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第三帝国のスポーツVol.2 (Sport and the Third Reich: History, Uniforms, Insignia, and Awards) [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

R. Newbrough著の「Sport and the Third Reich Vol.2」を読破しました。

先日の「Vol.1」はナチス・ドイツのスポーツ全般、1936年のベルリン・オリンピックから、
空軍、海軍、陸軍のスポーツ関連グッズ、そしてSA(突撃隊)などが強烈に紹介されました。
このVol.2に登場するのは、SSと警察にヒトラー・ユーゲント、
その他、洋書ならではのマニアにお楽しみのナチスの組織が次々に登場します。

SPORT AND THE THIRD REICH_vol2.jpg

最初は「NSKK」です。
これは、Nationalsozialistisches Kraftfahrkorps(国家社会主義自動車軍団)という
非常に仰々しい名前の組織ですが、1930年にSA(突撃隊)に誕生した
最初の自動車部隊(NSAK)が翌年には「Automobil」を「Kraftfahr」となって、
自動車とオートバイの技術を習得するという、自動車大好きヒトラー総統の肝いり軍団です。

Sport and the Third Reich II_1.jpg

軍団長のアドルフ・ヒューンラインはミュンヘン一揆にも参加して、
ヒトラーと同様、ランツベルク刑務所に収監された経歴を持ち、
この古参闘士が1942年に死去すると、ドイツ最高勲章である「ドイツ勲章」が追贈。
いわゆる「死の勲章」ですが、フリッツ・トートハイドリヒに次ぐ、3番目の受章者ですね。

Adolf Hühnlein.jpg

タイヤに乗った鷲がデザインの「ドイツ・モータースポーツ章」も金銀銅各種紹介されていますし、
フォルクスワーゲンを含む、自動車関連切手も大きく取り上げています。

Deutsches Motorsportabzeichen_1939 Auto Show Stamps.jpg

次は「DLV/NSFK」です。
DLVはDeutscher Luftsportverband(ドイツ航空スポーツ協会)の略であり、
1933年にSAのゲーリングとエルンスト・レームが責任者となって、
後のドイツ空軍パイロットらを養成した組織です。そして1937年には解体され、
NSFK、Nationalsozialistisches Fliegerkorps(国家社会主義航空軍団)となって、
少年パイロットなどの育成を行う準軍事組織に・・。
本書では、1943年まで軍団長を勤めたフリードリッヒ・クリスチャンセンと、
後任の軍団長、アルフレート・ケラーも写真付きで紹介します。

Friedrich Christiansen.jpg

体育着は色鮮やかですね。オレンジがかったイエローというか。。
インシグニアも独特のデザインです。

Sport and the Third Reich II_2.jpg

航空機パイロット章(abzeichen für motorflugzeugführer)、各種・・。

Abzeichen für Motorflugzeugführer.jpg

そしてグライダーパイロット章(Segelfliegerabzeichen)、
バルーンパイロット章(Abzeichen für Freiballonführer)、といった、
見たことも聞いたこともないバッジを各種、取り揃えております。
いや~、これは凄い! とても勉強になります。

Grosses Segelflierabzeichen_Abzeichen für Freiballonführer.jpg

もうだいぶ良い感じになってしまいましたが、「SSと警察」の章がきました。
責任者として一応、ヒムラーダリューゲを紹介しています。
そして出ました。SSマークの体育着
白に黒かと思っていましたが、最初は褐色のナチス・カラーだったんですね。

Sport and the Third Reich II_3.jpg

さらにエリート部隊である「ライプシュタンダルテ」だけは独自のインシグニアで勝負。
スポーツ・セーターの実物まで出てきましたが、ニットにジッパーなんてモダンなデザインです。

Sport and the Third Reich II_4.jpg

SSスポーツ章」が出た後は、警察関連グッズです。
こちらの体育着は想像通りですね。緑のポリツァイ・マーク。

Sport and the Third Reich II_5.jpg

バンバン行きましょう。お次は「ヒトラー・ユーゲント(HJ)」。
初代指導者フォン・シーラッハと2代目のアクスマンも写真付き。
そしてこの組織、ドイツ少女団「BDM(Bund Deutscher Mädel)」、
さらに男女の年少組織であるドイツ少年団「DJ (Deutsches Jungvolk)」と、
ドイツ幼女団「JM (Jungmädelgruppe)」も一緒くたで紹介します。
当初の体育着は男女とも、HJバッジのインシグニアです。

Sport and the Third Reich II_6.jpg

しかし男子だけは後にデザイン変更したようで、腕章と同じヤツですね。

Sport and the Third Reich II_7.jpg

また、Vol.1と同様にHJの海パン、それからBDMのいわゆるブルマーの実物も・・。
この路線が好きな人にはタマラン世界でしょう。ぜひ買ってみましょう。
個人的にはスイミング・キャップは可愛らしいと思いますけどね。

Sport and the Third Reich II_8.jpg

表紙の女の子3人組の写真が出てきましたが、雪山でスキーやってるのに薄着だなぁ・・。
まぁ、若さのなせる業ですか。。
このページでは「HJ スキー・リーダー章」が紹介されました。

Hitler Jugend Skiführerabzeichen_Hitler Youth Expert Skier Badge.jpg

まだまだ、長袖のHJハンドボールチームのユニフォームもカラーで・・。
彼らが来日した時にも、こんなのを着て日本チームと戦ったのかも知れません。

Sport and the Third Reich II_9.jpg

そして「HJ達成バッジ」各種に、金に輝くリーダー・バッジ、射撃バッジなど、
ドイツ少年団(DJ)のバッジも含めて紹介します。
子供はこういうの欲しさに頑張りますよね。

Goldenes Führer Sport-Abzeichen_HJ-Schiessauszeichnungen_Deutsche Jungvolks.jpg

女子の場合にも「BDM」、「JM」と、このようなランク付けのバッジを右胸に付けるのです。

BDM Leistungsanzeichen_Jungmädel Leistungsanzeichen.jpg

その他、競技会における1等賞記念グッズもタップリ・・。
一番スポーツをやってる世代ですし、人数も圧倒的に多いですから、
当時の写真も含め、この章に100ページと多くを割いていました。
雑誌の表紙では日本政府のプロパガンダ誌『写真週報』も・・。

Sport and the Third Reich II_10.jpg

続いては「DAF and RAD」。
DAFは、Deutsche Arbeitsfront(ドイツ労働戦線)、
RADは、Reichsarbeitsdienst (国家労働奉仕団)の略ですが、
RADはDAFの下部組織になりますね。
まずはロベルト・ライが指導者のDAF(ドイツ労働戦線)を紹介しますが、
奥さんのインゲさんが綺麗なだけに、ど~もこの人は好きになれません。。

Sport and the Third Reich II_11.jpg

このDAFはもともとは労働者組合を解体してできた巨大組織で、
戦時中、労働者の90%、2000万人が加入していたと言われており、
速い話が軍務に就いていない健康な男女のほとんどが加入していたことになります。
そして工場や職場でのスポーツが激励され、DAFのインシグニアの体育着が誕生。
赤いサッカー・ユニフォームが印象的ですが、格好いいかは微妙。。
また、「NSBO(Nationalsozialistische Betriebszellenorganisation)」という
DAFの経営細胞組織の体育着インシグニアまで・・、激レアです。

Sport and the Third Reich II_12.jpg

コーチなどは特別なシールド型のインシグニアを付けますが、
体育教師になるとさらに特殊なピン・バッジが・・。
しかしコレは、パッと見、「旭日旗」っぽいですよね。

Reichsverband deutscher Turn-.Sport- und Gymnastiklehrer Member Lapel Pin.jpg

RAD(国家労働奉仕団)の総裁はコンスタンチン・ヒールルという人物です。
この人は初めて知りましたが、1945年2月に生きたまま「ドイツ勲章」を受章していました。

