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パンツァー・オペラツィオーネン 第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録 [戦記]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヘルマン・ホート著の「パンツァー・オペラツィオーネン」を読破しました。

ゴールデンウィークというのはナニかしたくなるものですね。
4月初旬に引っ越しをして、本の整理&再読をしていたら、この2年間なんとか堪えていた
新しいナチス・ドイツ軍モノを読みたい症候群を発病してしまいました。
そういえば、この「独破戦線」を始めたのも9年前のGWでしたっけ。。
そんな2年振りの復活か、一時的な暇つぶしかは不明ながら、2018年の最初に選んだのは
去年の9月に出た、第三帝国における3大ヘルマンのひとり、「ホト爺」の回顧録です。

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第1章「序説」、第2章「前史」は、主に戦略、作戦、戦術とは? ということをテーマに
それぞれの概念の明確化を試みます。
また、政治と戦争指導の線引き・・といった、いかにもヒトラーを意識した問題、
そして対ソ戦においての「戦争目標」と「作戦目標」は、モスクワという一点となるはずだ
と語ります。

いよいよ75ページから、第3章「国境地帯のおける敵の撃破 6月22日~7月1日」です。
しかし、いきなり細かい!
「第57装甲軍団の進撃は・・」とか、「第12装甲師団の戦車は・・」とか、
「第39装甲軍団は、持てる戦車連隊2個に第20自動車化師団の一部を・・」と、
師団長や軍団長の名も挙げずに記述しているので、早速、睡魔との戦いが始まります。
そんな時には本書の真ん中にまとめられている「戦況図」を眺めて気を紛らわし、
「そもそも第3装甲集団の編制はどうだったっけ?」とググってみたり。。

まぁ、独ソ戦記を読むのが久しぶりというのもありますが、
本書を読むにあたっては、「バルバロッサ作戦」についてある程度の知識がないと
100ページで戦死してしまうでしょう。
そんなわけで、まず、1941年時点でのドイツ軍装甲集団を再確認してみました。

まずルントシュテットの南方軍集団にはクライストの「第1装甲集団」が、
レープの北方軍集団にはヘプナーの「第4装甲集団」が、
そしてボック率いる最強の中央軍集団には、グデーリアンの「第2装甲集団」と
本書の著者であるホトの「第3装甲集団」が先陣を切って暴れ回るというわけです。

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興味深かった戦闘は、北端で頑強に戦う「リトアニア人の軍団」です。
ここには多数のロシア人将校と政治将校が混入されていたそうですが、
やがて森林へと退却していた残兵はロシア人政治将校を片付けて、
続々と投降してくるのでした。。

リトアニアは北方軍集団の管轄なので不思議に思いましたが、
第3装甲集団は中央軍集団のなかでの左翼(北方)に位置し、
よって北方軍集団とも連携してるんですね。
なので、突然「第56装甲軍団が・・」などと出てくると、
「お~、マンシュタインじゃね~か!」とカッと目覚めたりもするのです。

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また、「第2装甲集団司令官が、今後の作戦について協議するため、
第3装甲集団司令部を訪ねてきたのは、極めて望ましいことだった」という部分には
カッコ書きでハインツ・グデーリアン上級大将と書かれており、
マンシュタインなどの有名な将軍についても同様です。
これは「序言」で、「(将来の装甲部隊指揮官の)教育上の目的を最重視しているので、
部隊の勲功を強調したり、傑出した指揮官たちの名前を挙げることは避けた」
と述べられてるとおりであって、ホト自身も「わたし」ではなく、
「第3装甲集団司令官」という名前で登場するのです。
それにしても最初のページ目に掲載されている有名な写真を彷彿とさせますね。

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8月、ここまでに得られた疑う余地のない大勝利を如何に活用するか、
陸軍総司令部も決められず、政治的理由から「レニングラード包囲」を確定しようと、
中央軍集団司令部で「モスクワは、レニングラード、ハリコフに次ぐ第三の目標となる」
と明言したヒトラー。参謀総長ハルダーも不信感を募らせます。
そしてモスクワを目指す第3装甲集団から1個装甲軍団を北方軍集団に割愛すべしとの命令が・・

8月12日には「冬の到来前にモスクワを征服すべし」と命じていたにも関わらず、
続いての総統命令は「クリミア並びにドニェツ工業・炭鉱地帯の奪取、
コーカサス地域よりロシアへの石油を遮断すること」が最重要目標に。。
東部戦線の重心が中央から南方へと移り、グデーリアンの第2装甲集団は
9月いっぱい「キエフ大包囲戦」へ。
そしてモスクワへの準備が整った10月7日、東部戦線全体に最初の雪が降るのでした。

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464ページの本書、195ページで「第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録」の
本文は終わり、付録として命令書や覚書、陸軍総司令官ブラウヒッチュへの意見具申・・
などが紹介されています。例えば、
「元帥閣下! 小官の柏葉章受勲授与にお祝いの言葉をいただいたことに
謹んで感謝申し上げます。元帥閣下の眼の前で受勲したことは、
小官にとって格別の栄誉であります。
遺憾ながら、最近数日の膠着状態も・・」

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それから戦況図が30ページ、写真が6ページと続いた後、
1958年にドイツの軍事専門誌「国防知識」にホトが寄稿した論文が始まります。
最初は「ヤーコプセン博士『黄号作戦』への書評と題した論文が2つ。
解説が無いのでそのまま読み進めると、ど~もこの博士は新進気鋭の軍事研究者で、
1940年の西方電撃戦の著作において、マンシュタインが発案した作戦は、ヒトラーも
同様の考えを有しており、OKHとハルダーによって見事なものとして完成した・・と
解釈しているようです。

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ソレに対してホトが噛みついているというもので、簡単に要約すると、

1940年の冬には「シュリーフェン・プラン」の焼き直ししか出来ない参謀本部に苛立って
A軍集団参謀長の天才マンシュタインが完璧に仕上げたんじゃ!
そして何度意見具申してもハルダーは握りつぶした挙句、1軍団長に左遷、
マンシュタイン・プランを聞いたヒトラーが、さも自分のアイデアのように
策定指示を出すと、慌ててゴミ箱から拾い上げ、「コレでいかがでしょう。総統閣下」と
そのままやっただけじゃ。
一大作戦計画の策定という高尚な問題に若造のトーシロが首を突っ込むんじゃない!
我らがマンシュタインを舐めとんのか? ボケっ!

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ちょっと要約し過ぎた感はありますが、具体的なホトのマンシュタイン評は、
「マンシュタインのごとき我の強い人物が、最終要求を行う際に、
おとなしく引っ込んだりしないしないことは確実であろう」
コレは褒め言葉ですね。。
ちなみにマンシュタインによるホト評は、彼の回想録にタップリと。

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で、このホトのクレームに対して、ヤーコプセン博士も反論。さらにホトも・・と
熱いバトルが展開します。

「戦史の実例にみる、戦隊としての運用された装甲師団の戦闘」と題され、
3つの実例を挙げた論文も非常に興味深いものです。

1939年のポーランド戦は第4装甲師団の戦闘について詳細に記述。
相変わらず「第4装甲師団は・・」とありますが、おそらくラインハルトでしょうね。

翌年のフランス戦役では、ハッキリとロンメルの第7装甲師団と明記。
そして師団長ロンメル少将に直卒された弱体な「尖兵部隊」が川を超えるという
独断専行的決定は、ほとんど一大博打に等しく、第15軍団長はロンメル師団長に
命令を届けることも出来なくなってしまいます。
当然、第15軍団長はホト爺さん。。
「師団長による尖兵部隊の指揮は必要なかった」としつつも、
「ロンメルが突破とアヴェーヌへの進撃に同行したことはまだ正当化し得る」と。

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3つ目の戦闘は「スターリングラード解囲に際しての第6装甲師団の突進」です。
こちらでは師団長自らの指揮ではなく、戦車連隊長の指揮を重視します。
主役の第11戦車連隊長の名は、フォン・ヒューナースドルフ大佐。
おっと、「奮戦!第6戦車師団 スターリングラード包囲環を叩き破れ」を思い出します。
この1942年暮れには、ホト自身「第4装甲軍」司令官として、スターリングラードへ。
ドン軍集団司令官となったマンシュタインと共に、包囲された第6軍救出に挑むのです。

あ~、巻頭に「フォン・ヒューナースドルフ将軍の思い出に。」と書かれてましたねぇ。
彼はホトの第3装甲集団の参謀長~第6装甲師団長として戦死・・ということでした。

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最後は訳者さんによるホトの生い立ちと経歴についての解説が・・。
スターリングラード後、1943年にはクルスクの戦いでも主役を演じたホト。
しかし、ホトの著作は本書のみなんだそうです。残念ですねぇ。
キエフを放棄したことにより、ヒトラーの怒りを買って休職となり、
戦後はニュルンベルク継続裁判の被告となって、15年の禁固刑に。。

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ということで「パンツァー・オペラツィオーネン」、日本語では「装甲部隊の諸作戦」を
楽しみましたが、ブランクが長かったせいか? なかなか苦労しました。。
かなり専門的な内容ですから、全体を理解しながら楽しむには、
少なくともフランス戦~バルバロッサ作戦について書かれた本を
数冊は独破しているくらいの知識が必要でしょう。

それにしても、グデーリアンやロンメル、マンシュタインと出てくると、
必然的に「次は??」という気持ちになってきます。

「戦車に注目せよ グデーリアン著作集」もまだ読んでないし、
「「砂漠の狐」回想録 アフリカ戦線1941~43」も去年の暮れに出ましたし、
「ヒトラーの元帥 マンシュタイン」の上下巻もまだ・・。
しかも最近、「マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より」まで翻訳されましたから
ナニから手を付けるか・・実に悩ましいところです。。











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ラスト・オブ・カンプフグルッペIV [戦記]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

