報復兵器V2 -世界初の弾道ミサイル開発物語- [ドイツ陸軍]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
野木 恵一 著の「報復兵器V2」を読破しました。
1月に独破した「V1号V2号 -恐怖の秘密兵器-」でも本書にチョロっと触れましたが、
「反逆部隊」でもV2ロケットが重要なアイテムだったので、そのままの勢いで進んでしまいました。
1999年発刊で333ページの本書は「光人社」のものですが、
「あとがき」を先に読んでみたら、1983年の「朝日ソノラマ」の再刊と・・。
特に内容には手を加えていないということですが、まったく気がつきませんでしたねぇ。

ヴェルサイユ条約によって、口径17センチ以上の火砲の製造を禁止されたものの
ロケット兵器については無視されていたことから、陸軍兵器局の砲術弾薬課長で、
弾道学博士として、ベルリン大学でも教鞭を執っていたカール・ベッカー大佐の指示により
部下のヴァルター・ドルンベルガーがロケット兵器開発に着手するところから始まります。
固定推進剤ロケットと液体推進剤ロケットという2種類の違いを明確にし、
ここでのドルンベルガーの経歴では、前者の研究によって、のちにドイツ陸軍が
「ネーベルヴェルファー」や「パンツァーヴェルファー」を生み出したということです。

続いては民間のロケット研究。本書の主役ヴェルナー・フォン・ブラウンの生い立ち・・、
12歳の時にベルリンの繁華街ティーアガルテンの通りを
手押し車に大きな花火6本を括り付けて、暴走させる・・という腕白なロケット実験を敢行した
このロケットに魅入られた男を詳しく紹介します。
また、オペル自動車の創立者、フリッツ・フォン・オペルがロケット自動車を製作していた話も。

自宅謹慎処分となったフォン・ブラウン少年はジュール・ヴェルヌの「地球から月へ」や、
H・G・ウェルズの「月世界最初の人間」などを読み漁ります。
ドイツ映画界の巨匠フリッツ・ラングが「月世界の女」を撮るというロケット・ブームの話になると
ヴィトゲンシュタインも昔に観た「月世界旅行」なんかを思い出しました。

ベルリンにある工科大学で学び、ドイツ宇宙旅行協会(VfR)にも入会したフォン・ブラウン。
しかし協会でのロケット製作は1920代後半の世界恐慌も手伝って資金不足が続きます。
1932年、そんな彼らの協会に陸軍兵器局のベッカーとドルンベルガーが訪れますが、
その内容に失望。。しかし、学生のフォン・ブラウンの才能は軍部の目に留まり、
陸軍兵器局兵器実験部の民間職員としてリクルートされるのでした。

翌年の1933年にはアグレガート(集合体)と名付けられた1号ロケット、いわゆる「A1」が誕生。
長さは1.4mという小さなものです。
1934年末には「A2」が誕生。このようにV2ロケットである「A4」まで、
また並行して「A5」なども開発、「A12」までも計画されていきます。

やがてロケット開発が軌道に乗り出すと、1936年、
ペーネミュンデに新しい実験場を建築する計画が持ち上がり、
コレに興味を示していた空軍参謀総長ケッセルリンクに研究担当のリヒトホーフェンと対談。
ベッカーは「我々の研究が有望なものとなると、たちまちそれをさらって行こうとする。
陸軍とは比べものにならないことを空軍に思い知らせてやるのだ」と息巻きます。
ペーネミュンデに出来たお隣の空軍施設では、「V1」の開発が進められるわけですが、
この仲の悪さは想像以上ですね。。

弱冠25歳ながら「技術部長」の肩書を持ち、100名の研究者を指導するフォン・ブラウン。
開発されるロケットは前大戦の「パリ砲」のような兵器であることが前提のドルンベルガーですが、
フォン・ブラウンの夢は「宇宙ロケット」の開発と、その意見と目的も違います。

1939年3月、ヒトラーが視察に訪れるものの、一言も質問を発せず、無関心のまま・・。
戦争が始まった翌1940年には、生半可な軍事知識を振りかざして、あれこれの兵器開発に干渉し、
「A4計画」も優先順位から姿を消したかと思うと、翌月には復活、2ヵ月後には再び
リストから削除と混乱・・。フリッツ・トートが兵器弾薬相に任命されると、
ヒトラーの気まぐれに衰弱した、ロケット計画の推進者で兵器局長のベッカー大将は自殺・・。
このベッカーの件は、第三帝国モノやヒトラー伝に何回か出てきた「可哀想な将軍」・・
のイメージを持っていましたが、詳しいいきさつは初めて知りました。

