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ニュルンベルク裁判  ナチ・ドイツはどのように裁かれたのか [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アンネッテ・ヴァインケ著の「ニュルンベルク裁判」を読破しました。

先月、「ナチスと精神分析官」で4回目のニュルンベルク裁判を紹介したばかりですが、
しつこく5回目をやってみたいと思います。
今年の4月に出た230ページの新書・・と軽い一冊を選んだのにはわけがあり、
いつもの国際軍事裁判に続く、「12の継続裁判」についてページを割いているのがその理由。
いわゆる「医師裁判」や、「アインザッグルッペン裁判」などが含まれますが、
これらの裁判についての本を読むのは初めてなんですね。
そして原題はやっぱり「ニュルンベルク諸裁判」なのでした。

ニュルンベルク裁判.jpg

第1章では戦時中、1943年当時の連合国首脳の考え方・・。
チャーチルは独日伊の「アウトロー」である主要戦争犯罪人100人ほどを身元確認後、銃殺。
スターリンはドイツ参謀本部のすべて、少なくとも5万人を抹殺してしまえばいいと主張。
ルーズベルトは「モーゲンソー・プラン」を・・という流れを簡単に説明します。

Tehran Conference.jpg

第2章は「国際軍事法廷」で、24人の主要戦争犯罪人への処断です。
1945年8月の「ポツダム会談」で米英ソの3巨頭によって、可及的速やかに国際軍事法廷を・・、
という共同の意志を確認すると、占領下のドイツで証拠資料の奪い合いが始まります。
米首席検事ジャクソンの部下たちは、ヒトラーの副官だったホスバッハが作成した
1937年のヒトラー欧州戦争計画策定に関する「ホスバッハ覚書」のオリジナルを
大量に「借り出し」たものの、その多くを紛失するという大失態・・。

Jackson.jpg

英国は当初、被告人をゲーリングリッベントロップライヘスだけに絞っていたものの、
米国はナチ最高幹部に加え、犯罪的であると推定された「組織」の代表者も起訴すべきと主張。
ヒトラーユーゲント指導者や、SSの各組織、陸軍参謀本部にOKW、3軍の総司令部も対象に・・。
終戦時に大統領であった海軍総司令官のデーニッツ元帥も、「戦前」は地位の低い将校であり、
「共同謀議」の罪で立件するのは不可能という英国の異議も、慎重すぎるとあっさり退ける米国。

hitler-talking-to-a-naval-commander.jpg

司法代表団は英国が170名、ソ連が24名、フランス12名なのに対して、
米国は堂々の2000名超え。他方、20ヵ国から250名の「敏腕ジャーナリスト」も集まると、
郊外にある男爵邸をあてがわれます。
しかしこれが粗大ごみが所狭しと置かれた「恐怖の邸宅」と呼ばれる建物であり、
そのような境遇で数ヵ月も過ごす彼らは、米検察団の失敗を容赦なく弾劾することで、
ジャクソンに「返礼」するのでした。

Nuremberg trials.jpg

ソ連が「カティンの森」はドイツ人よるものという不当な要求を押し通しているころ、
他国は「ソ連にとって危険な証拠は公表しない方が、安全かつ賢明では・・」と協議。
その結果、ポーランドの分割などが確約された独ソ不可侵条約の「秘密議定書」が
起訴状から外されてしまうのです。

Treffen deutscher und sowjetischer Soldaten in Polen, 20. September 1939.jpg

最終的に12人に死刑が宣告されてこの章は終わりますが、「勝者の裁き」論にも触れ、
「根拠のある意義はあるにせよ、多くの批判者たちには、裁判に代わる選択肢があったのか、
という問いに答える義務がある」とします。

Secretaries preparing the Nuremberg Trials judgments to be handed to the press.jpg

