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ハリコフ攻防戦 -1942年5月死の瀬戸際で達成された勝利- [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マクシム・コロミーエツ著の「ハリコフ攻防戦」を読破しました。

今回が6冊目の「独ソ戦車戦シリーズ」ですが、
相変わらず順番はメチャクチャで、シリーズとしては第3巻目になります。
ハリコフ戦というのは第4次まで続いた攻防戦であり、
以前に紹介した「ハリコフの戦い 戦場写真集」は第3次攻防戦。
本書は第2次攻防戦をソ連側から描いた2003年、135ページの一冊です。

ハリコフ攻防戦.jpg

第1章は「ソ連軍のハリコフ奪回作戦の準備と実施」です。
ソ連南西方面軍のティモシェンコ元帥による発案で、
冬以降、停滞している戦線に攻勢をかけ、ハルコフを奪還しようとするものですが、
敵であるドイツ軍も、カフカスとヴォルガを目指す夏季攻勢のための
環境創出を目的とした作戦「フレデリクス1」を準備中・・。

General Timoshenko visiting the front_1942.jpg

共に64万名程度の将兵と1000両の戦車、1000機の航空機、1万門以上の砲を揃えますが、
前年の夏と秋の戦いで壊滅的損害を受けていたソ連側は
充分な訓練も受けていない新兵たちによる、新設された師団が中心。
そのような方面軍の戦車旅団単位で保有戦車台数も表を使って細かく紹介し、
BT快速戦車、T-60、T-26T-34KV-1以外にも
レンドリースによるマチルダ、ヴァレンタインM3「リー(グラント)」戦車も多く含まれています。

the infantry tank Matilda II.jpg

ドイツ軍はハリコフ地区に集結していた第3、および第23装甲師団が
「ブライト集団」として一緒に行動した・・など、文章で解説。
いきなり「ブライト集団」と書かれても何のこっちゃ・・? ですが、
第3装甲師団長のヘルマン・ブライト将軍のことのようですね。
またソ連側には南方面軍も参加していて、ココは集中して読まないと後が辛くなります。。

the second battle of Kharkov in 1942.jpg

写真はさすがにソ連軍中心ですが、鹵獲したBMWサイドカー「R12」に乗る
戦車偵察兵が良いですね。
ヘッドライトは割れているものの、サイドカーの前面には「ヒトラーに死を」の文字が・・。

こうしてパウルス将軍の第6軍とクライスト装甲集団に対し、
5月12日、ソ連軍が攻勢を開始します。
まったくややこしくて大変なのは、この攻勢をかける「南西方面軍」は、
正面55㎞の前線で攻撃する「北部突撃集団」と
35㎞の前線で攻撃する「南部突撃集団」とに分かれるんですね。
「北部突撃集団」だけでも狙撃兵師団14個、戦車旅団8個など、
これらの部隊が軍、軍団として、バイラークとか、クピエヴァーハとか、
ヴァルヴァーロフカといった聞いたこともない場所で戦いますので、
いくら戦況図が度々、出てくるにしても「南西方面の北部」なんて方角も含め、
よっぽど好きじゃないと耐えられません。。

Ewald von Kleist.jpg

「南部突撃集団」の攻勢でも、ソ連「第6軍」が出てきたり、もう嫌がらせのようですね。
救いなのは参謀総長ハルダーの日記が出てきて
フォン・ボック(南方軍集団司令官)がクライストの戦線から3~4個師団を外し、
ハリコフ南方の突破口を封鎖するために使用するよう提案してきた」など、
ドイツ側の話も忘れたころに出てくるところです。

そのフォン・ボックのメモも何回か使われていて
「第8軍団のところがいくつか突破され、その左翼でハンガリー人たちが後退した。
極めて悪い事態だ」。
しかし第2章は「ドイツ軍の反撃と包囲戦」。
5月17日から28日までのドイツ軍の大逆襲です。

Hitler_and_von_bock.jpg

予備も繰り出してソ連軍の攻撃に耐えたドイツ軍は、再編成を終え、
1時間半の準備砲撃に続き、歩兵と戦車がシュトゥーカなど400機の航空機の支援を受けて
5月17日の朝から攻撃に移ります。
主攻撃の矛先となって前進したのは、フーベ将軍率いる第16装甲師団。
ソ連第9軍の参謀長も負傷し、ドイツ空軍の活躍によって通信も切断。
ばらばらの防御戦闘、予備部隊投入の命令も受領されず、
軍司令官も統帥能力を失います。
ソ連寄りの本書ですが、読んでいてもドイツ軍の攻撃はまさに「電撃戦」の戦法ですね。

Hans_Valentin_Hube_in_Panzer_III.jpg

フォン・ボックも日記で満足げ。
「クライスト集団の攻勢は非常にうまく進行している。
ハルダーが西に転ずるべきだと言ったとき、そのような進路変更は不可能だと反論した」。
いや~、やっぱりハルダーは参謀総長であっても、元帥相手では分が悪いようですね。

ブライトの第3、および第23装甲師団も戦車140両で包囲戦に登場。
5月22日にはソ連軍部隊の包囲を完了するのでした。

Hermann Breith.jpg

途中には「塗装とマーキング」のカラーイラストが4ページ。
ドイツ側はⅡ号Ⅲ号戦車、ソ連側はBT快速戦車にT-60戦車、
それから米国製M3「リー」に英国製マチルダ。もちろんT-34とKV-1戦車も登場し、
裏表紙にはそのT-34とKV-1戦車が描かれています。
下のKV-1の砲塔には「ザ・ロージヌ」、「祖国のために」という定番の文句です。