1942年春、いよいよ完成した「A4(=V2)」ロケット。
しかし第1回目の発射実験は大爆発に終わり、第2回目も同様・・。
3号機でようやく成功しますが、次の成功は11号機という不安定な結果に。。
そういえば、Me-163の開発を描いた「ドイツのロケット彗星」でも、
「V2ロケットが100mの高度から突然、こちらに向かってきた」という失敗話を思い出しました。
それでもこの新兵器開発の推進派であるトートの後任の軍需相、シュペーアは
「総統は後に同意されるでしょう」と、北フランスに発射基地建設をトート機関に命ずるのでした。

兵器局の局長はレープ大将となり、補充軍(国内予備軍)のフロム上級大将配下に収められると、
その2人の将軍を伴ってペーネミュンデを訪れて来るのはSS全国指導者ヒムラーです。
「あなた方をサボタージュから守るために派遣されたのです」と穏やかに語るヒトラーですが、
もちろん、そんな程度で済むわけはなく、ペーネミュンデ所長でナチ嫌いのツァンセン大佐が
ヒムラーの圧力によって更迭・・。

英国本土攻撃用兵器として空軍の「V1」、陸軍の「V2」のどちらを採用すべきか・・?
飛行実験対決では「V2」が2回とも成功を収めますが、「V1」はいずれも発射直後に墜落。。
この結果には空軍の誇る悪代官ミルヒ元帥もドルンベルガーの背中を叩いて苦笑い。
「おめでとう。2-0で君の勝ちだ」
そして2日後、ドルンベルガーは少将へと昇進するのでした。

ヴォルフスシャンツェのヒトラー大本営へと突然呼び出されたドルンベルガーとフォン・ブラウン。
「私はなぜ君らの仕事の成功を信じられなかったのだろう」と反省を口にし、
「このような兵器に人類は耐えることはできないであろう」と
「報復兵器2号」がここに誕生します。

このヒトラーとの対談の様子は細かく、数ページに渡り、本文でも度々、
「ドルンベルガーの回想録によると・・」と書かれていますが、主人公の二人、
フォン・ブラウンとドルンベルガーが生き残り、共に西側へ招かれたことで
資料が豊富にあることが、日本人著者でもこれだけ詳細に書けている理由だと思いました。

一方、その「報復兵器2号」の標的であるロンドンでは、北アフリカでロンメルと共に戦い、
英国の捕虜となっていたリッター・フォン・トーマ将軍が盗聴器の仕掛けられた収容所で
ブラウヒッチュ陸軍総司令官と一緒に見学したロケット研究の話をしてしまったことが
キッカケとなって、英首相チャーチルも知ることになります。
やがてドイツの秘密基地ペーネミュンデを爆撃すべく、「ハイドラ作戦」が・・。
ランカスターにハリファックス、スターリング爆撃機531機が爆弾の雨を降らせるのでした。

ミッテルバウ=ドーラ強制収容所として知られる巨大な地下工場がコーンシュタイン山に建築され、
SS建築部門の責任者から、目覚ましい勢いで出世してきたハンス・カムラーも登場。
彼は強制収容所の建築も手掛けていた人物で、本書では野心家で冷静、自己中心的、
非人道主義者のインテリと紹介します。
そしてこの強制収容所兼V2ロケット工場の管理を行うことで、「A4計画」そのものを
SSの管理下に収めようともくろみます。

フォン・ブラウンを「ハインリヒ号」に呼び出し、「部下にならないか??」と勧誘するヒムラー・・。
それを「お断り」した彼ですが、10日後にゲシュタポの訪問を受けてしまいます。
事件を知ったドルンベルガーはOKWのカイテル元帥のところに押しかけますが、
「落ち着きたまえ。私としてはヒムラーともめ事を起こしたくないんだ。
私が誤りを犯して辞職するようなことになれば、将校団と総統閣下との最後の繋がりが失われ、
力を握るのはSSとヒムラーだけだ」。

頼りにならないカイテルに見切りをつけて、ゲシュタポ長官のハインリッヒ・ミュラーと
直談判するドルンベルガー。
シュペーアもヒトラーにフォン・ブラウンの釈放を働きかけて、ようやく仮釈放が認められます。
しかし1944年7月に将校団による「ヒトラー暗殺未遂」事件が起こると、
ここぞとばかりにSSの手によって粛清される陸軍将校・・。
そしてA4計画全体はカムラーが掌握することに・・。

