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1945年・ベルリン解放の真実 戦争・強姦・子ども [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヘルケ・ザンダー/バーバラ・ヨール編著の「1945年・ベルリン解放の真実」を読破しました。

最近、偶然見つけたベルリン終戦時における大量強姦を扱った一冊です。
1996年の発刊で、ハードカバー354ページ、定価は5150円という立派なもの・・。
原題は「解放・する者とされる者」で、1992年の同名の映画(日本未公開)の
書籍版のようです。
女流映画監督ヘルケ・ザンダーがその映画のために調査を行ない、
100人を超える女性たちの証言や、おびただしい数の資料から当時ベルリンで発生した
強姦件数、また、それによってどれだけの子供が生まれたのか・・も追及します。

1945年・ベルリン解放の真実.jpg

2部構成からなる本書。まず「PART Ⅰ」では
戦後、ドイツでは終戦前後の強姦がどのように扱われてきたのかを検証します。
1959年に作者不明のまま出版された「ベルリンの女」以外に、この件がメインテーマとして
書かれたものはなく、タブー視されていたという話・・。
これは以前に紹介した「ベルリン終戦日記 -ある女性の記録-」のことですね。

Eine Frau in Berlin.jpg

1937年生まれの著者で映画監督のヘルケや、人々の意識にどれほど深い影響を与えたのかも
著者の友人が子供の頃、いちばん好きだった遊びが「強姦ごっこ」であり、
これは女の子たちが叫び声をあげて近くの森に駆け込んだり、斜面を転げ下りたりし、
それを追いかけ、ついに捕まえた男の子たちがその上に身を投げ出す・・
という話も紹介します。

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強姦を逃れるため、ベルリンの女性たちがあみだした「防止戦略」は
屋根裏部屋や洋服ダンスに若い女性を隠したり、
育ちざかりの娘の髪の毛を切り、ズボンを履かせて男の子に変身・・。
食料品調達で出かける際には、髪を振り乱して、煤で顔を汚し、
ボロを身にまとい、老婆のようにブツブツと呟いて、ロシア兵の興味を引かぬように・・。

わずか13歳、14歳で、自分に何が起こったのかまったく理解できず、
誰にも相談できずに自殺したりする者も多かったという当時の女性たち。
さらに多くの妊娠した女性の中絶も、ドイツでは以前から禁止されており、
ロシア兵に強姦されたと証明できれば可能であったものの、強姦されたことを夫や彼、
親からも非難されることを怖れ、申告をためらった女性も多かったようです。

Bund Deutscher Mädel.jpg

そんな女性を守るべきドイツ人男性はというと、妻をかばう代償として命を落とした
ベルリンの男が6人いたことは分かっているそうですが、大半は恐怖に脅え、
妻の背後に隠れていた・・として、
彼らが占領地で行ってきた「強制売春」や組織的な強姦についても触れています。

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軍用娼家では、捕えられたユダヤ人やポーランド人、ロシア女性が、
ドイツ軍将兵を満足させるために管理され、
慰安勤務の際には、「微笑を絶やさぬこと」という規定も。。
支配民族のドイツ人が満足しなかったとの「報告」が3回になった場合には、
彼女たちは死刑執行場行き・・という過酷な状況です。

そんなドイツ軍に引用するフリードリヒ大王の作とされる格言は次のとおりです。
「兵士のやったことは非難するな
そこで死ぬことになる奴らだ
彼らが欲しがるものを与えよ
飲むにまかせよ、キスするにまかせよ
命がいつまであるのやら、わからんのだから」

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まだベルリン掃討戦が行われていたときには、ロシア兵たちは敵意は持っていても
女たちが水を取りに行けるように一時射撃を止めたり、パン屋まで行くのを護衛したり、
瓦礫の下に埋まった人たちの掘り出し作業を手伝ったりとしていたそうですが、
戦争が終わると、酔っ払った連中が女性を地下室から引っ張り出して、
子供の前で暴行し、抵抗する男女を撃ち殺し始めた・・というような
様々な記録を本書では紹介します。

