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対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第1巻〉 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アラン・ブロック著の「対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第1巻〉」を読破しました。

去年の夏に神保町の古書店で3巻セット、3000円で購入した大作にやっと挑戦です。
この2003年に出た第一巻が573ページということは単純計算で1700ページ・・。
オクスフォード大学副学長を務めた著者は最初のヒトラーの伝記を書いたことでも有名ですが、
その、みすず書房の「アドルフ・ヒトラー(1・2)」も未読で、今回が初体験となります。
強烈な「スターリン―赤い皇帝と廷臣たち」も読みましたし、
ヒトラーとスターリンは似ていると思うこともあるだけに、
どのような「対比列伝」なのか、楽しみです。

対比列伝 ヒトラーとスターリン 1.jpg

原著の初版は1941年のナチス・ドイツのソ連侵攻50周年を記念として
1991年に出版されたそうで、本書は1998年の版となるようです。
巻頭にはヒトラー、スターリンの幼少期からの写真が12ページほど。
第1章は「出自」。公式には1879年生まれのスターリンと、
10歳違いの1889年生まれのヒトラーのそれぞれ19歳までを対比します。

マケドニア人のアレクサンドロス大王、またはコルシカ人のナポレオンのように
ヨーロッパとアジアの境、グルジア生まれのスターリン、
そして上オーストリアのハプスブルク帝国臣民として生まれたヒトラーは、
どちらも自分が支配することになる国の周縁地域で誕生。
こういうことが書かれているだけで、彼らがエリートではなく
雑草根性というか、ガッツでのし上がっていったのがイメージできますね。

Hitler-Stalin.jpg

ヒトラーの生い立ちはトーランドの「アドルフ・ヒトラー」などである程度知っていますが、
「粗野な乱暴者で、大酒を飲み、妻子に暴力を振るい、
生計を立てることもままならなかった」というスターリンの父や、
彼の子供時代を詳しく知るのは本書が初めてです。親父、似すぎですね。。
神学校で過ごした少年は禁制の本を読み耽り、札付きの学生となって退学。
このような生い立ちもなんとなく、ヒトラーと似た感じもありますね。

alois hitler_Besarion Ivanovich Jughashvili.jpg

第2章は「修業時代」です。
共に学校から社会に出て、第1次大戦が終わるまでの時期。
ウィーンでの挫折とともに、スラヴ人、ユダヤ人、マルクス主義者が
支配的人種であるドイツ人を脅かしていると見なして、
熱烈なドイツ民族主義を確固たるものとしたヒトラー。
しかしミュンヘンに移った24歳の彼には何の見通しもなく、
第1大戦に熱狂的に参戦するしかないのに対し、
スターリンは革命家としての修業を始めています。
1908年から1917年のうちに逮捕、投獄、流刑、逃亡を繰り返し、
ロシア革命の伝統の中では、多くの政治犯にとってこのような経験は
「大学」の役目を果たします。

hitler 1914.jpg

数年に渡る収容所生活では広範に読書をし、急進主義の知識と理念を身に付け、
囚人仲間同士の討論会にも参加。
このような政治犯として戦争には参加しなかったスターリンですが、
ここでもなんとなく、ミュンヘン一揆で逮捕されたヒトラーが「わが闘争」を口述しながら、
己の政治理念をゆっくり整理していたのと似ている気もしました。

Stalin_1912.jpg

また、すでにレーニンから指導を受けていたスターリンは勉強のために
1913年の1月からウィーンに1ヶ月滞在します。
そしてこの時期は、まだヒトラーがこのオーストリアの首都にいたとき・・。
「あるいは2人は人ごみの中ですれ違ったかも知れない」。

第3章は、10月革命とミュンヘン一揆ですが、
前者はスターリンというよりも、主役はレーニンであり、
反革命とサボタージュを取り締まる最初の政治警察組織「チェーカー(非常委員会)」が創設され、
ジェルジンスキーが長となったり、スターリンが後継者として台頭するまでに充分確立されて
1924年のレーニンの死までの5年間に、チェーカーによって行われた処刑は
少なくとも20万件・・といったことが語られます。

Dzerzhinskii_Stalin.jpg

一方、小さいながらもナチ党の党首となったヒトラーの周りには、ゲーリング
ヘスローゼンベルクシュトライヒャーといったお馴染みさんたちの他、
プッツィ・ハンフシュテングルなどの裕福な知人らとの付き合いにも言及します。

Putzi Hanfstaengl and Adolf Hitler at the Cafe Heck in Munich in the 1920s.jpg

第4章は「書記長」。
そもそもヴィトゲンシュタインが子供の頃・・、え~、ブレジネフ書記長ですが、
米国の「大統領」に対して、なんでソ連は「書記長」が一番エライのか・・?
と大いに疑問に思っていました。
ですから、クラスで「書記」に任命されると、なんとなくエラくなったような気がしたことも。。

この章では1917年から1921年までに死者1000万人を出した内戦が終わり、
トロツキーとのライバル争いをするスターリンの仕事っぷり、
国の行政や国有化された産業など、党がなすべき仕事は山積みで、
他の幹部たちが気乗りがしない仕事も、スターリンは引き受ける気があるといった具合で、
トロツキーまでが喜んで仕事を差出します。
次々と職務と役職を兼務し、最終的には各書記の仕事を統括する責任者に任命。
そしてこれこそが「党の書記長」であり、当時はレーニンをはじめ、
スターリン自身もこの新しい職務を発展させられるのかも不明なのでした。

Lev Davidovich Trotsky.jpg

そして発作に倒れたレーニンは後継者問題を危惧し、覚書をしたためます。
「スターリンはあまりに粗暴である。
書記長である者の欠点としては容認し得るものではない。
何らかの方法を講じて書記長の地位から更迭するよう提案する」。
しかし、最終的にスターリンは後継者として勝利するわけですが、
この力を蓄えたタイミングでレーニンが死んでしまうというのも、
ヒトラーが首相になったばかりのときにヒンデンブルクが死んでしまうことと、
あまりに同じような展開のように思います。

Ленин и Сталин в Горках. 1922 г..jpg

1917年の10月革命はレーニンの手になるもの・・、
スターリンには自ら手掛けるスターリン革命によってその地位を完全にする必要があります。
そして国民の80%を占める農民と、その農村社会に依存していることからの脱却のため、
「富農(クラーク)こそ、農村の資本主義者」として弾圧。
経験豊富な農民たちは家族もろともシベリアや中央アジアの
このうえなく辺鄙な荒野へと追放され、集団農場(コルホース)として国有化。
そのノルマも非現実的で、1930年末までに780万ケ所の個人所有地を集団化・・。
農民側も、牛や豚、羊などの家畜を1/4、1/3と屠殺してこの政策に抵抗。
スターリンは人間がどれだけ死のうと気にもしませんが、
貴重な国の財産である家畜類を失うと動揺を隠しきれません。