Konstantin Hierl.jpg

17歳から25歳の若者を対象とした半年間の労働奉仕活動ですから、
インシグニアもシャベルです。

Sport and the Third Reich II_13.jpg

女性の場合は、Reichsarbeitdienst der weiblichen Jugend (RAD/wJ)という
名称なだけに、シャベルはハーケンクロイツへと変更。
女性に肉体労働はやらせないぞ!・・というナチスらしいデザインの違いを感じます。

Sport and the Third Reich II_14.jpg

最後の章は「その他の組織」ですが、これがまた馬鹿に出来ません。
まずはライヒスバーン(Deutsche Reichsbahn)。 ドイツ帝国鉄道??
それからライヒスポスト(Deutsche Reichspost)。 ドイツ帝国郵便って訳すんですかね。。

そして右にはお楽しみ、ドイツ赤十字(DRK、Deutsches Rotes Kreuz)の登場。

Sport and the Third Reich II_15.jpg

まぁ、でも黒鷲&ハーケンクロイツに赤十字っていうのも、ちと怖いなぁ。
ぜひ優しく治療してください・・。

Sport and the Third Reich II_16.jpg

「Deutsche Jägerschaft(ドイツ・ハンティング協会)」の
メダルやペナントなどの関連グッズまで出てきました。
ハンティングも当然、スポーツですが、仕切っているのも当然、狩猟長官のゲーリング

Sport and the Third Reich II_17.jpg

いや~、コレはちょっと気になっていろいろと調べてみましたが、
本書には載ってないものの、緑の制服まであったり・・。

jägermeister  Göring.jpg

他にも「イエーガーマイスター・ゲーリング」のメダルも作られてたりして、
国家元帥は本業(空軍)を疎かにして、やりたい放題な感じですね。

REICHS JAGERMEISTER GORING MEDALLION.jpg

最後の最後はオマケとしてか、戦時中の米軍、
陸軍や海兵隊のスポーツ・グッズを紹介しています。

Sport and the Third Reich History, Uniforms, Insignia, and Awards.jpg

1回目はダーっと読んで、2回目は英語とドイツ語名称を調べながらジックリ・・。
当時の白黒写真もそれなりに多い本書ですが、
マイナーなバッジ類は初めて知った物が多くて、非常に楽しめました。
また、このVol.2に出てきた組織についても大変勉強になりました。
さすがにこのままのボリュームで翻訳版は無理だと思いますが、
カラーの実物写真を中心にした300ページほどの写真集を期待してしまいます。

そんなことを書きつつ、「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集-第654重戦車駆逐大隊」を
遂に昨日、買ってしまいました(「あまちゃんメモリアルブック」と一緒に・・) 。









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第三帝国のスポーツVol.1 (Sport and the Third Reich: History, Uniforms, Insignia, and Awards) [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

R. Newbrough著の「Sport and the Third Reich Vol.1」を読破しました。

2月の「柏葉騎士十字章受勲者写真集」に続く、洋書写真集の第2弾です。
去年の10月に発刊されたわりと新しい大判の本書は、2冊セットで656ページ。
今年のお正月にお年玉をつぎ込んで購入しました。17000円也。。
第三帝国好きのスポーツ好きですから、こんな本は英語であろうと我慢できません。
掲載されている写真は2200枚以上だそうで、当時の写真は白黒ながらも、
現物の写真は当然カラーで、まるで「ナチス親衛隊装備大図鑑」を彷彿とさせます。

SPORT AND THE THIRD REICH_vol1.jpg

最初は「ドイツのスポーツ 1933-1945」と題し、当時の白黒写真中心で、
青少年たちが各種スポーツに打ち込む姿を紹介します。
ヒトラー、ゲッベルスフリックと並んでスポーツ指導者委員会長官と日本では訳されている
ハンス・フォン・チャンマー・ウント・オステンの肖像画も出てきました。

Hans von Tschammer und Osten.jpg

ヒトラー・ユーゲントBdMのスポーツ着姿もありますが、
一番興味深かったのは「アドルフ・ヒトラー学校」の授業の様子ですね。
途中5ページは着色カラー写真で円盤投げ、レスリング、重量挙げ、レースなどを紹介。

SPORT AND THE THIRD REICH_1.jpg

続いての章は「DRL/NSRL」です。
DRL(DRA)は以前から存在していた「ドイツ帝国体育連盟」、
NSRLは1933年にナチが政権取って誕生した「国家社会主義帝国体育連盟」です。
この連盟のボスがチャンマー・ウント・オステンなんですね。
ドイツ軍人が良く写真でも胸に付けている「DRL(DRA)スポーツ章」が実物のカラーで。

DRL Sportabzeichen.jpg

そして刺繍による「チャンピオンシップ・バッジ」が出てくると、
コレを左腕につけたフェンシング・チャンピオン、ラインハルト・ハイドリヒのデカイ写真が・・。
こちらは ↓ 表彰式ですね。2位と3位は「負けて良かった・・」と安堵の表情。。

Heydrich 1938.jpg

また「ヘビー・アスレティック・スポーシ・バッジ」なるものが金銀銅と出てきましたが、
なんなんでしょうか。レスリング、重量挙げがモチーフのような、コレはじめて見ました。

Heavy Athletics Badges_schwerathletik sportabzeichen.jpg

その他、ペナントや1等賞のトロフィー、メダルやプレートなど珍しい品々。
女性用のオフィシャル体操着も実物のカラー写真です。
やっぱりブルーなんですね。なかなか綺麗です。

SPORT AND THE THIRD REICH_2.jpg

82ページからは1936年の冬季オリンピック「ガルミッシュパルテンキルヒェン大会」。
会場のスタンドでサイン攻めに遭う、ヒトラーとゲッベルスに、スキーやスケート競技の写真。
ポスターとバッジの他、以前に紹介したスキー・ジャンプの切手
この切手のシリーズは味わいがあります。
ボブスレーも何とも言えない絵柄。。まぁ、ハニワですか。

DR_1935_Olympische_Winterspiele_4er_Bob.jpg

そして夏のメインイベント「ベルリン大会」へと続きます。
選手がユニフォームの胸につけるインシグニアも当然、実物のカラーです。
8か国のサッカー・チームの集合写真に陸上など競技写真が多数。

SPORT AND THE THIRD REICH_3.jpg

気になったのは乗馬で金銀を獲得した2人のドイツ国防軍の選手に混じって、
あのオッペルン=ブロニコフスキーが写っている写真です。
キャプションでも「メダルは取っていない」と書かれちゃってます。

SPORT AND THE THIRD REICH_4.jpg

気になったもう一枚は水泳での日本人選手の写真です。
これは200m平泳ぎで金メダルに輝いた葉室鐵夫という方で、
銀メダルのドイツ人、エルヴィン・ジータスとの2ショット。

Erwin Sietas, Tetsuo Hamuro.jpg

その他、この大会で実際に使われた円盤投げの「円盤」に、
記念の懐中時計、プレート、折り畳みナイフ、ピンバッジ、
そしてやっぱり記念切手各種、オリンピック章、聖火トーチと
関連グッズがこれでもかと出てきました。

German Reich 1936 - Miniature sheet - XI. Olympische Spiele Berlin 1936.jpg

次は2年後の1938年に開催された「ブレスラウ・スポーツの祭典」です。
いきなり会場の名前が「ヘルマン・ゲーリング・スポーツフィールド」ときましたか・・。
記念バッジも作られた大きな大会のようです。
スタンドのヒムラーも右胸にこのバッジを付けて楽しそう・・。

SPORT AND THE THIRD REICH_5.jpg

ちょうど真ん中あたり162ページから「スポーツ・ユニフォーム」の章へ。
胸にマークの入ったランニングシャツ姿の若者の写真がいろいろと出てきますが、
これが「ドイツ労働戦線(DAF)」の女の子軍団とか、
「警察」マークのムッチリ気味の女の子たちとか、かなりレアでマニアックです。。
国家労働奉仕団(RAD)」もあれば、空軍サッカーチームに陸軍ハンドボールチーム。
トレーニング・スーツと運動靴の実物も・・。

