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V1号V2号 -恐怖の秘密兵器- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ブライアン・フォード著の「V1号V2号」を読破しました。

今回でちょうど10冊目と、スッカリお馴染みとなった「第二次世界大戦ブックス」からの紹介です。
有名な報復兵器であるV-1飛行爆弾とV-2ロケット・ミサイルですが、
このblogではちょいちょい登場するものの、これらについて詳細に書かれた本は
読んだことがありませんでした。
なので、実は詳しいことはほとんど知りません・・。
そんなときには、写真タップリでボリュームも手ごろな第二次世界大戦ブックスがうってつけです。
原題は、副題のような感じの「ドイツの秘密兵器」。
気になって珍しく目次を見てみましたが、「V1号V2号」だけに特化したものではなく、
さまざまな特殊兵器に言及し、解説しているものでした。

V1号V2号.jpg

まずは「秘密兵器の研究センター」と題した章で、陸海空3軍の兵器開発/研究組織と
各々の置かれた立場を解説します。
ヴェルサイユ条約によって排水量1万㌧以上の戦艦を建造することを許されなかった海軍は
ドイツの技術者たちが軽合金や高度の溶接技術を駆使して、「ポケット戦艦」を建造。
海軍兵器実験部には魚雷や無線の研究所が置かれ、世界をリードします。

deutschland2.jpg

新設の空軍では、その伝統のなさから逆にゲーリングと、ヒトラー政府の大きな関心が・・。
1931年には最初の液体燃料ロケットを打ち上げており、大型の長距離飛行機も開発し、
プロペラの新型戦闘機メッサーシュミットBf-109で最高速度も樹立します。

Produkion_Bf_109.jpg

そして第1次大戦前からの伝統ある陸軍兵器局では「兵器実験部」と、
それと同じレベルに「兵器研究部」という似たような部署が存在・・。
これだけでもヤヤコシイですが、ロケットの研究では見解の相違も。
「ロケットは本来、砲弾の一種である」と、
「ロケットは翼が短く、操縦者がいない飛行機である」
こうしてドルンベルガー陸軍少将が指揮官として250人の若い科学者から成る
ロケット研究が始まります。

dornberger.jpg

規模はすぐに大きくなり、1937年、ペーネミュンデに莫大な費用をかけて広大な秘密施設を建築し、
そこで働く科学者は2000人を越えていきます。
そしてその中には20歳そこそこの青年、ヴェルナー・フォン・ブラウンの姿も・・。

Peenemünde, Wernher von Braun.jpg

1942年にやっと「V2ロケット」の発射実験に成功し、ヒトラーも注目します。
本書は相変わらず写真が豊富ですが、内容もかなり専門的で驚きました。
5000基以上つくられたV2の最終形は全長14.03m、直径1.651m・・。
さらに燃料などの細かい数字もバンバン出てきます。

V2.jpg

長距離ロケットによる「ロンドン爆撃」に心を動かし始めたヒトラーですが、
彼はロケットよりも、ジェット機、飛行爆弾という「飛行機」の方に関心を持ち、
そして「爆薬を内蔵した大きな弾丸」という兵器に分類され、
ロケットは陸軍の管轄下に置かれると、これに反発した空軍は独自の計画を打ち出し、
無人飛行爆弾「V1」の生産を始めます。

Vergeltungswaffe 1.jpg

このようにして、空軍の「V1」、陸軍の「V2」競争が勃発しますが、
安価ですが性能はイマイチ、スピード的にも戦闘機に撃墜されてしまうこともある「V1」と、
マッハ4の超高速で飛ぶものの、高価で生産にも時間のかかる「V2」。
結局は両兵器とも並行して使用されることになるわけですが、
相変わらずナチス・ドイツらしい展開で、苦笑いするしかありませんね。。

ちなみに超名作映画「グレン・ミラー物語」で、超名曲「イン・ザ・ムード」を野外で演奏中に
この「V1」が落下してきても演奏を中止せずに、観客(英国軍人たち)が拍手喝采・・、
なんてのを思い出しましたが、コレが幼少の頃に「V1」を知ったキッカケです。

the V1.jpg

タイトルの「V1号V2号」はこの半分ほどで終わり、その他の秘密兵器が登場します。
以前に紹介したBa 349「ナッター」だけでも10ページも書かれており、
続いてロケット戦闘機Me-163も6ページ。
「超巨大機と超小型機」の章では、He-111を2機繋ぎ合せた怪物機He-111z
Uボートに折りたたんで格納できるヘリコプター、フォッケ・アハゲリス Fa 330。
これはエンジンなしで気流によって回転し、揚力を得るというものです。

Focke-Achgelis Fa330.jpg

その他、親子飛行機のミステルや、
試作機も3枚のブレードフィンが回転して垂直離昇を目指したトリープフリューゲル、
三角翼がトレードマークのリピッシュDM-1。

Lippisch DM-1.jpg

ジェット・エンジンを搭載したホルテンH IX V2も詳しく書かれています。
特にホルテンについては、現在では「ステルス性」を評価されますが、
さすがに1971年の本書には「ステルス」という言葉は出てこないですね。

