SSブログ

赤軍記者グロースマン -独ソ戦取材ノート1941‐45- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アントニー・ビーヴァー著の「赤軍記者グロースマン」を読破しました。

過去に「スターリングラード」や「ベルリン陥落 1945」、そして「ベルリン終戦日記」と紹介している
自分の好きな英国の著者、アントニー・ビーヴァーの上下巻の大作、
「ノルマンディー上陸作戦1944」が夏に発売され、「お~、コレ読みたいなぁ・・」と思ったものの、
そういえばグロースマン読んでなかった・・ということに気づきました。
2007年発刊の本書は、ウクライナ生まれのユダヤ人作家グロースマンが、
独ソ戦勃発とともに従軍記者として最前線で見聞きし、それをメモしたノートを中心に、
彼が緒戦の「キエフ大包囲」から「スターリングラード」を経て、ベルリンに至るまでを
著者ビーヴァーの戦局の解説などを加えながら構成したものです。

赤軍記者グロースマン.jpg

1941年8月、35歳のグロースマンが赤軍の公式機関紙「クラースナヤ・ズヴェズダー」紙の
記者として最初に向かうは、空爆に晒されている白ロシアのゴーメリです。
ちなみに「ズヴェズダー」の意味は「星」ですね。これは現名古屋グランパスの監督
"ピクシー"ストイコヴィッチの心のクラブ、「レッドスター」がセルヴィア語で
「ツルヴェナ・ズヴェズダ」って言うんで知ってます。「クラースナヤ」は・・、わかりません。。

左腕を怪我した兵士・・。戦闘を回避するための「自傷行為」であり、
このような連中はNKVD特務部の手によって即決処刑です。
そして状況は悪化。ドイツ中央軍集団のグデーリアン率いる第2装甲集団が一路南下。
50万人と言われる大敗北「キエフ大包囲」の危機に、グロースマンはなんとか脱出に成功します。

PzIII's (37mm gun), E.Front 1941.jpg

翌月には生まれ故郷のウクライナへ。母親は戦火の中で行方知れず・・。
スターリンのクラーク撲滅と農業強制集団化政策で大飢饉の被害を受けてきたウクライナ人は
ドイツ軍を解放者として歓迎し、ウクライナ人補助警官が母親らも含むユダヤ人の一斉逮捕と
大量虐殺に手を貸したことを知ります。

オリョールへ戻った彼ですが、ここにも悪魔のようなグデーリアン戦車軍団が迫ります。
本書では特にグデーリアン自身が登場するわけではありませんが、
グロースマンの行く先々に現れるグデーリアンと、逃げるグロースマン・・という関係です。

Guderian20.jpg

年が明けるとグロースマンの配属先はハリコフ方面へ。
対戦相手は急死したライヒェナウの後任にパウルスが着任したばかりのドイツ第6軍です。
グロースマンは書き記します。
「厳しい寒さ。無傷のドイツ兵の死体。我が軍ではなく、酷寒に殺されたのだ。
兵士らが面白半分にそれらの凍死体を立たせたり、四つん這いにさせたり、
走るような恰好にしたりして、風変わりな幻想的な群像をつくる」
以前に紹介した ↓ の写真もそのような仕業なんでしょうかね。

Stalingard 1943.jpg

面白かったのはクルスクには世界最大級の異常磁域があるそうで、
これがカチューシャ・ロケットにいたずらをして、味方最前線に着弾した・・というものです。
そして「クラースナヤ・ズヴェズダー」紙に中編も連載し、
前線の将兵からも人気を博するようになったグロースマン。
夏に向かうのはスターリングラード・・。またしてもパウルスの第6軍が相手です。

General Paulus at Red Square in Stalingrad.jpg

8月23日と翌日に行われたドイツ第16装甲師団との激戦。
防衛する高射砲部隊はほとんどが地元の女子高生ですが、驚くべき奮戦を見せ、
掩蔽壕に入れとの命令も聞き入れずに、真正面からドイツ戦車と対決し、
37の砲座が戦車砲ですべて破壊されるまで、第16装甲師団の進撃を食い止めた・・ということです。
すげ~なぁ。。。これだけで映画になりそうですね。
あのルーデルも「急降下爆撃」で、女性のみで編成された高射砲部隊・・と触れてました。。

この中盤のスターリングラード戦はページ数も多く、本書の中心部分です。
確か、著者ビーヴァーの「スターリングラード」もこのグロースマンを参考文献にしてたような。。
また1951年に、このグロースマンのスターリングラードが翻訳されているようです。

ここでも「自傷行為」 ⇒ 「NKVD特務部の即決処刑」が紹介されますが、かなり特殊な例です。
処刑隊がアルコールのせいか銃殺しそこね、穴に埋められた死刑囚が自力で這い出し、
中隊に戻ってきた・・という話です。
この彼の運命は・・・、再度処刑・・。

Grossman,Vasily.jpg

そしてやっぱり登場のヴァシーリ・ザイツェフ。映画「スターリングラード」のジュート・ロウですね。
当時、狙撃手の手柄はサッカー選手なみに喧伝され、
各師団がそれぞれのスターを自慢していたそうで、その結果、
チュイコフ将軍をも巻き込んだ誇大宣伝競争となって、ザイツェフがドイツ兵225人を殺した・・
ということになったとしています。
素性不明のケーニッヒ少佐なる人物との因縁の決闘も、チュイコフが回想録で大げさに書きたて、
ザイツェフが書いた(とされる)回想録も、数日間に渡る決闘としてスリリングに描かれているとして、
著者ビーヴァーはザイツェフの戦果にかなり否定的です。
そのかわり、グロースマンが取材した8日間で40名を殺した狙撃手との話は
生々しくて興味深いものでした。

