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ゲシュタポ -恐怖の秘密警察とナチ親衛隊- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロジャー・マンベル著の「ゲシュタポ」を読破しました。

久しぶりの「第二次世界大戦ブックス」です。
過去に〈48〉〈49〉〈56〉と紹介していますが、コッテリした大作を独破したあとは、
こういうのを読みたくなります。
古くから第二次大戦やドイツ軍を勉強されている方々は、当時このシリーズを
お読みになっていたんだと思いますが、ヴィトゲンシュタインは現在進行形です。。
今回たったの¥80で綺麗なものを見つけましたので、手にとって見ると
英国人の著者の紹介の下には「監修-リデル・ハート卿」と写真つき・・!
結局そのまま、一気読みしてしまいました。

ゲシュタポ -恐怖の秘密警察とナチ親衛隊-.JPG

原題は「SS and Gestapo」で、内容的にもゲシュタポに特化したものではなく、
ヒムラーを中心としたSSの発展の歴史と、ハイドリヒのRSHA(国家保安本部)、
そしてアウシュヴィッツなどの絶滅収容所と、SSという組織をを総括した一冊です。

まずは首都ベルリンのあるプロイセンでゲーリングが生み出した「秘密警察」と
遅ればせながらナチ党の地元、バイエルンでもそれを手本とした「秘密警察」を発足させたヒムラー、
やがてそれらがヒムラーのSSに統合されていく過程が、簡潔にわかりやすく解説されます。

Berlin, Hermann Göring ernennt Himmler zum Leiter der Gestapo.jpg

ヒムラーのアーリア人思想も詳しく、SS隊員の血統に拘ることにしても
それを調べる人間に腐敗があったため、結局その「氏族帳」は冗談にしかならなくなったとか、
外国向けに、金髪で青い目の青年や、亜麻色の髪で固く引き締まった胸の少女・・
らの肉体を写真刊行物やニュース映画に登場させたということです。

RADwJ 002.jpg

そしてダッハウの強制収容所・・。初代所長のテオドール・アイケを紹介し、
このような収容所看守、いわゆる「髑髏部隊」をどのように作り上げて行ったのか、を
ここでアイケに仕込まれた後のアウシュヴィッツ所長、ルドルフ・ヘースの裁判での供述も
挟みながら、また女性看守についても触れています。

SS-Women guards at Bergen-Belsen.jpg

このあたり面白い表現で、このSSという組織を簡単に分析しています。
秤の一方の端には、貴族や教授、医師に元軍人のエリートが、
しかし、もう一方の端にはフライコーア出身や犯罪者などの下品な野蛮人。
そしてこの中間にヒムラーに対してコセコセした官僚主義が芽生えた・・。

「夜と霧」・・、本や映画で有名ですが、これはもともと1941年の法令であり、
ドイツの安全を脅かすと思われるものは、誰でも拘引できるというもので、
夜明けに突然ゲシュタポがやって来て、あっという間に連れ去られる・・。
また、現在も行方知れずである、このゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーについては
「ソ連にいると思われるが、中南米にいるかも・・」と推測。
さらにゲシュタポといって必ず思い浮かべる「拷問」方法も
シュラーブレンドルフの経験談から、その手口を紹介しています。

Berlin, Germany, May 1941, Work at the Gestapo's Main Office.jpg

アインザッツグルッペンの東方での非道ぶりも、
隊長を務めたオーレンドルフの供述を中心に検証し、
また、「安楽死計画(T4作戦)」についてもヒトラーの主治医だったこともあるカール・ブラントの
供述、「自分で自分の始末がつけられない人たちをなんとか助けてあげたい・・、
こんな考えを非人道的、非倫理的とは絶対に思いません」。
う~ん。このブラントの話は初めて読みました。

Karl Brandt.jpg

当然、本書にはハイドリヒやらシェレンベルクバッハ=ツェレウスキグロボクニク
といったSSの重鎮たちも随所に登場しながら、SS興亡史として進んで行きますが
後半は絶滅収容所のシステムが大きく取り上げられています。

Himmler_Heydrich_and_Hans_Prutzmann.jpg

特に女性看守に虐待された被収容者の女性たちの話や
SS隊員が最も警戒したのが子持ちの女性であり、その理由は
「彼女らは子供が危険にさらされると思うと、ヒステリックな力で抵抗したからだ」
という話は印象的でした。
そして働けない子供たちはアウシュヴィッツ到着と同時に「ガス室」行きなのです。

auschwitz07.jpg

古い本(1970年)ですからメンゲレも「今なお、パラグアイに潜んでいる」と紹介されます。
しかしあのクルト・ゲルシュタインが出てきたのには驚きましたし、
このたった200ページ程度のボリュームで、このSS内の複雑な組織と部署を
わかりやすく整理した、読みやすい1冊で、
SSを勉強してみようという方には持ってこいの内容です。

