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マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーリヒ・フォン・マンシュタイン著の「マンシュタイン元帥自伝 一軍人の生涯より」を読破しました。

この1年半の間にマンシュタイン本が2冊も出版されるという異常事態。
ひとつは上下巻の伝記である「ヒトラーの元帥 マンシュタイン」、
もう一冊が1ヶ月ほど前に出た560ページの回想録です。
マンシュタインの回想録といえば「失われた勝利」がよく知られていますが、
あちらは1939年のポーランド戦から、すなわち第2次大戦に特化した回想録であり、
こちらはそれ以前、生い立ち~第2次大戦前まで・・というわけですね。
陸軍参謀本部でNo.2となり、また同僚らから「傲慢な性格」といった評価もあるなど、
特に平時の参謀本部の様子、有名軍人らの軋轢が赤裸々に・・、
なんてのをついつい期待してしまいます。

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「序章」は生い立ちから。
1887年11月24日、エドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将の第10子、
その後妻ヘレーネの第5子として生まれ、子供のいなかった母の妹ヘートヴィヒが
嫁いでいるマンシュタイン家に引き渡され、その養父母のもとで愛情に包まれて育ちます。

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父から受けた影響なども振り返りながら、自らの性格を自己分析。
曰く「私のなかに潜む反抗精神のおかげで、のちの人生においても、
私がまったく扱いやすい部下とされるようなことは、まずなくなってしまったのである。
少なくとも私を良く知らない相手からは、しばしば冷淡で辛辣な男だと思われたようだ」
そして父が贈ってくれたマンシュタイン家の歴史を書いた本の表紙には
「あくまで忠実に」・・これは、私のモットーとなった・・と。
いや~、いきなり意味深ですねぇ。

General Eduard von Lewinski, photographed in 1904, with his five living sons including, at his left shoulder, 14 year old cadet Erich von Manstein.jpeg

陸軍幼年学校時代の回想では、ベルリンの宮殿でドイツ皇帝臨席の祝典の様子が、
嬉々として語られます。
宮廷での「侍童勤務」がそれで、侍童衣装は裾が太股のなかほどまで届く緋色の長上着で
銀の組紐と肩章で飾られ、レースの飾りを胸と袖、白カシミアの半ズボンにつけ、
白い絹の長靴下、黒の留め金付きの短靴、特別の自慢だった優美な帯剣、
ダチョウの白い羽飾りの付いた平らな帽子で装束は完成。
本書にも写真が掲載されていますが、まぁ可愛らしい。。

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陸軍幼年学校の彼らは、お客の中でも特に軍の高官に関心を寄せます。
例えば、陸軍内で高い名声を博していた老伯爵ヘーゼラー元帥に、
大参謀本部の総長シュリーフェン元帥・・といった具合。

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皇太子の結婚式にも召集された侍童マンシュタイン。
前日に6頭立ての馬車でにぎにぎしくベルリンに迎えられた皇太子妃に
何千ものベルリンっ子たちが魅力的な外見の若い花嫁に喝采を送ったそうですが、
この人は以前、なにかで調べましたねぇ。ちょっと男前な感じで。。

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日本人として興味深かったのはこんな部分です。
「ほとんどすべての諸侯が代理人を結婚式に派遣しており、
日本の天皇も皇子を一人送り込んでいた。あいにくなことに彼は序列に従って、
食卓でロシアの大公と向かい合う席に着かなければならなかった。
当時、ロシアと日本はまだ戦争になってなかったが、大きな花かごが置かれ、
二人の対手が互いに見えないようにされた」
この結婚式は1905年6月6日、あれ? ひょっとして日露戦争の真っ最中??
天皇の皇子となると、大正天皇のことかも知れませんね。

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期待していた第一次世界大戦についてはわずか2ページ弱。
続く「結婚」には7ページを割いているわけですが、
まぁ「序言」でも小さな歯車の役割を果たしたに過ぎない・・と書いてますし。
こうして81ページから第1部「ライヒスヴェーア」が始まります。
ライヒスヴェーアとは、ワイマール共和国軍というか、
「ゼークトの10万人軍隊」と言った方が馴染みがありますね。

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「カップ一揆」に触れながら、第5歩兵連隊の中隊長としての部隊勤務、
そして参謀将校には慣例となっている、その2年間の中隊長勤務を終えて、
参謀部、当時は「指揮官幕僚将校」と呼ばれていた部署に配置され、
その後、1929年9月、ヴェーファー中佐の後任として、「T1・第1課長」に。
「T1」とは部隊局第1部のことで、参謀本部作戦部に相当するそうで、
ヴェーファー中佐とは、初代空軍参謀総長の、あのヴェーファーでした。

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所属している若い参謀将校にはホイジンガーやカムフーバー
T1部長で直属の上官はヘルマン・ガイヤー大佐。
曰く「ガイヤーはカミソリのような理解力の持ち主だった」
さらに1つ上の上官が部隊局長のアダム将軍で、事実上の陸軍参謀総長です。
バイエルン出身者が参謀本部のトップに召されるのは初めてのことで、
コッチコチのプロイセン軍人マンシュタインとの相性が心配になるものの、
「アダム将軍はいつも格別に親切で、全幅の信頼を寄せてくれたのである。
私も、彼を特別に尊敬していた」