Wassili Grigorjewitsch Saizew.jpg

若い女性衛生兵の勇敢さは、全員の尊敬の的であったようで、第62軍の衛生中隊は
大多数がスターリングラードの高校生とその卒業生です。
そんな彼女たちにもグロースマンは取材します。
昼間には負傷兵は運ばないという娘は、仲間の衛生兵が頭を打ち抜かれたことを挙げ、
戦闘の1日目で2人死に、18名いた衛生兵もいまでは3人だけ・・という過酷な状況・・。
「砲火の元で水を飲ませ、食べさせ、包帯を巻き、いつの間にか兵隊より頑張るようになって
ハッパを掛けることも・・。だけど夜には震えるほど怖くなって、
あぁ、家に帰れたらいいのになぁ・・なんて思うの」

まさに、<生>戦争は女の顔をしていない・・・ですね。

Russian nurses.jpg

天王星作戦」のヘビー級のパンチをまともに食らったルーマニア兵は、銃を棄てて
アントネスクはもうお手上げ!」と叫びますが、投降しても、その場で銃殺・・。
ルーマニア兵を信用しないドイツ兵は対峙する赤軍兵に向かって
「おーい、ルーマニア兵とウズベク兵を交換しようぜ」と冗談で叫んでいたという話もありました。
包囲された第6軍には噂も流れます。「ヒトラーがピトムニク飛行場までやって来て、
『頑張れ。余が自ら軍を率いて救出しに行く』と語った。しかも彼は伍長の軍服を着ていた・・」

Antonescu hitler.jpg

1943年夏のクルスク大戦車戦も取材するグロースマン。
真正面からティーガー戦車を狙って45㎜砲を発射しても砲弾は跳ね返され、
正気を失ってティーガーの下に身を投じた照準手・・、
片足を負傷し、片手をもぎ取られた中尉の指揮で撃退したものの、
不自由な身体で生きることを望まない彼は、拳銃自殺を遂げた。。

kursk_1.jpg

グロースマンは遂にウクライナに戻ってきます。しかしそこにはユダヤ人の姿はありません。
そしてこのホロコーストの記事は当局には歓迎されず、
「特殊な犠牲者」を認めないスターリンによって、ホロコーストの犠牲者は「ソ連人民」と定義。。
これはソ連の反ユダヤ主義、ウクライナ人によるユダヤ人迫害の事実も具合が悪いわけです。

第65軍には荷車を牽く1頭のラクダ・・その名は「クズネーチク」と言い、
「戦傷者名誉賞」を3つ、「スターリングラード防衛戦功労賞」も授かってる有名なラクダです。
そして彼らはこのラクダと共に、一路、ベルリンを目指します。

Vasily Grossman.jpg

30ページにわたって書かれた「トレブリンカ」絶滅収容所の歴史と、その凄まじさは
以前に「トレブリンカ」を読んで知ってはいたものの、本書の書きっぷりは力強く、
読んでいて思わず「生唾ゴクリ・・」となるほどでした。
これは双方の関係者や目撃者からグロースマンが聞き取った話をまとめたようですが、
クルト・フランツ所長と、その部下たちの残虐性は衝撃的なほどです。
この「トレブリンカの地獄」という記事は、ニュルンベルク裁判でも引用されたそうで、
例えだけでも、ここでは書く気が起きませんね。

Kurt Franz administers punishment in Buchenwald.jpg

チュイコフ将軍の第8親衛軍に同行し、ドイツ国境を越えたグロースマンですが、
突如、兵士の暴虐ぶりを見せつけられます。
それはもちろん略奪とレイプ・・。開け放たれた窓から女性の悲鳴・・。
収容所から解放されたソ連女性も特派員の部屋に避難しますが、
同僚の特派員が欲望に負けて、この部屋でも悲鳴が・・。

grossman_interviewing_german_civilians_april_1945.jpg

ソ連が受けた損害を補てんするために部隊に随行する「貴金属類没収委員会」は、
先々で従順なドイツ人に金庫を開けさせますが、
一般兵士も、我も・・とばかりに鹵獲パンツァーファウストで金庫を一撃・・。
その結果は、金庫も中身もメチャクチャです。。

戦いが収まったばかりの1945年5月2日のベルリンの様子。
ライヒスタークで最期まで戦ったドイツ軍兵士たちは、ほとんどが手榴弾と
自動小銃を握りしめたまま、戦いながらの死・・。
道路の泥の中に靴を履いた女の子の両足。戦車に蹂躙されたのか、砲弾の直撃を喰らったのか。
子供を連れた兵士は泣き崩れ、若い美人妻はニコニコ笑って亭主を励ましている」

German-nurse-1945.jpg

500ページ越えの本書ですが、グロースマンが赤軍の宣伝マシーンのような人物ではなく、
冷静に事実を伝えようとしたこと・・、ですが、もちろんそんなことは不可能であり、
掲載された彼の記事も、編集部によって削られ、追加され・・といじくり回されてしまいます。
そのグロースマンの本音が伺えるのが、この「取材ノート」であって、ビーヴァーの解説や説明が
状況をわかりやすくしています。敵味方ではなく、人間の常識と良心を基準に
戦争を見つめるグロースマンの視点は好感が持てるものでした。

これで心置きなく「ノルマンディー上陸作戦1944」に突入できるかと思いきや、
今年2月に「スペイン内戦 -1936-1939-」も出てましたね・・。
これも「ゲルニカ」やら「コンドル軍団」といった話があるんだと思うと、無視できないんですよね。









nice!(1)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

幻影 -ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ユルゲン・トールヴァルト著の「幻影」を遂に読破しました。