ハリコフ攻防戦2.jpg

5月26日には、上記の戦車による「ソ連混成戦車軍団」が
包囲線の外環を突破すべく攻撃に出ます。
イメージ的には「逆スターリングラード」ですね。
包囲陣内の部隊も夜間に個別に突破し、第5親衛戦車旅団が先導した
22000名のうち、夢が叶ったのは5000名のみ。
5月30日までに包囲陣から生還できたのは27000名。

soviet POW's.jpeg

ソ連側の資料でさえ、包囲されたのは20万名にも及び、
この作戦期間中の損害は将兵26万名、戦車652両という大惨事です。
包囲陣で戦死した将軍も書かれているだけで10名。
その他、政治委員や多数の司令官も失ったそうです。

一方のドイツ側の資料では、24万名の捕虜、1249両の戦車を破壊、または鹵獲。
ドイツ兵の損害は2万名としています。
戦闘が終わったばかりの地区を訪れたクライスト将軍は、
「見渡す限り、人馬の死体で埋め尽くされている。
あまりにギッシリと埋まっているため、乗用車が通過できる場所を見つけるのに苦労した」。

Ein Stoßtrupp bereitet sich vor. Charkow im Mai 1942..jpg

もちろんこの結果を知らされたスターリンは怒り心頭です。
「わずか3週間ばかりの間で、南西方面軍はその軽率さのおかげで
半ば勝ちえていた作戦に敗れたのみか、
20個師団も敵にくれてやったとは・・、これは大惨事だ」。

Stalin.jpg

「おわりに」では、ソ連軍部隊の失敗の原因を簡単に分析し、
戦車を旅団単位に分散して、狙撃部隊に分配するという挙に出て
ドイツ軍防衛第1線の突破で戦車兵力を「使い果たしてしまった」。

実は副題の「1942年5月死の瀬戸際で達成された勝利」って
独ソどっちのセリフなのか・・? と思いながら読んでいましたが、
これは将来に対して懐疑的な見方をするドイツ人が出てくる中で、
「勝利は死の瀬戸際にて達成された」と戦闘後の報告書に書いた
第3装甲軍団司令官のフォン・マッケンゼンのセリフでした。

Max von Weichs, Adolf Hitler, Friedrich Paulus, Eberhard von Mackensen and General Field Marshal Fedor von Bock. June 1942.jpg

まぁ、ボリュームはそれほどない本書ですが、ちょっと苦労しましたね。。
ソ連側の記述が細かいし、後半になっても包囲されているハズのソ連軍が
まるで「勝っている」かのような印象すら持ちました。
と、文句を言いつつも、このシリーズはとりあえず、
「モスクワ防衛戦―「赤い首都」郊外におけるドイツ電撃戦の挫折」
「ドン河の戦い―スターリングラードへの血路はいかにして開かれたか?」
「重突撃砲フェルディナント―ソ連軍を震撼させたポルシェ博士のモンスター兵器」
「東部戦線のティーガー―ロストフ、そしてクルスクへ」
「ベルリン大攻防戦: ソ連軍最精鋭がベルリンへ突入」
のあと5冊は読んでみるつもりです。
あぁ、「クルスク航空戦」も気になりますね。。















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重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編 [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヴォルフガング・シュナイダー著の「重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編」を遂に読破しました。

姉妹編である「重戦車大隊記録集〈2〉SS編」を読んで以来、2年も経ってしまいましたが、
8月にやっと姉である463ページの陸軍編を2700円で購入しました。
1996年発刊で定価6000円の大型本ですが、いま確認してみると
なぜか「〈2〉SS編」はプレミア価格で1万円超えてますねぇ。危ない、危ない・・。
その「〈2〉SS編」も大作でしたが、本書は100ページも多く、ボリュームたっぷりです。

重戦車大隊記録集①.jpg

まずPart1、「各重戦車大隊のカモフラージュとマーキング図版」として
第501重戦車大隊~第510、第301戦車大隊、第316戦車中隊の順で、
お馴染みのカラーイラストをふんだんに使って紹介します。
特に部隊特有のマーキングについては、カラーイラストだけでなく白黒の実物写真も掲載して、
第505重戦車大隊の「突撃する馬上の騎士」などにも細かく触れます。
う~ん。こういうの大好きですねぇ。

Schwere Panzerabteilung Insignia.jpg

51ページからメインのPart2、「各重戦車大隊の日誌と編成・写真」となります。
第501重戦車大隊は第501、第502重戦車中隊を合併し、
第1補充戦車大隊などから兵を抽出して1942年5月に編成されます。
部隊のマーキングは「忍び寄る虎」。このアップの写真も良いですが、
アフリカでの「ヒトコブラクダ」とティーガーの仲むつまじいショットが最高です。 
「日誌」部分では、以前に紹介した「第10戦車師団戦場写真集」にも登場したように、
この師団に配属されて、ロンメルと共に戦っています。

Schwere Panzerabteilung 501 & camel.jpg

特に興味深いのは1944年5月の第2中隊長の無線手が「なんと、ロシア人女性であった!」
というヤツですね。おそらく捕虜の志願補助兵ヒヴィスなんだと思いますが、
ちょっと考えられません。。
8月にはフォン・レーガット大隊長がヒトラー暗殺未遂事件の連座容疑で解任されたり、
また、装備をティーガーⅡ(ケーニッヒスティーガー)に一新したクルーの写真では
333号車の戦車長が「左肩に優等射撃手章」を付けていますが、
コレは「ナチ独逸ミリタリー・ルック」で、「砲手勲功懸章」と書かれていて
気になっていたヤツと同じもののようですね。 

Schützenschnur der Wehrmacht.jpg

そして1945年1月には燃料不足により全車両を爆破し、残存部隊は
余剰装甲車両を受領します。
それらはパンター2両、Ⅳ号戦車3両、ホルニッセ2両、ヘッツァー数両というもの。。
この有名な部隊の最期は物悲しいですね。

