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ゾルゲ 引裂かれたスパイ〈下〉 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロバート・ワイマント著の「ゾルゲ 引裂かれたスパイ<下>」を読破しました。

いよいよ差し迫ったドイツ軍によるソ連への大攻勢「バルバロッサ作戦」。
1941年6月20日、数年来の友人である駐日ドイツ大使オイゲン・オットから
「ドイツ史上最大規模の軍隊が集結している」と改めて聞かされるゾルゲですが、
すでに何度もモスクワに同様の情報を送っているものの、
その信憑性を疑問視する電報が彼の元に届くのでした。

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ゾルゲをも調査するドイツ大使館のゲシュタポ、マイジンガーは定期的にシェレンベルク
ゲシュタポ長官のミュラーに報告を行っていますが、彼の部屋に合鍵を使って忍び込み、
自分の報告書の評価が甘いことを確認してホッとするゾルゲの方が一枚上手。。。
そして遂に独ソ戦の火ぶたが切って落とされたというニュースが飛び込んできます。
帝国ホテルのバーで酔っ払い「あの犯罪者め!」と英語で喚き続けるゾルゲ。
「やつはスターリンと友好条約を結んでいながら背中から刺したんだ。
だが、あの野郎にスターリンは思い知らせてやるさ」。

ソ連大使のスメターニンも松岡外相の私邸に駆け込んで来ます。
「ドイツは不可侵条約を結んでいるのに、宣戦布告もなしに攻め込んでくるとは
こんな無茶な話はありません!」
ひとしきり喚いてから本題、「貴国とは中立条約を凍結しています。
政府の要請に基づいて、この条約の有効期間中は、これを忠実に守るように・・」。
このソ連政府の事実上の嘆願に対して、松岡は答えます。
「我が国も極めて苦しい立場に立っています。三国同盟は外交政策の柱であり、
ソ連との中立条約がドイツとの同盟に抵触する場合は、同盟を優先させねばなりません」。

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去年はシンガポールを・・と言っていたドイツ外相リッベントロップは、今度は、
「一刻も早く、ウラジオストックを占領して、冬になる前に西に進撃して、ドイツ軍と合流せよ」
と突っついてきます。
しかし、日本の基本方針は「独ソ戦に介入せず」というもの。
それでも関東軍の若手将校たちはロシア人と戦いたがっているとの情報も踏まえて、
ゾルゲは「日本が戦闘態勢を整える1ヶ月半の間に独ソ戦の成り行きを見て、
赤軍が敗れたら参戦するのは間違いないが、敗れなければ中立維持」と結論付けるのでした。

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5年間の週の半分を一緒に過ごした花子とは「一緒にいるのは危険だから・・」と別れたゾルゲ。
大使の妻、ヘルマと不倫関係も解消しますが、彼女の方はいまだにゾルゲにぞっこん。。
音楽家のエマが、日本での新しい恋人となりますが、ヘルマとの三角関係に発展します。
著者は花子を始め、エマなど執筆当時に健在だった女性にインタビューをしたそうで、
ヴィトゲンシュタインが最初に買おうと思ったのは、この花子の書いた「人間ゾルゲ」でしたね。
表紙が怖いのでやめました。。

人間ゾルゲ.JPG

オット大使らは東条英機陸相や杉山元参謀総長、松岡外相をなんとかして説き伏せようと
躍起になりますが、陸軍武官のクレッチマー大佐という人物が登場。
「オットとクレッチマーがベルリンへ電報を・・・」などと書かれると、
Uボート・ファンとしては、一瞬、「???!!」となります。。

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ココからは独ソ戦の行方と日本の参戦問題が中心となっていきますが、
ドイツがモスクワを占領して勝つと言っているなら、参戦しなくても良いだろう。
戦利品の分け前だけ貰えれば良いし、仮に参戦しても冬までにシベリアを占領できるかもわからず、
占領したところで原料資源の獲得という緊急問題の解決にならない・・という
日本にとって、もっともな理由も理解出来ました。

戦時中の日本が描かれた本をほとんど読んだことがありませんが、
あの300勝投手「スタルヒン」の時と同様に、東京が舞台だと、なかなか知っていたり、
聞いたことのある場所などが出てくることで、70年も前の話とはいえ、とても身近に感じますね。
本書でも度々、ゾルゲが食事に訪れる銀座のローマイヤなどは、
場所こそ変わっているものの今でもありますので、今度、行ってみようと思いました。

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やがてゾルゲの諜報網に綻びが・・。
日本人の末端防諜員である55歳の北林トモが冷たい目をした特高に逮捕されると、
芋づる式に次々に関係者が逮捕されていきます。
実は尾崎秀実以外にも共産主義者の日本人が関係しており、その他、
写真担当のヴーケリッチや、無線担当のクラウゼン、そして彼らの妻など、
本書ではチーム・ゾルゲとも言えるような、多くのスパイも登場しています。

こうして昭和16年(1941年)10月18日、特高刑事たちによってゾルゲもとうとう逮捕。。
巣鴨の東京拘置所、別名、巣鴨プリズンに召還されたゾルゲ。
外務省から知らせを受けたオット大使も驚きますが、半狂乱になってなんとかしたらどうかと
きつい口調で喚き続けるのは、ゾルゲを愛する大使夫人のヘルマです。

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取り調べの際、不意に泣き出して机に突っ伏したかと思うと、今度は立ち上がって
「負けた、初めて負けた!」と叫ぶゾルゲ。
精根尽き果てた痛ましい一人の人間。
本書ではゾルゲがこれほど早く「陥落」したのは、拷問もあったのでは?
と推測していますが、ハッキリはしないようです。
面会に来たオット大使と対面するゾルゲは彼を欺いていたことに苦しみ、体を震わせます。
そして長年の友人をスパイだと認めることを拒否してきたオットもショックを受け、
最後まで立ち直ることが出来なかったということです。

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共産主義政党の国際組織であるコミンテルン配下のスパイとして裁こうとする警察側。
これは赤軍配下となった場合、軍事防諜活動として軍事警察(憲兵)に渡すことを嫌がる
司法当局内の派閥争いでもあるわけです。
そのような問題を知らなったゾルゲは半分騙されて「コミンテルン」と認めてしまうと、
日本の諜報員との交換で自分を釈放してくれると考えていたモスクワは、
「ゾルゲなる人物に、当方は心当たりがありません」。
ソ連はコミンテルンは自国の統制外にある国際共産主義組織であるという態度を取っていたのです。
さらにゾルゲの愛するカーチャは、ドイツのスパイという容疑で逮捕され、5年の流刑の判決。
1943年にシベリアの収容所で死亡。。

「巣鴨プリズン」では逮捕時に数千ドルを持っていたゾルゲが一番の大金持ちです。
警官たちの10倍もする、1個5円の豪勢な弁当を取り寄せ、いつ終わるやもしれぬ尋問に挑む毎日。
スターリングラードでドイツ軍が敗れたと聞いて、大はしゃぎ。
しかし、そんな彼にも遂に「死刑判決」が・・。
昭和19年(1944年)11月7日、尾崎秀実に続いて、ゾルゲも絞首刑に処せられるのでした。

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この「巣鴨プリズン」っていうのは、子供の頃から聞き覚えがありますが、
どこら辺にあったのかと調べてみたら、今の地名は巣鴨じゃなくて東池袋なんですね。
そして跡地には「サンシャイン60」が・・。は~、初めて知りました。
18歳の時の初日の出はココで拝みましたが、知っていたらもうちょっと感慨深かった
とも思いますが、一緒に行った女の子に「ココでゾルゲは死刑になったんだぜ・・」
なんて言っちゃって、今でいう「ドン引き」されたであろうことも間違いないでしょう。。