Children are digging up frozen potatoes in the field of a collective farm.1933.jpg

特に民族主義の意識が強いウクライナでは20万人以上の農民が追い立てられ、
ソ連全土向け、赤軍の備蓄向け、輸出向けに収穫した穀物の供給を求められ、
その非人道的なノルマによって、自分たちが食べる分を失って、
1932年から大飢饉が訪れるのでした。
う~ん・・、やっぱり「悲しみの収穫―ウクライナ大飢饉​」読んでみたいですね。

このような農民戦争と並行して、工業化の5ヵ年計画も異常なノルマで進められ、
秘密警察(OGPU)は、独断的な逮捕と拷問で矯正労働収容所(グラーグ)送り。
もちろん、ナチス・ドイツのSSと強制収容所システムを連想させます。

gulag3.jpg

さらに「巨大なものへの異常な憧れ」に取りつかれていたスターリン。
工業コンビナートの建設を命じても、規模が大きすぎて、操業できなかったり、
完成を見ずに放置されるかのどちらか・・。
そういえば「ソヴィエト宮殿」とかいう、世界最大のビルの建築計画もありましたね。
こんなところも「ゲルマニア計画」と似ているのというのは、言わずもがな・・。

Palace of Soviets.jpg

最後の第9章は「ヒトラーの革命」です。
褐色の突撃隊(SA)が夢見た伝統的な革命の手法、すなわち、武力によって
外から現政権の転覆を図る・・といったやり方ではなく、
スターリンが党書記長として内部から政権を奪取したのと同様、
ヒトラーも合法的な右翼連立政権の首相という地位から、最終的に政権を獲得します。

hitler--with-cabinet.jpg

しかしソ連共産党が国家を取り込んだのに対して、
ナチ党はあくまで国家とは別の関係であり続けます。
当初はナチ党員ではない大臣の方が多いくらいですが、
ゲーリングの4ヵ年計画と空軍、ゲッベルスの宣伝と文化面、ライの労働
そしてヒムラーの警察とSS・・、これらの分野がお互いの縄張りを奪おうと、
常にしのぎを削り、独自の帝国を築き上げ、それをヒトラーが統治するのです。

Deutscher Hof hotel. In Leni Riefenstahl’s film of the 1934 party rally.jpg

そんなヒトラーの合法的な革命に異を唱えるのが幕僚長レーム率いる突撃隊(SA)。
ヒトラーにとっては、すでに闘争のときは終わり、
正規の武力を擁する「国防軍」と手を結ぶ段取りも着々と進行中です。
SAは300万人の隊員を抱え、10万人軍隊の国防軍との対決も辞さない構え・・。
1934年1月、プロイセンのゲシュタポ長官ディールスを呼び、
レームの交友関係や犯罪の証拠を洗い出すようにヒトラーは指示します。

KZ Oranienburg, SA-Männer vor SPD-Häftlingen_1933.jpg

こうしてトラブルメーカーであったレームとSAの粛清へと進みますが、
昔の恨みとライバル潰しの絶好のチャンスとばかりにゲーリングと
ヒムラーが作成する標的リストは長くなる一方、
ヒトラーにとっては、長い間、貢献を果たしてきた同志と手を切り、
憎んでいたドイツの保守的な分子を安心させることになるのです。
その結果、ドイツ全土から総統に対する批判の声は聞こえず、
逆に彼の力ずくのやり方を賞賛する声すらあります。
これは我が物顔で傍若無人に振る舞っていたSAがドイツ市民から
「いかに憎まれていたかがわかる」という一文でわかったような・・。

Hitler-and-Röhm.jpg

〈第1巻〉 はこれにて終了です。
まぁ、すごいボリュームでしたねぇ。
ヒトラー、スターリンともに半々程度に主役を務めていますが、
ヒトラーについては、このBlogでだいぶ書いてきましたし、
知らなかったスターリンの権力闘争の部分が今回は多くなってしまいました。

〈第2巻〉以降は、「独ソ不可侵条約」から、「バルバロッサ作戦」と
直接しのぎを削る2人ですので、その対比ぶりは、より楽しめそうです。





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パリとヒトラーと私 -ナチスの彫刻家の回想- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アルノ・ブレーカー著の「パリとヒトラーと私」を読破しました。

2011年に発刊された347ページの本書は、この数年、ヒトラーとなんとか・・や、
ナチスのなんとか・・という新刊はチェックしているだけに気がついてはいましたが、
著者の名を知らないことからスルーしていました。
しかし3月の「ヒトラーと退廃芸術」で著者の彫刻家を知りました。
彼は1936年のベルリン・オリンピックの大きな彫刻でヒトラーに認められ、
表紙の有名な1940年のヒトラー・電撃パリ観光に同行した芸術家です。
このようにして「独破戦線」は半永久的に続いていくんでしょうか。。
それではナチス芸術シリーズの第2弾として、早速、いってみましょう。

パリとヒトラーと私.jpg

まずはその1936年のベルリン・オリンピック競技場正面を飾る
彫像製作を競うコンクールから始まります。
すでに著名な彫刻家15人が参加しており、著者のブレーカーは、
3.25mの高さの2体の彫像を作成します。
そしてこの2体、「十種競技の走者」と「オリーヴの小枝を持った勝利の女神」は
見事、銀メダルの輝くのでした。

Der Zehnkämpfer fürs_Die Siegerin fürs Olympia-Stadion, Berlin (1936).jpg

「ヒトラーと退廃芸術」にも書かれていたゲッベルスによってミュンヘンで開催される
「ベルリン美術展」の選定に参加し、ミュンヘンの大管区指導者ワーグナーが乱入してきた話も・・。
そして1937年の「退廃芸術展」を中止させるために奔走します。
そんなナチ党員ではないものの、一目置かれている芸術家の著者の元に翌年現れたのは、
ヒトラーの主任建築家、アルベルト・シュペーア
新しい総統官邸の模型を見せ、中庭の階段両端に立つ、2体の彫像の製作依頼です。

Es sind Entwürfe für die Ausführung der überlebensgroßen Figuren am Hauptportal der Neuen Reichskanzlei in Berlin.jpg

ドイツの都市を刷新するための仕事が任されたシュペーアのために働きたい・・
という願望が芽生えた彼は、一方は松明、一方は剣を手にした彫像を製作。
その作品にいたく感動したヒトラーの指名によって、ゲルマニア計画の中心のひとつ、
円形広場の直径126mもの巨大な噴水の製作の依頼まで舞い込んでくるのでした。