MengeleHoessKramer1.jpg

それにしてもこのシリーズは、写真が凄いというか、実にエグい写真が突然デカデカと
出てくるので、ビックリします。自分が見たことのないほどのものも多く、
当時(昭和40年代~50年代)読まれた方には、強烈なインパクトがあったんじゃないでしょうか?



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ヨーロッパで最も危険な男 -SS中佐スコルツェニー- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

チャールズ・ホワイティング著の「ヨーロッパで最も危険な男」を読破しました。

最近、お気に入りの「第二次大戦ブックス」シリーズもので、
大虐殺 - リディツェ村の惨劇」、「ワルシャワ反乱」に続いて
「ヨーロッパで最も怪しい男」と個人的に思っていたオットー・スコルツェニー伝です。

ヨーロッパで最も危険な男.JPG

はじめの紹介文には「第1次大戦を通じてゲリラ戦(特殊部隊)の指揮官として
最も活躍したのは「アラビアのロレンス」ことT.E.ロレンスであるが、
第2次大戦でその栄冠に値する活躍をしたのはオーストリア人のスコルツェニーである」
と述べられています。
これがこの本の立ち位置で、基本的にスコルツェニーに好意的に書かれたものとなっています。

1908年に生まれたスコルツェニーはウィーン大学で学び、
そこでは歴史のあるサーベルを用いた決闘が盛んに行われていました。
スコルツェニーのトレードマークとも言える左頬の傷は、この時代のもので
彼の回想録を引用して、この自己鍛錬が後々まで役に立ったと説明しています。

Otto_Skorzeny2.jpg

オーストリアが併合され、第2次大戦が勃発すると31歳のスコルツェニーは
志願したルフトヴァッフェからは、歳を取り過ぎていると言い渡され、
やむなく第1SS師団ライプシュタンダルテに志願し、
しかし見事このエリート部隊への入隊を果たします。
のちに第2SS師団ダス・ライヒに転属となると東部戦線でカチューシャ・ロケットの攻撃により負傷。
その後、後方での補給任務という退屈な仕事を続けていたスコルツェニーに
英国のようなコマンド部隊の編成をするよう命令を受け、1943年春、
「フリーデンターラー駆逐戦隊」の隊長に就任することになります。

防諜部長官のヴァルター・シェレンベルクが上官のこの部隊は当初、
装備もままならない1個中隊ほどでしたが、空挺部隊やブランデンブルク大隊などから
補充を受け、2個大隊規模まで拡大します。
そして遂に運命とも言える「ムッソリーニ救出作戦」をヒトラーから
直々に命令されることになるのでした。

Gran_Sasso__Skorzeny and Mussolini.jpg

あまりに有名なこの作戦ですが、非常にドキュメンタリー・タッチに描かれ、
ムッソリーニの所在を突きとめ、グライダーによるグラン・サッソへの強行着陸、
イタリア軍の守備隊との戦い、シュトルヒ連絡機での救出、
そして一躍ヒーローへ、とその過程が詳細に書かれています。
よく、スコルツェニーは大した貢献もしておらず、この作戦を成功させたのは
「降下猟兵」たちであるという話もありますが、そういうことには一切触れられません。
なんと言ってもこの本の主役はスコルツェニーであり、そのハイライトですから・・。

skorzeny star.jpg

このようにナチ/SSのプロパガンダ説があるにしても、
政治的に内外に大きなインパクトを与えたことから、スコルツェニーは騎士十字章、
ゲーリングからもパイロット章金賞、ムッソリーニからもイタリアの勲章を授かって
SS少佐へと昇進を果たし、このコマンド部隊の第1人者にはさらなる作戦、
ソ連と和平を結ぼうとしているハンガリーのホルティ提督のバカ息子を
カーペットで包んで誘拐することにも成功。
そしてこの本のタイトル「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれるに至った作戦、
即ち、アルデンヌ攻勢における「グライフ作戦」をヒトラーより任されます。

