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ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジョン・H. ウォラー著の「ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争」を再度読破しました。

2005年発刊で701ページの分厚い本書を買ったのは6年以上前のこと。
まだこのBlogを始める前に読みましたが、知識も乏しい頃でしたので、
イマイチ理解できなかったように思います。
そんなわけで今回、再読してみました。

ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争.jpg

第1次大戦にまつわる一つの小さなドラマから本書は始まります。
スペイン沖で潜航するド・ラ・ペリエール艦長のUボートの目的は、
秘密情報部員として暗躍していたカナリス中尉を救出すること・・。
それ以降、スペインではフランコ少将など多くの友人を作ったカナリスは、
1935年、国防軍防諜部(アプヴェーア)の長官に就任します。
なるほど・・、表紙に嘘偽りなく、カナリスが主役ですね。

wilhelm canaris.jpg

そしてSSの防諜機関SDのトップとしてハイドリヒが頭角を現し、
かつての上官であるカナリスとの複雑怪奇なライバル関係に・・。
ソ連赤軍の至宝、トハチェフスキーを粛清に追い込む陰謀などが紹介されます。
以前に紹介した「ヒトラーとスパイたち」と似た印象もありますね。

そのハイドリヒのゲシュタポが名付けた軍部内の「反ヒトラー派」である
「ブラック・オーケストラ」は、リーダーでありながらも陰の存在であるカナリスを筆頭に、
片腕であるハンス・オスター、ベルリン警察署長のヘルドルフ
刑事警察(クリポ)の長官ネーベといった重要な同志たちも・・。
やがてズデーテンラント危機が訪れると、ハルダーヴィッツレーベン両将軍も巻き込んだ
軍部による反乱も計画されます。

Erwin_v_Witzleben.jpg

このような展開はいろいろな書物で書かれていますが、
本書ではこの時期からの「穏健派」としてゲーリングを大きく取り上げています。
すなわち、彼にとっては大ドイツ帝国のNo.2として、優雅に暮らしたい・・という願望が強く、
チェコやポーランド、ましてやフランスや英国、ロシアとの戦争など望んでいません。
総統がいかなる形であれ排除されれば、自らが正式な後継者として平和を維持する・・
と考えるゲーリングの利用価値を見逃せないとする者もいれば、
ゲーリングは絶対に御免とするカナリス・・と反ヒトラー派でも意見は分かれます。

Hermann_Göring.jpg

1939年6月、反ヒトラー派が英国に送り込んだのはアダム・フォン・トロット・ツー・ゾルツです。
外務省の官僚としてオクスフォード留学経験もある人物ですが、
この人は「ベルリン・ダイアリー」に出てきましたねぇ。
そしてハリファクス外相と面会し、「ヒトラーの脅かしに屈しないことが重要」と警告しますが、
全面的には信頼されず、チャーチルのような強烈な反ナチ主義者も疑いの目で見るのでした。

Adam von Trott zu Solz.jpg

そんな英国に対して、SDの完璧な謀略家としてシェレンベルクが登場してきます。
オランダで英国MI6の2人を誘拐した「フェンロー事件」を詳細に・・。
また、フランスへの侵攻が計画されると、お偉いさんでもあたふたしてきます。
参謀総長のハルダーはヒトラーの占星術師に賄賂を送って買収し、
星座の配列が不吉であるから西部において攻勢に出る時期ではないと警告させようと提案。
ベルギーにドイツ空軍機が墜落して、侵攻計画が敵の手に渡ったのでは・・と大騒ぎになると、
面目丸つぶれとなったゲーリングは、千里眼だという人物に依頼して
重要書類の行方を透視してもらい、自宅の暖炉で書類を燃やすという模擬実験を行った結果、
両手に大やけどを負う始末。。

副総裁のヘスが英国に旅立ち、それをスターリンが独英の工作だと判断する展開では、
英国のMI6に巣食うNKVDのスパイとして、あの"キム"・フィルビーが・・。
これ以降、頻繁に名前の出てくるフィルビーは超有名な2重スパイですから、興味深く読みました。
その他、ドイツ国内のスパイ組織「赤いオーケストラ」や、ゾルゲといったソ連のスパイたちも・・。

Kim philby.jpg

ドイツのアプヴェーアとSD、英国のMI6(SIS)、ソ連のNKVDと来て、
中盤から中心となるスパイ組織は1941年に発足した米国のOSSです。
戦後はCIAに形を変えたこの組織もある意味本書の主役であり、
長官のドノヴァンやスイス・ベルン支局長のアレン・ダレスについてもかなりページを割きます。
それというのも著者は戦時中、OSSのカイロ副支局長だったという経歴なんですね。

そういえば最近、ドイツのメルケル首相の携帯電話が
NSA(米国家安全保障局)に盗聴されていた事件から、さらに広がりを見せています。
どんなところに落ち着くのかはわかりませんが、
米国が作った通信技術を各国が使っている以上、そりゃ情報収集するでしょう。
これも、現代の「スパイ戦争」と呼べるのかもしれませんが、
ドイツの携帯電話も「エニグマ」的な、独自の防諜技術にするしかないですかね。。

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ハイドリヒ暗殺の章では、この「金髪の野獣」を生い立ちから詳しく紹介。
悪名高い女たらしの性癖について、ゲシュタポの資金で「サロン・キティ」という売春宿を作り、
外国の外交官をもてなす遊行の場として正当化したものの、
所詮は自分自身が楽しむための環境を作りたかっただけ・・と推測し、
異常性欲の持ち主で、深酔いするとサディストに変貌した・・ということです。
あんまり根拠はないような・・。

Heydrich-1940.jpg

ボルマンゲシュタポのミュラーがソ連のスパイ、またはソ連に寝返ったという例の説にも言及。
しかしシェレンベルクの"若干怪しい"回想録と、ゲーレンの回想録がネタとなっており、
まぁ、やっぱり推測の域は残念ながら出ませんね。

Martin Bormann_12.jpg

ただし、戦後にチェコ防諜部から西側へ亡命したヨセフ・フロリックという人物によると、
1955年にミュラーが変名を使い、南米で暮らしていることが突き止められ、
チェコのバラク内相によって誘拐、プラハに連行、投獄して尋問・・という話も・・。

なーんてことを書いていたら、ゲシュタポ本のレビューのアクセス数が突然、爆発したので
何があったのかとWebで調べてみたら、「ユダヤ人墓地に埋葬か=ゲシュタポのトップ」
というニュースがありました。



『ナチス・ドイツのゲシュタポのトップを務めたハインリヒ・ミュラーについて、ビルト紙は
10月31日、遺体がベルリンのユダヤ人共同墓地に埋葬されていることが判明したと報じた。
ビルト紙によると、ベルリンの「ドイツ抵抗運動記念館」のトゥヘル所長が発見した資料で
埋葬が確認された。トゥヘル所長は「遺体は45年8月には見つかっていた」と指摘。
将官の制服を身に着け、内ポケットには写真入りの身分証明書が入っていたという。』 

さぁ、どうでしょうか?? コレだけじゃまだ信じられないですねぇ。
あの時期に「将官の制服に写真入りの身分証明書」って、そんな馬鹿とは思えません。
自分と似た拘留者を殺して、替え玉にするくらいは朝飯前の男ですよ。
それにしても先月のチトーの奥さんが亡くなった件といい、こういうタイミングが多いですね。

