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君はヒトラー・ユーゲントを見たか? 規律と熱狂、あるいはメカニカルな美 [ヒトラー・ユーゲント]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

中道 寿一 著の「君はヒトラー・ユーゲントを見たか?」を読破しました。

武装SSではない、純粋な青年団としてのヒトラー・ユーゲント本は今回で3冊目になります。
以前の2冊はかなり良い本で、これ以上、勉強できる本があるとは思っていませんでしたが、
1999年発刊で254ページの本書は、
ヒトラー・ユーゲント -第三帝国の若き戦士たち-」にも触れられていた
1938年(昭和13年)の「ヒトラー・ユーゲント来日」をテーマにしたものです。
しかし、「君は見たか?」と言われても、「ボクは見た!」って答えられるのは
発刊当時でも65歳以上のおじいちゃんじゃなければ無理ですよねぇ・・。

君はヒトラー・ユーゲントを見た​か.jpg

まず、第1章「ヒトラー・ユーゲントとは?」で、ナチ党の青少年団でしかなかったものが、
ナチ党政権獲得以後、その他の数多く存在した青少年団を強引に吸収し、
国家として唯一の青少年団となった経緯を解説します。
反抗的な若者グループのひとつ、「エーデルヴァイス海賊団」にも触れて、
1944年秋、ケルン市のゲシュタポ本部長を殺害したかどで、
彼ら13名が「裁判抜きの公開絞首刑に処せられた」など初めて聞いた話もありました。
「エーデルヴァイス海賊団―ナチズム下の反抗少年グループ」でも買ってみようかなぁ。。

Hitlerjugend.jpg

続いて「日独青少年団交歓事業の経緯」の章へと移ります。
1936年11月、ヒトラー・ユーゲント指導者フォン・シーラッハより、日本の青少年団を招待し、
交流後、今度は一緒に日本に向かうという提案がなされます。
そして33歳のヒトラー・ユーゲント外国部長ラインホルト・シュルツェが
公式代表としてドイツ大使館に着任し、計画は現実的なものとなっていきますが、
まずは日本側から30名をドイツに派遣。その後、ヒトラー・ユーゲントが来日することで決定。
当時の日本には大日本連合青年団とか、大日本少年団連盟とか、帝国少年団協会とか
いろいろと青少年団が存在し、これらの中から団員が選抜。
代表団が一覧表になっていますが、19歳から25歳までで、平均は22歳くらいでしょうか。

Yoshinori Futara Baldur von Schirach Hitlerjugend Bremen 1937.jpg

そして1938年5月、神戸港から靖国丸に乗船する訪独派遣団一行。
第3章ではマルセイユからパリを経由して、7月2日にドイツ国境の街アーヘンに到着し、
歓迎を受けながらベルリンに到着する様子が詳しく書かれています。
カリンハルゲーリングを訪問したり、ヒトラー・ユーゲントらと1週間野営したりと
多忙な日程をこなしていると、8月には真新しい制服が完成します。
これは戦闘帽に団服、巻脚半にリュックといういでたちが「貧弱で惨めであった」と
在独日本人会によって作られたものです。
ヒトラー・ユーゲントの型に似ていて、緑のネクタイにねずみ色のワイシャツだそうです。

大日本青少年団独逸訪問.jpg

9月には訪独のメインイベントである、ニュルンベルクの党大会に出席。
第1日目にはホテルのバルコニーから姿を見せたヒトラーに感激し、
「BdMの団員の少女はもう泣いている」と彼らの記録から紹介。
第5日目の「ヒトラー・ユーゲントの日」の謁見に興奮するさまも興味深いですね。

Reichsparteitag 1938.jpg

ここまでも知らないことが多く、非常に楽しめる内容でしたが、
いよいよ来日するヒトラー・ユーゲント一行の様子は当時の新聞などを駆使して、
大変詳しく書かれています。
「彼らを多忙と疲労に陥れないよう、各地での行事は時間厳守、
簡素にして誠意のこもったものとし、神社、仏閣、史跡、青少年団生活、芸術、風俗、
武道に温泉」といったものを推奨して、北海道から九州まで、心構えを示します。
北原白秋作詞による「万歳ヒットラー・ユーゲント」といった曲も作られ、
コレは歌詞も載っていますが、かなりヒドイ・・。
ついでに曲も聞いてみましたが、輪をかけてヒドイ・・、酷すぎるぜ。。