SPORT AND THE THIRD REICH_6.jpg

ここからはもっと具体的に「組織」ごとのスポーツグッズの紹介になります。
まずは「ドイツ空軍」。
当時の写真でも場合によってはカラー写真もあって良いですね。
降下猟兵に所属したヘビー級チャンピオンのマックス・シュメリングの特集もありました。

SPORT AND THE THIRD REICH_15.jpg

お次は「ドイツ海軍」、胸のアドラーはデザインも違い、ブルーが美しいですね。
高射砲での写真もあった空軍とは違い、プールで泳いだり、カヌーを漕いだり、
環境の違いも楽しめます。
そういえば表紙の写真の3人組も海軍でした。

SPORT AND THE THIRD REICH_7.jpg

「ドイツ陸軍」のアドラーの形は海軍と同じですが、色が黒ですね。
各軍の海パンまで実物が出てきますが、
さすがにそこまでは興味ない・・っていうか、好きな人にはタマランかも知れませんが・・。

SPORT AND THE THIRD REICH_8.jpg

「political leader」の章も出てきました。政治指導者と訳すか、ナチ党員と訳すか・・。
胸のアドラーは陸海軍とは違って、羽根の枚数と形も若干違います。
そしてパンツの色もナチ党カラーの褐色。

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ナチ養成学校として有名な「ナポラ」の体育着。
正式には「NPEA」と書くんですね。

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国家社会主義婦人会(NSF)」のお姉さま方も専用の体育着を持っています。

SPORT AND THE THIRD REICH_11.jpg

このVol.1の最後を飾るのは「SA(突撃隊)」です。
有名な「SAスポーツ章」が各種、1942年の切手まで紹介されています。
ちなみにこのバッジは戦争が始まると「SA防衛バッジ」に名称変更されていたようです。

SA-Sportabzeichen_1942.jpg

体育着は胸に「SA」のロゴ付きで、パンツは褐色と誰が見ても突撃隊です。
ただし、ロゴの色は地区ごとに定められていて、ベルリン地区は黒、フランケンは黄色、
ニーダーザクセンならオレンジ、オーデルが赤、オストマルクはピンクなど・・。

SPORT AND THE THIRD REICH_12.jpg

当時の写真では1938年のニュルンベルク党大会での競技会が最高です。
100m走で必死に胸を出す「SA」の走者と、喰らいつく「SS」の走者のデッドヒート。
この時期はSSが巨大化していますから、SAには絶対負けられない戦いがそこにある・・。
こんな1枚の写真から、「炎のランナー」の如きストーリーが勝手に頭に浮かんできます。
仲の良かった従兄弟がSAとSSに分かれて凌ぎを削り、立場が逆転、そして戦争に・・。
どうでしょう?? 面白そうなナチス青春映画になりそうな・・。

SPORT AND THE THIRD REICH_13.jpg

「遊就館」で実物にお目にかかった「ドイツ馬術徽章」というのがありますが、
「SA」にも同じようなバッジがあったことを発見しました。綺麗なケース入りです。

SPORT AND THE THIRD REICH_14.jpg

本書はシッカリした函入りで高級感があります。その厚さ8.5㎝・・、もちろん重さも充分。。
amazonではこの8ヶ月ほどの間に2000円ほど値上がりしていますね。
Vol.2は、NSKK、NSFK、DAF、RAD、そしてSSと警察、HJにBdMといった組織のようです。
さ~てと、いつ読むかなぁ。



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プロ野球ユニフォーム物語 [スポーツ好きなんで]

ど~も。中日ドラゴンズ・ファンのヴィトゲンシュタインです。

綱島 理友 著の「プロ野球ユニフォーム物語」を読破しました。

いつぞやの「パンツァー・ユニフォーム」に続く、独破戦線ユニ・シリーズ第2弾です。
野球モノとしても、「ロシアから来たエース -巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩-」を
去年、紹介していますが、小さい頃からの野球好きですし、
近頃はプロ野球でも、特別なデザインのサンデー・ユニフォームがあったり、
我がドラゴンズも、「燃えドラ」という赤いユニフォームを着用、
また、米国ではスローバックと言いますが、昔のデザインの復刻版を着たりと、
そんな過去のチームカラーや、ユニフォームが気になっていたところ、
本書を友人に貸してもらいました。
2005年に出た357ページのオールカラーで、定価は何とビックリ7000円!
ユニフォームだけではなく、戦前からのプロ野球の歴史にも言及した、
「異色のビジュアル図鑑」です。

プロ野球ユニフォーム物語.jpg

プロローグでは明治時代に米国から野球が伝わり、旧制一高や早稲田大学などを中心に
日本に広まっていった歴史を当時のユニフォーム・イラストと共に紹介。
なかでもミスター5千円こと、新渡戸稲造が急先鋒となった「野球害悪論」が面白いですね。
野球という遊戯は、・・対手を常にペテンにかけよう、計略に陥れよう、
塁を盗もうなどと、眼を鋭くしてやる遊戯である。
故に米人には適するが、英人や独逸人には決して出来ない。
英国の国技たる蹴球のように鼻が曲がっても顎骨がゆがんでも
玉にかじりついているような勇剛な遊びは米人には出来ぬ。・・」。

inazo.jpg

確かに正々堂々としたスポーツに「盗塁」とか、「隠し玉」なんてのは・・。
広島カープのキャッチャーは、当たってもいないのに「デッドボールだ!」と大騒ぎしてましたし、
高校野球ですら一塁コーチャーは完全アウトでも「セーフ」とアピールしたり。。
これらがとても「武士道精神」に則っている・・と思われないのはしょうがないですね。。

達川_名演.jpg

そして本文は「読売ジャイアンツ」から始まります。
アタマには、昭和9(1934)年 大日本東京野球倶楽部として創設、
昭和10(1935)年、アメリカ遠征中に球団名を東京ジャイアンツと命名。
と、球団の遍歴に加え、球団旗の遍歴もカラーで掲載しています。
概要ではさらに詳しく「ジャイアンツ」に決まった経緯に、球団旗のえび茶色と、
ユニフォームの花文字書体が早稲田大学からとったのでは・・と推測します。
また、小さいですが、当時のカラー写真(着色含む)も数枚掲載されています。

tokyo giants.jpg

続いて、本書のメインであるユニフォーム解説です。
大日本東京野球倶楽部から、ユニフォームのデザインが変わるごとに
丁寧に描かれたカラーイラストで説明。
文章も前頁の概要と重複するところもありますが、当該ユニフォーム時代の逸話や
成績など、その情報量には驚かされました。
この読売ジャイアンツだけで23ページ、登場するユニフォーム・イラストの数は
ビジター用も含めて41種類!です。

プロ野球ユニ_1.jpg

次のチームは昭和10(1935)年「大阪タイガース」として創設された「阪神タイガース」です。
この登場順は創設順のようですね。
ニックネームであるタイガースの由来は、阪神工業地帯なので、
同じ米国の大工業地帯であるデトロイトの「タイガース」を意識した命名だそうで、
「東京のジャイアンツがニューヨーク・ジャイアンツなら、こっちはデトロイト・タイガースだ」。

プロ野球ユニ_2.jpg

そして1940年にはチーム名の日本語化によって「阪神」と改称。
ユニフォームも左胸に縦書きで「阪神」ですね。
審判用語も、1ストライクは「よし一本」、セーフは「よし」、アウトは「ひけ」・・。
規則用語ならストライクは「正球」、ボールは「悪球」、ファールは「圏外」といった具合。。
さらに野球帽は「戦闘帽」に変更され、「挙手の礼」の励行、
しまいにはユニフォームの国防色化も決定されますが、
1943年にもなると物資不足のために国防色の生地を入手するのも難しくなり、
そのため阪神は創成期の地味なグレーのユニフォームを改造して凌ぐのでした。

