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失われた勝利〈下〉 -マンシュタイン回想録- [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーリヒ・フォン マンシュタイン著の「失われた勝利〈下〉」を読破しました。

上巻の10章は、1938年~1942年まで、階級で言えば中将から元帥昇進まで、
別の言い方をすれば、参謀本部次長~第11軍司令官までの回想です。
基本的には自らが体験した戦闘の指揮状況が中心ですが、
各々の戦役全般についても解説しつつ、ヒトラーと陸軍総司令部の軋轢を危惧し、
その統一されない戦略についても、あくまで軍人の立場から見解を示します。
それにしても5年ぶりの再読かと思うほど、覚えている話が所々に出てきました。
コレは本書が西方電撃戦と独ソ戦の著名な戦記の元本になっているということなんでしょう。

失われた勝利_下.jpg

下巻は第11章、「軍統帥におけるヒトラー」からです。
クリミアを奪取して元帥となったものの、まだ一介の軍司令官という立場であり、
最高司令官であるヒトラーの直接干渉は受けていないマンシュタインでしたが、
軍集団司令官となったこれからは、そういうわけにはいきません。
犠牲を顧みず獲得した土地を「固守」するという硬直した原則、
技術的手段を重視すればするほど、ますます「数字狂」堕ち込んでいき、
新兵器が戦線に姿を現したということだけで満足して、
部隊の訓練や用法の慣熟はヒトラーにとって、どうでもよかったのだ・・と非難。

それでも勇敢な行為に与えられる「鉄十字章」の規定については肯定的で、
「もしも後世、ヒトラーが制定した多種多様の勲章類を物笑いの種にするのなら、
わが軍の将兵が成し遂げた業績を思い浮かべるべきである。
白兵戦章』や、『クリミア盾章』の如き勲章は、常に誇りをもって佩用されて然るべきものだ」。

Heavy decorated LW soldier.jpg

そしてヒトラーが怒りを爆発させて対談相手を委縮させるやり方も意識的な演出であり、
相手によっては距離を保った対応・・と個性に応じて使い分ける術を心得ており、
その相手の提言の意図を承知したうえで、あらかじめ自分の反論を準備していたとします。
この章の最後には、暴力をもって国家の統帥機構に変更を加えようという問題、
すなわち、1944年のヒトラー暗殺未遂事件に立ち入るつもりはないとし、
「戦線における責任ある一司令官として、戦争の最中のクーデターという思想には、
考慮の余地がないと信じている」。

このようなヒトラー評を踏まえたうえで次の章は「スターリングラードの悲劇」。
まずは犠牲となった20万人の第6軍兵士たちの英雄的精神を称え、追悼。
「結果が無駄となってしまうならば、その犠牲は無益なりとされるべきか。
尊敬できないような政権に捧げられる忠誠は、無意味とすべきか。
その頼るべき契りが偽りのものとわかったら、服従もまた過ちと判定すべきか。
しかしなお、その勇気、忠誠、責任観念こそは、ドイツ軍人精神の賛歌として不滅である!」

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マンシュタインが1942年11月のスターリングラード危機によって
急遽、新設の「ドン軍集団」司令官となった時の南部戦線の状況を解説します。
カフカスへ向かっていたA軍集団はリストを解任したことで、ヒトラー自らが司令官を兼任。
ヴァイクスのB軍集団は第6軍を含む、7個以上の軍を指揮し、そのうち4個は同盟国軍であり、
軍集団司令部というものは、有利な状況でも5個の軍を何とか指揮し得ることから、
この軍集団司令部の任務は能力をはるかに超えていたとします。
まして、ヒトラーが干渉し、第6軍の指揮に関しては閉め出される結果に・・。

WEICHS, PAULUS, AND SEYDLITZ.jpg

以上のような困難な状況を熟知していたOKHは、アントネスク元帥の統率の下に
「ドン軍集団」を編成しようと準備していたそうですが、
スターリングラードが陥落するまで・・と、ヒトラーによって"待った"がかかっていたのです。
マンシュタインは「元帥の作戦能力は、まだ実地に証明されていなかったものの、
登用を見送ったことは重大な過誤であった」と、アントネスクを非常に高く買っていますね。
ポイントは延伸しきった戦線翼側の危険な状況をパウルスやヴァイクスよりも
アントネスクならもっと強力にヒトラーに苦言を呈することができただろうということです。
確かにヒトラーの通訳シュミットも回想録で、ヒトラーが謙虚に助言を求めた・・と
書いていましたしねぇ。

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ドン軍集団の管轄は第6軍の他、ホトの第4装甲軍、そしてルーマニア第3軍です。
ちなみにルーマニア第3軍の参謀長はあのヴェンク大佐で、
マンシュタインの伝令将校には、あの「回想の第三帝国」の著者、シュタールベルク中尉が・・。

Erich von Manstein & his adjudant Alexander Stahlberg.jpg

スターリングラード戦についてはいろいろと書いてきましたので、その戦局の推移は割愛し、
本書で興味深かった部分をピックアップしてみましょう。
「ゲーリングの軽率な確約」で空中補給もままならない第6軍、
解囲救出を早くしなければ・・と、OKHは新たな兵力の指令を送ってきます。
装甲師団4個、歩兵・山岳兵師団4個、ついでに空軍地上師団が3個です。
しかしやっぱり空軍地上師団は、「せいぜいよくて防御任務を与ええる程度、
突進群の両翼側の援護に使用できるくらいだろうということは初めからはっきりしていた」。

そしてそんな貴重な戦力も輸送の遅延によって、思うようになりません。
軍直轄の砲兵部隊はネーベルヴェルファー1個連隊のみが到着しただけ・・。

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第3山岳師団は結局、到着せず、2個歩兵師団は突破されてしまったルーマニア軍戦区を
なんとか支えるために投入され、第15空軍地上師団は真っ先に配置につく必要があるのに、
数週間の日時を要求。しかも第1日目の戦闘で支離滅裂になってしまうのでした・・。

それでも12月12日、第4装甲軍による第6軍解囲攻勢(冬の嵐作戦)が開始。
特に戦車・突撃砲の定数が完全に充足した第6装甲師団については、
「卓越した師団長ラウスと、戦車連隊長ヒューナースドルフ」の名を挙げて賛辞。
あ~、「奮戦!第6戦車師団 -スターリングラード包囲環を叩き破れ-」も再読したくなってきた。

Oberst Walther von Hünersdorff  6.Panzer-Division.jpg

包囲されているパウルス将軍は直属の上官となったマンシュタインの脱出計画と、
最高司令官ヒトラーによる「保持せよ」の命令に挟まれて苦悩しています。
第4装甲軍の突破によって連絡がついても、その道は脱出路ではなく、
補給回廊でなければならず、スターリングラード戦線は維持し続けなければなりません。

軍集団の意見を伝えるために参謀のアイスマン少佐を空路第6軍に送り込んで説得しますが、
頑固な第6軍参謀長のシュミットは、突囲するのは不可能であり、破滅的結果を招くと言明。
彼に言わせれば、「軍に何の落ち度もないのに、このような窮地に追い込んだのだから、
空路によって充分な補給をするのが最高統帥部と軍集団の責任である」。
マンシュタインは理論的に彼の言い分は正しい・・としながらも、
空中補給の悪化は軍集団には責任がなく、天候と空軍、そしてOKWの問題であって、
「このような意見の対立は異なった状況なら、第6軍司令部の交替を申請しただろう」。

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12月31日、OKHからの訓令を受領したマンシュタイン。
それはヒトラー自身の決断によって、スターリングラードに向けた攻勢のために、
新鋭装備で定員の充実したライプシュタンダルテダス・ライヒトーテンコップから成る
SS装甲軍団を西部戦線より招致し、ハリコフ地区に集結させるというもの。
しかし、果たして第6軍がその時まで生き永らえていられるかどうかは、明らかに疑問なのです。

1月9日、第6軍はソ連軍から勧降状を突きつけられますが、ヒトラーが拒否。
散々、ヒトラーの軍事的決定を非難しているマンシュタインですが、
この件については、「断固、ヒトラーの決定に同意だった」。
それは、第6軍を包囲しているソ連軍機甲旅団など60個が自由になったら、
東方戦線の全南方翼に対して恐るべき結果をもたらすこととなり、
可能な限り、その前面の敵を拘束しておくのがパウルスの軍人としての義務であったとします。
「『第6軍が早く降伏してさえいたら、あれほど永く苦しまなくてもよかったろうに・・』
などということは許されない。そんなことは事が終わってからの知ったかぶり、というものである」。

こうして座して死を待つだけ・・だということを理解している軍集団と第6軍
賜暇より帰還してきた第6軍将兵は、自ら進んで、どうしても原隊復帰したいと願うのです。
ビスマルク家やベロウ家といった古い軍人家系に属する人々は、
義務と戦友愛の伝統は最も困難な試練に堪えるということを実証したいと考えており、
断腸の思いに悩まされながら、彼らを空路被包囲圏内に送り込むことになるのでした。

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147ページからは「南ロシアにおける1942~43年の冬季戦」。
独ソ戦好きの方ならご存知のように、ジューコフの天王星作戦~小土星作戦などという
一連のソ連の大反撃に対抗する最終的な「第3次ハリコフ攻防戦」、
有名なマンシュタイン・バックハンドブローが炸裂する第13章です。
兵力的に敵が圧倒的に優勢であることに加え、スターリングラード後の危機を説明します。
「わが同盟諸国軍の無能力によって完全な自由を獲得したソ連軍が、
ドイツ軍南方翼の生命線である、ロストフ、ドニエプルに向かう道を手にしてしまうことにより
アゾフ海沿岸、あるいは黒海に圧倒殲滅される」、戦略上の危険です。

