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ナチ・ドイツ清潔な帝国 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

H.P.ブロイエル著の「ナチ・ドイツ清潔な帝国」を読破しました。

1983年、293ページの本書はかなり前からチェックしていたものの、スッカリ埋もれていました。
なにか調べ事をしていた際に本書の存在を思い出しましたが、内容紹介では、
「性、家族、風俗、教育、犯罪などに絞って「悪夢のような時代」を社会学的にとらえる新ナチ論」、
そして「各章にナチ高官の人物描写をはさみ・・」というのにも惹かれました。
タイトルも嫌味半分な感じで悪くないですし、表紙も行進するBDMさんたちで実に悪くありません。

ナチ・ドイツ清潔な帝国.jpg

序盤では19世紀のドイツから1920年代、ナチス政権になる前の道徳観、
女性や性に対する考え方が如何なるものだったのかを丁寧に解説します。
1927年のベストセラー、ミュンヘン大学教授マックス・フォン・グルーバーが書いた
「性生活の衛生学」では、「性交は結婚において行われる。女性は結婚まで純潔に生きるべきで、
男性は禁欲に努めなければならない。結婚の目的は子孫の産出と教育である。
民族の成長は、少なくとも4人の子孫を産むことを要求している。」
と、まぁ、現代からすればとても保守的な考え方ですね。

そしてまたヒトラーもこう語ります。
「結婚にしてもそれ自体が目的ではなく、種と民族の増加と維持という、より大きな目的に
奉仕するというものでなければならない。それのみが結婚の意味であり、任務である。」
基本的にはミュンヘン大学教授の言ってることと、ほとんど変わらないわけです。

Standartenfuehrer Richard Fiedler during his wedding ceremony with Ursula Flamm in 1936.jpg

ヒトラーの生い立ちを振り返りながら、プライベートでは女性に対して奥手であった彼が、
ナチ党演説家として頭角を現してきた頃、数多くの中年のご婦人が彼を「庇護」したことに触れ、
学校教師の未亡人カローラ・ホフマン、出版社社長の妻エルザ・ブルックマンといった女性が
ヒトラーを社交界にデビューさせ、資金的にも援助。
ピアノ製造業者の妻、ヘレーネ・ベヒシュタインは、オーバーザルツベルクの別荘に彼を迎え、
社交界向きに教育したと紹介します。

その2人について、オットー・シュトラッサーは、
「母親らしい優しさの混じったエクスタシーすれすれの愛」と大袈裟に語ります。
「ごく少数の友人しかいないときには、ヒトラーは堂々たる女主人の足元に座った。
彼女はその大きな子供の頭を撫で、『狼ちゃん、私の狼ちゃん!』と優しく言ったものだ」。
ちょっと気持ち悪い話ですが、当時、アウトサイダーだったヒトラーには
成熟した女性を引き付ける魅力と、それを利用する才能があった・・としています。

With Helene and Edwin Bechstein.jpg

このように章の後半はまず、「ヒトラーの例」として姪のゲリエヴァ・ブラウンとの関係も紹介し、
次の章へと進みます。
主に女性の労働について書かれたこの章では、ナチスは女性過酷な労働を求めず、
夜間の労働や、鉱山建築業での資材運搬、鉄道、バス、トラック運転手は禁止。
しかし戦争も2年目の1940年にもなると、そのような通則も形骸化していくのでした。
そして「ゲッベルスの例」では、彼の妻マグダと、愛人リダ・ヴァーロヴァとの不倫問題が・・。

Helferin de la Deutsche Reichsbahn.jpg

「喫煙は私の最後の楽しみ」と語っていたゲッベルス
戦争時には1日30本を目立たぬように吸っていたそうですが、総統の前では当然ガマン・・。
その総統曰く、「肉食はアルコールを呼び、そのあとにはニコチンが続く。
一つの悪徳は次々と別の悪徳を招きよせるものだ・・」という信念であり、
戦争が終わったら、国民すべてを菜食主義者にさせようと考えている狂信的な禁欲主義者です。

ナチス最大の組織である「労働戦線」のロベルト・ライは、「仕事に支障をきたさない限り、
好きなだけ喫煙、飲酒してもかまわない」とする一方、「男子たる者、自分自身を意志に従わせる
力を持たねばならない」と力強く語るものの、当の本人の綽名が『帝国泥酔官』。。

Ley.jpg

5月1日は「労働の日」と制定され、4月20日の「総統誕生日」など、ナチスの祝日を紹介。
12月のゲルマン的「冬至祭」を導入するにあたっては、かなりの苦労をしたようで、
火の輪や、かがり火といった昔風のシンボリズムは、ゲルマン志向のSSでさえ、
有難がらなかった・・と。この辺りは「ヒトラーに抱きあげられて」でも書かれてましたねぇ。

Adolf Hitler getting some presents from Santa Claus.jpg

「エルンスト・レームの例」はやっぱり男色話に終始します。
1925年、17歳の男娼をホテルに連れ込んだレームですが、慎み深い男娼は逃げ出してしまい、
「ボクにはとても出来ないようなイヤラシイ性交を要求されて・・」。
そんなレームの性癖と部下のハイネスヒトラー・ユーゲントに悪影響を与えていることも
知っていたヒトラーですが、彼らを一時的に追放したのは、政策の相違と命令無視によるもの。
しかしボリビアでレームは思わぬ苦労をするのです。
「ここでは『私の好むやり方』が知られていない」。

SA Chief of Staff Ernst Roehm as a guest at the wedding of the SA Chief of Berlin Karl Ernst in May 1934..jpg

次の章、エリート養成学校の話がこれまたナチスらしい。
1933年に「ナポラ」を開校した文部相のルスト
1936年にはSSのハイスマイヤーに引き継ぎますが、これが面白くないのがロベルト・ライ。。
シーラッハと共同で、「アドルフ・ヒトラー学校」を開校すると、SS贔屓のルストも驚きます。
しかし文部相に対してライは断言。「アドルフ・ヒトラー学校は君には何の関係もない」。

