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マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より [回想録]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
エーリヒ・フォン・マンシュタイン著の「マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より」を読破しました。
この1年半の間にマンシュタイン本が2冊も出版されるという異常事態。
ひとつは上下巻の伝記である「ヒトラーの元帥 マンシュタイン」、
もう一冊が1ヶ月ほど前に出た560ページの回想録です。
マンシュタインの回想録といえば「失われた勝利」がよく知られていますが、
あちらは1939年のポーランド戦から、すなわち第2次大戦に特化した回想録であり、
こちらはそれ以前、生い立ち~第2次大戦前まで・・というわけですね。
陸軍参謀本部でNo.2となり、また同僚らから「傲慢な性格」といった評価もあるなど、
特に平時の参謀本部の様子、有名軍人らの軋轢が赤裸々に・・、
なんてのをついつい期待してしまいます。
「序章」は生い立ちから。
1887年11月24日、エドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将の第10子、
その後妻ヘレーネの第5子として生まれ、子供のいなかった母の妹ヘートヴィヒが
嫁いでいるマンシュタイン家に引き渡され、その養父母のもとで愛情に包まれて育ちます。
父から受けた影響なども振り返りながら、自らの性格を自己分析。
曰く「私のなかに潜む反抗精神のおかげで、のちの人生においても、
私がまったく扱いやすい部下とされるようなことは、まずなくなってしまったのである。
少なくとも私を良く知らない相手からは、しばしば冷淡で辛辣な男だと思われたようだ」
そして父が贈ってくれたマンシュタイン家の歴史を書いた本の表紙には
「あくまで忠実に」・・これは、私のモットーとなった・・と。
いや~、いきなり意味深ですねぇ。
陸軍幼年学校時代の回想では、ベルリンの宮殿でドイツ皇帝臨席の祝典の様子が、
嬉々として語られます。
宮廷での「侍童勤務」がそれで、侍童衣装は裾が太股のなかほどまで届く緋色の長上着で
銀の組紐と肩章で飾られ、レースの飾りを胸と袖、白カシミアの半ズボンにつけ、
白い絹の長靴下、黒の留め金付きの短靴、特別の自慢だった優美な帯剣、
ダチョウの白い羽飾りの付いた平らな帽子で装束は完成。
本書にも写真が掲載されていますが、まぁ可愛らしい。。
陸軍幼年学校の彼らは、お客の中でも特に軍の高官に関心を寄せます。
例えば、陸軍内で高い名声を博していた老伯爵ヘーゼラー元帥に、
大参謀本部の総長シュリーフェン元帥・・といった具合。
皇太子の結婚式にも召集された侍童マンシュタイン。
前日に6頭立ての馬車でにぎにぎしくベルリンに迎えられた皇太子妃に
何千ものベルリンっ子たちが魅力的な外見の若い花嫁に喝采を送ったそうですが、
この人は以前、なにかで調べましたねぇ。ちょっと男前な感じで。。
日本人として興味深かったのはこんな部分です。
「ほとんどすべての諸侯が代理人を結婚式に派遣しており、
日本の天皇も皇子を一人送り込んでいた。あいにくなことに彼は序列に従って、
食卓でロシアの大公と向かい合う席に着かなければならなかった。
当時、ロシアと日本はまだ戦争になってなかったが、大きな花かごが置かれ、
二人の対手が互いに見えないようにされた」
この結婚式は1905年6月6日、あれ? ひょっとして日露戦争の真っ最中??
天皇の皇子となると、大正天皇のことかも知れませんね。
期待していた第一次世界大戦についてはわずか2ページ弱。
続く「結婚」には7ページを割いているわけですが、
まぁ「序言」でも小さな歯車の役割を果たしたに過ぎない・・と書いてますし。
こうして81ページから第1部「ライヒスヴェーア」が始まります。
ライヒスヴェーアとは、ワイマール共和国軍というか、
「ゼークトの10万人軍隊」と言った方が馴染みがありますね。
「カップ一揆」に触れながら、第5歩兵連隊の中隊長としての部隊勤務、
そして参謀将校には慣例となっている、その2年間の中隊長勤務を終えて、
参謀部、当時は「指揮官幕僚将校」と呼ばれていた部署に配置され、
その後、1929年9月、ヴェーファー中佐の後任として、「T1・第1課長」に。
「T1」とは部隊局第1部のことで、参謀本部作戦部に相当するそうで、
ヴェーファー中佐とは、初代空軍参謀総長の、あのヴェーファーでした。
所属している若い参謀将校にはホイジンガーやカムフーバー。
T1部長で直属の上官はヘルマン・ガイヤー大佐。
曰く「ガイヤーはカミソリのような理解力の持ち主だった」
さらに1つ上の上官が部隊局長のアダム将軍で、事実上の陸軍参謀総長です。
バイエルン出身者が参謀本部のトップに召されるのは初めてのことで、
コッチコチのプロイセン軍人マンシュタインとの相性が心配になるものの、
「アダム将軍はいつも格別に親切で、全幅の信頼を寄せてくれたのである。
私も、彼を特別に尊敬していた」
1931年、海外旅行に出かけることになったマンシュタイン。
行先はアダム将軍を招待したソ連であり、その随行者に選ばれます。