Es sind Entwürfe für die Ausführung der überlebensgroßen Figuren am Hauptportal der Neuen Reichskanzlei in Berlin2.jpg

ここまで、著者ブレーカーの生い立ちなどには触れられませんでしたが、
徐々にそれらも回想されます。
1900年生まれでデュッセルドルフの芸術学校で彫刻と建築を学び、
その後、パリで腕を磨き、1927年にはヒンデンブルク大統領の胸像の注文を受け、
大金を貰って2年間はパリ生活を謳歌・・。

Az Arno Breker-féle szobrokkal tagolt Körtér.jpg

こういった経歴で同世代のシュペーアとも親友になり、ヒトラーの主治医カール・ブラント
自宅を訪問してくるなど、ヒトラーの側近たちの仲間入り。
ソ連から外相のモロトフがやって来た時には、直接、仕事の依頼まで・・。
「我々には巨大な建築がいくつもあり、そこに置かれている石の塊は、加工されるのを
待っているのです。スターリンはあなたの作品の熱烈な賞賛者です」。
唖然としながらも、丁重に謝意を示すしかありません。

Arno_Breker,_Albert_Speer_(1940).jpg

1940年6月の朝、突然、電話が鳴り響きます。
「ゲシュタポだ! 我々はあなたに小旅行の準備をするように指示する!」
訳もわからずJu-52に乗り込み、ベルギーの総統指令部へ。
そこでヨードル少将と陸軍副官エンゲルを従えて、ヒトラーが登場します。
「数年来、私はパリを訪れたいという燃えるような願望を抱いてきた。
パリは私にとって模範なのだ。ドイツの都市の改造計画をパリと比較照合することができるだろう」。

こうしてパリに詳しい芸術家の彼がお供をすることになり、
空軍のボーデンシャッツ、カール・ブラント、エンゲル、ボルマン、カイテルも同行が決定。
陸軍中尉の階級の付いたコートと士官帽だけを身に付け、翌朝、午前3時に出発します。

visite-hitler-paris.jpg

占領されたばかりのパリは死んでいるかのように、人っ子ひとりいません。
電撃ツアーの一発目はオペラ座です。そこでは国防軍の分遣隊が待っていて、
責任者はシュパイデル大佐・・。あのシュパイデルですね。。
当然、いろんな本に登場するフランス人の守衛の逸話・・
ヒトラーがチップを渡すよう求めても、キッパリ断られたなど・・も、
その断られた本人ですから、実に詳しく書かれています。

Paris 1940_Hitler Keitel and Colonel Hans Speidel.jpg

続いてマドレーヌ寺院、コンコルド広場にシャンゼリゼ大通りを進み、凱旋門へ。
ヒトラーが再び車を止めさせると、眼前にはエッフェル塔の姿・・。
ヒトラーはエッフェル塔という存在に、芸術的着想を基礎に技術と機能性が
理想的な形をとった、最も幸運な典型と見ていたとして、パリの建築家たちに敬意を表します。

Paris 1940_Hitler_Bormann,  Breker, Speer,.jpg

ある意味、メイン・イベントであるのはアンヴァリッド(廃兵院)のだったように思います。
礼拝堂正面の見事な建築もさることながら、その内部にあるのは「ナポレオンの墓」。
ヒトラーは制帽を手に持ち、胸に当て、頭を下げるのでした。

Hitler viewed Napoleon's tomb.jpg

まだまだ、ノートルダム大聖堂にルーヴル美術館と名所を巡るなか、
新聞売りが車両の隊列を見て近づいてきますが、ヒトラーの顔に気がついた彼は、
口をあんぐりと開け、新聞を放り出して、助けを求めて逃げ去っていくのでした。
本書は写真も豊富でなかなか楽しめます。

Les Invalides hitler.jpg

この140ページほどで、ヒトラー唯一のパリ観光の部分は終わってしまいましたが、
まだまだ面白いエピソードがいろいろと紹介されています。
著者が気になっていたのは大聖堂のあるランス。
前大戦では激しく傷ついたこの町は今回、果たして無事なのか・・?
行ってみるとランスに至る道路は軍司令官によって完全封鎖されています。
その理由は、町の地下の迷路となった巨大な酒蔵に眠る
億を数えるシャンパンの略奪を回避するためのものだった・・。

Champagne caves.jpg

また1941年に初めてベルヒテスガーデンを奥さんと共に訪れると、
ヒトラーは彼のギリシャ人の奥さんの姿を見て動揺し、急いでやってきます。
「マダム・ブレーカー、お会いするまで、あなたのことをしきりに思っておりました。
政治上の回避しえない揉め事によって、ギリシャの英雄的な国民を敵に回して
戦争を始めたことが、如何に私にとって苦痛であったか・・」。

Arno Breker  im  Atelier.jpg

そして6月22日を迎えると、彼の家にやって来たのはマルティン・ボルマンです。
いつもの燦然とした自信は消え、意気消沈したボルマンは語ります。
「君はラジオでソ連との戦いが始まったことを知ったね。
厳しいことになるだろう! 我々は、存在と非存在の境界にいる・・」。
手を取りながら、これが言うべきことのすべてだ・・と去っていくボルマン。。

ボルマンについては結構書いていて、特に彼の奥さんも
「貴族の出で、驚くほどの美しさだった。7人の子供たちの母親であった彼女は、
その優しさによって、野蛮な見せかけの夫と好対照をなしていた」と、
この奥さん、ゲルダの胸像まで作っていたようです。

Breker_frau_bormann.jpg

しかし軍人でもSS隊員でもない芸術家の彼は東部戦線とは関係がありません。
1942年にはパリのオランジェリー美術館で個展を開催。
それを楽しみにやって来るのは美術品蒐集家のゲーリングです。
「これらの作品はベルリンのもので、何一つ売渡しはしないように!」
特にゲーリングは、びた一文も払わない・・とヒトラーからも忠告されている
非常に厄介な展開です。
すると案の定、「おおっ! ここにカリンハルに置きたいと思ったものがある」。

Inauguration à l'orangerie de l'exposition Arno Breker en mai 1942.jpg

後に広大な森林のなかにあるカリンハルを訪れた著者。
ゲーリングは武器のコレクションを見せようと部屋に誘います。
中世のドイツの傭兵が使っていたどっしりした剣を壁から取り外し、
両手で振って見せるゲーリング。
「ボルマンの首をこの剣で切り落としてみたい。
奴は総統を孤立させようとしているし、報告を加減し、
前線に関して常識外れで破滅的な決定をさせている。
我々、古くからの取り巻きは受け入れられず、もはや総統に話をすることもできない・・」。