本書の存在を初めて知ったのは、もうカレコレ5~6年前になるでしょうか?
この世界に足を踏み入れた頃、足繁く通っていた神保町の軍事専門の古書店の
「フジ出版社」コーナーにいつも置いてあって、これはなんだろうなぁ・・と
何度か手に取った記憶があります。
当時は「ウラソフ将軍」の名も知らず、純粋なドイツの軍人たちを勉強しようとしていたときですし、
本書も確か1800円位で売っていたような・・。
しかし、それから5年も時が流れると、「独破戦線」も勢いでスタートして、
「ウラソフ将軍」が登場する記事も7件。。オススメのコメントも頂いていたこともあって、
そろそろ読んでみようかな・・と思った時には、5000円以上のプレミア価格が付いてしまいました。
まぁ、今回は帯付きの割と綺麗なものを3000円で購入できましたので、
攻撃高度4000」以来のフジ出版オリジナルの本書を焦らずジックリと楽しみました。

幻影.jpg

序文は「本書の成立史」として、1973年に世に出た原著の歴史が20年以上前に遡り、
1950年のスパイ小説を地で行く展開に、まずは驚かされます。
「東方外国軍課」の長を務めて、当時の参謀総長グデーリアンにも絶大な信用を得、
戦後は米国情報機関(CIA)に協力して、新生ドイツのスパイ組織を築いていた
ラインハルト・ゲーレンから接触を受け、米国が興味を持ち始めた、最終的に100万人もの赤軍兵が
ドイツ側についていた・・という複雑極まる事実を資料してまとめるという依頼です。

ゲーレン機関から現存資料を提供され、生き残りの証人たちも可能な限り集められますが、
1年以上かかって書き上げられたものは、誰も満足するものではなく・・。
そして20年が過ぎ、大きく改革した内容の本書が完成するのでした。

Geheimdienstchef Reinhard Gehlen privat zeigt.jpg

1941年4月20日、ヒトラー総統お誕生日会の様子から始まる本書の最初の主役は
ナチ党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」の主幹、アルフレート・ローゼンベルクです。
古参でインテリ、ロシア通の国家指導者ではあるものの、ヒトラーからの信頼を筆頭に
党内でも立場を弱くしていた彼に、来るべき「バルバロッサ作戦」が始まった暁には
東方担当大臣として、占領地域を統括するという素晴らしい約束が総統からもたらされます。

Alfred_Rosenberg.jpg

対ソ戦が始まって早くも1ヶ月後にはリトアニアが占領地第1号として、陸軍総司令部から
ローゼンベルクの東方省に引き渡され、続いてルントシュテット率いる南方軍集団によって
ウクライナも・・。しかしローゼンベルクにとっての大きな問題は、
その地域を統治する「国家委員」の存在です。
特にウクライナの国家委員(ウクライナ総督)に選ばれたのは、彼をバカにし、
上司は総統のみを自認する荒くれ者で知られるエーリヒ・コッホ・・。
ウクライナが自立し、ドイツに協力的となることを望むローゼンベルクに対し、
コッホの政策は「鞭」のみでしかありません・・。

Rosenberg  Koch.jpg

そして1942年春の前線・・。
ヒトラーとSSは特別行動隊「アインザッツグルッペン」を編成し、共産党員、ユダヤ人、
パルチザン、またその「疑いのある者」を逮捕し、処刑。
その一方で、新たに「東方外国軍課」を任されたゲーレン中佐はその実情を語ります。
「今日すでに20万人のロシア人が伝令、警備兵、橇手、運搬係としてドイツ軍に参加し、
そのうち1万人はドイツ軍の軍服を身に着けている。この志願補助員「ヒヴィス」は
総司令部、OKH、OKWも知らんことになっているが、
この戦争はロシア人民の協力を得て、初めて勝てるのだ」。

German_Troops_with_HIWIS.jpg

続いて登場するのは参謀本部組織化第二班長の少佐、その名は
グラーフ・シュタウフェンベルクです。
「我々のなすべきことはただ一つ、誠実な援助を与え、ロシア人を蜂起させて
スターリン体制を除き、新ロシア国家をつくって、新しいドイツ=ロシア関係を築くことです」。
そして彼が知恵をめぐらし、最初の志願兵部隊の編制に成功。
それは東部戦線の後方でウロウロしているコサックから成る、騎兵1個旅団で、
司令官にはフォン・パンヴィッツ大佐が任命されます。

generals_shkuro_and_von_panviz.jpg

本書ではヒトラー暗殺計画・・的な展開にはなりませんが、このような有名人が突然出てくると、
次には中央軍集団の首席作戦参謀のフォン・トレスコウ大佐も登場・・。
前年の10月に当時の司令官、フォン・ボック元帥からロシア志願兵20万から成る、
「解放軍」の編成プランを立てる許可をもらっていたということですが、
モスクワ攻防戦、そしてフォン・ボック解任という状況がこのプランを埋めてしまいます。。

Henning von Tresckow.jpg

このようなドイツの対ロシア政策と前線での現実という各人の立場と様々な思惑が入り乱れるなか、
いよいよ、蒋介石の軍事顧問を務め、モスクワ前面の第20突撃軍司令官として功績をあげ、
ジューコフらと共に新聞にも名前がよく出る高名なソ連の将軍、
アンドレイ・ウラソフ中将が捕えられたとの連絡が・・。

a.a.Vlasov.jpg

ここから、すでにスターリン体制に対して不審を抱き、対独協力者となったウラソフを司令官とする
「ロシア解放軍(РОА)」を設立し、それをヒトラーに承認させるための一大プロジェクトが
非常に詳しく、またドラマチックに展開していきます。
「万人に憎まれるスターリン体制を打倒し、新政府を樹立して、
ドイツと名誉ある和平を結ばなくてはならぬ。それは諸君次第なのだ」と訴え、
捕虜として捕らわれている同胞の将軍らにも同調するよう説得します。
しかし、ドイツ側の約束・・ヒトラーによる解放軍と祖国の不可侵性の保証が得られません。

もちろんヒトラーは1943年のスターリングラード戦で敗北を喫しても、ロシア解放軍など
人種的にもまったく信用できず、プロパガンダに過ぎないとし、
ヒトラーの従卒元帥カイテルもコレに率先して同意を示します。

