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カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エレナ・ジョリー聞き書きの「カラシニコフ自伝」を読破しました。

これまで、戦車や戦闘機、対戦車砲に列車砲という兵器は読んできた独破戦線ですが、
今回は「銃」という初のテーマに挑戦します。
というのも、先週ディスカバリー・チャンネルで「スペツナズ」の特集を見ていたら、
「カラシニコフ AK47」を詳しく取り上げていて、気になって調べたところ、
2008年に出た249ページの本書を発見・・。
全世界に8000万丁が出回っているといわれているこの小銃。
スターリンのソ連で、一体どんな開発が行われたのかが、とても知りたくなりました。

カラシニコフ自伝.jpg

「はじめに」では英国市民からアフガンの山岳に暮らす人々まで誰でも知っている
世界共通の単語といえば「タクシー」、「ラジオ」、「コカコーラ」、そして「カラシニコフ」。
フランスの調査では「20世紀を代表するもの」として、「テレビ」、「抗生物質」、「ブラジャー」、
そしてやっぱり「カラシニコフ」。。
革命や反植民地主義の理想を求める解放闘争では、英雄の手に「AK」が握られ、
パレスチナ、ドイツ、イタリア、日本のテロリストの手にも「AK」の姿が・・。
う~ん。確かにヴィトゲンシュタインのイメージも目出し帽の「IRA」ですね。

AK47_IRA member in the 1990s.jpg

ミハイル・カラシニコフは「10月革命」の2年後、1919年生まれ。
農家の8番目の子供ですが、母親は合計18人も生んでいます。
10歳の頃には農村では密告が日常茶飯事となり、
「富農(クラーク)」と認定されれば、財産没収の上、シベリア送り。
しかし「貧農」や「中農」との違いなど、実際にはほとんどなく、
大家族であればそれだけ多くの家畜を飼育しなければならないのは当然です。
そして初恋の女の子の一家に続き、カラシニコフ家もシベリア送りになってしまうのでした。

Пионеры собирают в поле колоски, г. Сталино, 1934 год..jpg

流刑地での厳しい労働によって父親は死亡し、1936年、カラシニコフ少年は脱走に成功。
いや~、この最初の章は「グラーグ -ソ連集中収容所の歴史-」や、
我が足を信じて -極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語-」を思い出して、
悲惨さと苦労が良く伝わります。

1938年には西ウクライナで兵役に就くことになると、
戦車の操縦士兼整備士として訓練を受け、銃眼から効果的に撃つための装置や、
エンジンの作動状況を計測する機器を発明し、
キエフ軍管区司令官のジューコフ将軍からお褒めの言葉を頂戴し、
レニングラードで、この装置の量産が始まります。

Калашников М.Т. в Киевском округе с друзьями курсантами. 1939-1940 г.jpg

しかし時は1941年、ドイツ軍がまっしぐらに向かってくると、すぐに連隊へ戻され、
ブリャンスクでの戦闘に巻き込まれます。
いきなり戦車長に任命された22歳のカラシニコフですが、
敵に居場所を特定されるのを避けるため「撃ってはならない」との命令が・・。
やがて、砲塔ハッチから顔を出した途端、
すぐ横で炸裂した砲弾によって、重傷を負ってしまうのでした。

こうして早々と戦線から離脱し、入院生活を送ることになると、
「なぜ我がロシア軍はあんな形で敗走することになったのだろう?」と
武器、特にオートマチックの短機関銃を造り上げることを夢見ます。
当時はデグチャレフの短機関銃が接近戦で威力を発揮しており、フィンランド戦でも活躍。

ДП-27. Январь 1943_Degtyaryov.jpg

巨大な病室で様々な兵士たちの意見を聞きながら短機関銃の研究を進め、
退院後には早速、小規模な工員チームと銃器設計を始めます。
他にもシュパーギンの短機関銃「PPSh-41」なども紹介されますが、
本書ではカラシニコフの写真しかないので、その都度、調べたり・・。