2月6日、総統本営でヒトラーにこの状況を詳しく説明するマンシュタイン。
彼はすでに「東方戦線において勝ち負けなしに終わらせる」引き分け戦略を想定しています。
しかし戦術的な意見具申をするマンシュタインに対してヒトラーは、うまく話をはぐらかしながら
石炭を産出するドニェツ地域の放棄は、戦争経済上不可能であり、
トルコに及ぼす影響という政治的外交政策を繰り出して反対するのです。

Erich von Manstein with Turkish generals.jpg

ドン軍集団は「南方軍集団」と改名されたものの、正面のソ連軍との兵力比は1対8・・。
比べて、中央軍集団と北方軍集団のそれは1対4であり、
確かにそこから補充兵員を南方軍集団に送り込むのには不利な状況ではあるけれども、
こっちは数ヵ月以来、絶え間なく激戦を続けていたのにあちらはそうではない・・、
というのがマンシュタインの意見です。

隣接する中央軍集団司令官クルーゲ元帥の名前はちょくちょく出てくるものの、
マンシュタインは例外的に彼についての人物的評価を下しません。
グデーリアンはあの回想録でケチョンケチョンにけなしていましたが、
自決した軍人に対してあまり否定的なことは書きたくないのかもしれません。
なのでこの件も、そんな批判の多いクルーゲをチェーン店の立場で考えてみると・・、

ナチスらーめん南店の店長マンシュタインが、開店前から大行列で仕込みも間に合っていないと
さほど忙しくないであろう中央店と北店から2~3人、ヘルプを要請。
中央店の先輩店長クルーゲは、ウチだって常連さんが多いし、遊んでる従業員なんていない。
最近、一番売上が良いからって、大げさに騒いで、社長にアピールしたいんじゃないの?
なんていう思いを持っていたとしても不思議ではありませんね。。

Generalfeldmarschall von Kluge.jpg

「ハリコフを死守すべし」の総統命令では、ウクライナの首都たるハリコフが
ヒトラーの威信問題であったとします。実際は当時もキエフが首都だと思いますが、
1934年までウクライナにおけるボルシェヴィキの首都はハリコフだったんですね。
そしてランツ軍支隊隷下のSS装甲軍団は命令に背いてハリコフから撤退・・。
もし命令を下したのが陸軍の将官だったら軍法会議は免れなかったものの、
脱出したのがSSの将軍ハウサーだったので何事も起らなかったそうです。
それでもランツ将軍が山岳猟兵出身であるとの理由から、
装甲兵大将であるケンプフに交替させられるのでした。

Hitler in military briefing_ Manstein, Ruoff, Hitler, Zeitzler, Kleist, Kempf, Richthofen, March 1943.jpg

第4装甲軍、第1装甲軍、ホリト軍支隊の攻勢的防御によって、敵に大損害を与えた後、
ハリコフ奪還作戦を指揮するマンシュタイン。
「重要なことは決してハリコフ市街全体の占領ではなく、
同地にある敵部隊を撃破し、殲滅することである」。
すなわちスターリングラードの二の舞だけは避けようとする戦術ですね。

Marders, Russia, spring 43.jpg

続く第14章は「城塞作戦」、クルスク戦です。メジャーな戦役が目白押しですね。
圧倒的な兵力差があるといって、純粋な防勢ばかりとっていたら戦線は寸断される・・。
「そこでわが軍が『戦略的防衛体制』をとるとしたならば、敵軍に対してなお優越している諸要素、
つまり柔軟性のある部隊指揮、高度の戦闘能力、部隊の偉大な機動性に依処しなければ・・」。
そして有名な二者択一の選択が出てきます。
当初は敵に主導権を譲り、攻撃してくるのを待ってから『後の先』の反撃を加えるか、
自らが主導権を握り、敵がまだ冬季戦役の損失から回復しないうちの『先の先』をとるか・・。

1942年の夏季攻勢も『後の先』で敵に包囲殲滅したこともあって、コレを望むものの、
西部戦線が怪しげな雰囲気のいま、ソ連が必ずしも攻勢を仕掛けてくる保証はなく、
ジックリ腰を据えて戦力を拡充しつつ、ドイツ軍兵力が西部に割かれることを待つかも知れん。。
そこで5月初頭の『先の先』、すなわち城塞作戦を提案するのです。

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北翼から攻勢を開始する中央軍集団の第9軍司令官はモーデルです。
かつて陸軍参謀本部で第8課長としてマンシュタインの下にいた頃から知っているモーデル評。

「彼はその地位にあって『群羊中の狼』の如き存在として非常に有効な影響を与えていた。
後にA軍集団隷下の第16軍参謀長として、西方攻勢準備の間、私の指揮を受けていた。
ずぬけて旺盛なエネルギーがあったが、このために無遠慮な点があるのは免れなかった。
彼は自分のことを、苦難ということを知らぬ楽観主義者であるとしていた。
政府の首脳部と個人的に良好な関係を保とうと努力し、
事実、ヒムラーからSSの副官を付せられ、将校団から激しい批判を受けていたが、
モーデルをヒトラーに隷属してしまった少数の軍人の一人として数えるのはどうであろうか。
彼はヒトラーに向かって、軍事上の意見を遠慮会釈なく主張し、
いつでも彼の指揮する戦線が最も危急に瀕している場所にあった。
だからこそヒトラーの観念からすれば、モーデルこそ真の軍人だったのである」。

Generalfeldmarschall Walter Model & Reichsleiter Robert Ley, December 1944.jpg

始まったクルスク戦。南方軍集団はプロホロフカの会戦でその戦いは最高潮に達しますが、
モーデルは沈滞気味・・。おまけに連合軍がシチリアに上陸すると、クルーゲが報告します。
「モーデルの第9軍は、これ以上進出できないし、すでに2万名の損害を出している」。
マンシュタインは反論します。
「戦いは今や決定的なところまで到達している。わが軍の勝利は目前にある。
いま本会戦を中止することは、みすみす勝利を手放すということだ。
もしも第9軍が当面の敵兵団を拘束し、のちに再び攻勢をとってくれるならば、
わが軍集団は再び北方に進撃し、次いで西方に向かって旋回しながらクルスク湾曲部の・・」。
と、いくら力説したところで、ヒトラーの決定は作戦中止。。

Tigers near Orel, during the Battle of Kursk, July 1943..jpg

308ページから最後の第15章、「1943~1944の防衛戦」です。
8月、再度、ハリコフがターゲットとなり、ケンプフ軍支隊に全周包囲の危機が・・。
ハリコフを放棄したケンプフ軍支隊は、第8軍と改称され、
司令官にはかつてのマンシュタインの参謀長、ヴェーラーが任命されます。

9月には軍集団北翼のホトの第4装甲軍が北方から包囲される危険性が・・。
ヒトラーに直談判するマンシュタイン。
「このような状況に立ち至ったのは、中央軍集団が兵力の転属をしなかった結果である。
わが軍集団は正面の危機にあっても、兵力の転属を命ぜられたら忠実にこれを遂行してきた。
何故に他の軍集団ではこれと同じことができないのか理解に苦しむ。
ことに、その結果として中央軍集団が戦線を後退させなくてはならないとしても
たいした問題ではないだろう。第4装甲軍の戦線が崩壊したなら、
隣接する中央軍集団が戦線を維持していても何の役にも立たないからである」。

Erich von Manstein at the briefing on Division HQ.jpg

軍集団司令官として、各軍の個々の戦闘の詳細を扱うことは本書の範囲外とし、
その代わり、固い信頼関係にあった各軍司令官と、その参謀長を紹介しています。
新生第6軍のホリト上級大将はクリミア戦役当時の師団長であり、
真面目で公平な思慮を持ち、絶対に信頼できる人物。

von Manstein. Karl Adolf Hollidt.jpg

第1装甲軍を率いるマッケンゼン上級大将は、有名な元帥を父親に持ち、
軽騎兵出身ながら、そのようなタイプではなく、思慮深くて、親切な良き戦友。
そんな彼の参謀長はヴェンクで、常に「まあなんとか切り抜けられるでしょう」と締め括る
楽天的で頑健さ、愛嬌があって「お日様鳥」という綽名も・・。

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第8軍のヴェーラーの参謀長はシュパイデルです。
ケンプフ軍支隊時代からその地位にあり、統帥上の業績の大部分は彼によるもの。

そして第4装甲軍司令官のホト上級大将
「私より年長で、彼は私がまだ軍団長だった頃、第3装甲集団を率いて、
装甲部隊の運用に関して非常に経験を積んでいた。
彼が自分より年下の軍集団司令官の指揮に最も忠実に服していたというのは、
ますます彼に対する評価を高らしめるものであった。
小柄で華奢なつくりであったが、元気旺盛でいつも活発、
しかも楽しげに振る舞っていたので若い戦友たちの間に人気があった」。

General Hermann Hoth, commander of the 4th Panzer Army _Romanian 6th army corps commander.jpg

実は本書を読み終わった日、夢に出てきたのがこのホト爺。。
ファンの多い将軍ですが、まさか夢に出てくるとは夢にも思ってなかった・・。
それにしてもマンシュタインとホトの写真といえば、やっぱりコレ ↓ が一番。

Erich_v__Manstein_Hermann_Hoth.jpg

マンシュ・・「ウチのシチュー美味いでしょ?」 ホト・・「うーん、まあまあだな」

軍集団の参謀長、ブッセ将軍にも賛辞を惜しみません。
「彼の言はほとんど正鵠を得ていた。我々が上から受けるさまざまな命令に対して、
『一人だけがさっぱりわかっとらん!』とだけ、あきらめたように注釈を加えた。
まったく歯に衣着せず、我々側近の間では話し合っていたものだ」。

manstein Colonel Theodor Busse and Major General Otto Wöhler.jpg

そんな「わかっとらん!」命令を伝えてくるのは本人ではなく、陸軍参謀総長です。
マンシュタインからしてみれば直属の上司に当たるこの人物は、
その陸軍参謀総長としての登場があまりにも電撃的であり、
部下に対しても彼の指示を電光石火にやり遂げることを要求。
また、何となく丸っぽい感じで、頬は紅く頭も丸く禿げ上がり始めていたという外見から、
「火の玉」と名付けられていたのです。