続いては、第502重戦車大隊です。
部隊のマーキングが「マムート(マンモス)」なのも知られていますが、この部隊が有名なのは、
150両撃破の大エース、オットー・カリウスが所属していたことも大きいでしょう。
本書では部隊ごとの最初のページに、大隊の総戦果や大隊長の任期、
そして騎士十字章以上の受章者が紹介されます。
この第502だと、総戦果は1400両以上の戦車に火砲2000門以上で、
騎士十字章はカリウス以外にも8名排出し、大隊長のイェーデ少佐や、
カリウスの相棒ケルシャー軍曹の名も・・。

Russland,_502_Panzer_IV_und_Infanterie.jpg

1943年に大島大使が第1中隊を訪問し、その後、日本政府はティーガーを1両購入したそうです。
ちなみに価格は645000ライヒスマルク。。
これが同盟国に対する適正価格なのか、ボッタくっているのかはわかりません・・。
1944年になると「日誌」にはカリウスの名が多くなってきます。
グラーフ・シュトラハヴィッツ大佐は躊躇する第2中隊長を解任し、カリウス少尉が指揮を取る」。

CariusOtto.jpg

しかし「数両の戦車に援護されてソ連軍女性大隊が攻撃を開始・・・」という記述に一番驚きました。
知っている限りでは、赤軍の女性兵士は通常の男性兵士の部隊に編入されて、
同等の扱いを受けるというもので、空軍の「夜の魔女」などを除き、
女性兵士で構成された狙撃兵(歩兵)部隊というのは存在しないと思っていました。
この記述が正しいとすると、ひょっとしたら「懲罰大隊」なんじゃないでしょうか?

Soviet woman soldiers.jpg

最近、ソ連の懲罰大隊を描いたドラマ「捕虜大隊 シュトラフバット」のDVD5枚組をまとめて購入し、
3日間で観倒したばかりで、確かにこの懲罰大隊には女性が1人もいなかったので、
余計にそう思っています。
ちなみに「シュトラフバット」、とても面白かったですよ。
戦闘シーンより、人間ドラマが深く描かれ、助演クラスの中隊長はみんなヒドイ顔してますが、
演技が上手くて、感動してしまいました。

SHTRAFBAT.JPG

第503重戦車大隊にはカリウスを凌ぐ162両撃破の大エース、クニスペル曹長が。
1944年1月にはDr.ベーケ中佐配下となり、「チェルカッシィ」で包囲されたドイツ軍の救出に参加。
ティーガー332号車が撃破されてしまいますが、これを屠ったのは
ライプシュタンダルテ」のパンター戦車です。やっぱり国防軍と武装SSは仲悪かったのか・・?
ということではなく、単なる誤射だそうで、本書では所々で自軍の対戦車砲などで
誤射により撃破されていました。

Kurt_Knispel.jpg

10月にはブダペスト城を占拠します。
これはスコルツェニーの「パンツァーファウスト作戦」ですね。
12月には部隊名が「フェルトヘルンハレ」に改称され、
1945年4月29日という終戦直前、エースのクニスペル曹長が戦死。。
もし、あと数日生き残って回想録でも書けば、カリウスを凌ぐ人気者になったかも知れません。。

Unternehmen Eisenfaust tiger.jpg

ここから1943年になって編成された部隊、最初は第504重戦車大隊です。
西側連合軍に押される北アフリカに派遣され、ヘルマン・ゲーリング装甲師団と共に戦いますが、
イタリアへ撤退を余儀なくされます。
このメッシーナ海峡をフェリーで渡ることの出来た、唯一の222号車の写真は良いですね。
1945年4月の日誌、「投降兵の一部がニュージーランド軍第2師団によって虐殺される」
というのは印象的です。

同じく1943年に編成された第505重戦車大隊ですが、アフリカ行きを予定されていたものの、
初陣となったのは夏の東部戦線「ツィタデレ作戦」です。
第9軍司令官モーデルの訪問も受け、中央軍集団司令官クルーゲも視察に訪れます。

battle_kursk_0156.jpg

第506重戦車大隊では、ティーガーⅡを45両受領した後、何の因果か、
オランダのアーネムへの移動命令を受けています。時は1944年9月8日・・。
モントゴメリーの「マーケット・ガーデン作戦」が始まるわずか9日前・・。
到着したのは24日で、本書での記録によると第9SS、第10SS装甲師団に配属されて
後半の掃討戦に活躍しているようです。

さらにこの後、「バルジの戦い」にも参加していますが、バストーニュ攻撃に失敗し、
ティーガーⅠ、ティーガーⅡも爆破処分したあと、第5装甲軍司令官マントイフェルによって、
大隊長のランゲ少佐が解任されてしまっています。

schwere Panzer Abteilung 506 TigerⅡ by American troops.jpg

第507重戦車大隊の日誌では、1945年3月に米軍第3歩兵師団のローズ少将を
「過失により殺害」すると、この事件に怒った米軍は報復として100名のドイツ兵捕虜を殺害し、
4月にはカイザーホフ・ホテルの前で動けなくなったティーガーⅡの搭乗員も
米軍によって殺害・・と、この写真は有名ですが、彼らはそんな運命だったんですねぇ。
100名のドイツ捕虜殺害も初めて知りました。

kingtiger-hotel-kaiserhof.jpg

編成されて1944年1月にイタリアに向かったのは第508重戦車大隊ですが、
パラッツォ・デ・アンジュリスの前やテヴェレ川でローマ市民と共に記念写真に興じる
ティーガー戦車兵が笑えます。

A PzKpfw VI Ausf. E in Rome, 1944.jpg

第509重戦車大隊は1945年1月、オットー・ギレが指揮する第4SS戦車軍団に配属されますが
ちょっとしたゴタゴタが続きます。
まず、大隊長が軽傷にも関わらず入院してしまったため、Dr.ケーニグ大尉が
代わって指揮を取ります。しかし3日後、武装SS「トーテンコップ」から派遣された
ライベルSS大尉が大隊の猛反対にも関わらず、指揮を取ることに・・。
その結果、損害を被った大隊は、「SS戦車連隊への配属」、「不適任者による指揮」といった苦情を
第3装甲軍団のブライト将軍を批判する報告書として、グデーリアンに提出。。