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終戦時の「強姦」は赤軍だけの専売特許ではありません。
フランス軍がシュトゥットガルトに侵攻した際、1200件の強姦があったそうで
警察の報告によれば被害者は14歳~74歳まで・・。
加害者はフランス軍に所属するターバンを巻いたモロッコ兵です。
もちろん、米兵による強姦事件にも触れています。

native Moroccan soldiers in the French Army.jpg

強姦の次に待っていたのは苦痛に満ちた性病と婦人科の手術です。
会陰が肛門まで裂けていた10歳~16歳までの少女たちは縫合を必要とし、
淋病や梅毒をうつされた女性たち・・。
ヴィクトリア学寮では強姦された女性寮長と8人の少女たちが自殺。
ベルリン終戦日記」も数ページ引用しながら、
この最初の、壮絶だった1週間が進みます。

berlin 1945 .jpg

「大量強姦をめぐる数字」の章では、当初、数万から100万までの幅があり、
特定されていなかったベルリンで強姦された女性の数を検証します。
しかし、まず現行法での強姦の定義が調査を難しく・・。
例えば「ソ連の司令官と寝るか、シベリア送りになるか」の選択で、
前者を選択した場合は「強要」であって「強姦」にはならないそうです。

ともあれ、統計学者や病院記録など様々な角度から検証を行った結果は、
1945年ベルリンにいた140万の女性や少女のうち、初夏から秋にかけて
少なくとも11万人(7.1%)が強姦され、1万人以上が妊娠、
そして1000人以上のロシアの子供が生まれたということです。
また、後に梅毒で死んだ女性も220名ということはわかっているそうですが、
強姦による性病患者の数を特定することは、今日では不可能・・としています。

Red Army soldiers distributing bread to Berlin residents after Germany’s surrender in 1945.jpg

ドイツ国防軍と武装SSが占領地で行った「強姦」の数字も検証しますが、
ここでは数多く出てくる公文書が非常に印象的です。
1943年、OKWの総務部が、SS大将ヴォルフ氏に宛てた「極秘司令」・・、
野戦警察が発見した武装SS兵による強姦事件が多い(18件)・・という報告です。
複数の武装SS兵士が14歳の少女を犯した・・や、
70歳の女性とその娘を9人のSS隊員が強姦し、この行為を認めた首謀者2人は転属させられた・・。
また、ここに出てくる部隊はLAHで、本書では「国防扇形線区軍」と、意味不明に訳されていますが、
まぁ、「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」でしょうね。。

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「PART Ⅱ」は、本書の同名映画の「シナリオ」という一風変わった構成です。
この映画は日本では未公開ですし、おそらくソフトも発売されていないと思いますが、
インタビュー形式の映画のようで、本書でもそのようなQ&Aで進みます。

AMERICAN-SOLDIERS-GERMAN-GIRLS-BERLIN-1945.jpg

地下室にいたウルスラはモンゴル系の兵士3人に次々に強姦されたと語ります。
それが終わると若くドイツ語の喋れる礼儀正しい将校が一人やってきて、
強姦するのはすまないと思うが、やむを得ないと謝ります。

The Mongoloid Soviet soldiers were let loose on the German women.jpg

どうしても強姦されるのが嫌だったと言うヒルデガルトは、
市街戦に身をさらした方がマシとばかりに男装をして国民突撃隊に配属・・。
手榴弾やピストルももらい、捕虜になっても3ヵ月間、女の子であることを隠し通しますが、
結局はスパイであると判断され、尋問される毎日・・。
この話は長いので割愛しますが、最近流行の男装ドラマにでもなりそうな展開ですね。

Mere boys. Perhaps of Hitler Youth. These were the fighters that were defending Hitler in his last days. Sad.jpg

当時、ロシアの少年兵だったイヴァンは、ドイツの女を強姦してはならないと警告されたと語ります。
「ドイツの女のなかには愛国者がいて、進んで赤軍兵士に性病をうつす」という噂で、
「兵士たちは性病をうつされることで、極東に送られないために女を犯した」
コレはちょっと苦しい言い訳のような気も・・。

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終戦から2~3週間もすると、ドイツ占領軍の最高司令官ジューコフ元帥が厳しい命令を発し、
ロシア兵が強姦現場で捕まったり、たとえ脅迫でも告発されると銃殺刑に処せられた・・と
そのような目撃例を語る人たちも。

Zhukov berlin 1945.jpg

場所は変わってフランスで10万人の「ボッシュの子」が生まれたという話では、
カトリックの国ではどこでも中絶は厳しく禁止されているための結果でもあったようです。
ここではフランスで最後に「ギロチン台」上がったのが中絶を助けた女性だったとして、
1988年の映画「主婦マリーがしたこと」に触れています。
これは以前に「観たい映画」として紹介している1本ですね。
日本版DVDのパッケージはなんとなく不倫ドラマっぽいですが、やっぱり観てみたい。。