Russische Befreiungsarmee.jpg

いくらかは編成されて、祖国の解放のための戦いに思いを馳せ、
今やソ連軍の名将となったロコソフスキーでさえ、彼が赤軍大粛清で味わった屈辱を思い出せば
こちら側につくと確信するウラソフですが、東部戦線が劣勢になった1944年になると、
コサック部隊はユーゴスラヴィアのチトーのパルチザン戦へ投入され、
ロシア解放軍も東部から撤収し、西部戦線で来るべき英米との戦いに回されることに・・。
怒り、そして絶望と無力感に打ちひしがれるウラソフ・・。ドイツ人はロシア人を「傭兵」としか
考えていなかったことを思い知りますが、英米軍はスターリンの仲間であり、西部で戦うことは
スターリンに対して戦うことなのだ・・という理屈を押し付けられるのでした。

roa-vlasov-officers.jpg

このような状況に希望の星となるのは「劣等人種」政策をウリにしていたヒムラーSSです。
もはや人種に関係なく武装SS義勇兵部隊の量産を目指していた本部長のベルガーSS中将
ワルシャワでの傍若無人の鎮圧で悪名高いカミンスキーも出てくる展開。
ウラソフ嫌いのヒトラーからもなんとか承認を得て、ヒムラーもウラソフとの会談を了承しますが、
その日付は1944年7月21日・・。いたずらな運命は、
その前日にそれまでウラソフを助けていたシュタウフェンベルクの爆弾を爆発させてしまいます。

Vlasov.jpg

2ヶ月後、SSだけではなく、予備軍司令官ともなったヒムラーという超大物と
やっと会談することが出来たウラソフ。
それは6時間にも及び、この小説のように書かれた会談の様子は、本書の目玉のひとつですね。
西部戦線では「ドイツ武装SS師団写真史〈1〉」に出てきた第30SS武装擲弾兵師団 「ロシア第2」の
「未知のSS師団が判明した」の話も出てきました。

Heinrich Himmler und General Andrei Andreevich Vlassov.jpg

ようやく光の見えてきたウラソフとロシア解放軍を今度、妨害するのは
同じソ連の分離主義者です。ウクライナ人、ベラルーシ人、カフカス人にコサック・・。
彼らはロシア・・という名の付いた組織に入ることは拒否。
そしてこれらの連中の仲を取り持とうとするのはRSHA(国家保安本部)の
カルテンブルンナーオーレンドルフという2人です。

年も明け、第600歩兵師団と第650歩兵師団の2個師団が編成されたウラソフ軍。
しかし戦線は絶望的でヴァイクセル軍集団を任されて、無能ぶりを曝け出しているヒムラーでさえ、
彼らの状況を気にし、軍集団への合流を命令しますが、
ウラソフ第1師団(第600歩兵師団)長のブンヤチェンコは
ウラソフの命令ではない限りは・・といろいろと文句を付けてはこれを拒絶。

Генерал Власов и бойцы РОА.jpg

それでもなんとか進発したという知らせにロシア人労働者と捕虜も師団に合流すべく立ち上がり、
1万3000の師団は、進むにつれて1万8000に膨れ上がるものの、
戦いは避けつつ、放浪師団と化した様相です。
そして今度はシェルナーの軍集団への合流を求められ、「やる気があるのか」と窘められます。

最終的には米ソ連合軍の狭間で降伏したウラソフ軍。
運命の知れているソ連側ではなく、米軍に投降しようとするウラソフらも、コサックらも含めて
無慈悲にソ連側へ引き渡され、翌年には「裏切り者」として絞首刑に処せられます。

a.a.vlasov moskva 1946.jpg

巻末にはもちろん訳者、松谷健二氏の「あとがき」に加え22ページに及ぶ「人名解説索引」、
そしてビロ~ンと折り畳み式の「ウラソフ軍の動き」を記載した地図のおまけ付き・・。
実にフジ出版らしい、至れり尽くせりで手抜きのない内容です。
特に「人名解説索引」は初めて聞く名も多かったことから、気になった人物を探すうえで
大いに役立ちましたし、おそらく、今後もなにかの機会に参照する気がします。

シュタウフェンベルクが早い段階でロシア人部隊の編制に関わっていたというのも
初めて知った話でしたし、ウラソフの周りのドイツ人たちも同じ意見であったことから
ロシア解放軍としてソ連軍に立ち向かうことを夢見るウラソフを
単純に「夢想家」と呼ぶのは、難しく感じました。
極論で言えば、ロシア人やウクライナ人などで編成される部隊を認めなかったのは
ヒトラーとコッホだけという印象ですから・・。

vlasov_1946.jpg

古い本ですが、自分が知らなかったことがここまで多い本は久しぶりです。
まさに第2次世界大戦における裏面史の「傑作」と呼ぶに相応しい1冊でした。



nice!(0)  コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

ドキュメント 封鎖・飢餓・人間 -1941→1944年のレニングラード- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

A.アダーモビチ, D.グラーニン著の「封鎖・飢餓・人間」を読破しました。

独ソ戦における戦いのなかでも特異な戦役ともいえる「レニングラード包囲」。
ドイツ軍は当初、北方軍集団によって、この帝政ロシア時代の首都占領を目指しますが、
結局は、ヒトラーが街全体を包囲することで「飢死」させることを選択します。
有名な「キエフ包囲」や「スターリングラード包囲」の対象となったソ連軍やドイツ軍ではなく、
ここで包囲されたのはレニングラード市民です。しかもその期間は3年弱・・。
この詳細については以前、ソールズベリーの「攻防900日」という本を紹介していますが、
今回は当時の包囲下にあった市民へのインタビューや当時の日記などによって、
彼らの恐ろしい生活ぶり・・。そして、どのようにして生き延びることが出来たのかを検証しています。