高橋 慶史 著の「ラスト・オブ・カンプフグルッペIV」を読破しました。

前作の「ラスト・オブ・カンプフグルッペⅢ」が出版されたのが2012年。
ということは、小学生でもわかるように3年ぶりの新作です。
ちなみに第1弾は2001年ですから、実に14年続いているシリーズですか。
購入後、すぐに独破してしまうのはもったいないので、3週間ほど熟成させて、
かつ、2週間ほどかけて、全9章をゆっくり楽しみ、さらにもう一度読み直しました。

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第1章からいきなり列車砲・・。「アンツィオ・アニー」です。
1943年9月、イタリアに連合軍が上陸すると、ケッセルリンクは強力な砲兵部隊の派遣を要請。
そこでフランスのパド・カレーで平和に暮らしていた列車砲中隊がアルプスを越えて、
イタリア戦線に派遣され、1944年2月、連合軍が陣取るアンツォ湾施設に
15発の巨弾を送り込むことに。

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2門の列車砲「28㎝ K-5 (E)」は、それぞれ「ロベルト」、「レオポルト」と呼ばれ、
突如として降り注いでくる死の恐怖にGIたちは「アンツィオ・アニー」という綽名をつけるのでした。

このような列車砲の運用も詳しく、キッチンやベッドなど隊員が寝起きしたり、
弾薬を保管するために10℃に保つ空調設備のある特殊貨車が随伴。
1回の砲撃は6発~8発に制限され、敵機の来襲前にササッとトンネルへ退避するのです。
しかし6月には巨弾も尽き、終焉の時を迎え、放置された「アンツィオ・アニー」は、
研究のために米国本土へと運ばれ、アバディーンの兵器博物館から、現在は、
ヴァージニア州フォートリーの軍事施設野外展示場で見ることができるそうな・・。

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第2章は「ディエップで朝食を」と題して、カナダ軍中心のディエップ奇襲の顛末を・・。
まぁ、コレについては「グリーン・ビーチ」を読んでいましたので、だいたいのことはアレですが、
さすがに戦況図に編成図、装備表と写真が掲載してあってわかりやすいですね。

第3章は1945年の2月~3月にかけてのポンメルン防衛戦。
主役となるのは、わずか2ヵ月間だけ存在した戦車師団「ホルシュタイン」です。
いや~、いよいよ「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」らしくなってきました。
東部戦線での壊滅的な事態に対し、第233予備戦車師団を母体にして、
機甲擲弾兵補充旅団「グロースドイッチュラント」、戦車射撃学校「プトロス」、
戦車学校「ベルゲン」、その他、教育突撃砲旅団が集まって、
戦車師団「ホルシュタイン」を編成。。

その戦力はⅣ号戦車が46両、マーダー自走砲が9両とⅢ号突撃砲Ⅳ号駆逐戦車ラングです。
参謀総長グデーリアンによって「冬至(ゾンネンベンデ)作戦」が計画されるも、
肝心のヴァイクセル軍集団司令官がヒムラーでは、戦線の大崩壊は必至の状況で、
次長のヴェンクがヒムラーの代理として派遣されます。
あ~、グデーリアンを出向かえた、ヒムラーの参謀長ラマーディングSS少将も思わず、
「あの司令官をなんとかしていただけませんでしょうか・・?」
て言ってしまったエピソードを思い出しました。


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出来たてほやほやの「ホルシュタイン」を視察しに来たヴェンクは擲弾兵連隊長が輸送途中、
空襲により戦死したことを知ると、同行していた柏葉章拝領者のOKH機甲擲弾兵監察官、
エルンスト・ヴェルマン大佐を当座の指揮官任命。師団長も未着任のため、
そのまま彼が師団長代理として指揮を執ることになるのでした。
ん~。。こういう仕事の出来る人たちの臨機応変さっていうのは、実に気持ちがイイ。

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しかし帰路の途中、三日三晩、不眠不休だったヴェンクは運転を誤り、鉄橋の橋脚に激突。
頭蓋骨と肋骨5本を骨折して静養するハメに・・。

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ソ連の2個軍12万名と対峙するポンメルン防衛線。
兵力不足のドイツ第3戦車軍といえば、SS「シャルルマーニュ」とSS「レットラント第1」という、
フランス人、ラトヴィア人部隊が中心で、ホルシュタインは予備部隊。
案の定、ソ連軍に粉砕されて、その後、フォン・テッタウ中将指揮の「テッタウ作戦軍団」として、
ホルシュタインはSS義勇兵の残余と共に再編され、退却戦へと進むのです。
途中、ヴォルフガング・パウルの名著「最終戦」から引用するなど、
この戦役部分だけ引っ張り出して、再読したくなりました。

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次の章も興味深い「SS第14/15コサック騎兵軍団」です。
まずは最初に投降したコサック部隊として1941年のバルバロッサにギブアップをし、
スターリン体制と戦うことを宣言するイヴァン・コノノフ率いるソ連の軽歩兵連隊を取り上げます。
投降した赤軍兵士から成る義勇兵部隊の編制がヒトラーに許可されて、
第600コサック大隊と命名され、コノノフ自身も晴れてドイツ陸軍中佐に昇進するのでした。

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このようなコサック部隊があちこちに誕生すると、それらを大規模な部隊として運用しようと、
元SA指導者で騎士十字章を持つ、ヘルムート・フォン・パンヴィッツに白羽の矢が立つことに。
参謀本部のシュタウフェンベルク少佐の働きかけがあったと書かれていますが、
あの「幻影 -ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語-」にあったエピソードですね。

そして1943年4月、ついに「第1コサック師団」が誕生しますが、旅団長や連隊長といった
ドイツ人将校は馬術技能に秀でていないと、部下のコサックたちに舐められてしまいますから、
フォン・なにがし・・といった名前を持つ、騎兵部隊の親分肌のベテランが集められるのです。

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1944年になると2個師団から成る「コサック軍団」を編成しようとするパンヴィッツ。
しかしこの時期、すでに陸軍にはコサック部隊なんぞに物資を提供する力はなく、
ヒムラーのとの会談の結果、「SSコサック軍団」となり、パンヴィッツ自身もSS中将に・・。

かと言っても武装SSの制服は着用せず、終始コサック風だったそうですが、
最終的にはウラソフのロシア解放軍も登場し、「遠すぎた家路」にも書かれていたような
悲惨な運命が彼らを待っているのでした。

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第5章はあの最弱と呼ばれる「空軍地上師団ついに逃げ勝つ」と題して、
1944年、ギリシャに駐留していた第11空軍地上師団がルーマニアの寝返りや
ブルガリアの枢軸からの離脱といったバルカン方面の危機に直面し、
プリンツ・オイゲンハントシャールといったSS義勇兵部隊と協力しつつ、
一大パルチザン帝国であるユーゴスラヴィアを突破し、
オーストリアを目指してひたすら撤退する・・という切ないお話。。

ラスカン①」では、マーケット・ガーデン作戦に対する寄せ集め戦闘団の戦いを、
ラスカン③」では、ワルシャワ蜂起に対する寄せ集め戦闘団の戦いを、
そして本書では3つめの寄せ集め戦闘団の戦い、「スロヴァキア蜂起」の登場です。

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1944年8月はワルシャワ蜂起パリ陥落、ルーマニアの脱落・・という状況で、
ソ連軍はスロヴァキア国境の手前カルパチャ山脈にまで進出中・・。
国境をソ連と接しておらず、フィンランドやルーマニアのように歴史的領土問題もないこの国では、
すでに厭戦気分が広がっており、東部、中部、西部に配置されたスロヴァキア軍が蜂起し、
同じスラヴ民族であるソ連軍を手引きしようということに・・。

しかし機甲連隊を有する最強の東部軍は、カルパチャ山脈持久戦を展開していた
ハイリーチ軍集団による「ジャガイモ刈り作戦」であっさりと武装解除。。
8月31日、ドイツ軍はSS本部長ゴットロープ・ベルガーをスロヴァキア防衛軍の責任者に任命し、
近郊のSS工兵学校や武装SS後方治安部隊、陸軍補充部隊を必死にかき集めます。

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兵力2200名のSS戦闘団「シル」や、中古Ⅳ号戦車15両だけの戦車師団「タトラ」、
SS第18義勇機甲擲弾兵師団 ホルスト・ヴェッセルの分遣隊であるSS戦闘団「シェーファー」
再編中の第14SS武装擲弾兵師団 ガリツィーエン中心の戦闘団といった、
数々の寄せ集め戦闘団が誕生。。いや~、こりゃ、かなりヤヤコシイ。。

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Ⅳ号戦車2両で攻撃を開始した戦車師団「タトラ」ですが、蜂起軍側のマーダーⅢによって撃破。
同胞だったスロヴァキア軍はシュコダ製戦車だけでなく、ドイツ軍から提供されていた
ドイツ軍兵器で善戦するのでした。

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9月22日、蜂起軍鎮圧作戦がスローペースなのに業を煮やしたヒムラーによって
ベルガーは解任されてしまい、ヘルマン・ヘーフレSS大将が後任になると、
SS部隊の増援による総攻撃を決意し、ホルスト・ヴェッセルとガリツィーエンの全部隊に加え、
あのワルシャワ蜂起鎮圧で疲れて編制中の、SS特別連隊「ディルレヴァンガー」も投入。
しかし北方線区で第1スターリン・パルチザン旅団の逆襲に遭遇してしまったディルレヴァンガー。
捕虜136名を出す大損害を蒙って撃退され、コレがスロヴァキア蜂起における
ドイツ軍最大の敗北という汚名を着ることに・・。

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そうはいっても兵力に勝るドイツ軍。2週間頑張ればソ連軍が来ると信じて戦った蜂起軍は、
実に2ヵ月に渡って死闘を繰り広げるも、ハインリーチの巧みな防御の前に大損害を出した
ソ連軍は、遂にやって来ることはなかったのでした。。

11月8日にはティソ大統領も出席した祝勝パレードも行われ、本書ではこの時のみならず、
写真、戦況図、編成図などを掲載しているものの、正直言って、難しいなぁ。。
2回読み返したのに、まだモヤモヤしているほどです。寄せ集め戦闘団、恐るべし・・。