ドイツ語.jpg

7月12日、訪独日本代表団の見送りを受けてブレーメンを出港し、8月16日に横浜港へ入港。
30名の団員は17歳~19歳がほとんどで、日本到着まで団長を務めるレデッカーくんでも20歳です。
その横浜港では数千の歓迎陣が迎えるなか、外国部長シュルツェが団長として感謝の辞を述べると
続いて副団長レデッカーくんが立派な日本語で「大日本帝国万歳!」を叫びます。

hitlerjugend 1938.jpg

東京駅に移動して日独大使や東京府知事らが出迎えるなか歓迎式典。
幹部団員はカーキ色の制服、団員たちは濃紺のユニフォームに襷掛けの白のベルトを結び、
胸には功績を示すバッジにハーケンクロイツの腕章、褐色のワイシャツに黒のネクタイという姿に
「これが青年団なのか」と驚きと賞賛の声が・・。
その機械的で美しく一糸乱れぬ行進も、すべての日本人を魅了するのに充分です。

Japanese crowds welcoming Hitler Jugend in front of Tokyo station.jpg

その後は現在の皇居である宮城広場へと行進し、明治神宮に靖国神社を参拝、
本日の宿泊は新橋の「第一ホテル」となっております。
3日後には最初の大きな行事、歓迎野営と富士登山。
日本の青少年団500名が待ち受けるなか、夏季用の真っ白なユニフォームで登場します。
「わぁ!」という歓声が巻き起こり、みな大興奮で写真を撮ったり・・。
ヒトラー・ユーゲントらも九合目で御来光を拝しながら、
富士山頂からの大パノラマに感嘆の声を上げるのでした。

ハイル! 天皇陛下.jpg

軽井沢では近衛首相の晩餐会が開かれますが、
食後には首相と共に円陣を作って歌ったりと大はしゃぎ。
「全く感激した。あんな遊びで僕たちも総理をいくらかでも慰めるのに役立ったと思う」と
20歳のシュレーターくんは感想を語ります。

近衛内閣総理大臣.jpg

ちなみに本書によると来日メンバーにはBdMの女子は入っていないそうですが、
在日ユーゲントも度々、合流したそうですから、このような写真もあるようですね。
しかし、このドイツ大使館と思われる庭ですが、さすが提灯もハーケンクロイツ・・!

Dinner at the German embassy on their first day in Japan.jpg

軽井沢からは東北、北海道を巡る旅。
わずかな停車時間でも各駅には女学生群が押し寄せ、
車窓に詰め寄ってのサイン攻めに、人形などのプレゼント攻撃が・・。
会津若松駅ではユーゲント一行がドイツ国歌に続き、「君が代」まで合唱します。
東山温泉の旅館では初めての純日本式ということもあって、
温泉に飛び込んだり、浴衣姿で刺身もパクついたり・・と日本を満喫。

Japanese girls doing a stage show for Hitler Jugend.jpg

翌日は飯盛山にある白虎隊の墓が参拝予定ですが
折からの雨と強風で中止しようとの意見も、彼らの強い希望で決行。
同年代の「白虎隊」に特に強い関心を持っていた彼らですが、
報道陣が写真を撮るために白虎隊の墓に上ったりする様に苦言も呈します。。

何を隠そう江戸時代から続く??日本舞踊の家系に育ったヴィトゲンシュタインは
子供の頃にこの「白虎隊」を演じたことがあるので、改めて興味を持ちました。
当時は「白虎隊」がなんたるか・・も知らず、たぶん、男らしく「刀」を使った演目が踊りたいという
要望を両親に出したんでしょう。覚えているのは最後に切腹で果てるトコだけですが・・。
「白虎隊」という本もいろいろ出ていますので、今度、なにか読んでみようと思います。