ドキュメント 封鎖・飢餓・人間.jpg

最初にレニングラード包囲に付き物の特に有名な写真が出てくると、
この写真の親子へのインタビュー・・という凄い「掴み」から始まります。
1942年春に従軍記者が撮ったこの写真の母親は34歳、左で杖を突く女性は13歳の娘。
「ひどい栄養失調で、これはもう、足というより、皮に包まれた骨です。
まるでお婆ちゃんのように醜い姿になって…」と、当時を回想します。

leningrad_1.jpg

当時の医師たちへのインタビューでも、最初に死んだのは筋肉質で脂肪の少ない男性で、
女性も脂肪質がなくなると筋肉や血管が透けて見えるようになって、
老人のような姿になった・・と、証言しています。

このドイツ軍に包囲された1941年の冬は、食料事情は最悪で、
配給されるパンは一日わずか125gだけ・・。
125gというと、6枚切りの食パン、2枚・・という量です。
労働者や前線の兵士はほんの少し多く与えられましたが、それでもとても十分ではありません。
ちなみに本書ではドイツ軍はほとんど登場せず、せいぜい銃剣の先に「白パン」を刺してかざし、
降伏するように呼びかける程度です。。。

The Siege of Leningrad.jpg

犬も猫も食べてしまった市民は様々なものを食料として活用します。初めて聞いた話では、
昔の北極探検者の話を思い出し、「革バンド」に手をつけるというもの。。。
しかし昔の「なま革」とは違い、科学的に加工された革バンドは、煮ても煮ても煮溶けず・・。
なんとか食べてもなんてことのない、まったく味気ない代物だったということです。
これには思わず、チャップリンが「黄金狂時代」で靴を食べるシーンを思い出しました。

The Gold Rush chaplin.jpg

「からし」で美味しいパンケーキができるという噂が広まると、からしを手に入れようと
凄い行列が・・。しかし焼きあがったパンケーキを2枚も食べると、ツーンとくる激しい痛みが広がり、
大勢の人が腸をやられて死んでしまいます。

若い民兵も普段のように立ち話をしている途中に突然、座り込み、
「あぁ、なんだか体の調子が・・」と、喋り方がゆっくりに・・そして、そのまま・・。

Leningrad blockade, 1942.jpg

病院でも飢餓状態の人を入院させますが、200gのバターと食パン半個を
一度に食べてしまったその人はその晩に死んでしまいます。
当時の医師も、このような状態の人間に多量の食物を与えてはいけない・・ということを
知らなかったそうです。

冬になって凍りついたラドガ湖の「氷の道」は市民に食料と希望をもたらしはじめます。
そして、衰弱した市民の疎開も始まりますが、病んでやつれた人々には
この30㎞の「氷の道」はあまりにつらく、多くが脱出の途中で・・または脱出後に死んでいきます。
猛スピードで飛ばす車が隆起した氷で揺れると、衰弱した母親の腕の中から、
乳飲み子も飛んで行って・・。

Ladoga 1942.jpg

問題なのは飢餓だけではなく、厳しいロシアの寒さも大敵です。
ガソリンや油もなく、工場や施設向けの燃料用として、地元の防空隊の兵士によって
木造家屋は次々に取り壊されます。
実はこの兵士とは、18~19歳の飢えて衰弱した若い娘たちで、
鉄の棒で一日がかりで家を取り壊し、大ゾりで運ぶという力仕事です。
ここで出た「薪」の一部は、彼女たちに分配されますが、市民にとって、
この「薪」は大変重要なものでもあります。

市民は本を燃やして暖をとり、それが無くなれば、家具も燃やして寒さを凌ぎます。
市場にタンスを持って行っても誰も見向きもしないのに、その場でタンスを壊して
薪にすると、20ルーブルで買い手がつきます。
それでも多くの住居はドイツ軍の砲撃によって、窓も吹き飛んでいます。。

leningrad-faim2.jpg

飢えた子どもたちはパン泥棒やかっぱらいという手段にもでます。
配給のパンを店員から受け取った女性の手から、サっと奪い取ってムシャムシャ・・。
怒り狂った女性たちが逃げられないよう店のドアを閉め、その少年を殴り始めますが、
少年は必死でパンを呑み込み続けます・・。

工場で働いていた女性から「戦車に塗る油があるからいらっしゃいよ」という話では、
「それが実にすばらしいものなんですよ。みんな喜んで食べましたし・・」。
こうなってくると、なにが食べれて、なにが食べられないのか、もう、良くわかりません。。。

Leningrad_24.jpg

その工場では生産が始まったばかりのカチューシャ・ロケット砲の砲弾も作りますが、
ここで働くのは熟練工ではなく、男たちの代わりにやって来た女性たちです。
工場内でさえマイナス22℃という酷寒での難しい作業に泣き出すひとも・・。
また、別の工場では前線に出た親の代わりに12~13歳の少年、14歳の少女が
作業台に届くようベンチや箱に乗って作業をします。
家が爆破されることを恐れる少女は大事な「お人形」も連れてきて・・。

女性にはさらに過酷な仕事・・「死体集め」も待っています。
毎日、死体を集めては特別な車で墓地まで運搬。
とにかく冬の間にこの作業をしないことには、「疫病」が生きている人を脅かすことになるのです。

Leningrad_11.jpg

このように一生懸命に働き、義務を果たした市民だけではなく、「腹黒い人間」も紹介されます。
市場で買ったバターのかけらをその場で呑み込んだニーナは死にかけますが、
実はそれは表面にバターを塗った「石鹸」で・・。
さらに託児所の食糧を横領して、横流しした職員・・。子供たちは当然死んでいきます。

優しかった母親でさえ、飢えからおかしくなっていき、配給券を無くしてしまった子供を
追い出してしまうという話も出てきますが、
それでも親子の愛情はやっぱりあるもので、母親は、子供により多く食べてほしいと願うものです。
娘のワーリャは言います。「食べなきゃわたし、死ぬわ。でも私が食べてママが食べなきゃ、
ママが死ぬわ。でも私はママなしでは生きられないの」。