Ho229.jpg

この変り種飛行機シリーズが終わると、突然「戦慄の毒ガス」の章がやってきます。
いわゆる生物化学兵器・・。これも今まで読んだことがありませんし、
せいぜい、第1次大戦でヒトラーが一時的に失明した程度です。。
本書では古代の戦争から、川の汚染や伝染病といった戦術を紹介し、
近代の毒ガスの種類と症状についても詳しく解説します。

British_55th_Division_gas_casualties_10_April_1918.jpg

そして前例がないほど危険なガス・・として紹介されるのが、ドイツ人が発見した「タブン」。
1939年頃に開発したらしいですが、当然、戦争では使用されていません。
これに続いて「サリン」や「ソマン」が出来たそうですが、
"sarin"、"soman"ですから、本書で書かれているように「ザリン」と「ゾマン」が正しいようです。

また、ドイツは終戦までに「サリン」だけでも7000㌧を貯蔵し、
これはパリのような大都市30個の住民を全滅させるのに充分な量だったということです。
「地下鉄サリン事件」当時も、地下鉄通勤していたヴィトゲンシュタインにとっては、
この章は妙に現実味があるというか、恐ろしさを感じました。

サティアン.jpg

このような話を詳しく知ると、やっぱりヒトラーがコレを兵器として使わなかった理由と
絶滅収容所でも同様だったことが不思議のような気もします。
兵器として使わなかった理由はわからなくもないですが、
効率的な絶滅方法を模索して「チクロンB」に辿り着いたSSが使わなかった理由は・・?
本書を読む限り、明らかに毒性は強いですし、ヒムラーですら存在を知らなかったのか、
または、輸送やガス室での使用に設備が追い付かなかったのか・・?

Zyklon B degesch.jpg

小型Uボートのゼーフントや、巨大な列車砲「ドーラ」(連合軍は「ビッグ・バーサ」と
呼んでいたそうです)が登場し、「V3」ことホッホドルックプンペ(ムカデ砲)、
最後はジェット戦闘機Me-262だけでなく、国民戦闘機He-162もしっかり出てきます。

Hochdruckpumpe v3.jpg

こうして書いていても、本書は物凄く広い範囲をカバーしています。
写真と絵が随所にありますから、このような内容だと実に助かりますね。
う~ん。これは本当に勉強になりました。いろいろ興味も湧きましたし・・。

triebflugel.jpg

実は「報復兵器V2 -世界初の弾道ミサイル開発物語-」も持っているので
どちらを先に読もうか悩んでいましたが、本書が先で正解だった気がします。
たぶん「「報復兵器V2」を読むと、ドルンベルガーの「宇宙空間をめざして―V2号物語」や
フォン・ブラウンの「宇宙にいどむ」、「月をめざした二人の科学者―アポロとスプートニクの軌跡」
なんかに進んでしまうような気がしてなりません。。











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ベルリンの戦い -総統ヒトラー廃虚に死す- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アール・F.ジームキー著の「ベルリンの戦い」を読破しました。

第二次世界大戦ブックスのいわゆる「最終戦」・・、
副題からは「ヒトラー最期の・・」系統のようにも思いますが、メインはそうではなく、
この「独破戦線」で以前に紹介した、ヴォルフガング・パウルの「最終戦―1945年ドイツ」と
アントニー・ビーヴァーの「ベルリン陥落 1945」、
コーネリアス・ライアンの「ヒトラー最後の戦闘」と同系統になります。
著者は元米海兵隊員で、米陸軍省戦史部勤務の戦史家という肩書・・、
翻訳は加登川 幸太郎氏。久しぶりの最終戦なので楽しみです。

ベルリンの戦い.jpg

第1章は「ベルリンのはるかかなたで」と題して、1944年6月にノルマンディに上陸した
英米連合軍がベルリンまで1050㌔、片やソ連軍は1200㌔と、ドイツに対する脅威は、
戦略的に見て、まず対等という話。そしてフランスでの戦いとヒトラー暗殺未遂事件が紹介され、
東部戦線ではバグラチオン作戦の大攻勢の前に、10月までにはルーマニアやブルガリアが降伏、
フィンランドも同様となってドイツ第20山岳軍団が撤退。
北方軍集団もクーアラントに押し込められてしまうという状況。

German cavalry in Southern Bulgaria.jpg

年も明けた1945年1月12日、再びソ連の大攻勢、ヴィスワ・オーデル攻勢が始まり、
ドイツ第48装甲軍団はバラバラに粉砕され、参謀総長グデーリアンの要請によって
西部のSS第6装甲軍を東部に移すことをヒトラーは決定しますが、
それらはブダペストの油田保持に送られてしまいます。
さらにはヴァイクセル軍集団司令官には、ヒムラーが任命されるという悲惨な事態・・。

Guderian77.jpg

このあたり、1941年のバルバロッサ作戦から続く、ドイツの3個軍集団の名称変更について触れ、
北方軍集団はクーアラント軍集団、中央軍集団が北方軍集団へ、A軍集団を中央軍集団と
ヒトラーが改称したことを「なんの利益があるとも思えず、ただ後世の戦史研究者を混乱させるだけ」
と著者はクレームをつけますが、コレは確かにややこしいんですよね。。

3月20日、グデーリアンの退任勧告に喜んで応じた軍集団司令官ヒムラー。。
後任にハインリーチが着任するといよいよ「最終戦」らしい雰囲気がプンプンしてきます。
ヴィトゲンシュタインが「最終戦」の将軍を一人挙げろと言われれば、「ハインリーチ!」と即答します。