花の白虎隊.jpg

秋田、青森を経て、連絡船で函館に入港。そのまま札幌へ・・。
軽井沢で風邪でダウンしていた2名が合流しますが、
会津若松で転倒して怪我をしていたローターくんが治療のために残留することに・・。
仙台から東京へと戻ると、陸軍幼年学校を訪れ、日本刀鍛錬見学に、三越デパート見学、
相撲部屋見学、講道館にも行ったかと思えば、合間には外相招待のお茶会にも出席し、
夜には日比谷公会堂での朝日新聞社主催の歓迎大講演会とハードスケジュールをこなします。
ちなみに本書では多くの写真が掲載されていますが、
白鵬も敬愛する大横綱、双葉山との写真も出てきました。

Hitlerjugend visit to Yasukuni Shrine State Shintō wreath procession kannushi 1938.jpg

まだまだ、大島に渡ったり、鎌倉見物と続きますが、9月25日のせっかくの休養日、
由比ヶ浜海岸を散歩していたフォルタースドルフくんは海の中で溺れる20歳の娘を助ける羽目に。
当然、新聞にも大きく掲載。「盟友青年が救助/投身娘、感謝に泣く」

hitlerjugend in japan.jpg

明治神宮外苑陸上競技場での最大の歓迎行事が行われると、
10月から近畿、九州、四国を巡る旅に・・。
岐阜では鵜飼を見物し、名古屋城見学、愛知一中とのサッカーの試合では2-0と勝利し、
伊勢神宮参拝して松坂から奈良ホテルへ。
春日神社に大仏を拝んだ後、京都に到着。駅前広場では一般市民3万人の「万歳」の声の中、
二列縦隊でまたもや「一糸乱れぬ壮重な足どり」で東本願寺前まで行進。
こりゃ大変ですねぇ。

Hitlerjugend_1938 Meiji shrine.jpg

さすがにこの頃は班ごとに分かれて行動し、休養班も出来たと思えば
元気な希望者は比叡山にも登ります。
そして大阪ではその歓迎ぶりが最高潮に達し、沿道の観衆5万人が日独の国旗を打ち振って、
「天にも轟けよ!」とばかりに万歳を連呼。
大ブラスバンドの行進曲に合わせて右手を高く差しのべながら
新大阪ホテルまで行進するのでした。

Hitler Jugend 1938.jpg

四国に入ると瀬戸内海の景色に感動し、彼らが日本の発祥の地と語る九州にも上陸。
しかし文部省からこれまでと同じような歓迎行事や観光は慎むようにと伝達されていたものの、
さしものヒトラー・ユーゲントも繰り返される歓迎行事には辟易。。
サッカーやハンド・ボールの試合が若い彼らにはとても楽しめたようですし、
副団長レデッカーくんは「日本の異文化を理解することに相当疲れ、
最高の印象は富士山の荘厳な姿であり、江田島の海軍兵学校は
近代化の衣を着けたる日本武士道の神髄であった」と語ります。

Hitlerjugend meeting event with Japanese leaders 1938.jpg

九州を一周したあとも広島、神戸と訪れ、11月12日、ついに日本滞在最後の日を迎えます。
日本中が熱狂したヒトラー・ユーゲントですが、外務省の担当者の批判的な談話も。
「確かに彼らは体格も良く、眼鏡もかけていないが、途中病気で落伍した者の人数を数えれば
日本青年は断じて負けておらず、体力の問題ではなく、精神の問題である」。
さらに「良い青年たちだがナチス的な考え方しか知らず、自分というものがなく、
融通の利かない鈍重なドイツ人には鉄の如き規律の組織が適しているのだ」。

Hitlerjugend Japan 1938.jpg

それでも彼らヒトラー・ユーゲントが残した影響もあって、大きく3つに分かれていた
日本の青少年団も1941年に一元化されることになります。
また一回こっきりと考えていた日本に対し、ドイツ側から第2回を行いたいとの要望が来たものの、
1939年の独ソ不可侵条約の衝撃で平沼内閣が総辞職という事態もあって中止。。
しかし1940年には指導者6名の相互派遣が実現して、まずドイツ側が来日。
1941年2月には訪独団がベルリンに到着しますが、「独ソの風雲ただならぬ」として6月6日に出発。
21日に東京へと戻りますが、その翌日には「バルバロッサ作戦」が・・。

