上の高級将校が対象なのです。
ですから、大尉という階級で、騎士十字章の規定でもある「個人的武勲を讃え」た
最初の騎士十字章受章者は、プリーンということになるんですね。
ちなみにwikiには、「彼はドイツ海軍軍人の中で初めて騎士鉄十字章を授与された。」
と、書かれていますが、前途のように海軍総司令官のレーダーが先ですね。
プリーンの後、10月27日にはポーランド戦の戦功第2弾グループとして11名が受章。
ここには陸軍参謀総長ハルダーに、グデーリアン、ヘプナー、ホトといった錚々たる将軍が
名を連ねていますから、それだけでもプリーンの偉業が目立ちます。
30歳の好青年、まさに第2大戦におけるドイツ軍最初のスーパースターですね。
W杯で優勝したドイツ代表の凱旋に勝るとも劣らない、その当時のフィーバーぶりを
「ドイツ週間ニュース」からど~ぞ。
読み終えて、「ゴーストライターによるプロパガンダ本」という定評もあった本書ですが、
それほど違和感は感じませんでした。
実際のところ、9割がたは事実なんじゃないでしょうか。
前半の「ユダヤ人め・・」やら、「ナチス運動の一員・・・」というのは、オマケ程度でしたし、
最後の「総統・・」のくだりだけは如何にもヤラセ臭が。。
確かに、貧しい少年が海に憧れて船乗りとなり、化け物みたいな船員と戦ったり、
不景気による夢の挫折があって、RADで個人よりも組織の大事さを学び、
新生Uボート部隊の艦長になって、大戦果をあげる・・というストーリーは、
当時のドイツ少年の心を鷲掴みにしたでしょう。
翌年に翻訳されたということは、日本の少年も熱中したのかもしれません。
本書の前に読んだ、「ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で」も、
直前まで中産階級の教師の息子、チトフとのライバル争いがあり、
最終的にガガーリンが選ばれたのは、スモレンスクのコルホーズの息子であったことも
推測されているなど、やっぱり国家のスーパースターには、
最下級からトップへ・・という成り上がりっぷりが重要かと思いました。
ただ、個人的にはユーリイ・ガガーリンという、"THE ソヴィエト人民"的な名前に対して、
「ゲルマン・チトフ」ではマズイんじゃないの??・・と思った次第です。
ワールドツアーでエリザベス女王と会食したり、日本にやって来た際のエピソードも書かれ、
またソ連側だけでなく、米国のマーキュリー計画も並行して語られているので、
映画「ライトスタッフ」が好きな方なら更に楽しめる良本でした。
ちなみに、この本を読んで1967年という年がソ連にとって重要な年だったというのを知りました。
すなわち、ボルシェヴィキの十月革命が1917年であり、1967年は記念すべき「50周年」・・。
どうして1967年に拘るのかというと、ヴィトゲンシュタインは1967年生まれなんですね。
ついでにスターリングラード包囲の「天王星作戦」が発動された11月19日生まれですから、
もう、真っ赤っ赤です。。
また「ゴーストライター」については、100%の事実だと思いますけれども、
今年、あの佐村河内 守氏の「ゴーストライター問題」が大きく取り上げられた際、
芸能人やスポーツ選手が「書いた」とされる本に至るまで、
マスコミの追及があるのかな?? と思っていましたが、案の定でしたね。。
まぁ、世界中の常識ある人なら、わかっている話ですし、
それらの本、全てがゴーストライターによる「創作」とは言わないまでも、
本人が口述したことを作家さんが巧くまとめているということでしょう。
その意味ではヒトラーの「わが闘争」にしても、口述ですから、
ルドルフ・ヘスがゴーストライターとして、どれだけ活躍したのか判ったもんじゃありません。
それを追及するのは野暮ってなモンです。
と、ここまで書いて、わざと読まずに残しておいた巻末の昭和16年「初版の序」と、
2001年の「解題」を読んでみました。
「初版の序」を書くのは海軍中将 和波豊一と、駐日独逸大使館海軍武官 ヴェネカア少将で、
「解題」ではプリーンの生涯、3大エースとその最期についても触れられていますが、
本書が戦意昂揚を狙って刊行されたものであるから、そのあたりを考慮しつつも、
