ヒットラーを焼いたのは俺だ [回想録]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
エリヒ・ケムカ著の「ヒットラーを焼いたのは俺だ」を読破しました。
1年前、トレヴァ=ローパー著の「ヒトラー最期の日」を読んだときに見つけた本書。
40年前の本でも平気で新刊のように紹介する独破戦線ですが、
その古さではNo.1、1953年(昭和28年)という、60年前の一冊となります。
また、No.1ということでは、このタイトルのインパクトも独破戦線No.1。。
174ページですから、3時間で読んじゃうのもモッタイナイ・・と、数日放っておいたものの、
本書を読んでる夢を見て、明け方に目が覚めてしまいましたので、
仕方なく朝の6時から、このヒトラー専属運転手の回想録の独破開始です。
ヒトラーが首相となる1年前である1932年2月、エッセンのガウライター、
テルボーヴェンの運転手を勤めていた21歳のケンプカ青年が、
ベルリンのカイザーホーフ・ホテルに出頭する電報を受け取るところから本書は始まります。
ホテルにはヒトラーの副官、ブリュックナーの他、ドイツ各地から来た同じような運転手30名・・。
そして順番に党首ヒトラーからのマニアックな質問攻めに遭います。
「君は8㍑=マーシー=ド=コンプレッサー=モーターを知っていますか?」
「この車は何馬力出ますか?」
「見通しのきかないカーブで80㌔で走っているとき、対向車が来たらどうしますか?」
エッセンへ戻っていた彼の下に再び、電報が・・。
そこには「ミュンヘンのブラウン・ハウスのルドルフ・ヘスの許へ出頭されたし」。
こうして試験に見事合格したケンプカ。
早速、ヒトラーの運転手兼従者のユリウス・シュレックから親切に手ほどきを受けます。
すぐに大統領選挙を迎え、ドイツ中を演説で周らねばなりません。
ヒトラーは地図を膝の上に広げ、自分でコースを決めると、運転手のために話しかけ、
食事も作ってやり、疲れからくる睡魔を払ってやるのでした。
シュレックは西北地方を随従し、ケンプカはその他を担当するわけですが、
1936年、先輩運転手のシュレックが脳膜炎で急死。
それ以来、ケンプカには自由な時間はなくなり、一日中待機するという責任重大な任務を負います。
しかし同時に若いケンプカの運転に命を預けるという、
深い個人的信頼を寄せるヒトラーの側近という地位も得るのでした。
仕事は単なる運転手に留まらず、ダイムラー=ベンツ社と共同で新型車の開発にも携わります。
不測の事態に備え、防弾などを施した総統専用車を自腹で開発するものの、
「わたしがドイツ国民に襲われるわけはない!」と、ヒトラーは乗ることを拒否。。
しかし1939年、ビュルガーブロイケラーで爆弾が爆発すると、
「今後はコレに乗る」と宣言し、ようやくボルマンからお金も頂けるのでした。
「最も好ましくない客人」としてヒトラー専属医となったモレルに関して1章を割き、
続いて、「側近のうちで一番憎まれていた人物」として、ボルマンの章が登場します。
1940年、ベルギー国王の妹でイタリア王女のマリア・ジョゼーがボルマンの作った
ケールシュタイン・ハウスを訪れると、出されたお茶が熱すぎて、王女は口を火傷。。
ヒトラーは幾度も謝る羽目に・・。
この問題の調査を受けたボルマンは、老齢の副官ブリュックナーを排除する絶好の機会と捉え、
責任を押し付けて、ヒトラーに勇退させるように進言します。
この結果、後任にはユリウス・シャウプが任命されますが、
すでに副官室の大粛清を行っていたボルマンの前に何の発言権も持っていないのでした。
ポーランド戦の間も毎日のように最前線までヒトラーを乗せていったケンプカ。
本書では「長官」と表現されるヒトラーですが、これは初めてですね。