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ハイドリヒがいなくなった後、ヒムラー、シェレンベルクが直接ライバルとなったカナリス。
アプヴェーアとしては連合軍の北アフリカ上陸の「トーチ作戦」の情報も入手できず、
ヒトラーからも信用を失いつつあります。
反ヒトラー派の逮捕も始まり、陰のボスであるカナリスにも魔の手が迫りますが、
ギリギリになると、なぜかヒムラーが手を引くのです。
コレについてはカナリスがヒムラーの決定的な「何か」を握っていたと推測し、
「かつてヒムラーとハイドリヒが同性愛の関係にあった」という噂話も挙げています。
まぁ、ヒムラー自身がSS隊員の同性愛者は死刑って決めちゃってますから、
そんなことが暴露されたら、まさに自爆です。。

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スターリングラードで第6軍が降伏すると、「ドイツ将校同盟」、「自由ドイツ国民委員会」といった
捕虜から成る反ナチ組織がソ連の指導で登場してきます。
そしてパウルス元帥の他、フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ大将にも触れられますが、
名門の出で柏葉章を持つこの人は以前からかなり気になっているんですね。

というのもロシアから「ヒトラー打倒」を訴え、母国では当然、反逆罪で死刑判決が下りますが、
戦後、捕虜として10年もの間、拘留されて1955年になってようやく帰国できたものの、
新生ドイツ連邦軍は彼の階級と年金支給を拒否・・。
「ソ連に寝返った裏切り者」という解釈は理解できますが、
同じ「反ヒトラー」として名誉を回復されたシュタウフェンベルクとの差は、一体なんなんでしょう?

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1944年7月20日の「ワルキューレ作戦」は失敗し、シュタウフェンベルクらは銃殺。
逃亡していたゲルデラーを尋問したのが、オーレンドルフだったというのは面白いですね。
そしてイタリアでは元ヒムラーの幕僚長だったSSのカール・ヴォルフ
OSSを相手に降伏交渉に明け暮れます。
いままでなぜヴォルフが左遷させられたのかがわからずにいましたが、本書によると
ヴォルフが妻と離婚し、再婚を認めて欲しいとの要請をヒムラーが断ったことで、
ヴォルフは直接ヒトラーに訴え、それが了承されたことでヒムラーが激怒。
自分の頭越しに訴え出た行為に、ヴォルフのヒトラーに対する強い影響力、
これらがヒムラーの心の中に深い怨恨を植え付けた・・ということです。
SS全国指導者だって、「鬼嫁」から逃げたくせにねぇ・・。

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そして最後にはフロッセンビュルク強制収容所で処刑されるカナリスの姿。。
ロープではなくワイヤーで吊るす、緩慢な死が訪れるような残忍な殺し方です。
ここの所長はシュタルヴィツキという名のサディストと書かれていますが、
マックス・ケーゲルではないでしょうか?
そういえば本書ではフランスの将軍がゲオルグ将軍だとか、ギャメラン将軍といった表記ですし、
ドイツの将軍もマンスタインとか、一般的な戦記の人名は結構無視されていました。
ロンメルが飛行機で重傷を負った・・という記述も出てきましたが、
コレは「飛行機に攻撃された・・」の翻訳ミスのような気がします。

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原題は「ヨーロッパの見えない戦争」というものです。
「スパイ戦争」は良いとしても、「ヒトラー暗殺計画」がバーンとタイトルに来るのは
ちょっとどうか・・、微妙なところですね。
1930年代からの参謀本部のヒトラー排除計画は前半から書かれていますが、
実際、1944年の「ワルキューレ作戦」は最後に少し出てくる程度ですし、
それを期待する読者には拍子抜けかも知れません。
そう言うヴィトゲンシュタインも、ワルキューレだと思って買ったのかも・・。
ただし、反ヒトラー派と英米の諜報機関との関係などを知りたい方には
申し分ない一冊だと思います。



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そこに僕らは居合わせた -語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

グードルン・パウゼヴァング著の「そこに僕らは居合わせた」を読破しました。

4月の「ナチズム下の女たち -第三帝国の日常生活-」を読んで以降、
昨年に発刊された本書が気になっていました。
1945年のナチス・ドイツ敗北の時に17歳のナチ少女だった著者による20篇の物語。
自身の体験から見聞きしたエピソードが綴られた短編集です。

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最初は「スープはまだ温かかった」というタイトルのお話から・・。
独ソ戦も始まった1941年秋、14歳の少女は3人の妹弟のお守をしています。
食糧は配給制となり、母親はお店の行列に並んだまま、お昼の支度も出来ていません。
そんなとき近所のビルンバウム家に窓のない黒いトラックが止まり、制服の男が2人・・。
「急いで! ビルンバウムさんが連れて行かれるわ!」と母が息を切らせて帰ってきます。
そして出てきたのはユダヤ人の御主人、ビルンバウムさん。
続いて親友だったエルスベートと姉のノラ、お爺さんも奥さんに手を引かれて出てきます。
パニックになったお爺さんを乱暴にトラックに乗せる様を見て、野次馬みんなで大笑い。

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開け放たれたドアからはすでに野次馬の一部が空になった家の中に雪崩れ込んでいます。
「こっちよ!急いで!」と家の中から彼女を呼ぶ母の声が・・。
ビルンバウム家の台所ではパンとスープを用意され、ちょうど昼食をとろうとしていたよう。
母は子供たち全員をテーブルに着かせると、コンロの鍋の蓋を取り、
「煮込みスープね。いい匂い」。まるでビルンバウム一家がもう存在しないかのような母。
そしていつものように「いただきましょう!」と声をかけ、家族の昼食が始まります。
母はスープを口に運び、ウットリしたように言います。
「ああ、まだ温かいわ」。

たった9ページのお話ですが、ガツン! ときました。
小さい町での普通のドイツ人とユダヤ人の関係をシンプルかつ残酷に描いています。
これ以降はネタバレしないように、いくつかのお話を紹介してみましょう。

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「九月の晴れた日」。
戦争末期に12歳だった少女。大好きな音楽の先生がいます。
若い教師は兵士として戦地に送られていたため、教師不足となり、
画家は美術の先生に、音楽家は音楽の先生として授業を受け持っているのです。
そんな芸術家肌の繊細な先生はテストや点数を付けるのが苦痛で、全員が「良」。
しかしある日、先生はかつて共産主義者だったことを理由にゲシュタポに連行されてしまいます。
ゲシュタポの逮捕者には容赦しないという恐ろしさは子供でも知っています。
なんとかして先生を助けなくては!
そこで笑顔が魅力的で「ふつうの人」でもわかる演説をする大ドイツ帝国No.2、
ゲーリングに宛てて、先生を釈放してくれるよう彼女たちは手紙を書くのでした。。

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「賢母十字勲章」。
当時、10歳~14歳までのドイツ人少女の入団が義務付けられていた「少女団」。
週に2回、集会があり、歌やゲームの他、総統ヒトラーの素晴らしさについても学びます。
「ヒトラーは犬と子供を愛し、農民と兵士と労働者を重んじ、
国民のために昼夜を問わず働いている。
そして祖国のためにたくさんの子供を産んだ女性を称える」。