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1931年、海外旅行に出かけることになったマンシュタイン。
行先はアダム将軍を招待したソ連であり、その随行者に選ばれます。
赤軍はできる限り多くのことを見せようと努め、陸軍大学校の講義をはじめ、
空軍大学校、近代的施設を備えた付属研究所も見学。
続いて、キエフとハリコフへ豪華な客車の旅。
巨大なトラクター工場は近代的で、すべて米国の機械を設置され、
格別に興味深かったと回想します。
そ~か。ハリコフはこのときに下見済みだったのか・・。

モスクワでは国防相ヴォロシーロフの客人となって、
クレムリン内にある彼の住居へ。部屋数も少なく質素な印象です。
この旅行中に知り合った軍司令官たちにはブジョンヌイもいます。
軍人らしく、ぶっきらぼうで豪傑。別れの宴では隣の席に。。
しかし「その他の軍指揮官たちのなかで、今なお存命なのは・・」とあるように
赤軍参謀総長のエゴロフや、「なんとも興味深い人物」というトハチェフスキーなど、
数年後にはほとんどが「粛清」されてしまうのです。
そのトハチェフスキーについては
「聡明で無遠慮でありながら、うちとけない男であると感じられた。
技術的協力には熱心だったけれども、フランスの方に共感を寄せていた」

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当然、「レーニン廟」詣では必須であり、レニングラードに寄って
エルミタージュ美術館見学も楽しみます。
翌年にもソ連再訪し、ロストフ、バクーからトビリシまで。
とある駅では、憧れていた楽園を見つけられずに失望した
ドイツの共産主義者との出会いも。。
う~む、マンシュタインがこんなにソ連通だったなんて知りませんでした。
「バルバロッサ」でレニングラード奪取を目指したマンシュタインに
そこを防衛するヴォロシーロフ・・なんて図式もありましたしねぇ。

ブラウ作戦の下見から帰国後、コルベルクの第4歩兵連隊猟兵大隊長を継承。
率直で正直、親切な人柄の上官として全員の尊敬を受けるのは
連隊長のシュトラウス大佐です。
時を同じくして「ヒトラー内閣」が誕生。本書も250ページからナチナチしてきました。

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コルベルクで経験した「大政治集会」ではフォン・シーラッハが演説し、彼の指導の下に
全ての青少年を結集すべしと大柄な態度で訴え、大いに尊敬されていたトロータ提督の
青少年団体をけなしたことで、若い軍人たちの感情を害します。

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別の集会には「プロイセン州首相」のゲーリングが登場するということで、
ベルリンから1個儀仗中隊を配置せよとのおかしな命令が・・。
儀仗中隊を出すのは国家元首の訪問に際してのことで、州首相は対象外。
そこで式典の際には儀仗中隊をゲーリングではなく、第4歩兵連隊長に
表敬報告させる意趣返しをし、連隊長は儀仗中隊を閲兵。
ライヒスヴェーアはナチ党の警護隊ではないことを示すのでした。

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将来、参謀本部の要職に配置するため、ベルリンの軍管区司令部の参謀長などを
経験しておくべし・・と陸軍統帥部長官(陸軍最高司令官)ハマーシュタインから
言われていたとおり、1934年2月、第3軍管区参謀長に就任したマンシュタイン。
同時に軍管区司令官だったフォン・フリッチュ男爵はハマーシュタインの後任となり、
フリッチュの後任の軍管区司令官になったのはプロイセン貴族のヴィッツレーベンです。
「2人の協力関係は意見の相違もなく、ナチ党、特にそのいかがわしい代表者に対しては
彼はあからさまな嫌悪を以て接したのである」
あ~、「ワルキューレ」参加組ですからねぇ。。

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また、助手の作戦参謀には伯爵フォン・シュポネック大佐がいたそうな。。
クリミア戦での独断退却→マンシュタイン激怒→死刑宣告の彼ですね。

軍管区参謀長として、ナチ党諸機関との協力が必要とされるものの、
ブランデンブルク州を支配していたのは、州長官兼大管区指導者クーベ
公式には自分は国防軍と結びついていると強調しつつも、本当のところは
国防軍の宿敵であり、特に将校に対して反感を抱いていたクーベ。。
「その不品行ゆえに、ヒトラーも罷免せざるを得なかったが、理解しがたいことに
戦争中にクーベを呼び戻し、」と、パルチザンに爆殺される最期までボロカスに紹介。
マンシュタインにも、ハイドリヒにも嫌われたまさに最悪の人物のひとりですな。

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このあたりから俄然、盛上ってまいりましたので抜粋しましょう。
「格別にまずかったのは、当軍管区には、突撃隊(SA)の高位の幹部も配置されている
ことだった。ベルリンにおいて突撃隊の頂点にいる男、カール・エルンストのことだ。
威張り散らすばかりの若造で、早くに厳しいしつけを受けていれば、ひょっとしたら
彼も何ものかになれたかも知れない。彼は、自分の地位は、軍団長に相当するものと
思い込んでいたようだ。エルンストの登場の仕方は、傲慢、不当な要求、
前代未聞の浪費といった点で際立っていた」と、ゲーリングも出席した
カイザーホーフでの結婚式にまで触れられています。