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次の章も「蜂起」。なかなか読めない「プラハ蜂起」です。
1945年3月、ソ連軍がチェコ領内に侵攻するも主力部隊はベルリン攻撃作戦に転用され、
5月1日を迎えた頃、西部のベーメンでも米軍が進撃中という状況。
ポーランドの「国内軍(AK)」と同様に、チェコにも地下抵抗組織「国民防衛(ON)」が存在し、
首都プラハではこのタイミングでドイツ軍を駆逐しようと武装蜂起します。

駐留するドイツ軍部隊は2万名程度で、ヘッツァーを有する部隊があるものの、雑多な小部隊。
ベーメン・メーレン保護領担当相カール・ヘルマン・フランクは、
この僅かな兵力でプラハの防衛と治安維持を行うのは不可能であるとして、
5月3日にヒトラーに後継者に指名されたデーニッツ大統領と会談し、
プラハを病院都市として攻撃対象から外すよう連合軍と折衝することが承認されますが、
米第3軍司令官であるパットンとの接触工作は失敗に終わるのです。
ふ~む。。初めて知ったエピソードだなぁ・・。

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この状況だけでもすでに四つ巴ですが、ここに問題を複雑にする軍団が登場。
ウラソフのロシア解放軍(РОА)です。
中央軍集団シェルナー元帥の命令を無視して戦線から離脱していたロシア解放軍は、
チェコの「国民防衛」から武装蜂起部隊への支援を要請されて、「プラハへ行軍!」
簡単に言うと一度寝返った人たちが、ここに来て、また寝返った・・ということですね。。

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ドイツ人市民を救出したいフランクは、保護領武装SS司令官ピュックラー=ブルクハウスに
緊急出動を依頼し、武装SSの各兵科学校や補充教育部隊の教官、生徒が動員され、
ココにSS緊急動員部隊「ヴァレンシュタイン」が誕生するのでした。

部隊名は、この地の三十年戦争期の英雄「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」から
頂戴したようで、武装SSにはよくあるパターンですね。

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そしてもう一つ、ウィーンで大損害を負った「ダス・ライヒ」の残余、デア・フューラー連隊の
戦闘団を率いるのは剣章拝領者のオットー・ヴァイディンガーSS中佐で、
ベルリン方面への移動命令はフューラーの死によって無効となり、
ピュックラー=ブルクハウスの緊急出動命令を受領して、プラハを目指すのです。
おぉ~、ヴァイディンガーか・・。お久しぶりです。。

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「ヴァレンシュタイン」はいくつかの「戦闘団」となって戦うわけですが、
途中、ジェット戦闘機Me-262が地上掃射したり、SA連隊「フェルトヘルンハレ」と合流するなど、
かなりカオスな展開が繰り広げられた挙句、
ウラソフの部隊はチェコのパルチザンに捕えられてソ連軍に引き渡され、
ヴァイディンガーは1000名を失うも、残った車両にドイツ難民を乗せ、米軍のいる西へ撤退。

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ピュックラー=ブルクハウスは6000名の将兵と共に降伏し、文書に署名した後に自決・・。
この人は第1次大戦で1級鉄十字章を授与された大尉で、戦後はSA少将、
1938年には陸軍大尉となって歩兵師団の作戦参謀を務め、
ヒムラーからの懇願を受けて武装SSに転入し、バッハ=ツェレウスキにも従えて、
SS第15「レットラント第1」師団長を拝命する・・という非常にカオスな人生を送っています。

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ラス前の第8章は「第三帝国最後の戦車師団出撃す!」
1945年4月の西部戦線・・。モーデルのB軍集団32万名が「ルール・ポケット」で包囲
そこでOKWは弱体な第11軍をハルツ山地に集結させて、強力な米3個軍の東進を防ぎつつ、
編制中であるヴェンクの第12軍と連絡して反撃させ、B軍集団の解囲を図る・・という、
まさに夢のような壮大な作戦を立案するのです。

主役となるのは第12軍に配属される予定で編成が進んでいた3個師団です。
再編された第84歩兵師団の他、歩兵師団「アルベルト・レオ・シュラゲーター」は
第1RAD(国家労働奉仕団)歩兵師団であり、7500名のRAD隊員と
壊滅した第299国民擲弾兵師団の残余・・という、これだけで泣けそうです。
シュラゲーターといえば、第26戦闘航空団(JG26)の愛称として知られていますが、
RADだけに、まさかメインとなる武器はシャベルってことはないだろうな・・。

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そしてもう一つの師団が戦車師団「クラウゼヴィッツ」であり、
第3章で壊滅した戦車師団「ホルシュタイン」、
戦車旅団「フェルトヘルンハレ」などが再編された師団です。
一応、ティーガー、パンター、ヤークトパンター、Ⅲ号突撃砲を装備しているものの、
悠長に完全編成の師団として出撃するわけではなく、逐次「戦闘団」として
先に孤立してしまった第11軍の救出に投入されるのです。

この3個師団は「第39戦車軍団」となりますが、軍団長はあのカール・デッカー大将
いや~、これまたお久しぶりです。この人はシュトラハヴィッツとやり合う気の強さがあって、
以前から気になっていた戦車将軍なんですね。

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4月14日、ヴァレ少佐率いる突撃砲20両による英軍への夜間攻撃。
そして明け方、チャーチル歩兵戦車の2個戦車中隊が近づいて来たのを確認すると、
歴戦の叩き上げフリードリヒ・アンディング少尉とシュティッツレ伍長の3人は、
パンツァーファウストによる攻撃に打って出るのです。
ヴァレ少佐は7両、アンディング少尉は6両と、次々に仕留めるまさに戦車猟兵の鑑・・。
本書の帯にも「歩兵3人vs戦車30両!!」と書かれているだけのクライマックスです。

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また、このアンディング少尉はその眼つきと右袖の「戦車撃破章」の数から気になっていた人物。
肉薄攻撃による敵戦車1両撃破で「銀章」、5両で「金章」、彼は3個ずつ付けているわけですね。

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4月20日、「クラウゼヴィッツ」師団長ウンライン中将らとトランプを楽しんだデッカー軍団長。
「明日は死か捕虜か2つの選択肢しかない。しかし米軍は私を捕虜にすることはできない」。
翌日、パンター2両を先頭に、デッカーの乗ったSd Kfz 234/2「プーマ」が続き、
敵歩兵中隊を50㎜砲と機関銃で掃射しながら突っ走ります。
う~ん。。プーマの戦記って初めて読んだ気がしますね。しかもデッカー軍団長が乗車中。。
その軍団長は拳銃自殺を遂げるのですが、まったく男らしい・・。

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結局、クラウゼヴィッツと「第39戦車軍団」のハルツ山地までの無謀な奮戦。
すでに第11軍は存在せず、救うはずのB軍集団も降伏したあと・・。
「戦争論」で有名なクラウゼヴィッツの名を冠し、たった25日で生涯を終えた戦車師団・・
というのも、まったく歴史の皮肉に感じますね。。

最後は「ドイツ海軍 高射砲艦」です。
この高射砲艦やら、防空巡洋艦・・などという名称自体、完全に初耳ですが、
船団護衛艦の防空力を高める必要性を感じた英海軍によって旧式の軽巡洋艦が改装され、
それを見た金満米海軍は防空巡洋艦11隻を建造・・という歴史を解説します。
魚雷発射装置と15㎝カノン砲を撤去して、高射砲、機関砲を設置する・・ということで、
わかりやすく言えば、IV号戦車の車体を用いた対空戦車ヴィルベルヴィントのようなモンですね。

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そしてドイツ海軍には「船団護衛」というテーマは無いにしろ、湾港施設に停泊している艦船を
敵の空襲から守る必要があり、そのためどれだけ低速でも、極端に言えば、
動力機関すらない、曳航式でもOK・・。
こうして鹵獲されていたノルウェー、デンマーク、オランダ等の外国製旧式艦艇7隻が
栄えある「高射砲艦」として生まれ変わるのでした。

このような外国人義勇兵的高射砲艦以外にも、純血アーリア人的高射砲艦も2隻存在します。
それは第1次大戦で活躍したガツィレ級小型巡洋艦、「アルコナ」と、「メデューサ」で、
1940年、動力機関が撤去された曳航式の高射砲艦としてデビュー。
乗員数は将校2名に下士官25名、兵員220名で、105㎜高射砲4門に
40㎜高射砲2門、20㎜機関砲6門を搭載して、ヴィルヘルムスハーフェンの湾港沖で
防空任務に就くのです。
しかし終戦間際に敵爆撃機の攻撃により中破・・、乗員22名が戦死するのでした。

Flakkreuzer Medusa.jpg

と、まぁ、今回も興味深い戦いが数多くありました。
特に「スロヴァキア蜂起」、「プラハ蜂起」、「クラウゼヴィッツ」の3連チャンはかなり濃く、
例えば「プラハ蜂起」で、「ヴィルヘルム・フリック総督が・・」という記述に驚き、
よくよく調べてみると、確かにノイラートの後任のベーメン・メーレン保護領総督でした。
ヤヤコシイですが、ノイラートの穏健な統治がヒトラーから嫌われて事実上のクビになり、
ハイドリヒが副総督としてやって来るも、暗殺されてダリューゲがその後任に・・。
そのダリューゲも心筋梗塞で重体になると、内相の座をヒムラーに奪われて、
暇だったフリックが正式に総督として腰かけでやって来た・・という流れでした。

Obergruppenführer K. H. Frank, Protector of Bohemia and Moravia Wilhelm Frick and army commander of Bohemia and Moravia Ferdinand Schaal.jpg

他にも、最弱の空軍地上師団なんて、脚本次第で戦争コメディ映画にもなりそうな気が・・。

このシリーズを読み終わっていつも困ることは、早く次を読みたいと思ってしまうことです。
果たして第5巻がいつ出るのかはわかりませんが、
それまで、過去の「ラスカン」3冊に、「カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS」、
ドイツ武装SS師団写真史」をちびちび再読して誤魔化そうかと・・。