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戦後、石井花子によって改めて葬られたゾルゲ。場所は多磨霊園です。
実は「ヴィトゲンシュタイン家先祖代々の墓」もココ、多磨霊園にあるんです。
自分が死んだ暁にはゾルゲも傍にいるんだと思うと、不思議な気持ちになりました。。

1964年になってソ連で名誉回復されたゾルゲの切手も有名ですが、
東ドイツではコインも作られたりしています。
良い男・・というか、可愛らしいゾルゲですね。。
知らない子供が見たら、偉大な作家や音楽家、あるいは科学者だと思うでしょう。

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本書はタイトルのように、心引き裂かれていく人間ゾルゲを追及したものですが、
著者が特定のイメージを作り上げようとしているとは思いませんでした。
今まで、「酒飲みの女たらし」としか思っていなかったゾルゲと、
常に逮捕の危険と背中合わせのスパイ家業の辛さも感じましたし、
ヒトラーのドイツ、スターリンのソ連のどちらにも帰ることの出来ない苦悩も
良く伝わってくるものでした。
「人間ゾルゲ」や「ゾルゲ事件 獄中手記」も読んでみたくなりました。
映画の「スパイ・ゾルゲ」はちょっとなぁ。。











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ゾルゲ 引裂かれたスパイ〈上〉 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロバート・ワイマント著の「ゾルゲ 引裂かれたスパイ<上>」を読破しました。

日本で第2次大戦における最大のスパイは・・?というと、やっぱりゾルゲでしょうか。
この「独破戦線」でも何度か「ゾルゲ・・」って書いたなぁと思って検索してみると、
焦土作戦」から「ヒトラーとスターリン -死の抱擁の瞬間-」まで、計6冊に書いていました。
半年ほど前から何か「ゾルゲ本」をと思っていましたが、この「ゾルゲ本」というのは、
また沢山出ていて、何を読んだら良いのやら・・。
2003年には「スパイ・ゾルゲ」という映画も公開されましたが、
てっきりモックンがゾルゲ役やるもんだと思ってて、なんじゃそりゃ・・と観に行っていません。。
本書はその公開に合わせて文庫で再刊されたモノで、もともとは1996年に発刊されています。
一応、ゾルゲの生涯を扱ったなかでの最新本とのことで選んでみました。

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思えば「ゾルゲ」という名は「ゲシュタポ」と同じくらい、子供の頃から知っていたような気もしますが、
当時は「日本のスパイなのに猿みたいな顔をして全然、日本人っぽくないじゃん」
というのがゾルゲに対する印象でした。
これはたぶん「007は二度死ぬ」でもショーン・コネリーが無理やり日本人に化けたりして、
「日本のスパイ=日本人に変装してる」っていう先入観があったんでしょう。
まだ英国と米国の区別もつかず、ましてやドイツやソ連のスパイなんて
意味わかんない子供ですから放置してしまうのもしょうがありません。。

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本書はゾルゲの生い立ちから始まります。
1895年、南カフカスのアゼルバイジャンはバクーの生まれ。
9人兄弟の末っ子で、父は石油採掘技師のドイツ人、母はロシア人です。
ゾルゲが2歳の時には一家はベルリンへと戻り、穏やかな少年時代を過ごしますが、
それも第1次大戦が勃発するまで。
3年前に父は他界し、18歳となっていたゾルゲは学校から解放されて自ら志願して入隊。
フランドルの泥まみれの塹壕。ベルギー軍の銃弾を受けて負傷し、
回復すると今度は東部戦線で2回、足を負傷します。
そしてケーニヒスベルクの病院で社会主義者の「教養ある知的な若い看護婦」から
レーニンや革命運動の実情を学ぶことになるのでした。

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片足が2センチほど短くなってしまったゾルゲはベルリン大学で学問に精を出し、
政治意識も研ぎ澄まされていきます。
敗北したドイツの経済は麻痺し、資本主義は崩壊・・。
1917年のボルシェヴィキ革命の勃発は世界を震撼させ、22歳の彼にも大きな影響を与えます。
そうなったら取るべき道は唯一つ、「ドイツ共産党」への入党です。
モスクワ行きを決意して、1924年には国境を越えてロシアに潜入。
モスクワのコミンテルン本部で任務を与えられ、各国の共産党を支援する旅に・・。

1929年には「労農赤軍本部第4局」の創始者で部長であったヤン・ベルジンの目に留まり、
引き抜かれますが、この第4局というのは、その後のGRU(赤軍参謀本部情報局)のことです。
当時のソ連の関心事は内戦の渦中である中国。南京政府軍と共産軍の優劣について
定期的に報告するために、ドイツ人のパスポートを取得して、上海へと乗り込むのでした。

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しかしそこで満州事変、上海事変と日本と中国の対立が始まると、
ゾルゲは日本研究に着手します。
大阪朝日新聞の名の知れた特派員である尾崎秀実とも知り合い、
政府高官や実業界に広い人脈を持つ日本人が貴重な情報提供者になりますが、
この尾崎が映画「スパイ・ゾルゲ」でモックンが演じた人なんですねぇ。

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1933年、見事に中国での任務を終えてモスクワに帰還したゾルゲ。
恋人との再会も束の間、ロシアの国境地帯で圧力をかけている
日本の真の狙いを探るため、東京行きが決定。
日本は伝統的にロシアを敵国と見なし、共産主義を悪質な毒ガスと考えている国・・。
一方、ロシア人は旅順で惨敗し、バルチック艦隊が撃滅されるという、
アジアの成り上がり者から受けた屈辱を忘れてはいません。

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う~む。。映画「二百三高地」は大好きなんですねぇ。仲代達矢が良かった・・。
DVDも持っていますが、TVでやると必ず見てしまう邦画は、コレと「八甲田山」です。
どっちが好きかって聞かれれば「八甲田山」かなぁ。。
抑え目の健さん(徳島大尉)も良いですが、北大路欣也(神田大尉)が素晴らしいし、
「神田大尉!」と呼びつける三國連太郎も最高に嫌なジジィで死んでしまえと思いますし、
案内人の秋吉久美子もほっぺが赤くて信じられないくらいに可愛い・・。
おしっこ出来なくて、突然、「うお~!」と走り出しては、バッタリ倒れて死ぬ??兵士は、
そこらへんのホラー映画より、衝撃的なシーンでした。
こういうのを思い出すと映画のBlogでもやろうかという気になりますね。

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ヒトラーが政権を握ったばかりの1933年5月に祖国へと帰還し、パスポートを再び入手。
日本人崇拝者であり、ヒトラーの代理人ルドルフ・ヘスの友人でもある地政学の権威、
ハウスホーファー教授を訪問して、駐日ドイツ大使への紹介状もモノにします。
こうして準備万端いよいよ、東京へ。
ドイツ人ジャーナリストとして、紹介状をもって大使館にも頻繁に顔を出し、
彼の熱心な日本研究は徐々に大使館内でも評価を得るのでした。

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中でも大使館付き陸軍武官のオイゲン・オット大佐とは家族ぐるみの付き合いが始まり、
オットが入手した日本軍の情報を専門家の友人ゾルゲが分析し、オットはその評価を国に報告、
もちろんゾルゲもスパイとしてオットから得られる情報は大変貴重です。
しかし、ゾルゲはその友人の妻、ヘルマと不倫関係になってしまうのでした。
さらに西銀座のドイツ・バー、ラインゴールドで25歳のウエイトレス、花子とも出会い、
彼女のために家も借りる惚れ込みよう。