記述が具体的で、Uボート艦長の伝記としてはなかなか面白い・・と、
3人の感想とヴィトゲンシュタインの感想は、ほぼ一致していました。
いずれにしても、Uボート好き、またはナチスのプロパガンダに興味があるならば、
本書は読んで損はないでしょう。
戦前のドイツと、見習い水兵の生活、Uボート部隊のドコが事実で、ドコがそうでないのか、
そして戦時中の本を読んでいるかのような文章も含め、
楽しめる観点は思っていたよりたくさんありました。
「U47出撃せよ」という映画もありますよ。
r
ギュンター・プリーン著の「スカパ・フローへの道」を読破しました。
プリーン艦長のU-47が英国戦艦ロイヤルオークを撃沈した話は、
「独破戦線」初のUボート本、「Uボート、出撃せよ」で紹介しましたが、
2009年5月という遠い昔のことであり、いま読み返してみてもなんだか良くわからないという
かなり酷いレビューです。。
本書は2001年に出た336ページの一冊で、気が付いた時には絶版かつ、
プレミア価格になっていたということもあって、スッカリ忘れていました。
しかし、つい最近、よくお邪魔するBlogでプリーンとスカパ・フロー・ネタが
投下されたことで思い出しました。
定価3600円のところ、古書価格も1600円に下がっていたので、迷わず購入です。
まず、本書の特異性についてちょっと説明しましょう。
amazonでは商品の説明に、「94年名取書店刊「Uボート」の改題。」と書かれていますが、
これは「1994年」ではなく、「1941年」の間違いです。
本書の巻末には「一九四一年名取書店より・・」と明記されていますので、
漢数字の"一"を、"-(ハイフン)"と認識してしまったんでしょう。
プリーン自身は1941年に戦死しているわけですから、原著も1940年に書かれたものであり、
また、その内容もプロパガンダ色が強く、もっと言えばゴーストライター説も根強い、
かなり怪しげな一冊としても知られています。
そんなこともあって、本書の存在を忘れていたんですが、
今回は敢えて、それらのこと・・・
「ゲッベルスの日記」に収められていた、「勝利の日記」のような当時のナチス・プロパガンダ本・・・
を踏まえたうえで、楽しんでみたいと思います。
第1章は「海へ、海へ」。
1923年のライプツィヒでのプリーン少年の生活の様子です。
母親の内職の手伝いをして、お小遣い稼ぎの日々。
部屋には「海の英雄では彼が一番好きだ」というヴァスコ・ダ・ガマの肖像画が一枚・・。
プリーンは1908年生まれですから、このとき15歳ですね。
苦しい家計を助けるため、そして海への憧れから海員養成所へと進み、
帆船ハンブルク号の見習い水夫となります。
乗船して4日目、ハンブルクを出航。
乗組員一同は陸の方を並んで見つめ、「聖パウリに三唱」と叫んで万歳三唱が・・。
「女たち、しばしの別れだ」と言われても、プリーン少年にはなんのことやら。。
訳注にあるんですが、これはハンブルクの歓楽街、ザンクト・パウリのことなんですね。
航海中は、牛乳も出さずに評判の悪いケチな料理番が自分だけはコッソリと・・、
というわけで皆の怒りが爆発します。
「バルケンホルめ、狡猾な豚・・ユダヤ人め、犬みてえに袋叩きにしちまえ」。
船長は船長で、「シァーデ君、ひとつ積荷の方を見て下しゃらんか。
此の様子では多分、小麦粉の袋を移す必要があると思うのでしゅが・・」。
と、なんとも甘ったるい調子で喋ります。
これは、「Sの発音が少し強い」ことを日本語で表現してるんですね。
そして料理番を任されたプリーン少年・・、先輩からは「プリ公」と呼ばれていますが、
張り切り過ぎて大失敗。全員が食中毒という大騒ぎで、艦長も激怒。
「此処から出て行きなしゃい! また元の通り働くのでしゅ。見張り番じゃ!」
ハンブルク号はダブリンで難破。
しかしダブリン港に上陸するとアイルランド人は大歓迎します。
彼らに言わせれば、「英国人の敵は、みな自分の友人」なのです。
ハンブルクへ戻ると、今度は貨物船プファルツブルク号に乗船。
「波止場破落戸」と呼ばれる巨漢の先輩水夫との決闘・・。
破落戸と書いて、ゴロツキと読むんですね。
巻頭で「旧字は新字に直しました」などとありましたが、
基本的には昭和16年の文章と漢字そのままで、感心したりも・・。