Leningrad_29.jpg

アパートでは自主的に各部屋を巡回する女性も。
ある部屋でベッドでこと切れた若い母親を見つけますが、1歳半の子供は生きています。
そして赤ん坊は母親の身体の上を這って、乳を吸っています・・。
このあたりは、ほとんどホラー映画のような雰囲気です。

最初の、最も苦しかった冬をなんとか生き残ったレニングラード市民。
1942年の春を迎え、パンも300gに増えて大喜びです。
植物園を訪れて、よろい草という名の雑草もお腹いっぱい食べたり・・。

Leningrad_02.jpg

全体的な印象としては、「攻防900日」の「戦争は女の顔をしていない」バージョン・・
といった感じでしょうか?
ただし、原著が書かれた当時はまだまだ「ソ連」の時代ですし、
著者の一人はレニングラードの前線でドイツ軍と対峙していた兵士だったということですから、
ソ連と市民たちをかなり「英雄視」している風でもあります。
そんなこともあってか、噂に聞く「食人鬼」などの話は、さすがに出てきません。

We will defend the city of Lenin!.jpg

それでも訳者あとがきに書かれている、1941年の11月に1万人、12月に5万人が餓死。
最悪だった1月と2月には、一日の餓死者が1万人を超える日もあったということですが、
当局も実態を掴みきれなかったようで、全体の死者数も100万人は下るまい・・ともされています。

ソ連時代という意味では1974年の「レニングラード攻防戦」がソ連映画の大作して有名ですが、
2009年に英/ロ合作の「レニングラード 900日の大包囲戦」というのもDVDで出てました。
主演はミラ・ソルヴィノにガブリエル・バーンです。
内容はイギリス人ジャーナリストのケイトは現地で激しい空襲に合い、孤立・・。
アメリカ人ジャーナリストの恋人フィリップとも離ればなれになり・・という感じのようですが、
ガブリエル・バーンは昔からファンなので、ちょっと気になります。

レニングラード 900日の大包囲戦.jpg

本書は上下巻ですが、1冊200ページちょっとなので、2日で読みきる程度のボリュームです。
これなら特に上下巻にする必要もなかったと思いますが、
1986年発刊という、やや古い本ですからね・・。









nice!(4)  コメント(11)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

赤軍大粛清 -20世紀最大の謀略- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ルドルフ・シュトレビンガー著の「赤軍大粛清」を読破しました。

この「独破戦線」でも何度か登場したキーワードである「赤軍大粛清」。
主に独ソ開戦前、トハチェフスキー元帥らがスターリンによって粛清されたという話で使いますが、
格好つけて書いていた割には、本書は読んだことがありませんでした・・・。
まぁ、それでもこの有名な話・・。独ソ戦記だけではなく、SS興亡史にも付き物と言える話ですから、
ある程度は知っているという、根拠のない自信も持ちつつも、
モスクワ攻防1941」で改めて興味を持ったことで、本書にチャレンジしてみました。

赤軍大粛清.jpg

序文では「なぜトハチェフスキー元帥が1937年6月11日に殺されねばならなかったのか?」
その噂・・スターリンに対する謀反を企んだ・・やナチス・ドイツの手先として、または共謀した・・、
そしてソ連邦の軍事独裁者「赤いナポレオン」になろうとしていたのか・・?
といった疑問を紹介し、続く各章でその他の疑惑なども検証していく展開です。

Budyonny_Tukhachevsky.jpg

この「赤軍大粛清」の裏の主役と一般的に解釈されているドイツのSD長官ハイドリヒ
1936年暮れにソ連の軍事クーデターの情報を入手します。
彼はSD東方課長、ヘルマン・ベーレンツSS中佐と共に、この情報を
ドイツの将来にとって有益に活用する方法を検討。
それは、ヒトラーにとってより危険なのは、血なまぐさいボルシェヴィキ独裁者、スターリンか、
ドイツの将軍たちとも手を結びそうな、赤い将軍連なのか・・。

RSHA Head Reinhard Heydrich.jpg

ヒトラーの決断は、その非情さと残忍さを密かに賞賛しているスターリンよりも
軍人に対する憎悪心が勝ります。

続いてはミハイル・トハチェフスキーの幼少時代からの生い立ちが語られ、
第1次大戦でのドイツ軍の捕虜時代、そこでフランス軍将校と非常に親しくなり、
そのなかには、若きシャルル・ド・ゴール大尉も含まれます。

やっと帰国を果たすも、内戦の真っ只中です。
ここで戦功を挙げるものの、ポーランド戦では敗北・・。
しかしその敗因には政治委員スターリンが関与していたことが、後の粛清に繋がっていきます。

Joseph Stalin_ 1918.jpg

1920年代のドイツは「国防軍とヒトラー」に書かれていたように、
ゼークトによってソ連と連携した軍事政策が取られ、1932年の軍事演習には
トハチェフスキーも4週間にも渡って訪独し、ヒンデンブルク大統領とも握手を交わします。
この時のドイツ側では最後の参謀総長クレープスが「トハチェフスキー付き」として同行。
またブロムベルク将軍のトハチェフスキー評も興味深いものです。

generalfeldmarschall werner von blomberg.jpg

しかし翌年のヒトラー政権誕生により、独ソの軍事協力関係も解消され、
ドイツの再軍備を懸念したトハチェフスキーは第1次大戦の盟友、英仏との協力を進めていきます。
それとは逆にスターリンはヒトラーへ接近し、友好関係を維持しようと画策します。

このようにして1936年のハイドリヒによる、偽造文書作戦が始まり、
シェレンベルクの回想録も紹介しながら
ベーレンツの他、ナウヨックスSS大尉なども登場してきます。