Hitler Youth Unity trip to Japan in 1942.jpg

著者は「ヒトラー・ユーゲントがやってきた」という本も1991年に出しており、
あとがきによると本書は、訪日部分を中心とした続編だということですが、
単なるヒトラー・ユーゲントものの一冊ではなく、
ナチス・ドイツにおける青年団と、今までまったく知らなかった日本の青年団との関係と
彼らの訪日が与えた影響、全国各地での国民の熱狂の様子、
そして何より、国内旅行記のような展開は、自分が如何に日本の名所を知らないかも教えられ、
出来ることなら、ヒトラー・ユーゲントの足跡を辿るかのように
夏休みにでも同じルートで全国行脚をしてみたくなりました。
とりあえず白虎隊のお墓参りにでも行こうかなぁ・・。





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ヒトラー・ユーゲント -戦場に狩り出された少年たち- [ヒトラー・ユーゲント]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

H.W.コッホ著の「ヒトラー・ユーゲント」を読破しました。

近頃、すっかりお気に入りで、全巻読み倒そうか・・と密かに企んでいる
「第二次世界大戦ブックス」からの紹介です。
このシリーズで面白いのは、古書の価格が結構マチマチなことですね。
綺麗なのにタダ同然のモノもあれば、本書はかなり良い値段がします。
ヴィトゲンシュタインは¥1600で購入しましたが、これでもだいぶ安いほうです。

ヒトラー・ユーゲント -戦場に狩り出された少年たち-.png

このヒトラー・ユーゲントを題材にしたものは、ココでも以前に
ヒトラー・ユーゲント -第三帝国の若き戦士たち」を紹介していますが、
これもなかなか良い本で、自分にとってはヒトラー・ユーゲントの基礎となっています。

本書は帝政時代の青少年運動から始まり、特に第1次大戦勃発による
ドイツ学生志願兵の一団が、1914年11月、ランゲマルクの英国陣地に
ドイツ国歌を口ずさみながら正面攻撃を掛け、機関銃の掃射の前に全滅した・・という
「ドイツの若者は身を捨ててまで祖国に献身する」ランゲマルク神話なるものが紹介されます。
そしてこの神話の不気味な影響力は、事実上、第2次大戦が終わるまで続いたということです。

Blood and Honour.jpg

1920年代には様々な青少年運動と団体が乱立している状態ですが、
ヒトラーとナチ党の台頭によって、これらの青少年団体は徐々に吸収されていき
1926年、ナチ党唯一の公認青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」が誕生します。

その2年後には10歳から14歳未満の少年たちの組織「小国民隊」と
女子部門(のちのBDM=ドイツ少女連盟)とその組織と対象も拡大していきます。

BDM girls in Kletterjackel.jpg

ドイツ国内で政治活動も繰り広げるヒトラー・ユーゲントたちですが、
1931年~33年の間に26人もの生命が失われ、その最も有名な事例として
12歳のヘルベルト・ノルクス君がベルリンの共産主義者に捕まり、
7か所もナイフで刺されるという痛ましい話を紹介して、これがゲッベルスにより
殉教者としての宣伝材料として、映画化もされることになります。
まぁ、このノルクス君については、15歳とか16歳とか、いろいろ説はありますね。

Goebbels&HitlerYouth.jpg

ヒトラー・ユーゲントという組織が勢力を増していく過程が丁寧に書かれている本書ですが、
プロテスタント団体やカトリック団体との対決については、特に深く書かれています。
プロテスタント国家主教ルートヴィヒ・ミュラーが早くからナチズムに転向し、
彼がライヒェナウ大佐を転向させ、そしてブロムベルク将軍までも
彼の自宅でヒトラーに紹介してしまいます。
抵抗のアウトサイダー」でゲルシュタインが早々とナチ党へ入党していた理由も
わかったような気がしました。

ヒトラー・ユーゲントの入隊式の様子や2ヶ月~6ケ月行われたという「テスト訓練」も詳細です。
そのハイライトである「勇敢度テスト」では2階の窓から飛び降りることが求められた・・と
これは著者コッホが「私の場合・・」の例として挙げています。

Hitlerjugend2.jpg

シーラッハの全国青少年指導部と学校の対立も非常に興味深い話が多くありました。
ヒトラー・ユーゲントの活動に対し、学校側が考慮を払うように迫り、
例えば、リーダーのユーゲントの活動や訓練のために休校を認めるよう求めたり、
このようなリーダー・ユーゲントを部下や仲間の前で
彼の威信を傷つけることがないよう、要請したり・・。