よく側近や秘書らは「ボス」とか、「シェフ(チーフ)」とか呼んでいたと書かれていますが、
まぁ、翻訳の違いなのかもしれません。
ケンプカ(Kempka)にしても、本書の「ケムカ」と、どちらが正しいのかよくわかりません。
やがて戦況の悪化とともに1945年を迎え、ベルリンへと戻ってきたヒトラー。
父の埋葬を済ませたばかりのケンプカを呼び出し、この大変な時期にも関わらず、
両手を差し伸べて父の急死にお悔やみの言葉を述べるヒトラーの姿に心を打たれます。
西部の司令官であるケッセルリンクがベルリンへ報告に来ると、
特に高く買っている、この元帥の健康を心配したヒトラーの指示によりケンプカは
ナウハイム温泉に連れて行くことに・・。
この時期の危険な旅行からなんとか帰り着いたのも束の間、
今度は軍需相シュペーアの前線視察の旅の運転手に指名されます。
5昼夜に渡る「ヤボス機(ヤーボ)」にも襲われる命がけのドライブから無事に帰り着くと、
いなくなっていた息子が戻ってきたかのように彼を抱き、両手を強く振るヒトラー。
しかし、その様子を背後から苦々しく見つめるのはボルマンです。
特別の許可もなく、「長官」の私室に自由に出入りできる最後の一人であるケンプカに
憎悪を抱いているのでした。
4月20日の総統誕生日も過ぎて、ゲーリングからの「裏切り」の電報に激怒したあと、
1932年から良く知っていたエヴァ・ブラウンと初めてゆっくりと話す機会を待ちます。
彼女によれば、総統はずっと前からボルマンの肚を見抜いているものの、
後任者に慣れるのが容易ではないために、戦争の間はその権力の地位から
遠ざけることが出来なかったとしています。
翌日には長い間「君僕」で付き合ってきた間柄のSS中将フェーゲラインから
2台の車を都合してくれるよう依頼されます。
そしてヒムラー単独講和を伝えるロイター通信のニュース・・。
「総統が狙撃されて脳出血を起こし、もはや意識を回復することはできず、
彼の命は48時間は持つまい」というのがヒムラーの講和の根拠です。
こうしてフェーゲラインの逮捕と処刑へ・・。
続いてはヒトラーとエヴァの結婚の様子。
この土壇場でのヒトラーの決意に対してケンプカはこのように語ります。
「彼は生涯の最も忠実な伴侶を、情婦として歴史の前に立たせたくなかったのである」。
新政府の首相に任命したゲッベルスに家族共々ベルリンから即刻、去ることを
要求するヒトラーですが、ゲッベルスはコレを拒否し、激論が交わされます。
「自分の一番忠実な支持者のきみまでも、もはや自分の命令に従おうとしないのか!」
眼に涙をためて、踵を返して会議室から出ていくゲッベルス。。
やがて興奮したヒトラーの個人副官ギュンシェから電話が・・。
「今すぐ、君から200リットルのベンジン(ガソリン)を貰わなければならないんだ!」
彼の声はいまや悲鳴に近いものとなり、「ベンジン・・・、エリヒ、ベンジン!」
訳もわからず部下に指示してガレージに残っていた車から調達したケンプカ。
今度は侍従長のリンゲが絶望的に叫びます。「ベンジン!、何処にベンジンが置いてある?」
そしてヒトラーの遺体に続いて、ボルマンがエヴァの遺体を抱いて姿を現すと、
その光景に心打たれ、エヴァが憎んでいたボルマンの腕から彼女を奪い取ります。
防空壕の出口から3メートルの所に2人を横たえますが、ロシア軍の榴弾が激しさを増すなか、
タイミングを計りながら、ベンジン缶を取り、
全身を震わせながら2人の遺体にベンジンを注ぎかけるケンプカ。
「自分にはこれはできない!」
それでも義務感が苦痛に打ち勝ちます。
ゲッベルスから渡されたマッチに火をつけ、明るい炎が音を立てて燃え上がります。
こうして5時間半に及ぶ荼毘のあと、遺骨は壁際の小さな墓穴に埋められるのでした。