Arno_Breker_-_Der_Rufer.jpg

ヒトラーがフランス人芸術家に対する共感の気持ちがあることに気付いた彼は、
25000人もの芸術家たちが捕虜として無益な生活を送っており、
彼らを解放する試みを実践します。
しかし、アンリ・ジロー将軍の収容所からの逃亡が、この希望を打ち砕くのでした。

戦後にグデーリアン将軍と再会し、敗北の理由を話し合い、
米陸軍情報部から出頭を命ぜられ、「連合軍はあなたを逮捕することを禁じられている」
ことを伝えられます。ただし心から悔いていることを公に表明するように・・。
そのような忠告は、彼の芸術家としてのプライドが許さないのでした。

Adolf_Hitler_-_Arno_Breker_Medallion.jpg

最後の章はフランス人の友人たちについて語ります。
活動的な共産主義者とされたピカソが逮捕されそうだと知ったブレーカー。
ベルリンのゲシュタポ本部に乗り込み、長官のミュラーに直談判。
「ピカソを捕まえてみなさい。世界中の新聞が大騒ぎをして、
あなたは茫然とするだろう。あなたは国際世論を考慮しなければ・・」。

他にはジャン・コクトーともかなり仲良しですし、
ジャン・ポール・ベルモントの彫刻家の父とも友人。
<ドイツのミケランジェロ>とも称され、
後年はサルヴァドール・ダリとも知り合って、胸像を製作したり・・。

MY FRIEND SALVADOR DALI By Arno Breker.jpg

訳者あとがきによると、本書はブレーカー自身がドイツ語で書いたものが
フランス語に翻訳されて1970年に出版されたものの日本語版だということです。
今回、興味が湧いたのでブレーカーの作品もいろいろと調べてみましたが、
本書に書かれていない第三帝国関係者の胸像も結構、作成していて、
ヒトラーやリヒャルト・ワーグナーは当然ながら、ゲッベルス
シュペーアの奥さんマルガレーテ、ゲーリングの愛娘エッダちゃんまで・・。

Breker_portraet_Goebbels_Edda Goering.jpg

ドイツ人ながらも芸術家同志の付き合いを大切にし、
フランス人の友人を助けた経緯なども書かれた本書ですが、
ヒトラーの側近の一人としての、今まで読んだことない様々なエピソードが楽しめました。
また、単なる側近ではなく、ヒトラーの認めた芸術家としての彼に絡んでくる
シュペーア、ゲーリング、そしてボルマンの芸術観もなんとなく理解出来ました。



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ヒトラーと退廃芸術 -「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

関 楠生 著の「ヒトラーと退廃芸術」を読破しました。

去年の8月にウィリアム・L.シャイラー著の「第三帝国の興亡〈2〉」を読んだ際、
面白かった話のひとつとして、「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」を書いていました。
その時以来、本書が気になっていたわけですが、
まぁ、ドイツ人芸術家をたいして知っているわけでもなく、
果たして独破できるのか・・と心配でしたが、
1992年発刊で253ページの本書に、とりあえずチャレンジしてみました。

ヒトラーと退廃芸術.jpg

「私は生来の芸術家だ」と、度々語ってきたヒトラー。
1907年、18歳の時にウィーン美術学校の入学試験落ち、その評は、
「知力貧弱、デッサンは文句なく、画家への不適正」という酷評です。
そんな屈辱を味わってきた彼ですが、1933年に政権を奪取すると、
第1次大戦中に描いた7枚の水彩画が編集されて、ホフマンによって出版され、
ミュンヘン美術学校の教授はおべっかいっぱいの賛辞を述べます。
「総統が画家としても、芸術家の才能に恵まれていることの証左であり、
当時のウィーンの美術学校を恥じ入らせる」。

hitler-gallery.jpg

しかし総統の絵の質を見抜いていた宣伝大臣ゲッベルスは、
これらを公に展覧することを思いとどまらせ、同意見のボルマンと共に
ヒトラーがかつて描いた300点もの絵を多額の金を使って買い集めて保管するのでした。
本書では白黒ながら、写真や絵画が所々に出てきます。
キャプションもしっかりと書かれていて、
この ↓ 水彩画は複数意見があるものの、ミュンヘンの「アルター・ホーフ」としています。

1914-Hitler-aquarell-hof-alte-residenz-Muenchen.jpg

そんな偉大な芸術家が独裁者になってしまったドイツ。
早速、ゲッベルスの音頭により、「非ドイツ的著作物の焚刑」が華々しく行われ、
プロイセン芸術院のボスであり、ドイツ印象派の巨匠でもあるマックス・リーバーマンも
ユダヤ人の出自により、名誉総裁の称号を返上するなど不幸のなかで死んでいきます。

Nazi book burnings.jpg

また、このようなゲッベルスに対抗する別の勢力が存在。
それは芸術観を異にしたうえに文化面でも、「ナチ党の精神的、世界観的な訓練と
教育の監督」を総統から依頼されているライバル、ローゼンベルクです。
しばしば激しく口論した2人ですが、最終的には総統がローゼンベルクの肩を持つのです。

本書では彼の芸術観を紹介するために、著作「二十世紀の神話」の翻訳版から抜粋。
1ページほどゴッホやゴーギャン、ピカソの名も挙げながら、
「混血児芸術はその不具者の私生児、即ち、精神的梅毒症と画工としての
発育不全との間に生まれたものを、精神の表現として・・うんぬん」
コリャ、やっぱり読むのはムリですね。。

Goebbels Rosenberg.jpg

首都ベルリンのガウライター(大管区指導者)でもあるゲッベルスは1935年、
ナチ党の本拠地ミュンヘンで「ベルリン美術展」を開催します。
実は非公式ながらも近代美術に共感を抱いていたゲッベルスは、
最近、攻撃された芸術家の作品も選抜しますが、
ミュンヘンのガウライターであるアドルフ・ワーグナーが突然介入してきて
気に入らない作品を取り外してしまいます。
書物と違って美術品はそれを見る人によってとらえ方が違いますから、
まだこの時点ではナチにとって何が良くて、何が悪いのか、統一されていないんですね。

adolf-wagner.jpg

やがて”表現主義”は純ユダヤの発明であると公式に言明され、
それらの「退廃芸術」がドレスデンを皮切りに各地を巡回。
ナチ党員たる者は必ずこの展覧会を見に行くように・・と、お達しも出され、
全国にある美術館幹部の首のすげ替えも相次ぎます。