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モスクワの部長だったヤン・ベルジンが解任され、後任のウリツキー大将に活動を非難されて
スターリンとロシアに幻滅感を抱き始めた彼は、女とアルコールにも溺れていきます。
そして翌年にはウリツキーが逮捕され、銃殺刑。海外の諜報員たちも呼び戻されては姿を消します。
もちろんこれは「大粛清」が始まったことによるものですが、
ゾルゲの評価も急転直下、彼の情報は極めて不十分であり、大量の金を浪費している・・。
身の危険を感じ取ったゾルゲは今、日本を離れることは出来ないと、
帰還命令に逆らい続けるのでした。

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友人のオットは大使へと昇進を果たし、さらにドイツ大使館との結びつきは強くなります。
そんな時、酔ってオートバイ事故を起こしたゾルゲは顔面を強打し、血まみれで倒れます。
聖路加病院で受けた整形手術の結果、額の皺は以前より深まり、
唇も薄くなって上下がほとんど入れ歯・・と容貌も変わってしまいます。
頭蓋骨骨折の影響もあってか、脳震盪も頻発し、神経障害の症状を見せることも。。

1938年6月、NKVD極東方面軍司令官のリュシコフ将軍が満州に越境して
日本軍に保護を求める亡命事件が発生。
日本は敵国の情報が勝手に転がり込んできたと大喜び。
そしてドイツからもアプヴェーアのカナリス提督の指示によって、
直接事情聴取を行うために防諜員が派遣されます。

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慌てたロシア側は、ゾルゲに尋問結果を入手するように指示。
ゾルゲを信頼する陸軍武官補のショル少佐は、喜んで知っていることを伝え、
保存された報告書の写しもマイクロフィルムでモスクワへ。
また、この情報によって日本軍の評価や日本軍の攻撃拠点を知って、ノモンハンにおいて
圧倒的に優位に立ったという「ゾルゲの8年間の活動の中でも、最大の功績」としています。
この事件は初めて知りましたが、NKVDの司令官が亡命するとは、
如何に大粛清が猛威をふるっていたかがわかるようです。

日独伊三国同盟が締結されて、独ソ不可侵条約、日ソ中立条約と、
本来なら戦争は起こりません。
しかし、この時期、日本、ソ連、ドイツはお互いの本心の探り合いが続きます。
スターリンはドイツが攻めてくるとは思っていませんが、
日本は南に攻めるのか、北に攻めるのか・・?
対英戦真っ最中のドイツ外相リッベントロップは、
シンガポール攻撃について執拗に圧力をかけてきます。

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いや~、ここまでゾルゲの生い立ちから、彼が如何にして日本にやって来て、
スパイとしての足場を固めることになったか・・や、当時の日本の政策なども含めて
ほとんど知らないことばかりで、実に楽しいですね。

しかしここで、「ワルシャワの殺し屋」と評判のゲシュタポのマイジンガーSS大佐が来日。
軍法会議にかけられて処刑されるところをハイドリヒの取り成しによって、
波紋が収まるまで東京の大使館の警察勤務・・という措置によるものです。
SDの外国部長シェレンベルクが当時、ゾルゲに疑惑を抱いていたという話も出てきましたし、
ナチス東京支部の最高幹部がヒトラー・ユーゲントの地区指導者の
ラインホルト・シュルツェであるなど、独破戦線の顔なじみも登場してきます。

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1941年の春になるとゾルゲの精神状態も悪化。
ロシアに残してきた恋人カーチャを想い、
そのロシアでは差し迫ったドイツ軍の侵攻警告を無視され、
祖国であるドイツはいまや巨大な強制収容所と化し、日本は離れ小島。
スパイに対する監視の目も日に日に厳しくなっています。
一体、この先、どうしたら良いのか・・?















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バービイ・ヤール [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

クズネツォーフ著の「バービイ・ヤール」を読破しました。

バービイ・ヤールといえばホロコーストもの、特にアイザッツグルッペンものでは
良く登場するキーワードで、ウクライナ・キエフにある峡谷の名前です。
バルバロッサ作戦開始後の1941年9月29日から30日の2日間に
連行されたユダヤ人3万人以上がこの谷で銃殺され、
この「大虐殺」以降も2年間に渡ってバービイ・ヤールでは殺害が続いたということですが、
キエフ生まれのウクライナ人著書による、1967年発刊で324ページ本書を
5年も前に買っていたのは、「ドキュメント小説」とも呼ばれるその内容が
とても高い評価を得ていると聞いていたからです。
コレでもホロコースト物は苦手なので、長い間眠らせていましたが、
最近、ソ連ものに興味出てきている勢いで挑戦してみました。

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「1941年9月21日、わが軍はキエフを放棄した」というソ連邦情報局の公報とともに
撤退する味方と、やって来たドイツ軍の姿を目撃する12歳の著者。
ゴツゴツした格好の自動車が止まると、奇術師のように身軽なドイツ兵たちが
たちまち大砲を連結したかと思うと全速力で走り去ります。
そんな様子を一緒に見ていた祖父は言います。
「なーるほど・・。ソヴィエト政権もおしまいだな・・」。

続いてポケット会話読本を持ったドイツ兵たちが登場し、
ページをめくっては、歩道を歩く娘に叫びかけます。
「オチョウサン、ムシメサン!ボルショヴィク おしまいね。ウクラーイナ!
おさんぽしましょう。ビッテ!」
そして老人たちは「パンと塩」をお盆に乗せ、ドイツ軍将校に差出して歓迎するのです。

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4人家族の著者。パパは離婚して出ていき、
教師のママは「キエフが占領されたなんて悪夢だわ」。
レーニンと同い歳の祖父は、若い頃にドイツ開拓民の元で働いていたこともあって、
「ドイツ人というのは何をすべきか心得ているからな。この世の天国になるぞ」と大はしゃぎ。
しかし祖母は「立派な人たちがみんな死んでいくのに
あんたみたいなゴクツブシがいつまでも生きててさ・・」。
このような家族の意見の相違や、ウクライナ人の反ソ的な考え方も
小説を読んでいるかのように楽しく理解できました。

しかし間もなく、ドイツ軍警備司令官からの告示が・・。
それは略奪の禁止、余分な食料の提出、武器やラジオの提出。違反者は銃殺という厳しいもの。
そんな折、警備司令部の建物が爆破され、クレシチャーチク街のあちこちでも連続爆破が発生。
キエフ中心街は数日間渡って燃え続け、多くのドイツ兵が死亡。
犯人はハッキリしていないようですが、簡単に言うとパルチザンの自爆テロだと推測しています。

The priest on the ruins of bombed Uspenski Cathedral of the Kiev-Pechersk Lavra, November 1941.JPG

ようやく火災が収まるとキエフ市及びその近郊の全ユダヤ人に対する出頭命令が・・。
身分証明書、現金、貴重品、下着なども携帯するようにとの内容に、
ユダヤ人嫌いの祖父は「こいつはめでたいぞ!」とまたもや興奮。。
大勢のユダヤ人たちからは「ゲットー!」という言葉や「殺されるのよ!」との声も聞かれます。
そして著者もバービイ・ヤールから「タタタ・・」という機関銃の発射音を耳にするのでした。

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その地獄から命からがら逃げだしてきた女性の物語。
多くの人々と同様、列車に乗るものだと思っていた彼女は荷物が山積みになっているのを見て
不安に駆られます。駅もなければ、近くからは機関銃の音・・。
さらに進むとキエフ出身ではないウクライナ人警官が乱暴に殴ったり、
わめきながら「服を脱げ!早くしろ!」
彼女は見逃してくれるドイツ兵にも出会い、なんとか逃げ出すことに成功するのでした。