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「シュレージェンで突撃隊のトップにいたのは、悪名高いエドムント・ハイネスだった。
犯罪者的性格がはっきりとみられた人物だ。ブレスラウの司令官ラーベナウ将軍は、
これ以上、突撃隊の不法行為に反対するなら殺すとハイネスに脅されたことがあった」

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そしてここから軍vs突撃隊、6月30日に起こった「長いナイフの夜」事件までを
軍管区参謀長マンシュタイン自身の経験をもとに振り返ります。
「時を経るごとに、SA最高指導部が、少なくとも軍を支配下に置こうと企図していることが
いっそう明確になってきた。彼らはクリューガー上級集団指導者のもとに
教育訓練幕僚部を新設したのだ。軍管区司令部に寄せられる、SAが秘密裏に
武器を調達しているとの情報は週を重ねるごとに増していく。
レームが「国民軍」編成を求め、そのなかにライヒスヴェーアを吸収しようとしている
こともわかってきた。しかし国防相ブロムベルク将軍にとっては、我々の警告は
お気に召さぬものであった。ブロムベルクは完全にヒトラーに魅了されており、
私とヴィッツレーベンは反動だとみなしていたのである」

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「いずれにせよ、ヒトラーですら、彼のナチ党警衛隊と軍の緊張が拡大していくのを
看過することはできなかった。ゆえに調停を試みようと、軍、SA並びにSSの
高級指揮官を国防省に招集し、演説を行ったのだ。
直接ヒトラーを目撃し、その演説をじかに聴いたのは、このときが初めてであった。
ヒトラーは、国防軍こそが、国民中「唯一の武器の担い手」であるし、
これからも同様であると、明確に強調した。SAとヒトラーユーゲント
政治教育と兵役適格者の育成という仕事が割り当てられる。
だが、ヒトラーの説明に対して、SAやSSの一部指導者が示した態度から
我々軍人は、相手はこの協定を守らないだろうと結論付けたのみであった」

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「6月末、ベルリンでは緊張が進み、頂点に達そうとしていた。
SAがクーアフュルステン通りの軍管区司令部の向かい側にある家を押さえ
夜陰に乗じて、そこに機関銃を持ち込んだことが確認されたのである。
我々は執務所の衛兵を増強した。各部隊もまた、兵営が奇襲攻撃されるような
事態に備え、守備を固めておくべしとの指示を受領した。
軍管区司令部ではなく、グロース=リヒターフェルデに居住していた私は
6月30日直前の数夜においては、今夜にでもSAが自分を拉致しようと
するのではないかと覚悟していたのである」

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このようにして「長いナイフの夜」が発生し、シュライヒャーとブレドウ両将軍まで
殺害された軍と、その和解までの経緯が語られ、「そもそも・・」とまとめます。
「あのころ犯された決定的な誤りは、レームのような男を大臣に任命することに
内閣が賛成したことなのである。レームが同性愛の性交に耽っていることは、
そこかしこで噂されていた。法に従うならば監獄にいなければいけないような男が
入閣するということは、ほとんど想像を絶することと思われた。
ヒトラーが、もっと早くにレームと決別していれば、6月30日に実行された
血まみれの法律毀損は避けられたかもしれない」

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確かに水木しげるの「劇画ヒットラー」でも、
「お前はSAを野放ししすぎやしないか。苦情が絶えないじゃないか。
それとホモもやめてくれ。
いやしくも一国の大臣がホモなんて話、聞いたこともない」と
ヒトラーがレームに苦言を呈してましたからね。

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この殺されたシュライヒャーについて、10数ページ割いているのは興味深く、
人々は、陰謀家、権力を奪わんとした野心家、倒閣運動家、灰色の枢機卿
だと見たがっているものの、ワイマール共和国の安定のために尽くしたことも
忘れられており、ライヒスヴェーアを安定させ、それによって国家権力を
安定させようと、彼が努力したことについての判断も歪められているとします。
「シュライヒャー隷下で働いたことは一度もない」のに、マンシュタインのこの擁護は
ちょっと意外な感じがしました。

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また、マンシュタインが最も尊敬する軍人は1935年から参謀総長となった
ルートヴィヒ・ベックです。
「彼は徹頭徹尾遠慮深く、ゆえに、ことの裏側に常に隠れていた。
が、かかる特性には、その性格の誠実さと同じく、偉大なる作戦能力、
何ものにも左右されない明快な判断力、決して放棄されることのない義務観念、
多面的な教養が寄り添っていた。とにかく彼には、その偉大なる先達である
伯爵モルトケ元帥を彷彿とさせるものがあったのだ。
かのモルトケ元帥のおかげでドイツ参謀本部は世界的な名声を得たのだったが
実際、ベックを除けば、敢えてモルトケと比較できるような軍人には
私もお目にかかったことがない。
人間としてのベックは私が出会ったなかでも、最も貴族的なあり方をしていた。
それが仇となって、ヒトラーのごとき野蛮な輩に屈したのも無理はないことだと思われる」

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大絶賛ですが、平時の参謀総長なんであまり知られてないんですよね。
映画「ワルキューレ」のテレンス・スタンプといったら思い出す人がいるかも。。

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かつては陸戦の指揮に責任を負うカイザーの諮問役は参謀総長だけであり、
第1次大戦において、ヴィルヘルム2世の陸軍に対する統帥権行使は
名目的なものでしかなく、戦争指導は参謀総長に委ねられていたとした上で、
1930年代の陸軍参謀本部再生にあっては、まったく異なる事情に支配されます。