そんななかで、ナチ党の求める芸術家も、これ幸いとのし上がってきます。
純粋な北方人種の淡いブロンドの男女の半身像を多く描いたヴォルフガンク・ヴィルリヒは
アーリア人思想のヒムラーに認められ、兵士らの絵葉書を書くことに・・。

wolfgang-willrich-1940_ss-oberscharfuhrer Ludwig Kepplinger.jpg

また彼は名高い美術館の壁面から、長年に憎み続けてきた作品を取り外す使命にも燃え、
この退廃芸術品狩りで5000点の絵画に、12000枚のデッサンと版画を押収するのでした。

こうして1937年7月、ミュンヘンに新たに完成した神殿のような姿の「ドイツ芸術の家」で
ナチス芸術を謳った「大ドイツ芸術展」が開かれることになります。

Haus der Deutschen Kunst-muenchen.jpg

全国造形美術院総裁アドルフ・ツィーグラーが審査委員を組織しますが、
ヒトラーが「世界で最も優れた肉体画家だ」と語る、姪のゲリの肖像も描いた古参党員です。
しかし彼の描く女性は表情に乏しく、全体としてまったく生気に欠け、
"あの部分"だけを精巧に描いたことから、「ドイツ恥毛の巨匠」、「全国恥毛画家」と
あだ名されていた人物だそうです。

ziegler.jpg

審査委員のひとりにはコンラート・ホンメルという画家もおり、
彼は1927年からヒンデンブルク大統領を始めとして、シュライヒャーパーペン
ゲーリングシャハト、そしてヒトラーらお歴々の肖像画を描いてきた人物です。
こんなのは ↓ 有名ですね。

Der Führer im Kampfgelände _ Conrad Hommel.jpg

彼の手にかかれば、ヒムラーもこんな ↓ 英雄風・・。

Conrad Hommel _himmler.jpg

そんな審査員たちのお眼鏡に適った芸術作品ですが、ゲッベルス、トロースト夫人
審査結果を見たヒトラーは「芸術家による審査委員会でやればこんなものだ」と激怒します。
「こんなガラクタを展観するくらいなら、一年延期した方がいい」。
「ドイツ恥毛の巨匠」、ツィーグラーは蝶ネクタイで、「どうですか!」と自信満々なものの、
ゲッベルスは内心「やっちまった・・」と思いつつも、「総統、そうっすね~!」という表情です。。

Hitler, Goebbels, and Adolf Ziegler, Gerdy Troost.jpg

紆余曲折の末、7月18日にいよいよ3ヵ月に渡る「大ドイツ芸術展」の開会式。
並々ならぬ力を入れていたヒトラーは、1時間にも及ぶ長広舌をふるいます。
「キュービズム、ダダイズム、未来派、印象主義等々は、我々ドイツ国民と何の関係もない!」
では、ナチスの求める芸術は・・・? というと、
「美しいものを好ましく・・描く使命を有し、真実に忠実な描写を心がけるべきだ」。
ということで、大地や農民を描いたものが多く、
女性の裸体は「愛と欲望のナチズム」にあった「農村のヴィーナス」も出てきました。

Arno Breker bei der Arbeit an Prometheus, Fotografie, ca. 1935.jpg

そして筋肉隆々の巨大彫刻もナチ党のお気に入りで、巨大建造物には欠かせません。
本書で紹介されるアルノ・ブレーカーという彫刻家を調べていたら、
2011年の「パリとヒトラーと私 - ナチスの彫刻家の回想」 に辿り着きました。
あ~、この有名な写真でヒトラー、シュペーアと一緒に写っている人なんですね。
そういうことなら、コレも読まなければ・・。

Speer, Hitler, Arno Breker  in Paris.jpg

「大ドイツ芸術展」から一日遅れて始まったのが「退廃芸術展」です。
「ドイツ芸術の家」からそれほど離れていない、石膏模型の収容場所だった建物・・。
3日前にはヒトラーも下見に訪れ、10分ほどで退場。
ゲッベルス曰く、「これまで見たうちで最もひどいもの。まったくの狂気だ」。
ヒトラーの目も完全に死んでいますね。。

degenerate art hitler_Goebbels.jpg

そして「青少年には見せられない、いかがわしい代物」ということで、
18歳以下は入場禁止。それが逆にセンセーションを呼び、
「大ドイツ芸術展」の一日の入場者数6000人に対して、多い時には4万人が押し寄せます。
4ヵ月で200万人を動員する大ヒットにゲッベルスも大満足で、
著者はシャイラーの「ゲッベルスが腹を立てて閉鎖した」のは間違いだと指摘します。

degenerate art.jpg

どんな最悪の退廃芸術だったのかというと、シャガール作「ラビ」、ディクス作「傷痍軍人」。
ルードルフ・ベリングの作品は、「大ドイツ芸術展」にも有名なヘビー級ボクサー、
マックス・シュメリングのブロンズが出ていたことで、問い合わせが相次いだために撤去。
また、数点あった「叫び」でお馴染みのムンクの作品も、
ノルウェー公使館から異議を唱えられて、やっぱり撤去・・。

Otto Dix, Kriegskrüppel 1920.jpg

パンフレットの表紙に使われたのはオットー・フロイントリヒの「新しい人間」で、
彼は1943年に南フランスで逮捕され、ポーランドの収容所で死亡・・。

Die Entartete Kunst Ausstellung.jpg

会期を終えた「退廃芸術展」はベルリン、ハンブルク、ウィーン、フランクフルトと
1941年まで各都市を巡回し、大盛況。
そしてここにもう一人の偉大な美術品蒐集家が登場。ご存じ、ゲーリングです。
退廃芸術作品の中から、カリンハル用に国際的に評価の高いものを選ばせて、
ゴッホとムンクを各4点、セザンヌ1点を手に入れるのでした。

Göring vor einer Skulptur in der Ausstellung Entartete Kunst in Dresden..jpg

さらに国外追放にするため、もちろん外貨獲得の意味も込めてオークションが開かれます。
そのなかにはマチスとピカソが各4点、シャガール、ゴーギャン、ゴッホなど豪華125点。
ピカソは「ソレル一家」、「二人のアルルカン」、「女の胸像」、「アブサンを飲む女」。
ゴッホは「自画像」です。

Degenerate-Auction_Vincent van Gogh 1939..jpg

最後は戦後に3回開かれた「退廃芸術展」の様子。
名誉委員会のメンバーは、当時、退廃芸術家の烙印を押されたオットー・ディクスらです。
そして1974年には再現した「大ドイツ芸術展」が・・。
もちろんナチス時代の芸術を鑑賞することに賛否両論、ボイコットも起こり、
芸術作品の立場は逆転するのでした。

1991年にドイツと米国で「退廃芸術:ナチス・ドイツにおけるアバンギャルドの運命展」が開かれ
1995年には日本でも縮小した形の 『芸術の危機 - ヒトラーと≪退廃芸術≫展』が
開催されていたようです。
このパンフレット、446ページもあって、ちょっと読んでみたいですね。

芸術の危機.jpg

最初にビビッていたのがウソのように、一日で独破してしまいました。
著者はドイツの芸術に詳しいだけでなく、ナチス・ドイツについても良く知っています。
ミュンヘン大管区指導者ワグナー、科学・教育・文化相のベルンハルト・ルストなど、
シブい人物が登場する度に調べたり、
知らない画家や、その絵画もWebでカラー写真を探しながら楽しみました。
最後に著者の経歴を見てみたら、あの「ヒトラー・ジョーク」の方でした!