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アインザッツグルッペによって、その2日間で3万人以上が殺された「バービイ・ヤール大虐殺」。
このあたりは「慈しみの女神たち <上>」にも出ていましたが、
本書は殺される側の視点、あちらはブローベル率いるゾンダーコマンド4aによる殺す側の視点・・
というのがなんとも不思議ですね。

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食糧難は徐々に激しくなり、著者も闇市でタバコを売ってなんとか食いつなぎます。
年も明けた1942年1月には、ドイツ本土での外国人労働者としての輸送の布告が。
「ボリシェヴィキは工場を破壊し、君たちからパンと賃金を奪った。
ドイツは素晴らしい報酬を得る労働の可能性を君たちに提供するものである。
家族については常に配慮が払われるであろう。
17歳から50歳の金属工諸君は進んで申し込むべきである。」

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その結果、ドイツ行きの列車は満員。
しかしドイツから祖国に宛てて書いた手紙には絶望が記されています。
「私たちは奴隷です。奥さんという人は、まるで犬畜生です。
口から唾を飛ばして、気違いみたいに怒鳴ってばかりいます・・」。

まだまだ身を隠しているユダヤ人やパルチザンを密告すれば、1万ルーブルか、
食料品、或いは雌牛1頭が与えられるとの布告も張り出され、
捕虜となった赤軍兵士たちもバービイ・ヤールへと向かうことになります。
そしてこの3万人以上が埋められた峡谷には収容所が建設されます。

A German patrol caught two disguised Soviet soldiers. September 1941, Kiev, Ukraine..JPG

ディナモ -ナチスに消されたフットボーラー-」で紹介した
元ディナモの選手達が結成したチームである「スタルト(スタートの意味)」が
ドイツ枢軸軍サッカーチームに対し、連戦連勝を重ねた結果、
この強制収容所送りとなり、殺害されてしまった話もなかなか詳しく書かれていました。
先日のEURO2012でも、このディナモ・キエフのスタジアムが決勝戦の舞台となっていましたが、
「デス・マッチ」と呼ばれたこの試合が今年、ロシア映画として製作されたようです。

FC Start and the infamous Death Match.JPG

本書では単にラーゲリと呼ばれているこの収容所は
「シレツ強制収容所」という名前のようですが、
責任者(所長)のパウル・フォン・ラドムスキーというのが、またかなり悪いヤツで、
「シンドラーのリスト」のアーモン・ゲート級の残酷SS将校です。
ちょっと調べてみましたが、1902年生まれのナチ党古参闘士で、
確かに金枠党員章に、「ナチ・ドイツ軍装読本」で読んだ1929年党大会章も付け、
ゼップ・ディートリッヒの出来損ないのような顔をした、
典型的な能無しで暴力だけが取り柄のSS将校・・といった風貌ですね。。

Paul Otto von Radomski with the rank of SS-Untersturmführer..JPG

人肉を食いちぎる訓練を受けているという牧羊犬レックスだけではなく、
ラドムスキーの代理人である赤毛のサディストや銃殺専門家、チェコ人の班長と
獣のように女囚人を打ちのめす女班長らも登場し、
点呼で5人目になった者は銃殺・・、食事の列に2列に並んだために銃殺・・、
パルチザンの銃殺に、わざと実の弟のウクライナ人警官を指名したり・・。

A German guard lets his dogs have fun with a “living toy”..JPG

次の冬になると、パルチザンによる破壊活動が活発になってきます。
毎晩のように工場が爆発したり、ファシストが殺されたり・・。
ミュージカル劇場ではウクライナ総督のエーリッヒ・コッホも出席した将校集会に
時限爆弾が仕掛けられ、爆発15分前に偶然ドイツ兵が発見して命拾い。。

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1943年の春にもなると完全に形勢は逆転し、ソ連空軍の爆撃機による空襲も始まります。
8月にバービイ・ヤールのシレツ強制収容所も爆撃され始めると、死体の掘り起し作業が・・。
「掘り起こし作業」の責任者として来たSS将校は、トパイデとなっていて、
注釈でもこのような名前のSS将校が戦後も見つからなかったということなので、
ひょっとするとこの人物は大虐殺を指揮したパウル・ブローベル自身と
特別行動1005部隊なのかも知れません。

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しかし、当初はただ埋めていた死体を、戦局の悪化に伴う撤退と証拠隠滅のために
重機まで投入して掘り起こし、焼却するというのは、「トレブリンカ」と同じですね。
こうなるとSSのトップからの命令であったのは命令書がなくても判断できます。
それにしてもこの期に及んで、1年も2年も前の死体から、いちいち金歯を抜いたり・・と
このような話も逃亡者の一人であるダヴィドフの証言から詳しく書かれています。

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いよいよソ連軍はドニエプル河を渡って、キエフ市内は戦闘区域に・・。
著者の家にはドイツ軍の偵察チームが転がり込み、ソ連軍の激しい砲撃の前に、
ほうほうの体で戻ってきます。
そんなドイツ人の古参兵と17歳の少年兵との「交流」の場面は一番、印象的でした。

著者の祖母はすでに病気で死に、ドイツびいきだった祖父も
「ろくでなし!貴様らは死んじまえ、神様の火の唸りでやられちまえ!」と心を入れ替えてます。 
こうして2年前にやって来たドイツ軍は、今度は逆に向けて著者の目の前を通り過ぎて行くのでした。

Red Army engineers build a bridge across the River Dnieper, north-east of Kiev.JPG

読む前まで本書は「バービイ・ヤール大虐殺」を中心としたもの・・と想像していましたが、
2日間の大虐殺と、2年続いた収容所での悲惨な実情と反乱は
そこから生き残った者の証言によって数10ページに渡って構築されているものの、
実際は1941年9月にドイツに侵攻され、1943年暮れにソ連軍によって奪還されたキエフが
如何にして廃虚と化し、住民の1/3が失われたかを少年の目を通して見たものが軸であり、
祖父やママの食い違う意見に混乱し、解放者だったドイツ軍が冷酷な、
ならず者の殺し屋に変貌していくなかで、彼自身も戦争というものを理解しながら、
生き残る術を身に付けていく・・という、戦争ドラマの意味合いが強い印象を持ちました。

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著者アナトリー・クズネツォーフは1929年のキエフ生まれ。
1966年に検閲を受けつつ、ソ連で本書を発表し、2年後に亡命した英国で
未検閲版が1970年に出版されたということです。
本書は大光社から1967年に出版された翻訳版ですから、当然ソ連の検閲版です。
1970年の未検閲版は、同じタイトルで講談社から1973年に出ているようで、
どのくらい未検閲なのか、試しに読んでみたくなりましたが、恐ろしくレアな古書のようですね。
Amazonでは、17000円からとなっております。。





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イワンの戦争 赤軍兵士の記録1939-45 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

キャサリン・メリデール著の「イワンの戦争」を読破しました。

5月に発売されたばかりの520ページの本書を本屋さんで偶然見つけた瞬間、
「うぉっ!」と変な声を漏らしてしまいました。
この厚さといい、タイトルと副題から簡単に内容が想像出来るところといい、
「赤軍記者グロースマン」、「ベルリン終戦日記」、「グラーグ―ソ連集中収容所の歴史」といった
ソ連がらみの名著を発刊している白水社であることといい、
漏らしたのが声で済んだだけでホッとしました。。
「イワン」といえば、赤軍兵士を指すのは皆さんご存知だと思います。
「トミー」なら英国兵士の総称ですし、ドイツ軍兵士は「フリッツ」、米国兵士は「ヤンキー」??
第2次大戦におけるジューコフやロコソフスキーといったソ連の大将軍ではない、
一般のソ連兵士たちの真実に迫った一冊ということで、
やはり名著「戦争は女の顔をしていない」の男版のような感じカナ?と
とりあえず図書館の予約待ちに登録・・。だって定価4620円なんですよ・・。