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バラトン湖での「春の目覚め作戦」もしっかりと紹介され、南方軍集団のその後の運命も
見えてきますが、ベルリン中心の本書では脇役扱いですね。
また、ナチスがアルプス要塞で徹底的に防戦することを心配するアイゼンハワーの様子や、
スターリンの戦術も交互に紹介し、防戦一方のドイツ軍だけではなく、
英米ソの首脳のベルリンと戦後を見据えた戦略もかなりしっかりと書かれています。
特にブラッドレーが払わなければならない損害を憂慮し、「いずれにせよ"都"は他のヤツラに
やらなくてはならないのだから・・」と語った話など・・。

Deutscher Volkssturm.jpg

4月、東プロイセンに侵攻したソ連軍。
ケーニッヒスベルクの周辺に4個軍を展開し、数千㌧の爆弾と焼夷弾の雨を降らせます。
要塞守備隊指揮官のオットー・ラッシュ将軍は「最後の一兵まで戦え」の総統命令のもと
6個師団でひたすら立て籠もりますが、「みんな死ぬまで頑張るのだ」と激を飛ばす
東プロイセン総督エーリッヒ・コッホはさっさと逃げる準備を・・。
もはや救援は見込めず、弾薬も尽き、数千人の将兵や市民のことを考え、
降伏を決意したラッシュ・・・。ヒトラーは欠席裁判で絞首刑を宣告します。

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ベルリンの東地区を守るテオドール・ブッセの第9軍の兵力は14個師団。
それに対するジューコフのソ連第1白ロシア方面軍は11個軍です。
1個軍と1個方面軍を比較するのも悲しいですが、この方面軍の内訳は、
狙撃77個師団、戦車、機械化7個軍団、砲兵8個師団というもの。。

第9軍の左にはマントイフェルの第3装甲軍が・・。こちらは11個師団ですが、
ロコソフスキーの第2白ロシア方面軍も8個軍で狙撃33個、戦車・・もういいですね。。

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そしていよいよジューコフの攻撃が満を持して始まります。
ゼーロウ高地を占領すべく、新兵器の探照灯でドイツ守備隊の目を晦まそうとするものの、
泥と煙と暗闇のなかで互いにぶつかり合い、大混乱となるソ連軍。。
この自爆的な話はどんな本で読んでも面白いですが、本書では
ビクビクして何が起こったのか理解できなかったドイツ軍が、ソ連軍に体勢を立て直すゆとりを
与えてしまった・・としています。

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ヒトラーが振り回された「シュタイナー軍集団」は第25装甲擲弾兵師団など、3個師団だそうですが、
ここに珍しい第4SS警察師団が含まれていました。ふ~ん。そうでしたか。
なにかに書いてあったかも知れませんが、忘れてました。

cuff-wss-polizei.jpg

第9軍の北翼を援護する予定のヴァイトリンクの第56装甲軍団は、ヒトラーの勝手な命令で
ベルリンの南東地区を防衛する任務を与えられ、ヴァイトリンク自身も
全ベルリン防衛司令官に任命されてしまいます。
これによって完全に孤立してしまったブッセの第9軍・・。
すでに砲弾は使い果たし、小銃によって西への脱出突破を図ろうとハインリーチに語り、
「これは犯罪だ・・」とハインリーチは、すぐさま第12軍のヴェンクに電話をかけます。
「"古い仲間"のブッセを救い出さなければならないぞ」

Busse_Goebbels.jpg

しかし約束されていた第9軍への空輸補給は総統の立て篭もるベルリンへと変更され、
最高司令部の責任を問い、口論するハインリーチとOKW作戦部長ヨードル・・。
マントイフェルの第3装甲軍も崩壊し、カイテルから解任されるハインリーチ・・。

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遂にベルリン市内に突入し、本書の表紙のように国会議事堂を目指すソ連軍。
しかしベルリンは「要塞」などではなく、そこで行われた「ベルリンの戦い」は
単なる「掃討戦」でしかありません。

4月24日にベルリンから呼び出しを受けて到着したSSの将軍クルーケンベルクは、
彼が連れてきたフランス人義勇兵から成る第33SS師団シャルルマーニュ
決死隊90名のほかに、指揮すべき北方の外国人義勇兵中心の第11SS師団ノルトラント
わずか1個大隊の兵力なのに驚きます。
ベルリン地区司令官を任されても、地下鉄の車両に設置された司令部には
電話もなければ電灯すらありません・・。

11. SS-Freiwilligen-Panzergrenadier-Division Nordland.jpg

ヴァイトリンク指揮下のミュンヘベルク装甲師団は戦車を10両をもって
「歩兵の増援」として送られてきた国民突撃隊とともに防衛戦を繰り広げ、
地下鉄のアンハルター駅にいるノルトラント師団と合流します。
地下のプラットホームには司令部だけではなく、女や子供、負傷兵などがいっぱい。。
しかしソ連兵が地下鉄を通って前進するのを防ぐため、運河の壁を爆破したことから、
トンネル内に水が流れ込み、子供や負傷者を置き去りにしたパニックが発生します。