1930年代にはナチスによる弾圧、戦後はその逆が起こるという、
ナチ時代に評価を得たからダメっていうのもおかしな話で、
例えば、ヒトラーと同じような巨大建築志向をもっていたら、ダメなのかと思いますね。
美術、芸術、建築物に対する趣味は千差万別ですから、
どういう形であれ、それを押し付けるのは良くありませんが、
余計にゲルマニア計画なんかを詳しく知りたくなってしまいました。





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ポルシェ博士とヒトラー -ハプスブルク家の遺産- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

折口 透 著の「ポルシェ博士とヒトラー」を読破しました。

第三帝国モノにはある意味、「付き物」であるポルシェ。
ポルシェ・ティーガーにエレファント、マウスといった訳あり戦車に
国民車であるフォルクスワーゲン
1988年発刊で195ページの本書は以前から知っていましたが、
ニセドイツ<3>」と「宮崎駿の雑想ノート」で
ポルシェ博士が紹介されたこともあって、本書を読んでみることにしました。

ポルシェ博士とヒトラー .jpg

著者はモーター・マガジン誌の編集長を務めた方で、
「はじめに」では、フォルクスワーゲンという矛盾に満ちた車の創られた動機、
その技術の流れを、ポルシェとヒトラー、2人を通じて解き明かそうとした・・、
ということで、1875年生まれのフェルディナント・ポルシェの生い立ちへ。

hitler_Ferdinand Porsche.jpg

オーストリア=ハンガリー帝国のボヘミア地方のマッフェルスドルフ生まれ。
チェコスロヴァキアの首都プラハよりも、ドイツ国境まで10キロ満たず・・という場所です。
当時、実用化されつつあった電気に興味を示し、屋根裏部屋で実験を繰り返す少年。
18歳でウィーンへ上京し、電気装置のメーカーに勤めます。
23歳の時にローネル・ポルシェという電気自動車を製作し、
1900年のパリ万博にも出品されて大反響・・。
その5年後にはオーストリア最大の自動車メーカーである
アウストロ・ダイムラー社の技師長に抜擢されます。

ferdinand-porsche-in-the-lohner-porsche-car.jpg

そんな頃、やっぱり18歳でウィーンへ上京してきたのは14歳年下のヒトラーです。
画家を目指して挫折、浮浪者のような生活・・と、若きアドルフくんをしっかりと紹介。
そしてヒトラーの家系も元をたどればチェコに近く、ポルシェと同じボヘミア系であり、
いずれにしろ2人ともハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国出身なわけですね。

そして本書はオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊する第1次世界大戦と、
20世紀初頭のT型フォードに代表される自動車開発の歴史などを織り込みながら進み、
ヒトラーの台頭、ポルシェのダイムラー・ベンツでの業績へと続きます。
メッサーシュミットに搭載されたDB600エンジンの設計などもやってるんですねぇ。
しかし一癖も二癖もある技術屋ポルシェは、1931年、遂に独立します。

Bayern,_Hitler.jpg

その翌年、火の車状態のポルシェの元にやって来たのはソ連の技術使節団です。
「ソ連政府の技術的進歩、動力化および電気設備と
その可能性を貴殿の目で判断して頂きたい・・」。
好奇心旺盛なポルシェは申し入れを快諾してキエフ、クルスク、オデッサへと旅をし、
自動車工場に戦車、トラクター、航空機工場を視察。
本書ではスターリンの目的は、ポルシェ本人を手に入れることであり、
「国家設計家」の称号を与えようとした・・としています。

1923_Ferdinand_Porsche.jpg

第1にレーシングカーをつくること。
第2に大衆のために廉価な乗用車をつくること。
第3が優れた農業用トラクターをつくること、というのがポルシェの夢。
第3だけならその可能性はあるにしても、それ以外は難しいと悟った彼は丁寧にお断り・・。

ドイツではナチスが政権をとって間もない1933年2月に開催された
恒例のベルリン・モーターショーでヒトラーが演説します。
「国家を真に支えている国民大衆のための自動車であってこそ、文明の利器であり、
素晴らしい生活を約束してくれる。我々は今こそ「国民のための車」を持つべきである」。

1933  Adolf Hitler admires the new Mercedes-Benz W25.jpg

暫くして総統官邸に呼び出されたポルシェ博士。
ヒトラーは国民車についてのアイデアを述べ、1000マルク以下の自動車開発計画の提出を求め、
1934年6月、ドイツ帝国自動車産業連盟(RDA)とポルシェ設計事務所は正式に契約を交わします。
その翌年のモーターショーではヒトラーの演説にもプレッシャーが・・。
「私は優れた技術者、ポルシェ博士がその才能のすべてを注ぎ込んだドイツ大衆車の
設計を完了し、試作車のテストを行うまでになったことを大いに喜びとするものである」。

VW Porsche_Hitler.jpg

ドイツ労働戦線に直属するフォルクスワーゲン生産会社が設立され、
フリッツ・トート率いる建設部隊によってハノーヴァー近くの荒地に
生産台数100万台を目標とする超近代工場が設立。

Construction of the power plan complex at Wolfsburg.jpg

戦後、この場所が日本代表キャプテンのいるヴォルフスブルクとなるわけですね。
メインスポンサーは当然、フォルクスワーゲン。

Hasebe Wolfsburg.jpg

そしてこの工場の起工式でヒトラーは、この大衆車を「KdF」と命名します。
KdFとはドイツ労働戦線の下部組織である「歓喜力行団」のことであり、
確かに当時のポスターは「KdF Wagen」となっていますね。