Exams in the schools Adolf Hitler_ The Dr_ Ley, Schwarz and Baldur von Schirach, all they have remained admired of the high level of know-how of the st.jpg

シーラッハが登場してくれば、当然、青少年の鑑、ヒトラー・ユーゲントの厳しい現実が・・。
1941年にある裁判所管区で「刑法第175条」違反で告訴されたHJ団員は16名。

「刑法第175条」とは男性同性愛を禁止したもので知られていますが、
ナチス特有のものではなく、ドイツでは1871年から1994年まで施行されているんですね。
その他、NSFKの航空教官がHJ生徒と少なくとも10件の違反で3年の懲役刑。

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マインツではHJ指導員が、20名の少年に対して28件の罪を犯し、4年の懲役・・。
そんなヒトラー・ユーゲントの教育はスポーツ、軍事教練、そして世界観教育です。
キャンプの合宿所には映写機が備えられ、5000本のフィルムが毎月配給されます。
それらのタイトルは「健康な家庭」、「遺伝的疾病のある子孫」、「五千年のゲルマン文明」、
「ヴェルサイユ条約とその克服」、「旧い軍隊から新しい軍隊へ」などなど・・。

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10歳~14歳の子供たちはこのような映画や合唱、討論会で喜ぶものの、
年長の17歳、18歳にもなると、ウンザリした様子が見え始めます。
彼らにとって「ほんものの少年」らしく振る舞うことは、あまり魅力的でなくなり、
無菌状態のHJ合宿所よりも、タバコの煙だらけの酒場にいるほうが男らしく感じるのです。
ですよねぇ。16歳にもなって半ズボンを履くのに耐えられない・・なんて話もありましたっけ。

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1937年には300万人団員を数える世界最大の少女組織、「女子青年団(BdM)」。
その頭文字を取って、「ドイツ男子の必需品」、「ドイツ牝牛団」などと綽名されています。
BdMを卒業すると、「信仰と美」と名付けられた組織に行くか、ショルツ=クリンク
「ドイツ婦人労働奉仕団」へと進みます。

ヒールルの「労働奉仕団(RAD)」に吸収されて、「女子労働奉仕団(RADwJ)」となりますが、
これについては、いくらかでも重要性のある党下部組織は、女性指導者には任せられない、
ハイスマイヤーの妻として、帝国最高位の母親でさえ、飾り物に過ぎなかった証拠とします。

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指導的女性、指導者の奥さんともなると、いろいろと頭痛の種にもなってきます。
ヒムラーもあるSS大将に憂慮の手紙を書くことに・・。
「きみの奥さんが大管区の政治問題や、指導者個人についてあちこちの場所で
ハッキリ意見を述べたてないよう、よくしつけてくれたまえ」。

闘争時代には彼女たちは良き主婦、熱心な助力者として役に立ったものの、
いまではその夫たちは国家の高い地位に登っているのだから、
彼女たちのそういう単純な才能ではもはや不十分だという理屈を持ち出すのです。

Heinrich Himmler spricht vor BDM-Unterführerinnen, 1937.jpg

こうして「ヘルマン・エッサーの例」としてナチ式離婚を紹介。
古い党員で、ゴロツキと評判だったエッサーは、絶え間ない女出入りで悪名を轟かせ、
様々な女に貢がせていることを公然と自慢するような男・・。
政権獲得後も、最高位の役職に就く柄ではなく、帝国会議の第二副議長やら、
帝国観光交通協会の会長や、観光委員会の会長代理とかならなんとかなるといった程度。
そんな男が愛人と一緒になるために繰り返した離婚訴訟がこの章のトリになるのでした・・。

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このような矛盾だらけのナチス表すような「真のドイツ人のモットー」とは・・

ヒトラーのように子だくさんであれ、
ゲーリングのように地味で質素であれ、
ヘスのように忠実であれ、
ゲッベルスのように寡黙であれ、
ライのようにシラフであれ、
ショルツ=クリンクのように美しくあれ!

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ナチス・ドイツにおける最高級の勲章のひとつに「母親十字章」がありますが、
このような「産めよ増やせよ」政策のために、1000マルクの結婚資金貸付制度が誕生。
子供一人産むと250マルクが免除になり、理想とされる4人産んだらチャラになるわけです。

しかし、現実的には母親が一人で子育てと家事をこなすことは困難であり、
この問題に頭を痛めたヒムラーは、ポーランドとウクライナで人種的に許される女子を選び出し、
ドイツで3人以上の子供がいる家庭で女中や子守りとして働かせ、その報酬として数年後には、
彼女たちにドイツ国籍を与え、ドイツ人と結婚することを許そうという案をひねり出すのです。
コレは「遠すぎた家路」でも紹介されていたパターンですね。

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それでもヒムラーが考えるように事は簡単には運びません。
1944年になると、単に子供をたくさん! ではなく、男子の生産を増やしたい・・に変化。。
レーベンスボルン(生命の泉)に対し、「男女産み分け問題」というファイルを作らせ、
最初の資料をSS全国指導者自ら持参する気合の入りよう・・。

その資料には書かれていたのは本部長ゴットロープ・ベルガーが故郷の風習として語ったこと、
1週間酒を断った夫が正午に家を出て、20㌔を往復して帰り着くと、同様に1週間、働かず、
給養充分の妻と性交。するとアラ不思議、必ず男児が生まれる・・というメルヘンなのです。

youth camp, Reichsfuehrer-SS Heinrich Himmler 1936.jpg

ドイツ民族の利益を満たすため、彼の黒色騎士団の生殖能力が充分に生かされるよう気を配り、
フランスからゼップ・ディートリッヒが、ライプシュタンダルテに200名の淋病患者がいると報告して
驚いた時も、性に飢える隊員に理解を示し、武装SS向けに医師の監督付き娼家の設立を命令。
既婚者には妻との面会の方法を考えてやって、たくさんの子宝に恵まれるようにするのです。