PPSh-41_ППШ-41.jpg

ちなみにドイツ軍の銃火器については1年前にムックの
「図説ドイツ軍用銃パーフェクトバイブル」でがっちり勉強しました。



そして療養休暇中のカラシニコフ軍曹の試作短機関銃は注目を集めますが、
コンペでは何度も落選。
そんな時に知り合ったのは、並外れた若き設計者であるアレクセイ・スダレフです。
彼の創った短機関銃「PPS43」は第2次大戦における銃器の最高傑作であり、
しかも包囲されたレニングラードで設計、製造が行われたのです。

PPS43-girl.jpg

1945年、小銃よりも小さく、拳銃よりも大きい新しいタイプの突撃銃を作るための
コンペが開催されることに・・。
ソ連の偉大な設計者トカレフは、銃の中に塵ひとつ入らないよう、すべての部品を
ピッタリとくっつけるという原理を採用したのに対して、カラシニコフはまったく別のアプローチ、
部品と部品の間に隙間を設け、まるで一つひとつが宙に浮いているかのように設計。
たとえ銃を砂の中に落としてしまっても、機関部がダメージを受けることはなくなるのです。

kalshnikov.jpg

コンペの強力なライバルであり、「ソ連邦労働英雄」を胸に付けたデグチャレフ将軍は
試作品を見るなり、パッと目を輝かせ、驚くべき発言をします。
「カラシニコフ軍曹の部品設計は、私のものよりもずっと巧妙で、間違いなく将来性があります。
ですから私は、最終審査への参加を辞退いたします」。

Vasily Degtyaryov.jpg

3人が残った1947年の最終審査。
カラシニコフの試作品は命中精度はNo.1で、弾詰まりも一度も起こしません。
しかしテストは段々と過酷なものとなり、装填した銃を池の中に落としたり、
砂の中を引きずったりしたあと、引金を・・。
さらにコンクリートの床にいろいろな角度から投げつけて、機関部が無傷であるか??
好結果を残したカラシニコフの試作品は「AK47(1947年式カラシニコフ自動小銃)」として
量産されることになるのでした。

TRIPLE KALASHNIKOV GIRLS.jpg

1944年から助成金を承認してくれていたヴォロノフ砲兵元帥に呼び出されると、
10人ほどの将校が集まっています。
「みんな君のことを知りたくてな。
出身や家族のことなど、君の人生について話してくれないか」。

「富農」、すなわち「人民の敵」の息子であり、シベリアに強制移住させられた子供時代や
そこからの脱走した経緯をドラマチックに語ってしまえば、設計者として終わりどころか、
どんな酷い目に遭うかわかったものではありません。
多くの事実を「割愛」した生い立ちを話して、
別れ際にサイン付きの写真が欲しい・・と言う元帥。。いい人です。

Nikolay Voronov.jpg

AKプロジェクトで知り合った工業デザイナーのカーチャと結婚をして順風満帆。
1949年にはこれまでの功績に対する褒章として、「スターリン賞」を授与されます。
おまけに最高級の車を1ダースは買える15万ルーブルの賞金付き。
へ~。ソ連の勲章もそれなりに知っていましたが、「スターリン勲章」っていうのは初めてです。

Order of Stalin.jpg

そのスターリンがすべての銃器の規格を統一しようと言い出すと、
それまでのAK47、デグチャレフの軽機関銃、シモノフの半自動カービン銃に取って代わる、
新口径の統一規格品コンペが開催されます。
そして主要な部品は100%互換性を持つ、カラシニコフの改良された新しい突撃銃「AKM」と、
軽機関銃「RPK(カラシニコフ軽機関銃)」が軍内で統一して使用されることになり、
ソ連軍全体がカラシニコフの銃のみをソ連が崩壊する時まで装備し続けるのでした。

soviet_RPK.jpg

1958年、「国力を増強した」との理由で、遂に「労働英雄称号」を授与されます。
1964年には最高勲章である「レーニン賞」が授与されますが、
1935年~1957年までは「スターリン賞」が代替していたということで、
フルシチョフが「スターリン批判と個人崇拝」を問題にした後、先のスターリン勲章は
証書とともに返還させて、「ソヴィエト連邦国家賞」なるものに取って代わられたそうです。