陸軍参謀総長はもはや、「最高司令官たる将帥」の相談役ではなく、単に
陸軍総司令官の相談役に過ぎず、それも彼が分担する領域に関してのみ。
さらに深刻なのは陸軍参謀総長が国家元首に直接働きかけるのは
不可能であり、国家元首と陸軍総司令部の間に、国防軍全体の最高司令官である
国防大臣が入ることによって、かつて「軍事の相談役筆頭」という地位から、
陸海空軍それぞれの総司令官の「補佐役相当」という三等職に転落・・。

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「装甲兵科の創設」は、思わず苦笑いしながら読んでしまいました。
当時、作戦部長・参謀次長だったマンシュタイン曰く
「陸軍拡張計画と禁じられていた兵器の導入に関して最優先とされたのは
装甲兵科の創設だった。まさにドイツ装甲兵科の創設者と呼ばれるグデーリアンは
彼の回想録で本件を詳述している。グデーリアンのタフさと戦闘的な気質がなければ
ドイツ陸軍が装甲兵科を保持することはなかった。戦争初期の数年間に
彼が挙げた戦果の大部分も、そうした性格に拠っているのだ。
しかしながら、装甲兵科の問題における陸軍参謀本部の活動は、
躊躇いがちなものだったとするグデーリアンの記述には賛成しかねる」

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「あらゆる革新者同様、グデーリアンが強い抵抗と闘わなければならなかったことは
間違いない。軍隊というのは、昔から保守的なものなのだ。
年長の将軍たちの多くが革命的なアイディアに対して、懐疑どころか、
拒絶を以て対応したこともはっきりしている。けれども、陸軍参謀本部が
装甲兵科の意義を認識しようとしなかったとか、グデーリアンに同調しようとせず、
この兵科が陣地戦を克服する手段になるとも思わなかったというようなことは、
絶対にない。両者の見解の相違は、むしろ本質的なところにあった。
彼の立場からすればわからないでもないが、グデーリアンが、ただ装甲兵科のこと
のみを注視していたのに対し、陸軍参謀本部は、陸軍全体のことに
目配りしていなければならなかったのである」

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戦車の運用は、装甲兵科によって集中的に行われることになるわけですが、
歩兵師団にとっても「機動性のある砲」が欲しいとマンシュタインが考えたのが
突撃砲兵」です。
参謀総長ベックでさえ「ふむ、マンシュタインよ。今度ばかりは君も的を外したな!」
と、当初は賛同を得られません。なにしろベックだけでなく、総司令官、
陸軍局長、兵器局長ら上層部は全員が砲兵出身であり、装甲兵科の者たちは
突撃砲兵を「ただ望ましくない競争相手」としか見ず、対戦車砲兵も
自分たちの専門の任務に他の者がもっと良い何かを得るなど許すハズもなし。
まぁ、そんな経緯からマンシュタインもグデーリアンの気持ちが良くわかるんですね。
そうか、陸軍大学校の同期生だったっけ。。

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1936年、ナポリ周辺で実施されたイタリア軍の演習の客になったマンシュタイン。
軍事的な面以外にも、特に彼のムッソリーニ評が印象的でした。
「現在の私は、ムッソリーニはいつでも人間的であったと言いたい。
ムッソリーニは、ヒトラーのような意志と知性だけの人というわけではなかった。
同様に彼がその「使命」についての思索だけに囚われていなかったことも確かである。
彼の目的は、その国民を以て、新たなローマ帝国を打ち立てることだった。
だがムッソリーニが祖国の運命と自らを同一視することは、ほとんどなかった。
ヒトラーが次第にそうした方向に傾いていったのとは、違うやりようだったのだ」

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陸海空3軍の差異についても言及します。
陸軍は数世紀に渡る伝統に一番深く根ざしているのは確か。
海軍も一定程度同様ながらも、カイザーの海軍。
空軍はナチ体制の産物であり、トップにはヒトラーに続く党人ゲーリングが。。
そしてヒトラーが不機嫌そうに言った言葉を紹介します。
「私はプロイセンの陸軍、カイザーの海軍、ナチスの空軍を持っている」

この3軍を統括する国防相ブロムベルクは、空軍総司令官ゲーリングの
上官になるわけですが、他方、両者は大臣として同格というヤヤコシさ。
さらに新設のOKWにどこまで統合指揮権を渡すか・・というプライドを賭けた問題が。
マンシュタインは当然、海空軍の指揮権もOKHが握るべきだと提案。
この提案にヨードル大佐は「何とも頭が痛いのは、OKHに居を構えているのは
最強の人物だということですよ。もし、フリッチュ、ベック、そして貴官がOKWにいたら
まったく別のことを考えるでしょう」

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こうしてブロムベルク=フリッチュ事件へと進み、
フリッチュの後任にはブラウヒッチュが、さらに大規模な人事異動により、
マンシュタインも次長の座を解任され、第18師団長に任命されます。
マンシュタインの後任はハルダー、ベックも怒りをあらわにします。
将来の参謀総長候補と目され、ベックの後任にと噂された、
参謀将校にとって最も栄光のある望みは潰えたマンシュタイン。