赤軍はできる限り多くのことを見せようと努め、陸軍大学校の講義をはじめ、
空軍大学校、近代的施設を備えた付属研究所も見学。
続いて、キエフとハリコフへ豪華な客車の旅。
巨大なトラクター工場は近代的で、すべて米国の機械を設置され、
格別に興味深かったと回想します。
そ~か。ハリコフはこのときに下見済みだったのか・・。
モスクワでは国防相ヴォロシーロフの客人となって、
クレムリン内にある彼の住居へ。部屋数も少なく質素な印象です。
この旅行中に知り合った軍司令官たちにはブジョンヌイもいます。
軍人らしく、ぶっきらぼうで豪傑。別れの宴では隣の席に。。
しかし「その他の軍指揮官たちのなかで、今なお存命なのは・・」とあるように
赤軍参謀総長のエゴロフや、「なんとも興味深い人物」というトハチェフスキーなど、
数年後にはほとんどが「粛清」されてしまうのです。
そのトハチェフスキーについては
「聡明で無遠慮でありながら、うちとけない男であると感じられた。
技術的協力には熱心だったけれども、フランスの方に共感を寄せていた」
当然、「レーニン廟」詣では必須であり、レニングラードに寄って
エルミタージュ美術館見学も楽しみます。
翌年にもソ連再訪し、ロストフ、バクーからトビリシまで。
とある駅では、憧れていた楽園を見つけられずに失望した
ドイツの共産主義者との出会いも。。
う~む、マンシュタインがこんなにソ連通だったなんて知りませんでした。
「バルバロッサ」でレニングラード奪取を目指したマンシュタインに
そこを防衛するヴォロシーロフ・・なんて図式もありましたしねぇ。
ブラウ作戦の下見から帰国後、コルベルクの第4歩兵連隊猟兵大隊長を継承。
率直で正直、親切な人柄の上官として全員の尊敬を受けるのは
連隊長のシュトラウス大佐です。
時を同じくして「ヒトラー内閣」が誕生。本書も250ページからナチナチしてきました。
コルベルクで経験した「大政治集会」ではフォン・シーラッハが演説し、彼の指導の下に
全ての青少年を結集すべしと大柄な態度で訴え、大いに尊敬されていたトロータ提督の
青少年団体をけなしたことで、若い軍人たちの感情を害します。
別の集会には「プロイセン州首相」のゲーリングが登場するということで、
ベルリンから1個儀仗中隊を配置せよとのおかしな命令が・・。
儀仗中隊を出すのは国家元首の訪問に際してのことで、州首相は対象外。
そこで式典の際には儀仗中隊をゲーリングではなく、第4歩兵連隊長に
表敬報告させる意趣返しをし、連隊長は儀仗中隊を閲兵。
ライヒスヴェーアはナチ党の警護隊ではないことを示すのでした。
将来、参謀本部の要職に配置するため、ベルリンの軍管区司令部の参謀長などを
経験しておくべし・・と陸軍統帥部長官(陸軍最高司令官)ハマーシュタインから
言われていたとおり、1934年2月、第3軍管区参謀長に就任したマンシュタイン。
同時に軍管区司令官だったフォン・フリッチュ男爵はハマーシュタインの後任となり、
フリッチュの後任の軍管区司令官になったのはプロイセン貴族のヴィッツレーベンです。
「2人の協力関係は意見の相違もなく、ナチ党、特にそのいかがわしい代表者に対しては
彼はあからさまな嫌悪を以て接したのである」
あ~、「ワルキューレ」参加組ですからねぇ。。
また、助手の作戦参謀には伯爵フォン・シュポネック大佐がいたそうな。。
クリミア戦での独断退却→マンシュタイン激怒→死刑宣告の彼ですね。
軍管区参謀長として、ナチ党諸機関との協力が必要とされるものの、
ブランデンブルク州を支配していたのは、州長官兼大管区指導者クーベ。
公式には自分は国防軍と結びついていると強調しつつも、本当のところは
国防軍の宿敵であり、特に将校に対して反感を抱いていたクーベ。。
「その不品行ゆえに、ヒトラーも罷免せざるを得なかったが、理解しがたいことに
戦争中にクーベを呼び戻し、」と、パルチザンに爆殺される最期までボロカスに紹介。
マンシュタインにも、ハイドリヒにも嫌われたまさに最悪の人物のひとりですな。
このあたりから俄然、盛上ってまいりましたので抜粋しましょう。
「格別にまずかったのは、当軍管区には、突撃隊(SA)の高位の幹部も配置されている
ことだった。ベルリンにおいて突撃隊の頂点にいる男、カール・エルンストのことだ。
威張り散らすばかりの若造で、早くに厳しいしつけを受けていれば、ひょっとしたら
彼も何ものかになれたかも知れない。彼は、自分の地位は、軍団長に相当するものと
思い込んでいたようだ。エルンストの登場の仕方は、傲慢、不当な要求、
前代未聞の浪費といった点で際立っていた」と、ゲーリングも出席した
カイザーホーフでの結婚式にまで触れられています。
「シュレージェンで突撃隊のトップにいたのは、悪名高いエドムント・ハイネスだった。
犯罪者的性格がはっきりとみられた人物だ。ブレスラウの司令官ラーベナウ将軍は、
これ以上、突撃隊の不法行為に反対するなら殺すとハイネスに脅されたことがあった」
そしてここから軍vs突撃隊、6月30日に起こった「長いナイフの夜」事件までを
軍管区参謀長マンシュタイン自身の経験をもとに振り返ります。
「時を経るごとに、SA最高指導部が、少なくとも軍を支配下に置こうと企図していることが
いっそう明確になってきた。彼らはクリューガー上級集団指導者のもとに
教育訓練幕僚部を新設したのだ。軍管区司令部に寄せられる、SAが秘密裏に
