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普通の人びと -ホロコーストと第101警察予備大隊- [SS/ゲシュタポ]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

クリストファー・R. ブラウニング著の「普通の人びと」を読破しました。

1997年に発刊された本書。Amazonの紹介文では「ヒトラー時代、普通のドイツ人が、
いかにして史上稀な大量殺戮者に変身したのか。知られざる警察予備隊の衝撃の実態。」
というもので、以前からかなり気になっていました。
しかしホロコーストものは、いつもちょっと腰が引けるのと、警察予備隊という地味な部隊が
主題であることもあって見送っていましたが、やっと読んでみる気になりました。
個人的にホロコーストに関与した人々すべてが、反ユダヤ主義者、
もしくはサディストだとはコレっぽっちも思っていないだけに、
どのような状況が普通のドイツ人を殺戮者にしてしまったのか・・?
このような疑問を本書はある程度、説明してくれるものですが、
その代わり、その内容の凄まじさ・・、要はガス室とは違う、具体的なユダヤ人の抹殺手段が
286ページの最初から最後まで続きます。
そんなわけで今回は、「独破戦線」史上、最もエゲツないレビューになりそうなので、
これ以降は、本当に興味のある方・・だけお読みください。

普通の人びと.jpg

著者ブラウニングは米国のホロコースト研究家で、「序文」ではこの第101警察予備大隊を
本の主役とした経緯が述べられています。
それはドイツ連邦検察庁の1962年から10年間にも及ぶ、この部隊に対する取り調べと
法的起訴の法廷記録を閲覧することが出来、500人の部隊員のうち、210人の
尋問調書について研究を行ったことで、彼らが殺すか殺さないかの個人的決断に直面したことに
心をかき乱される衝撃を受けた・・ということです。

そしてこの中年の警察予備官からなる大隊の殺戮の様子の前に、
「通常警察(秩序警察) = オルポ」の制度などの説明から始まります。
全ドイツの警察のトップに君臨するのはSS全国指導者のヒムラーで、
保安警察の刑事警察(=クリポ)と秘密国家警察(=ゲシュタポ)はハイドリヒが、
通常警察はクルト・ダリューゲが長官を務め、ここに採用された警官は
国防軍に徴集されることが免除されます。

Daluege_Himmler_heydrich.jpg

しかし1939年に戦争が始まると、武装SSの第4SS警察師団が編成されたり、
憲兵として国防軍に配属されたり・・。
また、ポーランドやフランスなどの占領地の治安を維持するためにも、その規模は膨れ上がり
新たに編成された中年の警察予備大隊も各国での任務が命ぜられるのでした。
ポーランドにはヒムラーの代理(HSSPF)としてフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーが任命され、
「残忍なやくざ者で、かつて汚職によって党幹部の地位を追われたヒムラーの旧友」、
オディロ・グロボクニクがルブリン管区に君臨します。

Globocnik und Himmler.jpg

1942年になると、ポーランドにおける「ユダヤ人問題の最終的解決」の責任者となった
グロボクニクによってアウシュヴィッツシュタングルのゾビボルなどの絶滅収容所のガス室に向け、
各地のゲットーからユダヤ人を送り込まれますが、
各国からの移送列車から吐き出されるユダヤ人を処理しきれず、移送が停止する事態に・・。
そして痺れを切らしたグロボクニクは、銃殺部隊による大量処刑の復活を決定するのです。。

Jews from the Lodz ghetto in Poland are placed on a train bound for Auschwitz.jpg

ポーランドに到着して3週間足らずの、ハンブルクを本拠とする第101警察予備大隊を率いるのは
第1次大戦にも従軍した経歴を持つ、53歳の職業警察官トラップ少佐。
中隊長たちはヒトラー・ユーゲント出身の20代後半のSS隊員、
下士官の年齢は27歳~40歳、兵士の平均年齢は39歳で、ドック労働者にトラック運転手、
船員に事務職、薬剤師に教員と実に様々な職業を持った「普通の人びと」です。

Members of Police Battalion 101 posing.jpg

1800人のユダヤ人の住むユゼフフ村に大量の装備で到着し、整列した大隊。
トラップ少佐が青ざめた顔で、目に涙を浮かべながら全員に任務を伝えます。
「働くことの可能な男性は分離して収容所へ、残りのユダヤ人・・女性と子供、老人は、
本隊によって射殺されなければならないのである」
彼は付け加えます。「この任務を遂行できないと感じる者は、誰でも外れることが出来る」
そして10人が前に進み出て、銃を返却・・。

Police Battalion 101 Inspection at Lodz.jpg

命令を下しはしたものの、森の処刑場へは姿を見せないトラップ少佐。。
彼は村の校舎で一人泣き続けています。「おお、神よ、なぜ私にこんな命令が・・?」
一方で部下たちはユダヤ人の駆り集めに精を出しますが、
さすがに小さい子供を抱いた母親は暗黙の裡に見逃して・・。
銃殺部隊に指名された第1中隊は、犠牲者を即死させるための射撃方法の講習を
大隊付き医師から受け、いざ森に出発。。。
トラックから降ろされた40人のユダヤ人が1列になって伏せると、同数の警官が背後から近づき
肩甲骨の上の背骨にライフルを当て、一斉に引き金を絞ります。

einsatz.jpg

調達してきたアルコールによって夕暮れまで休みなく続けられ、
自分がいったい何人を殺したのかすら、わからなくなってしまうほどです。
しかし「他の仕事に変えて欲しい」と訴える者、「これ以上、続けられない」と上官に泣きつく者、
故意に犠牲者を外して撃つ者、なかには気づかれるまで隠れている者も・・。
ユダヤ人を運ぶトラック運転手でさえ、一度の運搬で神経が参ってしまいます。

このような進捗の遅れのため、第2中隊にも銃殺任務が下されますが、
「講習」を受けていない彼らは自由裁量で撃ち始め、その結果、
「しばしば頭蓋骨全体が引き裂かれ、血、頭蓋骨の断片、脳髄があちこちに飛び散り、
射撃手に降りかかったのです」
「4人目には耐えきれなくなって森に逃げ込み、胃液を吐き出して、3時間は座り込んでいた」と
証言する者もいれば、「努力して子供だけは撃てるようになった」という者も・・。
これは母親を隣りの警官が撃つことで、母親がいなければこの子は生きていけないのだと
自分を納得させることが出来た・・という理由です。

einsatz1.jpg

銃殺を一切、拒否し、仲間から「弱虫野郎」と言われた隊員の証言も出てきます。
38歳の土木会社社長の少尉は「私は職業警察官ではなく、
その経歴が失敗するとしても大したことではなかった」
逆に率先していた若い中隊長たちについては「将来、出世したがっていた職業警察官だった」
う~ん。。確かに、このような「シャバ」での立場の違いは大きいと思いますね。