Une affaire de femmes.jpg

また、いわゆる「ナチ協力者」と言われるフランス女性について、マダム・アンリは
「ドイツ軍が進駐してきたとき、ドイツ兵はみんなブロンドで日焼けしていて素敵だ」
と思ったそうで、ただドイツ人に恋した女たちが、解放後、
ナチ協力者」としてヒドイ目に遭わされたのだと証言します。

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この解放されたフランス人の怒りは、武装SS師団「ダス・ライヒ」がオラドゥール村で起こした
600人の村民大虐殺の復讐として、そこにに多く配属されていたかつてのフランス領アルザスの
フロイデンシュタット出身者を探し出し、フロイデンシュタットを焼き払ってやると・・。

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他にも、梅毒症で生まれてしまった子供の話・・。
う~、男が読んだり、こうして書いたりするには、かなりシンドイ内容もありました。
訳者さんも女性ですが、その「訳者あとがき」の最後には
「本書が、手にしてくれた女たちに(そして男たちにも)性差別と人種差別を考える
新たなきっかけになってくれることを・・」と結ばれています。

定価も高いですが、すでに廃刊になっているようです。
コレはモッタイないですね。もっと多くの人に読んで欲しい一冊です。
半分程度に巧く編集して、2000円くらいで再出版できないかなぁ。。。
「ベルリン終戦日記」の映画版である、「ベルリン陥落 1945」も観たくなってきました。







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東部戦線の独空軍 [ドイツ空軍]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

リチャード・ムラー著の「東部戦線の独空軍」を読破しました。

以前に「西部戦線の独空軍」という精鋭航空団「JG26」の戦いを描いた興亡史を紹介しましたが、
その姉妹編のようなタイトルの1995年発刊の本書は、
古書価格が1400円程度となかなかの値段なので見送っていました。
しかし粘った甲斐があって、先日、190円で購入できましたので早速読んでみました。
読み始めてすぐに気づきましたが、コレが全然、姉妹編などではなく、
東部戦線におけるドイツ空軍の、「独立軍としての戦略思想」と
「陸軍の戦略をサポートする空軍」という実態について研究しているものでした。

東部戦線の独空軍.jpg

著者は第2次大戦の航空戦専門の軍事史研究家で米空軍指揮・幕僚大学の
比較軍事史助教授という肩書で、本書もオハイオ州立大学時代の博士論文から
始まったものだそうです。
「プロローグ」でも本書の目的・・、勝ったり負けたりの戦闘記録ではなく、
ドイツ空軍指導部が限られた手持ち兵力を運用して、何を遂行していると信じていたか・・
に関心を持って検討していると書かれていますが、
この時点で、今までにないルフトヴァッフェ物の雰囲気がプンプンしてきます。。

第1章の「対ソ戦の準備」では、1935年、新設されたドイツ空軍の基本理念が
初代参謀総長ともいえるヴェーファーの頭脳から生まれ、
Ju-86やDo-17、He-111といった中型爆撃機部隊は編成されたものの、
四発重爆機の開発は失敗に終わった話などを解説します。

Do-17 Z bombers.jpg

そしてスペイン内戦へのコンドル軍団の参加がもたらした最も重要な結果は、
卓越した陸軍支援航空作戦論者であるヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン
現れたことかも知れないとして、続くポーランド戦において彼の指揮する
「特別任務航空兵団」を紹介。
これはのちに第Ⅷ航空兵団(第8航空軍団)として、陸軍支援のエキスパート部隊と
なっていくわけですが、その運用面についてはかなり細かく書かれています。

Wolfram von Richthofen.jpg

第2章「ソヴィエト侵攻作戦」では、ヒトラーとOKWが策定した「バルバロッサ作戦」は
前年の西方作戦同様の短期の「電撃戦」を想定していて、
ソ連軍の抵抗が激しければ侵攻作戦は1942年まで続く予定ではあったものの、
陸軍同様、空軍も2年目の作戦は、極めて基礎的な計画を立てていたに過ぎなかったとします。

Whermacht advancing.jpg

また、「総統命令第21号」から空軍の任務を抜粋し、
①ソ連空軍の戦闘力を可能な限り撲滅する。
②同時に陸軍の主要作戦の支援。
③ソ連の鉄道と橋梁の破壊。
という3つの大きなミッションに集中することで、
兵器工業に対する攻撃は主要作戦の間は実施せず、機動戦終了後に
ウラル地方の目標を集中的に攻撃する・・となっています。