武器を調達しているとの情報は週を重ねるごとに増していく。
レームが「国民軍」編成を求め、そのなかにライヒスヴェーアを吸収しようとしている
こともわかってきた。しかし国防相ブロムベルク将軍にとっては、我々の警告は
お気に召さぬものであった。ブロムベルクは完全にヒトラーに魅了されており、
私とヴィッツレーベンは反動だとみなしていたのである」
「いずれにせよ、ヒトラーですら、彼のナチ党警衛隊と軍の緊張が拡大していくのを
看過することはできなかった。ゆえに調停を試みようと、軍、SA並びにSSの
高級指揮官を国防省に招集し、演説を行ったのだ。
直接ヒトラーを目撃し、その演説をじかに聴いたのは、このときが初めてであった。
ヒトラーは、国防軍こそが、国民中「唯一の武器の担い手」であるし、
これからも同様であると、明確に強調した。SAとヒトラーユーゲントは
政治教育と兵役適格者の育成という仕事が割り当てられる。
だが、ヒトラーの説明に対して、SAやSSの一部指導者が示した態度から
我々軍人は、相手はこの協定を守らないだろうと結論付けたのみであった」
「6月末、ベルリンでは緊張が進み、頂点に達そうとしていた。
SAがクーアフュルステン通りの軍管区司令部の向かい側にある家を押さえ
夜陰に乗じて、そこに機関銃を持ち込んだことが確認されたのである。
我々は執務所の衛兵を増強した。各部隊もまた、兵営が奇襲攻撃されるような
事態に備え、守備を固めておくべしとの指示を受領した。
軍管区司令部ではなく、グロース=リヒターフェルデに居住していた私は
6月30日直前の数夜においては、今夜にでもSAが自分を拉致しようと
するのではないかと覚悟していたのである」
このようにして「長いナイフの夜」が発生し、シュライヒャーとブレドウ両将軍まで
殺害された軍と、その和解までの経緯が語られ、「そもそも・・」とまとめます。
「あのころ犯された決定的な誤りは、レームのような男を大臣に任命することに
内閣が賛成したことなのである。レームが同性愛の性交に耽っていることは、
そこかしこで噂されていた。法に従うならば監獄にいなければいけないような男が
入閣するということは、ほとんど想像を絶することと思われた。
ヒトラーが、もっと早くにレームと決別していれば、6月30日に実行された
血まみれの法律毀損は避けられたかもしれない」
確かに水木しげるの「劇画ヒットラー」でも、
「お前はSAを野放ししすぎやしないか。苦情が絶えないじゃないか。
それとホモもやめてくれ。
いやしくも一国の大臣がホモなんて話、聞いたこともない」と
ヒトラーがレームに苦言を呈してましたからね。
この殺されたシュライヒャーについて、10数ページ割いているのは興味深く、
人々は、陰謀家、権力を奪わんとした野心家、倒閣運動家、灰色の枢機卿
だと見たがっているものの、ワイマール共和国の安定のために尽くしたことも
忘れられており、ライヒスヴェーアを安定させ、それによって国家権力を
安定させようと、彼が努力したことについての判断も歪められているとします。
「シュライヒャー隷下で働いたことは一度もない」のに、マンシュタインのこの擁護は
ちょっと意外な感じがしました。
また、マンシュタインが最も尊敬する軍人は1935年から参謀総長となった
ルートヴィヒ・ベックです。
「彼は徹頭徹尾遠慮深く、ゆえに、ことの裏側に常に隠れていた。
が、かかる特性には、その性格の誠実さと同じく、偉大なる作戦能力、
何ものにも左右されない明快な判断力、決して放棄されることのない義務観念、
多面的な教養が寄り添っていた。とにかく彼には、その偉大なる先達である
伯爵モルトケ元帥を彷彿とさせるものがあったのだ。
かのモルトケ元帥のおかげでドイツ参謀本部は世界的な名声を得たのだったが
実際、ベックを除けば、敢えてモルトケと比較できるような軍人には
私もお目にかかったことがない。
人間としてのベックは私が出会ったなかでも、最も貴族的なあり方をしていた。
それが仇となって、ヒトラーのごとき野蛮な輩に屈したのも無理はないことだと思われる」
大絶賛ですが、平時の参謀総長なんであまり知られてないんですよね。
映画「ワルキューレ」のテレンス・スタンプといったら思い出す人がいるかも。。
かつては陸戦の指揮に責任を負うカイザーの諮問役は参謀総長だけであり、
第1次大戦において、ヴィルヘルム2世の陸軍に対する統帥権行使は
名目的なものでしかなく、戦争指導は参謀総長に委ねられていたとした上で、
1930年代の陸軍参謀本部再生にあっては、まったく異なる事情に支配されます。
陸軍参謀総長はもはや、「最高司令官たる将帥」の相談役ではなく、単に
陸軍総司令官の相談役に過ぎず、それも彼が分担する領域に関してのみ。
さらに深刻なのは陸軍参謀総長が国家元首に直接働きかけるのは
不可能であり、国家元首と陸軍総司令部の間に、国防軍全体の最高司令官である
国防大臣が入ることによって、かつて「軍事の相談役筆頭」という地位から、
陸海空軍それぞれの総司令官の「補佐役相当」という三等職に転落・・。
「装甲兵科の創設」は、思わず苦笑いしながら読んでしまいました。
当時、作戦部長・参謀次長だったマンシュタイン曰く
「陸軍拡張計画と禁じられていた兵器の導入に関して最優先とされたのは
装甲兵科の創設だった。まさにドイツ装甲兵科の創設者と呼ばれるグデーリアンは
彼の回想録で本件を詳述している。グデーリアンのタフさと戦闘的な気質がなければ