この大虐殺が終わっても、翌月には再び大量銃殺の任務が・・。
今度は根っからのユダヤ人嫌いのウクライナ人、ラトヴィア人、リトアニア人から成る、
残虐性も十分な志願兵(対独協力者)との共同作戦です。
第2中隊長も含め、全員が泥酔状態のなかでの虐殺・・。
墓穴のなかに地下水と血が混じり合い、膝まで浸かった状態で銃を撃ち続け、
溢れて漂う死体に、致命傷を受けずに呻き続ける犠牲者・・。

einsatzgruppen-brutal-germans-nazi-death-squads.jpg

また、町で第1中隊の軍曹がポーランド抵抗組織に殺される・・という事件が起こると、
報復として、ポーランド人200人の処刑命令が・・。
最初の任務では泣き崩れていたトラップ少佐も、この頃には任務に順応しています・・。

さらにベルリンから楽士と役者で構成された「前線慰問団」がやってきますが、
彼らは翌日の作戦のことを聞きつけていて、参加させてくれるよう懇願します。
そして当日の銃殺隊は、大隊の銃で武装した娯楽部隊の志願者が中心です・・。
まぁ、ハワイなんかに行って銃を撃ってくる、今の日本人と同じ感覚なんでしょうか?

einsatz1a.jpg

最後は4万人以上を虐殺した「収穫感謝祭」作戦。
ルブリンの労働収容所で働く、この地で最後に残ったユダヤ人も抹殺しようという作戦です。
グロボクニクの後任者、ヤコブ・シュポレンベルクが指揮し、武装SSSD、警察連隊が
クラクフやワルシャワ管区からも集められ、もちろん第101警察予備大隊の姿も・・。
3メートルまで積み上げられた死体の上に次の犠牲者が・・という
「もっとも、おぞましい」殺害方法ですが、警官たちはすっかり慣れてしまって、
戦後の取り調べでも、大して印象には残っていなかったようです。

Police Battalion 101 Celebrating Christmas.jpg

終戦後、帰還した第101警察予備大隊の多くは、元の職業に復帰したものの、
トラップ少佐は告発され、1948年、ポーランドで処刑。。。
その他の「普通の人びと」は、1962年に告発されました。

著者はまとめとして、戦争による虐殺行為は付きものであり、日米軍の間に起こった
ジャングル戦での「捕虜にしない」方針や、米兵が日本兵の死体の一部を
戦争土産として日常的に集めていた・・という例なども挙げています。
WOWOWで放映したドラマ、『ザ・パシフィック』でもこのシーンはありましたね。

the pacific.jpg

それにしてもここでは書きませんでしたが、前半から「移送列車」の現場での凄まじさ・・。
裸にしたユダヤ人を何十両と貨車に詰め込めるだけ詰め込み、
それでも乗り切れない者は全員、射殺・・。
ゲットーでの駆り集めでも、対象のユダヤ人に対するドイツ兵の人数が妥当であれば
問題なく移送が出来るものの、人手が少ない場合は逆にそれがプレッシャーとなって、
ちょっとしたことで「射殺」という荒っぽい手段が起こったり・・と
期限に追われた、現場レベルでの任務と残虐行為との関係も理解できるものでした。

KZ.jpg

まぁ、このようなホロコーストものを読むときはいつもそうですが、
自分がその場にいたら・・ということを想像しながら読んでみます。
復讐心や戦場での狂気が起こした虐殺とは別の、国家の政策による虐殺命令・・。
本書の部隊は、加害者でありながら、また被害者でもある気がします。
彼らも任務をこなすうちに慣れていったように、読んでる自分も気が付くと
今まで読んだことないほどの本書のエゲツない表現にも、慣れてしまっていました・・。





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ナチ親衛隊知識人の肖像 [SS/ゲシュタポ]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

大野 英二 著の「ナチ親衛隊知識人の肖像」を読破しました。

ちょうど10年前に発刊された、経済学が専門の京大名誉教授が書かれたものである本書。
「1年間の研究ノート」というだけあって、さすが難しいというか、難解ということで知られていますが、
まぁ、そう言われると、どんなもんかちょっと試してみたくなりました。
登場人物は表紙の5人、いくらなんでも日本語だし、英語や独語の本よりはわかるだろ・・
という感じで、336ページの本書に挑んでみました。

ナチ親衛隊知識人の肖像.jpg

「はじめに」ではこのタイトルである「ナチ親衛隊知識人」とは何を指すのか・・が書かれています。
それはナチズムの体制を支えたドイツの若い知識人、特に本書では国家保安本部(RSHA)における
親衛隊知識人に焦点を当て、考察したい・・ということです。

ではドイツの若い知識人・・という定義はなにかというと、1900年~1910年に生まれた
「戦時青少年時代」の世代を指し、ソコに含まれるのはラインハルト・ハイドリヒ、ヴェルナー・ベスト、
アルフレート・ジックス、オーレンドルフにカルテンブルンナーといった本書の5人です。

また、この世代にはヒムラーやゲシュタポのミュラー、「ヒトラーの建築家」シュペーアも含まれ、
逆にこのようなナチ体制に反抗した「戦時青少年時代」の人物としては
ドホナーニ、ボンヘッファー、ヘルムート・ジェームズ・フォン・モルトケに、シュタウフェンベルク
文化人ならマレーネ・ディートリッヒに、レニ・リーフェンシュタール、そしてカラヤンが該当します。

Herbert von Karajan.jpg

第1章はハイドリヒですが、個人的にはこのハイドリヒが知識人というカテゴリーに入るのか
若干、疑問に思っていましたが、本書の紹介では「エリート意識の強烈な知識人」として、
ハイドリヒという「悪霊」のごとき人物を欠いては、RSHAの親衛隊知識人を語ることはできない・・
といったことのようです。

そして「親衛隊知識人の類型の特徴をなし、急進的なフェルキッシュな思想を持った、
即物性に徹した若いテクノクラートという性格が認められる」という表現で進みます。。。
ハイドリヒの1ページ目からこの書きっぷりですから、特に「フェルキッシュ」や
「テクノクラート」くらいの意味は朝飯前・・という方でないと、この後、結構しんどくなります。