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フォン・ボックが率いる巨大な中央軍集団を支援する、ケッセルリンクの強力な
第2航空軍(第2航空艦隊) に配属されたリヒトホーフェンの第8航空軍団。
陸軍がソ連新型戦車、T-34に出会ってビックリしたように、ドイツ空軍情報部も
新型地上攻撃戦闘機、Il-2の能力を過小評価したまま・・。

Il-2.jpg

しかし、ドイツ空軍は7月には戦略的航空攻撃の実施を検討しはじめ、
モスクワに対する爆撃作戦実行しますが、その結果にはケッセルリンクが
「目標のサイズに対して、我が方は十分な兵力を持たず、期待するレベルに達しなかった」と
語っています。

kesselring-in-seinem-fw189-ueber-den-weiten-russlands.jpg

一方、本書の主役のような第8航空軍団はレニングラードを支援し、
10月にはモスクワへの「タイフーン作戦」にも参加。陸軍支援のプロとして
バルバロッサ作戦期間中だけでも18回も移動するという、まさに大繁盛・・。
そんなタイミングで第2航空艦隊の大部分が、北アフリカのロンメルを支援するために
地中海へと移動してしまいます。

Aparently a Luftwaffe airbase in the desert. North Africa 1941.jpg

さらにはソ連の逆襲によって包囲されたホルムデミヤンスクを補給任務を任され、
補充されたJu-52輸送機だけでは足りず、He-111爆撃機も駆り出しますが、
デミヤンスク・ポケットだけでも第8航空軍団は265機を失ってしまいます。

翌年はセヴァストポリの支援からです。
「我々二人は、極めて仲良く協力し合った」と、第11軍司令官マンシュタインの回想録も引用し、
スターリングラード支援と続いていきます。

Manstein consulting with Colonel General Wolfram Baron von Richthofen, Commanding General VIII Fliegerkorps, May 1942.jpg

この第4航空艦隊司令官に昇進していたリヒトホーフェンは8末には、
パウルスの第6軍の勢いが鈍り始めていると、「陸軍の精神力とリーダーシップの弱さ」を
ゲーリングと空軍参謀総長のイェショネクに報告し、
大戦の全期間を通じて彼は密告屋のような態度で、陸軍の戦いぶりについて
無作法な報告をヒトラーやゲーリングの手元に送り付け、陸軍参謀総長のハルダー
困惑させていた・・ということですが、著者は「状況を確実にとらえてる」としています。

そしていよいよ包囲された第6軍に対する空中補給大作戦の開始。。
もちろんここでもJu-52装備の輸送飛行隊だけではとても間に合わず、
He-111爆撃機装備の14個飛行隊も参加します。
その他、FW-200(コンドル)や最新型のHe-177といった長距離爆撃機に試作原型機まで投入。。
8㌧の搭載量のある四発輸送機Ju-290の原型1号機などは、輸送任務の途中で墜落し、
多数の人命が失われたそうです。

stalingrad-Eine FC 200 Condor.jpg

ままならない補給に陸軍と空軍は不仲となっていき、ポケットから脱出命令を受けたフーベ
空軍の態度に対し「極めて重大な汚怠だ」と述べ、
パウルスは不機嫌な口調で、航空管制将校に脱出命令を出します。
「彼は空軍の将官なることが約束されているからな」
そして「空軍はなぜ空輸補給を遂行できるなどと言ったのだ。
この可能性を言い出した責任者は誰なのだ。
もし、誰かが可能でないと言っていたのであれば、包囲線を突破して脱出していたはずだ」

General Friedrich Paulus.jpg

西側連合軍によるドイツ本土爆撃・・、
秘密基地であるペーネミュンデまでもが爆撃されると、参謀総長イェショネクが自殺。。
ドイツ空軍が退勢に傾いたことの責任の多くは、この参謀総長にあるとしている本書ですが、
ことはそれほど単純ではありません。

Jeschonnek.jpg

こうして「陸軍御用達の消防隊」から、ソ連の戦線背後への長距離爆撃作戦への転換。。
しかし1943年はクルスクへの攻勢に兵力を割かれ、
「ソ連のデトロイト」と呼ばれるゴーリキーの装甲車両製造工場への爆撃もたいした成果は上がらず、
その後の後退一辺倒の展開では、せっかく温存していた爆撃機も
攻撃目標の範囲外へと遠ざかっていくだけです。