ドイツ陸軍が装甲兵科を保持することはなかった。戦争初期の数年間に
彼が挙げた戦果の大部分も、そうした性格に拠っているのだ。
しかしながら、装甲兵科の問題における陸軍参謀本部の活動は、
躊躇いがちなものだったとするグデーリアンの記述には賛成しかねる」
「あらゆる革新者同様、グデーリアンが強い抵抗と闘わなければならなかったことは
間違いない。軍隊というのは、昔から保守的なものなのだ。
年長の将軍たちの多くが革命的なアイディアに対して、懐疑どころか、
拒絶を以て対応したこともはっきりしている。けれども、陸軍参謀本部が
装甲兵科の意義を認識しようとしなかったとか、グデーリアンに同調しようとせず、
この兵科が陣地戦を克服する手段になるとも思わなかったというようなことは、
絶対にない。両者の見解の相違は、むしろ本質的なところにあった。
彼の立場からすればわからないでもないが、グデーリアンが、ただ装甲兵科のこと
のみを注視していたのに対し、陸軍参謀本部は、陸軍全体のことに
目配りしていなければならなかったのである」
戦車の運用は、装甲兵科によって集中的に行われることになるわけですが、
歩兵師団にとっても「機動性のある砲」が欲しいとマンシュタインが考えたのが
「突撃砲兵」です。
参謀総長ベックでさえ「ふむ、マンシュタインよ。今度ばかりは君も的を外したな!」
と、当初は賛同を得られません。なにしろベックだけでなく、総司令官、
陸軍局長、兵器局長ら上層部は全員が砲兵出身であり、装甲兵科の者たちは
突撃砲兵を「ただ望ましくない競争相手」としか見ず、対戦車砲兵も
自分たちの専門の任務に他の者がもっと良い何かを得るなど許すハズもなし。
まぁ、そんな経緯からマンシュタインもグデーリアンの気持ちが良くわかるんですね。
そうか、陸軍大学校の同期生だったっけ。。
1936年、ナポリ周辺で実施されたイタリア軍の演習の客になったマンシュタイン。
軍事的な面以外にも、特に彼のムッソリーニ評が印象的でした。
「現在の私は、ムッソリーニはいつでも人間的であったと言いたい。
ムッソリーニは、ヒトラーのような意志と知性だけの人というわけではなかった。
同様に彼がその「使命」についての思索だけに囚われていなかったことも確かである。
彼の目的は、その国民を以て、新たなローマ帝国を打ち立てることだった。
だがムッソリーニが祖国の運命と自らを同一視することは、ほとんどなかった。
ヒトラーが次第にそうした方向に傾いていったのとは、違うやりようだったのだ」
陸海空3軍の差異についても言及します。
陸軍は数世紀に渡る伝統に一番深く根ざしているのは確か。
海軍も一定程度同様ながらも、カイザーの海軍。
空軍はナチ体制の産物であり、トップにはヒトラーに続く党人ゲーリングが。。
そしてヒトラーが不機嫌そうに言った言葉を紹介します。
「私はプロイセンの陸軍、カイザーの海軍、ナチスの空軍を持っている」
この3軍を統括する国防相ブロムベルクは、空軍総司令官ゲーリングの
上官になるわけですが、他方、両者は大臣として同格というヤヤコシさ。
さらに新設のOKWにどこまで統合指揮権を渡すか・・というプライドを賭けた問題が。
マンシュタインは当然、海空軍の指揮権もOKHが握るべきだと提案。
この提案にヨードル大佐は「何とも頭が痛いのは、OKHに居を構えているのは
最強の人物だということですよ。もし、フリッチュ、ベック、そして貴官がOKWにいたら
まったく別のことを考えるでしょう」
こうしてブロムベルク=フリッチュ事件へと進み、
フリッチュの後任にはブラウヒッチュが、さらに大規模な人事異動により、
マンシュタインも次長の座を解任され、第18師団長に任命されます。
マンシュタインの後任はハルダー、ベックも怒りをあらわにします。
将来の参謀総長候補と目され、ベックの後任にと噂された、
参謀将校にとって最も栄光のある望みは潰えたマンシュタイン。
このあたり「ドイツ参謀本部」では、ベック参謀総長と、彼が後継者と目していた
マンシュタインのコンビがブラウヒッチュ総司令官にとって決して魅力のあるものではなく
この強力にして自信に満ちたプロイセン人を追い出すのに反対する理由はなかった・・
とし、軍管区司令官当時のブラウヒッチュが参謀本部から派遣されたマンシュタインの
高飛車な態度に腹を立て、その恨みが尾を引いていた・・とも。
本書では具体的な話はなく、ブラウヒッチュとも協力していると感じました。
ひょっとしたらマンシュタインが、その恨みに気づいていなかっただけかも。。
最後はチェコ問題で戦争の危機。ベック抗議の辞任、ハルダーによる反乱計画と
「ミュンヘン協定」によってその計画もフイになるところまで。
非常に幅広い回想録で、ひとつひとつのエピソードも緻密に感じました。
どの時代のエピソードに興味を感じるかは人それぞれだと思いますが、
能無しの上官に、役立たずの部下の実名を挙げては毒づく・・ということもなく、
個人的には「ソ連ツアー」と「突撃隊バトル」を楽しく読みました。
また、後半どうしても考えてしまったのは、
「もし」ハルダーに変わることなく参謀総長になっていたら・・?
ヒトラー排除を目論む尊敬するベックに従ったのか?
参謀総長として全く同じ「マンシュタイン・プラン」が立てられたのか?
あるいは「超」マンシュタイン・プランになったのか?
「バルバロッサ作戦」はもっと戦略目標が明確になったのか?