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クルスクの戦い1943: 独ソ「史上最大の戦車戦」の実相 [戦記]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

デニス・ショウォルター著の「クルスクの戦い1943」を読破しました。

クルスクなんとか・・というタイトルの本は数多くありますが、今回は3月に出た新刊です。
410ページのハードカバーで、米国軍事史学会会長を務めたという著者の本は、
以前に「パットン対ロンメル」を紹介しましたね。
まぁ、あの本も邦題が詐欺みたいなもので、原題は「PATTON AND ROMMEL」。。
今回も原題は「ARMOR AND BLOOD」=「装甲と犠牲」といった感じであり、
クルスク戦に詳しい戦史好きなら、何かこう、グッ・・と来るものがあると思います。

クルスクの戦い1943.jpg

第1章はまず、1943年初頭からの東部戦線を簡単に振り返ります。
スターリングラードハリコフと続いた激戦であり、そこには必ずマンシュタインの姿が・・。
過去に読んできたクルスクものでも大概はこのような出だしに始まるもので、
コレは「クルスク大屈曲部」と呼ばれるイビツな戦線が出来上がってしまった経緯と、
なぜソレがドイツ軍にとって戦略的目標になったのかを理解する必要があるからです。

一方でソ連軍についても充分にページを割き、特に戦車兵についての記述を抜粋しましょう。
「ソ連では戦争中に40万人の戦車兵が養成された。戦闘で30万人以上が死んだ。
この戦死率はナチのUボート乗組員の損害に匹敵する。しかし、その数は10倍多い。
NKVDの敵前逃亡兵銃殺隊が戦車部隊に同行することは滅多になかった。戦車兵は、
どうせ死ぬのなら、なるだけ多くのヒトラー主義者を道連れにしてやろうという決意である」

Soviet Tank Army.jpg

54ページから第2章「準備」です。
ロンメルが精神的にも、肉体的にもぼろぼろだった1943年3月・・。
一度、罷免されていたグデーリアンが装甲兵総監として復活します。
彼は酷使されてきた機械化兵力の再建が必要であり、1943年中の大規模攻勢には大反対。
自走砲、突撃砲、新世代重戦車によって編成された師団を以て、しかる後に東部を叩くべき・・。
しかし東部戦線の第一人者にしてカリスマ的な南方軍集団司令官マンシュタインは、
赤軍の増大しつつある数量と有効性をグデーリアンは無視しすぎていると思っているのです。

Guderian Tiger.jpg

5月4日には「ツィタデレ作戦」の踏ん切りがつかないヒトラーが関係者を集めます。
ヒトラーの意見は第9軍のモーデルと同じく、クルスクの防御陣地と塹壕線を突破するには
さらなる装甲車両が必要なため、それまで延期・・というもので、
マンシュタインはその強化で時間を失うより、突破のための歩兵を2個師団増やすことを要請。
なるほど、セヴァストポリ要塞攻略でも、なんやかんや歩兵が活躍しましたからね。

続いてクルーゲが延期に強く反対し、モーデルはソ連軍戦力を拡張しており、
遅延は自分の中央軍集団正面の危険を高めることになると警告するものの、
ヒトラーに「悲観主義者は君だ」と言われて黙り込んでしまいます。
そしてグデーリアンは臆することなく「ツィタデレは不毛の作戦だ」と発言し、
初期トラブルに見舞われているパンターは当てにすべきではないし・・。

V_Panther.jpg

結局、7月まで延期・・と決定したヒトラー。
各戦区ではツィタデレ作戦の準備が始まり、北部を受け持つ第9軍の内訳も・・。
歩兵4個師団を擁する第20軍団が右翼に、
その隣に屈指の精鋭が揃った4個歩兵師団からなる第46装甲軍団、
重心の攻撃はレーメルゼンの第47装甲軍団が、その隣にハルペの第41装甲軍団。
東端に第23軍団と、33万の兵員、フェルディナンドティーガーを含む600両の戦車に
300両の突撃砲という布陣です。

Joachim Lemelsen_Josef Harpe.jpg

南部はめでたいことに本日、4月12日が誕生日であるヘルマン・ホトの第4装甲軍です。
新品のパンター200両を持つクノーベルスドルフの第48装甲軍団の中核は
これまた精鋭中の精鋭グロースドイッチュランドであり、
ハウサーの第2SS装甲軍団はライプシュタンダルテダス・ライヒトーテンコップ
3個武装SS師団という強力な軍団です。ティーガー42両を含む500両の戦車と突撃砲を保有。
確かに軍団というレベルではこの当時、ドイツ軍最強軍団といっても良さそうですね。
下の写真は ↓ グロースドイッチュランドを見上げて閲兵するホト爺さんです。カワイイなぁ。 

Offiziere der Division Großdeutschland, ganz links von hinten General Walter Hoernlein, vorn Generaloberst Hermann Hoth.jpg

さらにホトの右には9個師団からなるケンプフ軍支隊が布陣。その内の3個は装甲師団であり、
この第3装甲軍団を指揮するのは新人高級将校のヘルマン・ブライト

Werner Kempf  Hermann Breith.jpg

スパイ「ルーシー」や、英国の「ウルトラ」からドイツ軍の情報を得ていたソ連。
最高司令部スタフカの「難問処理係」であるジューコフは、スターリンを説得します。
ハリコフの再現を招かぬよう塹壕を掘り、守りを固め、装甲部隊は直接作戦地域の外に配置、
ドイツ軍を、ドイツ軍戦車を消耗させ、しかる後に本格的な反撃に転じるべきである」。

しかしスターリンはドイツとの単独講和の可能性を真剣に考えていた証拠があるとします。
ドイツには不可能なほどの兵力補給能力ですら、その人的、物的資源は無限ではありません。
スウェーデンで始まった外交官同士の間接的な接触はこの年いっぱい続き、
たとえ単独講和が一時的なものであっても、ソ連に回復の時間を与え、
西側連合軍が約束している第2戦線が築かれない現状では、戦闘停止をリークすることで、
英米の作戦ペースを速めることができるかもしれない。
そしてドイツと西側連合軍が戦争を続けても、高みの見物中のソ連には利益しかないのです。

stalin01.jpg

4月半ばから始まった要塞化には250個の工兵中隊、ほとんどが女性の30万人以上の民間人
駆り出されて、6月まで続き、320㌔に近い幅は戦争史上未曾有の規模であって、
今後もコレを超えるものは恐らく現れないだろう・・としています。
そしてこの防御地帯では100万の兵力を吸収し、2万門の火砲、3300両の戦車、
カチューシャ・ロケット300基、64万個の地雷が待ち構えているのでした。

The Russians had got wind of the Germans' plan of removing the bulge on the front and foresaw the Battle of Kursk and hence were well prepared.jpg

まぁ、凄そうなことはわかりますが、すべての規模が大きすぎて、逆に伝わってきませんね。。
ついでにスターリンはスタフカの代表として、ロコソフスキーの中央方面軍にジューコフを
バトゥーチンのヴォロネジ方面軍に参謀総長のワシレフスキーを送り込むのでした。

Zhukov Vasilevsky.jpg

102ページから第3章の「打撃」。7月5日、独ソの大兵力が遂にど突き合いを始めます。
まずはモーデルの北部戦区の状況が語られますが、あまりに細かいので割愛・・。
その代わり、この初期段階における著者のモーデル評を紹介しましょう。

「彼は意志の力で第9軍を前進させようとして過ごした。
空襲から身をかわして麾下各司令部を回り、午後は第2装甲師団と話しを付けるために使った。
モーデルは大隊の指揮官をしていた方が良かったかも知れない。
この状況が必要としていたのは戦闘の管理者であって、戦闘現場の大尉ではなかった。
干渉より管理が必要であり、司令官が戦線を回っている間に、
束の間の好機は進展させられずに消えた」。

なかなか手厳しい批評ですが、著者はこのように前提条件を表明しています。
「後から考察し、後知恵で批判するのが、軍事史の常套手段である」。

Model.jpg

細かい戦記に負けずに細かく読んだヴィトゲンシュタインは、ちょっとした間違いにも・・。
第9軍に配属されたティーガーを保有する「第505戦車大隊(第505重戦車大隊)」が一ヶ所だけ、
「第505装甲師団」という部隊名で出てきます。
この重戦車大隊で言うと、南部のケンプフ軍支隊に配属された「第503重戦車大隊」は、
「第503装甲大隊」で統一されていました。誤訳か原著の表記の問題かは不明なり・・。
間違い探しのお好きな方は、その他の部隊についても頑張ってみてください。

Tiger Is of the 503rd near Belgorod, Russia, August 1943.jpg

続いてその南部戦区の激闘の様子。
しかしここまで登場する独ソ双方の軍人は、基本的に軍団長までです。
これは軍集団、軍、軍団、師団、連隊という単位からすれば妥当だとも言えるでしょう。
師団長までわさわさ登場して来たら収拾がつかなくなる気もする一方で、
戦闘が細かく記述されるライプシュタンダルテや、グロースドイッチュランドの師団長名くらい
書かれていても良いんじゃないか・・とも思いました。
例外的にはグロースドイッチュランドの戦車指揮官、伯爵シュトラハヴィッツ・・。
さすが「戦車伯爵」の貫録ですね。

Strachwitz colour.jpg

ハウサーの第2SS装甲軍団の成り立ち、武装SSの3個師団の概要は以下のとおりです。
「SS流は向こう見ずのエネルギーと無慈悲であり、不屈の積極果敢であり、
速度と獰猛性重視していた。SSの訓練は身体的頑丈さに重点を置き、
軍の訓練を遥かに上回るほどの危険を組み込んでいた。
バルバロッサまではその実力を発揮できず、スターリングラード後まで2軍的存在だった。
クルスクで初めて東部戦線の戦闘に決定的役割を果たし始めたのである」。

hausser3.jpg

そんな武装SSの兵士たちは塹壕戦、掩蔽壕一つ一つを白兵戦で奪取していきます。
ダス・ライヒの火炎放射手はこのように語ります。
「炎が前に押し広がり、ロシアの防御兵たちを包み込むのを見るのは怖かった」。
また別の退役軍人が著者に語ったこと。
「あの時以来、自分はローストビーフの臭いに堪えられなくなった」。

