SSブログ

ナチ・ドイツ清潔な帝国 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

H.P.ブロイエル著の「ナチ・ドイツ清潔な帝国」を読破しました。

1983年、293ページの本書はかなり前からチェックしていたものの、スッカリ埋もれていました。
なにか調べ事をしていた際に本書の存在を思い出しましたが、内容紹介では、
「性、家族、風俗、教育、犯罪などに絞って「悪夢のような時代」を社会学的にとらえる新ナチ論」、
そして「各章にナチ高官の人物描写をはさみ・・」というのにも惹かれました。
タイトルも嫌味半分な感じで悪くないですし、表紙も行進するBDMさんたちで実に悪くありません。

ナチ・ドイツ清潔な帝国.jpg

序盤では19世紀のドイツから1920年代、ナチス政権になる前の道徳観、
女性や性に対する考え方が如何なるものだったのかを丁寧に解説します。
1927年のベストセラー、ミュンヘン大学教授マックス・フォン・グルーバーが書いた
「性生活の衛生学」では、「性交は結婚において行われる。女性は結婚まで純潔に生きるべきで、
男性は禁欲に努めなければならない。結婚の目的は子孫の産出と教育である。
民族の成長は、少なくとも4人の子孫を産むことを要求している。」
と、まぁ、現代からすればとても保守的な考え方ですね。

そしてまたヒトラーもこう語ります。
「結婚にしてもそれ自体が目的ではなく、種と民族の増加と維持という、より大きな目的に
奉仕するというものでなければならない。それのみが結婚の意味であり、任務である。」
基本的にはミュンヘン大学教授の言ってることと、ほとんど変わらないわけです。

Standartenfuehrer Richard Fiedler during his wedding ceremony with Ursula Flamm in 1936.jpg

ヒトラーの生い立ちを振り返りながら、プライベートでは女性に対して奥手であった彼が、
ナチ党演説家として頭角を現してきた頃、数多くの中年のご婦人が彼を「庇護」したことに触れ、
学校教師の未亡人カローラ・ホフマン、出版社社長の妻エルザ・ブルックマンといった女性が
ヒトラーを社交界にデビューさせ、資金的にも援助。
ピアノ製造業者の妻、ヘレーネ・ベヒシュタインは、オーバーザルツベルクの別荘に彼を迎え、
社交界向きに教育したと紹介します。

その2人について、オットー・シュトラッサーは、
「母親らしい優しさの混じったエクスタシーすれすれの愛」と大袈裟に語ります。
「ごく少数の友人しかいないときには、ヒトラーは堂々たる女主人の足元に座った。
彼女はその大きな子供の頭を撫で、『狼ちゃん、私の狼ちゃん!』と優しく言ったものだ」。
ちょっと気持ち悪い話ですが、当時、アウトサイダーだったヒトラーには
成熟した女性を引き付ける魅力と、それを利用する才能があった・・としています。

With Helene and Edwin Bechstein.jpg

このように章の後半はまず、「ヒトラーの例」として姪のゲリエヴァ・ブラウンとの関係も紹介し、
次の章へと進みます。
主に女性の労働について書かれたこの章では、ナチスは女性過酷な労働を求めず、
夜間の労働や、鉱山建築業での資材運搬、鉄道、バス、トラック運転手は禁止。
しかし戦争も2年目の1940年にもなると、そのような通則も形骸化していくのでした。
そして「ゲッベルスの例」では、彼の妻マグダと、愛人リダ・ヴァーロヴァとの不倫問題が・・。

Helferin de la Deutsche Reichsbahn.jpg

「喫煙は私の最後の楽しみ」と語っていたゲッベルス
戦争時には1日30本を目立たぬように吸っていたそうですが、総統の前では当然ガマン・・。
その総統曰く、「肉食はアルコールを呼び、そのあとにはニコチンが続く。
一つの悪徳は次々と別の悪徳を招きよせるものだ・・」という信念であり、
戦争が終わったら、国民すべてを菜食主義者にさせようと考えている狂信的な禁欲主義者です。

ナチス最大の組織である「労働戦線」のロベルト・ライは、「仕事に支障をきたさない限り、
好きなだけ喫煙、飲酒してもかまわない」とする一方、「男子たる者、自分自身を意志に従わせる
力を持たねばならない」と力強く語るものの、当の本人の綽名が『帝国泥酔官』。。