プロ野球ユニ_3.jpg

3番目のチームは我が「中日ドラゴンズ」。
昭和11(1936)年、通称「名古屋軍」として創設され、大戦末期には「産業軍」となり、
戦後は「中部日本ドラゴンズ」・・といった経緯です。
そして日本野球界で最もユニフォームのモデルチェンジを行ったと書かれているとおり、
本書でのユニ・イラストは50種類です。
そのかわり、巨人と阪神のように一貫したコンセプトやこだわりが無いとも言えるようです。
実際、イラストを眺めていくと、1937年には赤のユニですし、
その後も紺色になったり、えび茶になったりとバラバラな印象です。

プロ野球ユニ_4.jpg

戦時中の日本語化においては、もともとが「名古屋軍」なので問題なし。
しかしユニフォームに縫い付けられた「名」のマークは
ナチス・ドイツの「ハーケンクロイツ」を模してデザインされたものだそうです。
いや~、こんなところでナチスが出てくるとは・・、しかもドラゴンズ・・、偶然とは恐ろしい。。

名古屋軍 石丸兄弟.jpg

ドラゴンズ・ユニではもうひとつ面白いエピソードがありました。
戦後の1948年の新ユニがそれで、胸には「Doragons」の文字が堂々と。。
本来は「Dragons」であり、「D」のあとに余計な「o」を付けてしまったのです。
後楽園球場では観戦していた米兵から「なんというチーム名だ」とからかわれ、
新調したくとも戦後の物資不足の時代・・。数ヵ月間はそのままで試合をする羽目に・・。

1974年からはヴィトゲンシュタインが子供用レプリカを着ていたユニが登場。
好きだったのは高木守道に星野仙一、監督さんは与那嶺、4番はマーチンでした。

星野仙一 高木守道.jpg

ちょうど1年前に生まれて初めて聖地「ナゴヤドーム」に行って来ましたが、
その際、気合を入れて古いレプリカ・ユニを買って行こうか・・などと考えました。
しかし、本当のファンなのであれば、オフィシャルショップで最新のデザインを買って、
球団に貢献すべきだなぁ・・と思いました。
イングランドのサッカー・ファンでも毎年ユニが変わる度に買ったりしますし、
さも「俺は35年前からのファンだぜ!」って、昔のユニを着てるのは違う気がするんですね。

次はおじいちゃん世代だけが知っている「東京セネタース」と、「名古屋金鯱」。
1941年に合併して、その2年後には解散してしまった2チームです。
中日ドラゴンズの「名古屋軍」が新愛知新聞で、
ライバル新聞社の名古屋新聞が「名古屋金鯱」を創設したというのは知りませんでした。
だいたい、名古屋軍と名古屋金鯱って漠然と同じだと思っていましたし・・。
「東京セネタース」は競馬の有馬記念で知られる有馬頼寧伯爵と、旧西武鉄道の球団で、
今月26日から「西武ライオンズ」が西武鉄道100年アニバーサリー特別企画の一環として、
「東京セネタース」の復刻ユニで3試合をやるそうです。

西武復刻_東京セネタース.jpg

そんな古いチームの後は「オリックス・ブルーウェーブ」です。
昭和11(1936)年に「阪急」、戦後、「阪急ブレーブス」となった古参の球団ですね。
平成3(1991)年に現在の名前になりますが、若い人は「阪急ブレーブス」知らないのかなぁ?

阪急ブレーブス 山田久志.jpg

「横浜ベイスターズ」も新しいイメージです。
去年、「横浜DeNAベイスターズ」へ変更になりましたが、
もともとは昭和24(1949)年創設の「大洋ホエールズ」ですね。
しかしこの球団には2系統があり、もう一つは戦前の「大東京」です。

昭和11年に江東区新砂の埋立地に球場を建設したものの、
秋の満潮日になると潮が上がって来てグラウンドが水没し、
コールドゲームになることもしばしば・・。
さらに資金難から「ライオン歯磨本舗」とスポンサー契約して球団名は「ライオン」に。
これが日本球界におけるネーミングライツ第1号です。
そこへ「日本語化」が求められるわけですが、「ライオンは日本語だ」と言い張って粘るものの、
ついにスポンサー契約を解消し、「朝日軍」に改称することに・・。

プロ野球ユニ_5.jpg

戦後には「戦争が終わって天下太平になった」ということから「パシフィック(太平)」として復活し、
「太陽ロビンス」、そして「松竹ロビンス」へ。やがて「大洋ホエールズ」と合併という経緯です。
本書ではもちん、このような超マイナーなユニも詳しくイラストで紹介。
しかしこのチームはなんといっても1974年~使われたオレンジと緑が印象的です。
当時、後楽園が人工芝になった頃、巨人vs大洋を見に行った友達曰く、
「緑のユニが人工芝の色とかぶって、背番号が走ってるみたいだった」。
まぁ、シピンの時代の話です。。

大洋ホエールズ_シピン.jpg

次は「イーグルス」。日本語化で「黒鷲軍」となった戦前の球団です。
「プロ野球は本拠地球場と一体でなければならない」という理想の元、
陸軍砲兵工廟の跡地に「後楽園球場」を発起人として建設。
しかし、1937年に球場が完成してみると、球場使用の優先権は「後楽園野球クラブ」、
通称「イーグルス」にはなく、球場経営の主導権を握っていた正力松太郎の
「東京ジャイアンツ」が優先権を持っていたのでした・・。

プロ野球ユニ_6.jpg

福岡ダイエーホークス」。一瞬、昔はなんだっけなぁ?? 思ってしまいましたが、
昭和13(1938)年創設の「南海」でした。
戦時中、「近畿日本鉄道」と合併し、球団名は「近畿日本」となり、
戦後は「大いなる鉄輪」という意味の「近畿グレート・リング」に改称しますが、
コレが米兵たちに大人気。
スタンドから「グレート・リング」と叫べば、周囲の米兵が大爆笑するという不思議さで、
実は「グレート・リング」とは米兵のスラングで「巨大な女性器」だったのです。

87 Calbee Kadota.jpg

千葉ロッテマリーンズ」も、前身が「ロッテ・オリオンズ」だと知っている程度です。
しかしこの球団の歴史の複雑さはハンパじゃありません。
「毎日オリオンズ」系統、「大映スターズ」系統、そして「高橋ユニオンズ」の3系統の球団史を
理解しなければなりません。

一番古いのが「大映スターズ」系統で、昭和21(1946)年の「ゴールドスター」です。
翌年「金星スターズ」になりますが、前から「金星」って何のことだ?? と思ってたので
スッキリしました。別に「金星」っていう企業があったわけじゃないんですね。

大映スターズ_スタルヒン.jpg

「高橋ユニオンズ」はトンボ鉛筆と業務提携して「トンボユニオンズ」へ。
コレはスタルヒンが300勝を達成したチームですね。
「最弱球団  高橋ユニオンズ青春記」という面白そうな本も出ています。

最弱球団  高橋ユニオンズ青春記.jpg

そして初代コミッショナー正力松太郎が2リーグ構想において、
読売新聞のライバルである毎日新聞に球団結成を勧め、
セの「読売ジャイアンツ」に、パの「毎日オリオンズ」という強力な2大新聞社の構図が・・。
ユニフォームも縦じまの「ニューヨーク・ヤンキース」スタイルで、
ビジター用は「ブルックリン・ドジャース」というメジャーの2つのリーグを代表する
チームの真似をするほど気合の入りよう。。

プロ野球ユニ_7.jpg

しかし毎日の経営は思っていたほど順調とはいかず、
照明設備の無い球場での大きくリードされた試合で、わざとチンタラ試合を進めて
日没中止になると、ファンも暴動を起こします。
とても球界の盟主のやることではない・・と、人気もガタ落ちに・・。