Skorzeny in Budapest.jpg

この「グライフ作戦」は名作?映画「バルジ大作戦」でも登場することで良く知られています。
アメリカ兵に偽装して後方かく乱を狙うといったもので、
兵士だけではなくパンター戦車や突撃砲も無理やり悲しい偽装を施されます。。。
この章は一番楽しく読めました。ヤンキーの立ち振舞いを仕込むのは大変だったようで
いくらガムをクチャクチャやらせても、将校が命令すると、
すぐに飛び上がって「気を付け」の姿勢をとってしまう、などなど・・。

panther-fake-Ardennes Offensive.JPG

アルデンヌ攻勢が始まると「グライフ作戦」で捕えられた特殊部隊員は銃殺されてしまいます。
しかし、この偽装ドイツ兵の噂でアメリカ軍は持ちきりとなり、
ドイツ兵のロングブーツを履いていた(鹵獲品?)アメリカ兵や、
食事の際に「うまい」と言った兵士も、炊事係の作ったこんなものをうまいと言うとは怪しい・・
との理由で捕えられたりと、その疑いの目は将軍までに及んだそうです。
遂にはドイツ軍が計画すらしていない「アイゼンハワー殺害計画」まで勝手に噂は発展し、
パリのアイゼンハワーは大量の護衛兵に守られ、司令部に軟禁状態にされることに・・。
このような想定外に進展したグライフ作戦はある意味成功したとも言えるようです。

Skorzeny and Hitler.jpg

SS全国指導者ヒムラーがヴァイクセル軍集団司令官となった1945年、
スコルツェニーは「オーデル川に橋頭堡築け」という命令を受けます。
これは特殊任務ではなく、通常の防衛戦として駆り出されたスコルツェニーの最後を飾る戦闘です。
自ら率いてきたフリーデンタール部隊を軸に国民突撃隊や、敗残兵、傷病兵、
ヘルマン・ゲーリング師団やデンマーク、ノルウェー、ベルギー、フランスの義勇兵たちから成る
混成師団を作り上げ、必死の防衛戦に挑みます。

Otto Skorzeny 1945.jpg

最後はアルプス要塞、投降、裁判、脱走してスペインへ・・と、
まだまだ物語は続きますが、ぜひ、彼の回想録を読んでみたいですね。



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ワルシャワ反乱 -見殺しのレジスタンス- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ギュンター・デシュナー著の「ワルシャワ反乱」を読破しました。

昔、アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」を観て、このワルシャワ蜂起というものを知りました。
ポーランド人レジスタンスが白黒画面の暗い地下水道を這いずりまわり
ナチス/ドイツに殺されていくという映画で、ずっと印象に残っていました。
この戦いは「殺人部隊」として有名なディルレヴァンガーやカミンスキー旅団が
暴虐の限りを尽くしたことでも有名ですが、公平に判りやすくまとめた一冊で、
非常に楽しく勉強できました。

ワルシャワ反乱.JPG

1944年7月末、西側連合軍はすでにノルマンディ上陸を果たし、東部戦線では
ソ連の大攻勢によりドイツ軍はポーランドからも敗走しはじめるという戦局のなか、
英国の亡命ポーランド政府の要望もあって、コモロフスキ国内軍司令官のもと
8月1日、ワルシャワはついに蜂起します。

polish the warsaw uprising 1944.jpg

しかし戦力、火力とも充分とは言えないポーランド軍は多数の拠点に
攻撃をかけたこともあって、大きな損害を出します。
また、銃弾の節約のためか、ドイツ軍の負傷兵収容所を占拠すると、
そこにいた全員のノド元を切って殺害するなど、凄惨な戦いが繰り広げられます。
ポーランド軍は警察やSS隊員を捕虜にすると処刑、
大嫌いなウクライナ兵は銃弾の飛び交う中、バリケード作りに駆り出され、
とドイツ国防軍兵士のみまともに扱ったようです。

一方のドイツ軍はウクライナ人やアゼルバイジャン人の外国人部隊や
警察部隊や工兵を含む治安部隊がほとんどで、正規軍としては
ヘルマン・ゲーリング戦車師団の一部などがいたそうです。
状況を危惧した陸軍新参謀総長グデーリアンはワルシャワを陸軍配下に置くよう
ヒトラーに進言しますが、ヒムラーのSS指揮下に任されることになります。
このヒトラーの決断に対する真意は不明ですが、ひょっとすると直前に起こった
国防軍による暗殺未遂事件が関係しているのかも知れませんね。