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毎年「母の日」に4人以上子供を産んだ母親に賢母十字勲章(母親十字章)の授与が行われ、
その勲章を授与するのは「少女団」の役目です。
白いブラウスに紺のスカート、お揃いのネクタイという制服姿で全員集合し、
村を北から南に行進。最初は3人の男との間に4人の子供を儲けていたベッカーさんの所。
歌を唄って、首に勲章をかけ、花冠を頭に乗せ、握手をして終了。
11番めの受章者は年老いたアンナお婆さんです。
しかし4人の息子は全員が第1次大戦で戦死・・。
アンナお婆さんは「ばかばかしい!」と首から勲章を外すと、そばの肥溜めに・・。

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「追い込み猟」。
15歳の少年ハラルドは地区指導者のおじさんと狩りに出かけます。
一人前の大人として銃を扱える年齢となり、銃を担いで大喜び。
そして保護林から雪原へ追い込み猟でやってきた獲物。
それは捕虜収容所から脱走したロシア人・・。
おじさんは言います。「撃ち殺すのは自由だ。公認の射撃標的というわけさ」。
ハラルドは「殺人だよ!」と抵抗しますが、おじさんは諭すような声で続けます。
「ドイツは戦争をしているんだ。ロシア人は我々の敵だ。君もあと2年もすれば兵士になる」。

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「おとぎ話の時間」。
この話は著者が10歳の時の体験談で、1938年9月の出来事であり、
その2ヵ月後には、あの「水晶の夜」事件が発生したというユダヤ人迫害の時期です。

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毎週土曜日に学校では先生が本を読んだり、お話をする「おとぎ話の時間」が・・。
その日のお話は、みんなと同じ10歳くらいのロゼマリーがひどい歯痛に苦しんでいるものの、
あいにく週末で、掛かりつけの歯医者さんがお休み。
そこで一軒だけ診察をしている医院に行くことに・・。
待合室には金髪の女の子が一人。名前はイルゼです。
診察室のドアが開き、鉤鼻黒い巻き毛、肉厚の下唇、大きく出っ張った耳をした先生が現れ、
イルゼに中に入るよう合図します。

しばらくすると、「先生、やめてください。お願いです。先生!」というイルゼのすすり泣く声が・・。
やがて先生が再び姿を現します。そしてにっこり笑ってロゼマリーを手招き。。
しかしイルゼの姿はどこにも見えません。どんなひどいことをされたのでしょう?

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「ランマー」。
1944年秋、16歳になったばかり少年。父は1年前に戦死。母と59歳の祖父との生活です。
そんな時に16歳から60歳までの男子が招集される「国民突撃隊」のニュースが。。
第1次大戦で鉄十字章を貰っていた祖父と共に12人横隊で町中を行進し、
ついに一人前の兵士として戦闘に加わることができると大興奮です。

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そしてドレスデン空爆の翌日、ついに召集令状が届きますが、
「いまいましい。今から東部戦線で戦うなんて自殺しに行くようなものだ」と語る祖父。
「何を言うんだよ!犬死になんてしないぞ!僕は敵をズタズタにするまで戦う!」

出発の前日、母のために納屋の修理をする2人。
その時、祖父に土間を突き固める重いランマーを足に落とされ、指3本が骨折。
「かわいい孫の足が治るのはどれくらいかかるだろう?」
医者は「複雑骨折してるから、4、5週間というところだ」と言って、祖父と目配せをしています。
大好きな祖父がひとり出発したあとも3週間は包帯でぐるぐる巻き。
悔しさでベッドで泣くだけです。そして祖父は・・。

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と、まぁ、こんなところにしておきましょう。
239ページですから、1日で一気読みしてしまいましたが、
いまから思うと、もっと一話ごとにじっくり考えてみてもよかったなぁ・・とも。

ハンス・ペーター・リヒターの「あのころはフリードリヒがいた」が好きな方にはオススメです。
続編の「ぼくたちもそこにいた」 も同様ですが、タイトルそっくりですね。。
しかし「みすず書房」だけに、決して児童書ではありません。
大人でも充分インパクトありますし、10代の少年少女にも読んで欲しい・・、
そんな不思議な味わいのある一冊でした。







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ヒトラーを支持したドイツ国民 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロバート・ジェラテリー著の「ヒトラーを支持したドイツ国民」を読破しました。

「ドイツ政府は本書のドイツ語の廉価版を製作・配布している」ということでも知られる、
2008年発刊で447ページの本書。数年前から読んでみようと思っていました。
個人的にナチス・ドイツ下での一般市民の生活に興味があるんですが、
本書の特徴はゲシュタポの調書と、当時の新聞などから、
ユダヤ人迫害や強制収容所をドイツ国民は知っていたのか・・?を研究した一冊です。

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最初の章は1933年ヒトラー政権が誕生し、その後の国民投票で
額面どおりに受け取れなくとも90%以上を獲得したナチ党。
党員数も毎年、数倍の規模で膨れ上がり、SA(突撃隊)は1931年に8万名だった隊員が、
翌年には50万名、1934年になると300万名・・。女性もナチ運動に加わり、
一種のエリート集団である「国家社会主義婦人会(NS・フラウエンシャウト、NSF)」は
1932年に11万名が入会していたものの、翌年には85万名、
1934年には150万名を超えていきます。

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国会議事堂放火事件」が発生すると、ゲーリングは共産党幹部の逮捕を命じ、
ダッハウに開設されたような収容所に裁判もなく送り込まれますが、
そのような事実は隠されることなく、非ナチの新聞でも「普通の監獄が満員なので、
一時的に収容所に送られた」と強調しているのでした。
そしてこのような弾圧はヒトラーの人気を落とすどころか、「広く人気を集めた」としています。

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続いてはナチスの警察です。
ヒムラーがドイツ全土の警察を掌握し、ダリューゲの制服警察オルポと
ハイドリヒの治安警察シポが新たに創設されます。
ここではシポのひとつである秘密警察ゲシュタポではなく、刑事警察クリポに焦点を当てており、
1937年の「ドイツ警察の日」に科学的捜査方法や警察の近代化を保持するために
ハイドリヒは新聞記者たちをベルリンの警察研究所に招き、
また、世界中の警察に対してもクリポ本部を視察するよう招請します。
そしてエドガー・フーヴァーのFBIの代理人も喜んでやって来るのでした。

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さて、当初は「共産党員用」と新聞でも宣伝されていた「強制収容所」ですが、
ダッハウの所長、テオドール・アイケが強制収容所総監となり、再編と規則を定めると、
後のアウシュヴィッツの所長となるルドルフ・ヘースら、将来の多くの収容所所長と
看守が訓練を受け、ダッハウは「残虐行為の学校」と呼ばれます。
そして「国家の敵」を監禁する場所として構想されて、ブッヘンヴァルトやマウトハウゼンも建設。
徐々に犯罪者やユダヤ人もこれらの収容所へ・・。