最後にオマケ程度に紹介される第301戦車大隊と第316戦車中隊は
ティーガーと無線操縦のボルクヴァルトBⅣ重装薬運搬車を装備した部隊です。

V Panther _Borgward IV.jpg

いや~、「〈2〉SS編」は2日で読んだ記憶がありますが、今回は週末2回、計4日間かかりました。
掲載されている写真のほとんどがティーガーですし、その1枚1枚の写真の見所を探すだけでも
結構、時間がかかったようです。
「日誌」部分も今回紹介した以外にも興味深い記述も多く、
特に大隊と言いながらも実際は中隊や小隊単位であちらこちらの防衛戦に借り出され、
まさに「火消し」としてのティーガー戦車であったのがよく理解できますが、
大隊長からしてみれば、勘弁してよ・・と愚痴りたくなるのもわかります。
まだ大日本絵画の大判写真集は「続・クルスクの戦い」と「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録​集」
がありますので、来年にでも購入できれば・・。







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死闘ケーニヒスベルク -東プロイセンの古都を壊滅させた欧州戦最後の凄惨な包囲戦- [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マクシム・コロミーエツ著の「死闘ケーニヒスベルク」を読破しました。

今回でやっと5冊目となった「独ソ戦車戦シリーズ」からの1冊です。
1945年初頭のケーニヒスベルクの戦いは、今まで何冊かの主に最終戦モノに書かれていました。
そしてこの東プロイセンというのは、ソ連軍がはじめてドイツ本土に侵攻し、
その後のベルリンを凌ぐほどの暴虐の限りを尽くしたとも言われており、
また、シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾が破裂したのも、
この東プロイセンにあった総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」だったことでも有名ですね。

死闘ケーニヒスベルク.jpg

第1章は「独ソ双方の兵力と計画」で、1945年初頭のソ連軍による東プロイセン計画と
防衛体制を敷くドイツ軍を細かく分析します。
西へ主攻勢を取る第3ベロルシア(白ロシア)方面軍は第2親衛軍を含む5個軍から成り、
方面軍司令官はチェルニャホフスキー上級大将です。

soviet-280mm-artillery-east-prussia-january-1945.jpg

コレ対するドイツ軍中央軍集団は第3装甲軍と第4軍で総兵員数は20万人。
このなかには精鋭の降下装甲擲弾兵師団「ヘルマン・ゲーリング2」や
第5装甲師団など16個師団ですが、国民擲弾兵師団や警察連隊といった部隊の名も。

German soldiers in Königsberg with a MG 151 20 gun. The winter of 1945.jpg

また南からは第2ベロルシア方面軍が北西に進撃します。
こちらに対してもホスバッハ大将の第4軍と、ヴァイス大将の第2軍が対峙。
第2章では準備状況を説明して、第3章で1月13日の「ソ連軍攻勢開始」です。
しかし、この攻勢を予期していたドイツ軍は、40個大隊に上る砲兵によって
強烈な先制攻撃を仕掛けるのでした。

Friedrich Hoßbach.jpg

それでも兵員数、装備に圧倒的に勝るソ連軍は攻勢を進めます。
写真も撃破されたパンターや突撃砲などが登場してきますが、
必死の防戦でソ連軍の進撃も失速。

Танк ИС-2 преодолевает бетонные противотанковые.jpg

相変わらずこのシリーズはソ連側は異常に詳しく書かれているものの、
ドイツ軍側はやや大雑把だぁ・・と思いながらも日本の「監修者注」も合わせて読んでいましたが、
40ページほど読んで、第5装甲師団は1月15日だけで敵戦車40両、
翌日は84両を撃破・・と報告し、ハイマン少尉は単独で敵戦車25両撃破して、
騎士十字章を授与されたとなると、この情報の細かさに思わず表紙の「監修者」を確認・・。
するとソコには「高橋 慶史」氏の名前が。。
なるほど~。完全に「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」並みの書きっぷりでした。

east-prussia-A Panther from the 31st Panzer Regiment of the 5th Panzer Division.jpg

第2ベロルシア方面軍の攻勢に立ち向かうのはグロースドイッチュランド師団です。
しかしその抵抗も打ち砕かれ、バルト海に進出するソ連軍。
ココでも撃破されたグロースドイッチュランドのティーガーの写真に、
表紙の沼に沈み込むⅣ号突撃戦車ブルムベアの別角度の写真が登場。
このブルムベアもグロースドイッチュランドのようですね。

2月にはソ連軍の手に落ちたエルビングの大規模な修理工場の写真や
鹵獲された対戦車砲、そして綺麗に山積みされたモーゼル98Kの写真が印象的でした。
いったい何丁あるのかなぁ。1000丁以上は軽くあるように見えますね。。

После боя в районе Кенигсберга - StuG III G.jpg

第25フォルクスシュトルム大隊(国民突撃隊)というのも登場しますが、
「監修者注」では大管区ごとに編成された国民突撃隊は、
その大管区の番号が付与されているということで、
この第25は「東プロイセン国民突撃隊」となるそうです。
いやいや、とても勉強になりました。

TiburzyErnst_Deutscher Volkssturm Bataillonsführer from Königsberg.jpg

第3ベロルシア方面軍の進撃の前に第4軍のホスバッハは、独自の判断で退却し、
西プロイセンに撤退中の第2軍と合流すると中央軍集団司令官ラインハルト上級大将に報告。
ラインハルトもヒトラーの承認を受けないままに同意すると、
コレを知ったヒトラーによって2人揃って罷免・・。
レンドリックとフリードリヒ=ヴィルヘルム・ミュラー大将が後任となるのでした。