ツァイツラーは私の友人ではなかった。彼は戦争の前年、国防軍総司令部(OKW)の
国土防衛課に属していた。私が参謀次長にあった陸軍総司令部(OKH)とは、
まさしく対立関係にあった。だからこそ彼は後になって苦汁をなめる羽目になってしまった。
陸軍参謀総長として、かつての上官たる、カイテルヨードルと対立することとなる。
大部分の戦場で陸軍の統帥が除外されてしまったのは、
2つの統帥機構を作り出したことの結果にほかならない。
ツァイツラーは常に全精力を傾け、ヒトラーの意に反しながらも、
軍集団の判断と希望とを申し立ててくれたのである。
ヒトラーはかつて私に言ったことがある。
『ツァイツラーは貴官の意見具申を通すためには、まるで獅子のように戦う』」。

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当時のドイツ軍、特に将軍や参謀も出身と経歴によってギスギス感があるわけで、
大奥のようで印象的だった「ドイツ参謀本部」をつい思い出しました。

11月、ドニエプル戦線を失うと、退却した第4装甲軍の指揮官を更迭すべしと命令するヒトラー。
マンシュタインの抗議にもかかわらず、予備役に編入されるホト・・。
後任は第6装甲師団長として名声高き、ラウス将軍です。

von Manstein, May 1943_ General Erhard Raus looks on.jpg

東部戦線の全般戦争指導の完全な自主性をもった総司令官を任命して欲しいと
ヒトラー訴えるマンシュタイン。
自分をその地位に任命して欲しいのか・・? と考えるヒトラーは当然、拒否します。
「国家のすべての手段を把握している自分だけが、戦争を軍事的にも有効に指導し得る。
また、ゲーリングは私以外の他の何人の指令にも服しないだろう」。

年が明けた1月、第42、第11の2個軍団がチェルカッシィで包囲されてしまいます。
まさにスターリングラードの再現であり、今度は失敗は許されません。
ライプシュタンダルテとベーケ重戦車連隊が救出に向かい、
包囲陣から突囲脱出を図るシュテンマーマンとリープ軍団長。
3万人が脱出に成功するものの、戦死を遂げたシュテンマーマン・・。

Der gefallene General Stemmermann_Der Kessel von Tscherkassy.jpg

3月にはフーベの第1装甲軍が包囲されますが、
総統命令は「戦線を保持したまま、西方で第4装甲軍と連絡する」というもの。
またしてもスターリングラードの悪夢ふたたび・・。
今回ばかりはヒトラーが譲歩したものの、3月30日、A軍集団司令官クライストとともに
ベルヒテスガーデンに呼ばれたマンシュタイン。
最後の会談における議題は軍集団司令官2人の解任です。
「現在、東方において貴官に向いた任務はもはや存在しまい。今こそふさわしいのは、
北方軍集団であの至難な退却を停止させたモーデルのような人物である」。

立ち去ろうとする2人の前には、すでに後任のモーデルと、
クライストの後任たるシェルナーが立っていたのでした。

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このように本書は回顧録ではありますが、人生を振り返った自伝ではありません。
あくまで第2次大戦における、軍人としての自身の体験に限定したもので、
末尾の「解題」に書かれているように、1949年には英国軍事法廷によって、
「戦犯」とされ、18年の禁固刑を言い渡されますが、1953年に釈放・・
といったことにも一切触れられません。

Erich von Manstein on Trial as War Criminal_1949.jpg

改めて「失われた勝利」とは何なのか・・?? と考えてみると、
下巻でのスターリングラード後の一方的な戦力差、
すでに軍事的勝利は風前の灯であり、狙うは引き分け、そして政治的和平・・。
それが結局のところ、1943年時点での望み得る「勝利」なのだと思いました。

つい、「ヒットラーと将軍たち マンシュタイン 電撃戦の立役者」のDVDも
見返してしまいましたが、クノップ先生はヒトラー暗殺計画に参画しなかったことに
うるさいですから、まぁ、なんとも・・。
元帥の首を懸けて、ヒトラーとやり合うべきだったという証言も、
本書では十分やっていますし、そもそもヒトラーは元帥だからって相手にしません。
興味のある方は、「ヒトラーの戦士たち -6人の将帥-」か、YouTubeでも見れますよ。
でも、フィギアも欲しいなぁ。









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失われた勝利〈上〉 -マンシュタイン回想録- [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーリヒ・フォン マンシュタイン著の「失われた勝利〈上〉」を読破しました。

全国13万人のマンシュタイン・ファンの皆さん、ご機嫌いかがでしょうか。
フジ出版社から1980年に出た函入りの「失われた勝利」を読んだのが5年前。
このBlogを始めたばかりで、5番目に書いた記事でしたが、
何と言っても、読み返すのが恥ずかしいほどの淡白なレビューで、
自分でも詳しい内容が思い出せず、「西方電撃戦: フランス侵攻1940」を読んで、
再読したい、そして書き直したい・・と思っていました。
しかし、ただ再読 und 再UPするのもツマラナイ・・ということで、今回は、
1999年に再刊された、中央公論新社の上下巻に挑んでみることにしました。
シッカリ読んで、ガッチリ書いてみましょう。

失われた勝利_上.jpg

原著は1955年にドイツ語の「Verlorene Siege」、英語版の「Lost Victories」と、
共に「失われた勝利」というタイトルそのままです。
「最高の戦術家」として知られているマンシュタイン元帥ですが、
「傲慢な性格」、「ヒトラー暗殺計画から逃げた腰抜け」といった評価も良く聞きます。
個人的には軍人を評価する場合、その戦功のみを評価するべきであり、
性格が悪い・・とか、変態的な性向がある・・などというのは評価対象外としています。
プロの仕事というものはどんなものであっても、その結果で評価すべきで、
関係者でない限り、プライベートの生活や人間性は関係ありません。
しかし、歴史上の人物に興味を持ち、好きになったり、嫌いになったりするのは、
人間味溢れるエピソードを知ったり、個性的な部分を気に入ったりすることも多いでしょう。

Verlorene Siege.jpg

「序言」でマンシュタインは本書を次のように説明します。
「私は、自己の体験、自己の想定、自己の決断を追憶的な回顧としてではなく、
その当時あったままとして提示するように努めた。
歴史を研究するものとしてではなく、歴史を行動したものとして叙述した。
とはいえ、私が事件や人間、決定をいかに客観的に見ようと努めたところで、
渦中の人物の判断というものは、常に主観的たるを免れ得ない」。

このような彼の回顧録の基準を理解した後、「第1部 ポーランド戦争」へ・・。
1887年のベルリン生まれ・・なんてことは一切触れず、1938年の陸軍参謀本部の話から。
「参謀総長の代理たる参謀次長の要職にまで昇進していたが、
私のこの参謀本部勤務は、突然終わりを告げることになった」。
陸軍総司令官のフリッチュがナチスの悪辣極まる奸計によって職を追われると、
マンシュタインを含む側近たちも総司令部から遠ざけられてしまいます。

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本書ではこの1ページ目の下段にフリッチュの写真が掲載され、
同じく下段は備考欄となっていて、フリッチュが「同性愛者」とされたでっち上げ事件も
しっかりと書かれています。

そして翌年、ポーランド侵攻作戦における南方軍集団司令官にルントシュテットが任命され、
マンシュタインはその参謀長に・・。
旧知の間柄・・と語るマンシュタインのルントシュテット評は、
「将軍はまことに優れた軍人であり、何事においても即時に問題点を見通し、
もっぱらその本質的なものに取り組んでいった。彼にとっては一切の付随物なぞは
どうでもよかったのである。人々がいつも『古武士風』と呼んでいた類の人物であった。
この魅力にはヒトラーさえも屈した。
察するに、ヒトラーは上級大将に心から愛着を抱いていたらしく、
自ら2度までも罷免したのちですら、なお愛着の余光が残されていたのであり、
どうやらヒトラーは、将軍の人柄の放つ、かつて味わったことのない茫漠たるその雰囲気に
溶かされてしまっていたようだった」。

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「ヴェルサイユ条約によってドイツの領土まで我が物にしてしまったポーランド・・」。
ポーランド嫌いなのは、なにもヒトラーだけではありません。
「地図を一瞥する度に、そのおかしな状況を見せつけられるのだった。
理屈に合わぬ国境線、分断された我が祖国! 
東プロイセンを我が本土から切り離しているこの回廊!」

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そんな宿敵に対する2個軍集団の編制も細かく記述しつつ、
9月1日を迎えるまで軍集団幕僚はナイセの修道院を本営とします。
このような本営には司令官ではない「本営指令」という指揮官が存在し、
司令部の宿営給与業務上だけの指揮官だそうですが、
ルントシュテットだろうが甘やかす素振りを見せなかったそうです。

「我々が一般兵士と同様の軍の給養を受けたのは当然であった。
野戦庖厨の昼のスープに文句をつけるようなことは一つもなかった。
けれども、来る日も来る日も夕食に支給された軍用パン
固いソーセージを噛み砕くのは、老紳士諸公には何とも大変なことで、
何もそこまでしなくてもと言いたいものだった」。

field cooker.jpg

作戦は順調。そんなある日、撮影隊と一緒に有名な映画監督である婦人が、
「総統の命により戦線を撮影せねば」と称して軍集団司令部に現れます。
この婦人とは、あのレニ・リーフェンシュタールなわけですが、
「婦人の世話までするなんて我々軍人にとってはまったく願い下げだが、
ヒトラーの命令とあらば、何とも致し方がないではないか」。

そこで第10軍司令官にして、陸軍随一のナチ派であるライヒェナウ
最適の保護者だということで彼女を送り付けると、
とある広場で逆上した将校によって無意味な発砲が行われ、多数の死傷者が生じ、
「その痛ましい光景の目撃者となった撮影隊と、われらの女性訪問者は
震え上がって直ちに現場から引揚げてきたというわけである」。