Fighting the last vestiges of German resistance in the Berlin subway.jpg

ヒトラー最後の希望、ヴェンクの第12軍でもクラウゼヴィッツ、シャルンホルスト、
テオドール・ケルナーといった将校訓練学校の将兵たちで編成された青年師団などで
反撃を試みますが、24㌔前進するのが精一杯・・。ベルリンはまだ30㌔の彼方です。

battle-berlin_12.jpg

5月1日、SS部隊がナチのシンボルであるかのように守っていた国会議事堂が陥落し、
同様に、そのように思っていたソ連軍が赤旗を掲げます。
戦車を5両残したミュンヘベルク装甲師団はティーアガルテンで戦い続けますが、
ヴァイトリンクがソ連のチュイコフ将軍に降伏したことで、彼らは西への脱出を決心します。

The Reichstag burns.jpg

相変わらず第二次世界大戦ブックスはこの200ページ程度のボリュームと
タップリの写真が掲載されているにも関わらず
(米軍に投降したルントシュテットの写真なんか初めて見ました・・)、
本書も1944年からの流れと、ドイツの各軍集団や軍ごとの戦いの様子、
攻める東西連合軍と、ベルリンの将来を見据えた政治的駆け引き、
さらには、「総統ヒトラー廃虚に死す」までを実にバランスよく、まとめています。

battle-berlin German children have these 'toys' to play with.jpg

最初に挙げた「最終戦」を扱った3冊も、名著と呼べるものですから、今回読みながら、
「あ~、このシーンはアレに詳しく出てたな~」と再読したくなりました。
第二次世界大戦ブックスはヤフオクで綺麗なのが1冊200円で出たので、
まとめ買いしてしまいましたから、月に1冊ペースで独破していく予定です。



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猛将パットン -ガソリンある限り前進せよ- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

チャールス・ホワイティング著の「猛将パットン」を遂に読破しました。

第二次世界大戦ブックスのなかでも、かなり有名な(個人的に・・?)一冊ですが、
なんといってもその副題、「ガソリンある限り前進せよ」が傑作です。
まさに副題のお手本、コレに匹敵するのはちょっと思い浮かびませんね。。
原著のタイトルは単に「パットン」・・です。まぁ、向こうじゃコレだけで通用するんでしょう。
ちなみに1970年の映画「パットン大戦車軍団」も原題は「パットン」でした。
20数年前にこの映画を偶然TVで観て以来のパットン・ファンですが、
パットン対ロンメル」という、若干騙され気味のタイトルの本を先に読んでしまってて、
在庫切れだった第二次世界大戦ブックスを本書を含め、3冊まとめ買いしたので、
今回、遂にパットン本の真打ち登場と相成りました。

猛将パットン.jpg

第1章では簡単にパットンなる人物を紹介します。
先祖はスコットランド、アバディーンまで遡れ、米国独立前に移住。
軍人や医者、法律家を輩出し、カリフォルニアで財を築き、1885年、
ジョージ・スミス・パットン・ジュニアが誕生します。
その後は陸軍士官学校(ウエストポイント)から第1次世界大戦に従軍。
やがて1943年、惨敗を喫した米第2軍団の立て直しを任され、チュニジアに上陸します。

この時の彼の日記には「戦争とは、単純で、即決的で、非情なものである」
パットンの名言も「脳ミソと肝っ玉があれば、それで戦争に勝てる。ドイツには楽勝さ」
著者はそんなパットンをルントシュテットのような精緻さや、モントゴメリーのような用意周到さがなく、
つねに「大胆」で直線的であったが、「策」がなかったと解説します。

Patton-Tunisia.jpg

米第2軍団の将兵の根性を叩き直し、チュニジアでの戦いも上々。
アイゼンハワーは「あとはブラッドレーに任せて・・」と、「ハスキー作戦」にパットンを回します。
このシチリア島上陸作戦は、英軍アレキサンダーを司令官として、モントゴメリーの英第8軍と
パットン率いる米第7軍の共同作戦ですが、栄えあるエル・アラメインの勝者、英第8軍と
新参者の米軍では、与えられる任務は違ってきます。
しかし、補助的な役割に甘んじることなく、最終目標のメッシナ奪取をモントゴメリーと争い、
見事に勝利・・。
さらには野戦病院で「精神がやられました」とメソメソしてる兵をひっぱたく「事件」など
映画「パットン大戦車軍団」の原作か??と思わせる展開です。

Patton Montgomery_The War in Sicily and Italy.jpg

この「ビンタ事件」が全米に報道され、世論から「解任せよ」とブーイングを受け、
パットンは1944年新春に米第7軍司令官から解任・・。
6月のノルマンディ上陸作戦からも外されますが、上陸後の米第3軍の指揮は約束されます。
しかし米地上軍司令官は北アフリカとシチリアで部下だったブレッドレー。
7歳年下の元部下が上官です。ちなみにパットンは最年長の将軍で、年の差で言うと
アイゼンハワーが5歳、モントゴメリーも2歳年下ですね。

Le général George Patton.jpg

7月後半からブルターニュ半島の掃討作戦が始まりますが、ブレストにロリアン、
サンナゼールといった各Uボート基地に同時に進撃するという大胆な作戦を実施します。
結局、ロリアン、サンナゼールは陥落させられないまま、1週間で終了したこの作戦ですが、
対するドイツ軍は2流の部隊だったとして、大した評価ではなかったようです。