この「千葉ロッテマリーンズ」の歴史を振り返ると、現在のセ・パ創設の経緯も理解できますね。
まぁ、ヴィトゲンシュタイン世代では「ミスター・ロッテ」の有藤ですが・・。

有藤_ロッテ.jpg

北海道日本ハムファイターズ」も過去がややこしいチームです。
1945年、戦後すぐに創設された新「セネタース」。
2年後に東急が買収して「東急フライヤーズ」になり、
系列の東映に移管されて「東映フライヤーズ」。
後に「日拓ホーム」へ譲渡されて、それから日本ハムです。

プロ野球ユニ_8.jpg

1973年からパ・リーグは前期と後期に分かれてリーグ戦を行いますが、
「日拓ホームフライヤーズ」は7種類の日替わりユニを採用します。
記者会見でのお披露目では「カラー作戦で相手を翻弄します」と発表され、
1人あたり夏用2着、春秋用も2着、1色につき4着を作り、7色で28着。
遠征では荷物も大変で、ダフルヘッダーも5回はあり、
その都度、ストッキングから着替えなければなりません。
まさに「翻弄された」のは自軍の選手たちであり、
本書では当時の選手へのインタビュー(グチ)が掲載されていて笑えます。
まるで「レインボーマン」を彷彿とさせます。ちと古いか・・。

日拓ホームフライヤーズ.png

西武ライオンズ」は、「西鉄ライオンズ」時代が今でも有名ですね。
しかし昭和24(1949)年の設立当初は、「西鉄クリッパーズ」で、
2年後にセ・リーグの「西日本パイレーツ」と合併したという経緯は初めて知りました。
1970年代には「太平洋クラブライオンズ」から「クラウンライターライオンズ」と
スポンサー契約で改名。
ヴィトゲンシュタインもなんとかギリギリ覚えていますが、
子供がこんな名前のプロ野球チームを好きになろうってのは不可能です。
ましてや「太平洋クラブライオンズ」は背番号を前にも持ってくるという
掟破りのアメフト型ユニを採用。色もワインカラーと言いながらも、
「さつまいものピンク」と言われています。↓ 前列「21番」は若き東尾修ですな。。

太平洋クラブライオンズ.jpg

そして「大阪近鉄バファローズ」。
あ~、いま何位だっけ・・と思わず確認しようとしましたが、途中で気がつきました。
昭和24年(1949)年に「近鉄パールス」として設立。
このニックネームは近鉄沿線の名産品である「真珠」からとられたそうですが、
著者も「こんなに弱々しく可憐な名前は珍しい」と書いています。
さらに「プロ野球史上、最も弱いチームは? と聞かれたら、
迷うことなく1958年の近鉄パールスを挙げる」とまで書かれ、
130試合のうち勝ったのはわずか29試合・・。、
その年の最多勝投手、稲尾和久が一人で33勝・・というのは情けないの一言ですね。
ユニフォーム見ても確かに弱そう・・。

プロ野球ユニ_9.jpg

そんな最弱球団に「猛牛」の異名を持つ、千葉茂が監督に就任。
岡本太郎画伯に有名な「猛牛マーク」のデザインを依頼して、
ニッネームも「近鉄バファロー」に変更します。「ズ」は付かないのがミソですね。

近鉄バファロー.jpg

それとは逆なのが「広島東洋カープ」です。
「カープ(鯉)」で登録してから、複数形でなくてはおかしいということで「カープス」へと変更。
しかし、カープは単複同形で「S」が付かないと指摘され、慌てて戻したものの
1950年の開幕戦の入場式プラカードには「広島カープス」の文字が・・。

その他、原爆の惨禍から、元気と希望の象徴として造られたこの球団の
ニックネーム候補には「アトムズ(原子爆弾)」というものまであったそうです。
これは「ノー・モア・広島」の意味を込めてということですが、いくらなんでも・・。

去年、友達と東京ドームに巨人vs広島を観に行って、初めて広島を応援しました。
しかし、まるで勝つ気がないかのようにあっさりと敗北・・。
試合後、ヘラヘラしてる広島ファンを捕まえて
「ドラゴンズ・ファンだけど、弱すぎるぞ」と、5分ほど説教しちゃいました。。
昔は、北別府とか津田とか、気持ちが入ったピッチャーが多かったんですけどねぇ。
大野もカッコ良かったなぁ。

大野豊_広島.jpg

それでも「アトムズ」というニックネームをご存知の方も多いかも知れません。
昭和48(1973)年まで「ヤクルトアトムズ」というチーム名だった、「ヤクルトスワローズ」です。
もともとは「国鉄スワローズ」なのは良く知られたところですが、
ニックネームは当時の国鉄の花形特急「つばめ」からとられたそうです。
電車だけに「座ろうズ」なんてジョークもあったそうですが、
そういえば親父がキャプテンだった日本舞踊家の草野球チームが
「オドリ・オドロウズ」という、友達にも言えないほどダサい名前だったんですが、
このようなジョーク系統だったのかも知れません。
また、亡くなったおじさんが国鉄スワローズの元1軍のキャッチャーで、
金やんの「2段階カーブ」の凄さをよく話してくれましたっけ。

金田_つばめ.jpg

しかし国営企業の球団が大枚はたいて選手を買い漁るわけにもいかず、
終いには国鉄の膨大な累積赤字が明るみになって、サンケイ新聞に売却。
そのサンケイの系列であるフジテレビで絶賛放映中の「鉄腕アトム」から
今度は「アトムズ」がニックネームとなりますが、赤字経営が続くなか、
ヤクルトに譲渡するものの、今度は手塚治虫の「虫プロ」が倒産・・。
このような不幸の末に、現在の「ヤクルトスワローズ」に至ります。

サンケイアトムズ.jpg

最後は本書が出版された2005年に設立された「東北楽天ゴールデンイーグルス」。
また、昭和22(1947)年の1年間だけ運営された「幻のリーグ」、
「国民野球連盟」、通称:国民リーグについても詳しく紹介しています。
4球団のユニ・イラストは当然ながら、困難な球場確保、難航した運営、
そして国税庁からの査察などが大きな大ダメージとなったそうで、
当然、正力の「日本野球連盟」のいやがらせもあったんでしょう。
国税の査察などと聞くと、正力の指示では?? と勘ぐってしまいますね。

プロ野球ユニ_10.jpg

最初は軽い気持ちで昔のユニフォームを眺めてみよう・・と思って借りた本でしたが、
実際、プロローグを読んだだけで、コレは大変な労作だということがわかりました。
「週刊ベースボール」の連載に加筆したということで、
数年がかりでまとめられた、素晴らしい日本プロ野球史です。
今年、30年ぶりに後楽園の「野球殿堂博物館」にも行ったばかりで
贔屓の球団の歴史っていうのは応援するうえでも知っておくべきだと思います。

野球殿堂博物館.jpg

今回、Webでもいろいろと調べてみましたが、
ヴィトゲンシュタインがドラゴンズ・ファンになった経緯・・、リーグの最終戦かつ、
それまで家族中が好きだった長嶋さんの引退試合をTVで観ていて、
相手のドラゴンズが2軍メンバーということに親父が「長嶋さんに失礼だ!」と激怒。
子供のヴィトゲンシュタインは「打たせてあげようとしているんじゃ・・」と、
その優しさと、好きだったブルーのユニに惹かれてその時から・・ということなんですが、
実はこのシーズン、ドラゴンズはV10を阻止して優勝し、この日は優勝パレードの日。
しかし、雨で順延していた後楽園での最終戦も戦わなければならないという状況で、
1軍メンバーは強制的に名古屋での優勝パレードに参加することに・・。
コレには高木守道は「長嶋さんに失礼だ!」と抗議したそうです。
う~ん、自分のルーツを発見したような気がしますね。