こうなってくると爆撃機の任務はソ連軍兵士に向けた「ビラ撒き」です・・。
「きみは包囲された!だが、まだ脱出する途はある」と書かれた裏には
ドイツ軍戦線に入る「安全通行証」が刷り込んであったり、
タバコとアコーディオンを楽しむソ連軍捕虜や、ニッコリ笑った軍医の手当てを受ける捕虜の絵・・、
ですが、もちろん現実は・・。

Flugblatt Russland.jpg

イェショネクの後任コルテン新参謀総長は戦略爆撃を主張しますが、
本土防衛の兵力拡大にも追われた挙句、シュタウフェンベルクの爆弾の餌食となって死亡・・。
陸軍の参謀総長は全員ヒトラーの解任なのに、空軍はヴェーファーの事故死から始まって、
呪われたかのように死んでしまいますね。。

Guenter-Korten.jpg

敗走するドイツ陸軍の航空支援に対する信頼は一般の兵士まで広がった・・という部分では
名著「忘れられた兵士」から抜粋していますが、あのシーンは感動的でした。

面白かったのは、ガーランドなどが務めた戦闘機隊総監とペルツが務めた爆撃機隊総監を
解説している部分で、陸軍支援部隊のJu-87シュトゥーカは爆撃機隊総監の担当、
Bf-110Hs-129の地上攻撃機は戦闘機隊総監の担当という、いかにもナチス・ドイツらしい
非効率な機構を一掃するために、コルテンが「地上攻撃隊総監」を新設したということです。
こんな「総監」は初めて知りましたが、初代のキュッパー大佐が事故死して、後任は
ヒッシュホルト中佐という人物が務めたそうです。

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結局、ドイツ空軍はもともと「戦略爆撃思想」は持っていたものの、
対ソ戦において制空権を含め、陸軍を間接的、直接的に支援する立場に甘んじ、
長引く戦争に長距離爆撃の必要性を認識したにも関わらず、時すでに遅く、
最終的にヒトラーの介入によって明確な戦略的目標のない英国に対する報復爆撃命令に
従わざるを得なかったことで、東部戦線におけるドイツ空軍は弱体した・・というところです。

さすが論文・・と思わせるほど、専門的でちょっと難しい一冊でした。
386ページですが、心してかからないと手強いものだと思います。
基本的には地上支援部隊と爆撃機戦略の2本立てで、ルーデル大佐の名は出てくるものの、
ハルトマンバルクホルンなどの戦闘機エースは完全に無視・・。
これはいくら一部のエースが300機撃墜しようが、制空権は失われていったのであり、
本書のテーマからは外れているようです。

ですが、それより空軍参謀総長を筆頭に空軍幕僚たちの考え方を
研究するにあたっては、西部戦線の状況を含め、ヒトラーの戦略全般も
同時に理解しておかなくては、読んでいて片手落ちだなと思いました。
「朝日ソノラマ」の航空戦記だということで、戦闘機エースたちの活躍を期待して読まれると、
100ページももたずに撃墜されてしまうことでしょう。。



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ヒトラーの代理人 -ルードルフ・ヘス- [ヒトラーの側近たち]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

W.シュヴァルツヴェラー著の「ヒトラーの代理人」を読破しました。

10月から密かに続いている「独破戦線」のヒトラー側近シリーズ。。
ヒトラーを操った男 -マルチン・ボルマン-」、「ゲッベルスの日記」、「ゲーリング言行録」、
エヴァ・ブラウン」ときて、今回は、第三帝国のゲジゲジ眉毛こと、ルドルフ・ヘスです。
この副総裁ヘスの本というのは、本書と同じ1976年発刊の
「囚人ルドルフ・ヘス―いまだ獄中に生きる元ナチ副総統」と
1981年の「ルドルフ・ヘス暗殺―シュパンダウ囚人第七号の秘密」の3冊があって
ナニにすべきかずっと悩んでいたんですが、
結局のところ本書の訳者さんが「松谷 健二」氏というのが決定打です。
上下2段組、257ページの綺麗な本が、amazonで1000円で買えましたし・・。

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原著の発刊時点(1974年)で80歳になろうとするルドルフ・ヘスは、
前世紀に600人の囚人を収容すべく建てられたベルリン=シュパンダウ監獄の
縦2メートル、横3メートルの第七監房の囚人。
このただ一人の囚人を贅沢にも、旧連合軍、英、米、ソ、仏の4ヵ国が
彼らの同盟の最後のシンボルとして、
兵士33名、看守12名、文官17名、医師4名、僧侶1名、所長4名で守っています。