イワンの戦争.jpg

「序章」では、1939年から1945年までに招集された赤軍兵士は3000万人を超え、
「肉挽き機」とも呼ばれた彼らの物語はまだ語られておらず、ソ連が公式に認める物語は
長い間、ソ連邦英雄の神話しかなかったとし、あのグロースマンのような作家たちも
兵士の恐怖を描くことが禁じられた・・と語ります。
「招集し、訓練し、そして殺した」とされるスターリン時代の兵士の生き残りたちから
クルスクやセヴァストポリで直接話を聞き、彼らが書き綴った手紙、NKVDの文書などを駆使して
英雄神話を超越するために、英国人の女性著者はこの著作に取り組んだとしています。

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第1章は1930年前半からのスターリン体制下の様子・・。
農場の国有化により大飢餓が発生し、クラークと呼ばれた豊かな農民は追放。
まさに先日の「グラーグ」を思い出します。
そしてその一方では欧州最大の工業国へと変貌を遂げながらも、
赤軍のトハチェフスキー元帥を筆頭とした「大粛清」も紹介。

第2章はその赤軍の最初の試練、1939年のフィンランド侵攻です。
最初の1ヶ月で18000人が死亡、行方不明となり、その半数は初日に国境を越えた者たち・・
ということですから、シモ・ヘイヘらの格好の餌食となったのでしょうね。
この短い戦争で12万人が戦死、30万人が負傷。対するフィンランドは合計でも9万人です。
12月21日のスターリンの誕生日を祝して、意味のない攻撃を数多く仕掛けたことも・・。
この結果は赤軍将校の多くが粛清されたことも大きな原因ですが、
同時に全土から兵士が招集され始め、赤軍は拡張。
しかし、その訓練やひどい食事から脱走、士官候補生は「責任を問われる恐怖」から自殺、
といった若い兵士たちの事情が・・。

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第3章から1941年6月のドイツ軍の奇襲攻撃「バルバロッサ」の前に
総崩れとなるソ連軍の実情が語られます。
ウクライナなどの反ソ的な心情を抱く兵士などが次々に降伏。
NKVD特殊部隊は6月最後の3日間だけで700名の逃亡兵を捕え、
第26軍からは4000名もの兵士が脱走。。
兵士は士官を恨み、命令は信用せず、仲間は脱走を目論んでいるのでは・・と疑心暗鬼です。
攻撃中の自分の部隊を銃撃して指揮官を殺そうとする兵士がいたかと思えば、
対空戦闘を命じた指揮官は、戦闘が始まると車に乗って逃げ出します。

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スモレンスクの戦いでは30万人が捕虜となり、3000両の戦車が失われますが、
自軍の兵士にさえ極秘とされていた兵器「カチューシャ・ロケット」が初めて火を噴きます。
エレメンコ元帥の回想では、「効果は凄かった。ドイツ軍はパニックを起こして逃げた。
我が軍の兵士でさえ、前線から一目散に逃げた」。

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それでも逃亡者は相変わらず減りません。
そこでスターリンは逃亡軍人の家族も逮捕する命令を打ち出します。
しかし、河川で撃ち殺されたり、バラバラに吹き飛んだり、ネズミに遺体を食い散らかされた
数万名に達する行方不明者も「不名誉な逃亡者」として扱われるのです。

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ドイツ軍が占領したポーランド、白ロシア、ウクライナでは収容所が新設され
政治委員とユダヤ人は見つかり次第射殺。
ロシア人以外の民族も選び出されて、彼らの憎むべき敵であるボルシェヴィキ、
ユダヤの極悪人を打倒するためにナチの手先となり、警官業務でユダヤ人を摘発したり、
アインザッツグルッペンなどの射殺部隊にも参加することになるわけですね。

「ドイツ人と戦っているのはロシア人だけだ」と言われ始めたウクライナ兵は
別の人種に責任転嫁します。
「中央アジアから来た連中は地面にひれ伏して例の"おー、アラー"を始める。
祈るだけで敵には突進しないし、戦闘にも巻き込まれないようにしていた」。

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いよいよ有名な「一歩も引くな」というスターリン命令が発せられます。
これによって選抜した要員をNKVD部隊と共に前線部隊の背後に配置し、
遅れをとったり、逃げる兵士を容赦なく射殺することになるのです。

1942年になると、スターリンはお荷物無能将官の排除にも着手。
盟友だったヴォロシーロフにクリミア司令官のメフリス、
内戦時代の老ヒーロー、ブジョンヌイらが左遷され、ジューコフコーネフ
そして42歳の野心家チュイコフらが登用されるのでした。

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そのチュイコフが指揮するスターリングラード攻防戦
ヴォルガ川を背後にし、撤退することは不可能です。
数週間で13000名が臆病な裏切り行為で銃殺され、新設された懲罰大隊もやってきます。
7月には50万を超える将兵が集結しますが、このうち30万人を優に超える人名が失われます。
この戦いはいろいろと読んでいますが、このソ連側の損害の数字はとんでもないですね。。
もちろんこのような膨大な損害はソ連国内では一切、発表されず、
何百人も埋葬した墓地が記録では35人などと、埋葬した遺体の数も少なく記録します。

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検閲の対象となるのは人間の感情にも及びます。
復讐心を煽る「悲しみ」はOKですが、危険や苦痛がもたらす感情を語ってはなりません。
1943年春、包囲されていたレニングラード戦線から移ってきた兵士が新しい戦友に
「飢餓」について言及。すると彼の姿は消えてしまうのでした。。

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また飢餓といえば、ソ連全土にも広がっています。
収容所からも駆り出された余命幾ばくもない懲罰部隊では、
スプーンで4回もすくえば終わる程度の量しかないスープ。
科学者たちは様々な種類の肉を調べ、イタチや豚に比べても肉質は美味で、
どんな肉より栄養価が高いのは「リス」の肉であることを主張・・。

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クルスク戦ではパンター、ティーガーに、T-34といった戦車も紹介しますが、
やっぱり主役は人間です。
会戦前半の守勢段階だけでソ連軍の犠牲者は7万人に達したそうで、
「原始的な技術で戦車を操り、あらゆる困難を克服するロシア兵には驚くばかりだ」と語るのは
マックス・ジーモンSS中将です。
そしてこの大勝利は彼らに新たな自信と熱意をもたらし、勝利への道に突き進むのです。

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1944年2月、西へと進む赤軍ですが、そこからは徐々に規律が失われていきます。
「盗みは当然だ。さもないと生き残れない・・」。
闇市場では戦争でもなければ手に入らない、性能の良いドイツ製品が最も珍重されます。
ある兵士は語ります。「私はドイツ兵の遺体から財布を取った。写真の他にコンドームがあった。
我々には避妊してセックスするヤツなんていなかった」。

そして「前線妻」。隠語では「野戦行軍妻」と呼ばれていたというこの話は、
一人の男が5人以上の「妻」を持つのも珍しくなかったなど、
まぁ、男の勝手というか、男の性というか・・。
また、女の方といえば、「将来を考えて、禁を犯して男と付き合う」。
あの「戦争は女の顔をしていない」と違って、インタビューや告白形式ではなく、
それらのちょっとしたエピソードを数行織り交ぜながら、本書は進みます。