Friedrich-Wilhelm Müller.jpg

そして「第4軍は逃げようとしているが、私は国民突撃隊を伴って、東プロイセンを死守する」と
威勢の良い報告をヒトラーに送ったガウライターのエーリッヒ・コッホ
ケーニヒスベルクが包囲されるやいなや、高速ボート数隻に家財道具一式を乗せ、西方へと脱出。。
実はワリと有名なこんな2つの話も、書かれているのはやっぱり「監修者注」なのです。

Koch Königsberg, 27. Deutsche Ostmesse, Ausstellung.jpg

古都ケーニヒスベルクへの近接路は、1932年から数々の要塞地帯が構築されています。
それらを攻撃、壊滅させながら、「本丸」ケーニヒスベルク要塞へと向かうソ連軍。
ソ連空軍によって破壊された装甲列車の写真も登場しつつ、
この要塞を残すだけとなり、第2ベロルシア方面軍はお役御免。
しかし第3ベロルシア方面軍司令官チェルニャホフスキーがメルザス地区で重傷を負って死亡。
方面軍司令官ともあろう者がドコにいたのか・・? 以前から不思議に思っていましたが、
本書でも「壮絶な戦いで・・」と書かれているだけでした。

chernyakhovsky.jpg

こうしていよいよ117ページからケーニヒスベルク要塞へ・・。
市の中心から8~15キロのところに外環状防衛戦が走り、
その内側6~8キロに第1防御線が配されています。
鉄筋コンクリートのトーチカなどで築かれた15個の堡塁は、それぞれ名前が付けられ、
「フリードリッヒ・ヴィルヘルムⅠ世」や「グナイゼナウ」など実に強そうな堡塁です。
そして市の周緑を走る第2防御線、さらに中心部である旧市街を囲む第3防御線から成っていて、
要塞図にトーチカ、古城の角塔の写真も掲載されており大変、結構です。

A destroyed German Stug 3 lies near the Kronprinz Barracks. April 1945. The barracks were one of the strongest German fortifications in Koenigsberg.jpg

4月6日、ソ連軍攻撃開始。
本作戦のために全ソ連空軍の1/3が集められたという、圧倒的な空爆。
そして砲兵に戦車、歩兵が突入。
本文ではケーニヒスベルクのドイツ軍守備隊は10万名としていますが、
例の信憑性の高い「監修者注」では多めに見積っても3万5千名としています。
その結果、要塞司令官のラッシュ将軍は4月10日には降伏。
そのラッシュ将軍のコメントも掲載されていました。

German POW in Koenigsberg. April 1945.jpg

とにかく、このシリーズはソ連側から見た独ソ戦車戦ですが、
本書は訳者あとがきにも述べられているとおり、高橋 慶史氏のドイツ軍に関する
徹底した情報が過去に読んだシリーズとは一線を画していました。
すなわち、本文で戦局の状況を攻撃するソ連軍中心で理解しつつ、
ドイツ軍ファンは同ページにある「監修者注」で、ドイツ軍の耐えっぷりをマニアックに楽しむ・・
ということですね。

Battle of Königsberg.jpg

また、このあとがきでは、念願の東プロイセン北部を占領したソ連は、
ドイツ人住民ほぼ全員を強制退去させ、自国から50万人を移住させて「カリーニングラード」へ改名。
この土地を帝政ロシア時代から憧れだったとして、プロイセンとロシアの歴史と因縁。
さらにケーニヒスベルク王宮にあった「琥珀の間」は、ソ連軍が奪還すべく突入した時には
忽然と姿を消し、現在もその行方知れず・・という話も紹介します。
この話、好きなんですよねぇ。コッホが持ち去ったとか、いろいろ説がありますが、
「ロシアの秘宝「琥珀の間」伝説」という本も以前から読んでみようと思っています。

Amber Room.jpg

そもそも攻城戦というのは個人的に好きなテーマであり、
ケーニヒスベルク要塞が、ココまでちゃんとした要塞だったというのも、
本書の写真を含めて改めて理解できました。
こうなったら、ぜひ、守備側のドイツ軍から描いたものを読んでみたいですねぇ。
ですが、その前に高橋 慶史氏の「ラスト・オブ・カンプフグルッペIII 」が遂に
今月の26日に発売になるので、当然、コッチです。速攻、買いますよ!







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第10戦車師団戦場写真集 -東部および西部戦線、アフリカ戦線1939‐1943年- [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

J.ルスタン、N.モレル共著の「第10戦車師団戦場写真集」を読破しました。

久しぶりに大日本絵画の大判の写真集をやっつけました。
著者の大判写真集は、「クルスクの戦い―戦場写真集」と「ハリコフの戦い―戦場写真集」を
過去に紹介済みで、2004年発刊、327ページの本書は
カレコレ5年前から読みたかったものですが、まぁ、定価6000円というのが・・。
でも3月に独破した「ドイツ機甲師団」の表紙がほとんど同じこともあって本格的に検討。
結局、新品同様の綺麗な古書を半額で手に入れました。
特別に有名な師団ではないという、確かにマニアックな一冊ですが、戦車に詳しくない方でも
後半に有名人が登場しますので、ど~ぞ、最後までお付き合い下さい。

第10戦車師団戦場写真集.jpg

最初の36ページは帯にも書かれている「車両のカラー側面図約90点」が掲載。
Ⅰ号戦車からⅥ号戦車ティーガーまでなのは当然ですが、ポーランド軍戦車や
英国軍、フランス軍の戦車、戦車以外にも榴弾砲にクルップ製のトラックまで
バリエーション豊富ですね。