KdF wagen.jpg

毎週6マルク、4年間払い込めば手に入る予定のこの国民車ですが、
1939年には戦争が勃発し、結局は国民の手には渡らず、
「キューベルワーゲン(たらいの車)」として、軍事用に大量生産されるのでした。

kubelwagen.jpg

後半には「独裁者と自動車レース」という章が出てきました。
自動車好きのヒトラーだけではなく、兄貴分のムッソリーニも自動車レースを重要視。
1927年にはミッレ・ミリア(1000マイル)レースを企画し、1933年にはアルファ・ロメオを国有化。
「イタリアのためにレースに勝て」という電報をチーム監督のエンツォ・フェラーリに送るほど・・。

The Racing Team Alfa Romeo,Enzo Ferrari, Benito Mussolini,.jpg

そんなイタリア車に勝つべく、政権をとったヒトラーはダイムラー・ベンツととポルシェに
レーシングカーの設計を打診し、すでに設計図の完成していたポルシェ・エンジンを
アウト・ウニオン社で製作させます。この会社は後のアウディなんですね。
こうして、ベンツとポルシェのPワーゲンと呼ばれるレーシングカーは
グランプリ・レースでイタリア勢を圧倒・・。
レーサーとしてはフォン・ブラウヒッチュ陸軍総司令官の甥マンフレートもご活躍です。

Manfred von Brauchitsch.jpg

一度もレース場には姿を見せなかっヒトラーですが、
ベルリン・モーターショーの開幕式典では総統官邸の前にレーシングマシンを整列させ、
ショー会場までベルリンの街中を走らせて満足するのでした。

1939, A racing car passing by Hitler.jpg

最後は戦車の章です。
ポルシェ博士は1943年ごろに「ドイツ戦車委員会」の議長を務めていたそうで、
お馴染みポルシェ・ティーガーがヘンシェル社に敗北した話や、
クルスク戦に向けて回転砲塔を持たないフェルディナンド(エレファント)の製造、
そして超重戦車マウス・・と、ポルシェ寄りの本書でもダメ出しされます。

Ferdinand Porsche Tiger(P).jpg

戦後はフランス軍占領下で対独協力者として逮捕されたルイ・ルノー
別荘の門番小屋に幽閉されたという出来事まで書かれていました。
ヴィトゲンシュタインは自動車に乗らないので、本書にも多く書かれている
自動車開発の話やフォルクスワーゲンのエンジンやデザインの特性は端折りましたが、
なかなか幅広く書かれていて、初めて知った興味深いエピソードもありました。

Adolf Hitler was presented with his own volkswagen convertible.jpg

同じ、グランプリ出版からは2007年に「ポルシェの生涯―その時代とクルマ」
という本が出ていました。
コレを書いている今、気がつきましたので、タイトルからもひょっとすると本書よりも
ポルシェ博士の人生については詳しく書かれているのかも知れませんね。





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ドイツ軍の小失敗の研究 -第二次世界大戦戦闘・兵器学教本- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

三野 正洋 著の「ドイツ軍の小失敗の研究」を読破しました。

本書をご存知の方、または読まれた方も多いのではと思いますが、
このようなネガティブなタイトルの本はなんとなく内容が想像ができるので
今まで敬遠していました。
1996年に単行本、本書は2007年の新装版の文庫ですが、
300ページほどですから、まぁ軽い気持ちで読んでみました。

ドイツ軍の小失敗の研究.jpg

「まえがき」では、超重戦車「マウス」などの100㌧戦車については
前著に書いているため割愛すると宣言されているとおり、
著者は1995年に「日本軍の小失敗の研究」と、本書の後の1998年にも
「連合軍の小失敗の研究」も書いている、小失敗研究の専門家です。
そして第1章「総合的な失敗」では、第1次大戦における2正面戦争での敗北を教訓とせず、
「ヒトラー、ゲーリングらは僅か21年後、再び、英仏に宣戦を布告するのであった」。
う~ん。ドイツが英仏に宣戦布告したって本・・、たまにありますね。。

Hitler_Goering.jpg

続いてスペイン内戦での戦車と航空機に触れ、ドイツ軍のⅡ号戦車の性能が
ソ連のT-26BT5快速戦車の足元にも及ばなかったのに、
その後はソ連の軍事力、兵器開発力を過小評価して、1941年に攻め込んだとして、
「これは一体、どのような理由からなのであろうか」と結びます。
結局、著者が読んだ歴史書には「本当に知りたい事柄」が書かれていなかったようで、
疑問を抱えたまま、この件についてはスルー・・。

panzer2-parade.jpg

「最悪のナンバー2 ゲーリングの大罪」として、ダメ国家元帥が権力を握り続けた
ルフトヴァッフェについて語ります。
ミルヒを中心にウーデットイェショネクといった高官2人が自殺するという内部の軋轢も紹介し、
「ヒトラーが冷静に側近たちを見つめ、より有能なケッセルリンクリヒトホーフェン
バウムバッハなどを空軍のトップに据えておけば、状況はかなり変わったはずである」。

1933, Ernst Udet, Erhard Milch and Sepp Dietrich.jpg

それからイタリアを筆頭としたルーマニア、ハンガリーなどの同盟国の存在。
特にイタリアは戦力だけは充実しているのに、ギリシャ北アフリカで敗北を重ねたことで
ドイツ軍は救援に向かわねばならなかったという話。

Italienische Soldaten.jpg

暗号機「エニグマ」を解読したとされる連合軍の「ウルトラ」では、
「解読されたとはとうてい考えられない」として、
「一般の戦史に書かれている事柄は虚構と判断したい」そうです。
ほ~。。そうですか。ヴィトゲンシュタインはエニグマ本を読んだことがないので、
今度、「エニグマ・コード 史上最大の暗​号戦」を読んでみますかねぇ。

ドイツ3軍の他に武装SSが存在し、陸軍との摩擦があったという定番以外にも
最弱歩兵師団である「空軍歩兵師団」にも触れて、
ゲーリングがこのような組織を作ろうと思い立った真の理由は、
「ヒトラーは直属の親衛隊を持っている。自分も直属の戦闘部隊を持ちたい・・という
単純な欲求によるものとしか考えられない」ということですが、
この役立たず師団創設の経緯は「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII」にも書かれていましたし、 
直属の戦闘部隊なら、降下猟兵や「ヘルマン・ゲーリング師団」がそれに当たると思います。

panzer-hgtroops_thb.jpg

他にも原爆開発はユダヤ人排除によって遅延し、ウクライナなどでの立ち振る舞いから
ウラソフによる「ロシア解放軍」設立にも言及し、ナチス政策の不備を挙げています。

第2章は「戦闘車両と火砲」です。
ドイツ軍はⅢ号戦車からティーガーまでの4種類の戦車を合計2万3000両生産したのに対して、
米国はシャーマンを5万3000両、ソ連はT-34を5万両も作り、連合軍との差は5倍とします。
そういうわけで、作りなれているⅣ号戦車を量産し、高性能のパンターに絞っての
大量生産とするべきだったと、「ティーガーの二種は無用の長物・・」といった解釈です。
もちろんティーガーが強力な戦車であったことは認めたうえで、
生産に手間がかかり過ぎるという観点からですね。