Leni Riefenstahl als Kriegsberichterstatterin bei einer Erschiessung am 05.09.1939 in Polen. Nach dieser Erschiessung brach sie ihre Arbeit als Kriegsberichterstatterin ab.jpg

ワルシャワに向かって進撃を続ける南方軍集団。
幕僚部も前進し、かつてのポーランド侯爵の居城に宿泊します。
食堂に使用した広間には、ポーランド総司令官たるリズ=スミグリ元帥の油絵が・・。
「襲撃を敢行中の騎兵を背景に銀製の元帥杖を手にし、颯爽と立っていた。
彼は、自信満々、傲然として我々を見下していた。
いまこの男は果たして何を考えているのだろうか。
彼が指導者となっていたその国家は、今や破滅の淵に瀕している。
そして彼自身はもはや英雄としての証はなくなってしまった。
彼は間もなく陸軍を見捨て、ルーマニアに向かって脱出することとなった」。

Edward Rydz-Śmigły.jpg

このポーランド戦を振り返り、ドイツ軍の損害は軽微だったものの、
個人的な関わりのある3人の戦死について触れるマンシュタイン。
ひとりは自殺とも云われている前陸軍総司令官のフリッチュ、
捜索大隊の騎兵大尉だった妻の兄、
3人目は幼年学校時代からの親友、フォン・ディトフールト大佐です。

manstein On promotion to Lieutenant, 27 January 1907.jpg

10月3日、東方軍総司令官に任命されたルントシュテット。
マンシュタインら幕僚もポーランドに残置されることに・・。
この決定を全員がいまいましく感じています。
それというのも大きな貢献をした南方軍集団を差し置いて、
フォン・ボックの北方軍集団は西方戦線に転送されたからです。
将来の民政長官が司令部を訪れることとなり、昼食会の準備が整えられますが、
1時間経っても現れません。「始めよう。来なくてもいい」と言い放つ司令官。。
食事を終えた後やって来たのは、服にベタベタと金色の刺繍を付けた、
「どう見てもキューバの提督としか値踏みできなかった。彼が『フランク閣下』であった」。

Hans-Frank.jpg

ルントシュテットは会談で自分の権限内の事項について、
SS国家長官が横から口を入れることは絶対に認めないと述べます。
もったいぶった口ぶりで話を結ぶフランク閣下。
「上級大将閣下、貴官は私が正義の人間であることは御承知でしょう!」

ルントシュテットはブラウヒッチュ陸軍総司令官に対し、申し入れをします。
「このままポーランドに残置されるのなら、冷遇されているものと認めざるを得ない」
マンシュタインもハルダー参謀総長に対して、同様の申し入れをして、
ようやくブラスコヴィッツが代わりにやって来るのでした。

Rundstedt and Blaskowitz reviewing the German victory parade before the opera house in Warsaw, Poland, 2 Oct 1939.jpg

第2部は「1940年の西方戦役」です。
10月24日、西部へと移って来た司令部は新設の「A軍集団」であり、
司令官ルントシュテット、参謀長マンシュタインのコンビはそのままです。
「連続する降雨が予想されるので、攻勢の開始は差し当たり不可能」と報告すると、
自分の希望に沿わない軍の情報を全く信用しないヒトラーは、
地形の状態を見極めさせるために副官のシュムントを寄こします。

そこでシュムントとかつて同じ連隊の戦友だったトレスコウ中佐をあてがうと、
彼は情け容赦なく一日中、ほとんど通行不能な道路や、水浸しの牧場を引っ張り回し、
シュムントはクタクタになって司令部に帰り着くのでした。
このトレスコウについては、マンシュタインが参謀本部時代から一緒に仕事をし、
親友と言ってよいほどの緊密な信頼感によって結ばれていたと絶賛しています。

Henning von Tresckow.jpg

そのかつての仕事場、陸軍参謀本部と陸軍総司令部の危うさを嘆くマンシュタイン。
ブラウヒッチュについてはフリッチュ、ベック、ルントシュテット、ボック各将軍のような
「首席クラスに属する人物では決してなかった」とし、
ハルダーについても、国防軍総司令官たるヒトラーの失脚を図りつつ、
陸軍をして勝利を収めるために全力を尽くすという役割は両立し難く,
この2つの分裂によってハルダーは精神的に消耗し、ついに行き詰った・・と考察します。

そしていよいよ「マンシュタイン・プラン」の発表。
最初にこの名称で呼んだのはリデル・ハートだとして、ルントシュテットとブルーメントリットからの
聞き取りによって報道した・・としていますが、コレは以前に紹介した、
ナチス・ドイツ軍の内幕」かも知れませんね。

Erich von Manstein color picture.jpg

当初の陸軍総司令部の作戦企図が1914年の「シュリーフェン・プランの焼き直し」だとして、
「新計画」を策定することになった理由をこう述べています。
「我々の世代がこのような古い作戦から一歩も抜け出せないのを非常に悔しく感じた。
一体どうして、書架からすでに使い古した作戦計画書、つまり彼我共に散々練りつくし、
そして敵がその再現に備えているようなものを引っ張り出し、蒸し返さねばならぬのだろう!」

攻撃の重点を当初のB軍集団からA軍集団に、さらに装甲兵力を分散させないという意図を
詳しく解説します。そして、
グデーリアン将軍は、常々、装甲兵力は1ヶ所に"ごり押し"しなければならない、
と主張していた。彼は我々の計画に全身全霊を打ち込んでくれた。
大装甲編合部隊をもって、アルデンヌを突破突進させることがグデーリアンによって
あらゆる困難にもかかわらず、遂行可能と認められ、その後の彼の熱意が、
我が装甲兵力を以て敵の背後に向かい、海峡沿岸まで突進させるに至ったのである」。

Achtung-Panzer-Guderian-Heinz.jpg

侵攻計画を所持した将校がベルギー領内に不時着した「メヘレン事件」にも触れながら、
マンシュタインがA軍集団参謀長を更迭され、第38(歩兵)軍団長に補任された経緯、
1940年2月、新任軍団長としてヒトラーと面会した際に、マンシュタイン・プランを明かした件が
語られますが、陸軍総司令部憎し・・という思いが伝わってきますねぇ。
西方電撃戦に詳しい方でも、本書を読んで、計画者から"その心"を知るべきかも・・。

crash of the Bf 108 Taifun D-NFAW on January 10th 1940.Erich Hoenmanns_Helmut Reinberger.jpg

5月10日、電撃戦が始まったことをラジオで聞いたマンシュタイン。
計画者かつ、攻勢の重点であるA軍集団参謀長だった彼は、いまや休暇でドライブ中なのです。
それでも彼の第38軍団はB軍集団の指揮下に入るべし・・との命令が下り、
その後、A軍集団へ転属。フォン・クルーゲの第4軍で攻勢の一翼を担うことになるのです。
隣りにはヘルマン・ホトの装甲軍団。
やがてロワール川まで進軍し、豪壮華麗なセラン城に宿泊します。
4個の厚い塔に囲まれ、広大な庭園と壕・・。
豪華な寝室に一泊したマンシュタインはよほど感激したのか、この城について詳しく書き記し、
多数の絵画を強奪して・・なんてことは当然なく、「我々はあらゆる宿舎同様に、
他国の財物を尊重し、慎重に保存に努めたことは言わずもがなである」。

chateau-de-serrant.jpg

228ページの第7章は、「二つの戦争の狭間」です。
大勝利に満足したヒトラーによって、1ダースもの元帥が誕生・・。
マンシュタインは、陸軍総司令官と2人の軍集団司令官は当然としつつも、
「国防軍総司令部総長、すなわち司令官でもなく、また参謀総長でもない人物が含まれていた。
ほかに航空省次官が含まれていたが、到底、陸軍総司令官と肩を並ぶべきものではなかった」
と、敢えて名前を挙げずに、カイテルミルヒの元帥昇進に不満を述べます。
もちろんゲーリングの「国家元帥」就任は、故意に陸軍総司令部の地位を低下させたと・・。

Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel 1/6.jpg

そして「英国本土上陸作戦」について、ヒトラーは英国との戦争は避けたいと考えていたとして、
「大英帝国が崩壊した場合、その遺産相続人となるのはドイツではなく、
合衆国、日本、もしくはソ連であることを承知していたのである」という見解です。
そんな幻の「あしか作戦」の訓練に励んでいた第38軍団に別れを告げて、
1941年2月、希望していた快速軍団、第56装甲軍団の指揮を任されたマンシュタイン。
フォン・レープの北方軍集団隷下の第4装甲集団に属し、東プロイセンから攻撃する、
バルバロッサ作戦」が近づいてきます。

v_Leeb,_Hoepner.jpg

このヘプナーの第4装甲集団を構成するもう一つの軍団は、ラインハルトの第41装甲軍団で、
巻頭8ページに掲載されている写真には、このメンバーら5人の集合写真がありました。
真ん中がヘプナーでマンシュタインは端っこ・・というのは、この時期の序列らしくて印象的・・。

いよいよ6月22日を迎え、全速前進。ラインハルトに負けないことが重要です。
しかし装甲軍団といっても、第8装甲師団、第3自動車化歩兵師団、第290歩兵師団、
という編成であり、純粋な装甲部隊はブランデンベルガー将軍の第8装甲師団のみなのです。

Erich BRANDENBERGER.jpg

第1日目に敵に退路を遮断された偵察部隊が全員死骸となって発見されます。
無残極まる有様で切り刻まれた彼ら・・。
こんな残忍な敵の手に生きながら捕えられたくない・・という思いに駆られるのです。