5月1日、若い少女が衣服を引き裂かれ、大怪我をして運ばれてきます。
彼女の恋人は総統官邸の運転手。歩哨任務を解かれて駆け付けたケンプカの部下の男は、
ヒトラーと同じく、結婚したいと言い出し、困り果てるケンプカ・・。
それでも想像を絶した情勢の中で、厳粛な結婚式が会議室で行われます。
やっぱり「最終戦」はみんな愛を求めるんですねぇ。
そして遂に脱出。
途中でボルマンらと合流することとなり、3両のⅣ号戦車を発見する一行。
この武装SSの残存戦車部隊を率いるハンゼンという指揮官に状況を説明し、
協力を求めたケンプカは、各戦車の周りに葡萄の房のように集まってゆっくりと前進。
しかし敵が砲口を残らず開いて撃って来ると、ボルマンは爆破の圧力で投げ飛ばされ、
彼自身も意識を失うのでした。
こんな古い本書ですが、総統地下壕の見取り図や、
このような「ボルマン死出の旅」なんてのも掲載されています。
ケンプカはその後、ユーゴスラヴィアの外国人労働者の少女に助けられ、
エルベ川を泳いで渡り、ベルヒテスガーデンの妻の元に帰り着きます。
休養後に出頭するつもりだったケンプカですが、すぐに米軍情報部によって逮捕。
ニュルンベルク裁判で4週間、証人席に縛り付けられ、1947年になってようやく自由の身に・・。
丸々1年間、状態が良くて、手頃な値段の本書を探し続けていましたが、
神保町の軍○堂で、綺麗なモノを1400円で購入することが出来ました。
ちなみに定価は180円ですが、地方売価190円というのはどういうシステムなんでしょうね??
ヒトラーの最期モノは結構読みましたが、本書はさすが「焼いたのは俺だ」と言うだけあって、
そのシーンは今まで読んだなかでも一番迫力がありました。
原著は1950年で、当時、根強い噂のあったヒトラーやボルマンの生存説に対して、
真実を提示することを目的に書き上げたそうです。
ただ、このように側近が「死んだ」と言えば言うほど、「匿うためなんじゃ?」と
思われてしまうのも悲しい現実ですね。。
全体的な印象としては「ヒトラー最後の十日間」に通じるものがありました。
回想録って感情移入できるので、とても好きなんですね。
もちろんボリュームはないので、予定通り3時間で一気読みしてしまいましたが、
本の状態、内容、値段を含めて、大満足の1冊でした。
エリヒ・ケムカ著の「ヒットラーを焼いたのは俺だ」を読破しました。
1年前、トレヴァ=ローパー著の「ヒトラー最期の日」を読んだときに見つけた本書。
40年前の本でも平気で新刊のように紹介する独破戦線ですが、
その古さではNo.1、1953年(昭和28年)という、60年前の一冊となります。
また、No.1ということでは、このタイトルのインパクトも独破戦線No.1。。
174ページですから、3時間で読んじゃうのもモッタイナイ・・と、数日放っておいたものの、
本書を読んでる夢を見て、明け方に目が覚めてしまいましたので、
仕方なく朝の6時から、このヒトラー専属運転手の回想録の独破開始です。
ヒトラーが首相となる1年前である1932年2月、エッセンのガウライター、
テルボーヴェンの運転手を勤めていた21歳のケンプカ青年が、
ベルリンのカイザーホーフ・ホテルに出頭する電報を受け取るところから本書は始まります。
ホテルにはヒトラーの副官、ブリュックナーの他、ドイツ各地から来た同じような運転手30名・・。
そして順番に党首ヒトラーからのマニアックな質問攻めに遭います。
「君は8㍑=マーシー=ド=コンプレッサー=モーターを知っていますか?」
「この車は何馬力出ますか?」
「見通しのきかないカーブで80㌔で走っているとき、対向車が来たらどうしますか?」
エッセンへ戻っていた彼の下に再び、電報が・・。