シュパンダウの職員は退職しても5年間は、その様子を喋ってはならない規則があるそうですが、
著者は、この匿名の人物や、ヘスの妻、そして息子と話をし、手紙も紹介しながら、
この囚人のシュパンダウでの生活ぶりを披露します。

Rudolf Hess in the grounds of Spandau Prison.jpg

月ごとに管轄の変わる警備。3月、7月、11月の「ソ連の月」になると
要望する特別料理が作られず、1週間ぶっ続けの「ニシン料理」に激しい発作を起こすヘス・・。
ヘス以外の「終身受刑者」、レーダー提督は健康上の理由で1955年、
9年間の刑を勤めただけで出所し、その2年後には経済相フンクも11年で。。
1966にシュペーアフォン・シーラッハが20年の刑期を全うし、釈放される時まで、
生きて出られる希望を持ち続けた彼ですが、それも叶わず、一人きりとなって
己の殻に閉じこもってしまいます。

Erich Raeder and his wife on the date of his release from Spandau prison 1955.jpg

「ユダヤ人絶滅を私は望んだことはなく、総統もそのおつもりがなかったことは確かだし、
そんな命令を出された筈はない。我々が思い描いていたのは
南アフリカのアパルトヘイトのような政策であり、
抹殺収容所の蛮行は他の勢力の所業だったのだ」とヘスは語ります。
そして午後にはどんな荒天でも看守をお供に、庭での1時間の散歩を欠かしません。

このあと、1894年生まれのヘスの生い立ち・・・、エジプトのアレキサンドリアで
ドイツの大貿易商の両親のもとに生まれ、厳格な父を恐れ、やさしい母との関係・・というのは
ヒトラーと同じですね。
14歳になるとドイツへと戻りますが、学校では「エジプト人」という綽名を頂戴し、
感受性の強いヘス少年は思い悩みます。
そして20歳のとき、第1次大戦が勃発すると、商人見習いの彼は初めて父に反旗を翻し、
バイエルンの第47野砲連隊に志願するのでした。

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歩兵に転属されるも、血気にはやる新兵は大喜び。
白兵戦での功績により、2級鉄十字章を受章。
「ぞっとするような戦い」と語るヴェルダンの塹壕戦にも巻き込まれます。
3年目には重傷を負い、数ヵ月の入院の末、少尉に昇進。
リヒトホーフェンの活躍に憧れた彼は飛行隊への転属が叶えられ、
その前のひと仕事、予備歩兵中隊をリスト連隊に連れて行く任務を遂行しますが、
到着した連隊長の傍らに立つ、口髭を蓄えた貧相な伝令の兵長と対面・・。
このヒトラーとの初めての出会いはいろいろな方面から否定されているそうですが、
奥さんのイルゼ・ヘスが著者には肯定しているそうです。

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戦後はトゥーレ協会に属してミュンヘンの動乱で共産主義のスパルタクス団と戦い、
大学に戻ると、第2の父となる元将軍、カール・ハウスホーファー教授と知り合います。
彼の地政学的発想やヴェルサイユ条約への反対などの考え方に多大な影響を受け、
家族ぐるみの付き合いを始めたヘスですが、フォン・エップ将軍の参謀長、
レーム大尉が党員になっているというドイツ労働者党の演説会に行ってみると、
20名程度の男女の中から立ち上がった党首ドレクスラーは
「では、今夕の報告者、我が同志にして宣伝面の責任者、画家のヒトラー君・・」と紹介します。
そして、その2時間にも及ぶ演説に息をのみ、恍惚と聞き入るヘス・・。

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毎日のようにヒトラーに付きまとい、ビラ張り、ビラ配りに恋人イルゼも引っ張り出す熱の入れよう。
ヒトラーも呼べば飛んでやって来て、賛同を持って熱心に話を聞く、この坊ちゃん大学生に
悪い気がしません。
新たにナチ党となって党のマーク、ハーケンクロイツも出来上がりますが、本書によると
もともとトゥーレ協会のマークであり、歯科医のクローン博士がデザインしたものの、
十字の鉤の向きが気に入らないヒトラーが右向きに変更したということです。

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このナチ党創成期・・ドレクスラーやエッカート、シュトライヒャーらとの関係や派閥争いは
詳しく書かれていて勉強になりました。
こうして1923年の「ミュンヘン一揆」へと進み、オーストリアに脱出していたヘスは
ヒトラーの判決を新聞で読み、自分の刑が総統より重いことはないだろう・・と自首します。