など、多少はその結果が違った気がします。
でもハルダーよりは早く罷免されそうですな・・。
「最高の戦術家」は参謀であるべきなのか、前線の司令官であるべきなのか
そんな答えのないことまで悶々と考えを巡らせてしまう一冊でした。
それにしても1958年の本が、60年を経て翻訳出版されるのは素晴らしいことです。
今後も第2次大戦を経験した軍人の回顧録がバンバン出ることを希望します。
エーリヒ・フォン・マンシュタイン著の「マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より」を読破しました。
この1年半の間にマンシュタイン本が2冊も出版されるという異常事態。
ひとつは上下巻の伝記である「ヒトラーの元帥 マンシュタイン」、
もう一冊が1ヶ月ほど前に出た560ページの回想録です。
マンシュタインの回想録といえば「失われた勝利」がよく知られていますが、
あちらは1939年のポーランド戦から、すなわち第2次大戦に特化した回想録であり、
こちらはそれ以前、生い立ち~第2次大戦前まで・・というわけですね。
陸軍参謀本部でNo.2となり、また同僚らから「傲慢な性格」といった評価もあるなど、
特に平時の参謀本部の様子、有名軍人らの軋轢が赤裸々に・・、
なんてのをついつい期待してしまいます。
「序章」は生い立ちから。
1887年11月24日、エドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将の第10子、
その後妻ヘレーネの第5子として生まれ、子供のいなかった母の妹ヘートヴィヒが
嫁いでいるマンシュタイン家に引き渡され、その養父母のもとで愛情に包まれて育ちます。
父から受けた影響なども振り返りながら、自らの性格を自己分析。
曰く「私のなかに潜む反抗精神のおかげで、のちの人生においても、
私がまったく扱いやすい部下とされるようなことは、まずなくなってしまったのである。
少なくとも私を良く知らない相手からは、しばしば冷淡で辛辣な男だと思われたようだ」
そして父が贈ってくれたマンシュタイン家の歴史を書いた本の表紙には
「あくまで忠実に」・・これは、私のモットーとなった・・と。
いや~、いきなり意味深ですねぇ。
陸軍幼年学校時代の回想では、ベルリンの宮殿でドイツ皇帝臨席の祝典の様子が、
嬉々として語られます。
宮廷での「侍童勤務」がそれで、侍童衣装は裾が太股のなかほどまで届く緋色の長上着で
銀の組紐と肩章で飾られ、レースの飾りを胸と袖、白カシミアの半ズボンにつけ、
白い絹の長靴下、黒の留め金付きの短靴、特別の自慢だった優美な帯剣、
ダチョウの白い羽飾りの付いた平らな帽子で装束は完成。
本書にも写真が掲載されていますが、まぁ可愛らしい。。
陸軍幼年学校の彼らは、お客の中でも特に軍の高官に関心を寄せます。
例えば、陸軍内で高い名声を博していた老伯爵ヘーゼラー元帥に、
大参謀本部の総長シュリーフェン元帥・・といった具合。
皇太子の結婚式にも召集された侍童マンシュタイン。
前日に6頭立ての馬車でにぎにぎしくベルリンに迎えられた皇太子妃に
何千ものベルリンっ子たちが魅力的な外見の若い花嫁に喝采を送ったそうですが、
この人は以前、なにかで調べましたねぇ。ちょっと男前な感じで。。
日本人として興味深かったのはこんな部分です。
「ほとんどすべての諸侯が代理人を結婚式に派遣しており、
日本の天皇も皇子を一人送り込んでいた。あいにくなことに彼は序列に従って、
食卓でロシアの大公と向かい合う席に着かなければならなかった。
当時、ロシアと日本はまだ戦争になってなかったが、大きな花かごが置かれ、
二人の対手が互いに見えないようにされた」
この結婚式は1905年6月6日、あれ? ひょっとして日露戦争の真っ最中??
天皇の皇子となると、大正天皇のことかも知れませんね。
期待していた第一次世界大戦についてはわずか2ページ弱。
続く「結婚」には7ページを割いているわけですが、
まぁ「序言」でも小さな歯車の役割を果たしたに過ぎない・・と書いてますし。
こうして81ページから第1部「ライヒスヴェーア」が始まります。
ライヒスヴェーアとは、ワイマール共和国軍というか、
「ゼークトの10万人軍隊」と言った方が馴染みがありますね。
「カップ一揆」に触れながら、第5歩兵連隊の中隊長としての部隊勤務、
そして参謀将校には慣例となっている、その2年間の中隊長勤務を終えて、
参謀部、当時は「指揮官幕僚将校」と呼ばれていた部署に配置され、
その後、1929年9月、ヴェーファー中佐の後任として、「T1・第1課長」に。
「T1」とは部隊局第1部のことで、参謀本部作戦部に相当するそうで、
ヴェーファー中佐とは、初代空軍参謀総長の、あのヴェーファーでした。
所属している若い参謀将校にはホイジンガーやカムフーバー。
T1部長で直属の上官はヘルマン・ガイヤー大佐。
曰く「ガイヤーはカミソリのような理解力の持ち主だった」
さらに1つ上の上官が部隊局長のアダム将軍で、事実上の陸軍参謀総長です。
バイエルン出身者が参謀本部のトップに召されるのは初めてのことで、
コッチコチのプロイセン軍人マンシュタインとの相性が心配になるものの、
「アダム将軍はいつも格別に親切で、全幅の信頼を寄せてくれたのである。
私も、彼を特別に尊敬していた」
1931年、海外旅行に出かけることになったマンシュタイン。
行先はアダム将軍を招待したソ連であり、その随行者に選ばれます。
赤軍はできる限り多くのことを見せようと努め、陸軍大学校の講義をはじめ、