また、ここではパットン流の戦闘原則を紹介し、「鼻をひっつかんだまま、尻を蹴っ飛ばせ」は、
歩兵部隊で敵軍を釘付けにし、敵の背後に装甲部隊を送り込んで、中核部を壊滅させる・・
という戦法です。
もうひとつ「岩石スープ」というのも面白いんですが、これは書くと長くなるので割愛します。
気になる方は、安いですから、買ってみてください。。

Patton army.jpg

すっかり宿敵のようなモントゴメリーの英軍と、攻勢の主導権やガソリン問題での
軋轢を繰り広げながらもドイツ国境へと殺到するパットンと米第3軍。
今度の対戦相手はロシア戦線でも勇名をはせていた戦車部隊指揮官、
オットー・フォン・クノーベルスドルフが率いるドイツ第1軍です。

Otto von Knobelsdorff.jpg

1648年まではドイツ領だった古都メッツ(メス)は、37ヵ所の砦のある極めて堅固な要塞で、
守備隊は武装SSの有能な指揮官ヘルマン・プリース(第13SS軍団長)です。
この要塞攻略に手こずるパットンですが、その南側では脅威も迫り、
小柄な馬術選手で貴族出身の将軍、ハッソ・フォン・マントイフェルが、
第5装甲軍の準備が完了次第、パットンの南側面に捨て身の反撃をせよ、
との使命を与えられています。

hasso_eccard_von_manteuffel.jpg

思った以上に苦労するパットン。要塞攻略や歩兵を伴ったちまちました攻撃は苦手です・・。
そして突然の「アルデンヌ攻勢」を喰らったアイゼンハワーは、この窮地をパットンに託し、
3個師団を急旋回させて、バストーニュで包囲された米軍部隊を救出することに成功。
それでもパットンは「我々は、この戦争に敗れるかもしれない」と日記に書き記し、
「ドイツ軍は我々よりもひもじく、寒く、弱いハズなんだ。だが依然、素晴らしい戦いぶりを見せている」
と、参謀にも語ります。

ardennen.jpg

3月になるといよいよライン川の渡河作戦が・・。
10万の兵員と猛烈な集中砲撃と空爆、さらに2個空挺師団を用いた雄大な作戦。
このような作戦を指揮するのは、もちろん用意周到なモントゴメリーです。
しかしその前夜、パットンの第5歩兵師団がドイツ軍の妨害を受けることなく
こっそり渡河を果たし、ドイツ内陸部へ侵入してしまいます。
「ブラッド、誰にも話さんでくれ。俺は越えちまったんだ」
回想録で「パットンは扱いにくかった」と語るブラッドレーは、コーヒーをこぼさんばかりです・・。

Eisenhower, Bradley, and Patton at Bastogne.jpg

最終的にパットンの突進はチェコまで続きますが、彼の戦いは事実上コレにて終了です。

「彼こそ我々の救世主だ。野蛮なロシア人から救ってくれたんだ」
と、バイエルンではドイツ国民から歓声と紙吹雪の歓迎を受けるパットン。
ベルリンでの壮大な観兵式では、ソ連の英雄ジューコフが誇らしげにパットンに語ります。
「あの戦車は砲弾を11㌔もぶっ飛ばす大砲を積んでるんですよ」
「そりゃ大したもんだ。ですが、もし我が軍の砲兵が600m以上の距離からソ連軍に発砲したら
わしゃ、即座にそいつを"臆病な行為"のカドで軍法会議送りにしてやりますよ」

Patton and Marshall Georgy Zhukov.jpg

仰天して黙り込むジューコフ。そして同じく驚いたアイゼンハワーは、
このようなパットンのソ連嫌いが及ぼす影響などを考慮して、再び解任。
そしてそれから間もない12月9日、パットンの乗るクルマにトラックが衝突。
意識こそあるものの、首から下が麻痺状態となって、12月21日、息を引き取ります。

Gen-George-Patton-1945-Vienna.jpg

最後にドイツの将軍たちがパットンを評価します。
西方軍参謀長だったブルーメントリット大将は「信じられないような先制力と、
稲妻のような行動力を持った男だ」
最高司令官ルントシュテット元帥は「今まで戦ったうちで最も優れた将軍」と語ります。
ドイツ軍将兵はパットンの軍隊だけを特別に「パットン軍」と呼び、
公式記録にも、よくこのように書かれているそうです。
そして「電撃戦の創始者」たちにパットンの迅速果敢な戦闘方法が魅力的に見えたとし、
一方のモントゴメリーについては「型にはまって、慎重すぎるほど慎重」という評価を・・。
これは映画「遠すぎた橋」のルントシュテットとモーデルの会話、そのままですね。

General George S. Patton.jpg

本書は古い本ですから、パットンの良いトコを痛快に読ませるモノかと思っていましたが、
決してそんなことはありませんでした。
人間的な部分、戦術的な部分、さまざまに検証し、人間パットンを浮かび上がらせているもので
終戦の半年後・・という彼の死も、「戦争に取り付かれた軍人」パットンらしいようにも思えました。
このボリュームと大量の写真や戦況図を載せているにも関わらず
これだけ綺麗にまとめているのは素晴らしいですね。