Flammenwerfer.jpg

この戦いは地上戦だけでなく、激しい航空戦も繰り広げられています。
赤色空軍はタフな地上攻撃機 Il-2「シュトゥルモヴィーク」でドイツ軍前線を脅かし、
片やドイツ空軍はシュトゥーカ急降下爆撃機とHs-129bがソ連軍戦車を狙い撃ちにするのです。
そして護衛の戦闘機同士、YakとMe-109の空中戦へ・・。

battle_kursk_Stuka.jpg

ここまで半分ほど、第4章「取っ組み合い」まで読んで思いましたが、
朝日ソノラマの「クルスク大戦車戦」と展開的には同じですね。
ただし、こちらの方がボリュームがあるというか、より細かく、マニア向けのように感じます。
ちなみに戦況図は必要な箇所に11枚、
写真は巻頭に以前に紹介したマンシュタインとホトが協議する写真など14枚です。

いよいよ第6章「激闘」。通ならお分かりのようにプロホロフカへと進んでいきます。
状況を検討するためホトとケンプフに会ったマンシュタインはこう言います。
「ツィタデレは断片化しつつある。北部戦区で第9軍が行き詰っているとしたら、
そして南部戦区でも敵兵力の急速な増大があるとしたら、
南方軍集団の攻撃も中止すべき時ではないか?」

ホトは攻撃の続行を勧めますが、今はクルスクに手が届かないのだというマンシュタインの
本音を察したので、もっと限定された目標を示唆します。
しかしケンプフがそれほど楽観的ではないと知るや、ホトはケンプフを悲観論者呼ばわり・・。

hausser_Hoth.jpg

いや~面白くなってまいりました。
個人的には前線司令部の、司令官たちの生々しい討議、毒々しい議論が好きです。。
マンシュタインは回想録で自分より年長であるホトについて、好意的に語っていましたが、
本書で紹介される2人の関係性と作戦指導における切り分けは、
南部戦区全体の戦略を決めるのは当然、軍集団司令官たるマンシュタインで、
具体的な戦術、作戦を決めるのが軍集団の中核である第4装甲軍のホト。
そしてそのホトの提示した作戦案をほぼほぼマンシュタインは了解しています。
またケンプフ軍支隊の直接的な協力も不可欠であり、
その関係を維持するのにマンシュタインの存在が重要です。

そんなケンプフ軍支隊の重要なブライトの第3装甲軍団による夜間作戦が始まります。
ティーガーも含む戦車2個中隊の戦闘団を率いるのは、最強の歯科医ベーケ少佐です。
しかしこの夜間に重要なのは先頭を行く鹵獲したT-34戦車2両であり、
途中で出会ったソ連軍の隊列もドイツ軍とは気づかずに、気前よく場所を開けるのでした。

Franz Bäke.jpg

またこの軍団の中核には、あの第6装甲師団がいて、師団長のヒューナースドルフが登場。
しかしその司令部が味方He-111の誤爆に見舞われて、50名が死亡か負傷・・。
そのなかには師団長も含まれるのでした。

v_Hünersdorff.jpg

このあたりになると戦闘が局地化しているせいか、最前線の隊長クラスの名が出てきますね。
ソ連側では、体形が男子より小さいことから、T-34の窮屈な操縦室に楽に収まることの出来た
という女性戦車兵も。
とりわけ車長/砲手としてティーガー3両撃破したというアレクサンドラ・サムセンコ大尉を紹介し、
彼女がソ連軍で唯一の女性戦車副大隊長になったものの、
ベルリン攻撃の途中で戦死という経歴が・・。

Aleksandra Samusenko.jpg

こうして7月12日の朝を迎え、「目にしたものに私は言葉を失った・・。
現れた戦車群は15両、30両、40両と次第に数を増し、我々に向かって高速で突進してきた」
と回想するのは、ライプシュタンダルテの戦車中隊長、ルドルフ・フォン・リッベントロップです。
7両のⅣ号戦車が互いに援護しながら、90m以下の射程で敵戦車の側面を狙います。

PzKpfw IV LSSAH, operacja Zitadelle.jpg

第2SS装甲軍団長ハウサーは、この脅威に対して航空支援を要請。
そしてコレに応えて、敵戦車12両撃破するのは、「ソ連人民最大の敵」こと、ルーデルです。
リッベントロップ自身も14両を撃破し、生き残ったもう1両も7両撃破・・。

rudolf_von_ribbentrop.jpg

しかし直後にソ連軍戦車の攻撃力が落ちたのは、彼らの頑張りだけが理由ではなく、
もともとティーガーのために掘られていた深さ4.5mの戦車壕に
自ら突っ込んでいったからなのでした・・。

別の場所では100両のソ連戦車が殺到。
ここでドイツ外相の御子息を上回るヒーローとなるのは伝説のティーガー乗り、ヴィットマンです。

battle_kursk_0138.jpg

またソ連戦車兵の偉大な逸話として「クルスク大戦車戦」のクライマックスでも描かれていた、
炎上したT-34に操縦手が再度乗り込み、ティーガーに突進して双方大爆発・・というヤツですが、
ドイツ軍側の話によると、「炎が両方の戦車を包んだとき、ティーガーは突然後退した。
5m先でT-34が爆発した。車体の損害は塗装に少しひっかき傷がついた程度だった」

kursk_1943.jpg

歴戦のライプシュタンダルテは戦車兵だけでなく、擲弾兵も踏ん張ってます。
そのまま引用しましょう。
「ソ連軍がライプシュタンダルテの装甲擲弾兵大隊本部を制圧した。
その大隊長で、後に悪名を高めたヨッヘン・パイパーは自ら手榴弾の束でT-34を仕留めた。
これは武装SS内でも、先任将校が通常やるような任務ではなかった」。
他にも第170戦車旅団との白兵戦では、「その旅団長はあるSS将校との格闘で殺された」と。

peiper kursk.jpg

隣りの戦区ではダス・ライヒが激戦中・・。
鹵獲したT-34による即席中隊を効果的に利用し、内側から学んだT-34の脆弱点・・、
側面と外部燃料タンクを標的にして、50両すべての戦車を短時間で炎上させるのでした。
もう一つの武装SS師団トーテンコップも疲労困憊です。

das_reich T34.jpg

こうしてプロホロフカを巡る戦車戦はSS軍団が手詰まりに追い込まれたことで終わりを告げ、
オリジナルのソ連版神話では、「独ソあわせて1500両以上の戦車が
幅5㌔の土俵でがっぷり組み合い、一日の終わりにはティーガー70両を含む
400両のドイツ軍戦車があちこちに散在していた。
ソ連側の損害もおおよそ同等・・」と語られます。

しかしドイツ軍側の資料では、ライプシュタンダルテとダス・ライヒがこの日に利用できたAFVは
合わせて200両に過ぎず、全損はわずかに1両・・。
他方、ソ連軍装甲車両300両が撃破されているとしています。

kursk_360.jpg

この後は翌日に始まったモーデル軍に対するソ連の攻勢「クトゥーゾフ作戦」が詳細に書かれ、
ヒトラーから呼び出された両軍集団司令官と、そこで休養していたロンメルとの対話。
クルーゲはオリョール危機が解決してももはやツィタデレ終わった・・と考えているのに対して、
マンシュタインは、この1週間でソ連戦車1800両を撃破しており、
もし第9軍が前線を維持できるならば、そしてOKWの予備である第24装甲軍団を
ケンプフ軍支隊に派遣できるならば、自分の戦区でソ連軍を撃破できると進言します。

しかしムッソリーニが逮捕されたことで、ライプシュタンダルテはイタリア派遣となり、
グロースドイッチュランドはすぐに第一線から引揚げられて、苦戦中の中央軍集団へ・・。

battle_kursk.jpg

最後の「結び」の章では、クルスク戦全体を総括します。
ソ連側は「2800両のAFVを破壊した」と主張しているものの、
ドイツの公文書の数字では「約250両」であり、ティーガーも10両に過ぎません。
また、ソ連側の自軍の損害は「1600両~2000両」となっていて、
両軍の損害比は「8対1」となるとしています。
ドイツ軍の整備班も負けず劣らず働いてますからねぇ。

2 Famo Heavy Half-tracks recovering a broken down but servicable Tiger I..jpg

人的損害になると、ドイツ軍の死者、負傷者、行方不明者が5万4000人。
ソ連側は32万人を超えているそうです。ティーガーは「戦闘の達人」であり、
悪口を言われることの多いフェルディナンドも第9軍戦区で「あっぱれ忠勤を励んだ」と、
ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集」と同じ評価ですね。

opération Zitadelle_Ferdinand.jpg

それでも最大の激戦地プロホロフカで武装SSが戦術的勝利を収め、
ここがティーガーの墓場ではなく、T-34のガラクタ置き場になったにしても、
ソ連軍は持ちこたえ、ドイツ軍は膝を屈したのだと・・。
ソ連の物量、そして北部、続いて起こった南部戦区に対するソ連の攻勢に
ドイツ軍は撤退を続けていくことになるのです。

Soviet soldiers train to attack tanks from the ambush before the Kursk battle..jpg

410ページの本書は、後半71ページが人名、地名、部隊索引と原注になっています。
この原注の参考文献ですが、邦訳されていない書籍でも著者とタイトルを和名で記してあり、
珍しいというか、有難いというか、邦訳して欲しい気持ちが強くなって逆にイラつく・・というか。。