このあたり「ドイツ参謀本部」では、ベック参謀総長と、彼が後継者と目していた
マンシュタインのコンビがブラウヒッチュ総司令官にとって決して魅力のあるものではなく
この強力にして自信に満ちたプロイセン人を追い出すのに反対する理由はなかった・・
とし、軍管区司令官当時のブラウヒッチュが参謀本部から派遣されたマンシュタインの
高飛車な態度に腹を立て、その恨みが尾を引いていた・・とも。
本書では具体的な話はなく、ブラウヒッチュとも協力していると感じました。
ひょっとしたらマンシュタインが、その恨みに気づいていなかっただけかも。。

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最後はチェコ問題で戦争の危機。ベック抗議の辞任、ハルダーによる反乱計画
ミュンヘン協定」によってその計画もフイになるところまで。

非常に幅広い回想録で、ひとつひとつのエピソードも緻密に感じました。
どの時代のエピソードに興味を感じるかは人それぞれだと思いますが、
能無しの上官に、役立たずの部下の実名を挙げては毒づく・・ということもなく、
個人的には「ソ連ツアー」と「突撃隊バトル」を楽しく読みました。

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また、後半どうしても考えてしまったのは、
「もし」ハルダーに変わることなく参謀総長になっていたら・・?
ヒトラー排除を目論む尊敬するベックに従ったのか?
参謀総長として全く同じ「マンシュタイン・プラン」が立てられたのか?
あるいは「超」マンシュタイン・プランになったのか?
「バルバロッサ作戦」はもっと戦略目標が明確になったのか?
など、多少はその結果が違った気がします。
でもハルダーよりは早く罷免されそうですな・・。

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「最高の戦術家」は参謀であるべきなのか、前線の司令官であるべきなのか
そんな答えのないことまで悶々と考えを巡らせてしまう一冊でした。
それにしても1958年の本が、60年を経て翻訳出版されるのは素晴らしいことです。
今後も第2次大戦を経験した軍人の回顧録がバンバン出ることを希望します。










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ヒトラーの絞首人ハイドリヒ [SS/ゲシュタポ]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロベルト・ゲルヴァルト著の「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」を読破しました。

前回、ホト爺の回顧録を読み終えて、この2年の間にグデーリアンやロンメル、
マンシュタインの本が出版され、次はナニを・・と書きましたが、
独破戦線の休止期間中には第三帝国の軍人だけではなく、
ナチス幹部らに関する本も何冊か出ていました。
例えばローゼンベルクだったり、フライスラーだったり・・。
ですがココは1年半前に出版された、524ページに及ぶハイドリヒ伝を選んでみました。

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まず巻頭には20枚ほどの写真が・・。
ヒムラー、ゲーリング、カール・ヘルマン・フランクらとの有名な写真から、
パパ・ハイドリヒ、姉マリアとの可愛らしさ溢れる2ショットなどです。

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そして第1章は「プラハに死す」。
おっと、主役がいきなり暗殺されてしまうとは。。
この章は20頁に簡潔に書かれており、以前に「暁の七人-ハイドリッヒの暗殺-」や
HHhH -プラハ、1942年-」など、いろいろ紹介してるので割愛します。
そういえば、『ハイドリヒを撃て 「ナチの野獣」暗殺作戦』、まだ観てないですよねぇ。

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第2章は「若きラインハルト」で、父ブルーノの生い立ちから、音楽学校を創設し、
かなりの財力と社会的地位をもった家庭に生まれたラインハルト。
家長として家業を継ぐべく、幼少期からピアノにバイオリンのレッスンを始めます。
しかし1922年、第1次大戦後のインフレ、音楽学校経営の悪化・・という事実の前に
海軍士官の道を歩むことを決意するのでした。。

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1930年には美しい19歳の金髪女性リナ・フォン・オステンとの運命的な出会い。
恋の虜となったラインハルトは早速、リナに手紙を書きます。
「ぼくの最愛の最愛のリナ! 
ぼくはきみに知ってほしかった。ぼくがきみのことばかり考えてるってことを。
ああ、どんなに深く愛していることか、きみを、きみを!」

書いてる方が恥ずかしいのでコレくらいにしますが、
この当時、リナは確信的なナチ党支持者でバリバリの反ユダヤ主義者、
兄のハンスは3年の党歴を持ち、突撃隊(SA)のメンバーなのでした。

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そしてコレまた運命的なベルリンの「女性問題」が発覚します。
本書でも「このベルリンの女性の身元について確実に言えることは、
彼女の父親が海軍上層部に密接なコネクションを持っていたに違いないと
いうことぐらいである」とハッキリしませんね。

ラインハルトの裏切りによって「神経症」になってしまった娘の父親は、
海軍総司令官のレーダーに訴状を提出したことで、軍事名誉法廷で
事情説明を求められたハイドリヒ。
「婚約不履行」は士官の即刻罷免に繋がるほど重大な違法行為ではないものの、
「相手女性が性的関係をリードしたのだ」と主張し、結婚の約束も否認。
自分には何の落ち度もないかのような口ぶりが、3人の海軍軍人の神経を逆なでし、
最終的にはレーダー提督の裁きによって「直ちに罷免」。。