空軍大学校、近代的施設を備えた付属研究所も見学。
続いて、キエフとハリコフへ豪華な客車の旅。
巨大なトラクター工場は近代的で、すべて米国の機械を設置され、
格別に興味深かったと回想します。
そ~か。ハリコフはこのときに下見済みだったのか・・。
モスクワでは国防相ヴォロシーロフの客人となって、
クレムリン内にある彼の住居へ。部屋数も少なく質素な印象です。
この旅行中に知り合った軍司令官たちにはブジョンヌイもいます。
軍人らしく、ぶっきらぼうで豪傑。別れの宴では隣の席に。。
しかし「その他の軍指揮官たちのなかで、今なお存命なのは・・」とあるように
赤軍参謀総長のエゴロフや、「なんとも興味深い人物」というトハチェフスキーなど、
数年後にはほとんどが「粛清」されてしまうのです。
そのトハチェフスキーについては
「聡明で無遠慮でありながら、うちとけない男であると感じられた。
技術的協力には熱心だったけれども、フランスの方に共感を寄せていた」
当然、「レーニン廟」詣では必須であり、レニングラードに寄って
エルミタージュ美術館見学も楽しみます。
翌年にもソ連再訪し、ロストフ、バクーからトビリシまで。
とある駅では、憧れていた楽園を見つけられずに失望した
ドイツの共産主義者との出会いも。。
う~む、マンシュタインがこんなにソ連通だったなんて知りませんでした。
「バルバロッサ」でレニングラード奪取を目指したマンシュタインに
そこを防衛するヴォロシーロフ・・なんて図式もありましたしねぇ。
ブラウ作戦の下見から帰国後、コルベルクの第4歩兵連隊猟兵大隊長を継承。
率直で正直、親切な人柄の上官として全員の尊敬を受けるのは
連隊長のシュトラウス大佐です。
時を同じくして「ヒトラー内閣」が誕生。本書も250ページからナチナチしてきました。
コルベルクで経験した「大政治集会」ではフォン・シーラッハが演説し、彼の指導の下に
全ての青少年を結集すべしと大柄な態度で訴え、大いに尊敬されていたトロータ提督の
青少年団体をけなしたことで、若い軍人たちの感情を害します。
別の集会には「プロイセン州首相」のゲーリングが登場するということで、
ベルリンから1個儀仗中隊を配置せよとのおかしな命令が・・。
儀仗中隊を出すのは国家元首の訪問に際してのことで、州首相は対象外。
そこで式典の際には儀仗中隊をゲーリングではなく、第4歩兵連隊長に
表敬報告させる意趣返しをし、連隊長は儀仗中隊を閲兵。
ライヒスヴェーアはナチ党の警護隊ではないことを示すのでした。
将来、参謀本部の要職に配置するため、ベルリンの軍管区司令部の参謀長などを
経験しておくべし・・と陸軍統帥部長官(陸軍最高司令官)ハマーシュタインから
言われていたとおり、1934年2月、第3軍管区参謀長に就任したマンシュタイン。
同時に軍管区司令官だったフォン・フリッチュ男爵はハマーシュタインの後任となり、
フリッチュの後任の軍管区司令官になったのはプロイセン貴族のヴィッツレーベンです。
「2人の協力関係は意見の相違もなく、ナチ党、特にそのいかがわしい代表者に対しては
彼はあからさまな嫌悪を以て接したのである」
あ~、「ワルキューレ」参加組ですからねぇ。。
また、助手の作戦参謀には伯爵フォン・シュポネック大佐がいたそうな。。
クリミア戦での独断退却→マンシュタイン激怒→死刑宣告の彼ですね。
軍管区参謀長として、ナチ党諸機関との協力が必要とされるものの、
ブランデンブルク州を支配していたのは、州長官兼大管区指導者クーベ。
公式には自分は国防軍と結びついていると強調しつつも、本当のところは
国防軍の宿敵であり、特に将校に対して反感を抱いていたクーベ。。
「その不品行ゆえに、ヒトラーも罷免せざるを得なかったが、理解しがたいことに
戦争中にクーベを呼び戻し、」と、パルチザンに爆殺される最期までボロカスに紹介。
マンシュタインにも、ハイドリヒにも嫌われたまさに最悪の人物のひとりですな。
このあたりから俄然、盛上ってまいりましたので抜粋しましょう。
「格別にまずかったのは、当軍管区には、突撃隊(SA)の高位の幹部も配置されている
ことだった。ベルリンにおいて突撃隊の頂点にいる男、カール・エルンストのことだ。
威張り散らすばかりの若造で、早くに厳しいしつけを受けていれば、ひょっとしたら
彼も何ものかになれたかも知れない。彼は、自分の地位は、軍団長に相当するものと
思い込んでいたようだ。エルンストの登場の仕方は、傲慢、不当な要求、
前代未聞の浪費といった点で際立っていた」と、ゲーリングも出席した
カイザーホーフでの結婚式にまで触れられています。
「シュレージェンで突撃隊のトップにいたのは、悪名高いエドムント・ハイネスだった。
犯罪者的性格がはっきりとみられた人物だ。ブレスラウの司令官ラーベナウ将軍は、
これ以上、突撃隊の不法行為に反対するなら殺すとハイネスに脅されたことがあった」
そしてここから軍vs突撃隊、6月30日に起こった「長いナイフの夜」事件までを
軍管区参謀長マンシュタイン自身の経験をもとに振り返ります。
「時を経るごとに、SA最高指導部が、少なくとも軍を支配下に置こうと企図していることが
いっそう明確になってきた。彼らはクリューガー上級集団指導者のもとに
教育訓練幕僚部を新設したのだ。軍管区司令部に寄せられる、SAが秘密裏に
武器を調達しているとの情報は週を重ねるごとに増していく。
レームが「国民軍」編成を求め、そのなかにライヒスヴェーアを吸収しようとしている
こともわかってきた。しかし国防相ブロムベルク将軍にとっては、我々の警告は