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しかし、愛し合う夫婦なら誰もかれも子供ができるわけではありません。
子供のない夫婦の医療相談所をつくらせた、全国保健指導者のコンティ
この援助事業に相談所を訪ねる者も多く、彼は「人工授精」も視野に入れるのです。
コンティの案に驚いたのがヒムラー。「オレの領分に割り込んできたヤツがいる!」と激怒。
なぜかボルマンに不満をぶつけるのでした。

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その「マルティン・ボルマンの例」では1929年に彼が新妻ゲルダとヒトラーのメルセデスで
戸籍登録場へ向かったエピソードから、子宝に恵まれ、不倫も愛する妻に認めてもらい・・と、
ナチスの女たち」に出ていたストーリーですね。

Gerda and Martin Bormann leaving the church on their wedding day 1929.jpg

後半はヒムラーの独壇場になってきますが、第6章「新しい人間」になると、
エリート騎士団SSの結婚における厳しい戒律が紹介されます。
夫婦共々が人種的、血統的に優れてならなければならず、結婚を望む隊員はすべて、
SS全国指導者の結婚許可を得なければならないなどの「12か条」に加え、
2人ともスポーツバッジの受章者であることや、ヒムラー本人は猛練習の甲斐なく、
遂にできなかった鉄棒の「大車輪」が、優れた生殖能力の保障であるとみなされているのです。

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そんな「ハインリヒ・ヒムラーの例」では、3兄弟の次男坊である彼の子供時代からが書かれ、
1923年に兄のゲプハルトが婚約した際、その許嫁の純潔に疑問を持ち、興信所に調べさせ、
自分でも前歴を調査。兄はそんな弟の溢れる兄弟愛に負けて、婚約を解消・・。

Three brothers Himmler.jpg

8歳年上のマルガレーテと結婚した道徳監視者たるヒムラーは、右腕のハイドリヒの妻リナ
放縦な生活態度に憤慨し、離婚させたがっていたという話も・・。
そのリナは、長官婦人が裏で糸を引いていると思い込み、
「偏屈でユーモアもなく、ズロースのサイズは50番・・」と馬鹿にするのです。
いや~、夫人同士のゲスい戦いですが、結局はそれとなくヒムラーの仕業なんですかね。
もちろん、浮気相手の秘書で「ヒムラーのうさぎちゃん」こと、ヘトヴィヒ・ポトハストのエピソードも。

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最後の第7章では、当時のナチ警察による性犯罪取り締まりについても考察。
1943年2月、ベルリンで中年女性を殺した容疑で逮捕されたブルーノ・リュトケの話は印象的で、
絞殺してから犯す・・という特異な性犯罪は1928年から未解決が54件もあり、
リュトケが自白したことでようやく解決するのです。
しかも彼はそれを上回る、84件の犯行を自白するという大量殺人鬼・・。

ベルリン大管区指導者ゲッベルスは、警察長官ヒムラーに手紙を送ります。
「この獣の如き女性屠殺者は、普通の絞首刑で死なせてはならない。
生きたままで焼くか、あるいは四つ裂きの刑に処すよう、私は提案する」。
しかし結局、ウィーンの犯罪医学研究所に送られたリュトケは実験の最中に死ぬのでした。

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レームが逮捕されたその日、すでにヒトラーは新幕僚長となるルッツェに対して要求します。
「SAが純粋かつ清潔な組織として確立することを期待する。
全ての母親が息子を道徳的堕落の心配なしに、SAやヒトラー・ユーゲントに入れることが
出来るようにしてもらいたい。第175条の違反者は、即刻、SAおよび党からの除名をもって・・」。

Viktor Lutze family.jpg

1934年にSAに対してそんな要求をしていたわけですから、
黒騎士団の長ヒムラーの頭を悩ますあの問題も、SS内での同性愛です。
そのために古参のSS高官を泣く泣く降格させなくてはならなくなったヒムラーの苦悩・・。
ホモはただちに去勢してしまうのがいいのか、軽度の場合でも6年以上の禁固刑など、
さまざまな対策を打ち出すものの・・。

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ナチスの「性、家族、風俗、教育、犯罪」について書かれた本書。
全体的には以前に紹介した「愛と欲望のナチズム」に似ていると言っていいでしょう。
特にヒトラー・ユーゲントやBdMの性問題については同じ記述もあったりと、
重複するエピソードは今回は割愛しましたが、読みやすさという点で言えば、
日本人著者の書いたアチラかも知れませんね。
こちらがネタ本になりますが、登場人物も多く、ナチスに詳しい方は本書も楽しめるでしょう。





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グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの“白い将軍” [欧州諸国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

植村 英一 著の「グスタフ・マンネルヘイム」を読破しました。

先日、たまたま見つけてしまった1992年に日本人著者によって書かれた本書。
いや~、こんな本があるんですねぇ。。
マンネルヘイムといえば、戦時中にフィンランドの元帥、大統領としてドイツ軍と共同して戦い、
末期にはその盟友と戦うことになるという、これだけで波乱万丈の人生ですね。
ハードカバー、259ページというソコソコのボリュームで、定価2600円ですが、
決して世の中は甘くなく、Amazonでは8000円のプレミア価格・・。
まぁ、そういう場合には地元の図書館が助けてくれるのです。ありがたや・・。