こうして9月6日、史上初めての弾道ミサイル「報復兵器2号」が発射されます。
連合軍が上陸したフランス各地やアントワープ、そしてロンドンに向けて次々と・・。
部隊の編制などにも触れて、武装SSだけで編成された「第500SSロケット中隊」など
初めて聞きましたねぇ。ちなみに英国に落下したV2は1115発、死者2700人だそうです。

終戦も近くなると、東西から攻める連合軍に対して米軍への投降を選択する
フォン・ブラウンら技術者たち。
カムラーSS大将は行方不明となり、自殺したとも部下に殺されたとも・・。
そしてドルンベルガーはV2攻撃の責任者として英国で戦争犯罪者として扱われますが、
1947年には釈放され、米陸軍と契約を結んでいたフォン・ブラウンら118人の元へ・・。
1955年に米国への帰化が認められたフォン・ブラウンは弾道ミサイル開発の
技術面の最高責任者として活躍。
全長111mの3段ロケット、大きさはV2の225倍という「サターンV」を造り上げます。
そして1969年、その先端には「アポロ11号」が・・。

フォン・ブラウンとドルンベルガーの人生を軸に、
それに関わったその他の研究者たちと、ヒトラーを筆頭としたナチスの重鎮たち、
ロケット開発の歴史から、V2ロケットそのものの詳細。
日本人の著者の初めての書き下ろしということですが、
専門的でもありながらも上手くまとまった、非常に勉強になる充実した内容の一冊でした。
野木 恵一 著の「報復兵器V2」を読破しました。
1月に独破した「V1号V2号 -恐怖の秘密兵器-」でも本書にチョロっと触れましたが、
「反逆部隊」でもV2ロケットが重要なアイテムだったので、そのままの勢いで進んでしまいました。
1999年発刊で333ページの本書は「光人社」のものですが、
「あとがき」を先に読んでみたら、1983年の「朝日ソノラマ」の再刊と・・。
特に内容には手を加えていないということですが、まったく気がつきませんでしたねぇ。

ヴェルサイユ条約によって、口径17センチ以上の火砲の製造を禁止されたものの
ロケット兵器については無視されていたことから、陸軍兵器局の砲術弾薬課長で、
弾道学博士として、ベルリン大学でも教鞭を執っていたカール・ベッカー大佐の指示により
部下のヴァルター・ドルンベルガーがロケット兵器開発に着手するところから始まります。
固定推進剤ロケットと液体推進剤ロケットという2種類の違いを明確にし、
ここでのドルンベルガーの経歴では、前者の研究によって、のちにドイツ陸軍が
「ネーベルヴェルファー」や「パンツァーヴェルファー」を生み出したということです。

続いては民間のロケット研究。本書の主役ヴェルナー・フォン・ブラウンの生い立ち・・、
12歳の時にベルリンの繁華街ティーアガルテンの通りを
手押し車に大きな花火6本を括り付けて、暴走させる・・という腕白なロケット実験を敢行した
このロケットに魅入られた男を詳しく紹介します。
また、オペル自動車の創立者、フリッツ・フォン・オペルがロケット自動車を製作していた話も。

自宅謹慎処分となったフォン・ブラウン少年はジュール・ヴェルヌの「地球から月へ」や、
H・G・ウェルズの「月世界最初の人間」などを読み漁ります。
ドイツ映画界の巨匠フリッツ・ラングが「月世界の女」を撮るというロケット・ブームの話になると
ヴィトゲンシュタインも昔に観た「月世界旅行」なんかを思い出しました。

ベルリンにある工科大学で学び、ドイツ宇宙旅行協会(VfR)にも入会したフォン・ブラウン。
しかし協会でのロケット製作は1920代後半の世界恐慌も手伝って資金不足が続きます。
1932年、そんな彼らの協会に陸軍兵器局のベッカーとドルンベルガーが訪れますが、
その内容に失望。。しかし、学生のフォン・ブラウンの才能は軍部の目に留まり、
陸軍兵器局兵器実験部の民間職員としてリクルートされるのでした。

翌年の1933年にはアグレガート(集合体)と名付けられた1号ロケット、いわゆる「A1」が誕生。
長さは1.4mという小さなものです。
1934年末には「A2」が誕生。このようにV2ロケットである「A4」まで、
また並行して「A5」なども開発、「A12」までも計画されていきます。

やがてロケット開発が軌道に乗り出すと、1936年、
ペーネミュンデに新しい実験場を建築する計画が持ち上がり、
コレに興味を示していた空軍参謀総長ケッセルリンクに研究担当のリヒトホーフェンと対談。
ベッカーは「我々の研究が有望なものとなると、たちまちそれをさらって行こうとする。
陸軍とは比べものにならないことを空軍に思い知らせてやるのだ」と息巻きます。
ペーネミュンデに出来たお隣の空軍施設では、「V1」の開発が進められるわけですが、
この仲の悪さは想像以上ですね。。