Reinhard Heydrich teenager.jpg

展開としてはハイドリヒの生い立ちから語られ、ユダヤ人の血を持っていたのでは・・という話、
安楽死計画(T4作戦)やヴァンゼー会議、そしてアインザッツグルッペンの殺戮部隊の様子も
詳しく書かれています。
とくに本書では出動集団、出動部隊(アインザッツコマンド)と訳されるこの部隊ですが、
指揮官の多くは法律家であり、医師やオペラ歌手、そしてほとんどが30代の
若い知識人であったということです。

最後にはプラハでの暗殺の過程と、国葬ではベルリン・フィルハーモニーが
「葬送行進曲」を演奏したという話で終わります。

続いては初期のRSHAで人事局長も務めたヴェルナー・ベストの登場です。
彼は「髑髏の結社」を読んで気になっていた人物ですが、フランクフルト大学で法律を学び、
1930年にはナチ党へ入党します。
そしてこの理由を本書ではこんな感じに書いてます。

SS-Obergruppenführer Dr. jur. Karl Rudolf Werner Best.jpg

「ヒトラーの世界観はナショナリズム、社会主義、オーストリア的大ドイツ主義、
ウィーン的刻印の反ユダヤ主義といった寄せ集めに他ならず、
ナチ党のイデオロギー的理論的な特徴づけが弱いため、ベストは彼の
「フェルキッシュ有機体思想」ないし、革命的エリート的概念が党綱領の明確さを増すのに
寄与するものと考えたのである」。
ふ~、こうして書いててもわかったような、わからないような・・。

ハイドリヒが長官を務める初期のゲシュタポにおいて、その代理という役職に就いたベスト。
国民に対し、自発的な通報や自発的な密告を激励することで
ナチス・ドイツは密告に支えられた「自己監視社会」へと向かいます。

Gestapo-Headquarters.jpg

しかし1939年になると、国家警察と党の機関であるSDなどが組織上、人事上の問題で
複雑に絡み合い、ベストが保安警察の指導的地位に、法学を学んだ大学出を
採用しようとしたことから、大学出ではないハイドリヒが異を唱え、ゲシュタポのミュラーや
シェレンベルクらからも猛烈な反対を受けます。

また、ポーランド侵攻ではアインザッツグルッペンの構成と指導に従事したようで
その後は占領したフランスの軍政に携わりますが、これはすでにRSHA本部を離れていた
彼にとってゲシュタポのような仕事ではありません。
そのためか、ヒトラー命令によるレジスタンスに対する報復としての人質射殺も強硬に反対。
そして大使としてデンマークへ・・。
この人は複雑な人物ですから、本書の50ページほどではとても理解しきれないですね。

Wonder if it is in France.jpg

1935年にSD本部に採用されたフランツ・アルフレート・ジックス
SDにおけるただひとりの教授であり、大学出のベストとも仲の良かったジックスですが、
やっぱりSDの知識人化を嫌うハイドリヒと上手く行かず、武装SSに志願・・。
しかしバルバロッサ作戦とともにアルトゥール・ネーベのアインザッツグルッペンBへ送られますが、
「同格」の局長であるネーベから、なんら命令を受けようとしません。
結局はハイドリヒが死んだことで、RSHAから外務省に移る道が開かれたジックス。
外務省文化・情報部長に任命されるとなると、「ベルリン・ダイアリー」を思い出しました。

Franz Alfred Six.jpg

ジックスは戦後の裁判でアインザッツグルッペンに関与していたものの、
20年の禁固刑で済みましたが、次のオットー・オーレンドルフは死刑です。
少年時代から政治に関心を向けていた彼は、1925年、18歳でナチ党に入党します。
1939年にはRSHAⅢ局の局長となったオーレンドルフですが、
トップであるバイエルン人のヒムラーとの対立もその気質の面からも多くあったようです。
ヒムラー曰く「我慢のできない、ユーモアを欠いたプロイセン野郎で、非兵士タイプで、
敗北主義者でインテリ畜生」というものです。

SS_Brigade_Fuhrer_Otto_Ohlendorf.jpg

そしてアインザッツグルッペンDの指揮官として、女子供を含む9万人のユダヤ人と
民間人を殺戮したオーレンドルフ。
これを「兵士の厳しさと政治的明確さが欠けている非兵士的な軟弱な知識人を
大量殺戮へ巻き込むことで、ナチズムへの無条件の忠誠を強い、運命共同体として
反対派となる可能性を奪い、RSHAに適応した道具にしようとした」ハイドリヒの意図によるもの・・
だとしています。

Einsatzgruppen2.jpg

5人目はRSHA長官ハイドリヒの後任となったカルテンブルンナーです。
1930年にオーストリア・ナチ党へ入党し、ゼップ・ディートリッヒの勧めでSS隊員となったそうですが、
このちょっと不思議な話は、オーストリアSS本部がミュンヘンにあり、
ゼップの指揮下にあったことのようです。

アンシュルスに向け、オーストリア・ナチ党とカルテンブルンナーが貢献する様子も詳細で、
ザイス=インクヴァルトグロボクニクなどが随所に登場してきます。
そして彼らはオーストリアを「ライヒに帰す」ことを目指し、ドイツ軍のオーストリアへの進軍に反対して
ヒトラーを説得しようとした・・というのは初めて聞く話ですね。

Wien, Arthur Seyß-Inquart, Adolf Hitler,Himmler,Heydrich, Kaltenbrunner.jpg

ヒムラーによって新たにオーストリアのHSSPF(高級親衛隊・警察指導者)に任命された
カルテンブルンナー。しかし、その地域のすべての親衛隊と警察力を監督するHSSPFという
新たな役職を危惧するのはやはり、ハイドリヒです。
シェレンベルクとアイヒマンをウィーンへ派遣して、保安警察(ゲシュタポと刑事警察のクリポ)と
SDに対し、ハイドリヒに忠実であることを求め、秩序警察のダリューゲも同様に、
秩序警察(オルポ)本部長からの司令のみを受けるようにと手をまわして、
カルテンブルンナーの権限を大幅に制限します。

Himmler _ Kurt-Daluege.jpg

本書の主役5人は、同じ時代に同じ組織に属していたわけで、当然、本書全般で
彼らを取り巻く「脇役」たちもヒムラーを筆頭に同じようなメンバーが登場してきます。
そんな中でRSHAの人事局長、シュトレッケンバッハSS中将が大変気になりました。
特にハイドリヒ暗殺後の空席に彼が代理となっていたというのも初耳でしたし。。。