本書のクルスク戦記としての特徴を一言でいうなら「意図」です。
ドイツの軍司令官が、またはソ連の方面軍司令官各々が、どのような意図をもって
攻撃し、或いは防御し、予備部隊を繰り出したのか・・。
そしてその各々の「意図」は、実際にはどのように展開し、日々どのような終息を迎えたのか。
1日はこのように進み、翌日はまた新たな「意図」をもって、戦線が開かれるというわけです。

tiger_col.jpg

率直に、戦況図が載っているとはいえ、クルスク・デビュー戦の方が読む本ではありません。
人名、地名、部隊索引だけで13ページもあるわけですから、
ある程度のことを知っている戦史マニア向けの一冊と言えるでしょう。
今回は時間的にできませんでしたが、もし再読する際には、
大型写真集の2冊、「クルスクの戦い -戦場写真集 南部戦区1943年7月-」、
続・クルスクの戦い -戦場写真集北部戦区1943年7月-」と突合しながら
ジックリと読んでみたいですね。







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西方電撃戦: フランス侵攻1940 [戦記]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジャン・ポール・パリュ著の「西方電撃戦: フランス侵攻1940 」をようやく読破しました。

去年の3月に出た615ページの大判の大作。
定価12600円でビビッてましたが、一年考えて読むしかないと諦めました。。
著者は「バルジの戦い」の方で、当時と現在(Then and Now)の写真を比較したシリーズです。
それにしても重い!
「バルジの戦い」は上下巻でしたが、2冊あわせても542ページです。
それでも今年のGWで丸5年が過ぎ、遂に6年目に突入した独破戦線は立ち向かうのです。

西方電撃戦.jpg

5章から成る本書。まずは「戦火ふたたび」です。
第1次大戦後から、1930年代のドイツとフランスを中心とした政治、軍備が語られ、
1940年5月時点でのフランス軍の軽機械化師団、装甲師団の各々3個が
戦車を160両ずつを装備していたことなどを多数の写真とともに解説。
1939年に第5軍の戦車部隊を指揮していたドゴールとルブラン大統領の写真も・・。

Albert Lebrun_De Gaulle commanded the 4th DCR during the battles.jpg

続いて15ページとタップリ紹介されるのは「マジノ線」。
フランス北東部の国境線全域1500㌔に渡ってそびえたっていた有名な要塞線ですが、
実際のところ、あっさりとドイツ軍に迂回されて、役立たず・・という印象がありますね。
しかし本書に書かれ、また掲載されている強力な防御が施された要塞やトーチカ砲台を知ると、
逆にドイツ軍がコレを避けざるを得なかったことが理解できます。
後にドイツ軍が大西洋防壁として建設した屈強なトーチカ砲台を思わせるものもあれば、
「マジックマッシュルーム」と綽名された小型の砲塔も、現在も残っているようで、
コンクリートの基部に格納されている写真に・・、

la-ligne-maginot-fort-de-schoenenbourg.jpg

怒らせて75㎜榴弾砲や、135㎜迫撃砲で攻撃しようという姿・・。
ほとんど「キノコのゆるキャラ」のような姿ですが、実に手強そうです。
他にも1950年代の宇宙人のような顔をした砲塔もあったり、なかなか勉強になりました。

Maginot.jpg

ドイツに宣戦布告して、「奇妙な戦争」を続けている仏英からしてみれば、
ドイツ軍が西方に攻め込む場合、マジノ線を迂回して中立国であるベルギーに向かうしかない、
と考え、「ディール計画」を策定します。
ベルギーの陸軍総司令官でもある若き国王、レオポルド3世はすでに動員を開始し、
16師団を配置に付けますが、ヒトラーに「中立違反」の口実を与えないように、
動員した部隊の2/3はフランス国境配置するという気の使いよう・・。
そしていざドイツ軍に攻め込まれれば、ベルギー軍が足止めしている間に、
仏英連合軍の快速部隊が駆けつける・・というのがディール計画です。

Léopold III, roi de Belgique 1940.jpg

ソミュアS35オチキスH35、H39ルノーB1bisといったフランス戦車の写真に、
英国欧州遠征軍(BEF)のユニバーサル・キャリア。
もちろんフランス軍最高司令官のガムランと、BEFのトップであるゴート卿の2ショットも。
BEFはフランス軍北東戦域司令官、ジョルジュ将軍の指揮下に入るものの、
想定外の事態やBEFに危機が迫った場合には、ロンドンの指示が優先されます。
いや~、すでに一枚岩ではない雰囲気がプンプンしますね。

Gort_Gamelin.jpg

一方のドイツ軍の戦略については、当初のシュリーフェン・プランの焼き直し案から、
マンシュタイン・プランへと変更されたものの、この変更を承服できない将軍たちのバトル。
ブッシュは「貴官がどこでムーズ川を渡ろうが知ったことではない!」とグデーリアンに吐き捨て、
フォン・ボックは「無防備な側面をさらしたまま300㎞も前進して、
海岸に辿り着こうとしているのか!」と、ハルダーに不満をぶつけるのです。
そんなドイツ軍の第1戦車師団~第10戦車師団までの編制内容も一覧表で紹介され、
主力の35(t)38(t)、そしてⅢ号戦車の写真も登場してきます。
ちなみに本書ではドイツ軍は「戦車師団」、フランス軍は「装甲師団」、英国軍は「機甲師団」
という表記で統一。

19400515_Noordereiland_PzKpfw_III.jpg

当然、フランス軍、BEFの戦闘序列と各種戦車の写真も掲載され、
特にBEF機甲騎兵連隊が28両保有していた、Mk.VI軽戦車に挨拶する
馬車に乗ったじいさんが良い味出してますね。

Light Tank Mk VI.jpg

ベルギー軍はルノーACG-1戦車の他、T-13軽戦車、T-15軽戦車を保有。

T13.jpg

オランダ軍の機甲戦力はスウェーデン製装甲車ですが、
1940年5月になって1ダースほどの国産DAF M39装甲車の配備が始まります。

DAF M39.jpg

各国の航空戦力にまで触れた後、第2章「作戦名:黄色」へ・・。
オランダの橋を確保するべく作戦に挑む特殊部隊ブランデンブルクの珍しい写真に、
ベルギーの「エーベン・エメール要塞」は突撃班ごとに詳細に、10ページ書かれています。

Belgian soldiers surrender to German paratroopers after the Battle of Fort Eben-Emael.jpg

連合軍は予定通り「ディール計画」を発動し、ベルギーに進軍。
市民は「ベルギー万歳! フランス軍に栄光あれ!」と大歓声で迎えますが、
ご存知のように、彼らはドイツ軍の罠に向かって進んでいるのです。
このあたりから、写真は「Then and Now」形式が多くなり、
当時の写真2~3枚に1枚は著者が苦労して探し当てた現在の写真です。
ヨーロッパの街並みはやっぱりあんまり変わらないんですねぇ。

107ページから153ページまでは「オランダを巡る戦い」が集約されています。
ドイツ軍の責任者はB軍集団第18軍司令官のフォン・キュヒラー
しかし主に空挺作戦であり、写真も空挺部隊が中心で、
オランダ人の写真家が自宅から写した第2降下猟兵連隊の降下作戦の様子。

1940_Duitse_parachutisten_Rdam_Delft.jpg

ロッテルダム攻略では空挺将軍シュトゥーデントの計画によって、
3機のJu52がフェイエーノルト・スタジアムへ降下突撃兵を送り込みます。
は~、初めて知った話ですが、サッカー場は良い降下目標になるんでしょうね。

de kuip.jpg

ロッテルダム防衛隊指令のスキャルロー大佐に降伏の最後通牒を発する3人の軍使。
こういう写真でもキャプションには所属と氏名までがハッキリと書かれていて、
第9戦車師団の大尉、通訳の中尉、宣伝中隊の大尉の組み合わせです。

19400514_RHoerst_FPlutzar_Pessendorfer.jpg

「まったく不必要であった」と書かれているロッテルダム空襲については、
ドイツ軍側の連絡網と通信状況の悪さに加え、
オランダ軍が降伏の決定を引き延ばしたことも間接的に影響しているとしています。
そしてこの空襲にショックを受け、降伏文書に調印したスキャルロー大佐・・。

19400514_Kolonel Scharroo (met sigaret).jpg

ちょうど今年の1月にDVDが発売された「ロッテルダム・ブリッツ ~ナチス電撃空爆作戦~ 」
という映画も観てみたくなりますね。



続いては「ドイツ第6軍のベルギー侵攻」。
可能な限り長く、これこそが主攻勢だと信じさせることが目的であり、
ドイツ第6軍といえば、パウルスのスターリングラードを連想しますが、
この時点でのB軍集団第6軍司令官はライヒェナウです。
そして、次の「ムーズ川のドイツ第4軍」がまさに主攻勢。
ルントシュテットのA軍集団隷下となり、司令官はクルーゲ
気になったのは、このようなドイツ軍全体の序列が書かれていないので、
文章を読んで、やっと思い出すことも・・。戦況図が度々あるのが救いです。

wehrmacht_ardennes_1940.jpg

ドイツ国境にほど近いベルギーの都市、サン・ヴィト(ザンクト・フィート)では、
第5戦車師団のⅢ号戦車をハーケンクロイツの旗が迎えます。
もともとドイツ領だったこともあるようですが、、同じベルギーでも市民の反応が違いますね。
そして徐々に第7戦車師団の記述と写真が増えてきますが、理由は簡単。
師団長のロンメルが詳細な戦闘日誌を残していることと、本人が大のカメラ好きだからです。

shock.jpg

自らもオールを手にして、楽しそうにムーズ川を渡るロンメルの姿。
ロンメル自身が撮影した写真も数枚出てきました。
その日誌もかなり引用しながら、ムーズ渡河が進みますが、著者は曰く、
「描写は劇的であるが一面で、自身の活躍を常に話の中心に置こうとするロンメル・・」。