Schwere Panzer Abteilung 503.jpg

ティーガーがダメであれば、「列車砲ドーラ」なんてのはお話になりません。
一応、その巨大さを「戦艦大和」と比較します。
口径は大和の460㎜に対して、ドーラは800㎜、砲身長は21.3mに対して、32.5メートル。
砲弾に至っては大和の5倍の重さを撃ち出す史上最大の怪物ですが、
せいぜい「セヴァストポリ要塞」に登場したり、
1944年8月の「ワルシャワにおけるユダヤ人蜂起」に姿を見せたということです。。
著者は兵器には詳しいんでしょうが、わけわからん表現も所々に見受けられます。
あ~、1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」とゴッチャになってるんですねぇ。

80 cm Kanone schwerer Gustav_Dora.jpg

第3章は「ドイツ空軍の小失敗」。
1940年の「バトル・オブ・ブリテン」におけるBf-109の戦いぶりにおいて、
1930年代の中頃に日本海軍が「増槽」と呼んでいた、ドロップタンクを装着しなかったことに
疑問を呈し、中型の双発爆撃機、He-111Do-17Ju-88の3種の性能もイマイチかつ、
同程度の大きさの爆撃機を複数生産したことも失敗とします。

A flight of Dornier Do-17 bombers in a training exercise.jpg

4発爆撃機もFw-200コンドルは所詮、旅客機からの改造であり、
He-177グライフも2基のエンジンを1つにまとめるなどという凝ったことをやらず、
4つのプロペラという当たり前の設計を最初からしていればよかったということですね。

ジェット戦闘機では、有名なMe-262ではなく、ハインケルが先行開発していた
He-280を生産しなかったドイツ軍首脳の無能ぶりを詳しく検証します。

He 280 V1.jpg

急降下爆撃機が英国戦艦を1隻も沈めることができなかった・・という話は、
面白かったですね。
上空からの爆弾では防御力のある戦艦を沈めるのは困難であり、
それを成し遂げるには「魚雷攻撃」、すなわち雷撃機が必要ということです。
確かにドイツの雷撃機って聞いたことがないですね。
マルタ島攻防戦」でもイタリアの雷撃機が頑張ってたのが印象的だったくらいです。 

blitzkrieg.jpg

高射砲をいくら増やしても連合軍爆撃機編隊への損害は頭打ちという件では、
米国が開発していた近接信管(マジックヒューズ)を開発できなかったのが残念・・として、
「もしこのマジックヒューズ付き砲弾があれば、撃墜率は5倍~10倍まで上昇したはずであった」
と断言します。
この信管は知りませんでしたが、そんな凄い代物なんですか。

ロケット戦闘機ナッターミステルにも触れながら、様々な試作機も紹介。
なかでもブローム・ウント・フォスBV141偵察機は左右非対称の変わりモノで、
操縦は極端に難しいであろうことはシロウトでもわかります。
こんな ↓ 写真を見ると、とても完成形とは思えませんね。

BV 141.jpg

第4章は「ドイツ海軍の失敗」。「小失敗」じゃなく「失敗」なのは
英国の海軍力と比較して、「戦う前についていた勝負」としているからなんですね。
特に空母グラーフ・ツェッペリンの建造が始まっては中止を繰り返し、
遂には完成を見なかったことが大きな失策であったとします。
しかしその要因は「翼のあるものは自分のもの」と公言するゲーリングによる
政治的圧力と見るべき」としていますが、コレはどうかなぁ。。

grafzeppelin.jpg

最後の第5章では「ドイツ軍の優れていた部分」を無理やり紹介します。
個々の兵士としては特に粘り強く、「電撃戦」を編み出し、突撃砲も1万台量産。
車両の修理・回収部隊の手腕は超一流といった具合。
空軍ではV-2を含めたV-1、に、誘導ミサイルHs-293、誘導爆弾「フリッツX」の開発。
海軍の水上艦隊には著者はなぜか厳しく、よってUボートのⅦC型を量産を進め、
そのUボート・ブンカーの耐久性を褒めるくらいです。

fritzx.jpg

読んでいて思ったのは「小失敗」の基準が一定ではないことです。
著者の考える良い兵器とはコストが安く、大量生産が可能で、革新的なアイデアで、
1950年台以降も古くならずに役に立つような素晴らしい兵器が、然るべき時に完成し、
効率よく運用できるモノ・・といった具合に感じました。
そしてうまく開発できなかった理由が不明だと、たくさん読んだ本に書かれていないとか、
やれヒトラーが悪い、ゲーリングが悪いと、短絡的な推測に終始します。

ドイツ軍全体としても1939年から戦争がはじまり、しかもそれが1945年まで続く・・
などと考えていた人間は皆無ですし、戦局も相手も刻々と変化。
後付けでもって、「あの時、これを選択していれば・・」ってことならば、
ヴィトゲンシュタインでさえ、ほとんどの兵器と戦略、戦術にダメ出しできますよ。。

Bel Utility Tractor.jpg

巻末の参考文献を見てみると、パウル・カレルの戦記に始まり、
朝日ソノラマの戦史シリーズ、第二次世界大戦ブックスがかなり多く、
ジャーマンタンクス」や、「第三帝国の興亡」なども挙げられていますが、
それらの本はこの「独破戦線」でも半分は紹介したモノでもありますし、
決して悪い本ではないものの、言ってしまえば古典の入門編のような書籍たちで、
コレらを元本にして「研究」とか、「教本」って謳っていいのか・・? と疑問に感じました。

特に戦略空軍についての分析は「東部戦線の独空軍」や「最後のドイツ空軍」の
パクリにも近いですし、T-34戦車の優越性の部分は読んでいても
無敵! T34戦車」の受け売りであるとすぐにわかります。
重戦車大隊記録集」を喜んで読んでしまうような人間にとっては、生産台数から
「ティーガーの二種は無用の長物・・」という評価をアッサリ下されると、
冷静に読もうとするのはなかなか大変です。
ドイツ軍の兵器ファンでも若干「Mっ気」があれば、悶絶しながら楽しめるかも知れません。





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