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ヒトラーがヘスに原稿を口述し、タイプさせたといわれる「我が闘争」ですが、
本書ではそれを否定し、ヘスの役目は、ヒトラーの思考の流れを整え、忠告を発し、
原稿整理/組み換えをし、自分の考えもはさんだとして、
ヘスを共著者といっても拡張ではない・・としています。

釈放後、私設秘書にならないかと持ちかけられた31歳のヘス・・。
ハウスホーファー教授からも地政学研究所の助手の話を持ちかけられていましたが、
未来の教授への道を断り、新たな父である、ヒトラーの秘書を選びます。
「マイン・フューラー」という呼びかけや、昔のオーストリアの登山家の挨拶「ハイル!」から
「ハイル・ヒトラー!」を作ったのがヘスだという説も紹介。

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シュトラッサー兄弟との対立のなか、ナチ党が勢力を拡大していく過程で
グレゴールを追放し、彼の仕事を引き継ぎ、党の関係事を処理する全権を与えられたヘス。
もはや私設秘書ではなく、党で第二の存在となったのでした。
ヒトラーがドイツを旅行中のチャーチルから会いたいと言われたものの、
「このチャーチルは影響力はもたん。野党だからな」と素っ気なく断った話なども織り交ぜて、
このナチ党が政権を奪取するまでも、なかなか面白く書かれています。

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1933年に誕生したヒトラー内閣でも、12月には「党の代表」として無任所大臣で入閣。
ゲッベルスのように新聞は持たず、レームのように40万の私兵も指揮せず、
ゲーリングのように警察部隊を持たないヘスの実権はヒトラーその人であり、
疑い深いヒトラーが彼を完全に信用する一方で、
ヘスもヒトラーの害になるような決定をするハズもありません。

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疑心暗鬼の渦巻く党内ではヒムラーがハイドリヒの書類を作成し、ハイドリヒはヒムラーについての、
ゲーリングはシュトライヒャーについて、シュトライヒャーはゲッベルスについて・・。
シュトライヒャーのファイルには、「少女団(BdM)の生きのいい少女を2人、用立てろ」と言われたいう
ヒトラーユーゲント団員の報告が記載され、「ヒトラー」と書かれたファイルには
1918年の野戦病院の病状報告があり、そこには毒ガスによる嘔吐症状ではなく、
「梅毒感染による眼の障害」と記されています・・。
しかし酒も飲まない「徳の鑑」、ヘスのファイルには、個人的スキャンダルは一切ありません。

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長いナイフの夜」事件では、SA幕僚長のレームがヒトラーを「くそ兵長」と決めつけ、
「この臆病者と縁が切れればな!」と語っていたことを
ハノーファー地区のSA隊長、ルッツェがヘスに報告し、
彼はこういうことをヒトラーにも話していたということですが、
事件当日の朝まで、この計画をヒトラーから打ち明けられず、ショックを受けてしまいます。
「ゲーリングやゲッベルス、ヒムラーも知っていたというのに・・」

膨大な量の仕事も正確にこなし、秘書や女性タイピストにちょっとしたミスや怠慢を注意するものの、
決して怒鳴ったりすることなく、騎士的に丁寧に接します。
このようなことは大きなストレスとなり、胃や肝臓、心臓の痛み、痙攣と不眠に悩まされますが、
ここで登場するのが、仕事熱心なマルティン・ボルマンです。
そして段々とこの部下に仕事を任せるようになっていくヘス・・。

Hitler_and_Bormann.jpg

1938年からのユダヤ人選挙権はく奪などの反ユダヤの政令に次々と署名をしたヘス。
それでも「水晶の夜」事件を激しく非難し、仲の良くないゲッベルスの責任をヒトラーに進言します。
また、外国の社会形態や政治、住民のメンタリティに疎いヒトラーが
シャンパン商人のリッベントロップを「英国通」として抜擢したり、
バルト系でモスクワを知っているローゼンベルクを外交専門家としたりすると、
エジプト生まれのヘスも当然のように外交専門家とされてしまいます。
そんな訳でハウスホーファー教授の息子、アルブレヒトを相談役にしますが、
ヒトラーからはチェコ危機でも「きみは悲観的すぎだよ」と軍配はリッベントロップに・・。

hitler_Goebbels_hess.jpg

ポーランドとの開戦に伴い、国会で演説するヒトラーは
「第1の後継者はゲーリング、次の後継者はヘスである」と、正式にNo.3の座に・・。
そして想定外の英仏による宣戦布告。。
ヘスは石のような顔でヒトラーに歩み寄り、許可を願い出ます。
「予備役少尉として空軍に入隊し、即刻戦線に・・」
しかしヒトラーは「絶対に許さん!」と1年間の飛行禁止を命令します。