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赤軍兵にとって酒の価値は品質ではなく、アルコール度数の強さで決まります。
ポーランドでナチの兵舎を占領し、ワイン貯蔵庫を見つけますが、
「どれも"炭酸飲料"ばかりだ」と落胆。。
彼らにとってはシャンパンより、サマゴンと呼ばれる「密造酒」の方が上のようですね。
ある中尉は、「我が軍がこんなに酒に溺れなければ、2年前に勝っていただろう」。
そして士官による大掛かりな盗みや転売も頻繁に起こります。
モスクワの上官への賄賂に「豚肉267㎏、羊肉125㎏、バター114㎏」を一度に送ったり・・。

Soviet Troops in Budapest.jpg

ドイツ軍によるバルバロッサ作戦から、ちょうど3年が経った1944年6月22日、
お返しの大攻勢「バグラチオン作戦」が開始。
兵士たちは勢いづきます。ドイツ軍機を撃墜すれば現金、1週間分が、
ドイツ士官を捕虜にすれば2週間の休暇の権利が(建前上)与えられます。
しかしルーマニアでは情報担当者を偽って選び出した女性をレイプしたうえ、頭を撃ち抜き、
ハンガリーでは精神病院に押し入った一団が16歳から60歳までの女性患者をレイプして殺します。

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ポーランドではナチの収容所が解放されます。
ドイツ兵が死んだ犬を投げ込むと、ロシア人捕虜は気違いのように喚き立て、その死骸に殺到し、
素手で八つ裂きにして、配給された戦闘食のように犬の腸をポケットに詰め込んだ・・という話や、
カニバリズムで飢えを凌いできた彼らには、すでに人間らしささえありません。。
この件は詳しく書かれているわけではありませんが、以前に読んだ本では、
ガリガリに痩せ細ったわずかな人肉ではなく、生きた「肝臓」を食うことが目当てだったと・・。

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そして遂にドイツ本土。野獣の巣窟である東プロイセンに踏み込む時・・。
ラビチェフという若い士官はドイツ軍が遺棄した救護施設を宿舎にあてがわれますが、
どの部屋も子供や老人の死体だらけ・・。
レイプの後に身体を切断された何人もの女性の遺体の性器にはワインボトルが挿入されています。
捕らわれの身の脅えきったドイツ娘の中からひとり選べと言われたラビチェフ。
拒否すれば部下から「臆病者」と思われかねず、もっとマズイのは「不能者」と見られることです。

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やがて辿り着いたベルリンでもそのレイプと強奪は激しさを増します。
ここでは「ベルリン終戦日記」からも引用していますが、
アレはこの手の本には必ずと言っていいほど出てきますね。
さすがに気になったので映画版の「ベルリン陥落1945」を買ってしまいました。

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1945年5月、長かった戦争は終わりを告げようとしてます。
喜びを抑えきれない国境警備隊の兵士は、たまたま見つけたメタノールを試し呑み・・。
料理係やら次々に現れて、彼らを巻き込みながら呑み続けます。
そして3人が翌日に死に、残りの連中もカイテルが降伏文書に調印する前に死んでしまうのでした。
確かイタリアでも喜び過ぎて死んでしまった人がいましたねぇ。。

手を取り合った2つの超大国。当時の末端兵士は束の間の友情を育みます。
ロシア人のおおらかさ、呑んで歌ってすぐに打ち解けるところを米軍兵士も気に入ります。

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最後には「裏切り者」である捕虜が今度は自国の労働収容所へと送られ、
またウラソフ派の最も悲惨な運命にも言及し、
まともに帰国が出来る兵士にも、死亡率や残虐行為についてのかん口令が敷かれます。
さらに275万人という傷痍軍人は義足も義手も足りず、物乞いとなるしかありません。
1947年、スターリンは路上の物乞い排除命令を出し、ラドガ湖対岸のヴァラーム島へと流刑。
多くがその地で生涯を閉じるのでした。

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後半はやはり・・というか、ソ連軍兵士による強姦、暴行、略奪が中心となっていきますが、
本書のように戦争の始まる前から、彼ら「イワン」たちがどのような祖国に生き、
ドイツ軍に国土を蹂躙され、戦友が殺され、迫害されて生き別れとなった家族を心配しつつ、
敵の数倍の血を流しながらも反撃する姿を時系列で追っていけば、
今までのように単純なイメージの「酔っ払った強姦魔のソ連兵」では片付けられません。

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11章から成る実質450ページの本書。
ただ、章ごとに特定のテーマがあるわけではなく、特定の時期の様子・・、
すなわち前線でのイワンの様子に、彼らを監視するNKVD、占領地の市民、
ドイツ側の証言といった事柄と細かいエピソードがふんだんに語られる展開ですので、
読破後の印象は、ややもするとボンヤリした風にもなってしまいました。

興味深いエピソードは多々ありましたが、それらをもっと深く掘り下げて欲しいという希望も・・。
しかしソレをやってしまうと、ボリュームが倍になってしまいますからしょうがないですね。
その意味で個人的には、このページ数でもあくまで「概要レベル」でしかないと思いましたが、
それだけ、「赤軍兵士の記録」というものは、今まで紹介されてこなかったということであって、
独ソ戦好きの方であっても驚くことが多いですし、
ドイツ軍ファンの方でも知られざる敵を知るのにうってつけの、必読の書と言えるでしょう。
例えればUボート好きが「Uボート部隊の全貌」を読まなければならないのと一緒です。
赤軍記者グロースマン」とセットで読んでも良いですね。
たぶん、一年くらいしたら再読したくなるハズなので、そのときにはキッチリ購入しますし、
今年の1月に出た、グロースマンの「人生と運命」全3巻も読んでみようかと思っています。








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グラーグ -ソ連集中収容所の歴史- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アン・アプルボーム著の「グラーグ」を遂に読破しました。

2006年発刊で上下2段組、676ページ、定価5460円という大著を購入したのが4年前。。
古書で2000円でした。
ナチス・ドイツの強制収容所についてはそれなりに読んできましたが、
ソ連の「ラーゲリ」と呼ばれる収容所も、ドイツ人捕虜のいわゆる「シベリア送り」や
日本人の「シベリア抑留」というキーワードもあって、詳しく知りたいと思っていました。
しかし、この重い本を前にすると、どうしてもページを開く気が起きませんでしたが、
ヒトラーとスターリン」を独破以来、ソ連モノに興味が沸いた勢いでやっつけてみることに・・。
ちなみにタイトルである「グラーグ」とは、収容所管理総局、
または収容所システムそのものを指すそうです。

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序論ではロシアの流刑制度の歴史から。
17世紀には、死刑や四肢切断などよりもはるかに好ましいとされたシベリア流刑。
この流刑制度はロシア独特のものではなく、ヨーロッパ各国や日本でもあったと思いますが、
先日コッソリ読んだアラン・ムーアヘッドの「恐るべき空白」でもオーストラリアが
英国の流刑地であった・・という話でした。
20世紀になると監獄改革がロシアにも波及して、規制や警備も緩やかに・・。
4回逮捕され、流刑となったスターリンも3回脱走し、「たがのゆるんだ」帝政の制度を軽蔑。
自らの体験から、異常に厳しい刑罰制度の必要性を学んだとしています。