お気に召さぬものであった。ブロムベルクは完全にヒトラーに魅了されており、
私とヴィッツレーベンは反動だとみなしていたのである」
「いずれにせよ、ヒトラーですら、彼のナチ党警衛隊と軍の緊張が拡大していくのを
看過することはできなかった。ゆえに調停を試みようと、軍、SA並びにSSの
高級指揮官を国防省に招集し、演説を行ったのだ。
直接ヒトラーを目撃し、その演説をじかに聴いたのは、このときが初めてであった。
ヒトラーは、国防軍こそが、国民中「唯一の武器の担い手」であるし、
これからも同様であると、明確に強調した。SAとヒトラーユーゲントは
政治教育と兵役適格者の育成という仕事が割り当てられる。
だが、ヒトラーの説明に対して、SAやSSの一部指導者が示した態度から
我々軍人は、相手はこの協定を守らないだろうと結論付けたのみであった」
「6月末、ベルリンでは緊張が進み、頂点に達そうとしていた。
SAがクーアフュルステン通りの軍管区司令部の向かい側にある家を押さえ
夜陰に乗じて、そこに機関銃を持ち込んだことが確認されたのである。
我々は執務所の衛兵を増強した。各部隊もまた、兵営が奇襲攻撃されるような
事態に備え、守備を固めておくべしとの指示を受領した。
軍管区司令部ではなく、グロース=リヒターフェルデに居住していた私は
6月30日直前の数夜においては、今夜にでもSAが自分を拉致しようと
するのではないかと覚悟していたのである」
このようにして「長いナイフの夜」が発生し、シュライヒャーとブレドウ両将軍まで
殺害された軍と、その和解までの経緯が語られ、「そもそも・・」とまとめます。
「あのころ犯された決定的な誤りは、レームのような男を大臣に任命することに
内閣が賛成したことなのである。レームが同性愛の性交に耽っていることは、
そこかしこで噂されていた。法に従うならば監獄にいなければいけないような男が
入閣するということは、ほとんど想像を絶することと思われた。
ヒトラーが、もっと早くにレームと決別していれば、6月30日に実行された
血まみれの法律毀損は避けられたかもしれない」
確かに水木しげるの「劇画ヒットラー」でも、
「お前はSAを野放ししすぎやしないか。苦情が絶えないじゃないか。
それとホモもやめてくれ。
いやしくも一国の大臣がホモなんて話、聞いたこともない」と
ヒトラーがレームに苦言を呈してましたからね。
この殺されたシュライヒャーについて、10数ページ割いているのは興味深く、
人々は、陰謀家、権力を奪わんとした野心家、倒閣運動家、灰色の枢機卿
だと見たがっているものの、ワイマール共和国の安定のために尽くしたことも
忘れられており、ライヒスヴェーアを安定させ、それによって国家権力を
安定させようと、彼が努力したことについての判断も歪められているとします。
「シュライヒャー隷下で働いたことは一度もない」のに、マンシュタインのこの擁護は
ちょっと意外な感じがしました。
また、マンシュタインが最も尊敬する軍人は1935年から参謀総長となった
ルートヴィヒ・ベックです。
「彼は徹頭徹尾遠慮深く、ゆえに、ことの裏側に常に隠れていた。
が、かかる特性には、その性格の誠実さと同じく、偉大なる作戦能力、
何ものにも左右されない明快な判断力、決して放棄されることのない義務観念、
多面的な教養が寄り添っていた。とにかく彼には、その偉大なる先達である
伯爵モルトケ元帥を彷彿とさせるものがあったのだ。
かのモルトケ元帥のおかげでドイツ参謀本部は世界的な名声を得たのだったが
実際、ベックを除けば、敢えてモルトケと比較できるような軍人には
私もお目にかかったことがない。
人間としてのベックは私が出会ったなかでも、最も貴族的なあり方をしていた。
それが仇となって、ヒトラーのごとき野蛮な輩に屈したのも無理はないことだと思われる」
大絶賛ですが、平時の参謀総長なんであまり知られてないんですよね。
映画「ワルキューレ」のテレンス・スタンプといったら思い出す人がいるかも。。
かつては陸戦の指揮に責任を負うカイザーの諮問役は参謀総長だけであり、
第1次大戦において、ヴィルヘルム2世の陸軍に対する統帥権行使は
名目的なものでしかなく、戦争指導は参謀総長に委ねられていたとした上で、
1930年代の陸軍参謀本部再生にあっては、まったく異なる事情に支配されます。
陸軍参謀総長はもはや、「最高司令官たる将帥」の相談役ではなく、単に
陸軍総司令官の相談役に過ぎず、それも彼が分担する領域に関してのみ。
さらに深刻なのは陸軍参謀総長が国家元首に直接働きかけるのは
不可能であり、国家元首と陸軍総司令部の間に、国防軍全体の最高司令官である
国防大臣が入ることによって、かつて「軍事の相談役筆頭」という地位から、
陸海空軍それぞれの総司令官の「補佐役相当」という三等職に転落・・。
「装甲兵科の創設」は、思わず苦笑いしながら読んでしまいました。
当時、作戦部長・参謀次長だったマンシュタイン曰く
「陸軍拡張計画と禁じられていた兵器の導入に関して最優先とされたのは
装甲兵科の創設だった。まさにドイツ装甲兵科の創設者と呼ばれるグデーリアンは
彼の回想録で本件を詳述している。グデーリアンのタフさと戦闘的な気質がなければ
ドイツ陸軍が装甲兵科を保持することはなかった。戦争初期の数年間に
彼が挙げた戦果の大部分も、そうした性格に拠っているのだ。
しかしながら、装甲兵科の問題における陸軍参謀本部の活動は、
躊躇いがちなものだったとするグデーリアンの記述には賛成しかねる」
「あらゆる革新者同様、グデーリアンが強い抵抗と闘わなければならなかったことは