Ley.jpg

5月1日は「労働の日」と制定され、4月20日の「総統誕生日」など、ナチスの祝日を紹介。
12月のゲルマン的「冬至祭」を導入するにあたっては、かなりの苦労をしたようで、
火の輪や、かがり火といった昔風のシンボリズムは、ゲルマン志向のSSでさえ、
有難がらなかった・・と。この辺りは「ヒトラーに抱きあげられて」でも書かれてましたねぇ。

Adolf Hitler getting some presents from Santa Claus.jpg

「エルンスト・レームの例」はやっぱり男色話に終始します。
1925年、17歳の男娼をホテルに連れ込んだレームですが、慎み深い男娼は逃げ出してしまい、
「ボクにはとても出来ないようなイヤラシイ性交を要求されて・・」。
そんなレームの性癖と部下のハイネスヒトラー・ユーゲントに悪影響を与えていることも
知っていたヒトラーですが、彼らを一時的に追放したのは、政策の相違と命令無視によるもの。
しかしボリビアでレームは思わぬ苦労をするのです。
「ここでは『私の好むやり方』が知られていない」。

SA Chief of Staff Ernst Roehm as a guest at the wedding of the SA Chief of Berlin Karl Ernst in May 1934..jpg

次の章、エリート養成学校の話がこれまたナチスらしい。
1933年に「ナポラ」を開校した文部相のルスト
1936年にはSSのハイスマイヤーに引き継ぎますが、これが面白くないのがロベルト・ライ。。
シーラッハと共同で、「アドルフ・ヒトラー学校」を開校すると、SS贔屓のルストも驚きます。
しかし文部相に対してライは断言。「アドルフ・ヒトラー学校は君には何の関係もない」。

Exams in the schools Adolf Hitler_ The Dr_ Ley, Schwarz and Baldur von Schirach, all they have remained admired of the high level of know-how of the st.jpg

シーラッハが登場してくれば、当然、青少年の鑑、ヒトラー・ユーゲントの厳しい現実が・・。
1941年にある裁判所管区で「刑法第175条」違反で告訴されたHJ団員は16名。

「刑法第175条」とは男性同性愛を禁止したもので知られていますが、
ナチス特有のものではなく、ドイツでは1871年から1994年まで施行されているんですね。
その他、NSFKの航空教官がHJ生徒と少なくとも10件の違反で3年の懲役刑。

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マインツではHJ指導員が、20名の少年に対して28件の罪を犯し、4年の懲役・・。
そんなヒトラー・ユーゲントの教育はスポーツ、軍事教練、そして世界観教育です。
キャンプの合宿所には映写機が備えられ、5000本のフィルムが毎月配給されます。
それらのタイトルは「健康な家庭」、「遺伝的疾病のある子孫」、「五千年のゲルマン文明」、
「ヴェルサイユ条約とその克服」、「旧い軍隊から新しい軍隊へ」などなど・・。

hitlerjugend swim.jpg

10歳~14歳の子供たちはこのような映画や合唱、討論会で喜ぶものの、
年長の17歳、18歳にもなると、ウンザリした様子が見え始めます。
彼らにとって「ほんものの少年」らしく振る舞うことは、あまり魅力的でなくなり、
無菌状態のHJ合宿所よりも、タバコの煙だらけの酒場にいるほうが男らしく感じるのです。
ですよねぇ。16歳にもなって半ズボンを履くのに耐えられない・・なんて話もありましたっけ。

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1937年には300万人団員を数える世界最大の少女組織、「女子青年団(BdM)」。
その頭文字を取って、「ドイツ男子の必需品」、「ドイツ牝牛団」などと綽名されています。
BdMを卒業すると、「信仰と美」と名付けられた組織に行くか、ショルツ=クリンク
「ドイツ婦人労働奉仕団」へと進みます。