そんな状況で第4装甲集団に配属されていた、武装SS「トーテンコップ」。
時折、マンシュタイン軍団指揮下として活躍したものの、甚大な損害を被ります。
自分の指揮下にあった武装SS師団のなかでは、最良であり、指揮官は勇敢な軍人で、
その後、戦死を遂げた人物だった・・とアイケについても触れますが、
武装SSの創設そのものについては、「容赦し難い誤りであった」と辛辣に語り、
「もしヒムラーの如き人物の指揮系統から外されて陸軍に配属されていたら、
彼らの大部分が喜んだだろうことは確実である」。

panzer 38(t) tanks endssess sun-scorched steppes.jpg

7月19日になって、ようやく軍団はルガを経てレニングラードに向かうことが判明。
その後、参謀本部から次長のパウルス将軍がやってくると、
かつてその地位にいた人間の血が騒いだのか、注意喚起するマンシュタイン。。
「全装甲集団の戦力を迅速な進撃に不向きな土地から解放し、モスクワに振り向けるべきだ」。
この先輩次長の見解に同意したパウルスですが、届いた命令は「レニングラードに突進すべし」。
そのために配属されたのは、SS警察師団・・。
しかも勇敢な指揮官であった警察将官ミュルファーシュテットを失っているのです。

General Arthur Mülverstedt  the Police Division.jpg

9月、第16軍司令官、我が友ブッシュがOKHからの電報を読み聞かせてくれます。
「歩兵大将フォン・マンシュタインは、第11軍の指揮を執るため、
即時、南方軍集団司令部に向かい進発すべきものとす」。
第11軍司令官リッター・フォン・ショーベルトは搭乗していたシュトルヒが地雷原に突っ込み、
戦死を遂げ、マンシュタインが本営に到着したときには、葬儀の最中。

Colonel-General Ritter von Schobert and his pilot before their last flight on 12 September 1941.jpg

遂に軍人として1個軍を率いることになったものの、ことはそう簡単ではありません。
なぜなら、第11軍はルーマニア第3、第4軍との連合兵力であり、
もともとアントネスク元帥の指揮下にあったからです。
そしてそのアントネスクも南方軍集団司令官ルントシュテットの作戦上の指揮を受ける・・
といったヤヤコシイ状況・・。
しかしアントネスクは第4軍の指揮に専念していたこともあって、
マンシュタインは第11軍とルーマニア第3軍をあわせて統率することになるのでした。
こうして、「クリミア戦」の幕が切って落とされます。

Briefing on the encirclement of Sevastopol.jpg

SS連隊「ライプシュタンダルテ」をクライストの第1装甲集団に引き渡すこととなり、
第11軍は1両の戦車すら持ち合わせていないなかで、ソ連の無数の戦車に立ち向かいます。
しかも制空権もソ連側にあるということで、救援に駆け付けてきたのはメルダース
彼の戦闘機隊が戦場上空から敵機を追い払うことに成功するのでした。

しかしこの第1回目の攻撃は、ケルチ半島から上陸してきたソ連軍の攻勢によって頓挫。
第42軍団が命令違反で撤退したことを知ったマンシュタインは軍団長シュポネックを罷免します。
総統本営で軍事裁判に臨んだシュポネックは、ゲーリング裁判長によって死刑を宣告されます。
軍事裁判の期日も事前に知らされず、いきなり判決を聞かされたマンシュタイン。
シュポネックと会うことすら断固拒否するOKW総長のカイテル・・。
結局、ヒトラーによって禁固刑に減刑されますが、1944年7月20日事件の後、
シュポネックはヒムラーの命令によって射殺されるのでした。

Generalleutnant Hans Emil Otto von Sponeck.jpg

1942年5月、ケルチ半島会戦が始まりますが、、有能な軍参謀長ヴェーラーが去ることに・・。
中央軍集団参謀長に補任という栄転であり、引き留める術はありません。
代わりにやって来たのは騎士十字章拝領者のシュルツ将軍
マンシュタインの忠実な友、有能な助言者になったそうですが、
この2人とも以前に紹介している有名な将軍ですね。

Otto Wöhler_Friedrich Schulz.jpg

残すは数多くの堡塁と防御陣地が施された要塞セヴァストポリ・・。
OKHは保有する最重攻撃器材を準備し、その火力は重砲兵および超重砲兵56個中隊、
軽砲兵41個中隊、突撃砲兵2個大隊など、第2次大戦におけるドイツ軍最大です。
また、例の列車砲ドーラにも触れ、「砲兵技術上の傑作」と表現します。



それでも、この怪物の援護のために高射砲2個大隊をつけねばならず、
全般的には効率的とは言えなかったとしています。
もうひとつ重要な戦力としてリヒトホーフェンの第8航空軍団を大きく取り上げています。

move into the city -Crimea-1942.jpg

5年間、マンシュタインに従えた運転兵ナーゲルの戦死にもページを割きつつ、
6月13日、フォン・コルティッツ大佐の歩兵連隊が「スターリン堡塁」を奪取。
その後、「チェーカー」、「GPU」、「シベリア」、「ヴォルガ」と攻略し、
装甲砲台「マキシム・ゴーリキーⅠ」を手中に収めます。
必要な個所には戦況図も掲載されており、この上巻だけでも14枚とありがたいですね。

Erich von Manstein car can stuck -Crimea.jpg

7月4日になって最後の大物「マキシム・ゴーリキーⅡ」を奪取して、クリミア戦は終了。
ラジオからはセヴァストポリ陥落の特別発表がファンファーレと共に流れ、
すでに上級大将に昇進していたマンシュタインの「元帥昇進」と、
クリミア戦士全員に対する「記念の盾(クリミア・シールド)」の創設が、
ヒトラーによって伝えられるのでした。

The battery at the entry of Sevastopol harbor.jpg

アントネスクに招待されたルーマニアでの束の間の休暇の後、
第11軍はレニングラード行きになることが決定。
スターリングラードとカフカスに進撃中の軍集団の予備としてでも残しておくべきと
総統本営でハルダーに進言するマンシュタインですが、
その際、ヒトラーとハルダーのあまりにも険悪な関係に驚きを隠せません。

von MANSTEIN_HITLER.jpg

空軍がヒトラーの命により、17万人を抽出し、空軍地上師団22個を編成したことを聞き、
またもや「愚の骨頂」として怒り心頭といった様子です。
「どこから必要な訓練を受けることができるのか、どこから指揮官を空軍は連れてくるのか?」
そんな頃、マンシュタインに不幸が訪れます。
少尉に任官したばかりの19歳の息子、ゲーロの戦死。

Erich von Manstein & his son Gero.jpg

3ヵ月間のレニングラード戦線での任務も11月20日を迎えると、新たな命令が・・。
「第11軍司令部は新たに創設された『ドン軍集団』となり、
即時スターリングラード両側地域の統帥を担当せよ」。

上巻はこれにて終了です。
ここまで 562ページ中、452ページで、残りの110ページは「付録」です。
ただ、これは命令や意見具申といったドキュメント、
訳者さんである本郷健氏の「資料集」として、各戦役ごとのドイツ軍編成はもとより、
ポーランド軍、フランス軍、ベルギー軍にオランダ軍の統帥系統、
もちろんソ連軍の戦闘序列まで出ています。
たまに最後の50ページくらいが「出典」になっている本がありますが、
かなり充実した「付録」であり、元のフジ出版社版に付いていた「別冊」が
一緒になったということですね。






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戦場の掟 [USA]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

スティーヴ・ファイナル著の「戦場の掟」を読破しました。

今年、「戦場の狙撃手」や、「世界反米ジョーク集」でイラク戦争に触れたこともあって、
2009年に出た360ページの本書を以前からチェックしていたことを思い出しました。
ワシントン・ポスト紙イラク特派員の記者による、ピューリッツァー賞受賞作で、
原題は"BIG BOY RULES"、「強者のルール」です。
「俺たちのことは俺たちが決める。誰にも支配されない」という暗黙のルールの元で活動する、
正規軍ではない、傭兵「民間警備会社」の実態を描いたノンフィクションです。

戦場の掟.jpg

著者がイラクで同行した傭兵は23歳の好青年、ジョン・コーテ。
第2次大戦では「ハスキー作戦」、「オーバーロード作戦」、「マーケット・ガーデン作戦」で
活躍した、このBlogでもお馴染み第82空挺師団出身で、2年前に軍曹として
2000ドルの月給だった彼は、ここでは准将に匹敵する7000ドルの高給取りです。
彼等、傭兵の制服は会社のロゴ入りポロシャツにチノパン、そして防弾ベスト。
イラク戦争初期から兵力が不足していた正規軍が遂行できない任務に就き、
色も形もさまざまなピックアップトラックに装甲を施して、車両縦隊で移動するのです。

Jon Coté devant un pickup du Crescent Security Group.jpg

政府が私兵を雇い、数百の軍事会社があっと言う間に誕生し、1000億ドル産業に・・。
膨大にいるコーテのような退役軍人の他、元警官、スリルを求める輩、愛国者に破産者、
金に目が眩んだ人間が、社員として雇われるのです。
装備はM-4カービンだけでなく、反政府軍が使っているAK47も携帯し、
対戦車兵器にPK機関銃も大量に保有しています。
この隣国クウェートに本拠を構えるクレセント・セキュリティ・グループという民間警備会社では、
比較的平穏な地域へ1チームを派遣するのに5000ドル、バグダッドなら13000ドル、
間違いなく攻撃を受けるファルージャのような街での警護なら、1日、35000ドルを請求。

チーム・リーダーはコーテよりも高い8000ドルの月給をもらいますが、
コスト削減ため、同じ仕事を1/10以下の600ドルでやるイラク人もチームに加えています。
そしてそんなイラク人はアバランチ後部に据え付けられたPK機関銃の担当であり、
体を曝け出したままハイウェイを何時間も疾走し、イラク人であることがバレないよう、
眼出し帽をかぶるという、最も危険な任務に就いているのです。

Crescent Security Group.jpg

米国主導の多国籍軍ですが、兵員の多いイタリア軍も徐々に撤退しつつあります。
自軍の将兵を危険にさらしたくない彼らは、密かに民間警備会社と契約し、
イラク国外に運び出す資材を積んだトレーラーを護衛させるのです。