1974-10-14巨人×中日@後楽園球場 長嶋茂雄現役引退.jpg

ただ、残念ながら本書はすでに絶版で、amazonでも15000円のプレミア価格・・。
この内容なら当然ですが、うまく割愛、再編集して3000円くらいで再刊して欲しいですね。




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ロシアから来たエース -巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩- [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ナターシャ・スタルヒン著の「ロシアから来たエース」を読破しました。

EUROは2日間が終わってロシアは大勝、さっき終わったドイツは辛勝でした。
特にドイツは出来は良くなかったですが、自走砲部隊のような名前のセンターバック、
フンメルスが素晴らしかったですね。
そんな話はさておき、先日の「グラーグ」を読んでいたとき、TVでプロ野球初の300勝投手、
スタルヒンが「帝政ロシア出身」と紹介されてビックリ・・!
慌ててPCで調べてみると、彼の娘さんが書いた本書を発見して、すぐに購入。
スタルヒンという名前は沢村栄治と並び、伝説の投手として、後楽園球場まで歩いて行ける
地元の野球小僧は誰でも知っていましたが、無条件で米国人とばっかり思っていました。
確かにスタルヒンなんて米国人ぽくないですが、その当時は日本と米国くらいしか
野球なんてやっていないという先入観があったんでしょうね。
この234ページの本書、あまりの面白さに、久しぶりに一気読みしてしまいました。

ロシアから来たエース.jpg

ヴィクトル・スタルヒンは1916年、ウラル山脈東部の人口3万人という小さな村の生まれ。
まさに第1次大戦中ですが、翌年にはロシア革命が起き、ロマノフ王朝の将校だった父と一家は、
革命軍に追われ、ウラルから広大なシベリアを横断するという果てしない旅に出ることを
余儀なくされます。
国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びて、
日本への入国に必要な一人当たり1500円という大金をなんとか支払い、
北海道の旭川へ。ヴィクトルはすでに9歳に・・。

地元の小学校へ入学し、「ロシア負けた。ニッポン勝った」と虐められながらも成績も優秀、
抜群の運動神経をもって徒競走では20mも後ろからスタートさせられても一等になるほど・・。
大正から昭和にかけて全国的にも少年野球は盛んで、スタルヒンも学校のチームで活躍します。
しかしロシア・カフェを営む父親が店のロシア娘を殺害したかどで逮捕されてしまうのでした。

昭和7年、夏の甲子園を目指して北海道大会に挑む旭川中の怪童スタルヒン。
戦前は旧制ですから「○○高」じゃなくて、「○○中」なんですね。
惜しくも2年連続で甲子園行きの切符を逃しますが、昭和9年(1934年)にベーブ・ルースら
米国のスター選手が来日する第2回日米野球戦の全日本軍のメンバーにスタルヒンの名が・・。

日米野球戦.jpg

日本にはプロ野球は誕生しておらず、野球人気は六大学のアマチュアが支えていたこの当時、
文部省は学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならぬ・・と通達。
このため、主催の読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成することになるのです。
京都商業の沢村栄治を中退させたのと同様の手口で
スタルヒンを退学させてこのチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、
地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗します。

澤村 榮治.jpg

チームメイトはスタルヒンをさらわれないよう一致団結して彼の送り迎えをし、
誘拐魔が来たら、学生服のポケットに詰め込んだボールを浴びせようと考えます。
しかし、警察をも動かす力を持った正力松太郎の読売は、国籍のないスタルヒンを国外追放し、
殺人罪で入獄中の父親もろともスターリン個人崇拝の始まったソ連に
送り返すことをほのめかします。
とうとう、この脅迫の前に退学届を書き、チームメイトに知らせることもなく、
熊の彫り物を抱えたスタルヒンは、夜逃げ同然で上野駅に降り立つのでした。

young starffin.jpg

発足した巨人軍は翌年、アメリカ遠征に出発します。
しかし無国籍のスタルヒンに米国は入国を拒否するなど、トラブルも・・。
あの水原茂と同部屋となり、「先輩、アメリカって外国人ばかりですね」とか
「外国人って全然、日本語喋らないんですね」と
物心ついた時から日本で育った田舎者の少年そのものの感想で水原を呆れさせます。

試合では水原のようなベテラン連中が、速球は良いものの、ノーコンで四球の多い彼に
「トウシロウ!」、「アホ」、「どこ見てほおってんだ!」と代わる代わる怒鳴りつけてきます。
涙を流しながら「このままじゃ怖くて投げれません」と監督に訴え、
目を腫らしてマウンドに立ち続けるスタルヒン・・。

第1回米国遠征 秩父丸.jpg

遠征で味わった屈辱感ゆえ、日本国籍を申請しますが、190㎝近い六尺二寸の身長で
鼻の大きなスタルヒンに対し、役所は「どう見ても日本人じゃない」と一言で終了。
当時の日本では国籍取得のちゃんとしたルールもありません。
ペラペラの日本語を喋り、義理人情も重んじて日本人より日本人らしいと言われるスタルヒンも、
「外人」や「亡命者」というレッテルで、仲間も決して一線を越えてくれないことに悩み、
白系ロシア人の集まる御茶ノ水の「ニコライ堂」に友達探しに通って、
ついには花嫁まで見つけるのでした。
このニコライ堂はヴィトゲンシュタインも子供の頃から見ていますが、こういう教会だったんですねぇ。

ニコライ堂.jpg

「日本人より日本人らしい・・」と繰り返し語られるスタルヒンですが、
読んでいてヴィトゲンシュタインは横綱、白鵬を思い出しました。
今も大相撲では、やれ、日本人の横綱が何年いないとか、日本人力士が何年優勝していないとか、
NHKでも平気でアナウンサーが喋りますが、こういうのを聞くと
「白鵬が可哀想だなぁ・・」といつも思っていました。
当時のスタルヒンとなにも変わっていないんですね。。

白鵬 挙式.jpg

昭和12年になると、あの沢村栄治ですら「スタちゃんと並んで投げると、遅く見えるから・・」と
一緒に投球練習をするのを嫌がるほどになり、ノーヒット・ノーランも達成し28勝をマーク。
ちなみに怖い先輩方は「スタ公」と呼んでます。。
結婚し、MVPも受賞して絶頂期を迎えたスタルヒンですが、時は昭和14年、
1939年という戦争の暗雲立ち込める時代に突入。
満州遠征でも優秀投手賞の活躍をしますが、汽車のなかでは憲兵が「おい、そこの外人」と
ビザが無いことを理由に拳銃まで突きつけるのでした。

victor-starffin_巨.jpg

プロ野球も変革が始まり、タイガースは阪神、イーグルスは黒鷲、ライオンは朝日と横文字禁止。
こうなるとスタルヒンにも風当たりが強くなり、球団によって「須田博(すた ひろし)」と
勝手に改名させられてしまいます。
それでも無国籍者でロシア人の血を持つ彼は「敵性外人」という扱いで、
遠征で東京を離れる場合には、交通手段などを書いた届け出を警察に
いちいち出さなければなりません。

スタルヒン、呉波、白石敏男.jpg

そして警察を訪れ、キョロキョロするスタルヒンに「貴様、何しとる!」といきなりの平手打ち。。
著者は、届け出をしに来た人間に平手打ちを喰らわせる国がどこにあろうか・・としていますが、
当時の日本は映画やドラマで観るよりエゲツない感じです。
まして日本の秘密警察である「特高」に目を付けられているスタルヒンは尾行やスパイ容疑に脅え、
スター選手であってもTVの無いこの時代、一般市民は彼の顔も知らず、
ケンカを吹っかけられたり、蕎麦屋では店員にスパイと間違われて通報されたり・・。

戦前のスタア.jpg

そんな苦労に加え、肋膜炎を患いながらも登板を続け、勝ち続けるスタルヒン。
しかし遂に昭和16年12月に開戦・・。
試合前には近衛師団から借りた軍服に短剣を付け、
チームごとに「米英撃滅」と書かれた標識目掛けて手榴弾を投げるアトラクションが始まり、
後楽園球場の2階席には高射砲が備え付けられます。
沢村や千葉、吉原といった主力選手も戦場へと去って、
ユニフォームは国防色になり、帽子は顎ひも付き戦闘帽、
「セーフ」、「アウト」も日本語化・・。コレは確か「よしっ」とか「だめっ」てなったんでしたっけ??