続いて旅客船サンフランシスコ号の4等航海士となりますが、
見張りの際に、カールスルーエ号と衝突。。
海難審判庁に出頭し、あわや免許が取り上げられそうな絶体絶命も、
ブッツラー1等航海士の助けもあって、ギリギリ・セーフ。
遠洋航海の船長試験にめでたく合格したものの、時は1932年の失業時代。
どこの汽船会社も雇ってはくれず、文無しとなって失望の日々・・。
この失業地獄から抜け出すために決心する24歳のプリーン。
「その日以来、僕はナチス運動の一員となった」。
特にナチ党員になったとは書かれていませんが、労働奉仕団(RAD)に志願し、
とりあえず、衣食住は保障されます。
新米ながらも皆よりも年長のために、すぐさま同志指導者、部隊指導者へと昇進。
盗みを働いた団員を秩序を守るために追放することで、反対派の仲間たちと大揉めに。。
そんなとき、海軍の士官候補者補充の通知を受け取り、喜び勇んで海軍へ。
1933年の1月、まさにヒトラーが首相となったときです。
ここまで全12章のうち、7章。半分の170ページが過ぎましたが、
ハードカバーとはいえ、上部に無駄な余白はあるわ、字も大きいわ、
嬉しいことに、所々で写真も掲載されているわ・・と、2時間ほどで読めてしまいます。
第8章は「潜水艦乗り組み修業の始まり」。
キール軍港のUボート学校へ入学させられ、U-3に乗り込んで実習。
このU-3については、訳注でも書かれていますが、1933年時点ではまだ、
ドイツ海軍はUボートを保有しておらず、フィンランドで建造された練習艦では・・
と、推測しています。確かにU-3は1935年の建造ですし、
あのヴィディゲンが乗った第1次大戦のU-3も、1919年に廃艦となっています。
まぁ、この当時は書いて良いことと悪いことがあるでしょうね。
実習が終わると、1936年に新造されたU-26の先任将校に任命されます。
艦長は、「剃刀の如くきれる男」と云われているハルトマン大尉。
「プリーン少尉、U-26勤務を拝命したことを申告いたします」。
「では君だね。わしは待ちかねておった」。
このハルトマン艦長。実はプリーンよりわずか6歳年長なだけの34歳です。
日本の古いドイツ軍戦記を読むと、艦長や将軍となると年齢に関係なく、
「わしは・・」とおじいちゃん言葉になるのが面白いですね。
シュタインホフの回想録でも、プリーンより4歳も若いガーランド将軍が、
やっぱり「わしは・・」とやってて、笑いましたっけ・・。
U-26は、「スペイン方面に出動だ」と、大急ぎで出航。コレは「スペイン内戦」ですね。
フランコ将軍の軍艦2隻と遭遇しますが、こちらへその砲口を向けています。
「我々を人民戦線政府の艦と間違えておるわい」と語る艦長。
かくして1938年秋、海軍中尉プリーンは、Uボート艦長に任命されます。
先任将校のエントラースら、乗組員についても触れられていますが、
肝心要の「U-47」の文字が本文中には一切ありません。
戦時中の秘密事項なんですね。
そして1939年9月3日、司令塔にいたプリーンに臨時ニュースが届きます。
それはドイツに対する英国の宣戦布告・・、戦争の始まりです。
早速、出会った英国船を撃沈・・、もちろん乗員を下ろしたうえでの騎士道的方法。
今度は英軍機ブリストル・ブレニムに撃墜され、漂流中のドイツ軍飛行士3名の救出作戦。
この哨戒では1万2千㌧級のタンカーや、7千㌧級のタンカーなど次々と屠り、
最後の魚雷で1万5千㌧の英国汽船アランドラ・スターも撃沈し、合計トン数「66587㌧」。
Uボート戦に詳しい方なら、1939年の9月~10月の間に、
そんな大戦果はないだろう・・と思うでしょうが、まさにそのとおり。。
この第11章はスカパ・フローの後の話、すなわち1940年の哨戒であり、
実際にアランドラ・スターの撃沈は1940年7月のことです。
いよいよ最終章、「スカパ・フロー」です。
1939年10月、Uボート艦隊司令官(FdU)に呼び出されたプリーン大尉。
前大戦で侵入した2隻のUボートが失敗したスカパ・フローの海図を広げ、
「英国艦隊慣用の停泊地じゃ」と、おじいちゃんの如く切り出すデーニッツ。。
「此処じゃ、此処から入るのじゃ。勿論簡単ではない。
此の島々の間の潮流は非常に荒いからな。