そんなクレセント・チームのコンボイが30人以上の武装集団に襲われ、
コーテら5人が拉致されてしまいます。
数ヵ月後、AP通信社に届けられたテープには彼らの姿が・・。
「えー、米国と英国の刑務所から捕虜がすべて釈放されないと、俺は解放されません」
と、10歳くらい老けたように見えるコーテは語りかけるのです。

baghdad.jpg

民間警備会社のなかでもディスカウント・ショップのような位置づけのクレセント。
著者はその他の民間警備会社も取材し、英国のアーマーグループでは、
フォードF-350をアルマジロのような強力な装甲を施した「ロック」を導入。
道路脇の爆弾や徹甲弾にも耐えるこの装甲車は一台当たり、2000万円です。
2006年、この会社は、コンボイを1184回護衛し、450回の攻撃を受け、
社員を30人も失っています。
この数は連合国25か国のうち、米国、英国、イタリアに次ぐものなのです。

armor_group_rock_armoured_vehicle.jpg

米軍はイラクで相当数の自国兵士を訴追し、そのうち64人が殺人に関わっています。
しかし民間警備員に対しては1件の告訴もなく、これは傭兵をイラクの法制度から
免除していることや、軍法では裁けないことが理由なのです。
その結果、民間警備会社は独自のルール「戦場の掟」で行動することになるのでした。

そんな傭兵企業の代名詞と言われているのが「ブラックウォーター」です。
飛行機やヘリまで保有し、2007年末までにイラク戦争で10億ドルも稼いだ最大企業。
米大使や外交官といったすべての要人警護も彼らの専売特許です。

blackwater-guards.jpg

このブラックウォーターが有名になったのは2004年の事件です。
輸送警備員4名が待ち伏せ攻撃を受けて、暴徒によって警備員は射殺され、
死体は焼かれ、手足は斬られ、焼け焦げた死体がユーフラテス川の橋に吊るされて・・・。

2004_black water.jpg

「いかなる犠牲を払ってでも要人を守ること」というブラックウォーターのやり方は攻撃的で、
猛スピードで走る彼らの前で、ちょっとでもおかしい動きを見せた車両は、脅威とみなされ、
傭兵たちは容赦なく発砲します。
本書では65歳のタクシー運転手と乗客、道端にいた教師らが死んだ事件など、
いくつかを紹介し、イラク人を動物だと思っている彼等の行動が忌み嫌われ、
民間警備会社などというのは国民の知らないことから、米国人が憎悪の対象となるのです。
まるでドイツ国防軍とアインザッツグルッペンのような関係ですね。

Blackwater guards have been implicated in civilian deaths.jpg

一方、拉致されたクレセントの5名の行方はわからないまま・・。
米兵が拉致された場合、公式に大掛かりな捜索が行われ、数千人の兵士が動員されるものの、
政府はこと傭兵の場合には、拉致も死亡も勘定しません。
稼ぎ頭が行方不明となってクレセントからの月給も払われなくなった家族たち。。
政府に対して声を上げるしかありません。

その間にもブラックウォーター警備員の蛮行は続きます。
泥酔した挙句、イラク首相官邸近くで副大統領の警備員を射殺した傭兵は、
翌朝、「自衛のために応射した」と米陸軍の捜査官に告白。
激怒したイラク副大統領による容疑者引き渡し要求に対して、
コッソリ国外脱出させ、もみ消しを図るブラックウォーターと米大使館・・。
沖縄でよく耳するニュースと基本的には変わらない姿勢がここにはあります。

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ブラックウォーターの装甲車両4台と射手20名が乗ったコンボイがニスール広場に到着すると、
親子の乗った白いオペルに機関銃を発砲する射手。
混乱が始まり、一斉射撃をするブラックウォーターの射手たち。
17人のイラク市民が犠牲になりますが、ブラックウォーターは民間人に攻撃されたと主張。
米軍の調査結果は、「敵の活動はまったくなく、銃撃は犯罪行為である」と断定。

遂にイラク政府はブラックウォーターの活動禁止を宣言し、
創設者である38歳の元SEAL、エリック・プリンスが公聴会に呼ばれますが、
ブラックウォーターがいないと困るのは国務省であり、
イラク政府にも民間警備会社を裁く権利はないのです。

Erik Prince, Blackwater.jpg

2008年2月、ポリ袋に入った切断された指、5本が届けられます。
腐敗が進み、指紋がわかった3本はコーテらのものと判明・・。
FBIはこの報せをどのように家族に伝えるべきか苦慮します。
9割がたは人質が殺されたことの証拠ですが、遺体もなく、不明点が多い・・。
そして「思いやり」で情報を控えたFBIを尻目に、報道機関がリークしてしまいます。

難しい話ですねぇ。何か月も、何年も拉致された身内の安否を気遣ってきた家族に、
「お子さんの指を発見しました」って言うことが正しいのかどうか・・。
日本人は北朝鮮の拉致問題を自分ことのように感じているので、なおさらです。

blackwater_fallujah.jpg

やがてバスラ航空基地前に捨てられていた黒いポリ袋から、
彼らの遺体が次々と発見されます。
ひとりは重さ27キロ・・。目や唇はなくなり、胸と肋骨は押し潰され、
喉を深々と切られ、頭部は脊髄だけで繋がっている状態・・。
そして最後には頭のないジョン・コーテも・・。
葬儀場の責任者は遺族に宣言します。「誰が何と言おうと柩は開けません」。

一口に「民間警備会社」といっても、資本の大きいもの、そうでないものもあり、
本書では大きくその2つの会社が中心となっていますが、米国以外の会社にも取材をしています。
"BIG BOY RULES"は、各民間警備会社ごとに存在しますが、
現地のイラク人からしてみれば、それは大国アメリカのルールなのです。
しかし、一方的に傍若無人な民間警備会社と国務省を告発するだけでなく、
そこに参加し、悲惨な結末を迎えた若者の運命が並行して語られているのが本書の特徴です。

USS GEORGE H.W. BUSH.jpg

本書の出た2009年に就任したオバマによって、米軍は2011年12月には撤退したようですが
欧米の「民間警備会社」は、まだイラクで活動しているのかもしれません。
最近もイラク情勢が変わってきて、空母「ジョージ・H・W・ブッシュ」をペルシャ湾に展開、
少数の米軍事顧問をイラクに派遣・・、なんて話になってきましたからね。



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英語を禁止せよ -知られざる戦時下の日本とアメリカ- [日本]

ど~も。ドイツ完勝で気分の良いヴィトゲンシュタインです。

大石 五雄 著の「英語を禁止せよ」を読破しました。

戦時中の「英語禁止」といえば、巨人のロシア人投手スタルヒン
「須田博」に改名させられたり、大阪タイガースが「阪神軍」になったり、
ストライクが「よし!」になったり・・と、野球関係では2冊ほど読んできました。
2007年に出た255ページの本書は、そんな戦時下の国民生活において敵性語として
「英語禁止」となっていった過程と背景について書かれたものです。

英語を禁止せよ.jpg

第1章は「英語を禁止した日本」で、その背景として、
昭和に入ってから軍部主導国家となり、日中戦争から、英国、米国が敵国へと・・。
そして1940(昭和15)年は「皇紀2600年」の記念の年でもあり、
反英米気運とともに、この年から英語禁止の具体的措置が取られることになります。

その昭和15年、まずは3月に「芸能人の英語芸名が禁止」に・・。
内務省による芸名統制令では、「外人崇拝の悪風を助長するおそれがある」とされ、
ディック・ミネが「三根耕一」に改名させられます。
その他、ミス・コロンビアが「松原操」、リーガル千太・万吉が「柳家千太・万吉」。。

dick mine.jpg

この年の秋にはスタルヒンも・・。あの本から抜粋して2ページほど書かれていました。
ただ、内務省令ではなく、巨人のフロントによる改名措置ですね。

昭和17年2月になると、芸能界でもそのような自主規制が始まります。
英語だけでなく、「カタカナを用いた芸名、コーラス名の禁止」です。
ヤジローとか、キグハチ(キタハチ?)といった単なるカタカナの芸名もダメになって、
ビクター合唱団は「勝鬨」と改名し、コロンビア合唱団は「日畜合唱団」、
シンフォニック・コーラスは「交響合唱団」、モアナ・グリークラブは「灰田兄弟と岡の楽団」。。
今ならキンタロー。とかタモリ、サザン・オールスターズは許されないでしょう。
逆にゴールデンボンバーを「金爆」と呼ぶのは、まことに正しいのです。



文部省も昭和15年から「英語禁止」に乗り出します。
手始めに明治初頭からの歴史あるミッション・スクールが対象に・・。
ウヰルミナ女学院が「大阪女学院高等女学校」、フェリス和英女学校が「横浜山手女学院」。

続いては来ました、「英語スポーツ名・用語の禁止」です。
東京の六大学が加盟していた連盟、「米式蹴球」が、「鎧球」へと改称します。
コレ、なんの競技かおわかりでしょうか?
蹴球がサッカー(フットボール)なのをご存知なら簡単、「アメリカン・フットボール」です。
マズイのは「米式」なんですね。

american football.jpg

プロ野球も英語のチーム名を禁止し、大日本体育会も各種競技の日本語化を実施。
ラグビーは「闘球」、ホッケーは「杖球」、ゴルフは「打球」、スキーは「雪滑」へ・・。
またゴルフは用語も日本語化されて、パーは「基準数」、ホールインワンは「鳳」、
キャディなら「球童」・・。いや~、もっとあると思うけどなぁ・・。

東京では警視庁保安課によって「卓球」の英語が禁止。
試合前には「礼」を行い、「ファイブ・テン」とか、「シックスティーン・オール」などと
点数を言ってはいけなくなるのでした。