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グラーグ収容所第1号は、白海に浮かぶ「ソロヴェーツキイ群島」です。
1920年代に主には政治犯を島流し・・。
もともとは15世紀に修道院が建造されたこの島が労働収容所にうってつけだった・・
という話から、GPU(国家政治保安部)、1923年に改称されたOGPU(統合国家政治保安部)を
指揮したジェルジンスキーに、セヴァストポリ要塞の305mm砲ではない
作家のマキシム・ゴーリキーも登場してきます。
そして「働きに応じて食わせる」という悪名高いシステムもこの収容所によって確立します。

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1928年にはコルホーズ(農業集団化)政策によって、父祖伝来の耕地から農民は追い出され、
数年後にはウクライナや南ロシアで700万人が餓死するという大飢饉が・・。
この集団化に抵抗して、穀物を隠したり、当局への協力を拒否したりした数百万人は、
「クラーク(富農)」というレッテルを張られて、行政命令によって流刑です。
1930年から3年間に200万人がシベリア、カザフスタンなど人口希薄地域で
「特別入植者」として家族ともども残りの生涯を送り、村を離れることも禁じられます。
もちろん、逮捕されてグラーグにぶち込まれる農民も10万人と増大。
例えばリンゴひとつかみ盗んだだけで、「国有財産侵害罪」として10年の判決です。。

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巨大建築マニアのスターリンは白海運河建設に並々ならぬ野心を持ち始め、
227㌔の水路を掘削し、ダムも5ヶ所という大規模なもの。
これを最低のテクノロジーでわずか20ヶ月の工期で完成させるように指示します。
そして17万の囚人と特別入植者は粗末なのこぎり、つるはし、手押し一輪車で挑むのです。
ノルマ競争を煽り立て、「自発的に」24時間も働く、突貫作業も・・。
ノルマを超過遂行し、食料増配や特権を受ける「突撃労働者」も誕生します。
しかし、ある推定ではこのプロジェクトで25000人の囚人が死亡・・。

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砂金などの資源が発見されたコリマー(コルイマ鉱山)は数ある収容所のなかでも最悪の部類です。
冬場はマイナス45℃にもなる酷寒の地・・。
最初の入植では人も住まないタイガとツンドラの地で、バラックを設営することから始まります。
寒さも凌げず、食料にも事欠き、多数の囚人が死亡・・。

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1934年に大飢饉が落ち着き、溢れかえっていたグラーグも軌道に乗り始め、
OGPUが再編のため、NKVD(内務人民委員部)として、100万人の囚人をコントロール。
しかし1937年には「大テロル(大粛清)」が始まります。
スターリンによる「人民の敵」の逮捕、裁判、処刑命令。。
党の序列の上の方から下へ向かって、狂乱の逮捕と処刑が続きます。

本書では特定地域ごとの逮捕者の割り当て数が表で掲載されていました。
スターリンの出身国であるグルジア共和国を例にとると
第1類(死刑)に分類された人数は2000人、第2類(刑期10年)が3000人。
この数字は結果ではなく、希望人数(ノルマ)というのが怖いですね。。

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さらにグラーグ・システム拡張の大半を仕切った秘密警察長官のヤーゴダまでが
銃殺刑となり、彼の育てた収容所幹部の多くも同じ運命をたどります。
と、ここまで150ページが第1章の「グラーグの起源」ですが、
第2章はメインとなる「収容所の生活と労働」です。

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NKVDによる荒っぽい逮捕の過程から、ルビヤンカ刑務所での尋問や身体検査の様子・・、
特に女性には侮辱的な婦人科検査が何度も繰り返し行われます。
囚人が壁を叩く暗号についても詳しく表になって掲載されていて、
コレは「反逆部隊」でGRUがサリンの情報を伝えたヤツですね。

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逮捕の次は収容所への移送です。裁判はないのか・・?というと、ある場合もありますが、
5分くらいで「25年・・」とか言われるだけなので、裁判と呼べるものではありません。
開いた足の間に次々と座るという、人間オイルサーディーンのごとき、ギュウギュウ詰めにされた
トラックでの輸送から、列車に乗り換えて何十日もかけてシベリアまで・・。
到着に時間がかかりますから、ナチスのアウシュヴィッツ行きほど劣悪ではありませんが、
夏は悪臭が耐えがたく、冬は寒さとの戦い・・。
もちろん水とトイレは大問題です。特に男女一緒くたですから、若い女性は・・。

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そして最悪の地、コリマーへは北海道沖を進む、地獄の船旅が待っています。
老築貨物船を改装して、日本漁船に見つからないよう船倉に1500人の囚人を押し込めます。
男女は隔離されているものの、買収された警備兵は強姦目的の男たちを女の船室に入れて、
その後は見て見ぬ振り・・。
一人の女に数人の男が襲い掛かり、「バザール終了」の声と同時にしぶしぶ次の男に交代。
死んだらドアまで引きずって積み上げ、遺体は船外へと放り出して、警備兵が血を掃除・・。
それでも飽き足らない屈強な男どもは、少年狩りを始めるのでした。。

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こうして各収容所に辿り着いた囚人たちを出迎えるのはアウシュヴィッツのゲートに掲げられた
「働けば自由になる」とよく似た「労働をつうじて自由を!」といったスローガン。
また、収容者による楽団も編成されていて、ナチスに似ているなぁとも思いましたが、
毎朝、ゲートの前で力強く意気揚々と軍隊風の演奏をして労働者を送り出しますが、
「最後尾が通り過ぎると楽器を置いて、労務者となって森の中へ歩いて行くのだった」。

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食堂の様子では、スープに肉が入っていたためしはなかったという証言がある一方、
「犬肉入りスープ」が出たことがあったそうですが、フランス人の囚人はソレを口にすることが出来ず、
西側諸国の囚人は飢えていても心理的障害を乗り越えることが困難だったようです。

労働作業といえば、当然「ノルマ」です。
しかも女性であろうが、求められるのはプロの伐採夫や炭鉱夫と同じレベルの仕事。
そして達成率に応じて、配給されるパンの量も違い、そのため体力も衰えていくという悪循環・・。
ノルマ遂行率500%や1000%という信じられない数字も掲示されたそうですが、
どんな間抜けにも基準の10倍もの土を掘り出すことは出来ないとわかっていたそうで、
あくまで「労働推奨キャンペーン」だったようですね。

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収容所の娯楽としてはサッカーの試合や映画鑑賞などもあったようです。
しかし、ここで笑えたのは10曲のタイトルがある「NKVD歌舞アンサンブル」のレパートリーです。
「国境守備隊行進曲」に、「NKVD戦士の歌」、NKVD長官に捧ぐ「ベリヤの歌」に、
筆頭の曲のタイトルは「スターリンのバラード」。。一体どんなバラードなんでしょう・・?
ちなみにヤーゴダの後任のエジョフは、やっぱり逮捕されてベリヤに交代・・と、
この「グラーグ」のトップであっても、いとも簡単に破滅するのが凄まじい・・。

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収容所警備兵を「二流どころか四流のくずのような連中」と酷評するグラーグ幹部。
拡大する収容所は警備兵の確保も大変で、囚人から警備兵に転身する者も・・。
収容所幹部といえば、個人的な世話をする「メイド」を抱えていたそうですが、
ブーチコという粗暴な守衛の食事を運んだり、ストーブを焚いたりする召使をやっていたのが、
大粛清で収容所送りとなっていた、あのロコソフスキー元帥だったというのは印象的でした。

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また、囚人は政治囚と刑事囚に大きく分類されますが、当初は優遇されていた政治囚も
収容所の力関係のなかで徐々にその力は弱まり、
いわゆる「ヤクザの親分」的なプロの犯罪者がこの世界のトップに君臨します。
様々な悪逆非道の例も紹介されますが、コレはどこの世界の刑務所でも一緒のようですね。