だが、わしは突破出来ん筈はないと信じとる。
どうじゃな、プリーン大尉の意見は・・」。
もう今にも死にそうなヨボヨボのデーニッツですが、これでも一応、48歳。。
まさに命がけの任務。決めるのはプリーン本人です。
家に帰り、妻と子供の顔を見て考え、それでも答えは「やれます!」
こうしてU-47は見事、スカパ・フローへの潜入を果たし、
停泊中の戦艦ロイヤルオークを撃沈して、脱出にも成功します。
30ページほどで書かれたこの一部始終ですが、
最初に紹介した「Uボート、出撃せよ」の元ネタにもなっていますね。
この顛末だけを詳しく知りたいなら、293ページのあちらをお勧めします。
ちなみに旧題は「U47、スカパ・フローに潜入せよ! 」です。
エピローグとして「総統の前に立つ」。
意気揚々と本国へ向けて南下するU-47は放送を受信します。
「スカパ・フローにおいて英国戦艦ロイヤルオークはドイツUボートの魚雷を受けて
沈没した。英国側の報道によれば、該ドイツUボートは時を移さず撃沈された・・」。
これには全員が吹き出します。
「すると我々は沈没しちゃったわけですな!」
英国にしてみれば、戦艦一隻を失ったところで物的損害は大したことはなく、
それよりもスカパ・フローに潜入、撃沈、脱出を許したことが大問題であって、
第1次大戦以来、安全とされていたこの基地がもはや過去のものとなり、
また、その面子を完全に潰されたというショックが大きいわけです。
なんとなく、真珠湾攻撃に近い気も・・。
そういえば、チャーチルも回想録でこの件に触れていました。
「U-47の艦長、プリーン大尉の武勲と見なさなければならない」。
デーニッツだけではなく、レーダー海軍総司令官直々の出迎えを受け、
そのまま乗員全員が飛行機でベルリンへ・・。
テンペルホーフ空港から歓喜する市民の中をパレードして総統官邸に到着すると、
遂にヒトラーから「騎士十字章」を授かるプリーン艦長。
「少年の夢が現実になったのだ。そして此の世に於ける最大最善のものだったろう。
だが僕の生涯に較べて総統のそれは何という素晴らしいものであったろうか。
祖国の屈辱と困窮を、自らのものと感じて、より幸福で自由な祖国の建設を希望した
一個の男子だった総統は、信じかつ行動し、
その夢は現実となり、その信念は生命を得たのだ」と、本書を締めくくります。
1940年8月付のあとがきでは、第11章と第12章の順序の入れ替え理由について述べ、
簡単に言えば、「スカパ・フローをクライマックスにしても悪くあるまい・・」ということでした。
ギュンター・プリーンといえば、スカパ・フローだけでなく、「騎士十字章」のイメージもあります。
これはヒトラーによって1939年9月1日に制定された「騎士十字章」を
それからわずかに1か月半後の、10月18日にヒトラー自らが贈呈したことも大きいでしょう。
ただ、プリーンが最初の受章者かというと、そうではなく、
「鉄十字の騎士 -騎士十字章の栄誉を担った勇者たち-」をチラ見してみると、
ポーランド戦が片付いた9月30日に第1弾として10名が受章しています。
しかしその顔触れは、ゲーリングを筆頭に、ブラウヒッチュ、ルントシュテット、
ライヒェナウ、ブラスコヴィッツ、リスト、ケッセルリンク、そしてレーダー提督といった、
大将および軍司令官以上の高級将校が対象なのです。
ですから、大尉という階級で、騎士十字章の規定でもある「個人的武勲を讃え」た
最初の騎士十字章受章者は、プリーンということになるんですね。
ちなみにwikiには、「彼はドイツ海軍軍人の中で初めて騎士鉄十字章を授与された。」
と、書かれていますが、前途のように海軍総司令官のレーダーが先ですね。
プリーンの後、10月27日にはポーランド戦の戦功第2弾グループとして11名が受章。
ここには陸軍参謀総長ハルダーに、グデーリアン、ヘプナー、ホトといった錚々たる将軍が
名を連ねていますから、それだけでもプリーンの偉業が目立ちます。
30歳の好青年、まさに第2大戦におけるドイツ軍最初のスーパースターですね。
W杯で優勝したドイツ代表の凱旋に勝るとも劣らない、その当時のフィーバーぶりを
「ドイツ週間ニュース」からど~ぞ。
読み終えて、「ゴーストライターによるプロパガンダ本」という定評もあった本書ですが、