間違いない。軍隊というのは、昔から保守的なものなのだ。
年長の将軍たちの多くが革命的なアイディアに対して、懐疑どころか、
拒絶を以て対応したこともはっきりしている。けれども、陸軍参謀本部が
装甲兵科の意義を認識しようとしなかったとか、グデーリアンに同調しようとせず、
この兵科が陣地戦を克服する手段になるとも思わなかったというようなことは、
絶対にない。両者の見解の相違は、むしろ本質的なところにあった。
彼の立場からすればわからないでもないが、グデーリアンが、ただ装甲兵科のこと
のみを注視していたのに対し、陸軍参謀本部は、陸軍全体のことに
目配りしていなければならなかったのである」
戦車の運用は、装甲兵科によって集中的に行われることになるわけですが、
歩兵師団にとっても「機動性のある砲」が欲しいとマンシュタインが考えたのが
「突撃砲兵」です。
参謀総長ベックでさえ「ふむ、マンシュタインよ。今度ばかりは君も的を外したな!」
と、当初は賛同を得られません。なにしろベックだけでなく、総司令官、
陸軍局長、兵器局長ら上層部は全員が砲兵出身であり、装甲兵科の者たちは
突撃砲兵を「ただ望ましくない競争相手」としか見ず、対戦車砲兵も
自分たちの専門の任務に他の者がもっと良い何かを得るなど許すハズもなし。
まぁ、そんな経緯からマンシュタインもグデーリアンの気持ちが良くわかるんですね。
そうか、陸軍大学校の同期生だったっけ。。
1936年、ナポリ周辺で実施されたイタリア軍の演習の客になったマンシュタイン。
軍事的な面以外にも、特に彼のムッソリーニ評が印象的でした。
「現在の私は、ムッソリーニはいつでも人間的であったと言いたい。
ムッソリーニは、ヒトラーのような意志と知性だけの人というわけではなかった。
同様に彼がその「使命」についての思索だけに囚われていなかったことも確かである。
彼の目的は、その国民を以て、新たなローマ帝国を打ち立てることだった。
だがムッソリーニが祖国の運命と自らを同一視することは、ほとんどなかった。
ヒトラーが次第にそうした方向に傾いていったのとは、違うやりようだったのだ」
陸海空3軍の差異についても言及します。
陸軍は数世紀に渡る伝統に一番深く根ざしているのは確か。
海軍も一定程度同様ながらも、カイザーの海軍。
空軍はナチ体制の産物であり、トップにはヒトラーに続く党人ゲーリングが。。
そしてヒトラーが不機嫌そうに言った言葉を紹介します。
「私はプロイセンの陸軍、カイザーの海軍、ナチスの空軍を持っている」
この3軍を統括する国防相ブロムベルクは、空軍総司令官ゲーリングの
上官になるわけですが、他方、両者は大臣として同格というヤヤコシさ。
さらに新設のOKWにどこまで統合指揮権を渡すか・・というプライドを賭けた問題が。
マンシュタインは当然、海空軍の指揮権もOKHが握るべきだと提案。
この提案にヨードル大佐は「何とも頭が痛いのは、OKHに居を構えているのは
最強の人物だということですよ。もし、フリッチュ、ベック、そして貴官がOKWにいたら
まったく別のことを考えるでしょう」
こうしてブロムベルク=フリッチュ事件へと進み、
フリッチュの後任にはブラウヒッチュが、さらに大規模な人事異動により、
マンシュタインも次長の座を解任され、第18師団長に任命されます。
マンシュタインの後任はハルダー、ベックも怒りをあらわにします。
将来の参謀総長候補と目され、ベックの後任にと噂された、
参謀将校にとって最も栄光のある望みは潰えたマンシュタイン。
このあたり「ドイツ参謀本部」では、ベック参謀総長と、彼が後継者と目していた
マンシュタインのコンビがブラウヒッチュ総司令官にとって決して魅力のあるものではなく
この強力にして自信に満ちたプロイセン人を追い出すのに反対する理由はなかった・・
とし、軍管区司令官当時のブラウヒッチュが参謀本部から派遣されたマンシュタインの
高飛車な態度に腹を立て、その恨みが尾を引いていた・・とも。
本書では具体的な話はなく、ブラウヒッチュとも協力していると感じました。
ひょっとしたらマンシュタインが、その恨みに気づいていなかっただけかも。。
最後はチェコ問題で戦争の危機。ベック抗議の辞任、ハルダーによる反乱計画と
「ミュンヘン協定」によってその計画もフイになるところまで。
非常に幅広い回想録で、ひとつひとつのエピソードも緻密に感じました。
どの時代のエピソードに興味を感じるかは人それぞれだと思いますが、
能無しの上官に、役立たずの部下の実名を挙げては毒づく・・ということもなく、
個人的には「ソ連ツアー」と「突撃隊バトル」を楽しく読みました。
また、後半どうしても考えてしまったのは、
「もし」ハルダーに変わることなく参謀総長になっていたら・・?
ヒトラー排除を目論む尊敬するベックに従ったのか?
参謀総長として全く同じ「マンシュタイン・プラン」が立てられたのか?
あるいは「超」マンシュタイン・プランになったのか?
「バルバロッサ作戦」はもっと戦略目標が明確になったのか?
など、多少はその結果が違った気がします。
でもハルダーよりは早く罷免されそうですな・・。
「最高の戦術家」は参謀であるべきなのか、前線の司令官であるべきなのか
そんな答えのないことまで悶々と考えを巡らせてしまう一冊でした。
それにしても1958年の本が、60年を経て翻訳出版されるのは素晴らしいことです。
今後も第2次大戦を経験した軍人の回顧録がバンバン出ることを希望します。
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