89ページから第3章の「12の継続裁判」が始まります。
1946年初頭の段階で、米首席検事のジャクソンは、第2の国際軍事法廷は開催せず、
米国の単独管轄による、ドイツ人エリートへの裁判を行うことを決めます。
すでに始動していた「ダッハウ裁判」を支持する在独米軍政局のクレイ将軍も支援する体制。
首席検察官となるのはジャクソンの代理、テルフォード・テイラーです。
「ダッハウ裁判」ってあのマルメディの虐殺における武装SS裁判のことですね。

Telford Taylor.jpg

最初に開かれた継続裁判は「医師裁判」。
ナチスの医療犯罪に関与した20人のSS隊員、または強制収容所の医師・医療関係者などが
対象であり、ヒトラーの随行医師から、保険・衛生全権委員にまで昇りつめたカール・ブラント
「T4作戦」に責任を持つヴィクトール・ブラックらが被告人席に・・。

Viktor Brack.jpg

医師たちの大部分がナチ保険政策の遺伝学的・人種学的な目的と、
自分を一体化させていたことが審理の過程で明らかになり、
医療実験のイニシアティブをとっていたのはヒトラーやナチ幹部ではなく、医師たち自身であり、
人体実験の自発的な参加は、自分の職業的な功名のため、兵役招集を逃れるために
利用していたことが判明していくのです。

Dr. Karl Brandt.jpg

結局、ブラントを含む7人が絞首刑、逆に7人が無罪となりますが、
証拠不足によるものであり、「疑わしきは罰せず」の原則に従ったものだとします。
本書には名前が出てきませんが、アーネンエルベ事務長のヴォルフラム・ジーフェルスや、
主治医としてヒムラー逮捕の時まで同行していたカール・ゲープハルトと
ルドルフ・ブラントも絞首刑に・・。
この「医師裁判」は7ページ。もうちょっとボリュームが欲しいなぁ。。

The seven physicians who were hanged.jpg

司法省次官のシュレーゲルベルガーを中心とした「法律家裁判」が続いた後、
「ポール裁判」、すなわちSS経済管理本部オスヴァルト・ポール長官を主要被告人した裁判へ。
経済管理本部と書くとアレですが、アウシュヴィッツをはじめとした強制収容所が担当部署です。
ポールは刑法的な責任を断固として否認し、弁護人も「抑留者たちの生活条件を改善させる」
ための努力をいとわなかったとしますが、検察側の示したポールの管轄下で
死者が猛烈に跳ね上がったことを示す証拠文書によって、絞首刑・・。

Oswald Pohl und Ernst Schmauser.jpg

「SS人種・植民本部裁判」は、SS大将で「ドイツ民族性強化全権委員長官」の
ウルリヒ・グライフェルトが主要被告人で、レーベンスボルン(生命の泉)のメンバーも起訴。
ポーランドにおける虐殺政策や、ポーランド人孤児の拉致、
東部女性労働者の妊娠中絶などが裁判の中心ですが、判決は寛大なもので、
グライフェルトが終身刑で、7人が10年~20年というもの。
なお、唯一の女性被告人でレーベンスボルン協会副会長インゲ・フィアメッツは無罪です。

Ulrich Greifelt_Inge Viermetz.jpg

次は有名な「行動部隊(アインザッツグルッペン)裁判」です。
開廷前に1人が自殺して、SS、ゲシュタポ、刑事警察、保安部の高官から成る被告は22人。
最も重要なのは、すでにカルテンブルンナーに関する審問において、
南ウクライナ地域を担当していたショーベルトやマンシュタイン、そして自分自身を不利な立場に
置くような発言、「9万人のユダヤ人の殺害に責任がある」と述べていたオーレンドルフです。

それから15か月後の裁判でオーレンドルフは弁護士の勧めもあって、これまでの供述を翻し、
大量処刑は、「国防軍が制約されずに行動できるように」するための軍事的、警察的措置と表現。
また、RSHA人事局長シュトレッケンバッハによる、
「占領地におけるユダヤ人を無差別に殺害すべし」というヒトラー命令を聞いたと主張。
もうヒトラーも、ヒムラーも、ハイドリヒもみんな死んでますしねぇ。