弱冠25歳ながら「技術部長」の肩書を持ち、100名の研究者を指導するフォン・ブラウン。
開発されるロケットは前大戦の「パリ砲」のような兵器であることが前提のドルンベルガーですが、
フォン・ブラウンの夢は「宇宙ロケット」の開発と、その意見と目的も違います。

1939年3月、ヒトラーが視察に訪れるものの、一言も質問を発せず、無関心のまま・・。
戦争が始まった翌1940年には、生半可な軍事知識を振りかざして、あれこれの兵器開発に干渉し、
「A4計画」も優先順位から姿を消したかと思うと、翌月には復活、2ヵ月後には再び
リストから削除と混乱・・。フリッツ・トートが兵器弾薬相に任命されると、
ヒトラーの気まぐれに衰弱した、ロケット計画の推進者で兵器局長のベッカー大将は自殺・・。
このベッカーの件は、第三帝国モノやヒトラー伝に何回か出てきた「可哀想な将軍」・・
のイメージを持っていましたが、詳しいいきさつは初めて知りました。

1942年春、いよいよ完成した「A4(=V2)」ロケット。
しかし第1回目の発射実験は大爆発に終わり、第2回目も同様・・。
3号機でようやく成功しますが、次の成功は11号機という不安定な結果に。。
そういえば、Me-163の開発を描いた「ドイツのロケット彗星」でも、
「V2ロケットが100mの高度から突然、こちらに向かってきた」という失敗話を思い出しました。
それでもこの新兵器開発の推進派であるトートの後任の軍需相、シュペーアは
「総統は後に同意されるでしょう」と、北フランスに発射基地建設をトート機関に命ずるのでした。

兵器局の局長はレープ大将となり、補充軍(国内予備軍)のフロム上級大将配下に収められると、
その2人の将軍を伴ってペーネミュンデを訪れて来るのはSS全国指導者ヒムラーです。
「あなた方をサボタージュから守るために派遣されたのです」と穏やかに語るヒトラーですが、
もちろん、そんな程度で済むわけはなく、ペーネミュンデ所長でナチ嫌いのツァンセン大佐が
ヒムラーの圧力によって更迭・・。

英国本土攻撃用兵器として空軍の「V1」、陸軍の「V2」のどちらを採用すべきか・・?
飛行実験対決では「V2」が2回とも成功を収めますが、「V1」はいずれも発射直後に墜落。。
この結果には空軍の誇る悪代官ミルヒ元帥もドルンベルガーの背中を叩いて苦笑い。
「おめでとう。2-0で君の勝ちだ」
そして2日後、ドルンベルガーは少将へと昇進するのでした。

ヴォルフスシャンツェのヒトラー大本営へと突然呼び出されたドルンベルガーとフォン・ブラウン。
「私はなぜ君らの仕事の成功を信じられなかったのだろう」と反省を口にし、
「このような兵器に人類は耐えることはできないであろう」と
「報復兵器2号」がここに誕生します。

このヒトラーとの対談の様子は細かく、数ページに渡り、本文でも度々、
「ドルンベルガーの回想録によると・・」と書かれていますが、主人公の二人、
フォン・ブラウンとドルンベルガーが生き残り、共に西側へ招かれたことで
資料が豊富にあることが、日本人著者でもこれだけ詳細に書けている理由だと思いました。

一方、その「報復兵器2号」の標的であるロンドンでは、北アフリカでロンメルと共に戦い、
英国の捕虜となっていたリッター・フォン・トーマ将軍が盗聴器の仕掛けられた収容所で
ブラウヒッチュ陸軍総司令官と一緒に見学したロケット研究の話をしてしまったことが
キッカケとなって、英首相チャーチルも知ることになります。
やがてドイツの秘密基地ペーネミュンデを爆撃すべく、「ハイドラ作戦」が・・。
ランカスターにハリファックス、スターリング爆撃機531機が爆弾の雨を降らせるのでした。

ミッテルバウ=ドーラ強制収容所として知られる巨大な地下工場がコーンシュタイン山に建築され、
SS建築部門の責任者から、目覚ましい勢いで出世してきたハンス・カムラーも登場。
彼は強制収容所の建築も手掛けていた人物で、本書では野心家で冷静、自己中心的、
非人道主義者のインテリと紹介します。
そしてこの強制収容所兼V2ロケット工場の管理を行うことで、「A4計画」そのものを
SSの管理下に収めようともくろみます。