そこには「ミュンヘンのブラウン・ハウスのルドルフ・ヘスの許へ出頭されたし」。
こうして試験に見事合格したケンプカ。
早速、ヒトラーの運転手兼従者のユリウス・シュレックから親切に手ほどきを受けます。
すぐに大統領選挙を迎え、ドイツ中を演説で周らねばなりません。
ヒトラーは地図を膝の上に広げ、自分でコースを決めると、運転手のために話しかけ、
食事も作ってやり、疲れからくる睡魔を払ってやるのでした。
シュレックは西北地方を随従し、ケンプカはその他を担当するわけですが、
1936年、先輩運転手のシュレックが脳膜炎で急死。
それ以来、ケンプカには自由な時間はなくなり、一日中待機するという責任重大な任務を負います。
しかし同時に若いケンプカの運転に命を預けるという、
深い個人的信頼を寄せるヒトラーの側近という地位も得るのでした。
仕事は単なる運転手に留まらず、ダイムラー=ベンツ社と共同で新型車の開発にも携わります。
不測の事態に備え、防弾などを施した総統専用車を自腹で開発するものの、
「わたしがドイツ国民に襲われるわけはない!」と、ヒトラーは乗ることを拒否。。
しかし1939年、ビュルガーブロイケラーで爆弾が爆発すると、
「今後はコレに乗る」と宣言し、ようやくボルマンからお金も頂けるのでした。
「最も好ましくない客人」としてヒトラー専属医となったモレルに関して1章を割き、
続いて、「側近のうちで一番憎まれていた人物」として、ボルマンの章が登場します。
1940年、ベルギー国王の妹でイタリア王女のマリア・ジョゼーがボルマンの作った
ケールシュタイン・ハウスを訪れると、出されたお茶が熱すぎて、王女は口を火傷。。
ヒトラーは幾度も謝る羽目に・・。
この問題の調査を受けたボルマンは、老齢の副官ブリュックナーを排除する絶好の機会と捉え、
責任を押し付けて、ヒトラーに勇退させるように進言します。
この結果、後任にはユリウス・シャウプが任命されますが、
すでに副官室の大粛清を行っていたボルマンの前に何の発言権も持っていないのでした。
ポーランド戦の間も毎日のように最前線までヒトラーを乗せていったケンプカ。
本書では「長官」と表現されるヒトラーですが、これは初めてですね。
よく側近や秘書らは「ボス」とか、「シェフ(チーフ)」とか呼んでいたと書かれていますが、
まぁ、翻訳の違いなのかもしれません。
ケンプカ(Kempka)にしても、本書の「ケムカ」と、どちらが正しいのかよくわかりません。
やがて戦況の悪化とともに1945年を迎え、ベルリンへと戻ってきたヒトラー。
父の埋葬を済ませたばかりのケンプカを呼び出し、この大変な時期にも関わらず、
両手を差し伸べて父の急死にお悔やみの言葉を述べるヒトラーの姿に心を打たれます。
西部の司令官であるケッセルリンクがベルリンへ報告に来ると、
特に高く買っている、この元帥の健康を心配したヒトラーの指示によりケンプカは
ナウハイム温泉に連れて行くことに・・。
この時期の危険な旅行からなんとか帰り着いたのも束の間、
今度は軍需相シュペーアの前線視察の旅の運転手に指名されます。
5昼夜に渡る「ヤボス機(ヤーボ)」にも襲われる命がけのドライブから無事に帰り着くと、
いなくなっていた息子が戻ってきたかのように彼を抱き、両手を強く振るヒトラー。
しかし、その様子を背後から苦々しく見つめるのはボルマンです。
特別の許可もなく、「長官」の私室に自由に出入りできる最後の一人であるケンプカに
憎悪を抱いているのでした。
4月20日の総統誕生日も過ぎて、ゲーリングからの「裏切り」の電報に激怒したあと、
1932年から良く知っていたエヴァ・ブラウンと初めてゆっくりと話す機会を待ちます。
彼女によれば、総統はずっと前からボルマンの肚を見抜いているものの、