Reinhard Heydrich_Bruno Streckenbach.jpg

この当時、ソ連に拘留されていたシュトレッケンバッハに責任を押し付ける戦略ですが、
最終的にオーレンドルフを含む14名に死刑判決が下されるという、
全裁判の中でも最も厳しいものとなるのです。

しかし処刑は1951年にオーレンドルフとパウル・ブローベルら4人に対してのみ執行され、
残りの囚人は50年代に放免されたそうです。

Einsatzgruppen Trial.jpg

「南東戦線将官裁判」は、別名「捕虜裁判」とも呼ばれているもので、
裁判の中心は、占領下のユーゴスラヴィアとギリシャにおける「人質処刑」です。
民間人を人質に取ることは、まだニュルンベルク裁判の時点では、
戦時国際慣習法で許容された対抗措置に属するものだったものの、
バルカン半島でのドイツ軍行動は軍事的報復措置の限界を遥かに超えた・・。

カイテルが「ドイツ兵士一人につき、50~100名の共産主義者を見せしめに処刑せよ」という
ヒトラー命令を伝達したことから、セルビア駐留のベーメ将軍はユダヤ人の大量処刑にも関与。
コレは「世界戦争犯罪事典」に載っていたエピソードですねぇ。
パルチザンに対するフラストレーションが住民にぶつけられた結果の粗暴な行為。
これにより1949年のジュネーブ条約では許容されていた民間人の人質が否定されることに・・。

List_von Weichs.jpg

ベーメは審理開始前に自殺、ヴァイクス元帥は病気により免訴となって、2名に終身刑。
名前は書かれていませんが、この終身刑のうち一人は、あのリスト元帥です。
もっとも病気のため1952年には釈放されたようですね。
また、20年禁固刑を受けたものの、1951年釈放されたギリシャ軍事司令官は、
ヴィルヘルム・シュパイデルで、あのハンス・シュパイデルの兄さんです。

Wilhelm Speidel.jpg

「国防軍最高司令部(OKW)裁判」も対象となる被告は高級将校。
起訴理由は「コミッサール命令」と、「戦時捕虜の大量殺害」に関するもの。
被告は陸軍からフォン・レープ、海軍からはシュニーヴィント、空軍がシュペルレであり、
詳しい方なら、この3人は悪人顔ながらも「OKW」じゃないのがわかるでしょう。

Ritter von Leeb_Otto Schniewind_Hugo Sperrle.jpg

シュペルレは「コンドル軍団」司令官としてゲルニカ空爆を実施していますが、
1939年からの戦争が対象のニュルンベルク裁判ではそれが起訴理由にはなりません。
シュペルレとシュニーヴィントは結局、無罪となりますが、
民間人に対する虐殺行為を何度か激しく非難したことで知られるブラスコヴィッツまでもが
起訴されたことは理解しがたく、その彼は開廷の日である1948年2月5日に自殺・・。

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残る11人の被告全員が戦争犯罪、および人道に対する罪で3年以上の有罪判決。
本書からは名前が書かれた4名しかわかりませんので、ちょっと紹介しましょう。
OKWからは3人で、そのうち一人はヨードルの代理でもあったヴァーリモントが終身刑。
フォン・レープは3年、ホリトが5年、オットー・ヴェーラーが8年、
ヘルマン・ホトと、ラインハルトが揃って15年、フォン・キュヒラーフォン・ザルムートが20年。
とはいってもレープはすでに3年以上拘留されているため判決後釈放され、
その他の被告も1954年までには全員釈放されています。

そういえば「ドイツ装甲師団とグデーリアン」で、戦犯容疑者として拘留されているメンバーが
宿敵ハルダーの保守派である、フォン・レープにリスト、ヴァイクスらで、
村八分のグデーリアン派は、ミルヒとブロムベルクだったなんて書かれてましたね。