ヒールルの「労働奉仕団(RAD)」に吸収されて、「女子労働奉仕団(RADwJ)」となりますが、
これについては、いくらかでも重要性のある党下部組織は、女性指導者には任せられない、
ハイスマイヤーの妻として、帝国最高位の母親でさえ、飾り物に過ぎなかった証拠とします。

gertrud-scholtz-klink-1939.jpg

指導的女性、指導者の奥さんともなると、いろいろと頭痛の種にもなってきます。
ヒムラーもあるSS大将に憂慮の手紙を書くことに・・。
「きみの奥さんが大管区の政治問題や、指導者個人についてあちこちの場所で
ハッキリ意見を述べたてないよう、よくしつけてくれたまえ」。

闘争時代には彼女たちは良き主婦、熱心な助力者として役に立ったものの、
いまではその夫たちは国家の高い地位に登っているのだから、
彼女たちのそういう単純な才能ではもはや不十分だという理屈を持ち出すのです。

Heinrich Himmler spricht vor BDM-Unterführerinnen, 1937.jpg

こうして「ヘルマン・エッサーの例」としてナチ式離婚を紹介。
古い党員で、ゴロツキと評判だったエッサーは、絶え間ない女出入りで悪名を轟かせ、
様々な女に貢がせていることを公然と自慢するような男・・。
政権獲得後も、最高位の役職に就く柄ではなく、帝国会議の第二副議長やら、
帝国観光交通協会の会長や、観光委員会の会長代理とかならなんとかなるといった程度。
そんな男が愛人と一緒になるために繰り返した離婚訴訟がこの章のトリになるのでした・・。

Hermann Esser.jpg

このような矛盾だらけのナチス表すような「真のドイツ人のモットー」とは・・

ヒトラーのように子だくさんであれ、
ゲーリングのように地味で質素であれ、
ヘスのように忠実であれ、
ゲッベルスのように寡黙であれ、
ライのようにシラフであれ、
ショルツ=クリンクのように美しくあれ!

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ナチス・ドイツにおける最高級の勲章のひとつに「母親十字章」がありますが、
このような「産めよ増やせよ」政策のために、1000マルクの結婚資金貸付制度が誕生。
子供一人産むと250マルクが免除になり、理想とされる4人産んだらチャラになるわけです。

しかし、現実的には母親が一人で子育てと家事をこなすことは困難であり、
この問題に頭を痛めたヒムラーは、ポーランドとウクライナで人種的に許される女子を選び出し、
ドイツで3人以上の子供がいる家庭で女中や子守りとして働かせ、その報酬として数年後には、
彼女たちにドイツ国籍を与え、ドイツ人と結婚することを許そうという案をひねり出すのです。
コレは「遠すぎた家路」でも紹介されていたパターンですね。

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それでもヒムラーが考えるように事は簡単には運びません。
1944年になると、単に子供をたくさん! ではなく、男子の生産を増やしたい・・に変化。。
レーベンスボルン(生命の泉)に対し、「男女産み分け問題」というファイルを作らせ、
最初の資料をSS全国指導者自ら持参する気合の入りよう・・。

その資料には書かれていたのは本部長ゴットロープ・ベルガーが故郷の風習として語ったこと、
1週間酒を断った夫が正午に家を出て、20㌔を往復して帰り着くと、同様に1週間、働かず、
給養充分の妻と性交。するとアラ不思議、必ず男児が生まれる・・というメルヘンなのです。

youth camp, Reichsfuehrer-SS Heinrich Himmler 1936.jpg

ドイツ民族の利益を満たすため、彼の黒色騎士団の生殖能力が充分に生かされるよう気を配り、
フランスからゼップ・ディートリッヒが、ライプシュタンダルテに200名の淋病患者がいると報告して
驚いた時も、性に飢える隊員に理解を示し、武装SS向けに医師の監督付き娼家の設立を命令。
既婚者には妻との面会の方法を考えてやって、たくさんの子宝に恵まれるようにするのです。

Leibstandarte in Paris after the victory in France.jpg

しかし、愛し合う夫婦なら誰もかれも子供ができるわけではありません。
子供のない夫婦の医療相談所をつくらせた、全国保健指導者のコンティ
この援助事業に相談所を訪ねる者も多く、彼は「人工授精」も視野に入れるのです。
コンティの案に驚いたのがヒムラー。「オレの領分に割り込んできたヤツがいる!」と激怒。
なぜかボルマンに不満をぶつけるのでした。