1943年に中等学校の生徒だった著者の受け取った教科書の内容もそれぞれ紹介され、
算数の問題では「ドイツ民族を絶やさないために家庭では子供を何人つくる必要があるか?」
しかもこのような問題は、別に珍しくもなかったということです。

BDM_G.jpg

「エリート育成」の章では、ナチ党の指導者養成に重点を置いた「アドルフ・ヒトラー学校」と
政治、経済、軍事、学問と国民のあらゆる領域におけるエリートの養成を目指す
「NAPOLA(ナポラ) = 国家政治教育学院」が登場してきます。
1933年に3校が開校された「NAPOLA」は1944年までに計18校が創設され、
そのうち2校は女子校だっということです。う~ん。「NAPOLA」の女子校があったとは・・。

HJ.jpg

寄宿生活を送る「NAPOLA」は英国のパブリック・スクールを手本とし、
ドイツ軍士官養成学校の伝統との融合を目指したもので
その入学の選抜基準は10倍という高さです。

Farbige Ansichtskarte aus den Anfangsjahren der Napola.jpg

ここでも著者の経験談として、管区指導者でもある校長が勝手に申込みをしたいきさつを語り、
未亡人で、すでにロシア戦線に兄を送っている母親の抗議に対し、
「奥さん、息子さんはあなたに預けられているものの、ドイツの財産であり、
これに反対することは、総統と帝国に反対することにほかならないのです」。

NAPOLA.jpg

やがてSSが「NAPOLA」の費用を持つようになるとハイスマイヤーSS中将が責任者となり、
その教育方針や、卒業生の扱いなどでSS本部長のベルガーや、上司のヒムラーとも対立します。

そして1943年に「第12SS装甲師団 ヒトラー・ユーゲント」が創設されると、
17歳程度の少年たち1万人が新師団に合流します。
しかし彼ら全員が志願兵であったわけではなく、空軍などへ志願していたものの、
「着いた先は武装SSの兵舎だった・・」という者も多かったそうです。

Hitlerjugend Recruiting Poster -Also You-.jpg

なかば強制的にヒトラー・ユーゲントに入団させられた少年たちのなかには、反発心から
ユーゲントの集会をぶち壊したり、リーダーを襲ったりする反逆ユーゲントも現れます。
ただし、このような不良ユーゲントたちの行為が「反ナチ・イデオロギー」に基づいたものではなく、
いつどこの時代にも共通する、画一性に対する反抗と
そして第三帝国の息苦しい管理体制に対する反抗でもあるとしています。

また、ヒトラー・ユーゲントたちを動かしたものが「イデオロギー」であったかは疑わしい・・・
として、パレードやデモ行進は彼らのエネルギーはけ口であり、
タダで旅行ができて、食料もタップリ、学校も休むことができたというのが魅力であって、
それが彼らの本音だっただろう・・と推測しています。

Bój o Kołobrzeg.jpg

このような解釈は著者コッホの体験談が度々出てくることもあり、
自分のしょうもなかった少年時代に照らし合わせてみても非常に納得できる結論です。
割と新しい「ヒトラー・ユーゲント -第三帝国の若き戦士たち」に決して引けを取らない内容で、
改めて「第二次世界大戦ブックス」をつくづく見直しました。



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ヒトラー・ユーゲント -第三帝国の若き戦士たち- [ヒトラー・ユーゲント]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

B.R. ルイス著の「ヒトラー・ユーゲント」を読破しました。

ヒトラー・ユーゲント本といえば独破戦線でも2冊紹介していますが、
いずれも第12SS師団のヒトラー・ユーゲントでした。
今回はヒトラー・ユーゲントそのものの成り立ちから第三帝国崩壊までを
見事に整理した、内容も写真もとても充実した1冊の紹介です。