Bruno Streckenbach.jpg

「あとがき」では、本書の執筆を進めていく過程で「親衛隊知識人の対極をなす
ドイツ知識人の抵抗運動に対する関心が強まり・・・」とありますが、
この記述を読んで本文の展開に納得がいきました。

また、「書下ろしは初めての試みであり、不備な点や意を尽くさない点も多いが、
大方のご批判を受けたく・・」とのことですので、
この京大名誉教授に畏れ多くも物申させていただければ、
確かに主役の親衛隊知識人から始まるものの、途中から関係者や
赤いオーケストラ」など別組織の記述が多くなったり、
そしてソレが主役の親衛隊知識人にどれだけ関係しているのか良くわからないまま進んでいきます。
やがて主役の親衛隊知識人に戻ってくるわけですが、やっぱりその関連性と重要性が
良くわからず・・という印象でした。

当初の親衛隊知識人を研究していくうちに、興味の湧いたその他の人物も同レベルで
記述してしまっていることから、焦点がぼやけてしまっているのではないでしょうか?
それでも、特にベストやジックスといった人物が詳しく書かれた本は皆無ですから、
彼らに興味のある方は、チャレンジする価値もあるんではないでしょうか。



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ゲシュタポ・狂気の歴史 [SS/ゲシュタポ]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジャック・ドラリュ著の「ゲシュタポ・狂気の歴史」を読破しました。

「ゲシュタポ」と名の付く本の紹介は3冊目になりますが、
2000年に再刊された本書は、もともと1968年に翻訳されている有名なものです。
原著は1962年というさらに古いもので、フランス人の著者が前書きで述べているように
おそらく初めて「ゲシュタポ」の歴史について書かれたという、この手の元祖本です。

ゲシュタポ・狂気の歴史.jpg

そもそも自分が「ゲシュタポ」にコダわる理由というのは専門的なことではなく、
結構「単純」なことなのです。
子供の頃に初めて聞いた「第三帝国」に関するキーワードはまず、「ヒトラー」、
そして多分、次が「ゲシュタポ」だったんじゃないか・・と思っています。
ナニで知ったか聞いたかはわかりませんが、そのイメージは「恐ろしいもの・・」であり、
ひょっとすると映画「大脱走」だったのかも・・。

これは個人的なことだけではなく、戦後60年以上経ったいまの日本においても「ゲシュタポ」
という名前を知っている、或いはその響きから「怖い・・」と感じる人も多いんじゃないでしょうか?
まぁ、響きという意味では「ゲ」で始まる日本語にはロクなもんがないとも言えますが・・。
秩序警察や刑事警察の「オルポ」や「クリポ」じゃあ、恐怖感も半減ですしね。。。

Gestapo The Great Escape.jpg

まずは定番である、ゲシュタポ創設の経緯からです。
1933年、プロイセン内相となり、プロイセン警察の指揮権を握ったゲーリング
幹部職員2/3をSAやSS出身者に入れ替え、野心的な政治警察幹部であった
ルドルフ・ディールスを秘密国家警察(ゲシュタポ)の初代長官に据えます。
このゲシュタポ創成期はナチ政権の創成期でもあり、政府の内相フリックや、
レームのSA、国防軍など、様々な強力な敵が存在し、それによってディールスが
その座を追われるなどの過程が詳しく書かれています。

Rudolf Diels.jpg

この手の本にしては珍しく100ページを過ぎてから登場するのは、
ゲーリングから「ゲシュタポ」を引き継いだヒムラーです。
そしてSS保安防諜部(SD)長官のハイドリヒが、このゲシュタポのトップに君臨することで、
彼は党だけではなく、政治警察という国家官僚の座も手にするのでした。

Übergabe der Geheimen Staatspolizei.jpg

本書の特徴はこのような組織の上層部だけではなく、ガウライターなどで知られる
32の大管区に始まる、その末端までも解説していて勉強になります。
例えば大管区の下に管区、次に地区、細胞、班という分類です。
ちなみに班長だと40~60家庭が責任下だったようで、
このような班長が「不満分子」を発見した際には、当然上長へ報告、
そしてその情報は「ゲシュタポ」へ・・。
すなわち、ゲシュタポに協力するスパイとは、この管区制度で確立していたわけですね。

Gestapo ID.jpg

さらにはハイドリヒの政治情報局でもあるSDには大学教授などを監視する
3000名のスパイが暗躍し、これらの情報によってゲシュタポの特権である、
逮捕・尋問・捜索・強制収容所送り・・が可能となります。

再編成し、刑事警察も抱合せた「保安警察」。ゲシュタポの長官にはこの後、終戦までの10年間、
その座に居座ることとなる、ハインリッヒ・ミュラーが詳しく紹介されます。
曰く「彼は、知性というものには縁遠く、物凄く頑固で強情、主要な関心ごとは昇進で、
統計表や報告書などのために生きている魂の奥まで「官僚」な男」です。

Müller, Heinrich.jpg

1933年にナチ党が政権を取るまで、バイエルンの政治警察官として、
ナチ党に反対する活動をしていたミュラーですが、新しいご主人であるヒムラーは、
あえてその「熱心さ」を買い、一方のミュラーも、自分の過去を忘れてもらうために、一層働きます。
しかし、党員許可は6年間も拒まれ続け、こうしてゲシュタポは
政治的正当性がナチ党員としての資格すら「あやふや」な人物が指揮を取るということに・・。

その他にも、フリッチュ男色容疑作戦で活躍したマイジンガーが登場し、
彼がミュラーの友人かつ、腹心で、ことさら汚れ仕事を引き受け、
後に日本での任務・・あのゾルゲの監視をしていた話も・・。 
また、SDで1934年にスタートを切った同期生・・アイヒマンシェレンベルク
ナウヨックスや「偽札班」のクリューガーといった面々・・。
特にシェレンベルクは著者も一目置いている感じで、
「SDの希望の星」として最後まで頻繁に出てきます。

Josef Meisinger.jpg

やがて国家保安本部(RSHA)が誕生し、そこに吸収された形のゲシュタポですが、
これについては、あまりにも知られ過ぎたゲシュタポの名をカモフラージュするためであり、
ゲシュタポやクリポ所属であっても「SD」のパッチを袖につけることとなったとして、
これにより、国家警察がSSに完全吸収されたということです。