それほど違和感は感じませんでした。
実際のところ、9割がたは事実なんじゃないでしょうか。
前半の「ユダヤ人め・・」やら、「ナチス運動の一員・・・」というのは、オマケ程度でしたし、
最後の「総統・・」のくだりだけは如何にもヤラセ臭が。。
確かに、貧しい少年が海に憧れて船乗りとなり、化け物みたいな船員と戦ったり、
不景気による夢の挫折があって、RADで個人よりも組織の大事さを学び、
新生Uボート部隊の艦長になって、大戦果をあげる・・というストーリーは、
当時のドイツ少年の心を鷲掴みにしたでしょう。
翌年に翻訳されたということは、日本の少年も熱中したのかもしれません。
本書の前に読んだ、「ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で」も、
直前まで中産階級の教師の息子、チトフとのライバル争いがあり、
最終的にガガーリンが選ばれたのは、スモレンスクのコルホーズの息子であったことも
推測されているなど、やっぱり国家のスーパースターには、
最下級からトップへ・・という成り上がりっぷりが重要かと思いました。
ただ、個人的にはユーリイ・ガガーリンという、"THE ソヴィエト人民"的な名前に対して、
「ゲルマン・チトフ」ではマズイんじゃないの??・・と思った次第です。
ワールドツアーでエリザベス女王と会食したり、日本にやって来た際のエピソードも書かれ、
またソ連側だけでなく、米国のマーキュリー計画も並行して語られているので、
映画「ライトスタッフ」が好きな方なら更に楽しめる良本でした。
ちなみに、この本を読んで1967年という年がソ連にとって重要な年だったというのを知りました。
すなわち、ボルシェヴィキの十月革命が1917年であり、1967年は記念すべき「50周年」・・。
どうして1967年に拘るのかというと、ヴィトゲンシュタインは1967年生まれなんですね。
ついでにスターリングラード包囲の「天王星作戦」が発動された11月19日生まれですから、
もう、真っ赤っ赤です。。
また「ゴーストライター」については、100%の事実だと思いますけれども、
今年、あの佐村河内 守氏の「ゴーストライター問題」が大きく取り上げられた際、
芸能人やスポーツ選手が「書いた」とされる本に至るまで、
マスコミの追及があるのかな?? と思っていましたが、案の定でしたね。。
まぁ、世界中の常識ある人なら、わかっている話ですし、
それらの本、全てがゴーストライターによる「創作」とは言わないまでも、
本人が口述したことを作家さんが巧くまとめているということでしょう。
その意味ではヒトラーの「わが闘争」にしても、口述ですから、
ルドルフ・ヘスがゴーストライターとして、どれだけ活躍したのか判ったもんじゃありません。
それを追及するのは野暮ってなモンです。
と、ここまで書いて、わざと読まずに残しておいた巻末の昭和16年「初版の序」と、
2001年の「解題」を読んでみました。
「初版の序」を書くのは海軍中将 和波豊一と、駐日独逸大使館海軍武官 ヴェネカア少将で、
「解題」ではプリーンの生涯、3大エースとその最期についても触れられていますが、
本書が戦意昂揚を狙って刊行されたものであるから、そのあたりを考慮しつつも、
記述が具体的で、Uボート艦長の伝記としてはなかなか面白い・・と、
3人の感想とヴィトゲンシュタインの感想は、ほぼ一致していました。
いずれにしても、Uボート好き、またはナチスのプロパガンダに興味があるならば、
本書は読んで損はないでしょう。
戦前のドイツと、見習い水兵の生活、Uボート部隊のドコが事実で、ドコがそうでないのか、
そして戦時中の本を読んでいるかのような文章も含め、
楽しめる観点は思っていたよりたくさんありました。
「U47出撃せよ」という映画もありますよ。
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うわぁ!
ビックリしましたよぉ。
by サネユキ (2014-07-28 12:39)
呼ばれたお蔭で、こんな記事が出来ちゃいました。。
久々のUボート・・、面白かったなぁ。
by ヴィトゲンシュタイン (2014-07-28 16:23)