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1867年生まれのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム。
おおっといきなり、ちょうど100年違いの方でしたか。。
男爵として生まれた彼ですが、父は会社が倒産すると情婦と共にパリへ逃避。
傷心の母は1881年に亡くなり、子供たちはばらばらに親戚に預けられるという子供時代。
スウェーデン王国の統治下だったフィンランドが1809年に帝政ロシアの手に移り、
マンネルヘイム家の祖先もスウェーデンから移住して来たなど、
この18~19世紀のフィンランドの歴史についても並行して進んでいきます。

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体格も良く、活発なマンネルヘイム少年は、ロシア帝国陸軍に身を投じて、
ツァーの将校となる道を選び、当時、最も人気の高いザンクト・ペテルブルクの
騎兵学校へとなんとか入学。卒業後は黒龍連隊で2年勤務、その後、念願かなって、
王妃を名誉連隊長に仰ぐ、シュバリエール近衛騎兵連隊へ・・。
1896年のニコライ2世の戴冠式には皇帝の天蓋のすぐ前に、銀のヘルメットをかぶり
煌びやかな礼装をまとった2mもの長身が写真に収められるのでした。

Kejsar Nikolaj II_s kröning i Moskva 1896. Framför kejsaren går Chevaliergardets officerare Gustaf Mannerheim.jpg

そして彼にとっての最初の戦争がやってきます。それは「日露戦争」。
旅順要塞の攻防戦、いわゆる二百三高地の決着がついた後の、日本第3軍に対する攻撃、
チネンスキー・ドラゴンズ連隊の2個騎兵隊を指揮するマンネルヘイム。
しかしコサック騎兵は重い装備品を携行し、盛大な砂塵を巻き上げる割には、
1日にわずか30㌔しか前進せず、攻撃は失敗。
コサックの実力と無統制、乱暴狼藉にに失望するのでした。

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帰国すると今度は未開の地、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の軍事偵察に出発。
2年にも及ぶ大冒険であり、ダライラマとの面会を果たし、西太后が統治する北京へと進んだ後、
天津から長崎に上陸し、8日間の日本滞在を経て、舞鶴からウラジオストックへ・・。
ただ、残念ながら、このマンネルヘイム日本見聞録の詳細は不明なんだそうな。。

Mannerheim taking notes during his 1906-1908 Asia Expedition.jpg

第1次大戦が始まると、レンベルクの会戦でオーストリア軍の初動を頓挫させる大活躍。
ロシア革命が起こった頃には、中将にまで昇進し、3個師団から成る第6騎兵軍団長に
任ぜられます。しかし祖国フィンランドが独立を宣言すると、故郷に凱旋した彼は、
ロシア赤衛軍相手にフィンランド国軍総司令官として戦うことになるのです。
フィンランドの歩兵博物館には「メイジ30」、「メイジ38」と名付けられた小銃が展示されていて、
このような日本の三十年式歩兵銃、三八式歩兵銃を3万丁以上も保有していたそうです。

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独立戦争が終わった後、フィンランドの政治家は親ドイツに走り、
議会はドイツ皇帝の皇弟ヘッセン公フリードリヒ・カールを国王として向かえる決議に至ります。
その途端、ドイツは降伏してカイザーも退位・・。
ヘッセン公も当然、辞退しヘルシンキに現れることもありません。
それどころか親独政策によって「被告」となることを怖れた政府は、この危機に
西側列強との友好関係を回復させるため、ロンドンとパリにマンネルヘイムを派遣するのでした。

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しばし隠居していた65歳のマンネルヘイム。
1932年になって大統領に請われ、軍事委員会の委員長に就任すると同時に「元帥」の称号も。
彼の軍事に関する考え方は以下のようなものです。
「小国は戦争の圏外に立って、中立を維持しなければならない。
大国からの援助は魅力があり、安心感を与えるが、それは抜き差しならぬ束縛と
義務を負わせ、これほど危険なものはない。」
そして自力による武装中立を目指します。
「自らを守ることの出来ない国を、一体どこの国が守ってくれるのか」。

う~ん、最近、どこかの国で議論になっていることを思い出しますねぇ。

Le maréchal Mannerheim dans son quartier général.jpg

ちょうど真ん中あたり、135ページから「冬戦争 1939-1940」の章がやってきました。
1932年に不可侵条約を締結していたソ連とフィンランドですが、
ナチス・ドイツのバルト海への進出に脅威を感じたスターリンが、
再三にわたり、国境調整を要求してきます。
マンネルヘイムは譲歩するよう政府に要請しますが、ソ連の要求は条約無視だと憤慨する政府。
その結果、スターリンはフィンランドの「抹殺」を決意するのです。

Stalin, Voroshilov.jpg

戦争に反対し、辞職を決意したマンネルヘイムですが、武人としての職はそれを許さず、
総司令官として日々命令を発することに・・。
この章は35ページほど、もちろん「雪中の奇跡」にはかないませんが、なかなかのもので、
戦況図も掲載しながら、最後には過酷な条件で休戦に至るまでが書かれています。

Mannerheim 1939.jpg

こうして再び、もう一つの大国であるドイツとの関係が親密になっていくフィンランド。
防衛のためにドイツに渡って近代戦の訓練を受ける志願兵の若者たちに加え、
1941年3月になると、SS戦闘部隊の志願兵をフィンランド国内で募集することを承認し、
やがて彼らは武装SSヴィーキング師団となって、遠くウクライナで戦うことになるのです。

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始まった「バルバロッサ作戦」。
ドイツとフィンランドには外交上の同盟や条約は何も結ばれず、軍事上の協定も
文書として残すことを拒み、ドイツ軍との合意は道徳的な「口頭の了解」に留めるマンネルヘイム。
同盟戦争ではなく、たまたま、共通の敵に対して戦う共同戦争であって、その目的は
1940年3月の講和条約で失った国境線の回復と、民族の故郷である東カレリア地方の領有。
よってフィンランドにとっては「継続戦争」なのです。