クリポで4ヵ月間、警察の仕事の基礎を、続いて3ヵ月SDで、そして3ヵ月ゲシュタポで・・
という新米スパイ教育に関する、ハイドリヒの回状を引用していてなかなか勉強になります。

Karl Hermann Frank, Reinhard Heydrich, and Heinrich Müller.jpg

このような展開を経て、いよいよ本書のメインと目論んでいた「フランスでのゲシュタポ」が・・。
これは著者が1940年当時、フランスの警察官であり、その後レジスタンスに身を投じ、
ゲシュタポに捕えられ、戦後は戦争犯罪者とその協力者の取り調べの任に10年間当たった
という経歴の持ち主だからです。

ポーランドでのSSの傍若無人ぶりが仇となり、国防軍が軍政を握ることとなったフランス。
しかしだからといってヒムラーとハイドリヒは黙って指を咥えていません。
そこでパリに送り込まれたのがシェレンベルクと同様「SDの希望の星」のひとり、
ヘルムート・クノッヘンです。
少人数のクノッヘン機関の存在があっさりバレると、軍の指揮下になることを言い渡されるなど、
苦労の絶えないSSとゲシュタポ。。

Helmut Knochen.jpg

そこでハイドリヒの代理として怪漢トーマスSS少将が助けに向かいます。
こんなSS少将は初めて知りましたが、彼の娘がハイドリヒの愛人であり、
子供ももうけていたという関係だそうです。

しかし大酒のみで品のないトーマスに代わり、今度はヒムラーの代理として
オーベルクSS中将がやってくるとこの調整力に長けた人物によって、
フランスの保安警察の任務は、独立し、そして過酷になっていくのです。

Pierre Laval _Karl Oberg.jpg

個人的に逮捕されたフランス人はゲシュタポの拷問に・・。
このゲシュタポの代名詞である「拷問」の方法やその種類も紹介されます。
さらにその対象となった女性たち・・について、
フランス人のゲシュタポ補佐たちが「発明」を競い合ったという大胆な仕掛けの拷問は
女性に対して行われたとしていますが、「この書物で述べることははばかれる・・」。

「バルバロッサ作戦」の陰で実行されたアインザッツグルッペンの行動にも触れられていますが、
その隊員の内訳を紹介し、この殺戮隊に各軍集団ごとに10名~15名の女性もいた・・
というのは初耳ですねぇ。

Members of the Einsatzgruppen task force.jpg

ハイドリヒが暗殺され、リディツェ村が抹殺されたあと、RSHA長官の後任問題が出てきます。
ハイドリヒに敵対していた者はその地位を保つものの、
彼が引き上げた者たちはヒムラーによって排除されていくなか、
8ヶ月悩んだヒムラーはシェレンベルクを指名しようとします。
これはシェレンベルクはその若さゆえ、ハイドリヒのような危険なライバルにはならないだろう・・という
ヒムラーの安全保障対策ですが、ヒトラーが認めず、結果、古参で大酒のみの凡々たる男、
カルテンブルンナーが就任することに・・。

しかし、ヒムラーはしっかりと実権は掌握し、シェレンベルクも防諜組織の指導者として、
カルテンブルンナーを飛び越えて、ヒムラーとの直接関係を築きます。

Volksgerichtshof,_Dr__Ernst_Kaltenbrunner.jpg

連合軍がフランスに上陸し、パリも開放されるとクノッヘンとオーベルクも撤退を余儀なくされます。
クノッヘンは、第1SS師団「ライプシュタンダルテ」に編入され、
一兵卒としてチェコでの対戦車訓練を受けるようカルテンブルンナーから言い渡され、
オーベルクにもヒムラー率いるヴァイクセル軍集団の指揮官のポストが待っています。
まさにカルテンブルンナーのライバル潰しですね。。

自分が潜在的に知りたかったのは、「なぜゲシュタポという名が人々に恐れられたのか?」
ということであり、それには巨大組織を客観的に分析したものではなくて、
当時のドイツ国内、または占領地域の人々の目線から書かれたものが読みたいと
思っていたわけですが、
また、同じようにヒムラーやハイドリヒ、カルテンブルンナーにミュラー、アイヒマンという
上の人物ではなく、名も知れない「現場のゲシュタポ隊員」たちが、
どのような「仕事」をして人々の恐怖に陥れていたのか・にも興味があるわけです。

Erschießung.jpg

本書は組織としてのゲシュタポ興亡史であるのと同時に、フランスという
特定の土地におけるゲシュタポの活動が著者の経験もあって細かく書かれ、
単なるゲシュタポ本とは一線を画すものだと思います。
巻末の「解説」では古い本なので、ゲシュタポの能力を買いかぶり過ぎている・・ことも
述べられていますが、それほど気になりませんでしたし、自分は逆にそのような
当時の見解が興味深いですね。
40年や50年も前に書かれた本の内容が古いのは当然で、再刊されたものでも
本書のように加筆/訂正がほとんど行われていないのが多いのも現状ですし・・。
まぁ、ここらへんは読む側の「心構え」次第で、どのような評価にでもなります。

なお、この500ページの本書は完訳ではないようで、ちょっと残念ですね。
それにしても、今回登場したSS大佐の2人、マイジンガーとクノッヘンの写真ですが、
柏葉の向きが違います。この2パターンがあることに以前から気になっているんですが、
どうゆう違いなんでしょうか? 時期とかの問題かなぁ?? 
ひょっとして、単なる左右の付け間違いだったりして・・。





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アイヒマン調書 -イスラエル警察尋問録音記録- [SS/ゲシュタポ]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヨッヘン・フォン・ラング著の「アイヒマン調書」を読破しました。

初体験となるアイヒマン本は2009年に発刊された最も新しいものですが、訳者あとがきによると、
膨大な「調書」を基に出版されたものとしてはフランス人ジャーナリストによるものがあり、
これを1/3に抄訳したものが、1972年の「アイヒマンの告白」だということです。
本書はそのフランス版よりあとに、ドイツ人ジャーナリストである著者によって
ドイツ語版で出版されたものの翻訳になります。
ちなみに訳者さんは「人間の暗闇」と同じ方ですね。

アイヒマン調書.jpg

1960年、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関「モサド」によって発見、拉致され
イスラエルで拘留されたアイヒマン。
イスラエル警察の大尉、アヴネール・レスが尋問官として任命され、
「第三帝国時代の任務を積極的に話します」というアイヒマンとの275時間に及ぶ、
尋問が始まります。