早速ヒムラーはロシアにおいて対パルチザン掃討で名を挙げた
フォン・デム・バッハ・ツェレウスキーSS大将を鎮圧軍司令官に任命し、
ヒトラーからの命令として「ワルシャワを焦土とせよ」を伝えます。

warschau.jpg

こうしてたまたま近隣にいたSS部隊、ディルレヴァンガーとカミンスキーの部隊が
鎮圧に呼ばれてしまいます。
この本では、この悪名高い2人の部隊の成り立ちについても書かれていて
それによって、同じように言われる部隊の違いも明確にしています。

もともと、反ソ勢力としてドイツ占領下の治安にあたったロシア国民解放軍であり、
ドイツ軍の撤退に伴って、「第29SS義勇擲弾兵師団 RONA(ロシア第1)」となった
通称カミンスキー旅団は、このワルシャワ鎮圧任務について
「自分たちの戦いたいのは共産主義者である」として、当初は断ったとか・・。

kaminsky.jpg

そして「第36SS武装擲弾兵師団」通称ディルレヴァンガー師団は
「銃を使った密猟者」からなる部隊というヒムラーの発想により創立され、
やがては補充要員には犯罪を犯したSS隊員や外国人の犯罪者などで構成され、
主にパルチザン戦で活躍したそうです。ほとんど懲罰部隊といった感じですね。

ss-dirlewange.gif

とにもかくにも、真っ先にワルシャワへ駆けつけてしまったこれらの部隊が
焦土命令を「略奪/暴行なんでもあり」と解釈してしまいます。
彼らはひとつの区画をを占拠すると、避難と称して住民を連れ出し、
空き地に集めて、全員銃殺。病院や研究所を占拠すれば、女性を暴行した末、
全員銃殺・・。このようなことを繰り返しているので、作戦的にまったく前進しません。
また、同様に駆けつけた警察旅団を率いるライネフェルトSS中将が
このような当初の鎮圧作戦を指揮するわけですが、どうもこの人も悪人丸出しですね。

Heinz Reinefarth.jpg

やがて、このような暴虐ぶりがグデーリアンの耳に入り、ヒトラーに部隊の撤退を
進言させることになります。これに「総統、やつらはけだものです!」と同意したのが
ヒムラーの連絡将校であるSS中将フェーゲラインというのは有名な話ですね。
この身内からのバッシングに、ついにヒムラーもカミンスキー旅団を解散させ、
カミンスキー自身もさっさと処刑してしまいました。

oskar_dirlewanger.jpg

ディルレヴァンガーは不思議とコネが強く、特にSS本部長ゴットロープ・ベルガー
後ろ盾もあり、無事にやり過ごします。ただ、カミンスキーのこともあり、
以降は多少真面目に戦ってしまったようで、部隊の損害は大変なものとなってしまいました。
しかし隊員たちも捕虜になれば間違い無く銃殺、作戦が失敗すれば収容所に逆戻り、
というやるしかない状況で、おそらく体力も訓練も受けていない捨て駒のようなもの
だったんじゃないかと思うと、このような損害も納得がいきます。

Brummbär in Warschau.jpg

ドイツ軍の火力は充実していて(というより、部隊と同様に雑多?)
パンター2両や軽駆逐戦車ネッツァーがポーランド軍の手に落ちたものの、
ヘルマン・ゲーリング師団の戦車や鹵獲したT-34、
ロケットランチャーのネーベルヴェルファーや遠隔操作のミニ戦車ゴリアテが50両、
さらに自走砲もカールやブルムベアを投入したようです。

Goliath.jpg

結局、蜂起は失敗し、ポーランド国内軍はレジスタンスではなく、
正規軍として10月に降伏することになりますが、
この調停は珍しく騎士道的なもので、それゆえにそれまでの宣伝活動との相違から
ドイツ、連合軍双方とも内容を発表しなかったという曰く付きです。

Komorowski_Bach-Zelewski.jpg

ポーランドに対する英国の援助や補給不足として、あえて目前で停止したソ連軍、
その鎮圧部隊の半分が主にソ連の外国人義勇兵であったというドイツ軍と
単なるポーランド対ドイツという図式だけではなく、
この地域の歴史の縮図といった印象の戦いです。
ワルシャワで捕虜となっていたロシア軍の兵士たちがポーランドに付いて戦ったということは、
同じロシア人のカミンスキー旅団と銃を向け合ったりしたのでしょうか。



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大虐殺 - リディツェ村の惨劇- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジョン・ブラッドレー著の「大虐殺 - リディツェ村の惨劇-」を読破しました。

「暁の七人 -ハイドリッヒの暗殺-」でも触れられた、数あるナチス/ドイツによる大量虐殺でも
有名な事件の全貌です。200ページほどですが、
当時のチェコスロバキアの政治情勢から英国などとの関わり、
国内の一般市民から地下組織の様子、さらには駐屯するドイツ軍と
なかなか知ることの出来なかった情報が信じられないほどの多数の写真とともに
コンパクトに収められた強烈なインパクトがある名著です!