後任者に慣れるのが容易ではないために、戦争の間はその権力の地位から
遠ざけることが出来なかったとしています。
翌日には長い間「君僕」で付き合ってきた間柄のSS中将フェーゲラインから
2台の車を都合してくれるよう依頼されます。
そしてヒムラー単独講和を伝えるロイター通信のニュース・・。
「総統が狙撃されて脳出血を起こし、もはや意識を回復することはできず、
彼の命は48時間は持つまい」というのがヒムラーの講和の根拠です。
こうしてフェーゲラインの逮捕と処刑へ・・。
続いてはヒトラーとエヴァの結婚の様子。
この土壇場でのヒトラーの決意に対してケンプカはこのように語ります。
「彼は生涯の最も忠実な伴侶を、情婦として歴史の前に立たせたくなかったのである」。
新政府の首相に任命したゲッベルスに家族共々ベルリンから即刻、去ることを
要求するヒトラーですが、ゲッベルスはコレを拒否し、激論が交わされます。
「自分の一番忠実な支持者のきみまでも、もはや自分の命令に従おうとしないのか!」
眼に涙をためて、踵を返して会議室から出ていくゲッベルス。。
やがて興奮したヒトラーの個人副官ギュンシェから電話が・・。
「今すぐ、君から200リットルのベンジン(ガソリン)を貰わなければならないんだ!」
彼の声はいまや悲鳴に近いものとなり、「ベンジン・・・、エリヒ、ベンジン!」
訳もわからず部下に指示してガレージに残っていた車から調達したケンプカ。
今度は侍従長のリンゲが絶望的に叫びます。「ベンジン!、何処にベンジンが置いてある?」
そしてヒトラーの遺体に続いて、ボルマンがエヴァの遺体を抱いて姿を現すと、
その光景に心打たれ、エヴァが憎んでいたボルマンの腕から彼女を奪い取ります。
防空壕の出口から3メートルの所に2人を横たえますが、ロシア軍の榴弾が激しさを増すなか、
タイミングを計りながら、ベンジン缶を取り、
全身を震わせながら2人の遺体にベンジンを注ぎかけるケンプカ。
「自分にはこれはできない!」
それでも義務感が苦痛に打ち勝ちます。
ゲッベルスから渡されたマッチに火をつけ、明るい炎が音を立てて燃え上がります。
こうして5時間半に及ぶ荼毘のあと、遺骨は壁際の小さな墓穴に埋められるのでした。
5月1日、若い少女が衣服を引き裂かれ、大怪我をして運ばれてきます。
彼女の恋人は総統官邸の運転手。歩哨任務を解かれて駆け付けたケンプカの部下の男は、
ヒトラーと同じく、結婚したいと言い出し、困り果てるケンプカ・・。
それでも想像を絶した情勢の中で、厳粛な結婚式が会議室で行われます。
やっぱり「最終戦」はみんな愛を求めるんですねぇ。
そして遂に脱出。
途中でボルマンらと合流することとなり、3両のⅣ号戦車を発見する一行。
この武装SSの残存戦車部隊を率いるハンゼンという指揮官に状況を説明し、
協力を求めたケンプカは、各戦車の周りに葡萄の房のように集まってゆっくりと前進。
しかし敵が砲口を残らず開いて撃って来ると、ボルマンは爆破の圧力で投げ飛ばされ、
彼自身も意識を失うのでした。
こんな古い本書ですが、総統地下壕の見取り図や、
このような「ボルマン死出の旅」なんてのも掲載されています。
ケンプカはその後、ユーゴスラヴィアの外国人労働者の少女に助けられ、
エルベ川を泳いで渡り、ベルヒテスガーデンの妻の元に帰り着きます。
休養後に出頭するつもりだったケンプカですが、すぐに米軍情報部によって逮捕。
ニュルンベルク裁判で4週間、証人席に縛り付けられ、1947年になってようやく自由の身に・・。
丸々1年間、状態が良くて、手頃な値段の本書を探し続けていましたが、
神保町の軍○堂で、綺麗なモノを1400円で購入することが出来ました。
ちなみに定価は180円ですが、地方売価190円というのはどういうシステムなんでしょうね??