Wachablösung bei der SS_Dachau.jpg

ドイツでは1933年以前から非合法とされていた「不妊手術」。
ヒトラーは政権獲得後、さっそくこの不妊手術を法律によって可能にします。
それは「遺伝疾患予防法」。先天性の盲目、聾唖、精神分裂病の人々が対象です。
しかし断種決定は医学的基準だけでなく、社会的基準も採用され、
重症のアル中、暴れ者、性交渉の相手を頻繁に変える女性など、
男女ともにおよそ20万人づつ断種され、新聞でも派手に報じられます。

この「断種作戦」に続くのが、「生きるに値しない生命」。すなわち安楽死計画です。
1938年、ヒトラーは精神障害で盲目、片腕と片脚のない新生児の父親から
「慈悲の死」を与える許可の請願書を受け取ったことから、
総統府官房長のボウラー、ヒトラーの主治医カール・ブラントが中心となって進みます。
当初は子供対象に、まず5000名が注射による毒殺などで殺され、
翌年には「T4作戦」として成人も安楽死の対象に・・。
「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」という本がありますが、
う~む。。どうしても読む勇気がでません・・。

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第三帝国には以上のようなアウトサイダーの他に、「性的アウトサイダー」が存在します。
アーリア人の純潔と人種、その再生産を目標に掲げても、
まず「悪い性行為」を阻止しなければ・・。
ヒトラーが大嫌いな売春とそれがもたらす性病は随落と腐敗への道です。
売春婦の多いハンブルクでは3000名が逮捕され、公共の場では売春は非合法化。
1人で、または複数人の違った男性と外出する女性は密かに売春をしているのでは・・??
との疑いをかけられ、非社会的分子と認定されれば強制収容所行きです。
しかし戦争が始まると、地方での必要を満たすために
公認売春宿」を警察が監督することに。。
ナチス公式売春宿だからって ↓ こんなのを想像してはいけませんよ。

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そして強制収容所にも設置された売春宿だけでなく、
外国人労働者用も必要で、1943年には60もの専用売春宿が開設されます。
この外国人労働者用の施設を管理しているのはSDのようで、
要は国内の外国人とドイツ人との性交渉を防止するために必要ということですね。

Brothel for forced labourers, cash point, Breslau 1942-1943.jpg

それから同性愛者。ヒトラーもヒムラーも嫌いですから大変です。
もともとはゲシュタポの「男色撲滅課」の管轄でしたが、
のちにクリポが一手に引き受けた同性愛者の逮捕。
「去勢に合意すれば"たぶん"釈放されるかも・・と示唆しても良い」と
ヒムラーから指令も出されます。
ヒムラーは身内である警察官による同性愛行為には死刑を適用する厳しさ。
そして多くの一般の同性愛者は強制収容所送りとなりますが、
より死亡する確率の高い「保護観察部隊」に加わるという選択肢もあったそうです。
コレは「懲罰部隊」のことのようですね。
しかし軍服の腕に「ピンクトライアングル」を付けた、「ホモ小隊」とかだったらキツイ。。

Homosexuelle Gefangene im Konzentrationslager Buchenwald.jpg

ニュルンベルク法が公布されると、本格的にユダヤ人迫害が始まります。
映画「ユダヤ人ジュース」は2000万人の観客を動員し宣伝映画として大成功。
戦時中には下等人間として扱われた外国人労働者。
本書ではこの辺りから残されていた「ゲシュタポ事件ファイル」を活用します。
例えば1940年、57歳の農夫と息子が、女中の16歳ポーランド人女性をもてあそび、
強姦で告発されるも兵士の息子は原隊復帰を許され、父親は警告を受けただけ。
逆に「ドイツ人男性を誘惑」した場合には、強制収容所行きです。

一方、外国人との淫靡な関係で証拠が残ってしまうのが女性のツラいところ・・。
旦那が出征中なのに妊娠してしまったドイツ人女性がソレです。
自ら「働いていたポーランド人に強姦された」と警察に届け出た彼女は、
直前に妊娠4ヵ月と医師の診断を受けていたことがバレてしまいます。
このような裏切り行為は前線の旦那さんの判断に託されます。
「もし夫が許す場合は6ヶ月の強制収容所、許さない場合は1年半の強制収容所」。
別の女性は「ラーヴェンスブリュック3ヵ月、許さない場合は3年送り」というのも・・。

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このゲシュタポ事件ファイルは情報源のほとんどが密告です。
以前に紹介した「女ユダたち」同様、数々の密告例が紹介されており、
父親が、「息子が外国語放送を聞いている」と密告、
ある少女が、「弟が外国語放送を聞いている」と密告・・。
息子を追い出して暮らし向きを良くしたかったとか、仲の悪い姉弟のケンカが原因です。
しかしこんな件でもゲシュタポが調査を行い、「利己目的の密告」と結論付けたりするのです。
まさにスパイ国家ですね。

Take care of spies - take care during sstalks.jpg

「市民の庭先に出現した強制収容所」という章も興味深かったですね。
本収容所の周辺には一連の衛星収容所が設置されていたというものです。
ダッハウ強制収容所は南ドイツに197か所の衛星収容所を設け、
マウトハウゼン強制収容所は62か所の衛星収容所、
ラーブェンスブリュック強制収容所は42か所の衛星収容所、など・・。
このような小規模な衛星収容所は街中に存在していることもあり、
囚人は道路整備や工事、連合軍の爆撃による瓦礫の後片付けなどに駆り出されるのです。

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アウシュヴィッツなどの大型収容所でも囚人は労働力として重宝します。
欧州最大の化学企業だったIGファルベンは安い労働力を歓迎しますが、
囚人の死亡率の破滅的な高さから経済的成功は難しくなります。
その他、ダイムラー=ベンツにポルシェのフォルクスワーゲンの囚人労働力にも触れています。

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本書では結論として、6000万ものドイツ国民が「洗脳された」という考えは捨てるべきで、
犯罪のない街路、アウトバーンの建設ファミリー・カーの約束、安い休暇
オリンピックの開催、繁栄への復帰といった成果との代償として、
監視社会という考えを受け入れ、自由を放棄したのだとしています。

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最初は共産主義者、続いて乱暴者のSAが街角からいなくなり、
ユダヤ人、浮浪者、犯罪者、売春婦らが消えていくドイツ・・。
これら少数のアウトサイダーたちの運命にうすうす気付きつつも
一般のドイツ人はナチスとヒトラーを信じていようが信じまいが、
その政策に対して余計なことは言わずに付き合ってさえいれば、
自分と家族は悪いようにはならない・・。
そして気が付いた時には、時すでに遅し・・という印象のナチス下のドイツ人です。





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対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第3巻〉 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アラン・ブロック著の「対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第3巻〉 」をようやく読破しました。

第2巻〉は1940年の暮れ、ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の命令を下すヒトラーで
終わりましたが、この最終巻はもうソレしかありませんね。
ただし、ポーランド戦フランス戦と細かい戦局までは書かれていませんから、
戦記ではなく、独ソの最高司令官がいかに大戦争に関与したのか・・が焦点です。

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スターリンとソ連軍は、1937年の赤軍大粛清から立ち直っておらず、
将校の75%が1年足らずの経験しかない・・という有様で、
その粛清を逃れたクリーク元帥は、最新のカチューシャ・ロケットを理解できず、
赤軍の自動車化、機械化は不要だと断言する頭の古さ。。
ナチスの副総裁ヘスが英国に飛んで行ったことを猜疑心旺盛なスターリンは、
ヘスが英国情報部に招かれ、独英が協力してソ連に侵攻する秘密の交渉を
しているのでは・・??との考えが頭から離れていません。