第三帝国の若き戦士たち.JPG

ヒトラー・ユーゲントの歴史はかなり古く、1922年のナチ党青少年団が前身で
ドイツには以前から青少年団は数多くあり、この時点では特別なものではありませんでした。
しかし、ナチ党が勢力を拡大するにつれ、SAの少年版というような位置づけで
他の青少年団との暴力沙汰などを繰り返していたようです。

hitler-youth-parade-nazi-germany-1933.jpg

1930年代にヒトラーが政権を握り、フォン・シーラッハがユーゲント指導者になると
他の青少年団は強制的な解散か、ヒトラー・ユーゲントに吸収されて行き、
1939年には700万人を超えるまでの組織となります。
一口にヒトラー・ユーゲントと言っても、低年齢層のヒトラー少年団や
女子の青年団も存在していて、その教育も様々だったようです。

von Schirach.jpg

当然、これだけの数の青少年たち全員が理想的にナチ化されるということはなく、
問題児も多かったようで、例えば禁止されていた同性愛や
女子青年団には沢山子供を産みましょう的な教育のために、
簡単に?妊娠してしまう子も多かったとか。
エーデルヴァイス海賊団や白バラのような若者の抵抗組織も存在し、
ヒトラー・ユーゲント内でも反抗的なものは強制収容所送りになったそうです。

Bund Deutscher Maedel.jpg

また、1938年にはヒトラー・ユーゲントが来日したという有名な話もしっかりとあり、
戦前のその他の活動が特に充実しています。

hitlerjugend in Japan.JPG

友達や学校といった子供社会がヒトラー崇拝となってくると、
親がその思想を危険だと考えてもそれを子供に伝えるのは難しかったようです。
子供が苛められたり、自殺したりするよりはマシと考えるしかなかったのでしょう。
ヒトラーの悪口を言った父親を密告し、その父親は強制収容所送りとなって死亡。
そして息子はめでたく昇進を果たしたのでした。
という、悲惨な一例も紹介されています。。。

Arthur Axmann & Karl Dönitz.jpg

1940年になるとシーラッハに替り、アルトゥール・アクスマンが指導者となります。
もともとスポーツに力を入れていたヒトラー・ユーゲントは
航空ユーゲントや海洋ユーゲント、モーターバイクユーゲントといった準軍事的な
訓練も受けており、ヒトラー・ユーゲント卒業と同時に陸海空3軍で活躍できるよう
教育されていました。
またナポラなどのエリート養成所が存在していたことも有名で
そのものズバリ「エリート養成機関 ナポラ」という映画もありますね。なかなか面白い映画でした。

Hitlerjugend10.jpg

そして1943年になると第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲントが創設されます。
この本でもヴィット、クルト・マイヤー、ヴュンシェ、モーンケ、フーゴ・クラース
作戦参謀フーベルト・マイヤーまで登場し、初陣のノルマンディから
バラトン湖まで戦い続けます。
これは第12SS師団の戦史としてもかなり充実したものとなっています。

Hubert Meyer, the HJ-Division's first staff officer.jpg

また、明確にはなっていませんが、同じユーゲントでも
普通のユーゲントやリーダー・ユーゲントがいるようで、
リーダー・ユーゲントは即戦力なので国防軍も欲しがっていたようです。
第12SS師団の編成の際も、その1万人はほとんどがリーダー・ユーゲント
だったのかも知れません。

最後にはゲッベルスによって国民突撃隊や人狼部隊としても駆り出され
ヒトラー・ユーゲントはその終焉を迎えます。

smiling SS boy POW.jpg

とにかく反抗期もある子供たちですから、
従順でなかった子供もかなりの数に上ったと思います。
個人的には知力・体力の無い、落ちこぼれユーゲントの運命が気になりますね。
この本を気に入ったら、ぜひ「橋」という映画もご覧になってみてください。







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SS‐HITLERJUGEND―第12SS師団の歴史1943-45 [ヒトラー・ユーゲント]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ルパート・バトラー著の「第12SS師団の歴史」を読破しました。

今ひとつ評判のよろしくない、リイド社出版の武装SS師団シリーズものです。
第12SS師団の歴史とはいっても、実際のところ実稼動1年の部隊なので、
前半はヒトラー・ユーゲントそのものの歴史、というか成り立ちから無理矢理始まり、
当然、青少年全国指導者シーラッハやアクスマンの人間性やらと、
あまり関係ない話が続きます。