Alfred Helmuth Naujocks.jpg

1935年には5人のうちの元帥の一人となったトハチェフスキーが
クーデターを目論んでいるといった偽造書類は完成したものの、
コレをいかにして疑心暗鬼の権化であるスターリンのもとへ疑いのないように届けるのか・・、
ハイドリヒは頭を痛めます。
最終的には独ソ両大国の狭間で生き残りを模索し、ヨーロッパ中のスパイが暗躍する
チェコのベネシュ大統領のもとへ・・。
この中盤での部分にはかなりの調査とページを割いて、ベネシュ大統領の人格から
彼の外交政策などを詳細に分析しています。

Edvard Beneš.jpg

NKVDからトハチェフスキーに関する文書を受け取ったスターリン。
1937年5月、人民委員第一代理というポストを解任され、
ヴォルガ軍管区へ突然の転属命令を受け取ったトハチェフスキー。
そのヴォルガ軍管区とはわずか3個師団と2個戦車大隊という軍団長レベルの場所です。

Михаил Николаевич Тухачевский.jpg

そして遂に逮捕。トハチェフスキー以外にも共謀者として7名の戦友も逮捕され、
「拷問と死の家」として名高い、ルビャンカへ収容されます。
1937年6月11日、秘密軍法会議が開かれ、全員に死刑判決が・・。
「スターリンに言え! 奴こそは人民の敵、赤軍の敵だ!」トハチェフスキーは叫び、
ルビャンカの中庭で即刻、銃殺刑に処せられます。。

それからの大量殺戮・・。元帥5人のうち3人が、軍司令官15人のうち13人、
軍団長85人のうち62人、師団長195人のうち110人、大佐も3/4が粛清されます。
こうして書いていても、相変わらず信じられない数字です。
さらに軍人だけではなく、政治委員も最低2万名が殺され、
彼らの近親者にもそのスターリンの魔の手が及びます。
トハチェフスキーの妻や兄弟も処刑され、12歳の末娘は自ら首を吊っています。
このような苛烈な手段は、戦争末期にはヒトラーも採用した手口ですね。

5marshals_01.jpg

結局、序文での「なぜトハチェフスキー元帥が殺されねばならなかったのか?」は
この400ページの本書の最後の1行に結論が書かれています。
あくまで個人的な感想ですが、ソレは、かなり衝撃的なものでした。。。
でも、決して、大どんでん返しではありませんよ。あくまで読書家としての個人的な感想ですから・・。

著者のシュトレビンガーは武装SSの連隊長にいそうな名前ですが、
1931年生まれのチェコ人で、1968年に西ドイツへ亡命した現代史研究家です。
プラハにおける一大事件「ハイドリヒ暗殺」を調査中に、
この赤軍大粛清とチェコの大きな関与に気付いたということで、
もちろん「プラハの暗殺」という本も書いているようです。これも読みたいですねぇ。



nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

モスクワ攻防1941 -戦時下の都市と住民- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロドリク ・ブレースウェート著の「モスクワ攻防1941」を読破しました。

ソ連の駐在大使も務めた経歴、そして「sir」の称号を持った英国人の著者による
2008年発刊の530ページというボリュームたっぷりな1冊です。
主に1941年6月に始まったドイツ軍によるソ連侵攻「バルバロッサ作戦」にうろたえるスターリンから
危機迫るモスクワの一般市民に至るまでが、必死の防戦によって
モスクワ前面で押し留める様子が最新の資料を基に丁寧に描かれたものです。
明けましておめでとうございます・・という、今年一発目の「独破戦線」ですが、
果たして、この本で良いんだろうか・・。

モスクワ攻防1941.png

まずはこの「モスクワ攻防戦」が双方合わせて史上最大の兵員数、700万人を超える会戦であり、
1942年のスターリングラード戦が400万人、クルスク戦が200万人だっとという話に驚きました。
そして1999年の人気投票でもNo.1の座を勝ち取ったソ連の誇るジューコフ元帥・・・、
ではなく、No.2の人気将軍ロコソフスキーが主役級の扱いで、
彼の回想録を参考にして、1930年代「赤軍大粛清」の波に呑み込まれ、
ロコソフスキー自身も酷い拷問を味わい、家族までも・・という最悪の状況を耐えた結果、
戦争勃発の危機に釈放、そして巡ってきた軍司令官の立場・・・。

Konstantin Rokossovsky4.jpg

「人当たりがよく、エレガントで、度量が大きく、博識で、第1級の分析能力を備えた軍人」と
評価されるロコソフスキーに対して、「過度の野心、戦略思考の貧困、
人的損害を考慮しない強引な作戦指導」をいまでは批判されているジューコフ。。
ロコソフスキーは、このジューコフについても回想録でコメントしています。
いや~、これは読みたい!!ですね。

Жуков и Рокоссовский.jpg

開戦が刻一刻と迫る中、東京のゾルゲやドイツ空軍司令部内に潜む、
コードネーム「スタルシナー」といったスパイたちによって
ドイツ軍の侵攻準備が完了したことがスターリンに伝えられますが、彼は一向に信用しません。
しかし、その情報通り6月22日に「バルバロッサ作戦」が発動され、各戦線は崩壊・・。

Richard Sorge.jpg

敵であるドイツ軍については「悪役」ではないものの、それほど登場してきません。
モスクワを目指す中央軍集団司令官のフォン・ボックと、その中心となる
装甲集団を率いるグデーリアンの快進撃が中心となって、戦局の推移が語られます。

モスクワでは大学生5万人やボリショイ劇場の団員たちが防衛陣地の構築に駆り出され、
志願兵の中には多くの女性も含まれます。

Barricades in the central part of Moscow, 1941.jpg

戦時中、全部で80万人が赤軍で勤務したという、これらの女性たち・・、
「夜の魔女」の司令官ラスコヴァやリリー・リトヴァクといった女性パイロットの話も出てきますが、
個人的には女性狙撃兵、309人のドイツ人を殺したというパヴリチェンコ
特にマーシャ・ポリヴァノヴァとナターシャ・コフショーヴァの2人が印象的でした。
有名な狙撃手となったこの2人は、1942年にドイツ軍に包囲され、弾薬も尽きたとき、
捕虜になるよりは・・と手榴弾で自爆する道を選び、伝説の人物となったそうです。