1906年、ラインラント生まれのアドルフ・アイヒマンは、父親の仕事の関係で
オーストリアのリンツへ移住。少年時代から、石油会社で務めるまでが語られます。
そして1932年、オーストリアにもナチスが台頭すると、父親同士が20年来の付き合いであるという
顔見知り、エルンスト・カルテンブルンナーから「俺たちの仲間になれよ」と声を掛けられ、
「いいとも!」とそのまま、ナチ党へ・・。同時に親衛隊にも入隊します。

Adolf Eichmann standing in uniform at beginning ofW.W.II.jpg

「伍長かなにかに昇進」していたアイヒマンは軍隊式訓練に嫌気がさし、
噂で聞いた「親衛隊保安部=SD」の人員募集に応募、「索引カード室」から
「フリーメーソン展示室」勤務を経て、1935年、遂に「ユダヤ人課」に配属されます。

パレスチナへ視察旅行した際の報告書や当時の上司であったアルフレート・ジックスの話、
ドイツ領となっていくオーストリアやチェコでの勤務も詳細に語ります。
命令を忠実にこなす彼は、大尉へと昇進し、権力のないSDが保安警察と統合され、
「国家保安本部=RSHA」が誕生すると、ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーの直属として
ゲシュタポのユダヤ人課課長というポストに就くのでした。

Adolf Eichmann 1933.jpg

当初のユダヤ人に対する移住計画、テレージエンシュタットもすし詰め状態で、
このようなゲットー化だけでは話にならず、マダガスカル島への移住計画も出てきます。
しかし1941年、対ソ戦が始まると、アイヒマンはハイドリヒに呼ばれ、こう告げられます。
「総統はユダヤ人の抹殺を命じられた」。そして「ルブリンのグロボクニクのところに行き、
すでに対戦車壕を利用したユダヤ人抹殺の状況を視察して報告するように」。

globocnik2.jpg

アウシュヴィッツトレブリンカ、レンベルクでガスや銃による大量虐殺を目撃し、
「サディストを育てているようなもので、何の解決にもならない!」とミュラーに報告するアイヒマン。
「こんな視察は自分には耐えられない」と要望を出すも、認められません。

Einsatzgruppen3.jpg

フランスやオランダムッソリーニが失脚したイタリアも含め、各国のユダヤ人を
数千人単位で収容所へと送る「輸送列車の手配」が主たる業務であり、
その困難さを熱心に語る一方で、それ以外のことは曖昧な返答を繰り返すアイヒマン。

Jews are sent to their deaths. This process was facilitated by SS Colonel and transport manager, Adolf Eichmann.jpg

尋問官のレスが「チクロンB」について尋ねると、「人から聞いた以外には知りません」。
しかしここでアウシュヴィッツの所長ヘースの自伝に書かれているアイヒマンの関与を問われます。
ガス・トラックに代わる方法を調査したいとアイヒマンが積極的に関わったとされる部分です。
さらに「衛生班で消毒技術の責任者」、クルト・ゲルシュタインの文書も登場。
この後も度々出てくるヘースの自伝の内容について、アイヒマンは「まったくデタラメです!」
彼の反論は「強制収容所を管轄するオスヴァルト・ポールの経済管理局技術部門の仕事であって、
ゲシュタポは全く、関与していない」というものです。

Rudolf Höß Commandant of Auschwitz.jpg

アイヒマンはニュルンベルク裁判で自らの関わりを否定した、このSS大将ポールに対しては
怒りを持って語ります。
「あれだけの采配を振るっていた人間が、すべて部下に責任をなすりつける。何の勇気もない」。
そして自らについては「ユダヤ人の疎開については責任を取ります。
それくらいの勇気はありますよ」。

Oswald Pohl_2.jpg

例の「ヴァンゼー会議」で如何に自分が「小物」であったかを説明し、
その主催者であったハイドリヒの死後SS全国指導者ヒムラーから、
ユダヤ人解決を全面的に委託されたという証言に対しても、
「ヒムラーに直接会ったのは3回だけで、ヒムラー直属になったことは一度もない」と反論。

Reinhard Heydrich (right) and his deputy, Karl Hermann Frank.jpg

1944年、東部戦線が困難な状況になってくると、寝返り寸前のハンガリーから
大量のユダヤ人を移送する作戦が・・。これに「アイヒマン特別行動部隊」が出動します。
しかし連合軍の爆撃によって破壊された線路やハンガリー警察の支援が必要なことなど、
思惑通りに事は運びません。
そして進撃してきたソ連軍・・1万人のドイツ系住民を避難させる命令を受けたアイヒマンは、
占領されていた野戦病院を開放して「二級鉄十字章」を受章。

以前から何度も前線への転属をミュラーに訴えていたというアイヒマン。
ベルリンに戻っても首都防衛で死ぬことを選び、用意されていた逃亡用の偽造書類には
「反吐が出る思い」と目もくれません。
しかし、アイゼンハワーとの交渉の人質を必要とするヒムラーの命令で
テレージエンシュタットの有力ユダヤ人をチロルへ疎開させよ・・という任務が・・。

heinrich-himmler_viking-division.png

アイヒマンの部署の「お客」として元アインザッツグルッペン指揮官の
パウル・ブローベルSS大佐が登場し、「1005部隊」が紹介されます。
この部隊はあまり知りませんでしたが、東部で虐殺された遺体を掘り返し、
証拠隠滅のために焼却する特別部隊だそうで、
汚れ作業に駆り出された強制収容所の囚人たちは、完了後に見張りの補助警官に射殺され、
その補助警官も最後に数少ないSS隊員に射殺されたということです・・。
本書には尋問のなかで出てきた重要な事柄について、この部分のような注釈が挿入されており
なかなか勉強になります。

Paul Blobel.jpg

終戦後、「反吐が出る思い」の偽名で2度捕虜となったアイヒマンは都度、逃走し、
ドイツ国内に潜伏した後、「リカルド・クレメント」の名で1950年、
アルゼンチンへの逃亡に成功します。