いまや隣の区に行くのすら、警察の許可が必要となったスタルヒン。
水道橋まで電車で行くつもりが、ひとつ前の飯田橋で降りて歩いていると
「おい、こらっ」と警官がやって来て、そのまま逮捕・・。
平日は産業戦士として工場で働き、週末のみ試合することになったプロ野球。
日本人ではないスタルヒンは徴用されないものの、チームメイトと一緒に工場で働く道を選び、
長身を折り曲げて作業台に向かいます。
そんな彼の野球とチームを思う努力も虚しく、「外人」がいると軍部から野球禁止令が出されることを
恐れた巨人軍は、スタルヒンを野球界から「追放」するのでした。

Starffin.jpg

終戦を迎え、幽閉されていた軽井沢から東京へ戻ってきたスタルヒン。
たまたま知り合ったGIから仕事を貰い、進駐軍の一員としてなんとか生活も・・。
プロ野球はすぐさま復活し、巨人時代の恩師、藤本定義監督の「パシフィック=太平」への入団を
希望しますが、するとココに優先交渉権を振りかざし、彼を追放した巨人が横やりに・・。
紆余曲折の末、無事入団。かつての剛腕こそ衰えたものの、クレバーな投手に変身し、
金星スターズ戦での1勝で、プロ野球史上初の200勝投手になります。

スタルヒン トンボ.jpg

その後、金星スターズへと移り、吸収合併されて大映スターズ、離婚と再婚を経験して
トンボ・ユニオンズに移籍した39歳のベテランは、前人未到の300勝投手に輝くのでした。
しかしこの弱小球団はスタルヒンに引退を勧告。現役にこだわってごねるスタルヒンに
「正力さんが巨人で引退興行をやってくれるそうだ。よかったな・・」
最後に巨人のユニフォームを着てプレー出来るのなら・・と引退を決心した彼ですが、
結局、理由のないまま興行はお流れに・・。

トンボ300勝.jpg

プロ野球界は外人選手が記録を作るのを好まず、仮に記録を作っても
日本人が破れる程度の記録でなければならない・・と心の底に持っているのです。
スタルヒンはこう漏らします。「野球人生、僕は裏切られっぱなしだった」。

1986年の初版は「ロシアから来たエース―300勝投手スタルヒンのもう一つの戦い」です。
副題が違うのがおわかりのように、巨人だけで300勝挙げた訳ではないので、
その意味ではこの再刊の副題には「偽りあり」ですね。

大映 スタルヒン.jpg

しかし巨人ってのは、今も変わらずヒドイ球団です。。
本書での巨人は、ほとんどナチ党のようなイメージですので、
巨人ファンの方が読まれたらどういう印象になるかはわかりません。
逆に言えばヴィトゲンシュタインのようなアンチ巨人が読むと、その面白さは倍増しますし、
生まれたばかりのプロ野球と戦争、聞いたこともないチーム名など、
スタルヒン以外の部分も大変、楽しく読めました。

「おわりに 天国にいるパパへ」では1982年、スタルヒンの地元、旭川の球場が
日本で初めて一選手の名前の付いた「スタルヒン球場」となったことなどが紹介されます。

スタルヒン球場.jpg

実は最初の章で引退から2年後の昭和32年、自動車事故によるスタルヒンの悲惨な死の様子が・・
というちょっと衝撃的な展開です。
それを知っているからなのかも知れませんが、後半は可哀想でうるうるしてしまいました。
引退後から死までの間のスタルヒンについては、娘さんである著者は書きたくないそうで、
それゆえ、この事故死が「自殺」ともされているのも本書を読むと、う~ん。。

ナターシャ・スタルヒン.jpg

第1次大戦と第2次大戦に翻弄されたスタルヒンの人生。
日本人になりたいと願いながらも、死ぬまで無国籍のまま・・。
近頃は相撲だけではなく、サッカーやオリンピックでも、このような国籍問題がありますから、
いろいろと考えさせられました。
また、巨人入団までのスタルヒンの前半生が描かれた
「白球に栄光と夢をのせて―わが父V・スタルヒン物語」というのもあるようなので、
今度、読んでみようと思っていますが、本書は何度か再読してしまうでしょう。







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ベルリン・オリンピック1936 -ナチの競技- [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

デイヴィッド・クレイ ラージ著の「ベルリン・オリンピック1936」を読破しました。

「ヒトラーの戦い〈1〉」を読んだ際に、とても印象に残った話のひとつ、
1936年に開催されたベルリン・オリンピックの全貌を綴った一冊です。
本書は2008年に発刊されたワリと新しいもので、ハードカバーで540ページという
かなりの大作です。
第三帝国は当然この「独破戦線」のテーマですが、
スポーツ本も大好きなヴィトゲンシュタインとしては一冊で両方の趣味を満足させられそうな、
「一粒で二度美味しい」ことを期待して購入しました。

ベルリン・オリンピック 1936.jpg

「序章」では、このベルリン大会から始まったギリシャ・オリンピアの廃墟で蘇った「聖火」・・、
その点火式と聖火リレーの様子を再現します。
それは現在でもTVのニュースで見るようなギリシャの乙女たちによる荘厳な雰囲気ですが、
ブラスバンドのドイツ国歌に続き、「ナチ党の軍隊、突撃隊(SA)の血に飢えた行進曲
ホルスト・ヴェッセルの歌」も演奏された」という表現で始まります。

lights the Olyjmpic Flame at the light ceremony of Berlin 1936 Olympic Games.jpg

そして、クルップ社によってステンレススチールの取っ手が作られたその「聖火」は、
3000人以上のランナーによって7か国を回り、ベルリンに辿り着くわけですが、
ブルガリアにユーゴ、チェコ、ハンガリー、そしてオーストリアと、その数年後には
ナチス・ドイツによって占領、または同盟国となって行く国々だとして皮肉っています。
更にヒトラー自身が古代ギリシャ人とドイツ人の人種的繋がりがあると主張をしていたことによって
このオリンピックは古代オリンピックを模擬したものとなったということのようです。

olympics 1936.jpg

続く第1章はクーベルタン男爵によって提唱された近代オリンピックの歴史・・、
1896年の第1回アテネ大会から、1936年に至るまでの波乱万丈の
オリンピック創成期の経緯が詳しく書かれています。
例えば1900年のパリ大会は万国博覧会に付随するスポーツ・イベントといった扱いでしかなく、
万博期間中の5か月半にも渡って競技は分散され、その種目のなかには、
「消火競争」、「綱引き」、「鷹狩り」、「魚釣り」というものもあったそうです。
第1次大戦という試練もなんとか乗り越えたオリンピックは、
ドイツを含む戦後の敗戦国の扱いにまたもや苦労を強いられます。

Paris, 16 July 1900. Games of the II Olympiad.jpg

同じパリ大会でも、1924年のオリンピックでは、映画「炎のランナー」の話も出てきました。
これは2回くらいは観てますが、やっぱりテーマ曲が良いですねぇ。


chariots_of_fire.jpg

そして敗戦国ドイツは1936年のベルリン・オリンピックの誘致に成功、
さらには新たに始まっていた冬季オリンピックの開催権も獲得します。
本書では「泳ぐの嫌い」、「乗馬も嫌い」で知られるヒトラーのオリンピック感も検証していて、
「右腕を長時間挙げる・・という技で、自分は金メダルを貰う資格がある」との
ヒトラーの冗談も紹介・・。
また、「青年時代のスキーをしたことがある」件については、それは怪しい・・と。