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その「マルティン・ボルマンの例」では1929年に彼が新妻ゲルダとヒトラーのメルセデスで
戸籍登録場へ向かったエピソードから、子宝に恵まれ、不倫も愛する妻に認めてもらい・・と、
ナチスの女たち」に出ていたストーリーですね。

Gerda and Martin Bormann leaving the church on their wedding day 1929.jpg

後半はヒムラーの独壇場になってきますが、第6章「新しい人間」になると、
エリート騎士団SSの結婚における厳しい戒律が紹介されます。
夫婦共々が人種的、血統的に優れてならなければならず、結婚を望む隊員はすべて、
SS全国指導者の結婚許可を得なければならないなどの「12か条」に加え、
2人ともスポーツバッジの受章者であることや、ヒムラー本人は猛練習の甲斐なく、
遂にできなかった鉄棒の「大車輪」が、優れた生殖能力の保障であるとみなされているのです。

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そんな「ハインリヒ・ヒムラーの例」では、3兄弟の次男坊である彼の子供時代からが書かれ、
1923年に兄のゲプハルトが婚約した際、その許嫁の純潔に疑問を持ち、興信所に調べさせ、
自分でも前歴を調査。兄はそんな弟の溢れる兄弟愛に負けて、婚約を解消・・。

Three brothers Himmler.jpg

8歳年上のマルガレーテと結婚した道徳監視者たるヒムラーは、右腕のハイドリヒの妻リナ
放縦な生活態度に憤慨し、離婚させたがっていたという話も・・。
そのリナは、長官婦人が裏で糸を引いていると思い込み、
「偏屈でユーモアもなく、ズロースのサイズは50番・・」と馬鹿にするのです。
いや~、夫人同士のゲスい戦いですが、結局はそれとなくヒムラーの仕業なんですかね。
もちろん、浮気相手の秘書で「ヒムラーのうさぎちゃん」こと、ヘトヴィヒ・ポトハストのエピソードも。

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最後の第7章では、当時のナチ警察による性犯罪取り締まりについても考察。
1943年2月、ベルリンで中年女性を殺した容疑で逮捕されたブルーノ・リュトケの話は印象的で、
絞殺してから犯す・・という特異な性犯罪は1928年から未解決が54件もあり、
リュトケが自白したことでようやく解決するのです。
しかも彼はそれを上回る、84件の犯行を自白するという大量殺人鬼・・。

ベルリン大管区指導者ゲッベルスは、警察長官ヒムラーに手紙を送ります。
「この獣の如き女性屠殺者は、普通の絞首刑で死なせてはならない。
生きたままで焼くか、あるいは四つ裂きの刑に処すよう、私は提案する」。
しかし結局、ウィーンの犯罪医学研究所に送られたリュトケは実験の最中に死ぬのでした。

Bruno Lüdke.jpg

レームが逮捕されたその日、すでにヒトラーは新幕僚長となるルッツェに対して要求します。
「SAが純粋かつ清潔な組織として確立することを期待する。
全ての母親が息子を道徳的堕落の心配なしに、SAやヒトラー・ユーゲントに入れることが
出来るようにしてもらいたい。第175条の違反者は、即刻、SAおよび党からの除名をもって・・」。

Viktor Lutze family.jpg

1934年にSAに対してそんな要求をしていたわけですから、
黒騎士団の長ヒムラーの頭を悩ますあの問題も、SS内での同性愛です。
そのために古参のSS高官を泣く泣く降格させなくてはならなくなったヒムラーの苦悩・・。
ホモはただちに去勢してしまうのがいいのか、軽度の場合でも6年以上の禁固刑など、
さまざまな対策を打ち出すものの・・。

johannes hans hillig (left) hitlerjugend ss division joke humor funny each other gay scene pose.jpg

ナチスの「性、家族、風俗、教育、犯罪」について書かれた本書。
全体的には以前に紹介した「愛と欲望のナチズム」に似ていると言っていいでしょう。
特にヒトラー・ユーゲントやBdMの性問題については同じ記述もあったりと、
重複するエピソードは今回は割愛しましたが、読みやすさという点で言えば、
日本人著者の書いたアチラかも知れませんね。
こちらがネタ本になりますが、登場人物も多く、ナチスに詳しい方は本書も楽しめるでしょう。





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