第4軍のお隣は、リストの第12軍です。
というより、クライスト装甲集団と、グデーリアンの装甲軍団と言った方がわかりやすいですね。
ここでグデーリアンの有名な写真が出てきました。
本書によると、架橋工事の進捗を渡河点から確認している図だそうです。

Heinz_Guderian.jpg

239ページからは第3章「突破」。
アルデンヌを抜けてきたロンメルやグデーリアンの攻撃によって、
遂にドイツ軍の戦略意図を悟ったフランス軍。
レイノー首相は「いまやパリへの道は開け放たれたままであり、戦争に敗れた」と、
チャーチル訴えます。
それでもロンメルの前にはフランス軍の誇る重戦車が立ちはだかるのです。
下の写真は機械トラブルで遺棄されたB1bis戦車をドイツ兵がどかそうと試みた結果、
家屋を損傷させてしまった図だそうです。
「あらら、アンタたち、何してくれてんのよ」というオーラを放つおばちゃん。。

A french  Char B1  tank of the 37th battalion with the designation  Bearn II .jpg

クライスト集団に突破されたフランス第9軍は、司令官をアンリ・ジロー将軍に交代。
しかし5月19日、ジロー将軍も捕虜となり、実質的に消滅する第9軍。
その一方、停止命令に激怒して辞任を申し出たグデーリアンをなだめるリスト
再編成と補給により停止していることに我慢ならないロンメルも
軍団長のヘルマン・ホトに夜間攻撃を訴えます。

Rommel_hoth 1940.jpg

やられっぱなしのフランス軍ですが、ドゴール大佐の第4装甲師団が反撃を開始。
R35、S35、B1bis戦車以外にも、ルノーD2戦車を含めた戦車は155両。
20㎜高射機関砲しかないグデーリアンの司令部に、ほんの数㌔の所まで迫ります。
しかしS35とB1bisが同士討ちしたり、空からのシュトゥーカ攻撃に遭って撤退・・。

Renault D2.jpg

ゴート卿のBEFも反撃に出ます。
いわゆる「アラスの戦い」で、ロンメルの第7戦車師団とSSトーテンコップは一時、退却。
「SS兵は慌てふためいて戦場を放棄したが、ロンメルの部隊も同様だった」として、
ドイツ軍の損害は、戦車20両に、多数の装甲車が撃破され、
死者300名、捕虜400名としています。

WW2-Battle of Arras.jpg

こうしてA軍集団のホト、クライストの戦車部隊に「停止命令」が出されますが、
著者はこの有名な「総統命令」について、
「ルントシュテットが下した決定に、ただ同意を与えたに過ぎない」とします。
そしてそのルントシュテットの決定とは、
「近い将来の<赤作戦>に備えて、疲弊した戦車部隊を温存し、休養を取らせる」。

adolf hitler gerd von rundstedt mercedes-benz.jpg

その頃、圧迫され続けていたベルギーのレオポルド国王は降伏に傾きつつあります。
5月28日、ドイツ側代表のライヒェナウとの間で休戦条約を調印。
ピエロ首相はラジオで「ベルギー国民の皆さん」と語りかけます。
「政府と議会を無視して、国王は独自の外交交渉を始め、敵と和平を結んでしまいました。
あきれ返るばかりの愚行にベルギーは直面しましたが・・」
う~ん。レオポルド3世はやっぱり興味深いなぁ。もっと詳しく知りたい人物です。

各国の戦車や装甲車を撃破しながら進むドイツ軍ですから、
当然、使用可能な鹵獲車両は放ってはおきません。
SSトーテンコップはソミュアS35戦車に、しっかりと髑髏マークを書き込みます。
あ~、シュピールベルガーの「捕獲戦車」、欲しい。。

Somua S-35 of the SS-Totenkopf division.jpg

そんなトーテンコップによって行われたロイヤル・ノフォーク連隊の虐殺事件
戦時条約で禁止されていた「ダムダム弾」を使用していないか取り調べるために、
農場のレンガ造りの建物の前に並ばされた英国兵99名は、
中隊長クネヒラインの号令のもと、機関銃で掃射されてしまいます。
鮮明ではないですが、その現場を通りかかったドイツ兵が撮ったといわれる写真も・・。

The Le Paradis Massacre.jpg

リールで包囲されたフランス部隊は激戦の末、降伏。
ドイツ第27軍団のアルフレート・ヴェーガー将軍は、この包囲戦の勝利を称え、
戦勝パレードを行います。
自軍だけでなく、敵軍の北アフリカ師団も弾を抜き取った銃を抱えて行進。
これを聞いた陸軍総司令官ブラウヒッチュは、あまりにも時代遅れだと叱責したそうな・・。
SSと国防軍の比較ではないですけど、同じように降伏した敵に対して、
虐殺したかと思えば、片やパレードに参加・・と、両極端ですね。

Alfred Wager, XXVII. Armeekorps'.jpg

ダンケルク」からドーヴァー海峡を渡って撤退するBEF。
このあたりもガッチリと書かれており、特に興味深かったのは一緒に撤退したフランス兵です。
一部はそのままフランスの別の湾港へと運ばれ、英国に渡った10万名も
間もなくブレストやシェルブールへと送られて、敗者復活戦の如く戦ったということです。

後半、457ページから第4章「作戦名:赤色」。
ソンム川からセーヌ川へ、フランスを全線に渡って南下しようという作戦第2弾です。
「防御拠点となっている街道を避けて、平野部を進み、敵の背後や側面からの奇襲」を
部隊に指示するロンメル。すでに「砂漠のキツネ」らしい戦術を駆使しています。

blitzkrieg.jpg

6月14日には「無防備都市」となっていたパリに第28歩兵師団が入城。
B軍集団司令官フォン・ボックは、すぐさま廃兵院の「ナポレオンの墓所」を訪問します。
ふ~む。ドイツ軍の将軍連中にとっても、ナポレオンはアイドルなんですね。

von Bock_von Küchler_1940 Paris.jpg

セーヌ川からロワール川を目指すB軍集団。
一方、グデーリアンはスイス国境にゴールして、敵3個軍を袋のネズミにしてしまいます。
最後の仕上げとして登場するのがC軍集団です。
開戦当初からスルーしてきた「マジノ線」への攻撃を遂に開始。
ドイツ第1軍は列車砲8個中隊を含む、特殊な重砲部隊が加えられ、
第800重砲大隊には1.5㌧の砲弾を14㌔も飛ばすことが出来るシュコダ製420㎜砲や、
355㎜砲も装備しています。

Eine 42cm Haubitze von Skoda welche im Sektor Haguenau benutzt wurde um die Maginot-Linie zu bombard.jpg

最後の第5章は「フランス敗北」。
頑強に抵抗するマジノ線の各要塞の様子も詳しく書かれ、攻城戦好きにも嬉しい展開。
それから南に向かうように命令されたフランス第51戦車大隊は、
FCM-2Cという重戦車が7両配備されており、コレは70㌧の怪物です。
こんな戦車、初めて知りましたが、75㎜砲で12人乗り、
全長10メートルということは、あの「マウス」と同じ大きさです。
なんとなく、「悪役1号」を思い出しました。

FCM 2C.jpg

「最後の撤退」はダンケルクの再現のような海上からの撤退です。
サン・ナゼールから5000名以上を乗せて出港した兵員輸送船ランカストリア号は、
ルフトヴァッフェに襲われて沈没・・。
2500名が救助されたものの、死者は3000名を越えると云われていて、
西方戦役最大の死者数を記録。
英国空軍の要員を多く含んでいたこともあって、チャーチルは報道禁止にするのでした。

rms_lancastria.jpg

本書もようやく終わりに近づいてきたところで参戦してきたのはムッソリーニ。。
フランス人の著者、そして父親が2等兵として参加していたにも関わらず、
ドイツ軍に対しても公平な記述を続けたものの、さすがにイタリア軍の仕打ちには
我慢ならんという雰囲気が出てしまっています。
まぁ、これだけ時間をかけて読んできて、フランスにも若干、肩入れしていただけに、
この「背後からの一突き」はなんともエゲツなく感じます。

イタリア軍の戦死者631名、捕虜・行方不明616名、負傷者2631名、凍傷2151名に対し、
フランス軍は戦死者40名、負傷者84名、捕虜・行方不明150名という数字を誇らしげに挙げて、
優勢なイタリア軍を叩き伏せたアルプス軍の戦いは一筋の光明だと結んでいます。

seihou_2.jpg

最後の最後は「コンピエーニュの休戦協定」です。
ウィリアム・シャイラーの日記を抜粋しながら、この様子を写真と共に解説。
第1次大戦の記念碑の文言を読むヒトラー、ゲーリングリッベントロップヘス
レーダーカイテル、ブラウヒッチュらの面々。
「1918年11月11日、ここにドイツ帝国の犯罪的な傲慢は、彼らが奴隷化しようとした
自由なる諸国民の手によって屈服し、挫折したのである」
そして調印式が終わった後、この石版は破壊されるのでした。

Compiègne hitler 1940.jpg

もちろんヒトラーが大喜びしている写真も出てきますが、
実は所々でこの電撃戦の最中のヒトラーの姿も掲載されており、
副官エンゲルとのツーショットなど、ほとんど初見のものでした。



端折ったところでは、ラインハルトヘプナーも写真がありました。
あとはマックス・ジーモン、それから・・??
誤解のないように書いておくと、本書の写真はすべて白黒です。
またその枚数は書かれていないようですが、1000枚は超えているでしょう。
個人的な一番のお気に入りの写真は、名のある軍人や戦車ではなく、
ソーヌ川を渡る準備中の第1狙撃旅団の兵士たちです。
この恥ずかしい姿で街中を行軍して欲しい。。

seihou_1.jpg

いやはや・・、強烈な一冊でした。
これだけの細かい記述と写真がありながらも、本書は完全な戦記マニア向けです。
この巨大本ですから、休日に読むしかありませんが、
それでも一日、50ページ程度が集中力が続く限界でした。