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そして始まったドイツ軍侵攻。緒戦の惨敗で意気消沈するものの、なんとか立ち直り、
最高統帥部(スタフカ)の最高司令官となったスターリンは、スケープゴートを探し、
ドイツ軍の突破を許した西部方面軍のパヴロフ将軍を逮捕。
拷問の末、軍内部のスターリン打倒の陰謀に加わっていたと「告白」したことで、銃殺。。

11月にはモスクワ攻防戦
今度はヒトラーが最高司令官としてこの難局に立ち向かう番です。
両軍、消耗しきって戦線が安定すると、ドイツ軍の将軍が次々に去っていきます。
グデーリアンヘプナーといった装甲部隊の司令官に、3つの軍集団司令官、
さらには陸軍総司令官のブラウヒッチュも辞任し、
「自分の知る限り、国家社会主義の精神を陸軍に浸透させられる将軍は1人もいない」
と断言して、総統自らが後継者に・・。

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ドイツ軍が進撃をするにつれて、バルト諸国、白ロシア、ウクライナといった占領地を軍政から
直属の行政官による民政に移管すると言い出すヒトラー。
東方占領地省の長官として任命されたのはバルト生まれのローゼンベルクです。
しかし、四ヶ年計画の一環として、自分こそが占領地の経済開発の責任者であると
主張するゲーリング
総統命令をタテに、占領地でアインザッツグルッペンを独立行動させるヒムラー
そしてナチ党のトップとして、「政治的な意志の伝達者」として決定権を持つべきという論法で、
東プロイセンの大管区指導者、エーリッヒ・コッホをウクライナの民政長官に任命することに
成功したボルマン・・と、幹部たちの主導権争いの前に無視され、除け者にされ、
傷ついたばかりか忘れ去られてしまったローゼンベルク。。

著者はこのローゼンベルクが力説したとおりに、抑圧されてきたウクライナ人の伝統に訴えて、
集団農場を解体し、農民の土地保有を認めていたら、彼らを味方につけえただろうか。
ここはスターリン政権の最大の弱点となる狙いどころだったとしています。
確かに、「戦争と飢餓」を読んだり、本書を通して読んでいると、
その可能性はより大きく感じますね。

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また、日本の真珠湾攻撃に伴う、ヒトラーの米国への宣戦布告については、
ヒトラーの計算違いをこのように解説します。
「米国がヨーロッパに介入してくるのは早くても1942年の末以降で、
その時までにはソ連軍を打ち負かせる、と彼は信じた。
そうすれば、ドイツ軍を西方での戦いに投入し、英米上陸軍をすべて海に追い落とせると
計算したのである。しかし、すべてが後手に回った。
英国を倒せないうちに、ドイツをソ連との戦争に突入させた挙句、
今度は英国もソ連も打ち負かせないうちに、米国との戦争にのめり込ませたのである」。

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さて、対比列伝としては、2人の戦争指導も戦略的な指揮だけでは満足せず、
作戦面にも絶えず口を出し・・と、似たような傾向だとしています。
曰く、指揮官たちを前線から呼び出し、しかも作戦幕僚や彼らの上官に事前の相談もなし。。
または電話に呼び出され、命令を実行しなかったとして罵られ、新たな命令を下され、
しかもそれが戦闘の最中のことも・・。
2人とも、こうした行為が引き起こす混乱を意に介さず、他の誰も信用せずに将校をどやしつけ、
脅しをかけて、人間の耐えられる限界まで目的を追求させられるのは自分だけだと・・。

そんなスターリンは経験豊かな参謀総長シャポシュニコフ元帥には信頼感を持っていたそうで、
話しかける時も「シャポシュニコフさん」と呼び、執務室での喫煙を唯一、許すなど特別扱いです。
ヒトラーで言えば、やっぱりルントシュテット元帥になるんですかねぇ。

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1942年には、「ただ守勢にまわって手をこまねいているだけではだめだ。
こちらからも打って出て、広範な戦線で機先を制し、敵を攪乱するべき」と語るスターリン。
そんなわけでティモシェンコによるハリコフ奪回作戦が実施されるものの、
逆に包囲され、23万人以上が捕虜となり、
レニングラード戦線でもウラソフ将軍指揮の第2突撃軍の9個師団が同じ運命を辿り、
セヴァストポリを解放させようと、メフリスを送り込んで喝を入れようとしたところで、
現地の司令官がよけいに混乱し、5月にはマンシュタインの第11軍には手も足も出ず、
21個師団が崩壊してしまうのでした。

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そしてヒトラーが占領する決意を固め、スターリンが断固としてそれを阻む決意だった都市、
スターリングラードの攻防戦へ。
犠牲の大きさは別として、過ちを乗り越えて、ジューコフら、少数の将校グループと
以前より安定した関係を築き始めていたスターリンに対し、
時が経つにつれ、軍や参謀幕僚との関係が修復しがたいまでに悪化したヒトラー・・。
それはこの戦いによって、決定的なものへとなってしまい、
せっかく元帥にした包囲陣内のパウルスは名誉ある死を選ばずに降伏し、
参謀総長ハルダーも去っていくのでした。

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「核分裂はもともとドイツで発見されたもの」で始まる核爆弾の話。
1942年の初めごろ、ドイツの核物理学者と討議したドイツ陸軍兵站部が出した結論は、
「戦争終結前に核爆弾の生産にこぎつけるのは不可能」というものです。
ただし、いつ戦争が終結するのか・・?? は、英米が長引くだろうと考えて、
そのために核開発に全力を注ぐわけですが、ドイツではロケット開発のほうが手っ取り早い。。

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ヒトラーは核兵器の破壊力についてはあまり知らされていなかったようで、
ある物理学者が兵站部に、「この問題は軍の上層部で討議しては」と訊ねたところ、
「核兵器が製造可能と聞けば、ヒトラーは半年でソレを作れと言うでしょう。
それが不可能なことはおわかりだろうし、あなたも私も困った立場に追い込まれることになる」
と、こんなような経緯もあったようです。

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ハイドリヒアイヒマンが主導する、ユダヤ人の最終的解決の推移に、
ゴットロープ・ベルガーも登場する武装SSの拡大、
フランスに上陸した連合軍との戦いにも触れながら、ヒトラー暗殺未遂事件へ。
難を逃れたヒトラーは激昂し、恨みと怒りに、自分が正しかったことへの
安堵感をにじませながら言いつのります。
「ロシアにおける私の壮大な計画が近年、なぜ尽く失敗したのか、
いまにしてわかった。すべてが裏切りだったのだ! 
あの裏切り者たちがいなかったら、我々はとうの昔に勝っていた」。

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しかし軍事的危機の最中とあって、怒りに身を任せて目のつく将軍たちを片っ端から投獄したり、
射殺するわけにもいきません。妥協するのがどれほどイヤでも、
自分のために戦争を遂行してくれる将校団が必要なのです。
大管区指導者たちも、1934年にレームと突撃隊が国防軍に負かされたことを残念がり、
「もし勝っていたら、レームは国家社会主義の精神に裏打ちされた軍を創設したことだろう」。