Küchler_Warlimont_Hoth.jpg

鉄鋼界の大立者である「フリードリヒ・フリック裁判」の後、
経済界を対象とした「IG・ファルベン裁判」と続き、
エッセンの大企業「クルップ裁判」と、ナチスに協力した企業家かや経営者への裁きが連続。

空軍次官だった「ミルヒ裁判」はその期間は最も短いもの。
ダッハウで行われたジークムント・ラシャーの人体実験の責任も問われます。
法廷は強制労働計画を理由に「終身刑」の判決を下しますが、
後に15年に減刑、そして1954年には自由の身になるのでした。

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最後に紹介される裁判は、閣僚・政府高官へのもので、いわゆる「諸官庁裁判」です。
21人の被告はざっとこんなメンバーです。
内閣官房ラマース、大統領官房マイスナー、食糧・農業省ダレ、財務省フォン・クロージク、
宣伝省オットー・ディートリッヒ、外務省はリッベントロップの副官と書かれたヴァイツゼッカー

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さらにアウトサイダーとしてSS本部長ゴットロープ・ベルガーと、SD国外諜報部長シェレンベルク
彼らが共同謀議や平和に対する罪、占領地域における経済的略奪、犯罪的な組織への所属・・、
といったことで起訴され、検察側は21人全員の死刑を要求し、弁護側は全員無罪を主張します。

Gottlob Berger_Walter_Schellenberg.jpg

最終的に無罪となったのはマイスナーら2人で、同じ官房長だったラマースは20年の判決。
別に顔つきから無罪と、有罪になったわけではありません。
最も重い25年がベルガーで、シェレンベルクが6年、ヴァイツゼッカーが5年となるのでした。

Otto Meißner_Heinrich_Lammers.jpg

こうして第4章の「戦後ドイツへの影響」へと進みます。
すでに1948年には第一次世界大戦のUボートの艦長で、反ナチのために1937年から
ザクセンハウゼン強制収容所などに収容されていたマルティン・ニーメラー牧師が
「OKW裁判」に関する請願書を提出。
「目的のためにあらかじめ将官から軍の階級を剥奪するという手法は、
7月20日事件のヒトラーによるドイツ人将校に対する処遇と同じではないでしょうか」。

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そして「西ドイツ」が誕生し、ランツベルクに収容された囚人たちへの「恩赦」も検討され、
西ドイツのジャーナリズムも、一連のニュルンベルク裁判を公然と批判します。
「自分の命を常に危険に晒しながら、エーリヒ・コッホのような奴らと闘ったヴァイツゼッカーを
はじめとする人たちが有罪判決を下される一方、東プロイセンの警察・SS最高指導者の
オットー・ヘルヴィヒのような人物が自由に暮らしている事態に、わたしたちはうんざりだ」。

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最終章ではこの「ニュルンベルクの原則」を国際法として確立しようとする紆余曲折が
語られます。それは1950年に法典案が提出されてから、国際法委員会で採択されたのは、
ようやく1990年になってから・・。

結局、期待していた「継続裁判」は第3章に70ページほど書かれていましたが、
ひとつひとつの裁判については簡単なものだと3ページ程度(ミルヒ裁判は1ページ)であり、
概要レベルと言っても良いかも知れません。
また、本書の観点は検察側の戦略に重点を置いたものであって、
被告側の主張はオーレンドルフなど、いくつかの例を除いてはそれほど書かれていませんし、
いつものニュルンベルク裁判モノにある被告の心理や、検察との戦いの様子も伝わりません。
もちろん、このボリュームの新書ですからそれはそれでしょうがないですし、
コレだけでも十分勉強になったのは事実です。

でも・・、それでも余計にもっと詳しく知りたいと思ってしまいましたね。
行きたいと思っていた高級レストランの安いランチだけを食べたような心境というんでしょうか・・。
多少は満足したけど、夜のフルコースを存分に味わってみたい・・と更に思います。
そしてできれば、マルメディ裁判に、ポーランドやソ連、その他の国で行われた
ナチス裁判についても、まとまって書かれた本があれば嬉しいですね。



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