著者がフランス人であることから、フランス軍についての記述も実に詳細で、
盟友である英国欧州遠征軍、ベルギー軍、オランダ軍についても同様です。
また、政治的な話は最小限に留められているのも好感が持てました。

西方電撃戦についてさほど詳しくない方なら、本書を手にして筋肉痛になる前に、
まず、レン・デイトンの「電撃戦」で第1次大戦後からのドイツ、フランスの関係を理解したり、
電撃戦という幻」という名著を読んで、西方戦役の概要を予習しておいた方が良いでしょう。
もっとも概要といってもハードカバーの上下巻ですが・・。













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ベルリン攻防戦Ⅱ 激闘 東部戦線(4) [戦記]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

グランドパワー別冊の「ベルリン攻防戦Ⅱ 激闘 東部戦線(4)」を読破しました。

2000年に発行された162ページで、定価2350円の本書。
いま気が付きましたが、「ベルリン攻防戦 激闘 東部戦線(3)」が2001年の発行で、
発行順が逆転していました。
実は「東部戦線(3)」は、「増補改訂版」で、本書はそうじゃないということなんですね。
しかし改めて「ベルリン攻防戦」を楽しく勉強しているところなので、
そのままの勢いで行ってみましょう。

ベルリン攻防戦Ⅱ.jpg

巻頭は「第三帝国の崩壊・特選カラー写真集」として8ページ。
ドイツ軍捕虜の姿に、合流した米ソ将兵、ベルリンの廃墟といったカラー写真です。
その後、白黒写真の本文となりますが、24ページまでは戦略爆撃目標となったベルリンです。

Flakturm Humboldthain.jpg

ベルリンとハンブルクの高射砲塔の写真に、英空軍の夜間無差別爆撃の主役である、
ランカスター、ハリファックス、そしてモスキートといった爆撃機写真集。
米軍のB-17に、迎え撃つドイツ空軍の戦闘機も紹介します。
なかでもベルリンのフランス教会が被爆し、壮麗なドームが崩れ落ちる写真が良いですね。

Französischer Dom.jpg

続いては「鉄火のスチームローラー」。ソ連軍地上火砲の目標となったベルリンです。
T-34に始まり、KV-85、IS2重戦車、SU-76、SU-100といった自走砲に、
Yakや、Il-2といった航空機。
ここではソ連軍最大の野戦砲であったという「203㎜榴弾砲MB4」が印象的ですね。
キャタピラ付きなのに自走能力はなく、トラクターで牽引するそうですが、大迫力です。

direct-fire-203mm-soviet-wwii-urban-combat.gif

そしてベルリンへと肉薄するソ連軍写真集。
2ページぶち抜きの写真では、東プロイセンやポーランドで強制労働させられていた
フランス兵捕虜と民間人がソ連軍によって解放され、西の故国へ向かうべく
トリコロール国旗を掲げた馬車を先頭にIS2重戦車の横を進み、
それを茫然と見守るドイツ人避難民の姿・・。

Soviet tanks IS-2 and the column of the liberated French soldiers.jpg

その他、交差点でトーチカと化したパンターパンツァーファウストを担いだ国民突撃隊
市電の残骸でバリケードを構築する姿など、以前に紹介した写真も多いですね。
こうして53ページから「凄惨、史上最悪な市街戦」へと進みます。
大型榴弾砲だけでなく、いつものカチューシャ・ロケット。
噴き上がる火炎で発射位置がバレるため、米国製のスチュードベーカーに搭載して、 
すぐに移動するよう強く指導されていたそうです。

loading_Katyushas_1945.jpg

ドイツ軍抵抗拠点のビルに砲撃を浴びせるSU-76自走砲は良いアングルです。

samohodnoe_orudie_su-76_vedet_ulichnie_boi.jpg

ベルリンの中心部、アンハルター駅前広場には、88㎜高射砲やバリケード市電の残骸が散乱。

broken-german-88-mm-gun-Anhalter-platz-berlin-1945.jpg

ミュンヘベルク装甲師団が遺棄したケーニッヒスティーガーと思われる写真や、
武装SSノルトラントの有名な写真もありますが、一番、ビックリした写真はコレ・・、
「第1次大戦の老兵、英軍のマークⅣ戦車」です。
キャプションでは「どこでどう入手したかは分からないが、
これとぶつかったソ連兵は新兵器登場かと思ったろう」と書かれています。

Berlin1945iMkIV.jpg

このマークⅣ戦車についてはいろいろと調べてみました。別の写真もあったり・・。

berlin_1945_mk_iv.jpg

するとどうやら、第1次大戦の鹵獲戦車としてベルリンに運ばれ、
1919年の「スパルタクス団蜂起」で参戦しているようです。
その後は、ベルリンの博物館でず~と眠っていたところを起こされたって感じですね。
まさしく『戦車版国民突撃隊』と呼んでも差し支えないでしょう。しかも義勇兵・・。

The Spartacist uprising_Mk IV Tank in Berlin, 1919.jpg

75ページからは「栄光の勝者、敗者の屈辱」。
表紙の写真のようにブランデンブルク門を通ってウンター・デン・リンデンに入るIS2重戦車など、
ベルリンの象徴の無残な姿・・。

Brandenburg Gate 1945.jpg

そのブランデンブルク門に赤旗を掲げるソ連兵。
4頭の馬のうち、3頭が銃砲撃で倒れ、ねじ曲がっていたそうです。

Red banner on the Brandenburg Gate.jpg

有名な国会議事堂(ライヒスターク)に赤旗を掲げるソ連兵の写真も様々な角度で・・。
そして武装解除されるドイツ兵、国民突撃隊の老兵たち、ヒトラー・ユーゲントの少年。。

berlin-1945.jpg

そんな少年たちの運命は現場指揮官の自由裁量に任され、多くの場合、
「家に帰んな」の一言で解放された・・としています。良かったですね。
それにしても右端は女の子じゃないかなぁ??

Soviet Photo of Child Defenders of Berlin May 1945.jpg

ライプチヒ北東のトルガウで肩を組んで交歓する米軍第69歩兵師団と、
ソ連軍第58親衛狙撃師団。

us_soviet_troops_elbe.jpg

カイテルやヨードルが降伏文書に署名するシーン。
大量の瓦礫に立ち向かうベルリンの女性たち・・。
そんなベルリン市民たちに野戦炊事車で炊き出しを行うソ連軍。
疲弊しきったソ連国内から穀物10万㌧、ジャガイモ6万㌧を緊急輸送したそうで、
あたりまえですが、ベルリンのソ連兵全員が強姦魔ということはありません。

Soviet soldiers distributing hot food to Berlin women, 1945.jpg

こうして106ページで写真集は終わり、「ヒトラーの自決と帝都ベルリンの陥落」と題した、
文章中心の最終戦が最後まで続きます。
総統ブンカーでの様子は「ヒトラー 最期の12日間」や、「ヒトラー最期の日」、
ヒトラー最後の十日間」、「ヒットラーを焼いたのは俺だ」から抜粋した感じで進みます。
ヒトラーの遺体については、2000年にヒトラーのものとみられる頭蓋骨の一部を
モスクワの連邦公文書館が初公開したことが書かれていました。

skull_hitler.jpg

そんな話、あったっけ?? と調べてみると、2009年、米コネチカット大学の調査結果は、
「20~40歳の間の女性のもの」だそうな・・。実はエヴァだったりして。。



ソ連軍vsドイツ軍の攻防戦もかなり詳しいですね。
第1白ロシア方面軍などの作戦準備に始まり、各軍ごとの戦闘状況まで・・。
一方のドイツ軍はベルリン防衛の指揮官ヴァイトリンクの第56装甲軍団隷下まで細かく、
高射砲部隊、ラウヒ少将の第18装甲擲弾兵師団、モーンケSS少将の総統警護旅団、
武装SSシャルルマーニュなどの各兵力までを記載しています。
例えばヒトラー・ユーゲント突撃大隊なら、兵力約2000名といった具合です。
さらにミュンヘベルク装甲師団と武装SSノルトラントの奮戦も詳しく書かれています。

tigerⅡ berlin 1945.jpg

ヒトラーが自殺しようとしている4月30日に行われた国会議事堂争奪戦では、
正面玄関の大扉がレンガで補強されていて、爆破が失敗。
そこで203㎜榴弾砲を持ってきて、射距離ゼロで1mの大穴を開けてから突入。
立て籠もるSS部隊と手榴弾、銃剣による白兵戦を繰り広げます。
5月1日の朝、遂に白旗を掲げて、第150狙撃師団に降伏を申し出て、停戦となりますが、
その直後、約束を反故にして戦闘を再開、建物に放火して抵抗するSS部隊・・。

T-34 of 3rd Soviet tank army in Berlin and German captives.jpg

ここにはSS部隊の他に、ロストクの海軍兵学校から空輸されてきた
海軍小銃中隊も踏ん張っていたそうで、最終的に翌日降伏した時には、
死者・負傷者2500名、捕虜2604名を出したそうです。

berlin-1945-dead-german-soldier.jpeg

最後のオマケは独ソ両軍の戦闘序列を表にして掲載。
ソ連の各方面軍は4月16日現在の師団指揮官までわかる限り記載され、
ドイツ軍ベルリン防衛軍、ヴァイクセル/中央軍集団の戦闘序列も
4月30日現在として、戦闘団指揮官まで書かれています。たいしたもんだ。。

Berlin in Summer of 1945 (6).jpg

正直言って「激闘 東部戦線(3)」より断然、面白かったですねぇ。
あくまで個人的な興味がこちらの方が多かったという理由からですが・・。
この「激闘 東部戦線」シリーズは、「激闘 東部戦線(1)1941~43」と、
「激闘 東部戦線(2) 1943~45」が前2作としてありますから、一度、読んでみたいところです。
ただし、本書だけはamazonでも古書が手に入らないようで、
ヤフオクとか、一般の古書店で入手するしかないようです。
それにしてもベルリン最終戦はいろんな意味でドラマチックですね。






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