Polish military unit,The 10th Cavalry Brigade.jpg

続いて本文の第10戦車師団の歴史。といってもわずか3ページで概要というレベルです。
1939年4月に動員された師団は当初プラハに司令部が置かれ、
コレは占領任務も兼ねたものだったということです。
そして半年も経たない9月にはポーランド戦に参加。
編成表は細かく書かれていて、1個戦車連隊(第8戦車連隊)、1個歩兵連隊、
その他、対戦車部隊と偵察部隊、通信中隊に工兵大隊です。

8個中隊に分かれた戦車連隊の戦車戦力の表では、
後にクルップ製スポーツカーと呼ばれたⅠ号戦車が圧倒的に多く91両、
Ⅱ号戦車が20両、Ⅲ号12両、Ⅳ号戦車は4両というもの。
ポーランド戦にⅣ号戦車って出動してたんですねぇ。

さらに「おいおい、今更そんな・・」と言われることを承知で書きますが、
上部支持輪というキャタピラの上の転輪の数が3個なのがⅢ号戦車、
4個だとⅣ号戦車である・・・ということに気が付きました。。

PanzerIII_PanzerⅣ.jpg

そしていよいよ写真の出番です。
編成当初のプラハでの行進の様子に、初代師団長ガヴァントゥカ少将のポートレートが・・。
しかしこのガヴァントゥカ師団長は7月に死亡しています。
死亡原因は書かれていませんが、2代目師団長となったのはフェルディナント・シャールです。
お~、この将軍の名は聞いたことがありますねぇ。

Ferdinand Schaal.jpg

ポーランド戦ではブレスト要塞攻略に参加。
東から攻め込んできたロシア軍と出会い、グデーリアンが協議の末、
この土地の管理をロシア側に移管する有名な写真も出てきました。

Polen, deutsch-sowjetische Verhandlungen_General Guderian.jpg

翌年のフランス電撃戦
第7戦車連隊が加わり、2個戦車連隊編成となった第10戦車師団。
その第7戦車連隊の編成はⅠ号戦車は20両に激減し、Ⅱ号戦車が77両、
Ⅲ号25両、Ⅳ号戦車は18両というもの。第8戦車連隊もほぼ同数ですが、
この時点でも中心となるのは、まだⅡ号戦車なのが良くわかります。
進撃する写真ではⅠ号戦車の車体を流用した「自走15㎝重歩兵砲」の姿が微笑ましいですね。

10th panzer division sig-33-pzkpfw-i-b-self-propelled-gun.jpg

ムーズ川を渡河し、ストンヌでの激しい戦闘の写真とグロースドイッチュランドの突撃砲が出てくると
思い出しました。「電撃戦という幻〈下〉」で印象的だった戦いのことですね。
そしてクライスト装甲集団の証である「K」のマークを車両に描いた師団は、
カレーでの激戦からリヨンまで進撃・・。
この町のルノーの工場を使って消耗した車両の整備を行い、軍隊式パリ観光も実施するのでした。

この戦役終了後に本書の表紙の有名な写真と、「ドイツ機甲師団」のカラー写真が、
本国の雑誌の巻頭ページを飾ったということですが、
砲塔部分に描かれている「バイソン」が第7戦車連隊のマークなんだだそうです。

ドイツ機甲師団.jpg

続く章は「ロシア侵攻」です。
再度、編成表を確認しますが、遂にⅠ号戦車は姿を消し、Ⅱ号戦車が40両、
Ⅲ号104両、Ⅳ号戦車は20両というもの。
Ⅲ号戦車が中心となったのは良くわかりますが、Ⅳ号戦車はほとんど増えてません。
それどころか第8戦車連隊が無くなって1個戦車連隊に逆戻り・・。
コレは「バルバロッサ作戦」に向けて、ヒトラーが装甲師団を増やすように要請したことによるもの
なんでしょうね。紙の上の装甲師団数は増えても戦力は変わらず・・というヤツです。。

Russland, Panzer III in Steppe.jpg

フランス戦での「K」のマークから、グデーリアン集団の証である「G」のマークに変更した
第10戦車師団。
架橋大隊がブグ川に橋を架けると、その橋には「グデーリアン大将橋」との看板が・・。
そして戦死者の墓には十字架にヘルメットがかぶせられますが、
その脳天に大穴がパックリ開いて、ひび割れているヘルメットの写真は印象的です。
いったい彼は、どんな死に方をしたのでしょう・・。

PzKpfwT-34-747r of 10th Panzer Division.jpg

8月、シャール師団長が軍団長へと転出し、旅団長だったフィッシャー大佐が後任に選ばれます。
お~と、この人も知ってます。「グリーン・ビーチ」に出てきた将軍ですね。
10月には遅ればせながらモスクワを目指す「タイフーン作戦」に参加。
ヘプナーの第4装甲集団のシュトゥンメの第40軍団に配属されます。
このシュトゥンメも聞いたことある名前ですが、
北アフリカでロンメルの代わりに心臓発作で死んでしまった人ですか・・。

Rommel and Stumme in North Africa 1942.jpg

夏から冬へと変わっていく写真の数々。。
第10戦車師団と連携して作戦した武装SS「ライヒ」師団の若い兵士が、
負傷した陸軍兵士をおんぶして運んでくる写真も良いですね。
酷寒のロシアの土地は凍りつき、「第10戦車師団(Panzer-Division)」は
第10ソリ師団(Panje-division)になってしまった・・」と言い合うほど、
重宝するのは馬橇です。。

7th Tank Regiment at the headquarters of the 10th Panzer Division outside Moscow. Moscow region in 1941.jpg

1942年4月の春休み、第10戦車師団は再編成のためにフランスへ。
夏には英加軍による「ディエップ奇襲」が起こり、海岸に乗り捨てられたチャーチル戦車に対して
ちょうど良いとばかりに射撃訓練をする様子が・・。