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同じころ、東部戦線では「ワルシャワ蜂起」が起こり、スターリンが軍を停止したことについて、
著者はこのような解釈をしています。
「スターリンは蜂起に腹を立てたばかりでなく、不意を突かれたようだった。
ソ連軍の主力の進撃に勢いがなくなり、ヴィスワ川前線でのドイツ軍の
思いがけない反撃を考えれば、ロコソフスキーの軍隊が戦線を突破して
ワルシャワ蜂起軍を救うことは、たとえスターリンが望んだとしても困難だっただろう。
そしてまた、スターリンにはそれを望む理由などなかった」。

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遂に1945年の4月を迎えたベルリンの総統ブンカー。
シュタイナーの軍がまだ編制中であると聞かされて、ヒトラーは感情を爆発させます。
「いまやSSさえ嘘をつくのだ。すべてが終わった。戦争は負けた。死ぬほかない」。
その大荒れの翌日には、覚悟を決め、優しくさえなったヒトラー。
南を目指して発つカイテル元帥に食事を命じて、彼のかたわらにじっと座り、
長い道中を気遣って、サンドウィッチとブランデーを持たせることも忘れません。

The three big allied 1944.jpg

こうしてヒトラーがエヴァとともに自殺してしまうと、322ページからは
「スターリンの新秩序」の章が始まります。
日本の千島列島を奪っただけでなく、日本本土にソ連占領地域を設けるよう
トルーマン大統領に強く迫るスターリン。
ヘタしたら東西ドイツのように、「北日本」と「南日本」になってたり、怖いなぁ・・。

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また数百万の解放された捕虜やドイツへの強制労働者らに対しては
同情ではなく、疑いの目で見ます。
それは対独協力者か反逆者、外国の思想にかぶれ、危険思想に染まっている者・・。
もちろん、解放された彼ら(彼女ら)はNKVDによって、「再教育」のために収容所行きです。。
1947年にスターリンがふとしたはずみで「ロシア国民は北極海への安全な出口を夢見てきた」
と言ったばっかりに、ツンドラを横切ってイガルガに達する、長さ1800㌔の鉄道の建設に
何万という囚人が駆り出され、これは「死の鉄道」として莫大な人命を犠牲にしながら
850㌔まで完成したものの、スターリンが死ぬとプロジェクトはあっさり放棄されて、
施設と機関車は雪に埋もれて、錆びるにまかされた・・ということです。

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頂上にいる者とて安心してはいられません。
1946年、スターリンはジューコフをクレムリンに召還します。
「ベリヤの報告によると、きみは米国人や英国人と不審な接触をしているとのことだ。
ベリヤはきみが連中のスパイになるのではないかと考えている。
私はそんな馬鹿げたことは信じない。
だが、そうはいっても、しばらくモスクワを離れた方がよかろう。
オデッサ軍管区の司令官に任命するよう提案しておいた」。

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本書を読んでいるとわかるんですが、スターリンは「命令」しないんです。
あくまで「提案」するだけで・・。
その提案を然るべき部署や委員会が決定したり、死刑判決の署名にしても
必ず誰かにも署名させることで、後に結果が良ければスターリンの手柄となり、
失敗や批判が出てくれば、決定や同意した人物の責任になる仕組みです。

1949年にソ連の占領地であるドイツ東部はドイツ民主共和国となり、
その時を境に、再び、粛清が始まります。
ハンガリーの内相ライクはスパイ容疑で銃殺。
ブルガリアの副首相コストフは、同志を告発させるための拷問から逃れるために
ソフィアの警察本部の窓から身を投げます。
しかし両足を骨折したのみで未遂に終わり、結局は絞首刑。
アルバニアの第3副首相ホウヘイは「チトー主義」の容疑で処刑と、
チェコスロヴァキアでは230万人の党員のうち1/4が粛清され、
ポーランドと東ドイツで30万人、ハンガリーで20万人といわれているそうで、
ヒトラーとスターリンに刃向って生き延びた共産主義者は、チトーだけ・・。

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ソ連国内でも粛清が行われていますが、これはNKVD長官でベリヤ
策謀であることがほとんどです。
ベリヤは前任者のヤーゴタとエジョフのように破滅させられないように警戒し、
スターリンはベリヤが先手を打って自分の命を狙うのでは・・と目を光らせます。
どこへ行くにも飛行機は使わず、列車に乗るときは同じ線を走る列車は全て運休にし、
2、3組の列車が別々に発車して、そのどれに乗るかは最後の瞬間に
スターリンが決める徹底ぶり・・。

Mikojan, Hrutsev, Stalin, Malenkov, Berija,  Molotov_Kremlin, 1946..jpg

こうして裏切りと暗殺を恐れていたスターリンも1953年に倒れます。
娘のスヴェトラーナが語る最期の様子。
「断末魔の苦しみは凄まじかった。いよいよ臨終と思われたとき、
父は突然目を開き、全員を見渡した。それは恐ろしい眼差しで、狂気か怒りを帯び、
死の恐怖に満ちていた。突然、両手を持ち上げ、上空の何かを指すような、
私たち全員に呪いをかけるような仕草をした」。
彼女の回想録、読んでみようかなぁ。

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このように後半は、死んでしまったヒトラーに対して、さらに危険な頑固ジジィになっていく
スターリンが強烈な印象を・・という後味が残ってしまう本書ですが、
「戦争が終わったら後継者に譲って引退したい」と語っていたと云われているヒトラーも、
もし独ソ戦に勝っていたら、そうそう引退はできないんじゃないかと思いました。
絶対的な後継者がいたわけでもなく、引退して権力を失えば、ナニをされるかわかりませんから、
スターリンよりも10歳若いヒトラーは、まるで「ファーザーランド」のように、
1960年代になっても、死ぬまでその地位に就かざるを得ないんじゃないでしょうか?
独裁者というものは、そのような運命を背負っている気がしますね。

hitler-stalin.jpg

まぁ、1巻ごとに大変なボリュームのあるこの対比列伝ですが、
グッタリと疲れながらも、こうして振り返ってみると、
2人の似た部分を無理やり比較するような安直な本ではなく、
第1巻〉はヒトラーがどのようにしてナチス・ドイツをつくり上げ、
スターリンがボルシェヴィキ・ソ連に君臨するようになったか・・?
第2巻〉はこの2ヵ国を中心に、なぜ第2次世界大戦が起こったのか・・?
そしてこの〈第3巻〉は独ソ戦に、スターリンを中心とした戦後の冷戦・・と
独立した本と言えるかもしれません。
なので、ヒトラーとスターリンの生い立ちから読むのは嫌だなぁ・・という方なら、
〈第2巻〉から、もしくは戦記好きの方なら〈第3巻〉をまず読んでみるのも可能ですね。





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対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第2巻〉 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アラン・ブロック著の「対比列伝 ヒトラーとスターリン〈第2巻〉 」を読破しました。

〈第1巻〉 はヒトラーとスターリンのそれぞれ1934年まで。
ヒトラーは45歳、スターリンは55歳で絶対的な権力を掌握したところでした。
575ページの〈第2巻〉 ではまず、ここまでを
「スターリンとヒトラーの比較」として振り返る章から始まります。