Natalia Kovshova - Woman Russian sniper - 167 kills.jpg

パニックを起こした赤軍の前線指揮官たちは、スターリンの鉄の命令とNKVDによって
簡単に処刑されてしまいます。
懲罰部隊についても書かれており、700人を擁する部隊が総攻撃によって
数十人しか残らなかったということで、よく、独ソ戦記に出てくる、あの
「ウラー!」の声と共に正面突撃を何派もかけてくる歩兵部隊は懲罰部隊なのかも知れませんね。
なんせ懲罰部隊員総数は40万人を超えたそうですから・・。

soviet army.jpg

モスクワ上空での攻防・・、それが前年のロンドン爆撃とほぼ同じ規模だったという話は、
なかなか勉強になりました。
整備の良くない占領地の飛行場から飛び立ったドイツ軍爆撃機ですが、
モスクワまでの距離の遠さから護衛の戦闘機が付けられず、
逆に整備の整った近隣の飛行場から迎撃に出る赤色空軍と高射砲部隊の活躍により、
大した成果は挙げられなかったようです。
しかし、ここでの独ソ双方の損害には大きな乖離があり、ドイツの主張するモスクワ空襲の回数は
ソ連側の主張だと倍にもなり、ドイツ軍機の撃墜数は1400機という凄まじいもので、
著者も「攻撃側の損失がこんなに多いことはありえないし、とうてい信用できない」。

Moscow_1941.jpg

10月になってもモスクワではチェスの大会やディナモ・モスクワvsスパルタク・モスクワという
サッカーのダービー・マッチが行われていたりする一方、
スターリンはドイツ軍の進撃を止めることの出来なかったコーネフの銃殺を考えます。
しかし、ジューコフに説得されて彼の副官にという人事に疑わしげに納得・・。
大工場はあらかた疎開したものの、残る中小の工場は兵器生産に切り替えられ、
モスクワの専業主婦40万人が「モロトフ・カクテル」を含むあらゆる兵器の製造と修理に勤しみます。

この攻防戦の最中ジューコフの主治医となった女性軍医がそのままジューコフの愛人となり、
戦後までその関係が続いた・・など、これらは「陣中妻」と呼ぶそうです。
このようなことは「戦争は女の顔をしていない」で書かれていた
「男たちの中でナニをやってたんだか・・」と戦後、
後ろ指を指されたという女性の話を思い出しました。

Russian Girl snipers.jpg

実際のところは、隊長や司令官の「妾」となった女性もいたのでしょうし、
単に戦士として戦い続けた女性もいたんだと思います。
ちなみにロコソフスキーもシベリアに疎開している妻子を心配する傍ら、
司令部の女性に子供まで生ませてしまうものの、
戦後はさっさと愛する妻子のもとへ帰っていきます。。。

11月7日の革命記念日。
スターリンは恒例のパレードを赤の広場で行うことを突如宣言し、将軍たちを慌てさせます。
士官候補生を含む総計2万8000名をなんとかかき集め、
前線からT-34やKV重戦車も引き抜いて無事パレードも成功。。。

Parade in Moscow in 1941.jpg

モスクワまでわずか24キロにドイツ軍が迫ると、幾度の危機を乗り越えてきたロコソフスキーに
「これ以上後退したら銃殺するぞ」とジューコフが脅します。
「この司令部の周辺に飛んでくる砲弾でいつ死んでもおかしくないときに、そんな脅しは無意味だ」と
ロコソフスキーは辛辣に切り替えし、結果、補充部隊として、あのウラソフ将軍が投入されます。

正規軍以外にもNKVDによって破壊工作員とパルチザンの養成学校が開設され、
そのなかの18歳の少女、ゾーヤ・コスモジェミャーンスカヤは5日間の訓練を受けたのち、
ドイツ軍の占領地域に潜入し、複数の目標の放火に成功します。
しかし、逃走中に発見され、惨たらしい尋問の末、「放火犯」と書かれたプラカードを
首からかけられた挙句、100名ものドイツ兵が見守るなかで絞首刑に・・。
その遺体は見せしめのため、6週間もぶら下げられたまま放置され、
1月、撤退するドイツ軍によって、やっと埋葬されたそうです。。。

Зоя Космодемьянская перед казнью. 29 ноября 1941 г.jpg

そしてモスクワは持ちこたえたものの、3月にはウラソフ将軍がドイツ軍に包囲され、
片っ端から兵士たちが殺されていくなか、原野をあてもなくさまよい、
スターリンに完全に愛想を尽かしたウラソフ自身もようやく、7月にドイツ軍に捕えられ、
その後「ロシア解放軍」を組織することになります。

Gen. Andrei Vlasov reviews his troops.jpg

最後には再び、ジューコフとロコソフスキーの戦後までがダイジェスト的に語られ、
レニングラードやスターリングラード、セヴァストポリがすぐ「英雄都市」となったのに対して、
モスクワは1965年まで待たされ、記念館が開設されたのも1995年になってから・・という
この攻防戦を長年、軽視してきた理由、
それはスターリンにとって初戦の壊滅的敗北や誤算と屈辱を連想させ、
そしてジューコフの名に結びついている、といったことのようです。

また、この独ソ戦の人的損害についても検証していて、500万人が・・という数字よりも
英米兵1人に対して、日本軍の戦死者は7人、ドイツ軍が20人、
ソ連軍は85人・・というのは、今までで一番に記憶に残りそうな数字です。



nice!(0)  コメント(5)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。