昭和18年3月には日本野球連盟によって英語が禁止。
審判用語ではワンストライクが「よし一本」、スリーボールは「三つ」、
ファウルは「だめ」、タイムは「停止」など・・。
野球規則用語だと、ストライクは「正球」、ボールは「悪球」、セーフは「安全」などと、
また違うのがややこしいですね。
実際、急な変更に審判も、「ストライク・・もとへ、よし一本」と言ってしまったそうな。。
昭和19年の秋にはプロ野球自体も中止になってしまいますから、
この英語禁止野球も1年半の命だったんですね。

Nippon baseball_1943.jpg

ちなみに、「昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち」という本も読みました。
公式には1941(昭和16)年から中止となった甲子園大会ですが、面白かったですねぇ。
主宰を朝日新聞社から文部省に移し、「大日本学徒体育復興大会」の一競技として開催。
当時は外地である、「台湾」、「朝鮮」、「満州」でも地区予選が行われていたり、
この昭和17年の「幻の大会」には台湾の台北工業が参加。選手は台湾生まれの日本人です。
選手といえば、この大会では文部省の決定により選手と言わず、「選士」・・。
突撃精神に反する行為はダメ・・ということで、「打者は投手の投球を避けてはいけない」や、
死力を尽くして戦うことが前提なので、「ベンチの控え選手との交代禁止」
といった特別ルールが・・。多少の怪我やピッチャーが打たれたくらいでは交代できません。
もちろん、名門の平安中でさえ、伝統の胸の「HEIAN」は漢字に変更。

Kōshien Stamp.jpg

試合開始前の両チームの挨拶のときには、まず東方を向いて「宮城遥拝」。
イニングの合間には、「○○市の△△さん、公務急用のため、至急ご自宅にお戻りください。
武運長久を祈ります」と、招集令状が届いたことを観客に知らせる場内アナウンスが・・。
活躍した選手たち一人ひとりについても詳しく書かれ、卒業後にプロ入りした者もいれば、
戦死した者、大会後に明治神宮競技場で行われた「国民錬成大会」
手榴弾投擲競技に大人に混ざって優勝したのは水戸商のエース君だったり・・。
そして徳島県勢初の優勝を果たした徳島商。
昭和20年7月の徳島大空襲によって、校舎は焼け落ち、
優勝者の証である「表彰状」と「小さな旗」も焼失してしまうのでした。
遊びでも野球経験があり、このBlogをご覧になる方なら、読んで損はありません。



ちょっと脱線しましたので、本書に戻りましょう。
銀座界隈には1400軒余りのカフェや飲食店があり、そのうち半数が欧米風の名前です。
そうなると銀座を管轄する警察署は「欧米依存」だとし、
「ナイトクラブ」や、「チャイナタウン」といった店名が断罪され、
ミミーやメリーといった店員の呼び名とともに追放されるのです。
有名なワシントン靴店も「東條靴店」に・・。

washington-shoe.jpg

こうなってくると自発的に名称変更しようとする会社も多く出てきて、
欧文社は、欧州の翻訳出版社と誤解されるとの理由から「旺文社」へ、
後楽園スタヂアムも「後楽園運動場」、石橋さんのブリッヂストンは「日本タイヤ」へ、
リプトン紅茶は「大東亜」、ブルドック食品が「三澤工業」へと変更。
トンボ鉛筆は広告でもアツかったですから、「HB」や「B」といった濃さも「1軟」などに変更。

tonbo_HB.jpg

明治30年創刊の英字新聞ジャパンタイムズまでが社名と新聞名を変更しますが、
新たな名称は「ニッポンタイムズ」です。
単に英語の「ジャパン」を日本語の「ニッポン」に変更することにどんな意味が・・??
いやいや、当時は大いなる意味があったんでしょう。。

Nippon Times (The Japan Times) from August 15, 1945..jpg

大蔵省専売局が「たばこ」の英語名を禁止。
ゴールデンバットは「金鵄」へ、チェリーは「桜」です。

golden bat_kinshi.jpg

雑誌類からも英語は一掃されます。
オール読物は「文藝読物」へ、キングは「富士」、サンデー毎日は「週刊毎日」。
当時からあった「バスクリン」に至っては、製造中止です。

bathclin.jpg

鉄道省は駅の"ENTRANCE"(入口)、"WC"(トイレ)といった英語併記を取り除き、
プラットフォーム、ロータリーは禁止。それぞれ「乗車廊」、「円交路」となり、
日本アルプスなんていう山岳名ですら、「中部山岳」へと変更・・。
ふ~ん。この調子だと甲子園のアルプススタンドも、「中部山岳観覧席」だなぁ。。

外務省は外国人記者向けの記者会見で英語を使うことを止め、日本語一本へ。
記者のなかにドイツ人やイタリア人が多くなってきた・・というのが理由の一つ。。
そして政府は「極東」という表現を使用禁止に・・。
これは英語の「ファーイースト」の訳語であり、大英帝国から見た「極めて東」だからです。

内務省と内閣情報局が英語のレコードと演奏を禁止。まさにナチス・ドイツと同様です。
対象はやっぱりジャズ・・。「セント・ルイス・ブルース」などの他、米英、ハワイの民謡もNG。

St.Louis Blues.jpg

こうして残されたのは三国同盟の友、ドイツとイタリアの民謡やワルツなのです。
当時、中学三年生だったある少年は、米国民謡「ミネトンカの湖畔」を学校の休憩時間に
口ずさんだところを級友に密告され、恐怖の配属将校に呼び出された挙句、
「敵性歌曲を歌う売国奴」と罵声を浴びせられて、竹刀でメッタ打ちの刑に。。

Tripartite Pact.jpg

まだまだ、NHKも放送内容の米英的色彩の払拭を図ります。
まず昭和17年には「アナウンサー」の使用を禁止して、「放送員」へ。
翌年になると「ニュース」も禁止して、「報道」と言うことに決定。
そもそもNHKという名称も「日放協」にしなきゃいけませんね。

LIFE.jpg

バス会社では「オーライ」、「ストップ」が禁止されて、「発車」、「停止」なりますが、
日常的に使っていた合図を変更するってのは事故りそうで怖いですねぇ。

昭和18年2月の毎日新聞にはこんな見出しが・・。
「青い目をした人形 憎い敵だ許さんぞ 童心にきくその処分」。
これは昭和初期に日米親善として全国の小学校、幼稚園に寄贈されたお人形さんです。
全部で12000体にも及んだ「青い目をした眠り人形」は、"恐ろしい仮面の親善使"とされ、
文部省の課長曰く、「速やかに壊すなり、焼くなり、海に捨てるなりすることに賛成である」。

dool.jpg

最初は笑いながら読んでいましたが、ここまで来るとさすがに眉間にしわが寄ってきますね。。

そんな文部省、中学校の英語の教科書に掲載されていた英国国歌に着目します。
ゴッド・セイブ・ザ・キング」の歌詞は、"神よ、英国国王に勝利を与えたまえ"であり、
しかも、「みんなで歌いましょう」というイケナイ文章まであるのです。
「第一線の兵士が斃れている今、銃後の国民が英国国歌を学ぶとはいかなるわけか」と
衆議院の委員会で弾劾された結果、当然削除です。



93ページからは第2章、「英語禁止・追放の言論」です。
第1章に挙げた英語禁止措置を促した軍部と政府、それをマスメディアが支えたと分析。
昭和17年、陸軍参謀本部の防諜の権威とされる中佐は読売新聞に論評を発表します。
「街を歩いていても英語の看板のなんと多いことよ。
汽車に乗ると、"緩むな防諜"のポスターの後ろに『禁煙』とあり、
その下にいまだに"NO SMOKING"と英語で書かれている。
こうしたものは日常、目や耳から不断に入ることによって、日本人の思想感情が、
いつの間にか米英的になり、日本的なものとのケジメがつかなくなってしまうのだ。
そして米英的な思想謀略に蝕まれながら、"俺は日本人だ"と
思い上がっている点が一番危ないのだ」。

英国製の映画を観ているうちに知らず知らず英国崇拝の観念に捉われる・・とした後、
この参謀中佐はこう続けます。
「僕は若い女性に反省を求めたい。
自分の父や兄や夫を戦場に送り出しておきながら、
心の襞に米英崇拝の虫は巣くっていないか、
日本の女として、やがて母として恥ずべき点はないだろうか。
よく反省して、まずこれを改めることが防諜の根本だと思う」。

大日本婦人会の竹槍訓練.jpg

密かに期待していた「敵国アメリカ映画謀略展」のような展開はありませんでした。
そもそも敵性映画の危険性については、上の一文だけでしたね。残念・・。

第3章の「日本語を重視したアメリカ」以降は、
まぁ、おまけといった感じですが、実は著者にとってはこちらがメインのような気もします。
陸軍情報学校が開校し、日系2世の情報部員の活躍が詳しく紹介。
日本軍の電文や暗号文を解読したり、捕虜の尋問などがメインで、
それを以って前半の日本と比較し、米国は日本と違って敵国語を重視した・・というのも
ちょっと苦しい展開です。
よってこの章は独立した「米軍における2世情報員の活動」として楽しむべきでしょう。
確かに本書の副題が「戦時下の日本とアメリカ」ですから、間違いではありません。

そんなわけで本書は前半こそ、予想通りの「英語禁止」を楽しく学ぶことができましたが、
中盤以降の米国については、個人的には・・う~ん。。

Churchill_Roosevelt.jpg

とにもかくにも1940年以降、5年間の日本における英語対策が書かれた本書。
細かい、しょーもない・・と思わせるほど徹底している一方、
各軍学校では英語を学び続け、それは中学校でも科目として、教科書として残るのです。
そこから思うことは、軍部・政府によるキッチリとした計画があったわけではなく、
戦局の推移によって、各省庁が自らの管轄で出来ることはやってみよう・・という、
曖昧な措置の連続がこのような統一性のなさになっているんではと思いました。
1940(昭和15)年の東京オリンピックに向けて、
バスの車掌さんも英語を猛練習中していたりしていたんですしねぇ。

cherry_sakura.jpg

もう15年以上前になりますか、年に一度の特番で、
「たけし、タモリ、さんまのBIG3ゴルフ」というのがあって、
そのなかの「英語禁止ホール」にいつも大笑いしていたことを思い出しました。
ドライバーとか、6番アイアン、バンカーにナイスショット、と言ったら「1ペナ」ですから、
「木の棒」やら、「鉄の6番」、「砂場」、「良い玉」なんて言っていたように思います。
休日の1日だけでも、家族で「英語禁止」なんてやったら楽しいんじゃないでしょうか?
テレビ、スマホ、パソコンも言っちゃダメですから、辛い生活になるでしょうね。