ヒトラーの最期モノは結構読みましたが、本書はさすが「焼いたのは俺だ」と言うだけあって、
そのシーンは今まで読んだなかでも一番迫力がありました。
原著は1950年で、当時、根強い噂のあったヒトラーやボルマンの生存説に対して、
真実を提示することを目的に書き上げたそうです。
ただ、このように側近が「死んだ」と言えば言うほど、「匿うためなんじゃ?」と
思われてしまうのも悲しい現実ですね。。
全体的な印象としては「ヒトラー最後の十日間」に通じるものがありました。
回想録って感情移入できるので、とても好きなんですね。
もちろんボリュームはないので、予定通り3時間で一気読みしてしまいましたが、
本の状態、内容、値段を含めて、大満足の1冊でした。
とうとうこの本のレビューが!楽しみにしておりました。
ボルマンひどいなー。。。。www もう、逆に笑ってしまう。
>ケンプカ(Kempka)にしても、本書の「ケムカ」と、どちらが正しいのか
日本語に直すとムズカシイ発音ですが、「プ」をほとんど発音しないような感じの「ケムカ」が、ドイツ人の発音には近いかもと思うのですが。。。 「ケンプカ」を早口で言ってると「ケムカ」になる、そんな感じで。
ドイツは学校の試験や医者などの資格試験でも口答の試験が必ずあるので、ヒトラーの運転手になる時にもやっていたんだ。。。。とちょっと驚きました。
神保町の軍○堂さん、面白そうですね。
by IZM (2012-11-13 16:33)
ど~も、ど~も。
1年間お待たせいたしました。。ボクも粘りましたよ。なんせ古いから、「裸本、シミ、焼け有り」でも3000円とか・・、そんなの怖くてネットで買えません。神保町の軍学堂は以前は横浜にあって、近くに引っ越してきてくれて、大変助かってます。
>「プ」をほとんど発音しないような感じの「ケムカ」
いつもありがとうございます。正直言って、 IZMさんに聞いてたんですけどね。以前にもトーテンコープフとかも。。
>ヒトラーの運転手になる時にもやっていたんだ。。。。
そう、ココは面白かったですね。今回、写真も載せた「私はヒトラーの秘書だった」 のユンゲ嬢もそんな面接やってましたし、それ以外にも、如何にもヒトラーらしいなぁ・・って思うところが沢山ありました。
by ヴィトゲンシュタイン (2012-11-13 19:17)
>IZMさんに聞いてたんですけどね。
特派員冥利に尽きるとは、こういう事でしょーか。w
最近ヒトラーユーゲント来日当時のちょっと面白ネタをゲットしたので、近々ご報告しますね。
by IZM (2012-11-14 04:46)
>ヒトラーユーゲント来日当時のちょっと面白ネタ
やった・・。
楽しみに待っています。
by ヴィトゲンシュタイン (2012-11-14 12:20)
待ってました!
いきなり脱力の表紙で、ひっくり返りそうになりました^^;
内容はおもしろそうですね。ワタクシも1冊欲しくなりました!
でも、程度のいい本を手に入れるのは難しそうですね~
by ハッポの父 (2012-11-15 19:16)
いや~、ハッポの父さんにも大変お待たせしました。
この本の話は去年の10月ですからねぇ。1年前の件でコメント頂けるBlogってのも良いものだなぁ~と勝手に思ってます。
>いきなり脱力の表紙で、ひっくり返りそうになりました^^;
う~ん。。良く見るとハーケンクロイツじゃなくて、「卍まんじ」ですね。。そしてこの卍がヒトラーで、それが燃えているイメージなんでしょうか・・??
また原題が書かれてなかったんですが、いま、ドイツ語と英語で売っているものは「ヒトラー最期の日」とか、「ヒトラー運転手の回想」といったタイトルでした。まぁ、ボクは邦題のセンスが大好きです・・。
by ヴィトゲンシュタイン (2012-11-15 20:46)
大変貴重な本のレビューですね。ケンプカという一人の青年が世界を巻き込んだ戦争の大舞台の正にその中心に居合わせる数奇な運命を自身によって綴られた稀有な書籍です。入手は困難でしょうけど。個人的に注目したのは私自身書籍出版に少々携わっておりまして、奥付の画像にある印刷所・製本所を目にして驚いたのですが、両社ともに良く知っている会社でして。三崎町にあった関川製本所はこの出版不況の折、一昨年廃業しました。出版業が多い神保町は正に陥落前のベルリンの様相を呈してきております。管理人様の様な読書好きな人が一人でも増えますように、このレビューが続くことを祈っております。
by 神保町特任大尉 (2019-02-16 11:08)