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桧山 良昭 著の「ナチス突撃隊」には、
1931年にヨットに乗りたくて入党したSA船舶隊長、ハイドリヒ・・
という記述があってビックリしましたが、本書でもそのような経緯はなく、
とりあえずSSのヒムラーと面談し、無事、舎弟となったハイドリヒ。
ハンブルクのSSで勤務する新人ハイドリヒは、暴れ加減では経験豊富で、
後に盟友となるシュトレッケンバッハに出会い、
共産党などの演説会場への「殴り込み部隊」のリーダーとして急速に悪名を獲得。
ハンブルクの共産党員からは「金髪の野獣」と呼ばれるように・・。
確かにこの章タイトルは「ハイドリヒ誕生」でした。。

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ヒムラーが「美しいカップル」と呼んだ、新婚のハイドリヒ夫妻は
ミュンヘン郊外に小さな家を借ります。
そんな新生活も若奥さんのリナにとっては新しい環境の中で孤独の日々。
旦那は新設の「SD」の職務に忙殺されて、家にいる時間はごくわずか。
オマケに旦那の上司ヒムラーの奥さん、マルガレーテとちょいちょい顔を合わせるも
「陳腐な、ユーモアのない女性」と評して、好きになれず・・。

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1934年春までにドイツの州のほとんどの政治警察組織を管理下に置いた
ヒムラー&ハイドリヒのコンビですが、最も重要なプロイセン州のゲシュタポ
仕切っているゲーリングをだまくらかしてなんとか掌握。
ハイドリヒはバイエルンの政治警察からハインリヒ・ミュラーヨーゼフ・マイジンガー
といった信頼する部下を呼び寄せます。
こうしてレームとSAの粛清、「長いナイフの夜」へ。

勝利と成功を証明したSSがより強力になることをよく思わない勢力も存在します。
内相のフリックはドイツ警察に対する自分の権威がヒムラーとハイドリヒによって
切り崩されていることに苛立ち、レーム事件で数名の将軍が殺害された軍部も同様。
他方、陸軍保守派をイデオロギー的に信用し難いと考えるヒムラー&ハイドリヒ。
もちろん軍の情報部門アプヴェーアのカナリスとの駆け引きも始まってきます。

Reinhard Heydrich recibe al Ministro del Interior Wilhelm Frick.jpg

また奥さんリナの戦いは1937年になっても続いています。
それは頻繁にハイドリヒ家を訪れるヒムラー夫妻。
マルガレーテはSS全国指導者の妻としての風を吹かせてリナに説教し、
「リナと離婚するようハイドリヒに言ってほしい」と旦那に迫るほど。。ひぃぃ、コワイ!

Heinrich Himmler and his wife Marga.jpg

オーストリア併合では、ウィーンに一番乗りした人々の中にヒムラー&ハイドリヒがおり、
一斉逮捕の第一波の指揮と、オーストリア警察の「浄化」に取り組む様子が詳しく。
このあたりは今まで読んだ記憶がなく、興味深かったですね。
続くズデーテンラント問題では、両国政府が全面動員を開始するなか、
ハイドリヒは「アインザッツグルッペン」2個の結成を承認。
次のポーランド戦では、ドイツ軍の侵攻3時間前に書かれたリナ宛ての遺言書が
1ページに渡って掲載されており、コレはかなり印象に残ります。
3回読み直しちゃいました。

Reinhard & Lina Heydrich with their son Karl.jpg

第6章「大量殺戮の実験」は、ポーランド戦での「アインザッツグルッペン」の様子が。
ハイドリヒが視察した部隊はシュトレッケンバッハとウード・フォン・ヴォイルシュ。
抵抗分子には最大限の過酷な手段によって対処すべきだと繰り返し、
ユダヤ人については徹底的に弾圧し、独ソ境界線を越えて東方への逃亡を仕向けるよう
命令するハイドリヒと、そんな任務にうってつけの男であるヴォイルシュ。
数日間で500人のユダヤ人の命を奪い、シナゴークで焼殺、農村部で銃殺と努力を倍加。

udo von Woyrsch.jpg

西プロイセンではヒムラーの個人副官ルドルフ・フォン・アルフェンスレーベン指揮のもと
4000人以上のポーランド人を殺害して、特別の悪名を獲得するのでした。

von Alvensleben.jpg

翌年の「西部戦線」はハイドリヒにとっては敗北の日々。
なぜならポーランド戦でアインザッツグルッペンが過度の暴力を振るったことで
陸軍がSSの参加を拒否。まぁ、武装SSとは別の・・という意味でしょうね。

そんなわけでノルウェー戦線で一時的にドイツ空軍に参加する許可をヒムラーに求めます。
1935年からスポーツパイロットとしての訓練を受けており、ポーランド上空で
射撃手として空戦デビューを果たしていたハイドリヒ。
表向きはどこかの部隊の空軍大尉ということで、4週間、「戦闘機中隊77」に所属して
退却するノルウェー軍を空から襲撃し、同僚士官と酒を酌み交わし、トランプに興じたり。

pilot heydrich.JPG

「自分は元気です」とヒムラーに報告すると、
「終始、君のことを考えている。元気でいて欲しい。
もう一度、君の健勝と無事を祈る!
できることなら毎日便りをしてもらいたい」
と、直ちに返信を送るヒムラー。変な想像はイケませんぜ。。