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スターリングラード -ヒトラー野望に崩る- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジェフレー・ジュークス著の「スターリングラード」を読破しました。

最近、陸戦モノをご無沙汰していたというのもありますが、
この「スターリングラード攻防戦」というのは、初めて読んだ戦役であったり、
これを描いた映画も2本好きなのがあったり・・と、個人的な思い入れが強く、
無性に読みたくなるときがあります。
しかし、なかなか詳細に書かれたものはあまりなく、今回もamazonで探していると
「やっぱり、第二次世界大戦ブックスかぁ」ということで、500円で購入・・、
届くなり、中毒患者の如く、すぐさま読破しました。

スターリングラード.jpg

リデル・ハート卿のまえがきでは、英国人著者ジュークスがソ連通であり、
そのソ連で刊行された「大祖国戦争」全6巻やチュイコフジューコフの回想録を活用していること、
しかし、それらが大きく食い違い、また、歴史をいじりまわし、宣伝のためにひっくり返すという
スターリン、フルシチョフ時代の長い経緯を注意する必要があるとしています。

スターリングラード戦というは有名ですし、この「独破戦線」でも何度か紹介していますので、
本書にも当然書かれている戦局の推移は割愛します。
それでも、本書には興味深い話や、知らなかった話(或いは忘れていた話・・)、
印象的な登場人物も結構ありましたので、それらをいくつか紹介してみようと思います。

Deutsche Grenadiere in der Stalingrader Schlacht.jpg

ポーランド戦役の作戦名「白作戦」、西方戦役の「黄色作戦」と大成功を収めたものの
ソ連侵攻の「バルバロッサ作戦」が大失敗に終わったことから、
また「色」に戻って「青作戦」と名付けられた、この1942年の夏季攻勢・・。
5月の第二次ハリコフ戦で大損害を受け、それによって、撤退に撤退を繰り返す
ティモシェンコ元帥率いるソ連軍。
一方、余勢をかって快進撃を見せるフォン・ボック元帥の巨大なドイツ南方軍集団。

Panzers cross the Don.jpg

しかし、ヴォロネジの占領を巡ってフォン・ボックは、対立したヒトラーにより、あっさりクビに・・。
こうして支離滅裂なヒトラーの作戦指導のもと、カフカスの油田を目指すリスト元帥のA軍集団と、
ヴォルガ川を目指すフォン・ヴァイクス上級大将のB軍集団とに分けられ、
ヘルマン・ホトの第4装甲軍に対しても、ロストフ方面のクライストの第1装甲軍の
必要のない援助に回すなどして、逆に道路の戦車渋滞を引き起こすだけ・・。
ホト曰く「第4装甲軍が脇道へ逸れることがなければ7月末にはスターリングラードを
戦わずして占領できただろう」。

Von_bock_hoth.jpg

ソ連側でこのスターリングラードの危機に登場する本書の主役のひとりは、
スターリンのお気に入りのピンチヒッターで、戦略的能力に優れる闘争家肌の楽天家として
南東方面軍司令官に任命されたエレメンコ大将です。
そしていよいよ始まったドイツ軍の大攻勢に対し、死守命令を受ける第62軍の司令官に
チュイコフ中将を「信頼できる男」として新たに抜擢。もちろん、彼も本書の主役です。

Andrei Iwanowitsch Jerjomenko.jpg

まず、リヒトホーフェン指揮の爆撃機による空爆、続いて戦車部隊が進撃、
そして1000メートルも先から機銃をバラバラ撃って来る歩兵部隊・・というドイツ軍の戦術を見た
チュイコフは、なんとかドイツ軍の苦手な接近戦を目論みます。
しかし劣勢を跳ね返すことはできず、増援で送られてきたシベリア兵や海軍歩兵部隊が
なんとか屈強に戦い続けます。

Sowjetische Soldaten erhalten Parteidokumente.jpg

カフカスで行き詰ったA軍集団のリスト元帥、陸軍参謀総長のハルダーらが次々とクビにされるなか、
ヒトラーの首席副官シュムントが陸軍人事局長になると、
苦戦中の第6軍司令官パウルスがお祝いを送ります。
これを受けたシュムントは参謀総長の後任にパウルスを考えていると漏らし、
スターリングラードの迅速なる占領が華やかなる明日を約束するものだと・・。
本書はパウルスにはかなり厳しく、
「その経歴からしてみて、ご機嫌取りとしてもかなり有能であった」など・・。

General Paulus.jpg

スターリングラード方面軍と名称変更したエレメンコの方面軍の他に、
ドン方面軍にはロコソフスキー、南西方面軍にはバトゥーチンといった司令官たちが・・。
10月、チュイコフは弾薬の配当量が減らされるとの通知を受け取ります。
しかし、これは極秘であるジューコフによる「天王星作戦」に向けられたものでもあります。

Василий Иванович Чуйков.jpg

情けないほどの装備と士気でも、とにかく監視だけは続けるルーマニア軍・・、
そして11月19日、ポカンとしている彼らの前に恐ろしい形をしたT-34、200両が
霧の中から現れます。
「数か月にわたる守勢一方の苦しい血戦を味わってきた者にとって、
これ以上に嬉しいことはなった」とエレメンコの語る、
ドイツ第6軍を一気に包囲する大攻勢「天王星作戦」が成功。