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終戦期にグラーグと捕虜収容所に抑留された60万人の日本人にも少し書かれていました。
ソ連が捕虜にした各国兵士400万人のうち、ドイツが240万人、その他イタリア、ルーマニアなど
ヨーロッパの各国が100万人という数字を挙げて、ソ連と交戦した期間が短かったことを考えると
日本の捕虜の数は途方もなく多い・・としています。
そんな彼らが困ったのは量の乏しい食事で、日本人の食習慣からすれば
事実上食べられないものだったということです。
しかしその逆に、野草、虫けら、甲虫類、蛇、といった類に
ロシア人でさえ手を出さないようなキノコを食べ、最悪の結果を招いたことも・・。

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このようにいつ死んでもおかしくない過酷な収容所生活。
ある囚人が夜の点呼の最中、死んだかのように倒れます。
周りに人垣ができ、ひとりが「帽子は俺が貰った」。
すると長靴、コート、肌着までが取り合いに・・。
身ぐるみ剥がされて裸にされた彼は、弱々しく片手を挙げ、「寒いよ・・」。
そしてガックリと雪のなかへ頭を落とし、死んでしまうのでした。。

医者はヤブ、設備は貧弱、医療品は足りないにも関わらず、収容所病院は魅力です。
親切な女医さんや看護婦もいて「スタリングラートの医師」を思い出しました。
しかし一輪車が押す作業が出来ないように親指と小指以外の3本を斧で切り落とす者、
片手や片足を切り落としたり、両目に酸を擦り込む者。
え~、それからちょっと書くのがはばかれるほどの、とんでもないことをする者も・・。


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そして「脱走」。フィンランドまで逃げおおせた囚人の話などもありますが、
エスキモーやカザフ人が脱走者を見張り、脱走者の首を持参した現地人が
250ルーブルの賞金を手にしたという話も紹介。
この章では、以前に紹介した「脱出記 -シベリアからインドまで歩いた男たち-」が出てきました。
あの本はまぁ、凄い本ですが、本書でも作り話ではないのか・・?
ということに言及していますが、結論としてはどちらとも言えない・・。

仲間が助け合って脱走する、ある意味、この正統派の「脱出記」は
エド・ハリスも出演した映画になっていますが、日本ではなぜか完全に無視されています。。
ですが、本書で紹介される次の脱走は、とても映画には出来ないでしょう・・。
脱走を計画する2人組は、もう1人、ぽっちゃり系の3人目も仲間に入れて脱走。
この3人目は通称「肉」と呼ばれていて、途中で殺して食べちゃうんですね。
そんなことを夢にも思わない「肉」は、自ら新鮮な生肉を運んでいる・・というわけです。。

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仲の良い2人組も、3人目を消化してしまうと、今度はお互いが自分を食おうとしていると
疑心暗鬼となって眠ることすらできなくなり、遂に一方が眠り込むと・・。
大航海時代に新鮮な肉を食べられるように帆船に生きた家畜を積み込んだり、
ガラパゴスのゾウガメ捕まえたり・・という話と同様の手口ですか。。
本書ではいわゆる「カニバリズム」については、不道徳であるとか、オドロオドロしい表現は使わず、
ごく、当たり前のことのように淡々と書かれているところが、逆に恐ろしい・・。

また戦争は食糧難を引き起こし、グラーグの収容所でも200万人が刑罰以外で死亡。
包囲されたレニングラードだけが唯一の飢餓都市ではなく、ウズベキスタンにモンゴル、
タタールにおける大量餓死をNKVDが報告し、ウクライナでは1947年になっても食人の事例が・・。

Блокада Ленинграда.jpg

さらにこの独ソ戦が書かれた章では、1941年の開戦当初、ポーランドとバルト諸国の
監獄にいる政治囚をドイツの手に渡すことが出来ない・・とパニックになったNKVDが
収監者の射殺を開始し、最終的に1万人を殺害したとしていますが、
このようなのも「独ソ戦記」には度々出てくる話ですね。

もちろん、1939年のソ連のポーランド侵攻に伴う、大量の逮捕や
1991年にエリツィン大統領がやっと責任を認めた「カティンの森」事件。。
ドイツ人を先祖に持つヴォルガ・ドイツ人全体がスパイとされた話に、
スターリングラードで捕虜となった9万を超えるドイツ兵に収容施設も食料も準備されてなく、
最初の数ヵ月で死亡率は60%に跳ね上がり、ドイツ軍の捕虜生活での死亡者は
57万人と公式に記録されているそうですが、著者はもっと多かっただろう・・としています。

Soviets Transport German POWs to Gulags In Massive Boxcars.jpg

それからソ連のなかに組み込まれたコサックやタタール人、チェチェン人といった民族や
ウラソフ将軍のような裏切り者の運命にも触れています。
そして戦後。ナチスの強制収容所として有名なザクセンハウゼンブッヘンヴァルト
そのままソ連の「特別収容所」に衣替え・・。
5年間に24万人の政治囚を収容し、10万人が死んだと推定されるそうです。
この他、ポーランドやルーマニア、ユーゴスラヴィアなど、ソ連支配下となった国の収容所も・・。

KZ Sachsenhausen.jpg

やがて1953年になってスターリンの死去が発表されると、
泣き出すのは収容者だけではなく、収容所管理者たちにも大混乱が。。
後継者となったNKVD長官ベリヤは改革を目指して、すぐさま100万人に恩赦を与えて釈放。
しかしベリヤは政敵フルシチョフによって逮捕され、前任者のヤーゴダとエジョフと同じように
お慈悲を訴える手紙をせっせと書く羽目に・・。

Lavrentij Pavlovich Berija.jpg

スターリンによって多くの人々が死んだ「グラーグ」は、これ以降、一気に衰退し、
フルシチョフ、ブレジネフの時代、そしてゴルバチョフの時代にソ連が崩壊するまでの
ソ連収容所の歴史が網羅されています。
ナチスは強制収容所とアウシュヴィッツのような絶滅収容所が知られていますが、
このソ連のグラーグとは、あくまで労働収容所であり、
例えば「シンドラーのリスト」に出てきたような囚人による生産力を目的としたものです。
決して殺すことが目的ではなく、収容所所長は生産高を中央に報告しなければならず、
環境の過酷さと、食糧難が多くの人々を死に至らしめた・・という感想を持ちました。

gulag_stalin.jpg

この上下2段組、676ページという本書は大変なボリュームで
ヒトラーとスターリン -死の抱擁の瞬間- 」上下巻を合わせたのと同じページ数です。
「第二次世界大戦ブックス」で言えば8冊分くらいのボリュームといえば良いでしょうか。
この、ひたすらグラーグだけを取り上げた内容なのに、決して飽きることの無いというのは
さすが、2004年度、一般ノンフィクション部門のピュリツァー賞に輝いただけのことはある・・
とも思いました。

ナチス強制収容所モノで本書に匹敵するのは「SS国家―ドイツ強制収容所のシステム」
なんでしょうか?
しかしコレは古書でも高いんですよねぇ。
それから本書では所々で、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」や
「収容所群島」にも触れています。
実は本書を読む前、コッチを先に読もうと思ってたんですよねぇ。

また、偶然とは恐ろしいもので、本書を独破中に、映画「9000マイルの約束」の原作である
「我が足を信じて -極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語-」が
5月に発売されたのを知りました。
捕虜となったドイツ兵の実話と言われている有名なもので、
コレは1680円と手頃ですから、早速、読んでみたいと思います。















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