対比列伝 ヒトラーとスターリン 2.jpg

ヒトラーの首相就任に先立つこと100年前にドイツの著名な哲学者、
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが語ったこと・・。
「世界史とは、個人心情や良心の支えとなる道徳が占める地盤よりも、
一段高い地盤で動くものである。見当違いの道徳的な要求を持ち出して、
世界史的な行為とその成果に文句をつけてはならない。
世界史的な人物に対して、慎ましさ、謙虚さ、人間愛、寛容といった
私的な徳目を並べ立ててはならないのである。
このような偉人がその途上で多くの無垢な花々を踏みにじり、
行く手に横たわる多くの者を踏み潰すのは仕方のないことである」。

著者はこの言葉を2人に共通する信念として、この信念こそが
ヒトラーとスターリンを直接比較する時の基礎とします。

Rede Adolf Hitler.jpg

1931年にヒトラーの愛する姪であるゲリ・ラウバルが拳銃自殺すると
その一年後にはスターリンの2番目の妻であるナジェージダが拳銃自殺を遂げます。
ヒトラーとゲリ、スターリンとナジェージダの歳の差も、ほぼ20歳・・。
このような偶然というか、運命というか、不思議なもんですね。。

本書には触れられていませんが、いずれにも他殺説があるんですね。
主役の2人が直接手を下した説から、第3者によるものまで実に豊富です。
ヒトラーを例にとると、姪と変態叔父さんの情事のもつれから、
大事な選挙中に総統を悩ます、邪魔でワガママな姪を側近が・・、というヤツです。

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しかしスターリンは2度の結婚の縁者に対しては血も涙もありません。
3人の子供たちは以前に「スターリン―赤い皇帝と廷臣たち」で書きましたが、
最初の妻エカテリーナの兄はスパイとして処刑、その妻も逮捕されて収容所で死亡。
2人の間に生まれた子供は「人民の敵の息子」としてシベリア送り、
エカテリーナの妹マリアも逮捕されて獄死です。
ナジェージダの妹アンナもスパイ活動の容疑で逮捕されて10年の刑、
夫は「人民の敵」として銃殺、その他、ナジェージダの叔父の妻まで逮捕されています。

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続いては大建築合戦。
ヒトラーがシュペーアに依頼した「ゲルマニア計画」に水を差すことがひとつ。
それはスターリンが計画していたモスクワの「ソヴィエト宮殿」が
「巨大なドーム型の講堂」を高さで上回ることがわかったのです。
ヒトラーと同じくスターリンはモダニズムよりも記念碑的な建造物を好み、特徴は規模の大きさ。。
最上部には高さ30mのレーニン像が安置されることになっていますが、
戦争が始まって結局は建築されず・・。

〈第1巻〉を読んでるときにこの宮殿を思い出しましたが、ココで詳しく紹介されました。
ヒトラーは「これでロシアの例の建物は永久に完成しないだろう」とほくそ笑みますが、
戦後、宮殿が6つの高層ビル化けるという変更を余儀なくされたものの、
モスクワの街並みが刷新されるのをスターリンは見続けられるのでした。

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芸術についても口を挟みたがる両者。
ヒトラーの「ドイツ芸術の家」と「退廃芸術展」などにも触れられ、
モダニズムを嫌っていたのと同様、
スターリンも書物に芝居、オペラに対して口をだし、賞賛したり、非難したり・・。
彼の求める芸術は、ソ連の生活をありのままに描くのではなく、
自分が望み、必要と感じ、そうだと信じたように描かれる芸術です。
政権を支持する作家の影響力を重要視し、存命中のロシア人作家では最も優れていた
マキシム・ゴーリキーをイタリアから帰国させて、効果的に利用します。

そういえば最近、この作家の名前をWebで良く目にしますが、
剛力彩芽ちゃんが「ゴーリキー」って言われてるんですね。。可哀想に・・。
「八重の桜」にも出ててビックリ・・・くなんしょ。。

Maxim Gorky_Stalin.jpg

この比較の章の〆には両者のイデオロギーを簡単に説明します。
ナチのイデオロギーがバラバラで、時には矛盾していたことは周知のとおりですが、
本書ではこのように解説。
「ヒトラーの場合には、総統である彼がイデオロギーだとしたものがイデオロギーだった」。
一方、スターリンの場合、
「マルクスとレーニンがイデオロギーだと言ったと、
書記長であるスターリンが認めたものこそがイデオロギーなのであった」。

次の第11章は「総統国家」と題して、ヒトラーとナチス・ドイツの1938年まで。
ヒトラーがヒンデンブルク大統領の後継者になってから、
政府の日常的な業務から手を引いてしまい、既存の省庁にナチ党の各部署、
各州の長官と大管区指導者が対立し、SSのヒムラーとハイドリヒによって警察も合体。
実際は問題だらけの行政はヒトラーの気まぐれな介入によって一層悪化し、
「独裁主義の無政府状態」、「永遠の一時しのぎ」などと言われます。

Hitler speaking at the renovated Reichskanz​lei..jpg

反目しあう共産党と社会民主党を叩きのめして、指導者を逮捕し、
彼らの資産を奪うことが成功しても、その支持者たちはまだ1000万人以上・・。
ゲッベルスを中心としたダイナミックなプロパガンダ作戦で
批判の声を押さえつけようとします。

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1月30日の「ヒトラー首相任命の日」から祝祭日のカレンダーは始まり、
2月24日は「1925年に党を再建した日」、4月20日は「ヒトラーの誕生日」、
11月9日は「1923年のミュンヘン一揆の記念日」となって、
9月には数日間に渡る盛大な「ニュルンベルク党大会」が開催されます。
何万人という人々が直接参加することを求められ、参加しなかったり、
国旗の掲揚を怠ったりすれば、街区監視者の目に留まり、
「政治的に信用できない人物」としてマークされて、職場での昇進の妨げから
免職、逮捕・・へとつながっていきます。
ナチ党の都合たっぷりの祝日ですが、5月にはちゃんと「母の日」があるところがなんとも。。

Heil!!.jpg

そのころ、農業の集団化に第1次5ヶ年計画の過酷なキャンペーンを終えたスターリン。
自分自身を敵意に満ちた世界に立ち向かう偉大な人物だと想像し、
そこに住む嫉妬深くて油断のならない敵が常に陰謀を凝らしていて、
先に攻撃を仕掛けなければ自分がやられてしまうと妄想する偏執症。。
トロツキーが「人民の敵」として国外追放され、
レニングラードでは力をつけてきた第1書記のキーロフが暗殺されます。
そして始まった「大粛清」。
死刑を含むあらゆる刑罰の適用が12歳の子供にまで広げられ、
国外逃亡も死刑となり、その「裏切り者の家族」はそれを知っていようが、
知るまいが禁固刑という、人質制度を導入。

Kirov_Stalin 1934.jpg

「クレムリンでスターリンの暗殺を企てた」というフィクションが準備され、
古参ボルシェヴィキを含む40名が逮捕。
古い仲間のブハーリンやルイコフも追放され、NKVD長官のヤーゴダも・・。
そしてソ連の歴史でも身長わずか150㎝程度の小人ほど、
軽蔑と憎しみの感情をかきたてた者は他にいないと紹介されるエジョフ
粛清されたヤーゴダの後任として、テロ機構を作り上げます。
もちろん、トハチェフスキー元帥らの赤軍も大粛清の餌食です。