大虐殺.JPG

まずはこのリディツェ村の惨劇が起こるキッカケとなったハイドリヒの暗殺までの過程を
英国の亡命政府を中心に追い、ヤン・クビシュ、ヨゼフ・ガブチックの暗殺実行も
ダイジェスト的に説明しています。

このチェコ(ベーメン・メーレン保護領)の内務大臣(国務相)を務める
カール・ヘルマン・フランクSS中将がこの本の中心人物で、総督ノイラート男爵の元で、
その後ノイラートが「病気」のために送られてきたハイドリヒ副総督の死後も、
その後任には秩序警察長官クルト・ダリューゲSS上級大将が登場と
野心はあるものの、なかなかヒトラーに認めてもらえない程度のしょうもないオヤジです。

Kurt Daluege&Karl Hermann Frank.jpg

1942年6月9日、ベルリンでハイドリヒの葬儀が行われた、その翌日、
ヒトラーからの命令があったとするフランクの指示により、
プラハのゲシュタポ地方本部長ホルスト・ベームSS大佐率いる一団によって
総統命令の名の下に、 リディツェ村の16歳以上の男性173名が銃殺され、
185名の婦人が強制収容所送りとなり、母親から引き裂かれた104人の子供は選別されて
アーリア化」されるためにドイツ、或いはドイツ人家庭へ送られてしまいます。
この104人のうち、戦後チェコスロバキアに帰れたのはわずか16人だそうです。

Lidice Children's.jpg

この虐殺の様子は非常に具体的に、生々しく描かれており、
例えば、銃殺隊は10人1組の3組に分かれて銃殺を行い、50名を銃殺した後、
アルコールで気分を沈め、続行を断った3名の隊員は予備隊員と交換となったなど・・。
この大量虐殺の方法についてですが、このような銃殺はSS隊員の精神的負担が
問題となっていました。
そこで安易な方法として編み出されたのが、アウシュヴィッツでも使用された
毒ガスによる大量虐殺です。
死体の処理をするのは、このリディツェ村にしても、強制収容所にしても
ユダヤ人などの囚人たちです。

Lidice_massacred.jpg

「リディツェ村を地図からも抹消し、形跡も残さず真っ平らにすべし」との
ヒトラー命令があったとのことから、フランクは1943年の3月までかけて徹底的に破壊し、
新しい道路、小川の流れを変え、放牧場と原野へと完全に姿を変えてしまいます。

lidice before.jpg

リディツェ村の大虐殺から1週間後、クビシュ、ガブチックの暗殺実行者たちも
仲間の裏切りにより、隠れていた教会でSS部隊との壮絶な銃撃戦の末、
全員、自殺をとげることとなります。
結局、リディツェ村はハイドリヒの暗殺の真犯人を挙げられないドイツ側の焦りと
真犯人に対して無関係な市民を虐殺してプレッシャーを与えるという
ことだけで、実行されたようです。。。
その意味では「仲間の裏切り」という成果はあったのでしょう。

この本でも「なぜリディツェ村が対象となったのか」については必ずしも明確ではなく、
潜入した亡命チェコ兵士を匿ったらしい手紙に住所が書かれていた・・という程度で
もっとも、フランクにしてみれば、そんなのが事実かどうかは二の次だったのでしょう。

Karl Hermann Frank_2.jpg

そのフランクは戦後、裁判にかけられるわけですが、彼の供述も所々に出てきます。
そして1946年、プラハにおいて絞首刑に処せられますが、
その鮮明な写真が突然デカデカと出てきて、ビックリしました。

現在、リディツェ村の跡地にはモニュメントが建てられています。

Weeping Women.jpg
Lidice Children's Monument.jpg
Lidice Children's Monument1.jpg
Lidice Children's Monument2.jpg
Lidice Children's Monument3.JPG
なかなか綺麗な状態のものが見つからなかったのですが、
今回は900円で良いものを手に入れることが出来ました。



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