Rudolf Hess and test pilot Hanna Reitsch, Feb 1939.jpg

翌年、西方戦役が終わると、ハウスホーファー教授からハミルトン公のことを聞き、
勝手にこの公こそ、平和使節交渉相手と決めかかってしまったヘス。。
このあたりも本書ではとても具体的に書かれていますが、
1941年の対ソ戦が近づくと、1年間の飛行禁止命令が切れていたこの外交専門家は
メッサーシュミットで英国に飛び立つのでした。

HessPlane.jpg

この件を果たしてヒトラーが知っていたのか・・?
本書では妻イルゼは知らなかったと語りますが、空軍のボーデンシャッツ将軍は
「ヒトラーの驚きは実にうまい芝居だった」と語っています。
ヘスの複座機のMe-110の練習相手を勤めたのは総統専属パイロットのバウアです。
このあたりも非常に詳しく書かれていて、とても面白かったですね。

本書の見解としては、「知っていた」ですが、ヴィトゲンシュタインもバウアということなら、
ヒトラーが知らなかったとは考えにくく感じましたし、
「ヒトラーの命令」ではなく、あくまでヘスが自らの計画を伝えており、
ヒトラーは一か八かの案として、黙認していた・・という意味ですね。

Messerschmitt Bf-110 _ Rudolf Heß.jpg

ヘスからのヒトラーヘの手紙の結びには
「失敗した場合には、私は狂人であると声明してください」と書かれ、
英国で戦時捕虜扱いとなり、虚しい尋問を受けるヘスに対し、その通りに表明するヒトラー。

ゲーリングはメッサーシュミット教授も尋問します。
「ああいう男に機を用立てる前に、調査しておくべきだったなぁ」
「じゃあ、閣下が来られても総統に許可を求めるわけですか?」
「事情が違うだろう!私は空軍大臣だ!」
「でもヘスは総統代理です」
「しかしだな、あの男が狂気だと気づいてしかるべきだったよ」
「狂人が要職に就いているなんて、そちらこそ辞職を迫ってしかるべきだったんじゃないですか!」

Göring_Messerschmitt.jpg

スコットランドから「ロンドン塔」に移され、そしてまた、別の別荘に移されたヘス。
12月には記憶喪失となり、やがて回復しますが、1943年にも
ヒステリー性健忘症と診断された、この記憶喪失に再び逃れます。
こうして1946年のニュルンベルク裁判を迎え、終身刑の判決が・・。
「ロンドン塔」は見物したことがありますが、ヘスが囚われていたとは知りませんでしたね。

Nuremberg trial in 1945.jpg

1967年、「ルドルフ・ヘスに自由を」という団体が誕生し、
ニュルンベルク裁判の英国主席検察官らも署名。
英米でもこれ以上の拘禁は人道にもとる・・という論調が起こります。
ヘスがこのまま死ねば、「殉教者」になる危険があることを承知していて、
この無害の老人をこのまま拘禁し続けることもすこぶる迷惑と考えている西側ですが、
ソ連だけはナチの最後の生きたシンボルに対する解釈が違い、
4ヵ国の同意がなければ釈放は許されないのでした。

Rudolf Hess in the prison.jpg

前半のシュパンダウでの生活では米所長のユージーン・バード大佐が
ヘスと親交を深めていた結果、ソ連の圧力によって辞職に追い込まれた・・
という話がありましたが、この人は
「囚人ルドルフ・ヘス―いまだ獄中に生きる元ナチ副総統」の著者ですね。

もう一冊の「ルドルフ・ヘス暗殺」は、替え玉説といったちょっと変わったもの・・、
1987年、93歳のヘスは首に電気コードを巻き付けて自殺したとされていますが、
コレにも暗殺説があったりと、本書以降も謎が残されています。

rudolf-hess9.jpg

昨年の7月にもネオナチの巡礼地化が続くことを阻止するために、
彼の墓が撤去されるなど、話題にもなりましたね。
しかし1974年の時点で、「殉教者」としてネオナチの象徴となることを
本書が予言していたことに驚きましたし、非常に多面的に分析している一冊でした。
ちょっと「ヒトラーの共犯者」を読み返して、クノップ先生の解釈も再確認してみますが、
最新のヘス本が出ても良さそうなものなんですけど・・。







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