Ricardo Klement.jpg

尋問官レスの20ページにも及ぶ「あとがき」も印象的です。
1933年までベルリン市民であった彼、そして彼の父親が移送によって東部に送られたことに
アイヒマンが「それはとんでもないことだ!」と言った話、
また看守が看守を監視するという独房の厳重な監視の様子は
「もし、アイヒマンが自殺したとしても世界中の誰もが信用しないだろう!」ということです。

adolf_eichmann_1960.jpg

1962年に絞首刑となって、その遺灰は海に撒かれたアイヒマンですが、
もしも仮に、上司であったミュラーやハイドリヒ、ヒムラーが罪を認め、
生きたまま裁かれたとしても、やはり「死刑」となったのでしょうか?
もちろん、ヒトラーも含めて、この「最終的解決」に関する責任者が不在である・・ということもあり、
アイヒマンは贖罪の山羊(スケープゴート)でもある気が、やっぱり拭えません。











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死刑執行人との対話 [SS/ゲシュタポ]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

カジミェシュ・モチャルスキ著の「死刑執行人との対話」を読破しました。

先日の「ナチス裁判」に紹介されていた本書は、1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」で
ユダヤ人を容赦なく、残虐に鎮圧したとして知られるユルゲン・シュトロープSS少将が
戦後、裁判のために拘留されていたポーランドの刑務所において
自身の生い立ちから、1ヶ月にも及んだ「ワルシャワ大作戦行動」の様子、
そして終戦までを語ったものを会話形式で、400ページに二段組びっしりとまとめたもので
ある意味「シュトロープ回想録」ともいえるかも知れません。

死刑執行人との対話.jpg

一口に「ワルシャワ蜂起」といっても、1944年の「ワルシャワ蜂起」と
この1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の2つがあるわけですが、
「ゲットー蜂起」については映画「戦場のピアニスト」とその原作を読んだだけで、
印象的ではあったものの詳細はわからず、今回初めての
「ワルシャワ・ゲットー蜂起」モノを読んだということになります。

また、このような「ナチ戦犯」に対するインタビュー本ということでは
有名な「ニュルンベルク・インタビュー」やトレブリンカ強制収容所所長のシュタングルを扱った
人間の暗闇」をイメージしていました。
しかし、本書が書き上げられた経緯は実にとんでもないもので、ほとんど「奇跡」のように感じます。。

1949年3月、ワルシャワの刑務所。ポーランド人の著者モチャルスキが別の監房に
移されるシーンから本書は始まります。
この新入りに対して先輩の2人は「ドイツ人の戦犯」であり、
一人は文書係であったSS少尉のシールケ、そしてハンカチで作った蝶ネクタイを締め、
公式に2人前の食事をたいらげるもう一人は「シュトロープ中将です」と丁寧に自己紹介します。

JurgenStroop_a.jpg

「これが、あのシュトロープか・・」と興奮するモチャルスキは、しかし冷静に
シュトロープから可能な限りの真実を引き出そうと努め、この後、
225日間に及ぶ、奇妙な三角関係が始まります。

1895年、独立した小国家であるリッペ侯国の小さな警察署長を務めるカトリックの父と
しつけの厳しい母の間に生まれた「ヨーゼフ」シュトロープ。
従順な子供であり、両親の前では直立不動の姿勢を取ります。
第1次大戦が勃発すると、歩兵連隊に志願。ルーマニアやハンガリーを転戦します。
ここでは、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥に尊敬の念を抱き、独特の風貌・・
「よく熊皮帽をかぶり、貴族と騎兵両方の顔を持っていました」と語ります。

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1932年にナチ党へ入党。地元でナチ党の選挙活動に明け暮れます。
この時の功績から1934年には、ヒムラーから特進でSS大尉に任命されることに・・。
SSのエリート教育として、イデオロギーの知識とより高度な尋問の仕方も教え込まれます。
モチャルスキは尋ねます。
「あなたがレーベンスボルン(生命の泉)に加わっていたことを奥さんは知っていたんですか?」
「とんでもない!」

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ヒムラーは人種について造詣が深く、創造的な直観と科学的研究に対する勇気を兼ね備えていた」
と語るシュトロープを、ヒムラーが贔屓にしていたのは、「ルーン文字研究」と
「北欧人種の血の貴族性信仰」を持った双子のような存在であったのでは・・と推測しています。
そしてヨーゼフ・シュトロープも、よりゲルマン的な名前である「ユルゲン」へと改名するのでした。

遂に黒いベルベット襟に「樫の葉を3枚」つけるまでに昇進。しかし武装SSの階級を取得するため
1941年にはトーテンコープ師団やライプシュタイダルテに配属されます。
3ヵ月程度の腰掛け研修期間をまっとうし、武装SSでも「予備役中尉」に昇進・・。
第1次大戦の2級鉄十字章の略章も授かります。

Wiederholungsspange 1939 zum Eisernen Kreuz 2. Klasse 1914.jpg

翌年のロシアへの夏季攻勢での目標のひとつ、カフカス。
ヒムラーの命により視察旅行へ赴いたシュトロープですが、
A軍集団司令官リスト元帥からは邪魔者扱い。
後にリスト元帥が罷免された理由を「この私とのいざこざが原因」と高慢に語りますが、
モチャルスキは、この大事な時期に「そんな低い次元の威信のわけがない」といった感想です。

Wilhelm List, Hans von Greiffenberg,Sepp Dietrich.jpg

SS社交界では戦局の悪化の時期においてもファッションが行き渡っていて、
特に身だしなみと流行にうるさいシュトロープは、このカフカス訪問で気に入った
「エーデルヴァイス」の記章に「山岳帽」をかぶり出します。
そして、この姿・・。「ワルシャワ・ゲットー蜂起」で写るシュトロープのスタイルが完成です。

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この「ワルシャワ・ゲットー蜂起」とは、ゲットーを解体し、ここに残るユダヤ人数万人を
強制収容所送りにしようとするドイツの作戦に気付いたユダヤ人住民たちによる決死の反乱ですが、
当初、ヒムラーから輸送の監視の任務を与えられていたシュトロープに、
この鎮圧指揮のお鉢が回ってきます。ポーランド・クラクフ地区の上官である
フリートリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーからも詳細な命令を受け、
3日間の掃討作戦を実行に移します。

Kurt Daluege,Heinrich Himmler,Erhard Milch,Friedrich-Wilhelm Kruger,von Schutz,Karl Wolf Bonin,Heydrich.jpg

しかし、建物ごとに拠点を築き、狙撃兵やモロトフ・カクテルで激しく抵抗するユダヤ人に手を焼き、
最終的には28日間・・・、そしてこれら1日1日を詳細に振り返ります。