T-34 in Stalingrad.jpg

この未曾有の大危機にB軍集団司令官のヴァイクスは戦線の維持と突破脱出の2案を
すぐさま検討しますが、結局ヒトラーはヴァイクスを無視して、第6軍に直接「死守命令」を発します。
ヴァイクスっていう人は、有名な割にはどんな本でも軽んじられた扱いがしますね。
いかにも「お洒落な男爵」といった雰囲気のメガネが良くないのかも・・。

von Weichs.jpg

そのヴァイクスの代わりに登場するのが、もう何度書いたかわからない、フォン・マンシュタインです。
ひょっとしたらヴァイクスもそれなりに適切な司令を陰で出していたのかも知れませんが、
ここからは新設ドン軍集団マンシュタインによる第6軍救出の「冬の嵐作戦」の独壇場です。

ホトの第4装甲軍・・もちろんあの第6戦車師団も突破口を開けて救出に向かいますが、
パウルスは一向にそれに向けて脱出する「雷鳴作戦」を燃料不足とヒトラー命令を理由に
拒否し続けます。
包囲された状態が進むにつれて、実質的な軍司令官になったと書かれる
第6軍参謀長アルトゥール・シュミット少将も最終的に拒否。
彼については「強い性格の持ち主で、心底からのナチ」ということです。

paulus_schmidt.jpg

ドイツ空軍が決死の覚悟で届けたフランス・ワインにオランダのチーズ、
デンマークのバターとノルウェーの缶詰で年末のお祝いするソ連野戦本部。
年が明けるとロコソフスキーらの署名入りで降伏勧告を行います。
この絶望的な状況にもヒトラーは降伏を許さず、現実離れしたことを言い出します。
「新型戦車パンター1個大隊を送って、突破口を開けるのだ」。

stalingrad9.jpg

最終的には降伏した第6軍。。口もきけないほど参ったパウルス元帥ですが、
ソ連側の待遇の良さに徐々に元気を取り戻し、ウォッカを注文して
「我々を打ち負かしたソ連軍と指揮官たちに」乾杯し、その後は「反ナチ」活動家となります。
著者は「彼はもともと調子のいい男であるから「改宗」したのか
「新しい主人」に調子を合わせたのかはわからない」と締め括っています。
野戦司令官として、どの本でもダメ出しされる参謀畑のパウルスが可哀そうになりますが、
ならばマンシュタインが第6軍を率いていたなら、スターリングラードは落ちたのでしょうか?

General K. Rokossovsky, Marshal of Artillery N. Voronov, translator captain Diatlenko, and Field Marshal Paulus.jpg

第二次世界大戦ブックスは200ページほどなので、
このような半年にも及ぶ攻守入れ混じった戦役という意味では、
ダイジェスト的な印象であるのは否めません。
しかし、本書はこのようにソ連側を主体に様々な話も提供してくれました。

hungarian-dead-stalingrad.jpg

最後の加登川幸太郎氏の「訳者あとがき」は特に異常なまでに楽しめました。
これは「スターリングラード攻防戦」を日本の地理に当てはめる、というもので、
「ヴォルガ川」を東京の「隅田川」とした場合、どこでなにが起こったのか・・。
1941年7月、北アルプスから隅田川を目指す「第6軍」、9月まで池袋、新宿で激しく戦うも、
松戸、市川、東京湾からの砲兵の支援の前にチュイコフの第62軍を追い落とすことができず、
11月「天王星作戦」が発動された長野でルーマニア軍が崩壊、
パウルスの司令部は練馬区に移り、
伊豆半島から救出に向かったマンシュタインも箱根で阻止され、
1月には三鷹市のピトムニク飛行場を失い、
遂に足立区と中央区に分かれていたドイツ第6軍が降伏・・。

stalingrad_11.jpg

この戦役のスケールの大きさを実感出来ましたし、東京下町の人間として、
我が家がスターリングラードのど真ん中・・という凄いことを想像する機会にもなりました。
「訳者あとがき」が本文より面白い・・とは言い過ぎかもしれませんが、
インパクトという意味では、最高なのは間違いないでしょう。









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ナチ武装親衛隊 -ヒトラーの鉄血師団- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジョン・キーガン著の「ナチ武装親衛隊」を読破しました。

先日の「ゲシュタポ」と一緒に買った「第二次世界大戦ブックス」の武装SSモノです。
相変わらず、時代を感じさせる「副題」が良い感じですねぇ。
本書も「軍事顧問・総監修:リデル・ハート卿」。英国人の著者キーガンは
軍事史の専門家で英国士官学校の主席講師という人物です。

ナチ武装親衛隊.JPG

過去にも何冊か紹介しているSSや武装SSの興亡史と同様、
本書もまず、SSの創設の紹介からです。
1933年の「長いナイフの夜」において、SA幕僚長、レームを殺害し、
そのナチ党の巨大軍事組織だったSA(突撃隊)にSSが取って代わり、
経済復興で入隊者の激減したSAは、お呼びがかかっても、
お祭り行事に道路で群衆整理に当たるのがせいぜいとなった・・。

goebbels_speech.jpg

そして「ライプシュタンダルテ」や「ダス・ライヒ」といったエリート師団が創設されますが、
ヒムラーの発案によっていきなりフィールドグレーの軍服を着させられ、
厳しい訓練を受けさせられることになった「お年寄り」たちの2流師団である「警察師団」、
アイケの収容所看守「髑髏部隊」で構成された「トーテンコップ」が紹介されます。