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ソ連の歴代指導者たちを語るカラシニコフ。
弱冠30歳にして最高会議の代議員に任命されて、クレムリンでスターリンを目にします。
圧倒的な存在感、家族をシベリアに追放した張本人だと考えたことなどありません。
それがわかった今でも、スターリンは20世紀の偉大な国家指導者であり、
偉大な軍の統率者だったと思っているのです。

Калашников объясняет воинам Советской армии.jpg

それに比べるとフルシチョフにはかなり冷たい態度で、
何度か会ったことのあるブレジネフは約束はするものの、いつも口先だけ・・。
ソ連の解体を許したゴルバチョフのことも毛嫌いし、
破滅へと導いたエリツィンがいくら勲章をくれたり、
特別扱いして中将まで昇進させようが、辛辣な言葉が並びます。
まぁ、日本にもいる職人気質のおじいちゃん・・って感じですね。

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ブルガリアやルーマニアのカラシニコフ製造工場も見学。
ワルシャワ条約機構に加盟するすべての国でカラシニコフ銃を生産することが可能で、
それはソ連からの贈り物であり、「AK47」は特許を取っていないため、
売買されたカラシニコフ銃からは、1コペイカたりとも懐には入ってこないのです。

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中国の工場も見学したあと、今度は米国からの招待を受けることに・・。
1990年、訪れた米国で「M16」の発案者であるユージン・ストーナーと何日も過ごし、
お互いに尊敬の念が生まれます。
演習場の実射会ではカラシニコフが「M16」を、ストーナーが「AKM」を・・。

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本書はカラシニコフ本人が書いたものではなく、
彼の娘の友人であるモスクワ生まれでパリ在住の著者がインタビューを行い、
時系列に整理して、2003年に仏語で発表したものです。
本文はインタビュー形式ではなく、カラシニコフの独白形式ですから、
集中して読めますし、実際、有名人の自伝なんて、そんなものなんでしょうね。

KGB-Agent-047.jpg

また、章ごとのアタマに戦争の推移やスターリン社会などの概説が書かれていて、
カラシニコフの発言を補完しています。
当時のカラシニコフは83歳で、まだまだシャキっとして工場にも顔を出しています。
90歳を過ぎた今も、「カラシニコフ・ウォッカ」を販売したりと、ご健在なようですね。

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うわっ! こんなAKボトルまで売ってんのか。呑兵衛にはたまらん逸品だなぁ。。

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しかし彼の人生や意志とは無関係に「AK」はひとり歩きしてしまい、
カラシニコフ銃を手にしたビンラディンの姿をテレビで見ては憤慨します。
そして皮肉を込めて、こう語るのです。
「だが、私に何ができる? テロリストも正しい選択をしているのだ。
一番信頼できる銃を選んだという点においては!」

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さすが有名な銃だけあって、日本でもいろいろな本が出ていますね。
「カラシニコフ I」と、「カラシニコフ II 」に、
「AK‐47世界を変えた銃」、「カラシニコフ銃 AK47の歴史」など・・。
ただ、どうしても「人類史上、最も多くの人を殺した武器」と言われ、
テロリストと結び付けられるのが、本書を読んだ後だと切ない気持ちにもなりますね。

と、ここまで書いたのが12月23日の夜のことです。
翌朝、「カラシニコフ氏が亡くなった」というNHKニュースが流れて、固まりました。
まさに昨日じゃないか・・。
2か月前にはチトーの奥さんでも同じことがありましたが、
読んで、Blogで取り上げようとした人物が亡くなる・・という呪われた読書家なのか・・?
もっと若い人が死んだら「呪いの独破戦線」は本物でしょう・・。



とりあえず、"ミス・カラシニコフ"とカラシニコフ・ウォッカをぐいっとやりたい気分です。。

Miss Kalashnikov.jpg











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