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レニングラード攻略を目指すドイツ軍と、マンネルヘイム・ラインからそれを眺めるフィンランド軍。
ドイツ軍が耐寒装備を持っていないことを知ったマンネルヘイムはショックを受け、
その軍事力に対する信頼を失い、戦略の根本的な転換を考えるのです。

信頼するディートル将軍をドイツ・ラップランド軍(第20山岳軍)の長として進捗を図り、
1942年6月、75歳を迎えたマンネルヘイムのもとをわざわざ訪れたヒトラー。

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しかし翌年2月、すなわちスターリングラードで第6軍が全滅した頃、
早い時期に戦争から離脱するべきである・・という危険な政策転換に切り替わり、
ベルリンでの外相同士の会談で、フィンランドの戦線離脱の意向を暗に打ち明けたものの、
予想通り、リッベントロップの怒りを買い、単独講和を縛る政治協定の締結を要求してくるように
なるのでした。

1944年、フィンランドに戦争継続を要求しつつも、武器弾薬の供給を停止していたヒトラー。
連合軍がノルマンディに上陸すると、東部戦線でもすっかり近代化されたソ連軍が大攻勢に出て、
フィンランド政府はパニックに陥り、講和を求めようとしますが、マンネルヘイムが押しとどめ、
気心の通じた純情熱血のディートル将軍が要望に応えて、ドイツ軍の倉庫から
最新式の対空対戦車火砲が運び出されることに・・。

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さらに救援の要請をヒトラーに直談判したディートルですが、その帰りの飛行機が墜落・・。
ロンメルの場合と同じく、ヒトラーの謀殺であったとの説もある」と書かれていますが、
まぁ、コレはないでしょう。ロンメルは7月20日事件への関与を疑われたのであり、
ディートルの事故死は6月の出来事。
そもそも、どんな人気将軍であっても、気に入らなければ簡単に罷免するのがヒトラーです。

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「ドイツの同意なしにソ連との講和を結ばない」という協定に縛られたリチ大統領は、
この協定から解放されるために退陣し、新たにマンネルヘイムが大統領に就任します。
表敬のために飛来してきたOKW総長に前大統領が結んだ協定に縛られないことを伝えると
「憤慨し異常な興奮を示す」カイテル・・。
パリは西側連合軍によって解放され、ルーマニアはソ連軍に占領されるという難しい時期・・。

Keitel,Mannerheim.jpg

そして遂にドイツとの国交断絶。ヒトラー宛に自筆の書簡も送るマンネルヘイムですが、
ディートルの後任、レンドリック将軍とは険悪な雰囲気です。
ソ連の「踏み絵」の如き要請により、自国からドイツ軍を叩き出ことになったフィンランド。
しかし将兵の間には戦友愛が育まれ、尊敬と信頼で結ばれているのです。

german finn.jpg

ドイツ軍は事前に部隊の撤退日時を連絡し、フィンランド軍はその後、突撃を仕掛けるという
「いかさま戦争」を繰り返してソ連の目を欺こうとします。
実際、ドイツ軍の主要な司令部にはフィンランド軍の連絡将校が勤務したままで、
「秋季機動演習」と呼ばれていたそうです。
このラッブランド戦争も思ったより、書かれてますね。

Finnish infantry batallion as it begins the encircling maneuvers against Germans positions in Lapland, Finland, October 1944.jpg

こうして戦後は公職から引退したマンネルヘイム。
回想録が完成に近づいた1951年、84歳で永眠するのでした。

非常に読みやすい一冊でした。
フィンランドと帝政ロシアの歴史、マンネルヘイム個人の人生に、
彼が体験した数度の戦い、そして第2次大戦のフィンランドの戦略と状況の変化、
大国に翻弄されながらも、自立を目指す一貫した姿勢・・と、
必要な事柄がバランスよく配されていると思いました。

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「ドイツのノルウェー軍司令官フォン・ハルケンシュタイン将軍とは最後まで馴染めなかった」
のところが、まぁ、敢えて書けば、「フォン・ファルケンホルスト」だろ・・なんて。。

でも日本人著者ならでは、一般の日本人にも理解しやすいように記述していると感じますし、
日本人武官の証言を取り上げるなど、親近感が湧くような仕組みもあるのかも知れません。



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ナチス突撃隊 ヒトラーに裏切られた悲劇の集団 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

桧山 良昭 著の「ナチス突撃隊」を読破しました。

ここのところ、突撃隊(SA)について、しこしことネットで調べていたんですが、
ちょっと頭の中を整理したいなぁ・・と、未読だった本書を選んでみました。
1993年、487ページというなかなかボリュームのある文庫ですが、
もともと1976年に発刊された、その筋では有名な一冊です。
本書を読む前には「将軍たちの夜」のキルスト著の小説「長いナイフの夜」も再読して、
すっかり「粛清」モードに入ってしまいました。

ナチス突撃隊.jpg

第1章は「突撃隊の設立」。
1920年、ドイツ労働者党を設立したドレクスラーの話から始まります。
やがて怪我の癒えたヒトラーも入党し、ビアホールでの集会も活発化すると、
2000名もの聴衆が詰めかけることとなり、その結果、会場警備隊が必要に・・。
最初の警備隊員は旧軍人と旧警官から優先して選ばれた25名。
隊長には23歳の時計修理工、エミール・モーリスが任命されるのです。
後にヒトラーの姪ゲリと結婚しようとして、クビになったあの人ですね。

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そして「SA」といえばこの人、第11歩兵旅団司令部副官であったエルンスト・レームが登場し、
まだ、ヒトラーに出会う前の、彼がミュンヘンでエップ義勇軍の装備と兵站の仕事を任され、
抜群の組織能力が認められて、この道の専門化になっていく過程を紹介。
彼の野望はバイエルンの極右団体すべてを軍事団体化し、国防軍第7軍に合体させ、
ベルリンに攻め上がるという雄大なものであり、ナチ党委員長となったヒトラーもこの構想に同意。