Stalin_Bukharin.jpg

大飢饉を味わったウクライナはその独立した地位を潰そうとするスターリンの標的となり、
モロトフフルシチョフ、そしてエジュフの委員会がNKVDの大部隊とともに乗り込み、
ウクライナ政府の閣僚17人全員が逮捕され、ウクライナ中央委員会の102人のうち、
生き残ったのはわずか3人のみ。。
ウクライナ共産党は事実上壊滅し、フルシチョフが党第1書記に任命されて
再建を任され、ブレジネフなど、若い幹部候補生を育てるのでした。

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このNKVDの活動の基盤は「自白システム」です。
証拠というものは一切関係なく、とにかく囚人が自分の罪を認め、他者を告発すること。
そしてそれには「拷問」が必要な場合も多々あり、
本書では睡眠や食事を許さず、数日間もぶっ続けで尋問するという基本的な「コンベア」から、
当たり前の「殴打」、お前の子供を銃殺する・・と脅す心理作戦に、
隣室で女性のあげるかな切り声を奥さんだと思わせるゲシュタポ方式など。。

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グラーグ」で書かれていた収容所と、その極東の流刑地帯についても詳しく、
フランスの4倍もの広さのコルイマ地方では50万人が働き、
氷点下70℃にもなるこの収容所では氷点下50℃まで戸外労働が強制され、
どこよりも死亡率が高い・・と、まぁメチャクチャですね。
ちなみにNKVDの職員も粛清されると、ココへ飛ばされて収容所職員になるそうです。

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次の章では1936年~38年までの独ソの外交政策について比較します。
スペイン内戦では、ゲーリングブロムベルクカナリスの意見を聞いたヒトラーが
フランコ将軍を援助することを決め、コンドル軍団を派遣。
スターリンは共和国政府を援助することを決定します。
まぁ、しかし、当時のスペイン国内の状況にイタリア、フランスなども絡んでいるこの話は、
一度、ガッチリ勉強しないと、ど~も良くわかりません。
やっぱりビーヴァーの「スペイン内戦―1936-1939」を読むしかなさそうですね。

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そしてヒトラーは外務省をナチ化するために外相フォン・ノイラートを解任し、
英国大使リッベントロップを抜擢します。
また、国防軍に対して不満があるものの、スターリンの行った「赤軍大粛清」規模のことを
実施するわけにもいかず、そこでブロムベルク=フリッチュ事件によって
国防相と陸軍総司令官を葬り去り、OKW(国防軍最高司令部)を創設することで、
保守的で口うるさいOKH(陸軍最高司令部)を無視することに・・。
OKW長官にカイテル、作戦部のヨードルが登場してくると、いよいよといった雰囲気ですね。

Adolf Hitler, Hermann Göring, Werner von Blomberg, Werner Freiherr von Fritsch and Erich Raeder.jpg

第14章は遂にお互いが直接絡み合う「独ソ不可侵条約」です。
1938年、オーストリアがナチス・ドイツに併合され、一つの国が地図から抹消。
そしてもう一つの国も脅威にさらされていることをスターリンは危惧します。
チェコスロヴァキア・・。もし、この国まで併合されることになれば、
ヨーロッパの勢力の均衡が崩れ、ドイツ軍がソ連国境のすぐ近くにやってきます。
しかも、仏ソ条約によってチェコが攻撃された場合、それを支援する義務も・・。

こうした戦争の危機に反ヒトラー派の陸軍参謀総長ベック
その後任のハルダーを中心にクーデター計画が練られる一方、
英首相チェンバレンの訪独と、それに続く4ヵ国のミュンヘン会談によって
戦争の危機はなんとか回避されますが、ソ連は孤立主義に傾いています。

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スターリンは英仏が侵略者に立ち向かえなかったのは、国力の弱さが原因ではなく、
とりもなおさず侵略を黙認し、戦争が起こるのを黙って見ていること・・と考え、
この危険なゲームの行き着くところは、英仏がドイツをそそのかして東に進ませ、
「さっさとボルシェヴィキに戦争を仕掛けろ。そうすれば、万事うまくいく」と
互いに相手を弱め、消耗するのを待っていると思っているのです。

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こうして「独ソ不可侵条約」が締結。日本の内閣は衝撃によって倒れ、
ドイツ軍の年配の将軍たちは、フォン・ゼークト将軍の持論だった「ソ連との協調」
ヒトラーが立ち返ったことを喜んで、プロイセンの宿敵たるポーランドへの電撃戦に向けて、
若い将軍も自分たちが何ができるかを示す機会だと喜ぶのでした。

Adolf Hitler watching parades at the Reichs Veterans Day at Kassel, 4 June 1939.jpg

最後の章は「ヒトラーの戦争」。
1939年9月、ポーランドに侵攻したドイツ軍。
そのあまりの速さに、東の領土を貰う約束のスターリンも慌てふためきます。
ドイツ領となったポーランド西部ではヒムラーのSSの手荒さに、総督ハンス・フランクが抗議。
ソ連領となった東部では、商工業を国有化して、農業を集団化。
赤軍を伴った行政官がウクライナ人と貧しい農民を駆り立てて、
ポーランド人の地主、富農、警官を襲わせ、ポーランド人支配下の20年間、
彼らを苦しめてきた不正に報復するため、積年の恨みを晴らさせます。
また、ポーランド軍将校の扱いについては、もちろん「カティンの森」なわけです。

Himmler in Poland.jpg

その後にソ連が起こしたフィンランド侵攻ではヒトラーが中立を守ったことで、
似た者同士のNKVDとゲシュタポが協力関係を示すことになります。
それはソ連の強制労働収容所に服役中のドイツ人共産主義者ら、500名を選んで
ゲシュタポに引き渡し、その全員が今度はナチの強制収容所に移されたというものです。

その中の一人、1937年に粛清されたスターリンのかつての盟友だったハインツ・ノイマンの妻、
元共産主義者のマルガレーテ・ブーバー=ノイマンは
ラーヴェンスブリュック女性収容所へと送られ、1945年に解放されますが、
スターリンとヒトラーの両方の強制収容所を経験して生き残った数少ない例だということで、
ちょっと調べてみると、彼女の書いた
「スターリンとヒットラーの軛のもとで―二つの全体主義 」という本があるのを発見しました。

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翌1940年には西方電撃戦が成功し、絶好調で有頂天となったヒトラー。
そんな8月にスターリンも生涯またとない喜びを味わう瞬間が訪れます。
それは永遠のライバル、トロツキーの死。。
メキシコに滞在していたトロツキーに前年の「独ソ不可侵条約」の際、
「ヒトラーの補給係将校 スターリン」という見出しの屈辱的な記事を書かれていただけに、
粛清されたエジョフに代わったNKVD長官ベリヤにハッパをかけ、
「もっと力を入れてトロツキーを黙らせろ」と命令した末の暗殺成功です。

Dead Trotsky.1940.jpg

最後のページである575ページ目には、「バルバロッサ作戦」を命じるヒトラー。
〈第3巻〉は、まさに「独ソ戦」ですね。







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