師団長フィッシャーも中将へ昇進して、北アフリカで後退中のアフリカ軍団を救うため、
マルセイユからナポリを経て、イタリア海軍の駆逐艦の船旅をする兵士たちや
車両は超大型輸送機「ギガント」に乗ってチュニジアまで。

me323-Gigant.jpg

早速撃破した英軍のクルセイダー戦車の検分をするのはロンメル元帥です。
そしてティーガー戦車を揃えた第501重戦車大隊も登場し、後に連隊に配属となるわけですが、
こういうのが出てくると、「重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編」を買わなくちゃって気になりますね。。

501. Schwere Abteilung was incorporated as the 7th and 8th companies of the 7. Panzer-Regiment, 10. Panzerdivision on 26 February 1943.jpg

しかしキチンと標識を設置していなかったイタリア軍の地雷原に
誤って入り込んだフィッシャー師団長が爆死・・。
後任にフォン・ブロイヒ少将が・・。
この人はなんとなく聞いたことがある・・と調べると、シュタウフェンベルクとの写真を思い出しました。

Claus Schenk Graf von Stauffenberg (rechts) im Frühjahr 1943 in Tunesien im Gespräch mit Friedrich von Broich,.jpg

本書にもこの ↑ 写真が掲載されていましたが、ロンメルと参謀長のバイエルライン
顔の写っていないブロイヒと第10戦車師団作戦参謀シュタウフェンベルクになにやら語る・・という
初見の写真も登場。
こんなところでロンメルとシュタウフェンベルクは会話してたんですねぇ。
そして1ヶ月後には、連合軍の航空機攻撃によって片目、片腕を失うこととなり、
シュタウフェンベルクは「ワルキューレ」へと突き進んで行くのです。。

Valkyrie 2008.jpg

カセリーヌ峠の戦いにおけるシディ・ブー・ジッドで第7戦車連隊に撃破された
米軍シャーマン戦車の一連の写真もとても印象的でした。
開けた土地で行軍隊形のまま大破した初陣の米第1機甲連隊・・。
経験豊富なⅣ号戦車とティーガーの恰好の標的となったようです。
また、米軍捕虜たちの写真も何枚かありますが、ニヤニヤ、チャラチャラした連中も多く、
これじゃ総統大本営が「米軍は弱い」と考えたのも無理はないと思いました。

facing the fox shermans.jpg

ですが、戦局は物量に勝る連合軍が優勢。
ティーガーも自らの手で破壊し、鹵獲したヴァレンタイン戦車も遺棄して後退を続け、
最後の写真ではチュニジアの戦時捕虜収容所がドイツ兵で溢れ返っています。

A captured British Valentine Mk III in use by Panzer-Regiment 7.jpg

初戦のポーランドからフランス、ロシアと戦い続けてきた第10戦車師団は、
この北アフリカの地で全滅し、2度と再編されることはありませんでした。
タイトルが「写真集」となっているとおり、ありがちな戦記や個人の日記は一切ありません。
しかし時系列で豊富な写真と、そのキャプションを読むだけで、
この師団の歴史がキチンと理解できるものでした。

5時間ほどかけて読みましたが、満足度の高い一冊でした。
次の大日本絵画の大判の写真集としては、「重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編」を
まずやっつけるつもりですが、本書の著者J.ルスタンのもう一冊、
「続・クルスクの戦い―戦場写真集北部戦区1943年7月」が先になるかも知れません。。

などと考えながら、昨日たまたま立ち寄った本屋さんの入り口に貼っていたポスター・・、
DeAGOSTINI の「隔週刊 コンバット・タンク・コレクション」。。
今週から発売で初回は890円也!
小走りに入って立ち読みしてみると、グロースドイッチュランドのティーガーE型の
1/72のコレクション・タンク付きでした。詳しくはコチラをどうぞ。
いや~、でも数年前に「鉱石」のシリーズを買いましたけど、1週買いそびれて挫折した・・
という苦い経験があるので、コレは悩みます。。









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カフカスの防衛 -「エーデルヴァイス作戦」ドイツ軍、油田地帯へ- [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

マクシム・コロミーエツ著の「カフカスの防衛」を読破しました。

今回が4冊目となった「独ソ戦車戦シリーズ」からの1冊です。
このシリーズは古書で安く出たのを見つけては買っているので、順番はメチャクチャですが、
2004年発刊のシリーズ5作目に当たるようです。
まぁ、シリーズ自体が時系列でもないので、特に問題はないでしょう。

カフカスの防衛.jpg

タイトルの「カフカスの防衛」はシリーズ中、最も地味ですが、副題でわかるとおり
1942年のドイツ軍夏季攻勢がテーマとなっています。
しかし「カフカスへの攻勢」ではなく、「防衛」であることからして、
ソ連軍中心なのもこのシリーズの特徴ですが、パッと思い浮かぶのは、
山岳部隊が作戦とは関係なく最高峰であるエルブルス山に登頂したことでヒトラーが激怒し
リスト元帥が解任されたことぐらいですから、しょうがありません。。

Gebirgsjäger 1.jpg

発動されたブラウ作戦でグロズヌイとバクーの油田を目指すリストのA軍集団。
第1戦車軍(装甲軍)と第17軍を中心に第4戦車軍の一部も含まれて、計22個師団で展開します。
第5SS師団ヴィーキングや、第2ルーマニア山岳師団、スロヴァキア快速師団など、
編成も細かく書かれていますが、なぜか軍司令官級の名前は出てきません。
第1戦車軍はフォン・クライストというのは割と知られていますが(元々クライスト装甲集団ですね)、
第17軍と聞いても・・?? 正解はルオフ上級大将でした。ご存知でしたか?
ちなみに第4戦車軍はお馴染みのホト上級大将です。

richard_ruoff.jpg

このような編成のドイツA軍集団が航空部隊の支援も得て、ほぼ一方的に進撃し、
ソ連軍は撃破されていくという戦闘の推移を写真と共に細かく解説。
しかし、独ソ双方が入り乱れて記述されているので、かなり混乱します。
いきなり「ドン集団」とか出てくると、うっかりドイツ軍だと思ってしまいましたが、
コレはソ連軍でした。。マンシュタインの「ドン軍集団」が編成されるのは、
スターリングラード包囲後でしたね。。