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ヒトラーは会場警備隊を「体育・スポーツ隊」と改め、元少尉のウルリッヒ・クリンチを指導者に・・。
この改称については中央政府の目を欺こうとするレームが名付け親だろうと推測しますが、
実は指導者に任命されたクリンチというのがくせ者で、ナチ党員でもなく、カップ一揆によって
解散となったエアハルト義勇軍の隊員によって設立された「コンスル組織」のメンバー。
全国各地に支部を置いたコンスルは5000名から成り、1922年までに「売国的」という理由で、
350名もの人々を暗殺している恐るべき暗殺結社なのです。

Hans Klintzsch.jpg

ベルリンでカップ一揆を見学したヒトラーも、この時のエアハルト義勇軍に深く印象付けられて、
党の軍隊の理想像としていたことによる人選では? と推測します。
体育・スポーツ隊のメンバーは、大戦中の決死的任務のために臨時編成された部隊の名称、
「突撃隊」を名乗るようになると、党本部でもそっちの方が勇ましくて格好良いということで
あっさり改称・・。こうして正式に「突撃隊(SA)」が誕生するわけです。

SA-1922.jpg

1921年末の時点で党員数は6000名、そのうち突撃隊は100名程度。
しかし1923年の「ミュンヘン一揆」に向けて党員が増大すると、突撃隊員も3000名へと拡張。
ヒトラーによる選抜条件は、「戦闘能力がある18歳~32歳までの男子」であり、
「党のエリートから構成される」という編成方針があったものの、最も厳格な規律に欠け、
かなりの者がコンスルなどの他の組織や、ナチス協力団体のメンバーなのでした。

無鉄砲さが売りのSA隊員。会場警備の際の妨害者との乱闘、政敵の会場への妨害行為、
街頭での政敵との乱闘は党中央、およびSA幹部からの命令による暴力ですが、
隊員個人による乱暴狼藉も多いこの時代、ヒトラーも私的犯罪を放任・・。
最初は素手だった共産党や社会民主党との乱闘もエスカレートし、棍棒にナイフ、チェーン、
やがてピストル、機関銃、手榴弾へとグレードアップしていくのでした。

Hitler and Gerhard Rossbach at an SA meeting on the Frottmaning Heath near Munich 1923.jpg

ムッソリーニの「ローマ進撃」の成功を見て、ベルリン進撃を唱えるようになったヒトラー。
結局はコレが「ミュンヘン一揆」へとなるわけですが、第2章で詳しく書かれています。
ナチス単独では不可能な構想なことから、各団体と同盟を結びつつ、SAは民間防衛隊として
国防軍の手によって軍事訓練を受けさせようとなると、レームの息がかかったクリンチに代えて、
新たなSA指導者としてゲーリングを任命します。

hermann_goering_1925.jpg

ゲーリングによって3個大隊からなる1115名の連隊に編成されたミュンヘンのSA。
連隊長には大柄なブリュックナーが登用されます。
一方のクリンチはSA隊員の中からヒトラーに忠実な者を8名選び出し、
新たに「本部衛兵隊」を組織することに・・。
しかしエアハルト大佐の命令でナチスに送り込んでいたコンスルは人員の引き上げを行い、
クリンチも手を引いて、歴史から消え去っていくのです。
そして彼の遺産である本部衛兵隊はユリウス・シュレックにより、
アドルフ・ヒトラー衝撃隊」と改名し、その隊員数も150名を数えるのでした。

Heinrich Hoffmann postcard of SA-Obergruppenfテシhrer Wilhelm Bruckner.jpg

見事に「一揆」は失敗し、逮捕される寸前にローゼンベルクを党首代理に任命したヒトラー。
そしてSAは・・というと、怪我を負い、国外へ逃れたゲーリングに代わり、
出獄したレームに「無条件で服従する」ことをSA隊員に求めるのでした。

東アフリカの旧ドイツ植民地駐留軍の制服であった褐色シャツもロスバッハが手に入れ、
新たに再建への道を進むSA。しかしSAを民間防衛隊に発展させるのか、
それとも宣伝・集会防衛の機関とするのかで激しくやりあうレームとヒトラー。
結局、SA司令官を辞任すると通告したレームは、政治軍事活動から手を引き、
セールスマン、機械工場の事務員など職を転々とし、アルコールとホモの生活に溺れた末、
ボリビア軍の軍事顧問に招かれ、1926年、ドイツを去っていくのでした。

Hitler-Ernst Röhm-Wilhelm Frick.jpg

そんなころ、ヒトラーはシュレックに命じて、「本部警備隊」を作らせ、間もなく「親衛隊」と改称。
そのメンバーは以前の「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」と同様です。
SAもバイエルンだけでなく、ドイツ各地で再編成。
ベルリンではロスバッハ義勇軍だったクルト・ダリューゲがナチスに加わり、
SA指導者に任命されますが、大部分は彼が引き連れてきた600名の義勇兵。
このダリューゲはベルリンの暗黒街で「無鉄砲ダリューゲ」の異名をとった、
ちんぴらギャング団のボスでもあり、アウトローな方法で収入を得ていた・・と。

また同じ1926年春、ルール管区ではヴィクトール・ルッツェがSA指導者に・・。
いやいや、そろそろお馴染みさんたちが登場してきましたねぇ。

Kurt Daluege.jpg

党再建拡張による宣伝・集会に必要なSAが不足している・・とヒトラーは感じる反面、
管区指導者、いわゆる政治部門のガウライターに反抗する過激なSAにも嘆くという矛盾・・。
そこで新たなSA指導者にプフェファ・フォン・ザロモンを任命して組織改革を実行します。
それまで各管区の下にあったSAをザロモンを頂点とした中央集権的構成に再編成し、
各指導者に絶対的服従を要求します。