Reinhard Heydrich Heinrich Himmler.jpg

さらに「バトル・オブ・ブリテン」の航空作戦にもハイドリヒは参加するつもりであり、
英国を征服した際には、アインザッツグルッペンの責任者にはジックスを任命。
ゲシュタポ用のハンドブックを作成しているのはシェレンベルクです。
「GB特別捜査リスト」として挙げているのはチャーチルやイーデンといった政治家の他に
H・G・ウェルズの名前まで・・。
もはや「SS-GB」の世界の一歩手前といった感じですね。

翌1941年は再び、ハイドリヒと彼の「アインザッツグルッペン」の出番がやって来ます。
陸軍補給局長エドゥアルド・ヴァーグナーと交渉し、SSと国防軍の協力で合意します。

Eduard_Wagner.jpg

ネーベラッシュオーレンドルフが率いる各部隊に、
シュターレッカーのA部隊の17人の指導的将校のうち11人は法律家であり、
9人は博士号取得者で、古参党員も多く、ハイドリヒのSDで昇進してきた
40歳未満の高学歴者が中心。彼らは無慈悲さと実践主義を体現したのです。

6月11日、ヒムラーはヴェーヴェルスブルク城にSSの大物たちを招集します。
ハイドリヒにダリューゲヴォルフ、そして占領下ソ連領を管理するために任命された
SS・警察高級指導者のプリュッツマンバッハ=ツェレウスキイェッケルン
席上、「東ヨーロッパ住民が3000万人は死ぬだろう」と述べるヒムラー。
いや~、スゴイ面子の会議だ。「ヴァンゼー会議」より興味があります。

Heinrich Himmler looks on as Heydrich and Himmler's personal adjutant, Karl Wolff.jpg

バルバロッサが始まり、前線後方でパルチザン活動が勢いを増し始めると
国防軍も虐殺行為に対して寛容になったばかりか、自身も喜んで参加するように。
ハイドリヒがアインザッツグルッペンの視察に訪れれば、上司にイイトコ見せようと
いつもより多く殺してしまうのも理解できます。。

そんなころ、ハイドリヒに衝撃的な決定が・・。
対ソ連終結のあかつきには、占領地域は「東部占領地域大臣」ローゼンベルク
全面的統括下の文民機関によって統治されるというヒトラーの決定です。
SSは新占領地域の治安維持業務に限定されたことで、ハイドリヒはさしずめ
ローゼンベルクとSSの連絡将校というショボイ立場に。。

Hitler gratuliert Alfred Rosenberg zum Geburtstag, 1938.jpeg

ローゼンベルクの新占領地域はいくつかの管区に分けられ、各々に特別委員が任命。
その特別委員を絶対的ライバルと見るハイドリヒ・・。
オストラント帝国管区のヒンリヒ・ローゼ、
ウクライナ帝国管区は肥満漢エーリヒ・コッホ
白ルテニアの行政委員となったヴィルヘルム・クーベは虚栄心が強く腐敗した男で、
1935年にハイドリヒが彼の身辺を捜査した結果、横領で有罪となり、
一時、党の全役職を剥奪されたことでハイドリヒに恨みを抱いている男。
ただナチ党歴が古いというだけで東方での重要な地位に任命されている連中に、
ハイドリヒは嫌悪感を覚えるのでした。

Hinrich Lohse Wilhelm Kube.jpg

今度はヒムラーに内緒で、Bf109に乗り込んだハイドリヒ。
この機はウーデットから、夜間の空襲中にベルリンを通行する特別の警察許可を
与えるのと引き換えに借りていたようですが、辿り着いた部隊はまたも「戦闘機中隊77」。
コレは翻訳の問題か、おそらく第77戦闘航空団(JG77)だと思います。

Aircrew-Luftwaffe-pilot-SS-Obergruppenfuhrer-Reinhard-Heydrich.jpg

そしてハイドリヒは対空砲火により被弾し、ロシア軍前線付近に不時着。
数時間後、斥候兵が不時着したパイロットを救出の報告が入ります。
しかしそのパイロットは外傷はないものの、脳に損傷を受けている可能性が・・。
自分のことを「RSHA長官」だと言い続けている。。
この直前に英国へ飛んで行き、「自分はナチ党副総裁だ」と言った人を思い出しますねぇ。

Heydrich in his Luftwaffe uniform.jpg

アルコール依存や精神障害の例が見られるとの報告を頻繁に受け、
銃殺というアインザッツグルッペンの処刑方法に疑念が出始めると、
いよいよアイヒマンだのガス・トラックだのガス室だのという「ホロコースト」が。
「狂信的で陰険なオーストリア人」と紹介されるのはグロボクニクです。

このように、後世にも名を残す極悪非道のアインザッツグルッペンを指揮し、
ユダヤ人問題の最終的解決を目指す「ヴァンゼー会議」も紹介されたあと、
337頁から第8章「保護領の支配者」が始まります。

600px-Polish_farmers_killed_by_German_forces,_German-occupied_Poland,_1943.jpg

ちなみに本書はこれまで語られてきたハイドリヒのイメージ、
すなわちシェレンベルクが「凄まじく野心的」、カール・ヴォルフが「悪魔的」と評した
金髪の野獣ハイドリヒのイメージを踏襲するような伝記ではなく、
あくまで現存する公的な資料、残された手紙、理性的な証言を元に書き起こされており
逆に言えば「ハイドリヒってどんだけ悪い奴やねん・・」という極悪人エピソードの連発に
思わず苦笑いしながら楽しむ本ではありません。
裏の取れないハイドリヒ極悪人伝説は極力排除し、あるいは有名な逸話を紹介した場合でも
「証明されていない」と、あくまで「噂」の域を出ないことを明確にします。