さすがソ連寄りの本書ですから、赤軍司令官や旅団政治委員は名前で登場し、
再編成された兵力6個軍の北カフカス方面軍司令官にはブジョンヌイ元帥が任命されます。
8月になってもドイツ軍の進撃を止めることが出来ず、マイコープの油田を放棄。
しかし施設の疎開と破壊を済まされて、ドイツ軍は何も手に入れることは出来ません。
後退戦闘を繰り広げてカフカス方面にA軍集団の全兵力をおびき寄せることに成功したソ連軍。
このスキにグロズヌイやバクー、ウラジカフカス、トビリシの守りを強固にするのでした。

Буденный Семен Михайлович.jpg

もちろん独ソ戦車戦シリーズですので、戦車による戦いや写真も多く掲載されています。
ソ連側ではT-34にKV重戦車が基本ですが、T-26やT-60といった軽戦車も多く配備され、
また、西側連合軍の米国からはM3軽戦車、カナダからはヴァレンタイン戦車が送られて、
本書の写真でも何枚か登場しています。

T-34_1.png

ソ連軍は中尉レベルまで名前が出てきますが、ドイツ側でも9月の下旬になってようやく、
ランツ集団なるものが登場。コレは第4山岳師団長のランツ将軍が率いる各山岳連隊と
オートバイ中隊、歩兵大隊からなる作戦集団です。
このランツ将軍は後にランツ軍支隊を率いた人ですね。
そういえばエルブルス山登頂~リスト元帥解任・・なんて話はちっとも出てきませんでした。。

Hubert Lanz.jpg

10月にはソ連第4親衛騎兵軍団の進出を察知して、第1戦車軍の左翼を守るために
砂漠戦の特殊訓練を受けた「F特殊軍団」が急派されます。
こんな軍団も初めて聞きましたが、「F」はこの部隊を組織したフェルミ将軍に由来しているそうで
編成は自動車化歩兵大隊3個、戦車大隊、砲兵大隊、工兵大隊が各1個、
さらに突撃砲中隊に、なんと航空隊まで1個保有しているという、まさに特殊部隊ですね。
そして首尾よく、ソ連第4親衛騎兵軍団を撃退しますが、本書では騎兵軍団側に問題あり・・と。
「ソ連第4親衛騎兵軍団は優柔不断かつ緩慢で、与えられた任務を遂行できず・・」

Russland_032.jpg

個人的には度々登場する「ソ連装甲列車」が大変楽しめました。
独立装甲列車大隊というのがいくつかあって、ドイツ軍戦車と航空機による攻撃を受けた
友軍列車を助けるべく、別の大隊の装甲列車が救援に向かったり、
戦闘の推移も時間単位で、直撃弾によって走行不能になると、戦闘車が放火されて誘爆、
砲身に敵弾が命中して、砲座担当班が全員戦死、その他の戦闘車も破壊されて、
生き残りは残存兵器を取り出して、遂に列車を放棄・・。

Бронепоезд_1942.jpg

一方、ドイツ軍も戦車5両、Ju-88が2機が撃破/撃墜されていますし、
別の装甲列車との対決では戦車23両が撃破され、Ju-87も2機が撃墜・・。
昔、ゲームでやりましたが、装甲列車との戦いは燃えるんですよねぇ。

Бронепоезд 1942.jpg

ドイツ軍の戦車はⅢ号戦車が中心に、Ⅳ号戦車もちょこちょこと。
鹵獲されたり、撃破されたりした写真がほとんどですが、
鹵獲したⅢ号戦車を何両か、ソ連軍は使用していました。

11月から12月になると、補給も苦しくなったA軍集団は、ソ連の戦車攻勢にもあって
防御戦闘が続き、部分的には包囲壊滅の危機も訪れますが、なんとか脱出突破に成功します。
南方軍集団の片割れB軍集団がスターリングラードで包囲されると、
第1戦車軍をスターリングラードの救援に向かわせないよう、壊滅を目指すソ連軍ですが、
戦車旅団と歩兵のスピードが調整できず、砲兵による支援砲撃も砲弾が無いことで、実施されず。。
このような詰めの甘さから逆に反撃を喰らったりとバタバタ感はぬぐえません。

5-SS-Wiking.jpg

スロヴァキア師団は同じスラヴ民族として、あまりソ連軍との戦いには積極的ではなかったそうで、
前線での逃亡や、ソ連軍に寝返る兵なども続出したため、ドイツ軍は建設部隊に
改編したそうですが、本書でも捕虜となったドイツ兵とルーマニア兵を護送する、
薄笑いを浮かべた寝返りスロヴァキア兵の写真が掲載されています。

155ページの本書ですが、さすが、あまり知られていない戦役だけあってしんどかったですね。
歴史に残るようなメインとなる戦いがないというのも要因のひとつですが、
特に地名・・。真ん中にカラーの戦況図がありますが、本文は聞きなれない地名がほとんどで
例えば「12月19日にはミトロファーノフ~ドブラートキンの東3㌔~アヴァーロフの東4㌔~
シェファートフの北東3㌔~レンポショーロク~ストデレーフスカヤの東1㌔の線に進出した」
こんな感じがほとんどですから、後半は地図見る気も起きません・・。
だいたい、いま書いたこの地名に誤字があるのかどうかも、確認する気にならず・・。
それでも写真も多くて楽しめる部分もありますので、今後もこのシリーズは読んでみるつもりです。




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