そしてガウライターら政治組織との関係も新たに規定しますが、
それは政治指導者が下す、SA指導者への指令が強制権を持たず、
具体的に干渉することも出きないというものであり、その結果、
指令を受けたSAは任務が自分たちの能力を超えている・・とか、
SAの仕事に相応しくない・・と拒否できることになってしまうのです。
最終的には政治指導者とSA指導者、2人の力関係で強いほうが勝つ・・という論理です。

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SAの本来の任務とは、ビラを配ったり、プラカードを掲げた行進といった宣伝活動に、
音楽会やダンス会、スポーツ競争などによって地域の住民と接触するのも仕事です。
本書では1928年7月の上バイエルン管区での「夏祭り」のプログラムも紹介。
7:30に駅で来賓の歓迎会に始まり、教会まで吹奏楽団付きのSA行進、
昼には音楽会、水泳競技に市民競技場での競技大会、19:00にはダンス会・・といった具合で、
時間と共に住民を観客から参加者に変えてしまうよう、周到に計画され、
最後にはナチスと住民の違和感が取り除かれた親密な一体感が生まれる仕組みなのです。

sa 0012.jpg

1929年になると経済恐慌の波がSAにも押し寄せます。
党員費1マルクの払い込みが減少したことで、その半額50ペニッヒによってまかなわれていた
SA財政が苦しくなり、そのSAを維持するために新たに新党員を確保しなければならない・・
ということで、過去の政治歴や思想を問わず、誰でも入党させてしまうという悪循環・・。

Hitler avec les vieux combattants en février 1929 dans le Hofbrauhaus.jpg

低額所得者の多いSA隊員にとって給与のストップは死活問題であり、
党とヒトラーのちまちました「合法戦術」に我慢の限界が近づいてくるのです。
そこでザロモンは負傷保険制度を導入して、積立金から怪我の程度によって
保険金が支払われることにすると、隊員たちは政治闘争に励むことになります。
1929年下半期だけで、621件の負傷保険の支払いがあったそうな・・。

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それでもSA隊員の不満は収まりません。
ベルリンではガウライターのゲッベルスがSA隊員に完全服従を要求すると、
彼らはSAの自立性を主張し、選挙運動をボイコット。ゲッベルスが除名をもって脅すと、
SA東部指導者のヴァルター・シュテンネスは逆にゲッベルスの解任を党本部に要求。
そしてこれが拒否されると激昂したSA隊員の一部がゲッベルスの本部に乱入して占拠。
危うく監禁を逃れたゲッベルスはダリューゲの親衛隊を差し向けますが、
凄まじい死闘の末、数に勝るSAがSSを叩きのめして追い出します。
ならばとベルリン治安警察に依頼して、またもや激しい格闘の末、
なんとか党本部を取り戻したゲッベルス。

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この事件の後、ザロモンは辞任し、ヒトラーは自らがSA最高指導者となって、
SA中隊の間を巡回して彼らの説得と、絶対的忠誠、そして経済状態改善を約束するのです。
入党費も倍の2マルクに引き上げて、SAには1マルクをまわし、
党員から臨時SA隊費30ペニッヒを徴収。
規律を無視するSA隊員であろうとも、共産党に移っていくのを恐れる彼は、
彼らを除名する勇気にも欠け、この危機を乗り越えるのが難しいと感じたヒトラーは、
SAを抑え込める唯一の人物として、ボリビアからレームを呼び寄せるのでした。

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1931年春に組織改革を行い、再び、管区長の指揮下にSA連隊が配されることに・・。
レームをトップの参謀長(幕僚長)にして、ルッツェら4人が上級集団長に任命され、
ベルリンではシュテンネスに代わってレームの信頼の厚いヘルドルフが選ばれます。
ヒトラーに呼び出されたシュテンネスは解任通知を平然と聞き流して、大規模な反抗を準備。

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4月、シュテンネス配下のSA隊員がベルリンの管区本部と支部を急襲。
ゲッベルスはまたもやダリューゲのSSを投入しますが、争奪戦は半日続き、
結局、警官隊の出動で終息します。
シュテンネスは離党し、オットー・シュトラッサーのグループに合流。
ベルリンの25000名の隊員のうち、1/3がシュテンネスに従って去っていくのでした。

なにか、近年の日本でもニュースなった問題・・。
有名な弁当チェーンが分離して、裁判沙汰になったりとか、
牛丼チェーン店の激しい値下げ争いとか、全国展開する組織づくりの大変さを感じますね。
実は夜間の「バイト1オペ」を狙った強盗なんて、ライバル店の差し金だったりして・・。
その結果、近所でも閉店しちゃってますからね。。こわっ!

Walther-Stennes.jpg

この事件にショックを受けたヒトラー。勇敢に戦ったダリューゲのSSに感激し、
それまでザロモンの抵抗にあって存在感のなかったヒムラーのSSに関心も移るのです。
SAの過激派から党組織を守るため、SSを党の警察機構にしようと考え、
SAの部分組織から、独立した組織に発展させていくのです。

情報組織の設立を命ぜられたヒムラーは、1931年にヨットに乗りたくて入党したSA船舶隊長、
ハイドリヒに3人の部下を与えて、後のSS保安情報部が誕生するのでした。

Brownshirts in a Munich beer hall in the early 1920s..jpg

1931年末の党員数は80万名で、1年前の2倍に膨れ上がり、レームは頑強な青年党員を
精力的にSAへと編入します。SA隊員は同じ期間に6万名から20万名へと拡張。
しかし政権争いが本格化すると、ブリューニングとグレーナーによって、「SA禁止令」が・・。
これに不満を申し立てるのは国土防衛でSAの協力を得ている軍管区司令部将校たち。
ヴィルヘルム皇子はグレーナー国防相宛ての抗議電報を送り、
第2軍管区司令官のフォン・ボック将軍も国防省に抗議にやってくる始末・・。