フォン・ブラウンを「ハインリヒ号」に呼び出し、「部下にならないか??」と勧誘するヒムラー・・。
それを「お断り」した彼ですが、10日後にゲシュタポの訪問を受けてしまいます。
事件を知ったドルンベルガーはOKWのカイテル元帥のところに押しかけますが、
「落ち着きたまえ。私としてはヒムラーともめ事を起こしたくないんだ。
私が誤りを犯して辞職するようなことになれば、将校団と総統閣下との最後の繋がりが失われ、
力を握るのはSSとヒムラーだけだ」。

頼りにならないカイテルに見切りをつけて、ゲシュタポ長官のハインリッヒ・ミュラーと
直談判するドルンベルガー。
シュペーアもヒトラーにフォン・ブラウンの釈放を働きかけて、ようやく仮釈放が認められます。
しかし1944年7月に将校団による「ヒトラー暗殺未遂」事件が起こると、
ここぞとばかりにSSの手によって粛清される陸軍将校・・。
そしてA4計画全体はカムラーが掌握することに・・。

こうして9月6日、史上初めての弾道ミサイル「報復兵器2号」が発射されます。
連合軍が上陸したフランス各地やアントワープ、そしてロンドンに向けて次々と・・。
部隊の編制などにも触れて、武装SSだけで編成された「第500SSロケット中隊」など
初めて聞きましたねぇ。ちなみに英国に落下したV2は1115発、死者2700人だそうです。

終戦も近くなると、東西から攻める連合軍に対して米軍への投降を選択する
フォン・ブラウンら技術者たち。
カムラーSS大将は行方不明となり、自殺したとも部下に殺されたとも・・。
そしてドルンベルガーはV2攻撃の責任者として英国で戦争犯罪者として扱われますが、
1947年には釈放され、米陸軍と契約を結んでいたフォン・ブラウンら118人の元へ・・。
1955年に米国への帰化が認められたフォン・ブラウンは弾道ミサイル開発の
技術面の最高責任者として活躍。
全長111mの3段ロケット、大きさはV2の225倍という「サターンV」を造り上げます。
そして1969年、その先端には「アポロ11号」が・・。

フォン・ブラウンとドルンベルガーの人生を軸に、
それに関わったその他の研究者たちと、ヒトラーを筆頭としたナチスの重鎮たち、
ロケット開発の歴史から、V2ロケットそのものの詳細。
日本人の著者の初めての書き下ろしということですが、
専門的でもありながらも上手くまとまった、非常に勉強になる充実した内容の一冊でした。
フォン・ブラウン博士が開発した技術が大戦後、ドイツからソ連に渡りスカッドミサイルやロケットの開発に使われた、と聞いたことがあります。
一方、ブログにも書いておられるようにブラウン博士自身はアメリカに亡命しロケット開発などに専念しました。固体燃料をロケットに使用するのも、確かブラウン博士の発明だったはずです(間違いならすみません)。
おそらくアメリカのミサイル技術もブラウン博士に負うところが大きいと思います。
人類のミサイル・ロケット技術はフォン・ブラウンという一人の天才から生まれたというのは、興味深い話ですね。
ちなみに北朝鮮のテポドンやノドンはソ連のスカッドミサイルを改良して開発されたものです。ここにもフォン・ブラウンの技術が生きていると思うと複雑な気持ちになります。
by (^0^)v (2012-06-03 13:40)
本書にもノドンやテポドンについて書かれていましたが、ロケットはともかく、それと同じ技術と言われる弾道ミサイルが、どこかの国では平和利用されているわけではありませんから、コレはなんとも。。
ましてフォン・ブラウンも自分が作っているものが、ナチス・ドイツ軍の殺戮兵器だと知っていて、純粋な平和的ロケットである・・とは当然、思っていなかったとすると、彼がシュペーアのように20年の懲役にならなかったのは、米国から見て、技術者として有効という、戦争犯罪人と紙一重の差であるようにも思います。
極端に言えば、ガス室で殺されるのを知っていて、ユダヤ人を効率よく護送したSSの連中と、どれだけの差があるのか?? とも思いました。
by ヴィトゲンシュタイン (2012-06-04 19:49)
質問事項 Pert ①
A4ロケットの燃料について、エタノール【 穀物から精製 】75% 水 25%
にした理由を教えて下さい。
by 渡部健芳 (2013-10-24 13:08)
回答事項 Pert ①
さぁ? 他を当たってください。
by ヴィトゲンシュタイン (2013-10-24 19:37)