Polizei_poster.jpg

この「トーテンコープ」ではフランス戦役で投降して来た英部隊を虐殺した
「ラパラディの捕虜大虐殺」を取り上げ、命令を下したクネヒライン(クノッホライン)について
彼の生い立ちなどから、武装SSの誰もがする行為ではなく、
クネヒラインのような異常者によっておこされる行為と解説しています。

ロシア戦線では、面白い解釈がありました。
それは武装SSが名声を持ち続けるうえで幸運だったのは
スターリングラード攻防戦に従事しなかった」ことというものです。
そして第6軍を壊滅し、勢いに乗って攻めてくるソ連軍をハリコフの逆襲で
打ち負かしたのが武装SS軍団だったことで、機動部隊としての存在を誇示することとなった・・。

German troops in Stalingrad.jpg

後半では、拡大していく武装SS師団・・その多くを占めることとなる「外国人義勇兵」部隊を
なかなか詳細に説明しています。
しかしなかには第24SS武装山岳猟兵師団が「ロック・クライミング」と書かれていますが、
コレは一体なんなんでしょうか?「カルスト・イェーガー」というのはたまに聞く師団名ですけどねぇ。

50名は超えたことの無いという「イギリス自由軍」やインド人義勇兵も紹介。
北方の義勇兵ではノルウェー、デンマーク、オランダ人よりも
フィンランド人が最も良く戦ったとして、その理由は「ソ・フィン戦争」による
モチベーションの高さといったことのようですね。

Nordmenn.jpg

バルト3国ではリトアニアがキリスト教が根付いていることから除外されるものの、
エストニア人とラトヴィア人の凶暴性に目を付けたヒムラーは
彼らを殺戮隊員として登用します。

バルカンにおける血で血を洗う戦いでも、チトー率いるセルヴィア人パルチザン部隊に対抗すべく、
クロアチア人やアルバニア人の回教徒で構成されたSS部隊が次々と創設されます。
ハントシャール」や「カマ」、「スカンデルベク」などもしっかり出てきますが、
結局は「失敗だった」と片付けられてしまいました。

SS Handschar.jpg

戦局の悪化に喘ぐ、1944年の西部戦線。
弱体化する国防軍に対して、「ホーエンシュタウフェン」や
フルンツベルク」も含めた武装SSのエリート師団は
陸軍将兵の尊敬と信頼をガッチリとものにし、ヒムラーと陸軍総司令部の間に
どれだけ不信感があったにしろ、戦線の兵士同士の関係はとても良かったとしています。

その一方で、この西部戦線で有名な虐殺事件も・・。
ダス・ライヒによる「オラドゥール村の大虐殺」や
「バルジの戦い」におけるヨッヘン・パイパーによるものとされる「マルメディの虐殺」についても
有名な写真(「バルジの戦い」でパイパーではないとされている、あの写真です)を掲載し、
そのキャプションでは「彼は米軍捕虜の大量虐殺を計画していた」と書かれ、
それはスコルツェニーの「グラフ作戦」と共に、米軍を恐怖に陥れるために命令されたもの・・
といった見解です。

peiper_hennesy.jpg

ノルマンディでの「ヒトラー・ユーゲント」が起こした、捕虜大量射殺事件も
おそらく”パンツァー”マイヤーの承認の上で行われたものとし、
その理由は、彼が長く戦った東部戦線では、こんな殺戮はごく普通だったというものです。

12-hitlerjugend.jpg

最後には、武装SSが偶然起こした、これらの事件とは別に、
その部隊の性格自体が犯罪性を持っていたとして、
「ディルレヴァンガー」と「カミンスキー」が紹介され、
1943年ワルシャワ・ゲットー蜂起で破壊の限りを尽くした、シュトロープSS少将
訓練中だった新隊員による2個大隊にも言及しています。

ここではシュトロープがこの「大作戦」の様子を大量の写真に収め、綺麗に製本して
ヒムラーに提出したという、初めて知った話が印象的でした。
「汚い、偉ぶったSSのブタめ!忌まわしい「大量虐殺作戦」に75ページもの報告書を
誇らしげに作るとはなんたることか!」とニュルンベルク裁判で証言した
国防軍最高司令部作戦部長ヨードル上級大将が絶叫したそうです。

SS Major General Jürgen Stroop.jpg

戦後、25年経ち発刊された1970年当時は、まだまだ、ナチ戦犯に対する裁判も続いていた時代で
本書では軍隊としての武装SSの犯罪に大きなスポットを当てていますが、それは国防軍も
「全てSSがやったこと」と言い逃れは出来ない・・。としています。

この「第二次世界大戦ブックス」を読むにあたっては、
やはり40年前のものという意識をしておくべきでしょう。
当時の通説と現在の見解では、多少なりとも違いがあることは否めません。
しかし、その変化を楽しめるくらいの度量があれば、今でも充分に楽しめるシリーズで、
まだまだ、10冊は読みたいものがあります。



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