第12SS師団の歴史.JPG

そしてようやくフリッツ・ヴィット師団長が登場し、ノルマンディでの初陣となりますが、
ここでは第101重戦車大隊のミヒャエル・ヴィットマン「SS中佐」というスゴイ人物も参戦してきます。
ヴィットマンはその後も中佐として出てきますので、誤字ではないようですね。
文字数のワリに誤字の多いシリーズではありますが、
ひょっとしたら死後に2階級特進したのかも。。

Wittmann&Woll.jpg

最後には重要人物としてヴィット師団長の戦死後、師団長となったクルト・マイヤーや
ヒットラー・ユーゲント 第12SS戦車師団史」の著者である作戦参謀のフーベルト・マイヤー、
最後の師団長フーゴ・クラースや戦車連隊長のマックス・ヴュンシェが紹介されています。
全体的に写真も多く、中には生々しいものもありますが、
いかんせん、文章はフーベルト・マイヤーの本からの抜粋が多く、
その逆に、この著者はクルト・マイヤー個人が嫌いで、彼の著書「擲弾兵」は信用なしという
選り好みが目立ちます。どうもフリッツ・ヴィットも嫌いな匂いもします。

12th SS Hitlerjugend.JPG

結局、この師団の歴史はもちろん、武装SSを肯定、或いは批判するものでもなく、
しかし客観的でもないという著者の真意が今ひとつ(かなり?)理解できないものとなっています。



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ヒットラー・ユーゲント SS第12戦車師団史 [ヒトラー・ユーゲント]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

フーベアト・マイヤー著の「ヒットラー・ユーゲント」を読破しました。

ノルマンディでの壮絶な戦いっぷりで連合軍から恐れられた「ベイビー・ミルク師団」こと
ヒットラー・ユーゲント師団の、その創設から訓練、ノルマンディからバルジの戦い、
ハンガリーでの「春の目覚め」作戦、そして終戦後までを師団の作戦参謀であった
フーベアト・マイヤーが自身の記憶と調査によってまとめたものです。

ヒットラー・ユーゲント.JPG

ハードカバー上下巻の1000頁を超える大作であり、如何にも作戦参謀らしい、緻密な書きっぷりで
読む側にも集中力と忍耐力を要求します。
しかし、所々で挿入される将兵の回想や日記などの記録は非常に生々しく、
その時の状況が目に浮かぶようです。
また、ドイツ語のカナ表記については、フーベアト(一般的にはフーベルト)のように「R」の発音を
統一しており、よって「パンツァー・マイヤー」ことクルト・マイヤーもクアト・マイヤーとなっています。
そしてもうひとつ全体を通して統一されていることは、著者個人の見解を極力押さえ、
事実をあるがまま伝えようとする姿勢です。

Fritz Witt.jpg

ノルマンディでの戦いやバルジの戦いという大きな(軍集団規模)戦いでは、
たった一個師団に閉じていては全体像が見えにくくなることもあって、
上位であるSS戦車軍、B軍集団、西方方面軍司令部などの状況や指示についても
必要最低限述べられており、また隣接する部隊(戦車教導師団やLAH等)も
合同作戦であるため頻繁に登場します。
特に第101重戦車大隊のヴィットマンの最後についてもページが割かれていて、嬉しい驚きでした。
上巻ではノルマンディでのカーン防衛戦の途中までとなっており、
初代師団長のフリッツ・ヴィットの死にも遭遇します。

Hogo Kraas.jpg

下巻はノルマンディで消耗しつくしたヒットラー・ユーゲント師団が後方での再編成、
そして息つく暇もなく「バルジの戦い」へと駆り出されていきます。
しかし、これ以降一個師団としてのまとまった戦いはほとんどなくなり、
大隊、中隊、戦闘団といった単位での戦いとなっていきます。
ハンガリーでの戦いでは反撃、後退を繰り返し、ほとんど師団として崩壊しています。
そして捕虜となったフーゴ・クラース師団長の日記は非常に興味深く、
パウル・カレルの名著「捕虜」を思い出しました。
また、戦車連隊長として有名なマックス・ヴュンシェも捕らえられ、
英国に移送される様も語られています。

Meyer&Wünsche.jpg

WWⅡにおける師団史としては、国内で発行されているものの中の最高峰でしょう。





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