それでもパーペン内閣に代わると禁止令は撤回。
このあたりは策士シュライヒャー将軍と、事実上の党No.2、グレゴール・シュトラッサー
頻繁に登場する展開で、どちらかというと「SA」は政権争いに振り回される1組織ですね。

Röhm-und-Hitler-Duzfreunde-1933.jpg

こうして1933年にヒトラー内閣が誕生すると、主役はプロイセン内相となったゲーリングです。
SAとSS、併せて4万名が補助警官に任命され、その指揮官にはダリューゲが・・。
そして「国会議事堂放火事件」が起こると、積年のライバル共産党が解党へと追い込まれ、
ゲシュタポ長官ディールスの回想録からも抜粋します。

バイエルンでもレームがプロイセンに倣って「治安補助警官隊」を編成しますが、
もちろんほとんどがSA隊員であり、本書では、「犯罪者的気質をもつSA隊員が、警察的任務を
遂行するのだからたまらない。暴力団が警察権を握った場合を想像すると良い」と・・。

Marsch der SA-„Hilfspolizei“ unter Führung eines Schutzpolizeibeamten in Düsseldorf, 1933.jpg

全国で一般党員とSA隊員が市政府の辞職を迫り、市庁舎を占拠してハーケンクロイツ旗を掲揚。
しかしヒトラーも党本部も政権獲得後の公職ポストの配分を計画していなかったことから、
管区長以上の党員は、自分が望む公職に殺到し、激しい争奪戦を演じることに・・。
党内における序列、当人の専門的能力とは無関係で、すばしこい者が勝ちを収めるのです。
これにより、党内と公職の序列が逆転したり、1人で関係ないポストをいくつも所有する例も続出。

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補助警官は案の定、不当逮捕や私設収容所への監禁、私刑を繰り返し、
500人以上が殺されると、ゲシュタポのディールスが取締りに乗り出し、
ベルリンのSA本部を包囲して機関銃を撃ちこんでSAの若造たちを引きずり出すほど。
ゲーリングも補助警察を解散させてしまうと、また失業者となったSA隊員は不満が堪るのです。

混乱はプロイセンで権力を握ったゲーリングと、ミュンヘンのレームの対立という構図に。
レームは行政を監視して助言与えるSA特別全権官制度を導入して、
プロイセンにもSA政治部長のゲオルク・フォン・デッテンを派遣します。
デッテンはゲーリングに対し、「同意しなければ国会放火の真相を暴露する」と強請ったそうな。。

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さらにレームは国防軍の軍事訓練センターを奪って管理し、その他の訓練施設も独占。
SA訓練局を管理するのはSA幹部学校の校長でもあるヴィルヘルム・クリューガーです。
一方で、ゲーリングからゲシュタポを引き継いだヒムラーとハイドリヒのSSチームは、
レーム暗殺を目論むものの、ヒトラーから抑えられ、SA隊員の尾行と監視に着手します。

Kurt Daluege (left) with Reinhard Heydrich (center) and Heinrich Himmler (right) in 1935 on a hunting trip..jpg

同じ時期、SAの解体やむなしと考えていたのは政務局長のフォン・ライヒェナウ
彼は軍情報部以外にも、SA内部に情報ルートを持っていて、それはルッツェとクリューガーです。
こうして「SAの武装蜂起の計画」なるものが、ハイドリヒとライヒェナウの周りに姿を現すと、
それが証拠となって、SA幹部粛清の「長いナイフの夜」へと進んでいくのです。

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ゲーリングがプロイセンのライバル、デッテンも粛清対象に組み込むと
ゲッベルスもシュライヒャーとシュトラッサーの名前を書き入れ、
ヒムラーに連れられてきたハイドリヒは「誰彼も危険人物だから除きましょう」と提案・・・。

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クライマックスの「長いナイフの夜」もなかなか詳細に書かれていて、
SA幹部の中でも「殺人鬼」として恐れられていた大男エドムンド・ハイネスは、
若い男と寝ていたところを双璧の大男、ブリュックナーが拳で殴り倒し、
レームも逮捕されて、裏切り者のルッツェらを除くSA幹部が処刑されていくのです。

SA cap hitler.jpg

思っていたよりもシッカリと書かれた一冊でした。
巻末に出典一覧はないものの、途中途中でディールスの回想録などから抜粋したりと、
気になっていた未訳の文献がいくつかありました。

ただし、純粋に突撃隊(SA)について触れられているのは、全体の1/3程度でしょうか。
ヒトラーとナチ党がいかにして政権を獲ったか・・の過程が非常に詳細であり、
その中でのSAの役割の変化、別の言い方をすれば「SA興亡史」が展開される構成なので、
その意味では必要かとは思いますが、ヒトラーが首相となる経緯などはちょっとやり過ぎ感も・・。
シュライヒャー将軍の名前が何十回も出てくるわけですからね。

また、国会議事堂放火の下手人はゲーリングとSAだと断定していますが、
著者は「ヒトラーの陰謀 ドイツ国会放火事件」という本も書いているんですねぇ。
ちなみに別の著者による「国会炎上(デア・ライヒスターク)―1933年-ドイツ現代史の謎」
という本もありました。

ヒトラーの陰謀_国会炎上.jpg

まぁ、その件も含めて、本書が若干古いとか、日本人が書いたとかの意見は置いておいても、
いくつか「ホンマかいな??」というのもありましたので、それらも今回は取り上げています。
なにが真実かということに拘るより、名前も知らなかった初期のナチ党員やSA隊員らの、
虚虚実実の駆け引きを味わうことができた一冊でした。












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