鎮圧部隊の中心となるのは「アスカリ」と呼ぶ、リトアニア人やラトヴィア人、ウクライナ人たちです。
ポーランド語も喋れず、強靭で残虐・非道な性格の彼らが、拠点を潰していくわけですが、
「退屈なんですよ・・」と言い訳して、やみくもに発砲する兵士もいれば、
「俺にはできない・・、女や子供たちが・・」と、その死体を見てメソメソと泣き出す兵士まで・・。

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シュトロープを驚かせたのは「女性闘士」たちの存在です。
すっかり諦めた表情で捕えられた彼女たちに、シュトロープらが集団で近づいて行くと
突然、スカート中の手榴弾に手を伸ばしたり・・。
このようなことから、その後シュトロープは娘たちを捕虜にせず、
離れた所から銃殺するよう指示します。

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SS人事本部長のマキシミリアン・フォン・ヘルフやクリューガーが視察に訪れた日には、
2000人を捕え、500人を銃殺・・と張り切り、クリューガーは「すべてを写真に収める」よう命じます。
これが有名な「シュトロープ・レポート」となるわけですね。
下水道には毒ガスと見せかけた発煙弾を放り込み、最終的に建物にも火を放って、
燻り出し作戦に変更。シナゴークも爆破し、「ワルシャワ大作戦行動」も正式に完了します。
5万人以上のユダヤ人を捕えた以外に、シュトロープは、自殺、焼死、圧死、
そして指揮官に無断で射殺されたユダヤ人の数を1万人以上に見積もっています。

Stroop_Maximilian von Herff.jpg

この「ワルシャワ・ゲットー蜂起」についてちょっと調べてみると「アップライジング」というTV映画が
2001年に製作されていました。どうもシュトロープを演じるのは、あのジョン・ボイト・・・です。
「真夜中のカーボーイ」とか「チャンプ」の名優として良く知られていますが、
「独破戦線」的には「オデッサ・ファイル」も良く憶えていますね。
最近では怪優といった感じで、確か「アナコンダ」に丸呑みされたりしてたような・・。
アンジェリーナ・ジョリーの親父さんでもありますが、
でもやっぱり「暁の7人」のハイドリヒと同様に、実際のシュトロープが48歳だったことを考えると、
だいぶ年寄り = 63歳の将軍ということになるようですね。

uprising_Voight.jpg

さらに、同じくいまや子供のキーファーのほうが有名な「ドナルド・サザーランド」も出ています。
この「ドナルド・サザーランド」といえば、もちろん「鷲は舞いおりた」です!
主演女優は「リーリー・ソビエスキー」という女優さんですが、
彼女の眼になんとなく見覚えがあると思ったら「ディープ・インパクト」の女の子でした。
このような役者陣でありますので、気が付いたらamazonでDVDを購入していました。

Leelee Sobieski_uprising.jpg

ヒムラーから「ヴォルフちゃん」と呼ばれていたというカール・ヴォルフとの会話では、
ポーランドでやりたい放題のグロボクニクの話題となり、
「あの、ならず者の泥棒野郎の出世も終わりだな」とヴォルフ。

続く任地、ギリシャではこの地のユダヤ人1万人以上をポーランドへ移送・・。
ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンとして有名なマックス・シュメリングが
降下猟兵に加わっていたというクレタ島では、卑怯、不服従、不正な行為によって
シュメリングが銃殺寸前だったという話題も出てきます。

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1944年には西部戦線、フランスやルクセンブルクをSSとして統治するという役割を与えられ、
その豪勢な生活の様子・・、外国人の使用人たちを見張るのは
特別あつらえのSSの制服に身を包んだ8歳の息子オーラフです。
これには訪れたヒムラーも膝に乗せて大喜び。

そして、「7月20日事件」を回想し、偉大な軍人ロンメルの裏切りに続いて、
クルーゲがフリーメーソンに属していたという話から、
一般的に自殺とされている、クルーゲ死の真相を語ります。
それは、ヴィトゲンシュタインも今まで全く聞いたことがない、最期です。。。
また、終戦間際に処刑されたカナリス提督の、その処刑方法も、
7月20日事件の他の被告たちとは全く違う、これも初めて聞いた実に恐るべきものです。。。

Deutsche Offiziere, u.a. Generalfeldmarschall Hans-Günther von Kluge.jpg

最後に、本書の著者であるポーランド人のモチャルスキがなぜ、地元の刑務所で
シュトロープと共に収監されたのか・・が、書かれています。
ドイツ軍の侵攻によってロンドンへ逃れた亡命政府の指示によって誕生した
「国内軍(AK)」の指揮官であり、1944年の「ワルシャワ蜂起」にも参加したモチャルスキは、
戦後間もなく、新たな占領軍であり、「国内軍(AK)」を完全に無視するソ連軍によって
逮捕されてしまいます。
数年に渡る「地獄の尋問」に耐えたモチャルスキを精神的に屈服させるために取られた手段が、
彼にとって「不倶戴天の敵」であるシュトロープとの狭い監房での共同生活だったということです。

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本書は出来ることなら、ナチス親衛隊を熟知している方や、
戦中のポーランドに詳しい方・・が読まれることをオススメしますが、
主役であるシュトロープが期待を裏切らない、典型的なナチ将校、またはSSの将軍・・
であるので、この人物を知らない方でも楽しめるかも知れません。

第1次大戦に従軍したものの、生粋の軍人や貴族の家系出身ではなく、
大学出のエリートでもないというシュトロープのバックボーンは、
彼が最後まで信頼し、敬愛するヒムラーやヒトラーと変わらないような気がします。
アーリア人思想と反ユダヤ主義を持ち続けているところもそうですし、
女性に対してジェントルマンを気取ったところも似ているのでないでしょうか。

Ghetto_Uprising_Warsaw2.jpg

ただし、個人的な興味・・、ヒトラーと第三帝国を盲目的に信じ、
己の行為に恥ずべきものは何もない・・と思っているかというと、
そうでもないことが、行間から充分に伝わってくるものでもあります。
古いナチ党員ということも手伝って、最終的にはSS中将まで出世したものの、
この「SS」という世界の中で特筆すべき技能と能力を持たず、
盲目的に上官に服従することを良しとする彼の生き様は、なにか物悲しくもありました。

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なんとも凄い本でした・・。
この1年で独破したなかでも、Best3に入るでしょう。ひょっとすると「No.1」かも知れません。
監房の3人の様子はとても緊張感があり、非常に生々しく書かれていますし、
ひとりの、SSの、将軍の、人間性をここまで深く掘り下げたものは、
他にはないんじゃないでしょうか。






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