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東部戦線のドイツ戦闘航空団 [ドイツ空軍]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヴェルナー・ヘルト著の「東部戦線のドイツ戦闘航空団」を読破しました。

大日本絵画の188ページの写真集がぽっこりと出てきました。
この定価2400円の本書を購入したのは2008年で、著者は「アドルフ・ガラント」と同じ方ですね。
読んだ記憶はありませんが、東部戦線で戦ったエースパイロットといえば、
ハルトマンにバルクホルンやら、300機撃墜スーパーエースたちの宝庫ですから、
そんな彼らの写真をジックリと眺めてみましょう。

東部戦線のドイツ戦闘航空団.jpg

最初に「東部戦線に投入されたドイツ戦闘航空団」と題した概説が2ページ。
番号の若い順に第3戦闘航空団(JG3)は部隊名に"ウーデット"が与えられ、
東部戦線を離れ本国の防衛戦に向かったのが1943年夏だった・・と、
JG5"アイスメアー"、JG51"メルダース"、JG52(部隊名なし)、
JG53"ピック・エース"、JG54"グリュンヘルツ"、JG77"ヘルツ・エース"についても簡単に・・。
この7つの戦闘航空団の部隊エンブレムもカバーの裏にカラーで掲載されています。

JG Emblems.jpg

早速、東部戦線の初日である1941年6月22日、バルバロッサ作戦開始。
いきなりJG51を率いてコックピットに座るメルダース中佐が登場します。
鹵獲したポリカルポフI-15やI-16に乗り込んで故郷の恋人に送ったプライベート写真に、
Fi 156 シュトルヒで飛び立とうとしている第8航空軍団司令リヒトホーフェン将軍の姿。
ふ~ん。はじめて見る写真ばかりですねぇ。
ちなみに航空団エンブレムの他にも、中隊マークなどが機体に描かれます。

BF109G-2_JG54Grunherz.jpg

先の戦闘航空団(JG)は基本的にBf-109装備の戦闘機集団なわけですが、
本書では駆逐航空団(ZG)のBf-110も出てきました。
ヴェスペ(すずめ蜂)航空団と名付けられたZG1は、双発機の対地攻撃部隊ですが、
戦闘機パイロットとしての訓練を受けた強者ばかりだったそうで、
自走砲のような名前のこの航空団のBf-110は、ちゃんと"すずめ蜂"です。

Messerschmitt-Bf-110E-Zerstorer-ZG1-waspe.jpg

陸空共同作戦を検討するメルダースとグデーリアンは良いですねぇ。
本書に掲載されているのとは別のショットですが、こんな感じです。

Molders_Guderian.jpg

JG3の指令はリュッツォウ少佐です。
野戦基地の中で作戦を練る姿や、第Ⅲ飛行隊指揮官エーザウ大尉とのショットなど、
リュッツォウ・ファンのヴィトゲンシュタインでも初めて見る写真です。
他にもJG53指令のフォン・マルツァーン男爵を尋ねてきたリッター・フォン・グライム将軍
「ドイツの偉大なエースの1人」として紹介されるクルト・ウッベン大尉は印象的です。
JG77で90機撃墜と活躍し、1944年にはJG2"リヒトホーフェン"指令となったそうですが、
顔が好きです。。ハイドリヒを恰好良くしたみたい・・。

Kurt Ubben.jpg

JG53で目覚ましい活躍を見せ、地中海に転進した後、再びロシアへと戻り、
JG3の司令となってからも撃墜を重ねたというヴォルフ・ディートリッヒ・ヴィルケ少佐。
あ~、彼は「柏葉騎士十字章受勲者写真集」にカラー写真が載っていました。

Wolf-Dietrich Wilcke.jpg

どこかで見た顎のしゃくれた横顔と思ったら、あの"ロケット野郎"シュペーテ中尉。
奇跡的な脱走で知られるフォン・ヴェラ大尉に、ケッセルリンクと話すメルダースと続きます。
また、250㌔爆弾を懸吊して爆撃任務に向かうBf-109の写真はとても秀逸ですね。

Bf 109 E-4B JG54.jpg

JG54"グリュンヘルツ"の指令はトラウトロフト少佐。
レニングラード戦線が管轄です。
熟練パイロットの1人として登場するのは、童顔で有名なオスターマンです。
そして最初の戦闘機隊総監となったメルダースとリュッツォウ指令も良い写真だなぁ。
左はⅣ/JG51飛行隊指揮官のノルトマン大尉だそうです。

Nordmann mölders Lützow.jpg

あのパウルス将軍がJG51にやって来てハインツ・ベーア中尉らと話し合っていたり、
メルダース亡き後の総監となったガーランドが航空団巡りをしていたり・・。
1941年ですから、パウルスはまだ参謀本部次長の立場でしょうね。
冬を迎えるとコルムとデミヤンスクで包囲されたドイツ軍部隊のために、
物資を満載したJu52が空輸に飛び立ち、それを援護するJG51とJG54のBf-109。

1942年3月に66機撃墜で柏葉章を受章した5./JG51飛行中隊長のハンス・ストレロブ少尉。
まったくアイドル俳優といった風貌ですね。

Hans Strelow1.jpg

しかし2ヵ月後、愛機が損傷すると、ソ連軍戦区への不時着を余儀なくされて、
自らの命を絶つのでした。
彼も「柏葉騎士十字章受勲者写真集」に載っていました。カラーでも良い男。。

Hans Strelow.jpg

JG77を率いて南方戦線で活躍し、1942年6月に107機撃墜で
剣章を受章したゴードン・ゴロップ少佐。
1942年10月の時点で200機撃墜という物凄い男、ヘルマン・グラーフは特別扱いです。

Hermann Graf  Willy Messerschmitt.jpg

本書はそんな大エースばかりでなく、整備員がエンジンと格闘する姿も収められ、
ハフナー軍曹は60機撃墜して、特大サイズの騎士十字章を戦友たちから贈られてご満悦。。
こんな姿を勲章にうるさいゲーリングが見つけたらきっとマジギレするでしょうね。
「わしの『大鉄十字章』よりも大きいではないか!」

anton-hafner.jpg

大きいと言えば、途中、巨大グライダー、Me-321"ギガント"が出てきましたが、
6基のエンジンを付けた巨大輸送機Me-323もロシアへ飛んできました。
その他、ゴータのグライダー、Go242と、輸送機Go244も珍しいですね。

Gotha Go 244.jpg

最終的に撃墜数No.3となるJG52のギュンター・ラル
ユーゴのパルチザンに惨殺された、JG3当時のヨアヒム・キルシュナーと続き、
スターリングラード戦が終わると、JG52の飛行隊指揮官となったバルクホルンが登場してきます。
同じ中尉では、ノヴォトニーも台頭。9日間で24機を撃墜するほど大暴れ・・。
戦闘機もこの頃からBf-109から、Fw-190へと移行して写真にも変化が見られます。

Gerhard Barkhorn.jpg

1943年の夏は「クルスク戦」。
JG51のフーベルト・シュトラッスル曹長は、初日の7月5日だけで敵戦闘機15機を撃ち落とし、
翌6日にも10機、続く2日で5機と、たったの4日間で30機撃墜という離れ業を演じます。
しかし日を追うごとに戦果も下がったように明らかなオーバーワーク。
5日目、空戦中に機体を損傷して脱出しますが、
高度が低すぎてパラシュートが完全に開かず・・。

Hubert Strassl.jpg

あ~、独ソ戦車戦シリーズの「クルスク航空戦」も読みたいところですねぇ。。



146ページになって、「あの男」の姿が・・。
1943年9月、100機撃墜のJG52、ハルトマン少尉です。
JG54では123機撃墜でようやく騎士十字章を受章した男、オットー・キッテル曹長も名を挙げ、
最終的には267機と、ルフトヴァッフェNo.4となるのでした。

Otto Kittel.jpg

ハルトマン、バルクホルンのJG52からはクルピンスキーも輩出します。
それから「203の勝利」のリッペルトも・・。
それでも1944年9月、300機撃墜を成し遂げたハルトマン中尉が着陸すると、
花輪を掛けられ、肩車されて、もみくちゃ・・。
戦局悪化のなか、最高の栄誉、ダイヤモンド章を受章するのです。

hartmann_300.jpg

次のページには、そんな世界No.1戦闘機乗りを越える男が姿を現します。
黄金ダイヤモンド章を唯一、受章したシュトゥーカ乗りのルーデル大佐です。
この対戦車攻撃のスペシャリストは、御用達のJu87Gを手に入れると
両翼下についた3.7㎝砲で次々と敵戦車を血祭りに上げ、
確実なものだけで519両の戦車を撃破した・・というソ連人民最大の敵なのです。

ju87g.jpg

そうは言っても、本書のタイトルからして最後を締めくくる写真は、
352機のハルトマン、301機のバルクホルンの有名なツーショットです。

結局、読み終えても購入当時に読んだのかは思い出せませんでしたが、
かなり楽しめました。
全て白黒ですが珍しい初見の写真が多く、それらのキャプションも詳しいことから、
個人が所蔵していたものがベースになっていると想像できます。
時系列で紹介されるのも良いですし、写真で登場するパイロットたちの確認戦果や、
ちょっとしたエピソード、そして最期にまで触れられているのは非常に良心的だと思います。
実際、知らなかったエースパイロットについて、かなりの勉強になりました。



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