Triumph of the Will (1935).jpg

いよいよ1936年・・、2月には自分が全く知らなかったバイエルンでの第4回冬季オリンピックが
ガルミッシュとパルテンキルヒェンという双子の村で開催されます。
まだオリンピック関係者にも蔑ろにされ、「誤り」と見られていた冬季オリンピックですが、
ドイツにとっては首都ベルリンでの夏の本番に向けた大事なリハーサルでもあります。

Olympische Winterspiele Skispringen.jpg

バイエルンの「帝国地方長官」フランツ・リッター・フォン・エップも苦労しながら
村々にもふんだんにある「反ユダヤ」掲示物を撤去し、
地元のSS隊員も「ユダヤ人に見える」外国人を罵ったり、襲ったりすることを禁止されます。
このような「努力」によって、直前までボイコット検討していたスポーツ大国「USA」も出場・・。
これはもちろん、すでに広く知られていたナチス・ドイツのユダヤ人、有色人種に対する政策に
抗議するものですが、その「USA」でも、南部では黒人に対する人種差別はハンパではありません。

Franz Ritter von Epp with local women of Sudetenland..jpg

ゼップ・ディートリッヒラッテンフーバーによって警護されたヒトラーも開会式に登場。
そこでは1924年に導入された「オリンピック式挨拶」で入場する選手団も多く、
その「挨拶」とは「手のひらを下にして、右腕を水平に前へ突き出す」というものだそうです。
ちょっと角度を変えれば「ヒトラーが金メダルを獲れる」という例のヤツになりますね。

Olympische Winterspiele 1936.jpg

とりあえず、ガルミッシュ=パルテンキルヒェン冬季オリンピックを成功に終わらせたヒトラーですが、
3月には「ラインラント進駐」を実行し、7月にも内戦の起こったスペインに
コンドル軍団」を派遣するという、決して「良い子」でいたわけではありません。
そのため、またしてもフランスやソ連などがベルリン大会をボイコットする、しない・・という問題に・・。

1933年から始まったベルリン・オリンピック会場建設の過程はなかなか楽しめました。
当初のガラスを使った「モダン」な作りのスタジアムに激怒したヒトラーによって、
お気に入りの建築家シュペーアがスケッチをした、石灰岩をふんだんに使った重厚なものへと変更。
内相フリックはスタジアム名に「独逸陸上競技場(ディー・ドイチェ・カンプフバーン)」を提案しますが、
ヒトラーの命令によって「オリンピア・シュターディオン」に決定します。

1936_Olympics_Bell_-_Berlin.jpg

「外国人訪問者にヒトラー・ドイツの優しく真心の籠った姿を見せる」ための一大プロバガンダ作戦が
ゲッベルスの指導もとに実施され、反ユダヤだけでなく、収容所囚人の道路工事も禁止・・。
公認されていたより5センチ上げても良くなったスカートの裾、
ナチ政府がベルリンから追放していた娼婦7000名が呼び戻され、
ナイトクラブや同性愛クラブまでも復活!!

Nazi Propaganda Poster Berlin Olympics 1936.jpg

外国の選手たちを街中で見張るのはバイリンガルの「学生ヘルパー」に変装したゲシュタポ。。。
そして選手たちは国籍に関係なくオリンピック村に感心し、特に食事は
各国の好みと文化を取り揃え、日本人向けに刺身と醤油も用意されていたそうです。

Berlin, Olympiade, SS lagert vor Olympiastadion.jpg

このベルリンの中心からかなり離れた「選手村」もゲシュタポによって厳重に監視され、
「公認された者」のみが入ることを許されます。
その「公認」にはドイツ少女団(BDM)の最も愛らしい厳選された乙女が含まれていて、
彼女らは自分の選んだ「白人」選手に性的もてなしを行ったということです。
その代償は相手のオリンピック・バッジで、もしも妊娠した場合は、そのバッジを提出することで
国が一切の費用を払うというシステムだそうで、まぁ、オリンピック版「レーベンスボルン」ですね。。。

Bund Deutscher Mädel_4.jpg

途中、マックス・シュメリングとジョー・ルイスによるボクシングのヘビー級にまつわる話や
「翼よ! あれが巴里の灯だ」のチャールズ・リンドバーグがベルリンを訪問し、
ゲーリングウーデットらと語り合った話などが紹介され、
遂にヒトラーによって「第11回近代オリンピアードを祝う」宣言が行われます。

Field Marshall Hermann Goering_Charles Lindbergh.jpg

初日から始まった陸上競技。当然、大活躍のジェシー・オーエンスを中心に進みます。
当初は優勝者を貴賓席に呼び寄せて祝福していたヒトラーが
黒人選手が優勝しそうになると退席してしまい、
その後、オーエンスとも握手しなかったという話も詳しく書かれていますが、
これは「ヒトラーの戦い〈1〉」と同様、IOC会長の「メダル受賞者を公に祝福するのなら、
例外なく"すべて"の受賞者を・・」という意見に従ったもののようです。
結局、すべての会場での観戦は不可能なことから、以降は祝福をしなかったヒトラーですが、
本書の著者は、多くの黒人がメダルを獲得するのをヒトラーは恐れたのだと解釈しています。

hitler 1936 Berlin Olympics.jpg

後半は各種目のさまざまなエピソードが書かれて、純粋なスポーツものとしても楽しめました。
ヴィトゲンシュタインの好きな自転車ロードレースは、初めて個人タイムトライアルではなく、
集団での100㌔ロードが採用され、ゴール前、ペルーの選手が転倒したことで
有力な20名を巻き込む集団落車が発生・・。
また、ペルーはサッカーでもムチャクチャやっています。

Peru's Olympic football team in action, Berlin Olympics, 1936.jpg

初登場の競技バスケットボールも、「背の高さ」の上限が決められて「USA」の3選手が「失格」。。
野外にある土のコートで行われた決勝戦、絶え間なく降る雨の中、泥まみれの壮絶な試合です。
デモンストレーションで行われたベースボールも、まぁ、大変です。
観客の誰もルールは知らず、内野フライで盛んに喝采し、ヒットで黙り込む・・。

馬術競技ではドイツ国防軍の騎兵チームが史上例のない全種目「完全優勝」を果たします。
特に21マイルのクロスカントリー障害物レースは、出場56人中、完走できたのは半分だけ、
途中で3頭の馬が死亡・・という恐ろしいレースですね・・。
なお、金メダリストのなかには、7月20日事件の犠牲者、ハインツ・ブラントの名もあります。

1936 Berlin Olympics.jpg

このようにして1936年のベルリン・オリンピックは成功のうちに閉会式を迎え、
「4年後に東京に集まろう」と締め括られます。

全体的には楽しめた本書ですが、著者が最初から「反ナチ」的な雰囲気を露骨に出していて、
ドイツの高官の演説などには「長ったらしい演説・・」とか、
バイエルンのお祭りであるオクトーバーフェストを「バカ騒ぎが好きな・・・」とか、
特別書く必要のない余計な表現がちょくちょく出てきて、イラっとしたりも。。。
まぁ、これは最近の「北京オリンピック」のあり方に疑問を持った著者が、
このような体制化の国家によるオリンピックの姿を暴き出そうというのが狙いですから、
こうなってしまうのもしょうがないところですか。後半は良かったですけどね。

Berlin, Olympiade, Siegerehrung Fünfkampf.jpg

また、「シャンパン商人」として知られる外相リッベントロップが扱っていたシャンパンが
「ポメリー」であったことがわかったり、ウィリアム・シャイラーがちょくちょく出てきて
「第三帝国の興亡」を改めて読みたくなったりも・・。
それと最後の章はレニ・リーフェンシュタールと彼女の映画「オリンピア」製作の過程が
ガッチリと書かれていて、これも大変興味深いものでした。











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