まだバルバロッサとアインザッツグルッペンが進撃中の1941年9月、RSHA長官としての
職はそのままに、ベーメン・メーレン保護領副総督に任命されたハイドリヒ。
総督ノイラートの緩い保護政策を回復させるだけでなく、ベルリン、ウィーンと並び、
プラハが「ユダヤ人ゼロ」とされるべき主要都市の一つとしてヒトラーが選んだことによる
人選であり、それを急速に実行するのにうってつけだったのがハイドリヒ・・というのが
著者の見解です。ふ~ん。なるほどねぇ。。

Emil Hacha heydrich.jpg

この対ソ戦の勝利を目前としてベルリンから離れざるを得ないハイドリヒですが、
SS大将及び警察大将に昇進し、口うるさい占領地行政官やガウライターらとの軋轢もなく、
思いっきり自身のSS政策を実行でき、なにより、保護領総督の地位は「総統直属」であり、
ヒトラーとの直接の接触の道を開いたということになるわけです。

そして保護領内の4つの大管区、ズデーテンラント、オーバードナウ、ニーダードナウ、
バイエリッシュ・オストマルクの外見に加え、知的能力も劣ったガウライターらに
攻撃を開始し、最も頑強な抵抗者ニーダードナウのフーゴ・ユリを名指しして、
自分の計画を混乱させる元凶だと痛罵。
非協力的なナチ党官吏たちも容赦なく解任するのでした。

Hugo-Jury-Niederdonau.jpg

抵抗運動の抑え込み以外にも重要な仕事、それは「保護領のゲルマン化」です。
チェコ人は基本的にスラヴ民族とされているわけですが、SS人種専門家の意見では
チェコ住民の相当数は本来ドイツ系であり、ほぼ50%は貴重なゲルマンの血を
保持しているというもの。
本土からの入植によってドイツの血を再獲得し、増大させることが必要なのです。
例えばドイツ人と結婚したチェコ人女性から生まれてきた子供はドイツ人といった具合。
しかし事柄を複雑にしたのはスラヴ人とは何か、ドイツ人とは何かについて、
なんら明確な定義が無いという事実にハイドリヒも悪戦苦闘。。

Heydrich,  Karl Hermann Frank.jpg

1942年3月にはハイドリヒの親密な仲間でありアインザッツグルッペンの指揮官であった
シュターレッカーがパルチザンに殺害されるなど、占領下各地で抵抗運動が激化。
5月、軍政の敷かれたパリでもSSが権力拡大を目指し、ハイドリヒのかつての個人副官
オーベルクを責任者に据えると自身もパリへ飛び、ホテル・リッツで就任式を主宰します。
こうして運命の5月27日の朝をプラハで迎えることになるのでした。

Heydrich-Reinhard-8.jpg

最後の第9章は「破壊の遺産」
ハイドリヒの国葬の様子が詳細に、そして報復となる「リディツェ村の惨劇」と続き、
デスマスクをあしらった「ハイドリヒ記念切手」が発売。
翌年には米国で「死刑執行人もまた死す」が上映。
また、亭主を失ったリナの生活とその戦後。



今回は初めて本書で知った、または興味深いエピソードを中心に紹介しました。
本書でも途中、触れられていたと思いますが、とにかく警官の経験もなく、
警察の仕事は知らない、あるいは一つの国を統治するなどという行政の経験もない
ハイドリヒが次から次へとそれらをこなしていくというのは、単に能力だけではなく、
膨大な仕事量であり、どれだけのエネルギーが必要だったかは、
社会で仕事をした人なら容易に想像がつくでしょう。

しかも「ヒムラーとヒトラー 氷のユートピア」という本がありましたが、
彼らの夢想を実現する、現実化するのがリアリストであるハイドリヒであり、
その部下をコントロールする手腕と、敵対する官庁への根回しや調整能力といったものも
抜群だったのではないか・・と想像できます。

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ヒムラーのように1900年生まれとか、ハイドリヒのような1904年生まれというのは
ちょっと兄貴の世代、5歳年上、場合によっては1歳年上の人が第1次大戦に従軍しており、
男として、その軍人としての経験を味わうことなく育ったという劣等感がある気がします。
軍の前線に追随し、命の危険もあるアインザッツグルッペンに若いエリートを派遣したり、
今次大戦が続いているうちに、戦闘機パイロットとして活躍しておきたいという願望など
単にSSという組織で出世することだけが目標ではない、
自身の理想とする男としての渇望がハイドリヒを一心不乱に向かわせたのではないか?
そんな風にも感じました。

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例えばプラハで護衛も付けずにオープンカーに乗っていたのも、
私がドイツ国民に襲われるわけがない」と公言し、オープンカーに乗っていた
1930年代のヒトラーを彷彿とさせますし、襲撃された際も、
全速力で逃げればよいものを、わざわざ停車させて拳銃を抜き、自ら暗殺者を
倒そうとする行動は、ここまで成り上がって来た彼の生き様そのものにも思えます。

良くも悪くも、丸々1週間ほどハイドリヒと向き合う生活を送り、
精神的にもグッタリと疲れた1週間となりました。










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